●連載 #0830の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
次の日の朝、家の水道管が破裂した。もっとも俺は寝ていたのだが。 俺が起きた時には既に修理は終わっていたが蛇口をひねったら茶色い 水が出てきた。それで思い出したのだが、昔、従兄弟の家にアメリカ の高校生がホームステイに来た時に水道水を飲んで言った。 「日本の水はまずくて飲めないね」 「飲むにしてはまずいかも知れないけれども、その水をシャワーにも 洗濯にも使うんだから水道水としては優れているよ」と従兄弟が言っ た。 「でも俺はこんなにまずい水は飲めないからエビアンでも買ってくる よ」 「僕は飲み水に金なんて払う気はしないね。それに子供の頃からそれ を飲んでいるのだから平気だよ」 「子供の頃から飲んでいるからそれが飲み水として最適だと思うんだっ たら、水道管からコーラが出てきてもビールが出てきても、それが飲 み水としてベストと思うんじゃないのか?」 「そんな事言われたってもう井戸は埋めちゃったんだからしょうがな いじゃない」 という事を思い出しながらその日の夜、俺はヨーコさんにスカイプで 言った。「俺が生まれた時には既に水道はひかれていたでしょ。だか ら俺はそれを飲み水と思って飲んでいるけれども、もし水道管から味 噌汁とかそばつゆが出てきても、俺はそれを飲み水と思って飲むんじゃ ないの? だってもう井戸は無いんだから。そう考えてみると、飲み 水の何たるかは、水道を設計した奴の脳内にあるんだよね。それは水 道だけじゃないでしょ。例えばワタミね、例えば郁文館を卒業して、 ワタミの社員になって、ワタミファームの野菜を食って、親はワタミ の老人ホーム…っていうんだったらこれはもうあの居酒屋のおっさん の脳内制度の中で生きている様なものなんじゃないの? 俺の高校に それと似た様な奴が居るよ。西武線沿線に住んでいて親はプリンスホ テルの従業員で、もちろん通勤は西武線で、休みの日には西武遊園地 に行くという奴が。あんなのツツミの脳内に生きている様なものなん じゃないの? そんでワタミとかツツミって、マッスル北村がボディー をビルディングしたみたいに制度をビルディングしたんじゃないの? そう思うとマッスル北村がイデアをリアル肉体に求めたとしてもア ホとは言えないんじゃないの? だってそうしないと今度はワタミと かツツミの脳内に生きるしかなくなるんだから」 「うーん」とヨーコさんは唸った。「確かにね。イデアっていうのは 本来脳内にあるべきものだったんだけれども。どんなに細いシャーペ ンで線を引いても本当の線は描けないのと同じで脳内にだけあるもの だったのだけれどもね。デカルトがね。デカルトって知っている? 「我思う故に我あり」と言った人ね。これはすごい事なんだよ。だっ て普通「自分が居るのは誰のお陰か」と聞かれれば、親のお陰、とか、 社会のお陰、とか、昔だったら神様のお陰とか言うでしょう。それを、 自分のお陰と言ったんだから。これはもう火あぶりになっても不思議 じゃない事だったんだよ。でも一回そう言ってしまうと今度は脳内に あるこの方法を使って自然に働きかけてみようじゃないか、っていう 話になるのね。そんな事をしたら格差が生まれるかも知れない、でも 与えられた能力を、これを所与というんだけれども、これを最大限に 使って自然に働きかければ全体としては豊かになると。でも結果とし てはリアル世界に脳内革命を起こしてしまったんだよねぇ」 「デカルトなんてしらねえよ」俺は言った。「そんな難しい事考えな くても、普通に考えりゃあ、やっぱりこの世の中には君臨している奴 がいるんだよ。しかもそいつが風船おじさんみたいな基地外だって事 もあるんだよ。それがワタミだのツツミだのだったらスルーすればい いんだけれども、スルー出来ない事だってあるんだよ。法律とか医療 とかそうでしょ。そんでスルーできないんだからひたすら「ちゃんと していますように」と祈るしかないんだよ。そういうのを読んだんだ から。俺だって本を読むんだから」。 そして俺はカフカについて調べている内に見付けたカミュの『異邦人』 の一部を読んでやった。これはアラブ人を殺して死刑判決を受けた主 人公の脳内台詞だ。 私の善意にもかかわらず、私はこうした傲然たる確実性を受け入れる ことはできなかった。というのは、要するに、確実性に基礎を当てた 判決と、判決が言い渡されてからの、その冷酷な施行とのあいだには、 こっけいな不均衡があったからだ。判決が十七時にではなく二十時に 言い渡されたという事実、判決が全く別のもであったかも知れぬとい う事実、判決が下着をとりかえる人間によって書かれたという事実、 それがフランス人民(あるいはドイツ人民、あるいはシナ人民)の名 においてというようなあいまいな観念にもとづいているという事実、 −こうした全ては、このような決定から、多くの真面目さを、取り去 るように思われた。それでも、そうして宣告がされるや、その効果は、 私が体を押しつけているこの壁の存在と同じほど、確実な、真面目な ものになることを、私は認めざるをえなかった。 「やっぱりこいつはスルー出来ないと分かると今度は、法律がちゃん としていますように、と祈るようになったんだよ。こうなるとやっぱ り死刑囚よりかは裁判官の方が有利だよな。ひきこもりよりかは斎藤 環の方がいいに決まっているよな」。 「うーん」と又又ヨーコさんは唸った。「制度内権力者って、人をお ちょくるのが好きなんだよね。私も『異邦人』は好きだけれども」と いうとPCから離れて1冊の本を持ってきた。「これこれ、これね。 ちょっと読んでみようか」と言ってページをめくる。「ここだ」ヨー コさんが読んだのは死刑囚が獄中のベッドの下だかにへばりついてい た新聞の記事を読んだ時の脳内台詞だった。 一人の男が金をもうけようと、チェコのある村を出立し、二十五年の のち、金持ちになって、妻と一人の子供を引き連れ、戻って来た。そ の母親は妹とともに、故郷の村でホテルを営んでいた。この二人を驚 かしてやろうと、男は妻子を別のホテルへ残し、ひとりで母の家へ行っ たが、男が入って行っても、母にはそれと見分けがつかない。冗談に、 一室かりようかと思いつき、金を見せた。夜なかに母と妹とは男を槌 でなぐり殺して、金を盗み、死体は河へ投げ込んだ。朝になって、男 の妻が来て、それとは知らずに、旅行者の身許を明かした。母親は首 をつり、妹は井戸へ身を投げた。私はこの話を数千回も読んだはずだ。 一面ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前な話でもあった。 いずれにせよ、この旅行者はこうした報いをうけるねうちがないでも ない、からかうなんぞということは断じてすべきではない、と私は思っ た。 「きっとカミュはおちょくられるのが嫌いだったんだよね。当り前だ けれども」。 それからヨーコさんはかつてのおちょくられた経験を教えてくれた。 ヨーコさんをおちょくったのは客だったのだけれども制度内の権力者 だった、と言っても法律家ではなくて医学生だったのだが。そしてヨー コさんは徹底的にぐぐってそいつのブログを発見したのであった。 (『異邦人』は新潮文庫版。窪田啓作訳)
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