●連載 #0815の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
元旦の朝、掲示板への書き込みは全部消した。書いた時には受ける! と思えたのだが、今思うとあれは俺の経験ではない。じゃあ実際にフェス に行ったら俺の経験になるのだろうか。それどころか今日一日の平 凡な経験も明日になれば恥ずかしい過去になってしまう気がする。 恥ずかしいというのは経験の内容には関係なくて、たとえうんこを 漏らしたとしても自分の経験ならば恥ずかしくない。話していて、 知ったかだなあ、”なりきり”だなあ、と思われるのが恥ずかしい。 …などと思いつつ、おせち料理やお雑煮を食っていた。妹や両親は 俺が俺である事を知っている筈だが、それでも最近ネットで得た知 識を口走ったりすると、変な事言っちゃったなぁ、変な奴と思われ たんじゃないか、とか思う時がある。そういうのが毎度の事になっ たらもうカフカの『変身』だなあ…と思いつつ自室に帰ると『フラ ニーとゾーイ』の文庫本をひらいた。ここには確かカフカの言葉が 引用されていたのだ。 俳優たちと同席すると、いつもわたしは、自分が今まで俳優たちに ついて書いたことはほとんど嘘であったという気がしてきて、ぞっ とする。わたしは彼らのことを、ひたむきな愛をもって書きはする が、能力が変化するために嘘になるのだ(いまこうして書いている 間にも、これもまた嘘になる)。この変化する能力は、本当の俳優 の姿をあざやかに正確に描き出すことはなく、この能力にあきたら ず、したがってこの能力が働くのを防ぐことによって、俳優たちを 保護していると考えるような愛の中に、くすんで消えてしまうので ある。 後半は何が書いてあるんだか全然分からない。しかし前半はやはり カフカは俳優と会った時には自分の経験と思っていたが実はそうで はなかったと言っているのではないのか。つまり自分の持ち物と他 人の持ち物の区別がついていないのだ。 という事は、突然思ったのだが、田口ランディも”万引き”などと 言われているが、万引きをしている瞬間には自分の物だ、と思って いたのではないのか。そういう意味ではカフカ的だ。その際、盗ん だものが何か、なんてどうでもいいのだ。因みに、田口ランディが 盗んだとされている藤本某氏の体験は、風俗店の客のアナルにマジック を突っ込んで習字をさせたというものだが、俺がぐぐった結果1964年 の『花と蛇』(団鬼六著)という官能小説の中でアナルではなくて おまんこに筆を入れて習字させたという描写がある。そんな事はど うでもよくて、盗んだ瞬間には自分の持ち物だと思っている事が問題 なのだ。俺に関していえば、盗んできた瞬間に「早く書かないと誰 かに先をこされる」とさえ思っていたのだ。 後日人から聞いたのだが、これと似た様なのにラカンの「エメの症例」 というのがある。この女は小説家になりたかったのだが或る女優が 自分の事を書いていると思い込んでナイフで切りかかった。この女 も自分の持ち物と他人の持ち物の区別がつかなかったんじゃないの か。何故なら自己と他者の区別がつかないから、というか自己がな いから。じゃあ何故自己がないのかと言うとラカンによればこんな 感じ。赤ん坊は自己の身体に関してばらばらに寸断されたイメージ しか持っていないのだが、ある時(生後6ケ月以降)鏡に写った寸断 されていない自分の姿を発見し、且つその姿を眺めている母親の視 線も感じて初めて自己同一性を得る。これが鏡像段階論で特に母親 の視線が”承認”として重要視されている。(だから斎藤環はひき こもりを治すには治療者の介入による”承認”が必要だと言う)。 だけれどもちょっと考えればその赤ん坊は鏡像の母親とリアルの母 親の両方を見ているのだから鏡とリアルの区別はついていたんじゃ ないのか。それにこれは親戚のおばさんから聞いた話だが、赤ちゃん を抱いて鏡を見ていたらたまたま猫が後ろを通りかかって赤ちゃん は振り返って猫を見た、と。だから赤ちゃんは鏡に写っているのが リアルでない事を知っていると。 とにかくラカンの理屈は全く信用出来ない。又俺がラカンについて よく理解していないからとか言われても全くどうでもいい。俺はと にかく自分の実感を大事にしたい。俺の実感はこうだ。俺は生後6ケ月 の時既におんぶ紐を見せられれば「散歩に連れていってもらえる」 と理解していた。(生後6ケ月の子供がいる人は実験してみたらいい)。 つまり一回起こった事は繰り返すと思っていた。だから一人の女に ふられれば全員にふられると思っていた。そうすると女は一人ひと り別個に存在するのではなくて”素人女子連合”としてあるもので あり、それは無色透明、清潔で秩序のある故郷の様なものであった。 そんなに美しいものが俺を受け入れる訳がない。だから俺は故郷の 代替品のタバコや空想、ブッチャーに刺されるテリー・ファンクとか ね、そういうのに溺れる。こんな空想はネット上での”なりきり” とほとんど同じだろう。という訳で俺は自己が持てないでいる。 ここで斎藤環なら「自己を回復する為に他者の承認が必要だ」とか 言うだろう。だけれどもその他者、例えば俺の親父とて、風船おじ さんの様に故郷を妄想していたのだから、親父が故郷から連れてき た治療者に承認されたところで意味ないでしょう。(ひきこもりを 治したいなら、親父が妄想狂でも俺には関係ないと思うべきなので、 親父が連れてきた治療者を相手にするべきではない)。 更にこれが家族の呼んだ治療者ではなくて、社会の或いは国家の呼 んだ治療者に承認されたとなれば最悪の場合ナチスに承認された様 なもので、どんな悪さをするか知れたもんじゃない。もっと健全な 社会でも人間は社会に承認されると結構なんでもやる。山田詠美や 林真理子や田中康夫がヌードになったのも他者の”承認”があった からだろう。或いは斎藤環が雅子妃殿下の精神分析をするのも他者の ”承認”があったからだろう。 そんな承認は無い方がいいし、そんな承認で自己を得られるとは思 えないし、むしろカルトに巻き取られた様な状態ではないのか。 社会が狂っていようと健全であろうと、そんなものからの承認は必 要ではない。例えばナチスの承認は必要なく、アンネフランクをか くまった家族の様な他者の承認が必要なのだ。それは斎藤環が制度 から連れてきた治療者では無い。
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