●連載 #0360の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
引き続いて「後見草」を引用する。 ◆ 同八月将軍家此頃御不例におはしましける由申人も侍りきされども外様にては知る人も なかりし也然るに今月十五日外殿へ出御ましまさぬよし人人伝え聞奉り扨はたしかに御 病気にておはしけりと初めて驚き奉りぬ同十八九日のころ御病次第に重らせ給ひしよし にて日向庵若林敬順といへる町医師二人俄に御城内に召れ其日より直宿仰渡されたり是 を聞人毎に只ならぬ御病にてぞおはしますらんとますます驚き奉れり同二十一日と申に さしも日本にて御勢ひ盛んに渡せ給ふ遠州相良の太守意次朝臣俄に出仕を留られ給へり 又是とひとしく先の日召れし二人の医師同く外様へ逐出され無程無暇給はりぬ是を聞人 毎にこは如何にいかなる御事の候とて唯何となく打あやしみ道行人も行逢ては互に目と 目を見合ては物の一ツもいひ兼たり同二十七日に相良殿御役被召放房州館山の領主稲葉 越中守正明朝臣も同じく御役被召放是は知行三千石を減ぜられ給ひたり共に一方ならぬ 御寵臣にておはしけるが何の落ち度や候ひけんと聞人興をさましてけり又其後に至り幾 程なく相良殿も知行二万石を減ぜられ住馴給ふ居屋敷をわづか三日の間に召上られ築地 の屋敷に移らせ給へり実に赫々たる者は必衰ふといへる古人の言葉空言ならず龍蛇の勢 ひ尽る時は螻蟻相集りて制すとかや昨日までは門前に問来る人の馬駕絶る間なくさしも 盛んなりし御ありさまも今日はそれに引かへて■(曜のツクリ)公が官を止しより甚し く唯寂々寥々として人なき宿の如く又様々に便り求めて結びし縁の大小名四十余家其身 ばかりか召仕家子まで少もつながる縁ある者は皆仇敵の様に交りをた丶せ給ひたりやん ごとなき御方々さへか丶る奇怪をなし給へばましてわきまへ知らぬ下部ども此所かしこ に寄集りいろいろにいひ罵る其有様の耻かはしきいかに末世とな乍申浅間敷かりし事ど も也蓋し九代目将軍家御在任の半頃より時の執権たる方々に物を贈り参する事を権門と 呼びはむきと唱へ貴賤となく其門に出入する事止時なくそれが中に相良殿の政にあたり 給へる日ほど盛なる事はあらざりし也さるによりて此殿の親族と呼る丶人々皆一時の勢 ひを得高位高官に昇らせ給ひ昔よりなりがたき事も自由になり官を売位を販ぐの類多か りしにより我も我もと縁を結び又よるべなき方々は蛛の素の遠くつながる便りを求め両 敬と申事に唱へなし互に親族の如くにもてなさる中にも此殿の御次男中務少輔忠往朝臣 と申を豆州沼津の領主水野出羽守忠友朝臣御養君となされしにより沼津殿もおし続たる 御勢ひにてぞおはしけるその御家に仕ふ下部まで皆社によるの鼠にて何となく勢ひ有し 程に世の人うらやみ尊みて又物を贈る事も多かりき一日堀田何某といへる者其家のおと ななる土方縫殿助といへる男の許に茶事にまねかれたり其日は草の茶事とやらんにて先 寄付の座敷の床には古法眼元信が画る掛物をかけ前には黄金の米俵に白銀の鶏とまれる 香爐をすえ次の一間には三尺余りもありなんと覚しき白銀の花生を釣り時の花水際清く 挿角棚には唐鳥の羽箒に光孝が弟の水仙の毛彫せし黄金の棗を取合せ置扨風呂にはいか にも大きなる白銀の茶鑵をかけ傍に染付といひ形といひ上なき南京焼の水指をかざり付 茶事既に終りて後炭流れければ通ひの男採籠を持出たり其内に摂津国の鴻池善右衛門が 家に伝る安南黄色の亀の香合を後藤光煌に黄金にて写させたるをのせたりし由棚にかざ れる棗もいと重かりしが香合は手もたゆむばかりに覚へしと語りき相良殿に縁ある家の おさたるに如此の事なれば其主君主君の花美全盛おしはかられてしられけり昔より上を 学ぶの習なれば宝暦の下つ方より今天明に至り世の奢侈聞も及ばぬ事のみ多し……中略 ……たまたま質素の輩あれば只ねぢけ人の様にいひなし指差笑ひ誹謗する者多きにより 互に負じ劣らじと奢侈をのみ第一とはなしぬ斯ありし程に人々の営み悪く日々月々に衰 へ上たる人も不足し給へば下ざまのものはますます不足し今は上下困窮極れるにより奸 商酷吏此時を幸と思ひさまざまの工みを企て己を利するが為に上に向て御益御為と説き 物毎に付て運上めせとす丶めしにより時の奉行頭人も多くは其旨に従ひ給ひ金銀の両替 より炭薪の類に至るまで物毎に其事のあらざるはなく又少しも余地ある所へは新地を築 き新田を開き給ふ事止時なく是によりて世の風俗は次第に変じやんごとなき方々も文の 往復言葉あや位にも似ぬ事のみ多く唯巧言令色を以て人の心にさからはぬ輩あれば是な ん今の世の大通人と云者也と誉称し侍りし程に讒諂面諛を能事とおもひ尊卑の分を別ち 知者なし何ものか 世になきは御無事御堅固致し候 つくばひ様に拙者其元 世の中は諸事御尤有難い 御前御機嫌さておそれ入 と狂歌して譏れりまして賤しき者に至りては耻を知り義理を知者なし……中略……扨も 相良館山二人の殿達御役御免仰蒙らせ給ひて後わづか四五日過侍りて此一両年の御企に て莫大の金銀を費し開かせ給ふ下総国印旛手加両沼の新田去し洪水に堤崩れ土手破れし 故なるか又別にいはれ有事にや其儘普請止られたり其外和州金剛山の金堀事又此頃触を 出されて凡日本国中公領私領を初として寺社に寄附に置れたる少し斗の所迄小間一間に 銀三匁づ丶運上召れ給はんと有し事是も同く止られたり何の御故なる事にや朝に令を出 し夕にあらたむるの類ひぞと申人も侍りき同二十六日には遠江国浜松の宿龍の天昇なし ける由にて数多の人家破れし由同二十九日には辻風おぼただしく吹侍りぬ関の東の国々 はさせる破損もなかりしが関より西は甚敷豊前国中津あたり民家はいふに及ばず城の御 門二ツ迄吹倒し侍りし由又北陸道若狭国小浜といふ所にては西北の風朝より烈しく雨頻 りに降けるが午の刻過る頃空少し晴かたにて風も止よと覚しきにさはなくして同じ半刻 又黒雲おほひ重り山鳴海荒く波の高さ一丈余りに打上て俄に西風どつと吹立並ぶ家家の 妻戸をしむる間もなく屋根をまくり垣を倒し小家のかぎりは吹潰し沖に繋ぎし船どもは 碇を切て陸に吹付小き伝馬船の類ひをば屋の棟までも上たる由……中略……同月八日と 申に将軍家薨去し給ひし由を触られたり扨は此程の変事共此事の御知せと始めて思ひ合 たり……中略…… 又同月十二日いかなる者が申触けん玉川猪の頭と云両所の上水へ毒を流し入たりと云伝 へ侍りし程に諸人一度に騒ぎ立只一日の其間に貴威権門の御住ひを初として町々小路小 路に至るまで此水の通る所汲貯へし其かぎり俄に傾け棄るもあり又此あたりは源へ程遠 し毒の染る間もあるべし明日の用意になすべしと周章ふためき汲も有ひとへに奇怪の浮 説也扨秋も過冬の初の四日の日雨いたく降けれど将軍家の御葬送御式無子細済せ給ひ幾 程なく勅使下向ましまして俊明院殿と謚を参らせらる凡人の世にある貴きと賤きとの差 別はあれど禍福吉凶に至りてはみな天の致す所人力の及ぶ所にあらざるにや又徳不徳に 因ことにや此君御在位の内是ぞ御不徳と聞えさせ給ふ事もあらざりしに将軍宣下有りし より今年に至り二十七年の其間外にしては天変地妖止事なく又内にしては御臺所を始奉 り御公達御二方御姫君御二方共に先立せ給ひ唯御身一人此世に残り止り給ひ朝夕の御事 迄下の意に任せ給ひて万事自由なる御行ひも聞え給はず一生を終り給ひし御事如何なる 過去の因縁にや実に天下の富貴をたもち給ひし御身にして果報つたなき御事計と心ある も心なきも皆いとおしみ奉りぬ同十一月には大納言殿本丸に移らせ給ひ御新政も逐々に 仰出させ給ひ世の風俗も何となく改るべき御萌しあらはれ給ふにより世の人末頼もしく 難有御事に申唱奉りぬ然れども三十年来の悪習なれば俄には変じがたく此年も暮明れば 丁未の年正月十七日に至り今日は御番頭水上美濃守殿御宅にして同じ御役勤給ふ小堀河 内守殿小笠原播磨守殿大久保玄蕃頭殿三枝土佐守殿酒井紀伊守殿内藤安芸守殿能瀬筑前 守殿都合七人の御方寄集り芸者寄合といふ事し給へり是は時の名妓六七輩も呼集め大酒 宴をなし給ふ事也その時酒たけなはに及び兼て遺恨や侍りけん又は其坐のたはむれ事に や大久保殿水上殿の膝元に摺寄り携へ来りし菓子取揚是参らせ候と箸とつてはさまれし に水上殿は其折しも盃ひかへ給ひし故酒半に候間後刻頂戴仕らんとかたへに差置給ひし に大久保殿是を見て声あら丶げ栗饅頭にては候はぬ物をとて手の指のべて其菓子つかみ 側に居たりし妓女の顔へした丶かに打付給ひし由こはさいつ頃相良殿盛んなりし時浅草 馬道に住居せし生花の指南何某とか申せし者其家子潮田尉右衛門と云男にいさ丶かの怨 ありて栗饅頭といふ菓子に草烏頭と石膏と云薬を細末にして入贈りあたへし事侍りきそ れをたとへに引出給ひしならん扨此大久保殿の御言葉を初として七人の御かたがたおも ひおもひに悪口し後は各立上り其日饗応に出されし将軍家より賜りし調度なんど初めと して或は膳椀皿鉢まで手にあたる物を幸に打こぼち蹈潰し又はつかんで投出し給ひし由 其中に甚しきは大小便を席上にした丶かにたれちらし又それを箸にて挟みそこらあたり へ打付給ふ御方も有し由か丶る非礼の振舞を耻かしとも思はぬ方々なれば其外の傍若無 人おしはかられて知られけり凡此御代治りてのち人の頭となる人の鄙夫下臈にまさりた る其悲法狼藉聞も及ばぬ事共也是ぞ誠に人妖とも申べし又春も過ぎ来る四月初めには大 納言大将軍に任じ給ふべしと兼て触置給ひしに折節大雨降続き海道の川々水増り勅使を 初め奉り堂上の御方々是にさ丶へ止められ給ひ漸く同月十日頃御下向ましませしにより 同月十五日宣下の大礼行れ内大臣の大将軍に転じさせ給ひたり今日よりは天下の御政事 御手づから出ぬべき御事なれば世の中の風俗も改り万事穏に成行て万民泰平の御徳化を 蒙り奉るべしと身をそばたて歓喜せり然れども寒去れば暑来るの習ひ秋暑は三伏より甚 しく春寒は三冬よりも猶厳しく御代既に改るとは申せども去し子の年已来打続き七年の 凶作にてあくまで諸民困窮し殊に去し午の年は凡日本国中おしならし三分一の収納なる よし是によりて今年の春に至り米価次第に騰踊し既に五月の中旬頃浅草の御蔵庭相場と 申に豊なる年は百俵を小判十七八両に商ひし年も有しに今年はそれに引替て貴きの極り は二百十二両までに至りたり実に艱難にも馴ればなる丶習ひとて鄙も都も諸ともに様々 の物を貯へ市町にて商へば是へ調へ喰ひし故過し年の如く餓死する人はなかりしかど一 日限り炊き喰ふ者共は鳥目百文に三合は商はざるにより百計既に尽果て此事救ひ給はれ と時の奉行所へ訴へけり奉行も聞し召不愍の事に思し給ひ色々に御思案あれど兼て足ざ る米なれば如何にとも詮方なく若も箇様に物の価騰踊するは奸商どもの所為にもやと商 家の蔵々一々改め少しも貯へ持たるはその錠前に封を付私に売らせ給はず只貧富の差別 なく食をひとしくなすべしと男一人に米二合女一人に米一合是を一日の食と定め伊勢町 といふ所にて五日の分をかぎりとなし所々の長共の證文と引かへて売あたへ然るべしと 町々へ触られたりしかありしにより売買の道却てふさがりますます諸民窮困し鄙賤の者 共詮方なく今は餓死なんよりはとて遂に同月二日の夜赤坂といふ所にて雑人原徒党をな し同じ所に住居する雑穀商ふ家々を打破り打こぼりて是を騒ぎの始として南は品川北は 千住凡御府内四里四方の内誰頭取といふことなく此所に三百彼所に五百思ひ思ひに集り て鉦太鼓を打ならし更に昼夜の分ちなく穀物を大道へ引出し切破り奪ひ取八方へ持退た り初の程は穀物計奪ひしが後には盗賊加りて金銀衣服の類ひまで同じ様に奪ひ取ぬ斯あ りし事既に三日に及びしかば公にも聞し召安からずや思しけん町奉行盗賊奉行の方々に 仰せつ丶是しづめよとありければ各組子を召連て馬に跨り鎧を合せ縦横に乗廻り厳敷召 捕給へども元来烏合の雑人なればこ丶かしこに迯散て捕へらる丶は数少しか丶る騒ぎの 折からなれば様々の浮説多く少しも富る輩は今や此家打こぼちやがてあの家も破りぬべ しと女童部を引連て貧者の方へ身を忍び潜り避る人も有又大名の御米を迎へ取給ふにも 警固の薄かりしは途にて奪ひ取のよし申触侍るによりわづか車一二輌に積載たる扶持米 に武士四五十人前後を囲ひいかめしげに引たりける或は一度こぼたれし者共は重て家蔵 破られては叶はじ物と寄集り一町一町手組をなし合印の鉢巻し手に手に竹鑓磨すまし再 び来ると見ならば拍子木を合図となし只一勢に突に出皆殺しにしてくれんと勇み進んで 待も有けり松永貞徳が戴恩記に町々小路々々に新関を構へ柵をふり鹿垣を結常の往来も 自由ならずと戦国の古を見しま丶に記し置しが今ぞ又其如く木戸々々をさし行道を結び 往来も自由ならざるにより工商二民業を止め戸ざしを塞て居たりしは怪しかりける形勢 なりしかありしよりいよいよ売買の路たへて仮令千金万金を重ね持ても砂石に同じく米 穀買ふべき便りなく貴人高位の方までも四五日窮し給ひしは希代の珍事と申べし此事遂 に公に聞し召急ぎ此乱しづめよと御先手の人を撰み十組に仰渡されたりさて窮民を御救 ひには老少男女の隔なく人一人に米五合と銀三匁目余即時に下し賜ひたり猶是も事足ず や思召けん御郡代伊奈半左衛門殿生年二十四歳なりしを従五位下摂津守に任じ仮に米国 運送の惣司となしたまへり抑この伊奈の御家と申は世々関東の御郡代として其徳八州に しき給ひ又今の伊奈殿は賢才のましますによりさばかり払底せし米穀を如何して取集め 給ひけん公より下し賜ひたる二十万両と云金子を以て時の価ひ小判一両に米二斗づ丶に 商ひしを其儘に買求め一倍賤しき価を以て窮民に分ちあたへ其外大豆黍までも皆是に准 じ買調へて分ち給へば諸人ますます此儀に感じ此殿助け参らせんと日々四方の国々より 御府内に運び入是によりて五穀忽ち豊饒となる扨其時の有様は船の印に伊奈といふ文字 白地に赤く染出し船毎に押立しは秋の木の葉の浮ぶが如く海河狭しと見渡りぬ又穀物分 ち給ふ場所は芝糀町深川浅草此四ケ所に定めらる此に集る窮民は偏に雲霞の如くにて何 万といふ数しれずみな大旱に雨を得しよりいさましく目出度君の御国恩とよろこびの声 巷にみつ蓋天運循環して往てかへらずと云事なく三十年来たいはいせし風俗の改りぬる 時至り奥州白河の太守定信朝臣を老職第一の座に撰み同国泉の領主本多殿を少老職とな し給て別て石川土佐守殿は御寄合より撰み挙げその外当時賢才の聞えある方々を追々に 朝に挙用ぬ又奸猾の徒は不残外様へ追しりぞけ賄賂の路を絶ち給ひぬ此分に侍らば程な く寛永享保の化に至るべしと皆目を拭ふて待奉も昔より丙午丁未の両年は必変事多しと て丙丁季鑑といへる書を漢土人も著し置けり実さる事も侍るにや斯御政事は改れど兼て 不足の米穀なれば俄に補ひがたく在江戸の四民ども麦を搗やらかて炊ぐやら片山里の如 くにて命をつなぎ侍るのみ又気の行はる丶所年の数によるにや肥前国長崎にては五月二 十五日摂津浪花にては同月十一十二十三日陸奥国石巻にては六月六日より八日まで雑人 原党をなし多くの人家破りし由其外紀州の和歌山和州の郡山是等の所を先として騒がぬ 国は少なしと也其中に皇都はさすが宮古にて人の心もさはがしからず近郷近村の雑人ど も二百三百打群て九重の御門御門に立向ひ今年豊年になし給へと祈り申奉り或は賽銭擲 て伏拝むも有しとなり又今年も春より雨多く洪水せし国もありしかど本立て道行はる丶 のならひにて朝に賢者をあげ給へば聞人さらに恐怖せず殊に又五穀のみのり近年の豊作 と申触侍るにより万民泰山による心地してけり賤しきたとへに雨降て地かたまるといへ るが如く若今度の騒動なくば御政事は改るまじきなど申人も侍りきやつがれ若かりし時 より風化次第に乱れ下り此末いかなる世とやなりなんまた如何なる事や出来なんと五十 年にあまる老の身にも応ぜぬ事のみを日夜案じ居侍りしに白河の太守老職に挙られ給ひ て後わづか三月ばかりにして 世にあふは道楽ものにおごりもの ころび芸者に山師運上 世にあはぬ武芸学文御番衆の ただ慇懃にりちぎなる人 といへる悪風忽ちあらたまり又逢かたきと思ふ世に再びあひ奉ることのうれしさに拙き 筆をこ丶に止む(後見草下 了) ◆ 遂に田沼意次が失脚した。此処でも医者の出入りがある。即ち、徳川家治が病気にな る、町医者二人が呼ばれ二十四時間体制で懐抱せよと命ぜられる、家治の病状は悪化す る、そして突如として意次が老中職を免ぜられ所領も大部分が剥奪される。実は二人の 町医者は意次筋が推挙した。しかし家治の病状が悪化したため医者の推挙自体が暗殺計 画と疑われたとも云われる。意次は失脚を余儀なくされる。幕府の如き一種のカリスマ 政権(カリスマ家康の霊を継承した将軍を頂点とする)では、実は其のカリスマ(将 軍)の信任のみが実質的権力者の存在基盤ともなり得る(でも実は幕藩権力内の均衡で 【死人に口なし物云わぬカリスマ家康/将軍】の意向が決定される)。意次が、家治よ りも自分にとって都合の良い将軍位継承者を見付け家治暗殺を謀ったのかもしれないし (既に家治は死んでもおかしくない年齢で意次が若年寄に仕立てた嫡子/意知の安泰を も確実な者とするためには、草臥れた家治を棄てて次なるカリスマを早期に立てようと するは、当然だ)。それとも善意で推挙した町医者がヘマをして、暗殺計画だとの、【 あらぬ疑い】をかけられたのか。(私が少しでも情緒的な人間ならば意次が政敵に陥れ られたと思いたがるだろうが)全く何連かは判断できぬ状況である。玄白が、逸早く医 者の動向を知ったことは、医者ネットワークに連なるからか。 また玄白は、賄賂がこびり付き奢侈に浸った田沼政治を論う。「世の中は諸事御尤有 難い 御前御機嫌さておそれ入」との狂歌で「巧言令色を以て人の心にさからはぬ輩あ れば是なん今の世の大通人と云者也と誉称し侍りし程に讒諂面諛を能事とおもひ尊卑の 分を別ち」という武士階級の堕落を指摘する。何だか現在の状況を描写しているよう錯 覚しそうだが、引用史料は確かに過去のものだ。玄白は続いて、全国各地が大風被害を 蒙った現象を挙げた後に将軍家治の薨去を記して、「此程の変事共此事の御知せと始め て思ひ合たり」と関連付ける。一応は、社会的影響のある貴人の死を、災害が予告して いたとの謂いだが、追悼の一言もない。前に書いた如く、如何も玄白のスタンスは【家 治が将軍位に就いてからロクな事がない】だ。だから追悼の言葉がないどころか、「此 君御在位の内是ぞ御不徳と聞えさせ給ふ事もあらざりしに」と、お約束の予防線を張っ ておいて、「二十七年の其間外にしては天変地妖止事なく又内にしては御臺所を始奉り 御公達御二方御姫君御二方共に先立せ給ひ唯御身一人此世に残り止り給ひ朝夕の御事迄 下の意に任せ給ひて万事自由なる御行ひも聞え給はず一生を終り給ひし御事如何なる過 去の因縁にや実に天下の富貴をたもち給ひし御身にして果報つたなき御事計と心あるも 心なきも皆いとおしみ奉りぬ」と、憐憫とも非難ともとれる記述が続く。即ち玄白が家 治の治世を総括すると、「在位の間、家の外では、とにかく天変地妖が止むことなく、 家の中では奥さん始め男の子二人女の子二人に先立たれ独りっぽっちになって一生を終 えた。専制君主というでもなく、身近なことまで万事、仕える者の言いなりになってい たのに。全国の富を一身に集める身にあって、前世で如何なる悪事を働いて、こんな不 幸な目に遭ったのか。皆々可哀想がった」だ。嘘でも上げ底でも、死んだ時ぐらい将軍 としての功績を挙げてやっても良さそうなものだが、全くない。仕える者(田沼意次 ?)の言いなりだから、本人の「御不徳」(前出)は元より無いかもしれないが、玄白 は、かなり否定的評価をしていると感じられる。トンチンカン政権が崩壊した時には混 乱が起きるが常道だが、「同月十二日いかなる者が申触けん玉川猪の頭と云両所の上水 へ毒を流し入たりと云伝へ侍り」なんて近代でも、例えば関東大震災時や植民地朝鮮独 立運動時でも見られる、御馴染みの流言飛語まで飛び出した。 翌年四月に家斉が将軍に就任する。翌五月には、遂に江戸に於ける未曾有の大暴動、 天明の打ち壊しが発生する。物価高騰に業を煮やした町民が、米屋を中心に豪商を襲っ たのだ。血生臭い階級闘争ではなく(抑も町人たちは豪商を【階級対立の相手】とは思 っておらず【ご近所さん】と思っていた節がある)単に食料の分配を目的としたものだ った。翌六月、漸く真打ち松平越中褌担ぎ定信が老中職に就く。打ち壊しの原因となっ た飢饉で、白河藩内に餓死者を出さなかった遣り手だ。現在に親い視点で経済を見てい たからとか何とか田沼政治を評価する向きもあろうが、なるほど縁故・賄賂で物事が動 く世相は現在に確かに親い。親いからってだけで評価するこそ、縁故・賄賂政治の温床 だが、とにかく田沼政治では、庶民を喰わせることが出来なかった。此が厳然たる事実 である。無能の烙印を押さねばならぬ。勝てば官軍、政治は結果論だ。其処に締まり屋 で、自分の責任である領内の民だけは餓死させなかった大名が、権力の中枢に迎えられ た。色々抵抗はあったようだが、如斯き権力移動が実現したこと自体(まぁ裏面はエゲ ツないにせよ)、まだしも幕府の底力を感じさせる事件であった。ただ、此の「底力」 は、玄白によれば、後押しされて漸く発揮されたものだ。「賤しきたとへに雨降て地か たまるといへるが如く若今度の騒動(天明の打ち壊し)なくば御政事は改るまじきなど 申人も侍りき」。玄白は、執拗に天変地異と武家政治の堕落・腐敗を描き続け、打ち壊 しに繋げ、此の打ち壊し故に政治が改まったと書いている。田沼意次に象徴される腐り きった武家政権は、内部が腐りきってるんだから、自浄能力がない。当たり前だ。【外 部】である被支配階級の「打ち壊し」あってこそ、如何にか軌道修正を試みることが出 来た。また腐っても鯛、武士は、口先だけであったかもしれぬが、強い倫理観を建前と していた。易きに流れて縁故・賄賂政治に浸りきっていても、体制の危機に遭遇すれ ば、襟を正すだけの廉恥心は持っていたようだ。 さて、現在の体制は、民主主義とやらで、建前としては支配者と被支配者が一体とな っている。が、国民の側からすれば税金は「取られる」ものであり、政府の側からすれ ば年金基金は自分たちの利得だ。国民に寄生しつつ甘い汁を吸って倦むことがない。一 体となっているべき両者が、利害を【対立】させている。これでは前近代の、田沼政治 と差別する所は無い。三回に亘って、馬琴の友人/杉田玄白の大江戸大災害略史を引い た。「災害」は実は天災だけでない。支配層である武士階級の腐敗・堕落こそ、玄白の 描きたかった災害/人災であったか。また若干ながら、江戸の知識階級がネットワーク で互いに繋がっていたことにも触れた。ネットワークは情報のみならずメンタリティを も共有する。 天明の打毀し時、「暴徒」側は【礼儀正しく狼藉】したと伝えられている。【秩序立 った暴動】であり、社会規範が或る程度は守られていたことが解る。「暴徒」らは、私 的な盗みすら厳禁し合っていた。即ち【略奪】ではなく【強制的な富の分配】である。 中世には徳政令すなわち借金棒引きが幕府から命じられていた。少数者に極端な富が集 中した場合、貧富の格差を一定程度は解消することこそ、前近代日本の社会規範であっ た(現代日本も自由経済の名の下に、自由経済の結果たる独占状態を禁止している)。 こういった一本芯の通っている限定的ダイナミズムの裡に、サーフィングする如き姿 勢が、或いは前近代日本の心性であったかもしれない。けれども「ダイナミズム」と言 っても誤解してならないのは、所謂【何でもあり】ではないことだ。「何でもあり」と は即ち【何にもない】ことであり、虚無主義に過ぎない。日本であれば、例えば、殺人 に対する心理的禁忌は比較的高かったと思われる。近世は、結構安易に……いや、頻繁 に百姓一揆や都市騒擾が起こるのだけれども、金持ちやら庄屋やら米問屋やらが襲われ 財産を強奪されたりもしたが、殺害まで及ぶことは稀であったし、鎮圧する側も、まず は威嚇を以てし、武器を使うことは稀であった。一揆・騒擾のメンバーが捕らえられて も、死刑に至る者は極少数(もしくは一人)の首謀者のみであった。これが同時代(一 七八〇年)のイギリスなんかだったらジョージ・ゴードン卿が扇動したゴードン・ライ アットにはロンドン市民六万人が暴行・略奪を恣にした、と言われている。公式発表は 処刑者二百八十五人であった(しかし鎮圧中の市民殺戮が五百人以上はいたとも言われ ている)。対して我等が天明の打毀し(一七八七年五月二十日から)は、大坂・江戸を はじめ各地に広がったけれども、江戸だけで僅か四五日間の間に約千軒の米屋が襲われ たことからして、広い意味で参加した町人の数は六万人どころではなかっただろう(中 核的な【暴徒】は五千人程と見積もられているが)。村方騒動や都市部での打毀しの背 景には、恐らく【極端な格差は解消されて当然】との意識があったろう。結果、幕府 は、捕縛者のうち一人は遠島に処したが、死刑は皆無であった。現代の感覚からすれ ば、甚だ奇異な判決だろう。十両盗めば首が飛ぶ近世法制で、打毀しは財産権の侵害だ と考えられてはいないのだ。寧ろ私闘として扱われたために、此の様な軽い処分になっ たと考えられている。私闘は近世に於いて(ってぇか中世の武家法の時代から)【喧嘩 両成敗】が原則だ。打毀した町人にも五分の理があり、打毀された豪商にも五分の非が あるとされたのだ。被害者である筈の商人たちは物的被害を以て相殺したと解釈せね ば、此の判決は理解し難い。現在の法制では通用しないが、当時の社会通念としては、 如何にか通る論理だったのだろう。一方的強奪に、五分であれ正当性を認めさせた、民 衆の実質的勝訴である。 そして馬琴の友人でもあった杉田玄白は、此の天明打毀しに就いて、「若此度の騒動 なくハ御政事ハ改るましき」(後見草)と述懐しているとは既に述べた。実は天明打毀 しが政権に与えた影響は甚大であった。何たって公方様御膝元の江戸で大暴動が起こっ たのである。武士政権である幕府の面目丸潰れだ。八代将軍・吉宗の孫でありながら田 沼の都合で将軍位継承権者から外され単なる奥州白河十一万石の大名に引き擦り降ろさ れていた、松平定信が老中となる。 近年には田沼の経済的見識を過大に評価するムキもあるが、当時の民衆にとっては実 の所、如何だったろうか。田沼は豪商を保護しはしたが、民衆の貧苦・飢餓に対して無 理解・無能であったと言って良い。完全に失政である。対して定信は、打毀しの原因と なった天明大飢饉の折、仙台藩なんかでは餓死者三十万人とも言われるが、全国各地死 屍累々たる情況の中で、領民を一人も飢え死にさせなかったと言われている。天明以前 から全国的な食糧不足に見舞われること再々であったが、定信はコツコツ食料を備蓄し ていたのだ。老中に就任するや、江戸でも大規模な食糧備蓄を計画した。腹の底で何を 考えていたかは別として、幕府は飢民を救済する責任を自らに課した。馬琴が二十一歳 の頃であったか。 【何でもあり】では決してなく、一定の社会規範を守りつつ暴動を爆発させ、実質的 に勝訴した民衆、続く幕府の民衆慰撫政策は、若き馬琴に何を感じさせたであろうか。 また、「一定の社会規範」の背景ともなっていた仏教は、まさに流動と固定のアワイを 真骨頂とする。共通せる者が分化(流動)し、異質の者が統合(固定)する八犬伝世界 は、自在に変化しつつ繰り返しながら、終末へと向かう。此の物語は一体、何処まで行 くのだろうか。(お粗末様)
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