●短編 #0402の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
子供の頃から火は嫌いだった。火遊び――文字通り、子供の火遊びだ――を しようと思ったことはないし、マッチやライターを使ったことだって数えるほ どしかない。もちろん、煙草は吸わないし、積極的に厨房に立つこともない。 火嫌いを親しい友人や異性にからかわれると、「俺には火を恐れる野獣の性質 が残っているのかなあ」などと軽口で応じたものだ。 そんな俺が、二〇一一年九月二十四日、人生で初めてライターを購入した。 原子雄二に罪を着せるためだ。会社の同僚で同じ部署に配属された仲だが、こ いつの要領のよさには何度もしてやられてきた。こちらの思い付いたアイディ アを取り入れ、より現実的な物とするイコール原子自身の手柄とする。その能 力はある意味賞賛されるべきかもしれない。だが、横取りされる立場の俺にと っては、たまらない問題だ。第一、俺がアイディアだけ思い付けて、そのあと 発展させられないのは、こいつのせいだ。広くもない部屋で、原子は平気で喫 煙する。煙が漂ってくると、気になって仕方がない。集中できないのだ。なら ば職場での禁煙を訴えればいいというものだが、うちの会社は時代遅れの部分 がある。社長がヘビースモーカーであるため、全社禁煙なんてお触れが出るの はまだまだ先になりそうだ。しかも原子は商品開発能力があると思われている ため、社長の覚えがよい。俺が禁煙を願い出ても受け入れられるはずがなかっ た。 アイディアをかすめ取られた回数も二桁に乗り、いよいよ我慢できなくなっ た俺は、原子の排除を計画するに到ったのだ。 といっても、直接手を下すと、俺に疑いが掛かるのは眼に見えている。曲が りなりにも俺と原子はライバルと目されており、俺が原子のことで愚痴をこぼ すのを聞いた他の同僚も多い。普段は親しい友人付き合いをしているが、その ことをもって警察が俺を容疑圏外に置いてくれる訳がない。 そこで俺は、原子に殺人罪を被らせることにした。原子が殺意を抱いておか しくない人物を殺してやり、その罪を原子に擦り付けるのである。 こんな計画を思い付いたのは、原子が学生時代の知り合いに勧められて始め た株で、結構大きな損失を出していると知ったのがきっかけだ。三島志朗とい う男は大学生の頃から経済研究同好会のようなものを起ち上げ、実際に投資を 行っていたらしい。今では知る人ぞ知る、その世界での成功者の一人に数えら れていた。実際、一等地の高級マンションに居を構え、別荘をも所有している というから、相当な利益を出しているのだろう。原子が三島の口車に乗せられ て?食指を動かしたのは不思議ではないし、最初は原子も儲かっていたようだ。 ただ、引き際を知らなかった。もっとプラスをもっともっとプラスをと、欲を 出した結果、ぬかるみに足を取られ、ついには泥沼から抜けられなくなった、 そのパターンらしい。 原子は人のアイディアを掠め取るくせに、失敗すると他人のせいにしたがる 傾向が強い。株での大損も三島のせいだと、俺にすらこぼすようになっていた (よほどマイナスが出たに違いない)。これなら原子が三島を殺しても、あっ ておかしくないこととして傍目には映るだろう。 俺は機会を待った。そしてそれは意外に早く巡ってきた。三島が原子を誕生 パーティに招くというのだ。曰く、「九月二十五日、ささやかな誕生祝いを別 荘で催す。その場に来れば、話をちゃんと聞くし、場合によっては損失補填も 前向きに検討しよう。ただ、わだかまりを解消した上で誕生日を迎えたいので、 金曜夜(二十三日)から来てもらいたい」との誘い(あるいは提案)だったと いう。 この話を聞いてチャンスだと思った俺は、何があるか分からないし冷静なア ドバイザーがいた方がいいだろうと理屈をこねて、付き添いを申し出るつもり だった。ところがそうするまでもなく、原子の方から同行してくれと言ってき た。俺は二つ返事で引き受けるようなことはしなかった。一旦保留とし、周囲 に人の目がある場で改めて、多少迷惑そうな素振りを見せつつも「週末の件、 OKだ」と承諾してみせた。 願ってもいない展開に、俺は内心、小躍りをし、計画を固めていった。 が、目前になってちょっとしたハプニングが起きた。金曜夜に原子とともに 三島の別荘に向かう予定だったのが、別行動を取らざるを得なくなった。とい うのも、俺が仕事上で小さなミスをし、数値の訂正に時間を取られることにな ってしまったのだ。どうやら犯罪計画に意識を向けすぎて、仕事が疎かになっ ていたようだ。 結局、俺は半日遅れて土曜の昼過ぎ、一人で三島の別荘に車で到着した。前 日の午後まではよく晴れていた天気が、当日朝にはひどい荒れ模様を呈してお り、着いた頃にはいよいよ大嵐になっていた。幸先がよくないと見るべきか、 それとも原子のこの先の人生を暗示していると見るべきか。俺は当然、後者を 心に描いた。 別荘に入るなり、三島の使用人?が白い歯を覗かせながら、「こんな大荒れ の天気のなか、大変だったでしょう」云々かんぬんと、世話を焼いてくれた。 何でも、午前十一時前後に、別荘に通じる一本道の一部で土砂崩れが起き、通 行不能になったらしい。そのことで無事に来られるかどうか心配していたよう だ。運転中、ラジオを入れていなかったので、自然災害について全く知らなか った俺は、その危機を切り抜けた幸運に意を強くした。やはり、この荒れた天 気は原子の人生を暗示しているのだ。 案内された部屋で人心地着いていると、原子が現れた。やつは土砂崩れに遭 わなかったかどうか心配していた旨を表し、人並みに安堵の表情を見せた。こ ちらも人並みに礼を述べ、それから首尾はどうだと聞いた。 「うむ。思っていたほど悪くはないんだが……だいぶ隔たりがあってな」 原子はため息混じりに答えた。どうやら損失補填の額に不満があるようだ。 「ある程度の穴埋めはしようと言ってくれたが、全額じゃないんだ。残りは有 望な銘柄を教えるから、それで納得しろと」 俺は胸の内で、よしいいぞと快哉を叫んでいた。金曜の内に話がまとまって しまっては、俺の計画はパーだ。来る途中に煙草屋で買ったライターも、これ で無駄にならずに済む。 「まあ、焦らなくていいじゃないか。まだ時間はある」 俺は適当なことを言ってから、この別荘に現在どのぐらいの人間がいるのか を聞いてみた。三島を殺し、原子に罪を被せる計画を立てておいて、その舞台 に三島と原子と俺の三人しかいなければ、少なくとも原子には犯人が俺だと分 かってしまう。 「まず……多分、おまえも最初に見ただろう。この別荘全体の管理をしている 太田という四十絡みの男がいる」 「ああ、あの執事みたいな」 「それと、誕生祝いのために料理人が来ることになっているらしいんだが、こ の天気で遅れている。その料理人の部下二人が準備のため先に来ていて、急遽、 昨日から料理を作ってくれている。なかなかの腕だ。名前は確か、柴浦と浜木 だったな」 「それから、客が二人いる。一人は石井ひとみというタレントの卵で、三島と 付き合っているようだ。もう一人は医者の千川外茂男。三島とは以前から付き 合いがあって、本業以上に株で相当儲けているようだ。独立開業するなんて話 が出ていたからな」 吐き捨てるように言った原子。俺はどんな表情をしていいか分からなかった。 自分が勝手に笑顔になっていないか不安で、相手から背けた。 「あー、俺達や主を含めて八人か?」 「そうだ。他の客だけならまだしも、何で使用人まで気にする?」 「いや、なに、喫煙率を知りたくてね。この八人の内、煙草を吸うのはおまえ の他に……?」 「……いないな。挨拶のあと、俺が吸い出すと千川医師は医者の不養生を反省 したとかで禁煙していると言ったし、三島は千川の影響を受けて吸わなくなっ たと言っていた。石井ひとみや管理人はきれいな白い歯をしていたし、料理人 はもちろん吸わない」 「それでも肩身が狭いとは思わないんだろうな、おまえは」 俺がからかい気味に尋ねると、原子は真顔できっぱりと頷いた。 「嗜好品なんだし、他人にはなるべく迷惑掛けないようにしている。とやかく 言われる筋合いはない」 ならば職場でも吸うのを遠慮してくれ、と俺は声に出さずに毒づいた。 とにもかくにも、好条件が揃っていると分かり、俺は喜んでいた。滞在者中、 喫煙者が原子一人なら、犯行現場にライターを置く効果は絶大かつ確実だ。原 子はガス切れを気にして、常に複数個のライターを持ち歩いている。その一つ を現場に落とし、原子が気付かないままでいるという状況は、別段おかしくあ るまい。 俺に言われてまた吸いたくなったのか、原子は煙草の箱とライターをジャケ ットのポケットから取り出した。 このとき、やつ愛用のライターを俺は眼で確認した。いつもと変わりない、 半透明な紫色のボディ。用意したライターと同じメーカーの同じタイプ、同じ 色。違うライターを使うなんて気まぐれを起こしてくれなくてありがとう、原 子。 「話は終わりでいいか? 一服したくなったんだが」 「いいとも。何かあれば、俺から出向くよ。原子の部屋はどこだ?」 場所を聞いて、やつとはひとまず別れた。 それからしばらくして、管理人の太田がやって来た。主の三島にお目通りの 時間らしい。 「間接的にとはいえ、招かれた者の礼儀として、簡単なプレゼントを持って来 たんですが、気に入ってもらえるかどうか」 三島、千川、石井ひとみの三人との対面及び挨拶を済ませると、俺は小脇に 抱えていた包みを主に手渡した。初対面、しかも大した情報もない相手に何を 贈ればいいのか迷った挙げ句、駄洒落で攻めることにした。 「お気遣いをどうも。開けても?」 「どうぞ」 応じてから、三島の書斎らしきへやを見渡す。ここも彼にとっては仕事場な のだろう、広いデスクの上には取引のためのパソコンがいくつか並んでいる。 あとは書棚。様々な経済学関連の本で埋められている。 「虚仮威しだよ」 俺の視線の動きに気付いたか、千川医師が言った。 「こんなところに持って来てまで、読む必要のない本ばかり。三島さんにとっ て一番必要なのは新鮮な情報だ」 「ま、確かにその通り……おお、これはいい」 包みを開け、中身を確かめた三島が軽く笑うのが見て取れた。 「十五パズル自体はよくあるが、デザインが蕪というのがいいね」 三島は「株」と「蕪」の駄洒落にすぐに思い当たったようだ。それに気に入 ってくれたらしい。このあと、殺しに来ることを思えば、彼に警戒されないに 越したことはない。 「15パズルって何?」 石井ひとみが三島の背後からしなだれかかり、彼の手元を覗き込む。三島は 言葉で説明しながら、実際にパズルを動かしてみせた。 「お邪魔にならない内に、私はそろそろ」 退出の姿勢を示す。千川医師と揃って書斎を出た。廊下をしばらく歩くと、 相手が不意に聞いてきた。 「あなたは原子さんのボディガードか何かですか」 「いえ、単なる友人で相談相手といったところで。腕っ節は強くありません」 「そうですか。いや、さっきの場面で、三島さんに対して、原子さんの弁護を してあげるのかと思っていたのに、それがなかったですからね。口ではなく腕 を買われて、着いてこられたのかと」 「弁護も何も、私は詳しい事情を知らないのですよ。あいつが調子に乗って損 を出したということぐらいしか知りません」 「うん、まあ、それが全てと言えるかもしれませんねえ。三島さんの儲け話に は、ところどころ独特のキーワードがあって、そこを取り違えると失敗する。 それにね、ここだけの話、三島さんだって株の値動き全てを見通せるなんては ずがなく、予防線を張っている訳ですよ。つまり、あとで言い逃れできるよう、 どちらとも取れる曖昧な表現を織り込む。そこのテクニックが彼は抜群だ」 途中から声を潜めて話す千川は、どこか嬉しそうだった。 「で、あなたは投資をおやりにならない?」 「先立つものがありませんので。本来の仕事による稼ぎは、原子の方がかなり 上なんです。こっちは堅実にやるしかない」 稼ぎのことは余計だったかと後悔したが、仕方がない。千川医師とは彼の部 屋の前で別れた。 宛がわれた部屋に戻ってから、俺はふと思い立ってライターを取り出した。 買ったままのそいつで、本当に着火するかどうかを確かめようと考えたのだ。 量産品で高い物ではない。不良品ということもあり得る。 ライターによる着火は初めての経験だけに、少々緊張する。加えて、指紋や 脂分といった俺個人を特定できる痕跡を残してはいけないのだから、なおさら だ。手に軍手をはめた俺は、ライターの回転ドラム部分に触れた。親指に力を 込めると、何かの擦れる音がして、次の瞬間炎が上がった。そのオレンジ色の 揺らめきに、びくりとしてしまった。 煙草に火を着けるにしては、些か炎が大きい。確認しておくことを思い付い てよかった。俺はライターをためつすがめつして、炎を調整するつまみを見つ けた。適当なサイズの炎が出るよう、直しておく。これで準備万端。 ライターと脱いだ軍手を仕舞った直後、ドアがノックされた。声で応じてみ ると、原子だった。 「何だ?」 ドアを開けて招き入れる。 「二時からまた話し合いを持つことになった。そのとき、同席してくれるか」 「俺がいていいのか。専門的なアドバイスなんてできないぞ」 「加勢してくれりゃいい。ずっとじゃなくて、折を見て俺の擁護に回ってくれ。 大まかな事態は前に話した通りだ。理解できているだろ?」 「ああ、あれくらいなら」 「話し合いの中で、新しいことも出て来るかもしれないが、なに、君の頭脳な ら充分に対応できるさ」 「ほめてくれてありがとよ。だが、相手はプロだろ。素人が二人で挑んでも、 言い負かされるだけじゃないか」 「そこなんだが、君は世間一般の常識に照らして、という文脈で攻めてくれな いか。当事者たる俺がそんなことを言い出しても、今ひとつ説得力がない。第 三者が言ってこそだと思う」 遠回しに情に訴える作戦か。果たして通じるものか……。俺は疑問に感じた が、声には出さない。承知の返事をしておく。 「あと四十分ほどある。そういえば昼食はどうした?」 原子に問われて、俺は早めに食べ来たと答えた。 「小腹が空いてるなら、管理人に頼めば何か出してくれると思う。論戦の前に 燃料補給しておかないか」 燃料補給とは古い言い回しを使うやつだ。俺は苦笑しながら頷いた。 昼二時からの話し合いは、ほぼ平行線に終始したと言ってよかろう。これま でに提示された条件から、さらなる若干の譲歩が三島側からなされたが、原子 は納得しなかった。 公平を心掛けて感想を述べるとするなら、三島の言葉を全て原子の主張通り に受け取ったとすれば、原子の言い分も尤もだと思う。だが、三島の言葉はレ トリックに満ちていて、千川医師が言っていたように、少なくとも二通りの解 釈ができる部分が多いようだ。契約書などの形で言葉を残していない現状では、 話し合いが水掛け論じみてくるのもやむを得ない。 一方、胸に邪な計画を秘めた者として、俺は二人の和解を妨害しなければな らない。五十分に及んだ話し合いのほとんどを、原子の加勢に努めた。ただ、 三島は金持ちの余裕なのか、ほんの僅かずつながら譲歩する気はあるようなの で、余り押し込むと原子の満足する額まで譲ってしまうかもしれない。それで は困るので、俺は時折、原子をたきつけるための呟きを交えて、議論をヒート させた。原子は三島の甘言を狡賢いものとして、インターネットなどに流す用 意があることさえ匂わせた。三島はそれを非常に面倒だとして、ぜひとも避け たがっている節が見られた。 結局、話し合いの前と後とを比べて、この問題に関する二人の感情に大きな 変化はなかったと断言できる。三島が微少な譲歩を示しながらもこの状況なら、 俺の狙い通りの着地点に持って行けたと言えよう。 「気分よく、誕生日を迎えら得るかどうか、怪しい雲行きになってきたな」 別れ際、三島が疲れたような笑いをこぼしながら言った。 「もう一度、今夜の……九時から話し合いたい。そのときには原子君一人で来 て欲しいんだが、いいかな」 原子は俺と眼を合わせることもなく、「いいでしょう」と即答した。話し合 いが終わったばかりで、少し興奮気味の原子に、俺は「エキサイトしてもいい ことはない。冷静になれよ」と言っておいた。 食後、部屋に籠もってテレビを観る。三島と原子、最後の話し合いがもうじ き始まる。どうかまとまりませんようにと祈りながら、俺はテレビのチャンネ ルをニュースに合わせた。 政治や社会情勢のニュースのあと、今度の大荒れの天気に話題が移り、この 近辺の土砂崩れについて報じ始めた。まだ復旧にはほど遠く、作業開始は天候 の回復が見込まれる明日の昼前後からになるだろうとの談話が伝えられた。 つまり……俺は現状を分析した。この別荘で殺人事件を起こしても、警察の 到着は間違いなく遅れる。恐らく、死亡推定時刻は幅が広く出る。下手なアリ バイ作りは意味をなすまい。当初の計画通りシンプルに、ライターを現場に落 とすだけでいい。あとからぱっと思い付いた小細工なんて、破綻の元凶だ。 そう結論づけて、俺はニュースの続きに耳を傾けた。天気の話題はすぐに終 わり、スポーツ関連に移っていった。 十時になっても原子が戻る気配はなく、時間潰しのために別のチャンネルで ニュースを見続ける。道路の復旧はまだ。 当たり前だが、九時からの番組でやった話題ばかり続くので、普段なら興味 のないドラマにでもチャンネルを合わせるかとリモコンに手を伸ばした矢先、 ようやく待っていたノックがあった。 「いるか?」 「おお。原子か。どうだった?」 テレビを消し、急いでドアに駆けつける。開けると、そこには難しい顔をし た原子が一人で立っていた。 「とりあえず、煙草を吸いながら話したいんだが、おまえの部屋よりも俺のと ころに来てくれるか?」 苛立たしげに言う原子。俺としても、部屋を煙草臭くされるよりは、原子の 部屋に出向いてしばらくの間我慢する方がましだ。さっさと移動する。 「それで? 首尾は?」 いかにも和解を期待する素振りで、俺は聞いた。 原子は雨が入らぬよう細く開けた窓の隙間から、外に紫煙を吐くと、ゆっく り答えた。 「話し合いは継続になった。また少し譲歩されて、正直言って迷っている」 「え? 満足できそうなのか」 焦りを覚えた。俺の口調は早くなった。原子がそれに気付いた様子は……な い。 「少し意味が違うな。ちょっとずつでも譲歩されると、次に期待するもんだろ。 もっと譲歩を引き出せるんじゃないかって」 「ああ」 「だが、あまり欲張ると、ぴたりと打ち切られそうな気がする。始めの一番悪 い条件に戻されてな。今度の株の大損で、欲張るのはいい結果をもたらさない ことは身に染みてる」 なるほど。多少は自分自身の責任と思っているようだ。 「だが、まだ手を打つつもりはないんだろ、当然?」 「まあな。引き際を見極めたいが、あと少しは行ける」 そのせいで失敗したのだから、自覚があるのなら早めに切り上げればいいも のを。尤も、今は欲求のまま、どんどん突き進んでくれればいいんだが。 「話し合いは継続って、いつになったんだ? 明日は誕生祝いだろ」 「相手の口ぶりだと、気が向けば明日するかもしれないが、恐らく日を改める ことになりそうだ。明日は二人の間に横たわる問題を一時忘れて、パーティを 楽しんでくれだってさ。道路が不通になったおかげで、招待客のほとんどが来 られないから、少しでも賑やかにやりたいということらしい」 「ははは。金持ちからすれば、使用人を含めて一桁しかいない集まりは、きっ と寂しいんだろうな」 「まったく、こんなことなら端から誕生祝いに合わせて話し合いを持たなくて も、別の日にすりゃよかったのに」 「いいじゃないか。話し合いがこっちの不利に終わった場合に備えて、元を取 るつもりで派手に飲み食いしてやれ」 「気楽なことを……」 嘆息する原子の前で、俺も大いに安堵したい心持ちだった。話がまとまりそ うな気配がなくもない。そうならぬ内に、できれば今夜中に決行しなければい けないだろう。 三島の部屋を訪ねた時刻は、午後十一時をだいぶ回っていた。相手が一人で いることを確かめた上で、原子からの提案を持って来たと伝え、中に入れても らった。そして口から出任せの提案を持ち掛け、さらには俺自身が株の売買に 興味がある素振りを見せてやった。 三島はより打ち解けた態度になり、詳しい話はまた後日としながら、これま での儲け話を自慢げに語り始めた。俺は感心しきりの聴き手を演じつつ、チャ ンスを待った。三島は酒が入っていたのか、饒舌な上に、注意力がやや散漫に なりつつあった。 やがて俺はこの優秀なトレーダーの背後に回ることに成功すると――絞殺し た。瞬間的な緊張感は極度に高まったが、終わってみれば簡単な作業だった。 息一つ乱れていない。 俺は現場に自分自身の落とし物をしていないことを念入りに確認した上で、 問題のライターを床に落とした。それは一度だけ跳ねて、三島のデスクの下に 隠れるような位置に止まった。ちょうどいい。 俺は黙って頷くと、殺害現場をあとにした。行き来する途中で、誰にも会う ことはなかった。 * * 刑事は容疑者を前に、数少ない遺留品である紫色のライターを見せた。 「これ、あんたの物でしょう? 今、買った場所を調べているところだから。 明白な証言が出ない内に、きれいさっぱり認めた方が、後々いいと思うよ。心 証とかよくなるよう、口添えしてやれるかもしれないし」 「何のことだか……」 「あ、とぼけるの? ううーん、しょうがないなあ。じゃ、一から説明すると しますか。煙草を吸うのなら常識なんだけどさ。ライターって、原則的に大人 が使う物だろう? 子供が簡単に使えちゃ危ないってんで、ついこの間、法律 が施行されたんだよ。九月二十七日からは、えっと、チャイルド・レジスタン ス機構という仕組みを備えたライターのみ販売できることになったのさ」 「チャイルド・レジスタンス?」 頭の中で朧気な記憶を辿り、直訳して首を傾げる容疑者。刑事は説明してや った。 「チャイルド・レジスタンス機構、略すとCR機構と呼ぶらしい。簡単に言え ば、子供の力で着火しようとしても、ドラムを回したりボタンを押し込んだり が困難な、抵抗を大きくしたライターってことだな。使い捨てだろうが何だろ うが、全てに適用される。現場に落ちていたこのライターも、CR機構が備わ っていた」 「それの何が問題なんでしょうか」 「問題大ありだ。このライターを作っているメーカーはな、法改正への対応が 遅れていたんだ。他社は期限より前、かなり余裕を持たせてCR機構付きのラ イターを売り出していたが、このメーカーは資金面で苦慮して、法律施行日の ぎりぎりまで掛かった。CR機構付きライターが店頭に並んだのは、九月二十 四日だった。これは間違いない。先行販売もされていなければ、試供品が先ん じて出回ったようなこともない。これが何を意味するか、分かるか?」 「……さあ……」 「原子さんが三島さんの別荘に到着したのは二十三日夜。それから彼は別荘か ら外へ一歩も出ていないんだろ? だったら、原子さんがこのライターを持て たはずがない」 「あ……」 「さらにだ。二十四日朝以降、事件発生時点までに別荘に現れたのは、あんた だけ。その直後、土砂崩れによって別荘までの一本道が塞がれた。いわゆる閉 鎖状況になった。つまるところ、事件発生時点までに、三島さんの別荘にこの ライターを持ち込めたのは、唯一人。あんただけなんだよ」 「……」 「これでも言い逃れするか? 潔くしようや」 煙に巻くのをあきらめた男は、容疑者から犯人になった。 ――終
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