●短編 #0378の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
晴天続きの八月初旬。とある高原地帯にある別荘で、殺人事件が起きた。被 害者は別荘の持ち主で、文芸評論家の加川琢馬(かがわたくま)、五十二歳。 発見された時点で遺体が少々異様な状態にあった点を、特記すべきであろう。 遺体は浴室にあったのだが、手足を荷造り用の紐できつく拘束された上、口 にはガムテープが二重に貼られ、さらに、天井の通気口から垂らされた太いロ ープにより逆さ吊りにされていた。犯人は通気口の格子を一旦外し、天井裏に 置いた手頃な大きさのバーベルにロープを結わえ、その端を戻した通風口の隙 間から通し、被害者の身体を縛り付けたと見られる。 通気口の真下に浴槽がある。加川の頭部は浴槽の内側に隠れる形になってい た。恐らく、犯人はロープの長さを調節したに違いない。加川の死因は溺死で、 浴槽に張った水が首元まで達していた。見開かれた目は、最後に何を見たのか。 遺体の正面の壁、やや上向きの位置には、湯温や水量の設定、追い炊き等の操 作を行うパネルがあり、時刻を示す緑のデジタル文字が光っていた。 死亡推定時刻は午前二時から午前四時とされ、現場を訪れた加川の知り合い 二人によって発見されたのが、同日の夕方四時。浴室のドアを開けた時点で、 カランはわずかに緩められており、蛇口から水が極々細い線を引いて浴槽の中 へと落ちていた。 担当した刑事らは、この様子を目の当たりにし、解決は近いと感じた。つま り――犯人は姑息なアリバイトリックを用い、嫌疑を逃れようとしたに違いな い。浴槽に水が少しずつ溜まるように水流を調節し、現場を離れた。動けない 被害者が溺れ死ぬ頃、自身は他人と会ってアリバイを確保する心づもりだった のだろう。警察も見くびられたものだ――と。 程なくして一人の容疑者が捜査線上に浮かぶ。現場から五百メートルと離れ ていない別荘でこの夏を過ごしていた、久工二(ひさこうじ)なる男がリスト アップされた。今年四十になる久は著名な推理作家で、いかにもトリックを使 いそうなタイプの人間だった。加川とは同じ大学の推理小説研究会の先輩後輩 の関係であり、二年前までは親しい付き合いをしていたが、加川が久の当時の 新作を批評したのをきっかけに、仲が険悪になっていった。加川は「他人から 借りて来たアイディアの寄せ集めで、新奇なところが一点もない」と論評し、 トリックの盗用を匂わせる一文すらあったという。 「盗用ではないことをきちんと、それこそ理路整然と説明しましたよ」 自宅にて刑事の訪問を受け、久工二は答えている。 「同業者が創案したトリックをジャンピングボードにしたのは認めますが、大 枠を借りただけで、読者に結果として見せる現象は全く違う。そのことすら理 解できなくなってるなんて、先輩も耄碌したんだなと、内心嘆いていたくらい でね。お疑いなら、我々のやり取りやこのことに関する第三者のコメントが、 当時の専門誌に載っているから、当たってみてください」 「それはそれとして……どちらに理があるかとは別に、あなたと加川さんとの 間で、憎しみが生まれたのは事実と思ってよろしいか?」 刑事の確認に、久は不承々々といった態度ながら、肯定した。 「しかし、そのくらいのことが殺意に育ちやしません。本当に嫌なら、今まで 何度も論争を繰り広げることなく、互いを無視したでしょう。それに、こんな に近くに別荘を構えたままではいられない。そう思いませんか?」 「自分の方が譲歩する理由がない、と我慢比べめいた状況だったとも思える。 それにですねえ、加川さんの携帯電話を調べたら、発信及び着信履歴にあなた の番号がずらずらと並んでいた。長時間の通話もあった。近くにいながら顔を 合わさず、長電話とはね。口論がヒートアップしたのでしょうか」 「……とにかく、加川さんを殺したのは、私じゃない」 「潔白とおっしゃるならば、積極的な協力を願いたいものですな」 「協力しているつもりですが。あとは何を答えればいいので?」 刑事は犯行推定時刻の頃に、何をしていたかを問い質した。無論、アリバイ の申立てがあると見越しての質問だ。果たして、久は間を置いてから答えた。 「あの日なら、自分の別荘で夜通しのイベントをしていました。私にもファン はそれなりにいるものですから」 「自分のというと、加川さんの別荘の近くにあるあの別荘ですか?」 「ええ。二つも三つも別荘を構えるほど、裕福ではありません」 「現場から五百メートルと離れていませんね。夜の山道とは言え、整備されて いるし外灯もある。ちょっと抜け出して、他人に気付かれずに往復するくらい、 訳ないのでは?」 「その質問には、死亡推定時刻を教えていただかないと、お答えのしようがあ りません。可能かもしれない。だが、可能だったとしても、それが即、私を犯 人とすることにはつながらないと思いますがね」 「まあ、それはそれとして、とにかく検討してみることが先決でしょう」 刑事は笑顔を作り、死亡指定時刻が午前二時から四時、特に三時前後である 可能性が高いことを告げた。すると久は刑事の予測通り、鉄壁のアリバイを申 し立ててきた。 「その時間帯なら、ファンのみんなの質問を受け付けていた。十人以上の証人 がいる」 「真夜中に質疑応答をやった? 理解しがたいですな」 「読者から作家への単純な質疑応答ではありません。犯人当てを催していまし てね。問題編を朗読したあと、質問を受け付けていたんのです。夜明けをタイ ムリミットとし、一番早く正解した者に豪華賞品を出すことになっていたせい もあってか、皆、必死になって取り組んでくれましたよ。ありがたいことです」 「我々は実験して、往復自体は二十分もあれば可能だと結論づけています。自 動車は目立つにしても、バイクや自転車を使えばもっと早いでしょう」 「二十分間、席を外していなかったかどうか、という訳ですか。トイレに立っ たぐらいで、あとはずっと、大勢の目に触れていたんじゃないかな」 「おっと、肝心な点をお聞きしていなかった。犯人当てを開始したのは、いつ でしたか」 「午前一時ちょうど。予定通りに始めましたよ。その十分前には、私は会場で ある広間に姿を現していた」 「0時五十分よりも前は、どこで何をされていました?」 「自室にいたな。テキストを用意する等、下準備を整えるために。ああ、その 前にシャワーを浴びた。一時から断水が始まる予定だと聞いていたしね。もち ろん、シャワーは一人で浴びたから、証人はいない」 「0時五十分より前で、確かなアリバイ証人がいるのは、いつの時点です?」 「確か……0時ジャストかな。それまでミステリ談義に花を咲かせていたが、 日付が変わるのを機に、そろそろ準備を始めようと席を立ったので」 「なるほど。つまり、0時からの五十分間は、アリバイがないと」 「それがどうかしましたか。死亡推定時刻にはかすりもしていない」 自信があるのか、淡々と主張する久。刑事もまた自信を持って、アリバイト リックの仮説を話し始めた。 「縄で束縛した加川さんを、浴槽の真上に当たる位置から逆さに吊した後、縄 の長さを調節し、顔が浴槽の中に収まるようにする。そしてカランを捻り、午 前三時前後に浴槽が満水になるよう、水流をこれまた調節する。あとは現場か ら別荘に戻り、他人に姿を見せることでアリバイを確保――こういうトリック はいかがですかねえ」 唇の端から笑みがこぼれるのを堪えながら、刑事は相手の反応を待つ。絶対 の自信があった。 久工二は一瞬、目を見開くと、すぐに拍子抜けしたように息をつき、肩を落 とした。そうして、片手で頭を掻きながら苦笑を浮かべた。 「たまに見掛ける水道利用のトリックですね。珍しくもない。私が犯人だった としても、そんな、推理小説ファンに瞬く間に看破されるであろう著名トリッ クなんか用いません」 「しかし、あなたにアリバイがないことは認めてもらえるでしょうねえ?」 「いいえ」 推理作家は即答した。断固とした口調に、刑事サイドには密かな動揺が広が る。 「ほう。それはまた何故。推理作家を生業とするあなたなら、トリックなんて 机上の空論だ、なんてことは言いますまい」 「刑事さん。あなた達こそ、基本的な箇所をしっかりと調べてもらいたいです ね。私や加川さんの別荘がある地域一帯は、八月に入ってからこっち、雨に恵 まれず、取水制限が実施されている。夜の一時から明け方五時までは、完全断 水だ。蛇口から水は出ませんよ」 「それはそれは……」 調査不足をごまかすべく、適当な受け答えをする刑事。と同時に、突破口を 探る。 「断水が行われていても、水そのものは管を流れているという話を、私は聞い たことがあります。水圧の関係なんでしょうかね。だから、カランを捻れば、 ある程度の水は出て来るはず」 「私や加川さんの別荘がある一帯は、他と比べて高地にあることを考慮に入れ てください。断水が行われれば、圧力不足で全く流れ出なくなる。文字通り、 水が断たれるのです」 「……改めて調べるとします。あの、一応、窺いたいのですが」 やり込められ、屈辱感から言葉遣いが丁寧になる刑事。そんな自身を許しが たく思う。 「何か?」 「午前一時以降、別荘で水が必要な状況では、どうしていたのでしょうか。特 にトイレなどは……」 「当然、前もって溜めておいた水を使った。トイレ用にはバケツに溜めていた な。ファンには申し訳なかったが、仕方がない」 極当たり前の返事に、刑事はうなずき、引き下がるほかなかった。 実地検証の結果、久工二の言い分は正しいと認められた。死亡推定時刻を含 む五時間、加川の別荘で水道は使えなかったのだ。 簡単に解決できる見込みをひっくり返され、意気消沈していた捜査陣だが、 彼らを再び活気づける発見が、鑑識からもたらされた。 「推理小説家が絡んでいるせいか知らないが、妙なものが見つかりました。ダ イイングメッセージっていうやつですよ、これは」 「ダイイングメッセージって、死の間際に被害者が何らかの言葉を残すという、 あれですか」 「そう、あれです」 「しかし、現場を見ましたが、メッセージらしきものには気付きませんでした ……」 「ご心配なく。そちらの見落としではありません。簡単に見える物じゃないん ですからね。被害者は指紋を使って、メッセージを残していたのです」 「はあ、指紋を」 「逆さ吊りでも、浴室の壁に指先が届いたんですねえ。右手の人差し指をスタ ンプよろしく、ぺたぺたと」 「何となく、イメージできてきました。で、どんなことが書かれていたんで?」 刑事の求めに、鑑識課員は大判の写真二枚を差し出した。一枚は薄い青色が いっぱいに映っており、一部に粉がはたかれている。殺害現場である浴室の壁 だ。もう一枚は、そこから採取した指紋を写し取り、より鮮明に浮かび上がら せたシートのコピーであった。 刑事は後者の文字を読み上げた。 「えっと、『AMEノマエニ』……。何だこりゃ。AMEは雨か?」 「私達は、証拠をありのまま提供するだけ。解釈するのは、そちらの仕事」 「分かってますよ。それにしても『雨の前』にとはねえ」 皮肉を感じる刑事。この事件、渇水故に謎が深まり、解けないでいる。 自嘲気味の笑みをこぼしていても始まらない。ダイイングメッセージの謎を 持ち帰り、同僚達と検討に入る。 「被害者が『雨の前に』と伝えたかったのなら、アルファベットを使うはずが ない。このことは大前提として認めていいんじゃないか」 「そうだな。指紋を使って漢字の『雨』は少々書きづらくても、片仮名なら簡 単に書けるだろう」 「今にも殺されそうな人間が、どうしても伝えたい物事でアルファベットを使 うといえば……やはり、犯人のイニシャルかね?」 「名前のイニシャルは普通、二文字だ。三文字ある意味が分からん」 「そもそもだな、指紋で残す方法なら、犯人に見つかる恐れがほとんどないん だぜ。イニシャルで書くなんて間怠っこしい真似をせず、名前を直に残せばい いじゃないか」 「ということは、ノマエニが犯人の名前かもしれませんね」 「本気で言ってるのか? ノマエニなんて名字だけにしても、下の名前だけに しても、珍名過ぎるぞ。ましてや姓名とはとてもじゃないが」 「姓は野間で、名前がエニ……あ、エニが漢字だとしたらどうでしょう?」 「漢字?」 若い刑事のアイディアに、他の刑事達が口々につぶやいた。その中の一人が、 ホワイトボードに記されたAMEノマエニの文字を見つめ、やがて「おお」と 呻き声を発した。 「言わんとすることは分かった。片仮名のエではなく図画工作の工、片仮名の ニではなく漢数字の二じゃないかという訳だな」 「ええ。犯人の名が野間工二だとしたら、漢字では書きづらい名字のみ、片仮 名にしたのも頷けます」 「だが、野間なんて奴は、関係者の中に見当たらない。今から野間某を探すよ り、他の見方を探すべきじゃないか」 「待て待て、そう慌てるなよ。下の名前なら、最有力容疑者と一致する。これ はもしかすると……」 その刑事は席を離れ、ホワイトボードの前に立つと、「ノマ」と横書きし、 さらにそのすぐ下に「久」と書いた。 「ノとマをくっつけて書くと、『々』になるのは割と有名だと思う。『々』と 『久』は似てないか?」 「……後ろ手に縛られた状態で、指紋を使って書いたのなら、これぐらいのミ スはありだな」 「やっぱり、久工二が真犯人なんですよ!」 俄然、活気づいたのは若い刑事だけにとどまらなかった。ダイイングメッセ ージに関するこの発見が、捜査陣全体に勢いを取り戻させた。 「こうなると、AMEは名前を示すものではないと断定してよかろう」 「賛成だが、被害者が犯人の名前よりも先に書こうとする事柄なんて、何があ る?」 首を傾げ、頭を絞る男達だが、犯人を名指しするのと同等かそれ以上に重要 なことが何であるのか、冴えた仮説は浮かばなかった。 最前の活気が嘘であったかのように、部屋を重苦しい空気が支配する。ノマ エニのメッセージを足がかりに、再度、久工二を攻めようという意見も出され たが、根拠が弱いとして却下された。少なくともダイイングメッセージ全部を 解読するか、アリバイを崩すかしてからでないと、返り討ちに遭うのは目に見 えている。 閉塞感を打破しようと、彼らの中で一番年若い刑事が、特に親しくしてもら っている先輩に言葉を掛ける。 「吉田さん。知り合いの探偵の方に、意見を求めてみては……」 吉田刑事は相手をじろりと見据え返すと、その厳しい目つきを苦笑混じりに 緩めた。 「前の事件で助けられたばかりだ。たまにならいいかもしれんが、頻繁に頼む のは、沽券に関わる」 「でも、今抱えている事件こそ、あの探偵向きだと思えます。推理作家が容疑 者で、評論家が被害者。アリバイトリックを用いた形跡がある上に、ダイイン グメッセージまで登場する」 「その見解は当たっているよ、多分な。しかし、いくら事件解決のためとは言 え、こうも立て続けに探偵の力を借りるのは……自分一人の意志では決めづら い」 「では、皆さんの意向も聞いてみましょう。決を採って、過半数が支持すれば、 探偵に依頼するってことでいいんじゃないですか」 「それ、いいな。ま、俺は大きな声じゃ言えないが、探偵に依頼することに賛 成だな。この事件、関係者がそこそこ有名なせいか、世間から注目されている だろ。手間取って醜態を晒すよりも、探偵の力を借りてでも早期解決する方が、 よほどましだ」 年長者が真っ先に肯定的な表明をしたためか、改めて採決するまでもなく、 探偵に話を持ち込んでみることになった。あくまで、参考意見を得る目的で。 「被害者はミステリの評論家でしたね? だったら縛られて、浴槽の上に逆さ 吊りにされた段階で、詳細な絡繰りは分からないにしても、時限式に溺死させ るトリックを仕掛けられたことには察しが付いたと思う」 事件の詳細を聞いた探偵は、すぐさま一つの意見を出した。刑事達が思い付 かなかった見方だ。 「なるほど」 事務所に探偵を訪ねた吉田刑事は、オーバーなほど大きくうなずいた。感心 したのは事実だ。ただ、そこから何が導き出せるのかは想像が及ばない。 「トリックを仕掛けられたと認識した被害者は、トリックの謎解きを書き残す とでも?」 「いいえ、違うでしょう。そんなことを試みても、恐らく長文になる。AME の三文字で表せるとは、とても考えられない。さっき触れましたが、被害者は 自分が仕掛けられたトリックが何なのか、おおよその察しは付いたはずです。 何しろミステリ評論家なのだから。水を張った浴槽、その上に逆さ吊りにされ た己自身の状況を考えれば、トリックはまず確実にアリバイ関連だと分かった に違いない」 「そうか……」 「アリバイトリックを弄する犯人に対し、助かりそうもない被害者のできる最 大の抵抗は――犯人の名と、犯行時刻を記すことじゃないでしょうか」 「おおっ、ありそうだ」 「加川氏としては、犯人に襲われ、縛られ始めた時刻か、犯人が現場を立ち去 った時刻を書き残したかったかもしれません。だが、それは無理だった気がす る。縛られる前に、恐らく薬を嗅がされるか何かして、意識不明に陥っていた と推測できますから。犯人が被害者を縛り上げ、逆さ吊りにするには、そうで もしないと難しい」 「じゃあ、いったい……ああ、自分が溺れる時刻を書く?」 「同感です」 探偵はかすかに笑みを浮かべた。 「いつ死に至ったかがはっきりさせておけば、トリックの絡繰りを再現し、そ こから逆算して犯人が犯行現場にいた時刻を割り出せる。被害者はそう考えた んだと思う。この仮説に立ってダイイングメッセージを見直すと、AMは午前 を意味するものと推測できる」 「うむ、それは納得できるが、ではEは?」 「ここからは本当に単なる空想になるが、数字の3を書こうとしたんじゃない かな。ただ、鏡文字でなければいけないと勘違いをして、Eのような形を書い てしまった。AとMは鏡文字と元の形が変わらないから問題ないが」 「被害者は何故、鏡文字を書こうと?」 「後ろ手に縛られていたから、だろうね。さらに、逆さまにされ、殺されると いう恐怖心が加われば、勘違いを起こしても不思議じゃない」 「後ろ手では確か、上下逆でしたかな。それが逆さ吊りなら、元通りか」 加川は余計な気を回したことになる。吉田刑事はその滑稽さを笑うよりも、 同情を覚えた。 「しかし、困ったな。鏡文字を書かなきゃならんと思い込んでいたんなら、あ とに続くノマエニの解釈も違ってくる」 「いや、吉田さん。勘違いは一文字だけで、すぐに気付いて戻したんだと思い ますね」 「もしそうだとしても、Eを3に直さなかったのは、辻褄が合わない」 「指紋のスタンプで文字を書いていることを、お忘れなきよう。書き直すと、 ぐちゃぐちゃになって、他の文字までまともに読めなくなる恐れが生じます。 だから敢えて、書き直さなかったんでしょう」 「言われてみると……一理ある。じゃあ、午前三時過ぎに、加川氏は溺死した と見ていい訳か。うーん、それはそれで困ったことになるな」 「午前三時に、水が溜まるはずがない状況なんですね」 「その通りでして。午前三時よりも前に水が止まったなら、午前三時過ぎに溺 死することはない。ま、うちにも若い、頭の柔らかい奴はいます。そいつが珍 妙なアイディアを出したんですが、お話にならない」 苦笑いをこぼす吉田刑事。彼の言葉に探偵は興味を持ったらしかった。 「そのアイディアを聞いてみたいですね」 「かまいませんよ。ある程度まで水を溜めておいて、残りは氷を使ったんじゃ ないかと。氷なら、時間差で溶けて水位が増すというトリック。犯人は断水を 見越していたんだという訳です」 「悪くないじゃないですか」 「おや?」 吉田刑事は目を丸くした。次に、軽くため息をつく。 「あなたの口から、そんなほめ言葉が出るとは予想外だ。正直言って、がっか りですな」 「どうして」 「水に浮かべた氷が溶けても、水位は変わりゃしません。小学校で習いません でしたか」 日頃、探偵にやり込められている分、嫌味な調子の説明となる。そして吉田 は、言い終わってからしまったと後悔した。 と言っても、嫌味な口調を反省したのではない。探偵の表情――にやりと笑 う――を見て、自分の勇み足を予感したのだ。何を間違えたかは分からないが、 とにかく間違えた。 「確かに、水に浮いている氷はね。だが、一部が浴槽の底に付いていれば、話 が違ってくる、水面より上に出ている部分の氷は、溶ければそのまま、水位増 につながる」 「そ、そうでしたな。うっかりしていた」 「念のために付け加えると、トリックを成り立たせるのに、必ずしも氷が浴槽 の底に付いていなくてもかまわない。たとえば、浴槽の縁にまな板みたいな形 にした氷を渡し掛けておいても、同じ効果が得られるでしょう。要するに、時 間差で氷が水中に落下すればいい。水位が一気に増えるか、徐々に増えるかの 違いです」 「我々は水にこだわりすぎた訳か」 「いずれにせよ、氷を用いたとすると、それなりの準備が必要です。浴槽に前 もって水をある程度張っておき、アリバイ作りの時間を稼ぐ分だけ、氷に頼っ たとしても、結構大きな氷が必要になりますね。何せ、容疑者は午前0時五十 分までには、自身の別荘に戻らないといけない。逆算すると、遅くても午前0 時四十分には、加川氏の別荘を出ることになるでしょう。その時点から溶け始 めた氷が、およそ二時間二十分後に加川氏を溺死せしめるには、かなり大きな 氷でないと話が合わない。容疑者の別荘には、大型の冷凍庫なんて代物、あり ましたか?」 「いえ、ざっと見た限りですが、なかったな。あったとしても、他人の目があ る中、大きな氷を外に持ち出し、さらに被害者の別荘まで運ぶのは、なかなか の難問ですぞ」 「被害者の別荘にも、大型の冷凍庫はなかった?」 「そちらの方は正確に答えられます。ありませんでした。通常サイズの冷蔵庫 は一つあったきり。もちろん冷凍庫は付いているが、ごく普通のもので、しか も中は空っぽだった」 「となると、巨大な氷を犯行現場で直に調達するのは無理。また、自前で作る ことも不可能でしょう。業者に頼むぐらいしか手がないが、それなら記録が残 っているに違いない。調べることをお薦めします」 吉田刑事は探偵の進言を聞き終わらぬ内に、電話を掛け、同僚に用件を伝え た。そうして携帯電話を仕舞うと、改めて探偵に質問する。 「製氷業者や搬入業者が見つかったとしましょう。それでも、容疑者の別荘か ら被害者の別荘まで氷を運ばねばなりません。その方法が分からないままでは、 奴を追い詰めるには至らない恐れが……。車では音で気付かれる可能性が高く、 使ったとは思えません」 「被害者の別荘近くに、氷を積んだ保冷車を予め駐車しておくのはどうです? この場合、保冷車も借りることになるのは無論です」 「具体的に保冷車と指定した訳ではないが、不審車両の有無の聞き取りぐらい、 とうにやっとります。事件当日もその前後も、不審車両の目撃情報はゼロでし た」 「やれやれ、手際のよいことで。――氷の移動が難しければ、移動しなかった のかもしれない」 「ん? 何のことやら」 「最初から、犯行現場へ、つまり加川氏の別荘に氷を届けさせた、なんてこと を思い付きましてね」 「ええ? そりゃあ、だめだ。いくら何でも無理のある筋書きですなあ」 声を大にして否定した吉田。首を左右にきつく振って、話を続ける。 「いがみ合う間柄で、相手から氷を送り付けられたら、誰だって不審を抱く。 親切に保管する訳もなく、捨てて終わりでしょうよ」 「いがみ合う間柄ということですが、本当にそうであれば、電話で長話をする とは思えないんですよね」 「何のことですか」 「いやだなあ、吉田さん。さっき話してくれた中にあったでしょう、電話のく だり。携帯電話の履歴を調べたら、加川氏と容疑者の久との間で、割と頻繁に 通話があったと分かったとか」 「ああ、そのことですか。頭がかっかしてたら、長くなる場合もあるんじゃな いですか」 「いや、そもそも、どうして憎い相手に電話を掛けようと思うんです? 議論 をふっかけるために? 罵詈雑言を浴びせるために? わざわざ電話代を費や さずとも、彼らは物書きなんだから、雑誌等の媒体にいくらでも書き飛ばせば いい。うまくすれば、それが稼ぎにもつながる」 「……殺し殺されるほど深刻な状態だったなら、公にする訳に行かなかったん じゃありませんかね」 言葉を濁しがちになった吉田刑事。実際のところ、加川も久も誌面を通じて 議論をしていた。だからこそ、二人の険悪な関係を把握できたのだ。 探偵は首を傾げた。 「うーん。どうもしっくり来ない。案外、出来レースじゃなかったのかなあ。 仲が悪いふりをして、時折、口論を演じてみせれば仕事になる」 「矛盾していますよ。その見方を認めると、殺しの動機が消滅しちまう」 「確かに。だが、動機は他にあるかもしれない。吉田刑事、念のために調べて もらえませんか。被害者と加害者の携帯電話について」 「何なりと伺いましょう」 そして探偵からの質問を聞いた吉田は、思わず「まさか」と呟いた。 久工二は仕事をこなすべく、数日前より猛暑の都会を離れ、別荘に逗留して いた。依然として夜間の断水は続いており、不便ではあるが、天気予報では一 両日中にも降り出すとのこと。新たに飲料水を買い足す必要はなさそうだ。 今日は朝から快調で、原稿がすらすらと進んだ。昼食を済ませ、執筆を再開。 休憩を挟んで、いよいよ筆が乗ってきた頃合いに、吉田刑事の訪問が。 「景気はどうですか」 顰め面で応対に出た久だったが、相手の刑事らしからぬ挨拶に、つい、苦笑 を浮かべてしまった。中に通しつつ、受け答えする。 「よくもなく悪くもなく、ですよ。刑事さんは同じことを聞かれたら、どう答 えるんだろう?」 「ふむ。事件が多いと景気がいい、などと答える訳には行きませんな」 「でしょうね。それで? こんなところまで、何の用ですか。加川さんの事件 と無関係であれば、冷たい飲み物をお出ししてもいいんだが」 「残念ながら」 久はまた苦笑し、吉田に椅子を勧める。相手は黙って腰を落ち着けた。 「実は、妙なことが判明したので、あなたに説明していただきたいと、こうし てやって来た次第でして」 「妙なことと言いますと」 「あなたと加川さんは同じ携帯電話会社と契約し、お互いにフレンド割引プラ ンを適用していますね。特に指定した相手との通話料金が、月に一定時間まで は無料、それを越えても格安の課金で済む」 「……ばれましたか」 一瞬戸惑い、短い時間で判断を下した久。ここはあっさり認める。あの割引 プランを解約しておかなかったのはミスだが、切り抜けられるはずだ。 「まさか、電話代を気にせずに、口論相手と長電話するために契約したのでは ないでしょうな」 「ええ。仲が悪いのはポーズでした。加川さん――先輩の方から持ち掛けられ た話でしてね。お互いにそこそこの地位を築いたが、ぱっとしたものがない。 多少の演出をして、目立とうじゃないかと。効果はありました。依頼が増えた んです。それに、一躍人気作家になれる訳じゃないが、たまに論争を仕掛ける ことで、ミステリ業界の中心にいる気分に浸れる。ほんと、心地よいものです」 「事件後、警察にも言わなかった理由を聞きたい。隠しておいても、メリット があるとは思えん」 「あなた方を信用しきれなかったんです。打ち明けた秘密が警察内でとどまれ ばいいが、どこかから必ず漏れると思えて仕方がなかった」 伏し目がちになり、悔いている風を装う。 「分からないな。あなたと故人の名誉を守りたかったということかね?」 「それもなくはないが、他に温めていた計画がありましたので。実を言うと、 加川先輩と私とで、推理小説の合作を進めていたのです」 「合作?」 落ち着き払っていた吉田刑事も、これには目を見開いた。予想の範囲外の答 だったと見える。 「犬猿の仲の二人が合作を書いたとなると、話題性充分でしょう。覆面作家を 演じて、正体を当てさせる企画も持ち上がっています」 「持ち上がっているということはつまり、現在も進行中なんですか」 「はい。だから、ばれる可能性を低くしたかった」 「ちょっと待った。加川さんが亡くなったのに、企画が進んでいるとは、理解 できない」 「作品は完成しているも同然なんですよ。合作といっても、協力するのはトリ ックやプロットなどで、執筆は全面的に私が受け持つ。まだ十分の一程度しか 書いてませんが、出版社からせっつかれていますよ。センセーショナルな内に 出したいとね。現実的、常識的には、一周忌を目処にするのが妥当だと思いま すけど」 「なるほど。舞台裏はよく分かりました。だが、あなたと加川さんとが普段か ら懇意にしていたとなると、私どもも看過できない疑問を抱えておりましてな」 「これはこれは、おかしなことを」 ぎょっとしつつ、余裕ある口ぶりで応じる推理作家。 「むしろ逆だと思ったのですがね。私には加川先輩を殺害する動機がない。容 疑は晴れたと」 「そいつは、これからの質問に納得のいく説明をしてもらえたら、考えてもい い。事件当日――厳密には加川さんの死んだ時刻は深夜だから前日となるが、 製氷業者から加川さんの別荘へ氷が運ばれている。まな板を分厚くしたような 形状の氷を二十四枚も。運んだのはそこいらでしょっちゅう見掛ける宅配業者 なので、第三者の注意を引かずに済んだようだが、ようやく突き止めた」 「氷を何に使ったかって? トリックの実験に使いました」 「ほう。どうして加川さんの別荘で実験を?」 「そりゃあ、合作用のトリックですし、当日はファンが私の別荘に集まるから、 見られちゃまずい」 「合作は完成したも同然だったのに、トリックの実験ですか」 刑事の皮肉な物言いに、久はかちんと来た。反射的に答える。 「第二作を考えていたんでね」 「実験を行う日を、ファンの集う日にわざわざ重ねなくてもいいんじゃありま せんか」 「加川さんの都合だ」 「久さん、あなたは事件当日、加川さんの別荘に行ったことになる。トリック の実験はいつしたんです? 配達は時間帯指定で、午後十時以降との記録があ る。実際の配達は、午後十時三十二分となっていた。保冷剤入りの容器や加川 さんの冷蔵庫にある冷凍庫で保管するにしても、さして長持ちしないでしょう」 「それは……」 今度は答がとっさに出て来ない。急遽延期したという言い逃れはどうか? いやいや、氷を注文してまで計画した実験なのだ、通用しまい。 久の頭脳に名案が降りて来ぬ内に、刑事は追及を強めた。 「ファンを対象とした犯人当てを、日付が変わって午前一時から催す段取りに なっていたにも拘わらず、氷の配達は午後十時以降に指定している。おかしな 話ですな。こんなぎゅうぎゅうのスケジュール、こなせるとは考えられん。昼 間の暇なときにやればいい」 「……」 「久さん。あなたの話を全て認めると、辻褄の合う解釈はこうなる。ファンと の集いで、あなたの身体が空いたのは、午前0時からの約五十分。その間に加 川さんの別荘に出向いて、トリックの実験を行い、帰って来た。そしてその後、 何者かが加川さんの別荘に侵入し、彼を殺害した。縛り上げ、口にガムテープ を貼り、面倒を顧みず、逆さ吊りにまでして。 我々警察は、よりすっきりした解釈を採りたいと考えている。午前0時から の空いた時間、あなたは加川さんを別荘に訪ね、トリックの実験ではなく、本 当にトリックを用いて、彼を溺死せしめた。水道が断水していても、氷を使え ば可能だ」 「客観的には、確かに不可解かもしれない」 久は意を決し、最後の抵抗を試みた。握りしめた両手の内側に、汗がじわり とにじむ。 「私が退出した直後に、別の人間がやって来て、加川先輩を奇妙な方法で殺害 したなど、信じられない話だろう。しかし、事実はそうに違いない。私はやっ ていないのだから」 「あくまで、犯人ではないと主張する?」 「ああ。証拠がないだろう」 「あ、その点ですがね。パーフェクトな物証とは呼べないが、あることはある。 被害者は、あなたの名前を書き残していた」 「な……嘘だ」 残せるはずがない! 出かかった叫びを飲み込む。 「嘘ではない。加川さんは指紋を使い、浴室の壁に痕跡を付けていた。いつ書 いたかは知れない。が、いつであろうと、あなたには見えまいがね」 呆然とする久の耳に、届いていたはずの刑事の言葉が、徐々に不明瞭になっ た。 代わって屋外より聞こえてきたのは、雨音。 ――終わり
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