●短編 #0316の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
五月病というのは新社会人や大学一年生にのみ適用する、みたいな説明を聞 いた覚えがある。 けれども、高校生にまで範囲を広げるべきと思う。他ならぬ自分自身が、ま さに経験しているところなのだから。 大型連休が明けてしばらく経った五月中旬、思い描いていた高校生活と実際 とのギャップに直面し、世間でいうところの五月病の状態になっていた。 もちろん、平凡な容姿で愛嬌があるでもなし、運動も芸術も人並みな己を知 っているから、過度の期待や幻想なんか抱いていなかった。中学時代に嫌な思 い出があって、心機一転、生まれ変わった気で――と考えていたわけでもない。 でもまあ、第一志望だった私立の進学校を、不本意な形で落ちたことが、頭 の片隅に引っ掛かっていたのは、否定できない。地元の公立高校に入り、友達 数名との付き合いが続くのはいいのだが、勉強に限って言えば、やはりレベル が……。 ただ、自己分析してみるに、五月病の原因はそれだけではない気がする。勉 強なら、塾なり家庭教師なりで補えるのだし、現にそうしている。 他に理由を探し、一つ、思い当たった。それは――子供っぽいと言われるだ ろうけど――好みのタイプの異性が近くにいないという環境にあるのではない か、ということ。 自分が特に惚れっぽい質とは考えていないが、振り返ってみると、小中の九 年間を通じて、同じクラスに好きなタイプの子が常にいた。いや、同一人物で はないのだから、いたと言うよりも、見付けたと表現するのが正確か。 だが、今現在、同じクラスは疎か、同級生の中にも、好みのタイプを見付け られないでいるのだ。しかも自分は――改めて考えると少々厄介にも――、同 じ学年でないとあまり関心を持てないらしい。たとえ一歳であろうと、上下ど ちらかにずれていると、だめなのだ。 ちなみに、中学三年のときにいいなと思った同級生は、別の高校に行ってし まった。こうなると分かっていたら、卒業前に玉砕覚悟でも告白しとくべきだ ったかもしれない。 ……余計に憂鬱になってきた。五月病から抜け出すために、自己分析をこう して文章にしてみたのに、逆効果だ。 遊び慣れていれば、気晴らしをいくらでも思い付くんだろうけど、生憎と真 面目人間で通してきた。それが面に出るのか、これまで友達に誘われたのも、 映画やプールといった極健全なものばかりだ。一番羽目を外したのがスポーツ 観戦で、それも一度きり。コンサートは当たり前のように断っていた。高校入 学後は、まだこれといった遊びに出掛けていない。連休は家族ぐるみで父親の 実家に行き、費やした。 ああ……このままずるずると引きずるようなら、何かのクラブに入ることを 考えないといけないかもしれない。どんなことでもいいから、張り合いが必要。 これまで部活というものをしたことがないので、少し不安はあるけれども。 * * 今日、学校へ行く途中、電車で一人の女の子を見かけた。 女の子といっても、制服から高校生と分かる。学校は違うけれど、多分、新 入生。溌剌とした雰囲気が、そう思わせる。五月病になっていなければ、僕も きっと、あんな感じだったろう。 それよりも重要なのは、その子が好みにぴたりと当てはまることだ。ぱっと 見はボーイッシュで、ポニーテールが活発な印象を与えるのだけれども、顔立 ちやスタイルはとても女性らしい。凛々しい美少女だ。あの子がアイドルだっ たらどんなにいいか。人気が出ること間違いない。 駆け込み乗車でもないのに、乗ってくるとき息を切らし気味だったのは、恐 らくプラットフォームまで走ってきて、電車を待っていたから。学校へはいつ もこの電車を利用する僕が今朝初めて見かけたことと合わせると、日直か朝練 に遅れそうになって慌てていたか、少なくとも乗り慣れない電車で感覚が掴め ていなかったのだと思う。 座席はいくつかまだ空いていたのに、座ろうとせず、外の風景を眺めるよう な仕種をしていた。と、そのとき不意に携帯電話の着信音がし、彼女はびっく りしたみたいに背筋を伸ばした。 それから携帯電話を取り出すと、恥ずかしそうにしつつ、そそくさと電源を 切り、仕舞った。 たったこれだけの出来事が、僕に好感を抱かせるのには充分過ぎた。今まで、 電車内で携帯電話が掛かってくると、たいした用事でもなさそうなのに、平気 で喋り続ける女子生徒ばかり見てきた(気がする)だけに、新鮮に映った。 その女の子は、僕よりも先に降りた。僕は駅名を覚え、学校に着いてから詳 しそうな友達に聞いてみた。「**駅が最寄りの高校ってどこだっけ?」 返って来た答は有数の進学校で、伝統校でもある緑星。当然、僕も知ってい る。かつて、私立受験の志望校を選ぶ際、リストアップした中の一つだ。担任 に、合否ライン上の際どいところだと言われ、あきらめた経緯がある。 「緑星のかわいい子でも見かけて、気になったか?」 「冗談だろ」 友達からの問いを、僕は即座に否定した。 「制服の子に説教している偉そうな大人を見かけたんだよ。二人が同じ駅で降 りるから、ああ、あの大人は教師なんだなと思ってね」 「別にどこの教師だろうと、うちには関係ないのに」 呆れた物腰で言われた。僕の本心を隠すことにはどうやら成功した。 * * こんな気持ちになるのは初めてだ。 通学途中に初めて見かけて以来、あの女の子のことが頭から離れない。自分 にこういう一面があるなんて、自分でも意外だ。 あれからずっと、彼女とは同じ電車の同じ車両に乗り合わせている。帰りが 一緒になることはなかったが、でも学校のある日は必ず彼女に会える。そのこ とが自分を楽しくさせた。 おかげで五月病による憂鬱さは薄らいだ。薄らいだものの、別のもやもやが 心の中に形成されつつある気がする。 一つだけ残念に思ったのは、彼女がどうやら二年生であるらしいこと。朝、 彼女と乗り合わせる度にそれとなく見て、学年章らしき物が確認できてしまっ たのだ(だから本当は女の子と呼ぶのは失礼であるけれど、そう呼びたくなる 可憐さを持っているのだ。仕方がない)。 彼女のような人なら、年上でもかまわない。同学年の異性でないとだめ、な んていう考え方も克服できそうだ。 彼女にはまだ話し掛けていない。十五分足らずの極々短い旅では、会話のき っかけすら掴めないでいる。せめて下校時なら、時間を気にする必要が少ない 分、声を掛けやすいと思うのだけれど。 学校帰りに時間を作って、一度、彼女の降りる駅で待ってみようか。帰り道 の彼女と巡り会う確率は高くも低くもなさそうだが、もし会えたら、思い切っ て話し掛ける……たとえできなくても、彼女の下校時間のパターンが分かれば、 次からは自分が時間を合わせることで、チャンスを増やせるはず。一週間ぐら い掛ければ、より完璧になるだろう。 そうと決まったら、早い内に実行に移さないと。何せ、彼女が登校の際、自 分と同じ電車に乗るのは、ここ数日だけのことなのかもしれないのだから。 * * どうしようか迷っていた気持ちに踏ん切りを付けた。 思い切って声を掛ける前に、彼女に関する情報が少しでもあった方がいい。 そう考えて、登下校で彼女と乗り合わせる可能性がありそうな者を片端から 掴まえ、尋ねてみた。緑星の生徒でこういう感じの美人を見たことがないか? と。 すると、やはりあの存在は目立つのだろう、そこそこの“目撃証言”が得ら れた。そればかりか、一部の間ではかなりの有名人と分かった。 あの緑星高校の子は、涼原純子という二年生で、モデルや芸能活動の経験が あるらしい。それを聞き、大いに納得すると同時に、やったと心の中でガッツ ポーズもした。本当にアイドル(の卵)だったんだ。 と、いうことは……早めの登校は、今現在、彼女が請け負っている仕事と関 係あるのだろうか。早朝の撮影があり、自宅に戻ると間に合わないから、その まま学校に向かう――ありそうな状況ではないか。 もしこの想像が当たっているとしたら、いつ、車内で会えなくなるか、知れ たものでない。 さらに聞き込んだところでは、下校の際には、所属事務所のよこした車が迎 えに来ることもしばしばあるとの話だった。 尤も、車の迎え云々は所詮、他校でのことだから不確定な噂だ。とは言え、 下校途中の彼女をキャッチするのは、朝以上に難しいと受け止めるべき。これ は、急いで行動を起こさねば。機会を逃しかねない。 声を掛けたときに好印象を与えるため、学校が終わったら、まずは理髪店へ 直行しよう。そう決意した。 心が躍り出すような感覚が沸き起こる。 * * よし、今日こそはと気負い気味に電車に乗り込む。 そして、彼女が乗って来るであろうドアの、入ってすぐ右の席を確保できた。 よい兆しかもしれない。この位置関係なら、いくらでもきっかけを作れる。そ う信じて、駅到着を待つ。 待ち遠しいことを待つ間、時計を見つめていると、秒針の動きが遅く感じら れる。それと同じ心理なのか、今日は窓の外を流れる景色が、些かゆっくりし ているような気がしてきた。 だが、車両が駅に着いて停止したとき、遅れはなく、定刻通りだった。 腕時計から目を離し、左肩後方のドアが開く気配を感じる。一人だけ降りる 客がいて、そのあと数名が乗ってきた。 彼女の姿を探す。すぐに見付けられた。いつものように、反対側のドアの際 まで行き、きれいな立ち姿で発車を待つ。 乗ってくる客が彼女一人だったら、軽く鞄でもぶつけて、謝ることからきっ かけを作ろうと思っていたのだけれども、その作戦は未遂に終わった。折角の 好位置キープが、役立てられない。 電車が動き出した。他に考えておいた作戦は、シャープペンでも落として、 彼女の方に転がすというものだが……。 ちらと窺うと、彼女は単語帳を取り出し、暗記を始めたらしかった。 そういえばじきに定期試験かと思いつつ、自分も勉強のふりをしようと、鞄 の蓋を開けた。一連の動作で、スムーズにペンを落とし、なおかつ、彼女の立 つドアの方へとうまく転がさねばならない。 ノートを取り出し、次はペンをというところで、前を人影が横切った。この 時間帯、座席数と乗客数はほぼバランスが取れていて、移動する人は珍しい。 何事かと、顔を起こすと、背広を着た一人の男性が、彼女に話し掛けているじ ゃないか。 次の瞬間、無意識に「あ」と声を漏らしていたかもしれない。 男性の後ろ姿に見覚えがある。自分の通う高校の教師だ。担当教科は歴史で、 名前は矢野(やの)といった。割と男前で、女子の間で人気がある。眉毛が太 く、精力的な感じがする、のだそうだ。 教師が他校の生徒に一体どんな用事? 電車の振動音を邪魔に感じながら、 聞き耳を立てる。 「――高校の者なんだが、涼原純子さん、君は芸能活動をしているらしいね」 「はい。それが何でしょう?」 「うちの文化祭実行委員会が、今年の文化祭に君を呼ぼうという案を持ってい るんだ。無論、緑星の生徒さんではなく、芸能人として。それを聞かされたの で、許可を出す立場だし、どういう人なのか知っておこうと考えたわけだ。い くつか質問をさせてほしいんだが、いいかね?」 「ええ、かまいません。でも、今はこういう状況ですし、登校中ですし……」 「だろうね。僕もそう言われるのは覚悟していた。そちらの学校が終わったあ と、話を聞けるといいんだが」 矢野先生の持ち掛けに、彼女はスケジュールを確かめた。 「ちょうど今日なら大丈夫です。」 「よかった。それじゃあ――」 鉄橋に差し掛かり、続く会話は全く聞き取れなかった。恐らく、会う約束を 取り付けたに違いない。 矢野先生は彼女から離れると、こっちに気付くこともなく、元いた方角へと 歩き去った。横顔が、どことなく満足した笑みをたたえている風に見えた。 * * 授業のない空き時間を利して、プリントのコピーを担当クラス分だけする。 機械が単調なリズムで用紙を吐き出すのを見つめながら、今朝の出来事を思 い出し、口元がわずかながら緩んだ。 念願の接触をやっと果たし、話も順調に運んだ。第一関門は軽くパスといっ たところか。踏み出してみると、思いの外、簡単だった。 この調子なら、今日の放課後に会ったあとも、うまく行くに違いない。一気 に進めようなんて考えないことだ。じっくり、焦らずに。文化祭のひと月ぐら い前までなら、余裕で引っ張れるだろう。 算段を思い描いていると、コピー機が不意に止まった。単調な機械音が止ま り、代わりにランプの点滅を伴う高い警告音が鳴り始める。紙詰まりを起こし ていた。 折角、気分よかったのに……。ぶつぶつ言いながら、コピー機のカバーを開 けてみた。 慣れない作業に苦戦する。だいたい、手が汚れるのは嫌だ。間違ってインク が付かないよう、ミスをした用紙を屑籠から拾って、指先をガードする。 改めてコピー機に向かおうとしたところ、背後に人の気配を感じた。振り返 ると、生徒が一人。 「――えっと、一年の……三石(みついし)じゃないか。こんな時間に何をし ている。授業はどうした?」 「体育です。今日は大手を振って休める日だから」 「それにしたって見学しとかないとだめだろ」 「お腹の具合が悪くなったと言って、抜けてきたんです」 三石は閉じかけのドアにもたれるように、後ろ手でノブを握ったままの姿勢 でいる。 「今の内に話をした方が、先生のためだと思ったし」 「何のことだ、三石」 目を丸くしてみせ、微笑を浮かべながら応じた。しかし、色恋あるいはそれ と見せ掛けたからかいではないことぐらい、とうに理解している。まだひと月 ほど授業を受け持っただけの生徒が、どういった用件で現れたのか。 「最初に言っておきますけど、ドアを開けていれば、ちょっとした騒ぎでも、 近くの教室に音や声は届きます」 「おいおい、妙なことを」 「今朝、電車の中で矢野先生をお見かけしました」 「そうか」 なるほど。ということは、あれを目撃されたか? 気付かないとは我ながら 迂闊だった。涼原純子に接触することで、頭がいっぱいだったかもしれない。 先手を打つべきか迷ったが、相手がしばらく黙っていたので、仕方なくこち らから口を開いた。 「他校の女生徒に声を掛けていたところを見たんだね? 誤解するな。あれは、 文化祭に出てもらうためにだな、早めの交渉を……ほら、近くの高校に通う子 なら、予算も抑えられそうだし」 「おかしいな。聞こえてきた話と、ちょっと違う」 見られたのみならず、まさか会話の内容を聞かれるまでしていたとは。 だが、相手は一年生。ごまかしようはいくらでもある。音量を抑えて言い繕 う。 「ああ、発案したのは僕じゃないってことかな? 確かにその通り。文化祭の 実行委員会が発案し、それを受けて、ついでのあった僕があの子に話を持ち掛 けてみたんだよ」 「それもおかしい。だって、まだ実行委員会なんて組織されてないじゃないで すか。前もって、聞いておきましたから。あ、それとも、去年の実行委員会が まだ活動してるんですか」 「去年、そういう話が出たんだ。『来年は涼原純子を呼ぶのもいいね』と」 「だったら、何で今頃。早めに交渉すればいいのに」 「それは……」 他にも候補が、とでも言い訳しようと考えたが、やめた。この子には見抜か れている。逡巡は三十秒ほどだったろうか、僕は認めた。 「分かった。だけどな、三石。今、おまえの想像していること、それは違うん だ。不純な関係を結ぼうと思ったんじゃない」 「ええ、分かってます」 意外な返事に、僕は自分の顔が変に強張るのを覚えた。 「最初は確かにそう考えたんですけどね。他の先生方から聞きましたよー。矢 野先生って、見た目と違って、アイドルオタクなんだって。本人は隠している つもりでも、ばればれみたい。気を付けた方が」 「ば、ばれているのなら、今更気を付けてもしょうがないだろうが」 何てことだ。友達だけでなく、同僚全員に知れ渡っているのか。知らないふ りをしていたというのか……。このあと、職員室に帰りづらい。 「とりあえず、誤解していないのならいい。いいということにしておく」 呼吸を整えてから、僕は三石に尋ねた。 「それで、おまえの目的は何なんだ? からかいに来たにしては、このタイミ ングはおかしいし、見学をずるして抜け出すほどのことじゃあない」 すると、三石はこの質問を待っていたかのように、にっこりと笑った。 「実はですね――」 * * 学校が終わると、いつものように最寄り駅まで向かう。気付くと、いつもよ り早足になっていた。いつものプラットフォームに立つ。程なくしてやって来 た電車に乗った。 降りる駅はいつもと違って、緑星高校の最寄り駅。 矢野先生(呼び捨てにしていいくらいだけど、メリットもあったから帳消し にしてあげる)自身がそうするつもりだったのだろう、タクシーで行くように 代金を握らせようとしてきたが、断って、緑星高校までの道順を教えてもらっ た。 先生の打ち明けたところによると、あの彼女――涼原純子さんを校門前で待 たせているという。自然と急ぎ足になった。 どのくらい歩いただろう。時計を見る動作すらも惜しい。ほら、もう校舎が 見えてきた。 すれ違う同じ年頃の子は、皆、緑星の制服に身を包んでいる。きっと、自分 は目立っている。でも、かまわない。 校門の柱が一本だけ視界に入った。それが二本になる。 と、涼原さんがいた! 遠くから目を懲らすと、女子生徒二人に男子生徒一人が彼女のそばに立って、 言葉を交わしている。矢野先生の話の持って行き方は、やはり警戒されたのか もしれない。そう考えて、密かに苦笑してしまう。 いけない。立ち止まって表情を引き締め、さらに顔を触って確かめてから、 改めて踏み出した。 かなり接近した。もういいだろうか。いや、あともう少し。距離が目算で五 メートルになったとき、声を発した。 「あのっ」 裏返りそうになるのを修正し、続ける。 「涼原純子さんですね? **高校の矢野先生の使いで来ました、三石ひかる です、初めまして」 一息にそこまで喋ると、「あ、初めまして」と戸惑い加減の返事があった。 電車内だと今ひとつ聞き取れなかった声が、ちゃんと聞けた。愛らしさと芯の 強さとが同居したような声質は、想像していたどんな声よりも耳に心地いい。 「あの矢野さんという先生は、用事か何かで来られなくなったのですか」 友達の輪から一歩進み出て、彼女が尋ねてくる。 「それなんですが、今朝の話はなかったことに……」 「え?」 「矢野先生が思い込みから勇み足をした形なんです。去年の文化祭の打上で、 来年はああしたいこうしたいねっていう話が出たんだそうです。そのときのこ とを、どう勘違いしたのか、決定と思って、先生が先走ってしまいました。本 当に、申し訳ありません」 前もって考えておいた台詞を淀みなく吐き出し、頭を深く下げた。矢野先生 が今後接近できないよう、しっかり切っておかなくては。 「矢野先生は役目を外れます。今年は改めて意見を集約して、再び涼原さんの 名前が挙がれば、ご連絡を……ということに。改めてお願いすることになった ときは、今回のことで気を悪くされたと思いますが、どうかご検討いただけた ら嬉しいです」 「はぁ」 返ってきた声の響きは、戸惑いの色を濃くしている。 怒っていないだろうか。降って湧いた折角のチャンスを無にしたくない。恐 る恐る、表情を窺う。 「待ってます」 笑顔があった。それから何故か、手を合わせられた。今度はこちらが戸惑う 番。 「ごめんね。今はまだ、連絡先を教えられないけれど、近くなんだからいつで も会えると思う」 「あ、全然、かまいません! えっと、電車で登校してるところ、見たことあ りますし」 「見たって、私を?」 きょとんとして自分自身を指差す涼原さん。その仕種すら、自然でかわいら しくてきれいだった。 「はい」 何度も見かけてます、と言いそうになって、それはやめた。 と、そこへ、後ろにいる涼原さんの友達の内、小柄な方の女子生徒が口を開 いた。 「やっぱり、気付く人は気付いているものです」 「今以上に顔が売れて騒がれないように、仕事をセーブしないと」 もう一人の女子生徒が同調する。唯一の男子は沈黙を守っているが、微かに 頷いたように見えた。そして涼原さんは、困った風にため息をつく。 状況がよく分からないけど、自分としては涼原さんを応援したい気持ちがあ る一方で、あまり有名にならないでほしい気も……複雑だ。 「あ、あの。自分、実行委員になれるか分からないですけど、なれたら、絶対 に涼原さんを招くように推薦します。そしてお願いに来ます!」 「――ありがとう」 これは大きな目標ができた。五月病はじきに完治する。 「じゃ、じゃあ、失礼します」 きびすを返して走り去ろうとすると、背後から呼び止められた。 「あ、三石さん? 駅まで行くのなら、一緒に――」 そうか。言われてみれば。 一瞬、顔が熱くなるのを感じた。しかし、恥ずかしさを嬉しさが上回った。 スカートを翻し、涼原さん達へと向き直った。 ――終わり
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