●短編 #0292の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
The Rose of Westfield 上野丘陵の西方に、西ヶ原ローズという美女がいた。 私が初めて見かけたのは1990年代の初頭である。もう十五年も前のことになる。 私は霜降り通りで何度かすれ違い、そのたびに振り返っては声をかけようかどうかと逡 巡した。私は今も昔も辞書を片手間の一介の療養者。けれど彼女のことを知りたくて友 達になりたかったのだ。しかし見かけるたびにそれが出来ぬまま今日まで来た。私はそ れを悲しく後悔する。 ローズの背丈は165センチ位、透けた羽根をもつ妖精のようだった。 大きな澄んだ瞳が純正ガラスの、本国人の天賦の美少女だった。すらりとした姿勢は行 儀がよく、髪はふさふさとして肩まであった。スカートの下の二本の足は人形のように まっすぐで長かった。 そしていつ街角で見かけても、例外なく共布で出来た上下のスーツに革靴を履いてい た。何をしている人だろう。銀行の行員だろうか? 横丁のちょっとした買い物にもつっ かけサンダルではなく、正式の革靴を履いてスーツ姿で出かける。そんなところが、と ても神秘的だった。つまり正装はローズの体表と化した鎧であり何ものかだったのであ る。恐らくは家のなかでもそのままの正装だったのである。 (家でスーツ姿で乳飲み子を抱けるはずもあるまい。彼女は子のない独身なのだ) 私はそう思った。彼女の美貌は近隣一帯に知れ渡り、西ヶ原の薔薇と呼ばれるにふさわ しかった。この丘陵の西方には妖精が棲む。もしも英国の駐留軍がいたら、放ってはお くまい。妖精の美は優しく、利発で、ドリーミィだ。そして彼女の美を好んで本国から イングリッシュローズの花束を庭ごと届けたであろう。それは確かに馥郁たる真白き薔 薇の精だ。 とはいえ、私は彼女のことを何も知らない。まして彼女の伴侶を、私は知らない。けれ ど、西ヶ原ローズは、何か難のあった人だった。私は彼女が誰かと連れだって歩く姿を いちども見かけなかった。いつだってローズは独りで歩いていた。 そろそろ十年の歳月が過ぎた。 その間、私は我が身ひとつ変えることが出来なかった。 西暦2000年を越えたとき、ローズは寠(やつ)れてどこか具合が悪そうだっ た。冬空に木枯らしが吹くまま、上着の両ポケットに手を入れて猫背で早歩きしてい た。 (どこか悪いんだな)と私は思った。 それから三年前の2004年ともなると、西ヶ原ローズは老化と病気がますます進行し ているようだった。 (かなり悪いようだ)と私は思った。 それでも二年前や一年前だったら、何とか美貌は間に合った。六ヶ月後の今年の春、 (なんて変わりようだ) 私は驚いた。 顔の皮膚は黄ばんでたるみ、髪は白髪をぼうぼうとさせて艶もない。あれほど気品のあ った両目は虚ろな目つきになり、茶色い老人斑が痩せた顔のあちこちに出来ていた。こ れが同じあの人だろうか。なによりもあんなに真っ直ぐだった両足が樽を曲げたように 曲がってO脚化していたのである。 私は霜降り通りを歩いていく老婆の後ろ姿を、ぼうぜんと立ち止まって見送った。 (彼女は晩年を老醜で終えていく) 家に帰って寝そべりながら、私は震撼した。 だれからそんなにむごくあしらわれたのか。醜悪なものに繰り返し繰り返し猛威をふる われて、さしもの美神も巨木倒れて朽ち折れたのだ。しかも、寸分も変わらぬのは、今 も昔も同じ彼女の髪型とスーツ姿だった。ローズは、今でも独りで歩いていた。 (嘘だろう。今度会うときはまだまだ若いローズと会えるんだろう? 声をかければすぐに も微笑んで柔らかく答えるんだろう?) 私は両目がじんとした。 (いやいや、もう終わりだよ)と、歳の神の手先が言う。 私は無念に燃えて尋ねた。 (でも、すべての美は此の世で何かが出来たはず。あの人の美は何が出来た?折角あれほ どの美に生まれついて。) 手先は答えなかった。 もしもローズが醜落しなければ、彼女のことだ、出色した何らかの愛の逸話と共に、ジ ンパハザードもなく、せめてこの地で無事暮らしていると誰しもが思っただろう。そし て私はそれ以上知ることの出来ない人を言うこともなかっただろう。 私は30メートル上空の雲間にてんてんとジンパアンテナの発射照準を見上げる。 この全天下に沈む家並のなか、ローズの居宅のま近な四方に魔神の基地局があるはず だ。基地局の下す懲罰の理由は出色して美しすぎること。そんな出色が災いして人工知 能のネット中枢になんらかの悪い密告があった。彼女は逃げ場もなく加醜の裁判にかけ られたのだ。羽根をもがれ、潰され、そして西ヶ原の薔薇が醜落したとき、追随する 下々の美は許されることなく、次々と醜落せしめられた。そんな凄惨な妖精の美が、何 体か、四つ角で汚物にまみれて這いつくばっている。あとはいかな美神もその他大勢の 凡庸に溶けこんでゆくだけ。歳のむこうに一様に均(なら)されてゆくだけ……その歳 魔神の一理を、ローズの美は衆人にみせしめることが出来た。私はただただ忍び、歳魔 神の猛威をこらえるばかりだった。 刻限が来たようだ。ローズの醜落を境に同世代の大勢が同時に老いていった。 優美で優しかったローズは、もう、この町にはいない。 私は私のみならず西ヶ原の町全体が、小鳥も屋根瓦も煙突さえも、西ヶ原ローズの美の 面影を失ったことを悲しんだ。西日はこの惑星の天空の裾野を黄金のあかね色にひた し、そのなかに彼女の薔薇色の姿がはかなく溶け去るまで、紅深まるのを止めなかっ た。 思えば私はこの町に越して以来、西ヶ原ローズのいる特徴空間を歩いていた。 外語大学の防壁のたもとにキャンバスを立てかけて、我が有意識のみを描きとめた町の 絵のように。 雨の日も風の日も、この西ヶ原一帯のどこかに暮らす優しい人。 そしてあの頃、ローズはさりげなく、何度も何度も、春風のように私の傍らを通り過ぎ ていった。 私はローズの無言と共に、街角の月日がいつのまにか過ぎ去り、町一帯に老いの灰が降 りしきったことを知った。私たちはみな、同じ歳月を通過し、同じこの町の特徴空間を 走って老いていった。 西ヶ原ローズ。あなたの類稀な美の運命をここに銘記し、黙祷を捧げる。残る余生に幸 あれ。 注:特徴空間 特徴空間は、人間の視覚野の活動をディスプレィに表示したような空間。この特徴空間 には一人の人間によって記憶される個性的で重要な人物や場所がほとんどすべて含まれ る。特徴空間の作成には、心的情報処理をミリ秒単位で測定するような、人工知能の入 力が想定されている。 ある人が死没したのちも、保存処理によってこの空間は保存可能に思われる。 −了−
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