●短編 #0289の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「すみません!」 ステージの幕が完全に降り、足元まで隠したのを見届けてから、純子は舞台 袖を目指して駆け出した。 舞台上には、他にも大勢のモデルがいて混雑しているが、予めお願いをして いた御利益があったか、皆、通れるように道を空けてくれる。誰もがサンタク ロースのコスチューム――ただしミニスカートバージョン――なのは、クリス マスシーズンに合わせたファッションショー、そのグランドフィナーレがたっ た今、済んだところであるため。 「お先に失礼します。ありがとうございました」 デザイナーの前で立ち止まり、一礼。血も性別もハーフな感じのこの人にも、 ちゃんと話は伝わっている。「メリークリスマス。そしてよい年を」と、送り 出してくれた。ちなみに、サンタの衣装は全員にプレゼントされる。 一番に控室に入った純子だが、着替えようとはせず、逆に、カーディガンと コートを羽織る。舞台用の過度なメイクを落とし、化粧直しを終えると、取る ものもとりあえず、他の人達の間を縫うようにして、廊下に出た。 帰りのお客さん達で混み合っているであろう表玄関は当然避け、裏手に回る。 予約して置いたタクシーが待っていた。 タレント活動と違い、ファッションモデルの仕事には原則、マネージャーが 付かない。向こうの身体が空いていれば、送迎を頼むこともできるが、クリス マスシーズンともなると、そうは都合よく行かなかった。 タクシーの後部座席に乗り込み、行き先を告げる。 「お客さん、寒くないですか?」 ルームミラー越しに、運転手がびっくり顔になるのが分かった。 「はい。どちらかというと、走り回って暑いぐらい。コート、脱いでよろしい ですか」 運転の邪魔にならないよう、背中を丸くしてもぞもぞとコート、それからカ ーディガンも脱いだ。 思い返せば、朝から動きっぱなしだった。 久住淳として歌のプロモーション、風谷美羽として屋外イベント出演、お昼 を挟んでファッションショーの梯子をこなし、ようやく今からプライベートな 時間を持てる。 その割に一息つくこともなく、急いでいるのには理由がある。 (久しぶりに会える!) 恋人の顔を思い浮かべると、疲れも消し飛ぶ。相羽に会うため、これから新 幹線に乗って北上するのだ。 スケジュールは、最初に考えていたよりは押し気味だが、元々、遅れを見越 していたため、充分に間に合う。それでも気が急いてしまうのは、会いたさ故 に違いない。 「身繕いの時間、ほしいでしょ」 ドライバーの男性も心得たもので、事情を察すると、「近道を行きますね」 と告げた。 「はい。でも、最悪、発車時刻に間に合えばいいですから」 するとその時刻を問われた。純子が答えると、運転手は逆算する風に、「う まくすれば三十分、余裕ができますよ」と言った。 安全運転をお願いしようかと思った純子だが、先程からのハンドルさばきに 無謀なところは一つもない。むしろ、交通ルールをはみ出さない、模範的な運 転と言えそうだ。裏道めいたルートに入り、交通量ががくんと減ってからも、 スピードを無闇に上げるわけでもなく、走らせている。それでいて、経験に裏 打ちされた自信みたいなものが伝わって来た。 余計な口出しはせず、プロに任せておこうと思い直した。 やがてタクシーはビル街を抜け、宅地と工場、飲食店が混在するテリトリー に入った。賑わいのある方面から来ただけに、寂れたイメージが強くある。 と、その矢先。 「あ――停まって! 運転手さん」 窓から見えた様子に、ほぼ反射的に叫んだ純子。対して運転手は、ブレーキ を踏み込む。車体が前につんのめるような感覚もなく、きれいに停車した。そ れからおもむろに「何か?」と、目線をルームミラーへ。 「女の人が、急にしゃがみ込んで。道端で、苦しそうに見えたの。通り過ぎて しまったけれど、恐らく」 説明が言葉足らずになるのは、純子自身、よく把握できなかったため。 運転手の目はルームミラーからサイドミラーへいき、そして彼自身、身体を 捻って後ろを向いた。 「女性が歩いていたのは見ましたが……。それよりもまず、お客さんはどうし たいんでしょうか?」 「とりあえず、バックしてもらって――」 「いえ。そうではなくてですね、関わり合いになると、ことが長引けば、遅れ るかもしれませんよと」 年配者らしく、言い聞かせるような口ぶりになっていた。純子を正面からま じまじと見たことで、年齢を推し量ったようだ。 「えっと、それは」 一瞬、口ごもる純子。けれども、決断を下すのは早かった。 「たとえそうなっても、会うのが遅くなるだけです」 「――分かりました」 頷くが早いか、運転手は車両や人などの往来を確かめつつ、車を後退させた。 じきに、純子の目撃した人影を再度、見つけられた。歩道でうずくまり、や や前屈みになってお腹を抱えている。いや、さすっているのだろうか。そして その女性の子供なのだろう、幼稚園に入るか入らないかぐらいの女の子が、す ぐそばで表情をくしゃくしゃにしていた。今にも泣きそう。 「妊婦さんか。こりゃ、本格的にやばいかもしれん」 なるほど、運転手の言う通り、小柄なその女性のお腹は大きい。 「しかも子連れとなると……お客さんにも手伝ってもらわないと」 左側のドアが開いた。純子も運転手も降りるとすぐ、女性の元へ駆け寄った。 純子が子供に声を掛ける。すると、いっぱいにまで膨らんでいた風船が破裂 するみたいに、泣き出してしまった。事情を聞こうにも、「お母さんが、お母 さんが」と繰り返すばかり。 そのとき、すぐ後ろで女性の様子を見ていた運転手が言った。 「やはり妊婦さんだ」 本人から確認が取れたらしい。それにしてもこの運転手、男性なのに慣れた 雰囲気がある。おかげで、純子も落ち着けた。 だが、女性の苦しげな呼吸が、弱々しくも耳に届くと、緊急事態であること を改めて思い知らされる。 「救急車を呼んでる時間が惜しい。このまま病院に行くのがよさそうだ。お客 さん、すまないけど本当にいいね?」 「はい、もちろん。私はここで降ります」 女の子をなだめながら、純子は自分の手荷物を探った。携帯電話で別のタク シーを呼べば、どうにか遅れずに済むはず……。 ところが。 「うん?」 腕が突っ張る。その抵抗感に、下を見る。純子の赤い服の袖を、女の子がぎ ゅっと掴んでいた。見上げてくる視線は、新たに涙を溜めて、縋るよう。 「あ、あのね」 微笑みかける純子に、その子は声を大にした。 「行っちゃや!」 「えっ……と」 応対に窮する。その間にも、袖を握りしめる女の子の紅葉のような手には、 力がこもる。純子はひざを折って目の高さを合わせた。 「大丈夫よ。あの運転手のおじさんが、お母さんを病院に連れていってくれる から。もう大丈夫。泣かないで。泣いたら、お母さんが心配するわ」 安心させようと話し掛ける純子だが、女の子はそれに覆い被せてきた。 「サンタさん、お母さん助けて! サンタさん、できるでしょ?」 必死の言葉に、純子はやっと気が付いた。自分がコートとカーディガンを脱 いでいたことを。 病院の待合いロビーは、年の瀬が押し迫ろうが、クリスマスだろうが、関係 ない。片頬を押さえた青年、どこも悪くなさそうな恰幅のいいおばちゃん、互 いに包帯を巻いているにも拘わらず声高に議論している老人二人組、お見舞い を持った親子連れ……幅広い年齢層の人が行き交い、ひっきりなしに出入りす る。 「えらい災難だったね、お嬢さん」 横長のソファに並んで腰を下ろしていた運転手のおじさんは、缶コーヒーを 飲んで一息ついていた。ここに着いてしばらく話す内に、純子をお客さんでは なく、お嬢さんと呼ぶようになっている。 「仕方ないですね。それよりも、災難だなんて、この子に悪いわ」 前に立つ女の子に笑顔を向ける。両手をつなぎ、盛んに上下させて遊んでい る。だいぶ元気になったようだ。 言うまでもないが、当初は、産婦人科の分娩室前で待つつもりだった。でも、 そこがあまりにも気詰まりな空間だったせいか、女の子が一向に泣き止まず、 それならばと賑やかなロビーにやって来たわけ。効果は覿面で、程なくして泣 き止むと、それから五分も経たない内に、純子に遊んでくれるようせがむまで になった。 「親切な運転手さんらしくもない」 純子が冗談を口にすると、相手は照れ隠しなのだろう、「災難なんて言葉、 どうせがきには分かりゃしまい」と悪ぶった。それからコーヒーを飲み干し、 空き缶を両手で弄ぶ。 「そういえば……運転手さんは、お仕事に戻らなくても……?」 「ああ、それそれ、それですよ」 運転手は身体の向きを換えた。膝を揃え、純子に相談する。 「お嬢さん、いや、お客さん、どうしますか? 私も頼まれた仕事を途中で放 り出すのは本意じゃないが、稼ぎ時なんでねえ。いつまでもお客さんがここを 離れられないようだと、ちょっと」 「あ、ごめんなさい! 気付かなくて」 急に大きな声を出した純子に、女の子が手の動きを止める。それを見て取り、 純子の方から腕を動かす。 「そうですね……もう、絶対に間に合いませんよね。それこそ、サンタクロー スになってトナカイのそりで飛べたら、話は別ですけど」 台詞を区切ると、純子は立ち上がって運転手にお辞儀をした。つられたのか、 真似をしたのか、女の子も倣う。 「行ってください。我侭を聞いていただいた上に、付き合ってくれて……感謝 しています」 「かんしゃてます!」 知らないなりに、なぞる女の子。表面上は、すっかり元気になったようだ。 可愛らしい仕種に、思わず笑みがこぼれる。むしろ、こらえるのに一苦労だ。 「それならそれで、まったくかまわない。私はもう少しだけ、休んで行きます んで」 運転手は空き缶を屑入れに放ると、再び自動販売機の前に立った。財布から 小銭を取り出したところで、手が停まる。不意に振り向いた。 「ああ、そうだ、お客さん。その子の相手もいいが、他にすることあるのを忘 れちゃいませんか」 「……?」 「彼氏をやきもきさせたいのなら、これ以上、口出ししないよ」 「あっ!」 気付かされ、純子は女の子の手を離した。無意識の内に、口元を両手で覆う。 「電話してきます。――ちょっと待っててね」 女の子にもそう告げて、純子は天井に目をやった。公衆電話の在処を示す矢 印形の札が、すぐに見つかった。 * * 信一? 私です。今、時間は大丈夫? そう、よかった。それでね……え? ううん、携帯電話が壊れたんじゃないよ。病院から。――やだ、違うってば。 私は何ともないから。順番に話すとね。あ、先に肝心なことを言わなきゃ。ご めんねっ、そっちに着くの、遅れる。 ……あら。予想できてたって、どうして? ……雪でストップしてるの? そうよ、知らなかったわ。こっちはこっちで大変だったから、気にしている余 裕もなかった。 あーっ、でも、やっぱりごめんなさいっ。雪が降らなくても、遅れたの。 うん。タクシーには、ほぼ時間通りに乗れた。けれど、その途中で――。 え、あとでいい? でも……分かった、じゃあ、会ってから詳しく話すね。 そちらは寒いんでしょう? 風邪を引かないように……私? 私の方はミニ スカサンタ。ちょっと寒いかな。あはは。ちゃんと着替えなかったせいで、今 日、こうなってるしね。 うん? 暖かくなる言葉? え……。 うん――私も。 * * 送受器を戻し、そのままの姿勢で深呼吸を二、三度してから、純子は元いた ソファの方に歩き出した。顔が熱くなっているのが、肌に触れる空気で自分で もよく分かる。 「お、来た来た。思ったよりも早かったねえ。でも、顔が赤い」 運転手のおじさんは、すっかり、昔からの知り合いみたいになって、そんな 軽口を叩く。純子は自覚しているだけに、慌てて両手で頬を押さえた。 「恋人は何て言ってたのー?」 突然、低い位置からあどけない調子で問われ、純子は目を丸くした。女の子 が、純粋に質問という感じで見上げてくる。その視線に戸惑いつつ、純子は察 した。 「運転手さん、この子に余計なことを教えました?」 「お嬢さんがどこに電話を掛けに行ったのかと聞かれたので、正直に答えてし まったよ」 「もう……」 気を惹こうと、スカートの裾に手を伸ばそうとする女の子を、純子は抱きか かえた。顔を見合わせ、答える。 「私のことを愛してる、って」 女の子はオーバーに両手を上げ、「うわぁ。らぶらぶというの、それ?」と 返して来た。 「うん、そう」 小さい子が相手だからか、ストレートに言えた。 ちょうどその直後、見覚えのある看護婦さんがやって来て、「篠塚さん、篠 塚さんのお連れの方!」と声を張る。あの妊婦さんが「篠塚さん」なのだ。 返事をする女の子をそっと降ろし、運転手も含めて三人で駆け寄る。 「おめでとうございます。無事、ご出産です。元気な男の子ですよ」 「お母さんは?」 女の子が叫ぶようにして尋ねる。実際、飛び跳ねていた。 看護婦はゆっくりと答えた。「もちろん、元気よ。もう少ししたら、会える からね」 「よかったね」 女の子に声を掛ける。けれども、それは多分、届かなかっただろう。 心のどこかで、まだ不安が残っていたに違いない。女の子はまた少し泣いて、 そして笑い声を立てた。かと思うと、「サンタのおねえさん」と、純子の手を 引き、新生児室前に急ごうとする。 「考えてみたら、第三者が聞いちゃまずかったんじゃないかねえ」 その道すがら、まだ付き合ってくれている運転手がぽつりとこぼす。 「産まれた子が男か女かってのも、個人情報ってやつに入るだろうな」 「ええ。でも、みんな、許してくれると思いますよ」 「その通り。でないと、割に合わない。だいたい、あの奥さんが、旦那の連絡 先を言ってから分娩室に入ってくれりゃあ、こんな長々と付き合わされること にはならなかったんだ」 さも迷惑そうに話しているが、その目元に寄る皺を見れば、どんなにか喜ん でいるかが手に取るように伝わってくる。他人のことなのに。 純子は聞いてみた。 「失礼ですけど、運転手さんは、お子さんは?」 「ん? いますよ。娘が二人、息子が一人。息子が小学生になったばかりでね」 目元の皺が一層、深くなる。きっと、重ね合わせていたに違いない。妊婦さ んを目の当たりにしたときの、落ち着いた態度にも納得。 しばらく待つように言われた廊下で、また女の子と遊び始める。運転手の方 は、さすがに時間を気にし出した。腕時計をちらちら見やる。 「本当に、行ってください。あとは私一人で大丈夫ですから。さっき、言い忘 れましたけれど、新幹線は雪で遅れるのが決まったし」 「あ、何だ、そうなの。それじゃ、名残惜しいが、行かせてもらいましょ。お 客さんには悪いことをしたね」 「そんな。あの、それよりも、おいくらですか」 荷物を持ち換え、財布を探す純子。が、運転手の返事は意外だった。 「いくら? タクシー代のことか。取れませんよ、そんな。元々の約束は、駅 までだったのに」 「でも、病院に来ることになったのも、私がきっかけで……」 「いやいや。実は、お嬢さんが彼氏に電話をするときに、携帯電話を使ったら、 しっかり請求してやろうと思ってたんだけれどねえ。当たり前みたいに、公衆 電話に向かうから、こりゃあ、見た目だけじゃなく、中身もできたお嬢さんだ なと感心したんだ」 思いも寄らぬことで誉められ、一瞬、赤面する純子。首を左右に振った。 「そんな。それこそ当たり前です。貼り紙もありましたし」 「その当たり前が、なかなか。うちの娘達に見習わせてやりたいよ」 「と、とにかく、それとお代は別の話。お支払いさせてください。そもそも、 私が予約して、待っていただいていたんだから」 「……見かけによらず、頑固だ」 腕時計に視線を落とす運転手。右の爪先が、廊下のタイルを叩き始めた。 「こっちは、クリスマスの特別サービスと思って言ってるのに」 「――そのサービスを、お子さん達に。ね? いいアイディアだと思うなぁ」 純子の表情がぱっと明るくなる。提案された側は、爪先の動きをぴたりと止 め、しばし黙り込んだが、やがて言った。 「悪くない話だ。お客さん、それで行きましょう」 赤ちゃんの誕生に付き合ったばかりとあって、子供のことを持ち出されると 弱いらしい。 決着したところへ、看護婦が呼びに来た。グッドタイミング。 「サンタさん、行こっ」 新幹線には、予定よりも二時間余りあとに乗れた。これに雪での遅延が加わ るわけだから、三時間は遅れることになりそう。 おまけにこの季節に遅延が相俟って、指定席は完売。自由席への振り替えと なったが、二本、見送ったおかげで三連座席の廊下側に座れた。普段ならとも かく、色々とあった今日ばかりは、立ちっぱなしは辛すぎる。 シートに収まると、本を取り出し、しばらく目を通した。じきに瞼が重たく なってきた。 「眠……」 欠伸をこらえつつ、つぶやく。時間帯から言って、もう少ししたらお腹に何 か入れておきたい。ここで眠ってしまい、変則的な時間に食事を摂ると、健康 に悪い。モデルは身体が資本……誰かの言葉が蘇る。 (でも、眠たいなぁ。今からお弁当を食べて、さっさと眠る方がましかも) と、頭では考えるのだが、手はちっとも行動に移ろうとしない。隣の二席で 静かに会話を交わす、夫婦らしき六十代見当の男女にも気が引けた。 (一日ぐらい、いいかな) そう決めて、自らの意志で目をぎゅっと瞑る。その瞬間、お隣から「あっ」 という声が聞こえたかと思うと、鼻先を何かが横切る気配が。 反射的に目を開けた。状況を認識するよりも先に、右手が小さくて丸い物に 触れる。 「す、すみません。手元が……」 左隣の男性が、その年齢に似合わぬ狼狽えた調子で、話し掛けてくる。純子 は自分の右手を見て、すぐそばにある、白い“それ”を掴んだ。 「これ、ですね」 ペットボトルのキャップだった。開ける拍子か締める拍子かは知らないが、 手元が狂って飛ばしてしまったのだろう。 男性は平身低頭しながら受け取った。そのまま握りしめているのを、窓際の 奥さんらしき女性が、「あなた、栓をしないとこぼしますよ」と注意する。な のに、旦那さんが行動に移す前に、緑茶のペットボトルとキャップを取り上げ ると、手早く栓をする。世話を焼き、焼かれる様から二人の日常が見て取れ、 ついつい、頬がほころんでしまった。 「歳を取ると、手がおぼつかなくなりまして。お休みのところを妨げて、本当 に申し訳ない」 「いいえ、いいんですよ」 眠気が完全に飛んだわけではないが、悪い心地ではない。会話のきっかけが できて、ほっとした面もあった。 「それより、あの、このあと、お弁当を食べようと思ってるんですけれど…… 匂いとか、大丈夫です? それに席を離れられるのでしたら、ご迷惑かと……」 「どうぞ、遠慮なさらずに」 気のよさそうな笑顔で答える男性。その肩を奥さんがぽんと叩いた。 「あなた、折角なんですから、尋ねてみたら」 「あ、ああ。そうだなあ」 純子の耳にも二人のやり取りが届いた。観光名所への行き方でも聞かれるの かしらと、気持ち、身構える。仕事絡みで、全国各地に足を延ばした経験はあ っても、名所の類にはあまり縁がない。 男性は再び奥さんに背を叩かれ、一段、低めた声で言った。 「失礼ついでと言っては何ですが、えー、違っていたらすみません。お嬢さん は、いわゆるタレントをなさっているんじゃありませんか」 「……はあ」 意表を突かれた。このような熟年夫婦に知られているなんて。 「主にモデルですが。あとは歌とドラマ……」 「やっぱり。よかった」 暗くなった景色をバックに、鏡と化した窓ガラスが、奥さんの表情を映す。 目を細めて、何やら喜んでいる。 「ごめんなさいね。歳のせいか、お名前をどうしても思い出せなくて。確か、 風谷さん……?」 「はい。覚えてくださっていて、嬉しいです」 「実は、私達の孫が、あなたのファンなんですよ」 「あ、ありがとうございます」 「プライベートのところを掴まえて、こんなことをお願いするのは厚かましい のですが、サインをいただけたら、孫にとてもいいお土産に……」 丁寧な物腰に、かえって恐縮する。もとより、頼まれて断れるはずもない。 「はい、喜んで。書く物と、色紙の代わりになる何かがあれば……」 夫婦は少し相談し、サインペンと白いハンカチを用意した。 「お孫さんのお名前を教えてください」 「小百合、と言います。あ、まだ小さいですから、平仮名でお願いできますか」 リクエスト通り、ペンを走らせた純子。このようなシチュエーションでサイ ンをするのは初めて。新幹線とは言え、車体の揺れが気になり、ちょっぴり緊 張した。だが無事成功。 「これでいいですか」 「いいも悪いも。ありがとうございます。きっと、孫も大事にするでしょう」 旦那さんがハンカチを受け取り、それを更に奥さんへバトンパス。奥さんは 手荷物の鞄から、劇のパンフレットらしき大振りの冊子を取り出し、ハンカチ を広げたまま、丁寧に挟んだ。 「もう一つ、お願いが……写真を撮らせていただければ……」 「はい。ただ、他の方の迷惑にならないよう、デッキにでも」 と言ったものの、首を伸ばし気味にして望んでみると、移動しようにも、デ ッキは立っている乗客でいっぱいのようだ。 「座ったままでかまいませんか?」 「充分ですよ」 結局、その場でぱちり。都合三枚、写真に収まった。 感謝することしきりの夫婦とのお喋りは、二人の降りる駅まで続いた。 「あなた、そろそろ着きますよ」 「え? そうか、もう……。いやいや、最後まで付き合わせてしまいました。 重ね重ね、申し訳ない」 すっかり饒舌になった旦那さんは、それでも律儀に頭を下げる。純子は両手 を振って押し止めた。 「こちらこそ。楽しいお話、ありがとうございました」 通路に出やすいよう、席を立つ。ついでに、荷物を降ろすのも手伝った。次 は大きな駅で、降りる客も多い。見送りはここです済ませるしかない。 「ご親切にどうも。すっかり、世話になりましたな。これからも応援させても らいます」 夫婦が揃って腰を折る。純子も返礼した。 「よいクリスマス、よいお年を迎えてくださいね。さゆりちゃんにも応援よろ しくねって」 夫婦の姿が通路から見えなくなると、純子は席を窓際に移り、ガラスの向こ うを見通した。間髪入れず、プラットフォームを行く二人と目が合い、手を振 りながら目礼した。 姿が見えなくなるまでそうしているつもりだったけれど、旦那さんの方がこ ちらに気を取られて、足元が危なっかしい。程々のところで、笑顔とともに切 り上げた。 さて、通路側の座席下に置いたバッグを手繰り寄せ、本格的に座席を移動し たが、この駅では降りる人数が乗ってくる人数を圧倒したらしくて、車内は急 にがらんとした。ざわめきは変わらないが、人いきれがなくなった感じだ。 (……あ、お弁当) 忘れていた食事を思い出し、荷物を膝上に置いて中を探る。買っておいた駅 弁と飲み物を取り出すと、荷物は頭上の棚に置き直した。最前までは、スペー スが全くなかったのだ。 「いただきます」 習慣で、そう言ってから割箸を割る。その刹那、通路側から影が差した。 「見覚えがあると思い、来てみたら、やはり君か」 振り返った純子の視線と、その人物の台詞とがぶつかる。 「あれ? 地天馬さんじゃないですか」 顔見知りとばったり。箸をどうしようか、迷う。 地天馬にそんなことを気にする風はなく、シートを指差しながら聞いてきた。 「いかにも。ここは空いているのかな」 「ええ。どうぞ座ってください。凄い、素敵な偶然」 「今日の天候であれば、同じ方角に同じ手段で向かう場合、乗り合わせる確率 は通常よりぐんと高いに違いないがね」 「またそんな。でも、地天馬さんらしいです」 「僕は数字の信奉者じゃない。確率だけに頼っていると、痛い目を見かねない。 おっと、こんな話をしたいんじゃないんだ。確か、明日か明後日辺り、挙式だ と記憶しているが」 「はい。え、地天馬さん、都合がついたんですか?」 「いや、残念ながら。今も、事件絡みで動いていてね。元同業者だった男が、 立場を利用して犯罪に走った節がある。それを止めなければならない。もう一 つ、過冷却システムの付いた、ある冷蔵庫の持ち主を探している」 一瞬、頭の中で「華麗脚」という当て字をし、足を強調するポーズを取る絶 世の美女を想像した純子。が、冷蔵庫と聞いて理解できた。 「よく分かりませんが、とにかくお忙しいんですね」 「折角、招待してくれたのに、すまないと思う。返事が遅れたことも詫びねば ならないね。悪かった」 「気にしていないと思いますよ、信一……相羽君も。地天馬さんの仕事は、予 定が組めませんもん」 「そう言ってもらえると、気が楽になるよ。涼原さん、君は当然、これから相 羽君達のところに向かうんだね?」 「もちろんです」 「相羽君の方にも『おめでとう』と伝えてほしい。無論、いずれご家族に直接、 祝福に伺うつもりだけれど」 「はい、必ず伝えます。地天馬さんはクリスマスもお仕事なんですよね……立 ち入ったことを伺いますけど、家族や恋人と一緒に過ごす時間は?」 「巡り合わせに任せているね。クリスマスだから、お正月だから会おうという 考えは、ほとんどない」 「そうですか」 他人事とは言え、少ししょんぼり。 (地天馬さん本人はそれでいいかもしれないけれど、周りの人がかわいそう。 そもそも、恋人っているのかな。いたらさぞかし心配で大変だと思うわ) 俯きがちになった純子の横で、地天馬は前方の電光掲示に視線を投げつつ、 重ねて言った。 「ただ、昔は、一年三百六十五ないし三百六十六ある日々なんて、どれも同じ と見なしていたのに、今はそうでもなくなったかな。これまで様々な人から依 頼を受けて、生活を豊かにするにはめりはりというのか、区切りが必要と感じ た」 「そうですよね!」 「――そうだよ」 純子の力強い返事が、よほど意外だったのだろう。地天馬は一瞬、面食らっ た様子を見せたが、すぐに微笑を交えて肯定した。 「じゃ、私はここで」 降車駅が近付き、純子は席を立った。通路に出て、地天馬に手を差し出す。 「ついでですから、ごみ、持って行きます」 ちなみに食事は、地天馬も車内販売で弁当を購入し、一緒に済ませた。 「いや、僕も行こう。見送りたいからね。プラットフォームにいるかもしれな い相羽君と、わずかでも話せる可能性もあるし」 おおよその到着時刻が確定した段階で、相羽には電話を入れておいた。迎え に来ると言ってくれたが、新幹線がプラットフォームに滑り込む前に間に合わ せるには、ぎりぎりで厳しい。 デッキに移ってしばらくすると、窓の外を流れる街明かりがゆっくりとなり、 それからおもむろに駅の景色に転じた。二人のいるドアから降りる客は、他に いない。 「……どうやら、到着が早かったようだね」 地天馬の言う通り、プラットフォーム上に、相羽らしき人影は見当たらない。 乗って来る客自体、まばらなようだ。 「待っている間に、風邪を引かないように気を付けて。早く来てもらうように もう一度、電話してみてもいいかも――」 「大丈夫ですってば。降りて行けば暖かいし。急かして事故にでもなったら、 そちらの方が嫌だわ」 「なるほど。真理だ」 「地天馬さん。相羽君のことをとやかく言うのなら、地天馬さんも恋人を待た せないでくださいね」 純子が真っ直ぐに見つめながら、相手の胸元を指差す。地天馬は参ったとい う風に、肩をすくめた。 「依頼人が優先だが……努力するよ」 「約束ですよ。クリスマスの夜、電話をするぐらいの時間は取れますよね」 純子がそう言うのと同時に、車体が停まる。数秒の間をおき、開くドア。そ の向こうに人影はなし。 「それから」 純子はプラットフォームに降り立ち、振り返った。 「地天馬さんの仕事は、危険がつきものと分かっていますけど。でも、充分に 気を付けてください。無事、お祝いに来てくれないと怒りますから」 「ありがとう」 地天馬は続けて何か言ったようだが、ドアが閉まって、聞き取れなかった。 若干、焦りつつ、お辞儀をした。上体を起こしてから手を振ると、地天馬も片 手を上げて応えた。 新幹線が動き始め、加速していき、地天馬の立つ窓が見えなくなる。純子は 白い息を一つつくと、きびすを返し、階段を目指した。快適な車内から降りた ばかりで、さすがに寒い。特に指先が冷たくて、早速こすり合わせた。手袋の 用意はしているが、荷物を置いて取り出す手間を掛けるくらいなら、早く降り よう。 「あ」 階段に第一歩を掛けたとき、相羽の姿が目に入った。向こうも気付いている。 「遅かったか」 登ってこなくてもいいのに、相羽は駆け足になった。階段全体の三分の二ほ どの位置で出会う。 「荷物、持とうか」 「あ、うん。手袋、した方がいい?」 そんなやり取りから始まって、車に向かうまでの間、今日の出来事を順に、 ざっと話していく。 「――あっ、それでね、地天馬さんが『おめでとう』と伝えてほしいって」 「何だか、あの人と君が偶然、出逢ったというだけでも、大変な贈り物をもら った気がするよ」 「偶然だけれど、大変なと言うほどじゃないわ。だって、クリスマスだもの」 「それもそうかな。――あの黄色い車だよ。借り物だから、慣れなくて」 相羽の指差した軽四に、急いで乗り込む。暖かかった。 「それで、信一。おばさまは?」 出発の前に、最も聞いておきたいことを口にした純子。 相羽は苦笑をこぼした。 「とてもはしゃいでいるよ。二度目なのに、興奮しているのか、落ち着かない みたいだし。今になって、僕の気持ちを何度も確認してきた」 「うふふ。それは当然。再婚するお母さんの気持ち、分かってあげなさいね」 純子がおねえさんぶった口調で言うと、相羽は「ようく分かっています」と 返し、エンジンを掛けた。 ――『そばにいるだけで 〜 祝福を傍らに 〜 』おわり
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