#21/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 02/04/30 00:56 (308)
彼のちょっとした変化 <そばいる番外編> 寺嶋公香
★内容
長瀬は、高校でも何らかの運動部に入るつもりでいた。彼の本領は陸上競技
であるが、同校同部は市内一円でもトップクラスで、全国大会で充分通用する
レベルの選手も過去に何名か輩出しているほどだった。
よって……部活見学の際に、長瀬は半ばあきらめた。故障を抱えた自分がの
このこと入っていけるようなところではない、と。現在、走ったり跳ねたりす
る分に支障はないが、思い切り競技に打ち込んだとき、ひょっとしてまた怪我
をしてしまうのではないかというマイナス思考を、どうしても拭い去れない。
せめて長瀬が中学三年生の頃、大会で目を見張るような記録を出していれば、
待遇が違っていたかもしれないが、彼が中学校時代の記録は、ほとんどが一年
生のときのもので、ベストも一年の秋に叩き出していた。最も力を発揮するは
ずの三年時の記録は皆無に近く、あっても数字的に凡庸だ。怪我が直りきらな
い内に無理を重ね、故障癖を付けてしまった結果である。よいコーチ、よいト
レーナーに恵まれなかったと言えなくもないが、やはり自己の責任に帰する面
が大きい。
長瀬には、陸上が至上のもので、他のスポーツには目もくれないというよう
なところはない。だから、他の運動部も精力的に見て回った――主にやったこ
とのある球技を中心に。バスケットボールやバレーボール、野球にサッカー、
いずれも嫌いじゃない。小中学生の頃から打ち込んできた連中に比肩するとま
で大言壮語する気はないが、その背中に手が届くぐらいの能力があると自負し
てもいる。
だが、膝と靭帯に不安があるため、踏み切れなかった。団体競技の輪に加わ
る自信をいまいち持てなかったことも、一つの理由になろう。個人競技のある
運動部に目を向けるのは、自然の成り行きだった。
体操をするには未経験者であることに加えて、ばねが足りない気がした。格
技をやるのは親が反対しているので、なるべく避けねばならない。
残った選択肢は、テニスか水泳だった。
と言っても、最初の時点では、長瀬の眼中になかった運動部である。
テニスは、中学生時にテニス部員の唐沢と遊びで対戦して、こてんぱんにや
られたことがあり、以来、苦手意識を持ってしまっている。それにやはり、膝
への負担が大きそうだ。
水泳に対しては苦手意識はない。が、足を遠ざけたくなる理由が二つほどあ
った。「あった」というのは正確でない。「できた」とすべきだろう。
それは、長瀬が入学して三日目か四日目のことだった。
クラス揃って視聴覚室でパソコン利用の説明を受け、一旦は教室に帰ったの
だが、万年筆を忘れたことに気付き、取りに戻った。無事に忘れ物を見つけて
胸ポケットに収め、視聴覚室を出たとき、女の子の声が前の小部屋から聞こえ
た。
「と、届かない」
プリンター室とプレートの掛かった小部屋の戸口は空いていた。気にすると
いうほどでもなく、何とはなしに覗いてみる。
懸命に背伸びをしている女生徒がいた。小さいなというのが長瀬の抱いた第
一印象だった。
彼女は左の小脇に何かのちらし数枚を持ち、右手を上方向に一杯に伸ばして
いる。その指先を延長していくと、スチール製の棚の最上段に、A4だかB5
だかのコピー用紙が、茶色の紙に包まれたまま丸ごと載っている。
「両手じゃないと危ないか」
女生徒はつぶやき、ちらしを手近の長机の端に置くと、改めてポジション取
りをした。コピー用紙の真正面に立ち、足を揃えて、両腕を可能な限り、突き
上げる。
長瀬は思った。台になる物があるじゃないか、と。
確かに、踏み台はない。手頃な椅子も見当たらない。だが、長机をちょっと
移動させて、その上に乗れば、いくらあの子の背が低くても充分に届くはず。
にもかかわらず、女生徒は自分の身体一つでコピー用紙の獲得を期している
ようだ。
(もしかすると、高所恐怖症かもしれないな)
長瀬は好意的に解釈した。以前見たテレビで、インテリとして知られる芸能
人が、せいぜい一メートルほどの高さの脚立に昇れず、弱音を吐いていたのを
思い出した。
「手伝うよ」
女生徒のボーイッシュな顔立ちと髪型、それに必死の目を見て、自然と声を
掛けていた。
「あ」
相手がどうこう言わない内に、棚の斜め前に立つ。背伸びする必要もなく、
楽々と届く。両手で持つと、案外重量感があったが、それでも長瀬の腕力なら
問題ない。
「どこに置けばいい?」
「……じゃ、そこの机に。そう、機械の横の」
ほんの少しのためらいの間があったが、女生徒は適切に指示を出した。長瀬
は言われた通り、コピー機そばの長机に用紙の束を置いた。それも、なるべく
近いように端に寄せて。
「コピーしようと思ったら、紙が切れていたのよ」
照れ隠しなのか、非難口調で女生徒が言う。
「紙、俺が中に入れようか?」
「それは結構よ」
女生徒は包装を破ると、コピー用紙を半分がた取り、所定のトレイに収めた。
その合間に長瀬はちらしに目を留めた。初めてその内容を知る。クラブ活動
を勧誘するちらしだった。
「ふーん、水泳部……」
そして目を斜め下方に向ける。ちょうど女生徒もこちらを向いた。察した長
瀬はちらしを渡した。
「水泳部員なんだ? 早いね、もう部活を決めるなんて。入った早々、勧誘の
お手伝いとは人使いが荒いような気がしないでも――」
「ちょっと」
お礼の言葉を期待していたわけではないが、予想外のつっけんどんな調子で
応じられ、長瀬は幾度か瞬きをした。相手の顔をよく見ると、間違いなくむっ
とした風情が窺える。
「これを見なさい」
彼女は自らの制服の襟辺りを指差した。一瞬、胸元の方へ目が行く。大きな
胸だった。
「……はあ……何か?」
素知らぬ表情を保ちつつ、長瀬は聞き返した。何を見ろと言ったのか、理解
できない。
「こ、れ!」
襟にある銀色のボタン、いや、バッチか。やや傾いていたが、ローマ数字の
二を型取ったデザイン。学年章だと知れる。
「それが何か……あ。もしかして、に、二年生……ですか?」
「そう」
腕組みをした女生徒は、怒った目つきでにらんでくる。ちらしの束がかさか
さと音を立てた。続いて、彼女の右爪先が廊下の床をとんとんとんと叩いた。
「すみませんでした」
長瀬は身体を折って謝った。
「あの、気が付かなくて、てっきり、同じ一年生かと」
「君、名前は?」
「長瀬です」
顔を起こすと、相手の二年生の表情が多少和らいだ風に見えたので、ほっと
する長瀬。口調からは怒りや不機嫌さが薄まり、代わりに面白がる響きが滲ん
でいた。
「クラスは?」
コピーをスタートさせた彼女は、半ばコピー機に寄り掛かる姿勢で聞いてき
た。長瀬の方は緊張感から背筋を伸ばしたままでいたが、相手の様子から心の
余裕が少しだけよみがえる。
「えっと、一年二組です。出席番号も言いますか」
「じゃあ、長瀬君。私は柏木(かしわぎ)って言うんだけれど、どうして一年
生だと思ったのかな」
「それは……先輩が若々しくて」
「ばか言ってるんじゃないの。どうせ、ちびだから、そう思ったんでしょ?」
図星を指されると同時に、腰の辺りを力強くはたかれた。小さいからと油断
していたが、意外に力のこもった一撃だ。
「はあ、その通り」
「素直でよろしい。ところで、さっきの口ぶりだと、君はどこの部にも入って
ないみたいだね。よかったら、水泳部に入らない?」
「え……俺は」
その時点では、水泳部も考えの内に入っていた長瀬だったが、目の前(目の
下)の先輩が、部でも先輩になるかと思うと、腰が引けた。
「まあ、そんな顔をしないで、考えてみてよ。じゃ、私は急いでいるので、こ
れで」
いつの間にやら、コピーは全て終了した模様。紙を小脇に抱えると、爪先を
九〇度動かし、長瀬に敬礼めいたポーズをした柏木。それから前を通り抜けて、
廊下を小走りに行く。
半ば呆然として見送った長瀬も廊下に出ると、まだ柏木の後ろ姿があった。
と、視界の真ん中辺りで、柏木が突然立ち止まる。再び長瀬に向き直って、
距離を物ともせず、声を張り上げる。
「言い忘れていた。長瀬君、取ってくれてありがとね!」
「は……いえ、大したことでは」
どう応じようか困惑して、頭をひょいと下げかけた長瀬だったが、すでにそ
の時点で柏木はまた走り出していた。
「長瀬君、入ってよ」
四月の末頃になると、柏木から盛んにアプローチされるようになった。フル
ネームまで教えてもらった。現副部長の柏木京子(きょうこ)は色白で、小柄
な身体に比すと手足が長く、ついでに言えば胸も大きい。髪を短くしているの
は水泳部員だからという理由だけではなく、どうやら彼女に一番似合うヘアス
タイルだかららしい。
「何度も言ってるように、君は競泳向きのいい体格しているんだぞ。私が見込
んだのだから間違いないわ」
「あの、柏木先輩。前にも言いましたけど、男子の先輩がいないのが、ちょっ
とネックというか……」
水泳部には男子部員がいなかった。普通は男子水泳部と女子水泳部が別個に
あるものなのに、この高校では水泳部と言えばイコール女子水泳部なのだ。
長瀬を水泳部に入る気にさせないもう一つの理由が、これだった。
「いいじゃない。周りは女だらけで、もてるわよ、きっと。君のルックスなら、
部外の女生徒だって」
「もてるとかどうとかじゃなくて」
「スポーツしたいのよね? イルカみたいに泳ぎたくない?」
「イルカ……」
その表現に唖然としてしまう長瀬。柏木はしかし、大真面目のようだ。
「イルカに乗った少年ならぬ、イルカになった少年! いいでしょ?」
下からはしゃぎ気味に言った。
「先輩。俺ばっかりに声かけてないで、他も当たったらどうですか」
「今月一杯、声を掛けまくったわよ。だけど、まともに相手してくれたの、長
瀬君だけなんだもーん」
馴れ馴れしいというか、親しげというか、腕を引っ張る柏木。放課後につか
まったのは、まずかったかもしれない。延々と口説かれかねない。
端から相手しなければよかったかな、という思いが脳裏をよぎった。しかし、
初対面の状況が状況だっただけに、相手せざるを得なかったのだ。
それに……まあ、こうして話をする分には、楽しくて愉快な先輩だ。男の先
輩よりも早く女の先輩ができるとは予定外かつ予想外だったが。
「もうちょっとしたら、プール開きでじゃんじゃん泳ぐようになるから、その
ときにまた見に来なさいよ」
「そう言えば、うちの学校の中では、水泳部は弱小なんですよね」
「……なーんで、『そう言えば』ってつながるのかしら?」
「いや、水泳部が滅茶苦茶強い学校なら、温水プールの設備があって当然だと
思ったから」
「うちの部だって、たまに市民センターの温水プールに練習に行くのよ」
「反論になってないような気が」
長瀬が言ったが、柏木は全く相手にせず、名案を思い付いたとばかり、手を
打った。
「そうだわ。よかったら、市民センターまで来ない? 夏まで待たなくても泳
ぎっぷりを見せてあげられる」
「練習に行く予定があるんですか?」
「うーん、しばらくない。けれど、私一人が行けば事足りるでしょ。もうすぐ
ゴールデンウィークだし、ちょうどいいわ」
「てことは、わざわざ俺だけのために、水着姿を披露してくれるわけですか」
「キミ、キミ。力点の置き場所を間違ってる。練習を見せてあげようっていう
んだ。ありがたく思いなさい」
「実際、ありがたく思わないでもないんですが……」
首を捻る長瀬。再三に渡る熱心な勧誘に、悪い気はしない。反面、どうして
これほどまでに俺に執着するのか、不思議に感じる。考えても分からないので、
最近では、よほど部員不足で苦しんでいるんだな、と思うようにしていた。
「俺と柏木先輩の二人きりというのは、やはりまずいのではないかと」
「何故」
疑問形というよりも詰問調である。事実、柏木は一歩詰め寄ってきた。長瀬
はのけぞるような心持ちで、正直に答えた。
「それはもちろん、先輩の彼氏に悪いですから」
柏木の目が見開かれる。と思ったら、睨むように細くなり、長瀬の表情をし
げしげと見上げてきた。
「……その顔は、からかっているわけではないようね」
「と、当然ですよ。からかうだなんて」
「私に彼氏がいるように見えた?」
「は、はい。こんなかわいらしい感じの人に、いない方が不自然かなって」
「ふむ。かわいらしいというのはちょっと引っかかるけど、そう思われたのは
嬉しくなくはないわね」
迂遠な言い回しの柏木は、事実、嬉しげに両頬を手のひらで押さえ、にんま
りとした。次の瞬間、一転して目尻を悲しそうに下げ、深い息を吐く。
「でもねえ、現実は厳しいのだよ。一年生。こんな私でも、恋人はいないの」
「そうなんですか」
「どうやら、夏になると日焼けして、コントラストがはっきりするのが、お気
に召さないみたい。ほら、水泳部って」
「なるほど。そういうことにしておきましょう」
「どういう意味だ、こらぁ」
殴る真似をした柏木だったが、長瀬が避ける素振りをしなかったため、振り
上げた手を仕方なく下ろす。
「長瀬君にはいるのかな」
場つなぎのような空気を発散させて、切り返してきた。長瀬は分かっていた
が、敢えて、質問の意味が理解できないふりをした。
「彼女がいるのかって、聞いているの」
柏木はおとぼけを見破ったのかどうか、苛立ちを垣間見せた。ここできちん
と答えないと、今度は本当に殴られるかもしれない。
「いませんよ」
「本当に? 中学のときいたけれど、高校が別々になったから自然消滅したな
んて言うんだったら、許さないよ」
どうして知り合ったばかりの先輩から、“許さない”と凄まれねばならない
のだろう。
長瀬は不条理に感じつつも、そのことを頭から打ち消した。何故なら、事実、
中学時代に付き合った相手はいないのだから。
「いませんてば。ただ……」
「ただ、何かな?」
好奇心をそそられたらしく、柏木は舌先を覗かせ、上唇の端をなめた。
「小学校のとき、親しくしていたガールフレンドがいたんですけどね」
「な。ませてるわねえ」
口を開けて、長瀬を指差しながら呆れる柏木。
「で、その子とどうなったのかしら。非常に興味あるわね」
「彼女の方が積極的すぎて、着いていけませんでしたよ。だから、ちゃんと話
をして、これっきりにしようと約束しました」
必死の弁明めいてしまうのが、自分でも不思議だ。力説するようなことじゃ
ないし、話す義務もないのに。
「ふーん。でもさ、長瀬君。その子と中学、一緒だったんじゃない? たいて
いは同じ中学に進むものよね」
「はあ。一緒でした」
「どんな顔して会ってた? 気まずい感じが残るんじゃないの?」
「まさか。小学生の付き合いですよ。普通に話をしていました。むしろ、入学
した頃は、他に親しい女子が少ないから、そんな中ではよく話をした女子でし
たね」
思い出がよみがえってしまった。別に封印しておきたい類のものではないが、
何しろ相手はあの白沼だったのだ。少なくとも外見はトップクラス。懐かしが
る内に、惜しいことをしたという考えが起きるかもしれない。そんな感情の推
移は、たとえ一時的なものにしろ、できれば避けたい。
「そう。なるほどね。小さな恋の物語は案外ロマンチックじゃない終わり方を
迎えるんだ。あっさりとしていて、散文的」
「何なんですか、そのコメントは」
「ふっ。こう見えても、私にも色々過去があってねー」
横を向くと、柏木は斜め下のタイルを見つめ、やがて顔を起こすと、髪をか
き上げる仕種をした。
「……嘘だ。絶対に嘘だ」
あまりにも芝居くさい。長瀬は決め付けた。
柏木は肩をすくめ、「……どうして分かった?」とつぶやいた。
どうやら長瀬の勘が当たったようだが、大した根拠もなしに決め付けたのは
後ろめたさを感じなくもない。長瀬は気の利いた答を探した。
「柏木先輩ほどの人をふる男が、この世にいるとは思えませんから」
「――ははは! 生意気にもいいこと言うね、君は」
お腹を抱えて笑われてしまった。まあ、受けたのだから、よしとしよう。長
瀬は鼻の下をこすった。
「長瀬君、本当は女たらしじゃないのかな? それなりに二枚目だし、背もあ
るし、口がうまい」
「本気でそう思うんだったら、俺を水泳部に誘うのはやめた方がいいんじゃあ
りません?」
ささやかな逆襲をしておこうと、長瀬はにやりと笑ってみせた。
「女子部員をみんな、ものにしちゃいますよ」
「さて。思惑通りに行くか、試しに入部してみない?」
逆襲は不成功に終わったようだ。柏木の方が一枚上手。どうしても入部させ
たいと見える。
「まずは先輩の泳ぎを見てみないと」
長瀬は仕方なく、話を大元に戻した。すると待ってましたとばかりに、柏木
は手を打つ。
「その気になったのなら、日を決めようじゃない。いつなら都合がいい?」
「えと、まだ何とも言えないです」
「もう、しょうがないな。見通しが立ったら、すぐ私に知らせるように。いい
わね? あ、電話でもいいから」
手帳を取り出すと電話番号の数字を書き付け、そのページを破り取った柏木。
紙片を長瀬の手のひらに押し付ける。
「一応、注意しておくけど、君も水着を持ってくるように」
「あ、やっぱり」
見学だけをしてすむのなら、これほど楽なことはないと考えていたが、甘か
った。案の定、柏木が頭に角を生やす。
「当ったり前でしょ! いい機会だから、泳ぎっぷりを見させてもらうからね。
私が見せるんだから、君も見せる。物々交換はあらゆる経済活動の起源よ」
柏木は長瀬を指差しながらこう言い放つと、付け足す風に、楽しみだわとつ
ぶやいた。
「物々交換」
その単語が耳に残る。長瀬は遅れて吹き出した。
「何よ。そんなにおかしかったかしらね」
「いえ。別に」
忍び笑いを隠すため、上を向いた長瀬。柏木が低いところから、まだ何か文
句を言っている。
だがもう気にしないことにした。しばらく、このかわいらしい先輩との付き
合いを続ける覚悟はできたのだから。
(浮力のおかげで故障個所への負担は少ないはずだし、軽いトレーニングのつ
もりで始めてみるかな)
その意思を伝えるべく、長瀬が見下ろすと、柏木は腰に両拳を当てて、頬を
膨らませていた。
「背が高いと、大きな声で言わないと聞こえないのかしらね?」
やれやれ。
苦労しそうだなと、あきらめにも似た気分で長瀬は話を切り出した。
――『彼のちょっとした変化 <そばいる番外編>』おわり
※蛇足……本作は旧AWCボードにUPされた(多分)最後の作品です。三月
末のUPからおよそ一ヶ月が経過したのを機に、こちらに再録します。
#22/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/05/01 18:03 (144)
賑やかな孤独 已岬佳泰
★内容
■賑やかな孤独 已岬佳泰
「葬儀は滞りなく終わってしもたよ」
半白髪の叔母、片平和代はやつれた顔でそう言った。
「すみません、何から何までお世話になってしまいました」
私は久しぶりの畳の上に、恐縮して畏まった。叔母の出してくれた座布団の座り心地
が悪い。
「いいんだよ。急なことやったし、誰も文句は言いやせんよ」
正面のつましい仏壇には、父と母の位牌が寄り添っていた。
――仲睦まじかった老夫婦の死。
新聞の社会面に、そんな小さな見出しを見つけたのは、ちょうど1週間前だった。そ
れが自分の両親のことだと分かって、私はたいそう狼狽えた。すぐにでも、家に戻るべ
きだろうか。それとも、気づかなかったふりをしてやり過ごそうか。
短い記事だった。
――4月13日午後6時ごろ、東京都町田市の民家で男女が死亡しているのを、訪問
した親戚の女性が発見し町田警察署に通報した。遺体で発見されたのは、民家に住んで
いた静井光太郎さん(65歳)と史乃さん(62歳)夫婦と判明。町田署によると、史
乃さんは1階和室の布団の中で、光太郎さんは2階の洋間で首を吊っており、足元には
踏み台にしたと思われる段ボール箱が転がっていた。検死の結果、光太郎さんは首を吊
ったことによる縊死、妻の史乃さんの死因は心不全で、史乃さんの死亡推定時刻が夫の
それより6時間後だったことが問題視された。ただ、史乃さんは体が弱く伏せりがちで
あったこと、室内に荒らされた形跡はなく、発見者が合い鍵で玄関を開けたと証言して
いることなどから、警察では犯罪の可能性は低く、おそらく、実際は眠り込んでいただ
けの史乃さんを、死んでしまったと勘違いした夫が後追い自殺を図ったのではないかと
いう見方をしているらしい。たまには二人してめかし込んで出かける姿を近所の人が見
かけたと言い、近所では評判の仲の良い老夫婦だったという……。
焼香を済ませると、そのまま辞去しようとした私に、叔母が形見分けを言い出した。
「なにか、思い出にできるものを持ってゆきなさい。ふたりは一人娘のあんたのことを
ずいぶんと心配していたからねえ」
叔母の言葉は、私の胸に突き刺さった。親元を飛び出したのは、もうずいぶん昔のの
ことだ。些細な言い争いだったが、それは口実に過ぎなかったと今では分かる。何かと
いうと「女は家にいるもの」と口うるさく干渉する両親に辟易していた。だから、大学
卒業とともに家を出た。小さなアパートを見つけ、そこで一人暮らしを始めたのだが、
以来、40歳に近づいた今日まで、娘らしいことは何もできてない。
年老いた両親は、年金生活をしていたはずだった。
平凡なサラリーマンだった父に、大した蓄えもなかっただろう。小さな総2階の借
家。遺品といっても、着古した着物や背広、年式の古い時計、べっこう櫛、それに僅か
ばかり残った預金通帳だった。私は箪笥の引き出し、それから和室の隅に置いてある小
さな姿見の鏡台を見た。姿見にかかった埃よけの布は色あせていたが、鏡は磨き込まれ
ていた。しかし、ふたつついている引き出しを開けても、中には使いかけのハンドク
リーム瓶がひとつだけ転がっているだけだった。なぜか涙が滲んだ。
振り返った私の視線が叔母と交錯した。
「母さんは、ろくな化粧品を持ってないね。たまに化粧して父と出かけることがあった
とか近所の人が言っているけど、それは何かの間違いじゃないかな」
「そうじゃねえ」
叔母が言葉を濁した。仏壇を見ている。
私はべっこう櫛を手にした。
「わたし、形見はこれにする。これなら見覚えがあるし、いつも身につけていられるか
ら」
「そうだね」
叔母が頷いた。その目の色が曰くありげな愁いを帯びている。何か言いたいのだ。
「叔母さん、わたしに自首を勧めるつもりなら、聞く耳は持たないよ」
先回りした私に、叔母は苦笑いした。
「あんたの事じゃないよ。あたしにそういうつもりがあるなら、とっくに警察をここに
呼んでるよ」
そうかもしれない。私が両親の死を知っても、すぐさま家に戻るの躊躇したのは、私
自身が警察から追われているからだ。警察は新聞発表こそしなかったが、死んだ夫婦の
一人娘が殺人未遂容疑で逃亡中だと知っている。私はまだ捕まるわけにはゆかない。今
日も、刑事の張り込みがないことを確かめるために、半日ほど家の様子を窺ったくらい
だ。
「何?」
「あんたの母さんのことさ。警察には言わなかったんだけど、今のあんたには伝えてお
いた方がいいかなと思って」
嫌な予感がした。連れ合いの不貞に気づいた時のような気分だ。頭に血が上ってはい
たが、包丁が刺さった時の嫌な感触は今でも私を悩ませている。男は一命を取り留めた
らしいが、そんなことは私の気休めにはならない。
叔母はそんな私を睨み付けるようにしながら、口を開いた。
「光太郎さんは自殺じゃなかったと思うんだ」
「は?」
「光太郎さんは殺された。おそらく、姉に。つまりは、あんたの母親にだ」
意外な言葉に私は喉を詰まらせた。
「だけど、新聞には自殺って書いてあったけど、違うの?」
「あの段ボール箱は、もともとあそこには無かったの。あたしが転がして置いた」
「?」
「ぶらさがった光太郎さんを見つけた時、その足元に足場らしいものがなにも見当たら
なかったから、あたしはあれ? と思った。これは自殺じゃない。ひょっとしたら、光
太郎さんは殺されたんじゃないかってね。きっと死期を悟った姉が光太郎さんを殺し
て、その後自分も息を引き取った。そういうことだろうとすぐに想像できた。でもあた
しは姉を犯罪人にはしたくなかった。あんたのこともあるしね。だから、あたしは段
ボール箱を探し出して、和室に転がして置いた。そうすれば、家には内側からぜーんぶ
鍵はかかっていたから、誰も自殺だってこと疑わないだろ」
「でもなぜ。なぜ母は父を殺したの?」
これは私の独り言だった。それには叔母も答えない。黙って、畳の上に座っている。
姉妹ということもあるが、叔母は母に背格好がよく似ていた。
そうか。
私はそっと溜息を座布団に落とした。
母が父を殺した理由。それが私の目の前にあることに気づいたのだ。
隣家の住人が見かけたという、父と出かけるおめかしした女は、たぶん、叔母だった
のだろう。父が叔母に対してどう思っていたかは知る由もない。しかし、母は寝込んで
はいても、その事に気づいていたに違いない。母の胸に去来したものはなんだったの
か。玄関にカギをかけ、そして父を縊死させた? それは女としての嫉妬、あるいは誇
りを傷つけられたからだろうか。
いや、違うな。
私の思考はそこで立ち止まった。
そもそも、病弱な母がどうやって五体満足な父を首吊りに見せかけることができたの
か。まさか、大の男を昏倒させて、ロープにつるした? そんな体力が母に残っていた
とは思えない。やはりあれは、父が自らの意思で命を絶ったのだ。病弱な母の行く末を
案じたか。警察で言うように、眠っている母を死んでしまったと勘違いしたか。とにか
く、母は自殺した父を発見した。そして母は考えたのだ。
踏み台を片づけよう。踏み台が無ければ、警察は必ず犯罪の可能性を疑うだろう。家
中のカギは閉まっている。自分は病弱で寝込んでいる。この弱り方なら、ひょっとした
ら、このまま死んでしまうかもしれない。そうなると、夫の遺体を見つけるのは、定期
的に家にやってくる叔母だ。叔母こそが、合い鍵を持っている唯一の人間で、この閉じ
られた家に出入りできる。つまり、父の死への疑惑は当然、叔母へと向けられるに違い
ない。
復讐。
背筋が冷たくなる。
しかし、私には強い確信があった。だって、彼女は私の母なのだ。
私に貼られたレッテルはたくさんある。殺人未遂で逃走中の危険な女。自分を捨てた
男を逆恨みして、包丁で刺したダメ女。
しかし、真実は違う。私は嫉妬に狂いそうにはなっていたが、連れ合いを刺し殺そう
としたのではない。私は、私の男を奪った相方の女を殺そうとしたのだ。連れ合いは、
その女をかばって刺されただけなのだ。
私は、あの女を許さない。こうして警察から逃げ回っているのも、いつか、あの女を
見つけだしてやると心に決めているからだ。そうして必ず、懲らしめてやる。
父の遺体を発見した叔母。彼女は、それが母の仕業だと思い、それを隠すために咄嗟
に段ボール箱を現場に置いたと言う。それが実は、父と叔母への母のささやかな復讐だ
とは気づいていない。いや、気づいて、知らぬふりをしているだけなのかもしれない。
だからわざわざ、私にこの話をした。私の反応を気にしているのだ。
私はもういちど、姿見の小さな引き出しを開いた。ほとんど何も入っていない引き出
しを見ながら、呟いた。
「それほどに父さんを愛していたのね、母さん」
突然、叔母がわっと泣き出した。
(了)
#23/569 ●短編
★タイトル (ins ) 02/05/06 13:00 ( 40)
>お題「作家」-ウタマロ伝説
★内容 02/05/07 10:42 修正 第4版
今は昔、日本の江戸の町にウタマロさんという絵描きさんがおりました。
彼は正統派な画家ではありません。ウタマロさんは、美人を描くのが得意で人気者で
したが、何しろ正統派ではありませんでしたから、偉くはありませんでした。偉いとは
思われていませんでした。彼はその日の生活を送るために絵を描き飛ばす必要があった
でしょう。一人で、毎日。それで、ポルノなんかも描いていました。今なら週刊誌に載
っているグラビア写真のようなものです。偉い人たちはそんなものを描きませんでした
から。
でもね、ウタマロさんは絵が大好きで、そして多分人間、いや、ポルノも大好きで、
一生懸命描いていたんだと思います。そして町の人たちも、ウタマロさんの絵が好きだ
ったんだと思います。美人も、ポルノも。
彼は大量の男女の姿を紙の上に描き現しました。さまざまな姿勢で場所で交わる男
女。互いの性器を剥き出しにして交わる男女。描けば描くほど人気を博するウタマロポ
ルノ。描けば描くほど偉くなくなるウタマロさん。
彼の筆は走りに走りました。陰毛の一本一本まで丁寧に情熱を込めて描き続けまし
た。どのくらい情熱がこもっていたかと言うと、現代の技術をもってしても、彼の絵を
版画にするのは不可能だと言われているくらいなんです。
彼の筆は走りに走りました。彼の想像力は時代の制約を超え、遊び心と町の人たちの
期待を乗せて、高々と羽ばたいていきました。彼は男女の性器をどんどん大きく、かつ
美しく描くようになっていきました。
時は流れ、江戸の町は東京と名前を変えました。外国から文明というものが大量に流
れ込んできました。日本の人は、日本文化を程度が低いと思い込んで、珍しいもの好き
な外国の人にそれまで大事にしてきた物を売り飛ばすようになりました。ウタマロさん
の絵は、さらに程度が低いと思われて、売り飛ばされる兜や刀なんぞの包み紙や詰め物
として使われてしまいました。そうやって彼の絵は船に乗り海を越え、外国の人の目に
触れました。
外国の人はウタマロポルノを見て、めちゃめちゃに驚きました。「オー、ジャパニー
ズ コックス アンド プッシーズ アー グレイト」と言ったかどうかは知りませんが…。
正当な権利を求めて突き上げられた労働者の拳より大きく逞しいウタマロチンポ。それ
を受け止め深々と広がるウタマロマンコ。それは、外国の人の間で「ウタマロ伝説」と
して「神秘の国日本」のイメージをかきたて、その前に多くの人を従えました。
そして「ウタマロ伝説」は再び船に乗り海を越えて、遠い故郷日本へ揚々と戻ってき
たのです。
想像してみましょうよ。
おお大いなるウタマロチンポ。人々の心でエンパイア・ステイト・ビルに並んでそび
え立つ。ああ豊かなるウタマロマンコ。大西洋を埋めて漂う。痛快千万なるこの構図。
今もウタマロは人の至る所あまねく既に居り、力強く人々を迎え抱くウタマロチン
ポ、ウタマロマンコ。地の涯に空の彼方にウタマロはあり。情熱の赴くまま絵筆を振る
い、時空を超えて喜びを表し続ける。地に空に海に時に満ちるウタマロポルノ。それは
自由な遊び心の勝利。生を讃える素朴な心の凱旋の歌。
今こそ心にウタマロを。
#24/569 ●短編
★タイトル (VBN ) 02/05/12 14:54 (494)
読者への挑戦 時 貴斗
★内容 02/05/12 15:38 修正 第2版
この短編は、あなたへの挑戦です。読み終わるまでトイレに行かずに
いられるか、というチャレンジです。おっといけません。もう始まって
いるのですから、今いくらもよおしていてもダメです。
というのはかわいそうですから、さあさあ、今のうちに行ってきて下
さい。その後でこの先を読み進んで下さい。
まさか、今のに引っ掛かった人はいませんよね? この小説はまだ終
わっていないのですから。ではここで、水でもウーロン茶でもジュース
でも何でもいいですから、一杯飲んで下さい。実際に飲んでから、先に
進んで下さい。こんなふうに、途中で何度か飲んでもらいますので、家
族と同居している方は、水筒かペットボトルを用意していただくのがベ
ストです。「なにさっきから水ばっかり飲んでるの?」なんて怒られても、
私は責任持てませんからね。単なるお遊びなのですから。
斉藤は困っていた。ひざが細かく震えている。
「我が社の、耐熱ゴムは、ですね」
言葉が途切れ途切れになる。いけない、落ちつけ、落ちつけ、と心の
中で唱える。しかし、もう、限界だ。
も、れ、そ、う、だ。
「I社よりも、二十パーセントも、優れていまして、ね」
商談が終わるまで、たえなければならない。仕事用の笑みが、くずれ
そうになる。「すみませんが、トイレをお借りできますか?」と言ってみ
ようか。いやいや、そんなことはできない。せっかくいい感触をつかん
でいるのに、少しでも悪い印象を与えるのは、避けなければならない。
「価格も、他社より、安く、そして、なにより」
ハンカチで汗をぬぐう。暑くもないのに、少しずつ皮膚からしみ出し
てくる。内部からの圧力は、次第に強まってくる。今にも爆発せんばか
りに。
「カラーの、バリエーションも、豊富で、くっ!」
相手――W工業の担当者が怪訝そうな顔をする。
「いや、すみません。その、用途も多く、ええ、て、適材適所といいま
すか」
言っていることが変だ、と斉藤は思う。手を握りしめ、ひざに押しつ
ける。力強く。すみませんが、トイレをお借りできますか? いや、ま
だだ。まだまだ。再び汗をぬぐう。
すみませんが、トイレを、いや、この根性なしめ。我慢しろ、男だろ
う? 男も女も関係あるものか。すみませんが、御社の、素晴らしいト
イレを、耐熱性に優れた、バリエーション豊富な、その、トイレを、ど
うぞ、私に、この、不甲斐ない私めに、どうか、一目だけでも。
「斉藤さん、どうかしましたか?」
「は!?」驚きのあまり飛び出そうになる。なんとか持ちこたえた。「い
えいえ、何でもありません」
彼は急いでパンフレットをバッグから取り出した。
「このCタイプなどは、どうでしょう、うっ。御社の生産システムには、
ちょうど、このタイ……プが、ぴったりフィットします」
いやあ、さすがW工業さんのトイレだ。涼しげで、青空のようにさわ
やかで、そして、この流れるようなフォルムの便器は、なんと愛らしい
ことでしょう。これなら爽快に用を足せそうです。
「確かに良さそうなのですが」相手は納得していなさそうだ。「どうも伸
縮性の面で、ちょっと決めかねるんですが」
首を縦にふれ! 頼むからうんと言ってくれ! その、ただそれだけ
の動作が、俺をこの場から解放してくれるのだ。うちのゴムにしてくれ。
はっきり言って、どこのを使おうが大差ないんだ。お願いだから。お願
いです!
斉藤は破裂しそうだった。
彼の頭の中にイメージが沸き上がる。そこは公園で、噴水の周りを子
供達がはしゃぎながら駆け回っている。だが、その噴水はつまっている。
下の管を通して内部に流体が遠慮なく押し込められていく。ゴゴゴとい
う音を立て始める。先端から水が少しずつあふれてくる。圧力が高まっ
てくる。容赦なく。
「しん、しゅくせいは確かに少々劣るものの、その、分、耐熱性がよく」
もう限界だ。ついに勢い良く、高く噴き上がる。子供達が驚く。無数
の水滴は、午後の陽光を受けて、きらめきながら、空気中に散布される。
「だめだ!」と彼は叫ぶ。
W工業の担当者は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。斉藤は慌
しく立ち上がった。机の上に散らばった資料をバッグにつめこむ。
「この製品ではだめですね。もっと伸縮性が高い商品のパンフレットを
持ってきます」
「ああ、そうですか。いやすみませんね」
立ち上がった相手を無視して、彼は急ぎ足で出口へと向かった。
どうですか? 全く大丈夫ですか? ううむ、おかしいな。ではお手
数ですが、もう一杯何か飲んでもらえますか? お茶でも牛乳でもコー
ヒーでも。ああ、ビールの方が効果を実感できるかもしれませんね。い
や、あなたが大人の場合ですが。大人でもお昼だったらだめですよ。
飲んだつもりとして先に進もう、とかではなくて、本当に飲んで下さ
い。
斉藤は走り出た。が、すぐに速度をゆるめた。駆けるのは危険だ。割
れる寸前の水風船みたいになっているというのに、刺激を与えるのはま
ずい。しかし、一刻も早くトイレを見つけなければならない。焦燥感が
彼の身をじりじりと焼いていた。特に、股間のあたりを。
ボディービルダーのように、両腕から肩、胸にかけてしっかりと力を
こめて進む。
公衆便所がすぐ近くにあれば。なんだったら立ち小便ができる所でも
いい。
しかし、真昼間のオフィス街には、彼の期待にそえるような場所はな
さそうだった。彼は手の平に次々としみ出してくる汗を感じながら慎重
に、慎重に歩いていく。たっぷりと水が入った洗面器からこぼさないよ
うに。実際、彼の洗面器は表面張力によってぎりぎりの緊張を保ってい
た。少しでも気を抜けばあふれてしまう。
もうどこでもいいから、その辺のビルに飛び込んでトイレを貸しても
らおうか。
「すみません」と、斉藤は受付嬢に話しかける所をイメージする。「ちょ
っと、トイレを貸して頂けますか」
「アポイントメントはお取りになっていますか?」
「え? いやそうじゃなく」
「申し訳ありませんが、関係者以外の方はお通しできませんので」
「ああいえ、私はただ」
警備員が近寄ってくる。
「どうしました?」
「あの、私は、ととと」
「こっちに来い、こらあ!」
斉藤は肩をつかまれる。
「ちょっと待って下さい」
警備員は恐ろしい力で彼の手首をつかみ、玄関まで連れていき、放り
出す。
「二度と来るな。この禿じじい!」
いや禿げてはいないし、じじいと呼ばれるほどの歳でもないのだが、
とそこまで想像した時点で正気にかえる。
なんて気が小さいんだ俺は! そんな事されるわけないじゃないか。
そう思っても、受付嬢がトイレの場所を教えてくれたとしても、その
直後にちょっと笑われたら……。それは嫌だった。彼はつまらない事を
気にする男だった。
都会という砂漠の中を、彼はオアシスを求めてさまよう。しかし灼熱
地獄ではない。冷気はコートを通して容赦無く体の内部に浸透し、閉じ
込められた大量の水を外に流し出せと斉藤に命じる。
その出口および顔面だけは異様に熱く、嫌な脂汗が次々とふき出すの
であった。
彼はがんばった。刻一刻タイムリミットが近づいてくる爆弾をかかえ、
何度も手を握ったり開いたりし、汗をぬぐいながら、どこかにあるはず
の天国を求め、横で車が行き交う冷たいアスファルトの上を歩いていっ
た。コンビニでもあれば、と願いながら、彼はさまよった。
おお神よ、やはりあなたはいらっしゃったのですね、と斉藤は頭の中
で感謝の言葉を偉大なる存在に捧げた。
なんと、大都会の中に公園があるではないか! 彼は危険をかえりみ
ず走った。もう一刻の余裕も無い。横断歩道を渡る時、すぐ目の前を通
り過ぎた車にクラクションを鳴らされた。
シーソーやすべり台や、砂場の横を通っていった。ゴールだ、やっと
ゴールだ。俺は勝ったぞ! そんなふうに思った彼が見たものは……。
悪夢だ。こんな事が現実にあるものか! 俺は悪夢の中に迷い込んだ
のだ!
彼は全身を支配した喜びがいっきに萎えていくのを感じた。
どうですか? 少しは手応えありましたか? 平気ですか。そりゃそ
うですよねえ。一日に五回トイレに行くとして、八時間寝るとすると、
三、四時間我慢できる計算になりますからね。しかし、あなたが摂取し
た水分は、体内をめぐり、最終的な出口へと向かいつつあるのです。今
こうしている間にも。さあ、さらなる挑戦です。ここでもう一杯飲んで
下さい。
斉藤が見たものは、公衆便所の前にできた長蛇の列だった。バカな!
いったいどういう偶然で、これだけの人間が集まるのだ。
なげいていても仕方がない。他を探すには時間がなさすぎた。選択の
余地はなかった。彼は列の最後に並んだ。右のかかとと左のかかとを交
互に上げ下ろしする。
なぜ、みな、ここ、来た。かみ……さ……ま……俺……が……何……
した……いう……のか。
まるで交通渋滞にはまったかのように、全く進まなかった。もうすぐ
助かるという思いが、彼の気をゆるめさせる。しかしここまで来て失敗
するわけにはいかなかった。
待てよ? と斉藤は考える。コートで隠れているのだから、少しぐら
い濡らしても分からないのではないか? いやいや、だめだ。ちょっと
だけ出して止めるなどという芸当ができるわけがない。滝のように流れ、
水溜りを作り、みんなから白い目で見られるだろう。
なんだよこのおっさん。
いい大人がお漏らししてるよ。
バッカじゃない?
うざいよ。
よりによってトイレの前で。もう少し我慢できなかったのか。
きっと危ない人だよ。
多くの視線が矢となって彼を射抜くだろう。その屈辱感は何年も心に
残るだろう。「いやあ、あの時ははずかしかったよ」と笑って話せるよう
になるまで。思い出に変わるまで。
ようやく、ゴールまであと三メートルの所まで来た。前にいる連中を
おしのけたい。「頼む、俺を先にしてくれ! もう我慢できないんだ!」
と叫びたい。目頭が熱かった。涙がこぼれそうだった。
彼の内部では真っ黒な海が荒れ狂っていた。巨大な波が立ち上がり、
飛沫を撒き散らす。空は暗い雲に覆われ、激しい雨が降り注いでいる。
雷が鳴った。斉藤はもだえる。海面は渦を巻き、白濁する。再び、雷
が轟いた。彼は身をくの字に折る。
ドアが開き、初老の紳士が出て来る。入れ替わりに、髪を金色に染め
た兄ちゃんが入る。あと、三人。
波は大きな手となり、水面に叩きつける。周囲が一瞬光る。少し遅れ
て、轟音が耳をつんざくばかりに鳴り響く。斉藤は目玉に力をこめ、渇
いた唇をなめる。
あと、二人。
もしも船が浮かんでいたら、まったく助かる見込みがない、水の地獄
だ。自然の猛威の前では人間など無力だ。その嵐は、神の怒りだ。だが
斉藤はあきらめなかった。あと、一人。
もうすぐ、もうすぐ俺は救われる。俺はこの困難に打ち勝つ。あ……
と、少し……だ。
ついに彼は天国への扉の前に来た。もうちょっとで、大嵐を外へ解放
することができるのだ。
くっ、出る。いや、まだだ。ゴールは、もく、ぜん、だ。こ……の試
練に、よくぞ耐えきった。だが、ゆだ、んしてはならない。むくう! 落
ちつけ。気をしずめて、ゆっくりと呼吸するの、だ。もう、いや、だめ、
くそ、早く、早く!
中から人が出てきた。やった、ついにやったぞ! と心の中で叫びな
がら、まるでエベレストの頂上にたどり着いた登山家のような達成感を
体中に感じながら、飛び込んだ。
だが次の瞬間、斉藤は目を皿のように見開いた。何だこれは! と言
おうとしたが、口から出た言葉は「ぐがっ!」だった。頭が真っ白にな
った。
やあ、どうですか。「それがどうかしたの?」という感じでしょうか。
うーん、厳しいですね。何かこう、水の出口に意識が行きませんか? 熱
い、内部から押されるような感覚と言いましょうか。言葉にすると難し
いですね。痛いとも痒いとも違う、ただ「出そうだ」としか表現のしよ
うがない感じ。あなたは大丈夫ですか? まあ、まだ三杯しか飲んでい
ないですからね。コップ一杯が二百ミリリットルくらいとして、六百ミ
リリットルですか。ちなみに、正常な場合膀胱容量は三百から五百ミリ
リットルだそうです。それ以上はためておけないということですね。一
日の尿量は千二百から千五百ミリリットルなんですって。話の冒頭から
ここに来るまでの短い間にあなたはその半分近くを摂取してしまいまし
たよ。大きめのコップならもっと多いでしょう。
まあまあ、汗や呼吸で失われる水分もあるわけですから。さあ、もう
一杯飲んで下さい。
そこは、大きな部屋だった。壁のあちこちに大きな液晶ディスプレイ
が掛けられており、サイケデリックな幾何学模様を映し出している。長
机が四角形を描くように並べられ、何人もの人が座っていて、しかめっ
面をして彼の方を見ている。みんな銀色の服を着ている。斉藤は凍りつ
いていたが、額からは滝のような汗が流れていた。一体全体、何が起こ
ったのか分からない。
振り返ると、入り口の向こうは公園ではなく、白い無機質な廊下だっ
た。扉が横方向にスライドして、その情景を閉ざした。
「斉藤君、何をやっている。早く席に座りたまえ!」
奥の方から怒声が飛んできた。そちらを見たが、まったく知らない顔
だった。
「あ」と言うのが精一杯だった。
とりあえず手近な椅子に腰掛ける。
「どうしたんですか、斉藤さん」小声で話しかけてきた隣りの男を見る
と、なんと後輩の山田ではないか。「二十分も遅刻して」
「これは、どうなっているんだ?」口の中がからからだ。「ここは、トイ
レでは」
「何を言ってるんですか斉藤さん。重大な会議なんですから、しゃんと
しないと」
普通なら、自分が異世界に放り出されてしまったことに対して、恐怖
を感じるだろう。しかし斉藤はそれどころではなかった。トイレに、と
にかくトイレに。
「ちょっと失礼」そそくさと立ち上がる。
「斉藤さん、どこ行くんですか」
「便所だよ。だいたい」それ以上言う気が失せた。何を説明せよという
のか。
奥の、見知らぬ男が咳ばらいをした。
「やばいですよ。子供じゃないんだから、我慢して下さいよ」山田の顔
はゆがんでいた。
子供じゃないんだから? こ、ど、も、じゃ、な、い、んだからだあ?
なんでガキだと許されて、大人は許されないんだ? そんな理不尽な話
があるか。生理現象だぞ。
「斉藤君、どうした」奥の方にいる男が言った。重々しい表情をしてい
る。壁一面に地球が映し出されている。
「ちょ、ちょっと、トイ」
「君は、どうしたらいいと思う?」
「はい?」歯をくいしばる。「何の、ことでしょうか」
男は唇をゆがめた。
「決まっているじゃないか。死にゆく地球に対してどう思うのかと聞い
ている」
なにをわけの分からない事を言ってるのだこいつは、と斉藤は思う。
「太陽が次第に大きくなってきている。赤色巨星になろうとしている。
その影響を受けて人類の故郷が枯れていくのだ。我々はどうすべきか、
それが問題なのだ」
映っている地球は真っ青だ。ごくごく普通だ。海がすっかり干上がり、
赤茶けているというのであれば分からなくもないが。
「さあ。私には、どう……でもいいことですが」
「なんだと! 君の故郷がなくなってしまうのだよ。どうでもいいとは
何事だ」
「いや、私にはさっぱり訳が、分からないのですが」
「とにかくすわって下さい」と山田がささやいた。
全く納得がいかなかったが、斉藤は腰掛けた。周りの重々しい雰囲気
が、何だか知らないが大変な事を議論していることが、彼を思いとどま
らせたのだ。長年会社勤めをしていたために身にしみついた条件反射だ
ともいえた。
奥の男は咳払いして、「誰か、意見のあるものは?」と言った。
「南極大陸を溶かすしかありません」と、斉藤の真向かいにいる白髪の
男が唐突にしゃべり出した。「現在地球上の海は急速に干上がりつつあ
ります。その結果、雲の量が減り太陽熱が余計に地上に届きます」
何を言ってるんだこいつら、と斉藤は思う。どうやら地球が最後の時
を向かえようとしているらしい。しかし、そんな話は初耳だ。それに、
ついさっきまで外にいて、寒かったのだ。
ふと、彼はまだコートを着たままだということに気がついた。慌てて
ぬぎ、隣りの席に置く。
「ここは、いったい、どこだ」斉藤は山田に聞いてみた。
「第五十三会議室ですよ」
「いや、そういう、狭い範囲の、事じゃなくて。ここは、どこ、だい」
「第三層ですけど?」山田は首を傾げた。
第三層? なんだそりゃ! 斉藤は怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「だ、か、ら! それは、いったい、ぐっ、どこなんだ!」
「箱舟の中に決まってるじゃありませんか」
箱舟? ノアの?
「それは、何?」
「宇宙船ですよ!」山田の声が少し大きくなった。奥の男がにらんだ。
そんなバカな。地球の外にいるとでもいうのか? きっとこれはドッ
キリとかいうやつだ。自分の行動は全部カメラに撮られていて、後日放
送されるのだ。
だが、トイレの中がこんな広い部屋になっているというのはどう説明
する。
いや、そんな事はどうでもいい。早く、便所に、行くのだ。
まだ大丈夫ですか。逆に、もう無理だ! という方はいらっしゃいま
すか? あなたが膀胱炎にでもなったら大変です。ではこうしましょう。
今日はここでやめて、明日また最初からやりなおせばいいじゃないです
か。
そんなのに引っ掛かるか! ですって? 私はあなたの体を心配して
いるのですよ。どうかトイレに行って下さい。
「斎藤君」奥の男が呼びかけた。
「はい!?」
「君は最近少したるんでいるようだね。まさか、何も検討しないままこ
の会議に臨んだわけではないだろう?」
どうやら意地の悪い人間のようだ。さっきどうでもよいなどと口走っ
たために、自分を攻撃するのだ。斉藤は目の前が真っ暗になった。ええ
い、構うものか。無視して出てしまえ、とも思うのだが、悲しいかな、
サラリーマンの習性が彼をその場に縛り付けていた。
何か言わなければならない。選択肢は三つあった。素直にトイレに行
きたい、と言うべきか、これがドッキリであると仮定して、それを暴く
もしくは調子を合わせるか、あるいは地球の滅亡を防ぐための提案をす
るか。
彼にとって今一番大事なことは決まっている。
「あの、済みませんが便所に」
「便所をどうするのかね」
斉藤はあせった。敵は手強い。機会をうかがって、そのうち切り出す
しかなさそうだ。
「べ、いや、え、援助を、そう、援助をするのです。太陽エネルギーが
余っているのなら、世界中の家庭にそれを利用した発電機をつければい
い。そのための金を」
「誰が出すのかね」彼の右斜め前の男が唐突に発言した。「金を、誰が出
すんだね」
「そりゃ、まあ、国民の税金で」
「植物は枯れ、動物も人間もバタバタ死んでいる。慢性的な食糧不足、
物資不足で国民は苦しんでいる。そんな中で君は、税金を増やせと言う
のかね」
第一援助じゃないな、と斉藤は思う。苦し紛れもいい所だ。
「じゃあ、こう、うっ! いうのはどうでしょう。こ、これは全部作り
事なんです。あり得ないのです! みなさん私を騙しているんでしょ
う!」
「はっ」右斜め前の男はバカにしたように唇をゆがめた。「彼は何も考え
ずに、出席したんですよ。だからあせって、くだらないジョークを言っ
てごまかそうとしているんですよ」
「斉藤さん、真面目にやってくださいよ」山田がささやいた。
彼らの行動は自然で、演技か本気か分からない。果たしてドッキリな
のか、違うのか。
「山田君」
「はい!?」山田は驚いたように奥の男の方を見た。
「君はどうだ。何か意見は?」
「ええ。では、私の検討結果をご報告します。すみませんが、ファイル
a2901を開いて下さい」
壁の映像が地球から赤と黄色のグラフに変わった。
「小麦の生産量は年々減少しております。特にアメリカでは……」
斉藤にはどうでもいい事だった。第一、地球が干上がっていくのを何
とかしなければならない時に、なぜ小麦の話などするのだ。
「……であるからして、ヨーロッパ諸国では……」
映像は世界地図に変わった。国毎に色づけされている。
退屈な内容だ。彼は、小学生の頃校庭で、トイレに行きたいのに我慢
して、延々校長先生の話を聞かされたのを思い出した。とても集中して
聞いていられない。
「……炎天下での農作業は困難であり……」
斉藤はつま先で床を小刻みに叩いた。固く結んだ拳を両足に押しつけ、
円を描くようにこする。そして指が食いこみそうになるほど肉をつかむ。
正面の男が咳払いをしたので、足の動きを止めた。
「……全ヨーロッパは危機的な状況であり……」
彼は右手をテーブルの上にのせ、人差し指でコツコツと音を鳴らした。
このままではいけない。いい歳のおっさんが、椅子を汚したらどうだろ
う。いや椅子だけではすまない。床も濡らすだろう。みんな飛びのき、
嫌な顔をするに違いない。軽蔑の目で見るだろう。そんなのは耐えられ
ない。
正面の男が、前より大きめの咳払いをした。斉藤は右手を握りしめ、
割れそうになるほど強く机に押しつけた。
もうダメだ、我慢できない、というあなたの声が聞こえるようです。
まあまあ、いいじゃないですか。こんなの、ただのお遊びじゃないです
か。勝っても何の賞品もありませんよ。そんなのにつきあって、あなた
にどんな意味があるのですか? お漏らしでもしたらどうするのです?
第一、不公平です。読み始めた時にもよおしていた人や、下痢の方に
は不利です。バカな事をしました。
私が悪かったのです。頼みますからトイレに行って下さい。お願いし
ます!
どうしても続けますか? ではすみませんが、もう一杯何か飲んで下
さい。
「もう限界だ!」斉藤は威勢良く立ち上がった。
周りの人間がきょとんとしている。
「すみませんが、便所に行かせて頂きます!」
「斉藤君」奥の男が言った。「君はバカかね」
「何がバカだ! なぜバカだ! 俺は、ただ、トイレに行きたいだけな
んだ!」
いけない。話し合ってはだめだ。無視して直行するのだ。
「おい君、今会議中だぞ。ここは学校じゃないんだ。場所をわきまえた
らどうだ」正面の男が不快そうな表情をしている。
「そうですよ斉藤さん。こんな重要な席で」山田も同調した。
斉藤は回れ右をした。そしてドアの前へと進んだ。
「君は地球とトイレとどっちが大事なんだ!」
「我々を侮辱するのか!」
「逃げるのか!」
一斉に罵声があびせられた。答えちゃだめだ。長引くぞ。うまく言い
くるめようとするぞ。彼は歯をくいしばり、開閉スイッチらしきボタン
に手を伸ばした。
「待て!」
いきなり脇の下に腕を入れられ、後ろから捕まえられた。
「ちょっと、何するんですか」
「絶対行かせないぞ」
「なんでですか。どうして便所に行ってはいけないんですか」
「地球が重大な危機に直面しているからだ」
「答になっていない!」
斉藤は肘を男の腹に叩きこみ、扉を開け、出ていった。
「待て!」
「トイレには行かせないぞ!」
「早く捕まえろ!」
彼は白い廊下を走った。急がなければ、漏れてしまう!
「悪い事は言わない。戻って来い」
「世界が干上がってもいいのか」
これはドッキリなんかじゃない。自分のために、こんな大仕掛けをす
るわけがない。やつらは魑魅魍魎なのだ。「トイレに行かせない妖怪」な
のだ。
「待たんかこらあ!」
振り返っちゃだめだ。もうこうなったら、意地でも便所に行ってやる。
だが、走ることが刺激となって、出そうになる。しかし、捕まるわけに
はいかない。歩いちゃだめだ。
玄関だ! 警備員をかわし、飛び出した。山田は宇宙船の中だと言っ
たが、空もあり、建物も、道路も、木もあった。すべては人工物なのだ
ろうか。しかしそれらは全て、現代のものとは思えなかった。
「待てえ!」
まだ追ってくる。しばらく走ると、広場に出た。そこに、トイレがあ
った!
「おうりゃああ!」
捕まるぎりぎりの所で中にすべりこんだ。すかさず中から鍵をかける。
「おい、開けろ! 開けないか!」
ドアが乱打される。
便器だ。目の前に、思い焦がれた便器があった。とうとうたどり着い
たのだ。
ようやくこの時が来た。彼はチャックを開けた。
まるで、壮大な物語がようやく大団円を迎えたかのごとく、長い長い
時間が流れたように感じた。そう、少年が都市で生まれ、数々の星をめ
ぐり、そして宇宙の真理を知り、母なる星に帰ってきたような。あるい
は、愛する人と離れ離れになった男が、多くの人間と出会い、裏切り、
復讐、対立、戦争といった運命に翻弄された後、愛しい人と再会したか
のような、長大な時が流れた。
「勝った!」
そう叫んだ瞬間、彼の中から滝があふれ出た。
「勝った! 俺は勝ったぞ!」
轟音を立てて、便器に流れ込んでいく。斉藤は、体いっぱいに幸せを
感じていた。突然、嵐のような拍手が巻き起こった。「開けろ!」という
怒声が、「おめでとう!」という祝福に変わっていた。
「おめでとう!」会議室の奥に立っていた男だ。
「おめでとう!」なぜか、W工業の担当者の声もした。
すべての人々が彼の勝利をたたえていた。最後の一滴を出し終えた時、
斉藤は天井を見、両腕を高々と上げた。
「やったぞ、俺はやったんだ!」
拍手は鳴り止むことはなく、彼はこの上ない充足感に身をふるわせた。
斉藤の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
いやあ、苦しかったですか? 私の負けです。完敗です。あなたは偉
い! もうパンパンに張っているでしょう? よくやった! あなたが
勝者です。
追記
どうでしたか? ずっと我慢した後での開放感はたまらなかったでし
ょう。人生の中で、小さな喜びを感じて頂けたとしたら望外の喜びです。
あるいは、「なにそれ?」という感じでしょうか。少しも便所に行きた
くなりませんでしたか? そうですねえ。自分でもちょっと、大袈裟か
な? と思います。
なにか変わったものを、と、頭をひねりにひねって考え出したのが本
作です。短編くらいだったら、途中でトイレに行かなくても読み終わる
のは造作もないことです。しかし、ずっと意識し続けるような状況にお
ちいった場合はどうでしょう? それだけだと弱いので、途中、途中で
何か飲んでもらうことにしました。
さて、太陽の赤色巨星化についてですが、実際には五十七億年も先の
事らしいです。現在の数百倍にまで膨れ上がり、地球は飲みこまれてし
まうそうです。膨らみ始めると同時にガスが抜け、引力が弱まっていく
ので地球は遠ざかり、飲みこまれないという説もあります。いずれにせ
よ灼熱地獄となり、生命は絶えてしまうのですが。熱で死滅するのか放
射能で滅亡するのが先か、それは分かりませんが。そんな後の事ではな
く、一億年後には地球は干上がってしまうという説もあります。
ちなみに、紀元前のローマ時代ではトイレに行かない女性ほど高貴で
あるとされ、良家の女性は小さい頃から我慢する訓練をしたそうです。
膀胱容量は千ミリリットル以上あったと推測されています。これを貴婦
人膀胱と言います。
結構きつかった、という人がいたとしたら、大変うれしいです。耐え
がたきを耐え、我慢に我慢を重ねた上での幸せ一杯な気分を味わっても
らう事が目的なのですから。すっきりしましたか?
すっきりした方は負けです。
この追記も引っ掛けですからね。あなたはまだ読み終わっていないの
ですから。そういう条件でしたよね? まだ読んでいますよね? ここ
まで我慢した方こそ、勝者です。
<了>
#25/569 ●短編
★タイトル (VBN ) 02/06/09 15:53 (373)
重圧箱 時 貴斗
★内容 02/06/09 17:01 修正 第2版
目が覚めると、私は絨毯の上に倒れていた。ペイズリー柄の、赤い絨
毯だ。その上に置いた右手の少し先に、携帯電話が転がっている。
いったい私はどうしたのだろうか。なぜこんな所に寝ているのか。疑
問に思いながらもとにかく上半身を起こす。私は頭をふった。なんだか
ふらふらする。ぼんやりとすわったまま、辺りを見回した。
なんだこれは?
それが最初に浮かんだ感想だった。窓はなく、明かりがついている。
昼か夜か分からない。四方の壁は石膏らしきものでできていて、立体的
な、不気味な彫刻が施されている。
正面の壁には瓶を持ち上げようとしている二人の男が刻まれている。
古代人らしく、上半身は裸で、腰布を巻いている。異様なのは、瓶から
巨大なさそりが頭をのぞかせている事だ。人間と同じくらいの大きさで
はないだろうか。その他の部分は、小さな花でびっしりと埋められてい
る。製作者の異様な神経質さに震えが来るほどだ。
右の壁に描かれているのは岩だろうか。しかし人間の腕が何本も生え
ている。驚くべきことに、すべて壁の表面から突き出している。つまり、
完全に立体的に作られているのだ。助けを求めるように手を伸ばしてい
るもの、固く拳を握っているもの、失神したみたいにだらりとぶら下が
っているもの、様々だ。岩は土の上にあり、背景には鬱蒼とした森が彫
りこまれている。土の質感、木の一本一本が、完璧なまでに表現されて
いる。まるでその風景を魔法によって一瞬にして石に変えてしまったか
のようだ。
左の壁は材質が少し違う。毛布のような、絨毯のような。しかし色は
他と同じだ。そこには木製のドアがある。鍵がかかっていなければ出ら
れるだろう。
振り返ると、巨大な熊が大きく口を開いていた。そのあまりのリアリ
ティに、思わず身が固くなった。周囲は無数の鳥やカマキリや蛇で隙間
なく埋めつくされている。
なぜこんな異様な部屋にいるのか? ……分からない。では、その前
は何をやっていたのか? 思い出せない。今朝の食事は? 昨日の天気
は? どこへ行ったか。どんな仕事をしているのか。
すべて忘れてしまった。私は記憶喪失になってしまったのだろうか。
なぜ?
自分の名前は? これは分かる。平田小五郎、三十七歳、男、生まれ
は……思い出すことができない。結婚しているのか、独身か、大学は出
ているのか。大学どころか何小学校を卒業したのかさえ、記憶から抜け
落ちてしまっている。
頭を強打したのだろうか。事故にあったのだろうか。しかしどこも痛
くない。ただ少し、体がふらふらする。気分が悪い。なんという事だ。
とにかく立ち上がろう、そう思った時、そばに転がっている携帯電話
が気になった。それを拾い、ふらつきながらもなんとか床を踏みしめた。
血が頭から足の方へすっと下がった。
調べてみると、電話のメモリーには一件だけ番号が登録されていた。
アケミという名前で。
どうやら、携帯の使い方は覚えているらしい。
さてどうしようか。ドアを開けようか。もし開かなかったら? 外に
恐ろしい殺人鬼がいたら? 私をこんな所に連れてきた犯人は、なぜ外
部と連絡する小道具を置いたのだろう。一件だけあるというのも、まる
でそこにかけてみろと言っているかのようだ。
一般人には理解し難い珍妙な部屋を用意する奴だ。危険な罠が仕掛け
てあるかもしれない。出た途端に兵士の像が矢を放つか、あるいは鬼面
の口から毒ガスが吐かれるか。そう考えると、電話してみるしか選択肢
が残されていないような気がした。
私はその番号にかけてみた。呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回。
「はい?」
少しかすれた女の声だ。困ったな、名乗らない。
「もしもし」
「どなた?」
警戒しているような調子だ。少し躊躇した。
「あの、平田と申しますが」
「ああ、平田さん」
親密味のある口調になった。私を知っているようだ。しかし相手の名
前も、素性も分からない。何と言えばいいのか。少なくとも家族ではな
いらしい。
「ええと、お久しぶりです」
昨日会ったのかもしれないし、ずっと前かもしれない。犯人かもしれ
ないし、あるいはその仲間かもしれない。
「ほんと、久しぶりね」
良かった。さて、どうしようか。そうだ、登録されていた名で呼べば
……。
「あの、アケミさん?」
「あら、下の名前で覚えていてくれたのね」
どうやらあまり親しい間柄ではないようだ。一、二度会ったきりか。
声から推測すると二十代、いや三十代か?
「すみません。苗字をど忘れしてしまって」
「京野よ。京野明美」
「ああ、京野さんですか」思い出せない。「ええと、最後にお会いしたの
はどこでしたっけ」
「最後も何も、一度しかお会いしていないわ。キリマンジャロっていう
バーで」
自分はバーに行って女を口説くようなタイプなのか。あまり立派な人
間じゃないな。
さて困ったな。次は何を聞けばいいのだ。いっその事、全てを正直に
打ち明けて、相手が敵か味方か確認したい。
気まずい沈黙が支配する。
「いやだ。まるで、成功したみたい」
黙っていると、彼女の方から話題をふってきた。しかもとても気にな
る事を。
「成功? 何が成功なんですか」
「あら嫌だ。本当に成功したみたい。……冗談なんでしょう?」
「ですから、何が成功したんですか」
「ええ? ある人がね、あなたを記憶喪失にするって。まさか、ほんと
に忘れちゃったの?」
「あなた何か知ってるんですか」
「嘘。演技なんでしょう? 私のこと、からかってるんでしょう? だ
って、そんな事ってある? ドラマと違って、記憶喪失なんて実際には
そうそうない事だって、その人言ってたわ」
「演技じゃありません。本当に忘れてしまったんです!」
興奮してつい怒鳴ってしまった。彼女は言葉を返さない。その数秒間
が重苦しかった。
「私は今奇妙な部屋にいるんです。おかしな像が壁一面に彫りこまれて
いて……。さっきまで倒れていたんです。そして、それ以前の事はまっ
たく忘れてしまいました。正直に言います。あなたの事も覚えていませ
ん。何か知っているのだったら教えて下さい」
「あきれた。でも平田さんの言ってることが本当なら、教えてあげられ
ないわ」
「なぜですか。ある人とは誰ですか。あなた、犯人の仲間じゃないんで
すか? 成功って、私を拉致するのに成功したという意味ですか」
「そうかもしれないし、違うかもしれないわね」
「お願いです。少しでもいいんです。何か知ってるんでしょう? 頼み
ます」私は懇願した。
「その人が教えるなって言ったのよ」
「つまり、私が記憶をなくす前、そいつが京野さんに、教えてはならな
いと言ったのですか」
「そうよ。私はその人の話にすごく興味を引かれて、もし成功したら絶
対協力するって言ったわ。でもこんな事起こるわけがない。なんでイタ
ズラするの? 私の気を引こうったってだめよ。あなたとは一度飲んで、
楽しい話をしただけ。私にその気はないから」
電話は一方的に切られた。
私は床にうずくまっていた。どのくらいそうしていたか分からない。
何時間か、それとも何分か。時計もなく、風景も動かないので、時間の
感覚がうまく働かない。
ここでじっとしていても仕方がない。部屋の外に危険な罠が仕掛けて
あったとしても、用心深く進めば回避できるのではないか。犯人は私に、
この不気味な空間にずっといる事を要求しているのだろうか。鍵が掛か
っていなかったとしたら、答はノーだ。
私は思いきって立ち上がり、携帯を持ったままドアに近づいていった。
進むにつれて、寒気がしてきた。その正体は、壁のそばに来た時に分か
り、全身に鳥肌が立った。
蟻である。
いったい何万匹、いや何億匹いるか知れない蟻が、びっしりと彫りこ
まれているのだ。素材は他と同じであった。布のように感じたのは、触
覚がすべて壁から突き出しているからであった。なんという細かい作業
だろうか。
恐ろしい。とにかく出よう。私はドアノブに手をかけ、回した。何の
抵抗もなく扉は開いた。犯人は私を、ここに閉じ込めておく気ではない
らしい。
ゆっくりと、慎重に踏み出す。どうやら、予想したような攻撃はなさ
そうだ。外には廊下が真っ直ぐにのびている。何か変わった物はないか。
銃や、毒針が仕込まれていそうなものは。そんな事を考えながら私は進
んだ。
犯人はどこにいるのか。
「おおい、誰かいないか」私は叫んだ。
胸に染み込むような静寂が答える。
それにしても、なんという古びた建物だろう。きれいにしているが、
柱にも、壁にも、床にも、無数の傷が見られる。築年数が長いのか、あ
るいは廃屋なのか。だが、部屋の石膏像は比較的新しいようだった。
用心深く歩を進める。先ほど出てきたドアの向かい側と、前方の左右
に同じような扉が並んでいる。私は少し前進し、左側のドアを開け、入
った。
壁を埋め尽くさんばかりに並べられた絵画が目に飛び込んできた。角
を生やした一つ眼の巨人が海から出てこようとしているもの、エアコン
に、大量の耳がくっついているもの、マネキン人形を抱えて逃げるよう
に走っている男、いずれも奇怪な絵ばかりであった。そのうち、他より
一際大きい絵画に、私の目はとまった。
毛の長い、大きな犬だ。しかしチャウチャウのような種類ではなく、
マルチーズなのだ。人間の腕が奥に向かってのびていて、手に噛みつこ
うとしている。
背景には通行人が小さく描かれているが、皆こちらを見て嘲り笑うよ
うな表情をしている。
私の中に正体の分からない不安感がわき起こり、自分の右手を見た。
人差し指に傷跡がある。絵の中の犬も、人差し指を噛もうとしている。
さらに、根元に小さなほくろがあるのを見つけた。私にも同じ位置にほ
くろがある。これは、私の腕なのか?
突然、頭にイメージが浮かび上がった。小さい頃の自分が、マルチー
ズに噛みつかれているのだ。そして私は泣き喚く。指からは血が滴り落
ちている。映像が浮かんで消えるまで、ほんの一瞬であった。
何かが思い出せそうで思い出せない。
今のが本当にあった出来事だとしたら、この絵はいったい誰が描いた
のだ。私自身? そんなバカな。だとしたら、自分の絵がなぜこんな場
所にあるのだ?
子供の時犬に噛まれた事、人差し指の付け根にほくろがある事を知っ
ている人物。かなり親しい間柄だ。家族か、親戚か、友人か、あるいは
……さっきの女!
いや、彼女は一度会ったきりだと言っている。しかし、この状況では
彼女がもっとも疑わしい。いったい何をしたいのだ。記憶をなくす前、
私はあの女とどんな会話をしたのか。
時間をかけ、一つ一つの絵を鑑賞していった。冷たく、恐ろしい世界、
しかしなぜか、自分の心に違和感無く浸透してくるような気がする。
私はそこを出て、向かい側のドアを開けた。
今度は、鉄の部屋だ。重々しいオブジェが、壁に沿って並んでいる。
人が乗った馬、怪鳥、巨大なムカデ、星――いや、ヒトデだろうか。ど
れも抽象的で、単なる鉄くずにも見える。鉄板が直線的に切り取られ、
溶接されている。色は塗られておらず、金属の肌を露出している。
これらを作り出した奴は、様々な分野の芸術に手を出しているようだ。
それとも自分の創作物ではなく、コレクションなのだろうか。だがそん
な金持ちが廃屋に住んでいるとは考えにくい。
芸術家はわずかな貯金で古い家を買い取り、自分の世界を構築したの
だ。だがそれを私に見せる意図はなんだろう。
もう一度彼女に電話をしてみることにする。呼び出し音が鳴る。
「はい」
「あの、平田ですが」
「もう、なによ。しつこいわねえ」
「聞いてください。私はやましい気持ちなどないんです。本当にすべて
を忘れてしまったんです。ところで」さて、何と聞こうか。「あなた、芸
術の才能がおありですか?」
「はあ? どういう事よ」
「この家は奇妙な美術品で埋め尽くされているようです。その中に、私
の事をよく知っている人物でなければ描けない絵を見つけました。小さ
い頃の私に、犬が噛みつこうとしているんです」
「あら、子供の時の事は覚えているのね」
「違います。絵を見て思い出したんです。どうもあなたの言う事は怪し
い。部屋に転がっていた携帯に、あなたの番号だけメモリーされていた
のも変です。私をこんな目にあわせているのは、あなたなんでしょう?」
「いやだ。とんでもない勘違いね。でも、記憶喪失になった事は信じて
あげる。教えるなって言われたけど、ちょっとだけヒントね。二階に上
がってごらんなさい」
電話はまたしても切られた。どういう事だ、これは。幸い、電波が来
ないような地理ではないらしい。窓はないが、壁がアルミ箔で覆われて
いない限り電波は届く。彼女との連絡だけが頼りだ。しかし、これでは
五里霧中だ。
悩んでいる私の目に、一つのオブジェが飛び込んできた。犬にまたが
ったポニーテールの女の子だ。いや、犬じゃない。
私の脳裏に再び短いイメージが浮かんだ。メリーゴーランドで、小さ
い馬にまたがって、こちらに向かって手をふっている妹だ。
二階に行く前にもう一つの部屋――最初にいた場所の向かい側にある
部屋を見ておこうと思った。ドアを開けてみると、そこはトイレと風呂
が一つになったユニットバスであった。
廊下の突き当たりは玄関で、横に階段がある。そうだ。なんという事
はない。ここから外に逃げ出せばいいではないか。もっとも、開けばの
話だが。
しかし扉はびくともしなかった。よく見ると、溶接されていた。
階段を上りながら、私は恐ろしい可能性を考える。自分をこんな目に
あわせているのは、自分自身ではないのか。彼女のもったいぶった言い
草が、過去の思い出を題材にした作品が混じっている事が、そして、ほ
くろまで正確に描かれた手が、それを示唆していた。京野明美の言う「あ
る人」とは私のことではないのか。だが一体なぜ? 彼女は「成功した」
と言っていた。意図的に記憶を消すことなどできるのか。
二階も、四つの部屋が廊下をはさんで並ぶ構造になっている。私は手
前の左側の部屋に入った。そこは台所、というより食糧庫であった。缶
詰類が多い。レンジで温めるご飯や、味噌、コーヒーといった保存食ば
かりだ。犯人――あるいは私は、ここで長い期間過ごすつもりなのだろ
うか。
次に、向かい側の部屋に入る。ここは書斎のようだ。本がたくさん並
んでいる。机があって、なにやら数種類の薬がのっている。私はそのう
ちの一つを取り上げた。錠剤の入った銀色のシートに、「ハルシオン0.
25mg ハルシオン0.25mg……」という文字が並んでいる。
なんだこれは。
他の薬をつかむ。こちらは金色っぽいシートで「ラナックス0.8m
g ソラ」とある。左右の端で文字が切れている。やはり同じ単語が並
んでいるのだとしたら、「ソラナックス」だろうか。まだ数種類の薬剤が
ある。
もし私のものならば、何の病気だろう。
とりあえずそれはほうっておいて、書棚をながめる。「記憶のメカニズ
ム」、「記憶の不思議」、「ヒトと記憶」、……。記憶に関する本が多いよう
だ。私は「記憶のメカニズム」を引きぬいた。
――逆行性健忘 一般に「記憶が飛ぶ」という場合は、この事を指し
ます。多量に飲酒した後、翌日目が覚めると、寝るまでの行動がすっか
り頭から消えてしまっている状態です……
私はページをめくった。
――記憶は、その内容によって三つに分類されます。エピソード記憶
は、いわゆる思い出です。過去の出来事を覚えていることです。手続き
記憶はバイクに乗ったり、泳ぐなど体で覚えた技術です。意味記憶は人
や物の名前、その存在や、常識などの記憶です……
私の場合、言葉の意味や携帯電話の使い方は分かるから、エピソード
記憶がなくなっているらしい。
本を元に戻す。彼、彼女、あるいは私は、なぜ記憶について調べてい
るのだろう。人為的に喪失させる方法を見つけるため? そんな事が可
能か? しかし、もしそうだとしたら、私に対しては成功したというこ
とになる。
私は書斎を出て、隣りの部屋に入った。
大量の石膏像だ。しかし目覚めた場所にあったような、壁に彫りこん
だものではない。立像だ。怪奇的で、醜悪で、美しい。
その中に見覚えのある人物像を見つけた。誰だろう。
「芸術家になるだと? ふざけた事を言うなよ」という声が突然頭の中
に響き渡った。
美大で友人だった、岡田だ。
「お前の力量で、プロとして飯を食っていけると思うか」
確かに、彼の力は抜きん出ていた。優秀だった。
「みんながあっと驚くような、斬新な物を生み出さなければならないん
だよ。でなきゃ、誰が振り向くもんか。お前のは陳腐で、幼稚で、子供
でも作れるような代物だ」
屈辱だった。彼の言った通り、その後私の作品はまるで売れなかった。
ジグソーパズルのピースをはめるように、徐々に記憶が回復している。
芸術家が――私が、そうなるようにわざわざ思い出を呼び覚ますような
ものを各部屋に置いたのだろうか。
私ははっとした。妹の像、なぜあれが置かれていたのか。妹は、あの
後すぐに交通事故で亡くなったのだ。その悲しみは深く心に刻まれてい
た。
この家は私に強い圧力を与える。重圧の箱だ。
彼女に三度目の電話をかける。
「二階には保存食と、薬と、記憶に関する本がありました」
「あらそう。それで、何の薬か分かった?」
「さあ、私のだとしても覚えていないし、他人のだったら分かりません」
「そうねえ。あなたをそこに閉じ込めた人は、記憶の本をたくさん読ん
でいたみたいね。薬の本なんかもあるんじゃないかしら? 何か分かる
かもよ」
私は書斎に駆け込んだ。本棚を調べると、「薬の効能を知る本」という
のがあった。ハルシオン、ソラナックスについての説明を探し出す。そ
れらは、睡眠薬やマイナートランキライザーであった。そしてその副作
用に……健忘があった!
――ベンゾジアゼピン(BZ)系薬剤は、BZ受容体に結合して効果
を発揮します。しかし、そのBZ受容体は記憶に大きく関与する海馬に
多く存在するため健忘の症状が現れるのです……
――A子さんの体験談 私、ハルシオンとか飲んでた。前の彼氏と別
れちゃってさあ。リスカして入院させられて。その時出されたやつ。も
う、恐ろしいほどどんどん忘れていった……
体に衝撃が走った。そうだ。私は記憶をなくす方法を探し求め、これ
らの薬にたどりついたのだ。普通、病院に行かなければ手に入らない。
私は、違法行為によって入手したのだ。中国の、危ない商品を取り扱っ
ている会社から買ったのである。
どれとどれの薬をどのくらい飲めば自分の望む結果が得られるのか。
私は自身を実験台にして試した。組み合わせによっては結構いい所まで
はいった。だが、たいていは服用後から目覚めるまでの間の記憶がなく
なっているだけだった。しかし、ついに成功したのだ。
私は、最後の部屋に向かった。これですべてがはっきりする、そんな
予感がした。中に入ると、そこは額縁に入っていない大量のキャンバス
が積み上げられていた。他と違い、窓があった。その下には重々しい鉄
製の板が置かれている。そして、画架にたてかけられた一枚の大きな絵
が、私の頭を直撃した。
冠を戴いた王が苦悩する様子を描いている。彼は箱の中に閉じ込めら
れている。外にいる家来や、庶民達からはけっして見ることができない。
箱はこの家だ。そして王は私自身。私は、自分で築き上げた世界の王
なのだ。神と言ってもいい。そして芸術は、誰からも見られる事はない。
私はついに、すべてを思い出した。
京野明美に電話する。
「ようやく、全部思い出しました」
「そう」
「前にも話しましたが、私は『閉じた芸術』を作りたかったのです」
「そんな事を言ってたわね」
バーで、私はだいぶ酔っていた。つい、自分の心に秘めた計画を、誰
かに話したくなった。そこにいたのが彼女である。
「どんな賞もとれませんでした。公募展にも蹴られました。私の作品は、
誰にも理解されませんでした」
「よくある事よ」
「私は、人に認めてもらうのをあきらめました。そもそも、美術とは誰
かに見てもらうためのものでしょうか」
「なんで記憶を消そうと思ったんだっけ。この前聞いたかもしれないけ
ど、私、酔ってたから」
「作品は、着想を得た時はすごいと思うんですよ。しかし、絵の具を重
ね、修正を繰り返すうちに、本当にすごいのか分からなくなってしまい
ます。見慣れて、ぼやけてしまうんですよ。私は、自分で築いた世界を
客観的に楽しみたかったんです。なにしろ、閉じていますからね。誰か
に評価してもらうわけにはいきません。客は私だけです。自分で鑑賞す
るためには、まったく初めて見たような状態にするには、記憶を消す必
要があったのです。つまり、観客を作りだすために、脳をリセットしな
ければならなかったのです」
私は記憶をなくして自分の創作物を見た時、なんと不気味で、恐ろし
いのだろうと感じたのではなかったか。そうだ。これは人に見せるため
に作ったのではない。他人に鑑賞させ、喜ばせ、感嘆させ、賞賛しても
らう。それが「美」の意義なのだろうか。
多数決によって価値が決まるような代物は、一定の枠にはめられてし
まう。誰も考えつかなかった斬新なもの、見る人を白けさせないものが
求められる。それが芸術の意味だろうか。
大自然は人を感動させる。荘厳な峡谷、壮麗な滝、怒り狂ったように
溶岩を噴き上げる火山、南極の、一日中闇に閉ざされた冬の季節に、空
に冷たく輝くオーロラ、そういったものは、人間を楽しませるために作
り出されたものだろうか。
違う。それらの「美」は、評価や賞賛とは無関係である。独立した存
在なのだ。
私は誰にも鑑賞されない、「閉じた芸術」を生み出したかったのだ。
そして最終目的は、自分自身が作品の一部となる事だった。私は、こ
の世界の神となるのだ。
「どうしたの? 黙っちゃって」
「誰にも言わないで下さい。ここは自宅から遠く離れた場所です。電話
番号から調べることはできません。警察にも言わないで下さい」
「普通なら、助けようとするでしょうね。でも私はあなたの考えに賛同
した。言ったでしょう? 成功したら、絶対協力するって」
「有難う」
私は電話を切った。
窓枠に鉄板をはめれば、誰にも見ることができない「閉じた芸術作品」
が完成する。二度と取りはずせない仕掛けになっている。外には田園が
広がっている。右手に山が見える。小さな家が、点々と建っている。密
やかな場所だ。私は携帯を美しい風景の中に放り投げた。これで、連絡
手段はなくなった。
私は重い鉄の板をゆっくりと持ち上げ、静かにはめた。
<了>
#26/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/06/09 18:19 (253)
テレフォン 已岬佳泰
★内容
名古屋駅の改札を通った時には、もう午後7時を回っていた。
「弁当、買ってきますよ。それにビールもね」
プラットホームに駆け上がると、同僚の鐘尾真二がそう言いながら、キオスクへと走
った。新幹線の時刻にはあと5分くらい。明るいキオスクには、私たちのような仕事帰
りらしいスーツ姿が群がっている。鐘尾に頷くと、私は内ポケットに手を突っ込んだ。
会社から支給されたばかりのケータイ、つまり携帯電話を取り出す。小さな銀色の携帯
電話は、私の手のひらにすっぽりと収まるほどに小型で軽い。小憎らしいほどに機能的
にまとめられたパネルデザインもなかなか良かった。
だけどそれでも、私はこの携帯電話が苦手だった。こっちの都合にお構いなしにかか
ってくる仕事の電話。会社ですらうんざりなのに、それをポケットに入れて一日24時
間過ごすなんて、思ってみただけでぞっとした。
「加奈も学校へ行くようになるし、緊急のときにすぐに連絡がつかないと困るわ」
妻の裕子から言われなければ、私はずっと携帯電話を拒否し続けたろう。課長になっ
てからもずっと逃げてきた私だった。しかし、一人娘の加奈の名前を出されると頷かざ
るをえなかった。
触ると緑色に発光する番号ボタンを押して、最後に発信ボタン。耳に当てると呼び出
し音が鳴っている。
新幹線の中で晩飯は済ませて帰るから。
裕子にはそれだけを伝えるつもりだった。
「はい、アイザワです」
「あれ?」
耳元から流れてきた遠慮気味の声に私は戸惑った。裕子の声ではなかった。アイザ
ワ。掠れた声。どこかで聞いたことがあるぞ。
「もしもし? アイザワですが、どなた?」
手の中の携帯電話が問いかけてきた。その掠れた声に記憶の漆喰が剥がれた。
名前の前に、強い香りの記憶がよみがえる。
蔦の絡まる石壁、錆の浮いた鉄製のゲート。その向こうに建つ煉瓦作りの大きな西洋
館ではバラが満開だった。鉄門へと続いた石の歩廊に、赤い革鞄を提げたセーラー服の
少女が立っている。長い髪が少しだけ風に揺れて、スカートのプリーツも僅かに揺れて
いた。彼女は何度か首を伸ばすようにして、表通りを見ていた。手首の時計に目をや
り、そしてもう一度表通りを見る。冷ややかな表情。そんな彼女を私はどこからか見て
いた。なぜか、出番をとちった舞台役者のような気まずい思いを持て余しながら。
藍沢ユキ?
何年ぶりだろう。低くて少し掠れた声は、間違いなく彼女の声だった。急に体が熱く
なった。と同時にひどくうろたえた。彼女との記憶は、厚手のハトロン紙に包み、厳重
にテープで密封していたはずだった。しかし、どうして彼女がこの電話に?
間違い電話だった。
自宅に電話したつもりが、番号を押し間違えたのだ。それにしても、封印しておいた
はずの彼女の自宅の電話番号を押してしまうなんて、何という巡り合わせだろう。
切れ。
私の奥で別の誰かが叫んだ。
もう済んだことだ。
「すみません。番号を間違いました」
私はユキの返事を待たずに切った。そのまま手元の携帯電話を見つめる。通話表示が
消えても、液晶パネルは薄い青色に発光していた。まるで、遠い藍沢ユキの吐息がそこ
に残っているかのように。
頭を振って、フラップを畳んだ。
新幹線がホームに滑り込んできたのと、鐘尾が手を挙げたのがほぼ同時だった。
「さ、帰ろう」
私は動揺を押し殺して、新幹線に乗った。
家に帰りついたのは午後11時を回っていた。
「ついさっきまで加奈も、パパを待ってるとか言って起きていたんだけど。残念でし
た。5分くらい前に、ぱたんと寝てしまったわ」
パジャマに着替えた裕子がそう言うと、ちいさくあくびをした。裕子の口紅を落とし
た唇に、つい電話の声を思い出しかけて、払い飛ばした。新幹線の振動で振り落として
きたはずの余韻が、遠い海鳴りのように残っている。
ベッドで眠る加奈の顔を見てから、私もシャワーを浴び、そのまますぐに横になっ
た。出張の疲れもあったのか、案外すぐに眠りにつけたのだったが。
暗闇の遠くから、電子音が聞こえた。
断続的に繰り返され、次第に近づいてくる。ドップラー効果だろうか、電子音のピッ
チがだんだん短くなり、ついに頭の中が高周波で溢れそうになった。
これは救急車の電子音か。
近いぞ。誰か急病か。まさか加奈が……。
そう思った瞬間に、目が覚めた。ぴーぴーと電子音が耳元でうるさく鳴っている。半
身を起こして見ると、青い光が枕元で点滅していた。携帯電話だった。
壁時計を見上げる。午前2時。
「なんだよ、こんな時刻に」
私は低く悪態をついた。これだから携帯電話はイヤなのだ。こっちの事情にはお構い
なしなのだ。しかし、こんな夜中にいったい誰だろう。
すぐに、奈良で雑貨屋を営んでいる両親を思い浮かべた。去年の夏に、加奈を見せに
帰省したとき、ずいぶんと背が低くなった気がして不安になったものだ。帰り道、こっ
ちへ呼び寄せていっしょに暮らそうかと裕子と相談した。いつまでも元気だと思ってい
た両親だったが、自分たちが歳を取るのと同じように、彼らも確実に老いている。
まさか急病、いや何か事故でも?
不吉な予感に、乱暴に携帯電話を掴み上げた。
「もしもし、杉崎さんですか」
どきんとした。電話の向こうから聞こえたのは、あの掠れ声だった。たちまち、背中
を百足が這いずり上がってくるような悪寒がした。
「どうしたの?」
裕子も隣りで目を開けていた。私の顔をいぶかしげに見つめている。表情の変化を気
取られたかもしれないと思うと、私は落ち着かない。
「もしもし、ユキです。久しぶりね」
私の返事を待っていなかった。藍沢ユキ。間違いない。彼女だった。遠い香りの記憶
が戻ってくる。風に舞うプリーツスカート。古めかしい西洋館のバラ園。記憶に体がじ
んと反応する。
「ねえ、どうしたの。誰からの電話?」
裕子が半身を起こした。慌てる私。
「なんでもないよ。間違い電話だ」
オフのボタンを3秒以上押し続ければ、それで携帯電話の電源は切れる。じっと親指
に力を込めた。
「間違い電話じゃないわ。私よ。切らないで。ねえ、話を聞いて……」
通話はそこで切れた。思わず、ほっと溜息がこぼれる。深夜の静寂の中、切れる間際
のユキのせつない声が鼓膜に残っていた。
それにしても、と思う。
こんな夜中に唐突に電話をかけてきて、ユキはいったい何の話があるというのだろ
う。話だけなら昼間でもできる。5年以上も会っていないのだから、もし久しぶりに話
をしようとでも言うのなら、まずその方がフツウだろう。いきなり深夜に電話というの
はいかにも変だ。
藍沢ユキ。まるで、寓話から飛び出してきた呪いを見ている気分だった。とっくの昔
に、きれいさっぱりとケリをつけたはずだったのに。
そもそも、どうして私の電話番号が分かったのだろう。
次々と出てくる疑問に答える手がかりもないまま、私は寝室の天井を見ていた。今夜
はもう眠れそうにない。
隣りで裕子は寝返りを打つと、ほどなく寝息をたて始めた。
翌日、寝不足の頭で会社へ出るとすぐに鐘尾が飛んできた。
「杉崎さん、ケータイ切っているでしょう。横浜の客が怒ってましたよ。すぐに来て欲
しいって」
日頃からかなりうるさい客だが、業界にも相当の発言力を持っている。放って置くわ
けにはゆかなかった。鐘尾にせかされるようにして、私は会社を飛び出した。鐘尾が営
業車を運転した。
首都高に乗ると流れは意外とスムーズだった。渋滞は出てないようで、昼前には横浜
に着けそうだった。一息いれて、横尾が煙草を取り出したので、私は昨夜の疑問をそれ
となくぶつけてみることにした。
なぜ藍沢ユキが、知らないはずの私の携帯電話にかけてこれたのか。
もちろん、ユキのことは伏せた。携帯電話を初めて使う初心者の、素朴な疑問として
尋ねてみたのだ。鐘尾は簡単に頷いた。
「最近のケータイだと、相手の番号が履歴として残るんですよ。番号を非通知としてお
けば別ですが、会社から支給された杉崎さんのケータイは通知設定になってるはずだか
ら、相手にはこっちの番号が残ります。その番号に対してリダイヤルしてやればOKな
わけです。いちいちこっちの電話番号を伝えなくてもコールバックができるんですか
ら、便利になりましたよね」
鐘尾にあわせて私も笑ったつもりだったが、きっと顔はひきつれていたに違いない。
つまり、昨日かけた間違い電話の記録が、藍沢ユキのもとに残ったということらしい。
だから、彼女は私の電話番号を知ってしまった。何気ない間違い電話一本で、私は過去
の亡霊に追いかけられているのか。
ポケットから携帯電話を取り出した。高性能の精密機器が、今ではウジ虫よりも忌ま
わしいものに見えて、私は舌打ちをした。
「あれ、まだ電源を入れてませんね。まずいですよ。留守電がパンクしちまう」
「留守電?」
「あれ、イヤだなあ。杉崎さん、今朝の僕のメッセージも聞いてくれてないんですか
あ」
鐘尾は私から携帯電話を奪い取ると、電源を入れ、ぴぴぴっと素早く指を動かした。
それでまた私に返す。
「聞いてみてください。僕の怒りのメッセージが入っているはずです」
そういうと鐘尾がにやりと笑った。
ぴーっ。
「もしもし、ユキです。お電話ありがとうございました。とてもびっくりして、とても
嬉しかったです。お声を聞いて、すぐに杉崎さんだと分かりました。本当に嬉しかっ
た。間違い電話だなんてシャイなところもお変わり無いですね。あの、どこかでお会い
できませんか? ぶしつけなお願いだとは分かっているのですが、お返事ください」
ぴーっ。
「もしもし、ユキです。ぜひお会いしたいのです。お話ししたいこともありますし。お
電話お待ちしております」
ぴーっ。
「ユキです。ねえ、どうして電話に出てくれないの? 私のことが嫌いになったの。お
願いです、電話をください」
ぴーっ。
「ユキです。わああーん。なんでー。電話をかけてきたのはそっちでしょ。せっかく、
せっかく忘れかけていたのに、よくも思い出させせてくれたわね。責任とってよぉ。
おーい……」
ぴーっ。
「ユキ。何よぉ。なんでだよ。なんで、電話でないんだよ。また今度も、あたしから黙
って逃げようったって言うの。今度はそうはさせないよ。そっちがその気なら、こっち
にも考えがあるからね。逃げるんじゃないよ」
ぱたん。
震える手で携帯電話を折り畳んだ。
「杉崎さん。顔色が悪いっすね。大丈夫ですか」
鐘尾がちらちらと私の顔を伺うのが分かる。なんでもないと小さく答えながら、私は
必死に落ち着こうとしていた。留守電にメッセージは十件残されていた。しかし、五件
だけ聞いて充分だった。残りもほとんどが藍沢ユキからだろう。彼女はあの電話以来、
ずっと留守電にメッセージを入れ続けたらしい。聞くに堪えないメッセージだった。
記憶の中の藍沢ユキは、静かで理知的な少女だった。クラスでも上位の成績で、両親
は外交官。まるで絵に描いたようなマドンナ的存在であったというのに。やはり、あの
事件が彼女の人生を狂わせてしまったのだろうか。耳を疑うような汚い言葉。恨みの籠
もった口調。藍沢ユキの唇から発せられたとは、とても信じがたい。
悪い夢だ。
そう思いたい。いや、私はそうであって欲しいと心から願う。
たった一本の間違い電話。かけたのは確かに私だ。その一本の電話がユキの過去を目
覚めさせてしまったと言うのか。なぜ、ユキはこれほど興奮しているのか。
分からなかった。
確かに……。
私は封印していた記憶をさかのぼる。
確かに、私とユキには高校3年の頃、ちょっとした関係があった。しかし、それは今
思えば、青春期にありがちな好奇心と恋愛願望の現れに過ぎなかったと思う。恋愛のま
ねごと。ふたりともそれをまるで水飴でも舐めるように愉しんだだけのことだったの
だ。
疑似恋愛にとっての不都合は彼女の方に起きた。ユキの父親が醜聞事件を起こし逮
捕。ニュースは全国レベルで報道され、マドンナは地に堕ちた。思えばあの瞬間からユ
キの言動が不安定になったように思う。しきりにバラ園に誘われるようになったのもあ
の頃だ。大きな西洋館がユキの自宅だと知ったのも、バラ園で必ず抱き合ったのも、毎
夜のように自宅に電話をかけるようにせがまれたのも、あの頃からだった(だからユキ
の電話番号はソラで覚えてしまったのだ)。
しかし、卒業が近づいたある日、私は約束した彼女の前に姿を現さなかった。ユキの
執拗さに辟易し始めた私の方が、ユキより一足早く、疑似恋愛の熱病から冷めたのだ。
そして、彼女がひとり、西洋館の前で夕暮れまで私を待っていたのを、じっと街路樹の
陰から見ていた。
ユキは翌日から高校に来なくなった。失踪したらしいとクラスメートが噂していた。
しかし、事実は違っていたらしい。卒業式の後、流れたカラオケでクラス担任の教師が
口を滑らせたのだ。ユキは入院していた。
「どこが悪いんですか」
気になって聞いた私に、担任教師は黙って頭を指さした。
「頭? ですか」
「壊れてしまったらしい」
その時の私の気持ちは何と表現すればいいだろう。
「逃げるんじゃないよ」
ユキの捨てぜりふが、急に気になってきた。
「ケータイの番号から、相手の住所とか分かるものかな」
「ダメでしょうね。電話会社は教えないでしょう。でもね、金を出せばそんなものは簡
単に分かるらしいですよ」
「このケータイから、自宅の住所も分かるのか?」
「いえ、それはないですよ。だって、この電話は会社から支給されたものでしょ。それ
だったら、会社の住所になってますから。おっと」
小さな音がした。鐘尾が自分の携帯電話を取り出している。それを見ながら、私は少
し安心した。それなら、彼女が私の家まで追いかけてくる危険はないだろう。あとはこ
の電話をどこかに捨ててしまおう。それで会社に紛失したとか言えば、多少は叱られる
だろうが、過去の亡霊に悩まされることはなくなる。
我ながら、素早い解決法だと嬉しくなった。ユキの真意はわからないけれど、どう
も、いまだに精神的におかしいとしか思えない。
君子危うきに近寄らず。
「杉崎さん、会社にお客さんらしいですよ」
鐘尾が電話口を抑えながらそう言った。
「誰? 約束してた人かな」
急に会社を飛び出してきたから、と少し心配になる。
「アポ無しらしいです。受付で、今日は不在ですと言ったら、すごい顔して睨みつけら
れたそうですよ。でも、すっごい美人だったそうで、杉崎さんのご自宅の住所を聞い
て、帰ったそうです」
「え? ウチの住所をどうして教えるんだ」
思わず叫んでいた。鐘尾が運転席で飛び上がった。
「届け物があるとか言っていたそうで……」
鐘尾の声は耳を素通りした。
ユキに違いなかった。とうとう、自宅にまで追いかけて来るつもりなのか。
私は携帯電話を取り出した。自宅の番号をソラで押す。呼び出し音が鳴る。そこで、
はっと私は自問した。
いったい、裕子になんと説明するつもりなのだ。
昔つき合っていたアブナイ女が行くから注意しろとでも言うのか。
溜息をついて、私は電話を切った。
加奈の顔を思い浮かべる。そして裕子の顔。他に選択肢はなかった。
過去の亡霊を、引きずり出したのは私なのだ。正面から向き合うしかあるまい。
私は息を吸い込むと、別の番号を押し始めた。そっちもソラで覚えている番号だっ
た。
(了)
#27/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 02/06/28 23:11 (345)
お題>作家>サンダー&ライトニング 永山
★内容
他の大勢の人達と同様、津堀虹太もハンマーで頭を殴られた経験はない。
が、適当にチャンネルを切り換えていたテレビで、不意にそのテロップを目
にしたとき、ハンマーで頭を殴られるというのは、こういう衝撃なんじゃない
かと、彼は漠然と想像できた。
<濱中美代 電撃入籍! お相手は茶州賞作家 日立林蔵>
深刻な腰痛に悩まされ、初めて欠勤した平日の昼過ぎ。寝床に横たわったま
ま呻きながら、缶のトマトジュースを飲み、出来合いのハンバーガーを頬張っ
ていた津堀だったが、その画面に目は釘付けとなり、口の動きは止まった。顔
をなるべく真っ直ぐに起こし、画面の右下隅に映じられた黄色い文字を見つめ
る。滅多に見ることのないワイドショー番組だった。
「静子のやつ、こんなに早く結婚するなんて……」
静子とは、濱中美代を意味する。芸能人の濱中美代は、本名を田中静子とい
う。津堀がそれを知っており、なおかつ下の名前で呼び捨てにしたのは、彼が
濱中美代のストーカー紛いの大ファンという訳ではなく、幼なじみだからだ。
ただの幼なじみではない。かつて、付き合っていた仲である。中学一年の半
ば頃から交際を始めて極めて順調かつ健全に進んでいた仲だったが、高校一年
の夏休みに静子が芸能事務所にスカウトされたことで変化が生じた。徐々に売
れ始めた静子は、親の賛同もあって、高二になった春を機会に、都心に出て行
ってしまった。無論、旅立つ直前に、お決まりの縁切り宣言がなされた。芸能
人にデビュー段階から恋人がいたのでは、人気に響くとの理由によるものだ。
未練の残る津堀だったが、彼女の熱意を尊重し、別れに同意した経緯がある。
静子は見目のよさや才能に加え、運もあったのだろう。瞬く間に売れっ子に
なり、程なくして足場を確立した。そんな活躍ぶりを見ていた津堀は、別れて
正解だったなと思い込もうとした。その割に、新しい恋人は全くできなかった。
作る気になれなかったのかもしれないし、静子のおかげで知らず知らずの内に
贅沢になったのかもしれない。
津堀がそれでも不満もなく暮らしてこられたのは、静子がタレントらしく独
身を通し、少なくとも表面上は恋人もいない様子であったから。心の片隅で、
引退したら戻って来るかもと期待する気持ちが皆無だったとは言えないが、そ
れを抜きにしても何となく、結婚しないものと思い込んでいた。世の中の男性
――二十〜三十代の男は皆そうだろう。番組のコメンテーターで三十代半ばの
男も、「これは意表を突かれましたねえ。まさに電撃ですよ。信じられないな
あ」としきりに言っている。
チャンネルを変えかけた津堀だったが、リモコンを手に、思い止まった。
(静子を――濱中美代をその気にさせた男って、どんな奴なんだ?)
津堀は普段から読むなら小説よりも漫画というタイプ故、日立林蔵なる作家
を知らなかった。新聞か何かで、名前だけ見たことがあるような気がしないで
もない、その程度だ。
番組の司会を務める俳優や女性アナウンサーは、さっきから二人の馴れ初め
を語る他は、日立林蔵の代表作を挙げるくらいで、作家の顔写真や映像は出な
かった。とうに流したあとなのかもしれない。
と、考えたそのとき、画面には濱中美代と日立林蔵の顔写真がそれぞれアッ
プで映された。
濱中、いや、静子の愛らしい笑顔に向き合うかのように、小さな眼鏡を掛け
た優男が、自信に満ち溢れた表情で取り澄ましている。二枚目半といったとこ
ろか。首から下が映らないが、肥満体ではなさそうだった。
津堀はしかし、納得できなかった。この程度の面相なら、芸能界に溢れ返っ
ている。いや、街中にだってごろごろいるだろう。
となると、人柄に惹かれたか、性格や趣味が合うのか、はたまた仕事上の利
益を見い出したか(そこまでは考えたくない)。そういえば、先ほど流れた馴
れ初めとやらでは、三年前、日立の書いた小説の映画化に当たり、ヒロインに
起用された彼女はストーリーや役柄を大変気に入ったらしい。津堀もその映画
を観たが、それなりに面白いものの、濱中美代主演という点だけが取り柄の、
ありがちな恋愛ドラマで、映画向きとは思えなかった。茶州賞作家ってこの程
度なのかと感想を抱いた覚えがある。原作は読まなかったが。
(静子はあの手のドラマが好きだったからな。それに確か、濱中美代のプロフ
ィールで、趣味は……)
以前買うかもらうかした雑誌に、濱中美代のプロフィールが掲載されていた
のを、おぼろげながら思い起こす。趣味として、読書と映画鑑賞がしっかり入
っていた記憶があった。
(あれを目にしたとき、昔はほとんど小説なんか読まなかった癖にと感じたか
ら、間違いない。ま、あのプロフィールを信じる限り、やっぱり、日立って奴
の小説に魅力を感じたことになるのかねえ)
テレビ番組は、いつの間にか次のコーナーに移っていた。
見るともなしに見ていた津堀は、昼飯がまだであることをようやく思い出し
た。袋から平べったい箱を取り出し、割箸を割ったところで、飛躍した考えが
突如芽生え、彼の頭の中を駆け巡る。そして独り言として音声化する。
「俺も作家になろう」
ここで断っておくが、津堀は馬鹿ではない。
ただ、ちょっと無知なだけ。小説ぐらい簡単に書ける、と考えているのだ。
そういう人間なら、幼なじみで元恋人の芸能人を見返す(あわよくば振り向
かせる)手段として、作家になることを思い立つのは、極自然な流れであろう。
手始めに津堀は、畳の上を這って狭い部屋を横断し、小さな本棚に辿り着い
た。本棚と言っても、六割を越えて本以外の物が突っ込んである。四割の本も
雑誌が多く、小説の類となると片手で事足りた。ベストセラーになったハード
カバー本は読みかけのまま放置。他には一大ブームを巻き起こしたハリウッド
映画の原作、お気に入りの漫画をノベライズした文庫本上下巻、そして駅のベ
ンチで拾った新書の推理小説。
津堀は小説を書く参考にしようと、まずはハードカバーの背表紙上端に指を
引っかけ、取り出した。
腰痛の収まった津堀は、茶州賞の応募要項を探し求め、種々雑多な文芸誌を
立ち読みしたが、見つからず、途方に暮れていた。
公募情報をひとまとめにした雑誌があることを知り、そちらにも目を通した
が分からない。植本賞と並ぶ“二大誰でも知ってる有名な賞”である茶州賞を
掲載していないとは、この雑誌も大したことないな等と悪態をついていた津堀
だったが、ある日突然、疑問は氷解した。いつものように書店で、作家を目指
す人向けに書かれた入門書を手当たり次第に立ち読みしていると、『作家ファ
ーム』なる本に説明があったのだ。
それによると、茶州賞は半年ほどのスパンで文芸誌に掲載された短編全作品
を対象に、選考委員が勝手に選んで決めるものという。植本賞もほぼ同様で、
ジャンルのみ異なることも初めて理解した。
そして困ったことに、津堀が曲がりなりにも書いていたのは、植本賞に分類
されるべき傾向の作品であるらしい。
茶州と植本、どっちが格上なのか知らないが、静子の相手が茶州賞作家だっ
たので、闇雲に茶州賞を目指そうと心に決めていた。だが、傾向が違うとなる
と、投稿しても圧倒的に不利、というよりも落選確実だろう。それくらいのこ
とは、津堀も理解できる。
だからといって、今から茶州賞向けのジャンルを勉強するなんて苦労は、勘
弁してもらいたい。一年の内に結果を出したいのだ。
「さて困った」
自室で机に向かい、腕組みをした津堀だったが、合理主義者的一面を持ち合
わせる彼は、都合のいい理由を編み出し、植本賞に狙いを転じた。
「日立林蔵と同じ賞を取ったって、静子は振り向いてくれまい。双璧をなすも
う一つの植本賞を取ってこそ、日立との違いを明確にできるというものだ」
狙い目変更はいいとして、津堀には、文芸誌に掲載してもらう手段が分から
なかった。
掲載先は商業誌でなくてもかまわないとあるが、望みは薄そうだ。山ほどあ
る同人会に今さら入って掲載してもらうには時間が掛かるだろうし、もしも新
入りの自分が即刻掲載されるような小さな会では注目されまい。出版社に直接
持ち込むのは、長編でなければ相手にされないようだし、ここは一つ、短編の
新人賞を目指すしかないと結論づけた。
津堀はあまたある短編賞の中から、P出版社発行の雑誌に募集要項があった
賞に絞った。この雑誌に植本賞や茶州賞の選考結果が載るからだ。
目標が決まると津堀は書いた。勤めは辞めていないので、睡眠時間を削り、
人付き合いを減らし、自炊の回数をゼロにし、風呂に入るのも二日に一度にし、
何だかんだと時間を作り出しては、書いて書いて書きまくった。
と言ってもこれは彼の主観であり、実際には短編の分量しかなかったが……
ともかく、津堀は自信を持って、投稿した。
記者会見を一時間後に控え、ドレッシングルームでは、男女が二人、向き合
って座っていた。間には白い木のテーブルがあり、その上には背の高いグラス
が二脚。それぞれ冷たい飲み物を湛える。否、湛えるというほどではない。
「いやあ、まさかこうなるとは、俺自身全く思っていなかった。ははは、は」
津堀は笑いながら頭に片手をやり、布製のソファに腰掛け直すと、足を組み
換えた。嬉しさと懐かしさ、驚き、わずかな狼狽。みんなひっくるめて、彼を
笑顔にさせる。
「私も驚いた。田尻如飛人があなただったなんて、夢にも思わなかったわ」
赤系統のドレスで着飾った静子もしくは濱中美代はそう答えると、耳たぶに
手をやった。イヤリングの位置を気にしたらしい。
その仕種を前に、津堀は暫時、ぎこちなさがなくなったなあと感慨に耽り、
それからおもむろに応じた。
「そう? どこかに顔写真を出した記憶があるが……」
「そんな意味じゃなくて、あなたが作家になってるのが信じられないってこと
よ。気が付いていれば……」
「気が付いていれば、こんな仕事、引き受けなかった、とでも?」
「いいえ」
細めた目で津堀を一瞥し、私は不機嫌なのよとアピールするかのごとく、た
め息をこれ見よがしにつく。そして思い付きのような自己フォロー。
「アニメの声優、前からやってみたかったのよね」
「てっきり、君は純文学一辺倒だとばかり思っていたけれど、漫画やアニメに
も関心持っていたのか」
「持つようになったのよ。これでも一応、アイドルから女優に脱皮したばかり
だから、幅広く支持を集めておくに越したことはなし。ちゃんとリサーチした
上で、あまたある中からこの仕事を選んだ」
「今以上に人気を得て、どうすんの」
「儲かるじゃない」
身も蓋もない回答に、津堀は苦々しく頬を緩めた。話が続かないではないか。
それを言っちゃあおしまいよ、というやつである。
(俺の聞き方がまずかったかな。今以上に自分を忙しくしてどうするんだ、と
でも聞けばよかった)
悔やんでも仕方がないし、つまらないことだ。津堀は話の軸を自身に移した。
「人気タレントの濱中美代さんが目を着け、わざわざ声優に乗り出すほど、俺
の『賑わい』シリーズって人気あるのかね」
「うちの事務所が分析したところ、基本的にマニアの物ね。だけど、出版元が
入れ込んでいるし、アニメーションや映画、ゲーム方面に強い関連会社もつい
てるから、幅広いビジネス展開が期待できるわ。だから、私も乗ることにした
のよ」
「計算高いなあ。情報網もばっちりだね、ゲーム化は決定事項なんだよ」
「当たり前よ」
「そんなことよりも……君は俺の書いた小説、読んでくれたのかい?」
「一通りわね」
「どうだった?」
「文字が並んでいた」
津堀は唖然として相手を見返す。
静子が恐い目つきで睨んでいた。
(何なんだ、その返事、その態度。何で不機嫌なんだ? 怒られるようなこと
を、俺がしたのか。別れてから十何年も経って、再会した途端にこんな態度を
取られる覚えはないぞ。別れた理由だって、そっちの都合に合わせてやったん
じゃないか)
理不尽さを嫌というほど感じつつ、声に出しては聞けない津堀だった。
静子はぷいと横を向くと、「ま、面白かったわよ」と付け加えた。
津堀が表情を明るくしようとする。と、すぐさま挫かれた。
「子供向けだけど、サンダー&ライトニング文庫って、そういうところなんで
すってね。改行がいっぱい、台詞がいっぱい、挿し絵がいっぱい、すいすい読
めちゃった」
「物語に引き込まれて一気に読んだ……という誉め言葉ではないみたいだね」
「贅沢な紙の使い方をしているってこと。初めて見たわ」
「……日立林蔵とは大違いだって言いたいのか」
口にすまいと思っていたのに、結局言ってしまった。静子に、言わせる方向
へと導かれた気がしてならない。
「そりゃ茶州賞作家さんとは、違うだろうさ。こっちは軽い物ばっかで、人生
を掘り下げたりしないもんな。慣れないことして掘り下げようものなら、埋も
れるのが関の山」
最初、津堀は発作的に茶州賞を目指し、植本賞に変更したが箸にも棒にも掛
からず、それでもあきらめず意地になって投稿を続けた結果、数年を要して最
終的にサンダー&ライトニング賞に落ち着いた身だ。自分の作風が一番合うジ
ャンルにたどり着いたのだから、別に卑下する意識はない。今では漫画の原案
も手がけるようになり、稼ぎの面なら凡庸な純文学作家の遥か上を行くだろう。
だが、日立林蔵が茶州賞作家であることを思うと、いや、静子の選んだ相手
が茶州賞作家であったという事実を前にし、差を感じてしまう。
「私、あなたのそういうところ、大嫌いよ」
「嘘つけ。全部嫌いみたいじゃないか」
「全部嫌いだったら、今度の仕事を引き受けると思う?」
「計算高くなったようだから、ないとは言えないんじゃないか」
「全く……」
肘掛けについた手でこめかみを押さえた静子。ため息を一つ挟み、津堀の方
を向くと、意を決した風に口を開く。
「まだ公表していないんだけど、あなたには言っておくわ」
「ほう」
「日立とは離婚したの」
「ほう。……って、い、いつ?」
思いも寄らぬ告白に、椅子の上でもがく津堀。両手を突っ張り、やっとのこ
とで身体を浮かせると、静子の前に立った。
「三年近くになるかしら」
座ったまま、静子は下から答える。
「よく隠し通せてると感心しない? やっぱり、演技力のなせる業ね」
「た、た、確かに凄いけど、三年と言えば、結婚して一年経つか経たないかぐ
らいじゃないのか。な、なん、何で別れた?」
「……」
「あ、悪い。突っ込んだこと聞いてしまって。取り消す」
興奮の最高潮が流れ去り、津堀は我に返ると、元いたソファに戻った。
津堀が座ると、静子は自らの意志で答えた。
「あれはねえ、こっちは話題作りのつもりだったのに、日立が本気になってし
まって、周りにはいわゆる文化人ていうの? 文学界だけじゃなくそれ以外の
お偉方も大勢いて、引っ込みが着かなくなってしまったのよ」
「勢いで結婚したっていうのか」
「日立はいい人だし、うまくやっていけると思ったんだけれど、残念ながら見
損なっていたのよね。向こうにうるさく言う親戚がいなくて、割とあっさり別
れられたけれど、お互いのために、公表しないって取り決めをした訳」
子供はいなかったよなと、津堀は記憶の糸を手繰る。気にしないようにと心
掛けたはずなのに、振り返ってみれば、濱中美代に関する話題ならほぼ全て知
っている自分がいた。
「私よりも、あなたはどうなの? 浮いた噂一つ聞かないけれど、どうやって
隠しているのかしらね」
「ライトノベル作家の異性関係なんか、世間一般は注目しやしない」
「うちの情報網なら、引っかかってもおかしくないわ」
「決まった相手はいないんだ」
自嘲を込めて話す。
「ファンはそれなりにいるけど、みんな年齢が低くて、手を出したら、その手
が後ろに回ってしまう。あははは」
「面白くなーい」
「そ、そうか……」
「……」
静かになった。時間が沈黙の布をまとって、足取り重く過ぎていく。
津堀はグラスに手を伸ばし、ストローでジュースをすすった。その音が虚し
く響く。気まずさは拭えない。
「その赤いの、トマトジュース?」
静子が口を開いた。
津堀は、会話が唐突に再開された安堵感から、内容そのものを聞き逃してし
まった。
「え、何?」
「トマトジュースよね、それ」
「これ? ああ。何の飲み物がいいかって聞かれたから、これにしてくれって
頼んだんだ」
「やっぱり」
頬を緩めてかすかに笑う静子。
「昔からトマトジュースが好きだったわね。何を食べるときでも、飲み物はト
マトジュース」
「御飯物を食べるときは、お茶だったよ。君こそ相変わらず、レモンティが好
きみたいだ」
グラスを持ったままの手で人差し指を使い、相手のグラスを示した。半透明
の茶色の液体で満たされたそれは、中の氷や表面の水滴と相まって、涼やかで
美味しそうだ。
「人の好みは、そう簡単には変わりはしないわ。常識よ」
「そうかな。そうだな」
適当に相槌を打ち、津堀は考えた。これって、よりを戻したいというアプロ
ーチなのか?と。
(でも、明らかに不機嫌だったし、さっき大嫌いって言われたし、彼女の価値
観からすれば、茶州賞作家に比べたら、俺なんか下の下だろうし)
「何でこんなペンネームにしたのよ」
いつの間にか俯いていた津堀は、彼女の声に頭を起こした。静子の手元に、
今度のアニメの原作である津堀の文庫本があった。しなやかな指が、表紙の作
者名の箇所を押さえている。
「それは……如飛人は、文字通り、飛ぶ人の如くで、要するに飛躍したいって
ことと、今度の投稿で駄目だったら清水の舞台から飛び降りるつもりで付けた」
「あら、そうだったの。私はまたあなたのひがみ根性が出て、下賎な民という
意味の奴婢を言い換えたのかと思ってたわ」
「あいにくと、僕は言葉を知らないから、そんなこと、考えもしなかったな」
「田尻は何?」
「如飛人を決めたから、必然的にそうなった」
「必然?」
「本名のアナグラムさ。仮名ではなく、ローマ字でね」
静子はアナグラムの意味を知っていたらしく、テーブルの上に指でいくつか
文字を書く仕種のあと、表情を明るくした。
「TUHORINIZITAを並べ替えたら、TAZIRINUHITOにな
るわね」
「そういうこと。知り合いに言っても、誰も気付いちゃくれない」
「――ねえ。私が高二のとき、上京するのを、あなたはどうして止めてくれな
かったの?」
不意に、静子は少女に戻ったみたいにかわいらしく言った。
面食らった津堀は、瞬きを盛んにするだけで、絶句。気が付けば、口をぱく
ぱくさせていた。
(どうして今頃、突然蒸し返すんだろ?)
答えられないでいると、静子の台詞が積み重ねられた。
「それに、あんなに易々と別れてくれたのも、納得行ってないんだけどな」
「ひ――引き止めたら、君は思い止まったというのか。上京してメジャーにな
るのも、僕と別れるのも」
「それはあのとき、実際に引き止めてくれなかったから分からない。やめてい
たかもしれないわね。私が今問題にしてるのは、引き止めてくれなかった事実
よ。理由があってのこと?」
「理由……君の希望を叶えてやりたかっただけだな」
せいぜい気取って、そんな台詞を吐く。取ってつけたようなとはこのことだ
なと、自分でおかしくなってしまった。だが、これが偽りのない本心である。
「それなら、やり直しましょうか」
「え。からかってるのか?」
津堀はジュースを飲みかけでなかったことに感謝した。もしも口に含んでい
たら、吹き出していただろう。
静子が毅然として言った。
「冗談や演技でこんなこと言わないわ。いくら私が女優をやっていてもね」
「ね、願ってもない話。い、いや、本当はちょっとだけ願っていたけど。でも、
どうして今頃……?」
格好悪いなぁ、俺。津堀は転げ回りたいくらい恥ずかしくなったが、一度口
にしてしまったからには取り消せない。
「好みは変わらないってことかしらね。虹太もそうでしょ?」
下の名前で呼ばれた津堀は、うんうんと大きく首肯した。
「それとね、もう一つ」
何故かウィンクをした静子。
「たった今、気が付いたわ。私、ほんの少し、勘違いをしていたみたい。見間
違いかな」
「見間違いって?」
「好きな人の名前を見間違えていた。書く物、何か持ってない?」
求められた津堀は、胸ポケットから愛用の万年筆を取り出し、渡した。愛用
と言っても使うことは滅多にない、作家としてのポーズの小道具であるが。
受け取った静子は、「ちょっとカバーを汚すけれど、いいわね」と断ると、
返事を待たずに、文庫本のカバーを外し、その裏側の白い面に、何やら手早く
書いた。
「やっぱり、合っていたわ。よかった」
書き終えた彼女は万年筆を返しつつ、嬉しそうにつぶやく。津堀は「これを
見て」という静子の手の動きにつられ、万年筆を受け取るのも忘れて、視線を
動かした。トマトジュースのグラスが邪魔なので、横にのける。
「……あ」
大した偶然だと思った。
HITATI RINZOU
381112110 567942
↓
TUHORI NIZITA
「そろそろ、会見場へお越しになる準備をお願いします」
ノックのあとにドアを開け、そう伝えに来た係の者は、主役二人の変化に気
が付いただろうか。
およそひと月後、アニメの人気が上昇カーブを描く最中に、彼ら二人の婚約
が発表され、ワイドショーを少しばかり賑わせた。
それを表するに当たって、電撃婚約ではなく、サンダー&ライトニング婚約
と洒落た局があったとかなかったとか。
――終
#28/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 02/06/28 23:12 (320)
お題>作家 永山
★内容 02/07/30 23:49 修正 第2版
勤務先の大企業が、不祥事を引き起こした。
信用だか信頼だかは地に墜ち、業績は急激に悪化した。不祥事とはまるで無
関係な平の社員までもが、世間から蔑まれ、後ろ指を差されるようになった。
そんな一人であった私(平社員ではなく、課長の肩書きを持っていたが)は、
この不祥事をきっかけに設けられた早期退職制度を利して、さっさと見切りを
付けた。正直なところ、疲れたというのもあった。
制度のおかげで増額された退職金は、しばらく食いつないでいく分には充分
すぎるほどであったが、家族三人を養う立場の私に、計画性のない使い道は許
されそうになかった。
それでも。
「実は、やってみたいことがあるんだ」
私は思い切って、妻に切り出した。食後、中学生と小学生の娘達がテーブル
を離れ、テレビに夢中になっている折だった。ちなみに娘達は、私が会社を辞
めたことを概ね歓迎してくれた。少々のいじめもあったのかもしれない。
「なあに? お店を構えるんだったら、業種によりけりだけど」
湯飲みを両手の平で挟んだポーズで、妻は淡泊な返事をよこした。ここで私
が、おまえのやりたいと言っていたフレグランスショップを始めようじゃない
かと続ければ、目を輝かせて話に乗ってくるに違いないが、あいにくと私の話
はそうではない。
「僕の趣味が何なのかは、君もよく知っていると思う」
「……今の趣味は知らないわよ」
「だから、学生時代のさ」
「まさか、小説のことを言ってるの?」
「まさかじゃなく、真面目に言ってるんだが」
「だって、趣味の小説のことなんか持ち出すのは、作家になりたいっていう昔
の夢を追い掛けたいと言ってるのと、私には同じに聞こえるわ」
「作家じゃなく、推理作家だよ」
「何でもいいわ。本気? この歳になって?」
「学生時代は、君も応援してくれたじゃないか」
「学生時代はね。大昔よ」
こんなことまでいちいち答えさせないでよ、とでも言いたそうな妻の唇、膨
れっ面。皺さえなければ、まだまだ見られる可愛らしさだ。
「要するに、作家目指して頑張るから、退職金を使って糊口を凌ごうと、こう
言いたいのね?」
妻もまた文学少女だった頃を思い出したのだろうか、普段は使わないような
単語が散見され始めた。
私は首肯すると、右手の平を前に突き出し、人差し指をぴんと伸ばした。
「一年だ。だらだらとやっては、君や娘にまで迷惑を掛けるから、挑戦は一年
で切り上げようと思う。これならかまわないだろう?」
「とんでもないわ。一年もだなんて」
拒絶されたが、私の心の顔はほくそ笑んでいた。この台詞を引き出したかっ
たのだ。
「どれくらいならいい?」
「そうね、四分の一に短縮してもらいたいところだわ」
「四分の一というと、三ヶ月ってこと? そりゃないよ」
大げさに肩をすくめ、首を横方向に振る。
「君も知ってる癖に。長編を書くだけで、最低それくらいの期間は掛かる」
「仕事を辞めた人なら、時間はたっぷりあるでしょうに」
皮肉を効かす妻だが、私はくじけない。全てはほぼ予想の範疇だ。
「時間がある今こそ、じっくり取り組んでみたいんだよ。事前取材をやって、
資料を集めて、書き上げたあとも推敲に推敲を重ねてね」
「……」
「第一、狙っている賞の締切は、おおよそ半年後なんだ。応募期限は目一杯使
いたいじゃないか」
「半年後って、いつ」
私は正確な日付を答えた。妻は壁掛けのカレンダーを振り返り、手を伸ばし
て当日を確認する。
「分かったわ」
やがて妻は言った。
「半年間、この日まで。翌日から、いいえ、応募原稿を出した瞬間から、職探
しに入ってもらいますからね」
「ああ、それでかまわないよ」
安請け合いの返事をした。実を言えば、選考結果が出るまでは、アルバイト
的な仕事でつなごうかと考えている。
「それにもう一つ」
妻は最前の私みたいに、人差し指を立てた。
「取材や資料集めに、馬鹿みたいにお金をかけないこと。取材旅行なんて以て
の外。どうしても行くというんなら、その分はあなた自身が新しく稼いでくだ
さい」
「手厳しいな。まあ、やむを得まいね」
弱り顔に苦笑を浮かべてみせた。首尾は上々だった。夢に向かって再び動き
出すための足場を確保できた。
長い間錆び付かせていた筆をいきなり動かそうとしても、そうはうまく行か
ないことは予期できていた。だから最初から長編に取り組もうなんて愚行は避
け、短編を作ろうとした。無論、応募するつもりはない。あくまでもリハビリ、
習作である。調子の波に乗れないようなら、三本ほど書く気だった。
短編一本をこしらえて、書く楽しみを味わった。よみがえってきた、若い頃
のあの感覚。頭の中の物語がこの世に現れる瞬間に立ち会っている……。
だが、楽しかったのはそこまでだった。
読み返してみると、もう一つ、面白味が足りないように思えた。意外さがな
いのだ。自作とは言え、これほど予定調和を感じるのは、つまらない証拠だろ
う。トリックは現実味のある手段だし、個性的な探偵役が出て来るし、動機も
説得力がある、締め括りは気が利いていると信じる……だが、いまいちなのだ。
妻に頼んで読んでもらったら、似たような感想が返って来た。「この作風で
新人賞を狙うなら、恐らく、新鮮味がないって理由で落とされるわね」とまで
言った。妻は私に早く職探しをさせたいのかもしれない。だが、彼女の意見は
的を射ている。
ついでに、長女にも読ませた。誰に似たのかミステリ好きの傾向がある長女
は、それなりに面白がったようだ。ただ、雰囲気がかび臭い、と言われたのは
堪えた。まあ、女子中学生がよく読む(らしい)ライトノベルに比べたら、重
苦しくて古臭いかもしれない。しかし、短編ですらそんな感想を持たれるとは、
やや意外だった。もう少し、今風にすべきかもしれない。
ともあれ、調子の波、執筆の感覚は取り戻せたので、このまま長編に取り組
むことと決めた。一から手を着ける訳ではなく、長い間温めてきた、基、仕舞
い込んでいたアイディアを使う算段でいたから、気は楽だ。
私は古びたノートを開き、そのとっておきのトリックとプロットに改めて目
を通した。特にプロットに関しては、現代にマッチするよう、多少の手直しは
必要だろう。が、大幅な変更とはならないはず。
問題なのは、私の感覚の古さであろう。大学卒業後、推理小説を読む時間は
めっきり減った。全く読めなかったということはないが、新人作家の派手な物
よりも、定評のあるベテランの作品や、海外の古典を読むのに貴重な読書時間
を費やした。本当は、新人の作品も読みたかったのだが、歳相応になろうとい
う意識が働いたかもしれない。新人の作品をたくさん読み込んでいれば、感覚
も新しさを保てていただろうか。
取り返しようのないことを悔やんでも仕方がない。今の自分のベストを尽く
して書き上げ、そこからさらに一段ランクアップできるように、磨き上げてい
こうと誓う。
そして私は物語を綴り始めた。
「ねえ、雅美ちゃん。聞きにくいことなんだけど、聞いていい?」
「うん、いいよ」
湯田雅美は砂場に作った丘を小ぶりなスコップで整えながら、半ば上の空で
返事した。友達の方は、腰を浮かし、膝に付いた砂を払ってから、ほんの少し
改まった態度で尋ねた。二人の他に、砂場には誰もいない。
「雅美ちゃんちのお父さん、今何してるの?」
「あー、そのことかぁ」
目をまん丸に見開いて、動揺を覗かせた雅美だったが、じきに元のように笑
顔になった。
しかし、小さな子供でも、ちゃんと見ている。友達は「ごめんね。無理に教
えてくれなくっていいよ」と、すまなそうに言った。
「ううん、別にいいよー。お父さんはね、ずっと小説書いてる。お金はまだも
らえてないみたいだけど」
「それ、前も言ってた。新人賞、だめになったの?」
「うーん、そうみたい。はっきり言ってくれないんだけどさー。ちょっと前で
はね、最後の五人か六人ぐらいまでは残ったって言ってて、凄く、何ていうか、
張り切ってて、もうもらったも同じだって自信満々だったんだよ。それがさ、
だめになっちゃったから、お父さん、しばらく落ち込んでた」
「え。でも、今も書いてるんでしょう、お話……?」
「うんうん。だからね、お父さんが惜しいところまで行ったから、お母さん、
百歩譲って、もう一回だけよって、許したの。それでまた書き始めてる」
手に力が入ってしまい、砂の丘にひび割れが走った。三度目だ。
「ああー、また!」
作り直すことにした。もう一回だけ。
最終選考で落とされるケースが二度続き、私は疲弊していた。妻には内緒で、
他のいくつかの賞にも投じていたのだが、そちらの方は力を注ぎきれなかった
せいか、一次通過がやっとだった。
結果がまだ出ないと言い逃れして、投稿を続けたいのは山々なのだが、最終
選考の結果は電話で知らされるものだから、落選の事実を妻に完全に把握され
てしまった。モラトリアムの目論見は、未遂に終わった。
私は未練をたっぷり残したまま、再就職に走り回る日々を送っている。毎日
の執筆時間を取れる仕事をと考えてしまうためか、簡単には決まりそうにない。
職探しの休憩を兼ねて、喫茶店やファミリーレストラン、図書館等に逃げ込
んではノートを取り出し、小説を書いている。娘二人が来年再来年と相次いで
進学を迎えるだけに、本当ならもっと身を入れて、仕事を探すべきなのだろう
が……どうしてもあきらめきれない。
ところがおかしなことに、私の内には半分、あきらめの気持ちもあった。
原因は最終選考における批評にある。
一度目のときは、全く同じではないがメイントリックに似た前例があるのが
痛い、という点を最大の落選理由とされた。加えて、付属的なトリックも、ど
こかせせこましく、しみったれた発想だ等の辣言に晒された。
ならばとできる限り推理小説を読み込み、トリックの重複がないことを確か
めてから新たに書き上げ、二度目に最終選考までいった作品が、やはりトリッ
クに関する欠点で落とされるという憂き目に遭ったのだ。新味がない、観念的
だ、見せ方が感心しない、エトセトラエトセトラ。自信喪失するに充分な量の
厳しいお言葉に、私の心は別の案を考え付いた。
作家になる夢を、娘に託そうと思い始めたのである。
学校及びその周辺に限定すれば、湯田雅美はちょっとした有名人だった。
小学五、六年生の頃から、彼女の周りで奇妙なことが起こるようになり、中
学に進んで一年になる今、それはもはや評判の域に達していた。
「そんなあほな」
この春に転入してきたばかりの塩崎奈津子は、当然、雅美の小学生時代を知
らない。だから、あまたあるエピソードを聞いても、信じられないとばかりに
一笑に付した。
「ほんとだよ」
雅美の幼なじみの一人が、声を上げる。
「修学旅行のときなんか、同じホテルで死人が出たんだから」
「死んだの、湯田さんの知り合い?」
「ううん。全然知らない女の人」
雅美自身が首を振って答えた。
「なんや、それやったらその人が単に不幸やっただけいうことちゃうのん?
不思議でも何でもないわ」
「それが違うのよ。すっごく不思議な死に方をしててさあ」
幼なじみは我がことのように熱弁を振るう。
「鍵の掛かった部屋の中で、ばらばらにされて見つかったんだよ」
「へえー。ばらばらってことは殺人事件やん」
「そうそう。それで、遺体の一部は梱包されてたの」
「梱包って小包みたいに? 気色悪」
「どこかに送り付けようとしていたのかもしれないって」
「うう……それだけやないんやろ? 他にも似たようなけったいな事件がある
言うてたけど」
「いとこだかはとこだかのそのまたおじさんが、首を吊って自殺したっていう
のがあったわよね」
幼なじみに先導される形で、雅美は大きくうなずいた。
「うん。あんまり親しくなかったから、よくは分からないんだけど、自分の部
屋にいたおじさんが、いつの間にか庭の木で首を吊っていたっていうの。どう
やって部屋を出たのか、不思議だって言ってた」
「他には?」
「人が死んだんじゃないけど、変わった泥棒もいたよ。これは私の家が被害に
遭って。二階の部屋に置いてあったアクセサリーがいつの間にか盗まれてて、
その代わりみたいにマッチ棒が落ちてた」
「ははん。偉い大損しとるんやなあ」
「ううん。お母さんのアクセサリーの中で、一番の安物だったんだって。他に
もっと高い物がたくさんあったのに、おかしな泥棒よ」
「そうなん? よう分からんわあ。他には他には? 根ほり葉ほり聞いてごめ
んな」
「別にかまわないけど……あとはほとんど関係ない人ばっかりのだから」
雅美はそう前置きすると、事件の体験談をいくつも語って聞かせるのだった。
「湯田さん。あんた何でこんなことした?」
刑事の物腰は、本来の目的の他に、理解しがたいという響きも合わせ持って
いた。
湯田はしかし沈黙を守り続けている。当初から頑なに口を閉ざし、下を向い
たまま、どんな脅しすかしにも動じることなく、犯行動機を語ろうとしない。
交代したばかりの刑事は、被疑者が噂通りの難物であることを確認すると、
攻め方を変えてみた。
「推理作家を目指して、頑張っていたらしいな」
ほんのわずかだが、湯田の左肩がぴくりと動いたかもしれない。
「いいところまで行っては、落選の繰り返し。職を失った身には、さぞかしき
つい仕打ちだろう。どうせ落とすのなら、最初の方で落としてくれりゃあ、す
っぱりあきらめもつくというのに、最終選考だっけか。その辺まで行って落ち
たんじゃあ、未練たらたら、応募を繰り返すのもうなずけるよ」
「……」
面を起こした湯田だが、その目が刑事の顔をまじまじと見つけただけで、口
から言葉を発することはなかった。
「それでだ。あんたは、言っちゃあなんだが、その、頭に来ちまったんじゃな
いのか? いや、やけくそになって殺しをしでかすような人には、あんた、見
えないよ。だが、こう考えたらどうか。湯田さん、人殺しの体験がしたかった
んだ。何故か。推理作家としての武器になると思ったんだ。本当に人を殺した
ことのある推理作家。これ以上の武器はない。時効成立まで逃げおおせれば、
セールスポイントにだってなるんじゃないか。殺人犯が書いた推理小説。これ
は売れてもおかしくない」
「馬鹿々々しい」
突然、口を開いた湯田。刑事が身体を正面に向けて注目すると、湯田はかす
かに笑っていた。
刑事は続いて喋り出すのを期待していたが、それっきりだった。
「何が、馬鹿々々しいんだ?」
「……お話にならないってことですよ」
答えた。いい兆候だ、この線で押していくのは間違いでない、と刑事は自信
を深めた。
「つまり、俺が今話した考えは、まるっきり的外れってことかね」
「まるっきりというのは手厳しすぎる。大暴投ではないが、完全なボール球っ
てところですか」
「ふ……うむ。よく分からないな。どこがどう的外れなのか、教えてくれない
かな、湯田さん」
「私はね、推理作家になることをあきらめたんです」
「そうかい? 家族の話じゃあ、あんた、投稿は確かに控え気味だったようだ
が、古今東西の推理小説を狂ったように読破していたそうじゃないか」
「ええ。夢を次の世代に託すために」
「夢を……次の世代に?」
つぶやき、眉を顰める刑事。駆け引きではなく、本当に意味を理解できなか
った。
「それはつまり、湯田さんが次の世代の推理作家達への橋渡し役になるという
意味――」
「違います。私にとって、次の世代とは、雅美一人です」
娘の名を口にした湯田は、奇妙にも満足げな表情をした。食後に日本茶をゆ
っくりと味わっているかのような、のんびりとした雰囲気がある。
刑事は辛抱強く尋ねた。湯田がやっと積極的に口を開き始めたのだ。この機
会を逃す手はない。
「では、雅美ちゃんに夢を託すってことだね。あんたにとっての夢とは……推
理作家になることか?」
「もちろんですとも。雅美を超一流の推理作家に仕立て上げるために、私は今
度の事件を起こしました」
「……全く関係のない人をばらばらに刻んだり、遠い親戚を首吊り自殺に見せ
かけて殺したりすることが? 信じられない」
首を傾げる刑事。湯田は、分かってないなあとばかりに、伏せた顔を何度か
左右に振った。
「殺しただけじゃあ、何の足しにもなりゃしません。重要なのは、そのあとで、
雅美にこっそりと教えてやることです。どうやって事件を起こしたのか、いか
にして美しい謎を作り出したのか」
「ああ、あんたは、確かに雅美ちゃん宛に手紙を送ってたな。差出人不明の手
紙で、内容は要するに事件のからくり、トリックを事細かに説明するものだっ
た。あれにそんな重要な意味があるとは思えないんだがね」
実際には、手紙は捜査上で重要な役割を果たした。湯田が犯人であると突き
止めるきっかけになったのだから。
無論、刑事が今拘っているのは、娘に事件を綴った手紙を出す行為が、動機
として重要な意味を有すのかという点である。
「ですから、娘にトリックを授けるためじゃないですか」
湯田の左右の拳が机上で握り固められる。得意げな口調が続ける。
「私はですねえ、刑事さん。推理作家をあきらめたのは、悲しいかな、トリッ
クに斬新さがないと、専門家連中から断じられたためです。それが悔しくて悔
しくて……娘にはたくさんのトリックを知識として身に着けさせようと考えた
訳です。グッドアイディアでしょう?」
「いや、全く分からないな。よいトリックを思い付いたのなら、自分の小説に
使うなり、娘に直接教えてやるなりすれば済む話だ。わざわざ無差別殺人を起
こし、手紙で説明する必要なんてないだろう」
「あれ? 刑事さん、ご存知ない?」
突如、素っ頓狂な声を出し、椅子から立ち上がった湯田。もう一人の刑事が
慌てて近寄り、座らせようとする。
尋問していた刑事は、「いや、いい」と同僚を下がらせ、立ったままの湯田
に聞いた。
「何のことですか、湯田さん」
「トリックですよ!」
湯田は叫び、演説する立候補者のように拳を振り上げた。
「今度の数々の事件で私が用いたトリックは、全て、有名な推理小説で使用さ
れた物なんです! もう、誰もが知っていると言っていいくらい、有名かつ良
質なトリックばかりです。私が厳選したんだから、間違いない」
俺は知らなかったぞと、心中でつぶやく刑事。どう反応したらいいものかと
思案する彼に、湯田はさらに言葉を重ねた。
「今度の事件を経て、娘はこれら全てのトリックを自分の物として使える!
どうです、凄いでしょう?」
刑事には、被疑者の興奮がいまいち理解できなかった。それと同時に、理屈
の通らない点に気が付いた。
「湯田さん、落ち着いてくださいよ。何故、娘さんの物になるんですか? あ
んたが使ったトリックは、過去に他の作家が使った物ばかりなんでしょうが?
盗作ってやつになるんじゃないですか」
「ええ、ええ。トリックっていう物には基本的に著作権はないから、他人が考
えた物だろうが何だろうが、どう使おうと自由なんですよ。ただし、元の作品
を越えるかせめて同レベルの使い方をしないと、馬鹿にされますがね。あっと、
元の作品とそっくりそのまま同じ使い方が論外なのは、言うまでもありません」
「……まだ分からん。他人のトリックを勝手に使えるのなら――」
「最後まで聞いてください、刑事さん。トリックの再使用が自由と言っても、
有名なトリックには自主規制が掛かるもんなんですよ。あまりにも有名なトリ
ックは、それだけで値打ちを持つ。再使用は、読者が許さない」
「はあ」
「でね、私は考えた。何とかして、有名なトリックを自由に使えないものかと。
答は案外簡単に見つかりましたよ。実体験は自分の物です。トリックを体験す
れば、そのトリックも自分の物にしていいはずだ」
「湯田さん、まさか、あんた」
刑事は思わず、被疑者を指差していた。依然として立っている湯田は、胸を
張った。
「はい。私は様々なトリックを知っているが、今さら実際に経験することは不
可能だ。そこで娘の雅美に白羽の矢を立てた。あの子なら推理小説についてほ
ぼ白紙と言っていい。あの子が体験したトリックは、全てあの子の物になる。
問題は全くない。そして将来、娘がそれらの素晴らしいトリックを活かして、
一大傑作を書いてくれることでしょう!」
――終
#29/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/07/20 19:36 (432)
招かれざる食卓 已岬佳泰
★内容 02/07/28 08:03 修正 第2版
登場人物
私:上総俊一 サラリーマン
父:上総駿吾 引退したエンジニア
母:上総幸江 (登場なし)
妻:澄子 パートタイマ
妻の友人:杉田真由 フリーター
隣人:豊島邦男 小説家
刑事:御前崎警部補 (特別出演)
曇り空から少しずつ落ちていた雨は、私がバスに乗り込むと本降りになった。梅雨時
の湿った車内は、それでも比較的混んでいて空席は見つからない。仕方なく、書類鞄を
網棚に上げて吊り輪にぶら下がった。車窓を雨に霞んだ夕暮れの町並みがゆるゆると流
れだす。もうすっかり馴染みになった駅前商店街を擦り抜けるように、バスは走った。
道端に並んだセールの幟が、雨に濡れてうずくまっている。
思わず溜息が出た。
「どうしていまごろ電話なんてかけてくるんだろ」
それは今日の昼過ぎから何度となく繰り返した疑問だった。納得できる答えが見つか
らないまま、私は家路についていた。平穏な毎日のなかでの僅かなさざ波。それだけの
ことかもしれない。そう自分に言い聞かせてみる。
電話は昼過ぎ、デスクに戻ったところに掛かってきた。
「わしだ」
電話の向こうで父はそう言った。5年ぶりに聞く父の声だったが、私はすぐに返事が
できなかった。父もしばらく沈黙する。
「元気か」とようやく続けた父。
昔からそうだった。必要最低限の言葉しか喋らない。しかし、その声に往年の力強さ
はなかった。私は思わず職場を見回し、そして声を落とした。
「父さんと話すことなんかなにもない」
言葉が勝手に飛び出してしまった。言ってしまってから、胸が痛んだ。だがその時に
はもう、私の言葉は受話器に吸い込まれて、電話線を走り抜けてゆく。
「そうか。だろうな」
父の声が一層弱々しく聞こえた。私は対話の接ぎ穂を失い、受話器を握りしめた。怒
りとも哀しみともつかない奇妙な感情が、体の奥で息づいていた。その正体を見極めよ
うと息を詰めた。
私は父を憎んでいた。その根拠をいくつか反芻する。簡単だった。5年前を思い起こ
せばそれでいい。押し寄せた債権者たち。心労で倒れた母。妊娠3ヶ月だった妻も体調
を崩して切迫流産。あの頃の景色には、暗い灰色の暗幕が掛かっている。流れているB
GMも短調のブルースだ。そんな中で、勝手に消息を絶った父とどうして今、普通に会
話できるだろう。
「澄子さんに変わりはないか」
父は唐突にそう言った。澄子はもう大丈夫だ。流産の痛手から立ち直り、すっかり明
るくなった。しかし、私は黙り続けた。
「若い男を見たんだ」
まるで謎掛けのように父は続ける。その朴訥としたしゃべり方に不覚にも少し心が揺
れた。そんな自分を押さえつけようと私は早口になった。
「つまらない話なら、切るよ」
私の宣言に父は無抵抗だった。僅かに「ああ」という呻きとも肯定ともとれる声が聞
こえただけだった。私は受話器を置いた。
商店街を抜けるとバスは急勾配の坂道を上り始める。数年前のバブルの頃に、小高い
山肌を切り崩して建てられた小さな住宅たち。色とりどりの屋根が両側にひしめき合う
ように流れてゆく。どの家も総2階の作り。道路との境界線ぎりぎりまで伸びている軒
先に、バスは車体を擦りそうだった。
美しの森公園前。
狭い空き地のような公園には立木が申し訳程度に数本あるが、3方を住宅に囲まれて
いて、どうしてこれで「美しの森」なんていう名前なのか理解に苦しむ。が、それが私
の下りるバス停だった。妻の澄子に言わせれば「昔々、ここには美しい森がありまし
た」という意味なのでしょ、となる。たしかに、最寄り駅からかなり離れた新興住宅街
は、かつては深い武蔵野の森だったに違いなかった。
バス停で下りて「美しの森公園」脇の狭い道を東に歩くと、ちょっと大きめの一戸建
て住宅が表通りから離れたところにぽつんとある。そのさらに北側に、高い送電塔があ
って、その鉄塔に隠れるようにして小さな安普請のアパートが見えてくる。このあたり
では珍しい賃貸のアパート「サクラ荘」だった。2階建てで総部屋数が僅かに6戸。し
かも送電塔のほぼ真下。これで商売になるのだろうかと気をもむくらいの悪条件のア
パートで、そのせいか、賃料が驚くほど安かった。そしてそれが私たち夫婦がこのア
パートに住む唯一無二の理由だった。
妻の澄子は大抵のことには動じない女だったが、不動産屋の案内でこのアパートを初
めて見たとき、さすがの彼女も絶句した。父の残した借金返済のために、結婚以来住ん
でいた駅近くの家を処分することになり、それでも借金を完済できず、とにかく安いと
ころを最優先に探していた。駅からバスで20分、バス停から歩いて10分。2DKの
間取りで、敷金礼金は各1ヶ月。「日当たり良好」とあったけれどもそれは西日がしっ
かりと射し込むという意味だったりした。
部屋は小綺麗にしてあったが、壁や天井の作りはいかにも安づくりという印象だった
し、試しに壁を手で叩いてみたら、薄っぺらい音がして「このお値段ですから」とすか
さず不動産屋が手もみ苦笑いをしたくらいだった。空いていたのは1階の部屋だった
が、上階や隣室とは筒抜け状態になることは確実だった。
それでも澄子の立ち直りは早かった。
「ふたりきりだから2DKで充分だし、ここなら駅前にパートで出るにも便利よ。それ
に、借金を返し終わるまでの我慢でしょ」
借金完済までの仮りの住まい。それが私たち夫婦の了解事項だった。
「おや」
公園脇を抜けて私の足は停まってしまった。目の前に見慣れない光景が展開してい
た。鉄塔下の小さなアパート周辺がなにやら騒がしいのだ。普段はあまり人が集まるよ
うな場所ではないのだが、雨に煙る景色のなかに、たしかに人だかりができていた。赤
い光が点滅している。
「パトカーじゃないか」
白黒ツートンの車が屋根の上で赤いランプを回転させたまま停車していた。アパート
の真ん前だ。急ぎ足になった。
「どうしたんですか」
人だかりの関心はアパートの1階東端の部屋に向けられていた。わが家の隣り、豊島
邦男という20歳前後の男がひとりで住んでいる。颯爽とした好青年のように記憶して
いた。
「豊島さんが亡くなったらしいですよ」
私に教えてくれたのは、上の階の西側に住むご婦人だった。60歳を過ぎて一人暮ら
しだという、名前は……、思い出せない。私はアパートに住む人たちとはほとんど没交
渉で、顔と名前がまったく一致しない。もう5年も住んでいるくせにみっともない話で
はある。澄子がいればすぐに教えてくれるだろうが、人だかりの中に彼女の姿は見えな
かった。
「これほど警察が来ているということは、豊島さん、ひょっとして殺されたのかも」
不穏なセリフを吐いたのは、これも上階東側に住むご老人で、名前は……。とにかく
彼の目が好奇のためか異常に輝いているのが見て取れた。
「殺人事件ですか。まさか、こんなところで」
私の何気ない言葉に、人だかりからいくつもの反応があった。
「だって、豊島さん自身が助けてくれって110番したみたいよ。自分は殺されるって
叫んでたって」
「ところがねえ。警察が駆けつけてみたら、玄関には内側からカギが掛かって開かな
い。大家さんが呼ばれて、合い鍵で開けたら、今度はドアチェーンだ。こっちは警察が
でっかいハサミで切ったみたいだねえ」
「でも遅かったんでしょ。警察が中に入ったときには豊島さんはもう死んでいた」
「ひどい顔だったらしいぜ。目を大きく開いて、口を歪めて。あれはどう見ても自殺っ
てことはないね」
「警察では自殺らしいって言っているよ。だって、玄関にはカギとドアチェーンが掛か
っていた。反対側のベランダの窓は内側からねじ込むタイプの錠がしっかりと掛かって
いた。現場には豊島さんの死体だけが残ってた。こりゃあ自殺でしょ。もしもだよ、も
しも豊島さんが殺されたというなら、殺人犯人はいったいどうやって部屋から逃げ出せ
たんだい。ドアチェンやら窓のねじ込み錠は外からかけるなんて不可能だぜ」
「ほほう、不可能犯罪か」
「そうそう。これがもしも殺人事件ならば、ほら、何て言うの。犯人の逃げ道がない部
屋で起きる不可能殺人事件。よくテレビドラマとかやってるじゃない」
「密室殺人」
「なんかわくわくするわねー」
「残念でした。豊島さんは自殺って警察は言ってます」
「豊島さんの110番通報はどうなるのさ」
「あの電話は豊島さんの芝居じゃないかって警察は見てるみたい。騒ぎを起こしたかっ
ただけだろうって。小説がゼンゼン売れないんで、豊島さん、行き詰まっていたみたい
だし」
「へえー、豊島さんて小説家だったんだ。どうりで、昼間っからぶらぶらしてると思っ
てた」
「時々、若い女が来てたよ。あれって豊島さんの彼女かしら」
「おう、そうそう。わしも見かけたな。ほっそりとして背の高い女だったなあ」
「あら、わたしが知ってるのはちょっと太めの女よ。ベレー帽被って、ズボン履いて
た」
「ほほう、売れない小説家にしては結構な発展家だったんじゃなあ」
話が事件からそれ始めたところで、私は人だかりから離れた。死んだ豊島とは付き合
いはほとんどなかったから、その死を知っても特別な感情は湧いてこなかった。すぐ隣
に住んでいるのに薄情な気もしたが、それが現実なのだから仕方がない。
他人の干渉を嫌う風潮はなにも今始まったことではなかった。
豊島宅の入り口を封鎖してた黄色いテープは、わが家の玄関脇まで伸びていた。
「ちょっとすみませんが」
雨傘を畳んで滴を振り切り、玄関ドアに近づいたところで、横から声をかけられた。
暗い色のスーツを着た男がふたり、私の顔を見ていた。刑事らしい。
「この家の方ですか?」
丁寧だが有無を言わさぬ口調とはこういう物言いを表すのだろう。低くて腹の底に響
くような声だった。大柄で細い目をした男が胸ポケットに手を突っ込み、警察手帳を出
して見せた。もう一人、小柄で丸顔の男はその横に黙って立っている。
「隣りの豊島邦男さんが亡くなりました。それでちょっとお話を伺おうと思って先ほど
からお待ちしておりました。呼び鈴を鳴らしても応答がなくて、どうも奥さんは不在の
ようですね」
「そうですか。おかしいな」
澄子のパートは午後5時には終わる。それから買い物をして帰ってきても、午後6時
には充分に家に戻っているはずだった。
カギを開けて中に入る。
「中に入ってもよろしいですかな」
刑事ふたりは返事を待たずに私に続いた。靴を脱ぐとすぐに台所、その奥が6畳の寝
室だった。台所には大きな食卓が置いてある。前に住んでいた家から、この一枚板の食
卓だけは持ってきたいと澄子が主張したのだ。狭いアパートの寸詰まりの台所で、だか
ら、椅子を引くとその後ろは人が通る余裕もなくなるほど手狭になっている。
食卓の上には夕食の支度が整っていた。
真ん中に小型ガス台の上に鉄鍋が置いてあり、その横にはスライスした牛肉や豆腐、
長ネギなどがいくつかの皿に盛り分けてある。炊飯ジャーは保温ランプが点いているか
らご飯も用意できているのだろう。伊万里焼の茶碗、取り皿、箸袋に入った箸は3膳分
が食卓に整っていた。
「すき焼きですね。豪勢ですな」
細目の刑事が呟いた。私は聞こえぬ振りをして、刑事ふたりに椅子を勧めた。ついで
に火の点いてないガス台と鍋を流し台へと片づける。
「自殺だと聞きましたが、何か?」
腰を下ろした細目刑事の前に私も座ってから、そう尋ねた。もうひとりの刑事は玄関
への間口に立ったままだった。
「豊島さんの様子に最近変わったところはありませんでしたか?」
「さあ」私は首を振った。「お隣とは近所付き合いがほとんどないので、分かりませ
ん。豊島さんが小説家だっていうことも知りませんでした」
刑事は格段落胆した様子もなかった。それからありきたりの事をいくつか質問してき
た。私の仕事内容と勤務先。今日一日の行動。留守にしている澄子の行き先(これには
心当たりがないと答えた)。澄子の昼間の勤め先。このアパートに住んでからの年数。
30分ほどして、刑事はこれで質問終わりという風に立ち上がりかけた。そしてふと思
い出したように奇妙な質問をした。
「杉田真由という女性をご存じありませんか?」
どこかで聞いた名前だった。しかし、はっきりとは思い出せない。正直にそのように
伝えると、刑事はそれ以上は尋ねてこなかった。
「豊島さんは自殺だと聞きましたが、そうではないんですか」
私の問いに刑事ふたりは一瞬顔を見合わせると、細目の方が答えた。
「明日の新聞には警察の正式発表が載るでしょうが、豊島さんから110番通報を受け
て、我々は部屋のベッドの上で窒息死している豊島さんを発見しました。状況から見
て、首にかけたネックレスをどこかに高いところに引っかけて、首吊り自殺をしたと思
われます。しかしそうなると、いくつか疑問があるのも事実です。ひとつは、ネックレ
スを引っかけた場所が特定できません。天井や壁にそれらしい痕跡がないのです。ふた
つめに、かなり暴れたらしく、壁にひっかき傷があります。被害者の表情もひどく恨め
しげです。おまけに彼の死体の周辺にはいろいろなものが飛び散らかっていました。
ペーパーナイフやダブルクリップなど、机の上にあったと思われるものまで壁際に落ち
ていました。覚悟の自殺ではあそこまで往生際が悪い例はあまりありません。ですか
ら、誰かにネックレスで首を絞められた可能性も否定できないのです」
「ネックレスですか」
「豊島さんは怪奇ホラー小説が専門だったらしく、部屋にはそういう猟奇事件に関連し
たグッズがかなりありました。ネックレスもそのひとつで、古代の王が愛用したという
鉄環です。外して振り回せば武器になったほどの頑丈なもので、人間ひとりが首吊りに
使っても重みで切れるようなヤワな作りではありません」
「豊島さんの部屋は、いわゆる密室状態だったと聞きました。仮に殺人事件だとなって
も、犯人には逃げ道がないように思えますが」
玄関先で刑事を送り出しながらの私の質問に、刑事たちはうっすらと笑って何も言わ
なかった。妻の澄子が戻ったら連絡をほしいと言い残して刑事は去った。
澄子はいったいどこへ行ったのだろう。夕食の支度ができているのだから、一度は帰
宅したのは間違いない。しかし、それからまた出かけたらしい。
首をヒネリながら、私は寝室で普段着に着替えた。
押入の中から目覚まし時計を取り出す。駅から遠い分、毎朝早起きになっている。ど
うにも朝が苦手の私は、ふたつの目覚まし時計を使っていた。こうして帰宅するとまず
その目覚まし時計をセットするのが習慣になっている。以前に夕飯時にビールを飲んで
そのまま寝込んでしまい、翌朝うっかり寝過ごしてしまった失敗からの反省だった。
アラームをONにしようとして、違和感を覚えた。腕時計を見る。午後7時15分だ
った。次ぎに目覚まし時計を見た。
目覚まし時計の方はふたつとも午後4時を指して停まっていた。
不思議な思いに駆られながら、私は目覚まし時計の時刻を再セットしようと試みる。
時刻合わせのノブを引き出し、長針と短針を回そうとした。ところが長針と短針がくっ
ついたまま回ってくれない。ノブを回しても、どこかで引っかかっているのか、針の方
は動かないのだ。
「壊れちまったみたいだな」
あきらめて、私は目覚まし時計を押入に戻した。
食卓の上に食事の用意まで整えておきながら、澄子はなかなか戻ってこなかった。冷
蔵庫から缶ビールを取り出し、夕刊を読んでいる内に午後9時を回ってしまった。出か
けた先に心当たりはなかった。何の連絡もなしにこれほど家を空けるのは、珍しいこと
だった。5年前に債権者に詰め寄られて、精神のバランスを崩して発作的に実家に帰っ
たとき以来かもしれない。
とにかく、今、連絡をする先で思い当たるのは一カ所だけだった。澄子の実家だっ
た。長野県の農家だが、5年前から私にとってはとても敷居の高い家になっている。父
の一件では長野の実家にまで(何の債務関係もないというのに)債権者が連絡を入れ、
親戚を含めて大混乱させ、あまつさえ、嫁に出した娘が身ごもった初孫も結局は事件が
原因で流産させてしまった。敷居の高さは半端ではない。
電話して「澄子の行き先」なんて聞こうものなら、なんと言われるかわからなかっ
た。それを想像すると気が重い。しかし、澄子のことが気になった。私に連絡しなくて
も、実家にはなにか言っているのかもしれない。
「澄子はいったいどこに行ったのか」という疑問は次第に「澄子にいったい何があった
のか」という不安に変わりつつあった。
「澄子さんに変わりはないか」
「若い男を見たんだ」
突然、昼間の父の言葉がよみがえった。その瞬間、私の頭の中で火花が弾けた。ばら
ばらに散らかっていたいくつかの現象が、父の言葉を触媒にして、あっという間にひと
つの絵を作り出したのだ。
若い男=豊島邦男。
豊島邦男の死=澄子の失踪。
なぜ?=澄子が殺した。
恐ろしいほどに見事な絵だった。
澄子と豊島が交際をしていたかどうか。それは私には分からない。しかし、近所の人
の話では、豊島の部屋にはいろいろな女が出入りしていたらしい。澄子もそんな内のひ
とりだったのか。たしかに澄子がそういう思いを抱いても私にはあまり文句を言えな
い。なにしろ彼女には苦労のかけ通しだった。狭いアパート、借金の山。パートはスー
パーの食材詰めでけっこうハードなんだと澄子がこぼしていたことがある。
そういう中で、隣りに住む豊島と親しくなったのかもしれなかった。
そして、何かの諍いがあって澄子は豊島を殺した。
いや、まさか、いくらなんでも、澄子が人殺しなんて!
だが、それならばなぜ澄子はここにいない。事件の起きた日に姿を消すなんて、まる
で私が殺しましたと宣言しているようなものではないのか。
それとも……、私の思考がそこで急転回した。
ひょっとしたら、澄子は殺人犯ということではなくて、殺人現場を目撃しただけなの
ではないか。ところが、犯人にその事を知られ拉致されてしまった。犯人に捕まってい
るから、いつまでたってもこっちに連絡をできないでいるのかもしれない。
そう思うと私は居ても立ってもいられなくなった。先ほどの刑事にもらった名刺を取
り出し、細目の刑事(御前崎という警部補だった)に電話を入れた。御前崎は不在だっ
たが名前を言うと、別の刑事が出てきた。
私は自分の考えを刑事に説明した。刑事は黙って聞いていたが、最後に「すぐに係り
のものを向かわせます」と約束してくれた。
電話を終えて私は急に自分の思い違いに気づいた。私の組み立てた絵には大きな欠陥
がひとつあったのだ。それは豊島の死を他殺とはできない状況−現場が密室状態であっ
たということだった。
聞いた話によると、豊島が死んでいた部屋はすべての出入り口が内側から施錠されて
いたという。もし、私の想像通り、豊島が殺されて、それになんらかの形で澄子が関与
していたのなら、いったい犯人はどうやって豊島の部屋から逃げることができたのだろ
うか。玄関や窓を通る以外に逃げだす手段があったのか。しかし、警察は現場を入念に
調べたことだろう。それ以外の逃げ道、例えば天井や壁に抜け道があったりしたら、間
違いなく発見しているに違いない。壁に抜け道?
そこで私は愕然となった。
豊島の部屋の隣はわが家ではないか。
そう思った瞬間に、私はもう一度寝室に戻っていた。
目覚まし時計を仕舞っている押入は東側に位置している。だから押入の奥壁の向こう
は豊島の部屋になる。押入を開いて、中のものを急いで取り出した。布団、冬の衣類を
詰めた衣装箱、アルバム、古いレコード、アイロンとアイロン台、旅行鞄には本がいっ
ぱい詰め込んであった。この狭いアパートでは本を並べて置いておくスペースもたしか
に無い。私は旅行鞄から本を取り出し、一冊ずつ著者名をチェックした。豊島邦男の名
前はなかった。が、彼が本名で本を書いているとは限らない。
空っぽになった押入に入り込むと丹念に壁を調べてみた。床や天井も目で見たが、切
れ目や蓋、穴などは見つからなかった。抜け穴はなかった。もっともそれくらいは警察
が豊島の部屋を調べたときに確認している事に違いなかった。
少し安堵して台所に戻ったところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
玄関ドアを開くと、宵闇に2人の人影があった。刑事だとばかり思っていた私は意表
をつかれて、立ちすくんだ。にっこりと笑う澄子。その横で弱々しく笑みを浮かべる
父。いったいこれはどういうことなのか。戸惑う私を後目に、澄子は父をせかすように
玄関に追い込んだ。そして私に頭をぺこりと下げた。
「ごめんさい、急に家を留守にしてしまって。でもお陰で事件は解決できました。俊一
さん、もう晩ご飯食べました? もしまだなら、お義父さんも一緒に晩ご飯にしません
か」
「事件って、いったいどの事件の話をしているんだ。豊島さんが亡くなった事件か?」
「もちろん! そっちの殺人事件に決まっているでしょう」
澄子は父を食卓の東の席に案内すると、私が片づけて置いた鉄鍋とコンロ台を食卓に
戻した。私は飲みかけの缶ビールを片づけてから、自分の席に腰を下ろした。
「しかし、あれは自殺としか考えられないじゃないか。豊島さんの部屋は出入りのでき
ない密室だったと聞いたぞ」
「ところが、殺人事件だったのよ。ついさっき、お義父さんといっしょに犯人を警察に
連れて行って自首させてきた。そしたら、あなたからの電話があった直後だったみた
い」
「え? すると今まで、澄子は殺人犯を追いかけまわっていたのか。なんてこった」
こっちは目一杯心配していたというのに。
「ごめんなさい、本当に。でも、私が時間貸ししていた相手が殺人犯だと思ったら、い
ても立ってもいられなかったの。それに思いの外、自首を説得するのに時間が掛かっち
ゃって」
「時間貸し? なんだいそれは」
「あなたには言ってなかったけど、このアパートの部屋、昼間は無人でしょ。だから、
友人に時間貸ししたの。文章を書く静かな場所がほしいって言われて。僅かだけど収入
も増えるし、ちょうどいいかなって」
澄子が新しい缶ビールを冷蔵庫から取り出した。一本は父の前に、もう一本は私の前
にさりげなく置いた。コップはもう出ている。私は無造作にビールをコップに注いだ。
白い泡がコップの口に届く前に注ぐのを止める。父の視線を感じた。体の奥にうずくま
っている小さなわだかまりを刺激する視線だった。何も言わずにビールを飲む。
「その人がこの部屋から豊島さんの部屋に入り込んで、事件を起こしたっていうのか。
だけど、ウチの押入の壁は調べたぞ。通り抜ける穴なんかない」
「あら」
澄子の手が止まった。
「どうして押入を調べたわけ? ひょっとして私が犯人だとか思ったんじゃないでしょ
うね」
図星ではあったが、もちろんそれはおくびにも出さない。
「ちょっと気になることがあったんだ。目覚まし時計がふたつとも壊れていた。それで
誰かが押入に入り込んだんじゃないかなあと」
澄子が父のビールを開けて、コップに注いでやる。父は俯き加減にその泡を見てい
た。父は5年間でかなり老け込んでいた。明るい照明の下で見ると、その落差は残酷な
くらいだった。
「パートを終えて帰ってきたらアパートは大騒ぎ。警察が来てて、豊島さんが首を絞め
られて死んでいるって聞いて、それであの壊れた目覚まし時計でしょう。すぐに杉田真
由、これが時間貸しをしてた友人なのだけど、彼女のことが頭に浮かんだの。彼女が豊
島さんと交際していたというのは知っていた。おそらくこの部屋を時間貸ししてほしい
というのも、真由が豊島さんの近くに居たいって事かもとか軽く考えてたのわたし。そ
れがまさかこんなことになるとはね」
「彼女はどうして……」
私の素朴な疑問に、澄子がつらそうな顔をした。
「真由の思いこみだったみたい。つまり、彼女は一方的に豊島さんに気持を寄せてい
た。豊島さんも彼女に気があると信じていたのね。彼女の書いた小説を誉めてもらっ
て、すっかり舞い上がってしまって、毎日のように豊島さんの部屋に押し掛けたり。と
ころが豊島さんの方にはそんな気があんまりなくて、おまけに他の女性が豊島さんの部
屋に出入りするのと出くわして、彼女は逆上した」
「そうか。ありそうな話だな」
「それで、この事件でしょ。すぐに真由に連絡を取ろうと飛び出したら、お義父さんが
……」
澄子が父を見る。父はまだビールの入ったコップには手をつけていなかった。
「あの子は女には見えなかったなあ」
父はそう言うと、ちょっとだけ笑った。
「真由のことをお義父さんは若い男だと思ってたのね」
「そうさ。なにしろ坊主頭に黒っぽいシャツとズボンだものなあ。てっきりわしは男だ
と思ってた。それで余計な電話をかけてしもうた」
父が私を見た。頷き返す。
「今日の電話はそういう訳か。留守中のわが家に若い男が出入りしているってことを、
父さんは知らせてくれようとしたのか」
私はビールを飲む。とんだ迷推理になるところだった。
「そういうわけで、前から気になっていたお義父さんは真由の後をつけて、彼女の自宅
を探り当てていた。そして今日、わが家を訪ねてきたお義父さんが、事件の話をわたし
から聞いて、すぐに彼女の自宅へと向かったというわけ」
「どうして父さんが今夜わが家に来ることになっていたんだ?」
尋ねながら思い出していた。食卓に揃えられた3膳分の夕食の支度。あれはそういう
ことだったのか。
「まったくもう」と澄子がふくれっ面になった。「今日はお義父さんの60歳の誕生日
でしょう。そんなことも忘れているの?」
私はきょとんとなった。父の誕生日の話なんて、ついぞ聞いたことがなかった。澄子
がそんなことを覚えていて、今日という日をセットしたとは。
「分かったよ。それにしても、犯人はいったいどうやって、あの密室殺人を実行できた
のか。そっちを教えてくれよ」
私がそう言うと澄子は嬉しそうな顔をした。
「そう来なくっちゃ。真由、あっと、犯人が立てた計画のポイントはいくつかあるのだ
けれど、まず第1に、小説家の豊島さんは、執筆をほとんど夜中にやるので午後は昼寝
をすることが多かったということかな。昼寝をするベッドは彼の部屋の西側、つまりわ
が家の押入の向こうにあった。第2のポイントはネックレスね。昼寝する豊島さんがネ
ックレスをつけてくれないと計画は成功しない。ところが、都合がよいことに怪奇小説
を書く豊島さんは古代の装飾品に興味があって、犯人が持ち込んだ古い鉄製のネックレ
スを喜んで首にかけたらしいわ。そのままつけて眠ると新しい古代ネタが浮かぶかもし
れないとか言って、なんとか豊島さんに今日だけはネックレスをつけたまま眠ることに
合意させた。そして、犯人は時間貸しで借りたわが家の押入にあるものを持って潜り込
んだ」
「わが家の押入はたしかに豊島さんの部屋に接しているが、抜け穴とかはないぞ。どう
やって殺すんだ。まさか、呪い殺したなんて言わないだろうな」
「ある意味、呪いに似てるかも。犯人は押入の中から、豊島さんのネックレスを操っ
て、首を絞めたのだから」
「だから、どうやって?」
「犯人が持ち込んだものは、もう警察に証拠として届けてきたけれど、小型の鉄スクラ
ップ回収機のようなものだったわ。これはね、電源を入れると強烈な電磁力で、産廃屑
の中から鉄くずだけをくっつけて回収するためのものらしい。真由、あっと、犯人がバ
イト先の建設会社からこっそり借りてきたって。それを押入の壁に当てて、電源オン。
ここの壁ってほら、木製でベニヤ板みたいに薄いでしょ。強力な電磁石でひっぱられた
ネックレスはどんどん豊島さんの首を絞めていった。しかも、屑鉄を引き上げられるよ
うに、ウィンチで上に巻き上げられるから、まるで首吊り自殺のような状態になった。
そうしてしばらくして電源を切ると、息の絶えた豊島さんはベッドの上に倒れる。後に
は何も残らない。犯人がまさか首を絞められている最中に携帯電話で110番するとい
うのは予定外だったらしいけど、それでもウチの押入を片づけて、何食わぬ顔でこの部
屋を出てゆく余裕は十分あった。豊島さんが昼寝の時に厳重に戸締まりをすることも犯
人は承知していて、それを利用したと言ってたわ。部屋が密室状態になっていれば、き
っと自殺だと思われるからと」
「恐ろしいな。目覚まし時計が壊れたのは、その電磁力の影響なのか」
「そうでしょうね。針と針がくっついて離れないんだから、電磁力を受けて、磁石にな
ってしまったのでしょう」
「帯磁現象、だな」
父がぽつりと呟いた。もう引退しているが、かつてのエンジニアとしての知識がよみ
がえったのだろう。
「そうか。そう言えば、刑事が教えてくれたが、豊島さんの死体のそば、壁際には机の
上にあったらしいクリップやらペーパーナイフやらが落ちていたというんだ。それらも
その鉄スクラップ回収機に引っ張られて壁際に集まったんだな」
細目の刑事の低い声を思い出す。暗い顔をしていた彼は、今頃、自首してきた殺人犯
を取調中だろうか。
「犯人はあの密室から抜け出す必要なんかなかった。なにしろ、密室の外側から殺人を
実行したのだから」
澄子がいつのまにか友人の名前を犯人と言い替えている。そのことには気づかないふ
りで私は言った。
「なるほど、密室殺人って謎が解けると案外あっけないものだな」
「そうね」
澄子はそう言うと、手つかずのビールの入ったコップをさりげなく父の方に押しやっ
た。父は誘われたように、コップにいっぱいのビールを見ている。
そう言えば、ビールは無趣味な父の数少ない嗜好品だったな。
私は自分のコップを手に持つと、父に向かって上げて見せた。
「60歳ってことは還暦か」
おめでとう。
父は弱々しく笑って、頷いた。澄子がコンロ台に火をつける。
「正式にはお義母さんもお呼びしてやりましょう。今日のところはまず、その前夜祭と
いうことで。ね、お義父さん」
「すまなかった」
父の声は掠れていた。
(終わり)
#30/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/08/25 08:33 (196)
大凧祭のこと 已岬佳泰
★内容
登場人物 私(石見悦子)32歳。
フリーのアナウンサー。
不倫騒動でキャスターを下ろされたばかり。
友人(楜沢鉄雄)32歳。
地方公務員。大学卒業後F村に戻り
地域興しの仕事を続ける。
空いっぱいの青が気持ち良い。
隣りにいる友人のことは忘れて、私は思いきり背伸びをした。正面のA岳に薄い刷毛
雲がかかっている。
「なーんだ、ニッポン晴れというわけじゃないんだ、残念」
「そりゃそうさ。だってな……」
「分かってるって。雲が無ければ風は来ない。風が来なきゃあ、祭りにならない」
「そういうこと」
ずいぶんと久しぶりのはずなのに、昔なじみとの会話は瞬く間に時を越える。ぞんざ
いな挨拶と単刀直入なつっこみ。それは意外なほど心地よく私の気持ちをくすぐってく
れる。
「大凧祭に帰ってこいよ」
誘われたのは私の方だ。8年ぶりの帰郷だった。8年といえばひと昔、いくら田舎と
は言え、コンビニが建ち、道は開けて……と予想していた。ところがところが、私の故
郷の寂れ具合はほとんど変わっていない。気候までもがまるで別世界だった。
東京では皮膚が溶けだしそうなくらいの酷暑だったというのに、新幹線で一時間半、
さらにバスで一時間ばかり来たN県F村では、川面をわたる風にもう秋の冷たさを感じ
る。
私たち……私、石見悦子と友人、楜沢鉄雄は、F村の真ん中を流れる大川の堤防に並
んで腰を下ろしていた。反対側の雑草が刈り取られた堤防では、約100畳と言われる
大凧を中心にして、大勢の引き手が忙しそうに動いている。四角い大凧本体にとりつい
て、なにやら点検している一団。大凧からのびた綱を解きほぐしている人たち。みんな
F村の男たちらしい。大川の両岸には私たちも含めて、そこそこの見物客が集まってい
た
リーダーとおぼしき法被姿の男はさっきから幾度となく空を見上げている。それに合
わせて、つられるように私も空を見上げる。風を見ているらしい。
「大凧祭の由来だけどさ。覚えてる?」
鉄雄が言う。私は「そら来た」と思う。大学卒業以来ほとんど音信不通だったから、
いきなり大凧祭に来いなんてちょっと変だとは思っていた。学生の頃から鉄雄は、ある
ことに興味を持っていた。大凧祭とそれの因果関係を学内新聞のコラムに発表したくら
いだ。
「覚えているわよ。御説では、F村の大凧祭とは姥捨て伝承、つまり棄老因習の名残り
だというのでしょう」
「おお、嬉しいね。ちゃんと覚えておいてくれたんだ」
「はいな。そりゃあ、学生時代に耳にタコができるほど聞かされたもの。あの熱心さは
そんじょそこらの新興宗教にだって負けやしない」
大げさに言ったつもりはなかった。もとはといえば深沢七郎の「楢山節考」を読んで
感化されただけなくせに、自分の故郷F村にも似たような言い伝えがあることが分かる
と、鉄雄の興味は一気にそっちへと傾斜していった。同じF村出身の私にしつこく協力
を求めて来たのもこの頃だ。
有名な8連峰に囲まれた小さな盆地であるF村は、その南側に急峻な北壁を見せるA
岳がある。麓の樹海の深さと絶壁のA岳は、入ってくる者を頑なに拒否している趣があ
った。帰省した折りに鉄雄とふたり、村の古老たちから聞き取り調査をしてみるといろ
いろな言い伝えがあることがわかった。雪降る夜の雪女、雨降る5月の河童、枯葉舞う
10月の神隠し。その中で一番信憑性が高いのが、8月豊穣祭の棄老伝説だった。
私が直接、もう80歳を過ぎた祖母から聞いた話がある。
明治時代の後期までこの村では口減らしのために、70歳を迎えた老人は、A岳の俗
称「棄老岩」に行くと決まっていた。楢山節考のおりんは息子の背負子に乗って山へと
向かうが、こちらでは8月の豊穣祭の夜、ひっそりといなくなるのである。日本中のあ
ちこちに似たような話があるのだろう。たいていの伝承がそうであるように、F村の棄
老伝説もよく似たパターンを踏んでいる。ただ微妙なバリエーションもあった。それは
棄老岩へと行くときのことだ。祖母曰く「豊穣祭のその日、自ずから見えてくる道筋を
辿って、ひとり山に入る」というのだ。70歳になったら天啓のように棄老岩への道筋
が示されるというのは、かなり謎めいた話だったが、これに飛びついたのが鉄雄だっ
た。
問題の棄老岩はA岳北壁の中途にある4畳くらいの広さの岩だ。それが崖から真横に
せり出して、ちょうど大人なら4,5人は座れるくらいの平たい部分が上にある。70
歳を過ぎた老人たちは、そこで残りの生涯を閉じると言われていた。しかし、そこへ行
くには深い樹海を1時間ほど歩き、さらにほぼ直立の崖を100メートルは登らないと
いけない。果たして、老人たちにそのようなことができたろうか。いやいや、屈強な若
者にだって難しい。現に、鉄雄たち(鉄雄とその悪友ども)が何度か崖登りを試みた
が、いわゆるガレ場になっていて、登ろうとすると岩がぼろぼろと落ちてしまうため断
念したと聞いた。反対の頂上側からロープを使って降りることも試みられたが、これま
た失敗。崖下からの突風が強くて、大学の登山部すらも尻込みしてしまうくらいの難所
だったのだ。結局、鉄雄たちはF村の役場に話をつけて災害用ヘリを1日だけ出しても
らい、写真撮影を行った。その経験が鉄雄のコラムのポイントになっている。
「いかにして、老人たちは棄老岩に登ったのか?」
今でもちゃんと覚えている。これがコラムの書き出しだった。そして、その中で鉄雄
はこの大凧祭を取り上げた。
「伝承の棄老岩に関しては、大きな謎がひとつある。登坂不可能な棄老岩にいったいど
うやって、老人たちが行けたのかという問題である。この謎を解く鍵は、しかし、意外
にも私たちの目の前にあった。F村で豊穣を祈願して8月に行われる大凧祭である。他
の土地では5、6月に行われることが多い凧揚げがどうしてF村では8月なのか。それ
は、村人が総出で綱を引き、風に合わせて大凧を空へと舞い上がらせる古くからのこの
伝統行事が、実は老人たちを棄老岩へと運ぶ手段でもあったからなのだ」
「きみはあんまり納得してくれなかったけれども、あれはあれでかなりの反響があった
んだぜ」
鉄雄が懐かしそうにそう言った。ちょうど頃合いの風が吹いて、鉄雄の白いシャツを
はためかせる。川縁にかたまってのびた女郎花がゆさゆさと揺れた。その動きに合わせ
て私も少しだけ心をほぐしてみる。
「あれはさあ、かなりのこじつけだと思ったよ。でも動機が不純じゃなかったから良か
った。あのコラムはF村の観光パンフに採用されたんでしょ。そのおかげで、勇壮なだ
けの大凧祭に棄老伝承というダークサイドが加わって、祭りとしては深みを増した。こ
んなに堤防いっぱいに観光客も来るようになったしね」
「そうだろう。えへん」
鉄雄が白い歯を見せて笑う。その目がくりくり動くの見て、私は仕方なく調子を合わ
せる。
「で、今度は何?」
私が言うと、鉄雄は大事そうに薬瓶のようなガラス容器を、半ズボンのポケットから
取り出した。
「ちょっとした発見をしたんだ、ほら、この小瓶」
受け取って見ると、中には黒っぽい炭の破片のようなものが入っている。
「これがどうしたの?」
「世紀の大発見さ。大学の後輩に頼んで、DNA鑑定をしてもらったら、炭化した魚の
骨らしい」
「ふーん、それがどうして世紀の大発見なの?」
「これを見つけた場所がおおいに問題になる。実は先月、山岳救助隊がついにあの棄老
岩に降りた」
「驚いた。遭難でもないのに、どうやって救助隊に頼めたわけ?」
学生の頃、棄老岩の実地調査をするべしと何度かF村役場や県警、近くの自衛隊駐屯
基地に交渉に行ったことがある。今考えると当たり前なのだが、全然相手にされなかっ
た。学生の珍説につきあっているヒマはないというわけだ。いくらあれから8年くらい
経ったからといって、状況が変わったとは思えない。
「すべては村興しのためというわけさ。ほら」
鉄雄が小さなカードをくれた。彼の名刺だった。
「F村企画部主任?」
「人口先細りのこの村をなんとか全国区にしようという話題づくり、IターンやUター
ン促進事業を立案してゆくのが、今の俺の仕事なんだ。村一番のイベントである大凧祭
と棄老伝承にさらに信憑性を持たせるためには、なんとしても棄老岩の調査が必要だと
ねじ込んだら、今年やっと予算がついた。ヘリを持ってる救助隊を一日だけ動かすこと
ができるささやかな予算で、しかも、他で遭難事故でもあったら、調査は即中止という
条件付きだったけどね」
「あきれた。与太話にとうとう税金をつぎ込ませたの」
「人聞きが悪いな。でも、俺の説は立証されそうなんだぜ。山岳救助隊のおかげで、棄
老岩の周辺から人骨とこの破片が回収された。この意味が分かるか」
鉄雄は得意そうに鼻を動かした。
さあ、何だろう。首を傾げたところに、拍手が響いた。
ちょうど、堤防の大凧がかけ声とともに立ち上がったところだった。いつの間にか、
女郎花の揺れ具合が大きくなっている。法被姿の男が大声で指示を出す。凧につながっ
た綱がぴんと張られる。みんなが法被姿の男の次の一声を待っている。それから風に向
かって一息に駆け出すと、いよいよ大凧は空に舞い上がる段取りだった。
「いい風になって良かったわね」
私に頷くと、鉄雄も大凧の方に視線を投げた。
「実は、知っての通り、俺の大凧祭棄老伝承説にも、いくつか疑問があった。そのひと
つは、そもそもどうやってご先祖様があの棄老岩を発見したかだ。登攀不可能な位置に
ある棄老岩の上にあれほどの広い平らな部分があることをどうして知ったのか」
その問題は学生の頃、何度か議論していた。
「それこそ、大凧じゃないの? そもそも大凧祭がいつ頃から始まったか、それも諸説
があってはっきりしないでしょ。戦国時代の忍者が高いところに登るのに使ったという
説から、明治飢饉に、少しでもお日様に近づいて祈ろうとしたという雨乞い説まで、い
ろいろ。もしも大凧祭が棄老伝承よりも先にあったとすれば、そこに誰かが乗っていた
ら、棄老岩を見つけることができた?」
「もっと魅力的な新説を発表しようと思っているんだ。F村のおりんは背負子ではな
く、実は舟に乗せられて棄老岩へと向かったというわけさ」
「え?」
「今から何年前か、それは採取された人骨とこの魚の骨の年代鑑定でわかると思うが、
そのころはF村一帯は湖だった。水かさはちょうどあの棄老岩のあたり。今の地面から
100メートルくらいだったんだと思う。だから、舟を使った。おそらく最初に棄老岩
を見つけたのはこの湖で漁をする人たちだろう。その話と貧しい村の口減らしがつなが
って、棄老岩は生まれた。その小瓶の骨は炭化している。つまり、魚は火にあぶられて
いる。棄老岩に取り残された老人の中に、火をおこし、湖の魚を食べた人もいたのだろ
う。お陰で、棄老伝承の謎がひとつ解ける手がかりを残すことになった」
私はあっけにとられた。なんともすさまじい飛躍だった。
「湖って言ったって。いったいどうやったらこの山の中のF村が湖になるわけ?」
「心配ご無用。ほーら、F村の周りを見てみなよ。8連峰とA岳にぐるりと囲まれてい
るじゃないか。この大川がなかったら、小さな盆地のF村はたちまち大きな水たまり
さ」
青空にジグザグ形の鮮やかな稜線が浮き上がっている。ぐるっと周りの8連峰、それ
からすぐ目の前のA岳。
そう言われるとそんなこともあり得そうになるから不思議だ。
「いつか大雨が降って大川が流れ落ち、湖の水は引いた。でも貧しいF村の棄老という
因習は、たとえ水が引いて湖が失せても終わらなかった。そこでご先祖様は考えた。あ
の棄老岩へと不幸な老人たちを運ぶ方法を」
「そうして、大凧祭は生まれた、というわけね」
「ご明察」
鉄雄はそういうと片目をつぶってみせた。
「えーいや。えーいや」
風と共に、向こうの堤防からかけ声が響いてきた。綱を引く男たちが駆けだしてい
る。大凧は少し左右に身震いをして、それからゆっくりと上昇し始めた。
「えーいや、えーいや」
こっちの堤防の観衆がかけ声を合わせる。私も声を出した。大凧は風にあおられてぐ
んぐんと上がってゆく。空いっぱいの青空はまるで大海原に見える。その青のど真ん中
を白い四角い大凧は駆け上がる。私ははっとした。
「ねえ、おりんさんを運んだ舟って、ひょっとしたら帆掛け舟だったのかもね」
四角い白い帆は青空をまだまだ上ってゆく……。
(エピローグ)
「もうすぐ新しい観光パンフをつくるつもりさ。この新説がしっかりと掲載される予定
だから、そのときはちゃんと送ってやるよ」
「ありがとう。お陰で楽しかったわ」
「しっかりな」
バス停まで見送りに来た鉄雄は、そう言うとまぶしそうな目で笑っていた。
あれから1ヶ月。東京に戻った私の仕事は週1回15分のラジオ番組だけになってい
た。まだ鉄雄が約束してくれた新しい観光パンフは届いていない。しかし、バス停での
別れ際の「しっかりな」という言葉だけが、未だに後を引いている。
(了)
#31/569 ●短編
★タイトル (acl ) 02/09/03 22:17 (353)
私はこういうのが怖いと思う 時 貴斗
★内容
序
幽霊を見た人は少ない。多くの人にとって、たぶん一生体験しないこ
とだ。だから、そういう話を耳にしても、どこか他人事であるかのよう
な、輪の外側にいて、安心して聞いていられるようなところがあるので
はないだろうか。
怖い話といえば幽霊の目撃談であり、テレビでしょっちゅうやってい
るので、慣れてしまう。本もたくさん出版されている。創作ではなく、
実際に体験したことなので仕方がないのだが、似たようなパターンが多
い。
そこで――というわけでもないのだろうが、新しいタイプが出てくる。
『本棚とタンスのわずかな隙間に、幅が数センチの幽霊がいた』、『生前
に撮った娘の写真に怪しい光が写っていた。お寺に持っていくと住職か
ら、「残念ですが、娘さんは地獄に落ちました」と言われた』
といったものが、私は目新しいと思う。しかし体験した芸能人が別の
番組で同じ話をすると、あるいはネットワーク上で同じ話を見かけると、
本人には大変申し訳ないが、「またか」と思ってしまう。
もちろん、いわゆる幽霊以外にも恐怖談はある。妖怪、ドッペルゲン
ガー、正夢、ポルターガイスト等々。しかしこれらは、幽霊よりもさら
に現実味がとぼしく、怖いというよりむしろ不思議な話だろう。
後ろから肩をとんとんと叩かれ、振り返ってみると誰もいない、とい
うのが昔、私は恐ろしかった。夜、一人で机に向かっている時、自分が
そんな目にあったらどうしよう、と思っていた。子供の頃は、素直に怖
がることができたのだ。今は、幻覚は目に見えるまぼろしだけを言って
いるのではなく、五感すべてに起こりうることを知っている。
なんでも、人がもっとも恐怖を感じる方向は後ろ、次は側面、その次
が前なのだそうだ。人間は見えないものを恐れる性質を持っているらし
い。私が背後から肩を叩かれるのを特別に怖く感じたのは、そういった
要因があったせいではないか、などと思う。
幽霊目撃談の大半は幻覚かデマ。心霊写真の多くは作り物、カメラの
機構によるもの、あるいは錯覚。人間の脳には物の形を簡略化して覚え
ている細胞があり、例えばフェイスマークを初めて見た人が、何の説明
も受けなくてもそれが顔を表していると分かるのは、その細胞の働きに
よるものだ。だから木や岩のちょっとした模様が顔面に見える。
そういう事を学習すればするほど、興ざめしてしまう。子供の頃は知
らなかったのだ。
なお、私は心霊現象のすべてを否定するものではない。幽霊は存在す
る、あるいはしないと、完璧に証明できる人などいないのだ。
テレビの恐怖番組を見ると、司会者もゲストもみんな心底ぞっとして
いるようにみえる。しかし、子供じゃあるまいし、あんなに怖がるはず
がない。あれは仕事だからそうしているのだ、などと考えてしまう。
私にはむしろ、自分の身にも起こり得ることの方が怖いと思える。確
率は低いにしても。
日常の向こう側
「東京は晴れ時々曇り。蒸し暑い一日となるでしょう」
日曜日、遅く起きた私は、トーストにバターとジャムを塗りながら天
気予報を見ていた。焼きたてのソーセージにソースをかけ、アイスコー
ヒーにミルクをたっぷりと注ぐ。平日ではこんな事をしている余裕はな
い。休みの朝の、ささやかな贅沢だ。
私はチャンネルを変えた。バラエティー番組で、お笑い芸人がバカな
事を言っている。パンをかじりながら新聞を取り上げ、テレビ欄を読む。
だが、見るものはたいてい決まっている。何か変わったものをやってい
ないだろうか。日曜はいわゆる長寿番組というやつが多い。きっと、み
んな出かけているから、激しい視聴率競争などないのだろう。だからど
うということもないものが長生きする。ところが、見るとこれがなかな
か飽きないのだ。オーソドックスで、出演者も視聴者も肩肘張らなくて
いい。ものすごく面白いわけでもないが、さりとて退屈でもない。おや
つに例えていえば、ピーナッツだ。
朝食が終わったので、食器を流し台に持っていく。たわしを水で濡ら
し、中性洗剤を数滴かけ、もむと、みるみるうちに泡がたってくる。
さて、今日は何をしようか。現在、恋人はいない。友人とはこの間ゴ
ルフに行ったばかりだ。一人でドライブでもするか。いや、日曜日は混
んでいるし。
後片付けが終わったので、歯を磨く。さらに万全を期すために、洗浄
液で口をすすぐ。
テレビの前に戻り、タバコを吸う。
インターネットでもしていようか。ほぼ毎日見ているサイトが二、三
ある。それ以外でいいコンテンツにめぐり合えることは、そんなにない。
アマチュアが書いた小説を読み、アマチュアが描いた絵を鑑賞し、アマ
チュアが作ったフリーソフトをダウンロードする。たいていは、暇つぶ
しにしかならない。それほど貧乏でもないので、金を払ってプロが作っ
たものを買った方が良い。
もちろん、プロフェッショナルが設けているホームページもある。例
えば、お医者さんが解説をしているサイトがそうだ。しかし、自分が病
気か、または作家でもない限り、そういう情報を積極的に収集する意義
があるだろうか。
こうして、時間は過ぎていく。結局は、いつもと同じようにテレビを
だらだらと見て過ごす。しかし、それが休日の醍醐味ではないだろうか。
やるべき事柄をリストし、優先順位をつけてこなしていくのは、平日だ
けでいい。
お昼になった。飯は用意していないので、買ってくるか外で食うかど
っちかだ。久しぶりにうまいラーメンを食べたい。私は財布を持って出
かけた。
駅前の店で味噌ラーメンを食った。大きなチャーシューがのったやつ
だ。
さてどうしようか。本屋にでも行ってみるか。切符を買い、電車に乗
る。いつも混んでいるが、休日の今頃だと楽にすわれる。窓から見える
風景も明るい。平日だと朝か夜なので、自分だけでなく景色までくたび
れている。
人並みに押し出されることもなく、悠々と降り、改札を出る。
二、三分歩いて、本屋に入った。大きくて、欲しいものはたいてい手
に入るので、私はこの書店が好きだ。まず一階でミステリーを物色する。
残念ながら、いいのはなかった。専門書には興味がない。漫画を売って
いる四階には入りづらい歳になった。そこで私は、文庫本がある三階に
行った。だいぶ迷って、結局ヒューゴ、ネビュラ賞をとっているSFを
買った。
しばらくその辺をほっつき歩いてみようかとも思ったが、他にするこ
ともないので、電車に乗った。帰りもすわれた。せっかく出かけたのに、
特に目新しい事もなかったな、などと思う。さて、晩飯は何にしようか
な。
ホームに降りる。自動販売機の前で、親父が何か飲んでいる。黒い色
なので、たぶん缶コーヒーだろう。自分ももう親父と呼ばれてもおかし
くない年齢だな。
階段の前に来た。私は、日曜だというのに背広姿の男の後ろに着いて
歩く。大変だなあ。まあ、私も休日出勤は時々あるので、他人事ではな
い。
二段目に足をおろそうとした時、異変が起こった。
「うあっとと」
私は前にいる男の背中に手をついた。心臓が口から飛び出そうな感覚
が私を襲った。周りの景色が混濁した。私は転がった。まるで映画の階
段落ちのように見事に。
体中を打ちつけた。痛い。
「ううっ」という私のうめき声は、男の絶叫によってかき消された。
私は男にのしかかるような格好で倒れていた。
見ると、自分の親指が彼の左目に突き刺さっていた。
ムカデ
俺の部屋は汚い。ひどく散らかっている。で、片付けもせず何をやっ
ているかというと、テレビゲームだ。ふと、目の隅に何か動くものを感
じた。畳の上だ。俺は首をねじった。本が散乱している。主に漫画だが。
ゴキブリだろうか。部屋の端にあるゴキブリとりの箱は、もう一ヶ月
近く取り替えてない。中がどうなっているかなど想像したくもない。
何もいない。おかしいな。気のせいだろうか。
俺は再び街の人々に話しかける作業に没頭した。なかなかラーマの鍵
に関する情報が集まらない。いけない。このおじいさんにはさっきも同
じ事を聞いた。なんだか同じ所ばかりうろついている気がする。
机の上の置時計を見る。もう夜中の二時を過ぎている。今夏休みだし、
バイトもしていないので、構わないのだ。高校の時はこうはいかなかっ
た。一人暮らしはのん気でいい。
ん?
俺はヘッドフォンをはずし、辺りを見回した。今確かに、サササとい
う音が聞こえた。だがどこも変わった所はない。
再びゲームの美しい調べを聴く。ノイズだろうか。いや、もう聞こえ
ない。それとも隣人が壁に何かしているのか。カレンダーを貼るとか。
店に入る。新しい武器や防具が入荷していないだろうか。残念ながら
そうはいかなかった。やはり、ラーマの鍵を手に入れない限りもう何も
起こらないのだろう。
明日、沙織を誘って映画でも見に行くか。それともやっぱ、パチンコ
か? 久しぶりに浜っちょ達とマージャンでもするか。
俺は身を固くした。またあの音だ。俺は振り返った。代数幾何の本の
下から、細長い生き物が身をうねらせながら這い出してきた。背筋に悪
寒が走った。
ムカデだ。
毎年夏になると、小さい奴をみかける。だがこいつは大きい。どうし
よう。漫画で叩き潰そうか。だめだ、恐ろしくてできない。殺虫剤がど
こかにあったはずだ。ゴキブリ用ではない。ちびを退治するために買っ
たものだ。
俺はヘッドフォンを床に放り、立ち上がった。虫は週刊テレビ雑誌の
下に入り込んだ。ずっと注視しているわけにはいかない。薬を探すため
にはどうしても目を離さなければならない。
小物入れ、CDケースの裏、食器棚、どこにもない。俺は探した。引
き出しの中、冷蔵庫の上。
本棚の上から二段目に、それはあった。
数秒間躊躇し、思い切ってテレビ雑誌をはぐった。だが、すでに移動
した後だった。俺は本を一冊一冊持ち上げ、確認していった。まるでエ
イリアンの赤ちゃんを探すかのように、おそるおそる。
パジャマ、菓子の袋、ゲーム機、ボストンバッグ、ティッシュの箱、
様々な物の下を確かめた。いない、ムカデがいない。
結局二時間かけて、俺は部屋を整理整頓した。そのままだと、奴がど
こかに潜んでいるので安心できない。しかし、すっかり片付けたのに見
つけることはできなかった。きっと押入れの奥にでも行ってしまったの
だろう。なにしろこんな時間だ。奴はもう寝ちまったに違いない。
俺は布団を敷き、用心のため枕元に殺虫剤を置き、電気を消してもぐ
りこんだ。とても心配だったが、疲れたせいだろうか。すぐに眠り込ん
だ。
次の日、俺はパチンコし、浜っちょ達とドライブし、夜はマージャン
でおおいに盛り上がった。
その次の日、俺は沙織とデートした。夜はアルバイト情報誌と漫画を
読みふけった。ムカデはどこかに行ってしまったらしい。俺ん家、もう
一ヶ月以上掃除機かけてないからな。住み心地が悪かったのだろう。
翌朝、十一時過ぎに目が覚めた。いかんな。昼夜が逆転してしまう。
それもまた学生の特権か。俺はもそもそと布団から這い出した。別にも
っと寝ててもいいんだけどな。
ユニットバスに入り、鏡に映った呆けた顔をながめる。こうしてつま
らないサラリーマンになり、平凡な家庭を作り、どうということもない
爺さんになっていくんだろうな。俺は歯ブラシを口に突っ込んだ。バイ
ト、何にしようかな。またコンビニでいいか。家庭教師とか、やってみ
ようかな。面倒くさそうだな。
顔を洗う。水が生ぬるい。クーラー全快にして、ウーロン茶でも飲も
う。氷をたっぷり入れて。
海辺でかき氷売るのもいいかも。そういうのって、面白いのかな。
俺はタオルで顔をふいた。
「ああっ、あ!」
ほお骨の辺りに細い針が刺さり、ぬるりと抜けた。
金縛り
「ただいま」
「あらお帰りなさい。今日は早かったのね」
いつも残業なので、たまに早く帰ると珍しいようだ。
「いや、今朝会社に行く途中で、転んでしまってね。頭を打って、痛い
ので帰って来た」
「まあ、大丈夫なの?」
「まだちょっと、首が痛いんだ」
顔をしかめながらそう言うと、洋服ダンスがある部屋に行って、鞄を
畳の上に置き、背広の上着を脱いだ。
「どこで転んだの?」妻が背後から声をかける。
「郵便局の前だよ」
バス停に行く途中に、郵便局がある。入り口の前がタイル敷きになっ
ていて、歩道に行きかう人々を避けて、その上を通ったら転んだのだ。
まるでコントで、バナナの皮を踏んだかのようにつるりと。
「今までずっと我慢していたの? 早退すればいいのに」
大げさな、と私は思う。
「なに、少し痛むだけさ。気にする事はない」
パジャマに着替え終わり、台所に行って食卓につく。平日に妻と二人
で飯を食うのは何ヶ月ぶりだろうか。娘と息子は正月まで帰ってこない。
「お薬つけた方がいいんじゃない?」
「会社で処置してもらったさ。見れば分かるだろう」
私は首に貼られたシップを指差した。
妻は料理を温めなおすために、ガスコンロに火をつける。私はテレビ
を見ながら待つ。味噌汁のいい匂いがしてきた。
「お母さん、ビール」
「ああ、はいはい」
私の前に五百ミリリットルの缶ビールと、コップが置かれる。泡がき
れいにたつようにゆっくりとつぎ、飲んだ。のどを通る冷たい感触が、
暑さを癒した。
料理が並んだ。今日はカボチャの煮物と、アジの塩焼きと、あさりの
味噌汁だ。
「タロがね」
「ああ?」
「姉さんとこの犬がね、元気がないって」
義姉の家の犬か。そういえばもう何年も飼っている。
「歳じゃないのか? それとも、具合が悪いのかな」
そんな他愛もない話をしているうちに、二人きりのわびしい食事は終
わった。私は風呂に入った。温まると、首の痛みは治っていった。明日
からまた残業だ。
上がって、妻にもう一本ビールを注文し、居間でテレビを見ながらす
るめを食う。こうして平凡な一日が過ぎていく。
十一時になったので床につく。妻はふすまに隔てられた隣の部屋に寝
る。
だが、今日に限ってなかなか寝つけない。明日中に片付けなければな
らない仕事はあっただろうか。いや。作っている資料は来週の頭までに
できればいいし、部内会議はあさってだ。
では、暑さのせいだろうか。エアコンは妻が使っている。だが、都心
と違い、郊外のここでは夜気がひんやりとしている。
寝返りをうつ。網戸の向こうで、虫が鳴いている。扇風機の風が、足
から頭へ、そしてまた足へと往復している。眠れない。
再び寝返りをうつ。まぶたが自然に開く。外の電灯が、室内をうっす
らと照らしている。机の上に読みかけの本がある。これで、少し時間を
つぶそうか。とは言うものの、そんな気にはなれない。高校の時は、お
もしろい物語があると、遅くまで起きていたものだ。昔の話だ。
上を向き、天井を見つめる。娘はどうしているだろう。孝雄君とはう
まくいっているのか。
動いているうちに、ふとんがずれた。端をつかもうとした時、異変に
気づいた。おや? おかしいな。腕が動かない。右も、左も。足もだめ
だ。いったい、どうしたというのだろう。
右手に力をこめる。しかし、指さえも動かなかった。これは、ひょっ
として、金縛りというやつだろうか。こんなことは生まれて初めてだ。
周囲を見る。が、怪しいものはない。女がじっとにらんでいたりした
ら、気絶しそうだ。途端に、こめかみに汗がつたった。早く解けてくれ、
と私は願った。こんな薄気味悪いのはたまらない。
いくら頑張っても、体は硬直したままだ。頭だけはなんとか動くので、
とにかくあちこちに目を向けた。机の脚、畳、壁、天井、どこも変わっ
た所はない。だが、暗く、よく見えないことが、私を不安にさせる。
声は出るだろうか。
「お、い」
助かった。金縛りになったら、しゃべれないものだと聞いていた。
「おい」
もっと大きく、言った。無論、妻を呼んでいるのだ。
「おおい!」
私は怒鳴った。少し遅れて、ふすまの向こうからがさごそと音が聞こ
えた。
「どうしたの?」しかめ面をした妻が出てきた。
「体が、動かない」
「ええ?」
「どうやら、金縛りらしい」
「ええ?」同じ言葉を、今度は半笑いで言った。
「本当なんだ。とにかく、電気をつけてくれ」
部屋が明るくなった。光によって霊は退散したかというとそうでもな
く、手足は微動だにしない。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、でも、気味が悪い」
「おじいちゃんのお墓参りに行かなかったからかしら。ほら、去年参ら
なかったし、今年もまだ」
「夏休みがとれたら行くさ。しかし、親父がそのくらいのことで祟ると
は思えない」
父は気丈な人間だった。毎日工場で重い荷物を運んでいた。父が愚痴
や文句を言うのを、聞いたことがない。
「それじゃきっと、疲れているのよ。ほら、頭は起きてるのに、体は寝
ているっていう」
「ああ、この間テレビでやっていたな」
妻としばらく話した。だが金縛りは解けない。
「お酒持ってきましょうか。飲んだら眠れるかも」
「いや、いらない。しゃべっていたらだいぶ気が楽になった。もう大丈
夫だから、寝なさい」
電気が消され、妻が出て行く。実際には大丈夫ではなかった。
まてよ、と私は思う。今朝ころんだが、誰かに押されなかったか? そ
んな事はない。タイルがつるつるだったので、すべっただけだ。人にさ
わられたような感触はなかった。
本当にそうだろうか。もしあの時すでに、憑かれていたとしたら。
眠れず、不気味な想像が次々に湧いて出る。あの郵便局で、過去にな
にか不幸なことがあったのではないか。足首をつかまれなかっただろう
か。いや、自然にころんだのだ。
とにかくリラックスしようと努めたり、逆になんとかして動こうと力
を入れてみたりした。何度も壁掛け時計に目をやる。悶々とした状態で、
時間はゆっくりと過ぎていく。
三時すぎ、ついに私は耐え切れなくなった。
「おおい、お母さん」
ふすまが開き、妻が入ってきた。眠そうな顔をしている。
「怖くてたまらん。どうすればいい」
「まだ解けないの?」
「今、お坊さんを呼ぶことはできないか」
「まあ、困ったわねえ」
妻は考え込んでいたが、やがて言った。
「救急車を呼びましょう」
「えっ、しかし」
「だって、こんなに長い時間金縛りが解けないなんて。どっか体の調子
がおかしいのよ」
妻はすっとんでいった。電話している声が聞こえる。そんな。朝にな
れば、すっかり元通りになるのではないか? しかし、金縛りというの
がいったいどのくらい続くものなのか分からない。これほど長い時間解
けないのは、確かに体の異常だという気もする。しばらくして救急車の
サイレンが聞こえてきた。それが家の前を通り過ぎず、音が止まるのは、
ひどく嫌な、心臓が縮むような気分だった。私は担架にのせられ、病院
に運ばれた。こんな真夜中に。霊に対する恐怖とは別の不安が、急速に
胸の内にふくらんできた。
病院に着き、どこか陰鬱な、緑色のカーテンで仕切られた部屋に運ば
れた。私は担架から小さなベッドに移された。
「どうしました?」と若い医者が言った。
「体が全然動かないんです。もう四時間も」
私が口を開くより早く、妻が答えた。
「どこか痛いところはありますか?」
「ええ、首が少し痛いです」今度は私が言った。「今朝ころんでしまって。
ほとんど治っているんですが」
私は一人用の病室に移された。明日診察するのでとにかく寝るように
言われ、眠れないと訴えると注射をうたれた。
目が覚めるとすっかり明るくなっていた。朝食は犬の餌かと思うよう
な質素なものだった。それから一時間もたって、やっと医師が現れた。
聴診器を胸に当てられると、冷たかった。首を触診された時、「あっつ」
と思わず声をあげてしまった。
「痛みますか?」
「はい」
それから点滴をうたれ、レントゲンやその他の様々な検査を受けた。
とにかく、一つの事が終わって次が始まるまでやたらと待たされる。横
にすわっている妻とはしゃべる話題もなく、やたらと心配そうな顔をさ
れる。昼が近くなる頃には気分的にすっかり疲れていた。
妻が医師に呼ばれた。私は落ち着かず、帰ってくるのを待った。
驚いたことに、戻ってきた妻の顔は涙で濡れていた。
「お父さん」とだけ言って泣き崩れる。
「おい、どうしたんだ。泣いてちゃ分からないじゃないか」
「あのね、それが」再び嗚咽する。
「言ってくれ。どうだったんだ」
妻は顔を上げた。
「頚髄損傷で、もう首から下が動かないって!」
<了>
#32/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 02/09/22 10:11 ( 44)
スタンド・バイ・ミー〜一夏の恋の物語〜 滝ノ宇治 雷華
★内容 02/09/25 15:25 修正 第3版
登場人物俺(今井 克)
高橋 由果
夏が来るたび思い出す。
二年前のあの、夏。
状況は一変していた。
俺にふりかかった、同じクラスの女子を俺が好きという話。
迷惑だった。 だって二年前のあの出来事を思い出すもの。
2000年初夏。
世界がミレミアムとか騒いでいた年。
俺はいつもの学校でいつもと変わらぬ毎日を送っていた。
そんな時、転校生の高橋 由果という女子がやってきた。
はじめはどうせ他人だから、興味もなかった。
そのうち、趣味のお絵描きのノートを持っていって、
由果も絵を書くのが好きだった。
見せッこもしていた。
そんな中、
由果のことが好きという男子が4人もいた。
由果はその中の3人が嫌いらしく,頼ってきたのは俺だった。
でも、自然と俺はその四人の中の一人になっていた。
そう、俺は由果のことが好きになっていた。
でも、告白しようとは思わなかった。
だって毎日一緒に帰っていたし、由果いるのが、当たり前だと思ったいたから。
でも、急に終わってしまった。
林間学校がやってきた。
始めての泊まり。
コレを機会に、由果と思い出をたくさん作ろうと思った。
運良く、由果と、同じ班になれたので、共に班行動をしていた。
ホテルについた。皆疲れて,汗だくだ。
夜、皆が寝た後ドアが開く音がした。
そしておもむろに俺の布団に誰かが入ってきた。
それは由果だった。
唇に由果の唇のやわらかい感触がする。
目がさめた。昨日夜中まで起きていた俺は、同じ部屋の男子たちに起こされた。
朝食の会場に向かうと由果が、顔を赤くしてこちらを見つめていた。
林間も終わり,始業式がやってきた。
いつものように席に座る。
先生がやってきていった言葉は、
「高橋 由果さんは、転校されました。」
その瞬間,頭は真っ白になった。
切なかった。寂しかった。悔しかった。
それから,2年後,今。夏の空,とびっきりの笑顔で笑う、自分がいた。
<完結>
#33/569 ●短編
★タイトル (GVB ) 02/09/28 18:32 ( 66)
大型取引小説 「支払う時」 佐野祭
★内容 02/10/06 22:07 修正 第2版
「二百五十円になります」
いつものコンビニ。アルバイトの女性が後ろの棚から煙草を取り出して言った。
喜三郎が財布から千円札を取り出し、店員に渡そうとしたときのことである。
「ポキン」
暗黙の了解の壊れる音がした。
喜三郎は考えた。
(もしこの千円札を先に渡して、この店員が煙草を渡さなかったらどうなるんだ
ろう)
そのとき、店員の梅田手児奈も考えていた。
(もしこの煙草を先に渡して、この客が千円札を渡さなかったらどうなるんだろ
う)
札を受け取ろうとする手児奈の指をかわすように、喜三郎は千円札を引き戻し
た。そして、先に渡せと言わんばかりにカウンターの上の煙草を指さした。
手児奈は煙草を押さえてかぶりを振った。そして、手を差し出して手のひらを
上に向けた。
喜三郎はその手を無視するかのように煙草を指した。手児奈はなおも手を伸ば
す。その手をかいくぐって喜三郎の手が煙草をつかんだかに見えた。が、その手
は手児奈に払いのけられた。喜三郎の顔が険しくなった。
睨み合いが続いた。
どのくらいその状態で止まっていただろうか。喜三郎に変化があった。
千円札を手児奈の方に差し出した。そして、もう一方の手で手児奈の持つ煙草
を指さし、その指を自分に向けた。交換だ、と言っているのだろうか。
手児奈の顔に疑念が表れた。
喜三郎は同じ動作を繰り返し、疑いをとくかのように大きくうなずいた。
煙草を押さえていた手児奈の手は、おずおずと喜三郎の方に差し出された。差
し出しつつも決して煙草をつかむ力は弱まる気配を見せなかった。そのまま煙草
は喜三郎に渡されるかに見えたが、その手はあるところで止まった。そして千円
札に向けられたまま離れなかった手児奈の目が、喜三郎の顔を伺った。そしてそ
の目は再び千円札に向けられた。
喜三郎はその千円札を手児奈の目の前に差し出し、手児奈の顔をじっと見た。
手児奈もまた、その顔を見返した。
二人のもう一方の手が少しずつ伸びてきた。手児奈の手は千円札に、喜三郎の
手は煙草に。少しずつ、慎重に、お互いの目を見据えたまま。
空気が動いた。
喜三郎の手は煙草を、手児奈の手は千円札をつかんだ。しかし、お互いに押さ
えた手を離すことはなかった。
膠着状態が続いた。
そのまま手を離せば楽になったかも知れない。しかし、二人は決して譲り合お
うとしなかった。
そのときである。
喜三郎がぽつりと言った。
「お釣り」
手児奈の顔にとまどいが表れた。目はしきりに煙草と千円札と喜三郎とレジの
中の硬貨を行き来した。
どのくらいその目はさまよっていただろう。やがて手児奈の目はただ一点、喜
三郎に向けられた。喜三郎が差し出している千円札を、手児奈はゆっくりと押し
戻した。同時にもう一方の手では押さえつけた煙草を引き寄せた。
喜三郎にもその意図は通じたのか、素直に煙草を離し千円札を引き寄せた。
手児奈はレジの中から五百円玉一枚と百円玉二枚、五十円玉一枚を取り出して
煙草の上に乗せた。そして、喜三郎の顔を見てうなずいた。
再び。
喜三郎が千円札を差し出す。手児奈がお釣りを乗せた煙草を差し出す。二人の
手がお互いの支配下にある《もの》に伸びる。その支配は緩やかに交錯し、……
ある瞬間、喜三郎の千円札は手児奈の《もの》になる。手児奈の煙草とお釣りは
喜三郎の《もの》になる。そしてそれはほぼ同時だった。……喜三郎が千円札か
ら手を離すのと、手児奈が煙草から手を離すのと。
喜三郎は煙草をポケットに入れる。その顔からはそれまでの緊張は抜けている、
というよりむしろ脱力している。しかしまだやることは残っている。お釣りを小
銭入れに入れるまで、喜三郎は最後の緊張は保っていた。
それは手児奈も同じだった。千円札をレジに入れ終わり、初めて手児奈の目か
らぎらぎらした輝きが抜けた。
しばらく二人は放心していた。
永遠にその時が続くかと思われた。しかし、店内には次の客が待っているのだ。
手児奈はレシートを渡した。
喜三郎はレシートを捨てた。
#34/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 02/10/05 05:12 (182)
お題>書き出し限定>お菓子を作ろう 舞火
★内容 02/10/06 13:50 修正 第3版
これで最後にしようと私は思った。
固い決意の元に、最後となるフルーツケーキを作りながら。
もうこれでお菓子作りは終わり。
もう最後なんだから。
もともと、毎週末に用事がなければお菓子を作るのが趣味だった。
さすがに売り物にしている訳ではない。だが、ホームページに作った「家でできるお
菓子づくり」は、自作品の写真入りでいろいろなコツを掲載しているせいか結構な人気
がある。
そのための一連の作業すら楽しくて、その感想などを貰うとさらなるお菓子づくりの
励みになっていた。
だけど、もうお菓子は作らない。
だって、私はそのせいで彼に振られたんですもの。
『別れよう』
いつものようにお菓子持参で彼のアパートを訪れた私は、部屋にも入れてもらえずそ
う宣告された。
冷たい彼の言葉が信じられなくて呆然としていると、彼は見事なお腹を撫でてその理
由を言った。
『お前とつきあっていると際限なく俺の体重が増え続けるんだ』
『だ、だって……食べてくれるから。いつだっておいしいって』
私と同じで甘党で大のお菓子好きな彼だから、ずっとつきあってきたのだ。
『確かにお前の作る菓子はおいしい。だがそれも毎週、食事ができなくなるほどの量は
問題だろ。昼飯や晩飯の替わりにお菓子を食べ続けるなんて』
『だって、そんなの休みの日だけだし』
なおも言いつのる私に、彼は首を横に振った。
『休みの日だけだろうが、確実に俺の体重は増えているし、お前の菓子づくりは止まら
ない。それに……』
ふっと言葉を切った彼は、私の前に一枚の紙を突きつけた。
『見ろ。ここを。医師の所見欄だ』
<要請密検査 血糖値異常>
そんな単語が目に飛び込んできた。
『え……』
『今日、精密検査を受けてきた。糖尿病だと』
『糖尿病?』
その言葉に呆然と目の前の彼を見遣る。
確かにつきあい始めた頃はもっとスリムだったような気がする。
彼が着ている服は一年前に買ったシャツだけど、あの時はもう少しゆったりとしてい
た
それが、今はぴちぴちだ。
『別にお前の菓子のせいだけとはいわないがな。それを際限なく食べていた俺にも責任
があるだろう。だが、お前が菓子づくりを趣味にしている以上、もう俺はお前とつき
あえない。お菓子づくりをとるか、俺をとるか……』
つきあえない……。
その言葉が頭の中をぐるぐると回る。
持っていた袋がぱさりと落ちたのは気が付いた。
お互いに『さようなら』だけは言いあった記憶はある。
だが、はっきりと意識が戻ったのは自分の部屋だった。
ぽろぽろと際限なく流れ落ちる涙が頬を伝いブラウスを濡らし続ける。
まさか、あんな理由で別れが来るとは思わなかった。
ずっと恋して、結婚して、子供を生んで……。
子供が帰ってきたら必ず私の手作りお菓子が食卓を飾っていて、誕生日ともなれば子
供のリクエスト通りの手作りケーキにキャンドルを灯すんだから。
そう話し合ったは、ついこの前ではなかった?
なのに、もう彼とは結婚できない。
こんなにも好きだったのに。
だけどその原因が私のお菓子なんて。彼を病気にしてしまった私の……責任。
もし彼とヨリを戻したければ、もうお菓子は作れない。
彼の病気が治るまでカロリーをコントロールした食事だけの生活をして。
その生活にはお菓子はない。
でも、それでも私は彼とヨリを戻したかった。
こんなにも私は彼を愛しているんですもの。
「もうお菓子は作らない。替わりにカロリーコントロールできる献立を考えるわ。そう
すればまた、前のようにつきあえるわよ」
本当にそれで彼がヨリを戻してくれるかどうかは難しいとは判っていた。
だがそうでも考えないと奈落の底まで落ち込んだ心が這い上がりそうになかったの
だ。
「証明してみせるわ。お菓子づくりだけが私ではないことを」
その決意の証として、次の日の日曜日にフルーツケーキを焼いて10年以上続いたお
菓子づくりに終止符を打ったのだ。
打ったはずだった。
何で……。
適度な照り具合といい、焼き上がりの色といい、これ以上に無いというほどにおいし
そうに焼けたアップルパイ。直径25cmの形も匂いも申し分ないできあがりのそれを
私は呆然と見つめていた。
だけどいつのまにこんな物を作ってしまったのだろう?
いや、それは確かに私が作ったのだ。辿ってみればその記憶はある。
第一、その表面を飾る独特の網目模様は私自身が考案したオリジナルの模様だし、だ
いたい、私は一人暮らしだ。
ここにある今パイを取り出したばかりのオーブンも、流しに突っ込まれた数々の料理
器具も全て私のものだから、私以外誰がこの部屋でパイを作るというのだろう。
判りきった問いかけは、判りきった結論で締めくくられる。
だけど……。
信じたくなかった。
あれほどの胸の痛みを経験して、もうお菓子を作るまいと固く決意をしたのは先週の
日曜のことだったというのに。
最後にフルーツをたっぷり使ってのフルーツケーキを20cmのサイズで焼き上げ
て、朝昼晩と3日間かけて食べ終えた。
それがつい先日のことだ。
さすがに胸焼けするほど食べ続けたせいか、「お菓子なんか見るのも嫌」と思ったは
ずなのに。
なのに、なぜ私はまた作ってしまったのだ?
間違うことなく自作のアップルパイを前に、私は力無く床に座り込んだ。
「もう作らないって決めていたのに」
あの固い決意は何だったのだろう。
だが、実際にはアップルパイがテーブル上にある。
「小人さんでもやってきたのかしら……」
そんなことはないと思いつつも、昔読んだおとぎ話を思い出して口にしてしまう。
だが、幾ら現実から目を背けようとしても、それはやはり自分が作った物なのだ。
がっくりと肩を落として、ぼんやりとそれを眺めた。
「……きっと、材料がまだ残っていたから惰性で作っちゃったのよね」
まだ冷蔵庫に残っているバターやベーキングパウダーを思い描き、溜息をつく。
「捨てよ」
のろのろと立ち上がって部屋のあちらこちらにある材料をゴミ箱へと放り込んでいっ
た。
ついでにケーキ型やクッキー型も金属ゴミの袋に放り込む。
これでもう作れない。
と、ほっとしたところでアップルパイのおいしそうな匂いが鼻孔をくすぐった。
もう食べまい、と誓ったお菓子。
だが、そのできばえはどう見ても最高の物だ。
「もったいないし……これを食べて終わりっていうことにすればいいわよね」
そうやって自分自身を納得させると、パイを一切れ口に運んだ。
「おいしっ!」
パイ生地のさっくり感もさることながら、中のリンゴジャムも適度な甘酸っぱさで申
し分ない。
我ながら何というできばえだろう。
自画自賛しながら、つぎつきとパイを口に運ぶ。
焼け具合も文句なし。食べてみればそれがよく判る。
こんなおいしくできるなんて……。
何が良かったのかしら?
やっぱりパイ生地のこね具合かしら?
だが悔しいことに、どんな風に作ったのか綺麗さっぱり記憶から抜け落ちているの
だ。
「ああん、悔しいっ!今日のレシピをサイトに載せたかったわ。あ、でも写真はOKよ
ね。綺麗に切り分けなきゃっ」
るんるん気分で捨てたケーキナイフを引っ張り出してパイを切り分ける。
お気に入りのお皿にパイを載せ、いつも写真撮影用に使っている小さなテーブルにク
ロスを敷いて飾り付けた。その中心にケーキ皿を置く。
「そうね。このフォークを添えて」
とっておきの銀のフォークを添え、光の加減を慎重に調整してデジカメのシャッター
を切った。
パソコンの画面に表示されたアップルパイ。
それをずっと見ていた。
やっぱりお菓子づくりは止められない。
一週間前の悲壮な決意はなりを潜め、お菓子づくりのさらなる高みを目指したいとさ
え思う。
最高傑作とも言えるこのアップルパイを作れるこの腕を、むざむざ埋もれさせても良
いのか?
結婚なんて……。
気が付けぱそう考えていた。
無意識の内にお菓子を作ってしまう私に、この後ずっとお菓子づくりを我慢するなん
てできる?
そんなこと無理に決まっているじゃない。
ぐっと握りしめた拳が、私の決意を現していた。
結局、私はお菓子づくりが止められなかった。
そして、私が止められなかったように、彼もまた私のお菓子を食べるということ止め
られなかったのだ。
しかも市販のお菓子類は不味くて堪らないと言って、我が家を訪れたのは別れを宣告
されてから1ヶ月もたっていなかった。
「ごめん」
困ったように顔を歪める彼を私は招き入れた。
そこにはできあがったばかりのフルーツゼリー。
「カロリー控えめで、ビタミンたっぷりなの。私もちょっとダイエットしなきゃいけな
いことに気がついてね」
戸惑い気味の彼に安心させるように、70kgの大台に乗ってしまった体を揺すって
笑いかける。
「だからあなたでも大丈夫だから」
そうだ、と気がついたのは、いつものサイズが入らなかったとき。
彼が太るのであれば自分も太っていてしかるべきなのだと。
だったら、お菓子づくりも考えなきゃいけないと、そして出した結論だった。
もう作らないとは考え無かった。
自分が作るお菓子の目的が変わっただけ。
ノンシュガーで低カロリーの、カロリー制限が必要な人でもOKでおいしいお菓子の
レシピを考案すること。
実体験を元に次々と生み出したそのレシピ達は、インターネット上で注目を集め、つ
いにその集大成ともいえる本を出版することになった。
今は旦那様となった彼と2人の子供。そして私。
一時期のような丸々とした体型は今はもうどこにもない私たち。当然食事制限だけで
糖尿病を克服した旦那様は、年一回の定期検査で異常なしを記録していく。
絵に描いたような幸せに包まれて、あの時、最後にしなくて良かった……と、つくづ
く思っている。
#35/569 ●短編
★タイトル (GVB ) 02/10/14 23:24 (111)
大型公募小説 「万歳に決まるまで」 佐野祭
★内容
新しい世には新しい祝い方を。
そこまではいいとしよう。しかし、
「これからの世の中は広く天下の声を聞き智を集めるのが肝要である」
なんて明治新政府の上の人が言い出したもので、松本喜三郎と杉野森弥三郎は応
募はがきの山に埋もれている。
すでに振りのほうは決まっていた。東京師範学校室戸瑞光校長の発案により、
両手を高く上げて降ろす、これを三回繰り返す、これが物事を祝う動作の政府案
としてまとめられた。それに合わせて発する掛け声は、一般公募により決まるこ
とになったのである。
喜三郎と弥三郎は、集まった候補からの選定を命ぜられていた。
喜三郎が最初のはがきを取り上げた。
「まず最初はこれだ。えーと、古来めでたい言葉にもいろいろありますが、広く
民衆に知られ、縁起物として定着しているという意味で、『鶴亀』を推薦します」
「なるほど」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「つるかめー。つるかめー。つーるかーめー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「悪くはないな」
「ああ。でも、これって縁起の悪いことがあったときに使わないか」
「そうだな。じゃ、これはどうだ。めでたいといえば正月。正月といえば宝船。
宝船といえば七福神。七福神といえば中でもとりわけめでたいのが恵比須様であ
ります。祝いの掛け声には、『恵比須』を推すものであります」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「えびすー。えびすー。えびーすー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「布袋のほうがめでたくないかなあ」
「やってみようか」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「ほていー。ほていー。ほてーいー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「どっちとも言えないなあ」
「まあいい。次は」
「新しい明治の代ですから、やはり今までになかった新しい事物が新しい掛け声
にふさわしいと思います。近ごろ私が度肝を抜かれたのが汽車でした。馬よりも
さらにたくましい力、飛ぶような速さ、新しい時代の掛け声はこれです。私は
『汽車』を推薦します」
「なんか変だなあ」
「まあ、やってみよう」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「きしゃー。きしゃー。きーしゃー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「ガキが喜んでるみてえ」
「次は」
「今までの世との一番の違いは何か。将軍様が治める世から、畏れ多くも天皇陛
下が自ら治める世になったということであります。掛け声は『天皇』しかありま
せん」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「てんのう。てんのー。てーんーのーう」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「これよろしくないんじゃないか」
「俺もそう思う。次は」
「えー、長く生きるという意味で、『万歳』はどうでしょうか」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「ばんざーい。ばんざーい。ばんざーい」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「可もなく不可もなくだな」
「ああ。次」」
「私が推薦するのは『焙煎』です。茶葉に熱を加え、余計な水分を飛ばし、香り
と甘みを引き出します。また水分を飛ばすことで茶葉が長持ちするという効果も
あります」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「ばいせーん。ばいせーん。ばいせーん」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「さっきのとちょっと似てるな」
「ああ。次」
「なぜこのような公募をするのかわかりません。祝いのときに掛けるべき声は日
本人が古来より愛でた花、日本人の魂、『桜』しかないではないですか」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「さくらー。さくらー。さくーらー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「うん、なんとなくめでてえな」
「確かに。次は」
「私は天啓を受けました。これしかありません。この名は広く天下に知らしむこ
とになります。『駒込ピペット』」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「こまごめぴぺっと。こまごめぴぺっと。こまごめぴぺっとー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「なんだそれ」
のちにこの応募者の執念は、臨床医学で衛生的な器具として発明され化学実験
に広く用いられる駒込ピペットとして実を結ぶことになる。
「次」
「やはり明るくて希望のある掛け声がいいですね。『さわやか』はどうでしょう」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「さわやか。さわやか。さわーやかー」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「さわやかだな」
「ああ。さわやかだ。次は」
「えー、『隣の柿は……』」
喜三郎はそのはがきをずたずたにした。
「いるんだよこういう馬鹿が必ず」
「次は」
「めでたいのだから、『めでたい』がいいと思います」
喜三郎と弥三郎は立ち上がり、両手を高く振り上げて叫んだ。
「めでたい。めでたい。めでたい」
喜三郎と弥三郎は腰を下ろした。
「そのまんまだな」
「次は」
かくして選考は丸三日続いた。
「……次は」
「終いだ」
「やっとか。しかし参ったなあ、この中からどれか一つかよ」
「どれにしよう」
「んー、強いて言えば……恵比須かなあ」
「俺は桜がいいと思う」
「まあ、桜でもいいなあ……そうすっか」
「よし。では、新しい祝いの掛け声は、『桜』に決定」
それがどういう経緯で現在の形に落ち着いたのか、私は知らない。
[完]
#36/569 ●短編
★タイトル (ICK ) 02/10/18 13:31 (431)
階段を駆け上る靴の音 IK
★内容
注意;この小説には暴力的な表現が含まれています
『ケネディ大統領が狙撃されました! 大統領が撃たれました!』
ジャズが中断されて、ラジオが沈黙を強いられた後、アナウンサーのひときわ大きく
震える声が響き渡った。
ディックはシャワーの栓を急いで締めて、バスタオルで体を拭きながらラジオのボリ
ュームを大きくした。
『繰り返します。ケネディ大統領がテキサス州ダラスでのパレードの最中に狙撃されま
した。かなりの重傷の模様です。どうやら死亡したようです。同乗していたコナリー州
知事も負傷したようです。大統領夫人については不明です』
意識していないのか、アナウンサーの声は金切り声を増していった。それがいやがう
えにも現場の衝撃と困惑を溢れさせていた。
「ケネディが死んだって?」
ディックは探るようにして右手で頬を撫でた。
「いいねえ」
と軽く口笛を吹いた。
南部の男に洩れず、ディック・キャヴストンも民主党を支持して来た。彼の父も、祖
父も、曽祖父もそうしてきたからである。
だが、リベラル派と呼ばれる北部のエリート連中には大概うんざりしていた。ジョ
ン・フィッツジェラッルド・ケネディはその親玉だ、とディックは思っていた。しかも
ケネディはカトリックであり、この異端の大統領の死はまさに朗報だった。
それから彼は台所へ歩いて行き、冷蔵庫から、気の抜けた、飲みかけのビールを取り
出した。それを胃の腑の奥に流し込みながら、ケネディが死んだことの意味を考えた。
ケネディが死ねば、次の大統領にはリンドン・ジョンソン副大統領が昇格することに
なる。ジョンソンは南部の男だ。ジョンソンならば、ケネディのように黒人をつけあが
らせることもないだろう。
「黒んぼめ、奴隷のくせに」
そう呟くと、ディックは残りのビールを一気に飲み込んだ。
しばらく前、ディックは橋げたを作るコンクリート会社をくびになったが、それはよ
り安価な労働者である黒人を経営者が選択したからだった。高校を出て以来ずっとその
工場で働いてきて、六年、単純な仕事だったがそれなりに熟練とやりがいを感じてい
た。勤務状況もいたって真面目で、他の連中のように仕事を早めに切り上げることもし
なかったし、月曜日だからと言って当日欠勤するような真似もしなかった。
勤勉こそが成功へ到る唯一の道。
祖母のその教えをただひたすら信じてきたのだ。
北部の大学の経営大学院を卒業したグリーンという男が総合マネージャーとして赴任
してきたのがすべての始まりだった。合理化の名のもとに従業員を次々と解雇してい
き、はじめは勤務態度の不良な者から、次第に勤勉な者にまでその対象を広げていっ
た。ついにはそこに勤務する白人労働者をすべて解雇するに到った。
ディックは一番最後に解雇されたグループに属していたが、それでも無一文同然で放
り出されたのには違いなかった。
そしてディックたちが追い出された後、黒人労働者が招き入れられたのである。
そんなわけで、ディック・キャヴストンは現在、失業保険で暮らしていたが、まもな
くその期限も切れようとしていた。アラバマ州のこの小さな田舎町では働くあてがそう
そうある訳でもない。どこか都会へ移る決断の時が迫っていた。
ディックの家はもともと農家だったが、大恐慌の時、農場を失った。ディックが生ま
れた時には既に父親は工場労働者であり、生まれてからずっとこの小さなロックヴィル
の町で暮らしてきた。
キャヴストン家の人間はこの辺りでずっと生きてきたのだ。何としても離れたくな
い。
けれども眠っている時にも時間は過ぎていく。期限はもう手が届くところまで来てい
る。飢え死にしたくなければ働かなくてはならないのだ。そしてその手段はこの町では
得られない。それはまったく確かなことだった。
このような境遇になぜ自分が追い込まれなければならないのか、ディックには理解で
きなかった。何の落ち度があったというのだ?
自分を解雇したグリーンをディックは激しく憎んだ。そして自分の後釜に座った黒人
たちを。
ラジオのむこうはまだ混乱の中にあった。アナウンサーは冷静を取り戻しつつあった
が、秩序の形成にはまだ時間がかかるようだった。
隣の子供が帰って来たらしい、勢いよく扉が開く音が響く。母親がすぐさま大声で、
「大統領が死んだわよ!」と叫ぶ。
ディックは瓶を床に置いて、ベッドに歩いていき、そのまま横になった。煙草を吸お
うと思って、ベッドの上に乱雑に放り出されているジャケットのポケットを漁ったが、
出てきたのはくしゃくしゃになったパッケージとジッポのライターだけだった。
そのままディックは視線を空へと向けた。灰色の雲がゆっくりと流れて行った。いつ
になく静かで、どんよりとした囁きが遠くで響いていた。
空気が生ぬるかった。これがケネディが死んだ日なんだ、とディックは刻むように心
の中で呟いた。
それからディックは足を直角にあげ、振り下ろしてその反動で上半身を起こした。両
手をしなやかに伸ばし、机の上のコーラの缶を取った。上半分が切断されたその缶には
硬貨が数十枚入っていた。その中から2ドルと少しを取り出すと、煙草を買いに行くた
めに立ち上がった。
部屋を出て、階段のところでアイリーンという少女が歌っていた。金髪の綺麗な子だ
った。学校に行くには小さすぎて、両親とも働いているので、この子はいつもひとりだ
った。この辺りにはその年頃の子供は少なかった。
失業してから時おり、ディックはアイリーンと遊んでやっていた。
「こんにちはディック」
「やあ、アイリーン」
「どこに行くの?」
「煙草を買いにね」
アイリーンは髪をいじりながら、ふうん、と呟いた。
「私、煙草を吸う人は嫌いよ。一緒にいたら臭いんだもの。だからボブおじさんとガー
タは嫌い」
「じゃ、俺も嫌われているのかな」
とディックはわざと心配な顔を浮かべた。
「違うわ」
とアイリーンは懸命に首を振った。
「でも煙草をやめてくれたら、もっと好きになると思うの」
なんてこったい、とディックは心の中で呟いた。この子は6歳にしてもう男の操り方
を心得ている。
「それじゃ、今日は煙草は吸わないよ」
そう言って、ディックはアイリーンの隣に腰掛けた。こういう時間はアイリーンにと
っては貴重な娯楽の時間だったが、ディックにとっても安らげる時間だった。
「ねえ、鬼ごっこしない?」
アイリーンは秘密でも打ち明けるかのように囁いた。
「こんなところでかい? 公園でやってるだろう、いつもは」
「でも今日は車が走ってないわ。きっと大統領がここで鬼ごっこが出来るよう命令して
くれたのよ」
この子はケネディが撃たれたことをまだ知らないんだ、とディックは思った。それを
告げるべきか迷ったが、アイリーンを驚かせる誘惑には勝てなかった。
「ケネディは死んだよ。殺されたんだ」
「ケネディ? それジャックのことを言っているの?」
「君が大統領を何と呼んでいるか知らないけどね、ジョン・フィッツジェラルド・ケネ
ディのことだ」
ディックにとって、アイリーンの反応は意外だった。そのまま固まって、静かに泣き
出したのである。まさか泣くとまでは予想していなかった。しくじったな、とディック
は内心舌打ちした。
「もう月へ行けないわ」
「月? ああ、月へ人間を送るとか言ってたな、そう言えば。そんなのは夢物語さ。俺
の言っていることが分かるかい? ケネディはインチキ野郎だったってことさ」
アイリーンは泣くのをやめて、
「ジャックが嘘をついてたの?」
と驚いた。
「もちろんさ、あいつはまったくのインチキ野郎だったね。あいつは南部を食い尽くし
てアメリカを駄目にするところだった。誰がケネディを殺したか知らんが、それこそ勲
章もんだ」
「でもディック。ジャックは私のお友だちだったのよ。インチキ野郎だったとしても」
アイリーンのその言い方は、心臓の鼓動を早めるほどにディックの祖母に酷似してい
た。もちろん祖母はアイリーンのようには話さなかったが。
いつのことだったろうか。ディックがちょうどアイリーンくらいの年齢の時である。
ディックの父が詐欺にあってなけなしの貯金を盗られたことがあった。
その光景を今でもディックは鮮明に覚えていた。ほとんど寝たきりの祖母と同じ寝室
でディックは寝ていたが、その夜、台所でディックの両親は互いを罵り合っていた。彼
らが喧嘩をするのは珍しいことではなかったが、この時のものはどちらかがどちらかを
殺すのではないかと思えるほどに激しいものだった。
薄い板一枚では怒声を遮蔽するのは不可能で、ベッドにうずくまるディックをも容赦
なく刺し貫いた。ただただ恐ろしかった。眠ろうと努力はしたが、その度に隣の部屋の
情景が正確に浮かび上がった。
ひどく蒸し暑い夜だった。布団をよけたかったが、それをすれば怒声が直撃する。体
の上から下まで、汗でびっしょりだった。少しでも乾いた部分を欲してシーツの上を彷
徨ったが、そんな部分はなかった。呪いの言葉が暗い光と共に差し込んでいた。そんな
時間を随分長く、ディックはもがいていた。
『ディック、起きてるかい?』
とふいに向かいの側のベッドで寝ていた祖母が呟いた。ディックは返事をしなかっ
た。ただ、軽く唸った。
祖母は言葉を続けた。
『ディック、私はもうそんなに先がないからこんなことを言うんだけどね、人生で最大
の教えは人を恨んじゃいけないってことさ。こんなことはどこの教会の牧師さんも言っ
ているけどね、本当にそう思うよ』
それから数日後に祖母は死んだのだった。
次の住まいをどこにするか、迷った挙句、ディックはアトランタに住むことにした。
あそこならば同じ南部だし、何といってもすぐに就職先が見つかりそうだった。父の
弟、つまりディックの叔父がそこにいた。父の葬式以来一度も会っていない叔父に手紙
を出したところ、面倒を見るとの返事が来た。自分が勤めている清涼飲料水の工場でお
そらく空きがあるだろうから紹介してやっても良いということだった。
出発には10日ほどあった。懐かしい人たちに別れを告げておこうとディックは思っ
たが、実際には特に別れがたい人はいないのに気づいた。いつの間にかディックは故郷
で孤独になっている自分がいるのを知った。
ケネディの暗殺から2日が過ぎていた。何度もその場面はテレビをつけるたびに放送
されていた。ケネディについて語ることがいまやアメリカ人の証のようになっていた。
誰もがケネディを褒め称えた。共和党員でさえそうだった。どうやら筋金いりのケネ
ディ嫌いはディックだけのようだった。そのディックにしても、大統領の肉片を必死に
なって拾い集めるジャクリーン・ケネディの姿を見た時、胸が詰まった。
今はアメリカ合衆国大統領となったリンドン・ジョンソンは、ホワイトハウスで演説
を行い、ケネディ路線の継続を訴えた。生粋の南部人である彼が、公民権運動への支援
を明確に打ち出したのは誰にとっても意外なことだった。それに対して、キング牧師は
ジョンソン政権への期待を語った。
その直後にルイジアナ州で何とかという黒人青年が木に吊るされて惨殺されているの
が発見された。その首からは「親愛なるJFKへ。KKKより」とのプラカードがぶら
さげられていた。しかしそんな事柄は大統領暗殺のビッグニュースにかき消され、ディ
ックが隅々まで新聞に目を通す人間でなかったならば気づかずにいたに違いなかった。
昼食用にハンバーガーを自分で作って、ディックは公園に出かけた。陽射しは穏やか
だったが、秋にしては蒸し暑く、長袖のシャツをまくりあげた。
人通りはなく、ただ自動車だけが向かいの道路を頻繁に往来していた。何もかもが見
慣れた景色だった。
天気雨に降られて、ディックは公園の脇のベンチに据わった。ハナミズキの青い葉
が、ゆるやかなフードとなってディックを覆った。
ポケットからフィリップ・モリスを取り出して、煙草を一本くわえた。ジッポライ
ターを着火しようとしたが、ライターはシュッという空気を切る音を聞かせるだけで、
ディックの期待には応えてはくれなかった。
しばらくすると銀河さえ見えそうな青空の中に雨は吸い込まれていき、つんとしたア
スファルトの匂いがひどく嗅覚を刺激した。
ぼんやりと泳いでいたディックの視線はやがてある一点に留まった。
公園の中央に水飲み場があった。この田舎町には不似合いな御影石で作られたその水
飲み場には金のプレートがこれみよがしに埋め込まれていて、「プレストン夫人からロ
ックヴィル市民へ。長年の友情に感謝して」とイタリック体で書かれていた。
ひとりの男が水を飲んでいた。そしてその後ろに、挑発的に漆黒の瞳を輝かせなが
ら、ふたりの男が順番を待っていた。
その男たちに、この一画の人々の視線が集中した。アパートの窓から、路地から、停
車している自動車の中から。視線の網が、その男たちを中心点にしてパリの街のように
放射状に伸びているかのようだった。驚きと恐れ、そして怒りと憎悪のファンファーレ
を響かせながら。
ディックは立ち上がった。今目の前で起きている光景。このところ連日、ニュースで
伝えられる光景がついに現実のものとなって、この自分の故郷でも起きたのだ。
黒人が白人の聖域を侵している。
黒人はあふれ出る汗を拭うこともせず、ひたすら水を飲んでいた。ディックの主観的
な光景では、彼らの汗がやがて酸となって白人の水飲み場を溶かしていた。それを支え
る白人たちをも。
ディックは彼らの方向へ走り出した。同じように、何人かの白人男性が、走り寄って
いた。
「おい、ニガー!」
ディックは叫んだ。と同時に、ディックの右拳がその黒人の右眼球を捉えた。男は吹
き飛び、そのまま地面に倒れた。
「ここは白人の水飲み場だ。おまえたちは向こうで飲め!」
ディックは公園の隅にある、みすぼらしい水道を指した。不潔に黄ばんでいて、いか
にも黒人に相応しいもののようにディックには思えた。
「ここは市民の水飲み場だ。そして私はロックヴィル市民だ」
男はゆっくりと立ち上がり、潰れた右目でディックを睨んだ。その言葉にある白人の
若い男が叫んだ。
「おまえたちが市民だって! おまえたちはニガーじゃねえか」
嘲りの声が起こった。それが静まるのを待って、殴られた黒人男性はゆっくりと、つ
むぐように口を開いた。
「私たちの肌は黒いが、あなたたちと同じロックヴィル市民だ。アメリカ合衆国市民
だ」
それは威厳に満ちた宣言だった。しかしすべての言葉は受けて次第である。そこにい
た白人たちにとってそれは文法的には正しいが意味を成さない無意味な構文に過ぎなか
った。
「ニガーが生意気を言いやがって…ぶっ殺してやる」
若い男が叫んだ。それが狩りの合図だった。
黒人は囲まれ、一人ずつ分断された。白人たちの拳は神の鞭のように容赦なくその黒
い肉体に降り注ぎ、物言わぬサンドバッグのように、黒人たちは肉体から放たれるあら
ゆる攻撃を甘受した。彼らが血まみれの動かない人形になるのにそう大した時間はかか
らなかった。
これ以上やるとさすがに死んでしまうと誰となくなけなしの理性を取り戻す頃には、
その数個の黒い肉塊は水揚げされた魚のように目を不規則に動かし、肩でようやく呼吸
している有様だった。
体のあちらこちらについた黒人の血を、ディックは舌打ちをして眺めた。死にかけた
黒人たちを見ながら、つくづく醜い連中だと思った。醜くて、嫌らしくて、汚らわし
い。こんな獣と人間が平等だなんて、まっぴらごめんだと改めて感じた。
まもなく警察がやって来た。
しかし連行されたのはその黒人たちの方だった。白人警官たちは、その黒人たちをど
うしても死なない生き物だと思っているようで、小突き回し、歩けないようだと容赦な
く腹に蹴りを入れた。
そのたびに、ある黒人は返り血を浴びて、呻きながら大地にひれ伏した。それに対し
て周囲の白人たちは罵声と蹴りを浴びせかけた。その黒人は薄れ行く意識の中で天を仰
いで、神に祈った。もちろん、それは声にはならず、振り下ろされる鉄拳の前に潰え去
った。
心ある人が見たならば彼らの姿は再現されたイエス・キリストに見えたかも知れな
い。あらゆる憎しみの発露の中、彼らは沈黙の訴えを発していた。そしてそれ故に周囲
の者たちは執拗な攻撃を加え続けた。
黒人たちはしかし自らの足で前進することを諦めなかった。ただ、威厳をもって、彼
らはゴルゴダを目指していた。
彼らが連行されると、残った者たちはバツの悪い思いを残しながら、何も言わずにそ
れぞれの場所で戻って行った。やがて誰もそこから消えた後、ディックは水飲み場で少
し水を飲んだ。カルキの強い、まずい水。
血はそこら中にこびりついていたが、涼やかな風が吹き、それを些細なことにした。
手に残る鈍い痛みだけが、あの憎悪の遺産だった。
家に帰り、ベッドに倒れこむと、ディックはぼんやりと視線を漂わせた。
あの黒人の苦悶の表情を思い浮かべた。その顔はやがて線が薄れていき、ひとつのイ
メージになった。狂ったようにディックはその物体を殴っていた。黒い肌はそのたびに
歪められ、変形した。
振り返った時、その塊はディックを解雇したあの男になっていた。グリーンという、
あの北部の男。
そうだったのか、とディックは思った。あいつは黒人だったんだ。
だから俺をこんな風にしたんだ。
黒いグリーンはディックをあざ笑っていた。侮蔑を撒き散らしながら、嘲りの中でデ
ィックに死を宣告していた。
それを打ち負かすのは正当なことだとディックは確信した。あの家畜を殺すのに何の
言い訳が必要だろうか。こんな状況に追いやった黒人を殺すのは正当なことだ、とディ
ックは呟いた。
奴らを駆除しなければこの国は滅びる。
警察に連行された黒人たちは翌朝には死体になっていた。
彼らは留置場に入れられると、心臓発作を起こす体質らしかった。
狼が駆けていくうちに仲間を増やしていくように、同じ血を持つ仲間のところへディ
ックは吸い寄せられていた。
闇に鈍い炎がよどんでいた。
白い布を全身にまとった彼らはディックの出現に警戒したが、すぐにディックが発す
る憎悪にあてられて、ディックが仲間だと認識した。
リーダーと思われる男がディックの肩に手を置き、ディックを歓迎した。最近、この
辺りで頻発する黒人殺害事件の作り手はこの男だろうとディックは思った。
ディックはその日の昼、偶然この会合のことを知った。規律が厳しく、部外者に絶対
に漏らさないこの組織のことをディックが知ったということは、知らされたということ
と同じだった。おそらく、あの黒人たちを暴行するのに加わったことで、ディックにこ
の栄誉が与えられたものであろう。
用意されていた白装束を身に着けて、声を交わすこともなく、ディックはその集団と
共に闇の中を歩いた。
その晩の獲物は、モートンという黒人の学生だった。1週間前、この地域の公民権運
動をてこいれするために、シカゴからやってきたのだ。今はブラウンという黒人農夫の
家に潜伏していた。
今、そこにいるということにディックは不思議と違和感を感じなかった。数日前まで
黒人を殺すということに現実感がなかったが、今やそれはなされようとしている。
神の御業だとディックは思った。
その家の黒人はすでに眠りについていた。リーダーの指示で、ディックたちはゆっく
りと家を取り囲んだ。付近には民家もない。取り逃がすことさえなければ、充分に祭り
は成功裏に終わるだろう。
「おー!」
ひとりの男が雄たけびを上げ、他の男たちが倣った。月に吼える狼に似ていた。もは
や彼らの高ぶった血は血によってのみ癒されるだろう。一斉に彼らは侵入した。
すぐに悲鳴が鳴り響いた。恐怖が夜の闇をつんざいた。
ここに居住し、滞在していた5名の黒人がまず血祭りにあげられた。家に入ってすぐ
の寝室に寝ていた少年をディックはひきずりだした。少年は言葉も出ないまま、ディッ
クを見つめた。
ディックは少年のシャツを掴み、少年を庭へ引きずり出した。その衣服をすべて剥ぎ
取り、ロープで縛ると、庭の木に両手を掲げさせて吊るし上げた。
少年期をまもなく終えようとするその不安定な肉体が夜風に撫で上げられ、震えた。
「ニガーめ、どこもかしこも真っ黒でいやがる」
「助けて」
ようやく震える声で少年が懇願した。闇に彼の体全体が溶け、眼球の白い部分だけが
浮かび上がっていた。少年は周囲を見渡した。近くで、彼の姉が数人がかりで足を広げ
られ、ヴァギナに棒を突っ込まれていた。悲鳴が幾つも、花火のように打ち上げられて
いた。
「見ろよ、ニガーの女はあそこまで黒いぜ」
男が愉快げに言った。しかしそれに反応する者はいない。拷問する者とされる者、そ
れぞれに忙しかったからである。
別の方向では、少年の母親の頭に斧が振り下ろされていた。少年が眠る前にキスをし
てくれた分厚い唇から黒く濁った血があふれていた。一瞬、少年を見て、彼女はそのま
ま直角に地面に倒れた。
ディックは少年の肉体に鞭を振り下ろした。少年の悲鳴を更に罰するように、ディッ
クは何度も何度も鞭を振った。
「ニガーは鞭には慣れているだろうに」
ディックは呟きながらも、腕を休めなかった。反抗的な奴隷に正当な懲罰を加えてい
るのだ、とディックは確信していた。
あるべき世界がここにはあるのだ、とディックは思った。
少年の肌はやがて闇に浮かび上がるほど赤く染まり、鞭を振るう余地さえなくなって
いた。少年は気絶し、虫の息になっていた。
用済み、と判断したディックは、ためらうことなく銃弾を少年の胸に放った。少年は
ぴくりと動き、それきりすべての機能を停止した。
更なる獲物を求めて、ディックは再び家の中に入った。
モートンはまだ発見されていなかった。数人の男たちがディックに続いた。
しばらく探し回った後、1階、北の角部屋が外から見た感じよりも狭いことにディッ
クは気づいた。壁が太すぎるのである。何人かを呼んで、ディックは壁のワードローブ
をずらした。そこにはとても小さな隠し部屋があって、モートンが窮屈そうに縮こまっ
ていた。
「こんなところにいたのか、豚野郎」
ディックは震えるモートンを引きずり出した。その恐怖そのものという表情からはこ
の男がとても公民権運動の闘士だとはうかがい知れなかった。それがディックには余
計、腹がたった。
ディックはモートンをリーダーに突き出した。モートンは叫んだ。
「俺たちが何をしたって言うんだ!」
それに対してリーダーは言った。
「お前たちは白人の権利を侵そうとした。これは死に値する大罪だ」
処刑が宣告された。
モートンはやはり裸に剥かれ、木に吊るされた。足が動かないよう、両足首も縛ら
れ、石で固定された。
煙草が押し付けられた。モートンは最後の意地を見せるべく、悲鳴を上げるのは必死
にこらえたが、顔が苦痛に歪むのはどうしようもなかった。それからモートンの体は木
片で打たれた。数人がかりでやられたので、見る見るうちにモートンは赤く腫れ上がっ
ていった。魂の根元から搾り出される悲鳴が、重く、低く続いた。
リーダーがディックに言った。
「新入り。おまえに手柄をやろう。苦痛を与えて殺せ」
渡されたナイフを掴み、ディックはモートンの膨れ上がったペニスを引っ張った。そ
してケーキでも切るようにして、根元からゆっくりと切断した。
すでに意識を失っているはずのモートンが感覚を蘇らせる痛みに、断末魔の叫びを上
げた。そして確実に息絶えた。
ディックは震えたが、これは正義の戦いなんだと自分に言い聞かせた。
「まだ、誰か残っているかもしれない。手分けして調べろ。確実に殺せよ」
リーダーのその言葉に、彼らは一斉に家の中に入った。
ディックは血で滑りやすくなった階段に注意しながら2階へと上がった。
上りきったところの踊り場は月明かりに青白く照らされ、そこだけが神聖な場所であ
るかのような印象を与えた。しかし周囲の暴力の名残が、その思いを否定した。
突き当たりの部屋の扉をディックは開けた。
そこは子供部屋らしく、布製の人形がいくつか、ベッドに並べられていた。
部屋は散乱し、荒らされていたが、床に書きかけの手紙が落ちているのにディックは
気づいた。ディックは拾い上げて、月明かりでそれを読んだ。
『しんあいなるベッキーへ。おてがみとどきました。カナダはどうですか。おともだち
はできましたか。あなたがいなくなってとてもさみしい。ねるまえにちゃんとわたしの
なまえを10回となえていますか。わたしはちゃんと、ベッキー、ベッキー、ベッキ
ー、ベッキー、ベッキー、ベッキー、ベッキー、ベッキー、ベッキー、ベッキーといっ
ています』
ディックはそこまで読むと、手紙を丸めて放り投げた。
さっき殺した黒人たちの中には小さな女の子はいなかった。まだ、どこかに隠れてい
るのだ。ディックは動きを止め、耳を澄ました。改めて目を閉じて、耳を立てた。
ほんのかすかだが、空気とは別の音がした。呼吸の音だった。
ゆっくりと、ゆっくりと、ディックはその音を辿った。やがてひとつの方向が示され
た。
ベッドの下で、小さな黒人の女の子は、両目でディックを見据えていた。ディックは
笑いかけた。
「やあ、お嬢ちゃん、そんなところで何をしているんだい?」
ディックの声に女の子は応えなかった。ただ、しっかりと人形を抱きしめて、震えて
いた。彼女を襲ったのは恐怖だった。しかしようやくゆっくりと口を開いた。
「マーティンが夜中に騒ぎが起きたらここに隠れろって言ったの」
ディックは微笑んだ。
「誰が言ったって? 出てきてごらん、何もしやしないから」
ディックを無視して、女の子は言葉を続けた。
「マーティンはわたしのお兄さんよ。ボクサーになるからもうすぐニューヨークに行く
の」
「出て来いよ、ダーリン」
「マーティンがいなくなったらさみしいわ。行って欲しくないけどどうしても行くって
きかないの」
「話はやめて出て来いよ」
「なんでボクサーになりたいのかしら。あんな野蛮なもの。男の子は殴り合いが好きな
のよ」
「出て来いって言ってるだろう、聞こえないのか」
「だからわたしも我慢するの。どう言ったって聞きやしないわ」
「話すのはやめろ、出てくるんだ」
「ねえ、この歌、知ってる? マーティンはとても好きなのよ」
女の子は唄いだした。静かな低いメロディ。それはディックのアパートの入り口で、
アイリーンがよく唄っている歌だった。
『汽車を降りると懐かしいあの子が駆けてくる
金色の髪、熟れたさくらんぼのような唇
緑に包まれた故郷に帰るのは素晴らしいことだ…』
アイリーンは少しさびしげに唄う。この子も同じだった。
その少女にアイリーンの面影が重なった。アイリーンは言った。
どうしたの、ディック。どうしてそんなに怖い顔をしているの?
「やめないか! 汚らしいニガーが!」
ディックはすべてを打ち消すかのように、その少女の髪を掴み、ベッドから引きずり
出した。
「あんたはマーティンを殺したのね!」
「おまえも殺されるんだよ」
ピートは銃口を彼女の頭に押し当てて、ためらわず引き金を引いた。彼女の頭部は瞬
間、奇妙にひしゃげ、炸裂した。
ディックはそのまま向きを変え、部屋を出て、階段を下りた。
おもてでは仲間たちがディックを待っていた。
「まもなく太陽がのぼる。急いで戻らなくてはな」
リーダーはそう言って歩き出した。ディックは頷いて、それに続いた。
しばらく歩いて、ディックは言った。
「あんたは誰なんだ?」
その言葉に男はかすかに笑った。
「おまえを守る者さ」
ディックは頷いた。それからしばらくして、言った。
「何を守るんだ、豚野郎」
その言葉に一群は歩みを止めた。男は振り向いて、ディックに言った。
「何と言った。ディック・キャヴストン」
「おまえたちはインチキ野郎だと言ったんだ。何を守るんだ。おまえたちに何が守れる
っていうんだ」
ディックを取り押さえようとする周囲の者たちを制して、男は言った。
「白人の権利を守るためにわたしたちは戦っているんじゃないか」
「戦ってるだって? あの子は唄ってたんだ。アイリーンと同じ歌を。俺が殺した少年
には名前があった。マーティンという名前が…。もう守るべきものなんてどこにもあり
はしない!」
いつしかディックは泣いていた。何のために泣いているのかまでは分からなかった
が、今はそれだけがただひとつの真実になっていた。
「おい、俺たちを裏切るな。馬鹿な真似はよせ」
男のその言葉に、ディックは睨んだ。
「おまえたちは豚野郎だ!」
叫びながらディックは駆け出した。連中が追ってくるのは分かっていた。今はもうデ
ィックも粛清されるべき身となったのだ。ディックは走った。それだけが生きているこ
との証だった。夜が白み始めていた。
アパートの階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込み、鍵をかけた。ラジオがつけっ放
しになっていたらしい。
『おはようございます、午前5時のCBSニュースです。昨夜、ホワイトハウスでジョ
ンソン大統領は次のように演説しました。今なお人種ゆえの差別がこの国に存在するこ
とを私は決して誇りに思うことは出来ない。合衆国は自由と平等の国であり、この国に
生まれた者はいかなる皮膚の色であれ、公民としての権利を当然保有する。これはいか
なる者も侵すことが出来ない…』
ディックはベッドの横に座り込み、すすり泣いた。やがてそれは号泣となった。
その音をたどるようにして、階段を上る幾つもの靴の音が、朝日に染まりつつある町
を切り裂くように響いた。
#37/569 ●短編
★タイトル (sap ) 02/11/09 12:49 ( 68)
●人間の寿命●〜欧州の寓話から 松尾多聞
★内容
遠い昔のこと、とても面倒臭がりの神様がいました。
「オウゥッ!うぶぶ!私はもう、飽き飽きしている。生きている者達の種類が多す
ぎて寿命を管理することが至難の技である」・・・神様は悩んでいましたが膝を叩
いて喜びました。
「そうじゃ!生きる者達の寿命をだいたいの30歳に統一してしまおう、、それで楽
になるはずじゃ、。」、、、でも、この神様は少し気弱なところもあったようで、
動物の代表を招いて意見を聞いてみることにしたのです。
最初に現われたのは、疲れ果てて目もしょぼしょぼの「ロバ君」でした。
「ロバ君よ、汝の寿命を30歳にと考えておるが、どんなもんじゃな?」、ロバ君は
腰を抜かした様にへたり込み口から泡を吹きながら訴えたのです。「神様・・・も
う・・お許しください。私は毎日、自分の体重よりも重い荷物を運ばされて、馬車
馬以上に人間に使われています。30年も苦しむことは地獄です。どうぞ20年で・・」
ロバ君はヨタヨタと帰っていきました。
「ウーン神様は困ってしまいました。」
続いてやってきたのは、背筋が真っ直ぐに伸びて礼儀正しい「犬君」です。
「犬君よ、汝の寿命を30歳にと考えておるが、どんなもんじゃな?」、犬君は更に
姿勢をただし、きおつけをしながらハキハキと答えました。「神様!お言葉を返す
ようですが、私はこれ以上人間達の信頼や付託に答えていく事は不可能だと考えま
す。30年も生きるとうつ病になってしまうことでしょう。半分の15年にしてくださ
い!」犬君は180°回転するとさっさと帰っていきました。
「ウーン神様は困ってしまいました。」
次に現われたのは、おどおどして小心な「サル君」です。
「サル君よ、汝の寿命を30歳にと考えておるが、どんなもんじゃな?」、「キィーッ
!」彼は2メートルほど後に飛びのき堰切ったように話しました。「かかっ神様、
私は頭痛に悩まされております。もう、これ以上知恵を絞っていくとノイローゼ、
心身症、自律神経失調症・・とにかく、私も20年でお許しください。」一目散に
逃げていくサル君です。
「ウーム神様は困ってしまいました。」
4番目にふてぶてしく登場したのは人間君でした。
「人間君よ、汝の寿命を30歳にと考えておるが、どんなもんじゃな?」、人間君は
瞼を見開いたかと思うと怒鳴るように神様に噛みつきました。「冗談も休み休みに
してください。たったの30年でいったい何が出来るのですか!」、「では、汝は
どれほどの寿命を必要とするか?」人間は両手を広げて答えました。「いくらでも!
たくさんください!」人間君はブツブツいいながら帰って行きました。
神様は困ったまま考え込んでいましたが、しばらくして名案が浮かんだのです。
「そうじゃ!ロバ君の体がもたないといって断った10年と、信頼や付託が辛い犬
君の15年、更に知恵を絞ることに疲れたサル君の10年を人間に与えて、彼らの
寿命を65年にすれば丸く収まるではないか!ムフフ」神様は安心してシナモンテ
ィーを飲みました。
それから、大変な人間の苦労が始まったのです。
もともと神様からもらった30年は、人生がピカピカ輝いているのですが、31歳
から40歳までの10年間は、あのロバ君に譲ってもらった10年なのです。人間
はわき目も振らず馬車馬以上に働くことになってしまいました。
41歳から55歳までの人生は、あの犬君に譲ってもらった15年です。人間は
周りからの信頼や付託に答えなければならない人生を余儀なくされました。
56歳から65歳までの10年間は、あのサル君から譲ってもらった10年です。
一番の試練が待っていました。常に人々に知恵を分け与える仕事なのです。
65歳になった人間は疲れ果てていましたが。なにか心が丸くなるような充実感
と少しの幸福を感じていました。「神様!大変な人生でした。しかし、本当にあり
がとうございました。さぁ私をお召しください。お願いします。」その時です、神
様がもう一度現われて人間に言いました「人間よ!数々の試練を良くぞリッパに果
たしましたね。貴方の人生は本当に輝いていました。ご褒美に、貴方の肉体が消滅
するまで、あと少しユックリ生きていてください。ご苦労様」人間はしばらくの間、
泣いていました。
#38/569 ●短編
★タイトル (sap ) 02/11/09 13:30 ( 65)
■愛しのグローリア■ 松尾多聞
★内容
グローリアは二十歳になる米国の人で、絹のようなブロンドが美しくブルー
サファイアの瞳をキラキラ輝かせた素敵な天使でした。私も二十歳。ある熱
い夏に偶然出会ったのです。
当時、名古屋の極貧学生だった私は伏見のレストランでアルバイトをして
いました。バイト料が出ると栄に繰り出し、パブで生演奏のジャズを聞きに
通いました。黒人バンドに招かれたgesutボーカルが彼女でした。
Are also you a student?(貴方も学生ですか?)
ロビーで出会った彼女に声を掛けられたのが二人の出会いでした。それか
ら私達はバイトが終わった深夜喫茶で時々会うようになりました。英語が苦
手な私は同級生でサウジアラビアからの留学生アレン(アルアライアン)を
伴い、たった一杯のコヒーで何時間も将来の夢を語り合いました。彼女も苦
学生で、本国から奨学金を貰いながら、得意な歌でアルバイトをしていたの
です。アレンはサウジアラビア石油極東の社員で月給取りの学生でした。
アレンは「サウジは今、豊かな国だけど限りある資源に依存していて、み
んなが一生懸命に働かない。僕は新しい産業を本国で起こして人材を輩出す
ることが夢で・・」話は止まりませんでした。グローリアは「同じ人間であ
りながら貧富の格差に疑問を感じるの。でも、そんな国だからしょうがなけ
れど・・・でも、教育の格差は許せないの。私はアメリカの教育を改革して
見せる。」明るくなっても話が終わることはありませんでした。彼女はピザ
が好物でしたが結局いっしょに食べたことはありません。しかし、グローリ
アとアレン、誠実で最高に熱い友人だったのです。
二人はいつも私に激を飛ばしました。「多聞!貴方は自分の考えをもっと
しっかり持つべきよ!だって、自分の人生でしょう?」、「日本人はとても
保守的(Conservative)なのよ!」、「貴方は戦うことがないのね!」・・
私も、もちろん反論したのですが、普段から考えたことのない問題ばかりで
躊躇してしまい、やられっぱなしでした。
私の住む北海道はパイオニアの大地です。ヒット曲も商業製品も北海道で
ヒットすれば全国展開できると、試験販売が盛んに行なわれていました。な
んでも受け入れてみるドサンコ根性があるのでしょう。しかし、経済に視点
を移すと状況は逆転してしまいます。大型の公共工事、農業対策予算、国庫
補助金、、中央におんぶに抱っこではありませんか。大自然のロケーション
は素晴らしいが、サービスは最低とまで言われている裏には大枚を叩いた、
大きな補助に原因があるのだと私は感じています。
援助の過多は人間を社会を変えてしまいます。アレンが言った現象が利益
誘導型の社会には必ず起こるのです。人間は棚から落ちてきた宝物に群がり
そして拾う順番を決めようと躍起になるものです。その社会は保守的に変容
して副産物の保身が生まれます。保守的な社会のしくみは新しいものや、よ
り優れているものを排除してしまいます。社会全体の成長が止まってしまう
だけにとどまらず、素晴らしい人材を組織ぐるみで抹殺していくことでしょ
う。いま、その現象が政治で経済で行なわれているのです。
暗黙のタブーに仕立て上げられましたが日本にも素晴らしい革命がありま
した。20代の若者達が命を賭して幕府を倒した明治維新です。彼らは腐敗
と利益誘導のみに獲りつかれて民衆のことを省みない幕府を倒したのです。
坂本竜馬、西郷隆盛、高杉晋作・・近代社会を作った人々ですが決して高級
武士ではありませんでした。長州藩士「奇兵隊長」高杉晋作は20代の若さ
で結核により夢半ばで他界しましたが、その辞世を次のように残しました。
「面白き ことも無き世を 面白く」
私はいま、グローリアの言っていた意味を少し理解できるようになりまし
た。社会人も中高年になると保身の影が見え隠れしてくるものです。前進の
無い組織や個人に獲りつきます。嫌いな上司や政治家を思い浮かべてくださ
い。話す内容のほとんどが自己の保身に結びついています。
出会ってから1年後に私達は空港で別れました。黙ったまま、3人で泣い
て別れました。グローリア!アレン!いま、君達にもう一度逢いたいです。
君達はいま、何をしていますか?今度はコーヒーだけじゃなくてピザも食べ
ましょう。私の友達に報告します。私は息子に「省吾」と名づけました。
It has regard [ himself ]. Self is considered.
#40/569 ●短編
★タイトル (hir ) 02/12/04 01:42 (160)
瀧澤解(馬琴)筆塚碑文 伊井暇幻/久作
★内容
馬琴筆塚
東京西日暮里・青雲寺境内
【表面碑文/白文】
●聿冢名
曲亭翁者稗官者流也善飾亡根之事以醒里耳綴繋空之語以振桓
心雖戯謔似弄世頗寓勧懲焉其所著伝奇小説大小凡二百余種皆
随時尚而標其異追世態而悉其変今年新於去年明年新於今年是
以詞中構無数之幻縁紙上現無辺之化境一創一奇百創百奇漏天
機者為不尠矣其無辺無数之寓言雖尽出於翁一人之意匠仮毛穎
氏之資者二十年於此毛噫毛穎氏亦甚労矣夫稗官●(ニクヅキに坐)記者鄙事也毛
穎氏労於鄙事而費其精精費則禿頭禿則人棄之既仮其資而棄
之則其精蘊而鬱矣豈得無祟耶於是欲●其枯管而祀之中山途遙
言帰未●(シンニョウに台)因留殯于東都之郊挙之以布嚢斂之以瓦缶庶幾永安于
茲冢在於谷中新掘山之上乃建之石而勒其銘不亡労也銘曰
若魂気則無不之也無不化也汝化矣則将奚●(アメカンムリに勿に似たモノ)奚帰乎問之
無声叩
之無音汝倣毘耶氏之黙耶抑患貫中氏之●(ヤマイダレに音)耶●(ヤマイダレに音)乎
黙乎吁戯乎噫
得無箴後之戯謔乎於是乎銘于石
文化六年乙巳春二月
鵬斎亀田 興撰弁書
● (キヘンに夜)斎刈谷 望之篆額
【表面碑文/書き下し】
聿(ふで)を●(うず)む冢(つか)に名す
曲亭翁は稗官者流なり。善(よ)く亡根の事を飾るを以て、里耳(りじ)を醒ます。空
の語を綴り繋ぐを以て、桓心を振るわす。戯謔、世を弄ぶに似ると雖も、頗る勧懲を寓
す。其の著す所、伝奇小説大小凡そ二百余種。皆、時の尚(この)みに随いて、其の異
なるに標(しるべ)す。世態を追いて、其の変を悉(つく)す。今年は去年より新(あ
ら)ため、明年は今年より新たにす。是(これ)、て詞中を以て、無数の幻縁を構え、
紙上に無辺の化境を現す。一たび創れば一奇あり、百たび創すれば百奇あり。天機を漏
らす者、尠なからざらんとす。無辺無数の寓言、翁一人の意匠に尽出すると雖も、毛穎
氏の資を仮(か)りること、此(ここ)に於いて二十年。噫(ああ)、毛穎氏、また甚
だ労するか。夫(それ)、稗官●(ニクヅキに坐/さ)記は、鄙事なり。毛穎氏は鄙事
に労して、其の精を費やす。精費やせば則ち、頭禿げる。頭禿げれば則ち、人之を棄
つ。而して、既に其の資けを仮りて之を棄つれば則ち、其の精、蘊して鬱たり。豈に祟
り無きを得んや。是に於いて、其の枯れ管を●め、之(こ)の中に祀らんとす。山の途
(みち)遙かにして、言、帰するには未だ●(シンニョウに台/およ)ばず。因(よ)
りて殯(もがり)を東都の郊に留め、之を挙げるに布嚢を以てし、之を斂むるに瓦缶を
以てし、茲(ここ)に永く安らかたらんを庶幾(こいねが)う。冢(つか)は谷中新掘
山の上に在り。乃(すなわ)ち之(こ)の石を建て、其れを勒(おさ)め、銘して労を
亡(わす)れざるなり。銘に曰く、魂気の若(ごと)きは、則ち之(ゆ)かざる無き、
化さざる無きなり。汝、化するか。則ち将(ま)た奚(いずく)にか●(アメカンムリ
に匆/そう)す、奚にか帰さん。之(これ)を問うに声なし。之を叩くに音なし。汝、
毘耶氏の黙を倣うか。抑も貫中氏の●(ヤマイダレに音/いん)を患うか。●(ヤマイ
ダレに音/いん)か、黙か。吁(ああ)、戯れか。噫、箴後の戯謔、無きを得るか。是
(これ)に於いてか、石に銘す。
文化六年乙巳春二月
鵬斎亀田 興撰弁書
● (キヘンに夜)斎刈谷 望之篆額
【表面碑文/現代訳】
筆を埋める塚に銘す
曲亭翁は歴史小説家だ。実証主義的には根拠のない事どもを飾り立てて、無教養な者
たちの社会意識を覚醒させる。フィクションを紡ぐことで、鈍い心さえ振るわせる。小
説というものは、世の中のことを巫山戯て論っているようでいて、善を勧め悪を懲らす
目的を秘めている。彼の著作は、長編短編合わせて二百余りに上る。それらは皆、流行
に合致しており、行き遅れ若しくは外れている者にとっての道案内となっている。世の
中の雰囲気を正しく追っており、変わっているところは悉く取り込んでいる。今年は去
年より新しく、来年は今年から変わっていることだろう。言葉のうちに無数のフィクシ
ョンを構築し、紙上に限りないイルージョンを現出させる。一たび創れば一つの驚くべ
きことがあり、百の創作をすれば百の目新しいことがある。世界を動かす法則の秘密を
暴き立てる所が少なくない。
数え切れないほどの、真理を穿った言葉たちは、ただ彼一人の工夫によるものではあ
るが、筆の助けを借りたことは確かであり、そのような彼と筆との関係は二十年に及ん
でいる。ああ、筆も、また苦労してきたのだ。だいたい、歴史小説家の書く小説などと
いうものは、詰まらぬものだ。だから、筆の苦労とは、下らぬものに費やされたことに
なる。精を費やせば、頭が禿げる。頭が禿げれば、筆の場合、ちび筆となるによって、
人に棄てられることになる。そして、筆の助けを借りておいて、無碍に棄てれば、筆の
精は鬱として溜まり、必ず筆の祟りがある。だから此処に、使い古した筆を埋め、祀ろ
うとしているのだ。まるで山路が遙かであるように、裡にある言論は収めるに及んでい
ない。まだ書きたいことがあっただろうし、思い残すことがあるだろう。だからこそ、
この江戸のはずれに墓を造り、布で巻き缶に納め、永く安らかに眠ることを願う。その
塚は、谷中の新堀山の上にある。この石を建て碑文を彫りつけ、納めた筆の労を忘れな
いようにしたい。碑文として以下の言葉を筆に捧げる。
肉体には制約があり、いずれ滅び留まるとしても、魂は留まることなく動き、変化し
続ける。筆よ、変わってしまったか。また何処に迸り行こうとするのか、至ろうという
のか。問うて答える声なく、叩いて応じる音もない。筆よ、毘耶の黙を真似するのか。
いや、余りに多くを語りすぎたためか羅漢中の子孫は三代に亘って口を利けなくなった
が、そもそも言葉を発することが出来なくなったのか。唖となったのか、無言の行でも
しているのか。ああ、それとも戯れているのか。ああ、後生を戒める戯謔を失ってしま
ったのか。
このように、石に銘を刻む。
【裏面碑文/白文】
翁名解字瑣吉一称馬琴曲亭其別号也姓滝沢氏江戸人世仕草藩
為武弁之家父諱興義性長技撃而射御之術無不悉究其奥矣有子
数人翁其季也翁以多病故去而隠市其所著詭詞冊子巧写憂楽愁
啼嬉笑怒罵之光景使閨人穉子估客村農不能不為解頤酸鼻千般
万般之状是以名噪一時坊賈捷利者獲翁之新著以為居奇而得其
●(亡の下に口、貝目瓦の丶無しに似たモノ/えい)余者有年矣今茲坊賈等与翁嗣子興
継相謀而建之蓋飲水思源
之誼云 鵬斎翁識
立石幹縁
木蘭堂
柏栄堂
平林堂
蛍雪堂
方策堂
柏●(松の下にアシ)堂
隻鶴堂
文化庚午首夏朔
琴嶺瀧澤興継立
石工松木松五
【裏面碑文/書き下し】
翁の名は解(とく)、字(あざな)は瑣吉、一に馬琴・曲亭と称するは其(そ)の別号
なり。姓は瀧澤氏、江戸の人なり。草藩に仕う武弁の家たり。父の諱(いみな)は興
義、性として技撃に長じ、射御の術は悉く其の奥を究めざるは無し。子は数人有り。翁
は其の季(すえ)なり。多病の故を以て、去りて市に隠る。其の著わす所の詭詞冊子
は、憂楽愁啼嬉笑怒罵の光景を写し、閨人穉子估客村農不能不為をして、解頤酸鼻千般
万般の状たらしむ。是を以て名、一時を噪(さわ)がす。坊賈、利に捷れば、翁の新著
を獲る者は以為(おもえらく)、奇しきしか居らず。其の●(亡の下に口、貝目瓦の丶
無しに似たモノ/えい)余を得る者は、年に有り。今、茲に、坊賈ら翁の嗣子・興継と
相謀りて之(これ)を建つ。水を飲みて源を思うの誼と云う。
鵬斎翁識
立石幹緑(縁?)
木蘭堂
柏栄堂
平林堂
蛍雪堂
方策堂
柏●(松の下にアシ)堂
隻鶴堂
文化庚午首夏朔
琴嶺瀧澤興継立
石工松木松五
【裏面碑文/現代訳】
翁の名は解、呼び名は瑣吉。馬琴・曲亭は別号の一つである。苗字は瀧澤で、江戸出
身。大名というのではなく、それよりは小規模な将軍の藩塀すなわち旗本に仕えて世過
ぎしていた父の本名は、興義であった。父は、撃剣の技に長じ弓道も馬術も奥義を究め
ていた人だった。父には数人の子があり、翁は末っ子に当たる。翁は病がちであったか
ら武家奉公を辞めて市井に隠れることとなった。 翁の著作は、憂い、楽しみ、愁嘆場
や泣き喚きたくなるような場面、嬉しく、笑い、怒り、罵りたくなるような光景を活写
している。その著作を読めば、女性や子供、商人や農夫、不能な者も能力はあっても志
なく為すこと無き者も、顎がはずれるほど大笑いしたくなり、あるいは涙ぐみ、あらゆ
る感興へと導かれる。このため翁の名は、一世を風靡している。
本屋の利ざとい者といっても翁の新著を得るものは恐らく極めて少数で、そのほかの
者は新著ではないものを漸くに得ているに過ぎない。いま此処に本屋たちで翁の嫡男・
興継と相談して、碑を建てる。筆なくしては翁も著作できなかったであろう。筆を祀る
ことは、まさに、水を飲んで源を思う、の道理である、と言う。
#41/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 02/12/06 22:50 ( 11)
詩>奴隷の死 $フィン
★内容 02/12/18 00:26 修正 第3版
女王様は奴隷が嫌いです
鞭でぴしりぴしり打っても
泣き言をいいません
ぴんと張った肌に針を刺し
血がとろとろ流れても
泣き言をいいません
そんな奴隷を殺してやりたくて
首を締めてあげました
そうしたら泣き言もいわないまま
赤い涙を一つこぼして
息をとめてしまいました
#44/569 ●短編
★タイトル (hir ) 02/12/10 21:15 ( 67)
お題>書き出し限定/拘束 闇川出雲
★内容
ここには天井がなかった。あるはずのものが、あるべき場所にないのは、なんだか気
持ちが悪い。昨宵の大風で、飛んでいってしまったのだ。さいわい此の地方は雨が降ら
ず、北の国で育った私には年じゅう暑いほどの気候であるため差し支えはないが、余り
に開放的になり過ぎているし、机の上に散らかした資料が、風が吹くたびに暴れ騒ぐこ
とには、閉口した。文鎮にするための石を拾いに、森へ出掛けた。
真白い紙ばかり見詰めていた目に、森の深い緑が沁みる。鬱蒼と繁った木々の合間か
ら、遙かに五千メートル級の山が見える。あの山が雨雲を遮っている。高みに降った雪
が地下水となって潜み、泉に湧き出て大地を潤している。目の端に黒い影が過ぎる。見
上げると、繁った葉の揺れが、擦れ合う音と共に遠くへと移動していく。姿は見えない
が、猿か何かだろう。気にも留めず、森の奥へと足を運ぶ。
急に明るく開け、泉に出る。手頃な石を三つばかり拾い、泉の水で軽く洗う。白い
石、緑の石、黒い石。小屋へと引き返す。窓辺に石を並べて乾かす。濡れていたときに
は色濃く輝いていた石が、白っぽく乾いていく。死ぬとは、乾き輝きを失うことなのか
もしれない。ならば私は、もう死んでいるようなものだ。私は愛したものを失い、ちょ
うど此の地に森林観察員の職を見つけ、故郷を去った。閉ざした心は渇き、嘗て抱いた
愛なぞという感情の手触りすら、記憶から消えている。
「なぜアタシを置いて行ったの」「待てよ、君が私のもとを去って彼と……」「いい
え、彼とはほんの遊びだったのよ」「……」「あなたは私のもの。私は、あなたのもの
じゃない。私が彼と付き合ったからって、あなたが私を置いて行く理由にはならない
わ」「……それは、勝手なんじゃないか」「ええ、そうかもしれない。でも、あなたも
私が勝手なことは、解ってたでしょ」「きっと疲れたんだよ。そんな君に」「あなたは
アタシのもの。逃がさないわ」
真っ赤な唇を舐め回す彼女に戦慄し、身を起こす。目の端に黒い影が走る。見上げる
と、何もない。天井だった場所に星空が広がっている。夢だったらしい。彼女の引き締
まった肢体は、いつもバックから姦することを求め、私に背を向け四つん這いになっ
た。そんな彼女の性に溺れ狂おしく貪っていた日々を思い出しても、乾いた心は、何の
感興も催さない。いや却って、其の獣的な態度に、今更ながら恐怖すら覚える。
恐怖のためだろうか、一週間ばかり続けて同じ夢を見た。いつも同じ箇所で目が覚め
る。いつも、初めの夜と、すべてが同じなのだ。警戒心からだろう、夢を見ながら、其
れを夢だと感じる意識も併存している。熟睡できていないようだ。熱さと睡眠不足で、
疲労が溜まってきた。辺りが暗くなる。微睡みに沈む。同じ夢だ。夢だと感じる意識は
ある。でも、起きられない。今夜は、夢が終わらない。彼女は舌舐めずりすると、私の
股間に顔を埋め、舌を遣い始める。下卑た音を立て吸い込み、根本を握ったまま頭を前
後する。
彼女は目を上げて見下したような笑みを浮かべ、唇を離した。背を向けて四つん這い
になり、尻を高く掲げる。見事な曲線を、艶やかに張りつめた膚が覆っている。私は腰
を掴み、貫く。彼女は低く唸り、身を固める。昇り詰めた瞬間のホワイトアウト、そし
て空虚。私は身を横たえる。彼女は満足したような表情で、四つん這いのまま私の首筋
に唇を寄せる。ふと顔を上げ、私を覗き込んで、ニヤリと笑う。私は頷き、目を閉じ
る。
夜毎、壁の上から覗き込んでいたのは、雌豹となった彼女だったのだろう。私を独占
するため、私を喰らい体内に取り込む積もりだ。既に彼女を愛してはいなかったが、抜
け殻となった私には、死ぬことを拒む理由はない。こういう時には恐怖を感じるものだ
ろうと思っていたが、別段、何の感情も湧かない。理由もなく、窓辺に乾かした石のこ
とを思い出す。彼女が大きく口を開ける気配がする。
轟音と共に、生暖かいものが降り注ぐ。「何やってるの。喰い殺されるところだった
わよ」。彼女の声だ。不審に思って身を起こすと、猟銃を手にした彼女が、扉を開けて
立っている。私の横には、頭部を撃ち抜かれた雌豹が倒れている。「どうしたんだ、い
ったい」私が身を起こすと、彼女は捲し立てる。私の行方を捜したこと、此処へ来る途
中に車の故障で到着が遅くなったこと。猛獣を撃ち倒したことで、興奮してしまってい
るらしい。身を寄せると私のシャツを乱暴にたくし上げ、押し倒してくる。
私を搾り取った彼女は覆い被さり、頭を抱いて口づけてくる。「あなたはアタシのも
の。アタシだけのもの。逃がさないわ」。低い笑みを含んだ声は、決して逆らうことを
許さない。
いっそ、私を、殺してくれ。
(了)by Q-saku
#45/569 ●短編
★タイトル (PRN ) 02/12/13 21:24 (284)
お題>書き出し限定/「あの部屋」の秘密 已岬佳泰
★内容
問題編
ここには凶器がなかった。
あるはずのものがあるべき場所にないのは、なんとも気持が悪いものだ。
コンクリート打ちっ放しの殺風景な部屋。床には血まみれの男がひとり。
「参ったなあ」
現場を見回して本多は呟いた。S町セントラルビルの駐車場にある4畳半程度のコン
クリート部屋だった。見事なほどに何もない部屋だった。
「床も壁も天井も10センチ厚みのコンクリートべた塗り。唯一の出入り口にはやっぱ
り厚さ10センチの鉄製ドアがあって、しかもご丁寧に内側からも外側からも、頑丈な
南京錠が掛けられていたなんて。ミステリー小説じゃないけど、これじゃまるで密室で
すね……」
「さあ、どうかな」
仙次警部は浮かない顔だった。2メートルはあろうかという上背。アメフトで鍛えた
広い肩幅の上にはブルドッグのような厳つい顔が乗っかっている。刑事部内では強面で
知られているが、本多とコンビを組むのは今日が初めてだった。
「そもそも、救急車の連中さえしっかりしてたら、こんなことにはならなかったのだ。
あいつらが急患をちゃんと病院に届けていれば……」
仙次警部はそう言うと、また殺風景な部屋をじろりと見回した。
事件の発端は、今日の午後2時過ぎ、ジョギング中の学生がS町踏切で発見した男の
礫死体だった。男の名は所持した免許証からS町駅前の進学塾「たまご塾」の経営者、
片岡修、38歳と分かった。この不景気である。倒産や自己破産といった暗いニュース
が多い。有名私立小学校「お受験」を応援しますというのがキャッチフレーズの「たま
ご塾」も、少子化の波をかぶり、経営は楽ではないはずだった。経営苦からの投身自
殺。まずは誰もがそう思った。
冬休みに入って最初の土曜日。片岡は朝の受け持ちクラスを済ませると外に出たま
ま、行方が分からなくなっていた。
あちこちに散らばった遺体を収容中に、線路脇にひしゃげた台車の残骸が見つかっ
た。台車には消防署のシールが貼ってあり、問い合わせてみると、救急患者の搬送用に
使用されるものだった。台車が単に線路脇に遺棄されたものか、死亡した片岡と関係が
あるのか。所轄署の捜査員が首を傾げている間に、本部から礫死体の解剖結果が伝えら
れた。
電車に引きちぎられた片岡の体に「生活反応のない」傷が多数あったと言うのだ。自
殺が見せかけの可能性があるというわけである。担当した医師は「死体を電車に投げ込
んだのではないか」と所見を述べたという。しかも、死体が着込んでいたロングコート
のポケットに、強力な催眠ガスのスプレー缶が入っていたらしい。警察はにわかに色め
き立った。捜査員を繰り出し、現場の実況検分をやり直した。
すると救急車が1台、S町踏切から坂を上がった道路わきに見つかった。後部ドアが
開いており、その中で救急隊員2名が意識を失って倒れていた。運転手もハンドルに持
たれて眠り込んでいた。
「救急車はこのS町セントラルビルから、瀕死の重傷を負っていた片岡修を搬送してゆ
く途中だったのだ」
仙次警部は本多に説明するように言った。
「片岡はこの部屋に倒れていたんですね」
「うむ。ちょうどあんな感じだな」
仙次警部が顎をしゃくると、倒れていた血まみれの男が片手を上げた。
「もうよろしいでしょうか。どうも死んでしまった人の身代わりと言うのは、あまりい
い気持ちがしないもんで。それにこのケチャップはべとついていけません」
所轄署から駆り出された田中刑事だった。こちらは丸々とまるで相撲取りのように太
っている。愛嬌のある丸顔は漫画のアンパンマンそっくりだ。
「瀕死の男は口を利けなかったと聞いたが」
言われて、田中刑事があわてて首を竦めたように見えた。
「片岡修は今日の午後1時過ぎに、ここで倒れているところをS町セントラルビルの管
理人に発見された。ところで、なぜ俺たちがここに来たか分かっているのか、新人」
ほら来た。仙次警部は新人いびりで部内でも名を馳せている。本多は背筋をのばして
応えた。
「片岡修がなぜそのような重傷を負ったのか、事故か他意か。解剖報告によると被害者
の首筋と腹部の大きな切り傷には生活反応がありました。片岡はここで首筋と腹部を切
りつけられたに違いありません」
本多の答えに仙次警部は満足そうだった。
「そうだ。おそらく片岡はここで襲われた。片岡に重傷を負わせた犯人は、片岡がここ
で死んだと思った。ところが救急車がやってきて、片岡は運び出された。それで犯人は
自分の失敗を悟り、救急車の後を追いかけた。トドメを刺すためにな」
「しかし、犯人はなぜわざわざ死んだ片岡を電車に放り込んだのでしょう」
「恨みだろう。人を殺すような人間は頭のネジが狂っている。殺しただけではあきたら
ず、電車に放り込む。そういうヤツもいるんだ。さあ、まずはここで片岡を発見した人
間を連れてこい」
S町セントラルビルの管理人は、繁田三郎と名乗る老人だった。きれいに剥げ上がっ
た頭に鍔つきの制帽を乗せているが、ともすればそれが滑り落ちそうで危なっかしい。
紺色の制服もよれよれで、管理人というより守衛さんという呼び方があっていそうだな
と本多は思う。
「その子はなんだ?」
仙次警部が言ったのは、繁田老人の背後に隠れるようにして付いてきた女の子だっ
た。
「わしの孫じゃて。冬休みに入ったと言うんで、遊びに来てくれたんじゃ」
「繁田さん、これは殺人事件かもしれません。子供に話を聞かれるのは……」
本多が言いかけると、繁田老人が手を振った。
「おいおい、老人の楽しみをとらんでくれ。この子をひとりで狭い管理人室に残してお
くなんて、かわそうじゃろうが。せっかく来てくれたのに、すぐに帰らせるのもなあ」
本多が尋ねると女の子は繁田樹里、5歳としっかりとした声で名乗った。繁田老人の
制服の裾をしっかりと握り締めているが、警察だと分かるのだろう。緊張した顔は青白
くなっている。
「わかった。それじゃあ、早いとこ済まそう」
そう言うと仙次警部は質問役に回った。本多はメモを取る。田中刑事はまだ床に転が
ったままである。
「このコンクリート部屋の使い道は何だね」
最初の質問に繁田老人は顔をしかめた。
「そんなことわしが知るわけないだろうが。わしはこのビルの管理会社の人間なんだ。
そういう話はビルの持ち主に聞いてくれ」
「最近、ここを使っている人間を見たかい?」
「いんや、ないね。この半年くらい、見た事はないなあ。何も置いてないところを見る
と、倉庫というわけでもなさそうやね」
繁田老人は唇をへし曲げて答える。
S町セントラルビルはS町駅前通に面する6階建てのオフィスビルだった。駅からは
少し離れているが、テナントも名の知れた会社が多い。両隣も似たようなオフィスビル
だったが、土曜日とあって人影はなかった。警察の現場検証となれば、たいていどこか
らか野次馬が集まってくるものだが、今日に限ってはそういう連中もいなかった。
片側2車線の道路を挟んで向かいには事務用品の卸会社や建機のレンタル会社などが
並んでいる。建機のレンタル会社脇には広い展示スペースがあって、様々な建機が並ん
でいたが、やはり、土曜日とあって客の姿はまったく見えなかった。
片岡修が倒れていたという問題の部屋は、S町セントラルビルの一階駐車場内の奥に
設置されていた。高さ2.2メートルの箱型で一階の天井との間には僅かな隙間しかな
い。
「この部屋の用途は別のヤツに尋ねよう。ほれ、あそこを見ろ。あんたの見つけた男は
あんな感じだったか?」
部屋についての質問をあっさりと引っ込めると、仙次警部は田中刑事を指さした。床
に倒れているケチャップまみれの所轄刑事を、繁田老人が冷ややかな目で見る。
「違うな。仰向けに倒れていたな」
「おい、仰向けだそうだ」
仙次警部が怒鳴ると、田中刑事がもぞもぞと体を動かした。
「こんな感じか」
「もっと図体がでかい男だった。そんなスーツじゃなくて、もっと暖かそうなコートを
着ていたよ。それに、あんなにだらしなく前をはだけてはいなかったな。ちゃんとファ
スナーを締めてた」
言われた田中刑事が背広のボタンを掛けようとあがいている。
「片岡が着用していたのは、リバーシブルのロングコートだと報告がありました」
本多は補足した。
「リバーシブル?」
「はい。表と裏が色違いになっていて、どちらを外に出して着てもOKという便利な
コートです。ほら、サッカーの試合で、控えの選手がタッチライン脇で着込んでいる防
寒コートがあるじゃないですか。あんな感じのモノですよ」
「ふん、なるほど。それであんたは、片岡が血だらけで死にそうだったと所轄の捜査員
に言ったそうだが、もうちょい詳しく聞かせてくれないか」
繁田老人が顎に手を添えた。ちょっとだけその時のことを思い起こしている風情だ。
「あれはひどかったな。床に血だまりができるくらいに出血していたからねえ。顔は蒼
白。目は閉じてたかなあ。口が半開きで、耳の下に大きな切り傷が見えた。まだ血が流
れていたよ」
「触ったか?」
「とんでもない」
「入り口のドアは閉まってたんだろう。あんたはどうやって男が中にいると分かったん
だ」
「昼飯帰りにわしがたまたま通りかかったら、中からうめき声が聞こえたんだ。ドアの
南京錠はかかったままだったからちょいと変だなと思った。誰かが閉じこめられている
のかなとね。ところが南京錠を外しても、ドアが開かないから驚いたよ。ほんのちょっ
と開いたドアのすき間から見たら、内側からも別の南京錠がかかっているじゃないか。
こりゃわしにはどうしようもない。部屋の中は暗くてその時に男の姿は見えなかった
ね。それで馴染みのロックスミス、近所の鍵専門の店なんだがね、そこの店主を携帯電
話で呼びだして、その南京錠のフックを鉄鋸で切断してもらった。そしたら、男があん
な具合に倒れていて、ぶったまげてそのまま119番したさ」
鉄鋸で切断された南京錠も、入口に掛かっていた南京錠もすでに鑑識で調べてあっ
た。メーカ形式は違うが、どちらもどこの金物屋で売っている機械式南京錠で、半円リ
ングになったフックを錠本体に押し込んでロックするタイプだった。外側の南京錠をあ
ける鍵は重田老人が携帯していた。内側の南京錠のものはまだ見つかっていない。
「救急車が来るまでどうしてた」
「どうもしないやさ。下手に動かして男が死にでもしたら、わしらの寝覚めが悪くなる
からなあ。外でじっと待ってたよ。ロックスミスの店主、添田って言う男だが、あいつ
は忙しいとか言ってすぐに店に帰ったけどな」
「ふむ?」仙次警部の顔が変化した。「怪しいな。鍵屋の店主なら、南京錠に細工くら
いはできたろうからな。犯人は片岡を殺して(実際は死んでいなかったが)内側の南京
錠で鍵がかかっているように見せかけて逃走した。発見されたときに、内側から南京錠
が掛かっていれば、片岡は自殺したと思われる。それがねらいだ。それに、内側の南京
錠に気づいた管理人の繁田さんは、間違いなく、日頃馴染みの添田に鍵を外す依頼をし
てくると読んでいた。案の定、繁田さんに請われて南京錠を切ることになった添田は、
まんまと南京錠は最初から掛かっていたという風に振る舞った。ところが片岡は生きて
いた。店に帰ると言って添田が姿を消したのは、救急車を追いかけて、片岡を殺すため
だったに違いない。おい、新人。添田を任意で引っ張るぞ。来い」
今にも駆け出しそうな仙次警部だった。本多がそんな仙次警部を押しとどめた。
「ちょっと待ってください、主任。お読みになったでしょうが、鑑識からの報告では、
外側の南京錠はきれい拭き取られて、指紋ひとつ残っていなかったのですが、内側の南
京錠からは被害者の指紋が、ほぼ完全な形で検出されました。主任のおっしゃるとおり
に、添田さんが何か細工をしたのなら、南京錠に触ったはずです。手袋をしていたにし
ても、片岡の指紋だけがべっとりと残るというのはどうでしょうか」
仙次警部の足が停まった。しかし、すぐに口を開く。
「片岡は自分で内側の南京錠を掛けたというわけか。それなら、片岡は外で襲われたと
いうことならどうだ。それで犯人に追いかけられて、この部屋に逃げ込んで、内側から
南京錠をかけた」
「ちょい待った」今度は繁田老人だった。「それじゃなにかい。このドアがまるで鍵も
かけずに放置されていたみたいじゃないか。そんなことは決してないぞ。毎日朝夕2
回、わしが施錠を確認しておる。子供たちが面白がって入り込んで事故でも起こされた
ら大変じゃからな。今日だって、朝にはちゃんとかかっておったし、昼飯帰りにちらっ
と寄ってこの男のうめき声を聞いたときだって、鍵はかかっていたんじゃ」
「南京錠だろう。そんなものは、要領の分かっている人間にはヘアピンひとつで開けら
れるもんだ」
仙次警部が言い返す。自分の推理にいちいちケチを付けられた気分なのだろう。
「ですが、主任」本多が間に入った。「片岡は瀕死の重傷を負っていました。相当の血
も流しています。もし彼が主任のおっしゃるとおりに犯人の手を逃れてこの部屋に逃げ
込んだというのなら、ドア付近にそれらしい血痕が落ちていていいと思います。でも、
床を見てください。血痕は片岡が倒れていたところにしか落ちていません。これはつま
り、片岡がこの部屋で切られたということになりませんか?」
「オマエはどうしてもこの事件を”あの部屋”にしたいようだな」
とうとう、仙次警部はふてくされた口調になってしまった。
「あの部屋って、密室のことですか?」
本多のひとことに仙次警部の鼻が大きく膨らんだ。本多が口にした「密室」という単
語に過剰反応したらしい。
「すべてのドアには内側から鍵。部屋の中には被害者ひとり。これは自殺か他殺か。閉
ざされた部屋での不可能犯罪。これこそ愚鈍な警察にはとうてい解明できない謎の”あ
の部屋”というわけか」
仙次警部のブルドッグ顔が赤黒く充血していた。かなりアブナイ雰囲気だ。
「ね、帰ろうよ」
恐れをなしたのだろう。重田老人の孫娘がすっかり青ざめていた。その頭を重田老人
がゆっくりと撫でた。
「そうじゃな。警察の方々、もう聞きたいことがなければ、わしは帰るぞ」
その時、どこかで電子音がした。
田中刑事ががばっと起きあがる。彼の携帯電話だった。
「救急隊員が意識を回復したようです。さっそく事情聴取をしましたが、彼らを襲った
人間の特定は出来ていません。彼らはてっきり片岡にやられたと思ってます。救急車は
S町セントラルビルから意識をなくすまで、赤信号で一度停まった以外は途中停車はし
ていないので、外部から第3者が侵入したとは考えにくいと言ってます」
「ふん。死にかけた重傷患者がいきなり催眠ガスでも噴射したと言うのか。あほらし
い。どうせ、その救急隊員らは居眠り運転でもしていたんだろう」
仙次警部の憤懣が救急隊員に向かって吹き出した格好になった。
「それと、片岡はS町セントラルビルから担架で運び出されていますが、その時にはほ
とんど脈も取れないほどの危篤状態だったそうです。それで、台車に乗せてS町の救急
室に直接乗り付けようとしてました。ここは台車ごと患者を搬入できるように、入り口
が高く作られているのです」
「瀕死の患者を略奪されたんじゃ、消防署も情けなくて消防隊員を弁護できんだろう」
重田老人に呼んでもらったロックスミスの店主、添田吾朗は中肉中背の50歳前後の
男だった。つなぎの作業服は灰色でくたびれており、胸にLocksmithという赤
糸の刺繍があった。髪の毛は白いものが混じっていて、表情も暗い。喋る声も商売人に
しては低くて聞き取りにくかった。
「あんたは、この部屋の南京錠を切ってから、そのまま店に帰ったらしいが、どうして
なんだ」
仙次警部がいきなり核心に切り込んだ。添田はぼんやりとした顔のままである。
「どうしてと言われても、わたしの仕事は終わりましたから、用が済めば店に戻るのは
当たり前でしょう」
「重傷の男を残してか?」
「だって、わたしには関係ありませんよ。S町セントラルビルの中で起きたことだし、
管理人の繁田さんが救急車を手配したというんで、私が残ってそれ以上何ができたと言
うんです。わたしは医者じゃないし、倒れていた男とはまったく面識もなかったんです
からね」
「あんたは片岡修を知らないと言うのか」仙次警部の顔色がちらりと落胆の色を見せた
が、すぐに立ち直った。「それで、店に戻ってから何をしていた」
「店番ですよ。帰ったらすぐにお客がひと組来て、あれこれ防犯アラームの話をしてま
したよ。結局、契約をしてもらったのは午後2時頃でしたけどね」
添田を帰すとすぐに、田中刑事にロックスミス周辺の聞き込みを仙次警部は指示し
た。添田の言う客の所在を確認するのだ。もし添田の言う通りなら、彼は容疑者リスト
から外れる。
田中刑事が所轄から応援を呼び、駅前通に出ていった。
それを見送る形で本多と仙次警部はコンクリートの部屋を出た。
「おい、新人」仙次警部が大きく伸びをしながら声を掛けてきた。「確か、こういう探
偵小説があったな。ある乗り物で殺人事件が起きたんだが、実は乗客乗務員全員がグル
だったってやつ」
「ミステリーの古典とも言われる名作ですね」
「今回の事件もそれかもしれないな」
「は?」
「救急車だよ。意識を失っていたという救急隊員ふたりが口裏を合わせているんだ。や
つらが片岡を救急車の中で殺し、その死体を台車ごと踏みきりに放置した。その後で催
眠スプレーを自分たちに吹きかけて気を失った。つまり、そういう自作自演の事件では
ないかと言うのだ」
「それは……」
ムリがあるでしょう。そう言いかけて止めた。仙次警部がにやにやしていたからだ。
どうもからかわれたらしい。
「ま、それはないだろうな。繁田老人が片岡を発見したのが、たまたま昼飯帰りにうめ
き声を耳にしたからという偶然。重田老人の119番で出動した救急隊員が、瀕死の片
岡を救急車に乗せたのも偶然の巡り合わせ。こんな偶然を組み合わせて殺人事件を描い
たら、いくら探偵小説だってご都合主義とか言って批判されまくるだろう。ましてや現
実の事件で、偶然に乗り込んできた患者相手に、こんな手の込んだ殺人芝居を即座に打
てるか。搬送中の急患を殺すだけなら、救急隊員であればもっとそれらしい露見しにく
い方法がありそうに思えるしな。例えば、片岡の傷口を広げて出血量を増やし、失血死
させるとか」
そう言うと、仙次警部はしばらくの間、目を閉じた。
「どうも、気になる」
目を閉じたまま、仙次警部が呟いた。
「何がですか」
合いの手を入れながら、本多は仙次警部の視線を追って、部屋の外に目を移した。道
路の向こうにあるレンタル会社。展示場に並ぶ建機の数々。それらが視界に飛び込んで
くる。
「被害者の片岡が着ていたというロングコートがひっかかる」
仙次警部が目を開いていた。さっきまでの鋭い目つきではなく、どこかちょっと気弱
そうな(見間違いか?)光がある。
「あの繁田という管理人の証言。それと被害者の職業だ」
「片岡修は進学塾の経営をしていました。それがこの事件と関係があると?」
「そんな気がする」
仙次警部の歯切れがイマイチ悪い。さっきまでの断定的な口調も影を潜めているし、
気のせいか、顔色も暗い。
「それに、繁田の孫娘。どうして今頃、繁田の勤務先に来たのかな」
そう言うと、仙次警部は頭をふりながら「あの部屋」を出たのだった。
(問題編・終わり)
本多の独り言:刑事部では強面の新人いびりで知られる仙次警部(捜査主任)です
が、もうひとつ、肝心なことを忘れていました。彼には過去に難事件と言われた謎めい
た事件を幾つも解決したという伝説があるのです。ただ、私はデスクワークから今回初
めて、現場担当になりましたから、実際の仙次警部の捜査には立ち会ったことがありま
せん。
果たして、仙次警部はこの「あの部屋」(仙次警部曰く)の謎を解けたのでしょう
か。
#46/569 ●短編 *** コメント #45 ***
★タイトル (PRN ) 02/12/13 21:25 (114)
お題>書き出し限定/「あの部屋」の秘密(続) 已岬佳泰
★内容
解決編
仙次警部は、添田の店周辺を聞き込みに当たっていた所轄署の田中刑事を呼び戻し
た。もうそっちはいいということだろう。
「進学塾に何があるんですか」
田中刑事の運転する車で、問題の進学塾「たまご塾」があるS町駅へと向かいなが
ら、本多は改めて尋ねてみた。どうやら、仙次警部は今度は(真面目な)謎解きをした
らしい。しかし、行く先を告げたまま、しばらくはむっつりと黙り込んでいた。
「塾の経営者の片岡修がなぜ、昼間っからあんな倉庫のようなところにいのか。そのわ
けを考えてみろ。そして彼はそこで重傷を負った。誰かに襲われたのだ。その動機には
おそらく彼の普段の行動が関係しているに違いないと睨んだ」
「つまり、仕事上のトラブルですか?」
「いや、もっとプライベートな話だろう。一応、犯人の目星はつけた」
仙次警部があっさりとそう言った。
「え? いったいどういう?」
田中刑事が驚いてのけぞった。本多も同様の気分である。
「片岡は犯人と一緒にあの部屋に入ったのは間違いない。南京錠の指紋から、ドアに内
側から鍵を掛けたのは片岡本人であると断定していいだろう。問題は片岡はそこで何を
しようとしたのかだ」
「何をしようとしたのか、ですか」
本多は考えてみた。冬休みの土曜日。塾の経営者が、オフィスビルの一階駐車場に放
置された倉庫のような部屋で、いったい何をしようとしたのだろう。まったく、答えが
浮かばない、田中刑事もだめらしい。首を傾げて唸っている。
「ここからが俺の推理なんだが、片岡は犯人に危害を加えようとして反撃され、瀕死の
重傷を負ってしまったのではないかと考えた。根拠は後で分かるが、犯人と片岡の関係
からするとそういうことになる。そして犯人は逃げだそうとした。犯人には、あの部屋
を密室にするというつもりはなかった。内側の南京錠を外して、何か合図を、例えばド
アを叩くとかすれば良かったのだろう。その合図で外側の南京錠も開くハズだった」
「重田老人がグルだったと言うことですか?」
「イヤ違う。繁田老人は犯人にとっては予定外だった。繁田老人が言ったように、彼は
昼飯帰りにたまたま”あの部屋”の前を通ったのだ。そこで片岡のうめき声を聞かれて
しまう。ドアの外に繁田老人がいる。鍵屋を呼んで、南京錠を切る算段をしている。”
あの部屋”には身を隠すような場所はなにもない。そこで犯人は一計を案じた」
「それであの部屋を、まさに”あの部屋”にしたわけですか。でもいったいどうやって
……」
「それも片岡の仕事先、たまご塾に行けば分かるはずだ」
「さきほど主任は、片岡が着ていたロングコートが気になると」
「うむ」
「そこに何か秘密があると言うことでしょうか」
仙次警部が顎をしゃくった。車の前方にS町駅のロータリーが見えている。片岡の経
営していた「たまご塾」は駅ビルにあるという。
「片岡の解剖の結果を思い出してみろ。首筋と腹部に生活反応のある大きな傷があった
という報告だったな」
「はい」
本多と田中は同時に頷いた。
「ところが、”あの部屋”に倒れていた片岡は、ロングコートの前面ファスナーをきっ
ちりと締めていたとと繁田老人は証言した。これはどういうことだ……」
たまご塾は、S町駅の駅ビル3階フロアの一角にあった。すでに片岡の死は伝えられ
ており、本多が案内を乞うとすぐに共同経営者だという奈良井啓介が出てきて、事務室
脇の応接室に通してくれた。奈良井は眼鏡を掛けた神経質そうな男だっ た。
「片岡さんについて、嫌な噂を聞きましてね」
応接のソファに腰を下ろすなり、仙次警部が言った。そんな噂はまったく知らない本
多と田中だったが、そこはポーカーフェースをかろうじて保つ。奈良井が「やっぱり」
という顔になった。
「もう本人が死亡しておりますので、お話ししましょう。実は塾としてもたいそう 困っ
ておったのです」
そうして奈良井は渋々といった具合に話し始めた。田中刑事が急いでメモを取るために
手帳を取り出した……。
約1時間後。
本多は仙次警部と重苦しい足取りで歩いている。車は田中に運転させて、所轄署に帰
したところだった。
「しかし、塾の子供が犯人だったなんてまったく意外でした。どうしてそういう推理に
なったのか、聞かせて欲しいですね」
奈良井から入手した塾の生徒リストを見ながら、本多は嘆息した。
「片岡が着ていたロングコートだな」
「さっきの切り傷ですね」
「うむ。それとリバーシブルということだ。リバーシブルってことは、コートのボタン
やファスナーが表からでも裏からでも掛けられるって事だろ」
「はい」
「発見者の繁田老人は倒れている田中を見て、片岡はもっと図体が大きく見えたと言っ
た。田中だって、警察官だか相撲取りだかわからんほどのぶくぶくの体型だ。それより
も大きく見えたというには、片岡はよほどの大男であったことになる。それで、リバー
シブルのロングコートだから、その下に幼稚園児くらいの子供が刃物を持って潜むとい
うのもアリかなと気づいたんだ。内側からファスナーを引いてしまえば完全に中に隠れ
るからな。ただし、それが現実的に可能になるにはリバーシブルのロングコート以外に
もいくつかの条件が必要だった」
「例えば?」
「まず、片岡は仰向けに倒れていることだ。救急隊員は患者を担架で運んで台車に担架
ごと乗せるが、その間中、患者は仰向けだ。これが俯せなら、コートの下に隠れても体
を反転させたときにばれてしまう」
「なるほど。確かに片岡は仰向けに倒れていました」
「それと刃物だ。片岡の死体には首と腹部に生活反応のある大きな切り傷があった。と
ころがコートはファスナーがしっかりと締まっていた。犯人の子供はおそらく、瀕死の
片岡が着ていたコートの下に潜り込んだ。ところがファスナーが閉じない。コートの裏
側と体の間に子供ひとりのスペースはなかったのだ。極めて気が滅入る想像だが、犯人
はスペースを稼ぐために片岡の腹を切ってその中に潜もうとした……」
本多は一瞬、声を失った。血まみれになったのは片岡ひとりではなかった……。その
情景を想像すると暗澹たる気持になる。そうすると……。
「救急車の中で催眠スプレーを吹いたのも、その子供ですね」
「おそらくな。催涙スプレーが片岡のポケットに入っていたと言うから、もともとは片
岡が彼の個人的な趣味のために持ち歩いていたものだろう。それを犯人が使ったのだ。
救急車の中にいつまでも隠れているわけには行かなかったろうし、腹に傷の残った片岡
を残していては、自分の細工がばれてしまうと思ったのかもしれない。それで台車ごと
片岡を救急車の外に押し出した。台車は坂道を転がって、そのまま踏切まで行ってしま
い、電車に轢かれることになった」
仙次警部の声が低くなる。本多の脳裏をもっと恐ろしい想像が横切った。
「あるいは電車に轢かせたのは復讐だったのかもしれませんね。奈良井の話では、片岡
が常習的に塾の子供たちに性的ないたずらをしていたというじゃないですか。経営者だ
と言うだけで、塾の講師連中はそういうことを知っていながら、見過ごしてきた。それ
に対して、子供たちは自衛の手段に出たということかもしれません」
「この事件はひとりの犯行ではないだろう。片岡に性的ないたずらをされていた複数の
子供たちが”あの部屋”で片岡を殺すつもりだった。だから、犯人は刃物を用意してい
たし、片岡に対して大した抵抗もせずにあの部屋に入った。そして、ふたりが入った
後、邪魔者が入らないようにと他の子供、おそらく繁田老人の孫娘だろう、が部屋のの
鍵を外から掛けた。孫娘なら、管理人室から鍵を持ち出して、スペアを作るのも容易に
出来たろうからな」
「ううむ。そうすると、繁田老人の孫娘が老人を訪ねてきたというのは」
「おそらく、現場が気になったんだろう。それにしても、やりきれんな」
仙次警部はそれっきり黙り込んだ。本多も言葉が出てこない。
ふたりはこれから、たまご塾の生徒の家をしらみつぶしに訪問する予定であった。
(解決編・終わり)
#47/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 02/12/15 16:14 (147)
お題>書き出し限定>「忘却」 舞火
★内容 02/12/15 19:49 修正 第3版
ここには何かがなかった。
あるはずのものが、あるべき場所にないなんて、なんだか気持ちが悪いって思うんだ
けど。
なのに、私にはそれが何かが判らないのだ。
気持ちが悪いと腕を掴んで身震いはしてみたものの、さりとてそこに何があったの
か?
何かがおかしいと気付いたときからずっと、頭の中で自問自答し続けて、いまだに答
えは出てこない。
困ったものだわ。
最近忘れっぽくなって。
そんな愚痴で終わらせるにはそこにない何かが気になってしようがなくて、私は結局
その場から離れることができなかった。
私は、もうずっとそこを睨んで考え込んでいた。
確かにそこには何かがあった。それだけは覚えている。
その場所は我が家の出窓で、普段は部屋とは障子で仕切られていて室内から目に触れ
ることはない。
締め切られた空間だから、埃を払うときくらいにしか掃除をしていない場所。
今だって、庭から窓の中を見ている。
そう……ここには何かを置いたはずだ。
外からしか見えない場所だから、他人に見られて恥ずかしくないものを、と選んで置
いたことだけは覚えている。
それにしてもそれはいつから無いのだろうか?
私は窓に近づいて、そこの様子をじっくりと観察してみた。
埃がうっすらとしているから、しばらく掃除をしていないことは確かだ。
出窓の左側には、備前焼でできた15cmくらいの高さの猫が片手を上げて愛嬌を振
りまいている。それは、子供の学校のバザーで買った置物で、可愛さに一目で気に入っ
たものだ。
娘も可愛いって喜んでくれたのよね。
「確か……この猫を置くために、真ん中に置いてあったそれを脇によけたんだわ」
猫を飾りたいと、出窓の障子を開けて……。
ああ、そうか……。
その時には確かにあったそれは、こう……こちら側に置いたんだわ。
その時の様子を思い出して、手がそれを動かすように再現する。その両手のかたち。
……これって花瓶、かしら?
直径が20cmほどの球形のものを持つように、両手が丸く弧を描く。
それにしても……いったいいつから掃除をしていなかったのかしら?
もともと無精ものであったから、掃除は苦手。
忙しさもあって、汚れない場所は滅多に掃除をしてはいなかった。
だから、この出窓を掃除したのがいつかなんて……全く覚えていない。
だけど、きっといつかは掃除をしている筈だ。少なくとも、この猫を置いたときに
は。
その時、それはあったのだろうか?
……きっとあったはずだと思う。
だって今頃無いって気がついてこんなにも気になっているのだもの。前に無くなった
ことに気がついていればさすがに何があったかなんて思い出していると思うし。
「本当に何が置いてあったのかしら……」
夕刻が近づいて日が陰り、私は押し寄せてきた寒さにぶるっと身震いした。
顔を上げれば、さっきまで日だまりであった場所がすっかりと陰っている。
出窓も少しずつ、暗さを増していた。
私は、気にはなっていたけれど夕餉の支度をするために室内に戻ることにした。
玄関のドアを開けながら、もう一度そちらを振り返る。
死角になって出窓の隣の窓が夕日に当たって反射していて、その赤さに私は思わず目
を逸らしていた。
1人寂しい夕食を食べ、今度は室内からその出窓をじっと観察してみた。
久しぶりに開け広げた障子にもうっすらと埃が積もっていて、自分の無精さに呆れて
自嘲めいた笑みがこぼれる。
室内から見るとあの猫のしっぽがくるんと巻いた形になっているのが判った。
こうしてじっと見ていると、置いたあの時の様子が目蓋の裏に浮かんでくる。
『お母さん、可愛いね』
そう言ったのはたった一人の可愛い娘。
『そうよ。だから、みんなに見て貰えるようにここに飾りましょうね』
小さな赤い座布団の上に鎮座させ外を向けた猫は、日だまりの温もりが随分と気持ち
よさそうだ。
『これね、近すぎない?』
子供に指摘され、そこを見た私。
……そうね、と頷いた記憶がある。
そこにいったい何があったのかは判らないのに、そういう記憶だけは鮮明に覚えてい
た。
『あ、私がやるうっ!』
私が手に取ったそれを子供が取ろうとして、それから?
『あ、危ないっ』
そんなことを叫んで。
無意識のうちに視線が出窓から畳の上へと移動した。
粉々に割れたのは……。
『ご、ごめんなさいっ!!』
今にも泣きそうな子供の顔。
いや、泣いていた。
赤い涙が流れてて……。
私は……なんと言ったのだろう?
がくがくと体が震える。
私は……何をした?
ここには何があった?
胸の中に不快な渦がわき起こり、私はその気持ち悪さにぎゅっと体を抱きしめた。
私は……何を……。
ひどい罪悪感に襲われて、私はその場に蹲った。
ご、ごめんなさいっ……ごめんなさい……ごめんなさいっ!!
ただ、ひどい後悔が私を支配していた。
「また暴れたんですよ」
電話の向こうで市の職員がうんざりとしたように開口一番そう言った。
私はため息を漏らして見えないとは判っていても反射的に頭を下げる。
「すみません、いつもの……発作ですから」
またやってくれたのだと、半ば諦めにも似た心境で答える。
「すぐに治まりますからいいんですけど、まだ引き取って頂く病院は見つからないんで
すか?」
「はい……何せ、普段は元気なものですから」
もうすぐ70になる母は、普段は何の問題もない。
なのに、何かの拍子に発作を起こすのだ。
いきなり心だけが過去に戻り、過去の出来事をトレースする。
それは、ひどく乱暴な行動を伴っていた。
「今回は出窓を割って泣き叫んでいたところを近所の方が通報したようです。幸いにも
手の甲にけがを負っただけで、本人は元気です」
「申し訳ありません。できるだけ早く病院を探しますから」
そう言って、すでに3年。
市役所の人もいい加減諦めている。
慢性的に不足気味な老人ホーム。それを何よりも判っているのは、そういう老人を相
手にする彼ら自身なのだから。
母のように普段は何の問題もなく一人暮らしができている場合、介護認定のランクが
低すぎてどうしても後回しにされるのが実情。
かといって、私のほうも引き取るわけに行かない事情がある。
ここは、東京。
母の元からここまで新幹線を使って実に4時間。それに主人の両親と同居しているの
だ。
一人っ子であったから、母の面倒を見ることには皆仕方がないと思ってはいてくれて
いるのだが……。
「本当に申し訳ありません」
それでも私自身の感情が母を引き取ることに同意しない。
大仰なため息が電話口から漏れ、そしてカチャリと切れる音。
私はしばらくその受話器を見つめ、小さくため息をつくとそれを置いた。
私は……母が嫌いだ。
自己中心的なせいかひどく我が儘で、かんしゃく持ち。
不意にもう30年も前の出来事が脳裏に鮮やかに甦る。
出窓の模様替えの時、そこにあった備前焼の壺を落として割ってしまった私に、母は
異常なまでの折檻を与えたのだ。
忘れない。
忘れようとしても、眉の脇に残る小さな傷跡を見るたびに思い出す。
投げつけられた壺の破片で切った場所はいつまでもじくじくとして、結局痕になって
しまったのだから。
母さん……。
私はあの時のこと……忘れていないから。
だけど……、何であの出窓の中身を変えようとしたのかしら?
確か、何かを置こうとしたのよね。
そして……。
ああ、やだわ。考え出したら気になっちゃう。
私は自嘲気味の笑みをその口の端に浮かべ、頭を振ってその疑問を振り払った。
そんなこと、今更どうでもいいことよね。
私は電話のことを頭の片隅に追いやって、もうすぐ帰ってくる娘のためにおやつの用
意を始めることにした。
終わり
#48/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 02/12/17 21:12 (418)
そばにいるだけで 〜 消えないキャンドル 〜 寺嶋公香
★内容 04/05/15 01:01 修正 第6版
森を二分する形の細い一本道を抜けると、小さな村の教会めいた建物が見え
てきた。十字架こそないが、背の高い三角屋根が夜空に映えている。色鮮やか
なステンドグラス、壁には蔦の這う模様が施されており、そこここを照らすラ
イトが暖かみを演出していた。
相羽の運転で、ボックスカーが駐車場に入る。緑の生垣で囲まれたスペース
には、他に一台だけ乗用車があった。
「何だか、凄そうなお店」
車を降りた純子は、毛糸の手袋の上から息をかけた。暖房の効いた車内から
外に出た途端、寒さが一段と厳しく、急速に迫ってくる。
「静かな感じだけど、敷居が高そうな……」
鷲宇に教えてもらった店だと、一週間前に相羽が言っていた。鷲宇がひいき
にするマーヤーという馴染みのレストランだそうだが、こうして目の当たりに
すると、想像していたよりもずっと高級な雰囲気を持ち合わせた店構えに、純
子は気後れしがちになる。
「当たらずとも遠からず、かな」
相羽が笑った。息が白く広がる。
「早く入ろう。時間もちょうどいい」
「うん」
うなずいてから、二人並んで、歩を進める。
(借り切りと言ってたけれど、大丈夫なのかな……)
改めて思った純子は、店先に目を転じてふと気付いた。ドアのところで、親
子連れらしき三人が、店の者と話し込んでいる。金髪が外灯に照らされ、キラ
キラと輝くのが見えた。
「お客さんが……店の人ともめているみたい」
つぶやき、隣の相羽へ問い掛けの視線を投げた。二人の足は止まっている。
「ふりのお客が入れてもらえなくて、ごねている……のかもしれないな。そう
いえば、僕らの他にも車が一台、停めてあったな。中古車のようだったから、
てっきり、あれは従業員の物と判断したけれど、短絡的すぎたかな」
相羽はしばしの逡巡のあと、先に歩き出した。純子も着いていく。仮に、相
羽の推測通りだとしたら、借り切った立場の自分達が恨まれるかもしれない。
店までの距離が縮まり、やり取りが聞こえるようになった。当然ながら、英
語だ。父親らしき、小柄だが人のよさそうな丸顔の男性が、黒っぽい制服を着
込んだ店のスタッフと、やや激しい口調で言葉を交わす。
「そこを何とか、入れてくれないか。GB社社長として頭を下げておるんだよ」
「何と申されても、本日は」「娘に約束していたんだ」「明後日以降は充分に
余裕がございますので、改めてご予約ください」「今日でないと、無意味なん
だ」……こんな具合。
(GB社といったら、割と大きな、服のメーカーだわ。あそこの社長さんなの
ね。穏やかな顔つきだから、威光をふりかざすのも板に付いてない感じ)
そこまで考えて、仕事のことが頭をかすめる。
(傾向が違うから、ルークとのつながりはないに等しいけれど、一応、挨拶し
た方がいいのかな。でも……)
父親のすぐ後ろには、母親が不安げな色を顔に浮かべ、胸の前で右手を握り
しめて、立っている。そして、その母の腰や腕にすがりつくようにして、小さ
な女の子がいた。この子の方は、不安を通り越して、泣き出す寸前に見える。
やはり、最前の想像が当たったよう。
純子は気分が重くなるのを感じた。挨拶云々のことではない。今日これまで
のクリスマスデートが、何の滞りもなく楽しく過ごせていただけに、ここで一
悶着あったら寂しい。どんな風に決着しても、後味が悪くなりそうだ。
相羽をもう一度見た。彼は、男達の会話の切れ目を待っているようだった。
「お取り込み中のところ、失礼。初めまして」
相羽はスムーズに割って入り、まずは従業員に顔を向けた。
「予約をした相羽ですが、こちらの店の御主人は?」
「相羽様、お待ちしていました。鷲宇様からも、話を伺っております。オーナ
ーシェフのリンチは只今、厨房ですが、お呼びいたしましょうか」
アジアからの混血をほのかに感じさせる顔立ちの従業員は、自然なスマイル
で応じた。
「料理の最中でしたら、呼び付けるのは遠慮しておきます。あなたから伝えて
ほしい。問題がなければ、今夜の貸し切りは返上したい、とね」
「と、申されますと?」
従業員は眉を寄せ、表情をわずかに曇らせた。相羽がすかさず付け足す。
「僕の言い方がまずかったみたいですね。キャンセルじゃありません。食事は
いただきます」
「それはつまり」
従業員の目玉が、忙しく動く。家族連れを一瞥し、また相羽に戻ってくる。
「いえ」
相羽は機先を制した。
「素敵な店を目の当たりにして、独り占めはよくないと思っただけです。とに
かく、中に入りませんか。このままだと、身体も店も冷えてしまいますよ」
「――承知しました。大変、失礼を」
身体をずらし、道を作った従業員だったが、相羽は純子の手を取るために、
一旦下がる。そして、家族連れ三人に、お先にどうぞと促した。
「ど、どうも……」
父親は戸惑いも露にどもって返礼し、それに続く母親は黙って頭を下げてき
た。そして娘は、手を引かれながら、相羽と純子をまじまじと見つめた。おか
げで、戸口のところにある小さな段差に蹴躓きそうになり、母親にたしなめら
れるおまけ付き。
三人とも着飾っているのが、店内の照明ではっきりした。ただ、女の子のピ
ンク系統の靴だけは、ここへ来るまでのどこかで、水たまりにはまりでもした
のか、黒ずんで見えた。
「お待たせ。さあ、行こう」
「うん」
相羽の気遣いに優しさを見て、純子の表情は冷たい空気にさらされたにも関
わらず、自然とほころんでいた。
店内は、大きめのテーブルが四つだけ配されていた。つまり、一度に四組の
客をお相手するので精一杯、ということなのだろう。
静かな調子の音楽が控え目に流れ、植え込みの緑が目に優しい。窓の木枠に
凝った彫り物が施されていたり、棚に並べられた小物の品々がしゃれた空気を
醸し出していたりと、落ち着いた雰囲気を作り上げる工夫が随所に見られるが、
過剰ではない。クリスマスシーズンというのに、その手の飾り付けも見当たら
なかった。唯一、教会でよく見られるような蝋燭立てが、いくつも並んでいる
のが、クリスマスらしいと言えるが、これとて普段から置いているのかもしれ
ず、断定できない。
「座り心地がよくないようでしたら、お申し付けください」
三人家族に続いて、純子と相羽を奥のテーブルに導いた先ほどの従業員――
ウェイターは、そんなことまで言った。だけど、椅子の具合はすこぶるよく、
何時間でも座っていられそうな気がした。
予約していたオーダーの確認を済ませると、程なくして前菜や飲み物が届く。
早速、グラスを合わせた。二人ともノンアルコールドリンク。
話し始めようとした矢先、はしゃぎ声が被さった。もちろん、家族連れのテ
ーブル。娘が手を叩いて何やら喜んでいる。よく見ると、子供向けのサービス
なのだろう、手のひらサイズのクリスマスツリーがあった。見た目以上に精巧
な代物らしく、ボタンを押すとライトが点滅する。
「かわいい」
顔の向きを戻して、つぶやく。相羽が聞いた。
「ツリーが?」
「ツリーも、あの子も」
再度、肩越しに振り返る。両親はシャンパン、女の子はジュースで乾杯し、
楽しげな談笑が始まっていた。
「少し、後悔してるんじゃない?」
純子が尋ねると、相羽は意味を計りかねる風に首を傾げた。
「借り切るのを取り止めたこと。わざわざ二人きりになるようにセッティング
するつもりだったんだから、ひょっとして、大事な話があったとか、ロマンテ
ィックなムードを盛り上げたかったとか」
「はは、後悔はない。楽しみが先に延びたと思えばね。ただ……」
「ただ?」
「今日、この店を利用したかったのに、予約が入っていたからあきらめた人が
いるかもしれない。そういう意味じゃ、悪いことをしたと思う」
「気にしすぎ。借り切るつもりだったと言っても、一日中じゃないでしょう?」
「それはそうだけどね」
「もうやめましょ。ごめんね、変な話を持ち出して。最近、どんな感じ? 食
べながら聞かせて」
「同期のエミール=シュナイダーって、前に話したことあるよね? 彼のテク
ニックと来たら――」
「そんな話じゃなくて、あなた自身のことが聞きたい」
純子が真っ直ぐに見つめると、相羽は戸惑いを覗かせつつ、小さく吐息した。
グラスの中を空にし、お代わりをウェイターに所望する。
「そうだなあ、僕自身はマイペースでやっていて、特に話すほどの変化は浮か
ばないけど……ああ、あれがあった」
* *
メインディッシュが終わり、デザートを運んでもらう前に手洗いのため席を
外した相羽は、戻りしな、女の子とぶつかりそうになった。女の子の方も用を
足して出て来たところで、その勢いが駆け足だったのだ。
接触はしなかった。が、女の子は驚いたのか、急ブレーキを掛け、その弾み
で尻餅をついてしまった。
「あ、ごめん」
腰を屈め、女の子に手を伸ばす相羽。人見知りしないというか物怖じしない
というか、女の子はすぐに手を握り返し、助け起こしてもらうと、「ありがと」
と舌足らずな返事をする。だが、その身振り素振りは、レディを気取っている
のがよく見て取れた。手の甲が、キスしてもいいわよとばかりに、相羽の方に
向けられていた。
「どういたしまして。失礼しました」
微笑ましくなって、相羽はそう応じると、胸元に片手をかざし、お辞儀して
みせた。と、下げた視線が、ピンク色の小さな靴を捉える。転んだ拍子に脱げ
たのだろう、踵を踏んでいる。
「失礼ついでに、靴を履かせようか? それとも自分でできる?」
「できる。けど、履かせて」
なるほど。これは単語の選択を間違ったな。自分でする?と聞くべきだった
か。そんなことを思いつつ、相羽は履かせてあげた。
(……あれ? ちょっとサイズが小さいような。それに、あまり履き慣れてい
ないのかな。硬い感じがする。水に濡れて少し縮んだ?)
その割には、濡れた感触はない。とにもかくにも、やや手間取ったが、無事
に履かせることができた。
「きついみたいだけど、痛くない?」
「大丈夫。ありがと、ありがと」
何で今度は「ありがと」が二回なんだろう。相羽が不思議に感じていると、
それが表情に出たらしく、女の子は得意げに答えた。
「今のは、靴を履かせてくれた分と、お店に入れてくれた分」
「――お店に入れたのは、お店の人の心が広いからだよ。クリスマスがもうす
ぐだからかな。そういえば、今夜はクリスマスのお祝いかい?」
「ううん」
この答は、ちょっと意外だった。相羽は、店に入る直前、もめていたときの
父親の言葉――「娘に約束」云々――を思い出した。
「じゃあ、君の誕生日か」
「それも違う」
「え……っと。すると、何なのかな」
「分かんないわ。パパが、今まで行った中で、一番美味しかった店はどこだっ
て聞くから、ここって答えといたの。そうしたら今日になって、いきなり」
女の子の話が途切れた。母親が席を離れ、やって来たのだ。
「すみません。長々と話し込んでしまって」
相羽もさすがに慌てて、すかさず言うと、軽く頭を下げる。幸い、母親も怒
っているわけではないようだ。その証拠に、上品な笑みを絶やさないでいる。
テーブルの方を一瞥すると、父親は顔を赤くして、やはりにこにこと上機嫌の
様子だ。きっと、これまでの経緯を見ていたに違いない。
「いいえ。こちらこそ、娘が失礼を。若いのに礼儀正しくて、感心して見てい
ました。どちらのご出身?」
「日本です」
「まあ。それでは、もしかすると、お連れの方は、ファッションモデルのミウ
さんではありません?」
相羽は少しの間だけ考え、結局、肯定した。
「ご存知でしたか」
「もちろんですわ。夫は服飾の仕事をしておりましたし、私の従兄弟はミラノ
でデザイナーをしています。私も殊更、興味を持っています」
「よかった。一般の方にも知られるほど、彼女がこちらで有名人になってしま
ったのかと、不安がよぎりました」
「注目されているのは、間違いありませんわ。私自身、ミウのファンですもの。
生では観られませんでしたけれど、テレビの方で」
微笑む相手の目が、水平方向に微妙に動いた。相羽がそちらを振り向くと、
こちらに歩いてくる純子の姿を捉えることができた。若干、心配げに眉を寄せ
ているのは、待ちかねたのか、それとも会話の内容が気になったのだろう。
「どうかしたの?」
耳打ちするときのようなボリュームで、尋ねてきた。
「こちらの方が、君のファンだって言うから、びっくりしていたところ」
「え、そうなの」
相羽が教えると、純子は急ぎ気味に、相手の女性に目礼した。
「お目にかかれて光栄ですわ。舞台の上だと、大きく見えますね」
「そうですか? どうもありがとう」
自然と笑みがこぼれる純子。まだ話し足りない気分だったが、母親が来たせ
いか、女の子は急に戻りたがり出したため、ここで切り上げて、元のようにテ
ーブルに着く。
デザートを運んでもらってから、またお喋りを始める。
「段々、知られてきたね。最近、こっちの舞台に立ったのは、いつだった?
確か、都合がつかなくて、二時間ほどしか会えなかったとき……」
「だいたい半年になるわ。さっきの人が言ったのは、多分、これのことね。ふ
うん、テレビで流れたんだ」
「会場にカメラ、あったでしょ。集中力の賜物かな。気付かないなんて」
「あのときは、仮面舞踏会みたいにマスカレード着けて、何だか気持ちよかっ
た。顔を隠せば、普段よりリラックスしてできるはずなんだけど」
「ついでに聞いておこうかな。次の予定は?」
「なし、と言うよりも、未定よ。だって、これからオーディションを受けて回
らなくちゃ」
「まだオーディションで採否を決められるのか。厳しい仕事だな」
「いいもん。おかげで、こうしてあなたと会えるチャンスがたくさん」
「大学の方は、休学したんだっけ」
「今年はしないつもり。あっ、今度こそ、案内するからね」
話は尽きず、そのせいで、デザートの一部、アイスクリームがだいぶ柔らか
くなってしまった。それに気付いたのは、二人とも、ずっとあとだったけど。
* *
時間の都合で、相羽と純子が席を立ったのは、午後九時ちょうど。親子三人
は、まだいるようだ。
純子達が軽く頭を下げて、横を通り過ぎようとしたら、父親がわざわざ立ち
上がって、ふらつきながらも返礼してきた。
「今夜は、どうもありがとう。おかげで、よい晩餐が楽しめました」
「お店の人に言うべき言葉でしょう」
「もちろんそうでしょうが、私は、あなた方にも言わずにいられない気分なの
ですよ」
怪しい呂律ながら、父親は感謝の意を表した。真っ赤な顔になるほど酔って
いるようだが、乱れたところはない。
「こんな、最後になって、親切を受けるとは、本当にいい夜だ。妻も、お気に
入りのモデルさんと巡り会えて、喜んでいるし、ルーシー……娘は娘で、あな
たのことを気に入ったらしい」
「東洋の紳士さんっ、素敵だったよ!」
背もたれを抱えるような格好で座るルーシーが、相羽に手を振った。
相羽は何とも言えない微苦笑を浮かべ、手を振り返す。
「おっと、これ以上、お引き留めしちゃ悪いですな。ほんのちょっと早いが、
メリークリスマス」
「メリークリスマス。ご縁があれば、またお会いできるでしょう」
すでに充分、心地よかったのが、なお一層、晴れやかな気分になれた。純子
と相羽は、来たときと同じように、手を取り合って店を出た。
車に乗り込むと、相羽は暖房を入れた。だが、すぐに発進させようとはしな
い。
「どうかしたの?」
ハンドルに両手を乗せ、やや前屈みになって考え込む様子の相羽を、純子は
横から見つめた。しばらくして、相羽が振り向く。
「……少し、予定より遅れていいかな」
「いいけど……何か」
相羽の表情が、やけに難しいものになっていると気付く。気分よく店を出た
純子は、相羽も同じだろうと信じて疑わなかったのだが、どうやら違うらしい。
「社長さん、帰りはどうするつもりなのかな」
「え? ああ、飲酒運転ね。それはよくないけど。奥様がするんじゃない?」
「二人とも、よく飲んでいたよ」
「じゃあ、車を置いてタクシーか、代車サービス……」
「この辺りは結構、外れだから、呼んでも時間が掛かるだろうね。そもそも、
今言った手段を執るなら、最初からタクシーでここに来ればいいと思う。ある
いは、部下の人に運転させることだって、社長さんならできたはず」
「それはやっぱり、家族水入らずで団欒を楽しみたかったんじゃない?」
「部下の人が同席する必要はないよ。送り迎えさせればいい」
悉く否定され、純子は黙り込んだ。考えてみても、最早手詰まり。はっきり
言ってほしいと頼んだ。
「まだ判断しかねているんだ。携帯電話で、GB社についてどれほど調べられ
るか……。悠長にしていられないし」
「分かんない。心配事でもあるの?」
「店で、あの女の子とぶつかりそうになったあと、あの子の靴に触れる機会が
あった。全体的に黒ずんでいた」
「それがおかしいって? そりゃあ、あれだけおめかしした子が、靴だけ汚れ
ているのはアンバランスだけれど、ここに来るまでの間に、汚したかもしれな
いじゃない」
「靴は乾いていた。どちらかというと、長い間、埃を被っていた靴を引っ張り
出してきたって感じだったよ。社長さんの家で、そんなことってあるだろうか」
「それは……ルーシーちゃんが履きたがっただけかも。履き慣れているとか、
思い入れの強い靴とか。色々考えられるわ」
「履き慣れた靴にしろ、お気に入りの靴にしろ、あんな汚れ方は不自然だよ。
かといって、お祝いの食事の席に、わざわざ汚れた靴を履いてくることもない
だろう。多分、あれが一番いい靴なんじゃないかと思う」
「まさか。信じられないわ」
「僕の推測が、仮に当たっているとしよう。すると、派生して二つの考えが浮
かぶ。あの父親が社長だというのは嘘か、あるいは社長だが見た目ほど裕福で
はない。このどちらかだと決め付けるのは乱暴かもしれないけど、可能性は高
い」
「嘘をつく理由がないわ。それ以前に、あの三人は何度か店に来たことがある
様子だったわよ。お店の人も、社長さんだと認識してるみたいだった」
「そう。だから、あの父親はかつて社長であったが、今現在、あまり裕福では
ない、と見なしていいんじゃないか」
「それこそ乱暴な仮説よ」
「GB社というのは、服飾メーカーか何か?」
「ええ、そうよ。知らないで聞いてたのね」
呆れつつも、教えてあげる純子。相羽は一度うなずき、質問を重ねた。
「本業以外に、何かやっているという話は聞いたことある?」
「GB社が? ううん。もちろん、周辺の仕事には手を広げているみたい。生
地の仕入れや、繊維、染料の開発かな。でも、メインは服飾よ」
「GB社という会社自体は、まだ存在してるよね?」
「当たり前よ。倒産の噂なんてまったく聞いたことないわ。どうしてそんな話
になるの?」
「僕が、奥さんとも話していたのを、覚えてる?」
「もちろん」
急な話題転換に感じられたが、純子は大きく首肯した。相羽は前方を向き、
フロントガラスの外へ視線を投げながら言った。
「会話の中で、奥さんは『夫は服飾の仕事をしておりました』という意味のこ
とを言った。僕はちょっと引っかかった。何故、過去形なんだろう?と」
「……奥さんの癖じゃない? つい、過去形を使ってしまうような」
「どうかな。この話に続けて、『従兄弟はデザイナーをしています』と言った。
そう、現在形。どう思う? 僕の聞き間違いならいいんだが」
相羽のヒアリング能力からして、聞き間違えた可能性は極端に低い。あの母
親が、現在形と過去形を使い分けたと考えるべきだろう。恐らく、無意識の内
に。
「すると、どうなるの……?」
「会社がなくなったのか、社長の職から追われたのかは、分からないが、今は
社長でないことになる。にもかかわらず、今夜、社長と称した。単なる見栄か
もしれない。だが、あそこまで痛飲していたのは気になる」
「勇退したのよ、きっと。言ってみれば、会長みたいな立場なんじゃない?
これなら、社長って名乗ってもかまわない。ね?」
「会長的立場にある人とその家族が、あんな中古車に乗って来る?」
斜め前方にある車を、目で示す相羽。明かりに照らされたそれは、どことな
くくすんで映った。
「あの人達の車とは限らないんじゃあ……」
「徒歩で来るとは思えないから、あるとしたら、タクシーもしくはお抱え運転
手に送らせたことになるよね。店先で一家とウェイターが揉めていたことから
考えて、その車は、僕らが着く少し前にここを出発したはず。でも、ここに通
じる唯一の道を通ってくる間、僕らは一台の車ともすれ違わなかった」
「――エージェントの人に聞いてみる。GB社のこと、何か知ってるかもしれ
ない」
純子は携帯電話を使って、エージェントに電話を掛けた。呼び出し音が焦れ
ったく感じた。
* *
自分達が店をあとにしてから、十五分ほどが経過していただろうか。
店から出て来た三つの影が、いささかおぼつかない足取りで、駐車場の方に
向かう。脇に立つ外灯のスポットライトの真下にいた相羽は、気付いてくれる
のを待った。が、素通りされてしまう。
仕方がない。声を掛ける。
「先ほどはどうも」
そんなに大きな声を出したつもりはないが、家族連れの三人を驚かせるには
充分だったらしい。特に、母親はびくりと肩を震わせるのが、遠目にも見て取
れた。
「あ……さっきの。どうも」
父親が応対する。台詞が単語の断片であるのは、酔いのせいかもしれない。
「お待ちしていました」
相羽は小走りで近付き、白い息を吐いた。待っていたと言われて、意味を解
しかねたのだろう、相手の顔が怪訝な色に染まる。
「何か。ああ……車、トラブル? バッテリー?」
「そうじゃありません。車は、少し関係ありますけどね。差し出がましいので
すが、少々、お酒が過ぎているようにお見受けします」
「確かに」
自覚はあるらしい。
「よろしければ、僕らの車で行きませんか。お送りします」
「何?」
「――ルーシーちゃん」
相羽はいきなり、女の子に話し掛けた。眠たげに目をとろんとさせていたル
ーシーだが、呼ばれてしゃきっとする。
「僕の車を見たくない?」
「車?」
「うん。ボックスタイプで、結構広いんだよ。暖房が効いて、充分暖まってい
るし」
「見てみたい。でも、パパとママも一緒じゃなきゃ」
「そうだね。ただ、パパと二人だけで話がしたいんだ。だから、少しだけ時間
をくれるかい」
「それくらい、いいわよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、ママと一緒に、あっちの車で待っていて」
ルーシーの興味を引いたあと、母親に顔を向け、目でお願いをする。幸い、
察してもらえたようだ。「分かりました」と言うと、母親は娘の手を引き、純
子の待つ車を目指し、歩き出した。
やがて母娘の姿が、車の中に消えると、残った二人は改めて向き合った。
「寒さは大丈夫でしょうか? 明日以降に差し支えがあっては、僕としても申
し訳ないですから」
相羽は、「明日」にアクセントを置いた。
「……確かに、厳しい寒さだな。だが、いい。どうやら、悟られたようだ」
男の表情は強張っていた。
「何故、分かったのか。いや、そんなことはどうだっていい。これは、生きろ
という天の思し召しか? クリスマスの奇跡か?」
「そう考えることで、受け入れてくれるのでしたら、異存ありません」
「そうだな……少なくとも、妻や娘まで巻き込むことはない」
「あなたもです、ストームさん」
すかさず、言葉を差し挟む。相手のストームが、意外そうに目を見開いたの
は、名を呼ばれたためだけではあるまい。相羽はさらに穏やかな口調で、だが
力強く言った。
「すみません。少しだけ、調べました。GB社の前社長のディオン=ストーム
さんですよね?」
「ああ、そうだが」
「僕は事情を知りませんし、知ったとしても力になれない可能性が高いでしょ
う。でも、これだけは言える。自ら命を絶つのだけは、やめてください」
「仕事で、裏切られた。それでもか?」
噛みしめ、吐き捨てられたその台詞。相羽は、そこに込められた感情――情
念を読み取ることができた気がした。
「……信頼していた人に、裏切られたんですか」
「そうだ。手ひどい裏切りに遭って、多大な損害を蒙ったばかりか、責任を問
われ、地位を追われた。今や私は無職で、借金まみれで、私自身の信用も失っ
てしまった。何より堪えたのは、人間まで離れていったことだ。部下も、他社
の取締役連中も、付き合いのあった連中のほとんどは、私が社長でなくなった
途端に、距離を置くようになった。私はその程度の男だったのかと。これでも
絶望してはいかんか?」
「たとえ絶望しても、死を選ぶことではない、と思います。仕事について、僕
は何も分かりませんが、周りから人が離れていったのは、あなたのせいじゃな
いでしょう? 離れていった人達こそが、その程度の人間だったんです。その
証拠に、今でもあなたの周りにいるのは、多分、みんな素晴らしい人達ばかり
のはず」
相羽の言葉で、ストームは過去を振り返ってみたのであろう。暫時の沈黙の
後、やがて、憑き物が落ちたみたいに表情が和らぎ、「そうだな」とつぶやい
た。そして身震いをすると夜空を見上げ、手をこすり、二の腕を抱く格好をし
た。
「この寒さで、酔いが、いや、悪い夢から覚めたようだ」
「冬に感謝しなければいけませんね」
ストームと相羽の間に、ほんの少しだが、笑みが生まれた。
* *
前年のクリスマスシーズンから、およそ五ヶ月後、ディオン=ストームの興
した通信販売会社は、ファッション関連商品に特化したことで注目を浴び、軌
道に乗った。
そのカタログのモデルとして、ミウが一役買ったことは、ちょっとした驚き
を持って迎えられた。どんないきさつがあったのか、事情を知る者は少ない。
――『そばにいるだけで 〜 消えないキャンドル 〜 』おわり
#50/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 02/12/17 23:16 ( 21)
詩>万華鏡 $フィン
★内容
今日も地下に降りて
万華鏡を眺めてみた
頭上には白い光に溢れ
地下では薄紫の闇に消える
何百何千もの鏡がよりそい
違った姿のわたしが見える
そこは
公園の中のようでいて
図書館のようでいて
博物館のようでもある
彼らは
子供であり
大人であり
男であり
女でもある
いろいろな姿のわたしがいる
ああ、こんなにもわたしがいるのに
本当のわたしはどれなのだろうか
わたしのそんな問いに
万華鏡は何も答えることなく
ただ姿を映しているばかりである
#51/569 ●短編
★タイトル (CWM ) 02/12/31 23:19 (389)
お題>書き出し限定>最初の物語 憑木影
★内容 03/01/04 01:45 修正 第3版
ここには頭がなかった。あるはずのものが、あるべき場所にないのは、なんだか気
持ちが悪い。
こことは、もちろん首の上である。
それ以前に首都高速の上、黒馬に乗って出現するっていうのも大抵非常識だ。まし
てや、首を腕にかかえられてもなあ、という感じ。
「ちょっと、じゃまよ」
私は、馬上の騎士に声をかける。その騎士は夜の闇のようなマントを身に纏い、腰
には長剣を下げていた。漆黒のマントの下は鎖帷子のようだ。一体、深夜の首都高速
で何をするつもりなんだか。
腕に抱えられた頭が、口を開く。
「冥界にいるそなたの母親から伝言を預かった」
地の底から伝わってくるような声とはこれのことだろう。私は肩を竦める。
「忙しいから手短にね」
私のそっけない言葉に気を悪くした様子もなく、首無し騎士は重々しい声で伝言を
伝える。
「今からかかってくる電話にはでるな」
そう言い終えると、馬体を翻し駆けてゆく。本来高位の霊的存在なのだろうけれど、
こんなくだらない使い走りに呼び出されるなんて、とんでもない迷惑なのだろうと思
う。これじゃあまるでポストペット並の扱いだ。
騎士は、闇の中へと消え去っていった。とたんに結界が消滅したのか現実が戻って
くる。
クラクションを鳴らしながら私のそばを車が通りすぎてゆく。まだ、真夜中を少し
過ぎたくらいなので、結構交通量が多い。
この時間帯の首都高速で、路肩に車をとめて道端に立っている女なんて、迷惑その
ものだろう。私はハザードランプをつけて停車している愛車に乗る。私の愛車、真紅
のアルファロメオのエンジンをかけた。
ギアを繋ぐと、無理やり車の流れに突っ込む。抗議のクラクションが鳴ったが、無
視してアクセルを踏みこみスピードをあげてゆく。
私は五秒間だけ魔法が使える。
どうやら、私には魔女の血が流れているらしい。母親はもう死んでしまったし、父
親は行方知れずなので詳細は定かじゃなけれど。
そのせいで、色んなものが見える。さっきの首無し騎士とかはまだいいほうだ。も
っと邪悪なものも含めて、色々なものが見える。
携帯電話が鳴った。反射的に出てしまう。
「はい、榊原です」
そういって思わず舌打する。さっきの首無し騎士は全く無駄足になった。今から切
ろうかと思って電話を見る。その時、声が聞こえた。
「真夜子か」
ボスの声だった。うげっとなる。
「勘弁してください」
「まだ何もいってない」
フランスに十年間留学していたのが自慢のインテリ親父は、冷静な声で言った。
「頼みたいことがある。原稿をもらってきて欲しいんだ」
私は鼻で笑う。
「なんで私がそんなこと」
「真夜子、君だけが頼りなんだ。落合えびねの最新作なんだよ」
私はぎょっとなる。落合えびねといえば『最後の物語』というミリオンセラーの作
者だ。
『最後の物語』は、ボスの出版社が出している。確か『最初の物語』という続編も出
すことになっていたはずだ。
「それってもしかして」
「そう。『最初の物語』だよ」
私は背筋がぞくりとした。落合えびねはプロフィールは一切明らかにされていない。
判っているのは多分、女性なのだろうという話くらいだ。
『最後の物語』は、いわゆるファンタジー小説らしい。落合えびねは現代のミヒャエ
ル・エンデと呼ばれる。そいう作風なのだろう。
私はえびねの作品を読んだことはないのでよく判らないが、えびねの作品には全て
があるといわれていた。
望むもの全てが。
あらゆる読み手のあらゆる望みが。
なぜ、そんなことが可能なのかよく判らないが、そういうことらしい。
それにしてもなぜ『最後の物語』の物語の続編が、『最初の物語』なのかよく判ら
ないけれど、出版されれば大変に売れるであろうことは間違い無い。
「で、どうして私が?」
「攫われたんだ、落合えびねが。原稿は彼女が持ったままだ」
「それって警察の仕事でしょ?私にどうして欲しいんですか」
ボスはため息をつく。
「判りやすくいおう。これはある意味狂言誘拐なんだよ」
「全然判りやすくないですけど」
「落合えびねは、実は女子高生なんだ。彼女には、あまりよろしくない友人たちがい
る。彼女は、若くしてとてつもない才能を持ったせいか、なんというか倫理的にいか
れている。彼女の素性をオープンにしないのもそのへんがあるのだが。そのあまりよ
ろしくない友人たちは彼女の原稿の価値を知っている。ただ彼らはあまり頭がよくな
いし、組織力もない。色々な手を打つことはできるが変に騒ぐと落合えびねの素性が
明るみにでてやっかいなスキャンダルになる。穏便にことをはこびたい。金は使いた
くないけどな」
私はなんとなく判った。
「落合えびねは友人に協力しているの?彼女にはなんのメリットも無いどころかリス
クばかりなのに」
「えびねが何を考えているかなんて判らない。というより、常軌を逸したところがあ
るからな、彼女は」
私はため息をつく。
「で、何をしたらいいんですか」
「とりあえず、ネゴシエーターの役をやってくれればいい。君には君の色々なコネが
あるだろう。それを使ってくれ」
ふーん、と私は言った。少し間をおく。居心地悪そうにボスが咳払いする。
「私ぃ、これからデートなんですけれど。クリスマスでしょ、今晩」
「引きうけてくれれば、君がやりたがっていたあの連載、やらしてあげよう」
「受けなかったら?」
「今後の付き合いは無いものと思ってくれ」
やれやれと思う。
「どこにいけばいいですか?」
私はまず首都高速を降りた。
とりあえず、電話をしなければならない。
私はフリーのライターだ。ろくでも無い記事専門の。たとえば、いかがわしい風俗
ビジネスとか猟奇犯罪だとか心霊スポットだとかのレポートなんかが主な仕事だ。も
うかれこれ10年近くそういう仕事をやっている。
そうした仕事だけでは、大して金にならない。
女も三十年近くやっていると色々金も入用になるものだ。
だからもう少しいかがわしい仕事もやっている。
いかがわしいというか、占い師なのだが。
さっきも言ったように、私は五秒間魔法が使える。それは私に見える幻覚を、他の
人にも五秒間だけ見せられるというものだ。これを使ってろくでも無い悪霊を見せ、
それを祓うショーみたいなことをする。
人によっては物凄くありがたがって、大金を払うこともあった。で、そっちのビジ
ネスのクライアントには裏の世界の人やら表で有名な政治家やらもいる。ボスのいう
私のコネとはそれだ。
そんなコネがあってもトラブルの解決には役にたたない。しかし、使える友人もい
ないことはなかった。
まずボーイフレンドに電話する。結構あっさりとデートの延期を了承した。それは
それで気に入らない。やつとはこれまでだな、と思う。
次にルドルフのところだ。
本当かどうかよく判らないが、ルドルフは昔GSG9に所属していた、そしてSA
Sで訓練したこともある傭兵らしい。タイで華僑相手のビジネスをやっていたが、景
気がよくないので日本に来たと言っている。
自己申告なので本当かは怪しい。彼は私が魔女であることを知って心酔し、私の僕
となった。彼は狼男(これも自己申告)なのだそうだ。
「はい、どなた?」
「私よ、真夜子。今何やっているの」
「何っていうか、録画しておいたギャラクシィ・エンジェルを見ようと思って」
「ビデオの電源を落としていますぐきなさい」
ルドルフはなぜか日本のアニメのファンである。この不景気真っ盛りの日本へわざ
わざきた理由は、そのあたりに真相があると思っていた。
私はルドルフに待ち合わせの場所を指示する。
ルドルフは口笛をふいた。
「やあ、真夜子。素敵な格好だね」
私は毛皮のコートの下は、赤いナイトドレスだったのを思い出す。何せデートに行
く途中だったのだ。慌ててコートの前を合わせる。
ルドルフは相変わらず見た目だけはいい男だった。金髪に碧眼、少し痩せすぎな感
じもあるがもう少し背が高ければモデルでも通用しただろう。
残念ながら身長は170センチ程度なので私と大して変わらない。スタイルがまた
軍用のハーフコートにジーンズ姿なので地味そのものだ。
「実はデートの誘いなの?」
「そうよ。あんたの車は?」
ルドルフは路肩に止めているインプレッサのドアをあける。WRXを改造してわざ
わざノーマルのボディを乗っけているという変な車だ。そんなことをしてもサスもタ
イアもエンジンもチューンしているのだから、どうしたってノーマルに見えるはずが
ない。
ルドルフにそういってやるといつも美学が判ってないといわれる。
「それにしても、何で日本車なのよ、どうしてアルファロメオじゃないの」
「FFじゃないか。真夜子、君も日本人ならスバルの技術を認めるべきだよ」
「アルミで車造るなんて、馬っ鹿じゃない」
ルドルフは肩を竦める。
「で、どこいけばいいの?」
ハンドルを握ったルドルフが問いかけてきた。
私はえびねのいるクラブの場所を説明する。ざっと状況も説明したが、興味なさそ
うだ。
これがアニメのセル画とかなら気合も入るところなのだろう。
インプレッサはチューンドらしい轟音を響かせながら夜の街を疾走する。サスが硬
いので乗り心地は最悪だった。シートもノーマルのものをとっぱずして軽量のものに
変えているから実に座りごこちが悪い。
目的地につく。
毛皮のコートに真紅のナイトドレスの女と、軍用ハーフコート姿の外人という実に
珍妙なとりあわせだったが、クリスマスの夜に外人にひっかかった馬鹿女とも見れた
ようでそれほど奇異に思われずすんなりクラブへ入った。
でかいところだ。
まるで、倉庫のようにでかい。
しかも暗い。そして轟音。低音の刻むリズムは、巨大な生き物の心音のようだ。
冥界の幽鬼のように若い子たちがゆらゆらと踊っている。
私は何かの気配を感じて天井を見た。
龍だ。
巨大で漆黒の龍が天井でまどろんでいる。
物凄く巨大だ。この大きなフロアの天井一杯に張り付いている。頭の先からしっぽ
の先まで百メートル以上あるんじゃないだろうか。
龍は、激しいビートを聞きながら心地よさそうにまどろんでいる。龍のくせに音楽
の趣味が悪い。
龍はにゅうっと首を私の前に伸ばしてきた。
『おまえに音楽の趣味をうんぬんされるいわれはない』
龍は凄まじい轟音となっている音楽に負けない、雷鳴のような声でいった。
「あーら、そう。こんなところでひまそうねえ」
『愚かな女だ。なぜヘッドレスの警告を聞かない』
「ヘッドレス?あの首無し騎士のことね。夜中の首都高に馬にのって現れる馬鹿のい
うことなんて聞くいわれは無いわよ。あんた、名を名乗りなさい」
龍は鼻で笑った。炎のような吐息が渦巻く。
『愚かな魔女に従うものか』
龍は威嚇するように巨大な口を開く。私なら三人くらい入りそうだ。牙は刀のよう
に鋭く長い。
私はポケットからバタフライナイフを出すと手のひらを切る。おい、と後ろでルド
ルフが慌てて止めようとしたが、私は血を龍の口に放りこんだ。
龍は、ごうっ、と咆哮して口を閉ざす。
「遅いよ、馬鹿。もう血の契約はできた」
龍は悔しそうに語る。
『我が名はイムフル』
「馬鹿は君だ。真夜子。何やってる」
私はナイフをおさめる。ルドルフには当然龍が見えていない。何をやったか判らな
いだろう。
私の前から人が引いていた。頭がおかしい女と思われたのだろう。半径3メートル
の円ができてしまっている。私はいごこちが悪くなって、咳払いをした。
髪を金髪に染めた屈強な体格の黒服が私の前にくる。
「あんた何か勘違いしているんじゃないか」
ルドルフはその男の手首をとると、あっさり腕関節を極めた。黒服はうめく。
「ねえ、私、落合えびねに会いたいの」
「しらねえよ、そんなやつ」
黒服の言葉にルドルフは極めた腕をさらにしぼる。黒服は慌てていった。
「奥のVIPルーム」
私たちは黒服の示したVIPルームへ向かう。ルドルフは、黒服の肩関節をはずし
て後に続く。黒服は苦鳴をあげて蹲った。
VIPルームの前につく。
私たちの前に、でかい黒人の男が立ちふさがる。
背が2メートル級で、胴も分厚い。ボブ・サップなみだ。ルドルフと並ぶと大人と
子供くらいの差がある。
「出版社の人?」
黒人は予想以上に流暢な日本語で言った。
「そうよ」
「金はあるの?五百万っていったはず」
「はあ?」
私は耳が遠い老人みたいに聞き返す。
「あんた馬鹿あ?」
黒人は私に手を伸ばす。ルドルフがその手を取りながら、黒人の膝関節に蹴りをい
れた。
右膝が脱臼する音がする。
そのままとった手首の関節を極め、黒人を投げた。投げながら肩の関節もはずす。
黒人はうめき、おびえた目でルドルフを見た。
ルドルフは、すばやくそのこめかみに蹴りをいれる。黒人は気を失った。
安心して様子を見ていたもう一人の黒服が慌てて私たちの前に入ろうとする。
ルドルフは、ガーバーのフォールディングナイフを抜くと、黒服の前で構えた。黒
服はたたらを踏む。
ルドルフは急に変な外人口調になって言った。
「私、これから家に帰って、シスタープリンセス見ないといけませぇん。急いでまあ
す。だから手加減できませえん。殺しちゃうかもお。ユーシー?」
どう考えてもいかれたやつである。黒服はびびって後ずさった。私だってこんなや
つに近づきたくない。
ルドルフはVIPルームのドアに手をかける。
「レディファーストで」
ルドルフはドアを開いた。私は部屋に入りながら言う。
「なぜラブレスじゃないのよ」
「ガーバーの何が悪い」
私の突っ込みに憮然としながら、ルドルフは後に続く。
VIPルームに一人の少女がいた。
学校の制服らしい紺のブレザーに同色のスカート姿だ。紅いタイを締めていた。
まるで人形のように足を揃えて座っている。
そして、整った顔立ちからは何も感情が感じられない。
「こんにちは、えびねちゃん。私は榊原真夜子。そして、こっちにいるのが」
「何を言っているの?」
えびねは冷然と言った。
「あなたは一人よ。そこには誰もいない」
私は傍らを見る。そこにルドルフの姿は無い。
私はぞくりとするものを感じ、えびねのほうを向く。
そこは、病室だった。
えびねはベッドの上に座っている。
病院が支給するガウンを羽織っていた。
「これは、どういうこと」
私は眩暈を覚える。私の言葉にえびねは十代の少女とは思えないような厳然とした
声で答えた。
「どういうも何も、私たちは同じ病院の患者でしょ。幻覚でも見たの真夜子さん」
私は自分の姿を見る。同じように、病院支給のガウンを羽織っていた。私はえびね
を見る。えびねはサイドボードにおかれた原稿用紙の上に手を置いていた。
「あなた、これが欲しいんでしょう」
えびねは相変わらず年齢と合わない、冷酷な裁判官の口調で語る。
「私があの人に聞いた物語。いいわよ。持っていきなさい」
私は激しい眩暈を感じていた。そして、心臓が痛いほど高鳴っている。私の心の中
で誰かが叫ぶ。
(いけない。それを受けとっては)
「あの人って」
私は息が苦しくなっていた。口を開いても全く空気が肺にいかない感じだ。私は無
理やり声を絞り出す。
「誰なの?」
えびねは、くすりと笑う。その少女らしいしぐさが全く似合わない。
「あなただって知っているじゃないの、真夜子さん。あの人よ」
えびねは窓を指差す。
私は恐ろしい予感に震えながら、窓に近づく。
汗が額から滴り落ちて行く。
窓の外。
そこには壮大な荒野が広がる。
荒れ果てた紅い大地。
木も草もなく。
全てが灼熱の炎で焼き払われた後のような。
そして、荒野には十字架があった。
巨大な十字架。新都庁くらいのスケールはあるだろうか。そして、その大きさに相
応しいサイズの巨人が磔にされている。その胸には槍が刺さっていた。
巨人は胸から血を流し、茨の冠をした額からも血を流している。
恐ろしい。
巨人が。
私のほうへ。
頭を向ける。
その瞳が私へ。
向けられる。
私は悲鳴をあげるため、口を開けた。
突然、ぽんと何かを手渡される。
原稿用紙だった。
表紙にこう書かれている。
『最初の物語』
えびねは、微笑む。
「さあ、持っておいきなさい」
私はその笑顔が恐ろしく、また悲鳴をあげそうになる。
「おい」
いきなり、ルドルフに肩を掴まれた。
そこはクラブの中だ。いつのまにか、VIPルームの外に出ていた。手の中にはち
ゃんと原稿がある。
「やばいよ、これ」
私たちの前に、特殊警棒を構えた黒服たちがいた。それ以外に、金髪で鼻にピアス
をしたような子供たちも、鉄パイプや金属バットを構えて立っている。
その数は二十人ほどか。一般の客は皆帰ってしまったらしく、物騒な目つきをした
子供たちだけが残っている。それもいれれば全部で三十人。
「しかたない」
ルドルフがため息をつく。
「道具を使うよ」
「なめないでよ」
そういうと、私は一歩前へ出る。黒服の一人が言った。
「原稿を置いていきな。交渉する気があるなら、命はとらない。今なら一千万で」
「我が血の契約を果たす時が来た!」
私は全身の力をこめて絶叫した。子供たちが苦笑しながら、ちょっと引く。
「黒き龍、イムフル。我らの前へ真の姿を現せ!」
五秒間。
パニックを起こすには十分だった。
天井から巨大な龍が降りて、咆哮する。クラブの中を凄まじい暴風が走りぬけた。
硫黄の焦げる匂いが漂い、細かな雷が部屋を飛び交う。
所詮は子供たちだった。絶叫を上げながら、あとずさってゆく。腰を抜かして床を
這いずるものもいた。
僅か五秒。
しかし、子供たちの心には、一生消えない傷が残るだろう。
私たちは子供たちの間を駆けぬけ、クラブを飛び出す。インプレッサに乗って走り
出すまで、一分とかかっていないだろう。
急発進したインプレッサに驚いて尻餅をついた人が数人いたが、轢いたわけじゃな
いので問題無い。インプレッサは夜の街を疾走する。
後はボスに原稿をとどけるだけだ。
「さすがだなあ、真夜子」
ルドルフは素直に関心しているようだ。おそらく魔法を使わなくても、あの状況な
らルドルフはなんとかしたとは思う。ただ、二度と私たちに関わらないようにするに
は心に傷を残してやるのが一番だ。
「まあね」
そういいながら、私はえびねのことを考える。彼女も魔女らしい。私とは比べ物に
ならない力を持った。ではこの原稿には、なんらかのルーンが込められているのだろ
うか。
やばいのかもしれない。
なるほど、冥界から母が警告をよこすわけだ。
でも、私の知ったことではない。
インプレッサは止まった。ボスが待つ出版社の百メートルほど手前だ。
「じゃ、ありがとねルドルフ」
そういってインプレッサから降りようとする。
突然。
こめかみに拳銃がつきつけられる。
CZ75。
ルドルフは元GSG9に相応しい正確さでそのハンドガンをホールドし、私の頭に
ポイントしている。当然セーフティは、はずれていた。
ルドルフはハンターが獲物を見る目で、私を見ている。何の感情も無い、殺しにな
れきったものの目。
「ちょっと」
私は言った。
「なんでベレッタ93Rじゃないのよ」
ルドルフは、舌打ちする。
「あれは、ハリウッドスターの持つ銃だ」
「じゃあCZ75は誰が持つわけ?」
「ガンスミスキャットの主人公」
「馬っ鹿じゃない。CZ75なんていんちきじゃん」
「馬鹿言え、世界一の銘銃だ」
ルドルフはため息をつく。
「原稿を置いていけ。そしたら、トリッガーを引かない」
「もしもーし、脳みそさん起きてますかー」
ルドルフは表情を変えない。
「君がその原稿を受け取ったときの顔を見た。それがどれほど危険なものかは、理解
しているつもりだ」
ふう、と私はため息をつく。
毛皮のコートを脱いで真紅のドレスを顕わにする。
「そういうの僕には無意味だよ」
「二次元の女の子のほうが好きなんでしょ。判ってる。でも、あんた好い男よ。キス
してよ。そしたら、原稿を渡すわ」
「馬鹿言え」
「本気」
ルドルフは一瞬ためらったが、CZ75をうまく頭にポイントしたまま、すばやく
キスする。ルドルフの口から血が垂れた。
「どう、私の血の味」
「血の契約?意味ないね。契約で僕の真の名を知り、真の姿を見ることはできるだろ
うが、それだけだ。君の魔法は意味が無い」
「真の名は?」
「ヴォルフガング。さあ、はやく原稿を」
私は厳かに命じた。
「ヴォルフガング、真の姿を私に現しなさい」
五秒間。
黒い狼がインプレッサの運転席に座っていた。
狼の前足ではCZ75は撃てない。私はCZ75を拾うとルドルフの額にポイント
する。元の姿に戻ったルドルフはため息をつく。
「馬鹿だね、君は」
「おたがいさま。シスタープリンセスがお家で待ってるよ。はやく帰りなさい」
私はインプレッサを降りる。
そのまま出版社を目指して歩く。会社のビルの前で、CZ75をごみ箱に叩きこむ。
ビルの玄関に立つ。
一瞬そこが病院のように感じられた。
私は病院のガウンを着て。
そして、
私は首を振って、イメージを振り払う。
扉を開いた。
#52/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/01/03 23:28 ( 1)
虫けら 永山
★内容 23/02/28 21:01 修正 第2版
※都合により、非公開風状態にしています。
#53/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/01/06 22:00 ( 1)
一月の事件 永山
★内容 23/01/08 03:29 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。
#54/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 03/01/16 20:04 (249)
『P』 舞火
★内容 03/01/16 20:12 修正 第2版
仕事始めの日、と言っても、毎年代わり映えのしない社長の訓辞以外は、いつもと変
わらない。
と思っていたけれど……。
営業二課の部屋の片隅で、本日最後の電話をおいた来生は、はふっと小さくため息を
吐いた。
年始の挨拶がてら電話をかけた得意先の担当者が意外にも休みが多かった。
会社自体はやっているのだが、休みを取っている者が圧倒的に多いのだ。
……みんな暇なのかなあ……。
今回の年末年始の休みは、きっちり土曜から日曜までのカレンダー通り。来生自身、
前後に休みをひっつけて伸ばしたいと思ったのだから、それを実行した人達も多かった
ということだろう。
それに。
と、部屋をぐるっと見渡せば、来生の課も空席が目立つ。
七人分の机が三つも空いている。勤怠を記載するホワイトボードの欄は欠勤だ。
質の悪い風邪は、年末からずっと来生を含めて同僚達を脅かしていたが、さすがに気
の緩んだ正月休み。細菌とウィルスの総攻撃に撃沈したらしい。
今はいいけれど……。
これが一週間も経てば、得意先も活発になって人手不足のあおりを受けることにな
る。
そうなれば、とりあえず元気なメンバーにしわ寄せが来るのは必須で、来生はその惨
状を想像して眉をひそめた。
ここ数年、風邪らしい風邪をひいていない。
体力だけは体育会系並の来生は、毎年そのあおりを食っているのだから。
「来生さん。終わりました?」
元気な声に、顰めていた口元を綻ばせた。
くるっと肩越しに上を向けば、今年度の新人で営業二課の紅一点の坂木がにっこりと
笑みを浮かべながら見下ろしていた。
「坂木さんは、終わったのかい?」
新人研修の時から一緒に仕事をしている坂木は、来生と親しくしていていつもこうし
て声をかけてくる。
「はい、今日はお得意さんも風邪の方が多くって。外回りをする予定もないですし」
トレードマークのような笑顔で答えが返ってくる。
はきはきとしている上に細かいことにもよく気付く坂木は、得意先の受けは良い。
「こっちも同じだよ。じゃ、帰るか」
手の空いた時間に、日報も書いて終わっていたから、帰るのに支障はなかった。
椅子にかけていた上着を羽織り、バックを手に取る。
坂木も自席からバックを取り上げて、来生の元に駆け戻ってきた。
「どこかで食べて帰りませんか?」
「そうだな」
嫌みのない笑顔というのは、見ていて気持ちがいい。
つられて笑顔になった来生が頷くと、坂木が嬉しそうにその目元を細めた。
「どこがいいですか?駅前のあの店にします?」
住んでいる場所も近所だから、帰りが一緒になったりすると食事に行く事もある。だ
から、坂木の”あの”という言葉の指す場所がすぐに思い浮かんだ。
「ああ、いいね。でも休みじゃないのか?」
確か、先週はずっと休みだったと思い起こしていると、坂木は即座に頭を振った。
「今日から開いています。貼り紙確認していますから」
相変わらず、その辺りにそつはないな。
そう言う所も来生は坂木を気に入っていた。
そう……気に入っているのだ。
何かを問いかければ、的確な返答が返ってくる。
用事を頼めば、ついでだと別の用事までこなしてくれる。
同僚達に『できてるんじゃないのか?』と勘ぐられ、羨ましがられるくらいに、坂木
は来生の言葉の先を読んで実行するから、一緒にいて楽しい。
背の高さは一般的な程度なのだが、スレンダーな体躯のせいで坂木はどこか小柄に見
える。付け加えて、いつもにこやかな笑顔を浮かべる顔は、実は来生の好みなのだ。
しかも控えめとはいえ、出るところは出ているし……。
性格も体型も顔も、三拍子揃った女性はそうそう見つかるものではない。
実は、同僚達がやっかむ事柄が本当であれば……と一番思っているのは来生自身だっ
たのだ。
「今日は、俺が奢るからね」
下心がバレないように、と、穏やかに話しかける。
「え〜、来生さん、年末に金欠だあって言われていませんでしたっけ?」
ちらりと肩越しに見上げてくる坂木は、僅かに口の端を上げて小さく笑っていた。
「坂木さん一人奢るくらいは持っているよ。だから、他の人達には内緒だからね」
「は〜い」
くすりと震える肩が随分と楽しそうだ。
そんな様子を見ているだけで楽しい。
「坂木さん、この休み何していたんだ?」
電車に乗って、ぼんやりと外を見ていた坂木に問いかける。
「え?あ、三十一日から二日までは実家に帰りましたけど、後は大掃除も何もしていな
いです。ずっと部屋でごろごろしてました。だからちょっと太っちゃったみたい」
そういえば、そんな事を年末にも言っていた。
坂木の実家は、隣の県だから帰省といってもたいしたことは無い筈だ。
「そうか。俺も似たようなものだな。って言っても実家にも行っていないけど」
お陰で、正月早々電話で母親に愚痴られた事は内緒にしておこう。
なんというか……みっともない。
どうも彼女の前だと、そういう愚痴というか恥みたいな事は言いたくない。
坂木相手では、いい先輩──いい男でいたいという見栄が他の誰よりも強いというの
を来生は自覚していた。
「でも、そのせいで、私まだ初詣もバーゲンも行って無いんですよね」
ため息混じりで呟く坂木に、来生は笑って返した。
「まだ、松の内だから週末にでも行きゃいいじゃないか」
「でも、行っても屋台が出てなきゃ意味無いです……」
ぼやく坂木に、来生はぷっと吹き出した。
脳裏に、人混みの中、屋台でいろいろと買い込んでいる坂木の姿を思い浮かべてしま
ったのだ。
「何です?」
「えっ……あ、いや、何でもない」
慌てて首を振って、誤魔かす。
「でも、急に笑うなんて……?」
胡散臭げに見つめてくる坂木に本当のことなど言えない来生は、曖昧な笑みを浮かべ
て口を噤んだ。
言える訳がない。
その隣に他の誰でもなく、自分の姿を想像したなんて。
楽しそうな坂木が来生に買ってきた物を差しながら浮かべる笑顔が見たい、と思って
しまったことを。
「まあ、来生さんが何を想像したのかだいたいわかりますけどね」
少しだけ顔を逸らした坂木は怒っているようで、だがその口元には苦笑が浮かんでい
た。
「何をだよ」
来生は少し焦って問い返した。
「どうせ、子供っぽいって思ったんでしょう?」
いつもそうだから……。
仕方がないと微苦笑を浮かべる坂木に、来生も苦笑を浮かべる。
確かにいつもそう言ってからかってはいるけれど。
時折見せる子供っぽいところも、実は気に入っているからついついからかってしま
う、なんて、どう考えたって言えやしない。
このままずっと、配置換えなんか無しに、坂木が自分の下にいてくれたらどんなに嬉
しいだろう。
こうやって、いつまでも仲良く傍にいて欲しい。
いつまでも……ともに。
そして、いつかは……。
そんな密かな願いを、実は年越しの除夜の鐘を聞きながら願ってしまったことを思い
出して、来生はふっと自分の手元に視線を落とした。
最近、何を見ても坂木の事を考えてしまう。
好みだったはずの女性アイドルの水着姿を見ても、いっこうに何も感じない。
煩悩を振り払う筈の除夜の鐘を聞きながら思い浮かべたのは坂木のことだけ。
坂木の……笑顔だけ……。
「ね、来生さん?」
ぼんやりとしていたせいで坂木が話しかけているのに気付くのが遅れた。
少し強い口調の坂木に、はっと顔を上げた。
「何?」
心臓がドキドキと酷く高鳴る。
坂木のことを考えていたのだと気取られたくなくて、視線を微妙にずらし、平静を装
う。
そんな来生の様子に坂木は気付いていないのか、先ほどまでの笑顔はなりを潜め、考
え込むように首を傾げながら問いかけてきた。
それでもその声はいつもように明るく、煩い電車の駆動音もモノともせずに伝わって
きた、が。
「来生さん、4Pって知ってますか?」
一瞬の間をおいて、頭が単語を理解した。
「!」
ヨンピィッ!?
途端に頭に浮かんだのは、四人が裸で絡まっている姿……。
4Pって……4Pだよな……。
四人でするってヤツだよな……。
頭の中をピンクの空気が取り巻く妄想が妖しく蠢く。
いったい、彼女は何を言い出したんだ?
どこか冷静な部分がそう問いかけては来るけれど。
ピンクの妄想は、気がついたらその中心にいるのは坂木になっていた。
三人の”男”を従えて、コケティッシュな笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
ピンクの灯りに晒されて白い肌が艶やかな桃色に染まり、その形の良い柔らかそうな
胸が現れて……。
ドクンッと心臓が跳ねて、そのショックに視界がぶれた。
硬直する来生に、当の坂木は気付いていないようで、何かを思い出しているかのよう
に視線を中空に彷徨わせている。
さ、坂木……さん……。
だが、坂木はいたって冷静な声で、言葉を継いだ。
「今度のマーケティング試験、記述の採点が七十・五十・二十って……三段階だそうな
んですよぉ。妙な事書いてすっぱり減点されたら、辛いですよね」
どこか遠くで聞こえた声にぼんやりとした視界がすっとはっきりしてきた。
マーケティング?
何で4Pの話から、記述の採点……なんて……。
呆けていた頭が急速回転して、単語の羅列から意味をはじき出そうとする。
マーケティングの試験で4P???
……って!
あっ!!
不意に4Pの本当の意味に気がついた。
気がついた途端に、自分がとんでもない間違いをしていたことも気がついて、さあっ
と顔に血が集まる。
熱いくらいに火照ってしまった頬に坂木に気取られないようにと、慌てて出した声は
いつもより一オクターブは高い。
「あああ、それはなぁ〜〜〜」
マッカーシーの4Pかよ〜っ!
頭の中を頭文字にPを持つ4つの単語が飛び交う。
「マーケティングミックスだよな。対象市場に対する戦略的条件の……。確か、プロダ
クト(Product・製品)、プライス(Price・価格)、プレース(Place・流通)、プロ
モーション(Promotion)だろっ」
最初に浮かんだPとは似ても似つかぬ単語を舌に乗せる。
「そうです〜、マッカーシーの4P。それって、書き間違えて減点されたら目も当てら
れませんよね〜」
来生の動揺に気付いていない坂木が、そう言いながらうんうんと頷いていた。
あの……4P……。
マッカーシーの……。
未だ消えない妄想にくらくらとしながらも、必死で坂木の相手をする。
「あ、ああ……他にも似たような単語はあるし……。坂木さんは英語、苦手だったっ
け?」
「そうなんですよお。ほら、他にもあるじゃないですか、4Pみたいなの」
だから……4Pって言うなって。
坂木がその単語を口にするたびに、妄想が甦る。
本当の4Pの意味が判っているにもかかわらずだ。
「ほら、今工場がやっている5Sとか……それに品質関係の4Mとか……」
SとM……。
SM……。
って……おいっ!
思わず黒いレザーの下着をつけた坂木の姿が脳裏に浮かぶ。
さらに発展しそうになる妄想に、来生は慌てて話題をすり替えようとした。
「今回のテストでは、特に市場の動向をどう捉えるかっていう面が出るらしいって噂だ
けど?」
「あ、それ私も聞きました。やっぱり、最近の市場の変化って激しいからでしょうか
?」
あくまで真面目な発言の坂木には、来生の苦悩など気付いていない。
マズイ……。
眉間にシワを寄せてテストの傾向を考え込む坂木が気になってしようがない。
いったん意識し始めると、一度浮かんだ妄想は容易な事では来生の頭から離れていき
そうになかった。
こんな衆目の場で顔を赤くしている自分はどういう目で見られているのだろう?
そんな事まで考えてしまい、さらに湧き起こる羞恥心が顔を熱くする。
「来生さん、つきましたよ」
緊張と羞恥心に息苦しさすら感じ始めたとき、ようやく目的の駅に着いた。
「……ああ」
なんだか妙に疲れている体は、コートの下で盛り上がりを見せている股間のせいもあ
って、動くのも億劫だ。
とにかく早く部屋に帰りたい。
今は、坂木の傍にいたくなかった。
坂木が視界に入るたびに、消えない妄想がさらに鮮やかに甦る。
だが。
「来生さん、今日はまだ空いていますよ。やっぱりいつもより早いからですねえ」
あの店を覗き込んだ坂木がくるっと振り返って嬉しそうに笑う。
「……あ、ああ」
そういえば、一緒に食事をする約束だった。
今更その約束を反故にするのもおかしな話だし。
どうしようと逡巡していると、ふわりと首筋を柔らかな髪がくすぐった。
「え?」
ぼんやり突っ立っていた来生の腕に、坂木の腕が絡んでくる。
「早く行きましょう?」
見上げて、にっこりと笑う坂木は犯罪的な可愛い。
「あ、ああ……」
一緒にいるのが楽しいと思っていた相手なのに、それが妄想の対象になってしまう
と、傍にいるのも苦痛になる。
そういう欲求を自覚してしまった来生は、このまま踵を返して帰りたい欲求に捕らわ
れそうになりながらも、引っ張られるがままにのろのろと坂木に従っていった。
このまま帰ってしまえば、坂木の機嫌を損ねてしまう。
それだけは避けたかった。
「いらっしゃいっ」
威勢の良い声が、どこか遠くで聞こえていた。
FIN.
ちょっと解説……。
このお話の電車の中での会話。
「正月どこにも行っていない」〜「あああ〜」と叫んで赤面する辺りまでの会話に関し
ては実話です。
ただし、男同士の先輩後輩らしき人達の。
このネタは、某サイトの管理人の方が実際に見聞きした事柄として紹介されているの
をお借りしました。
もともと男同士でつくってそちら様に納品したんですけれど、今回こちらようにリメ
イクして投稿しました。
#56/569 ●短編
★タイトル (ALN ) 03/02/02 14:22 ( 81)
履行 弥勒
★内容
良人は静かに息を引き取った。
妙子は横たわる良人の傍らに座り、気力の失せた眼差しで良人を眺めていたが
徐ろに布団の端から良人の股間の辺りに手を滑り込ませてその逸物を優しく愛撫
し始めた。
まだ温もりのある良人の其処はいつもより熱く思われたが、幾ら愛撫をしても
ぴくりともしない。
妙子は口の中でなにやらぶつぶつと言葉にもならないようなこを繰り返しなが
ら必死で良人の逸物を愛撫しつづける。
やがて妙子は良人の逸物を愛でる自分の手をめがけて頭ごと布団の中につっこ
むと舌を出してねちょねちょと良人の逸物をなめ始めた。
必死に舌でなめたり口の中に含んで吸ったりしたが良人の其処はぴくりともし
なかった。
妙子は良人の布団をはねのけて、その傍らに立ちあがると素早く何もかも脱ぎ
捨てたかとおもうと、良人の衣服もみなはぎ取って裸にした。
妙子は自分の唾液でびちょびちょになった良人の股間のうえにまたがった。
いつものように妙子は良人の逸物に自分のあそこをあてがい必死で腰を前後に
動かした。
妙子のあそこから滴りでる汁と先ほどまでしゃぶっていた妙子の唾液が混ざり
あって良人の逸物はぐちょぐちょになったがいつものように大きくも硬くもなる
気配はなかった。
妙子はくるったように腰を振りながら涙をぼろぼろこぼしてなにやらわけのわ
からないことをぼそぼそと言い続けている。
妙子は相変わらず良人の逸物を手でまさぐったり口に含んだり、またがって自
分のあそこを激しくこすりつけたりを繰り返していた。
やがて良人のからだはなまぬるくそこからつたわるような冷たさにかわり、そ
うこうしているうちに良人のからだのあちこちが硬くこわばり始めた。
妙子は大きくはならなかったが硬くなった良人の逸物を自分の手であそこにね
じこんではげしく腰をふった。
妙子の心臓がばくばく激しくなってくちからとびでそうなくらい気色わるくな
った。
腰もうまくは動かないくらい疲れきってあそこもひりひりとし始めたころいよ
いよ良人の逸物はなにやらどろっとふにゃふにゃになった。
それでも妙子は良人の逸物にまたがったまま腰の動きをとめることはなかった。
やがて妙子のあそこはすりきれて真っ赤な血がにじみだしてきたがそれでも妙
子は腰を前後にふりつずけた。
夜が明けてあたりが白々と明け始めたころ妙子は「わっ」と一際おおきな泣き
声をたて良人の逸物にまたがったまま良人の胸にたおれこんだ。
それからどのくらいの時間が経過したのだろう。
あたりはまた静かな夜の闇に包まれていた。
滝のように流れていた妙子の背中の汗は乾いて塩辛い異様な匂いに変っていた。
妙子と良人の胸と胸、腹と腹に挟まれた汗は乾く事もなく氷水のように冷たく
なっていた。
妙子は良人の唇に自分の唇を重ねて「死んじゃったのね」と一言寂しそうな声
にならない声をだした。
妙子は良人のうえで何日も過ごした。
尿もたれた。
糞もたれた。
身動きひとつしないまま良人の逸物にまたがったまま良人の唇に自分の唇をか
さねたまま何日もすごした。
そして妙子も良人のうえに重なったままいつのまにかぴくりとも動かなくなっ
た。
− 完 −
#57/569 ●短編
★タイトル (ALN ) 03/02/04 01:12 ( 93)
範子 弥勒
★内容 03/02/05 10:39 修正 第2版
冬だと云うのに、春先の様に暖かい雨の降る日の午後の事でした。
何をするでも無く時の流れに任せて居ると、表の方で遠い昔に聞き覚えの在る声
がします。
声の主が覚えの在る人で在れば、やがて襖を開けて入って来るだろうと、そのま
ま耳をすませて居ましたが、その人の気配は私の予想に反して、一向に動こうとは
しないようです。
物憂いでも無く、特別に訝しく感じるでも無く、玄関まで出向いて行くと、硝子
の引き違い戸の外に人影が見えます。
その人影を見て、初めて私は脈の鼓動が微かに揺れ動いた様にも思いましたが、
かと云って、特別な驚きと云う程の起伏でも在りませんでした。
静かに内から戸を引き開けると、その婦人は、ガラス戸越しの朧な輪郭から、確
かな姿へと変わりました。
淡い花模様の傘を片手に持ち、一方の手には、手提げのような鞄を持ち、その手
首には、三歳になるかならないか位の女の子がぶら下がるようにしてしがみついて
居ました。
一言も声に出さず、微かに笑みを浮かべたまま見つめる眼差しは、間違いなく覚
えの在るものでした。
何時もかかえて居た編み物篭の中の毛玉や小説が、子供の物が入って居るのだろ
うと思われる手提げに変わって居る他は、何処も何も変わらないと思いました。
いや、これ程にまで変わって居れば、何処も何も変わりない等とは冗談にも云え
る事ではないのでしょうが、眼の前に立って居る範子は、本当に、あのころと少し
も変わって居なかったのです。
範子の姿を見なくなってから、五年、いや、六年は経つでしょうか。
私が黙ったまま頷くと、範子も何も云わないまま微かに頷きました。
私は何も云わないまま、ゆっくりと部屋へとって返しました。
範子は玄関の引き戸を閉めると、小さな子供の靴を先に脱がせてやり、それから
自分も靴を脱いで、静かに後をついて来ました。
私は範子の為にお茶を入れてやり、子供の為に牛乳を温めて砂糖を溶かしてやり
ました。
私が自分の湯飲みに白湯を入れて座り直すと、其れまで懐かしそうに部屋を眺め
て居た範子が、少し淋しそうに顔を曇らせるのが分かりました。
聞かれるでも無く、私は、もう何年も何も書いて居ない事を話しましたが、改め
て話す迄の事でも在りません。
あのころ毎日の様に私の部屋に通い続けて居た範子には、私の部屋を一目見ただ
けで、私が物を書くことを止めて居る事くらい直に分かったに違い在りません。
少し強く降り始めた雨音に、暫くは外の気配に気をやり、取り直した様に、結婚
したのかと範子に尋ねて見ましたが、範子は何も応えず、ただ静かに子供に微笑み
かけて居るばかりでしたが、その気配からは、決して仕合わせな身の上では無い物
が感じられました。
かと云って、その仕合わせに見えない事が範子を陰らせるでも無く、範子もまた、
回りに映る仕合わせには見えない境遇を意識する様子も在りません。
私はそれ以上は何も聞かず、範子の膝の回りで恥ずかしそうに甘える子供に微笑
みかけてやりました。
すると、その子供もまた一層照れくさそうに微笑んだ後、まじまじと私の顔を眺
めて居ましたが、やがて、子供らしく直に飽きて仕舞い、また、範子の膝の上に寄
りかかったり、手にすがりついたりと甘え始めるのです。
相変わらず、何を話すでも無く、ただ時間の過ぎるままに何度目かのお茶を入れ
てやる頃には辺りも暮れ始めて居たようです。
範子は、また来ても良いかと尋ね、私は黙ったまま頷き、ついには、範子の連れ
て来た子供の名前も聞かぬまま、未だ雨の上がらない冬の夕闇の中へと消えて行き
ました。
待つでも無く訪れ、引き留めるでも無く帰り、遠い昔にもそんな日々が何年か続
いた様に思い浮かびます。
遠い昔よりも未だ未だ遠い、まるで生まれて来る前の事の様な気もしますが、い
つの間にか来なくなった範子を置き去りにしたまま、引き留めるでも無く六年の歳
月が流れ、待つでも無く訪れた範子は、またあのころの様に帰って行きましたが、
それっきり、今度は二度と訪ねて来る事も無くなりました。
今は、私が訪ねて行ってやらなくては、範子は決して何処にも行くことは出来な
いのです。
考えようによっては、生身の私よりも遙かに自由に望むままに往来をして居るの
かも知れませんが、私が範子に逢いたいと思えば、範子の眠るあの町まで出かけて
行くしか無いのです。
範子が初めて訪ねて来てくれたあの日も、まるで春先の様に暖かい雨の日でした。
− 完 −
#58/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:25 (232)
『始まりはいつも』 -- パパ
★内容
三十路を過ぎた私が見合いを断ったのは、将来を誓った恋人が居るからでも、独身が
性に合っているからでもない。性的に不能、などという肉体的な理由でもない。もっと
単純なもの、ピンと来るものがなかったからだ。
「どうしても貴方と、と先方から云われてねえ」
見合い写真を突っ返した私に、老齢の母は遠いまなざしで見つめる。居間の高テーブ
ルに肘をついたまま目線を私からはずさない。両親は晩婚で、私が産まれるのも遅かっ
た。母体に危険をもたらすほど高齢出産だったのだ。そのため、祖父母に育てられてい
ると勘違いされたのも一度や二度ではない。
早く落ち着いてもらいたい。嫁の顔が見てみたい。孫を抱いてみたい。両親の気持ち
は人並みに分かるが、だからといって結婚する気にはなれない。そんな簡単に伴侶を選
べるはずがないのだ。
「同級生だった河合さんも、二児の父親ですってね。下の子は幼稚園ですって」
だからどうしたというのだ。河合は河合。私は私だ。
口にはしなかったが母には伝わったらしい。溜息で応えてくる。私が視線を逸らす
と、
「良縁だと思うけど」
諦めきれないのか、台紙に飾られた写真に触れ呟いている。清楚な顔立ちに切れ長の
目、落ち着いているようで、二重の大きな瞳が活発なのかもしれないと予想させる。と
りたてて美人というわけではない。美人だったら私のところに話が来るわけがない。
私は沈黙を続けた。母も寡黙になる。やがて母は見開きの台紙を閉じた。表紙には相
手の名前が綴ってある。小暮正美。正美という名前が心の琴線を弾き、額がうずいた。
「本当に駄目なのかい?」
物憂げな母の瞳にいたたまれなくなった私は「ちょっと出かけてくる」
席を立ち、「いつもの茶店に行く。そろそろ新刊も入ることだし」おざなりに言い訳
を付け加える。母は右手を伸ばし何かを問いかけた。同時に電話のベルが鳴る。二度、
三度と呼び出し音が鳴り、母も首を振って立ち上がった。
喫茶ラフーレは私の家から徒歩三分と近い。コミックが多く取りそろえていることか
ら、私は漫画図書館の代わりに学生時代から活用している。夜はスナックに変わるが、
その時間帯に行ったことはない。休日の気怠い午後に訪れ、決まって頼むのはメロン
ソーダーだった。窓際の席に座り、先ほど手に取った週刊誌をめくる。視線が記事を追
っても、心は別なことを考えていた。
正美。春野正美。わずかな時間だけしか共有できなかった。それでもたった一人だけ
親友だと断言できる男。彼の名前が私の中をリフレインしている。
あれは私が小学生の頃だった。確か高学年の、そう五年生だったはずだ。強いという
キーワードに夢中だった私は、何か格闘技が習いたかった。あいにく、近所にその手の
道場はない。あるといえば柔の道ぐらいだった。私が望んでいたのは打撃系で投げ技で
はない。仕方なく、書店で書籍を買い求めた。最初に買った本は忘れもしない、「あな
たにもできる空手道」だった。本に載っている型を無邪気に真似もした。巻きわらがわ
りに立てた木の板に正拳突きの練習をしたこともある。それに飽きると近所の野原に行
って仮想敵とやりあった。仮想敵の回し蹴りをかわし、相手に中段突きが決まったと
き、笑い声が響いた。
ふふふふっ……。
小さな声だが、はっきりとした輪郭で無視することはできなかった。振り返っても背
の高い草だけが私を見つめている。人の気配はない。空耳かな? 私はそう思い仮想敵
に向き直った。
その場所にいたのが正美だった。私はそのとき、彼が忍者じゃないかと疑ったもの
だ。
正美は満面に笑みを咲かせ、
「一人じゃ、つまらないだろう。相手をしてやろうか?」
と云う。私が言葉に詰まると、腰に拳を当てもう一度繰り返した。
よく話を聞けば、学区は違えど私と同じ五年生だというではないか。私より一回り小
さく線も細い。顔立ちも女性のように綺麗だった。美少年という言葉が脳裏に浮かび、
文字通りの存在だと私は認めずにはいられなかった。それに名前が正美だという。女性
につけてもおかしくない名前だ。どうひいき目にみても強そうには見えない。強い男と
は筋肉の鎧と疾風の動きを持つ者をさす。彼はどう見ても当てはまらない。いかに私が
格闘技の真似事しかやってないとはいえ、相手にならない、そのときはそう信じてい
た。
「いいよ。じゃあ自由組み手をやろうか」
私は言葉を投げ掛けると同時に、右正拳を正美のみぞおちに向けて突きだした。それ
は本気の打突ではなく、挨拶がわりのフェイントだった。正美は突きだした拳に対し
て、同時に左腕をこすりつけた。摩擦で私の拳はみぞおちには触れなかった。私の腕は
伸びきらず、肘を下に向けて落とされてしまったのだ。これでは当たるものも当たらな
い。
「!」
私は驚愕を飲み込み、右腕を引いた。正美は引いた腕に合わせて私の目の前に立って
いる。私の顔と三〇センチも離れていない距離に彼は居た。こんなに近い間合いで戦う
とは予想もしていない。正美の眉間めがけ、本能的に頭を振り下ろしていた。
気がついた時、目の前に繰り広げられたのはひっくり返った風景だった。緑が上で青
が下。事態が分かったのは数秒後だったと思う。正美は振り下ろした私の頭に掌を合わ
せ、さらに下へと誘導したのだ。私は自分の両足の間から後ろを見ていたのだ。
ふふふふっ……。
正美の笑い声が試合終了の合図だと悟った。力の差が歴然だったのだ。私は頭をかき
ながら「女みたいな名前なのに、強いなあ」自分なりに褒めたつもりだった。
正美が見せた表情は、私の想像と大きくかけ離れていた。目は吊り上がり、私の鼻梁
を凝視している。口は一文字に結ばれ、歯ぎしりの音が聞こえてくるような錯覚を覚え
た。彼の微笑みから憤怒への変化は、能面の早変わりのように私には恐ろしかった。一
重の瞳が見開くとさらに大きくなり、私を飲み込むのではないか、そう感じさせた。
彼は踵を返したが、すぐに立ち止まり、頭だけ振り返った。横目で私を見つめ、また
放課後遊びにくる、そう告げて立ち去っていった。
それからというもの、放課後になるたびに野原へ出かけるのが私の日課となった。最
初はこわごわと、次いで期待感に胸を膨らませて出かけるようになった。彼が怖い存在
ではなく、優しいと知るのにさほど時間は必要なく、彼のいない生活を想像することも
できなくなっていた。
「やあ」、と普通に挨拶をすませてから、正美に技の手ほどきを受ける。最後に自由組
み手を行う。正美はそれを散打といっていた。彼の礼は、私の知っているものと大きく
異なった。右手を拳にして左手の掌に合わせるのだ。日と月を表し、明の復興を願うの
さ、そう教えてくれたが、意味が分からなかった。それでもそのポーズが格好よく見
え、好んで真似をした。私達の関係はそれ以外にも広がっていった。仮面ライダースナ
ックを買ってカードを交換したり、メンコを取り合ったり、軍人将棋をしたり、彼は遊
び仲間としても野原にやってきた。
彼と話すときはいつも本心で語った。学区の境目にある野原は、私と正美の学校を分
けている。それが刺激となり、また安心して話すことができる前提となっていた。
一度だけ正美の家に行ったことがある。彼の家は洋館で三階建てと立派としか云いよ
うがなかった。私とは住む世界が違うことを理解しないわけにはいかなかった。それで
も、正美の部屋は私の部屋より汚く雑然としていたので、自分と同等とみなすことに決
めた。部屋を見渡して、綺麗な顔に似合わないなあ、と思っても口にはしない。彼が、
女っぽいことを気にしているのを想像するのは難しくなかったし、そう思われるのが嫌
で武術をたしなんでいることぐらいは察しがついていたからだ。仮に知らなくても、私
は口にしなかっただろう。なぜなら、彼は格闘技を教えてくれる先生であり、遊び友達
であり、そして親友だったのだから。
彼と出会ってから一月が過ぎようとした日、その日は曇天だった。前日までの晴れ模
様は遮光カーテンで隠されたかのように薄暗かった。
その頃、私は彼から蹴り技を習っていた。彼の教えてくれた回し蹴りは膝の出る形が
途中まで同じだ。ロー、ミドル、ハイ、どれもが一度膝を抱え込み、飛んでくる。どこ
に来るのか判断が遅れるため、かわしにくいのだ。もちろん、慣れてしまえば、ある程
度は受けられる。 その日の散打は好勝負になった。私のレベルも格段に上がっていた
のだ。互いに相手の出方をうかがい、単発的な攻撃が繰り出される。私はそれを軽く受
け流した。終盤にさしかかると、彼の技は連続技へと変化を遂げた。彼の右回し蹴りが
上段に来る。私はとっさに左腕のガードを上げた。彼の甲が私の左手に触れた刹那、軌
道を変え大腿部へを弧を描く。かわせない!――そう判断した私は衝撃を緩和するため
に、大地を足指で掴み踏ん張った。描いた弧は大腿部から脇腹へと、さらに軌道を変え
た。腹部に彼の足の甲が触れた瞬間、私は体重を左にかける。軽い蹴りがカウンターと
なって私の腹部にめりこんだ。
痛みのあまり、私は身体を丸めた。
「大丈夫か」
驚いた正美が私の肩に触れようとした。それが私の求めていた隙だとは、思いもしな
かったに違いない。
必殺技の名を叫びたい誘惑に耐え、私は無言で身体を跳ね上げた。正美に勝つために
練習した飛び上段前蹴りだ。踵が正美のあごを狙っている。もちろん当てるつもりはな
い。せいぜい鼻先をかすめて驚かせるだけのつもりだった。
私の踵は心配して近づいた正美の額に触れた。靴底を通して伝わったのは微かな感触
だった。正美の額が縦に切れ、遅れて血が吹き出す。目測が狂っていたのだ。一度腰を
折り、腹を抱える体勢だったために視点が崩れていたせいもある。気を抜いた正美の反
応が遅れたせいもある。それでも靴底に小石が挟まっていなければ、彼に傷跡を付ける
ことは無かったはずだ。二日後、彼は誇らしげに、傷は男の勲章だ、と大見得を切っ
た。前髪を掻き上げると、額に小さな三日月が刻まれていた。縫われて繕われた跡が残
っている。私は肩を落として、何度も彼に頭を下げた。
「気にするなよ」
彼は私の肩を抱き、ふふふふっ、と小さく笑った。
「そんなことより、今日は渡したいものがあるんだ」
正美は私に封筒を手渡した。
「中に宝物のライダーカードが入っている」
「……もしかして幻のカード?」私は彼が持っているレアカードを思い出していた。わ
ずかな数しかプリントされなかった貴重なカードだ。正美の家に遊びに行ったとき、額
に入れて飾ってあるのを見た。羨ましくて、欲しい、と正直に云った。もちろん、すぐ
に断られた。
「それと手紙も入ってる」
彼の声は小さかった。部屋に戻ってから開けてくれ、正美に云われて私は頷いた。
「これで、帰るわ。また会おうな」正美は後ろ姿を見せ、軽く手を振った。
私が最後に見た正美の姿だった。
手紙には父の転勤でシカゴに行くと書かれていた。その場所がどれだけ遠いのか、五
年生の私には実感がなかった。中学生になったら遊びにいけばいいさ。住所も知らない
のに、そう思っていた。
「はいよ」テーブルにメロンソーダーの注がれたグラスが置かれ、反射的にマスターの
後ろ姿を目で追っていた。私は過去から現在に引き戻されたのだ。
背後に誰かが見ているような気配を感じて、週刊誌を閉じる。足音とともに訪れたの
は、一人の女性だった。私の横に止まる。視界にミニスカートから伸びている細い脚が
入り込む。
「相席、よろしいかしら?」
女性は私に向かって声を掛けているようだ。店内を見回してみる。六席あるカウン
ターもボックスもあいている。私は彼女を見上げた。白いミニスカートに青いサマー
セーターを羽織り、長い髪は肩から、前髪はふうわりと前に垂らしている。私の記憶が
囁く。私は彼女を見たことがある。ああ、そうだ。彼女は見合い写真の女性だったの
だ。
驚きを隠せなかった。掛ける言葉が思い浮かばず、ただ手で席をさした。彼女は「あ
りがとう」といって、膝を折り席に座った。大きな瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
「さきほど電話を掛けました。お母様とお話をしたあと、失礼だとは思いましたが、直
接お会いすることに決めました」
見合いを断ったことがよほど腑に落ちなかったに違いない。苛々とした情感が、化粧
の下に隠れているのが私にも感じられる。
実物の彼女は、写真よりも美しい。それは目鼻立ちがはっきりしているというような
次元ではない。匂い立つ香りが男を惹きつける、妖しい魅力をまとっているのだ。
色よい返事をしない私に、何か文句のひとつでも云いたいのだろう、私は観念した。
だが彼女は口を開くかわりに、瞬きを繰り返し、私の出方を待っている。
マスターがメニューを差し出す。彼女は一瞥しただけで、「同じものを」
私は口にする文句を探した。思考をのばしても適当な言葉が浮かんでこない。彼女は
私を見つめたまま沈黙を守る。時計の秒針だけが店内で響いている。メニューを抱えた
マスターは、有線がおかしいや、と呟いた。間の悪いことだ、そう思っても救いにはな
らない。仕方なく、私が口火を切った。
「私を選んだ理由は何だったのでしょうか? ――それに貴方は写真写りが悪いです
ね。本物のほうがずっと綺麗だし、素敵だ」
「ありがとう」彼女は微笑みを浮かべた。私の頬が赤らむのが分かる。余計なことを云
ったと理解しているが、なぜ口をついたのかは自分でも分からなかった。
「どんな相手だって選べるでしょうに、よりによって私なんかのところに……」
語尾が下がったのは、自分で自分が情けなくなったからだ。
「尋ねたいことがあります。どうして私とお見合いをするのが嫌だったのでしょうか
?」
「なぜかピンとこなくて」
彼女は一度、口を半開きにした。見合いを断る文句にしては、洒落ていないかもしれ
ないが、正直に答えたのだ。
からくり時計の時報が鳴る。派手な音とともに、人形が時計からせり出してくる。我
に返った彼女が、ふふっ、と笑った。
彼女の淡い口紅の艶を見てなまめかしい唇だな、と感想が浮かぶ。大きな瞳に見つめ
られると、吸い込まれそうな錯覚に陥る。もっと彼女のことが知りたいと本能が欲求し
ている。
見合いを断るのではなかった、後悔しても遅いのかもしれないが。
「私の問いにも答えてください」
彼女は「ええ、もちろんですわ。お一人ではつまらないのではないかと思いまして」
私の台詞より、もっと奇妙だった。自分でなくても、独身男性なら、誰でもよいこと
になる。少しばかり面白くない。私の表情を読み取ったのだろう、彼女は「お相手をし
たい人は誰でも良い、というわけにはまいりません。もしかすると、貴方の驚く顔が見
たかったのかもしれません」
「驚くって」何を驚けばいいのだ。彼女と私の視線が絡み合う。彼女は前髪を掻き上げ
た。
私の額がズキリと痛んだ。色も薄くなり、よく視ないと分からないが、小さな三日月
の傷が彼女の額に刻まれていたのだ。
「だって」私は二の句が継げなかった。だって男だったじゃないか。その言葉が喉から
出てこない。
「シカゴに行ってからというもの、無性に貴方に逢いたかった。その気持ちは男の子と
いうより、女の子のものだと幼い私にも分かりました」彼女は言葉を留め、ソーダーで
喉を潤した。グラスをテーブルに置いてから言葉を継ぐ。「逢いたくても、貴方は男と
しての私しか知りません。できれば女としての私と何も知らずに逢ってほしかったのか
もしれません」
相変わらず、私の回路はパニックのままだ。訳の分からぬ事を口走った気がする。
ふふふふっ、懐かしい笑い声が私の元に届けられる。それが私の心を落ち着かせてく
れた。 時間を忘れて、私達は色々なことを話し合った。口を開くのは私より、彼女の
方が多かった。
父親と死別し、母親が再婚したということ。外資系の保険会社に勤めたため、三ヶ月
前に彼女だけが日本に帰ってきたということ。何度も連絡をとろうとしたが、どうして
もためらってしまうということ。一番驚いたのは、共通の知り合いに仲人好きの叔母さ
んがいたということだった。私の見合い写真――隠し撮りした物か、アルバムから剥が
した物かは、分からないが――が出回っていたのだ。知らなかっただけに憤りを感じ
る。反面、叔母に対して感謝の念も芽吹いていた。
「私、野原に行ってみたいなあ」その頃には彼女の口ぶりもだいぶ和らいで砕けてい
た。
「もうないんだ。空き地にも野原にも家が建っている。想い出しか残っていない」
「そう……」彼女の虹彩は過去を観ているのだろう、と私は想像した。
「それより、公園に行って組み手でもやらないか、これでも今では黒帯なんだ」
「あら、この格好で」彼女は立ち上がって、スカートの裾を摘み上げた。
「ああ、そうだったな」私は馬鹿みたいに頷いていた。
彼女は手を差しのべ、「でも行ってみたいわ。つきあってくださる」
「もちろんだとも」私は彼女の手を握り立ち上がった。絡み合う指先が温もりに震えて
いる。私はゆっくりと指を解いた。料金を払うとき、マスターは口ひげを揺らし、片目
を閉じた。
自動扉が開き、私は熱い空気をかき分け外に一歩踏み出した。後ろに正美が続く。振
り返ると、彼女のスカートの裾がはためいた。一陣の春風が私達を巻き込み、去ってい
ったのだ。
そのとき私は知った。何かが終わり、また始まろうとしていることを。そして始まり
はいつも突然にやってくるのだと。
--了--
#59/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:27 (191)
『破水』 --パパ
★内容
公園の中央に噴水があり、それを取り囲むようにベンチが備え付けられている。陽の
高い今、振り袖を着た若い娘や幼子の手を引く親の姿が見受けられる。人の群れは駅か
ら公園を抜け、できたばかりのデパートへと流れていく。立ち止まっているのは愛すべ
き人を待っている者か、座っているしか術のない人達だった。
S氏はベンチに腰掛け、指先を見つめいていた。膝上に載っている箱は赤い紙でラッ
ピングされリボンが施されている。S氏はリボンを弄びながら、重い溜息をつく。顔に
刻まれた深い皺、枯れ枝のような指先、どれもが老齢を感じさせる。
「お悩みですか?」
初老の男が声をかける。口元にたくわえたあごひげにも白いものが顔をのぞかせてい
る。
S氏は一瞥すると、うつむいた。吐く息は白く、生まれては消えていく。
男は微笑みを浮かべ、
「私、こういう者ですが」
S氏は差し出された名刺を受け取り、男との間を視線で往復させる。
「幸福フランチャイズチェーン加盟店……HAPPY五木店。聞いたこともないな」
S氏は首を振った。男はただ笑みを浮かべたまま沈黙を守っている。
「しかもだ。『営業担当、悪魔』というのは――ふざけているのかね」
言葉とは裏腹にS氏に憤慨した様子はない。静かに男を見つめている。
「いたって真面目ですが。その証拠に」
男の顔が変容を始める。頭部に走った亀裂から二本の角が天を突き、目元は吊り上が
る。唇は耳まで裂け赤黒い色に変色した。皮膚はただれ、黒いかさぶたで覆われる。
その横を子どもが笑顔で走り抜けていく。
「なるほど。確かに悪魔かもしれない」
S氏の声は平坦だった。
「驚かれないのですか?」
男の顔は異形の者から人間へと戻っている。
「子どもは君を見て、歯牙にもかけていなかったからね。私が驚くべき道理はない」
「それはまた変わった理由ですな」
「もしこれがどっきりカメラのようなものでも、子どもの演技には嘘が見られるもの
だ」
「どっきりかもしれませんよ?」
「ないと断言できる」
「……」
「どんなに芸達者でも、子どもの演技には甘さが隠れている。あの子の視線は一度私達
たちを向いたが、気にもとめていなかった。もし演技なら目に嘘が浮かんでいるはず
だ。それとも私達と視線を絡ませようとはしないか。まあどちらかだろう」
「なるほど、それで?」
「そこから導き出される答えはひとつ――悪魔の顔は私にしか見えないということ。そ
れができる者を少なくとも人間とは呼ばない。君が自分を悪魔と呼ぶのなら、疑う必要
はない」
男はひとつ拍手した。
「いやあ、お見事。そこまで眼に自信がおありとは」
S氏は小さく首を振る。
「それに悪魔がいるなら会ってみたいと、考えてもいた」
「悪魔でなければ叶えられない悩みごとだったからでしょうか?」
S氏の動きが止まった。
「私は……生まれてこの方悪いことをしたことがなかった。これもそうだ」
S氏は膝上の箱を胸前につかみあげた。
「トイ・ショップで万引きしてみよう。そう思ったが……」
「できなかったのですね」
S氏はうなずいた。
「良い人の振りをするのに疲れた。なのにどうしても善人の仮面を被ってしまう。それ
が嫌で……」
S氏の言葉に力はない。
「契約しますか?」
「私はちょっとだけ悪いことをしてみたかった。それで魂を盗られるのは割には合わな
い。違うかね?」
「ええもちろん、その程度の願い事で魂は請求いたしません。ただ少しだけ汚れた魂の
上澄みをいただきたい、そう思う次第でして」
「上澄み? アクではないのかね」
「ええまあそうなりますか……どちらにせよ貴男様はそれでめでたく死後は天国へ参り
ますし、願いも叶う。私にも利益となります。お互いにとって損はありません」
「だましているわけでは無かろうね?」
「それ故の契約ですから。契約書は隅から隅までお読みくださいませ」
「まあよかろう」
S氏は一通の契約書を受け取り、しばらく目線を走らせる。膝上の箱を隣に座らせ、
男を見上げてから胸ポケットにさしたペンを取り出した。「では」といってサインす
る。
「ありがとうございます」
男は頭を下げ、契約書を受け取った。
「契約の履行は二日以内。間違いないね」
S氏の問いに、男は無言でうなずいた。
「どのように願いが叶うのか。冥土の土産として楽しみに待つとするよ。では帰るとす
るか」
S氏は立ち上がった。
「あっ、お忘れ物ですけど」
男が箱を指さす。
「それは不要なんだ。子どもが成人したのは遙かな過去のことだし、孫だって欲しいの
はオモチャじゃない。欲しがっているのは私の遺産だ。好きなように処分してくれたま
え」
「分かりました」
男はS氏の姿が見えなくなるまで深く腰を曲げている。S氏は振り返ることなく人波
に消えていく。
「さて、一人では何も始まらない」
男は箱を抱き噴水の縁を歩き始めた。反対側のベンチに座っているN氏の前で止ま
る。ダークスーツの上からでもN氏の筋肉という鎧は隠せない。短く刈り込んだ髪と、
異様に太い指先。その指は傷だらけだった。
「お悩みですか?」
N氏は面倒そうに手を振った。
「私、こういう者ですが」
N氏は差し出された名刺を一瞥すると、
「悪魔か。そんな落ちだろうな」
「お疑いにはならないので? 大概の皆様は最初は信じてはくれませんが」
「死ねば地獄に堕ちるのは間違いない。生きている今ここに悪魔が来ても不思議ではな
い。そんな腐った人生をおくってきたのだからな。疑う余地もない」
「これまた不思議な理由ですな」
「人を一人殺せばうなされる。二人殺せば悪夢になる。十人殺せば……しまいには人殺
しも慣れるんだよ。最後には愉快になっているものさ。他人の死も苦しみも、全部俺に
は快楽だった。……こんな講釈、悪魔には不要だったな」
N氏は微苦笑を浮かべると、頭を垂れ肩を落とす。
「快楽だった? 過去形ですな」
「息子がいてな。いやがるんだよ。入れ墨を。考えてみれば、父親らしいこと何もして
なかった。俺の性分からすれば、一生できない。それでも何かひとつくらい息子のため
にしてやりたい。お父さんにも良いところがあったと思わせてやりたい。――そんなこ
とできないに決まってる。何をすればよいのかすら分からないのだから」
「これまた辛いですな。では、お子様の為にも契約致しますか?」
N氏は差し出された契約書に黙ってサインした。
「よくお読みなった方がよろしいのでは?」
「信用できないのは人間だろう。金貸しだってそうだ。高利だと知って借りながら、取
り立てれば悪魔だ鬼だと騒ぎ立てやがる。借りるときは神だ仏だって云うくせにな。そ
れに俺は死んでも地獄行きだ」
「ごもっともで。……ああ、そうでした。これをどうぞ」
男はN氏に箱を差し出した。
「もらういわれはないが?」
「貴男様ではなく、お子様に」
N氏は立ち上がって受け取り、片手を振って去っていく。その姿は公園を抜け歩道に
出る。同時にアスファルトを舐めるタイヤの悲鳴が轟く。
家に帰ろうとしたS氏は駐車場から車を走らせた。交差点を抜け、公園前を通ったと
き、脇見運転のためカーブを曲がりきれず歩道にいたN氏を跳ねたのだ。クラックショ
ンと衝突音。全てが刹那に奏でられてしまった。
人だかりができる。
S氏は車から降り放心状態で立ちつくしている。跳ね飛ばされたN氏は電信柱に衝突
して頭蓋骨が陥没していた。付近にピンク色の血が散乱し、ラッピングが破れた箱の中
から、ラジコンのベイブレードが姿をあらわしていた。
『因果なことだ……』
そうつぶやく男の姿を見た人間は誰もいない。
歩き始めた男の身体を、赤子を抱いた若い夫婦がお喋りしながら通り過ぎていく。透
き通った男の身体はビルの壁を通り抜け、空間を歪めて彼方の境内へとたどり着いた。
大鳥居から笑い声と一緒にカップルが姿を見せた。御神水が出ると評判になっている
薬井戸へ向かっている。
『鳥居を抜けるのに一礼もせんのか……』
男はつぶやいた。
二人はひしゃくで水をすくい、口をつける。
「冷たいなあ。これって万病に効くんだって(お前の顔は整形した方が早いけどな)」
と男がいった。
「ふ〜ん、そうなんだあ(でも、アナタの頭の悪さは治らないよ。きっと)」
彼女が応える。
二人は参道の中央を歩き、N氏の身体を通り抜ける。
『中央は神の道、それすらも知らんとは……世も末か』
二人は拝殿の前で鈴を鳴らし鈴賽銭箱に硬貨を放り投げる。拝礼をした後、眼を閉じ
て反芻するように口を動かしていた。
ゆっくりと二人の視線が絡みあう。
「ねえ、何をお願いしたの?」
「ああ、君がもっと幸福になりますように。願わくばその相手が僕でありますように、
てね。(早く切れてえ、金欲しい、って願ったんだよ)で、君は(どうせろくなもんじ
ゃねえだろうけど。一応聞いてやる)」
「私? 私はねえ、私達が幸せでありますように……(嘘ぴょ〜ん。もっといい男見つ
けて玉の輿に乗りたい!)恥ずかしいかなあ?」
「そんなことない。絶対かわいいって(その顔を抜かせば)」
「へへっ(あ〜あ、どこかにいい男いないかなあ。ちゃんと見つけてよ。神様)」
女性は男の腕をとり、指先を絡めた。二人が去っていくのを男は黙って見ていたが、
溜息を一つついてから、本殿に戻った。
神器が隠されている狭い空間の中、男は一人正座をしたまま目を半眼に据え、薄闇を
凝視している。
軽い音が響く。一寸間を置き、もう一度響く。ノックの音だ。扉がかすかに揺れる。
「ほう、御祭神である私の元に客とは、珍しいこともあるものじゃ」
男はそういって、扉を開けた。
促されて入ってきた女性が扉を閉めてから、悩みごとがおありのようで、と口にす
る。
「本家本元とは、恐れ入った」
「神様の悪魔ぶりこそ、恐れ入りました。最初の男は被害者の家族から責め立てられる
ことでしょう。その結果、家族には莫大な慰謝料が入ることになりますわ。それぞれ願
いが叶うわけですね。さすが因縁の糸を操ると云われている椹木の三珠神様です。嘘も
方便、やはり便法というわけでしょう」
女性のキツイ目に妖しげな光が浮かんだ。
「おぬしは勘違いをしておる」
「?」
「あの者たちはわしの手を借りなくとも同じ結末を迎えたのじゃ」
「はあ、ではいったい神様は何をしたというのでしょうか」
「父が死に際に抱いていたのが自分へのプレゼントだと知ったのなら、きっとその少年
は……今わからなくても、歳を重ねれば見えてくることもあるはずだ」
「煎じ詰めると、箱を死人に渡しただけ……なのですか?」
男は頷いた。
「それだけのために、あのような芝居を打ったのですか?」
「だから勘違いしておる、といったのじゃ」
「理解できません」
「神なぞちっぽけなものじゃ。人間の自由意志はあやつれん。因縁の糸を解きほぐすこ
とすらできはしない。神は見守ることぐらいしかできんのじゃ。それでも、私が神とし
て顕れたならば、あの者たちは不毛な願い事で全てを満たそうとするだろう」
「だから悪魔の名を騙ったのですか?」
男は手を差しのべた。
「おぬしと契約しよう。少年が祈っていた言葉を叶えることができるならば――さあ契
約書を渡すがよい」
「その少年の願いとはいったいなんなのでございましょう?」
「とても簡単な事じゃ。自分は幸福でなくても良い。だから世界中の人々が幸福であり
ますように」
「……」
「さあ、渡すがよい。神にできぬ事も悪魔ならできるやもしれん」
--了--
#60/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:28 ( 74)
『天気予報に続きまして』 --パパ
★内容
弟の背後で姉が溜息をこぼした。
「あのねえ、テレビばっかり見てると頭が莫迦になるわよ」
弟は振り返りもせずに画面を食い入るように見つめている。
天気予報は日本全国が今日は晴天だと告げている。
「いやねえ、たまには雨でも降らなきゃ商売あがったりだわ」
姉がこぼしても、弟はかまわない。
『天気予報に続きまして、景気予報をお届けします。九州内陸部で発達中の低気圧は次
第に勢力を増し、完全失業率の上昇に歯止めがかからない状態です。また北海道は高気
圧が勢力を弱めたため、停滞前線が北上することなく、土砂降り状態がしばく続きそう
です』
アナウンサーは一息つくと、日本各地の失業予想を始めた。
「面白いの?」
姉の問いに弟はうなずく。姉は大きく溜息をつく。
『今入りました情報によりますと、東京都で土石流が発生した模様です』
画面がアナウンサーから国会議事堂前の中継へと切り替わった。
『失業率の上昇にともない生活保護の申請も右肩上がりに増加していましたが、さきほ
ど国会で保護の打ち切り法案が可決される結果となり、国会前に集まっていた反対派、
推定30万人が雪崩的に暴動を起こした模様です」
画面は無数の人が拳を突き上げ群がる姿を映していたが、やがて商店を襲う暴徒が商
品を強奪するシーンに切り替わった。
姉は首を振ってから、テレビの電源コードをコンセットから抜いた。
弟が口をとがらせて振り返る。
「そんなものばかり見てないで、ちゃんと鬼太鼓の手入れでもしなさい!」
姉が仁王立ちのまま怒鳴るので、わかったよ、と捨てぜりふを残して立ち上がった。
「今日はマンハッタンに出かけるんだからね。世界中の仲間が集まって雷を落とすんだ
から、そそうはできないわよ。わかった?」
弟は手を振ることで返事にかえた。
「まったく人間世界の何が面白いんだか。とくに日本なんか環境破壊のせいで雷を落と
す日が少なくなったんだから。このままいったら私たちだってリストラされるかもしれ
ないのに……ホント、莫迦なんだから」
姉は虎縞のビキニを指先で弾くと、背負った鬼太鼓を雲から下に投げたい衝動にから
れた。「私たちだってね、許されるなら景気よく雷を落としたいのよ。ホント、もっと
景気が良くならないかしら。ストレスたまっちゃう」
姉は地上に向かって舌を出したが、地上の人間は気がつくことがない。
昔、怖いものは地震雷火事親父だったが、今ではリストラ賃金カット職探しなのだか
ら。のんきに空を見上げる余裕なぞ誰も持ってはいなかったのだ。
***
アナウンサーが低音を響かせ、記事を読み上げている。
「ツクシランからマゼラン星経で発生した巨大磁気嵐はしだいに勢いを失い、現在、星
間航路も通常運行へと復旧の見通しがたったようです。なおG1で発生した中性子爆発は
次元振動を伴い、近隣諸惑星は引き続き警戒を怠らぬよう気象台では注意を呼びかけて
います。
――今日の星間天気予報に続きまして、リビオングで開催中の評議会を中継したいと思
います」
テレビカメラが演台に立つ三本足の巨人にピントを合わせる。広大な空間には何万人
という諸惑星を代表する人々が固唾を飲んで巨人の言葉を待っていた。
「……これらの映像を見て分かるとおり、ヒトと呼ばれる存在は精神の階梯をのぼるこ
となく、戦争や破壊に明け暮れているのが現状です。ましてや仲間の首を切るなど高等
生物とは思えない仕打ちをする始末です。我々自然保護団体は地球生態系にとって有害
なヒトをリストラ――つまり生態系の再構築及びそれに関連する諸法案を提案しまし
た。最近、地球ではリストラが流行みたいですし、彼らも素直に受け入れてくれること
でしょう。ぜひ皆様の賛同を!」
トランスレーターで各言語に翻訳された演説は圧倒的な拍手をもって可決された。
***
地球に向かって伸びる巨大な雷の触手があるとは雷様も気がつかなかった。人間から
空を見上げる余裕が消えたように、雷様にも宇宙を見上げる余裕がなかったのだ。
そしてひときわ大きな雷がマンハッタンに落ちた。アース出来ない雷は火力発電所を
崩壊へと導き、都市に闇が訪れた。燃えさかる炎とサイレン灯が付近をゆるゆらと照ら
している。
「すごい雷だねえ。ビルくらいの太さはあったよ。私たちも負けてられないよ!」
姉のバチさばきにも力が入る。弟もそれに呼応して奇声を張りあげる。
「今日は祭りだ! 祭りには花がなくちゃねえ」
「おうよ」
弟も一人前にこたえる。
雷が地球を包み、放電した火花は地球を恒星のように煌めかせる。やがて祭りが終わ
り静寂がおとずれた。
朝日が昇ろうとも、語ることが出来るヒトは誰もいない。ただ雷様だけが、満足した
ように高笑いを響かせていた。
--終わり--
#61/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:31 (245)
『貧乏くじ』 --パパ
★内容
どうして私は貧乏なのだろう? 財布の中には千円札が2枚しかない。それが全財産
だ。財布をデスクの引き出しに入れ鍵を掛けたのは、無駄遣いする性分だからだ。給料
日まであと五日。我慢のしどころだろう。腕時計に眼を向ける。急いで研修室から居間
へと場所を移す。
日曜の夜八時は特別だった。地域ローカル局で制作された人気番組「マジにガチンコ
――しゃべりんぼう」が放映されるのだ。一時間に渡るトーク番組を観るために、博士
はどんなに熱中している研究でも放り投げてしまう。番組の開始五分前にはお気に入り
のソファに腰掛け、ワイングラスを傾ける。短い足を組み、空いた手でポテチをつま
む。博士にとって至福の時間だ。
司会者がメガネを人差し指で押し上げ、今日のテーマは「両親と報恩」だと告げてい
る。博士は細い眼を無理矢理ひろげ、そうそうそれが大事なんだ、とつぶやいたりうな
ずいたりポテチを頬張ったりしている。足下にポテチの破片が散乱していくのにも気が
ついていない。私はそれを手で摘み、ティッシュの上に集める。片づけるときテレビと
博士の直線上に被さってしまったらしい。
「画面がみえん。邪魔するでなもし」
博士は東京生まれの東京育ちと主張しているが、嘘だと思う。
「さっさとどきんしゃい」
私は黙って後ろに下がる。
テレビからは討議とも討論とも呼べないようなお喋りが届けられる。スイッチを切っ
てしまいたいところだが、そうもいかない。
「恩っていうけど、産んでくれって頼んだわけでもないですし、勝手に作ったんでしょ
う。黙って製造物責任をはたせばいいんです。それに親だから言うこときけというのは
可笑しいと思います。『お前のためを思って』なんて言うけど、恩着せがましいですよ
ね。子ども離れしなさい、と私は主張したい」
ニキビを満開に咲かせた少年がのたまう。博士のこめかみがひくつく。
「そうそう、親ってえ、かったるいし〜、なんか金くれればいいだけっていうか〜、話
し合ってもうざったいし〜どうでもいいんじゃないの〜」
画面のなかで笑ってる少女は、素顔を隠し化粧という仮面を被っている。もっと無垢
であっても良いと思うのは私だけなのだろうか。前回、制服着てショーツ見せるだけで
お金になると声をあげていたが、今回も初々しさの欠片も見られない。
「死んだら死んだで保険金はいるから、さくっと死んでよね、事故死で。って感じです
よね」
発言したニキビ男が嗤う。参加してる少年少女が相づちを打つ。
博士が奇声をあげたのは、その瞬間だった。脱兎のごとく部屋を飛び出していく。ド
アは開け放たれたままだ。落ちたポテチの袋をテーブルに戻し廊下を覗くと、博士とぶ
つかってしまった。床に腰を打つ。足下に白い珠が転がってくる。ピンポン球のように
も見えるが、掴んでみると硬くざらついた感触があり別物だと分かる。転倒した博士も
腰をさすりながら立ち上がる。
「痛いじょわ、どこを見てるんぞなもし?」
それは私の台詞だろう。それでも言葉を飲み込み、別なことを尋ねる。
「何ですか、これ」
白い珠を博士に差し出す。博士は受け取りながら、
「今日という今日は我慢ならんぞな。お蔵入りにしておいたが、あの莫迦たれどもに、
使ってやるんぞなもし」
博士が珠を天に突き刺す。私は好奇心の赴くままに、
「どうやって使うんですか? それに何ですか、これ?」
「使い方は簡単じゃ。猿にもできるぞなもし。先ず表面に漢字を二字書く。次いでその
文字を相手に向ければ、その通りになるんぞなもし。強いて名をつけるなら催眠暗示信
号変換器というところかいのお」
博士はさっそく懐からペンを取り出し、筆を走らせる。文字を前面にしてテレビ画面
に向かって勢いよく突き出す。
「この時の運動エネルギーを催眠暗示信号に変換するわけぞなもし。注意点はひとつ。
ちゃんと相手の眼に向けて突き出さないと効果はないぞなもし」
「はあ」
「気のない返事じゃのお。蛇足じゃが環境には優しくないぞなもし」
「なるほど」
相槌は打ったが、理解できたわけではない。博士の頭の中は異次元空間だ。常人には
理解不可能。私はとうの昔に真の意味を探ることを止めていた。もちろん科学的な説明
も。
博士は何度となくテレビに突き出すが、変化はない。スタジオでは相変わらず好き勝
手なことを発言している。
「おかしいのお?」
博士は首を捻る。
「あのお博士、それって録画された映像にも効くんですか?」
「生きてる人間にしか効かないに決まっておるぞなもし。……これって録画か?」
「だって編集されているじゃありませんか」
「う〜む。生放送だと思っておったわい」
博士が珠をテーブルに置き、椅子に深く腰掛けた。どちらにせよ、テレビを通してで
は効力を発揮しないと思ったが、触れないでおくことにした。テレビを通さなくても効
果があるか疑問だが、試してみれば分かることだ。珠を手に取ってみる。表面に『報
恩』と書いてある。私は珠を博士に勢いよく突きだした。
思わず叫び声をあげてしまう。珠の表面からのびた赤い光が稲妻となって博士を貫い
たのだ。手首を返して珠を見る。文字は消えている。頭を上げ、博士に視線を戻す。し
わくちゃの顔をさらに歪め、大粒の涙を恥ずかしげもなく曝す博士がいた。
「君がいつも献身的に尽くしてくれているのに、わしは安月給でこきつかっておった。
許してくだしゃれ。ううううう」
博士が私に抱きついてくる。私の胸板に顔を沈め、買ったばかりのセーターを湿らせ
る。
「いやあ、博士。私こそ感謝してます。感謝してますけど、給料あげてください」
「もっともじゃ。今までの二倍、いや三倍払おう。もちろん賞与は十二ヶ月分じゃ。そ
れぐらいでは償いにはならんぞなもし。しかしわしの精一杯の気持ちじゃ。うううう
う」
私は博士の頭を静かに撫で、
「それとこの珠くれますか?」
博士を優しく後方に押し、尋ねてみる。こんな便利なもの、使わない手はない。
博士は、いいともいいとも、とうなずいてくれた。
「では、これで帰らせていただきますね」
頭を下げ、部屋を出て行く。博士は玄関までついてくる。大げさに手を振り、「また
明日来てくだしゃれ。待っておるぞなもし」と涙声で見送ってくれた。
小路から交差点を抜けるとコンビニ前にたむろしている若者がいた。特攻服を着てヤ
ンキー座りをしている。上目使いに睨むのは周囲を威嚇しているつもりなのだろう。思
わず視線を逸らしてしまう。私は自分の反応が少しばかり情けなく、面白くなかった。
珠に『正座』と書き、特攻服に向けて突き出す。三人座っているので、突きだしてから
扇状に珠を振る。稲妻が三人を貫く。私はそのまま歩き始める。横目で若者を見る。コ
ンビニの前で正座する若者たち。普段見られない光景に思わず笑みがこぼれる。
コンビニから出てきた仲間なのだろう。背後で声が響いた。
「なにやってんでえ。馬鹿やってんじゃねえよ」
「あん。これがトレンドなんだよ」
正座している男が返答する。残り二人も、「そうだそうだ」と口にする。
コンビニから出てきた仲間は、もう一人いたらしい。声の甲高さでそう判断した。
「あのやろーが変な光を浴びせたんだ。ガラスごしにアタイ見たよ。それでお前ら正座
してんだよ。訳わかんねえけど、あいつのせいに決まってる」
「何でもいい。捕まえやる!」
振り返ると、特攻服の裾を巻き上げて迫る原始人がいた。顔も腕も毛深く、筋肉の発
達した体躯は野蛮そのものだ。もう一人は女性だった。甲高い声は彼女のものだろう。
私は急いで珠に文字を綴り、二人に突きだした、二人の動きが止まる。私が書いた文字
は『停止』だった。二人の表情は動かない。額に浮かんだ汗だけが、つたって流れてい
る。珠に『帰宅』と書いて、彼らに向けて突き出す。二人は無言で踵を返す。
私は用心することにした。不思慮に使うのは危険のようだ。ガイドレールに腰掛けな
がら思考をまとめる。
博士は私が珠を使ったことにたいして触れなかった。張り紙するな、と書かれた張り
紙と同じで、それ自体は無視されるのだろう。正座した若者たちも珠から発する光につ
いては触れていなかった。普通なら、まばゆいばかりの閃光に気がつかないはずはな
い。
この珠のメカニズムはブラックボックスでも構わないが、知りたいこともある。暗示
の持続時間だ。その問はすぐにとけた。特攻服の三人組が追いかけてきたからだ。腕時
計を見て、持続時間はせいぜい五分ぐらいだと当たりをつける。
ん?
これでは給料が上がらないではないか!
頭にきた私は『朦朧』と書いて突きだした。光が貫いても、三人組は止まらない。
「なぜモウロウとしないんだ!」
叫んだ瞬間に答えが浮かぶ。難しい漢字が読めないからに違いない。読めない漢字で
は効果がないのだろう。
次いで『停止』と書く。だが文字が書いた側から消えていく。一度使った漢字は再利
用できないようだ。リサイクル不可ということか。すったもんだとしている内に三人組
はすぐ近くまで来ていた。
「この野郎! 上等だ、まちやがれ」
三人組は、怒髪天を突いていた。文字通り髪を逆立てている。さっきから止まってい
るのに、まちやがれ、とは馬鹿なやつらだ。そう思った私は『馬鹿』と書いた。これな
ら大丈夫。口から泡でも吹いて踊りまくればいいさ、と半ば嘲笑していた。確信にも近
い想像は叶えられなかった。彼らは勢いを殺すことなく向かってきている。もともとが
馬鹿なのだから変化がないのか。溜息と同時に妙案が浮かんだ。『逆転』と書いて珠を
突き出す。
「れがやちま、だ等上 !郎野のこ」
舌を噛みそうな台詞を吐き捨て、三人組は逆走していく。後ろ向きに走る三人組は角
を折れる寸前で原始人と女性の二人組とぶつかった。ぶつかっても逆送しようとする三
人組。怒声をまき散らす二人組。彼らも訳が分からなくなったようだ。私はタクシーを
拾い、その場から離れた。運転手に行き場所を告げる。目的地は夜の盛り場だ。車中で
この珠の使い道について考えてみる。たとえばこのタクシーだ。『無料』と書けば運賃
を踏み倒せるだろうが、五分後には運転手が追いかけてくるだろう。いや、五分間の間
に姿を隠せばいい。しかしせこくないか? 確かにせこい。もっと大きくいこうじゃな
いか。銀行で使えばどうだろう? 金持ちになれるだろうか? 文字は何を選択すべき
か。思い浮かばない。だいたい五分後には元に戻るのだから始末が悪い。博士の発明品
はこれだから困るのだ。いつも中途半端だ。
とりとめのない思考の糸が切れたのは、運転手が車を止め「着きましたよ。970円で
す」と言ったからだ。
「はいはい。待ってくださいね」
重ね返事でこたえる。私は尻ポケットから財布を取り出そうとして、代わりに珠を突
きだすことにした。研究室に財布をしまったのを忘れていたのだ。
運賃を受け取ろうと振り向いた運転手を光が貫く。運転手は間延びした声で、
「本日は無料で〜す」
「あっ、そうですか、どうもすいません」
とりあえず頭を下げておく。ドアが開いて、私はゆっくりと足を運ぶ。ドアが閉じる
と、タクシーは去っていった。一息つく。タクシーの運転手が五分後に戻るか戻らない
のか、それは分からない。客が乗れば、わざわざ私を探しにくることはないだろう。と
はいえ不景気の今、五分以内に客がつくという保証はない。運転手が戻ってきて運賃を
請求したらどうする。無料って云ったじゃないか、と突っぱねることは可能だろう。そ
れが口論に発展するかもしれない。愉快な事態ではない。とりあえず場所を変えて、ス
ナックにでもしけこうもうか。そうだ。それがいい。スナック・マーキュリーに行こ
う。明美ちゃんのナイスバディを拝むことにしよう。つけもきくし。
私は上機嫌だった。明美に向けて『恋人』と書いた珠を突きだしたら……想像するだ
けでニタつける。『愛人』もいいかもしれない。『恋愛』という手もある。
歩道を歩きながら妄想を膨らませていると、道行く人と肩がぶつかってしまった。
「あ、どうも」といって小さく頭を下げる。振り返った相手は、頬に傷があった。
「どうも? あー、なんだそりゃあ」
髪の毛を短く刈り込んだ男は肩を怒らせながらすごんでくる。
「いや、あの」
どう対処すればいいのか、とっさに思い浮かばず、言葉を濁してしまう。
「あのなあ、坊や。人にぶつかったらスイマセンって謝るのが人の道よ」
男は両手をズボンのポケットに入れ、私の顔をのぞきこむ。わずか20センチの距離
だ。
「スイマセン」
私は頭を下げた。横目で人の流れを見るが、誰もが避けている。河川に浮かぶ中州の
ように私達の周りだけが別空間になったかのようだ。
「誠意がねえんだよ。嫌々やってんのが見えんぞ、ゴルァ!」
「スッ、スイマセン」 何度も頭を下げる。
「誠意がないっていってんだよ。誠意が」
男は掌を上にして私の顔前をヒラヒラさせる。
「あのお、誠意って?」
「誠意ったら誠意だろうがあ」
男が親指と人差し指で円をつくった。
「もしかして……お金ですか?」
「あー、俺は誠意っていってんだよ。何度もいわせんなよ」
幸いというか不幸というか、私はお金を持っていない。特攻服が追いかけてきたとき
は距離があったために余裕もあった。その余裕も今はない。それでも私は珠に文字を書
いて難を逃れることに決めた。他に方法がないからだ。
珠に書く文字は決まっている。『誠意』だ。欲しがっているものをくれてやるのだか
ら喜びやがれ、こころのなかで呟く。
私が『誠』と書いてる途中で、男に胸ぐらを掴まれる。
「あそんでんじゃねーよ。誠意見せろっていってんだろ」
男がつま先で私のスネを蹴り、私を突き放した。瞬間的な激痛で珠を落としてしま
う。軽い音とともに珠が割れる。粘液質の液体がアスファルトに流れ、小さな人形が這
い出てくる。人形は博士に似ている。しわくちゃで細い眼、それに雰囲気が似ている。
人形は立ち上がり笑みを浮かべ、「び」といった。本当は続きがあったのかもしれな
い。男が人形を踏みつぶしてしまったから続きがきこえなかったのだ。
「どうも誠意ってやつを身体に教える必要があるようだな。坊や、高い授業料だぜ」
男は指関節を鳴らし、私に近づいてくる。
次の日、私は博士の研究所に出かけた。
「あっ、博士おはようございます」
痛む口で精一杯明るさを演出する。
博士は声を上げて笑う。腫れ上がり丸くなった私の顔が可笑しいのだろう。笑うなら
笑えばいい。
「喧嘩でもしたんかいな」
腹を押さえながら博士がのたまう。理由を訊かれても、正直には答えられない。
「まあ男じゃから、色々あるわいのお。それよりも面白いビデオがあるぞなもし。一緒
にみんしゃい」
博士が私の手を引き居間へと向かう。部屋に入り、私は驚いた。テレビ画面の中に私
がいるのだ。博士もいる。私が珠を手に取っている。博士が泣いている。これは昨日の
出来事ではないか。
「隠し撮りしてたんですか?」
口を尖らせたつもりだが、うまくいかない。
「防犯ビデオじゃ。人聞きが悪いぞなもし」
「私のしたこと、怒ってますか?」
「満月顔を見れば怒れんぞなもし。正直に事の顛末を話すがよろしい」
博士の目に優しい光が宿った。私に着席をすすめ、冷えた麦茶を持ってきてくれた。
私は一息ついてから、昨日の出来事を話し始めた。博士はメモをとりながら耳を傾け
る。
「……というわけなんですよ。とんだ災難でした」
「自業自得じゃのう。死んだ親父なら『なまらはんかくさい』と大目玉くらっておるぞ
なもし」
「はあ……ところで、あの人形はなんだったんでしょうか? 動いていたようですが」
「駆動エンジンぞなもし」
「人形が、ですか」
「そうぞなもし、駆動エンジンに貧乏神を使ったんぞなもし。作ったはいいけど、試す
のははばかれたぞなもし」
「なるほど、それでお蔵入りしていたんですね」
確かに貧乏神がメカニズムの根本なら、何をやっても貧乏くじをひきそうだ。ためら
う気持ちもわかる。作る気持ちは分からないが……。
「それでもトーク番組を見て腹が立ったから、使おうとしたわけですか。なるほどね
え」
謎は全てとけた。実際は謎だらけだけど、そのときはそう思っていた。
「はんかくさいのお。テレビに向かって珠を突きだしたって意味はないぞなもし」
「えっ、……それはそうですけど。ではなぜあのような真似を」
「自分以外の誰かに試してもらいたかったからに決まっておるぞなもし」
博士は一体何を言っているのだ。
「正直に話せば嫌がるだろうし、駆動エンジンが貧乏神だということを隠して試させて
も、良き結果が出なければわしを恨むだけぞなもし」
「それはそうですけど。えっ、では自業自得って」
博士は口元を歪め笑いを堪えている。やがて口を開き、
「分かっていると思うが、大事な研究品を壊したのだから、減給ぞなもし」
極上の笑みを浮かべてのたまう。その笑みは貧乏神のものと似ている。少なくとも今
の私にとっては同一人物としか思えなかった。
--了--
#62/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/16 04:32 (185)
『ハッピー・バースディ』 --パパ
★内容
オホーツク・ロードを回り水穴山に向かうと谷間の開けた場所に小さな村がある。女
将一人できりもりしている桂木旅館は村に一軒しかない宿泊施設だった。しなびた宿か
ら伸びる下り勾配の道は砂利道で、櫻川と併走している。道伝いに白樺林を抜けると如
月湖が臨め、曇天の午後、銀幕のように静まっているのを楽しむことができる。窓辺に
頬杖をつき視線を泳がす。櫻川から湖へと流れ込む水は清く、都会の河川とはまるで違
うことが分かる。腐敗臭の代わりに深く息を吸い込みたくなるような精気が宿ってい
る。
教祖が詐欺罪で逮捕され、はや三ヶ月。私から神は消えた。信仰も捨ててしまった。
それからは当てもなく彷徨っている。金がつきればアルバイトでしのぎ、今はへんぴな
この村で四日ばかり時を過ごしていた。
ノックの音で振り返る。小さく挨拶を交わす。
「お兄ちゃん、ひまかなあ?」
桂木旅館の一人娘、綾子がふすまを開けて小首を傾げる。私はノートを閉じて、「ま
だ見せられない」と呟く。
「今日は私の誕生日だから、プレゼントしてくれるよね。お兄ちゃんの詞。約束破った
ら針飲ますぞー」
綾子が頬を朱に染めて、小さな舌を突き出す。小学五年生、無垢なまま育ったのだろ
う。
昨日、綾子は教えてくれた。
――お兄ちゃん、誕生日ってその日を祝うんじゃなくて、その日に生まれてきたこと
を祝うんだよ。歳をとったからもう誕生日なんて嫌だ、なんていってたけど、それって
間違ってるよ――
なんて純朴なんだろう。自然を相手に陽の光を浴びて真っ直ぐに成長したのだ。純真
で素朴な振る舞いが今の私には心地よく、それでいて目を逸らしたいような複雑な感情
を抱いている。
「難しいかなあ」
正直いって馬鹿な約束をしたものだと思う。彼女の家が信仰を持ってると知ったとき
に、口を滑らせてしまったのだ。
「神様の詞、期待してるからね。約束だよ」
彼女はふすまを閉めて去っていく。パタパタとスリッパが廊下を打つ。針の代わりに
溜息を飲み込み、ノートをひろげて小声で読んでみる。
『Hallelujah!』
普通の女の子に戻りたい!
――麻薬漬けの少女が声をあらげた
幻覚を抱きしめても 心は砕けていく
両手を血に染めても 悪夢は終わらない
両脚を返せ!
――地雷を踏んだ少年が叫んだ
消毒液の香りから覗く 四角い空
翼をもがれた雛鳥は 飽くことなく見上げている
死人の瞳には 失った自由しか映らない
死にたくない
――家族を養うため少女は身を売った
監獄の小部屋
裸体を通り過ぎていく 蠢く蟲たち
無骨な指で切り刻み
いたぶり 噛みつきながら
陵辱とAIDSを刻みつける
汚染された躰
汚水になった精神
どこまでも墜ちていく
奈落の底でも救われない
ハレルヤ!
全知全能なる神が創りたまいし
素晴らしき世界に祝福を
闇の中に響く 大人たちの笑い声
子供たちへの贈り物
不幸という名のハレルヤ
ハレルヤ!
ハレルヤ!
闇を光 力を正義と名付け
全てを喰い尽くす腐敗の創造神 ハレルヤ
読み終えてから首を振る。綾子には見せられない。だからといって神を称える詞は、
今の私に創れない。畳に身を横たえ、畳表から飛び出た麻糸を指でもてあそぶ。それに
飽きると黙って天井を見つめる。白い壁紙を貼り付けただけの天井は、年月でかなりく
たびれている。黒ずんだシミが人の顔に見え、やがてそれは教祖の顔立ちになり、私は
呪詛の言葉を投げつける。それにも飽きると柱時計の秒針の音に合わせて呼吸を整え
る。心の波が静まり、やがて柱時計が時を告げる。立ち上がり、スケッチブックを取り
あげた。指先でめくる。描きためた風景画の狭間で綾子は笑っている。パステルで着色
した似顔絵。彼女は三つ編みを指に絡め、何の疑いもなく微笑んでいる。私は似顔絵を
引きちぎり、テーブルに置き、転がっていた鉛筆を拾い上げた。ゆっくりと、天なる父
は貴方とともに、と綴る。口元から嘲笑が漏れ、胸にむかつきを覚える。湿った指先で
紙を二つに折り、封筒にいれる。
季節はずれの泊まり客は私しかいない。食堂での夕食は綾子と母親の女将、それに私
の三人だけと寂しいながらも家族を得たようで少しばかり嬉しかった。女将は気さくだ
し、綾子は初対面の私を兄として慕ってくれている。人が触れあい分かり合うのに長い
時間は必要ない、そう錯覚させるだけの許容量を彼女達は持っていたのだ。小さく笑う
綾子に対して、母親である女将は豪快に笑う。裏山でとれる山菜と湖で揚げられる小魚
を主とした料理を女将は地産地消と笑い飛ばす。素朴な味付けと焼き魚から漂う香ばし
さに私は満足した。綾子は私のコップにビールを注ぎ、サービスよ、といって片目を瞑
る。久しぶりのアルコールは喉にひりつく。一気に流し込み、コップを置く。綾子が女
将に目配せをする。そろそろね、といって女将は厨房からケーキを持ってきた。黒塗り
のテーブルに鎮座した白いデコレーションは荘厳に見える。ロウソクを数えると両手で
も一本足りなかった。火を点けてから女将が天井灯を消す。綾子は頬を膨らませ、一息
では消せずに二度三度と吹いた。
「ハッピーバースディ、綾子ちゃん。誕生日おめでとう」
拍手を終えてから、女将が明かりをつける。私は彼女に封筒を手渡した。
彼女の指先は華奢で白い。彼女が紙を取り出したとき、恥ずかしくて目をそらす。
「ありがとう、お兄ちゃん」
綾子は席を立ち、私に両腕を回した。私の心臓がきしむ。綾子は私から離れると、
「でも私こんなに美人じゃないよー」
といって小首を傾げる。そんな綾子の癖を見て、私は微笑まずにはいられなかった。
「女将さんが綺麗だから……母親譲りだよ」
私の台詞に女将は黙ってビールを差し出す。
宴が終わり、私は部屋に戻った。楽しい一時、本当に楽しかった。屋根を打つ雨音も
最初は甘美に思えた。その思いは長く続かない。雨脚は衰えず勢いはますばかり。私は
綾子が敷いてくれた布団にくるまり雨の奏でる喧噪を子守歌にした。
轟音が訪れたのは寝入りばなだったのかもしれない。意識が朦朧としていたので、自
分でもはっきりとは分からない。私が目覚めたのは、衝突音とともに泥水が背を打った
からだ。霞む視界の先、スローモーションで壁が崩れていく。窓枠が弾け、ガラスが砕
けていく。水滴が乱舞し泥が踊る。小石が舞い上がり、暴れた水流が私の躯を流してい
く。
訳も分からずに、気がつけば湖まで流されていた。泥を吸い込んだ私はもがき、水面
に顔を出すと反吐を撒き散らした。雨が私を打ち、全てを洗い流す。私は岸へ向かうた
め流れ込む水に逆らって泳ごうとした。その私の腕を誰かが掴む。触れると、小さな手
だと分かった。
「綾子か」
振り返る。蒼白の綾子がいる。私と視線が絡むと小首を傾げ笑みを浮かべた。三つ編
みはほどけ泥にまみれているのが薄暗闇でも分かる。彼女は胸元の水を掻いてから指を
組み、天なる父は貴方とともに、と云った。私は綾子の手を引き、「岸へ行こう」、と
叫んだ。その手を引いても綾子は動かない。岸まで目測で二〇メートルぐらいだろう
か。旅館から湖の縁まで百メートル以上の距離があったはずだ。よく生きていたと思
う。綾子の手を引く。だが彼女は動かない。
「女将さんは無事か?」
雨音に負けないよう、声を張りあげる。綾子は首を振った。
「厨房で後かたづけしていたら、ドンっていう大きな音がして……」
「女将さんは?」
「大きな石が壁を破ってお母さんに当たったの……気がついたらここにいて……家ごと
流されたのね」
綾子の目から流れていたのは雨の滴なのだろうか。
「女将さんは大丈夫だよ」
自信はなかったが彼女を元気づけるにはそういうしうかない。土石流だとしたら、一
度で終わるとは限らない。長居するのは危険このうえないはずだ。
「さあ、岸に戻ろう。安全なところに逃がしてあげる。それから私が女将さんを助ける
よ」
綾子の手を引く。綾子はその手を払った。
「お兄ちゃんだけ逃げて」
「馬鹿いうなよ」
私は綾子の肩をつかみ、引きよせようとした。だができない。綾子は苦しそうにうめ
き声をあげる。何かが邪魔しているのだ。私は綾子の身体を伝って水に潜った。綾子の
腰から足を伝う。彼女の足首が何かに挟まっている。触ると四角く長い。旅館で使われ
ていた梁か柱のようだ。それに金属の冷たい感触も存在している。建築材などの角材が
複雑に絡み合い綾子を拘束しているのだ。彼女の足を抜こうとするが抜けない。何度か
試しても駄目だった。息が続かない。水面に戻ると胸が苦しく目が痛んだ。
「お兄ちゃん、逃げて!」
綾子が私を突き放した。
「大丈夫。お兄ちゃんが何とかしてあげるから」
私は再度潜る。角材を引き抜こうとして、代わりに指の爪が剥がれる。怒りにまかせ
拳で殴りつけても、動かせない。彼女の足は挟まったままだ。水面に戻ると息が荒かっ
た。咳き込んでしまう。
「お兄ちゃん……」
綾子の肩までしかなかった水が今はあごに届いている。
「お兄ちゃんの描いてくれた絵、なくしちゃった。ごめんなさい」
「何度でも描いてあげるよ。今度はちゃんとした詞も書く。まあ、任せてくれ」
綾子の躰を伝い下へと向かう。潜った水の中は灰色で視界は開けない。指先で綾子の
足首を探り当て、力任せに引き抜こうとする。だがどうしても抜けない。絡み合った角
材を解くことができない。
息を吸いに戻る。水はすでに綾子の口元にまで来ていた。綾子が私の頬を撫でる。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
「綾子!」
「……」
彼女の唇が水に隠れた。私は吸い込んだ息を彼女に流すために唇を重ねる。彼女の手
を握り再び重ねる。三度目のとき、彼女の指先から力が抜けていった。あぶくだけがイ
タズラに浮かんでは消えていく。それもやがて生まれてくることをやめた。水面には彼
女の黒髪が揺れている。右に左にゆれ、それすらも消えていく。私はただ絶叫すること
しかできなかった。
どれだけ時が流れても、桂木旅館の想い出だけは色褪せない。如月湖から水穴山を見
上げれば、今でも旅館が建っている――そう想像してしまう。しばらくは露出していた
岩肌も今では灌木をまとい、風に遊ぶ草が波のようにうねっている。湖は静かなまま何
も語ろうとはしない。岸部に立ち、スケッチブックを開く。描かれているのは綾子の似
顔絵だ。右隣に女将が立ち、左には私が立っている。デコレーションケーキを前にした
綾子は小首を傾げ笑顔を咲かせている。
「私も歳をとるわけだ」
独り言をいいながら、色鉛筆でロウソクを三十三本描き足す。死に直面したときでさ
え他人を思いやる事ができた綾子。私にはとうてい真似できない。
彼女の最後の言葉。彼女は何を告げようとしたのだろうか?
私は、天なる父は貴方とともに、だったと思っている。無力だからこそ、人間は神に
祈らずにはいられなくなるのだろう。私は痛いほどそれを知っているのだ。それでも私
は神を選択しない。
ペンを取り、綾子の横に一文を綴る。
『天なる綾子は私とともに。ハレルヤ』
紙を引きちぎり、湖へと流す。ゆるやかに漂い、水に侵され沈んでいく。
「ハッピーバースディ。綾子……」
--了--
#63/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 03/02/16 21:40 ( 43)
お題>焼け! $フィン
★内容 03/02/16 22:32 修正 第2版
おばあちゃん、またあのお話をして、今日も暖炉にあたりながら、可愛いひ孫がわ
たしに語りかけてきます。私はもう年です。もうとっくの昔ににお迎えがきてもよい
年です。この可愛いひ孫が知らない恐ろしいお話をしてあげましょう。
私の家族はアリサが嫌いでありました。アリサは美しい娘で、太めでにきびのある
私の家族たちとは違い、彼女は美しい娘でありました。美しいアリサに村の男たちの
関心が集まっているようでした。酒場で集まってもアリサの美しい姿に男たちの話で
持ちきりです。それを聞いている女たちは面白くありません。だけどもそんな美しい
アリサに男たちは話をするだけでなかなか近づこうとしないのでした。それというの
もアリサがこの地方特有の赤毛ではなく黒髪の持ち主のよそ者だということだったの
です。この村は保守的な村でありました。よそ者のアリサには辛いものであったので
しょう。
アリサは老いたロバと共に粗末な荷物だけを持ってこの村にやってきました。そし
て村外れの廃屋にただ同然で、彼女にとっては一財産であったのでしょうが、借りる
ことになりました。彼女は、村のどこにあるのか草をとって村人を治しはじめました。
薬学も発展して成分のはっきりしたものでありますが、その当時は薬学もない暮らし
であります。村人は蜂に刺されるとアリサの元にいき、熱が出るとアリサの元に行き、
アリサの元に行くとなんでも治ると、当初彼女は村の救い主となったものでありまし
た。だけどもある時、アリサの作った薬草を飲ませた後、ある子供がひきつけを起こ
し死んでしまいました。普通ならそれが子供の運命だったと諦めがつくでしょうが、
死んだ子供が村の有力者の子供だったから大変でありました。有力者の家族は怒りま
した。そして彼らはアリサに今まで持っていた悪感情を爆発させました。羊が死んだ
のはアリサのせい、牛の乳がとれなくなったのはアリサのせい、綿花が枯れたのはア
リサのせい、生まれたばかりの子供が死んだのはアリサのせいともろもろ悪いことは
すべてアリサがやったことになりました。そして都から名のある聖職者を呼び寄せ、
アリサを裸にさせ、あざがないか調べさせました。するとあったのです。小さなもの
でしたが、腰とお尻の間に赤く蝶のあざがあったのです。そうと決まると早いもので
す。魔女裁判です。水攻め、鞭せめもろもろの刑で魔女であることを白状させました。
そしてアリサは火あぶりにかけられました。ぼうぼうぼうと身体が燃え、村人はは焼
け! 焼け! 焼け! と騒ぎたてました。あたり一面肉の焼けるぱちぱちはじける
音と悪臭があたり一面に漂ったと言われます。そしてアリサは最後に「呪われよ子よ」
と呪いの言葉をかけたそうです。
それでアリサの処刑が終わったかのように思われますが、これには後日談がありま
す。この村で、アリサが魔女裁判をかけられる原因が子供がその後生き返ったのです。
そして有力者の家族は喜びその子供を普通に育てることにしました。その子は普通に
育って子をなし、普通に成長しました。ここらで賢明なあなたならわかるでしょうが、
その子供がわたしです。あなたはもう千才、そしてわたしは千三百歳です。この暖炉
の火を手に焼け! と念じてかざしてごらんなさい。肉がぱちぱち焼ける音が聞こえ
ますが、手はすぐ再生されてきます。私たちは身体を焼いても焼けることもなければ、
死ぬこともありません。アリサは死ぬ前に私たち一族に焼け! 焼け! 焼け! と
泣いて頼んでも死ぬことのない呪いをかけたのでした。この死の灰が降る無人の街に
私たち一族だけ残したのでした。ああ、アリサよ。私たちの魂の安らぎのあらんこと
を祈る。
#64/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/17 18:44 (128)
『ゼロ・タイム・ローション』 …… パパ
★内容 03/02/17 19:15 修正 第2版
美人なんだから仕方がない――私はいつもそう思っている。多分、今日もそう感じ
るはずだ。先ほど爆発音が轟いたが、それもいつもの事だ。博士の発明には破壊がつ
きものと相場が決まっているのだから。それよりも大事なのは、いまこの瞬間に自分
ができることに全力をつくすことだ。だから、私は業務に勤しむことに決めた。それ
に博士は忙しいときに借りたい猫の手を持ってるのだから、駆けつける必要はあるま
い、そう結論をつける。
「できたわよ〜」
私が全自動洗濯機で博士の下着を洗っていると、ドアが開いて明るい声が飛び込ん
できた。
「な、なんですか〜博士〜」
手に持った下着をしげしげと眺めていたものだから、返事も少しばかりどもってし
まう。私の肩書きは助手ということだが、実際は小間使いのほうが適当だろう。
「発明に決まってるじゃない!」
博士は、馬鹿ねえ、と言わんばかりに目を細めて首を振る。栗色の長い髪が揺れ、
柑橘系の香りが舞う。
「じゃ〜ん!」
博士の細い指先が握っているのは試験管だった。中に青い液体が入っている。どち
らかといえば青い液体より、雪を貼り付けたような博士の白い肌のほうに目が向いて
しまう。牛乳瓶の底と揶揄されるメガネを人差し指で持ち上げながら、試験管を見つ
めている振りをする。博士は空いた左手で、下着を掴むと槽の中に放り投げ、蓋を閉
めスタートボタンを押した。私の手にはまだカップチュ−ルレースを使用したブラジ
ャーの柔らかい感触が残っている。
「なんだと思う? これ」
博士が大きな瞳をくりっとさせながら、私の眼前に顔を差し出してきた。思わず口
を尖らすと、「そういうギャグは嫌いなの!」といって軽く私の頬を叩く。
「えーと、えーと、液体……」
博士は私の言葉を無視して身を翻し、「ゼロ・タイム・ローションなのよ」
「はあ、化粧水ですか」
「気のない返事ね……良く聞いてね。この液体に触れたモノは、この特殊中和試験管
以外という条件が付くけど、とにかく触れたモノの表面に膜をはり、その中の時間を
停止させてしまうの。面積が2.0uまでは試験管一本分のゼロ・タイム・ローションで
事足りるのよ。どう、すごいでしょう」
「す、すごいですね。世紀の大発明ですね」
お世辞でも、そういっておくと博士は上機嫌だ。
「でもね、ちょっとだけ欠点があるのよ」
「はあ……もしかして、さきほどの爆発音と関係があるのでは?」
「鋭いわねえ。いつも鈍いのに……。そうそう、下着を洗うときは酵素入り洗剤を使
わないこと、洗濯ネットに入れること、それを忘れないでね。あと実験に協力してね。
――それよりも、全然気がついてくれないのね。アナタの趣味に合わせて白衣もミニ
にしたのだけれど、似合わないかなあ? ハイかイイエで答えてくれる」
私が視線を下げると、博士の細い脚がミニの白衣からスラリと伸びていた。博士の
顔を見ると、はにかんだときに浮かぶ紅が頬に見受けられた。
「ハイ。似合います。感激だなあ……私のために服を選んでくれるなんて」
目頭に浮かんだモノをぬぐうと、博士は私の手を引き「同意してくれてアリガトウ」
といって研究室に連れていった。
研究室のドアを閉めるとき、博士が後ろ手で鍵をかけるものだから、私はある種の
期待を抱かずにはいられなかった。フロアの中央にベッドがしつらえているとなれば
尚更のこと。
博士は私をベッドまで導き、「先に横になってくれる」という。私はすぐに靴を脱
ぎ、ベッドに身体を横たえた。
「いつでもokです〜」
これから始まるのは夢のような時間だろう。胸の高鳴りを止めることができない。
博士はベッドサイドに置いてあったリモコンを手に取り、スイッチを押す。ベッド
から拘束具が飛び出し、私の手足を固定した。金属の冷たい感触を手首に感じてゾク
リとする。
「そんな趣味があったんですか〜。どうせなら逆のほうがいいなあ」
博士は極上の笑みを浮かべて、「実験への協力に感謝します」といった。
「えっ、実験って……」
もしかすると、これから始まるのは悪夢なのだろうか?
「人間に使うとどうなるか」
博士は平然と答える。
「あのう、さきほどは何を試したんですか?」
拘束具を見つめながら、尋ねてみる。
「ビール瓶」
博士の頬にエクボが浮かんでいた。
「それ、どうなったんですか」
「それがねえ、ローションが膜をはり、時間を停止させるまでに5秒ほどかかったの」
「で?」
「それでねえ、時間が止まると空間的にも停止するのよね。初めて知ったわ」
「……で?」
「地球の公転における平均軌道速度は29.8km/s。自転の速さは466m/sなのよ」
「はあ、自転でも音速より速いですね」
「音速の場合は0℃で1atmなら331.5m/sなのよね」
「え〜と、つまり何が言いたいのでしょうか?」
「地表からの第2宇宙速度っていうのは秒速11.18km/sなのよ。軽々と越えちゃうのよ
ねえ」
「つまり。左手の壁にあいている穴は、その時のものということですかあ」
「正解」
「……」
「健闘を祈る」
博士が軍隊式の敬礼をした。頬を膨らませると、試験管のキャップを外し、私の足
下に投げ捨てる。それからはコマ送りのように試験管が傾いていくのを見ていた。青
い液体は想像してたより粘りけがあるようで、糸を引いて落ちてくる。粘液体なのだ
ろう。
私の胸が青に浸食されていく。
「ビール瓶で五秒かかるなら、人間ならもっとかかりますね〜。もしかしたら試験管
一本では間に合わないのでは?」
私は博士のことを無条件で愛している。私が本当に彼女のことを愛していると、認
識できただけでも幸福なのかもしれない。
「大丈夫、心配しないで。人間の皮膚の面積は1.6uだし。それに生成出来てるゼロ・
タイム・ローションはこれだけなの」
視界が青に染まった時、死を覚悟した。私にこんな事をする相手が博士以外なら許
すことはできないだろう。やがて口の中にもどろっとした触感が広がり、呼吸するこ
とが苦しくなってきた。
「博士。サヨウナラ。アナタのことを愛していました」
そう告げたつもりだったが、声にならない声にしかならなかった。
私はこれから地球に捨てられるのだと感じたが寂しくはなかった。一瞬あとには大
気圏外に脱出できる速度で地球から置いて行かれるのだ。たぶん、燃え尽きることだ
ろう。
だがいつまで待っても、それは起こらなかった。閉じたまぶたを開くと、視界はク
リアになっていた。
「ああ、ダメかあ。そうよねえ。皮膚だけではなくて、胃や腸にも膜ははらさるもの
ね。膜が閉じない限り時間は止まらない……よりサイズの大きい特殊中和試験管を作
れない限り実用にはならないわね〜」
博士の表情に暗い影が浮かぶ。試験管を複数用意すればすむと思ったが、口にはし
なかった。どちらにせよ実用にはならないが。
「大丈夫ですよ。博士ならもっと凄い発明ができますって。不肖私めがお手伝いさせ
ていただきますから!」
染まったはずの胸の青色も消えている。ただ服は水に濡れたように湿ってる。膜を
はり損ねたためゼロ・タイム・ローションが変質したのだと推測する。
「そうね。今度はもっとすごいのを発明するんだから」
博士の声に明るさが戻った。
博士は右手で試験管を握り、左手でリモコンのボタンを押して拘束具を解除してく
れた。前手で私の頬を撫で上げる時、「力になってね」と鼻の上にある二つ目の口で
囁いてくれた。後ろ手で髪を掻き上げる仕草は、いつ見ても色っぽい。
「ええ、喜んで」
地球生まれの私は、異世界の博士に向かって頭を垂れる。好きなものは好きだし、
愛してるものは愛している。生まれた世界が異なっていても、それは変わらない。
たとえ博士の反応や行動が人間と違っていても、それは仕方のないことなんだ。
それに博士は美人だ。
彼女が私に何をしようとも、美人なんだから仕方がない――私はいつもそう思って
いる。たぶん、明日もそう思っていることだろう。
「洗濯物、ちゃんと干しておいてね。下着は陰干ししてね。忘れずに」
博士が私の背を押しながら、念を押す。
「は〜い」
こんな他愛ない毎日が、私にとっては心地よかった。
--- 了 ---
#65/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/17 18:45 (175)
『続、ゼロ・タイム・ローション』 …… パパ
★内容 03/02/17 19:19 修正 第2版
彼女が私に何をしようとも、美人なんだから仕方がない――私はいつもそう思ってい
る。
「洗濯物、ちゃんと干しておいてね。下着は陰干ししてね。忘れずに」
博士が私の背を押しながら、念を押す。
「は〜い」
こんな他愛ない毎日が、私にとっては心地よかった。秋も深まったとはいえ、今日は
小春日和だ。窓から差し込む日差しも暖かく、身も心も安らぎで満たされていく。
私はサニタリールームに移ろうとして歩きだした。博士は私の背に前手を置いたまま
付き従ってくる。振り返ると、怪訝な表情が浮かんでいた。
「どうしたんですかあ?」
私が尋ねると、
「この手が離れないのよ〜」
博士は単眼のまぶたを閉じながら、食物搾取専用の唇をかみしめ、鼻上にある会話専
用の口を半開きにしている。右足を私の背に当て、腕を抜こうとするが離れない。
理由は考えるまでもない。愛なのだ。
「愛ですか〜」
「なにいってんのよ。離れられないのよ」
博士の額に汗が浮かんでいる。
「それを愛っていうんですよ」
私の軽口もそこまでだった。
何か飛んでくるものが視界に入ったので、反射的に右手でつかんだ。それはカッター
ナイフだった。刃が出て無くて良かった、そう思ったのはしばらくあとのことだ。
「?」と思うまもなく、膝に衝撃を感じた。下を見るとカナダで買った文鎮が膝にぶら
下がっている。そのときは痛くて声も出なかったが、
「あうちっ!」
腹部に親指大のボルトが突き刺さるように飛んでくる。頭を巡らすと、先ほどまで寝
ていたベッドががたがたと音を立てながら近づいてきている。部屋の中の工作機械が振
動している。あたりが轟音に包まれ、私は恐怖感に襲われた。
ドアノブを握り、急いで廊下に飛び出る。ドアを閉めたのは博士だった。
一息つく。
「ドアノブ周りはアルミだからねえ。鉄を使っていたら出られなかったかも……よかっ
たわねえ、総アルミのドアにしていて。しかも防磁だし」
博士があきれたような顔で私を見ている。
「どういうことなのでしょう」
左手でズボンを引っ張っても汗ばんだ気色の悪さが抜けなかった。ゼロ・タイム・
ローションの名残かもしれないが……。
「ゼロ・タイム・ローションは膜を貼り損ねた為に、時間を停止させることはできなか
った。でもその過程で一軸結晶磁気異方性を強くしたのね。きっと」
「はあ?」
私が間の抜けた反応を返すと、「磁気モーメントの向きを一方向に固定しないと時間
の停止を開始できないのよ。ちょっと変な言い方だけど。まあ、その効力が残っている
のねえ。つまり、強力な磁石になってるということ。わかる?」
「はあ!」
じゃあ、なぜ博士の前手だけが私の背につくのだ。抱きつく形になってもいいだろう
に。私の疑問は口にしなくても博士に伝わったようだ。
「この手は特別だから……」
「特別といえば、博士と出会ってからちょうど1年たちましたねえ」
「この手は電子の方向をコントロールできるから……でも、今回はダメ。逆に弄ばれて
いる」
「一年前の今日、私が宇宙に流したメッセージに博士は答えてくださった」
「私の手がアナタの影響を受けて、磁石化してるのよ。保磁力が強くて離せない」
「宇宙一の美人に嫁さんに来て欲しい、なんて今考えれば笑えますよね」
「私の手が磁力化するということは、何かが生成されるということなのよ」
「いやあ、懐かしいなあ。遠い過去のような気がしてたのに、まだ一年なんですね」
「ねえ、私の話きいているの? その猿耳ちゃん、全然聞いてないでしょう。人の話」
「でも嬉しかったなあ。博士が来てくれて」
「――もう、アナタったらいつもこうなんだから」
博士は私と会話する気はないようだ。どうにも話がかみ合わない。まあ種族の違いが
ある以上、こういったことは日常茶飯事なのだが。
だからといって不満はない。それよりもかえって話がかみ合う部分に問題が潜んでい
る。
子供が欲しいといっても、まだ時期じゃない、と言われるし、どうやって作るの?
と純粋に医学的というか宇宙生物学的に尋ねても、女性にそれを尋ねるのは失礼でしょ
う、とたしなめられて会話が終わる。私はどうしても彼女との間に子供が欲しかったの
だ。首を振って、思考を止める。今はもっと大事なことがあるのだから。
廊下の蛍光灯がうっすらと灯りだした。私は磁界によるものかと思案した。蛍光管を
乾いた布でこすれば、水銀原子と電子が衝突することによって紫外線が発生し蛍光体に
作用するからだ。しかし、それは磁界では発生しない事を思いだす。となると私の身体
は電界の作用を持ちだしたことになる。一軸結晶磁気異方性うんぬんの出来事ではな
く、単に身体の中に電流が流れて電磁界が発生しているだけかもしれない。その量が大
きいから外界への影響が出ているというだけのことなのだろう。分かってしまえば他愛
のない話だ。
他愛ないと言えば、博士との出会いも他愛ない私の一念が実らせたものだった。
宇宙共通言語を解析したのが始まりで、それから忘れもしない……。
私が回想を始めようとすると、博士が左手で私の頬をつねった。
「い、痛いじゃないですかあ」
「物思いにふけてる場合じゃないでしょう」
博士の顔が汗でふやけている。汗は滴となり腕をつたい前手に達すると同時に光りだ
す。そこで私は妙な違和感にさいなまれた。それが何かはすぐに分かった。
私の身長は170センチと比較的小柄だが、博士は198センチと地球人の感覚からすると
大柄といえる。しかし、今その身長が3メートルあるように見えるのだ。
「博士〜大きくなりましたねえ。好物のウニ丼がきいたのかなあ」
と私が呟くと「アナタが小さくなったんでしょう。天井を見なさい」
確かに天井までの距離が異様に遠くなっている。
「蛍光灯がついた理由を考えれば分かるでしょう。電流を発生してるのはあなたのシナ
プスなのよ。とどのつまりイオン間結合力が強くなっている。しかも身体が小さくなっ
てることから、容易に推察できるのは……」
「容易に推察できるのは?」
容易に推察できないので、オウム返しする。
「分子間結合力が強くなっているということね。だから小さくなっていくのよ。もしく
は重力変異のせいかもしれない」
「このまま小さくなっていくとブラックホールになってしまうのでは?」
博士は大きく首を振った。息も荒く苦しそうだ。
「そんなことはない……ただ塊になるだけ……せいぜいコインぐらいの」
私はなんと言えばいいのか分からなくなっている。とりあえず、
「黒のショーツ、セクシーですねえ」といっておく。背が小さくなったからミニの白衣
なら見放題なのだ。ついてるかもしれない。
博士は笑いながら「本当に馬鹿なんだから」といって、顔をしかめた。私はずっと背
後を振り返る姿勢でいたため、首が痛んできた。その痛みが全身を貫く。体中に注射針
を射されたような激痛が襲ってくる。
「か、からだがいたいですう」
正確に発音出来なかったかもしれない。言葉を絞り出すのに、よだれまで垂らす始末
だ。何かするにも身体がきしむ。
博士の前手から青い液体が生まれ、私と博士の身体を浸食し始める。
ゼロ・タイム・ローションが生成されている! そのとき私は恐怖よりも先に安息を
感じていた。
「最初に会ったとき、あなた言ったわね。ワタシのためなら何でもできるって」
博士の顔は苦悶に歪んでいた。私は沈黙をもって同意する。
私の首は後ろに捻ったまま動かすこともできなくなっている。身長もすで50センチと
いうところだろう。
「なんでも出来るなら、我慢だってできるわね」
ゼロ・タイム・ローションが生成されるに従い、博士の身体がしぼんでいくのが分か
る。博士の種族における発明とは、科学的なものの他に、自分の体液を変異させ、分泌
させて作るものがある。だから精製とは呼ばず、生成とよぶことにしている。博士の身
体がしぼんでいくほどの量となれば、今回失敗することはありえない。そして今回の生
成は意図したものではないのだろう。強力な磁場に導かれてしまったに違いない。
博士の右手と左手が私の頬を包んだ。その指先から無数の触手が伸び、私の耳、それ
に鼻の穴からゼロ・タイム・ローションと共に侵入してくる。比較にならない痛みが全
身を渦巻いた。声にならない悲鳴を上げると同時に、痛みが和らいでいく。
「痛覚神経をブロックしたのよ」
博士は無理に微笑みをつくったのだろう。口元がへの字に歪んでいた。
「……」
言葉を絞り出すことはできなかった。機能を失ってしまったのだろうか。
「遺伝子情報は読み込んだわ。これからアナタの記憶をスキャンする。そうすれば刷り
込める……はずよ」
私の脳裏に生まれてから今までのことが高速度で上映されていく。走馬燈とはこのこ
とをいうのか。
博士の身体の大部分はゼロ・タイム・ローションで覆われている。私の視界も蒼く染
まり、見える光景も磨りガラスを通したように不鮮明になっていた。
博士の口が大きく開き、何かをはき出す。それは卵のように見える。それが私の見た
最後の映像だった。
ゼロ・タイム・ローションが膜を張り終えた刹那、私と博士は第二宇宙速度を超える
スピードで地球から置いてきぼりにされた。それも大気圏外に脱出する前に燃え尽き全
てが消え去った。
だがそれは終わりではなく、始まりだったのだ。
私たちは全てを見ていたのだ。一寸、不思議な気もしたが、当然のような気もする。
「私と一つになりたかったのでしょう?」
「ええ、そうです。博士の言うとおりです」
博士の言葉は質問ではなく、断定だったのかもしれない。
「私たちの子供が欲しかったのでしょう?」
「ええ、本当にその通りなんです!」
私の横に、博士の意識ともう一つあどけない意識が存在している。それはまだ不快と
か、眠いとか、原始的なものだが――それでも、私の子供の意識なのだ。
抱きしめたい、と思ってもそれは叶わない。
博士と私の意識は子供の中に刷り込まれたのだから。彼女たちの種族が子供を作ると
いうことは、こういうことだったのだ。
「大丈夫よ。この子が大きくなれば、文字通り三つに割れて、元に戻るわ。それまで一
心同体じゃなくて、異心同体ね」
博士は笑っているようだ。私もつられて笑う。
この子の身体はまだアメーバーと同じく不定型だ。ゆらゆらと揺らめきながら廊下を
這いずっている。どうやらお腹がすいたらしい。
「ウニ丼、食べたいなあ」
博士の思いに子供も同意したように波動を送る。
「コンビニに行って、プリンを買わないと作れないですよ」
冷蔵庫に買い置きがないのを思い出したのだ。
「この姿じゃ、外には出られないわねえ」
この姿でなくても、博士はコンビニに行けない、と思ったが口にはしなかった。
「思っただけで伝わるのよ」
私は少しおどけてから謝る。
時間がたてばウニ丼もつくれるようになるだろう。ご飯にプリンをのせ醤油をたらす
だけの簡単メニューなのだから。それだけで新鮮なウニと同じ味、食感が味わえるの
だ。
こうして私たちの他愛ない生活が始まろうとしている。それは私にとって心地よいも
のになるに違いない。ただ一つだけ今までと違う点がある。
美人なんだから仕方がない――私はいつもそう思っていたが、さすがにアメーバー状
態では『美人』とは言えない。
そんなことを考えていると、博士は、
「本当に馬鹿なんだから」
と伝えてきた。
やれやれだ。
---了---
#67/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/18 04:17 (200)
お題>『焼け!』 …… パパ
★内容
スマン。口が滑ったんだ。勘弁してくれ。
一応、頭の中で予行練習をしておく。妻に頭を下げるということは、男を下げること
に他ならない。日本男児を名乗るなら、死んでも口にしたくない台詞だろう。私だって
云いたくないが、実際にどちらかを選ぶとなれば、謝る方を間違いなく選択する。
トイレのドア、その張り子の板一枚向こう側で、妻の呼吸が嵐のように乱れている。
私はドアロックを解除して、ノブをゆっくりと回した。わずかな隙間から、妻の怒気
が流れ込むような錯覚に侵されながらも、呼吸を整えて平静さを装う。ノブを押してド
アを開けようとした時だった、妻がドアノブを勢いよく引いたのだ。おかげで私は転び
そうになる。
足下がふらつきながらも、予行練習のように台詞を口にする。
「スマ……」
「謝る暇あるなら、早く書きなさい! だいたいあなたはねえ。いつも、いつも、いつ
も口ばっかりでだらしなくて、ええ〜い、何でもいいから書きな〜さ〜い!」
妻のマシンガン・アタックは言葉の弾痕で私の気力を打ち抜いてしまう。
小声で「はい……」と答えると、「ほんじゃまか〜声が小そ〜い、しゃきっとせ〜し
ゃきっと」とどこの方言だか知らない言葉で攻めてくる。かなり切れてきている証拠
だ。このまま脳の回線でも切れてくればいいのだが、半身不随とかになると介護が面倒
なので、やはりやめてほしい。いや言語中枢が破壊されるなら、それでも我慢できるか
もしれない。
「ぼんやりしな〜い。遠い目で私を見るな!」
妻の鼻息が荒くなるに従い、私の心は小さくなっていく。
私は妻に後ろ襟首を掴まれて、リビングに引き立てられる。ソファに腰掛けていた娘
が罪人を見るような目つきで私を観察している。私は思わず「誰のお陰で大きくなった
と思ってるんだ、この大馬鹿者!」と心の中で呟いた。娘は母親に似て、怒って喋り出
したら止まらないマシンガントークを受け継いでいる。下手なことは云えない。赤子の
頃はおむつだって替えてやった。あの頃はミルクの香りがしたのに、今では大人の色気
をムンムンと発散している。まだ高校生だというのに、メイクは派手だし、先が思いや
られる。
「お母さん、お父さんが少し可愛そうじゃない……かな?」
優子の目に哀れみとも、慈しみともとれる光が宿っている。優しい子になるように願
って付けた名前だ。私の選択は間違っていなかったのだ。
「明日は何月何日?」
妻の声はぶっきらぼうだ。壁に埋め込まれた鏡越しに見ても、キツイ目がいっそうキ
ツクなっていることが分かる。
「3月1日だけど」娘は事態が飲み込めていないようだ。小首を傾げて、思案顔だ。
「あと何時間ある?」
「4時間弱……」
「あなたのお父様が私に何を約束したか知ってるかしら? 知るわけ無いわよね。教え
てあげる。3月1日、午前0時までにお題で小説を書き上げたら、家族旅行をプレゼン
トしてくれるというのよ」お父様? 妻は私を徹底的に蔑みたいらしい。
「え〜、温泉とかなら行きたくないなあ」
優子は長い手足を放り投げ、欠伸をした。混浴ならお父さんはokだよ。そう思っても
口にはしない。まだ命が惜しいから。
「それがね。オーストラリアでもハワイでも、どこでもいいんですって」
だから口が滑っただけだと云ってるだろう、この馬鹿嫁! ――もっとも小声で聞き
取れなかっただろうが。
「まさか、そんなお金どこにあるの」
娘は伸びをした。それからまた欠伸を繰り返す。夜更かしはお肌に悪いのよねえ、と
呟きながら。
「通帳に」妻はエプロンから私の隠していた通帳を取り出した。娘は記載された数字を
指折り、え!、と奇声を上げた。脱兎のごとく、二階へと駆け上がっていく。戻ってき
たときには携帯電話を持っていた。
「書け!」
娘はたった二文字で威嚇した。携帯電話の先に電極が二本角のように飛び出ている。
その電極間で火花が散る。護身用のスタンガンだった。
「はい……」
私も二文字でうなだれる。
妻は私を食卓テーブルの椅子に座らせ、両肩を上から掌で押す。揉んでくれるのか、
こいつにも良い点があったのか、と感心した瞬間、私の禿頭をなで回し、くるくると字
を書いた。
カタカナで「カ」と書いた。次に「ケ」と書いた。
仕方なくノートパソコンに向き合う。
だいたい、良いネタが浮かばないから、気合いをいれるつもりの冗談だった。娘が帰
ってくる前だから、ほんの三〇分前のことだ。最初は妻も冗談だと思っていたはずだ。
あそこがいい、ここもいい、行きたい場所を夢のように語っていたから間違いない。
問題は私にある。いつもは書斎で書き物をしている。あまりにもネタが浮かばないから
気分転換にキッチンで妻のお尻でも撫でながら……などと考えたのがそもそもの間違い
だった。
ノートパソコンはCD-ROMやリムーバブル・ハードディスクを簡単に入れ替えられる構
造になっている。私はここにシークレットボックスという空箱を入れていた。中には通
帳しか入っていない。妻はパソコンをいじれないし、いじらない。これほど確実な隠し
場所はなかったのだ。――そう、今までは。
30分前、キッチンテーブルにノートパソコンを置いて、OSを起動させた。すぐにバ
ッテリー残量が少ない事に気がつき、増設バッテリーに差し替えたのが運のつきだった
のだ。妻はテーブルに置いたシークレットボックスを、私がトイレに行った隙に開けて
しまった。AC電源を使えばよかった、と後悔しても後の火祭りだ。いや火あぶりか。
とりあえず書きかけのテキストを開く。見慣れぬ赤い画面が、そしてビープ音が鳴っ
た。
『このテキストファイルはウイルスに汚染されています』
ワクチンソフトの警告ウインドウだったのだ。妻と娘も驚いて画面を食い入るように
見つめている。
『検疫しますか、削除しますか、それとも無視しますか(削除をお勧めします)』
と子ウインドウが開いた。
「どうするの?」
娘が尋ねる。
「さっさとなんとかしなさいよ」
妻の言葉は投げやりだ。スリッパで床をパタパタと叩いている。いらついているのだ
ろう。
「いや、これはネタになるかもしれない……」
口からの出任せだった。それでも妻と子は「ふ〜ん」と頷いたから、時間稼ぎにはな
るだろう。頑張ったけど、ウイルスのせいで書けなかったんだ、と言い訳もできた。ウ
イルスに助け船を出してもらうというのも不思議な感じだが、たまには私に幸があって
も良いはずだ。通帳の件はそれからゆっくりと処理すればよい。
「まず、ウイルスについて調べよう」
私はワクチンソフトのメニューからライブラリーを選択した。
『このウイルスは英名serious consequencesの変種です。日本で改変され安保理決議144
1と呼ばれ、(通称――メッセージウイルスです)ワームではありません。伝染性もなく
感染力も弱い部類に入ります。またHDDを初期化する、BIOSに寄生するということもあり
ません』
ワームって何? 娘に訊かれたが、ウイルスみたいなものさ、と答えた、娘は、ふ〜
ん、と鼻で応える。質問している方も、応えている方も詳しくないのだから、こんなも
んだろう。しかし、メッセージウイルスってなんだろう? 何かメッセージを持ってい
るのだろうか? 解答はテキストファイルの中にあった。
それはノックの音と いう より轟音だった。耳元で太鼓をたた
かれているほ うがはるかにましだ。――それが的を射てると
認識するに は彼 の精 神 は深く眠りすぎている。目を細め枕元
の目覚ま し時計に 手を掛けて みる。淡い緑色に発色するアナ
ログの針 は午前3時 をすぎた ばかりだと告げている。くしゃ
くしゃに 頭を掻き上げ てか ら寝床から這いずりでると、彼は
ドアロックを解除した。 同時 に博士が飛び込んでくる。「やった、
やった!わしの念願の夢 がついに叶うのじゃ!」博士と呼ばれる男は、
薄汚れた白衣のすそを握 りしめ、大きく鼻を膨らませた。息は荒く、額に
汗が浮かんでいる。「にゃ んですかあ〜。また発明ですかあ〜」助手は大
きく欠伸をしてから両手 を伸ばし伸びをした。「ふふふふ、ただの発明
じゃない。全世界の子どもの夢が叶う偉大なる、今世紀最高の、至高で究極でデ
リシャスで……」そこで博士は大きく息を吸い込み、「なんだと思う?」と尋
ねた。「ん〜、私だったら、お金の成る木が欲しいですね〜」博士は遠くを見
つめ――と、いっても八畳間の奥を見つめただけだが――ぬしは夢がないのお、
とつぶやいた。「ん〜だったら、はて?」助手は首を捻った。博士が取り組ん
でいるものは 自分も承知している のだから、答えは自分が知らない間
にこそこそと 作成したものに違い ない。「じれったいのお、じれった
すぎる!」博 士は助手の襟首 をつかみ、ドアからでると二
部屋離れた研 究室に連れ込ん だ。博士は二重ロックの扉を
声紋で開ける と、「これが偉大な る発明じゃ。どうだ、すごいだろう」
助手の目はう つろだったが、博士 は腕組みをして鼻を鳴らしている。
二人の前には 赤い鼻のトナカイが 二頭、それに赤いそりがあった。
「……これは ロボットですね。も うクリスマスですものね〜。老人ホ
ームか幼稚園 のアトラクションに 使うわけかあ」博士は助手の頭をこ
づいた。「こ のトナカイには空中 元素固定装置プラスアルファが組み
込まれている 。それに、というか 当然、空も飛べる」「はあ」助手は
気の抜けた返 答をする。彼の心の 中に、なぜ午前3時にたたき起こさ
れて馬鹿げた ものを見なければな らないのか、納得できないものが渦
巻いていく。「わしの子どもの時分は貧しくて、サンタは来てくれなんだ。今
だって世界中にサンタが来て欲しくても来てくれないと嘆く子どもたちが沢山
おる」「はあ……」
「なるほど、改行位置も一文字空けも滅茶苦茶になっている。面白い」
私は腕組みをして感心した。世の中私以上に暇なヤツがいるらしい。
娘も嫁もまだ気がつかないようだ。1だとか十字架だとか訳の分からないことをほざ
いている。妻はクロスワードとか暗号とか、その手の解読が大好きだ。だから複雑に考
えすぎるのだろう。メッセージウイルスといっても、たいしたことがない。それが私の
感想である。ただ有用な面はあった。妻の思考ベクトルがメッセージに向いたために、
頭が冷えたのだ。先ほどまでの怒りが嘘のように静まっている。
「ねえ、あなた。ところでこのお金はどうしたのかしら?」
私は正直に答えることにした。
「小遣いから貯めたんだ。一気に貯まってる訳ではない。こつこつと貯めた金だ」
「ふ〜ん。へそくってたんだ」
娘の目は冷たかった。この間洋服が欲しいと云っても、金がないからといって断った
ことを忘れてはいないのだろう。
「この金はな、今年結婚して20年だろう。その節目に、指輪を買ってやろうと思い、
貯めてたんだ」
「誰に?」
分かっていて、訊いているのだ。妻の瞳が私に語りかけている。
「もちろん、お前にだ」口から出任せだが、そう答える以外に術はない。本音は、20
年前なら買ってやりたかったが、になる。……時の流れとは無惨なものだ。美貌も愛情
もすり切れるものと相場が決まっている。そうでなくては、これほど世の中の離婚率が
高いわけがないではないか。
「まあ、あなた。そんなこと一言だって云ってくれなかったじゃありませんか!」
「それはそうだ。告げてしまえば驚かないだろう。喜ぶ顔が見たかったんだよ」
私は寂しい顔を作って、妻から視線を外した。
「嬉しい!」
妻は無邪気に私に抱きついた。
さて、今後はこれらをどう誤魔化すかだが、それは後でゆっくりと考えることに決め
た。
「ところでお題って何?」
娘が話を戻した。
「お題って、『焼け』なんだよ」
「ふ〜ん。だから安保理決議が『焼け』なんだ。ブッシュ大統領はフセイン大統領を憎
んでいるからかなあ」
ここは親父の威厳をみせる場面だと思う。
「イラクは滅ばさねばならぬ、そう思ってるかもしれないね」
威厳より無難を選ぶことにした。詳しく知らないから、うんちくを傾けられなかった
のだ。それにお題とメッセージウイルスに関連などあるわけがない。偶然以外の何者で
もないのだ。
妻は子どものように瞳を輝かせ、どんな指輪がいいか、悩んでいる。カタログを取り
出して、いまや鼻歌交じりになっている。娘も母親に同調して、あれこれアドバイスを
始めた。多分、自分もありつこうとしているのだろう。そう想像するのは難しくない。
私は、といえば今回の出来事を小説にしょうと、心に決め宣言した。妻と娘は、曖昧
に頷いただけで、心はここにあらずだ。書き上げたものを小説と呼ぶのは心苦しいが、
時間が無いのだから仕方ない。少しばかり自棄になっているのだ。ちと漢字が異なるの
が残念である。読みは同じなのだが。
書き始めると、横目で見ていた妻が注文を始めた。
「ああ、お父さん、私のことは貞淑でおしとやかで美人にお願いね」
娘は娘で「私だって、美人でスタイル良くてあゆ似でお願いネ」とかわいい事を口に
する。
「お父さん、嘘のつけない性格だからなあ」
自分でも笑顔がこぼれたのが分かる。嘲笑の念を含んでいたが、指輪に夢中の二人は
気がつきはしない。
それにしても、安保理決議が気になる。1441が示す「重大な結果」というのは攻撃し
かないのだろうか? 国土を焦土と換え、全てを焼き尽くすのだろうか? ゲーム感覚
で爆弾が投下され、燃えていく街を見て、「焼け、焼け、焼け」と国民ははやし立てる
のだろうか。
否!
それよりも気になる重大な結果がある。二人の様子を見ている内に、誤魔化せそうも
ないと、私の心が囁きだしたのだ。せっかく貯めたへそくり。あの長い年月が一瞬で消
えてしまうのだろうか? 何の罪もないイラク国民よりはましだろうが、何か腑に落ち
ない私であった。
--了--
#71/569 ●短編
★タイトル (paz ) 03/02/22 01:29 (111)
『大富豪になる方法』 …… パパ
★内容
親愛なる恵子さま。
どうやって私の正体を知ったのか、それを問うことはいたしません。
私は同じ名前のアナタとごく普通のやりとりができることが嬉しく、メールボックス
にアクセスすることに楽しみを見いだしてきました。恵子さん以外のメールは純粋にビ
ジネスとしてしか存在していません。
「どうしたら成功できるのか?」というアナタの問いに私は誠意をもって答えたいと思
います。ただ、ニュースペーパーなどに、メールの内容を売るような行為は謹んでくだ
さいませ。お互いにとって不幸な結果になることは火を見るより明らかです。
唐突ですが、私の年収が幾らかご存じでしょうか? もちろん小規模な国家予算以上
ということは誰でも知っている公然の事実です。詳しい数字を知っていますか? 私は
知りません。すでに計算不可能なのです。
「どうしたら成功できるのか?」
よく質問されます。それがビジネス誌のインタビューなら尚更です。
必ず、こう答えています。
一つは他人と違う発想をすること。
一つは、それが馬鹿のように思えても試してみること。
試しもせず、結論を出してはいけない、ということです。
オオカミが来た、と叫ぶ者がいるならば、疑う前に自分の目で確認することが大事な
のです。
――ここまでは、いつも私が語ってることです。恵子さん、私はアナタに誠意をもっ
て答えるといいました。これから自分の過去という名の具体例を話したいと思います。
私が高校生の頃のことです。
日本という国は不況の長いトンネルの中で、存在しない出口を探し、あがき藻掻き苦
しんでいました。私の父親もリストラという憂き目にあい、職を失っていました。それ
まで総中流家庭などと論評があったのが嘘のように、生活レベルが落ちていくのです。
私にとっては他人事ではありません。父の失業保険が切れ、それでも職が見つからず、
わずかな蓄えを切り崩していきました。その頃には父も母も窮状を隠そうとはしません
でしたが、人並みに高校ぐらいは卒業させたいという願いも私に伝えてくれました。そ
の思いは私も同じでした。
文字通り爪に火をともすような赤貧の中で、私が援助交際という行為に走っても不思
議ではなかったと思います。ちょっと身体を貸すだけで、手軽に稼げるのです。誰だっ
て綺麗な服は着たいし、美味しいものも食べたい。当時、それだけの理由で学友たちは
身体を売っていました。それは私にとっても自然な成り行きだったのです。
手軽さと引き替えにリスクもあります。
中絶で体を痛める娘もいれば、覚醒剤を打たれて悩む娘もいるのです。
私もリスクは承知のうえです。しかし、同じリスクを負うならば最大限の損失を覚悟
して最大限の利益を得よう、そう決心しました。
夜が更けてから麦畑に行き、星明かりの下で麦を踏みしめました。時間をかけて巨大
な円をつくり、その下に大きな十字を描きます。
それが終わると、あとは待つだけです。
二時間も過ぎたでしょうか? 他に見るものもないので、ぼんやりと月を眺めていた
のですが、私は驚きのあまり声をあげてしまいました。雲もないのに月が消えてしまっ
たのです。星も消えていきます。当時、未確認飛行物体はキラキラと光るものだと誰も
が疑うことすらしませんでしたし、私も無意識にそう信じていました。
円盤が黒いものだと気がついたのは、かなり近づいてきてからだったのです。今では
スペースシップと呼ばれていますが、その時代は未確認飛行物体というのが通称でし
た。
黒い円盤は直径10メートル程度と小型です。着陸脚が伸び、タラップが降りまし
た。開かれた扉から光が溢れた時、私は勝利を確信したのです。
タラップから降りてきたのはグレーの肌をした宇宙人です。眼は想像したとおりに大
きく、つりあがっていました。身長は150センチくらいと割と小柄です。現在の単位
なら177ナナセですね。
彼は何事かを語っています。口が動いているのは分かりますが、音域が高すぎて人間
の耳には届きません。彼はペンダントにぶら下げた卵大の機器を調整しました。ダイア
ルを回しているのです。甲高い声がその機器――つまりトランスレーターから発声され
ました。
「ハウマッチ?」
私は首を振りました。目的はお金ではありません。交渉の末に手に入れたのが携帯用
の反重力ユニットでした。
彼は「ok、ok」と、気軽に返答してくれました。
私はタラップを上り、彼についていきました。中はこざっぱりとしていて、調度品ら
しいものは見あたりません。促された船室にはベッドがひとつありました。見回しても
生活臭はなく、どこまでも無機質です、異星人というより機械的だな、という印象を私
にもたらしました。
船内で彼が衣服を脱ぐのを見ました。皮膚だと思っていたのは薄手のスーツだと知り
少なからず驚きました。肌の色は限りなくブルーに近い白です。彼は私との行為に満足
すると、「マタネ」と、いって去っていきました。
実際、次の日も彼はやってきました。私が手に入れたのは反重力ユニットの操作マニ
ュアルです。もちろん、ちゃんと翻訳してもらってから仕事につきました。その次の日
は作動させるための携帯用エネルギーユニットをいただきました。
一月もたてば、携帯用エネルギー障壁など、携行できるものは全て手にいれました。
どれもこれも価値は計り知れないものです。彼は地球に学術研究にきていたのですが、
単身赴任だったため寂しかったのですね。私はよき話し相手としても彼の中で大きな位
置をしめるようになりました。
でも問題がひとつあります。
私が得たものから、どうやってお金を生み出していくかということです。大人は信用
できません。甘言で私をだまし、取り上げてしまうかもしれません。両親にも先生にも
相談することはできません。
だから私は彼にお願いしました。国会議事堂の上にスペースシップでなく星間移動用
の母船をおろすように。彼はすぐさま実行にうつしてくれました。次いで私ひとりを窓
口として異世界との交渉権を与える、と宣言しました。
世界的に認められてしまえば、誰もおかしな事はできなくなります。
すでにお気づきだと思いますが、彼はただの学術探査もしくは研究にやってきただけ
で、母船といっても個人が所有しているクルーザーに過ぎません。宇宙戦争うんぬんは
ただのはったりだったのですが、非常に効果があったのも事実です。島国より大きな母
船、それは私の予想通り対抗不可能の驚異として当時の人類は認知してくれたのです。
それからのことは書くまでもないでしょう。私は幾つも会社をつくり経営してきまし
た。どの雑誌を読んでも、私が世界一の金持ちと書いてあります。
その出発点は小さな発想が種になってます。
ミステリーサークルと呼ばれたものは、古代、宇宙人との交信手段として使用された
ものではないだろうか。それが思考の起点でした。現在も宇宙人が地球について調査し
ているのなら、簡単なシンボルマークを描けば理解してもらえるだろう、それが女の子
のマークだったら、寂しい男の宇宙人なら飛んでくるに違いない、そう確信していたの
です。それを馬鹿みたいに実行して、富を得たのです。方法自体は褒められたものでは
ないでしょう。万人にお勧めできるものではありません。
私が本当の事を話したのは恵子さんが初めてです。そしてこれが最後でしょう。
私の年齢は老化遅延処置を受け、すでに200歳を超えています。
見た目は18のままなのに……そう考えると不思議な気持ちになります。
彼より長生きするとは正直いって想像していませんでした。
もしよろしければ、恵子さんも同様の処置を受けられるように取りはからいますが。
貴重なメールフレンドですからね、簡単に失うことはできません。
なお、このメールは自動的に破棄されますが、ご了承くださいませ。
色よいお返事待ってます。 ケイコ
−−了−−
#72/569 ●短編
★タイトル (hem ) 03/02/27 22:09 ( 78)
星の鏡 麻村帆乃
★内容
「本当に一鉢でいいんだな?」
彼は再度確認する。
「もちろん。鉢植えを買うときは一つずつって決めているんだもの」
わたしは微笑む。彼がぶつぶつ言っている。せっかくバイトした金で何でもいいから
誕生日プレゼントを買ってやると言ったのに、わたしの希望したものが小さな鉢植えだ
ったからだ。
「値段が問題じゃないの。誰にもらったか、が大切なのよ」
わたしは彼が両手に持っている鉢を一つ取り、ベランダに運んだ。そこには少しずつ
集めていた鉢植えが階段状の置き場に並べてある。
「一つはあなたが持って帰ってね」
わたしの思いがけない言葉に彼は大きな声を出して抗議している。
「冗談じゃない、俺は今まで植木の世話なんてしたことないんだぞ」
わたしは半ば彼を無視しながらジョウロやスコップなどの道具を収めた箱を探る。わ
たしの話を最後まで聞かずに二鉢も買ってしまうからいけないのよ。
「おい、聞いてるのか?」
彼はベランダのすぐ側まで来て言った。履物がないから入り口辺りで呼びかけて来
る。
「分かったわよ。両方もらう。でもやっぱり今日は預かってね」
喜んだ後にがっかりしているのがよく分かる。反応の素直さがかわいらしく思える、
と言ったら怒るだろうか。
わたしは箱の中から牛乳瓶を取り出す。今はパックで買っているが、ずっと以前は配
達してもらっていた。彼はわたしの手にあるそれを見て多少は驚いたようだ。それとも
懐かしがっているのかもしれない。
「何に使うんだよ、それ」
予想していたとおりの質問。
「教えて欲しい?」
ちょっと意地悪がしてみたくなったわたしはもったいぶる。
「ああ」
ちょっと怒ったような彼の声。でも興味がないわけではなさそうだ。
「わたしのおばさん、植木が大好きな人なの。おばさんの咲かせた花は特別綺麗に見え
る。もし分けてもらっても、うちで咲いたのと、おばさん家のものは違ったの」
「錯覚だろ。そこのも売ってるやつより綺麗だよ」
そこでわたしはにっこり。理由は自分が育てたものが褒められたというだけではな
い。
「そうでしょう。だっておばさん秘伝の魔法だもの」
彼の不満そうな顔。だって彼は非科学的なこと、あまり信じないほうだから。
「本当だよ。だからそれを証明するために何日か預かってね」
怒ったらしい彼はじーっとわたしを見つめていた。けれどわたしがにこにこしている
ので諦めたらしい。
「分かった。預かるだけだからな」
同じ種類の鉢植えを二人で持っているのもいいと思ったのに、どうやら彼には引き取
る意志はないらしい。残念だな。結局三日預かるという約束で彼はこの日帰って行っ
た。
用意するもの。綺麗に洗ってお日様の光で乾かした牛乳瓶。その中に水を入れ、夜中
外に出しておく。ただそれだけ。そのとき気をつけなければならないことは、水の中に
ほこりを落とさないようにすること。後はただ待つだけ。
そして次の朝にすること。その水をなるべく早く起きて鉢植えに与える。何度もする
のは逆効果で、一鉢に一度だけするのが最大のこつだという。だからわたしは買って来
たその日にこれを実行することにしている。一鉢ずつしか増やさない理由がこれ。欲張
ってたくさん瓶を用意すると効果がないんだって。
ベランダの窓から一番遠い場所にわたしは瓶を置く。おばさんは別の入れ物よりも飲
み口が分厚い牛乳瓶が一番適していると言っている。
いつものように魔法の準備を終えたわたしはベッドに入った。そっと見守っていると
何かが起こるらしい。けれど電気を消し、寝転んでいて眠くならないはずがない。いつ
の間にかわたしは眠ってしまった。
空から星が降りて来る。真っすぐに地上に向かっている。行く先はその姿を映し出す
鏡。星たちの鏡は澄んだ水。大きな星は大きな、小さな星は小さな鏡を探している。星
からこぼれた光が水に満ち、静かな水面がきらきらと輝く。地上にもう一つの星が生ま
れたかのように。しばらくすると星は空に還っていく。けれど星の光の影響はすぐには
消えない。光は水をとても透明で、不思議な力を秘めたものへと変化させる。水は微か
に光を放っているが、明るくなるにつれてそれは薄れていく。
目が覚めたとき部屋はまだ薄暗かった。いつの間にか眠ってしまった自分を責めなが
ら、それでも多少の期待を持ってそっと窓に近づく。空にはうっすらとした月が仄かな
光で辺りを照らしている。もうすぐ日が昇るのだろう。東の空が明るい。
また見逃してしまった。こんどおばさんに会ったら何をして「何か」を待っているの
か聞いた方が良さそうだ。
わたしはベランダに出る扉を開けた。朝の空気が気持ちいい。こんなに早く起きて行
動し始めたことは今までになかった。たいていもう一度眠ってしまうから。大きく伸び
をしながらわたしは昨日の鉢植えに水を与えるために瓶を見る。それは信じられない光
景だった。水が微かに光っている。そして瓶の口で一か所、特別に光っている場所があ
る。たった今までそこに何かがあったようにはっきりと。
慌てて上を見上げたわたしは空に昇っていく小さな小さな星を見たような気がした。
空は明るくなり、水の光が薄れていく。まだ暖かみを感じる不思議な水をわたしは昨
日の大切な鉢植えに静かに与えた。
終
#74/569 ●短編
★タイトル (hir ) 03/03/02 05:35 (187)
【お題】>「双子」
★内容
鬼畜探偵・伊井暇幻シリーズ「双子」
少女は貪っていた唇から離れ、相手の瞳を覗き込む。濡れた鳶色の角膜に、少女の顔
が映っている。相似形。相手は、少女と同じ顔をしていた。とめどなく愛おしさが込み
上げ、少女は再び唇を重ねる。まさぐる膚が、熱を帯び潤い掌に粘り着く。引き締まっ
た腿が絡み押し付け合う。戦慄が走り、強張る。どちらからともなく叫び、しがみ付き
……、弛緩する。直前までとは違う種類の愛に包み込まれ、柔らかく抱き合う。
「はぁはぁ……」耳障りな喘ぎに小林純は飛び起きる。お世辞にも巨乳とは言えない
胸を、反射的に毛布で覆っている。いくらボーイッシュで小柄な美少年にしか見えない
とはいえ、十七歳、年頃の女の子なのである。喘ぎの主は、分かりきったことだが、伊
井暇幻だった。
「せ、先生っ。いったい僕に何をっ」。いかにも取って付けた純真さで小林が叫ぶ。
いや、先生といっても、伊井は教師ではない。不思議なことに教員免状は持っている
が、私立探偵だ。「何って……、お前、俺の愛人……」。小林の指が、白く弧を描く。
ビシッ。小林が猿臂を伸ばし手甲で伊井の股間を弾いたのだ。「ぐふうっっ」股間を押
さえて伊井が崩れ落ちる。
「愛人じゃないよ。助手だよ」顎をしゃくって小林は毅然と言い放つ。漸く身を起こ
した伊井は、「どっちでも同じぢゃねぇか。明智大先生だって、助手の小林君と……ぐ
ふぅっ」。今度は鳩尾(みぞおち)に決まった。「それ以上言うと、怒られるよ!」
「痛ぅぅっ、お、怒られるって誰にだよ」。「…………」「…………」見つめ合う二
人。
「いけないっ」小林が慌てて伊井の体の下から藻掻き出て、風呂場に駆け込む。「な
んだよ、慌てて。ちょっとは余韻ってものをだなぁ……」。「今日から学校なんだよ
!」狭い風呂場から、エコーのかかった声が響いてくる。「学校? お前、退学になっ
たんじゃなかったか」伊井は、莨に火を点ける。
「退学じゃないよ。無期停学。解けたんだ」「おいっ、俺ぁお前の保護者だぞ。そぉ
いぅ大事なことは、ちゃんと言えよ。この前、セーラー服引っ張り出してニヤニヤして
るから、俺ぁてっきり新しいバイトでも始めたもんだと……」「何だよ、バイトって」
バスタオルで頭をこすりながら小林が出てくる。「ん……あ、いや」小林の、柔らかく
発達した筋肉質の肢体から目を逸らせながら、伊井は言葉を濁す。
小林は私立の女学校に通っていたが、二カ月前、憧れていた先輩が結婚すると聞き逆
上、狼藉に及んだ。相手の先輩にとっては別に〈無理強い〉ではなかったのだが、偶々
婚約者が来合わせて問題化してしまったのだ。小林は学校から放逐され、家からは勘当
された。ゲームセンターで捨て猫のようにショボくれていたところを、ちょうど美少年
助手が欲しかった伊井に勘違いされ、同棲するに至っている。ところが女学校では、小
林を慕う一年生たちや、小林を愛する同級生たち、そして小林を可愛がっていた三年生
たちが、裏で策動、「先輩」の口添えもあって、先日、停学が解けた。不思議でも何で
もない。「セクシャリティー差別に反対」と建前で攻められ、女学生全員の署名を突き
付けられた学校側が折れただけのことだ。勿論、件の女学校がカソリック系だったり、
教職員に多くの小林ファンがいなければ、簡単に事は運ばなかったかもしれない。運動
の主だったメンバーに、有力者の娘がいたことも、影響しただろう。
女学校は、ちょっとした興奮に包まれていた。最高の美少女アイドル小林が戻ってく
るだけでなく、同じ日に二年生が一人転校してくるとの情報が伝わっていたのだ。「転
校生」は浪漫である。まだ見ぬ友/先輩/後輩は、想像し得る限り最高の美少女であ
り、きっと自分を完全に理解してくれる優しい少女だ。「まだ見ぬ」だから、勿論、想
像に過ぎない。なんたって此処は二十一世紀にもなってJRが電化されていない愛媛県
宇和島市である。少女達は、至って純朴だ。
通例、想像は飽くまで想像のうちに終わる。しかし、今回は違った。転校生は、「最
高の美少女」だった。則ち、小林と瓜二つなのだ。背格好も顔も、声も、そして積極的
な女生徒の貴重な情報によれば、体の匂いまで同じらしい。名前は、小林馨。生年月日
も同じだ。最高の美少女アイドルが、一気に倍増して、女生徒たちは狂喜し且つ興奮し
た。モノに出来る……いや、定員一人の親友と言い換えよう、とにかく「最高の美少
女」と特別な関係になる確率が二倍になったと感じたのだ。しかし定員百六十人、全校
生徒四百八十人の女学校で、確率が四百七十九分の一から、四百七十八分の二になった
所で、大部分の女生徒にとって如何ほど多くのチャンスが巡ってこようか。咲き誇る桜
の木の下で遅刻寸前、トーストをくわえたて正面衝突でもすれば……、打ち所が悪かっ
たら、却って仲が悪くなるかもしれない。
いや、だいたい、最高の少女も最高の相手を求めるならば、小林同士が関係を深め、
その他の生徒の立ち入る隙が生じないと考えることこそ、合理的かもしれない。確率は
倍増したのではなく、無くなったのだ。しかし、女生徒たちは、純朴である。彼等にと
って、恋することこそ成就の資格要件であり、其処から先は物理的には平等、容姿など
は関係なく相手に愛される可能性があるのだ。勿論、小林が愛されている一つの大きな
理由は、美貌なのだけれども、これを〈矛盾〉と感じないことこそ、純朴の条件だ。女
生徒達は、純朴なのだ。閑話休題。
「純……」廊下ですれ違いざま馨が声を掛けた。振り返った小林は「か、馨?」瞳に
は明らかに恐怖が浮き出ていた。取り巻き連中が小林に囁く「親戚なの? 似てるねぇ
〜」。「え、えぇぇっと」小林は口ごもる。「双子なの、アタシと純は」馨が言う。上
目遣いに小林を見つめる瞳には、獣的な光が宿っている。それに気が付いているのは、
小林だけだ。しかし、「双子」にしては妙な雰囲気であることだけは、周りの女生徒に
も分かった。何か事情がありそうだが好奇の気持ちを取り敢えずは隠して、皆、二人を
見守る。小林は青ざめて、俯く。「ふふふ、照れちゃって。一緒に帰ろうね、授業終わ
ったら教室に行くから」馨は、小林には出来ないような女性らしく華やかな笑顔を見せ
て言う。「ぶ、部活あるから……」小林は足早に次の授業のある教室へと急ぐ。「終わ
るの待ってるよ。アタシも入ろうかな、体操部。見学しちゃお」馨は華やかな笑い声を
小林の背中に浴びせかける。
「何か深い事情がありそうな双子の美少女(同じ学校)」は、噂の的となった。小林
とした……しい女生徒たちでさえ皆、双子の存在を知らなかった。小林は、宇宙論を研
究している科学者の母親、正体不明の父親と三人暮らしの筈だった。憶測が憶測を呼ん
だ。曰く双子は縁起が悪いので里子に出されていた、曰くクローン人間、曰くドッペル
ゲンガー。このうちドッペルゲンガー説に、小林は最も激しく反応し、最も強く否定し
た。何か心当たりがあるのだと目星をつけた三年生が、小林を部室に監禁した。世の中
には色々な人がいて、様々な愛の形がある。三年生は小林を愛している一人だが、意味
もなく赤い組み紐で亀甲縛りにして、必要もないほど厳しく責め上げた。どれほど厳し
かったかと言えば、小林は縛るまでもなく即座に白状したのだが、かなりの時間、拷問
が続いたほどだ。かと言って、情けは無用、小林だって、こぉいぅのが嫌いではない。
世の中には、色々な人がいるものだ。
小林の白状した所では、自分と瓜二人の双子は実在する筈がなく、中学生の頃に独り
エッチのオカズとして妄想していた架空の少女が「小林馨」であった。小林は案外、ナ
ルシストであるらしい。しかも、常とは逆に性的には引っ込み思案で受動性の高いマグ
ロな小林が妄想した馨は、獣的なほどに積極的な少女だった。妄想通りの少女が現れ、
一番戸惑ったのは、小林であっただろう。
女学校では急遽、「少年探偵団」が組織された。「少女探偵団」ではない。いや、内
実は少女探偵団だが、探偵団は「少年」だと戦前から決まっている。アレには確か、女
の子も入っていた。
山手の墓地の一角に「宇和島宇宙論研究所」はある。小林の実家だ。母の妙(たえ
)、法名は妙真(みょうしん)、宇宙論で世界的に有名な科学者だが、尼僧でもある。
宇宙論なんて殆ど宗教だから、相応の兼業だ。因みに真言宗北斗山大空寺(ほくとざん
だいくうじ)、本尊は妙見菩薩だが、伊予観音霊場の一つにも数えられている。ハン
バーガー臭い外国人が頻繁に出入りしている所から、NASAや戦略宇宙軍と関係があ
るとの噂がある。
少年探偵団の選抜隊約十人(家が此の方角であるとの理由で任ぜられた)がワラワラ
と研究所の前に集まる。ピーンポ〜ン。「は〜い」呼び鈴に応じてインタホンから声が
する。探偵団の代表が「役(えん)でっす」。「あ、由美ちゃんね」バタバタと近付く
音がして扉が開く。尼僧姿、三十代後半の美しい女性が微笑んでいる。「何? 純な
ら、悪いけど、家にいないわ。知ってるだろうけど」「純ちゃんのことじゃなくって、
今日は馨ちゃんのことで伺ったんです」「馨? あ、あぁ……。馨〜、学校のお友達よ
〜」「は〜い」パタパタと、妙よりも軽やかな音を立てて出てきたのは、純……と瓜二
つの馨だった。馨は由美たちを見て「えぇっと、ごめん、まだみんなの顔、憶えてなく
て……」申し訳なさそうな上目遣いになる。(純とは違ったタイプだけど、可愛い!)
探偵団は目を見合わせ互いに同感した。由美が代表して「アタシ、同じクラスになった
役由美。分からないことがあったら、何でも訊いてね。それじゃ」と皆を引き連れ、逃
げの体勢。「ありがとう。じゃぁ聞きたいことがあるの」「えっ、何っ?」訊けと言っ
ておいてビビる由美。「純、学校でもモテ……るんだろうな」「???」呆気にとられ
る由美から引き取り、後ろに立っていた山本が「モテモテよぉ〜。アタシも……ふがふ
が」横山に口を押さえられる。由美が「スポーツ万能だし成績も良いし、何たって性格
が善いから、純ちゃんは人気者よ」と言い繕う。「そう……ありがとう」馨は、寂しそ
うだった。
「本当に居たね〜」「居たぁぁ」「なんで純は嘘言ったんだろう」「ぐふふふふ、ち
ょっと、お仕置きしなきゃね〜」「しなきゃね〜。じゃぁ明日」「ばいば〜い」少年探
偵団は、それぞれの家路に就く。
入れ違いに伊井が研究所の前に現れる。インタホンを押し「俺だ。伊井だ」「あ〜暇
ちゃん、何の用?」「純のことだ。ちょっと悪戯が過ぎるんぢゃねぇか、妙さん。純の
ヤツ、頭がこんがらがってっぞ。何を言っても答えねぇ。ただブツブツブツブツうわご
と言ってらぁ」「あら〜、心配してくれるの、純のこと?」「そ、そりゃぁ、まぁ…
…」「父親として?」「…………」ピクリと伊井の眉が動く。扉が開き、冷笑を浮かべ
た凄艶の尼僧が、伊井を招き入れる。
程なく伊井は出てくる。送りに出た妙が「ねえ、本当に考え直してよ。一緒に暮らし
ましょうよ。今度のことだって、私、寂しかったから、馨を……」「巫山戯るなよ。ど
の面提げて純と……」「ふふん、それは仏罰よ。尼僧の私を孕ませたんだから。ほほほ
ほほほほっっ」けたたましい嗤いを伊井は遮り「若かったんだよ。まだ十五だった」
「じゃぁまだ十五の儘みたいね。十何年も私と純を放っといて。男の責任ってもの、感
じないの? そんなだから自分の娘だとも気付かずに純を……。ほほほほほっ、先月、
訪ねてきて本当のことを知った貴方の顔、面白かったわ。あははははははっっ」「うる
さいっ」伊井は足早に立ち去る。暫く行って振り返り、呟く。「だって純、あの頃のお
前とソックリだもんよ」。
夕焼けが小焼けに変わり、空を濃紺の帳が覆う。アパートに帰ると純は、電灯も点け
ずにボンヤリとしている。伊井が出ていった時と、まったく同じ姿勢で。
「解決したぞ」「え?」上の空で純が答える。「馨だ。やっぱり、お前に双子の姉妹
なんていなかった」「だったら、彼女は一体。やっぱり僕の欲望が形を持って……」
「んなワケぁねぇだろ。と言いたい所だが、似たようなもんだ。アレは、お前の母親の
欲望が生んだ少女だ。お前を勘当して、寂しくなって、思い詰めた結果だ」「どういう
こと? じれったいな。いったい、馨って何者だったんだよ」純の声に張りが出てく
る。いつもの元気が戻ったようだ。伊井はニヤリと笑い、ひと呼吸置いて、「お前の父
親だ」。「え、誰が?」「馨たらいぅ娘だよ」「何のことだよ」「お前、父親の顔、知
ってるか」「当たり前だよ、一緒に暮らしてたんだから」「どんな顔だ」「うぅん、お
世辞にも恰好良いとは言えないけど、けっこう善いオヤジだった。先生みたく酷くなか
ったけど……ちょっと似てるかな。うぅん、もっとマシだし、もっと若く見えるけど
ね! 僕、思うんだけど、先生みたいに不細工な男で我慢できるのは、ほんのチョット
だけど先生が、父親に似てるからかなって、思うんだ。ねぇ、こんな僕って、損してる
んじゃない?」「あぁ、……記憶は美化されるからな」「え?」「いや、何でもない」
伊井は目を伏せる。
「話は終わってないよ。馨が僕の父だって、どういぅことだよ」「お前と一緒に暮ら
してたのは、本当の父親じゃない」「なにバカなこと言ってんだよ。そりゃ殆ど家にい
ないオヤジだったけど、父親だよ」「どこに証拠がある?」「証拠? だって、一緒に
暮らしてたし、お母さんも……」「見たのか? お前の父親だと信じてるヤツの遺伝子
が母親の遺伝子と結合して、お前になっていく様子を、ずっと見てたのか」「そんなヤ
ツいないよ。なに馬鹿なこと言ってんだよ」「不思議に思ったことはないか? 例え
ば、さっきまで父親が居たと思っていた部屋から別の男や女が出ていったとか」「え
?」純には心当たりがあった。しかし、自分は時々短時間の記憶が欠落するのだと、勝
手に思い込んでいた。人は、より信じたい理由を、信じる。
「お前が父親だと思ってたヤツは、父親じゃない。本当の父親は、お前が幼い頃に姿
を消したんだ」「だったら、家にいたのは誰だよ。イイカゲンなこと言うなよっ!」
「蛸の八っぁん」「え?」小林も知っている宇宙人のオクトパスは、相手の強い思念を
受け、相手が望む形態に変身する。男が念じれば理想の女に、女が念じれば理想の男
に、そして僧侶が念じれば童子形の阿修羅や地蔵にも変身する。三十三化身を持つ、観
音菩薩のような宇宙人なのだ。「嘘だっ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっっ」叫ぶ小林の瞳を優し
く覗き込み、伊井は首を振る。「嘘だぁぁぁぁっっ」。
「先生は知ってるんでしょ」思うさま泣いたためか、小林の声は落ち着き、沈んでい
る。「さぁな」「知ってるんでしょ、僕の父親を」「……あぁ」「誰、何処にいるの」
縋り付く小林から目を背け伊井は、「俺……」「え? なに? 聞こえない。はっきり
言ってよ」「俺の遠い親戚だ。善いヤツだった。けっこうモテてたんだぞ、お前の親
父。だが、ちょっと勇ましすぎてな……。お前がまだ幼い頃に、アフガンの戦争へ傭兵
として飛び込んでった」「死んだの?」「分からん。死んだとは聞いてない。だが、ま
だ帰ってこない」「そう……なんだ……」。
伊井は小林を抱き締める。小林が怪訝な表情で見上げる。
「泣いてるの?」。
(お粗末様)
#75/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 03/03/02 20:32 (490)
アニソラ投稿用>漆黒のリング 舞火
★内容 03/03/03 08:57 修正 第4版
『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
「結婚して欲しいんだ」
窺うようにケインがそう言った途端、ミレイが両手で顔を覆った。僅かに覗いてる目
がこれでもかと、大きく見開かれている。
その表情に嫌悪はないと踏んだケインは高鳴る心臓に息苦しさすら覚えながら、持っ
ているエンゲージリングを差し出した。
それは、シンプルなリングに彼女の好きなブラックダイヤを小さくあしらったもの
で、大学の教授という地位についたばかりのケインにはかなり奮発したものだった。
それにミレイの手がおずおずと伸びる。
紅いルージュの口元は、興奮のあまりか僅かに震えていた。
「……私で……いいの?」
ゴールドのリングに触れた途端、ミレイがちらりとケインを窺った。
「もちろん」
それだけははっきりと答える。
ケインが頷く様を見たミレイは、取り上げたリングを今にも泣きそうな笑みと共に差
し出した。
「はめてくれる?」
頷きながら受け取ったリングを彼女の左の薬指にはめる。その間の僅かな引っかかり
すらもどかしいと思う。
心臓はドキドキと高鳴り、頬が熱い。
「ありがとう……」
震えてはいたけれど彼女の悦びの言葉を呟く唇に、ケインはそっと口付けた。
ケインは大学で星の軌道計算とその人為的な移動方法について研究していた。その中
でも目下最大級の関心事は、『黒曜石のエンゲージリング』についてだ。
過去、幾度ものシミュレートの対象となったそれは、直径が約50km、中心の穴は約3
0kmという表面が艶やかな黒色をしているリング状の天体だった。その外観から発見者
が黒曜石の指輪のようだと言ったことから、その名がつけられた。
だが、最初の頃には珍しい形というだけの天体でしかなかったリングが、研究対象に
までなったのには訳がある。
『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
連邦が各国の賛同を得て正式に発行したそれは、100年前に制定されたものだ。
探査船の調査報告により、リングの地下に多量のブラックダイヤが含有されているこ
とが判ったからだ。
宝石としても工業材料としても高付加価値を持つブラックダイヤ。
だが当時、リングはどこの星系にも属していなかった。このままでは採掘権を求め
て、争奪戦という混乱が起きる恐れがあると危惧した連邦政府は、各国の了承を半ば強
引に取り付けてその規約を制定したのだった。
もちろん、指と言っても個人の指ではない。今現在『指』として指定されているのは
近くにある筒型人工衛星の胴体部のことだ。研究用として建造され、その役目を終えた
今、廃棄寸前だったそれは、この規約のお陰で一躍有名になったと言えよう。
今では、知らぬ人などいないであろう程の人気観光スポットなのだ。
もちろん、観光客はその規約を知ってこそ来る。
一見簡単そうなその規約。
連邦でもしかるべき金を持った国家か企業体がそれを成功させ、所有権を有すること
を期待して作ったものだというのに未だにその所有者は現れなかった。
一体過去幾多の人間や組織がそれを行おうとしただろう。
連邦の公式発表では、100年の間に58件とされ、その作業に関連する死者は1000人を下
らないとさえ言われる。
実はリングはその特異な形状と異常に早い自転速度のせいで、中の空洞は強い反発力
を持っている。故に近づいた『指』を容易に跳ね飛ばしてしまうのだ。
最初の計画から100年。
昨今ではブラックダイヤを手に入れるのだけが目的ではなくなってきていた。
計画の中心にいる学者や冒険者にとって、難攻不落のリングを手に入れたという名誉
こそが欲してやまないものなのだ。
それは、ケインにとっても然り。
いつか自分の理論を試してみたいという欲求に身を焦がしながらも、金銭の問題で諦
めて、普通の幸せのためにミレイにプロポーズしたのだった。
プロポーズが成功して、人生最大の悦びはこういうことを言うのだと浮かれ気分で過
ごしてきた1週間。
だが、今ケインは大学の自分の研究室に招き入れた客の言葉に、それすらも上回る喜
びに身を震わしていた。
「本当に、私の?」
声までもが震え、手に握った契約書が微かな音を立てた。
「はい。当方は今回の作戦に博士の計画を実行する予定でございます」
柔らかな物腰なのにどこか鋭い雰囲気を持つこの男達は、連邦でも一二を争うほどの
財力を持つグレゴリア財閥の現当主の代理だった。差し出された身分証明書は本物で、
別に政府発行の証明書すら添付されている。
その彼らが、ケインの計画を実行して欲しいという。
しかもそのための費用は全て彼らが持ってくれるのだ。
その対価は、成功した後に発生する利益を相手に譲るというもの。つまり、リングの
譲渡だ。だがそれに対する礼金は一生かかっても使い切れないほどの金額が提示されて
いた。
少なくとも、コンピューターにスキャニングさせて確認した結果は、異議の申し立て
ようもないほどで、検討項目として挙げられたのはその「礼金の額」だけであった。
「いかがでしょうか?作戦が失敗であってもその賠償は不要です。もっとも博士の案で
ございましたら、失敗することなどないと確信しております」
プライドを心地よくくすぐる言葉に背中がむず痒くなりながらも、ケインは反射的に
こくりと頷いていた。
自信はあった。ただ、金が無くて実行に移せなかっただけ。
だが、グレゴリア財閥がスポンサーとして名乗り出たのだ。
契約書にグレゴリア財閥の現当主のサインはすでに入っている。後はその下に自分の
名でサインをすれば契約は完了する。
ケインは、今すぐにでもサインしたい欲求にかられていた。
ただ、契約事項に拘束期間が表記されていた。このままサインをすれば、この後2年
間程度──つまり作戦が終了するその日まで、ケインは彼らの研究施設に拘束されてし
まう。その間、誰にも会うことができず、極秘に行動するために別れの理由すら伝える
ことはできないという。
グレゴリア財閥の計画をライバル他社に真似されては困るという、至極まっとうな理
由がそこに存在した。
ためらうケインに男が誘うように言う。
「申し訳ないのですが、博士に考えて頂く時間をとることができない、というのが現状
でございます。実は連邦の方から極秘に入手した情報でございますが、リーディス財閥
もリングを手に入れようと申請がなされつつあるということでして、どうやらそちらは
フェイジュン博士を招聘したようです」
「フェイジュン……」
その名にケインの焦燥感は一気に増した。
ケインのライバルともいうべき彼は、何かにつけケインを敵視し邪魔をしてきた。
その相手に先を越されるという激しい焦りが、ケインの手を動かす。
黒いインクがケインの名を綴る。
フェイジュンの理論で成功するとは思えなかったが、それでもその直後にすぐにでも
自分の理論を試したかった。
彼には負けたくなかった。
ケインがここに来てから、3年が経っていた。
当初の予定では2年だった期間はフェイジュンに先を越されたことにより、作業時期
が1年伸びてしまったせいで3年を過ぎるほどになってしまった。
ケインは司令船の窓から『指』をぼんやりと見るのが日課のようになっていた。
「……後少しだ」
『指』にリングをはめればいい。
昔同じ行為をした女性をふと思い出し、ケインはふっと左手を持ち上げた。その小指
には、ミレイから奪うように返して貰ったリングがあった。あの時の痛みは忘れようと
しても忘れられない。理由を言えないケインに向ける、ミレイの憎しみに満ちた瞳。だ
が、それでもケインはミレイよりリングを取った。
それが夢だったからだ。
せめて契約の話がミレイにプロポーズする前だったら……と何度も思ったが、結局そ
れは何の言い訳にもならないことだ。
それでも今ある計画実行前の昂揚感は、あの時のもの似ていた。
1年前に行われたフェイジュンの作戦は、『指』がリングに入る直線に弾かれしまう
という失敗で終わった。それを教訓にケインは計画に修正を加え、その理論を確固たる
現実の物へと変えていった。
何度も何度もシミュレートして、少しでも成功率を高める。コンマ1秒でも上がれ
ば、ほっとし、下がれば必要以上に狼狽えた。
自信はあったのに、それが気がついたら無くなっている。
それでも落ち込んで自分を見失いそうになった時、自らの指にはめたリングを見た。
夢を実現するために無くした過去を見て、自分を奮い立たせる。ミレイの時は成功し
たのだからと、そんな関係のないことをこじつけのように考える。
どちらにせよ、何もかも捨ててきたケインにとって、成功以外には未来はなかった。
ゆっくりと『指』が動き始めた途端、司令船の司令室内にどよめきが響いた。ケイン
を含め、今回の作戦の主要メンバーがそこで作戦の動向を見守っている。
補強した骨組みは、どんな衝撃にも堪えられるだろうし、姿勢制御のバーナーは寸分
のズレもなく設置されていて、『指』を指定の場所へと移動してくれるだろう。
それでも、その巨体が動き始めるまでは不安で一杯だったのだ。
「『指』の回転制御、カウント開始、10,9,8……」
オペレーターの規則正しい声を、ケインは声もなく静かに聞いていた。
司令船の背後を映すスクリーンには、報道関係も含めた多数の宇宙船が表示されてい
る。
作戦行動があるたびに全宇宙にこうして報道されるのは通例だ。人々は成功を祈りつ
つも、失敗する瞬間を今は今かと見入っているというわけだ。それは高視聴率をいつも
確保するほどの人気ぶりだった。
だが、今のケインにはそういう目は全く気にならなかった。目の前のリングと『指』
を凝視し、きつく握りしめた手の平にはじっとりと汗が滲んでいる。
「回転開始」
『指』の各所に取り付けられたバーナーが明るく輝いた。
その力を利用してゆっくりと『指』が回転を始める。それは、バーナーの輝きが増す
ごとにその速度を上げていった。
ケインの計画は、ある意味単純明快なものだった。
『指』をリングと同じ方向に回転さて、速度を同期させた後、リングに『指』の方を
差し込んでいく。そしてあらかじめもっとも安定すると算出したポイントで、数千点以
上設置したアンカーを突き出しリングを固定する。後は『指』の回転をゆっくりと停止
させ、リングの回転をも止めればいい。
単純だが、一般的にはこの方法では『指』がもたないと言われていた。
ケインはそれをクリアするために、ひたすら1年間『指』の補強に明け暮れた。
所詮人工衛星である『指』を、最高硬度を持つブラックダイヤを含有するリングに差
し込むのだから、多少の補強ではもたないことは判っている。しかも、過去幾多も繰り
返された作戦でかなりのダメージを負っている『指』。
ケインの計画は、その費用だけでも新しい人工衛星を複数設立することができるほど
の天文学的な数値であった。それがクリアされた今となっては、足りないのは時間だけ
だったといえよう。
しかも、同時進行で行われたリングの重力を制御する重力制御装置の数も半端なもの
ではなかった。
その特異な重力体系によりリング上での作業は難航を極め、幾度も作業は中断し、計
画の実行すら危ぶまれたこともある。
だが、それももう過去のことだ。
「回転速度、リングと同期しました」
「センサー確認。『指』異常なし」
どうやらもちそうだと、司令室内にほっと安堵した空気が流れる。
「第一段階はクリアした。次は、リングの中に『指』を進める」
ケインの指示に、担当者が答える。
「推進装置オールグリーン」
「リング、『指』ともに座標軸固定されています」
コンマ数度の僅かな角度異常があれば、リングの内壁に接触し、『指』はバラバラに
分解してしまうだろう。
和んだ雰囲気は一瞬のうちに、息をするのも苦しいほどの緊張に変わる。オペレー
ターの一人が、無意識のうちに額の汗を拭っていた。
「進入角度、固定。外界要因は全てクリアされています」
「『指』の先端がリング内壁内に入ります」
ケインの目がスクリーンに釘付けになる。誰かがごくりと息を飲む音がやけに大きく
響いた。
最後尾に増強された姿勢制御バーナーと推進エンジンが、いくつもの噴射炎を煌めか
す。その推進力によって、『指』はゆっくりとリングに入っていった。
それを肉眼的に映すスクリーンの隣では、別のスクリーンが磁場や引力の見えない要
因を線として認識できるよう表示している。
「きついか……」
『指』の周りの線のどれもが激しい渦を描いていた。それがリングと『指』両方にひ
どく干渉しているのが判る。それは、最初の計算値以上だった。
その模様を見ていると、双方が纏っている僅かな大気が嵐を起こしてその音が無音の
空間にあるにもかかわらず聞こえてくるような気がする。
互いを弾き飛ばそうとし、だが溶け合おうとするように絡み合う大気の渦。それに弾
かれた小さな岩石や剥がれた外壁が周辺を勢いよく飛び交う。
「危険ですので、下がります」
操船担当者達の間で交わされる声が、ケインの耳を素通りしていく。
今の状態を見ることが可能であればそれでいい。
僅かな動きがあるたびに、ケインの心臓は跳ね、全身に嫌な汗が吹き出した。
『指』がリングの装着を嫌がるように震える。嫌だと身悶えるのを、ケインの指示に
より細かな変更が行われ、姿勢を制御する。
それはまるで嫌がる娘にリングをはめようとしているような、そんな錯覚を見ている
者に与えた。
古来より、人は結婚の証として指にリングをはめてきた。それは、ある意味拘束の証
でもあったのではないかとケインは考えている。相手が結婚していると示すことによ
り、他の人間を牽制するという。
今『指』にリングをはめれば、『指』もリングも、そしてそれを成し遂げたという名
誉がケインのものになる。
3年前、ミレイの指に指輪をはめた時より、もっと大きな緊張にケインは囚われてい
た。
不安とより以上の期待で目が眩みそうになる。
無意識のうちに、ケインはきつくイスの肘掛けを掴んだ。
「接合ポイントまで後20秒」
オペレーターの声が緊張で掠れていた。
ポイントが近づくに連れ、双方の嵐がお互いを傷つける。
リングはその薄い大気が激しい乱気流によって荒れ狂い、地表を覆っていた岩石が舞
い上がりぶつかり合って砂塵となり黒い嵐を作り上げていた。
ぼんやりとした輪郭に重力の嵐に引き剥がされた外壁が突き刺さっていく。
その最たる現象がスクリーンに映し出された。
最大級の破片がリングの地表に到達するかと思われた途端、黒い嵐に遮られ、激しく
弾き飛ばされた。
大きな塊が一瞬のうちに粉砕する。
その衝撃が重力圏内に納まっていた高濃度の砂塵にも影響を与え、それが重力に逆ら
って宇宙空間まで舞い上がる。
一気に上昇した黒い雲は、自らを戒めていた重力の枷を外した悦びそのままに宇宙空
間を突進した。
「リングから飛来物、このままだと我が船に直撃しますっ!!」
黒い岩と金属色の人工物をまとわりつかせ、触手を伸ばすように伸びてくる雲。
その砂塵の正体はブラックダイヤを含む石だ。
ブラックダイヤが超高速でぶつかれば、大気圏突入可能の宇宙船であっても無事では
すまない。
「回避っ!!」
操舵士の必死の叫び声は、伸びてきた触手に魅入られていたケインを現実へと引き戻
した。
「あっ……」
「間に合わないっ!!」
ケインの間の抜けた悲鳴と操舵士の恐怖の悲鳴とが絡み合う。
「シールド最大っ!!」
誰の声だったのか?
咄嗟にシートにしがみついたケインは全身を振り回されるような激しい震動に襲われ
た。自らの体重を支えきれない手が簡単に椅子から引き剥がされる。
宙に浮いた体は姿勢を変える間もなく壁に激突した。
「がっ!」
衝撃で肺の空気が一気に押し出され、それに唾液と血が混じって飛んだ。
襲ってきた激しい痛みは全身がバラバラになりそうな程で、呼吸することもままなら
ない。
「博士っ!!」
誰かの声がケインを呼ぶ。
それに励まされるようにうっすらと開いた視界は、どこまでも赤かった。
「被害状況の報告っ!!」
「左舷前方がかなりいってるぞっ!」
どこか遠くで声が聞こえるのを感じながら、ぴくりとも動かない体をケインは必死で
動かそうとしていた。
「博士っ!動かないでっ!!」
制止の声はケインの耳には届いていない。ただ、前方に見えるその光景に手を伸ばそ
うとしていた。
赤色の世界で黒い塊が蠢いている。
跳ねるようにあちらこちらに回転する、それはロデオの馬のように見えた。黒い馬に
黒い騎手。暴れる馬を必死で押さえている騎手のように……。
「博士っ!!成功ですよっ!!リングは『指』にはめられましたっ!!」
歓喜の声が、ようやく耳に届く。
……では、あれは……。
霞がかかる視界に再度目を凝らして見つめれば、それは確かに『指』とリングの姿
だ。
成功した……。
途端にふっと体から力が抜ける。
がくりと崩れ落ちるケインを後目にスクリーンの中では、逃れようと暴れるリングか
ら『指』は決して離れようとしなかった。
呼ばれたような気がして、ケインはうっすらと目を開いた。
全身が鉛のように重く、瞼すら思うように動かない。気怠げな体は、神経がつながっ
ていないようにすら感じた。
「誰……」
確かに名を呼ばれたと思ったのに。
それに答えはない。
ただうすらぼんやりとした世界が目前に広がっていた。
しかもケイン自身、きちんと声を発しているのかもはっきりしない。音は全てくぐも
ったように不明瞭なものだ。
頭を動かして回りを確認しようとしたのに動かない。何かに固定されているかのよう
に顔の両側を引っ張られる。
『……イン……ケイン?』
再び呼ばれていることに気付いたケインは、耳を澄ませた。
先程よりはっきりとした声が聞こえる。
それに反応しようとして、ケインは目の前を上昇していく気泡に気がついた。目を凝
らせば、小さな気泡があちらこちらに浮かんでいく。
ケインは液体の中にいたのだ。
それに気付くと、口と鼻が呼吸器で覆われているのも気付く。
「ま…さか……」
肌に神経を集中させれば、確かに何かにゆったりと包み込まれいてるように感じる。
それは初めての感覚ではあったが、ケインは自分が再生機の中にいるのではないかと思
い当たった。
少し重みのある液体がかろうじて動く手の指に絡みつく。
では、呼びかけているのは誰だろう?
「誰?」
『ケイン?』
声と共に、朧気な世界に明暗が現れた。博物館で見た埴輪のような影だと思う。
ゆらゆらと動くそれが、じっとケインを見つめているような気がした。
「誰だ?」
ゆっくりと口を動かし問い直す。
もしこれが再生機ならば、マイクを介して外に声が漏れる筈だ。
案の定、耳に声が入ってきた。
『気がついたようね、ケイン』
ほっとしたような安堵の声に、ケインもほっとする。あまりに朧気な視界に天国にで
も辿り着いたのかという不安があったからだ。
だが、何故ここに?
先程よりも明瞭になった頭が、いろいろな疑問を弾き出す。
『私が判る?』
親しげに呼びかけられ、ケインの目が訝しげに細められる。
『判らない?』
向こうからはケインの動向がはっきりと判るのか、即座に不安げな声に取って代わっ
た。それに答える。
「よく見えない……」
輪郭すらはっきりしない相手では何も判りようがない。
『ああ、中からはよく見えないのよね。でも声も忘れてしまったのかしら?』
声……?
マイクを通したその声は、ノイズが混じっているのかそれとも耳が変なのか、記憶の
誰とも違っているような気がした。
『あら、判らない?う…ん、マイク越しだからかしら?それとも記憶が混乱していると
いう可能性も……』
最後の方はぶつぶつと呟きでしか聞こえない。
それが不安を助長して、とにかくケインははっきりとした説明が欲しかった。
「君は、誰だ?それに俺は……どうなったんだ?……リングは……?」
問いかけているうちに、疑問がさらに記憶を呼び覚ます。
そうだ、リングはどうなったのだろう?
リングを『指』にはめようとして……。
『リングは成功したわ。あなたには名誉と報酬が支払われたの。だから、ここで6ヶ月
間最高級の医療設備で治療を受けることができたわけよ』
不意に、『指』にはまったリングの光景が目に浮かぶ。
ケインは確かにそれを見ていたのだから。
「成功……したんだ……」
感慨が一気に押し寄せ、衝動に固く目を瞑る。目の奥から熱い涙が込みあげ目尻から
溢れ出した。
『あなたは英雄よ。あのリングは本当にブラックダイヤの宝庫だったから。そしてリン
グは『指』にはめられたことにより、その回転速度を弱めて……つまり、たいへん採掘
しやすい環境になったわけ。何しろ、中央にはちょっと修理すれば充分使える人工衛星
という居住区すら持っているんだから』
「そうか……」
『それにしてもほんとうにもったいないわね。リングの所有権を財閥なんかに渡す契約
なんてしちゃって。採掘を独占契約にするとか、もっと利益の出る契約の仕方があった
筈なのに』
呆れたと言わんばかりの口調に、ケインは苦笑いを浮かべて、動きにくい首を僅かに
振った。
「そんなのものは欲しくなかったから。俺はただ……リングを『指』にはめたかったん
だ……」
ただ、それだけ。
自分の理論が正しかったと認めて貰いたかった。
『つまりあなたは……。名誉のためだけに婚約者を捨ててまで契約したというわけね』
「え?」
明らかに女性らしい口調。そして、その内容。
プロポーズのことは彼女とごく親しい友人にしか話していなかった。
それを知っている……女性……?
ということは……?
「ミ、レイ……なのか?」
婚約を破棄した事実を知っていて、なおかつ再生中であろうこの場にいることができ
る人間。
別れた時、ミレイは再生医学の研修医であった。半年もすれば、大学病院の勤務医に
なることが決まりかけていたあの時。
『思い出してくれた?そうよ、あなたに"捨てられた"元婚約者』
自嘲の色が窺える声音にケインは眉をひそめた。
そう、あの時の理由も言わずに指輪を返して貰った。
捨てたのも同然の仕打ち……。あの時、ミレイは怒っていた。
『あの時、何も言わなかったあなたをずっと恨んでいた。だってそうでしょう?人生に
おいて幸せの絶頂だった時に、あなたは何も言わずに私から離れていった。私にとって
幸福の象徴だったエンゲージリングを奪い返して……』
恨んで……。
そうだろう、それだけのことをしたのだから……。
先程までの昂揚した気分は消え、ただミレイに対して申し訳ない気持ちに包まれる。
『私はあなたが大好きだった。本当に愛していたから、あのプロポーズは本当に嬉しか
った。プロポーズの後、二人の楽しい生活をあの指輪を見ながら夢見て……なのに…
…』
その声が微かに震えていた。
「ごめん……」
謝ったってどうなるものではないが、それしか言葉が思いつかなかった。
だがそれにミレイの返事はない。
目を凝らせば、そこには相変わらず影がある。伸ばせば手が届く距離にいる筈なの
に、伸ばすこともできない。
外界の様子が判らないケインにとって、その沈黙は酷く長く感じられた。
『私ね』
静かだった世界に、いきなりミレイの声が割って入って、ケインは慌ててその声に集
中した。
先ほどまでの震えも何もない、ただ淡々とした口調だ。
『自分が再生医学を学んだことをあんなにも感謝したことはなかった』
「え?」
『左腕の欠損……。左の肩胛骨は粉砕し、腕は通常の治療で回復しないほどに痛んでい
た。他の場所は、まだなんとか治療できたのだけれど。だから、あなたはここに回され
てきたの』
そんなにも酷かったのだろうか?
激しい衝撃と痛み……それしか記憶にない。
『私の元にあなたが運ばれるまで、リングを手にした英雄があなただとは知らなかっ
た。だから、担当医として引き受けた時はその名誉に興奮したものだけど、初めて患者
の顔を見て……その時の驚き、あなたに想像できるかしら?3年間恨んできたあなたの
見るも無惨な姿を目の当たりにした私の驚きときたら……』
くつくつと笑い声が聞こえる。
意外にも楽しそうなその笑いに込められた告白は、だが彼女をそんなにも追いつめた
のだとケインを責め苛む。
「君にほんとうにひどいことをした……これは……自業自得なんだよな……」
ぽつりと呟く。
と。
『何言っているの?あなたは私のもとに帰ってきてくれたのよ?だから今は嬉しくって
嬉しくって』
その声音は言葉に嘘はないことを表すように歓喜に充ち満ちていた。
「ミレイ?」
それがなせだか判らないケインの声は戸惑いの色が濃い。
『そりゃ、最初はこのまま死んでしまえばいいって思ったわ。でも私は医者であなたは
患者だった。運び込まれた以上、私にはあなたを治療する義務があった……そうして…
…そう間を置かずして見つけたのよ』
その時のことを思い出しているのだろうか?
声に感慨深げな様子が感じられた。
「見つけた?」
『あなたのぼろぼろになった左手の小指にはめられたあのエンゲージリングをね』
「あ……」
あれを?
『サイズまで直して。目立たない石とは言え、女性用のデザインなのにあなたが持っ
て、しかも指にはめていてくれた。つまりは、私のこと嫌いになったとかそう言うわけ
でもなく、しかもずっと想っていてくれたんだと判ってしまった。それを知った途端…
…私の中の恨みは消えたの。何より、あなたがずっと私を思っていてくれたと知ったか
ら……嬉しかった。私のもとに返ってきてくれたんだと……。もう……どこにもいかな
いわよね?』
「ミレイ……」
何と答えたらいいのだろう?
ケインのミレイに対する気持ちは3年前と何らかわることはないのも事実。
『行かないって言ってくれないの?』
何も言わないケインに焦れたようにミレイが言葉を継ぐ。
それに慌てて首を左右に振ろうとして、うまく動けないから言葉を紡ぐ。
もうどこにも行く必要はないのだから。
「行かないよ、もうどこにも……」
『良かった』
嬉しそうな声に心底ほっとする。
「ここから出ることができたら……君のために新しいエンゲージリングを贈るよ」
ミレイの細い指に合うリングを買いに行こう。そして、またあの指にはめよう。
だが、ミレイの声が笑う。
『いらないわよ。だってあなたから貰ったあのエンゲージリングはここにあるもの』
影が動いて、きらりと小さな光が瞬いた。
『そんなに壊れていなかったから……』
では、もうすでにそれは彼女の指にはめられているのだろう。
「それでいのか?」
問いかければ笑い声で返される。
『これは思い出の品だから、これでいいわ』
はっきりとした声にケインも嬉しくなって微笑んだ。
あのリングでいいと言ってくれるミレイが好きだと、心底思う。
本当に幸せだ、と悦びに支配される。
「ありがとう……」
二人の間に幸せな沈黙が漂う。
その雰囲気にずっと浸っていたいと思っていた。
が。
名残惜しそうにミレイの声がその沈黙を破った。
『……そろそろお休みの時間よ。ここから出るには後10日くらいかかるから……。これ
から徐々に起きる時間を増やして、体を慣らしていくの。また来るわね』
その声が優しく響き、ケインはそれに答えるように目を瞑った。
後10日。外の世界に幸せが待っていると思えば、それも堪えられるだろう。
「それ、似合うわ」
何かの拍子にミレイはケインの左の手首を見つめては微笑み、愛おしそうにそこに口
づけて頬をすり寄せる。
「あなたが手に入れたブラックダイヤの原石を加工するのは大変だっけど。でもこんな
に似合うんですもの。苦労なんて吹っ飛んじゃったわね」
言われてケインも自分の左手に視線を落とした。
そこには、僅かな隙間を残して径が10mmほどの光沢を持つリングがはめられてい
た。
それはケインの拳より小さく、継ぎ目は一つもない。どう足掻いても抜くことはでき
ない代物だ。
ミレイはそれを、形成し始めたケインの手首に取り付け、そのまま再生を続けた。ブ
ラックダイヤ製のそれは、通常の加工手段では切断することなどできないから、もう一
生外すことはできないだろう。
「私からあなたへのエンゲージリング。やっぱりこれにして正解だったわ」
満足そうに微笑むミレイにケインは何も言うことはできなかった。
一度別れを経験したミレイは、頑ななまでにケインが離れることを嫌う。
絶対に外すことのできないそのリングは、ミレイにとってケインと共にあるために二
度と離さないという証のようなものなのだ。
きっともう別れることも許されないだろう。
外せないのか?と問うた時の彼女の鬼のような形相は二度とは見たくない。これから
の幸せのために、ケインはそれをはめ続けるしかないのだ。
怨念よりも厄介な代物だと、それを知った極親しい友達は言う。
だが、ケインはそれを許すしかないのだと思っていた。
もうミレイから離れるつもりはない。
夢は叶い、全てが手に入った今となっては。
もう、ここがケインの生きる場所なのだから。
END
#76/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 03/03/05 22:23 (241)
お題>双子 舞火
★内容 03/03/05 22:25 修正 第2版
オリンポス星系所属 第二艦隊派遣の工作艦カベイロスのテラス。天井は常に宙(そ
ら)の様子を映す喫茶コーナーでもあるここは、総勢750人の乗員達の憩いの場だ。
まだ朝の早い時間、リオ・チームの主要メンバーの一人であるビルは不機嫌も露わに
そこを訪れた。
最奥にある柔らかなソファに体を沈める。傍らに寄ってきたオーダー・ロボットに
コーヒーを頼み、小さく息を吐いて天井を見上げた。少し長目の金色の前髪が視界を遮
るのを鬱陶しそうに掻き上げつつ、その碧玉色の瞳が映すのは、宙に幾多も浮かぶ光の
点。
望んで配属されて2年もの時が過ぎ、慣れてしまうととにかく働きがいのある職場だ
った。破天荒で何かと退屈させてくれない上官にも恵まれ、しかも働くことが苦ではな
いビルだから、常であれば不機嫌になるような要因などない。
だが今、ビルは額に深くシワを刻み、恨みでも込めているかのように呟く言葉は低く
響く。
常に知的さと冷静さを漂わせ、秘かに女性ファンの多いビルの珍しい態度に、憩いの
時を過ごそうとしてやってきた乗員達は、皆そそくさと逃げ出す始末だ。ビルにはそれ
が判ってはいても、だからと言って己の態度を改めようとする気はなかった。
今は何もかもが鬱陶しい。
ビル自身の体調が、実はとてもすっきりと快調なのも腹立たしい要因の一つで、それ
に考えが至ると、ますます眉間のシワは深くなる。
そこまでビルを悩ませる元凶は、実はビルの双子の弟にあった。
彼らが双子であることはその容姿からして一目瞭然なのだが、だが改めて双子だとい
うと、皆一様に驚く。
知的派という言葉が似合うビルと行動派という言葉が似合うボブ。
感情表現ですら静かだと言われるビルからすれば、ボブの豪快で無節操さはとうてい
同じ遺伝子を持つとは思えない。
そう……あいつは無節操なんだ……。
そこが一番の原因だと、結局はそこに行き着いてしまう。
と、部屋の片隅で、ビルの存在に気付かない女性の一群が賑やかな声を響かせた。
何に興奮しているのか、嬌声に近いそれが、明け方までビルを翻弄した事柄を思い起
こさせる。
コーヒーでも飲めば落ち着くかとここに来たのは失敗だったかと、それすら悔いるは
めに陥り、ビルは一気にコーヒーを飲み干した。
それならば仕事場であるチームの司令部にこもればいいのだが、そこにはビルの不機
嫌の元凶がいる筈で、なかなか足が向かおうとしない。
そんなことを考えて元凶の顔が脳裏に浮かんだ途端、ビルの機嫌はさらに悪くなって
しまった。
それでも、時は経ってしまう。
強張って張り付いたようなシワを意識的に緩めて、ビルは司令部のドアをくぐった。
「おはようございます」
「おはようございます」
昼夜の区別は時計でしか判り得ない艦内において、それでも時間通りの挨拶を交わ
す。
不機嫌さを押し隠しているビルに気付かず、リオ付きの副官ダテが小さく笑って頭を
下げた。
チームの司令官であるリオが階級で呼び合うことを嫌うので、ここではいつもコール
ネームを使う。と言っても基本的に名前か愛称であるからそう違和感はなかった。
そのダテと親しく会話をしているのは、この司令部付きでは一番年下で階級も低いキ
イチだが。
「あ、おはようこざいます」
何を夢中になっていたのか、勘の鋭さではトップクラスのキイチには珍しくワンテン
ポ遅れた。それに気付かない振りをする。
気付きたくもなかった。
だからビルは、部屋に入った時からの違和感の原因をまずダテに問うた。
「リオはまだ?」
どこにいても目立つ指令官がいない。
「はい。今日は、司令官級会議があります」
「あ、ああ、そうか」
言われてビルは頷き、その口元を歪めた。
我慢のきかないリオは、司令官会議の度にいろんなもめ事を持って帰ってくる。それ
に気付いたダテもまた肩を竦める。
また忙しくなるなとは思うが、今のビルにはそれより先に気になることがあった。問
わずにおこうとしたが、結局聞いてしまうのは性なのだろうか。
「ボブは?」
何の因果か配属先まで同じ弟を捜す。ふつふつと心の奥深くで煮えたぎる怒りに一言
文句を言わなければやっていられない状態なのだ。
「……ボブは……まだです」
ため息混じりの少し高いキイチの声が背から聞こえ、ビルはやはりと小さく息を吐い
た。
キイチが夢中になる唯一の事柄が直属の上官たるボブの行動と言えよう。
不真面目を絵に描いたような上官に仕事をさせるために、キイチは司令部詰めになっ
ていると言っても過言ではない。
そのキイチを見れば、ボブがさぼりを決め込んでいるのは想像できたというのに。そ
れでも振り返る頃には、ビルはいつものように口元を引き締める。
「またですか?」
「はい」
その端的な返事に隠された事柄は、さらにビルを不快にさせた。
ボブが何故さぼっているのか?
その原因は、この場にいる者なら誰でも知っている。
「いつからですか?」
「昨夜、勤務が終わった途端に」
悔しそうに答えるキイチがその瞳を壁に向ける。位置的に、『繁華街』と呼ばれる
バーがあるところだ。
「そうですか」
ならば、やはりあれは現実のものだったのだと、ビルはきつく奥歯を噛みしめた。
どんなに不快に思っているか、何度ボブに言っても彼は止めようとしない。
まったく……。
らしくないため息が零れてしまう。
「ビル?」
さすがにそれを見咎めて、ダテが目を丸くした。
「何でもありません。それより今日の予定は?」
これ以上勘ぐられたくないビルが、さりげなく会話の流れを変えた。
それに反応して操作を始めたダテの後で、ビルは誰にも気付かれないように目を細め
た。
どうしてくれよう?
と、今ここにいない男に思いを馳せる。
表面上は微笑みにしか見えないその口元は、実は怒りを内包して微かに震えていた。
不機嫌な理由を言葉にするのは難しい。
まして、その内容が内容であるが故に、ビルは他人にはそのことを一言も漏らしたこ
とはなかった。
だが、ボブは他人ではない。もう一方の当事者だ。
「ボブ」
ようやく捕まえたボブを、ビルは有無を言わせずに誰も来ない部屋へと連れ込んだ。
「何だよ?」
目前でふてくれた顔が上目遣いに睨んでくる。
光を反射しやすい金色の髪が、ボブが動くたびにきらめく。睨む碧玉の瞳が映してい
るのは、同じく金色の髪だ。
ボブが真面目だったらビルと区別がつかないと、言われ続けてはや10年以上。ボブの
ふざけた性格が顔に出て、決して見間違われることはない。
そのボブが怒っている。だが、ビルとて怒っているのだ。だから左腕でボブの右腕を
掴む。
「ちっ」
舌打ちし、掴んだ腕を振り払おうとするボブが嫌そうに顔を顰めた。
「何が言いたいか判るだろう?」
歪んだ口元が問う。
「ああ……」
口惜しそうにボブも答える。触れあった肌からそれがビルに伝わった。
「”また”かよ」
「ああ、”また”だ」
二人の口から同時に深いため息が漏れた。
生まれた時、二人は一人だった。
ビルの左腕とボブの右腕は肩胛骨こそそれぞれにあったが、そこから先の腕はなかっ
た。肩の先にあるのは互いの肩だったという。
命に関わる器官の共用はなかったから、再生技術を活用してそれぞれの腕が作られ、
二人の体は今は何の不自由もなく存在する。
だが、もともと一つであったせいだろうか?
無かったはずのビルの左腕とボブの右腕が触れ合うと、お互いの思考が相手に伝わっ
てしまう。最も、それが二人にとって自然であったから、それに関しては何の問題はな
かった。もともと表層意識しか伝わらなかったし、知られたくなかったら心を閉じる
か、触れあわなければいいことだからだ。
ところが長じて、二人はある事に気がついた。
触れあっていなくても、相手が何をしているのか判ることがあるのだ。
その距離は短いとは言え、まるで自分がそこにいるかのように感覚だけが体験してし
まう。
それでも自覚さえしてしまえば、苦労はしたけれどコントロール化に置いたはずだっ
た。
が、起きている間はきちんとコントロールできるそれは、睡眠を取っている間に希で
はあるが暴走してしまう。しかも、それはたいていボブの体験がビルに伝わってしまう
という一方通行で行われるのだ。
今回がそうだ。
目覚めたときには、それはまず夢だと感じる。
だが体に残る倦怠感とある意味爽快感とよべる物に、ビルは否応なしにそれが夢でな
いと気付かさてしまう。
いや、夢でもある。だが、夢ではない。
柔らかな女性の体に掌が触れる触感も、肌から立ち上る汗の匂いも、柔らかな内部に
包まれる快感も全て現実のものと何ら変わりはない。感じたままに体が興奮し、吐き出
す精だけがビルにとっては現実だというのに。
睡眠中のシンクロはボブが行った性行為のすべてをビルに伝えて、ビルは抱いたこと
もない女性を抱いた記憶を持ってしまう。
いろいろと問題のあるボブの性格のうち、不特定多数の女性と付き合うその無節操だ
けはどうにかしたいと願うのをビルは止められなかった。
一体、何人の女性を抱いてしまったのだろう?
相手は何も知らないのに、ビルは彼女たちのあられもない姿を知っているのだ。感情
表現がそれほど豊かでないビルでも、さすがにしばらくはその女性と逢うとそのシーン
を思い浮かべてしまい、赤面しそうになる。
それにボブが吐精した後にシンクロは解けてしまう。
その直後にビルは意識を取り戻し、激しい自己嫌悪に陥るのもいつものことだ。
情けない、と何度思ったことだろう。夜中に濡れた下着の感触で目覚めるということ
は。
シンクロしているのだと気付く前は、自分が異常ではないかと思うことすらあった。
一度も女性を抱いたことがないというのに、夢に出てくるリアルさは悪友達に無理矢
理つきあわされて見てしまったアダルトビデオ以上だった。
しかも普段はどんな女性を見ても、抱きたいなどとは思わないというのに。
これでは、俗に言うむっつりスケベという類ではないかと、真面目に落ち込んでしま
ったこともあった。
だからその原因がボブであると知った時には、本気で彼のの息の根を止めてやろうか
と思ったくらいだ。さすがにそれは無理だとしても、大けがでも負わせてベッドに括り
付けるのも良いかもしれないとすら思う。
それから幾星霜、理由を話して何度ボブに女遊びを止めるように言ってみたものの、
それは決してやまることはなかった。
「お前……いい加減その無節操な生活を改めろ」
普段から丁寧なはずのビルの言葉遣いが荒くなる。そうなってしまうただ一人の相手
が子供のように唇を尖らしてふてくされた。
「俺はお前みたいに聖人君子じゃないからね」
何が聖人君子だと、ビルはこめかみが痛むのを指で押さえた。
誰のせいだと思っているのか?
ビルが女性に興味がないのは、シンクロによって否応なく与えられた体験によって
だ。それで満足してしまった体は、あえて相手を欲しようとしない。
「私は普通だ。お前がケダモノすぎるんだ」
「何がケダモノだ」
「ケダモノだろうが!」
苛々と吐き捨てれば、ボブが眉間のシワを深くして唸る。
「だいたい、お前だって気持ちいいんだろ?肉体労働抜きで、女を味わえるんだぜ?」
その右手が、ビルの左腕に触れる。
羨ましい限りだ。
突然飛んできた揶揄を多分に含む感情に、ビルの頭に血が上った。吊り上がった眼が
ボブを見据える。
静かだと評される性格は所詮外面でしかない。
「私は、女なんか欲しくないっ!」
思わず叫んでいた。
「んじゃ、男がいいのか?」
「そんなものいらんっ!」
同性という偏見は、このオリンポスでは少ない。
だが、自分がそうなるかと言えばそれは別物だ。
「やっぱ聖人君子だよな……お前、どうやって処理してんの?」
不思議そうに問われ、ビルはがくりと肩を落とした。
「判らないのか?」
「判らん」
力ない言葉はきっぱりと返される。
どうして、同じ遺伝子を持っているというのに、考え方が違っているのだろう?
「お前とシンクロするせいで……間に合ってるんだ……」
言いたくもないことを口にする。
「なら、いいじゃねーか」
それのどこが不満なのだと、結局は元のところに戻ってしまうボブとの会話に、ビル
はただ反論の言葉を失う。
毎度繰り返されるこの手の会話は、どんどん不毛なものになっていき、続けることが
困難になってしまう。
「ボブ……」
だから、と、ビルは一縷の望みをかけて請う。
「せめて、相手を一人に絞れ」
「え〜、面白くない」
やっぱり殺してやりたくなる。
込み上げる怒りそのままに、ビルは握りしめた拳を思いっきりポフの腹に叩き込ん
だ。
コントロールできるはずのシンクロが暴走する原因は、片方に意識が無いことだが、
それともう一つ感情の昂揚によるものがある。
急所に入って朦朧としてしまったボブの心が、今怒りに我を忘れてしまったビルとシ
ンクロしてしまう。
自分で自分を本気で殴ることができないのは痛みに恐怖を覚えるからだ。だからビル
はどんなにボブに怒りを覚えても、彼を殴ることはできない。
それを忘れれば……。
のたうち回るボブの傍らにビルは腹を抱えてがくりと膝をついた。
きりきりと腹から伝わる痛みはボブと同じもの。
しまった、と悔いてももう遅い。
込みあげる吐き気を必死で堪えながら、ビルは荒い息を必死で整えようとしていた。
シンクロしないようにするには、もう一つ手段がある。それは、ある一定以上の距離
を置くことだ。
しかし、狭い艦内、端と端にいたとしても有効範囲であることは確認している。
だから、ここにいる以上ビルには逃げ場はなかった。
結局、ボブの意識矯正が先だと言うことになるのだが、それはまた夢のような話だと
思う。
視界の中でビルのものと同じ顔が苦悶に歪む。
その様をビルは、鏡を見ているようだと溜息をつきながら見つめていた。
END
#77/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/03/08 23:15 ( 1)
踊る顔文字 永山
★内容 20/11/07 11:32 修正 第2版
※都合により一時的に非公開風状態にします
#78/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/03/22 12:58 ( 29)
お題「双子」 滝ノ宇治 雷華
★内容
私の身近には双子というのは見たことがない。 しかしながら、「そっくりさん」とい
うのは、クラスには必ずいるものだ。そっくりというのは、顔に限らず,話し方、癖,
だけ一つでも,そっくりさんになってしまう。いわゆる影武者だ。
こんな話しがある。かの鎌倉幕府を開いた、源 頼朝は弟の義経を追放した。歴史上
では奥州藤原氏に逃れ,奥州藤原氏と共に歴史の表舞台から消え去った。しかし、日本
テレビの特別ドラマでもあったように,義経とうりふたつの影武者が討ち取られたらし
い。
これから話すのは,実話である。とともに私の人生の記憶だ。
時代は2000〜2001年に遡る。
彼はいつもどうりに最近、本屋が近くにできたため毎月15日にこの本屋に通いつめ
る。月刊誌を買うためだ。「ガーーーッ」自動ドアの機械的かつ、自動的な音が響く。
彼は店内へ入った。彼の中では自分は常連だと思ったいた。しかし、商業というのは忙
しいもの。店員が声をかけるほど彼のことを覚えているはずがない。店内の本のコー
ナーはわりと少ない。どちらかというと,レンタルビデオのほうが多いようだ。彼は目
的の雑誌を見付け,レジへと持っていく。もちろん。さっきも言ったように、店員は覚
えているはずがない。静かだ。なんというか,店内が白く染まりあげられ,そして、時
間がとまったようだ。レジを離れようとするが,ある映画の劇場でしかもらえないはず
の、ステッカーが彼の目に止まる。とても、ご自由にどうぞと言ってる感じだったの
で、黙って彼はそれを一つ手に取り店内をでたハズだった。
またもや「ガーーーッ」という音が鳴り響く。彼はいつもどうり、そさくさと家に帰
り早く雑誌を見たいという欲求を満たすはずなのだが、いつもと違う風景に戸惑う。地
面にある少年がコンクリートの少しななめった床にへばり付いているのだ。その少年の
見ているものは、無邪気な少年が興味深くアリを見つめているわけでもなく、少年が見
つめているのは私が買ったものと同じであった。一枚だけ取ったはずのステッカーが、
二枚持っていた。2000〜2001年の彼は義を重んじ,優しさに満ち溢れていた。
さながら、私がとった行動行動というのは少年にステッカーを差し出したのだ。
これが、彼の今後の人生に数々登場する親友との出会いなのである。
完
#79/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/03/27 15:10 ( 54)
狂気の勇者達。 序文 滝ノ宇治 雷華
★内容
汝、平等を信じるか。世界が平等だとしても、人々が心を変えなくては意味がない。
我,ここに歌う。平等の賛歌を。歓喜によせて。
序文。
「ハァハァ」
彼は走ってる。重い鎧を身につけて。背中にはなぜか翼が生えている。暗闇を一人で走
っている。そう。彼は翼があるという理由で迫害された民の子孫なのである。それであ
って最強の騎士。彼の名は「カミュエル。」
ふと気がつくとカミュエルは一人,真っ暗で、静かな森の中にいた。童話などに出て
きそうな森だ。この地の名は,「ウッドミドガルド」その名のとうり,えんえんと森が
続く地方だ。もちろん、この地を支配している貴族はいる。このベルガニア王国は王
族,貴族、平民、農民、奴隷の階級制度になっていて、王族が王都を自衛し、地方は地
方からもともといる貴族が自衛しているのだ。このまま飢え死になるわけにもいかず、
カミュエルはウッドミドガルドを支配している貴族の古城に侵入した。侵入するのは簡
単だった。デカイ城をすみからすみまで把握している貴族はそうざらにはいない。ウッ
ドミドガルドのミドガルド一族も例外ではない。タンタンとカミュエルは階段を足早に
あがる。人に見つかったら,一貫の終わりだからだ。しかし、その行為が逆効果だっ
た。カスタネットのようなカミュエルの登る音を聞いていいない自衛団員はいなかっ
た。「天使の羽を持つ死神」と歌われた彼も50も越す大衆を前しては、飛んで火にい
る夏の虫化となった。いや、倒せないわけではない。返って捕まってしまえば、自衛団
に加えてもらえるかもしれないのだ。しかし、王の力というのは絶対権力であって翼賊
討伐というのは避けられないものだった。
椅子に縛り付けられ、ミドガルド一族が集まり会議を始める。カミュエルをどう殺す
かという惨いものである。さすがに彼も歯を食いしばった。しかしながら、カミュエル
の姿は天使と歌われるほど美しいもので、美しいものが好きな貴族たちはカミュエルが
行く先々、自衛団を使わせ、自分の城へ招き入れるということは珍しくはなかった。ミ
ドガルド一族は殺し方を話しつつ,カミュエルに見とれていた。ミドガルド一族の箱入
り娘、メデイ・ミドガルドはカミュエルを殺さず,助けようと父でもあり,城の当主で
もある、ラクーツ・ミドガルドに呼びかける。
「お父様,自衛団に加えれば,ミドガルド一族の評判はよくなるわ!!」
「・・・・・・・む・・・・」
ラクーツは黙りこむ。しかしながら、そこは親心、可愛い娘の甘えだと思いしぶしぶ自
衛団に加えるのだった。
平民には遠い記憶だが、一時期、ベルガニリア王28世後継ぎ争い内乱が発生した。2
8世は妻を早くに亡くし隠し子、ニケ・ベルガニリアを育てていた。しかし、乗っ取ろう
とする勢力は必ずいるものである。なんと身内のリース・ベテルニアが王都を攻めてき
たのである。リースは南のアラガス港を支配していた。ベルガニア王国の外交、貿易を
指揮していた。そのため,金銭が一番ある貴族でもあった。これに驚いた28世は王都を
すて、一人逃亡。隠し子ニケを王都に置き忘れてしまったのである。これにより、ニケ
はリースにいいように利用され、挙句の果てには追放されてしまった。
「ハァ・・・・・・。」
一人の奴隷が、溜息をつく。ボロボロの服に鎖,いかにも奴隷らしい。なぜ彼が溜息を
つくというと,彼の親友が貴族たちの狂った娯楽、「グラディエーターズバトル」に強
制参加されたのである。グラディエーターズバトルとは、盾と、剣と装備して、猛獣と
奴隷が戦うというものである。落ちこんでいるところへ,一人の青年と少年の間ぐらい
の男児がやってくる。やや高貴な空気を醸し出している。
「やあ」
高貴な男児は奴隷に語りかける。少し反抗的な態度に奴隷はなる。
二人は雑談を交わす。
「約束するよ。この王国を平等にしてみせる!!」
そういうと彼は去っていった。
<序文完
>
#80/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/04/03 00:08 (500)
四月の事件 永山
★内容 04/09/25 23:49 修正 第3版
松坂良一郎は大学へと続くなだらかな丘を、遊歩道に沿って下っていた。第
二キャンパスがよく見通せ、春先の晴天の下、各運動部が練習に励んでいる。
脇に抱えた大型封筒を持ち直し、汗ばんだ手を空気にさらす。
諸手続のために大学に足を運んだというのに、適当な鞄を持ってくるのを忘
れた己を今一度呪ってから、とにかく用事は済んだのだからと気を取り直す。
今日は暇だから、このあとは学内見物に費やすつもりだ。三つあるキャンパス
の内、まだ第一にしか入ったことがなかった。
「あのぉ」
後方から、風の音に紛れて、声が聞こえた。いや、そんな気がしただけだっ
たが、松坂は一応、振り向いた。すると小柄な女性の姿があった。
つい、耳の穴を小指でまさぐった。そうしながら相手の顔をよく見ると、不
意に思い出した。
「あ、君は、合格発表のときの」
「覚えててくれてたんですね。感激です」
女性は不安の色を消し、表情をほころばせた。化粧気の乏しい上に、幼い顔
立ちをしているが、この春、大学に現役合格したのだから、松坂と同い年だ。
「眼鏡をしてきたんだ? 一瞬、分からなかった」
「はい。コンタクトレンズは、発表のときで懲りました」
合格発表の日。寒さがぶり返した朝、首をすくめて松坂は大学に向かった。
合格者の受験番号が張り出される掲示板の前で、松坂はその野暮ったく厚着
した女性が少し気に掛かった。目を細め、じっと立ち尽くして動かないのだ。
(変だな、不合格で落胆しているにしては妙だし……いやいや、それよりも今
は我が身だ)
一旦吹っ切り、掲示板の前に立つ。受験票を手に視線を上下左右に走らせた。
(――あった。やった)
自らの合格を確かめて喜びを噛みしめた松坂は、依然として同じ格好でいる
彼女の後ろをすり抜け、立ち去ろうとした。なのに、足を止めたのは、「見え
ない……」というつぶやきが耳に届いたからだった。
「あのときは、本当に困ってたから、本当に助かりました」
松坂の回想を破る形で、女性が言った。深々とこうべを垂れている。
「元々は眼鏡だったなら、あの日は何でコンタクトレンズにしたんです?」
「それは、新しい出発の日だから気分も改めようって」
「そういうのは普通、合格を確認したあとでは。入学式の日とか」
丘を下りながら会話を続ける。「実はですね」と秘密を打ち明けるかのよう
な口ぶりで、女性は受けた。
「あの日のラッキーアイテムが、コンタクトレンズだって。ちょうど前日にコ
ンタクトレンズを買ってたんです。ああ、これしかない!って思って」
「……もしかして、占い?」
「はい、決まってます。合格発表の日の朝、テレビを観ていたら、今日のラッ
キーアイテム、蟹座生まれの人はコンタクトレンズです、って」
「コンタクトレンズなんか、いきなり身に着けようとしてもできない人が、た
くさんいそうだけど」
「はい。だからこそ、これだって思ったんですよ。文字通りじゃないですか、
昨日の今日ってやつ」
「まあ、事実、合格してたんだから、信じるのも分からなくはないけどねえ」
松坂が苦笑に顔を歪めたところで、二人は丘を降りきった。アスファルト道
を一本、横断すれば、キャンパスへ通じる門に出る。
「危うく、買ったばかりのコンタクトをなくし掛けたんじゃないか。合格は決
まっていた物だと考えれば、アンラッキーになるとこだった」
「でも、見つかりましたから、いいんですよ」
「偶然だよ。よく踏まれて割れなかったもんだ」
松坂は再び記憶を呼び起こした。
見えないというつぶやきに、思わず声を掛けた。
「どうかしたんですか」
相手の女性――というよりも少女ないしは女の子と表現した方がぴたりと来
る彼女は、見知らぬ男から突然話し掛けられ、マフラーに顔を埋めるようにし
て、距離を取る様子を見せたが、松坂が「もしかして、番号が見えないとか?」
等と助け船(?)を出すことで、ようやく口を開いたのだった。
「コンタクトレンズを両方とも落っことしちゃって……」
「はあ。どこで?」
左右同時に落とすなんてどじな子だなと感じつつ、関わり合いになったつい
でに、聞いてみた。
「ここ……」
この返事には他人事ながら慌てた。掲示板の前は、急速に人が増えつつあっ
た。さして時間が経たない内に、黒山の人だかりとなるのは確実。
「早く探さないと。いや、それより、何でみんなに言わない?」
「だって、皆さん、発表を見に来てるんですから、その邪魔をしちゃあ……」
気持ちは分からないでもない。不合格で落ち込んでいる奴を掴まえて探すの
を手伝ってくれとは頼みづらい。いやそれよりも、結果を見る直前の連中に、
「コンタクトを“落とした”」なんて言おうものなら、袋叩きに遭うかもしれ
ない。
「あのう、それよりもお願いがあるのですが」
「何? それよりもって、コンタクトより大事なのかい?」
「はい。あ、先にお伺いしなくちゃ。合格されたんですよね? 他人に声を掛
ける余裕があるくらいですから」
「え、うん、まあ」
「おめでとうございます。それで、私の番号があるか、見てくださいませんか」
「え……君がそれでかまわないのなら、いいけど」
落ちていたらどうするんだという疑問は、飲み込んだ。
「もし、番号がなかったら、何も言わずに立ち去ってください。その方がショ
ックが小さいし、そちらも気まずくなくて済みます」
そんなことはない、充分に気まずいぞと思った松坂だったが、その手には既
に受験票を渡されてしまっていた。
「どうぞ。お願いします」
「あ、あのね、君。これでもし僕が、物凄く意地の悪い奴で、番号があるのに
立ち去ったり、逆にないのに合格だよと言ったりしたら、どうするのさ?」
「そんなこと、考えもしません。だって、親切な人に違いないんですもの」
おいおい、それは見た目での判断か? コンタクトレンズなしの目で、そん
な判断されても嬉しくないし、そもそも外見で人を決め付けるのは間違ってる
ぞ。
「こうして声を掛けてくれる人なんて、滅多にいません」
「ああ、なるほどね」
合点が行った。だからという訳でもないが、松坂は受験票の番号を覚えると、
視線を掲示板に移した。この子の番号があるかないか、我がことのように緊張
する。むしろ、最前の自分のとき以上に緊張したかもしれない。
だから、番号を見つけたとき、松坂は自然と笑顔になっていた。
「……おめでとう。あったよ」
「ほ、本当ですか?」
見上げてくる彼女に、松坂はへし口を作って応じた。
「信用してくれてるんじゃないのかい?」
「あっ、ごめんなさい!」
ぺこぺこと頭を下げられ、うっかりジョークも言えないなと苦笑を禁じ得な
い松坂だった。彼は受験票を返しながら、気の利いた言葉を探した。
「とにかく、これで僕らは晴れて大学一年生になれる訳だ。えっと、ここに入
るつもりなの?」
「はい、私はここ、本命でしたから」
「よかった。僕もなんだ」
「じゃ、同級生ですね。ええっとぉ……握手でもしましょうか」
予想外の申し出に、松坂は目を丸くしていた。引っ込み思案と見なしていた
のが裏切られて、驚いた。
それとも、この子もどうしたらいいのか分からず、思わず、握手云々という
台詞が出たのかもしれない……。
「あの握手のあと」
第二キャンパスの案内板を前に、松坂は、今度は自ら現実に戻って来た。
「コンタクトレンズを探したら、運よく見つかったね」
「それをラッキーって言うんです」
「うーん、元々コンタクトをしてこなければよかったと思うが、まあいいや。
問題はそのあとだ。急ぎの用事があるとか言って、さっさと行ってしまった」
「合格したことを知らせなくちゃいけないし、そのあとも色々予定があって」
「うん、それは分かる。僕が問題にしたいのは、君の名前を知らないまま、別
れてしまったことさ」
「……え?」
「名乗ったつもりだったとは言わせないぞ。君が名乗ったなら、僕も名乗って
いたはずだ」
強気に出た松坂だったが、彼女からの次の返事は、彼の虚を突くものだった。
「そうじゃなくて……受験票、見なかったんですか」
「あ?」
「名前、受験票に書いてました」
「ああ……そうか」
見ていなかった。番号だけを見、記憶したのだ。それ以上のことは、プライ
バシーの侵害になると思ったから。
「私、てっきり、名前を覚えてくださったんだと思ってました」
「すまん。うん、じゃあ、改めまして、自己紹介」
照れ隠しに上目遣いになった松坂は咳払いをして、目線を元の高さに戻すと、
早口で名乗る。相手は栗原尚美と言った。
「松と栗で松ぼっくりみたいですね」
「意味不明なことを。松ぼっくりの『くり』は、多分、栗じゃないと思うけど」
「いいじゃないですか。入学して、最初の友達なんですから」
「あ、そう思っていいんだ」
あの日とは打って変わって積極的だなあと感心しつつ、松坂も満更でない気
分だった。合格発表のときは垢抜けない制服にコートを羽織った姿だったが、
好みの範疇の顔立ちには違いなかった(それ故に声を掛けたのかもしれない)。
そして今日は、大学生活に備えたのか、服装は明るい色のワンピース、少し化
粧もして、前回とは違うよさが出ていた。眼鏡も似合っている。
「握手したんだから、そうですよ」
「握手しただけで友達かあ。一緒に食事したら恋人で、キスをしたら夫婦とで
も言いそうだ」
松坂が笑いながら茶化すと、栗原の顔は一瞬の内に真っ赤になった。
「ところで栗原さん。第二キャンパスに何か用があるのかい?」
「い、いえ。別に」
栗原はうつむいたまま、頭を左右に振った。初めて会った日に、あっという
間に戻ったようだ。案内図を見ながら、松坂は呆れ気味に応じた。
「何だ。それじゃ、僕を見掛けたってだけで、わざわざ着いて来たのか。栗原
さんも暇だね」
「……」
「え?」
また空耳かと思い、耳をいじりつつ、それでも栗原に向き直った松坂。
「違います」
面を上げ、彼女は明瞭に言い切った。
背後で騒ぎ声がした。在校生だろう、数名のグループが通り過ぎていく。
間をおいて、松坂は聞いた。
「暇じゃないってこと? それとも、用事は第二キャンパスじゃなく、僕にあ
るとか……?」
「松坂さんに用があって、着いて来ました。あの、よろしかったら、私と付き
合ってください!」
ところてんの突き出しみたいに、一気呵成に喋った栗原。息を弾ませ、再び
下を向いてしまった。
「えーっと……」
松坂の腕から、大型封筒がするりと滑り落ちた。
「社会学、出席さえしていれば楽勝らしい」「おまえ、第二外語、ドイツか。
苦しむぞ〜」「心理学は今年から人が変わって、正体不明だってさ」「文学は、
試験が教科書通りの出題だから、直前に頑張ればいい」
履修科目を決めて学生課に提出する期限まで、一回生の間ではそんな会話が
飛び交う。松坂もご多分に漏れず、情報収集をした上で、決めつつあった。
「それなのに」
松坂は休み時間、大教室の中程の席で、前に座る彼女に話し掛けた。
「全部、占いで決めたって?」
「全部じゃないですよ。必修科目は仕方ないから」
栗原は当然のような顔をして答える。今日の彼女は、髪をゴムでくくって来
た。ゴムにはさくらんぼの飾り物が付いていて、幼さを強調する。
「何でそうも、占いに執着するかねえ」
「この子ったら、一歩間違えたら、宗教だよ」
栗原の左隣に座る津谷菊音が、指差しながら言った。つり上がった目の持ち
主で、細面だから、まるで狐だ。それでいて体格は大きい。ソフトボール部に
入ったと聞いて、そりゃ適切な選択だと松坂は感じた。
「私も占い、好きだけどさ。科目選びにまで持ち込もうとは思わないな。下手
すると、人生誤るよ。松坂君の方から、説得してやってくんない?」
「せ、説得されても、聞かないよ」
頬を膨らませた抗議口調になる栗原。だが、怒ったようにはあまり見えない。
「蝦名大聖先生お占いのおかげで、松坂君と知り合えたんだから」
「はいはい。何度も聞いた」
津谷は手のひらを上向きにし、やれやれのポーズ。「お邪魔だったら、どっ
かに退散するけど」とまで言い足した。
「そんなこと言わないで、ここにいてよー」
津谷が何も行動に移さない内から、彼女の腕を引っ張って栗原は引き止めた。
「蝦名先生の占い、ほんっとうによく当たるんだから。入学式の日だって、折
り畳み傘を持って行ったら、ちゃんと役に立ったし」
「うん、あれは確かに」
うなずかざるを得ない松坂。天気予報では晴れ後曇りで、降雨はまずなさそ
うだったにも関わらず、昼過ぎから土砂降りになったのだ。松坂も当然、傘を
持って来なかったが、栗原のおかげで濡れずに済んだ。代わりに、いきなり相
合い傘をする羽目になったが。
「それ、テレビの占いでしょうが。全国で何万もの人が見てる。蟹座がどのく
らいの割合でいるか知らないけど、その全員が傘を持っていったとしたら、ご
く一部に恩恵があっても不思議じゃないってば」
津谷がくさす。占い好きだと宣言した割には、やけにドライで分析的な考え
方だ。多分、その場その場で切り換えの早いタイプなのだろう。
「他にもあるよ。占い通りに青のスーツを着ていったら、松坂君も似た色の服
着てきた」
「そんなことまで言い出すか、この口は。もう、どうでもいいって感じ」
津谷がまたまた呆れた仕種を見せたところで、始業を告げるチャイムが鳴り、
ほとんど同時に教授が入室した。
何かにつけて占いを持ち出されるのには、多少閉口気味の松坂だったが、実
害がある訳でもなし、気にしないでいた。故に、栗原との付き合いは順調に進
んでいた。
尤も、それは亀の歩みで、まるで高校一年生の初々しいカップル。栗原は大
学に入るまで異性との個人的付き合いは一切なかったし、松坂は中学卒業時に
理不尽な失恋を経験して以来、一対一の付き合いを避けてきた。加えて、二人
とも自宅通学の身。そんな二人だから、互いに暇なときにデートをするも、夕
食前には帰るというパターンばかりだった。
六月半ば、梅雨入り前の最後の快晴かと思える好天の日曜。この日のデート
でも、新しいことは特になかった。
映画を観たあと、ファミリーレストランで昼食を摂った。デザートに取り掛
かる頃になると、映画の感想も出尽くし、話題が移る。
「大事なことを聞くのを忘れてたのに気付いたんです。誕生日はいつですか」
女性が使うにしては大ぶりな手帳を開き、ペンを構える栗原。松坂はスプー
ンを口から離すと、笑うなよと前置きした。
「三月十四日なんだ」
「ホワイトデーですね」
「そう。誕生日プレゼントをもらっても、バレンタインのお返しを同時にしな
くちゃならない」
そう答えてから、これでは笑ってくれと言っているのと同じだと気付き、松
坂は自ら苦笑を浮かべた。
しかし、栗原はそんなことにはかまわず、「星座は魚座ですね」と、メモを
取っていく。
「また占いか」
「よかった。蟹座と魚座の相性、最高なんです。私達、最高の組み合わせ!」
嬉しそうに言った栗原に、松坂は意地悪を思い付き、実行した。
「蝦名大聖の占いによると、だろ。他の占い師に聞けば、また別の結果が出る
かもしれないよな」
「何でそんなこと言うんですかあ」
本気で怒ったように見えたので、松坂はすぐに謝った。
「ごめんごめん。冗談だよ。最高の相性で、僕も嬉しい」
「本気でそう思ってる? 嘘なら、誕生日プレゼント、あげないよ」
「思ってる思ってる」
「なら、いいけど」
「ああ、よかった。助かった。でも、惜しいことしたな。発表の日から付き合
っていれば、すぐさまプレゼントをもらえたのに」
「そういえばそうですね。あと……九ヶ月もある」
贈る側なのに、眉を下げて残念がる栗原。松坂はすかさず、「君の誕生日は
いつ?」と尋ねた。
「いつだと思います? 蟹座ですよ」
「何月何日から何日までなのか、全然知らないんだけど。蟹座に限らず」
「六月二十二日から七月二十二日です。覚えやすいでしょう?」
「うん、確かに。で、君の誕生日……六月だったら、困るな。もうすぐじゃな
いか。プレゼントを選ぶ余裕がない」
「安心してください。七月です。七月十五日」
栗原が首を傾げ、答える。対する松坂は、大げさに胸をなで下ろして見せた。
「一ヶ月あれば、何とかなるな」
何がいいか考慮するだけでなく、資金を溜めるにも、時間が必要である。
「でも、試験ですね」
「あ? ああ、そうか。夏期休暇明けじゃなく、休暇前に試験なんだよなあ。
まあ、その分、夏は思い切り遊べるとは言え」
「誕生日当日に会えればよかったんですけど、無理ですね。ずらします?」
「……栗原さんがそれでよければ」
「じゃあ、八月に入ってからに」
「了解。日はどうせまた占いで決めるのかな?」
「さあ、どうしようかなと。こればっかりは、私と松坂さん、それぞれの都合
がありますもんね」
「君の誕生日なんだから、君に合わせるよ」
「ほんとですか? 嬉しい」
無邪気に喜ぶ彼女を前に、松坂も笑った。この程度で喜んでくれるとなると、
プレゼントを渡した日にはどうなることやら。
それにしても……と、松坂は一つの気掛かりを思い起こした。お互い、未だ
に名字に「さん」付けで呼んでいるが、これはおかしくないのだろうかと不安
になる。それに、栗原の言葉遣いは丁寧すぎると思う。
この際だから、聞いてみることにした。
「ねえ、栗原さん。付き合い始めてからだいぶ経つけど、名字に『さん』付け
って、堅苦しくないかな」
「おかしい。松坂さんも、私を『栗原さん』と呼んでるのに」
「それは、君に合わせたからで……」
「私は、蝦名先生の占い理論に基づいて、名字で呼ぶことにしてるんですよ」
「占い理論……」
「正しくは開運理論です。カップルの場合は、二人の姓名の字画や音読したと
きの音や、その音の数などから出すもので、私が松坂さんを呼ぶ場合は、『ま
つさか』が一番幸運を招くんですよ」
「はあ」
「松坂さんがもし、『まつざか』と濁るんだったら、話が少し違ってきてです
ね。詳しく説明しましょうか。ちょっとややこしいから、紙とペンがいります
けど。それに時間も……」
手帳を押し広げて、説明を始めそうな栗原を、松坂は慌てて止めた。
「いいよ、いいよ。それなら、僕は君を何と呼ぶのが一番?」
「それは」
口を開けたまま、言い淀む栗原。アイスクリームが溶け、スプーンがガラス
の容器に当たって小さな音を立てた。
松坂が「ん?」と促すことで、ようやく続きを言った。
「尚美って呼び捨てにしてくれるのが一番いい……」
「それじゃ、尚美と呼ぶことにするよ」
「う、うん……そ、それよりも、まだ聞きたいことがあって」
「何でも答えるよ、尚美」
にやにや笑いながら、相手の名を強調する松坂。栗原が手帳を立てて、顔を
隠すような格好になった。
「松坂さんの好きな色は?」
「今は特にないけど、小学生の頃は青だったな、やっぱり。何なに、色まで関
係あるの、占いに?」
「相性診断ですね。うん、青はベストスリーに入ってますよ」
期待していた答に満足したのか、栗原は再びにこにこし始める。笑みがこぼ
れてしょうがないといった風情だ。
「好きな数は何ですか」
「数ならいっぱいある」
「0から10までで、一つだけにしてください」
「当然、整数? だったら……5だな」
「5ですか。まあまあですね」
表情が少しだけ曇る。悪くはないが、満足していない。そんな雰囲気である。
「それじゃあ、一週間の内で、一番好きな曜日と嫌いな曜日を」
「今度は嫌いな曜日も?」
「はい。循環するものは、基本的に好きと嫌いの両方が必要って書いてました」
「よく分からないなあ。好きなのは土曜で、嫌いなのは……月曜かな。休みが
終わった次の日っていうのは、しんどいから」
「好きなのが土で、嫌いなのが月ですか……」
「土とか月になるんだ?」
「ええ、変換するんです」
彼女の返事に、分からないなりに首肯した松坂。突っ込んで聞いても仕方が
あるまい。
栗原は何かの計算をしているのか、手帳に書き込みながら難しい顔をしばら
くしたあと、最後に、と切り出した。
「松坂さんは自分の血液型、分かります?」
「もちろん。生まれたときに調べた。A型」
「Aですか」
「考えてみると、占い好きの君にしては、血液型を聞いてくるのが遅かったね。
それで、蝦名大先生は、A型の男と相性ぴったりなのは、何型の女性だって言
ってる?」
「Bです」
「ふうん。で、尚美の血液型は当然?」
敢えて名前で呼んでみた松坂だったが、最早、栗原は気にしなくなったらし
い。黙って強くうなずくと、
「はい。Bですよ」
と作ったような笑顔付きで答えた。
「総合的に判断して、私達は最高のカップルなんですよ」
大学での初めての大きな試験を乗り切り――結果が判明するのは、八月末か
ら九月半ばにかけてだが――、松坂はとにかく一安心して休みに突入した。
男友達からの誘いを断って、予定を空けた八月十二日。前もってもらった栗
原からの電話によると、これは占いで決めた日付ではなかった。彼女が言うに
は、両親がお盆の里帰りをする。当然、一緒に行こうと言われたが、大学の用
事があるからと、一日遅れで一人で行く約束を取り付けた、とのことだった。
つまり。
(家で夕飯を作ってくれるって言ってたが……もしかすると、もしかするかも
な。スローペースだったのが、一気に進展かな。ま、多くは期待しないでおく。
でも、準備だけは)
松坂は浮つき気味だった。当日は朝からそわそわして、待ち合わせの時刻ま
でがやけに長く感じられた。
松坂の両親は今夜在宅だが、大学生にもなった一人息子が外泊しても、特に
気に留めることもない。この点は楽だが、念のため、松坂は友人にアリバイ証
言を頼んでおいた。彼女の存在を両親にまだ伝えていないのだ。
(ああ、馬鹿らしい。男の自分がすることじゃないよな。かといって、彼女の
家に泊まるかもしれないなんて、いきなり言える訳ねえし。彼女ができたと早
い内に言っておきゃあよかった)
などと、心中でぶつくさやっていると、時間も経つ。
いよいよ家を出る段になって、不思議と気分も落ち着いてきた。
(考えてみれば、あの尚美だぞ。突然、積極的になって進展するはずがない。
家で夕飯を食わせてもらって、それで終わりってことも充分にある。うん、そ
うに違いない)
彼女への誕生日プレゼントをバッグに入れ、平然とした足取りで玄関を出た。
運転免許は持っているが、自由に使える車もバイクもないし、何よりも栗原
が危ないから運転しないでくれ、迎えに来なくていいと言うから、今日も松坂
は徒歩でバス停に向かう。そこから駅に行き、さらに電車に揺られること約十
分で、待ち合わせ場所の最寄り駅に着く。
改札を出、そのまま進むと歩道橋が左右に見える。左の方を渡って、大通り
を越えて、下る。度々待ち合わせ場所に使った大きな外灯の下に、栗原の姿は
まだなかった。時計を見ると、一時三分前。
いつも約束の時刻より早くに来る栗原だが、今日は違うようだ。両親の見送
りに時間を要しているのかもなと、松坂は想像した。
バッグを持つ肩を右から左にし、木陰に入る。一時十分になっても来ないよ
うなら電話しようと心に決め、腕組みをして視線を斜め上に向ける。
ところが、待ちの姿勢を長く続ける必要はなかった。一時を少し過ぎた頃、
道路の反対側から、栗原の声がしたのだ。
振り返ると、タクシーから降りた彼女が、ぺこぺこ頭を下げながら、お金の
やり取りをしている。
タクシーで来るとは予想外だったが、両親を送った帰りだなと見当を付け、
松坂は微笑ましく見守った。こちらから向こうに行こうかとも考えたが、相手
が気付いていないようだから、そのまま待つことにする。
と、栗原の目が、松坂に向いた。眼鏡のおかげか、すぐに分かったらしい。
遅くなってごめんなさいとか何とか叫びながら、手を振る。
恥ずかしいから早くこっちに来てくれないかなと念じつつも、松坂も軽く手
を振り返した――そのときだった。
「……え、おい」
思わず口走り、目を見開く。止める間もなく、栗原は走って道路を直接横断
し始めたのだ。
四車線の内、真ん中までは無事に着いたが、そこで再度、松坂の位置を確認
したのがいけなかったのか。次の刹那。
急ブレーキの音に続き、どす、という鈍い音。
注意力の分散した栗原を、ライトバンが跳ねた。
横向きに倒れた栗原を目と鼻の先にして、松坂はガードレールを飛び越え、
今にも駆け寄ろうとしたが、車の通過に遮られる。いらいらしながら、栗原の
いる方向と車とを交互に睨みつけ、右手を挙げた。何台目かがやっと停まって
くれて、頭を下げるのもそこそこに、道路を渡った。
いつの間に?とショックを受けるのに充分なほど、血溜まりがアスファルト
に大きく広がっていた。
それから――どのくらい時間が経過したのか、感覚がない。
誰が呼んでくれたのか、救急車がやって来て、応急処置のあと、栗原尚美を
中に運び込む。
「あなた知り合い?」「そうです」「乗って。家族の人?」「いえ、友達とい
うか」「家族の人に連絡は?」「ちょうど今日里帰りしたらしくて、まだ」
気が動転している割には、まともな応対ができたと言えよう。いや、動転し
ているからこそ、恐さを感じる暇がなかったのかもしれない。
栗原と自分自身、それぞれの名前や連絡先などを答え、さらに事故の状況を
説明した。
「それでですね、松坂さん。手術になるかもしれません」
「はい」
「輸血が必要になったときに備えて、栗原さんの血液型を聞いておきたいので
す。ご存知でしたら、教えてください」
「え、あ、B型です。彼女自身が言ってましたから」
こんなときに占いのお喋りをしたことが役立つとは……。
松坂は顔も知らない蝦名大聖先生に、心中で感謝した。
あとは彼女の命を助けてくれ。そのためのラッキーアイテムがあるのなら、
今からでも揃えるから。
「松坂さん、あなたどういうつもり? あの子の血液型、Bじゃないじゃない
ですか!」
「ええっ? まさか」
「いいえ、Bじゃなく、A型よ。輸血に入る前に、クロステストっていう検査
をするのっ。それでB型の血と混ぜたら、凝血を起こした。きちんと調べて、
A型と分かったのよ」
「そんな馬鹿な。彼女自身が、B型だと言ったんですよ」
「本当にぃ?」
「嘘を言うはずないでしょうが!」
「ごめんなさい。まあ、本人が勘違いして覚えてることもあるからね」
「……」
「あ、松坂さんだ」
ノックして、来意を告げただけ。ドアを開ける前に、中から声がした。
栗原尚美を見舞うため、病室を一人で訪れた松坂は、付き添いの母親が今日
はいないことに、安堵した。多分、母親の方が意識して席を外したのだろう。
事故後、駆け付けた尚美の両親に、松坂は自分の立場を説明した。その結果、
(松坂にとっては意外なことに)父親は理解を示してくれたのだが、母親が怒
りを露にして、散々なじられた。親に内緒で付き合うからこういうことになる
のよとか、車で迎えに来られないなんて甲斐性なしがとか、それそれはひどい
内容だった。もちろん、松坂は自身の両親からも叱られたのだが、きつさで言
えば尚美の母親が断トツであった。
その後、意識不明の状態が続く中、足繁く通うことで、どうにか認めてもら
えたのか、顔を合わせる度に嫌味を一言だけ言われる程度で済むようになった
が、松坂の方に苦手意識が残った。
そして今日。尚美が意識を回復して、初めて面会を許された次第である。
「えっと。よお。調子はどう?」
まだ包帯を頭部に巻いたまま、ベッドに横たわる尚美を前に、目をそらし気
味になる松坂。買ってきた花束をサイドボードに置いた。花瓶があったが、う
まく生ける自信がないので、そのままにしておく。
「きれいな花だねえ。来てくれてありがとう」
問い掛けを無視して礼を言う尚美は、次いで身体を起こそうとした。
「いいよ。横になっててくれ。死にかけたんだぞ」
「でも……寝てるところを見られるのって、ちょっと恥ずかしいし……」
「早く元気になってくれる方が、僕には大事なんでね」
「分かった。本当に、来てくれてありがとうね」
「彼女が入院してんだ。来て当然だろ」
「今でも彼女と思ってくれてる?」
「当たり前だよ」
「あんなお馬鹿なことをして、交通事故に遭うような子でもいい?」
「関係ない」
これが普段の会話なら、いい加減にしろと、ほっぺたを引っ張ってやるとこ
ろだが、さすがに入院患者にはできない。
「お母さんが凄く怒ってた。それに、松坂さんのこと、凄く悪く言ってた。ご
めんなさい」
「いいよ、それはもう。僕も悪かったんだし。いや、僕もじゃなくて、僕達も、
だよな。あ、尚美は安心していい。うちの両親はすんなり認めてくれたから」
「よかった……」
毛布を鼻先まで被る。そのまま寝かせてやってもいいのだけれど、一つだけ
聞きたいことが、松坂にはあった。
「尚美。おまえさあ、前に血液型はB型と言ったよな」
「あ、ああ、それ。うん」
尚美の両眼が松坂をちらと一瞥して、すぐに逃げた。
「お父さんが、尚美はA型で、あの子自身も知っているとはっきり言ってたぞ」
「……」
「おかげで僕は嘘吐き扱い。病院の看護婦なんか、完全に疑ってたな。彼女を
始末するために嘘の血液型を言ったひどい男だ、って感じで」
「……ごめんなさい」
「しばらくは混乱してたけど、冷静になって考えて、一つ、思い付いたよ。で、
蝦名大聖の占いの本を読んだ。前に聞いた通り、A型の男に相性ぴったりの女
性はB型と書いてあったよ。だから、君もBと嘘を言ったんだな。Aなのに」
「……」
「占いに頼るのもいいけど、程度問題だよ。ほんっと、今度なんか、一歩間違
えたら死ぬんだぞ。嘘を言ってまで、相性をよく見せ掛けるのはやめよう」
「……」
いつしか沈黙を続けるようになった彼女を見下ろし、松坂は急にしゃがんだ。
目を合わせ、なるたけ穏やかな口調に努める。
「占いで判断しなければならないほど、君と僕の仲は曖昧か?」
「……ううん。違います」
蚊の鳴くような声だが、確かに返事があった。松坂の頬もようやく緩む。
「だったら、決まり。これからは、ありのままにして行こう。そうして、お互
いのことをよく知っていけばいいじゃないか」
「そ、そうですね」
「占いのことを吹っ切る手始めに、僕を下の名前で呼ぶように」
「え」
毛布越しにどぎまぎしているのが、よく感じ取れた。松坂は自らを指差しな
がら言った。
「ほら、呼んでみてよ」
――終
#81/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/04/10 22:07 ( 64)
狂気の勇者達。第一章「ミドガルドの森」 滝ノ宇治 雷華
★内容 03/04/12 07:39 修正 第4版
第一章
それから、五ヶ月後。
カミュエルがミドガルド自衛団に入団してから、五ヶ月後。
ある男児と、奴隷が会話してから、五ヶ月後。
王都の広場には、ある看板が貼りだされていた。『我々、4魔女は、この階級政府に
反乱を起こす。義勇兵を募集する。』もちろん、この看板が貼り出されたことは全土に
広がった,なぜならば、堂々と王都で、反乱を宣言したのだから。
王族管轄の火薬職人「サジジ」は弟子にこう言う。
「新しい時代の波がそろそろやってくる。私は、反乱軍に参加する。文句あるか!?」
こうして、反乱は、新しい時代の波は始った。
アンデラス
サジジ
フォルテ
ランタ
ソジャ・ルータ
ガージ
ルナータ
彼らが、集まった義勇兵。いや、武将といった方が早いだろう。アンデラスは、放浪し
ている、たった一人『銃』という武器を持っている、剣豪だ。サジジは火薬職人だ。フ
ォルテは、やや高貴な空気を醸し出すムードメーカーだ。ランタは元農民出身の力持
ち。ソジャ・ルータは貴族出身の笑顔が素敵な青少年だ。ガージは奴隷なら、誰もが怖
がる、グラディエーターズバトルのチャンピオン。弱冠、14歳だ。ルナータは、頼り
甲斐がありそうな若い世代の『トンファー』という変わった武器を使う。どれも、彼ら
は心強い。
まず、彼らが領地を手に入れる為に向かった先は、カミュエルの待つ「ウッドミドガ
ルド」である古城の周りの森を手に入れ,一騎に古城を手に入れるという作戦だ。反乱
軍は、森入り口付近にテントを建てた。明日から、この数年前から『血のミドガルド』
といわれ、農民から恐れられている森を探索するのだ。迂闊に森内部にテントを建てて
はならない。4魔女テントに武将達が召集された。明日のための軍議だ。まず、乾杯が
交される。勝利を誓うためだ。
「我々の勝利を誓い、乾杯!!」
と4魔女のなかでも熱血漢で、仲間思いの赤の魔女がいう。
「さて、明日のミドガルド森林攻略だが、何しろ森が広い為,集団で移動することにす
る。」
赤の魔女は淡々と話す。
「待ってください。集団では、征圧には時間がかかると思います。」
貴族出身のソジャ・ルータは慌てるように言った。
「ルータ殿、あなたの気持ちは分かります。しかし、この森ははあの『小さな殺戮者』
と呼ばれた,モウユウが潜んでいるのですぞ。」
赤の魔女は、答えを控えていたのように答える。
出発が開始された。反乱軍は、テントを建てつつ,大蛇のような一列になり先を急
ぐ。そんな時だ。美しい音色が聞こえたのは兵士たちはその音色の虜になったようだ。
木と木の間に、人影がいた。その音色と、その、「美形」という言葉がぴったり当ては
まるくらい、美しい少年に反乱軍は見とれていた。その時だ。
「ヒュッ!!」
何かの音がした。コレに気付いたのはアンデラス。彼だけだ。急いでこれから起こりう
るであろう、大惨事を防ぐ為に4魔女を進めさせた。間一髪。と思った瞬間、地響きが
した。空をみあげると、大きなハンマーを小柄な16歳くらいの少年が片手で支えてい
る。そう赤の魔女が言っていた,『小さな殺戮者』モウユウである。反乱軍は絶句し
た。さっきの美しい音色を奏でていた少年が現れる。
少年は言った。
「貴方達はこの楽園を奪い来たのですか?」
白の魔女は言った。
「そんなつもりはありませんただ、世界を平和にしたいだけののです」
「・・・・・・・・分かりました。この森を、私達森を番人を、貴方達に委ねます。」
「おい!!いいのかよ!!」
モウユウはハンマーを持ち上げ言う。
「貴方はそのハンマーで、森を血で汚していることに気付かないのか!!」
白の魔女の以外な一喝にモウユウは戸惑った。
「これで、世界が美しくなるというなら、構わない」
少年は笑顔でモウユウに言った。
「私の名前はハイドといいます。」
「ありがとう!!」
白の魔女は笑った。
#82/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/04/15 01:37 ( 1)
過ぎ去った日々 永山
★内容 25/01/11 14:54 修正 第4版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。
#83/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/04/23 21:36 ( 1)
名無しの文庫本の冒険 永山
★内容 23/03/01 19:20 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開状態にしています。
#84/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/05/03 22:17 ( 7)
お題>うどん 滝ノ宇治 雷華
★内容
昔、うどんか、そばか、それについて激しく悩んだと思う。家の家系で、そばを作っ
ているおばちゃんがいた。毎年、そばを送っていてくれていたので、私はそば派なの
だ。いや、べつに気うどんの方がうまいとか、そばの方がうまいとか、決めつけること
はない。人それぞれだし。
でも、最近、うどんをやけに食べている。というより、そば派から、うどん派へ移っ
てしまった。
「ごめんね、おばちゃん。」
#85/569 ●短編
★タイトル (CWM ) 03/05/08 02:58 (272)
お題>うどん 憑木影
★内容
夕闇が迫りつつある。
西の空は真紅に染まり、東の空は濃紺に沈んだ。
迷路のような住宅街は、濃い影を湛えて静まり返っている。
おれは、人がすれ違うことができないような裏路地を、かの子の手を引きながら歩
いていた。空を見上げる。真紅の空を暗い爪あとのような雲が、引き裂いていた。お
れは、もう自分がどちらへ向かって歩いているのかよく判らなくなっている。
東京の住宅街は、少し中のほうに入ると車は通れないような細い道ばかりだ。おれ
は、その闇に沈みつつある迷路のさらに奥深くを目指す。
遠くでサイレンの音がする。
しかし、おれにはそのサイレンの音が単なる幻聴なのか、おれたちを探す本物のパ
トカーが鳴らしている音なのか判断できない。ただ、執拗に耳の中でその音は鳴り続
けていた。
時折、佇む影のような人を見かける。
おれにはその姿が警官のように見えた。もしかしたら、単に制服を着た警備員なの
かもしれない。おれは、とにかく人目を避け、暗い路地裏を急ぐ。
どこかへ行くあてがあるわけではない。
そもそも、自分のいる位置自体がよく判っていなかった。おれに手を引かれるかの
子が、喘ぎ声とともに呟く。
「痛いよ、啓ちゃん」
おれは、立ち止まりかの子を見る。かの子は肩で息をしていた。随分な距離を歩い
ていたような気がする。立ち止まると、疲労が身体の中に蹲っているのが判った。汗
が額を伝ってゆく。
「どこかに、身を隠さなくては」
おれの言葉に、かの子は眉をひそめる。
「どこかって、どこ?」
おれはかの子の手を引く。そして、コンクリート塀の上へ、素早く登る。そこから、
木造アパートの二階にある窓へ、手がとどく。おれは、かの子も塀の上へ引き上げ、
アパートの窓から二階の部屋へと入り込んだ。
無防備な部屋だった。開け放された窓。そこから六畳程度の和室へ入る。
おれは脇に吊るしたホルスターから拳銃を抜く。一応、サイレンサーは装着してあ
るが、この住宅街で発砲すればおそらく音は響き渡るだろう。できれば、使用したく
ない。
部屋は障子によって、奥の炊事場らしきところと仕切られている。炊事場らしきと
ころには、人の気配があった。
おれはかの子に目で指示を出し、障子に手をかけさせる。おれが拳銃を構えた状態
で、かの子が障子を開いた。そこにいた、和服姿の人間がこちらを向く。
白髪の老女だ。おれは、安堵の溜息をつく。銃は使わなくても済みそうだ。
割烹着を着て、包丁を持った老女は落ち着き払って言った。
「何の用だい」
「特にあんたに危害を加えるつもりはない。あんたが、おれたちの指示に従うのなら
な」 老女は、ふんと鼻で笑う。
「どうでもいいけどね、用が無いなら料理を続けさせてもらうよ。うどんを作ってい
たとこなんだ」
おれの答えを待たず、老女はくるりと振りかえると炊事場を向く。湯気のたつ鍋へ、
うどんをほうりこんでいった。
老女は、少しぼけているのだろうか。状況をよく認識できていないような気がする。
おれはかの子に指示を出し、電話のコードを切断させた。おれはテレビのスイッチ
を入れる。テレビは相変わらず臨時ニュースを流し続けていた。
暫くして、老女は盆にどんぶりを三つのせて部屋へ入ってくる。おれは溜息をつい
た。
「なんのまねだ」
「うどんを作ったんだ。あんたらも食うといい」
「どういうつもりだ」
老女は鼻をならす。
「どうもこうも、夕食時にあがりこんできた客にはとりあえず夕食をふるまうもんさ
ね、それとも腹は減ってないのかい?」
「啓ちゃん、あたしお腹空いた」
そういうかの子の前に、老女はどんぶりに入ったうどんを置く。そして、おれの前
にもひとつ置かれた。
「やれやれ、リボルバーにサイレンサーなんかつけているのかい。拳銃なんかしまっ
たらどうだい。こんな老いぼれ一人、いい若いもんならなんとでもできるだろうよ」
おれは拳銃をホルスターへ戻す。
老女はおれの前に、正座した。姿勢のいい、立ち居振舞いがしっかりした老人だ。
見た目は七十は越えている感じがする。
顔立ちは整っており、目には知的な光があった。おそらく若いころはさぞかし美人
だったろうと思わせるものがある。
「啓ちゃん、あたし食べるよ」
「好きにしろ」
かの子は割り箸でうどんを食べ始める。かの子は無邪気に微笑んだ。
「おいしいよ、おばあちゃん」
「そうかい」
おれも、結局そのうどんに手をつけた。味はほとんど判らない。老女はおれのつけ
たテレビのほうに、顎をしゃくる。
「これをやったのは、あんたらかい」
「そうだ」
「やれやれ、新都庁の爆破とは豪儀だねえ」
老女はうどんをすすりながら、皮肉な笑みを浮かべる。おれはなぜかその笑みに、
酷く苛立ちを感じた。おれは老女に向かって言う。
「アメリカの進めるグローバリゼーションに追随するしか能の無い日本政府と日本人
は、血の制裁を受ける必要がある」
「あきれたね、罪の無い人間を殺してそのいいぐさかい」
「判っていないな、アメリカの遂行するグローバリゼーションがアジア各地でどうい
う状況を引き起こしていると思っているんだ。結果として民主主義は解体しつつある。
アジア諸国はファッショ化しマフィアと結託した政府組織は多くのイスラム教徒を虐
殺し、それを正義の裁きと評価している」
おれは、自分で自分の感情を制御できなくなりつつあった。ここで話をしても仕方
のないようなことを、しゃべり始めている。
「アジア各地の政府は自由市場の展開とともに、マフィアと結託した企業に買収され、
同時に社会基盤となるインフラ設備を私的に独占し、民衆を搾取し逆らうものを虐殺
していく。アジア各地の貧富の差はどうしようもない状態になっている。それはあの
中国ですら同様だ。中国政府は収賄によってまともに機能していない。それら全ては
アメリカのグローバリゼーションによって引き起こされたことだ。それになんの自覚
もなく追随している日本人は、そのことによって血を流しているアジアの人々の苦し
みを知るべきだ」
老女は鼻で笑う。
「だから、日本人にも血を流させたっていうのかい」
「そうだ」
おれは、いつのまにか夢中になってしゃべっている。老女は冷たく冴えた目でおれ
を見ていた。
「アメリカは圧倒的な軍事力によって世界を、そして自身をも抑圧的な支配力で覆い
尽くそうとしている。イスラム圏へ軍事侵攻を行い、それを正義の戦いと称している。
馬鹿な話だ。戦争に正義もくそもない。全ての戦争は愚かしく無意味だ」
「変わらないねえ」
老女は首を振る。
「何と変わらないというんだ」
「あんたの論理は戦前の大日本帝国の論理ととてもよく似ているよ。西欧物質主義の
頂点に立ったアメリカと、東洋的精神主義の頂点に立った大日本帝国が黙示録的最終
戦争を行う。それが第二次世界大戦における日本側の論理さ」
「おれは戦争を肯定する気はない。全ての戦争は悪しきものだ。おれたちは黙示録的
最終戦争なんて戦う気はない」
「判ってないね」
老女は冷たく言い放つ。
「戦争を全否定する。つまり自身の論理を極論化し、相手の論理も極論化している。
ブッシュの言う我々の味方か、さもなくばテロリストの味方かの二者択一を迫る論理
と同じだし、立場を二極化した戦前の日本の論理とも同じだよ。そもそも、戦争は悪
だとでも思っているのかい」
「全ての戦争は悪だ。当然だろう」
「馬鹿げたことを。戦争は悪でもなければ正義でもない。戦争はそもそも善悪のメタ
レベルなんだよ。戦争こそ、何が正義であり何が悪であるを、決めているんだ。だい
たい、戦争が悪という論理は、アメリカが第二次世界大戦後に日本を占領統治する際
に用いたイデオロギーだ。つまり第二次世界大戦という戦争が結果として、戦争は悪
という正義の概念を成立させたんだよ。戦争は何が正義で、何が悪かを決定する。負
けたものが悪で勝ったものが正義だ。そもそも正義という概念自体が、占領統治にお
いて支配者がふりかざす自己正当化の論理にすぎない。いいかい、望もうが望むまい
が正義を語りたければ戦争に勝つ必要がある。そういうものだ」
「ふざけるな、それならおれたちには語る権利は無いという気か」
「そうさ」
老女はせせら笑う。
「だいたい、ブッシュをアメリカと等しいものと考えているようだけど、ブッシュは
タカ派にコントロールされている低能な傀儡だろう。タカ派がいまのまま政権を握り
コントロールし続ければ、アメリカの財政は破綻する。やつらに中長期の展望は無い
からね。アメリカを崩壊させたければむしろブッシュのやりくちを肯定すべきだよ。
それともブッシュを否定して、ニクソンからクリントンへ至るリベラル路線でも支持
するかい? それこそ破綻しつくした手法だけどね。あんたに語るに値する、今の世
界へ提示可能な理念があるとでもいうのかい」
「あたりまえだ」
「はっは」
老女は笑う。その冷たく人を見下したような目が、おれの苛立ちを募らせる。
「馬鹿をおいいでないよ」
「何が、馬鹿か。おれたちはあらゆる西欧近代のイデオロギー、思想、哲学の外側に
立つものだ」
「おかしなことをいうね」
「いいか、近代という選択そのものが人類史上最大のあやまちだった。おれが否定す
るのは近代における絶対戦争だ。前キリスト教世界における戦争は、近代戦のような
無差別殺戮を行っていない。それは供儀と一体化した神聖な儀式だった。人間の生そ
のものを全否定するような近代的絶対戦争はデカルトから始まる西欧近代理性が引き
起こしたものであり、その歴史の終焉に、そうヘーゲルが予言したあの終焉にアメリ
カグローバリゼーションがある。おれの敵は西欧近代そのものであり、おれは戦争の
論理、戦争の正義そのものを否定し解体するポジションに立っている」
老女は面白がっているように、おれを見る。
「あんた、じゃあ、どこに立っているんだい」
「おれたちはエゾテリスム的、つまり魔術的秘密結社である神聖アシュバータ教団に
属している」
「あっははははは」
老女は声をあげて笑う。そして、怜悧な瞳でおれを貫く。
「あんたは、前近代をあの俗流経済人類学者の文脈に従って、安定したシステムだっ
たとでもいう気じゃないだろうね。そんな馬鹿げた迷信は捨てちまいな。前近代こそ、
暴力が荒れ狂っていた。その自然が振るう暴力の中に、魔術があった。それを肯定す
る気かい。馬鹿な。人間は自然の中に満ち溢れている暴力に耐えきれないからこそ、
それを上回る暴力的システムを開発したのさ。それがいわゆる近代だ。人間はそのシ
ステムの中に隠れる道を選んだというわけさね。いいかい、近代を捨ててもより苛酷
な暴力へと向き合うだけだ。そんなことをするには、人間はあまりにも脆弱なんだよ。
途方も無く、人間は弱い。いうなれば人間は呪われた存在だね」
「あんたは一体」
問いかけの言葉を発しようとするおれを無視して、老女はかの子へ目を向ける。
「嬢ちゃん、あんたはなぜここにいるんだい」
かの子は、汁をすすっていたどんぶりを置いて、驚いた顔で老女を見る。
「あの、あ、あたしって、その、啓ちゃんについてきただけで」
「そうかい」
老女は静かに頷く。かの子は暫く俯いていたが、突然喋りだした。
「あ、あの、あたし、啓ちゃんみたく難しいことは、よく判らないんだけど。でも、
なんていうか、その」
老女は黙ってかの子を見ている。かの子は言葉を続けた。
「あたしのお父さん、大手電気メーカのエリート社員だったの。それでもの凄いスピ
ードで出世して間違いなく将来はその企業の役員になるっていわれてたわ。それで東
南アジアにその企業が進出したときに陣頭指揮をとるため、お父さんは東南アジアに
出張したの。でも、お父さんそこで現地の女の人と恋におちてそのまま駆け落ちとち
ゃったの。それでお母さんは三回自殺未遂して今は病院からでてこれなくなっている。
これって何かおかしいわ。何か間違っている。啓ちゃんみたいにちゃんといえないけ
ど。啓ちゃんに連れていってもらった教団の人も言ってた。今の世の中は、システム
自体がよじれておかしくなってしまっている。そのシステムを修正してなんとかしよ
うとしても、よじれが酷くなるだけだって。スクラップ・アンド・ビルドしかないん
だって。あたし、そのとき、難しいことはよく判らないけど、色んなことが腑に落ち
たのよ」
ふふっと老女は、笑う。
「嬢ちゃんのほうがまだまともだね」
「おい」
おれは、老女に言った。
「あんた一体なんなんだよ」
「あんたと似たような生き物さ」
老女は、投げ遣りに言った。
「ただ、あんたのように理想を持つほど愚かではなかったけどね。私たちはあらゆる
帝国よりもハイスピードな戦争機械だと思っていた。私たちは帝国を愚弄し、そのシ
ステムを嘲弄することにより自己矛盾を露呈させ続けることができると思っていた。
私は人間の脆弱さを理解していなかったんだね。結局私がコントロールしていた組織
はテロ組織に成り下がった。だからいったん日本の司法機関に私は身を委ねた。でも、
一度組織を構築した私には、もうそんなことは許されなかった。組織は私を司法機関
から奪回した。馬鹿げた話さ」
「言っておくが」
おれは、老女の瞳を真っ直ぐ見詰める。
「おれたちの教団は脆弱ではない。マルクスはあらゆる思想は生産手段という下部構
造に規定されるといいながら、その生産手段を奪取する方法論を展開できなかったと
ころに欠点がある。おれたちは違う。おれたちは、生産手段を秘教的に取得する方法
論を構築している。エゾテリスムを身体に刻み込み、それを生そのものと直結させる
ことによってあんたのいう人間の脆弱さを克服している」
「ふざけるのも、いいかげんにしたらどうだい」
ぴしり、と老女は一喝した。
「あんたらの語っているのは所詮妄想さ」
「そうだ」
おれは、真顔で答える。
「しかし、おれたちのすべきことは妄想をコントロールすることだ。違うか」
「観念によって革命戦士を創り出そうとして、ただのリンチを行った連中と大差はな
いね。妄想をコントロールだって。馬鹿をいうんじゃない。あんたらの妄想は暴力と
して無制御のまま溢れ出ているじゃないか」
おれは、必死で食い下がる。どこか敗北を予感しながら。
「血の制裁。それによって民衆を覚醒させる。今は暴力の氾濫だが、血を流すことに
よって民衆は覚醒し世界を変えるんだ」
「違うね。あんたは自分の妄想で世界を覆うことを望んでいるだけさね。あんたには、
本質的な覚悟が無い。自身の血を流しながら、圧倒的暴力へ向かい合う覚悟が」
「違う」
おれは、夢中で叫ぶ。老女は冷酷に言った。
「じゃあ、ここで私を殺してみるかい。あんたは遠隔地から爆破することはできても、
自分の目の前にいる人間を撃ち殺せない。遠隔地からの爆破は、妄想を維持し続ける。
でも、目の前の人間を殺すという暴力の氾濫にはあんたは耐えられない。結局、脆弱
さは克服されていない」
「くそっ」
そんな挑発にのる必要は無いと判っていた。でも、おれは拳銃を抜いてしまう。拳
銃を眉間につきつけられても、老女は冷静だ。
「撃ちなよ」
そういいながら、老女は無造作に拳銃の輪胴弾倉を掴む。おれは、トリッガーを引
いた。しかし、銃は作動しない。
「馬鹿だね」
老女はせせら笑う。
「本気で撃つなら、撃鉄を起こしておくこった。ダブルアクションのリボルバーは弾
倉を掴まれちゃ、撃てないだろうが」
おれは、拳銃を無理やり引く。老女はおれの力に逆らわず拳銃を差し出したため、
おれは体勢を崩した。老女は空いた手で割り箸を折り、尖った先をおれの目へ突き出
す。
おれは顔をひねってよける。意識が拳銃からそれたその瞬間、拳銃は老女の手へと
移っていた。
老女はなれた手つきで弾倉をスウィングアウトさせる。弾を抜くと、一発を残して
弾を捨てた。老女は器用に一発だけ残った弾倉を回転させると、銃を一振りして弾倉
を元に戻す。
「さあて」
老女は楽しげに笑った。
「あんたと私。この論争には言葉じゃ決着つかないと思わないかい? 賭けをしよう
じゃないか。ロシアンルーレットってやつさ。どちらが正しいかは神様が決める」
「おい、待て」
おれの言葉を老女は無視し、拳銃をおれに向け無造作にトリッガーを引く。カチン、
と乾いた音がして撃鉄は空の薬室を打った。
老女は、にっこりとどこか満ち足りた笑みを見せる。
「さてと、次は私だね」
老女は撃鉄を起こすと、銃口を自分のこめかみに当てた。
トリッガーが引かれる。
どん、と鈍い音とともに二十二口径弾は発射され柱へめりこむ。老女の腕にかの子
がしがみついていた。老女は、乾いた声で言う。
「嬢ちゃん、馬鹿なことを」
「だって」
かの子は、ぽつりと言った。
「だって、うどんが美味しかったから」
老女はあははと笑う。かの子は老女の手を離して言った。
「お母さんの味だったの」
「あきれたね、これは」
老女はおれの前に拳銃を投げ出す。そして、押し入れをあけた。押し入れの床を開
くと穴が現れる。
「この梯子を下っていけば、地下通路がある。戦時中の防空壕だ。そこをまっすぐい
けば、廃屋の古井戸へ出る。そこから逃げな」
「なぜ」
老女は、喉の奥で笑った。
「賭けに負けたのは私だからさ。嬢ちゃん」
老女はかの子に笑みを見せる。
「また、うどんを食べにおいで」
#86/569 ●短編
★タイトル (kyy ) 03/05/09 20:47 ( 89)
お題>うどん 舞火
★内容 03/05/11 16:50 修正 第3版
〜藤の花咲く郷の風景〜
明るい緑の中に、紫、白、赤紫、ピンク、そして大好きな藤色が、空間を彩ってい
た。
けぶるほどに辺りを染めて咲き誇る藤を愛でようと、この時期多くの人がここを訪れ
る。
人のみならずクマンバチまで引き寄せてしまうきつい藤の香りを少し苦手に思ってい
たけれど、今日はそれも気にならないほどになんだか心地よい。見事な満開の花々とそ
の芳香に、もとより幸せに包まれていたわたしはすっかり酔ってしまったのだろう。そ
れくらいに心が浮き足立っていた。
いつまでも眺めていたいと思ったけれど、そぞろ歩くことも疲れてきて、わたしはそ
っと藤の花ののれんをくぐった。地面すれすれまで伸びた花に触れて、なおいっそうの
芳香に包まれる。
それでも数歩進めばあっという間に残り香も消え失せて、残念に思いながら振り返っ
て花を眺めた。
後少しで先まで咲ききってしまう藤の花の見頃はもう少し。
そうなれば、次にこの風景が拝めるのは一年後。そう思うとひどく感傷的になってし
まう。
だけどちょうどその時、風向きが変わっておいしい匂いに包まれた。
それが売店のうどんの匂いだと気付いた途端に、現金なお腹が欲しがって、わたしは
羞恥に顔を熱くした。
藤の開花時期に合わせて開かれる祭りの期間、その売店は営業する。
うどんと寿司と飲み物と。
訪れた観光客向けのその品々は、”花よりだんご”の言葉の通り飛ぶように売れてい
た。
馴染みの店員からうどんとはしを受け取って、もっとも見事な藤棚が眺められるテー
ブルにつく。
綺麗な景色においしいうどん。
こんなことで充分幸せだと思えるのだから、わたしも結構手軽な人間なのかも知れな
い。それこそ入園料プラスうどん代が苦にならないのだから。
ついでにこれでいい男でも傍らにいれば最高だとは思うけど。哀しいかな、平日のこ
の時間にいい男などいる訳もない。
それでもうどんをすすりながら、そっと辺りを見渡した。
ちょうど昼時のせいか売店前のテーブルは満席で、あちらこちらに芝生に敷布を広げ
ている姿も目立つ。やはり圧倒的に女性が多い。
それでなくても少ない男達でわたしのおめがねにかないそうなのは、藤のアーチの向
こうで熱心に写真を撮っている男性くらいだろうか。
そういえば、どことなく若い頃のおとうさんにも似ていると、懐かしさが込みあげ
る。できたばかりのこの公園に連れてきて貰ったときはさっそうとして、藤に手を伸ば
して微笑む姿はひいき目でなく格好良いと思ったのに。
今では”とど”のあだ名があんなにも似合う人は他にはいないだろう。
哀しい思いにとらわれて思わず漏らしたため息に、うどんの湯気が流された。ついで
に懐かしさしかない思い出も振り払う。
そんな思い出に浸るためにここに来たのではないのだから。
と、どこからか黒電話のベルの音が聞こえた。
あら、懐かしい、と郷愁を覚えるその音色に思わず耳を傾け──って。
「あらっ」
慌てて手提げをかき回す。取り出した携帯のディスプレイを確認すると急いで通話ボ
タンを押した。
「……もしもし」
『もう、母さんっ、どこに行ってんのよっ!』
耳に響く高い娘の声に堪らずに携帯を遠ざけた。
「うるさいわねえ。今、おうどんいただいてるのに」
『またあ?ってそれはどうでもいいんだけどっ。今日は前撮りの写真を一緒に確認しに
行くって言ったじゃない。忘れたのっ?』
言われて、思わず藤棚を見つめた。
柔らかな藤色のドレープが動くたびに新しい模様をつくって、それがどんなに似合っ
ていたことか。感動に胸を締め付けられて、込みあげる熱い涙を我慢するのにどんなに
苦労したことだろう。
『早くしないと彼が来てしまうわ』
「忘れてたのよ……あらやだ鼻が出ちゃって……」
うかんだ思いを気取られないように、微かに笑って返した。
『もう、うどんなんか食べるからよっ!』
「すぐ戻るわよ。まだあちらは誰も来られていないんでしょう?」
本当は、忘れてなんかない。忘れるわけないではないか、娘の大事な慶び事にまつわ
ることを。だけど、それでもここに来たかった。大好きな藤色の花を見ながら、幸せに
浸りたかったから……。
『そりゃそうだけど』
「おとうさんは?何しているの?」
『……似たもの夫婦って母さん達のことをいうのよね……』
脳裏に浮かぶのは、のんべんだらりと昼寝をしている姿だ。それに小さく笑う。
「まあ、間に合うわよ。まだ1時間はあるじゃない。だから食べたら帰るわね」
『かあさ〜んっ!!』
娘の絶叫をしりめにさっさと携帯を切った。
目の前のうどんはまだ半分以上はあって、急いで食べるには熱すぎる。
それでも娘を困らせるのは本意でなかった。
わたしの好きな藤色をわざわざドレスの色に選んだ娘は、本当はとっても優しい娘な
のだ。そんな娘の幸せにケチなんかつけたくない。
だから、急いで食べてしまうしかないだろう。
でも……やっぱりうどんは熱くって。
藤色のドレスに身を包んだ幸せそうな娘の写真を見たときにわたしが静かだったの
は、感動していたせいだと皆思ってくれたようだけど。
実はやけどの痛みに喋りたくなかったのだとは、一生娘には言えやしないだろう。
[了]
#87/569 ●短編
★タイトル (hir ) 03/05/12 04:41 ( 47)
お題>うどん 闇川出雲
★内容 03/05/12 04:44 修正 第2版
「食べ過ぎやない?」おばちゃんはアルミのタンクから突き出た蛇口を捻って、俺の
丼にツユを注ぎながら言った。学校帰り、セルフのウンド屋。玉は好きなだけ入れてい
い。刻んだ青ネギと天カスも、入れ放題だ。野菜の掻き揚げや竹輪の磯部揚げは50
円、生卵30円、肉ウドン用の牛肉・ゴボウは100円、エビ天は150円。もちろん
俺は、いつも、すうどんだった。240円。
「好きなだけ入れていい書いとるやん」俺は張り紙を見ながら言う。「あんた、七玉
も入れたやろ。ウチの七玉は普通の四玉にはなるで。惜しいて言いよんやないんよ。太
るで。ウドンは太るんよ。だいたい、全部食べれるん?」「……」「残したらイカン
よ」
「うん」俺は、おばちゃんの矛盾した論理に如何反応していいか解らず俯く。太って真
っ黒なおばちゃんは、そのデップリした腰に手を当て仁王立ち、ニコニコしている。汗
で顔がテカテカしている。ぎっちり肉の詰まっていそうな真ん丸の頬にエクボが出来て
いる。
俺は空いている席に腰を下ろし、ウドンをたぐる。ダシは利いているが、ぬるめのツ
ユ。ドッサリ入れすぎて、ふやけながら麺にこびりついてくる天カス、荒く刻んだネギ
の臭い。最初の一口は、コシの強い麺を噛まずに嚥下してみる。喉の内側をヌルリと膨
らませ、愛撫しつつ通り抜ける。(裕美が言よった〈女の感覚〉って、こんなんかな
)。体の内側を異物に摩擦されるなんて、想像するのも恐ろしいが、裕美は平気で「そ
れがエェんよ」と言っていた。やはり女は、俺たちとは別の生き物らしい。二口目から
は、適当に噛む。
食い終わった丼を、返却口に持っていく。「E高の子?」「うん。それが、どした
ん」制服だから隠しようがない。「ううん」おばちゃんは、それ以上何も言わず、丼を
洗いだす。
あれだけ存在感があったのに、案外おばちゃんの体は小さかった。俺に四度も欲望を
吐き出させた汗ばんだ体からは、肉の臭いがした。「彼女おるん?」華奢な声だった。
「……」「おるんやろ。初めてやなかったみたいやもん」「……おるよ」「いかんが
ね。こんなことしたら」おばちゃんは、共犯者めいた上目遣いの笑いを見せる「でも若
い子にはキツイやろね、太いもん」。「ほやけど、エェって言うで」無闇に俺は反論し
た。「ふふふふふっ、彼氏のやけんよ。無理してでもエェって言うもんよ。こんなん、
若い子やったら、痛いだけやん」「……」俺は気の利いた言葉が見つからず、おばちゃ
んの柔らかい脇腹に抱きついた。
あれからウドン屋に足が向かず、おばちゃんにも会っていない。二十年経って行って
みると、店はあったものの、おばちゃんはいなかった。おばちゃんはパートだったのだ
から、いるはずもないのだが。
何故おばちゃんに誘われてアパートに行ったのか、あのときは自分でも解らなかっ
た。今となってみても、はっきりとは解らない。恐らく、甘えたかったんだろう。俺の
家庭は厳格で、反発しながらも何となく進学校とやらを歴て大学にも行き、サラリーマ
ンに納まってしまっている。家庭は、俺に義務を負わせる場だった。特に母親は、理を
説き無謬性を纏いたがる女だった。「男」である俺の、甘えを決して許さなかった。一
方で我の強かった俺は、恋人に対しても優位に立ちたがり、甘えることが出来なかっ
た。本当は、甘えたかったのに。
いまでも、おばちゃんのことは、時々思い出す。
(お粗末様)
#88/569 ●短編
★タイトル (hem ) 03/05/20 15:06 ( 36)
お題>うどん 麻村帆乃
★内容
「うどんにするの?」
お品書きを見ながらつぶやく私の声が聞こえたのか、母が不思議そうに聞
き返した。
「う〜ん、まだ決めていない。お母さんは丼?」
ごまかすように質問にかえる。
母は麺類が苦手のようだ。うどん屋に入ってもうどんを食べているのを見
たことがない。
「親子丼ね」
にっこり笑う母は大人しい、地味だと人から言われる私と比べるとおしゃ
れで、若々しく見える。
「私は何にしようかなぁ」
何事もなかったように視線を落とす私は内心ドキドキしていた。
私は今まで家族でうどん屋に入ったときはたいていそばを注文していた。
「カレーそば」にも挑戦してしまったほどだ。視覚的に変な感じがしたため、
それをもう一度頼む気はないけれど。
私がうどんを食べようとしたのは付き合い始めたばかりの彼の影響かもし
れない。デートのときもおしゃれなお店というよりはうどん、ラーメンなど
を手軽に食べていることが多い。
何度目かのデートのときに「うどんがおいしい店」に連れて行ってもらっ
て以来、なんとなく注文するのはうどんになってしまった。
彼と同じ物を好きでありたいと言う気持ちがそこにはあった。
同じものを頼めば、同時に持ってきてくれる。食べるのが遅いため、少し
でも待たせないようにと気をつかったというのも理由のひとつかもしれない。
いつか彼を母に紹介して、母は彼を「息子」と呼ぶようになる。
そんなことを一人想像している自分に気が付き、顔を上げると母がにこや
かな顔をして私を見ていた。
「何にするの? 相変わらずはっきり決められないのね」
責める調子ではなかった。むしろ子ども扱いをされているのだが、私は体
が熱くなるのを止められなかった。勝手な想像をしていたことに対する恥ず
かしさがこみ上げてきた。
「ざるそば。…暑いから」
もしかしてすごく赤い顔をしているかもしれない。そう思うとごまかす為
の一言を付け加えずにはいられなかった。
おわり
#89/569 ●短編
★タイトル (mke ) 03/05/20 16:47 ( 56)
明日より、今日へ。
★内容
何時になれば忘れられるのだろう。
記憶に残りし、全ての事柄は幻影であったのだろうか。
幾たびも夢に現れ微笑する面影は全て過ぎ去りし事象でしかない。
現実ではない事が解っているのだが。
その幻影に会う為に私はまた眠る。
あれは二年前の雨の日。私にとって何かが始まる時の天気はいつも良くない。
昔友人であった人に言われた事がある。
私が企画した遊びの日程は全て天気が悪いと洩らした時、
「インドでは雨を呼ぶ人は聖人だ。」と。
うれしいような悲しいようなほめ言葉。
その日も雨であった。
私は恋してはいけない相手に恋焦がれていた。
別段相手に特別な人がいたわけではない。
しかし、色々複雑な人間関係が絡み、恋してはいけない、
自分の気持ちを伝えてはいけない、上手くいかない事は解っていた。
しかし、時の神は気紛れであった。
当然このような恋は燃え上がる。互いに。しかし私は解っていたつもりであった。
不可能だと。
肉体において解りあえたつもりであっても、所詮精神における関係は互いに相手に自分
を重ね合わせている、異性に自分の存在を投影させているだけ。こうでありたい自分を
重ね合わせているだけであった。
自堕落・目立ちたがり・退廃的・刹那的である自分。
相手に対して求めたのは生真面目・誠実・ひとつひとつに対して向かっていく態度。
それらを自分の物として満足気に見ているだけの自分。
いつしか無くてはならない物になっていた。
しかし同時に互いの生き方は確実にすれ違っていき、互いに隷属関係を強要していた。
いずれ互いに来るであろう永遠の決別について、先延ばしにしているだけであった。
なんと愚かな事であろう。
およそ人類の発生より今日に至るまで人々の中で幾たびも繰り返された過ちを、
自分だけは犯さないと誓っていたはずの過ちを私は犯してしまった。
私は今暗闇の中にいる。果たして道は見えるのだろうか。
それでも人は生きなければいけない。
私は弱い人間であった。
しかしほんとうに過ちを犯したのであろうか。
この問題、古代の哲学者達が永遠に悩み続けていた‘人間’が‘人間’である事との決
別しなくてはいけないのだろうか。
‘死’が永遠からの脱出なのだろうか。
‘否’。
私は持ちうる全ての力をもって否定する。
彼ら古代の哲学者達が出そうとして答えに‘死’
は含まれていない。‘人間’が‘人間’であることが問題を起こすと同時に‘人間’で
あることが唯一そのような状況、悲嘆、絶望から逃れる術を持つと信じる。
確かに私は何かを学んだのであろう。どのような事柄からも。
さあ、立ち上がろう、明日は明日の光が差し、今までとは異なる何かが起こるであろ
う。
今の自分を許すのは自分しかいない。
そして次の自分へと前進することが出来るのも自分しかいない。
もし存在するのであれば‘神’という名を持つものしか知りえない次の自分へ。
明日の私より、自堕落な今日の私へ。
#90/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/05/24 23:09 (500)
五月の事件 永山
★内容 07/09/10 16:39 修正 第6版
さくらさくら。
ゆきやこんこ。
桜と吹雪の桜吹雪。
桜と雪。
異常気象の日、彼女は僕と初めて出会い、勿論僕も彼女と初めて出会った。
* *
独り、湖周辺の案内板の前に立って目を凝らしていた。肩を上下させジャケ
ットを羽織り直す。慣れない物を小脇に抱えているせいか、既に十回近くも羽
織り直している。
突然、背中を騒音でかき毟られた僕。大きなバイクが現れ、接近し、ブレー
キを掛け、真後ろで停まったということは見てなくても想像可能だった。
「やあ」
「素晴らしい天気」
彼女は云った。二人が順に喋ったみたいに聞こえた。最初の「やあ」の発音
が“Yeah”っぽかったので。ほんとに“Yeah”なら、彼女は僕に声を
掛けたんじゃないことになる。
そして声に振り向くと、その先にいた彼女がバイクから降りるシーンに出く
わした。橙色と青からなるライダースーツに包んだ肢体は、細身だが強靭そう
に想像できた。柄はまるで違うのに、女豹と形容したくなる。
フルフェイスタイプのヘルメットから解放された容貌は、目鼻立ちのはっき
りしたモデル系美人だ。二等辺三角形をひっくり返した風の、尖った顎を持っ
ている。でも目は丸っこく、穏やか。カラーコンタクトなのか、あちらの血が
混じっているのか、左右とも緑色をしている。風になびく髪は自然な栗毛。
年齢は見当しづらいが、多分、僕と同じか少し上。バイクに縛り付けてある
大荷物が、やけに古びていて、この人に似合っていない。いや、似合っている
のか。
只今、僕ら二人の間は――きっと三メートル十四センチ。薄い桜色をした桜
の花びらと、白い粒のような雪が、先を競って降り散っていく。
こちらを一瞥した彼女の目が、ブルーに転じていた。
「ヘイゼルアイ?」
ファンタジー小説か何かに出て来たのを覚えた単語。日常生活で使える日が、
意外に早く来た。
「コンタクトレンズ」
近付いてきた彼女は答えてくれた。ひなたぼっこして、気持ちよさそうにす
る猫みたいな顔をして。寒さに強い質らしい。
「そんなコンタクトもあるんだ? 少し、がっかり」
僕が云って、また案内板に見入ろうとすると、彼女は前に回り込んできた。
「この髪の毛は本物よ。きれいだろ」
肩に届くか届かないか、まあそのくらいの長さの髪を摘んで示す。艶のある
きれいな栗色と知れた。
「ええ。ケーキのモンブランみたいで」
感じたままを口にする。彼女は戸惑いもなく、さらりと。
「ドレッドヘアにしたとき、云われたな。今でもたまに」
それから僕の右隣に立って、同じように案内板を見つめる。手帳を取り出し、
細かく書き込み始めた。
存在が気になって彼女を見る。モンブランが粉砂糖を被りつつある。会話を
持続させるために、ありきたりかつあまり意味のない質問をした。
「僕は一人で旅行中なんだけど、あなたは?」
「旅行」
「式典は正午からなのに、何故、こんな早くに?」
案内板から携帯電話の時計に視線を落とし、彼女に尋ねる。五時間近く前だ。
「泊まったとこ、早く出るとそれだけ安くなるシステムでね。第一、式典のこ
とを知らなかった。何の?」
「湖開きと豊穣祈願。なかなか盛大で、テレビ局も取材に来る。といってもロ
ーカルのみで、全国的知名度はないに等しいでしょうけどね」
「そっちはどうして早くに?」
手帳を閉じ、彼女は尖った顎をこちらに振る。
「僕のことに少しでも興味あるとは見えませんが、気になります?」
「興味はない。社交辞令ね」
ならば答えるのも社交辞令だろう。
「学生生活最後の春休みを満喫したくて、ついつい早く目が覚めてしまった。
それだけ」
「旅行者にしては身軽な格好なのは、チェックアウト前だからか」
「イエス」
「何で急に英語になる?」
「興味を持ってもらってどうも。またも社交辞令?」
「ノー」
「特に理由はないですが、強いて云うなら、最初に聞こえたあなたの声が、英
語っぽく聞こえたから何となく、かな」
「英語だったかもしれないな。よく覚えてない」
彼女は肩や頭の雪を払う。バイクのあるところに戻っていく。それじゃの一
言のあと、メットを被り、バイクに手を掛ける。
「式典は観て行く?」
尋ねると、キーを摘む指が動きを中止した。そして茶飲み話でもする調子で
云った。
「君。止めてほしいのかい。それなら鮮明に意志を示すことね」
「意味が分かりません」
「嘘をついて旅人を装う君は、左脇下にある銃か何かを使って、式典に出席す
る何者かを狙うつもりだ」
……僕は、無口に、なった。
* *
五月。彼女は僕と再会し、僕は彼女と再会した。
* *
ゴールデンウィークも五月に入り、残すところあと二日。
会社の同僚と親睦会を兼ねて一泊二日のキャンプに来た僕は、昼を過ぎても
一向に変わらない五月雨模様に気が滅入っていた。
追い打ちを掛けるように、ジャンケンで負けた僕は、買い出しに行く羽目に
なった。ついでに、雨天でも楽しめる施設が周辺にないか調べる役目も仰せつ
かった。
簡素なロッジを出、傘の縁から暗い空を目の当たりにして嘆息していると、
ふと、高校時代の記憶が蘇る。
「さみだれとは五月の雨と書くか、現代では五月に降る雨ではないんだ。この
五月というのは陰暦だからな、要するに梅雨のことだ」
現代国語の教師が、そんな余談をしていた。小春日和がどうとかいう話に脱
線していったことまで、不思議と覚えている。
「ぼーっと突っ立ってどうかしたか」
この声。え?と視線を普段の高さに戻して、周りに振る。
一般道に続く小径に、彼女がいた。
変わっていない見た目。約二十五ヶ月前そのまま。
否。彼女自身は変わっていないだろうが、見た目は変わったと云わねばなら
ない。コンタクトは外したようだし、バイクが見当たらないし、出で立ちは黒
のサマーセーターにブルージーンズ。髪は前よりも三センチほど長い。テンガ
ロンハットを被れば似合いそう。今の彼女の頭の上には、透明な安物の傘があ
るだけだが。
「な……んで、あなたがここに」
「こんにちは。久しぶり。再会の挨拶はこう云うものじゃないかな」
彼女を指差していた僕は、僕の指を僕の手で覆い隠し、押さえ込んだ。
数歩進み、ロッジの区画を出ると、彼女の前に立った。
「こんにちは。お久しぶりです」
「生きていて何より」
「そちらも。一人旅ですか」
「相変わらずね。バイクを修理に出して、たまには公共の交通機関を使ってみ
たら、思わぬ偶然の再会よ」
「荷物が見当たりませんが、昨日から泊まってる?」
「そ。向こうのテントで」
「この雨で?」
「慣れてるから。貸しテントは立派な代物だしね。それよりも、魚を釣って晩
のおかずにするつもりだったのに、これじゃあ予定変更」
「あ、買い物ですか。僕も同じ。車がありますから、一緒にどう?」
キーを見せながら尋ねる。彼女は数秒考え、承知した。
道中、僕は僕らのグループについて話した。最初に全員の名前を。魚里昇、
五木晴夫、五味さつき、笹井日美子、イライザ=ケームズ、それに僕、飯田陽
の六名だ。
「同世代、同じ会社の女と男が同数か。親睦会よりコンパと呼ぶ方が似合いそ
うね」
「イライザのための親睦会ですよ。今年の四月、研修のためにアメリカから来
たんですけど、日本的な物にはあんまり興味ないみたいで、アウトドアが好き
だとか。それで僕らが付き合ってキャンプに」
「だとしたら、あいにくの雨ね。アウトドア好きって、バーベキューが一番の
楽しみという人が多いだろうから」
「あ、イライザも残念がってたな。ただのヤキニク、ヤキザカナになる、と」
妙なアクセントにしたことに気付いたのかどうか、後部座席に座る彼女が笑
った。初めて見たかもしれない。全体の印象が若干幼くなる。
「それにしても、たった一ヶ月前に知り合った人達と一緒に、キャンプに来よ
うという気になれたのは驚きだわ。普通なら、同国人相手でも警戒が解けるか
どうかって頃合じゃないかな?」
「ちゃんと理由があります。五木先輩が一昨年、アメリカに研修に行って、そ
のときイライザと顔見知りになったんですよ。今度のキャンプも、五木って人
が音頭を取ったんです」
「納得」
「大柄だけど結構美人で、五木さん、気があるのかと思ったぐらい。実際はそ
うじゃなかったんですけどね。ただ、五木さんが云うには、向こうには五月祭
という、こっちで云うところの豊穣際があって、女王が大事な役目を――」
「知っているよ、五月祭のことぐらい」
「そうですか? 僕は知らなかった。他の女子社員も聞いたことないと云って
たのにな。とにかく、五木さんがアメリカに行ったとき、その土地での五月祭
で、女王役にイライザさんが選ばれたんだとか。きれいな人であると同時に、
豊穣祭なんだから、大柄の人が適任なのかなと思いましたよ」
最寄りの――一軒しかない――スーパーに着いた僕らは、買い物を手早く済
ませ、次いで書店を探した。この辺りのことが載ったガイドブックを欲しかっ
たからだが、書店そのものを見つけられなかった。代わりにコンビニエンスス
トアに入ってみたが、マガジンラックはあっても、目的の物はなし。
「ま、ぜひとも必要な物でもないから。携帯電話でも調べられるだろうし、い
ざとなったら地元の人に聞く」
「ロッジの管理人は」
「ああ、忘れてた」
僕は彼女をテントスペースまで送り届けると、初めてあったときに聞き忘れ
たことを尋ねた。
「名前を教えてもらえませんか」
* *
一ノ瀬メイ。
* *
うだうだとお喋りを重ねて夜更かしはしたが、だからといって、目覚まし代
わりに悲鳴で起こされるとは、予想外だった。
悲鳴と書くと、絹を裂いたような声を思い浮かべてしまいがちだが、このと
きのは踏み潰された蛙が発するような、性別不明の叫び声だった。
上体を起こした僕の耳に、続いて、「シンデル!」という声が押し込められ
た。五味さつきのものだと分かる。最初の悲鳴も彼女が出したのなら、随分と
印象が違う。
それから周りを見る。男三人相部屋なのだが、いるのは僕と魚里だけで、五
木の寝床は空っぽ。対照的に、魚里の奴は耳栓をして寝る質で、今も熟睡中で
ある。
僕は時刻――七時四十分――を確認し、魚里を起こした。悲鳴があったこと
を告げると、魚里は眠たげに細めた目をこすりながらも、飲み込めたようで、
がばっと音を立てて布団を跳ねのけた。
「行ってみようじゃないか。どこから聞こえた?」
「分からない。誰かが呼びに来るかと思ったんだけどさ」
結局、二人揃って部屋を出た。このとき初めて、窓からの眩しい光に気付い
た。昨日とは打って変わって五月晴れと分かったが、今はそれどころじゃない。
息を詰めて耳を澄ませるまでもなく、ざわつきは、食堂のある方角からだと
知れる。木目調の、多分安物の板を踏み締めて駆け付けた。仕切りがほとんど
ないため、五味さつきら女性陣が呆然と立ち尽くし、あるいはひしと手を取り
合う姿が視界に飛び込んでくる。
「何が起きたんだ?」
僕と魚里が同時に云った。一番冷静さを保てているらしい笹井が、五味の手
をやんわりと払って、こちらを向いた。斜め下、床の一点を指し示しながら、
濃淡のない声調で応じる。
「五木さんが……血を流して……亡くなってる」
普段、職場では快活でしゃきしゃきとした一面ばかり見てきただけに、あま
りにも落ち着いた口ぶりがかえって違和感を生じさせる。
「まじかよ」
上擦った物腰で反応した魚里は、口を鯉か金魚のごとくぱくぱくさせながら、
残るイライザと五味に目を向けた。
僕は笹井の指差した方を見やり、五木の身体を認めた。そこは厨房に続く仕
切り扉のあるところで、五木はちょうど上半身を厨房の側に投げ出す感じで、
俯せに倒れていた。すぐ脇に小さな緑色の屑篭があって、昨日食べた魚の尻尾
や笹団子の葉っぱ、それに焦がして失敗した焼きおにぎりの残骸が覗いていた。
五木の身体に近付くと、後頭部の辺りに赤黒い物が窺える。髪に埋もれては
いるが、血に間違いあるまい。事故か殺人かの判断はまだ無理だが、凶器らし
き物は見当たらない。だが、転んでテーブルの角にでもぶつけたような痕跡も
認められなかった。
床にはじゃがいもや人参、たまねぎといった野菜が散乱していた。倒れた拍
子にぶつかったのか、持ち込んだ食材の段ボール箱が崩れていたので、そこか
ら昨晩の使い残しがこぼれたようだ。
それらを踏まないように注意しながら、さらに近付く。念のため、脈を計り
たいと思った。
慎重に、首と手首に触ってみたが、脈を感じることはできない。それどころ
か、かなり冷たくなっている。間違いなく、死亡していた。
「うん。亡くなっている」
僕が口に出し、さらに気付いた点に言及しようとすると、癇癪を起こしたよ
うな反応が後ろからあった。
「だ、だから最初っからそう云ってるじゃない!」
震え声の主は、五味さつき。僕の二年先輩に当たる。パーマが特徴的な派手
な感じの美人だが、実はぱっとしない素顔に化粧を超絶技巧で盛って、見られ
る容姿にしているとの噂を耳にしたのは入社直後のこと。
「電話は? 救急車が必要かどうか怪しいけど、警察は絶対に呼ばないと」
魚里が尋ねたが、五味はとんでもないとばかりに、頭を左右に激しく振るの
み。
イライザに顔を向けると、困惑した風に小首を傾げた。最前から、ブロンド
のロングヘアを忙しなくかき上げている。青い目を持つ整った顔立ちの彼女も、
今は憔悴の色が濃い。
僕が五木の声を思い起こしていると、笹井が口を開いた。
「警察なんて考えもしなかった」
腕組みをした彼女は、神経質そうに左手で右の腕をとんとんと叩いている。
「だってそうでしょう。まだ事件か事故か分からないんだし、動揺もしてたん
だから」
「非難してる訳じゃないんです。ただ、五木さんがこんな風にじゃがいもを握
りしめているのは、犯人を示そうとしたのかもしれない、と思って」
僕はさっき気付いたことをようやく言葉にした。同時に、遺体の左手を示す。
そこには一個のじゃがいも――メークイーンが握りしめられていた。
「事件だという証拠になりませんか」
「確かに……事故としたら、じゃがいもを掴むより助けを求めるのが先ね。そ
うしなかったってことは、何者かに襲われた……」
「みんなで鍵を確かめましょう」
僕の提案に、皆、不思議そうな表情を向ける。イライザがせっかちな調子の
日本語で、「どして?」と云ったのが、この場の雰囲気にそぐわなかった。
「強盗かもしれない。まさか今も潜んでいるとは考えにくいけれども、念のた
め、注意しないといけない。それにはまず、戸締まりがきちんとできていたか、
破られた窓やドアはないかを調べないと」
「なるほどな」
魚里が奇妙な笑みを垣間見せた。
「外部犯が確定したら、警察に通報。逆に内部犯となったら、少々検討する時
間を持とうという訳だな」
「そこまでは云ってない」
「いやいや。はっきりさせておくべき点だ。よしそれじゃあ、みんなで回ろう」
戸締まりのチェックが全員揃って行われた。結果を述べると、全て内側から
施錠され、ドアや窓、その他ロッジ内に異常はなし。さらにロッジのドアのキ
ーも、リビングのテーブルの上にあった。内部犯説が固まってきたのである。
「最初に五木さんがあんな風になっているのを見つけたのは誰?」
リビングに引き返し、各自が席に収まったところで僕は女性三名に問うた。
「三人ともほぼ同時だったわ」と笹井が代表する形で答える。
「朝食を準備しなくちゃと思って、みんなで食堂に向かったのが七時半頃。起
きたのはもっと早かったのよ」
身支度に時間を要したということだろう。それくらい承知している。僕は続
きを促した。
「厳密な意味で最初に見つけたのは、先頭を歩いていた私ね。声も出なかった
わ。俯せでも五木さんと分かって、すぐさま頭の傷に気が付いたから。足を止
めた私に、五味さんがぶつかって」
「そうそう。突然立ち止まるから、何よって腹立てそうになったんだけど、肩
越しに気味悪いものが見えて、怒鳴り声じゃなくて叫び声が出たのよね」
五味は一気に喋った。遺体を見てほんの一時間弱経っただけで、もう普段の
自分を取り戻したようだ。
「三番目が私でした」
イライザはまずそれだけ答え、顎に指先を当てると、上目遣いになって考え
る仕種をする。
「茫然自失というんですか。そんな感じになりました。恐かった。どうしよう
どうしようと、身体が勝手に震えました」
「分かりました。肝心なのは、そのとき明かりが灯っていたかどうか……」
「点いていたわ」
笹井の即答に、五味もイライザも頷く。
「最初は天窓からの光に紛れて、気付かなかったけれど。ほら、今も点いてる」
その通り、食堂の傘付きライトは、白い光を放っている。点灯は廊下からの
出入口の壁にあるスイッチで行うタイプだ。
「夜中に目を覚ました五木さんが、食堂の暗がりに人の気配を感じ、明かりを
点けたとは考えにくい。何故ならこの場合、明るくなったあと、五木さんは襲
われたことになるから、廊下に倒れていなくちゃおかしい。現実には五木さん
は奥に倒れていた」
「明かりが点いているのを見つけた五木さんが食堂に入った。そこを中にいた
何者かに襲われた……としても矛盾するわね」
笹井の補足に、僕は「ええ」と応じる。
「他に考えられるのは、五木さんともう一人が夜中に食堂で会って、話をして
いた。その最中に諍いが起こった……」
「ふふん。さてさて、偉いことになってきましたよ、これは」
ため息に苦笑いを交えて、魚里がこぼした。僕の見方を面白がっている様子
が窺える。
「恐らく、五木さんは殺されたんだろう。鍵および明かりの状態から考えるに、
我々の中に犯人がいる」
「そんな」
弱々しい声を漏らした五味。そこに被せるように、イライザが疑問を呈する。
「私達の中に殺した犯人いるなら、その人、どうしてドアも窓も閉めたままだ
ったか?」
「どういう意味です?」
「どこか一つ、ドアか窓開けていれば、ロッジの外から来た人を犯人だと思う
でしょう」
「ああ、そういう意味。ああ、なるほど」
感心した風に首肯する魚里だが、じきに否定的意見を述べる。
「犯人が五木さんを殺したのは、きっとハプニングだったんだ。緊急事態に慌
て、動揺した犯人は鍵なんかに気が回らなかった。明かりが点けっ放しだった
事実ともぴったり符合するだろ」
「どうしても内部犯にしたいのね」
笹井が批判的な調子で言葉を差し挟む。魚里も負けていない。
「外部犯だとしたらどうやって鍵を掛けたのか、説明が着かないじゃないか。
ロッジに抜け穴なんてないよな。スペアキーか? 真夜中にこしらえる時間が
ないはずだ」
「……認めざるを得ないようね。内部犯なら、通報をやめるのかしら」
「事故ってことで済ませりゃいい」
しれっとして云い切る魚里。
「犯人以外にとっても、それが最良の選択だろうぜ。トラブル、スキャンダル
は出世の妨げ。殺し殺されるような予兆に気付かなかったのか!となっちまう。
事故死ならぎりぎりセーフだろうさ」
「そんなこと云ってあなたが犯人なんじゃないの?」
五味の軽口に、魚里は鼻を鳴らして「違うよ」と答えた。
「そういった詮索を含めて、何もかもやめる。悪いことは云わないから、そう
しよう。な、な?」
「事故死にするのは賛成できなくもないけれど、私達の間だけでも、真実を掴
んでおいた方がいいんじゃなくて? でなきゃ、もしもあとで殺人だとばれた
とき、変に疑われる」
態度を若干軟化させた笹井だが、魚里との溝は大きいようだった。
そのとき、イライザが頃合を見計らっていた様子で口を挟んだ。
「どうやって犯人を見つけるですか? 事故死にするから名乗り出ろと云われ
て、犯人が正直に白状するとは思えません」
「各自の部屋や持ち物を調べたら、凶器が出て来るかもね」
笹井はそう答えたが、自分でも期待していないのか、投げ遣りな感じだった。
そして重ねて云う。
「何となく、気付いてたんだけど……厨房の上の戸棚にフックがあるでしょ。
そこからぶら下がっていたフライパン、なくなってるのよね」
笹井の差し示した先には、金属製のフックだけがあった。なるほど、確かに
灰色をした丸いフライパンが掛かっていた気がする。
「で、洗い物を置く篭に、そのフライパンらしき物が載っている」
彼女の指先が空間を横切る軌跡を描き、やや斜め下で止まった。その言葉通
り、フライパンが裏向きに置いてあった。
僕は昨晩の記憶を、脳細胞のぬかるみから努力して引き揚げる。
「……あれを洗ったの、僕だけど、食器が多いからと云われて、篭に置けなか
った。仕方がないからタオルで水を拭き取って、フックに掛けた。思い出した」
「誰かフライパン、移動させた覚えのある人?」
笹井が場を見渡すが、反応はなし。沈黙に鳥の囀りが混じったとき、魚里が
云った。
「犯人がやったんだな。どんな風に事件が起きたのかは、これで大凡分かった。
何らかの発作的な理由から、フライパンを手にし、五木さんを殴り殺した。そ
の後、フライパンを洗うことだけは思い付いて実行し、それ以外の偽装工作を
せずに現場を離れた。不自然なところはない。事故に見せかけたかったのなら、
テーブルの角にでも血を付けてくれりゃよかったんだけどねえ」
「今からやれば? 魚里君が。得意でしょ、そういうの」
五味の発言が皮肉っぽく響く。魚里は弛れたため息をわざとらしくついた。
「全員の同意と、他言無用の確約が取れるのなら、引き受けてもいいな。だが、
笹井さんはどうやら犯人を知りたくてたまらないみたいだ」
「当然でしょうが。殺人犯と職場で席を並べるなんて、想像しただけで鳥肌が
立つわ」
「ふむ。分からなくもなし。じゃ、事故死に見せかけることに賛成か反対か、
多数決を採るのはどう?」
「……私はかまわないわ。ただし、条件付きでね」
「条件とは?」
「五人で決を採るなら過半数は三だけれど、この場合、犯人は当然、事故死で
済ませることに賛成するはずよね。反対派の不利は最初から明らかなんだから、
ここは二票が入ったら、反対派の勝ちってことに」
「うーん……」
否とも応とも返事をせず、ただ低く唸った魚里は、笹井を除く僕ら三人の顔
を順に見ていった。それが終わると、再び笹井に焦点を合わせる。
「案外、真犯人も自分が疑われないように、わざと反対に回るかも」
「それはないんじゃない? 少なくともあなたが賛成に回ると分かっているの
だから、真犯人も安心して賛成に回れるわ」
「……確かに。でもなあ、その条件を呑んで多数決となると、反対派が勝つ予
感がある。イライザさんと五味さんはともかくとして、飯田」
「ん?」
急に呼ばれて、僕は薄ら笑いを浮かべてしまった。
「おまえはもしかすると、反対か?」
「どちらにでも靡く浮動票的存在さ。ただ、これからの平安のために、犯人を
知りたい頭は充分に持ち合わせている」
「けっ。つまり、反対二票は確定ってことだな。しかし、どうやって犯人を突
き止める? 云っておくけどな、事故死に見せかけるにしたって警察に知らせ
る必要がある。通報は早い方がいいに決まってる。だから……ぎりぎり九時ま
でに結論を出さないといけないぜ」
「うん。手がかりは……まず、じゃがいも。それから、夜中に物音を聞いたっ
て人がいれば、新たな材料になる」
僕は皆の発言を促したが、昨晩から今朝方に掛けて、誰も何も聞いていない
ようだった。尤も、少なくとも犯人は嘘をついた訳だが。
「結局、じゃがいもだけか」
「何か分かる? 犯人を差し示しているようには思えないわね」
五味が端から推理を放棄したように、椅子に座ったまま大きな伸びをした。
「じゃがいも……いも。センスのない人をいもと呼ぶことがあるけれども」
笹井がそこまで云って語尾を濁した。この中に極端にセンスが悪い者はいな
いし、いもと呼ばれるような者もいない。
「ポテトと解釈しても、つながりませんね」
イライザが、一応云っておこうという風に口を開いた。異国の地で事件に巻
き込まれた不安からか、目に落ち着きがない。心なしか、今の彼女は小さく見
える。
「昨日の晩飯で、じゃがいもを一番食った奴が犯人、とかじゃないだろうな。
いや冗談だよ、冗談」
魚里は自分の意見が非難の目を集めたと気付き、慌て気味にフォローをした。
そして疲れた様子で椅子の背もたれに片腕を載せると、「煙草、いいか?」と
皆に聞いた。今回のメンバーで、煙草を吸うのは彼だけだ。無論、残る五人全
員が嫌煙家という意味ではない。
「仕方がないわね。かまわない」
嫌煙家である笹井は立ち上がると、換気扇を回しに厨房へと行った。五木の
遺体に一瞥をくれたが長く見続けることはできないようだった。
「タイムリミットまで三十分弱か。腹も空かないな」
僕がつぶやいたその刹那、ロッジの玄関の方で激しいノックがあった。
全員、緊張した面持ちを見合わせた。
* *
彼女は云った。“メーデーで主役を張ったことある?”
* *
朝からの予期せぬ来客は、“彼女”だった。そう、一ノ瀬メイと名乗った彼
女が、僕を訪ねてきた。
僕が事件についてみんなから口止めされたのは云うまでもない。だがしかし、
彼女は玄関口で僕を一見しただけで、
「何が起きたんだ?」
と聞いてきた。一瞬の内に、何かがあると見抜いたらしい。それでも即座に
認める訳に行かない。とぼけるに限る。
「何の話です?」
「血が着いている」
いきなり云って、僕の左肩口を指差してきた。まさか?と反応して、右手を
肩に持っていったのが運の尽き。
「君、分かり易いね」
左肩に血など着いていないことを確かめ、きょとんとしていたであろう僕に、
彼女はにんまりと笑った。
「流血沙汰があったんだ?」
「ひ、引っかけましたねっ」
声の裏返った僕は、次に「どうして分かったんです」と聞いた。
「説明する義務はないけれど、今日は急を要するみたいね。特別サービス。声
の調子と顔色から、もしやと思った」
「全然説明になってません」
この人はいつもそうだ。二年と一ヶ月前に、僕の殺人を未遂の段階で看破し
た際も、理由の全ては証してくれなかった。銃を脇に隠していたことぐらいは、
服の盛り上がり方や腕の動きの不自然さで分からなくもないだろうけど。
「あと、血の臭いがしたから」
「嘘でしょう?」
「いいから早く、全てを話しちまいなさいって」
変な日本語で急かされて、それでも躊躇する僕に、彼女は更に恐ろしいこと
を続けた。
「云わないと、二年前の四月のこと、公にする」
……我ながら呆気なく陥落。僕はロッジで起きた出来事を話した。魚里らに
不審がられないかと気になるも、彼女から問われるがままに詳細を伝え切った。
「簡単じゃないの」
「……何か簡単なんです?」
「イライザさんを問い詰めたら多分、白状する。今の彼女はまだ精神状態が不
安定に違いないから、ちょっとつつけば認める。動機は本人から聞くこと」
「あ、あの。五木さんを殺害したのは、イライザさんだと?」
強張る頬を懸命に動かし、そう問うた僕に、相手はロッジの天井やら壁やら
床やらを観察しながら、いかにも適当な感じで相槌を打った。
「何故、そうなるんですか」
「どうでもいいじゃない、そんなくだらないこと」
「よくない。説明してもらわないと、僕がイライザさんを問い詰められないじ
ゃないですか」
「あー、なるほどねっ」
彼女の声が大きくなったので、僕は冷や冷やした。幸い、誰も出て来る気配
はない。最初に彼女を出迎えたあと、一旦引き返して、皆に「昨日の買い出し
のときに知り合った人だよ」と説明した効果が、まだ残っているようだ。
「ならば、手短に話してあげる。握ってたじゃがいも、メークイーンだった」
「ええ」
「イライザは五月祭で女王を務めた。メイクイーンだ。イライザの他にメイク
イーンを務めた人物は、関係者の中にいない」
「……はあ?」
駄洒落じゃないか。僕は怒鳴りつけたくなった。
「君は知らないようだけど、五月祭を英語でメーデーという」
「……労働者の祭典と同じなんですか」
「そ。メーデーの女王だから、メイクイーン。本当よ。綴りは一緒だけど、日
本語で表記するときは、じゃがいもの方は必ずメークイーンと、メのあとを伸
ばすみたいね」
「雑学は結構です。それよりも、たったそれだけのことで、決め付けていいん
でしょうかね。確かに五木さんは、イライザがメイクイーンを務めたことをよ
く知っていたし、印象に残ってたでしょうけど」
「他の誰が犯人であっても、じゃがいもを掴むはずない」
「うん? どういうことですか」
「犯人が君なら、五木さんは焦げた焼きおにぎりを掴んだはず。飯つながりで」
「え」
「笹井さんが犯人なら、笹の葉っぱを掴んだでしょう。笹団子を持ってくるな
んて珍しい気がするけれど、端午の節句だからたくさん売ってたのかしら」
それはどちらかと云えば柏餅……。
「魚里さんなら、焼き魚の食べかすの尻尾でも握りしめたらいいし、五味さん
にやられたのなら、ごみ箱をそのまま抱けばいいのよ」
「で、でも。他の何かと間違えて、じゃがいもを掴んだ可能性だって」
「ゼロとは云わない。でも、食堂は明るかったんでしょう? いくら瀕死の状
態でも、見間違えない」
考え込んでしまった僕の前で、彼女は風を起こしてきびすを返した。面を上
げた僕に、後ろ向きのまま片手をひらひらと振る。
「早いとこ片付けて、ちょっと出て来てよ。バスを待つまでの間、暇で暇で仕
方がない。暇つぶしに付き合ってほしいんだよね」
「……警察を呼ぶから、ご要望に添えられそうにないんですが」
「あ、そうなの」
木製ドアのノブに手を掛けて出て行こうとした彼女の動きが止まる。顔だけ
振り返った。
「それじゃあ、次も偶然の再会に期待して、さよならとしましょうか」
少し、いや、だいぶ困る。いつの間にか、僕は彼女に参っていた。
「一ノ瀬さん。名前の次は、連絡先を教えてくれませんか?」
――終
#91/569 ●短編
★タイトル (dan ) 03/05/31 03:03 ( 20)
人生あれこれ 談知
★内容
人生あれこれ 宮田談知
「恥多き人生を送ってきました。」と書いたのはあれは太宰治だったか。私もまた恥
多き人生を送っているひとりである。
現在の私の状況を簡単に書くと。30才で統合失調症を発病し、以来閉じこもりの時
期を10年以上すごし、徐々に回復はしているものの、どうしてももとのような体調に
は戻らず、のらりくらりと毎日をすごしている。
経済的には年金生活をしている母親に寄生している、いわゆるパラサイトシングルっ
て奴だ。これで小説家を目指しているとかいって毎日自堕落にすごしているのだから、
典型的にありそうな奴である。それなりに豊かな日本でしかありえない寄生者である。
そんな男もいつしか50近くになり、どうにも収まりのつかない人生を、それなりに
収まりをつけたいとか思うようになって、こうして文章など書いている。
「恥多き人生を送ってきました。」
そういう思いを抱かないで生きているひとなどいないだろうが、特に私はそういう思い
で生きている。
「恥多き人生を送ってきました。でもそれなりに人生に決着をつけることができまし
た。」
そう思えて死ねたら、それは満足すべき人生を送ったということになるかもしれない。
そう思える人生を、私はこれから生きたい。
#92/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/05/31 08:18 ( 25)
幸せの青い鳥はもう飛ばないから。 滝ノ宇治 雷華
★内容
珍しく、昔仲の悪かった----------`そいつ`と帰ることになった。
`そいつ`と`僕`は昔、たった一人の、あいつを愛したライバルだった。
「そういえば、あいつのこと、覚えている?」
僕は、恥ずかしそうに言う。
「あぁ。あいつ?覚えているよ。」
そいつは淡々と続ける。
「あいつとはさ。古橋と藤原にハメられて、あいつと春日部で二人きりにされちゃって
さ。」
「あとは・・・・、古橋と藤原とあいつで勉強したりとかしたんだ。他には・・・・。
散歩したりしてね。」
そいつの口から出る、「あいつ」の姿は僕の知らない、「あいつ」だ。それに変わっ
て、僕は「うらやましいな。」の単語を繰り返しながら、「あいつ」への想いが湧き上
がり,涙を隠せずにはいられない。
「そろそろ6時だ。帰んなきゃ。」
別れの先手を打ったのはそいつだ。
「じゃーねー。」
そこには「僕」の知らない「あいつ」がいて。
悔しかった。
切なかった。
薄暗い闇のなかで、「僕」は詩人のようにつぶやく。
「あの、幸せな、あいつがいた日々はどこへ飛んでいったのやら。」
「僕」は歩き出す。とびっきりの笑顔で。
#93/569 ●短編
★タイトル (acl ) 03/06/02 01:34 (151)
お題>うどん 時 貴斗
★内容
俺は自称うどん通だ。ほとんど毎日食っている。多い時には三食とも
だ。俺はよく旅をする。もちろん、より素晴らしい歯ざわり、喉越しを
求めてのことだ。
三重の伊勢うどんは良かった。海老の天ぷらと鰹、海苔、ねぎ、めひ
びがつややかな麺にのっている。一般的には汁の中に入っているが、こ
いつはたまり醤油のようなたれにつけて食べるのだ。天ぷらのさくさく
した食感がそのまま味わえ、めひびの独特の風味も楽しい。
千葉で食った焼きうどんもうまかった。海水浴場の近くにある露店で、
注文してから作り始めるのだ。出来たての奴を一気にほおばるのは格別
だ。
友人や親戚に聞くと、きつねやたぬき、カレーうどんくらいしか思い
浮かべないが、釜揚げ、鍋焼き、ざる、月見等、バリエーションは豊富
なのだ。
素人はどこの店で食っても同じとしか考えないが、実際には太さも腰
も表面のぬめりも全然違う。分かっちゃいねえ、まったく。
だから俺は、この街でもすべてのうどん屋は行きつくしている。引っ
越して来てから一年になる。
大学に電車で通える範囲に、こんな宝石のような街があったとは。俺
はここを「うどんの里」と呼んでいる。それくらい上等な店がそろって
いる。日本一と言っても過言ではない。
そして最終的に落ち着いたのがここ、井丸屋だ。友人はさんざん歩き
回ってやっと見つけたのが、どうしてそんな駅前の小さい店なんだと言
うが、うまいだけじゃだめなのだ。安くなきゃ。だって毎日食うんだか
ら。質と値段のバランスが最高にとれているのが井丸屋なのだ。
今日はきつねとたぬきの合わせだ。いつもより少し贅沢だ。俺は七味
をとり、小さじ一杯分ほどをふりかけた。おや? 油揚げの下からのぞ
いている一本が、少し動いたような気がした。まさかな。徹夜マージャ
ンしたから目が疲れているのかもしれない。帰ったら少し昼寝しよう。
箸を割って突っ込む。麺が避けるようにして身をうねらせた。まあ、
そう見えただけだろう。箸が当たったからだ。そう思ってかき混ぜた時、
俺は背中に冷水をぶっかけられたような気分を味わった。白い、表面に
ほどよいぬめりを持ったもの達が、いっせいに波打ち始めたのだ。
その様子は桶に入れられた大量のどじょうのようであった。いや、む
しろミミズか。俺は驚きのあまり声を出すこともできなかった。
なんとかしなければ。だが体が凍りついたように動かない。彼らの動
きは徐々に激しさを増し、音をたて、汁をどんぶりの外に飛ばし始めた。
そこはカウンター式の店で、横一列に客が並び、すぐ前が調理場にな
っており、親父が湯を切っている。まだこの異変に気づいていない。
助けを求めるように横を向くと、隣の客と目が合った。
「おい、あんたどうしたんだよ、それ」
そう言われても困る。
「いや、僕も分からないんですけど」
「ちょっと、これどうなってんの」と彼は、俺のかわりに親父に言って
くれた。
料理人は俺達をにらんだ。次の瞬間、湯切りをする彼の手が止まった。
「お客さん、何やってんだ」
どうやら俺のせいにしたいらしい。
「僕は何もしてないですよ」カチンときた。「とにかくこんなもん食えま
せんから、金返してくださいよ」
突然ポップコーンが弾けるような音がした。熱い!
麺も汁も器の外に飛び出し、俺の服にかかっていた。うどんがズボン
に巻きつき、這うのを見て、俺は絶叫した。中身が全部出たのかと思っ
たが、そうではなかった。どんぶりはまるで底が抜けているかのように、
白くて細い蛇のような物体がうねりながら次々に這い出してくるではな
いか。俺は椅子から転げ落ちた。
両隣のおっさんが立ち上がった。恐慌は俺の近くからカウンターの端
へと伝播していった。あっと言う間に店内は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わ
った。
つい先ほどまで愛してやまなかったそいつらは、おぞましい謎の生物
と化した。のたうちまわりながら床の上に広がっていく。手で払っても、
どんどんまとわりついてくる。俺に声をかけてくれた人もその犠牲にな
っていた。彼は足にからみつく連中をちぎっては投げた。
俺は一刻も早く逃げたかったが、出口に殺到する客達に踏みつけられ、
立ち上がることさえできなかった。
辺り一面、白い巨大ミミズが蠢く川となった。恐るべき増殖スピード
だ。その一部が山のように盛り上がってこちらに向かってくるのを見て、
俺は力を振り絞った。
麺をちぎりつつ外に転げ出た俺は、後ろを振り返った。全身の血の気
が引いた。店の入り口は怪物を吐き出す魔物であった。うどんの間から
突き出している腕を見つけた。白い袖から料理人だと分かった。調理場
にいたので、逃げ遅れたのだ。
助けなければ。だが、恐ろしい音を立てて壁にひびが入り、そこから
サナダ虫達が顔を出すのを見て、間に合わないと悟った。もはや内部は
謎の生物でいっぱいなのだ。店が崩壊し始めた。俺は立ち上がり、走っ
た。
人々の絶叫、車のぶつかる音。いったいどこへ行けばいいのか。そう
だ、電話だ。警察か、消防署か、分らないが、とにかく連絡するのだ。
俺はバッグを持っていない事に気がついた。ああ、畜生! どうやら店
に忘れてしまったらしい。
後ろを見る。ビルの谷間を白い川が埋めつつあった。俺が走っている
道だけでなく、枝道にも入り込んでいた。人間を、自動車を、ガードレ
ールを飲み込みながらうどんが増殖していく。
いや、あれをうどんだと思うのはよそう。別次元からの侵略者だ。た
またま俺のどんぶりに、異世界と通じる扉が開いたのだ。
なぜ俺なんだ、と思う。俺の跳び抜けた彼らに対する愛情が、引き寄
せてしまったのだろうか。だとすると俺は彼らの良き理解者になるべき
だ。
冗談じゃない。あんな気味悪いの、分かりたくなんかないや。
急がないと追いつかれる。だがこれ以上速く走れない。そうだ。もう
少し先のコンビニを左に曲がって、歩道橋を渡って、喫茶店を右に曲が
って、まっすぐ行った所に交番があったはずだ。
俺は夢中で駆けた。心臓と肺が爆発しそうだ。
ようやくたどり着いた俺の前に、仰天するような光景が広がっていた。
交番は奴らに占領されていた。麺が完全に覆いつくし、蠢動している。
別の道を通って来たのだ。
前後からのサンドイッチだ。俺は横道に飛び込んだ。もうどうしてい
いか分からない。とにかく足を動かすしかない。料理人の最後の様子を
思い出し、のどに酸っぱいものが込み上げてきた。
俺は目についたビルに駆け込んだ。自動ドアが閉まった瞬間、サナダ
虫の群れがガラスに激突した。そこにいた男も女も驚愕し、叫び声を上
げた。
ざまあ見ろ。これでもう追ってこられないだろう。しかし、俺の考え
は甘かった。彼らの重みでドアは開いた。
慌てて周りを見る。受付け、ソファー、吸殻入れ。何かの会社のよう
だ。左の奥にエレベーターがある。タイミング良く、扉が開いた。俺は
ダッシュした。
出てきた人々はこちらを見ると慌てて中に戻った。俺は彼らに混じっ
て入った。
各階で止まるたびに、下から逃げてきた人間がなだれ込んでくる。つ
いに重量オーバーを知らせる音が鳴り、中の奴と外の奴の間で争いが起
こった。俺はその間を縫って廊下に出た。階段を見つけた。もう、上に
逃げるしかないのだ。たくさんの人が右往左往している。俺は走った。
階段にも大量の人間がいた。俺は嫌がる足を無理やり動かした。
ついに屋上に出た。疲れ切った体を引きずり、フェンスに近寄った俺
は愕然とした。
下は、白い川で埋め尽くされていた。車も人も街路樹も飲み込まれ、
低い建物は蜘蛛の糸で包まれたようになっていた。奴らはビルの外壁に
もまとわりついていた。
後ろで悲鳴が聞こえた。振り返ると、階下へ通じる口からミミズども
が吐き出されてきた。
「ちょっと、そんな話されたらうどん食べられないじゃないの」と香奈
は言った。
「本当さ。それで俺ここに引っ越して来たんだもん」
俺は新しい街に来て、速攻で全てのうどん屋を回った。彼女も作った。
本場の讃岐うどんを食わせてくれる店を見つけ、香奈を誘ったのである。
「うっそー。だってそんな事本当にあったら、大ニュースになってるで
しょ?」
「さあね。きっと隠蔽したんじゃないかな」
誰が? どうやって? と聞かれたら困る。幸い、彼女はそんな事に
は関心がないようだ。今行っても、奴らはもういない。
大学は遠くなった。電車で二時間かかる。だが、これでいいのだ。こ
こは平和だ。
「いっただっきまーす」
香奈は頭を下げ、麺をすすった。
うどんが来るまでの待ち時間、彼女には秘密を打ち明けてもいいんじ
ゃないかと思い、しゃべってしまった。良かったのだろうか? まあ、
まるっきり信じていないようだから、構わないが。
連中はどうして俺をターゲットにしたのか。ま、上等な味が分かる舌
の持ち主だからな。もっとも、あの街に住む全員が標的だったとも言え
る。なにしろ「うどんの里」だ。みんな上品な味覚を持っているだろう。
まったく平気になってしまった俺としては、自分の脳がどういう状態
になっているかなど想像したくもない。きっとコードを差し込んでいる
かのように連中がつながってて……。
でも、と俺は箸を割りながら思う。これって、共食いじゃないの?
涙腺の辺りから細長いものがにょろりと出てきたので、俺は慌てて引
っ込めた。
<了>
#94/569 ●短編
★タイトル (caf ) 03/06/16 12:13 ( 95)
お題>うどん MOJO
★内容
お題>うどん MOJO
「目と手」
自分は目と手です。
名前は有った様に思うのですが、忘れてしまいました。脳味噌が無いものだから、
憶えていられないのです。
自分が目と手になった経緯につきましてはちょっと長い話になります。いや、簡単
な話かもしれません。すいません。会話の中に、かなりの矛盾があるかもしれません
が、なにぶん目と手しか無いものですから、話をまとめることが出来ないんです。こ
うしてお話していることも、話した先から忘れていってしまうものですから。
そうそう、私が目と手になった理由でしたね。
それはこういう事だったんです。
ある日の私は深夜、アルバイト先からの帰宅途中に一匹の鬼に出会いました。彼は
自分の名を『屍食鬼』と名乗りました。
屍食鬼に出会った私は、当然それまで鬼に会ったこともなかったことですから、た
いそう驚いてしまって、声を上げることも出来ずにいました。
屍食鬼は、そんな私を捕ってむしると、ボリボリと喰しながら、こう語りました。
『自分は屍食鬼だから、死人の肉しか喰わなんだけれども、最近は死人を火葬にして
しまうもんだから、喰うにこまってなぁ。だから、いまじゃワシも生きた人を捕って
喰らうことにしたんよ』
まったくとんでもない、迷惑な話ですよね。屍食鬼が死人を食べないなんて。
こうして今、私は鬼に食べられているわけですが、不思議と痛みはありません。た
だ、ただ、驚きと恐怖があるのみです。
屍食鬼は私を美味そうにほうばりながら、鬼に生きたまま喰われても人は死なない
のだと言いました。そして『自分は鬼だが、鬼にも慈悲の心がある。お前もまだ若く、
残りの人生を楽しみたいのだろうから、全てを捕って喰わず、少し残してやろう』と
言いました。
そうして私は、目と手になったわけです。
幸いにも屍食鬼は、私の利き手の『右手』と、比較的視力の良いほうの『左目』を
残してくれました。
右手と左目だけを残し、ほかの全ての『私』をきれいに平らげると、屍食鬼は満足
げに、地に帰って行きました。
私は新しく生まれ変わった体を見下ろしました。
見下ろすと言っても、取り合えず足は無くなってしまったわけですから、右手の親
指と小指をふんばり、人指し指と薬指で支え、中指でバランスをとるといった具合で
す。
右手は肘の付け根ぐらいのところまで。左目はどうやら肘の上に乗っかった格好で
付いているようです。
目と手だけになってしまった私は、まず新しい体でその場を見渡しました。
目は左目だけになってしまったので、遠近感が上手く取れず、視界がボヤケます。
なんだか、夢でも見ている様で、地に足がついている感がしません。それもそうです
ね、右手がなれない格好で足の代わりを務めているわけですから。
そうしてその場を見ると、私が屍食鬼に食べられるまで着ていた衣服だけが残され、
後は私だったモノは一切無くなっていました。
悲しいだとかいった感情は、その頃はもう既に無くなっており、ただ、「ああ、無
くなってしまったなぁ」と漠然と思うばかりです。
脳味噌が無くなってしまったものですから、残された左目に映る物について、ほん
の一瞬、思うことが精一杯になってしまったからです。
私は新しくなった体で始めの一歩を踏み出しました。
中指の爪でアスファルトを掻き、人差し指を添えて、親指と小指を引き付ける感じ
です。そのようにして少しずつ私はその場から離れていきました。なんにせよ、私に
は帰る場所が必要に思われたのです。このままここに残っていたら、誰かに見つから
ないとも限りません。そんな事になったら大変ですからね。なにせ、目と手だけの生
き物なんですから。
なるべく私は街灯などの明かりを避けて、建物の物陰や茂みの中などを進みました。
道中、猫などの生き物に遇ったりしましたが、人だった時には動物に好かれた私も、
目と手だけになってしまえばそうは為りません。この体となってからは猫の方が大き
く、もし襲われることにでもなれば、爪も牙も無い私なんかはひとたまりもないでし
ょう。しかし、猫達はそんな私を見て脅え、毛を逆立てながら逃げて行くのです。
ただ、犬は違いました。
草むらから這い出た私は、目と手だけになる以前住んでいたアパートの前に着きま
した。
そのアパートからほど近いところではいつもの夜鳴き蕎麦がのれんを出しています。
椅子に座り、蕎麦を啜っているらしい客がひとり。あれはうどんでしょうか、そばで
しょうか。蕎麦屋を見た私は無くなったはずのお腹が空いてきた様に感じました。口
も無いというのに、どのようにして食べるのか等とは、そのときは思いもつかなかっ
たんです。私は脳味噌が無くなってしまった所為か深く考えるでもなく、いつもの調
子で蕎麦屋に向かって行ったのです。そして、好きなうどんを啜ることだけを考えて
いました。
その私の鼻先に一匹の犬が現れました。
いつも私のアパートの近所をうろつき、吠え立てる野良犬です。
野良犬は私を見つけるといつもの調子で吠え立てました。
私は慌てて逃げ出そうと思い、今では足となっていた指を懸命に動かしました。し
かし、まだまだ足としては不慣れな指は、途端に絡まり、もつれてしまって、私はそ
の場に倒れこんでしまったのです。
犬はそんな私をすかさず咥え込むと、得意げにその場を走り去って行ったのです。
これが、私が目と手になってしまってからの人生すべてです。
いま私は犬の腹の中で第三の人生を歩んでいます。
こうなってしまうと、目と手だけになったときよりもいくらか快適な生活を送って
いると言えるかも知れません。私は犬の腹の中で溶けて、犬と体を共有するに至った
のです。
犬は楽です。
総ては風まかせ。足の向くまま、気の向くまま。お腹が空いたらゴミ箱を漁り、人
を見ては吠えて驚かせ、眠くなれば日のあたる処でウトウト昼寝。
ただ、今ちょっと気になっているのは、目の前に止まった車から、網を持った作業
服の人間が降りてきたってことだけです。
<了>
#95/569 ●短編
★タイトル (dan ) 03/06/23 04:51 ( 33)
転校する前 談知
★内容
小学校4年生のとき福岡の小学校から大阪に転校した。その前後の話。
炭坑がつぶれた。自分たちのよって立っていた大きなものが突然倒れた。
炭坑町にとって炭坑の存在はどこにでもいつでもある、そんな存在だった。
住んでいる家も炭坑の家、銭湯もそう、商店もそう。小学校さえ炭坑の
寄贈によってできていた。小学生の私でさえ炭坑の存在をいつも感じて
暮らしていた。そんな炭坑が突然無くなった。あ然呆然。
日本人というのは、会社というものに何か幻想をいだいている。自分を
守ってくれる存在。自分の価値がかかっている存在。自己実現の手段でさえ
ある存在。単に金をかせぐ場所であるという以上の存在だと思っている
感じがある。でも私にはそんな感じはまったくないのだな。会社というもの
は会社のつごうで存在しているだけのものだ。そんな感じしかもてない。
そんな風に思う大きな原因は、このときの会社の消滅からだろう。あれだけ
頼りがいのある存在、大きな存在である炭坑もつぶれるときはつぶれる。
こっちの都合など関係なくつぶれる。小学生のときそんな体験をしていると
会社というものに妙な幻想などもてなくなる。
炭坑がつぶれても街には他に職がない。だからみんな街をでていく。学級の
ものたちもどんどん転校していく。朝いってみると、「今日でお別れです」
と挨拶している同級生がいる。そんなことが毎日のように続くのである。
最初は別れていく同級生をかわいそうに思い挨拶などしていたが、クラスの
半分以上の者が転校していくと、しだいに心細くなっていく。取り残される
恐怖に襲われる。私だけどこへもいけず最後のひとりとして残されるのでは
ないか。そんな不安におののく毎日だった。だから母から大阪へいくと伝え
らえれたときは心底ほっとした。このとき30人くらいいたクラスで残りの
ものは10名を切っていたと思う。
別れの挨拶をして故郷を去った。取り残されずすんだという気持ちで
別れのさびしさなどあまり感じなかったような気がする。さして考える
こともなく去ったような気がする。
千里ニュータウンに来て小学校に転校した。新しい街だったらか毎日のよう
に転校生があった。あれが生の象徴、誕生の象徴だったとすると、毎日の
ように転校していってひとがいなくなったあの炭坑街の小学校は死の象徴、
消滅の象徴だったような気がする。私は小学生で死と生、消滅と誕生を
経験したことになる。そのせいか、これ以降ちょっとおとなの感覚になった
ような気がする。
#96/569 ●短編
★タイトル (dan ) 03/06/24 06:47 ( 29)
食事について 談知
★内容
食事に関して言えば、私のモットーは「男子はだされたものについて
あれこれ言うべからず」というものだ。昔風の考えというべきかもしれ
ないが、まあ端的に言って、私は料理に全然関心がない、というほうが
正しいだろう。あれこれ文章を書いているが、料理とか食べ物とかの話は
ほとんどない。何の関心ももってないからだろう。
そうはいっても食べるものはまずいよりおいしいもののほうがいい。
おいしいものを食べたいと思う。でもそれはまずいよりはいい、という
程度で、おいしい料理をもとめてあちこち行くなんてものではない。手近な
ところで簡単にすませたい。行列のできているラーメン屋で行列してまで
食べたくない。
まあそう思う大きな原因が実際のところどこで食べてもおいしく感じられる
この私の味覚にあると思う。どこの店でもおいしく感じる。知り合いの家に
行き奥さんの手料理を食べてもおいしく感じる。まずいと評判の店にいっても
まあまあかな、くらいな感じで食べてる。全体にどこで食べてもまずいと感じた
ことがあんまりないのだ。
知り合いの女性の子供たちは外で食べられないそうである。どの店で食べても
まずく感じて。つまりその女性のつくる料理があんまりうまいので、外のが
まずく感じるわけである。これもある意味その子供たちにとってはかわいそうな
ことかもしれない。少なくともその子供の奥さんになるひとは大変だろう。
私はそとのがうまく感じる。つまり、言いにくいことだが、家の料理が
あんまりうまくない、というわけである。母親の家はとてもまずしかった。
子供のころからまともなものを食べてなかった。当然まともなものを作った
こともなかった。そういう育成歴からして料理がうまくなるわけがない。
その母親の作ったものを食べて育った私は、料理がわからない。うまいまずい
にあんまり関心のない男に育った。まあそういうことだ。
ひとつだけいいことがある。私の奥さんになるひとはとても楽だ、という
こと。相当ひどい料理を作ってもうまいうまいと食べてくれる。本当に
どうしようもなくひどくても別にさして気にせず食べてくれる。こんな
らくちんな夫はそういないだろう。それだけが私の取り柄かな。
#97/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/06/30 22:48 (458)
お題>うどん 永山
★内容 04/09/25 23:10 修正 第3版
神原国彦は携帯電話を胸ポケットに押し込むと、スーツが泥で汚れるのも厭
わず、横たわる温井純也のすぐ脇に跪いた。苦しげに呻く温井の上半身に腕を
回し、ゆっくりと抱きかかえた。傍らには、日下元太郎が呆然とした体で立ち
尽くしている。エリート学生も眼前の事態はあまりにも日常から離れすぎて、
手に負えないらしい。それも不思議じゃないなと神原は頭の片隅で思った。
「大丈夫か。助けは呼んだ。気をしっかり持て」
ポロシャツの腹の辺りが血で赤く染まっている。その染みは今も領地を急速
に拡大しつつある。
「……う……」
「何だ?」
「や、やられ……た」
「無理して喋るな。傷は浅い。助かるから」
夜の野外、暗がりだったが、外灯の明かりだけでも傷の深さははっきりと分
かった。それでも「傷は浅い」と云わずにはいられなかった。
「やられた。う」
神原の言を聞き入れず、温井はかすれた悲鳴のような声で続けた。背後で砂
利を踏み締める音が、荒々しく起こる。このときになってようやく、他の面々
も駆け付けてきた。
神原は喋ろうとするのをやめない温井を思い、あとから来た学生連中に立ち
止まるよう叫んだ。足音が消え、そして耳を澄ませる。
「云いたいことがあるなら云え。云ったら、すぐ大人しくしろよ。助かるんだ
からな、おまえは」
「う……うどん……」
現状の危急性に全くそぐわない、珍妙に聞こえるフレーズを口走った温井は、
次に「げっ!」という奇声とともに、口から血を吐いた。量はさほどでもなか
ったが、激しい勢いで飛び散る。刺し傷が内臓に達しているらしい。
さしもの神原もしかめっ面になったが、励ますことはやめなかった。
しかし温井は間断のない咳を続けた。かと思うと、不意に首を後ろにがくり
と折った。目は閉じられ、口は開きっ放しで血はただただ流れ続ける。意識を
失っていた。
「温井君! 温井! おい、起きろ。起きるんだ!」
「この中で、『うどん』が指し示す人物はいますか」
年輩の刑事がログハウス一階のダイニングの上座に仁王立ちし、木製テーブ
ルに着く神原達七名を見渡した。言葉遣いは丁寧だが、威圧感のある物言いに、
場の緊張が密度を増す。彼の後ろにはキャスター付きホワイトボードがあって、
その表面には縦に関係者の名前が記されている。
山間のキャンプ場に泊まり掛けで遊びに来た某国立大学の学生グループの内
の一人、温井純也が刺殺された。現場はペンション風ログハウスから約三十メ
ートル離れた駐車スペースの一角で、犯行推定時刻は出血量その他より午後八
時からの一時間以内と見られる。風呂に行ったはずの温井が二時間経っても戻
らないし、風呂場にいないということで騒ぎになり、全員で探し始めたのが午
後九時半頃。程なくして虫の息の温井を見つけた。
凶器は未発見、他の遺留品も今のところ見当たらない。雨が止んで間もなか
ったが、現場周辺は砂利が敷き詰められていたため、足跡も検出不能だった。
しかし警察は、駐車場以外のぬかるんだ地面に残る足跡から、事件関係者は
遺体発見時に敷地内にいた面々であると断定した。内訳は、学生グループの残
り三名――日下元太郎、鈴木哲郎、藤田主水にプラスして、骨休めのためこの
地の温泉に浸かりに来た神原国彦、若き昆虫学者の月見里佳子、婚前旅行に来
た免田義徳と有働和美のカップル。都合七名に絞り込まれていた。
厄介なのは、七人全員にアリバイがない事実である。神原は一人で温泉に入
っていた。月見里は部屋で読書。免田と有働は雨が上がったので外に出てみた
と云うが、カップルなので確実な証言とは見なされない。学生連中は三人とも
酒を飲んで各自の部屋で寝ていたらしいが、これまた証人なし。肝心の被害者
の行動もはっきりしないが、車の中に置いたままの洗面道具を取りに行ったと
ころを襲われたものと推測されている。
以上のような状況により、被害者の遺したダイイングメッセージに注目が行
くのは極自然な成り行きだった。
「随分とストレートですね」
神原は愛想笑いが出ないように表情を引き締め、感想を漏らした。目と鼻の
先に立つ刑事が、じろりと見下ろしてきた。
「あなたが証言したのですよ。被害者の温井さんは『うどん』と云い残し、絶
命したと。手がかりの一つと見なし、こうして皆さんに伺うのは常道でしょう。
それともあれは冗談か聞き違いだったとでも?」
「いえいえ。私だけでなく、日下君も聞いていますから、まず間違いない。な
あ、日下君?」
知り合って半日ほどだが、打ち解けた口調で同意を求める神原。日下は青白
い顔をはっと上げ、かくかくと音が聞こえてきそうな首の振り方をした。刑事
の方を見ずに、独り言めいて喋る。
「絶対に、『うどん』と云っていました」
「そうですか。お二方の証言があるのならば、間違いないと云えるでしょう。
そこで最初に戻る。『うどん』から連想される人物は、この中にいますか」
「仲間を売るようなこと云ったら、やばいっしょ」
刑事から一番離れた席で、ふてくされたように鈴木がつぶやいた。勿論、刑
事は聞き逃さない。
「心当たりがあるのなら、云ってもらえますか。大きな声で、はっきりと」
刑事に求められると、意外にも鈴木はにやりと口元で笑い、嬉しそうに応じ
た。
「俺達の中で、うどん好きなのが一人いる。藤田。違うとは云わさないぜ」
芝居臭く、鈴木は藤田を指差した。藤田は掛けた眼鏡の真ん中を、人差し指
でぐいと押し上げ、己を告発した相手を黙って睨み返した。
「彼のうどん好きなら、私も聞きました。笑い話の種になっていたみたいです」
月見里が云った。殺人事件が起きたというのに、狼狽えた様子は微塵もない。
「どのような笑い話で?」
刑事は彼女だけでなく、場にいる全員に尋ねた。数秒の静寂を挟み、藤田自
身が口を開く。
「一年生のとき、学祭のイベントで、うどんの早食いがあったんですよ。ぶっ
ちぎりのトップだったんだけど、最後に来て吹いてしまって」
「鼻からうどんが出た。それも左右一本ずつ。皆、大爆笑」
落ちの部分だけ、鈴木が澄ました調子で云った。藤田は横目でまたも睨みつ
けるが、口の方は怒りを閉じ込めるかのように硬く結んである。
「それ以来、こいつを鼻うどんて呼ぶようになった奴が何人かいたという訳で
す。ああ、死んだ温井もそう呼んでいましたよ」
「うどんではなく、鼻うどんですか」
鈴木達の話をどう受け取ったのか、刑事の表情に変化はない。
「虫の息だったんだから、『鼻』を省略してもおかしくはないでしょう」
「本名を云えばいいとも思えますがね。死ぬ間際に渾名とは、どうもしっくり
来ない」
刑事の疑問に、鈴木は肩をすくめた。そこに隙を見い出したのか、藤田が急
に逆襲に転じた。
「おい、鈴木。おまえだって、面白い渾名を戴いていたことがあったな。後頭
部の髪を刈り上げていた頃。何だったけな、あれは」
「……分かっているのなら、さっさと云えばいい」
鈴木はそっぽを向き、藤田は刑事を見た。
「刑事さん。鈴木にはウドという渾名があったんですよ。入学してからしばら
く、後頭部を刈り上げて、あとは髪を立ててね。芸能人のウド鈴木と似た髪型
で、名字も一緒だから、ウドと呼ばれていた」
「被害者が云ったのはうどんではなく、ウドだったと?」
「その可能性もあるんじゃないかというだけのことです」
積もった怒気を吐き出してすっきりしたのか、藤田は椅子に深く座り直し、
腹の上で両手を組んだ。本気で鈴木を疑っているのかどうかは、判断できない。
「俺は、今はウドじゃない」
鈴木が低い声でつぶやいた。刑事は適当な感じで首肯し、
「うどんにしろウドにしろ、本名を云わないという疑問は残る。まあ、こうい
うのも今風なのかもしれませんがね」
と僅かに困惑の色を見せた。それからはたと閃いたみたいに、手を打った。
「本名というのなら、有働さんが最も近いようですが。その、発音が」
寄り添って座るカップルを見据え、探る風に聞いた。即座に反応したのは男
の方だった。
「うどんではなく、『うどう』だったとでも? 笑い話にもならない」
免田は案外冷静な口ぶりで応じつつ、有働の手を握る。
「第一、ここで知り合ったばかりの学生さんをどうこうするなんて、ある訳な
い。動機がないというやつですよ」
「裏の動機があるかもしれないし、酔った学生が有働さんによからぬことを働
こうとしたのかもしれない。その弾みで……というのもないとは云い切れませ
ん」
「そんなの、ありません!」
有働が甲高い声で否定した。長い髪が乱れて、顔の前に掛かる。それを鬱陶
しそうに払った。
免田は彼女の肩に手を回し、刑事に抗議を続けた。
「そういう笑い話みたいなことを証拠にするというのなら、僕も当てはまるん
じゃありませんかね? 免田の免は麺類の麺に通じる。うどんは麺類だ、とね」
「それはあまりにこじつけが過ぎるというものです」
「じゃあ、私もかしら」
不意に割って入ったのは、月見里。最前から爪をいじっていたようだが、今
はやめている。
「私の名前、読み方は『やまなし』ですけれど、字面は月見里ですものね。う
どんから月見うどんを連想できなくはありません。いかがです?」
「月見里さん、いい加減にしてください」
刑事がたしなめるが、月見里はまだ言葉を重ねた。ただし、これ以降は真剣
な様子が感じられた。
「私の記憶では、確かに学生さん達と知り合いましたが、正式な自己紹介はし
ていませんでした。そうじゃありません、皆さん?」
女昆虫学者が他の関係者を順に見回す。神原は真っ先に頷いた。
「云われてみれば、そうだった。私は名字だけを名乗り、月見里さんは、名前
と、えっとクサカゲロウの研究をしている昆虫学者だと自己紹介したんでした
な。免田さんは……うん、免田さんも名字と某企業の会社員をしていると云っ
たあと、有働さんを恋人の和美だと紹介した。結婚するとも云ってましたな」
「つまり……有働さんの名字を、学生さん、君達は知らなかったのか?」
これは重要だと察したらしい刑事が、鋭い語調で云う。日下がおずおずと答
えを返した。
「そ、そういえば、有働さんの名前は、事件があってここに集められたときに、
初めて聞きました。それに、月見里さんの漢字も、初めて知りました。ま、間
違いないです」
この話を、鈴木と藤田も支持した。被害者が「有働」と云い残した可能性は
なくなった。また月見うどんからの連想という馬鹿げた説も、完全に消えた。
「犯人を見たのなら、やはり名前を口にすると思うのですよ」
刑事はあくまで自然な状況に拘りたいようだ。
「亡くなった温井さんは、犯人を見なかったとは考えられませんか」
神原が思い付きを口にする。
「見なかったから、犯人の名前も分からない。そこで何か他の意味で犯人を示
す『うどん』を云った……」
「被害者は真正面から刺されており、さらにあの場所は外灯のおかげで明るか
った。仮に突然刺されたとしても、顔ぐらい見えたでしょう」
刑事は冷静に否定した。神原自身も、倒れた温井を見つけたときの情景を思
い起こし、納得する。
手詰まりの雰囲気が醸成され始めたそのとき、建物の外が騒がしくなった。
警官やここの管理者を交えて、揉めている気配が感じられる。
「何事だ、まったく」
神原達にそのままお待ちくださいと云い置き、刑事が出て行く。
だが、命令を無視して立ち上がった鈴木は、窓ガラス越しに外を見た。すぐ
に舌打ちする。
「見えねえな」
最前、刑事が通ったドアから、鈴木もまた出て行こうとする。
「勝手な行動は、やめといた方がいいんじゃないか」
藤田が撫然として忠告するが、鈴木は立ち止まって振り返り、「馬鹿野郎。
隠れていた犯人が出て来たのかもしれないぜ」と嬉しそうな表情を見せた。
「そうか。隠れているという可能性も捨てきれんな」
神原は盲点を突かれた思いで、つい腰を浮かせた。しかし、鈴木が戸口前に
立つ制服警官に押し戻されるのを目の当たりにし、続いて出て行くのはあっさ
り断念した。代わりに、その警官に聞く。
「何があったのですか」
「大したことではありません。ご安心ください」
「いや、しかし、もしも隠れ潜んでいた容疑者が現れるか、目撃されるかした
のなら、我々にも大変重要なことでしょう」
「そのようなことは起きていません」
云い切る警官だが、彼に外の情報がどれほど届いているのか、断言するだけ
の根拠を持っているのか、甚だ怪しい。
そこへ先ほどの刑事が戻って来た。背後に、管理者と背の高い女性を引き連
れて。
「そちらの方は」
警察関係者とはとても思えない若い女性を目で追いながら、神原は刑事に問
うた。女性はすらりとしたモデル体型だが、大きなリュックを担いでいる。髪
は見事な栗色だ。
「こちらに今夜泊まる予定の方で、到着が遅れていたという話です。疲れてい
るから早く休みたいと仰るので、とりあえず部屋にご案内を」
現場保存の必要があるとは云え、旅行者を締め出す訳にもいかない。部屋で
大人しくしていてもらう、これが警察にできるぎりぎりの譲歩だろう。
「ここは食堂?」
女性が管理者に聞いている。そうですよという返事に、女性は荷物を下ろし
た。
「何を」
刑事が咎める。早く出ていってもらいたい気持ちで溢れていた。女性はリュ
ックの口を解きながら、にっこりと微笑む。
「食堂ですることと云えば、食事よね。遅い夕食を食べる」
「待ってください。お部屋の方で願います」
「お腹空いてるのだけれど、だめ? 広い部屋で食べたいわ」
「事件の捜査中です。皆さんから事情を伺っているので、ここは」
「つまり、事件を解決したら、この場所は空くのね」
テンポよい話しぶりに、刑事も乗せられたか、首を縦に振った。振ってから、
「事件を、解決したら、ですと?」と慌て気味に付け加える。
「そう云ったわ」
「事件が解決したら、ではなく、事件を解決したら、と云うからには……」
「私にも事件を考えさせてもらいます。一刻も早く安寧を得て、ぐっすりと眠
れるようにね」
「な」
刑事も、事件関係者も圧倒されていた。その合間に、女性は空いていた椅子
に腰掛け、足を組んだ。
「始めましょう。悪いけれども、最初から。私にも分かるように」
「しかし、ですな」
「事件のあらましを整理する意味でも、もう一度見直すことは必要ではありま
せん?」
「そりゃそうだが」
月見里と有働を除くこの場の全員が、思わぬ第三者に参っていた。美貌に当
てられたのかもしれない。
「混乱させるのは、やめていただきたんですけれど」
女性陣の内、有働が険しい顔つきで云った。
「混乱ではなく、秩序をもたらすつもりよ」
「秩序? じゃ、じゃあ、あなた、本気で犯人を捕まえる気なの? 信じられ
ない!」
「逮捕は警察の仕事で、私は事件の真相を見てみたいだけなんだけれど、まあ、
いいわ」
「解けなかったら、どう責任を取る気?」
「公務執行妨害罪で捕まってもいいけれど、あなたはそれだけじゃ満足しそう
にないわね。有り金全部渡すっていうのは、警察の人がいるから難しいし。ど
うしましょ?」
尖った顎を僅かに上げ、思案げにする女性。
「別に物なんていらない。土下座してくれればいいわ。ほんとにもう、折角の
旅行なのに、殺人事件なんかが起きて、いらいらしてるのよっ。その上に、あ
なたのようなおかしな……」
免田に止められ、やっと黙る有働。
「それじゃ、話もまとまったことですし、刑事さん?」
女性は優雅な調子で、説明を始めるよう促した。
刑事の話が終わると、件の女性はまず、神原と日下を振り返った。
「温井さんの最後の言葉を聞いたのは、あなた方だけ?」
「そうなります」
神原が代表する形で答えた。
「正確に、『うどん』と?」
「正確にと問われると、少し難しいものがありますが……『う、うどん』と言
ったきりで、あとは『げっ!』と凄い勢いで血を吐いた。こんな具合だったな
あ、日下君?」
「ええ、ええ。そんな風に聞こえました」
「なるほど」
微笑混じりに頷くと彼女は椅子を動かし、月見里に身体毎向いた。
「あなたは名刺か何か、お持ち?」
「え、名刺? 持っていますが、それが何か」
困惑も露に、首を傾げる月見里。女性の方は上目遣いになった。
「全部拝見してもいいかしら」
「ぜ、全部? 何故? 一枚で充分ではないの?」
「最有力の仮説を検討するために、全てを見る必要があります。快くお願いし
ますね」
「……」
刑事を見やった月見里だが、止めてもらえないと悟ったか、「分かりました」
と立ち上がった。
「部屋に置いたままなので、取ってきます」
「え、それは困るな。仮説が当たっていて、問題の物を処分されたら困るから。
刑事さん、身体検査できます?」
いきなり問われた刑事は、どもった上にせき込んだ。息を整えてから、改め
て答える。
「私には無理だが、婦警がいますので、すぐにでも」
「抜かりなくて、結構なことだわ。さあ、月見里さん。どうしましょうか」
「……名刺くらい、好きなようにすればいいわ」
懐から名刺入れを取り出す月見里。だが、女性はそれには目もくれず、「全
部出してくださいね」と念押しする。
「それで全部よ」
「まだありますよね。さっき、部屋に行こうとさえしなければ、信じてもよか
ったんですが、あれで一層怪しみました。剥き出しの名刺が、多分、ポケット
の中か財布の中にでも入っているんじゃないかしら」
「……」
月見里は黙りこくり、スーツの胸ポケットからよれた一枚の名刺を取り出し、
木の机に放った。名刺は泥らしき汚れ跡を拭ってあった。
「月見里さん。この名刺はどうしたのですか」
名刺を摘み上げることなく、真上から指差した刑事は、怪訝さを隠さず、率
直に尋ねた。彼自身、まだ名刺の持つ意味を理解できていない証だろう。
「外で落としただけです。拾って、仕舞っていたのよ」
「いつです? 雨上がりのあとであることは間違いないようですが」
今度の問い掛けには、答えるのを渋る月見里。
刑事は「どういうことで?」と、探偵役を務める女性に助言を求めた。
「恐らく、亡くなった温井さんから取り返したんでしょう。彼を死なせてしま
った直後に」
「月見里さんが犯人だと?」
「そのようですね」
女性の言動から、刑事だけでなく誰もが察しはつけていたに違いないが、や
はり衝撃が走る。
名指しされた月見里は、空を握りしめた手を震わせた。
「どうしてそうなるのでしょうか。分かるように話してくださらないと」
声はまだまだ冷静さを保っている。
「温井さんは誰に刺されたか分かったはずなのに、名前を云わなかった。何故
でしょう? シンプルな一つの答があります。名前を知らなかったのではない
かしら、なんて」
「まさか! そりゃあない」
大人しく聞いていた鈴木が、我慢できなくなったみたいに声を発し、席を立
った。鼻の下を擦り、考えをまとめるためか、時間を取った。
「俺達は簡単にだが自己紹介をし合った。全員の名前を知っている。漢字でど
う書くかは知らなくても、発音はできるっしょ」
「その名前の読み方に、温井さんは疑念を抱いていたんじゃないかなって思っ
たの。より厳密を期すなら、温井さんは犯人が偽名を使っているのではないか
と疑った……」
「どういうことですか。さっぱり分からない」
刑事が片手で頭をかきむしる。
「温井さんは月見里さんの名を『やまなし』と聞いた。そこに錯誤はありませ
ん。しかしね、月見里さんがどこかで名刺を落とすのを目撃し、それをすぐ拾
った温井さんは、錯誤を犯した。あの昆虫学者、『やまなし』と名乗ったのに、
この名刺には『つきみさと』ってあるじゃないか。怪しいぞ……ってね」
「はあ?」
「この名刺には振り仮名も、ローマ字表記もないわ。月が見える里とは周りに
山のない土地、だから月見里をやまなしと読むんだそうだけれど、そういった
予備知識がなければ、『つきみさと』と読むのが普通でしょう?」
女性と月見里を除く全員が異議なしとばかり、何度も首を縦に振った。
「温井さんは月見里さんが偽名を使っていると思い込んだ。あまりにも短絡的
すぎるけれど、これは被害者自身、偽名を用いて悪事を働いた前歴があるのか
もしれない。全くの想像ですけどね。それは横に置くとして、温井さんはこれ
は脅迫の種になると、ほくそ笑んだんでしょう」
「脅迫?」
免田と有働、神原に刑事の声がカルテットを形成した。女性は口元を緩め、
月見里を凝視した。
「お金か、もしくは、この方の身体目当てかもしれない。とにかく、何らかの
利益を得られると考えた温井さんは、探りを入れるべく、月見里さんを駐車場
に呼び出したんでしょうね。落とし物を拾ったけれど、人目に触れるとやばい
からとかどうとか理屈を付けて。そして、まずは当たり障りのないところから
会話をスタート。そう、昆虫の研究ってどんなことをしてるんですか、とかか
しら」
「……」
「ねえ、月見里さん。素人からもしこう聞かれたら、どんな説明をします?」
「……クサカゲロウの生態を、と」
「そうじゃないでしょう。もっと面白く。だって、クサカゲロウには面白い逸
話があるんだから。それこそ、一般の人でもちょっと興味を引かれそうな。そ
れを話さない手はないと思いますね。興味を持ってもらうために」
「……」
「三千年に一度咲くとされる伝説の花。ここまで云えば、あなた自身が話して
くれる?」
「……やっぱり、優曇華を知っているのね」
月見里の口にした聞き慣れない単語に、刑事が反応する。
「うどんげ、とは何です? うどんの一種じゃないようですが」
「彼女の説明したように、三千年に一度咲くという伝説のある花です。極めて
珍しい物事が起きることの比喩に使われるほどです。私の研究テーマの一つで
もあるんですが……」
「ははあ……しかしおかしいですな。あなたは昆虫の研究者であって、植物で
はない」
「優曇華は植物を差す場合もありますが、私が云っているのは違います。クサ
カゲロウは草木の枝葉等に卵を産みつけます。一、二センチの柄を持ち、先は
小さな球状になっています。それが小さな花のように見え、優曇華もしくは優
曇華の花と呼ばれるのです」
「初めて聞いたな。ふむ。それで? 温井にそう云ったのか」
取り調べ口調になった刑事に、月見里は再び唇を硬く結んだ。
交代するかのように、探偵役を務める女性が口を開く。
「月見里さんはこの話を温井さんにした。そのあと、温井さんは徐々に核心に
迫っていった。ところが月見里さんには偽名なんてまるで覚えのないことです
から、話が噛み合わない。あるいは月見里さんはご自身の名の由来を語ろうと
したかもしれませんが、温井さんは酔っていたせいもあったのかしら、聞く耳
を持たなかったとも考えられます。業を煮やした温井さんは、隠し持っていた
凶器、多分ナイフか何かを取り出し、月見里さんを脅かそうとした。それがも
み合いに発展し、やがて事故が起きた」
「ナイフが、温井自身に刺さったのか」
刑事が呻くように聞いた。女性は顎を振った。髪が靡く。
「だと思います。月見里さんは慌てたでしょう。意味不明の言いがかりをつけ
られ、襲われ、挙げ句に相手は死んでしまった。不幸中の幸いで、返り血をほ
とんど浴びなかったあなたは、その場を逃げ出し、部屋に戻ったと思う。しか
し、時間が経つにつれて、気が付いたのね。あのナイフに、自分の指紋が付着
したかもしれない。それに、あいつは自分の名刺を持っている様子だった。取
り戻さねば。そう決意して密かに部屋を出ようとした矢先、学生さん達が、温
井が行方不明だ!と騒ぎ始めた。月見里さんは捜索に協力するふりをして、真
っ先に駐車場に駆け付け、まず名刺を取り戻し、ポケットに仕舞う。それから
ナイフを拭うために、被害者の背後に回って凶器を慎重に引き抜いた。ナイフ
全体を、多分被害者の衣服で拭う……と、死んだと思っていた温井さんが声を
上げた」
「……」
月見里が何かつぶやいたようだった。「恐かった」と云ったのかもしれなか
ったが、定かでない。
「恐らく、刺されたという事実と失血によるショックとで意識を失ったんです
ね。刺さったままの凶器が微力ながら栓の役割を果たし、一時間前後が経過し
ても命を奪うまでには到らなかった。だが、その凶器を抜いたのがきっかけで、
意識を取り戻したと考えられます。恐怖に駆られたあなたは、他の人が聞きつ
けてくる前にその場を離れ、捜索隊にこっそり合流した。神原さん達に温井さ
んが何を云うのか、気が気でなかったことでしょう」
「事実なら、正当防衛だな。ナイフを抜く行為も遺体損壊には当たるまい」
刑事が独り言めかして云う。月見里に直接告げるのは酷だと判断したのか。
「月見里さん、この名刺を調べれば、これを温井さんが持っていたことが分か
るはずです」
女性が穏やかに云った。月見里は声を振り絞るようにして答えた。
「泥を拭ったついでに、指紋も消えたと思いますが」
「指紋ではありません。汗です。DNA鑑定にかけたら、染み込んだ汗は温井
さんのものだという判定が出るでしょうね。優秀な刑事さんが、これを突破口
に、事件の状況を忠実に再現してくれる」
「……ああ」
背筋を伸ばして姿勢よく座っていた月見里が、不意に身体を傾け、背凭れに
寄り掛かった。その姿勢のまま、ため息みたいな小声で認めた。
「ほぼ、当たっています」
「では、月見里さん。あなたが温井ともみ合ってる内に、刺してしまったと」
逸る刑事に対し目礼だけで応じた月見里は、探偵役を見つめ、質問を発した。
「何がきっかけで、私を怪しいと思ったのです?」
「うーん……やっぱり、優曇華。クサカゲロウの研究をしている人が、うどん
というダイイングメッセージを聞いて、優曇華の話を披露しないのは多少不自
然だなって。月見うどん説まで云っておきながらね」
「ふふ。あのときは、極端に憶病になっていましたからね。下手に話して、薮
蛇になってはたまらないわ。でも、どうしてあの男は、優曇華と言い残したの
か……。確かに私は直前に話をしたけれども、やまなしと言い残す方がよほど
ありそうだと思うのに」
「偽名と疑っていたから。本名を残さないと意味がないと思ったんじゃないか
しら。とは云え、温井さんにしてみれば、月見里も偽名かもしれない。じゃあ、
何を云うかとなれば、聞いたばかりで耳に残っていた優曇華にするのは、そん
なにおかしくはないでしょ。個人を特定するのに充分特徴的」
「あの、すみません。それ、クサカゲロウでもいいのでは?」
神原がおずおずと尋ねる。「優曇華」を「うどん、げっ」と聞き違い、思い
込みの原因を作った張本人として責任を感じていた。
探偵を務めきった女性は、神原を見、次に微笑を浮かべた。
「クサカゲロウだと、そちらの気弱そうな学生さんの名前と紛らわしいから、
云わなかったのかも――ですね、私の見方は」
彼女の指差した先には、きょとんとした顔でいる日下元太郎。なるほど、カ
ゲロウように頼りない。
事件が一応の収束を見せ、警察が食堂を開放すると、件の女性は早速食事を
始めた。神原達が脱力した感じで居残っているところへ、刑事が戻って来た。
「食事中のところを悪いのですが」
やや硬い口調の刑事は、彼女の横に立つ。
「んあ?」
妙な声音で受け答えをし、パンを飲み込んで口の中を空にした女性は、改め
て聞き返す。
「何?」
「今すぐじゃなく、あとでかまわないのですが、お話を伺えませんかね。感謝
状が出るかもしれませんし」
「感謝状には興味ありません」
「金一封も付くはずですが」
「感謝状にも金一封にも興味ない。ただ、月見里さんのためにも行きますから、
ご安心を」
目を細める女性に、刑事はほんのり頬を染め、それから首をぶるぶると横に
振り、「ええ、安心できました」と応じる。
「それでですな。食べながらでお答えできることを、今の内に聞いておきたい
のですよ。よろしいですか?」
「時間の節約ね。いいわ。でもその前に、こっちから一つ」
「何でしょう?」
「凶器をどこに隠したのかなと思って。自分の手から離れさえすれば、どこで
もいいんだけれど、警察が短時間で見つけられなかったのだから、割と巧妙な
隠し方のはず」
「あなたのような鋭い方でも、見当つきませんか」
「えーっとね。被害者の車の中?」
「……当たりです」
一瞬、意地悪く笑った刑事の表情がすぐに渋くなった。気を取り直すためか、
肩を上下させて上着を整えると、事務的に云った。
「では伺います。最初に、あなたの名前から」
女性は飲んでいた缶飲料をテーブルに置き、不思議そうに口をすぼめた。
「あれ? 管理人さんから聞いていない?」
「はい、事件とは無関係だと考えたもので。お願いします」
「なるほど。じゃ、仕方ない。私の名前は一ノ瀬メイ。字はね――」
彼女は細かに答えた。
――終
#98/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/07/03 14:02 ( 0)
お題>神がいる世界。 滝ノ宇治 雷華
★内容
#99/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/07/03 15:45 (180)
狂気の勇者達。第二章「ウッドミドガルドの戦い」滝ノ宇治雷華
★内容
第2章
ミドガルドの森の征圧の翌日。黒の魔女はある人物に手紙を書いた。
Dear反乱の同志へ
ロックガンバに反乱の砦を持つ「戦の天才児」ハンジ殿へー。
我々、四魔女反乱軍は本日、ミドガルド貴族古城を攻め落とし、反乱の拠点と
する。
あの「天使の羽を持つ死神」カミュエルがいるので、苦戦を強いられることが
目に見え
ている。できるかぎり、増援を送ってもらいたい。
貴殿の返事ー待つ。
この手紙を伝令兵に黒の魔女は渡した。
彼女、黒の魔女と妹である、白の魔女が反乱を起こした理由は、彼女らの母親が異教
徒であった為、公開処刑されたのであった。
もう少しで朝の軍議が始ろうとしている。前回の七人とー新たに加わった、モウユ
ウ、ハイドが先に来ていた。
「おはようございます。黒の魔女殿。」
ハイドはいう。その美しい笑顔で見つめられると,感情を表に出さないクールな彼女も
うっかり赤面してしまう。
彼女らが雑談をしているとぞくぞくと武将たちは集まってきた。
「では我々を勝利を誓い、乾杯!!」
軍議は始った。地図を取り出し,全身紅衣の赤の魔女は解説する
「森を征圧したのでミドガルド古城を囲むようにして、攻撃していただきたい。」
「自衛団が城外に出たら,城内へ爆弾の投下をお願いします、サジジ殿。」
なにやら、赤の魔女には作戦があるようだ。
「まかせなさい。」
サジジの心強い返事が返ってくる。
「モウユウ殿は正門の守護兵をたたいて、暴れてください。」
モウユウは苦笑する。
「ガージ殿は本陣後方守護を担当してもらいます。」
「おう。」
ガージは14歳の為,返事には尊重的な表現はない。
「ルータ殿は本陣前方守護を願います。」
快い返事が返ってくる。ルータは守護騎士道を学んだ珍しい貴族の子である。護衛は
ルータにとって絶好の活躍の立場なのだ。
「分かりました。まかせてください。」
「フォルテ殿にはモウユウ殿が正門を叩いたあとに後方をたたいていただきたい。」
「了解しました。」
騎士兵と同じ大量生産された安っぽい長剣だが、フォルテが持っているとどこか違う。
「以上、他の諸将は中央地点で待機。異議はありますか?」
「・・・・・・・」
どうやら、赤の魔女の作戦は武将達に届いたようだ。
「では、諸将の安全な姿のままの帰還、祈る。」
この赤の魔女の一言と同時に、武将達は解散した。
「・・・・・・・・・森が焼かれなければいいのだけれど。」
ボソっと黒の魔女が言った。
「・・・・・・・・・・・・・」
その姿を森の番人、ハイドが見つめていた。
「あっ!!あれはなんだ?。。。。。。王都で反乱を宣言をした四魔女反乱軍じゃない
か!!ここを落とす気だ!!!」
自衛団の一人が叫んだ。
「何!?反乱軍だと?このミドガルド一族には‘天使の羽を持つ死神ーーーー。つまり
お前、カミュエルがいるではないか。」
ミドガルド一族のラクーツの命により、戦闘へ出る事を余儀なくされたカミュエルは、
五ヶ月前のある事件を思い出していた。その事件とは、『一斉翼族狩り』である。バス
ラーニャの谷に拠点を持つ翼族は翼族狩りの理由を知らない。
「バスラーニャの剣はどこへ行ったのだろう。」
カミュエルはつぶやく。その時だ。
「伝令!!中庭が炎上しています。投爆されています!!」
迅速に投爆車を発見したカミュエルは自衛団の小部隊を向かわせた。
「全て爆ぜるがいい!!!」
叫んだのはサジジである。その時、カミュエル率いる自衛団の刃が飛んでくる。
「・・・・・っと。危ない。」
と焦りを見せながらも,サジジの持つ、ヨーヨーに酷似した、『シューター』と呼ばれ
る武器はその刃を捕らえていた。
「俺様のシューターには王都の最高技術でつくられた生命細胞をズタズタにぶち壊す成
分を含んだ火薬が入っている。」
サジジはガスマスクを装着し,部下にも装着の指示をする。そして続ける。
「・・・・・この意味、分かるよな?」
サジジが言うと、カチッとスイッチが入ったようにシューターの火薬は爆発した。
「・・・ひっ・・・・!!!!!」
「召喚機構か・・・。」
赤の魔女はつぶやく。
「召喚機構。教祖マンリスコ・バーン。『ロンテックの変革』の際,教徒は全て國教に
変換されたはず。」
白の魔女は本を片手に言う。
「んじゃ、なんだ?アレか?リースはその生き残りだったってことかよ?」
「いや、リースはマンリスコの教え子だったそうだ。」
「そしてこの、白の魔女の母親も召喚機構の教徒だった。」
「・・・・・・・そういうことか。だから、二人で戦闘から離れてこうして調べている
んだな。」
赤の魔女は思い立ったように言う。
「・・・・・って、そろそろ本陣に戻らねぇとヤバいんじゃないか?」
一方、本陣は大変な事態であった。立て続けに起こる絶望的な事態に、本陣に残ってい
る、黒の魔女と青の魔女は沈黙するしかない。
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
彼女らを襲ったその絶望的な事態は、モウユウとハイドの前線退却。カミュエルの伏兵
攻め。カミュエルの出陣。
モウユウとハイドはミドガルド一族に森を全焼され、激怒し、退却してしまったので
ある。そして本陣後方にカミュエルが仕向けた伏兵が潜んでおり、今,ガージが奮戦中
である。一方の本陣前方にはカミュエルが近づいてくる。まさに絶望的な状況であっ
た。
「・・・・・・・・。」
二人の沈黙は止まらない。その沈黙を破ったのはガージだった。
「・・・・・・まだ、負ける訳には・・・。」
配下の歩兵に連れられながら帰ってきた。血だらけである。
「後方を守りきれなかった・・・・」
ガージは悔しそうに言う。しかし不思議な事に、伏兵部隊は本陣を叩きには来ない。不
思議そうに外を黒の魔女は覗いてみた。
そこには大量の屍と大量の兵士。その中で一際返り血を浴びている人物が二人いた。
そうやら彼ら二人がリーダーのようだ。片方が黒の魔女に気付いた。
「待たせたな!!ロックガンバの戦の天才児、ハンジ、ここに参上だぜ。!!」
「同じく、私の名はガバン。」
そして反撃が始った
フォルテが苦戦しているところへハンジ。ガバンは向かった。
「−あなた達は?」
フォルテはいう。
「黒の魔女の命により、応援に駆けつけた。ロックガンバのハンジ反乱軍だ。」
ガバンは紳士のようにいう。
「おぉ、これは頼もしい。」
「伝令!!敵将カミュエル、投降とのことです。」
「なっ・・・・・。」
黒の魔女は焦った。カミュエルを迎えるか、否か。
「フォルテ将により、カミュエル、本陣へ向かっています。」
「・・・・・。」
「何!?カミュエルが反乱軍へ投降しただと!?」
ラクーツは怒鳴った。
「伝令!!敵反乱軍、総軍が迫っています!!」
「えぇい!!弓兵、構え!全て敵を射抜くのだ!!」
「で・・・・どうゆつもり?」
黒の魔女は静かに言う。
「・・・・・・、貴族が憎い。王族が憎い。」
静かに怒りを言うカミュエル。
「天使の羽を持つ死神カミュエルが、投降なんて、余程の理由があるのでしょう。戦闘
に出させてあげればいかがでしょう?」
フォルテはいった。
「だんまりじゃ仕方ない。戦闘に出させましょう。」
黒の魔女は母親のようだ。
「しかし、今後裏切らないこと。いいわねー?」
「いきましょう!!!」
「うぉぉぉおおおおぉぉぉおぉぉぉぉ!!!!!!」
カミュエルは自慢の双美刀を振り翳す。羽を持つ、カミュエルは弓兵にとって、絶好の
的だ。
「っく・・・・・。」
無数の弓がカミュエルの羽に刺さっていた。カミュエルは捨て身で双美刀の片方を投げ
た。
その刀がラクーツの喉を貫いた。
「敵総大将、ラクーツ・ミドガルド、討ち取ったー!!」
「うおぉぉぉぉぉ!!」
兵士たちの歓声が響き渡った。
「ここに我等の勝利を宣言する!!」
黒の魔女は叫んだ。
「ふん。あれが四魔女反乱軍か・・・。」
といったのは、リースだった。『望遠鏡』という変わったものを片手に。
「カミュエルが投降となると、結局,私と戦うということになりますね。」
長髪の男が言う。背中には羽が・・・・・・。
リースはフォルテを見た。
「・・・・・っま、、、まさか・・・・・・。」
#100/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 03/07/07 08:09 ( 42)
B級リング $フィン
★内容
菜緒ちゃんは2歳の女の子です。今日もきゃっきゃと家で騒いでいます。家の中で
は玩具は散らかし放題、お食事をすればお口やらお顔やらお手手に、ケチャップをつ
けまわっています。外に出ると、お馬を見に行きます。湖ではあひるのがーがーと遊
びます。そんな菜緒ちゃんが今日おかあさんのリングを見つけました。そしておかあ
さんの見てないところ口の中にいれて遊んでいるとごっくんごっくん飲んでしまいま
した。
おかあさんはしばらくしてリングがないのに気がつきました。これは大変、大事件
です。せっかくおとうさんがおかあさんとの結婚を祝ってくれたリングがないとおか
あさんはおとうさん折檻されて、あんなことやこんなことをされてとても痛い目にあ
います。でもいくらおかあさんが部屋を探してもリングはありません。それはそのは
ずです。リングはもう菜緒ちゃんのぽんぽんの中に入っていたのです。おかあさんは
いろいろ探しまわって後残すところは奈緒ちゃんのお腹の中だけということに気がつ
きました。楽しそうにしている菜緒ちゃんを見て、おかあさんはむらむらと疑問が沸
き起こりました。もしかしたらこの菜緒ちゃんが、おかあさんの幸せを奪おうとして
いるのかも? だから意地悪をして指輪を飲んだのではないか? そうおかあさんは
判断すると台所から包丁を持ってきて、ざくっざくっと菜緒ちゃんのお腹を切りまし
た。びゅびゅびゅーーーー菜緒ちゃんのお腹から血が勢いよく吹き出ます。いたああ
ああと菜緒ちゃんは泣き叫びます。
でもおかあさんはおとうさんから折檻されるのが怖いので、菜緒ちゃんが痛がるのに
心を鬼にしてざくざくざくと切り裂きました。ますますお腹から血が吹き出て、天井
にもぴゅっと血がつきました。後で洗えばいいわとおかあさんは考えました。おかあ
さんは最初胃袋を切ったけど出てきません。次に腸の中をざくざく切りました。菜緒
ちゃんはまだ小さいのによくものを食べるので黄色く脂肪が溜まっています。おかあ
さんは菜緒ちゃんもう中性脂肪が溜まっているから、太ってぶたぶたになりお嫁に行
けなくなるわ。菜緒ちゃんをダイエットさせましょうと思いました。そう考えて腸を
あけているとキラリと輝くものがありました。リングです。おとうさんからもらった
リングです。これでおかあさんはおとうさんから折檻されなくてすみます。おかあさ
んはほっとため息をつきました。菜緒ちゃんのお腹からリングを取り出したので、菜
緒ちゃんのお腹を縫い合わせることにしました。じゅじゅじゅ、菜緒ちゃんの身体に
ばい菌がはいるといけないので縫い針をライターで焼く音です。ぷちぷちぷち木綿糸
で、お腹を縫い合わせる音です。こうしておかあさんは菜緒ちゃんのお腹をもとどお
りにして、菜緒ちゃんをお部屋で遊ばしました。
午後7時おとうさんが帰ってきました。
「ぱぱーおかえり」
「あなたおかえりなさい」菜緒ちゃんとおかあさんがいつものように出迎えます。
「今日の夕食はなんだい?」おとうさんは背広を脱ぎながらおかあさんに聞きました。
「今日はいい腸が入ったので焼き肉よ」おかあさんは言いました。
「わーい腸だ腸だ」菜緒ちゃんは長く伸びた腸をいじって喜んでいます。
親子水入らずの平凡だけど幸せな家庭の食卓から腸が焼ける香ばしい匂いとじゅじゅ
じゅと音が聞こえます。いつまでもこんな幸せが続くといいなとおかあさんは右手の
薬指に輝くリングを見ながら思いました。
#105/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/07/31 23:25 ( 1)
七月の事件 永山
★内容 23/12/31 14:19 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。
#106/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 03/08/02 05:17 ( 17)
落選文書 $フィン
★内容
懸賞でコラムの応募があり、落選しちゃった文章です。母親の名前で出しました。ちょ
っと嘘ついています。
去年の夏の思い出
朝よく晴れていたので、おとなしくしているのですよと小学校と幼稚園にかよう2人
の子供を置いて美容院に行きました。美容院は混んでいて、なかなか終わりません。
終わった時にはあんなに晴れていた空がどんより黒い雲に覆れています。自転車に乗っ
て帰るとちゅう、雲行きはますます怪しくなり、近くでゴロゴロとなり始め、ぴかっと
光ったらドーンと雷が落ち、大粒の雨が降り始めました。子供たちに電話をかけると雷
が鳴って怖いのと私がなかなか帰ってこないので、二人ともわぁわぁ泣いています。私
はすぐ帰るからと安心させて家にいそぎました。服もセットした髪も雨でびしょびしょ
になって帰宅すると、なんと小学生になるおねえちゃんが妹におにぎりをつくって食べ
させているところでした。玄関さきで二人とも服をごはんだらけにして抱き着いてきま
した。
一年たった今でも上の子はあの時は怖かった。そしておかあさんが帰ってきたときは
とても嬉しかったといっています。親子にとっては忘れられない去年の夏の思い出で
す。
#107/569 ●短編
★タイトル (dan ) 03/08/02 06:51 ( 1)
test
★内容
test
#108/569 ●短編
★タイトル (fir ) 03/08/04 01:12 (249)
聖堂騎士の独白
★内容
ここはある村の教会。
最近赴任してきた神父が雑務をこなしている。
彼は190cm近い背のがっしりした、痩せて引き締まった体の男だった。
黒髪をざんばらに乱している。
顔は精悍で強顔だがハンサムだ。
黒い司祭服を着ている。
こんこん
そこにノックが。
「どうぞ」
神父が言った。
「ああ神父さん。ちょっと話してもいいかね?」
農民らしい芋くさい男が数人入ってきた。
「どうぞ。なにかご用ですか」
その中の老人が言った。
「あんたぁ…最近このへんで何かかぎまわっているらしいが…何を調べているのかね
?」
老練した口調だ。
「ああ…それですか。それは…」
神父が口篭もる。
「なんだね?はっきり言ってみなさい」
老人が促す。
「お前等が化物かどうかってことだ」
その場の空気が一変した。
白けたものではなく、戦場のそれに。
「どこから聞いた?ヴァチカンの犬が。わしらは輸血パックしか飲んでないぞ?」
老人が姿勢を低くし、牙をむき出して言った。
吸血鬼(ヴァンパイア)だ。
「嘘をつけ。じゃあこの穴だらけの死体はなんだ?何かのジョークか?」
神父が懐から写真を取り出して言った。
「くくっばれては仕方ない。死んでもらう」
5人が同時に飛び掛かった。
「もし主を愛さない者があれば、呪われよ。
マラナ・タ(われらが主よ、来たりませ)」
神父はそう言うと背中に隠した大剣を抜いた。
「それ」は青く光っていて両刃の刀身には聖句が刻まれていた。
そこに若い吸血鬼が飛びかかってくる。
「聖なる、聖なる、聖なるかな。三つにいまして 一つなる
神の御名をば 朝まだ来起き出でてこそ ほめまつれ」
彼は袈裟懸けに振り上げると吸血鬼を真っ二つにした。
ドス黒い内臓が湯気を上げて神父に降りかかる。
「聖なる、聖なる、聖なるかな神の御前(みまえ)に 聖徒らも
冠を捨てて 臥し拝み御使い達も 御名をほむ」
遅れて深紅色の血が黒い司祭服に染み込む。
「うおおっ」
さらに吸血鬼Bが鉄パイプを持ってめちゃくちゃに殴りかかってくる。
神父は大剣で振り下ろされたパイプを受け止めるとそのまま刃を滑らせて吸血鬼Bの頭
を
輪切りにした。脳が脳漿ソースのムースになって床に落ちる。
「聖なる、聖なる、聖なるかな。罪ある目には 見えねども
御慈(みいつく)しみの 満ち足れる神の栄えぞ 類なき」
神父は吸血鬼の穢れた脳みそを頭蓋骨共々踏み砕くと吸血鬼Cの胸を串刺しにした。
「ブぼえばッ」
まるで水面に石を落としたかのように血が吹き出て司祭服を濡らし
神父の顔に飛沫が飛び散る。
「うッうわあああああッ」
パニックに陥った吸血鬼Dがマシンガン「イングラム」を連射する。
神父は弾丸をその身に受けながらいささかも勢いを緩めること無くすみやかに
吸血鬼の首を跳ね飛ばした。
「聖なる、聖なる、聖なるかな。御手(みて)の業(わざ)なる 者みなは
三つにいまして 一つなる神の大御名 ほめまつらん」
びじゅーーーーーっ
まだ立っている吸血鬼の首の断面から血が噴水のように吹き出て神父にかかる。
一拍遅れて首が落ちた。
どじゃり
「くっ…くくっくっく。やるのう若造。だがわしは一筋縄にはいかんぞ」
老人が言った。
老人が呪文を唱えると床から黒い大きな犬が出てきた。
「わが魔犬は未だ敗れたことがないぞ」
「御託はそれだけか?言い残すことは?」
だが神父はあくまで冷酷だった。
「行け!」
なんのひねりもない言葉で狗がかかってきた。
「神は我がやぐら 我が強き盾苦しめるときの 近き助けぞ
おのが力 おのが知恵を 頼みとする陰府(よみ)の長も など恐るべき」
神父はひらりと躱すと剣を振った。
「ゴルル」
だが狗はジャンプして避ける。
「ギャルバッ」
狗の頭が巨大な刀になって神父を突き刺そうとする。
ギン!
神父は剣で弾いて接近していく。
「いかに強くとも いかでか頼まんやがては朽つべき 人の力を
我とともに 戦い給う イエスこそ万軍の主なる 天つ大神」
神父が大剣を振り降ろそうとしたその時!
バガン
狗から刺が飛んで神父に刺さった。
「ぐっ!」
体中に杭のような刺さ刺さる神父。
「どうじゃ!どうじゃ!とどめを刺せ!」
狗が飛びかかってくる。
神父の負けか?!
「我に求めよ!汝に諸々の国を嗣業として与え地の果てを汝の物として与えん!!」
ひときわ強く神父が叫ぶと
空間から光でできた剣が無数に現われ犬を刺し貫いた。
「ギャン!!」
使い魔の犬は哀れにも消滅していく。
「塵にすぎないお前等は塵に帰る」
「くっ…逃げろ!!」
老吸血鬼が逃げだそうとしたその時!
ブォオオオン!!
別方向から赤いチェーンソーが飛んで来て吸血鬼の胸に突き刺さった。
「何ッ!?」
これには神父も驚いた。
「こんにちは。まいどありがとうございます。死体屋です」
見ると教会の二階に人影が。
「お前は何者だ」
神父が尋ねる。
「ですから死体屋です。営業にきました。名前は屍(しかばね)勘九郎といいます」
見ると彼は作業員が被るような鍔付きの帽子に肉屋が使うような緑色のエプロンをし
て、
髪をオールバックに束ね、スペードのように一本垂らしていた。
中肉中背で目は常に笑みを浮かべている。
なかなかのハンサムだ。
「死体使い(ネクロマンサー)……」
神父が言った。
「それも仕事の一つです。吸血鬼の死体を取りにきました」
彼が腕を一振りするとゾンビが入ってきて死体を持っていった。
「そうか。消えろ」
鋭い目で勘九郎を見る。
「では、今後ともご贔屓に。血塗れの神父、ジェリコ=グローリーさん」
「……」
勘九郎はたたたっと走って消えていった。
「妙な奴と縁ができたな……」
血塗れの神父は独白すると懺悔の聖句を唱え始めた。
#111/569 ●短編
★タイトル (fir ) 03/08/08 00:57 (191)
殺人鬼神父
★内容
殺人鬼神父
ここ、イタリアのプリンシ村では神父が礼拝を終えて皆に挨拶していた。
神父の身長は210cm、引き締まった大柄な男で、
痩せて角張った顔に顎鬚をわずかに生やした男だった。
目つきは異様に鋭く、常人でない気配を感じさせる。
「神父さん、またね」
「ええ、またね」
「あんたもうちょっと愛想よくしたほうがええぞ。
あんたが善い人なのは皆知っとるがのう」
「はい、心がけます」
「バイバーイ」
「さようなら」
教会の祈りが終わり、皆が帰っていく。
「さて…始めるか。クククククッ」
神父の顔には先程まで信者に向けていたものとはかけ離れた邪悪な笑みが張り付いてい
た。
「ああ…ああああああ……」
ここはそこから100km離れた悪魔寺院。
連れ去れってきた娘数人を陵辱中だ。
無論、本物の悪魔崇拝は生け贄は処女を使わなければならず、
ここは只端に反吐のような欲望を充たしたいカス共が集っただけの
悪魔崇拝者からも唾棄される営利組織だった。
娘たちは卑猥な機具で処女を奪われ、ありとあらゆる拷問と陵辱を加えられ虫の息だ。
具体的に言うと、まず単純な強姦、四肢切断、改造
調教、さらには性器を釘バットで抉る、等々。
汚されきってあとはもう変態の糞っタレ共が阿呆みたいな乱痴気騒ぎの生け贄に使う
くらいしか使い道はないくらいだった。
そして今まさにその乱痴気騒ぎの最中である。
体中に顔にまで男根を生やされた女の子が尿道から何人もの男に挿入されている。
その隣では糞袋にされた顔だけもとの美少女のぶよぶよの女がナイフで切り裂かれてい
る。
手を何本も増やされ、それで男共に奉仕させられている女が
かすかに呟いた。
「た…す…け……て」
それに答えるかのように糞溜めの建物内に朗々たる声が響き渡った。
「求めよ。されば与えられん。哀れにも堕とされた迷える神の子羊よ。
今御手により救いを……」
その声と共に群がる男たちがカマイタチに裂かれたようにバラバラになった。
「な、なんだこれは!?」
悪魔教徒の一人がさけんだ。
ドン!
そこに天井をくり貫いて神父がおちてきた。
「我は神の代理人、神罰の地上代行者。我らが使命は神の反逆者を速やかに塵一つなく
抹殺すること―――AMEN」
神父が静かに、だがきっぱりと口上を述べた。
「くぉの糞ったらぁ!やっちまえい」
ありきたりな口上で悪魔崇拝者共が飛びかかってきた。
「うおりゃあああああっ」
儀式用の三つ又の槍で男が突きを繰り出してくる。
「聖なる、聖なる、聖なるかな三つにいまして 一つなる
神の御名(みな)をば 朝まだ来(き)起き出(い)でてこそ ほめまつれ」
彼は讃美歌を口ずさむと懐からM93R出して的確に三点バーストでブッ放した。
「うぼえばァッ」
頭に拳一つ分の大穴が開き、首が千切れ飛び、心臓が塵に滅却された。
聖なる銀の弾頭。
仏教系退魔組織闇高野が作る超破魔弾と対を成す
ヴァチカンの必殺退魔弾だ。
ありとあらゆるものが塵に帰る。
聖書の言葉通り「塵は塵に、灰は灰に」だ。
「ちぃいいいッ」
用心深く銃をもっている男たちが銃を抜き、銃撃を放つ。
「聖なる、聖なる、聖なるかな神の御前(みまえ)に 聖徒らも
冠を捨てて 臥(ふ)し拝み御使い達も 御名をほむ」
神父は銃弾を魔性の迅さで避けると銃をしまい、懐から剣を取り出した。
それは1mほどで銀色の鉄板を十字架形に加工したものに刃をつけたものだった。
穴あき包丁のように穴が規則正しく並んでいる。
「フハハハハハッ消え去れ邪教徒!」
そう言うと彼は両手に剣を持って走り出した。
「AMEN(エイメン)!AMEN!!AMEN!!!」
一瞬で神父は邪教徒を頭から真っ二つにし、
胴体を輪切りにし、身体をバラバラに分解した。
「何なんだお前はぁ!!」
パニックになって銃を乱射する邪教徒に神速で迫ると目にも止まらない迅さで
腕を切り落した。
さらに0、000000001秒後に胴を切り落し、頭を粉砕する。
「おお、聖なる、聖なる、聖なるかな
罪ある目には 見えねども
御慈(みいつく)しみの 満ち足れる
神の栄えぞ 類(たぐい)なき!フハハハハハッこれが我らが神の御力だ!」
神父が感極まったように諸手を挙げて迸し叫ぶ。
「こっちだ!ガード急げぇ!わざわざこのために高い金払ってるんだぞ!」
警備員がかけつける。
「調子に乗るなァ!!」
グレネードが発射された
「くだらん!くだらんぞ邪教徒ォ!」
神父は爆発する前に弾頭をゼリーでも斬るかのようにスライスし、ついでに射手も
輪切りにした。
さらに立ちすくむ男を返す刀で袈裟懸け斬りにして、隣にいた間抜けな中年男をX字に
斬りつけ、さらに頭から真っ二つにした。
内蔵が飛び散り、血が吹出し眼球が飛んだ。
「AMEN!AMEN!AMENンンッ!!!!!フハハハハハッ」
眼球が落ちる前に神父は女司祭の胸に両方の剣を突き刺し、メタメタに斬りつけた。
「げ…」
「っ…」
「うぎゃあああああああっ」
一旦足を止めて振り返った神父がようやく落ちてきた眼球を踏み潰す。
「これでお仕舞か?邪教徒。まったく楽しむほどの手応えもない」
最後に残った全裸の肥え太った中年男と貧相な婆にゆっくりと近づく。
「ななななななんなんだお前は…わしは、わしは今日始めて参加しただけなのに…
ほ、ほんの出来心で…違うんだ…わしはそんなこと…」
神父が表情を変えずに近づく。
「立てよ、いざ立て 主の兵(つわもの)見ずや、御旗(みはた)の ひるがえるを
すべての仇(あだ)を 滅ぼすまで君は先立ち 行かせ給わん」
ゆっくりとゆうっっっっくりと近づく。まるで優雅な旋律を楽しむかのように。
「い、いやだ!まだ全然楽しんでないのに!高い入会金を払ってようやく女と…」
神父の目がぎらりと光る。
「あああ、ああああああああああ……」
男は失禁した。
「みっともないよ。最後くらい潔くしたらどうだい」
老婆が呟いた。
その瞬間神父の手が一瞬ブレた。
そして後ろを向く神父。
「え……」
呆然とする男。
カツ、カツ、カツ
神父は犠牲者の女達の元へと歩み寄っていく。
「たた…助かった?」
自分の体を見てみると傷一つない。
「助かった!助かったぞ!ああ、もうこんなことはしない。真面目に生きよう!」
そう言った瞬間だった。
ミラ……
指が落ちた。腕が落ちた。足が動かなくなった。
「あ…?」
ゆっくりと胴体が輪切りになっていく。
「あああ、ああああああああっ…いやだ!いやだぁ!!」
ピシ
眼球が5つにスライスされ、脳が水平に切られ、首が落ちた。
血しぶきが首からびゅくん!びゅくん!と出た瞬間彼の体は185分解した。
老婆が最後の力を振り絞って神父に向かって呪文を吐き掛けようと口を開いた。
ニィ
神父が首だけ振り向く。
ガガガガガガガ!!
老婆は一瞬で何本もの剣に貫かれ、壁に張り付けられた。
「う…」
憎悪と苦痛と悪意の視線を投げかけたそのとき。
ヒュヒュヒュヒュヒュヒュ!
ガン!
ブーメランのように飛んだ剣が老婆の目から上を輪切りにした。
「ぎえええええええええええええええええええええええっえぐっ」
さらに首にも剣が突き刺さり、老婆は黙った。
「フハハハハハハハハハッ!フハーッハッハッハッハッハッハ!!」
神父は狂気の表情で仰け反って大笑いするフッと聖職者の顔になって
しゃがんで怪物と化した女の子に話し掛けた。
「もう大丈夫ですよ。救いの手はきたのです」
神父は慈愛に満ちた表情で語る。
「ウァ…コ…ロ…シテ」
「コロシテ…モウイヤダ…」
「ヨゴレテシマッタ…モウ…イキラレナイ……」
女の子たちは口々に死を望む言葉を発する。
「この身体なら我らヴァチカンが治します。心ならいくらでも取返しはつきます。
私が責任を持ってあなた方を治します。
ですから死にたいなどとはおっしゃらないでください」
神父は言葉を尽くして語った。
「モウ…イキテイタクナイ……オネガイ…コロシテ……」
絞り出すように言うフリークたち。
彼は殺人鬼であるが故に、怪物と化した女たちの苦しみは痛いほどわかるのだ。
これから先、永劫に苦しみつづけ生きることを思えば…
彼は神父の、キリスト者の掟を破る覚悟をした。
「わかりました。神よ、迷える子羊を今、あなたの御元へ……」
そう言うと低く唱える。
「勲(いさお)なき我を 血をもて贖いイェス招き給う み許(もと)に我ゆく
罪科の汚れ 洗うに由なしイェス清め給う み許に我ゆく」
天上から青い厳かな光が哀れなフリークに降り注ぐ。
「疑いの波も 恐れの嵐もイェス鎮め給う み許に我ゆく
心の痛手に 悩めるこの身をイェス癒し給う み許に我ゆく」
フリーク達の表情が安らかなものに変わっていく。
ゆっくりと力が抜け…
「頼りゆく者に 救いと命をイェス誓い給う み許に我ゆく
勲なき我を かくまで憐れみイェス愛し給う み許に我ゆく」
天使が現われ、彼女らの魂を天に誘う。
穢れてしまった現世の肉体を離れ、神の国へ……
天使は海洋生物と機械を足して2で割ったものに羽根をつけたような感じの生物だっ
た。
神父は静かに奇跡を成し遂げた。
神父は血まみれの悪魔寺院を後にした……
「神父様、こんにちはー」
「こんにちはー」
村の子供たちが神父に挨拶する。
「こんにちは。気をつけて遊ぶんですよ」
邪気の無い顔で神父が微笑んだ。
「はーい」
「はーい」
神父のケイタイが鳴った。
「はい、私です。…はい……わかりました。すぐ行きます」
神父の顔が、猟奇的なものになっていく。
彼の名はグローリアス・ヴィクター。
悪魔と戦うために組織されたヴァチカンの退魔組織、
新十字軍の対化物用戦闘要員だ。
#114/569 ●短編
★タイトル (GVB ) 03/08/31 16:41 ( 39)
大型営業小説 「電話口の向こうで」 佐野祭
★内容
はじめのうちは、なにも鳴ってないのに携帯電話を取り出していきなりしゃべ
りだす人を見ると違和感があったものである。マナーモードにする人が増えてき
て、それもごく当たり前の光景になった。
だからそのとき、電車の中で隣の席の男がいきなりしゃべりだしても特になに
も思わなかった。
「はい、松本です。……あどうも、いつもお世話になっております。先日はどう
もありがとうございました。……いえいえ、とんでもありません。またよろしく
お願いします。
はい? ……はい。……はい。……ご注文は三十個でしたよね。……はい。…
…力道山が。……調べてこちらからご連絡差し上げます。
……はい。……そうなんです。あそこは最初ドイツ製を使ってたんですけど、も
うピョンピョンはねちゃって大変で。
今度のはすごいですよ。なにしろ海上自衛隊で使われてますから。……あとは
任天堂ですよね。……ほら、ああいうところって、桐のカス札に書いてあるじゃ
ないですか。……それどうもね、ドイツ製のやつだとうまくつながらないみたい
なんですよ。……司馬遼太郎ですからね。
で、16ミリ28ミリ32ミリとあるんですけど、……ニュース23に出てる。草野満
代ですか? ……ああ、小倉弘子。……じゃあ、28ミリでOKですね。このタイ
プはドイツ製にはないんですよ」
何の話をしているのか、私は妙に知りたくなった。男がどこぞの会社の営業で
お客さんの問合せに答えている、くらいはわかるのだが。
「はい?……そうそう。これは昔愛知県図書館さんに納めさせてもらったものな
んです。……ええ、この粘りがドイツ製だとうまくでないみたいで。これがまあ
ふわふわふわふわして気持ちいいのなんのって。……油ですね、それは。油です
よ。……よくドイツ製でそうなりますよ。荒俣宏も書いてましたよ。
……それはのりしろが足りないんだと思います。……唐招提寺がそうだったんで
す。……ドイツ製とうちのではのりしろの位置が逆みたいなんですよ。やっぱあ
れって文化の違いですかね。
ええ。……人によって好みが違うんでなんとも言えないんですが、昔秋田県大
会で優勝したそうですよ。……すごいでしょ。……決勝の相手がドイツ製だった
んですけどね。
亀です。……そう、一番大きいのだとそのくらいですね。……ああ、それはド
イツ製のやつでしょ。……いえ、司馬遼太郎ですね。
……いえいえ、とんでもありません。……ではまたこちらからご連絡差し上げま
す。……いえこちらこそ。……失礼します」
男は電話を切ると無表情になった。
私はとっても何の話だか聞いてみたかったのだが、さすがに見ず知らずの人に
は聞けなかった。まあいい。とりあえずドイツ製より優れていることはわかった
のだし。
#115/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/09/24 21:52 (255)
九月の事件 永山
★内容
満月の夜だった。
夜は明るかったが、布施典男の心は暗く、沈んでいた。歩道橋の真ん中辺り
で、彼は欄干に両腕を乗せ、立ち尽くしていた。煙草を切らした今、口から出
るのはため息ばかりで、愚痴すらこぼさなくなっていた。小太りだが頬はこけ、
目の下に隈のある五十過ぎの男性が、陰鬱に背を丸めている姿は、街の賑わい
から浮いている。身に着けた背広の上下は、夜目にもくたびれて映ることだろ
う。すぐ近くにある繁華街に出入りする人々は、布施を避けて歩道橋を渡って
いく。
東京で布施の営む町工場は、昨今の不況の波に飲み込まれつつあった。金策
のために名古屋まで旧友を訪ねたが、誰からも色好い返事を貰えなかった。火
曜までにまとまった額を用意できないと、工場を手放さねばならない。
成算がなかった訳ではない。むしろ、自信を持って出掛けた。ある旧友に対
して、切り札を持っていたからだ。できれば使いたくない切り札だったから、
その旧友と会うのは最後にし、他の知り合いに当たったが、金策はどうにもな
らず、致し方なく切り札を切った。
しかし、切り札は切り札ではなかった。布施が知らない内に、朽ち果ててい
た。時間の経過が相手の地位を押し上げるとともに、切り札のネタ――ある事
件を時効と化していた。確実な物的証拠を持たない布施にとって、相手を下手
に刺激する行為は、己の首を絞めかねなかった。元来、気の小さい布施にでき
るのは、引き下がることだけだった。
懐には、その相手から渡された飲み代だけが残っていた。が、憂さ晴らしす
る気にすらなれない。明日の日曜、競馬場にでも足を運んで、大逆転を狙おう
かという考えが、頭の片隅に一瞬だけ浮かんだ。だが、ギャンブルとは無縁の
半生を送ってきた堅実派の彼にとって、勝ち目が薄すぎる。手を出しても勝算
が全くないとあっては、その気になれない。せめて、工場を救う――いや延命
できるだけの金でいい、手に入る確率が三十パーセントあれば、やってみるの
だが……。
大きなため息をまたついた布施の耳に、若そうな女性の声が右方向から不意
に入ってきたのは、このときだった。
「そうなの。宝くじ、あたってん」
はっきり聞こえた。思わず、身体ごと振り返りそうになった。だが、思いと
どまり、肩越しにしておく。
九月、割と涼しげな夜だからか、コートを羽織った女性が、一人で歩いてい
る。携帯電話で話をしているせいか、元々そうなのか、随分とゆっくりした足
取りだ。人工光源がないので、年齢の見当はつかない。それよりも布施にとっ
て大事なのは……他に行き交う人々はいないこと。九時過ぎの時間帯で、これ
は珍しいのかそうでないのか、名古屋出身でない布施には判断できない。
「うん、うん。会社の人から、お祝い――え? いくらって、賞金? 三千万
円よ」
三千万! それだけあれば当面は凌げる! いや、それどころか、新しい設
備だって入れられる!
布施は心中で叫んでいた。満月の光が、歪んだ彼の横顔を照らす。
「え? あははは、そうね。楽しみに。じゃあ、また」
通話が終わり、電源も切られた。
瞬間的な静寂。
そして空には、人を狂わせるという満月。サイズ、色、引力……申し分ない。
布施は咄嗟の思い付きを行動に移した。月に背中を押された気がした。
「満月の夜でしたよね……」
どうせなら仕事中に来てほしかったと、呑気に構えていた長月美砂だったが、
刑事にアリバイを尋ねられる段になって、不安に駆られた。ピアスに触れなが
ら、刑事が口にした日付のことを思い起こそうとする。
「あの日はいつも通り定時に終えて、ここを出て……」
「お一人で、ですか」
強持ての割に、物腰は丁寧な刑事。長月の気を楽にしてやろうと、若干の無
理をしているのかもしれない。効果のほどは怪しかったが。
「ええ。いえ、退社したときは、何人か一緒でしたけれども、じきに一人に。
帰る方角が違うものですから、地下鉄に乗った時点で、もう、私一人でした。
特別な用事がない限り、いつもこんな感じ」
「ふむ。続きをどうぞ」
「自宅マンションに最寄りの駅で降りたのが、いつものように五時四十分ぐら
いで、それから……駅前にあるコンビニで、ストッキングとごまのゼリーを買
って、お弁当も買いかけたんですけど、思い直して、駅から自宅に向かって歩
き出して、十分ほどしたところにあるKストアって店で、野菜とか卵とかパス
タとか、とにかく食料品ばかりを買って、帰りました。六時半になるかならな
いかの時刻だったと思います」
「重くはありませんでしたか」
「は? ああ、買い物袋。ええ、慣れてるので」
「で、そのあと、どうされてました?」
「どうって、ずっと家にいましたけど」
「翌朝まで? 一歩も外に出ず?」
「……近所付き合いは特にないし、彼氏がいませんので」
わざと卑屈さを装って答えた長月だが、相手がどう受け止めたかは判断でき
なかった。表情を変えることなく、次の問い掛けを発してくる。
「じゃあ、あなたが在宅だったと証明してくれる人、誰かいますか」
「ですから、近所付き合いはないと」
「電話でもいいし、宅配業者でもかまわんのですよ」
「……宅配はなかったような。電話はあったと思うけど、私、携帯電話なんで
すよね。これって、自宅にいた証明にならないんでしょう?」
「原則として、そうなります。いやあ、弱りましたな」
たいして弱った風に見えないまま、刑事は側頭部に片方の手のひらを当てた。
「被害者は当夜、母親と電話していたんで、午後九時十分頃までは健在だった
のは明らかだし……まあ、いいか。話を換えますが、長月さんは亡くなった久
我恒子さんのことを、どうお思いでしたか」
今度は動機調べなの、と警戒を強める。しかし、個人的に呼ばれて事情を聴
かれているのだから、すでに警察は何かを掴んでいるに違いない。もしかする
と、さっきのアリバイ調べも、捜査結果の確認だったのかも……。
長月は下手に隠すのをやめ、オブラートに包んだ言い方を探した。
「そりが合わないというか、性格が正反対っていうのはありました。彼女、田
舎の出でしょ。私は元々、東京の生まれだから……」
「久我さんは確か、石川の出身でしたな。しかし、田舎と断言するのはどうも
ね。私は東北の方なんですが、やはり田舎ですか?」
「い、いえ。悪い意味ではなく、感覚が違うことを言いたいだけ」
言葉を選んだつもりが、これでは墓穴を掘りかねない。殺してないのだから
怯える必要はないのに、疑われるのを嫌って萎縮してしまう。
「こちらの調べでは、それだけじゃないようですが」
刑事が相変わらず馬鹿丁寧な口調で言った。表情からは、笑みの欠片すら消
えている。やっぱり、と長月は気持ち、首をすくめた。
「営業の宇佐見重悟さんとお付き合いをしていましたね? 彼はあなたと別れ
たあと、久我さんと交際を持つようになった」
「あとのことは詳しく知りませんけど、半年ぐらい前まで宇佐見さんと付き合
ってたのは認めます。でも、きちんと終わらせたことですから、久我さんや宇
佐見さんを恨んではいません」
「あなたには今、恋人の類はおらず、愚痴をこぼすのを耳にした同僚の方がた
くさんいます」
「ポーズよ、ポーズ」
急に鬱陶しくなって、手で追い払う仕種を交えて応じる長月。胸の内では、
誰が喋ったのよと憤慨しながら。
「仮に否定したって、強がっちゃってとか何とか、結局は未練があることにさ
れるんです。いちいち反論するのも面倒だから、そういうことにしておいたの」
「あなたの本心は分からないから、我々としては動機があると見なさざるを得
ません」
「だったら、宇佐見さんにも動機があることになるんじゃなくて? 付き合っ
ていれば、何か問題が出て来るもんでしょうから」
「宇佐見さんは当日の昼、得意先からの個人的な貰い物の宝くじを、久我さん
にあげてから、福岡へ泊まり掛けの出張に行かれてて、完全なアリバイがある
んですよ」
そのことなら、長月も噂に聞いて知っている。敢えて口にしたのは、話の流
れに過ぎない。
「長月さんは、他に動機を持つ人物の心当たり、ありませんか」
「……」
でたらめを答えてやろうかという思いが一瞬、頭の中をよぎったが、自重す
る。すぐにばれる嘘をついても、マイナスになるだけ。その代わり、別の点を
思い起こしたので、利用してみることにした。
「会社で噂になっているんですけど、宇佐見さんが久我さんにあげた宝くじ、
なくなってたそうですね。財布のお金には手を触れた形跡がなく、くじだけが
なくなっていたと」
刑事は渋い顔を覗かせたが、じきに取り繕った。
「よくご存知で。あの部長さんに話したのが、もう広まったようですな。それ
とも、宇佐見さんご本人の口からかな」
「宇佐見さんには会ってません」
これ以上、痛くもない腹を探られてはかなわない。長月は硬い調子できっぱ
り言った。刑事は意に介さぬ風に、平板な口ぶりで続けた。
「宝くじが動機になったと仰りたいのですか、長月さんは」
「そういうことも皆無じゃないでしょう?」
「今回の事件には当てはまらないでしょうな。宝くじ十枚分。三千円出せば買
えるんですよ。そんな物を狙って人殺しなんて、馬鹿げてる」
「高額当選していたら、値打ちは全然違ってくる……」
「肝心な点をご存知ないとみえる。宇佐見さんが久我さんにプレゼントした宝
くじの当選発表は、まだ先です。あと三日か四日だったか。もしもその宝くじ
が一等当選するにしても、予知能力の持ち主でもない限り、犯行当日の段階で、
当選しているかどうかは分かりっこない」
肩をすくめる刑事だが、強持てと猪首のおかげで全く様になってない。
「ともかく、長月さん。もう少し詳しく話を聞きたいので、ちょっとご足労願
えませんかね。参考人ということで」
「……」
長月は泥沼にはまりこんで行く錯覚にとらわれた。思わず、足下を強く踏み
締めた。
どうしてだ?
布施の身体の至る所を、同じ疑問がさっきから駆け回っていた。
犯行の翌日、彼は、ビジネスホテルから一番近い宝くじ売り場に、換金に行
った。もちろん、高額当選金は売場ではなく、銀行に出向かねばならないこと
ぐらい知っている。ただ、当選していることを確認しておきたかったのだ。
ところが、売場の中年女性は、簡単なチェックのあと、布施の差し出した宝
くじ十枚を突き返してきた。
「これ、発表はまだですよ」
優しげだが小馬鹿にしたような口調で告げる。
布施はしばらく呆然としていたが、頭を振ると、そんなはずはないと食い下
がった。だが、相手から、「くじに書いてあるでしょ、抽選日」と指摘され、
事実そうであることを己の目で確かめると、すごすごと退散するしかなかった。
何でなんだ? 何故、あの女は、三千万円が当たったと電話で喋っていたん
だ? 他にくじを身に着けてはいなかった。これに間違いないはずだ。なのに、
何故……。
何のために罪を犯したのか、分からなくなる。無論、殺す気なんて髪の毛の
先ほどもなかった。宝くじを奪うために必死になって、女の口を塞いで押さえ
付けていたら、死んでしまったのだ。そうまでして奪った宝くじが、当選発表
前の物だった。狐につままれた心地である。たとえ宝くじが高額当選したとし
ても、抽選を待つ余裕が布施にはない。ほんの数日、遅いのだ。発表される頃
には、工場は人手に渡ってしまっているだろう。
どうしてだ? どうしてこんなことをしてしまったのだ、自分は?
疑問符の意味するところは、やがて変化を見せた。
行方不明になっていた東京の工場主が、金策に出向いた先の中部地方N川流
域で遺体となって見つかった。死後数日が経っており、遺書はなかったが、金
策に失敗し、工場経営に絶望しての自殺と見られる――そんなニュースが小さ
く報じられたのと同じ日、宇佐見重吾は社屋の一階ロビーにて、何度目かの刑
事の来訪に応対していた。
「別れた相手と言っても、悪感情はないんですよ」
刑事からの質問が終わったところで、宇佐見は元恋人への気遣いを示した。
長月美砂は連日、事情聴取を受けているという。
「だから、美砂が恒子をどうこうするなんて、とても信じられない。僕にとっ
ては、宝くじが動機と考えた方がまだしも、ですよ」
「しかしですな、宇佐見さん。発表前の宝くじではどうにもこうにも、殺人の
動機にしては薄すぎる」
「じゃあ、美砂が犯人だったとしましょう。どうして彼女は、宝くじを持ち去
ったんですかね、刑事さん?」
「当人は何にも語らないので推測するほかありませんが、行きがけの駄賃とば
かりに抜き取ったとかね」
「だったら、現金を持っていけばいい。財布の現金は手つかずだったんでしょ
う? 大した金額ではなかったとは言え」
「うむ、まあ、あるいは、あなたから久我さんへのプレゼントという意味で、
許せなかったのかもしれませんな。奪い取ってやって、せいせいしたといった
感覚なんじゃないかと考えても、無理はありますまい」
「そういう粘着質な女じゃないと思ってたんだが……うーん」
「やけに拘りますね。恋人の久我さんを失ったから、前の恋人とよりを戻そう
という算段じゃないでしょうな?」
「そいつはいくら何でも失敬だな、刑事さん」
「冗談半分ですよ、ご勘弁を。だが、宇佐見さんがあまりにも長月美砂を庇お
うとするから、つい、穿った見方をしてしまう。殊に、宝くじ動機説に固執す
るのは奇異に映るんですがねえ」
「実は例のくじの番号を控えてましてね。万が一、当たったときに、恒子に威
張ってやろうと思って」
「ほう。初耳だ。で、当たっていたとでも?」
「ええ。一等じゃなかったものの、百万が」
メモと新聞の切り抜きを取り出しながら、宇佐見は言った。刑事の顔色が若
干、変わる。メモ用紙にある数字と切り抜き記事の番号とを突き合わせ、一致
していることを認めると、刑事は唸った。
「驚いた。今の世の中、百万でできることなんてたかが知れているが、それで
も、殺人の動機にはなる。……だが、事件当日に知ることはできなかった訳で、
偶然としか思えん」
「抽選そのものに不正があったのかもしれない。殺人犯はそっち方面の関係者
かもしれませんよ」
「宇佐見さん、あなたねえ、それは飛躍が過ぎる」
「美砂が犯人とは思えませんのでね」
「……そのメモ、本当になくなったくじの番号なんですか?」
宇佐見の手に戻ったメモを指差す刑事。
「どういう意味です、そりゃあ?」
「新聞に当選番号が載ったあと、あなたが急いで書いたとも考えられなくはな
い。長月美砂を助けるために」
「そんな馬鹿な真似、してませんよ。まるで、私と美砂が共謀して、恒子を亡
き者にしたみたいに聞こえる」
「事件発覚の日に、そのメモを見せてくれりゃ、余計な疑いを招かずに済んだ
んですがね」
憤慨した宇佐見に対し、刑事は嫌味を交えつつも冷静に返す。
「とにもかくにも、宝くじが当たることを殺人犯が知っていたと証明できない
限り、宇佐見さんの説は認められない」
「しかし、最後の電話で、恒子が実家のお母さんと話をしたとき、宝くじの話
題も出たそうじゃないですか。ひょっとして、その通話を漏れ聞いた何者かが、
よからぬ考えを起こして……あ! 犯人が、当たっていると勘違いした場合は
どうなります?」
突然の閃き。宇佐見はゆっくりと喋った。自らの考えを確かめるかのように、
ゆっくりと。もしもこれが的を射ているのなら、宇佐見自身にも事件の責任の
欠片があると言えるのかもしれない……。
刑事は怪訝そうに片方の眉を上げた。
「ん?」
「恒子の持っていた宝くじを、犯人は高額当選した物だと思い込んだとしたら、
私の説も無視できなくなるでしょう?」
身を乗り出す宇佐見に、刑事は首を傾げた。
「まあ、そうなりますが、そんな思い込みが生じる余地がありますかな」
「あると思いますね。恒子は石川の出身なんです」
「知っています。それが何か」
「石川の辺りでは、『もらう』ことを『あたる』と表現するんですよ」
「もらうことをあたる……何ですと?」
困惑が見る見るうちに広がった刑事の表情を目の当たりにし、宇佐見は満足
の苦笑を浮かべた。
「やはり、そういう反応を示しますねえ。私が恒子から初めて聞いたときも、
同じでした。彼女から小学校時代の思い出を聞かされた際、たまに、『お小遣
いがあたった』とか『通知表、あたるときの気分が嫌だった』なんて妙な言い
回しが出て来る。気になって尋ねたんです。そうしたら彼女、恥ずかしそうに、
自分が生まれたところではもらうことをあたると言うのよ、って」
不意に目の奥が熱くなって、苦笑がかき消える。
俺のせいだ、とつぶやいた。
――終
#116/569 ●短編
★タイトル (yiu ) 03/10/11 10:19 ( 25)
彼が見たもの 滝ノ宇治 雷華
★内容
UMAらしきものを私がみたのは、今から2〜3年前。
当時私は英会話塾に通っていました。
その塾が終わると必ず7時代になってしまいます。
秋や冬になると必ず外は真っ暗。
冬、塾の友人と離れて別ルートで帰っていた私は目の前の異形の物体に戦慄しました。
建物の隙間周辺にやせ細った髪の逆立った女性の様なシルエット。
体中が当人の意思とは別にウネウネ動いている。まるでそれは体中に蛇が巻き付き、体
中をいきかっているよう。
目は丸く夜、目は光る動物のようだった。
その姿はギリシア神話のメビューサを連想した。
UFOを見たのは一年前と一昨日。
一年前、秋と冬の間頃。下校中、もうすぐ家。
ふと空を見上げると青空の中に一つ白い物体が見えた。
それはテレビなどで見るUFOの動きに似た動きをしていた。
驚愕した私は急いで家に帰り、カメラを片手に外へ飛び出した。
するとまるで私を監視でもしていたかの様に忽然と姿を消していた。
一昨日。
親父が部屋に入ってくるなり、「UFOだ」と叫んで窓を開けた。
夜、空は曇っていて星ひとつ見えない。だが一つだけこうこうと光を発する物体が空に
浮かんでいた。
#117/569 ●短編
★タイトル (GVB ) 03/10/13 21:31 (107)
大型演歌小説 「月の雫」 佐野祭
★内容
「できたぞ弥三郎、新曲が」
杉野森弥三郎のような売り出し中の歌手にとって、有名作曲家の松本喜三郎に
かわいがられるというのはそれだけでも幸運である。
月の輝く夜、弥三郎はそそくさと喜三郎宅を訪れた。
「これだ」
弥三郎は喜三郎に楽譜を渡された。
「月の雫」
作詞/作曲 松本喜三郎
誰も降りない駅に立ち
受け取る人を待っている
青い唇かじかむ指
モデムをくばろう
答えは返らなくても
便りはとぎれても
何かはつながっているのか
一つの空の下
月の雫が宿る街
始発列車のアナウンス
いつかきっと心は届く
モデムをくばろう
「つきのしも。いいタイトルですね」
「『しずく』だよバカ。ちょっと歌ってみろ」
喜三郎がピアノを弾き、弥三郎が歌う。何度か繰り返したところで喜三郎が言
った。
「どうした弥三郎。調子が出ないようじゃないか」
「はあ」
弥三郎は首をひねった。
「どうも……なんていったらいいか、この歌の情景がよくわからなくて」
「そうか」
喜三郎は遠い目をしてつぶやいた。
「無理もないな。この歌は俺の実体験に基づいたものだからな」
「そうなんですか」
「ああ、今から二十年ほど前の話になる。若いお前にわからなくても仕方ない」
喜三郎は語り始めた。
「俺がまだ作曲家として売れる前のことだった。生活のために、俺はモデム配り
のアルバイトをしていた」
「あの、よく駅前でただで配ってるやつですよね」
「そうだ」
「あれって、そんな頃からあったんですか」
「今みたいなADSLモデムじゃないぞ。まだ1200bpsだったころだ」
「そのころモデムなんて配ってたかな」
「今みたいな誰もがインターネットするなんて時代じゃない。当時はまだパソコ
ン通信だった。そんなあちこちで配ってたわけじゃない」
「なるほど」
「ある日俺はとある地方の駅でモデム配りをしていた。といってもそんな大きい
駅じゃない。降りる人の誰もいない駅で、俺はモデム配りをしていた」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「なんでそんな誰もいない駅でモデムを配るんですか。どうせならもっと大きい
駅で配ればいいじゃないですか」
「当時はな、草の根BBSというのが流行っていた。中央からではなく、小さな
ところからコミュニケーションの輪を広げようという試みがあったんだよ」
「そうなんだ」
「俺は黙々とモデムを配っていた」
「黙々と……って、ふつう何か言いながら配るでしょう」
「誰もいないのにしゃべってもしょうがないじゃないか」
「えーっと……」
弥三郎は何か考えていたが、考えがまとまらなかったようだ。
「すみません続けてください」
「ふと空を見上げると月が出ていた。そう」
喜三郎はカーテンを開けて空を見上げた。
「今日のような満月だ。俺はふと、別れた女のことを思い出した。俺が作曲家を
目指して上京したころに知り合って、三年ほど一緒に暮らした女だ。考えてたよ、
結婚も。真剣に。だがまだ作曲家として芽が出ず、まともな収入なんざありゃし
ねえ。それどころか、情けない話だがな、博打で大きな借金をこさえちまった。
いや、今にしてみればそんなに大した金額ではないよ。でも、当時の俺には大金
だった」
喜三郎はグラスに氷とウィスキーを入れた。
「ある日俺が仕事から帰ると、彼女が旅支度をしていた。父親から知らせがあっ
て、母親が倒れたらしい。彼女はとるものもとりあえず帰郷した。俺は彼女の帰
りを待っていた。だが、いつまでたっても彼女が帰ってくる気配はねえ。おそら
く父親がもう彼女を行かせまいとしたんだろう。連絡さえもふっつりととぎれや
がった」
水道からグラスに直接水を注ぐと、二・三回かき混ぜて弥三郎に渡した。
弥三郎は黙って受け取る。
「ほんとにおやじの差し金だったのかどうかはわからねえ。でも俺はそう思わず
にはいられなかった。もしかしたらあいつ自身の考えだったんじゃないか、そも
そも母親が倒れたというのはほんとなのか、そういう思いが浮かんでくるのを俺
は無理矢理押し殺していた」
喜三郎は同じように自分の水割りを作りはじめる。
「俺は月を見ながらその女のことを思い出していた。月は誰をも同じように照ら
す。彼女のふるさとからもこの月は同じように見えている。俺がいま見ているの
と同じように。そんなことを考えているうち、俺は自分の未練がましさに腹が立
って仕事に戻ろうとした。でも、モデムを配ろうとしてまたいろいろ考えちまっ
てね。このモデムは、人と人を結びつける道具だ。間の距離なんて関係ない」
喜三郎は一口だけグラスに口を付けた。
「なんか急に自分が半端もんに思えてな。月もモデムも、隔たりなく人と人とを
つないでいる。隔たりはどこにあるわけじゃない、人間の心の中にあるのよ」
「……」
「そんなことを考えていたら、始発列車のアナウンスが耳に入った。いつの間に
か夜が明けてたんだな」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「夜中に配ってたんですか」
「ああ。借金を返すために昼は工事現場でアルバイトして、夜は徹夜でモデムを
配ってたのよ」
「そりゃ誰もいないでしょ。無茶ですよ」
「そりゃそうさ」弥三郎は煙草に火をつけた。
「若いからできたことだよな」
[完]
#118/569 ●短編
★タイトル (GVB ) 03/10/13 21:31 ( 92)
大型立志伝小説 「勝訴の人」 佐野祭
★内容
喜三郎は野心に燃えていた。
「俺は絶対、勝訴の人になるんだ」
勝訴の人とは何か。
おそらくご覧になったことがあるに違いない。裁判の華と言ってもいいだろう、
判決が下るや否や裁判所から脱兎の如く駆け出し、勝訴と書かれた垂れ幕を掲げ
る人のことである。
しかし勝訴の人にはどうやったらなれるのか。喜三郎にはまったく見当がつか
なかった。
まずはアルバイト求人誌を隅から隅まで熟読した。世の中には実にいろいろな
アルバイトがあるものだということはわかったが、勝訴の人の求人は載ってなか
った。
やはり勝訴の人はアルバイトではできないのであろう。そう思った喜三郎はハ
ローワークに行った。昔で言う職安である。
ハローワークで勝訴の人になりたいのですがと言うと、職員は怪訝そうな顔を
した。繰り返し喜三郎の説明を聞いた後、うちでは勝訴の人の求人は扱ってない
と答えた。
「勝訴の人が無理なら、せめて平成の人の口はないでしょうか」
「なんですか平成の人って」
「ほら、亡くなった小渕さんがやってたじゃないですか。平成と書かれたパネル
を掲げて」
「ああ、新元号発表。でもあれはそうそうあるもんじゃないですよ。それにまず
官房長官にならなきゃできないし、官房長官になったからってできるもんじゃな
いし」
「きっと今の官房長官も、平成の人になれるんじゃないかってわくわくしてるん
でしょうね」
「いや、してないと思うな……たぶん……それよりもなんだっけ、勝訴の人?
そっちのほうが可能性あると思いますよ。裁判は毎日開かれてるからね」
そうか小渕さんってすごかったんだなあと思いながら喜三郎は今の言葉にヒン
トをつかんでいた。そうだ。裁判の仕事なんだから、裁判所に行けばいいんだ。
喜三郎はまず近くの地方裁判所に行くことにした。いきなり最高裁に行っても
いいのだが、やはりこういうものは順番があるのであろう。
地裁に行って受付で勝訴の人の募集はしていないかと尋ねた。受付の係員は一
度では話が飲み込めなかったようだが、やっと納得して答えた。
「いや、あれは募集はしてませんよ」
「やはりコネがいるんでしょうか。それとも勝訴の人の子弟に限られるとか。あ
まり親子で勝訴の人をやっているというのも聞きませんが」
「そういうわけではないです。あれはうちの職員ではないんですよ」
「というと、外部に委託しているわけで。いわゆるアウトソーシングってやつで
すね」
「ではなくて、原告や被告の関係者がやるんです。弁護団とかね」
「となると、司法試験を通らなければいけないわけですね。難関だな」
「いえ、資格はいりません」
「は? 資格はないんですか?」
「はい、誰でもやって結構です」
「ということは……つまりこういうことですね。野球選手はプロになったら契約
金と給料が貰えて一人前として扱われるけれど、プロになれるのはごく一部の選
ばれた人たち。相撲部屋は誰でも入門できるけれど、出世しないと給料もなしで
部屋に住み込みで関取の付け人暮らし。勝訴の人ってのは、どちらかというと野
球選手よりも相撲取りである、と」
「そうなのかなあ」
「よくわかりました、ありがとうございます。今日は裁判はありますか。できれ
ば判決が出るやつ」
あと一時間ほどで始まると聞いて、喜三郎は教えられたとおりに階段を上って
法廷に向かった。
傍聴席には喜三郎を含め三人しかいなかった。そのうちの一人は八十過ぎたと
思われるおばあさんだ。
(この人は勝訴の人ではないだろう)すでにこの裁判には勝訴の人がいるのでは
ないかということが心配だったのだが、おばあさんが法廷の玄関まで駆け出し勝
訴の垂れ幕を掲げるのはまだ見たことがなかった。少なくとも現役の勝訴の人で
はあるまい。
もう一人は若い男だった。こいつが勝訴の人ではあるまいかと手元をよく見た
が、特にそれらしき垂れ幕も垂れ幕が入るような鞄も持っていない。
どうやら他に勝訴の人はいなそうである。喜三郎は安心して、常に持ち歩いて
いる勝訴の垂れ幕を取り出した。
垂れ幕をチェックしていて喜三郎はしまったと思った。まさか今日チャンスが
あるとは思わなかったから、「不当判決」の垂れ幕を持ってこなかったのだ。こ
れでは判決の結果によっては垂れ幕の使いようがない。
喜三郎は自分のうかつさを悔いたが、やがて気がついた。なんだ。別に原告か
被告かどっちかが勝訴すればいいんだ。
そんなことを考えているうちに廷吏が登場し、裁判官の指示に従わないときは
退廷を命ずるうんぬんと説明を始めた。そして全員が起立し、裁判官が入廷した。
裁判官は着席を促し、言った。
「それでは判決を言い渡します。被告は原告に対し、十万円を支払え」
その言葉を聞き終わるや否や喜三郎は法廷を飛び出し、廊下を疾走し階段を駆
け降り、裁判所の玄関を抜けて垂れ幕をかざした。
「勝訴」
喜三郎の胸に感慨がよぎった。ついに自分は勝訴の人になったのだ。もちろん
見守る支援者は誰もおらず、ささやかなものではある。でも最初は誰でもそうだ。
今日のこの法廷が、勝訴の人としての第一歩になるのだ。
そんな思いを太い声が破った。
「膝が足りない」
喜三郎は振り向いた。
「あなたは」
そこには長身にテンガロンハットをかぶり、黒のタキシードに足元には運動靴
の男が立っていた。
「私の名は」垂れ幕が宙を待った。「勝訴の人、杉野森弥三郎」
男が広げた垂れ幕には墨黒々と杉野森弥三郎と染め抜かれていた。
こののち喜三郎は杉野森の元で修行を積み、やがて勝訴王松本喜三郎と称えら
れるようになるようになるのですが、そのお話はまたの機会に。
[完]
#119/569 ●短編
★タイトル (XVB ) 03/10/23 18:56 (304)
お題>都市伝説 $フィン
★内容 03/10/23 18:58 修正 第2版
発端は、学校にきた一枚の張り紙だった。それにはこう書かれていた「きたれ次の世
代をたつ少年少女よ。そして一度見にくるがいい偉大なる長老様のメガロポリスを」そ
の下には募集項目があって、誰でも応募できるもののいろいろな角度から見て長老様の
接見するにふさわしい子供を選抜するというものであった。張り紙を見た僻地の少年少
女はどんなに胸を高ならしたであろう。モノクロの写真でしか見られなかったメガロポ
リスを列車で行けて、その足で歩くことができる。最先端の衣装をまとい、意気揚揚と
歩く姿を想像するだけで、目頭が熱くなるほどであった。だが、子供たちの大部分は諦
めざるをえなかった。赤茶けた荒地に育つ食物は限られている。政府の研究所で作られ
たその土地にあった食物の種や苗も植えても、途中で枯れてしまうか、さもなくは背だ
け延びてひょろひょろとしたものしか収穫できないのであった。それでもここに暮らし
ていかなくてはいけない。膨大なエネルギーを必要とするメガロポリスのために、僻地
の人々は何世代も何世代もこうしてやってきたのだった。忙しい両親を手伝わないとい
けないので大部分の子供はここで諦めた。それでも向上心に燃える子供はどうやったら
メガロポリスに行き、憧れの長老様にあえるだろうかと考えた。美しさをより磨きかけ
るもの、運動をして筋肉を鍛え理想的な肉体を持とうとするものも現れた。祐樹は、そ
れぞれずばぬけてではないかすべてに上の成績を貰っていたので、家柄を別にすれば気
にすることがなかった。祐樹の家柄は僻地でもかなり下に位置するものであった。学校
のものにでもときどき貧乏人は学校に来るなと言われることもあったが、生来の明るさ
と持ち前の負けん気で立ち向かっていった。そのうちに影でこそこそいうものはあって
も祐樹直接には言うものはいなくなった。
そして、メガロポリスに行く選考会がはじまった。会場に現れたのは以外に少なく千
人集まっただけだった。今の農繁期に両親の手伝いでいかれなかった子供が大部分なの
だろう。ここにきている子供もかなり無理していると思った。実際祐樹も目のところに
黒いあざが残っていた。昨日の夜どうしても行きたいという祐樹と親の手伝いをするも
のだという父親と意見が別れ、喧嘩して殴られた後であった。
選考会は1日では終わらなかった。身体が健康であるかポリスの医師が横柄な態度で
祐樹たちをすみずみまで観察する。そして観察した後は消毒薬で念入りに手を洗うこと
を忘れなかった。メガロポリスとはいかなくてもポリスから医者がくるのは滅多にな
い。僻地に来る医者は、よほどかわった変人が犯罪に近い方法でポリスにいられなくな
ったものの二種類しかいない。重要な医剤も設備も不足している僻地では病気にかかる
ことは死を意味していた。だかポリス、メガロポリスと都市が大きくなるにつれて医療
技術は発展し平均寿命は大幅に延びていた。
そして学習能力をためすテストに入った。祐樹は少しでも点数をあげようと一生懸命張
り紙を見たときから勉強した。友達とのつきあいを避け、両親の収穫の手伝いも後回し
にして(顔を殴られたのはそれも原因があるのだろう)、最高点を取るように勉強し
た。そしてその後はメガロポリスにいって何をしたいか、そして長老様についてどう思
っているかという原稿用紙五十枚にもわたるものであった。祐樹は文章を書くのはこの
中で一番得意だったので、思っていることをすべて心を込めて熱心に書いた。少しでも
間違いのないように何度何度も見なおし、これでよいと思って提出したときは祐樹が最
後であった。
選考会を受けた子供はみんな必死であった。憧れのメガロポリスに行き、そして長老
様に会えることができるかもしれない。もしメガロポリスの高官と話す機会があり、気
に入ってくれて、そこで養子になった子供もいるものもいるという噂を信じて、メガロ
ポリスに行きたがった。子供たちが夢に見るところ、なにをつけても最先端の都市、希
望と夢の象徴それがメガロポリスだった。
一ヶ月後、祐樹が学校に行くと教師が、この地域からはおまえ一人だ。がんばってこ
いなと、封蝋が押された政府からの手紙を渡された。級友たちの羨望と嫉妬のなか、メ
ガロポリスに行ける。そして長老様にあえるかもしれないと幸福感で一杯だった。その
日の授業はメガロポリスのことばかり思って授業に専念することができなかった。そん
な祐樹を普段なら注意する教師も仕方がないなぁって感じで苦笑いするしかなかった。
祐樹は手紙を開封するにも他の子供に見られないように家に帰ってきてからやろうと思
っていた。
祐樹はメガロポリスに行くことがきまって、地域をあげての送別会を開いてもらい、
みなが長老様をたたえる合唱をし、飲めや食えやの宴をしてもらい、めったに食べられ
ない魚や肉が出て――ただし合成たんぱく質を使った本物ではなかったが――みんな祐
樹が憧れのメガロポリスに行くことを喜んでくれた。両親は少ない稼ぎの中から恥ずか
しくないような服を買ってくれた。そんなこんなしているうちにあっという間に、メガ
ロポリスに行く日になった。
当日祐樹は両親に連れられて、たった一つトランクを持って駅まで行った。駅では政
府が特別に調達してくれた非常に型は古いが、頑丈な造りの専用の運転席と客席だけの
二両編成の列車が煙を吐いて待っていた。重厚な造りの列車に触った。長い年月の重み
を感じさせる列車だった。それを触りながら祐樹はこれは夢じゃないのだと改めて感じ
ることができた。トランクを持ってそれじゃあと両親に別れを言うと祐樹は車中の人と
なった。
すでに四十人あまりのさまざまな地方から出た子供たちが列車の中で嬉しそうに飛ん
だり跳ねたりして列車が出るのを今か今かと待っていた。祐樹は、白い服をきた少女の
隣に声をかけて座った。
しばらくして、車掌ややってきて選ばれた子供たちはがみんな乗ったと言った。列車
はゆっくり白い煙を吐いて動き出した。子供たちは初めて乗る列車に興奮している。わ
たしはどこからきた。ぼくはどこからきたと紹介している。そしてメガロポリスの長老
様にサインをねだって、家に持って帰って自慢をするのだとか、最先端のものを見たい
とか、いろいろメガロポリスへの不安と期待を込めて話しあっている。祐樹も例外では
なかった。メガロポリスについたなら、僻地のものが考えている究極の願い事、あわよ
くば自分のことを認められて、誰かの養子になり、メガロポリスに永遠に住めるように
なることであった。だがそれは身分不相応な願いだと半分諦めていた。それはそうだろ
う。当時、僻地に住むものは政府からの許可がなければ列車に乗ることもできず、一生
同じ場所で暮らしていかなくてはならない決まりになっていた。大人たちの中でも一生
列車に乗るものが多くない時代、まだ成人にもなっていない祐樹が、選ばれて列車に乗
ってメガロポリスに行けるなど自体夢のような話しであった。分不相応なことだとはわ
かっていたが、虫けら同然の僻地の暮らしが嫌で嫌で死ぬほど堪らなかったのだ。
ごっとんごっとんごとんごとん、列車は何時間も眠たくなるような安定した振動をとも
なって動いていた。最初の興奮から醒めて、祐樹たちはめいめいの弁当箱を取り出して
食べ始める。祐樹のは、両親がだいぶ無理して調達してくれた合成肉がはいっている。
合成肉の原料はポリスからの食物の廃棄物からできたとか噂があるが、そんなことは気
にならなった。廃棄物であっても祐樹にはめったにないご馳走であるの変わりなかっ
た。父さん母さんごめんよ。オレ、メガロポリスに行ったら何が何でも認められて、こ
んな合成肉じゃない本物の肉を毎日父さんや母さんに食べさせてやれるぐらい偉い人に
なってやるとじわりと涙を流しながら考えた。半透明の窓ガラスから外を見るとまだ未
開拓の赤茶けた荒野が広がっている。開墾が進んだとはいえ、まだ目前の大地が緑地帯
になるまでまだ長い年月がかかるであろう。いやもしかしたら、祐樹たち世代が終わっ
てもこの地域は赤茶けた荒野のまま開拓されないかもしれない。オレもうこんな生活嫌
だと祐樹は車窓から見える光景を見て思った。
長い旅になるわね。合成肉が入った弁当を食べて一人物思いにふけっていると隣の少
女が語りかけてきた。祐樹は自分の名前と出身を言うと少女はかなり遠くの地域から車
もなく歩いてきたと言う。長い黒い髪に茶色いふけがたまっている。白い服も茶色くす
す汚れている。年を聞くと祐樹と同じ年で、今年の選考会で年齢の上限に達するので、
何が何でも健康と勉強に力を入れてこの一年頑張ってきたのだと言う。勝気そうな目で
祐樹をにらんでいる。少女も選抜試験を受けてきたのだと言った。そしてメガロポリス
にいって、最先端のファッションを知り、認められて奨学金を得て、一流のファッショ
ンデザイナーになり、やがて有名になり、この僻地から永遠に去りたいために勉強して
きたとも言っていた。祐樹は、目の前の少女の野望があまりに大きいため、冗談はやめ
ろと言いたくなってやめた。そして祐樹は無謀とも思える彼の野望を情熱的に話した
後、目の前の少女が自分と同様の表情をしたのを見逃した。
それからきっかり一時間後、最初に車掌からの贈り物があった。それは大福餅――餅
米とあんこを使った『天然』のもので、ポリスでも滅多に手にはいらない非常に貴重品
だった――が配られた。子供たちは口々にわぁわぁわぁと喜びの声を雄たけびをあげ、
これ以上ないほど喜び喚声をあげた。隣の少女から祐樹に大福が渡される。祐樹は少女
の手についた黒い染みが真っ白い大福を汚したのに気を悪くしたが、目の前の『天然』
の大福餅を食べられる誘惑には勝てなかった。そしてみなに一つ一つ『天然』の大福餅
が配られた。わたし初めて食べる、僻地に住んでいると一生食べられないものだなって
声が大部分だった。みんな図書館で見たことはあっても、はじめて食べる『天然』大福
餅に目が喜びで輝いた。そして車掌が子供たちにこれはこの旅が楽しくなる最初の贈り
物だと言って笑った。
「長老様は永遠に!!」子供たちは車掌の音頭で一斉に大福餅を食べた。そして何人か
の子供たちからうぐぐぐぐぐとくぐもった声が聞こえ、口からどばりどばりとと中の物
を出し、喀血する。祐樹は驚いた。そして少女を見ると半分大福を加えたまま目を大き
く開き驚いいている。どうやら大福餅に毒が入っていたようだ。毒入りの当たりと入っ
ていないはずれがあるようだった。祐樹と少女はどうやら運よくはずれだったらしい。
当たりをひいた血を吐き苦しんでいる子供たちは咽喉を掻きむしり、よだれを垂れ、苦
悶の表情を浮かべている。祐樹は苦しんでいる子供に駆け寄り舌を切らないようにハン
カチを入れなんとかしようとするが、悶え苦しむ姿を見るばかりでどうしようもない。
やがて大量の血を吐いていた子供は凄まじい形相をして次々と死んでいった。
死んじゃったよぉ。なんで死んじゃったの! 車掌さん説明してよ! 顔中血まみれ
になった子供を抱いたまま誰かが甲高い声を出して悲鳴をあげ叫んだ。
今まで死んでいく子供の介抱で気づかなかったが、この大福餅を配ったのが車掌だと
思い出し、生き残っている子供たちが車掌を見る。
車掌は下をうつむいて表情は見えないが身体を震わせている。車掌さん? 子供の一
人が車掌の肩に手をかける。まんじゅうは怖いのだよ! お前たちはぴぃぴぃうるさい
のだよ。お前たちなんか生きていても仕方がないのだよそう言うと車掌はいきなりその
子供の腹を隠し持っていたナイフで突き刺した。ぎゃあああああ悲鳴が辺り一面に響
く。車掌の理不尽な殺戮のはじまりだった。
なんでこんなことになってしまったのかわからない。中にいるのは車掌の皮をかぶっ
た殺人鬼、たった一時間の間に何人の死体が増えたのだろうか。夢と希望を抱いて楽し
く行けるはずだったメガロポリスへの旅が、血が血で洗う凄惨な殺戮劇になってしまう
とは誰一人として考えなかったことだった。祐樹は、失った代償は大きかったが(子供
たちの何人かは車掌の大福餅とナイフにより死んだ)なんとか殺人鬼となった車掌を取
り押さえることに成功した。車掌の両手両足をズボンのベルトで縛り、幾人もの子供の
命と幾人もの子供にキズを押させたナイフはとりあげた。もうこれで大丈夫のはずだっ
た。
祐樹たちは、最初運転席に行って、この列車から車掌が狂ったこと――大福餅に毒を
入れ、子供たちを殺しまわったこと――を知らせようとした。だが、運転席のドアやガ
ラスは堅くロックされていて出ることができない。これは列車という名の完全なる密室
だとわかった。私もう家に帰りたい。女の子のすすり泣く声が聞こえる。みんながんば
るんだ。ポリスの駅についたらなんとかなるといって祐樹はみなを励ました。ところ
が、縛られたままの車掌はくくくと笑った。この列車乗っている子供を助けてくれるも
のなんかいないよ。この列車は地獄行きの列車なのさ……。そんな馬鹿なと祐樹はばし
りばしりと乱暴に車掌の顔を殴る。車掌の口が切れ、たらりと血が流れる。車掌は自分
の血を美味しそうにぺろりと舌で舐めた。
メガロポリスさえつけばなんとかなる。あのみんなに平等な長老様がぼくたちの仲間
を殺したこの車掌をどうにかして、救ってくれるはずだ。それだけを信じて、祐樹たち
は暴走する列車に乗りながら祈った。
列車の速度が少し遅くなった。「ポリスだ。ポリスだ。ぼくたちは助かるぞ」子供た
ちは口々に叫ぶ。メガロポリスほどじゃないが、僻地に比べれば少しはましな文化的暮
らしをしているポリスの駅に近づいたのだった。喜ぶ子供たちを見て車掌は縛られたま
ま含み笑いを浮かべる。
列車がゆっくりポリス駅に近づくのがわかる。遠くから見るとものものしい装備に武
装した迷彩服の男たちが立っている。祐樹は何かを不愉快なもの感じた。車掌は何を考
えたのか「伏せた方がいいんじゃないか」と言った。祐樹は普段ならこんな殺人鬼車掌
を信じる気にはなれなかったが、外の物々しい迷彩服の男たちを見て、みんな伏せろと
叫び、少女を強引に座席の下に押し込んだ。ポリスに列車はゆっくり入っていく。そし
てばばばばきゅんもの凄い轟音が響く、迷彩服の男たちが機関銃で一斉に射撃したのだ
った。
数分後、また列車がポリスの駅からゆっくり動き出した。何事もなかったように、す
べての窓ガラスが割れ、ところどころ座席や壁に銃跡が残り、打ちぬかれた肉片が跳ん
でいることを覗けば、遠く離れた赤茶けた荒野からは何事もなかったように走っている
列車に見えているはずだ。だけども中は修羅場だった。機関銃で助かった子供たちのす
すり泣きが座席の下から聞こえる。さっきまで話していたあの車掌も腹に何発も銃弾を
受けて血を流している。頭は吹っ飛んでいる。胴体から首が離れた時に瞬時にして死ん
だのだろう。
死ぬ直前になって車掌は真実を語ったのだった。正直に警告した彼の魂は、天に召され
るのか、それとも地獄に落ちるのかはわからない。幸いにして車掌の警告を受けて、座
席の下に身をひそめた何人かが――最初の列車に乗り込んだ子供たちの1/4になったが―
―ゆっくり信じられないといった顔で出てくる。なぜこんなことになってしまったの
か。ほとんどの子供たちが血で汚れている。子供たちは夢と希望に燃えて僻地からメガ
ロポリスに向かったのではないのだろうか? それがこんなことになるなんて……。生
き残った子供たちはみな同じ思いだった。
やがて列車の旅が終わり、そして列車はなにごともなかったかのようにゆっくりメガ
ロポリスに到着した。メガロポリスの役人たちがやってきて祐樹たちに説明をする。な
んとあの車掌は政府をゆるがす凶悪な殺人者で、何の理由からか分からないがあの列車
の車掌に化けて、鬱憤晴らしに政府から招待された子供たちを殺していったのだと言
う。そしてポリスで車掌一人殺すために正義を愛する政府の役人たち命令で仕方がなく
ああいうことを行ったというのである。祐樹たちは信じることにした。
メガロポリスの駅から列車に降りた祐樹たち僻地からきた子供たちは、政府の役人−
−銀髪碧眼の慈悲溢れる優しそうな女性であった――の案内ですべての窓がガラス張り
の最高級閣僚クラスがとまれるような豪華な造りの四十階建てのホテルの一室に二人づ
つ泊まることになった。ここでどんなミスが起こったのかわからないが(政府の役人も
たまには間違いをおかすこともあるのだろう)祐樹は列車で一緒だった少女と一緒の部
屋に泊まることになった。部屋は僻地では考えられないほど豪華だった。二人ははしゃ
いだ。長老様にあえるという興奮と僻地では味わうことのできない豪華なホテルの豪華
な部屋でくつろぐことができるし、あの忌まわしい列車での毒入り大福殺人事件と車掌
の殺戮事件と政府の役人の車掌抹殺事件のことはもう遠い昔のことで長老様にさえあれ
ば安全だという安堵感とかいろいろな思いが混じって二人は興奮状態であった。
夜は長い。また長老様に反感を持つものが長老様に特別に招待された祐樹たち僻地か
らきた少年少女を襲ってくるとは限らない。部屋には鍵をかけられ、祐樹たちが泊まっ
ているホテルの階の入り口には銃を持った政府から雇われた強靭な男たちが守っている
と聞かされている。祐樹たちはセキリティーの面では完璧でもう心配することはない。
祐樹と少女は部屋に運ばれた僻地ではこれまで満足に食べられなかった夜食を食べた。
そして祐樹は暖かい湯の出るシャワーを浴びている。隣にはなみなみと合成でもない本
物の大理石の浴槽に暖かい湯がはっている。僻地では湯も貴重品で身体を洗うにも一週
間に一度冷たい水で洗えばいい方だった。しかしここではお湯も使い放題である。それ
にすべて無料である。祐樹は自分を招待してくれた長老様に感謝した。
浴室から出て、パウダールームに出ると、新品の肌ざわりのいい白い絹でできた寝巻
きが置いてあった。祐樹はいとおしむように感触を楽しみ、寝巻きを着る。そして、寝
室に入る。清潔な白いシーツにスプリングの効いたベットが一つ、その上には祐樹と同
じ寝巻きを着た少女が髪をいじっている。部屋はほのかに薄暗く、ほのかに暖かい。祐
樹は少女の横に腰掛け、メガロポリスって思っていた以上だなと言った。少女は小さな
声でそうねと答える。それだけで会話が途切れる。
部屋に甘ったるい匂いがする。部屋の通風孔から空気がはいってくる音が静かに聞こ
える。祐樹たちが食べた料理にも同じような匂いがした。祐樹はその匂いをかぎながら
メガロポリスの匂いっていい匂いだなと思っていた。祐樹はなぜか股間がむずむずして
いた。電車の中ではじめてあった少女だけどもむしょうに愛らしくしたくてたまらない
自分に戸惑いを感じていた。少女も同じ気持ちらしく顔を赤らめ目を潤ませて見つめて
いる。
「おれ……はじめてなんだ」「わたしも…」祐樹と少女が頬を赤らめ戸惑いかちに接吻
をする。そして祐樹は少女の乾ききっていない髪の中に手をいれる。少女の髪から甘い
香りが立ち上る。祐樹はその匂いを嗅いで興奮した。祐樹は少女を押し倒し、ゆっくり
パンティを脱がして、挿入する。今まで感じることのなかったとてつもない快感が祐樹
を支配する。シーツに少女の血が垂れた。少女は痛みに耐えているが快感の方が上らし
い。若い二人は腰を何度も振る。奥へ奥へと入れていく。顔が快感で歪む。そして同時
に達した。
翌日、祐樹は部屋に供えつけの電話で呼び出された。一夜をともにした少女は部屋で
朝食を採っていた。祐樹は特別に選ばれてホテルの最上階の特別室にきて話をしたいと
の政府の高官からの話しである。祐樹が部屋で待っているとノックの音がして、あの慈
悲に満ちた笑顔であの女性高官が待っていた。祐樹をいざない特別室に連れていく。祐
樹が連れていかれる前に、女性高官はしっかり鍵をするのを忘れなかった。
高速エレベータに昇る途中祐樹はメガロポリスは素晴らしいと思った。三階建て以上
の建物が構造上立てることのできなかった僻地の暮らしとは別世界のようだった。今ま
で着ていた服は、旅行かばんにつめた。そしてホテル側から用意された自分の着ている
真新しい洋服を眺める。僻地では中古が普通で、着る前に人の体臭がひどくて何回も洗
わないと着られないものとは大違いで、一度も他の人の袖が通っていない真新しい服を
何度も見た。朝起きてから暖かいシャワーで身体を洗った。祐樹は僻地から出てきた今
までのことを思い出す。子供たちの活躍で凶悪な車掌が退治された。僻地での暮らしと
車掌が退治をどのようにしたか、政府の高官が子供たちの代表として祐樹に聞きたいら
しい。もしかしたら政府の高官が子供のいない夫婦で、もし祐樹に好印象を持って、も
し祐樹を自分たちの子供として育ててくれるように思ってくれたらどんなにいいだろ
う。そのためには目一杯賢いふりをして、愛嬌よく話し、そして自分を養子にしてもら
えるよう努力しようと思った。祐樹は最上階につき、特別室に入ると政府の高官が笑い
ながら待っていた。そして祐樹は特別室に入ったとたん、後頭に物凄い衝撃が走り目の
前が真っ暗になって倒れた。
それからのことは祐樹も知らないことである。子供たちは夜長老主催のディナーに招
待された。あの世界で一番優しく一番賢く一番尊い長老から天然の素材を使ったディ
ナーの招待を受けたのである。子供たちは有頂天になった。何しろ僻地ではおろかポリ
スでもめったにたべ天然の素材を使ったものを食べたことがなかったからである。どん
な料理が出るのだろうかと皆がまだ見たことのない長老との夢のような豪華なディナー
を想像し、夜になるまで待っていた。
ホテルに子供たちと会うために特別に泊まっている長老様までの貴賓室までの道のり
はそんなに遠くなかったが、貴賓室まで行く廊下には洗練された都人が、田舎からおの
ぼりさんがきたという風にちらりと一瞥するだけで、無関心に通りすぎていく。雲の上
の存在だと思っていた長老と逢って話しができる。今の子供たちはそれが一番の希望で
あった。唯一の不安は、このホテルに泊まっているはずの祐樹がいないことである。も
しかしたら祐樹が政府の高官に気に入られて養子でもなって抜け駆けされたらどうしよ
うと考えているのである。自分たちも認められたいと子供たちは皆思っていた。
長老様のいる貴賓室に子供たちは着いた。子供たちは今まででもメガロポリスの豪華
さや美しさに驚いていたが、長老が住む貴賓室は豪華さ美しさ重厚さの面では桁違いだ
った。僻地の暮らし、そして自分たちのこと今までのことを説明したかった。子供たち
はホテル側が用意してくれた服−男の子はタキシード、女の子はイブニングドレス−に
着替えている。
長老は子供たちの話に興味を持ち、子供たちの話を熱心に話を聞いてくれた。そして
ディナーの用意ができましたとコック長が長老に恭しく報告をした。長老は今まで大変
だったろうと子供たちをねぎらい、合成ではない天然の素材からできた食事を用意した
と語った。子供たちはわぁっと喜びの声をあげる。中にはマナーも知らないとどうしよ
うと囁きあっている子供すらある。スープ、野菜と続き、最後に天然素材の肉が出てき
た。子供たちは、生で、焼いて、あぶって、煮込んださまざまな料理法で作られた肉製
品を美味しい美味しいと笑いながら食べた。長老は、そんな子供たちをいとおしげに見
ている。そして最後に金で作られているフタをかぶせた大きな皿を持ってきた。長老は
笑いながら、今日のために特別メニューを用意させたと言っていた。フタが開かれた。
子供たちは目を大きく開けた。きゃあああと悲鳴があがる。
祐樹は子供の悲鳴で目が覚めた。手足を動かそうとするがうまく動かせない。それも
そのはず、祐樹はどんなメカロポリスの医術を使ったのか分からないが首から下を切り
離された状態で子供たちを見ていたのだった。そして部屋が暗くなり映画が上映され
た。
それは祐樹が一枚の張り紙を見たところからはじまり、列車での毒入り大福餅を食べ、
車掌の殺戮劇、機関銃で、そして少女との初めての性行為、最後は首を切られ頭部を除
いた肉料理にされるまでを克明に映し出されていた。
祐樹の目から涙が落ちる。
「こういう娯楽は何度やっても飽きないな」長老の笑い声が響き、すべてを打ちのめさ
れた子供たちのすすり泣きが、豪華な貴賓室から聞こえているだけだった。
#120/569 ●短編
★タイトル (pot ) 03/10/30 01:00 (162)
少年時代 −アトランティック・サーガ 落書き番外編−
★内容
早く出してくれ!
ステファンは、そう叫びたいのを懸命に堪えていた。センテウム・オルラル(聖
なる祈り)が終わったとはいえ、ここはまだテンペルムス(聖域)の中である。私
語など許されるはずがなかった。
最上級生を先頭とする学生たちの列が、ゆっくりと出口に向かって動き始める。ス
テファンもひざまずいた姿勢から立ち上がり、前の学生に続いて進む。
テンペルムスでは、歩くときでも極力足音を立ててはならない。この馬鹿げた規則
を守るためには、嫌でも亀のような歩みにならざるを得ないのだ。
こんな調子では夜が明けてしまう。
苛立ちを抑えようとして、拳を固く握りしめる。
アランは良くなっただろうか。
本来なら隣に並んでいたはずの少年を思う。聖水を飲む前は何でもなかったのに、
何故あんなにひどい腹痛を起こしたのか。
二年前に一度、アランは瀕死の重傷を負っている。死んでもおかしくなかった状
況にありながら、強い生命力で回復したのだ。
きっと、大丈夫だ。救護所に行けば、元気になったアランに会える。
だが何度言い聞かせても、不安はどんどん広がっていく。誰かに肩を軽く叩かれ
たのは、ちょうどそのときだった。
はっとして後ろを振り返ると、そこには粗末なローブを身につけた白髪交じりの
修道士がいた。アランを助けてくれた男だ。
彼は唇に人差し指を当てたかと思うと、すぐに手招きをした。一緒に来いとでも
言うつもりなのか。しかし、列を勝手に離れることは禁じられている。ステファン
はためらい、周囲を見回した。幾人かの学生が気づいて、こちらに不審そうな目を
向ける。
かまうものか!
ステファンは列から外れ、修道士の後に続いた。修道士の歩きは慣れているせい
か意外に速く、しかも足音がほとんどしない。
ところがステファンのほうは、急ぐと余計にバタバタとした音を響かせてしまう。
上級生たちの鋭い視線が、背中に突き刺さるのを感じた。
テンプルムスからようやく脱出すると、修道士はステファンを告悔室に導いた。
余人に聞かれないようにとの配慮だろうが、かえって不安感が増す。思わず、胸に
手を当てた。
「先ほどは、どうもありがとうございました。彼を迎えに、これから救護所に行こ
うと思って……」
「そのことなんだがね」
修道士は言葉を切り、咳払いをした。
「彼は今、アカデミアの病棟にいるんだよ」
「病棟って……そんなに、そんなに悪いんですか!?」
頭の中が一瞬真っ白になり、身体が震えた。二年前に受けた死の恐怖が、凄まじ
い勢いで背筋を駆け上がっていく。退けたはずの死神が、復讐に現れたのか。
「吐いた物に少々血が混じっていたから、念のために病棟へ運んだだけだよ。今は
吐くのも治まって、だいぶ落ち着いているという話だから、あまり心配しすぎない
ように。回復が順調ならば、数日で退棟できるでしょう。君も顔色が良くないから、
部屋に戻って休みなさい」
「私は平気です。あの……よろしかったら、あなたのお名前を教えていただけませ
んか? 後日改めて、お礼に伺いたいのです」
気持ちの動揺を押し殺し、平静を装って尋ねた。恩人に対して、礼は尽くさねば
ならない。
「名乗るほどの者ではありませんよ。さあ、早く行きなさい」
修道士はそう言って優しく微笑んだ。
「ですが、それでは……」
「私は当然の行いをしたまでのこと。あなたがたふたりに、神の祝福があるように」
ステファンは修道士に一礼して告悔室を出た。しかし言われたとおりにするつもり
は、毛頭ない。儀式用ローブの裾を持ち上げて走り出す。
急がなければ。アランを死神から守るんだ!
暗い廊下を駆け抜ける音が、派手に響き渡る。病棟はもうすぐだ。本当は静かに
しなければならないのだが、気にしてはいられない。
物音に驚いたのだろう、看護人の詰所からひとりの修道女が飛び出してきた。正
体を見極めようとするように、ろうそくをこちらに向ける。
「止まりなさい!」
修道女はステファンの姿を認めると、足早に近寄ってきた。さすがに立ち止まら
ざるを得ない。
「ここをどこだと思っているの!」
眉をひそめ、声を落として叱りつける。彼女に用件を話したいのだが、大教会か
ら走ってきたせいで息が上がってしまい、なかなか声が出ない。
「あなたはプリム(一年生)ね?」
ステファンの胸元にある徽章を見て、呆れたように言った。
「教練場と病棟の区別もつかない学生なんて初めてだわ、しかもこんな夜更けに走
り回るなんて! すぐ教授に連絡しなければ」
「ま、待って……」
ステファンは声を絞り出し、修道女の腕をつかんだ。
「走ったことは……謝ります、……本当に……ごめんなさい」
「いったいどういうことなの?」
「アランが……アラン・コルベットが、ここにいると……」
「もしかしてあなた、ステファン王子?」
何故この修道女は自分の名前を知っているのだろう。訝りながらも、ステファン
は彼女の腕から手を離し、黙ってうなずいた。
君たちふたりはね、すごく目立つ存在なんだよ。
ふと、そんな台詞が脳裏に浮かぶ。あれはいつだったか、ギルトのフィリス公子
に言われたのだ。
「知らなかったこととはいえ、大変失礼致しました。どうか、お許し下さいませ」
修道女は態度を一変させ、慌ててひざまずいた。
「そういうのはやめてくれませんか。今の私は、ただの学生です」
「でも……いえ、わかりました。仰せに従います」
修道女は諦めたように言い、立ち上がった。
「コルベットの具合はどうなのですか?」
「ご心配には及びませんわ。お薬を飲んで静かに寝ていれば、すぐに良くなるでし
ょう。ステファン様もお部屋に戻られて、ゆっくりお休み下さい」
安心させようとしているのか、修道女は笑みを浮かべた。しかし、簡単に引き下
がるステファンではなかった。
「彼に会ってはいけませんか? 病人の安静を乱すようなことは、絶対にしないと
誓いますから」
「そうおっしゃられても、他の患者さんもいますし」
「ほんの少し、顔を見るだけでいいんです。お願いします!」
目の奥が急に熱くなる。ステファンは修道女に、勢いよく頭を下げた。
「私ごときにそんな……。どうか、お顔を上げて下さいませ」
「たとえひと目だけでもいい、会いたいんです。でなければ、私はここから一歩も
動きません」
頭を下げたまま、目をぎゅっと瞑り唇を噛む。修道女のため息が聞こえた。
「……負けましたわ、面会を許可致します。でも、ちょっとだけですよ」
アランのベッドは病棟の奥にあった。幸いにも、近くに他の患者はいない。
案内をしてくれた修道女が去ってしまうと、ステファンは手に持ったろうそくを
ベッド脇の小机に置き、少年の顔を覗き込んだ。
アランは口をわずかに開けて眠っていた。汗ばんだ額に濡れた前髪が張りつき、
呼吸は浅くて早い。安らかとは言い難い状態に、ステファンの胸は痛んだ。
ベッドの端に腰掛け、手巾を取り出して額をそっと拭う。少年の閉じていたまぶ
たが微かに動いた。
「アラン?」
そのささやき声に応えるように、少年はまばたきを繰り返して目を開けた。本来
なら青いはずの瞳の色が、やけに黒っぽい。灯りが少ないからそう見えるのだと、
今は思いたかった。
「……ステファン……さ……ま……」
アランはこちらを見てかすれた声で呟くと、肘をついて上体を起こそうとした。
「寝てなきゃ駄目だよ」
ステファンは慌てて、アランの肩に手を掛けて押し止めた。まだ身体が辛いのだ
ろう、アランは言われるがまま横になった。薄い胸が上下に大きく動く。
「起こしてごめん。お前がここに……」
言い終わっていないのに、声が詰まってしまう。うつむいて手巾を口許に当てた
瞬間、時が二年前に逆戻りしたような感じがした。
「ご迷惑をおかけして……、すみません」
ステファンは黙って首を横に振った。
「我ながら、情けなくて……。本当に……本当に、すみません」
「気にするな」
「でも……」
「好んで病気になる者はいない」
ステファンはそう言い切って、顔を上げた。アランの暗い目がこちらを見つめて
いる。病人に不安を抱かせるような、女々しい態度は取れなかった。
「まだ、痛むか?」
「……いえ」
アランは言葉少なく答えると、薄く笑った。嘘だ、と直感的に思う。あのときだ
って、痛いとか苦しいとか、決して言わなかったのだから。
「我慢するな」
「……はい」
再び、薄く笑う。闇の中に消え入ってしまいそうな笑みが、ステファンの心を激
しく揺さぶった。咄嗟にアランの手を握り、己の胸に押し当てる。
死神には渡さない、渡してなるものか!
目の奥がどうしようもなく熱い。荒れ狂う感情は、不甲斐ない姿を見せたくない
というちっぽけな見栄を簡単に打ち砕いた。瞼を閉じても、涙が止めどなく零れ落
ちていく。
「私は、どこにも行きません」
静かだが、毅然とした響きのある声が聞こえた。冷たい指が頬に触れ、目元を優
しく拭う。ステファンは嗚咽を漏らしながら、少年の肩に頭をもたせかけた。
「信じて下さい、あなたを……」
アランの手が、病人とは思えないほどの力をこめて握りかえしてくる。
「あなたを、決してひとりにはしませんから」
「ステファン様、そろそろお時間が……」
迎えにきた修道女は、そう言いかけて口をつぐんだ。予想もしなかった光景に、
言葉もなく見入る。
ふたりの少年は互いの手を握り締めたまま、同じベッドで眠っていた。両方とも
安らかな寝息を立てて、幸せそうな顔をしている。
「困ったわねえ……」
修道女はため息を吐いて首を軽く振ったが、ステファンを起こそうとはしなかっ
た。隣の空きベッドに置かれた毛布を取って、少年たちの上にそっと掛ける。
「おやすみなさい」
小さく囁いて、ろうそくの火を吹き消した。
終了