●長編 #0460の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
土砂により不通になっていた道は、予告されていた三日で無事に復旧した。 僕らは引き上げる前に、隣(といっても八百メートルほど離れていることがあ とで分かった)の貸別荘に八神さんを訪ねたんだけれど、すでに出発したあと だった。足腰の悪い人を含んでいれば、一刻も早く安心できる場所に移りたい と考えるのは当然か。 かような次第で、八神さんと再会したのは、旅行から戻って二日後だった。 土砂災害のせいで旅程が狂ったことは、七日市学園にも伝わっていた。無事 の帰宅を改めて報せるために、十文字先輩と僕とで学校に出向いたのだけれど、 そこに八神さんも来ていたのだ。 「あのときは連絡なしに、さっさと帰っちゃって、ごめんなさい」 学校側への報告を済ませたあと、僕らと八神さんは合流し、校内のカフェに あるオープンテラスに陣取った。風通しがよく、ちょうど日陰になる時間帯で もあったので、夏の昼前とは思えぬほど快適だ。学園内の店は基本的に夏期休 暇中は休みだから、何かを注文することはできない。代わりに、缶ジュースを めいめいが買ってきた。 「僕らは全然、気にしていない。多分、音無君もね」 先輩が些かフライング気味に請け負う。そんなことよりもと話題を換えた。 「八神君がここに入った経緯に、興味があるんだ。差し支えがなかったら、教 えてくれないかな」 「随分、ストレートな聞き方をなさるんですね。名探偵との噂を聞いていまし たから、もっと手練手管を駆使した、巧妙な尋問をされるのかと」 「話したがっていない場合は、それもあり得る。でも、君の入学経緯は、隠す ようなことではなかろうと判断したんだ。違ったかな?」 「隠すようなことではありませんが、プライバシーに関わる事柄ですよ。でも ま、かまいやしません。聞くところによれば、こちらの学校では、芸能に関わ る特待生は入学間もない時期に、全校生徒の前で特技を披露するのが伝統にな っているようですし」 気を悪くした様子は欠片もない。八神さんはソバージュをかき上げ、ほとん ど表情のない顔に笑みを載せた。 「そう云うからには、八神さんは芸能関係で?」 「違います。変な言い方をして、誤解させてしまいましたね。私は普通に編入 試験を受けて、合格した。それだけです」 「そうなんだ? いや〜、四月の下旬頃に転入なんて珍しいから、てっきり、 よほどの事情があるに違いないと思ったよ」 「ご期待に添えなくて、申し訳ないです。これといって図抜けた特技はないん ですよ。強いて挙げるなら、運動が得意なぐらいで」 「運動で思い出した」 十文字先輩は両手を一つ打ち鳴らし、僕に視線を向けてきた。話を引き継げ ということだろう。 「八神さんは何かスポーツをやってるの? 武道方面で」 「――音無さんが云ったんですね?」 勘が鋭い。意表を突かれ、ジュースでむせてしまった。そんな僕が肯定も否 定もしない内から、彼女は続けた。 「音無さんなら、気付いても不思議じゃないか。慧眼ですね。私、護身術のよ うなものを、幼い頃から習ってます」 「護身術かあ。興味あるな」 十文字先輩が感嘆したように云った。 「名探偵に必要なものは色々あるが、言葉二つで表現するなら、頭脳と力だろ う。頭脳労働の方は、独学でも高められる。しかし、護身術や捕縛術となると 限界がある。いずれきちんとした形で習得したいんだが、機会がなかなかなく て」 「私が習ったのは、独学ではありませんが、我流ですので、教え方が系統立っ ていないんですよ。それでもよろしければ、練習相手を見付けるぐらいならで きますけど」 「こてんぱんどころか、ぼろぼろにされそうだ。一応、考えておくけど」 苦笑交じりに先輩が云ったそのとき、僕の視界に女生徒の姿が入って来た。 一瞬で音無だと認識する。彼女も同じく報告に来て、その帰りに違いあるまい。 「おーい」とこっちが呼ぶまでもなく、音無の方から近付いてきた。やけに早 足だ。 「八神さん、お久しぶり」 「先日はお世話になりました。音無さん、ありがとう。他の人達からも、感謝 を伝えてほしいと頼まれていて……今日は持って来てないけど、菓子折を受け 取ってね」 「あ、ああ」 戸惑う音無に、先輩がこれまでのおしゃべりの内容を伝えた。音無が興味を 示したのは、当然、護身術のこと。 「差し支えなければ、どのような術なのか、見てみたいのだが」 「競技じゃないから、見せることを前提にしていないんだけど……将来、チャ ンスがあればご披露できると思うわ。同じ学校なんだしね」 「それはたとえば、今ここで誰かが躍りかかっても、対処できるという意味?」 和やかに話す八神さんに比べると、音無の口調はいつも以上に固く、その内 容も少々物騒だ。 緊張感が一気に高まる場を和ませるためには、僕が護身術の実験台になれば ……なんて考えがよぎったが、さすがに実行はしない。 「うまく対処できるか、分かりません」 八神さんの方は、これまでにない満面の笑みを見せた。 「相手が武の達人だったり、強力で有効な武器を持っているなら恐らく負ける。 という以前に、そんなときは逃げるだけよ。私が相手を制するのは、制する必 要がある場合のみ」 「分かった。答えてくれて、ありがとう」 「どういたしまして。――逆に、私が音無さんに相手してもらうというのは、 無理?」 「え?」 云わんとすることが飲み込めない。そう感じたのは、音無当人だけでなく、 僕も、十文字先輩でさえも同様だった。 「剣道の練習試合で、音無さんと一戦交えてみたいなってこと」 八神さんの意図を理解して、僕は唐突に無茶なことを云い出すなあ、ずっと 笑ってたけれど内心では怒ってたのかも、ってな感想を抱いた。 でも、音無の反応は少し違った。 「練習?」 音無は急な試合申し込み自体はスルーして、練習という但し書きに引っ掛か りを感じたようだ。 「公式戦ではないというニュアンスよ。近く、大会がある訳じゃないでしょ? あったとしても、今からエントリーが間に合うはずないし、だいたい、私って 剣道の経験あんまりないの。ただ、音無さんの強さを体感してみたいのよ。そ うしたら、悔しくて私も術で強さを見せつけてやるって思うわ、きっと」 「そういうことなら、練習試合という名目でかまわない。私も大会に出ること を目標にしていないし。期日はいつがよい?」 「今日と明日は予定があるので、明後日。そうね、涼しい内にやりたいから、 朝九時。どう?」 「問題ない。場所は学校に申請すれば、格技場を使えると思う」 「可能であれば、場所はグラウンドがいいわ」 「グラウンドとは、ここの運動場? ……了解した」 こんな突拍子もない要求さえ、ほんのコンマ数秒考えただけで受け入れた。 そればかりか、音無にしては珍しい、ジョークで切り返す。 「だが、面や胴着、袴は着用してもらいたい」 「それはもちろん。持っていないから、借りられるかしら」 「だったら、すぐにでも合わせておいた方がいい。早速、剣道部に話に行かな いと」 音無と八神さんは、席を立つと、足早に校舎の方へ歩いて行った。 やり取りが気になり、腰を浮かたが、着いて行くほどでもないだろう。僕は 座り直し、十文字先輩に話し掛けた。 「大丈夫ですよね」 「些か唐突に試合をすることになったにしろ、喧嘩をする訳じゃないんだから。 僕は他に気になったことがある。君もそうじゃないか?」 意味ありげに僕を見やってくる。少し考えて、「音無さんが挑戦的だったこ とですか?」と云ってみた。 「その通り。彼女らしくない。少なくとも、僕の知る音無君は、礼節を弁え、 自己をコントロールできる。会うのが二度目の相手に挑発的な言葉を吐いたり、 試合をしようなんて云い出したりはしない」 「ですよね。一体、どうしたんだろう……」 「初対面の印象が悪かったとも思えないしね。もし悪かったなら、食料の提供 を断ったはずだ」 「断らないまでも、悪印象が態度に出るもんだと思います。今思い起こしても、 あのときの音無さんは……何か緊張していたような」 「ふむ。僕の見方は少しだけ違う。緊張だけなら、あんな災害時に初対面の人 と話をしたんだから、あり得る。あれは、驚いていたように見えた。得体の知 れないものを見た、という風な」 「はあ」 僕より先に、しかも長く、あのときの音無を見ていた先輩の言葉だから、き っとそれがより正しい印象なんだろう。 「しかし、八神さんのどこに、そんな驚く要素があります?」 「……分からないな」 さしもの名探偵も黙り込んでしまった。 二日後の午前九時。 音無と八神さんの剣道勝負は、予定通り、七日市学園のグラウンドで行われ ることになった。といっても、運動場の真ん中ではなく、片隅だが。剣道場と 同じスペースを確保し、地面をざっとならし、仕切り線を引いただけの、まさ に野試合だ。 三人の審判は、夏休み中とあって剣道部員がつかまらなかったので、剣道部 の顧問と剣道経験のある先生にお願いした。副審のどちらかがタイムキーパー を兼ねるという。 勝敗は三本勝負の二本先取。一本の時間は三分(高校生は通常四分だが、八 神さんの剣道歴を鑑み、短く設定したとのこと)。制限時間内にけりが付かな い場合、その回は引き分けとみなし、攻勢の優劣による旗判定はなし。延長戦 もなしとする。 なお、立会人という名目で、僕と十文字先輩が見学することになった。 先に現れたのは、音無。すでに胴着と袴を装着し、右手に袋に入ったままの 竹刀を持ち、左の小脇に面を抱えている。竹刀の先には、小手が紐で絡めてあ った。 「――草履? わらじか?」 先輩が呟いた。それで僕は音無の足下に注目した。確かに、野外の試合で何 を履くのかは注目すべき点と云える。音無はわらじを履いてきた。履き慣れて いるのか、特に不便そうではない。 ところが、音無は剣道部顧問に近寄ると、質問を発した。 「先生。試合場には素足で入るべきでしょうか」 「あ、いや、それは……この場合、個人の自由ではないかと思う」 予想外の質問だったようだ。そもそも、ルールブックにそんなことまで書か れているのだろうか。野試合のときは履き物の着用をよしとする、なんて風に。 ともかく、先生の返答を受け、音無は考え込む仕種を覗かせた。……こっち は、凜々しい横顔に見とれてしまいそうになる。 結局、どうするか分からぬまま、試合場の数歩外に敷かれたビニールシート の上で、待機する音無。手ぬぐいを折り、頭部に巻く準備を始めた。 その所作を待っていたかのように、八神さんが姿を現す。矢張り胴着と袴を 身につけ、面を小脇に抱えている。異なっているのは、右手に握られた竹刀が 大小二本であること。もしや、二刀流? 八神さんの嗜んでいる護身術では二 刀流が有効なのだろうか? 「スニーカーだ」 再び、十文字先輩の声。まさかと思ったが、本当にスニーカー履きだ。おろ したてのような白のスニーカー。 「でも、靴の中は素足みたいだな」 これまた先輩の観察通り。成り行きを見守っていると、八神さんもまた、ビ ニールシートの上で最後の支度を始めた。スニーカーを脱ぐと素足だった。 双方、面を着けた。体格はほぼ互角。胴着に名前が記されている訳でもない。 それでも、後部より覗く髪のおかげで、見分けるのは簡単だ。ポニーテールが 音無で、ソバージュの名残が感じられるのが八神さん。ああ、それに一方は竹 刀を二本持っている。 小手の装着も済み、いよいよ準備が整った。 「これより練習試合を始める。両者、前へ」 一礼して試合場に足を踏み入れる。注目の足元は――二人とも裸足になって いた。 それぞれ二歩進んで、互いに礼を交わし、また三歩進んでから蹲踞の姿勢を 取る。音無が白で、八神さんが赤。こういった光景を見たことは何度もあるが、 二刀流は矢張り異様に映る。 「――始め!」 主審の声に両者立ち、己の距離を保とうと足を運ぶ。すぐさま、音無がどっ しり構え、八神さんがその周囲を回る格好になった。 これはあとで知ったのだけれど、二刀流の長い方の竹刀、大刀は一刀の竹刀 よりも上限が若干短く規定されているらしい。が、このときの僕の目には、ど ちらも同じぐらいの長さに見えた。 試合は、八神さんが仕掛ける素振りを見せると、それに呼応した音無が前に 出る。が、八神さんもうまく引くという動きが何度か繰り返された。相手がま っすぐ下がったなら、音無がスピードに物を云わせて一気に打ち込むはずなの だが、、そうできないのは、八神の下がり方に理由があるらしい。ストレート に後退するのではなく、緩やかな弧を描くような足運びをしている。右にそれ るか左にそれるかを見極めない内は、音無も迂闊に飛び込めない。 膠着気味だった試合が、二分あまり経過したとき、動いた。急に突進をする 八神さん。音無は用心したか、迎撃の構えを取った。互いの剣先が届こうかと いう刹那、八神さんが意想外の動きを見せた。 「あ!」 器用にも、大刀を順手のまま上下逆にし、地面を勢いよく突いたのだ。猫を 思わせる動作で、ほぼ逆立ちの姿勢のまましなやかに身体を伸ばしきり、音無 の真横に降り立つ。いや、降り立つ以前に、小刀で小手を打っていた――らし い。正直云って、極短い間のことで、僕には全てを把握できなかった。あとか ら説明されて、ようやく事態を飲み込めた。 八神さんの気合いの声とともに、赤い旗が揚がる……主審のみ。二人の副審 は明らかに迷っていた。 試合は中断され、三人の審判が集まって審議に入る。 これまたあとから聞かされたことだけれど、このとき揉めていたのは、主に 二つの点について。一つは、八神さんの打突が本当に有効だったか否か。確実 に小手を打っていたが、その繰り出した姿勢から判断して、有効とは云えない のではないか。もう一つは、残心。逆立ち状態からすぐに元の姿勢に戻ったと はいえ、八神さんの体勢はあまりにも不利。剣道における残心の要件を満たし ていないのではないか。これ以外にも、竹刀を落としてはいけないというルー ルもあるそうだけど、これに関しては握らずにいた時間はあったものの、落と してはいないとの判断で、反則に当たらずと早めに結論が出た。 最初の二点に関し、長い審議が続き、らちがあかない。そこへ、打たれた音 無が申し出た。 「有効な小手でした。私が認めます。早く二本目を開始してください」 審議が続く間、面を取って待っていた彼女は、顔色こそ紅潮していたが、冷 静な声でそう告げた。審判達は、困惑したが、所詮は練習試合なのだという思 いもあったのか、割とあっさり認めて、一本目は八神さんの勝ちと判定した。 「認めてくれてありがとう」 八神さんはそれだけ云うと、さっさと面を着けた。音無から返す台詞はない。 両者とも足が汚れていたが、音無だけがタオルでぬぐい、きれいにした。八 神さんがそのままで二本目に臨んだのは、一本目の験担ぎか? 二本目も八神さんは二刀流で来た。今度も、距離を測り、間の制し合いが始 まる。先ほどの超変則的な動きはもう通用しまいと分かっているのだろう、八 神さんはほぼ一刀と変わらない構えに変えている。一本目と違い、二人がそれ ぞれ動き、円を描く形になっているようだ。 一分が経過しようという頃、この試合で初めて鍔迫り合いの体勢になった。 それも長くは続かず、両者すっと離れる。それから様子見なのだろう、剣先を ちょんちょんと当て合う。 「八神君は見た目以上にパワーがあるようだ」 十文字先輩の感想。僕は音無を贔屓しているせいか、同意できなかった。音 無が少し押されたように見えたのは、いなしただけに違いない。 二本の剣先が当たること数度、試合はまたも急に動いた。 音無の竹刀がほんの僅か、深めに相手の竹刀を払った――と思ったら、八神 さんの手から大刀が消えていた。振り飛ばされ、地面に転がる。 八神さんの「あ」という声が、確かに漏れ聞こえた。次の瞬間には、音無の いつも以上に気合いのこもった声とともに面が打ち込まれ、三本の白旗が揚が った。 再三で申し訳なくなるが、これもあとから仕入れた知識になる。このとき音 無がやったのは巻き技とかいう、難易度のとてもとても高い技らしい。よほど の実力差がなければ普通は決まらないという。本来の剣道の実力では、音無が 八神さんを圧倒的に上回っているという証拠なのか。 「はは……これはやられたわ」 八神さんの独り言が、耳にはっきり届いた。多分、対戦相手に聞こえるよう に云っている。 「こうなると、礼を尽くさなければいけない」 会ってから今までになかった真剣な語調で呟くと、八神さんは小刀を手放し た。三本目は二刀流をやめるという意思表示。試合途中で二刀流から一刀に変 える行為が、ルールで認められているのか知らないが、音無は受けて立つ姿勢 だ。 審判からも異議は出ない。強弱を決するべく、三本目が始まった。 いきなり、八神さんがダッシュした。鋭い踏み込み。音無に匹敵するかもし れないスピード。それは戦法と云うよりも、獣の本能めいていた。最短距離で 命を取りに行く、そんな攻撃である。実際、八神さんの剣先は、のどを狙って いるとしか思えない角度を行く。音無に避ける様子は見受けられない。 危ない!と、僕が目を瞑りかけたそのとき、音無も前に出た。 必要にして充分な、最小限の動きによる回避。見切りというやつか、これが。 物語に出てくる剣豪そのものだ。 相手の、敵の竹刀をかわした音無は、胴を打った。いや、斬ったようにすら 見えた。 音は高いが圧力のある声が響き渡り、長く続いた。音無の気勢が残る内に、 彼女の勝利が宣せられた。 「やった!」 僕はつい、叫んでしまっていたかもしれない。 * * (ようやく一人になれた) 音無亜有香は内心でそう呟いた。申し訳ない気持ちがこれ以上膨らまぬよう、 十文字と百田が曲がった方向には振り返らないでおく。 八神蘭との剣道勝負のあと、身支度をし、彼ら二人とともに帰路についた。 少し早い昼食に誘われたが、疲労を理由に断った。実際、事前に覚悟していた 以上に疲労感を覚えている。肉体的にも精神的にも。 (八神蘭……漠然と想像していたよりも、遙かに手練れだった) 一本目で見せたあの変則的な戦法に、護身術の片鱗が見えた気がする。同時 に、違和感もあった。あれは護身と呼べるような術なんかではなく……。 (軍隊格闘技? それとももっと目的に特化した、殺傷術?) そういえばと思い返す。対戦後に、八神と言葉を交わす機会をいくらか持て たのだが、そのときけろりとした顔で云ったものだ。「砂や石つぶての利用を 考えていたのに、思った以上にきれいに整地されていたから、当てが外れた わ」と。本気だったか否かは分からない。 音無が八神を最初から警戒の眼で捉え、その正体――隠している何かを知ろ うと考えたのには、理由が当然ある。音無に備わった、気まぐれな特殊能力が 働いたためだ。 (百田君に憑いているのが見えたときは、多少驚きもしたが……一人か、せい ぜい二人の影。十文字さんに付き従って探偵活動を行っていれば、あの霊のよ うなものが憑く可能性が高まるのかもしれない) そして、霊のようなものは、八神蘭の背後にも見えた。あの災害時、別荘に 現れたそのときから、今もずっと。 (彼女の場合、数の桁が違った。霊らしきものが十は憑いている。探偵の経験 があるから、では片付けられない) では、他に一体どんな事情が考えられる? 家の近くに葬儀場か火葬場か病 院でもある? 親しい知り合いに戦場カメラマンがいる? あるいは家族の誰 かが死刑執行の役を担っている? 空想の翼を広げてみても、納得できる答に 辿り着かなかった。納得するのを、八神の洗練された肉体が邪魔をした。 (ほんの少し触れただけだが、只者でない鍛え方をしていた) 直感は当たっていたと、今改めて思う。 (私達の側に生きる人間ではない気がする。害をなす存在でないのであれば、 こちらも無用な関わりは避けたい。矢張り、十文字さん達にも伝えておくべき か……。しかし、理由を問われると困る。霊のようなものが見えるとは云えな いし、納得しまい) 最初の悩みに戻ってしまった。これがあるからこそ、十文字や百田に事の次 第を云えないでいた。 (今の時点では、静観する外なさそうだけれども……万が一に備え、柔の術も 身に付けることも考えねばならぬか。だが、生兵法は何とやら。柔術は基本に とどめ、剣道の腕を磨くことこそ肝要) 音無はそう心に刻んだ。そのあと、彼女は荷物を入れるバッグに、手を当て た。布地を通し、角張った感触が伝わってくる。 (この菓子折、どうしたものかな) * * 「そうそう、思い出した」 十文字さんのそんな声に、僕は目線を上げた。 僕らは定食屋さんに入り、ざる蕎麦を食べていた。蕎麦と云えば、音無の別 荘に遊びに行ったときを思い出す。あのときの名店の一品とは比べるべくもな いが、ここのざる蕎麦はコストパフォーマンスがよい。夏の最中の昼食には、 持って来いだった。 「何をです?」 「剣道勝負の興奮冷めやらぬで、すっかり忘れていたが、『異形の騎士』事件 に関して、昨日、続報があった」 以前から馴染みの八十島刑事を通じて、尾上刑事が報せてきたという。 「志木竜司の犯行である可能性が非常に高まり、身柄確保に動いたが、すでに 姿をくらませたあとだったそうだ」 「遅かった訳ですか……」 「それだけじゃあない。志木竜司というのも偽名だった。正確には、なりすま しだな。志木竜司なる人物が某大学に籍を置いていたのは事実で、入学から程 なくして届けを出して休学した。その約一年後に復学するんだが、外見が似た 雰囲気の男が、志木になりすまして、復学届だけでなく履修届なんかも出し、 キャンパスライフを送っていたというんだ。実家から遠く離れて一人暮らし、 家族とのやり取りもほとんどない状況でこそ、可能だったなりすましだろうね」 「しかし、確か、マンションの管理人代理というのは、本物の志木竜司の叔父 が管理人だから、お鉢が回ってきたのではありませんでしたっけ」 箸でつまんだ蕎麦を宙に止めたまま、質問をすると、先輩は「尤もな疑問だ」 と誉めてくれるような調子で云った。 「元々、志木竜司と叔父の間の交流も、まるで活発ではなく、顔を合わせたる のが数年ぶりという状況だったらしい。本物の志木竜司自身が、他人との関わ りを持ちたがらない質だった節が窺える」 「はあ。犯人にとって、好都合な人間だったんですね。それで、本物の志木竜 司はどうなったんでしょう?」 「分からない。偽志木と同様、行方不明だそうだよ」 「え? ちょっと待ってくださいよ。本物まで行方知れずなら、どうしてなり すましがばれたんです?」 息を荒くして喋ったら、薬味の刻み海苔が少しばかりテーブル上に散ってし まった。拾い集めるのも何なので、そのままスルー。 「不可解な流れなんだが……匿名の電話があったと。公衆電話から若い女の声 で、大学と警察にそれぞれ一度ずつ、『志木竜司は志木竜司ではない。別人が 騙っている。調べる必要がある』ってな感じに一方的に喋ったんだってさ」 「うーん、何かその女も凄く怪しいような。情報は正しかったけれど」 「怪しいね。マンションでの『異形の騎士』事件だって、管理人代理に化けて いた男が単独で行うには、タイムスケジュールがきつすぎる感じだしね。複数 犯である可能性の方が高い。その場合、匿名電話の主は犯行グループの裏切り 者か、もしくは偽志木を蜥蜴の尻尾みたいに切り捨てるつもりか」 「動機から絞れば、ある程度の見当は付くんじゃないでしょうか。一介の学生 である横田某を殺す動機のある人物が、そんなにたくさんいるとは考えづらい ですよ」 「その辺りの詳しい報告はなかったが、警察は綿密に調べ上げるに違いない。 近い内に、はっきりするんじゃないか」 十文字先輩の口ぶりを聞いていると、もうこの事件には関心を薄れさせてい る様子だ。“異形の騎士”及び動く切断死体の謎が解明できれば、あとは警察 任せにして大丈夫だろう、そんな態度である。 僕の思いを見透かしたかのように、名探偵が口を開く。いつの間にか、蕎麦 を食べ終えていた。 「今回は、事件の最初から関わったんじゃなく、途中で僕の方から首を突っ込 んだ形だったからね。その部分的な謎解きだって、半分以上は三鷹君や七尾君 の手柄だ。これ以上、美味しいところを持って行くのは、捜査に携わる人達に 失礼というもの」 「……ひょっとして、五代さんから何か云われました? そういえば、合宿も もう終わった頃では」 「断じて、そのようなことはないよ、百田君」 十文字さんは探偵から高校生の顔になって、苦笑いを浮かべて云った。 * * 二十数年生きてきた内の数年を志木竜司として過ごした男は、軌道に乗りか けた新たな人生に突如出現し、己の計画を破綻に追い込んだ宿敵の顔を確認に 来ていた。云うなれば、敵情視察だ。 (あれが十文字龍太郎か。話には聞いていたが、本当に高校生だとは) 世に知られた名探偵に看破されたのならまだしも、あのような若造にしてや られるとは。悔しさが男の奥歯を軋ませた。 (だが、見くびってはならない存在であるのは確かだ。俺の同胞で、月曜ごと に殺人を重ねていた、“週明けの殺人鬼”の正体を見破ったのも、あいつだと いうからな) 男は将来、お礼をするつもりでいた。だが、命を奪う前に、やりたいことが ある。やらねば気が済まない。今一度、奇妙奇天烈な事件を起こし、あの高校 生に突きつけてやる。解けるものなら解いてみろ、とな! ――終わり
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