●長編 #0372の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
花世木は、大佐たちのところへ戻る。 大佐とヴォルグは、トラックから運びだされた巨大な金属のタンクを見つ めていた。 長さは2メートルくらいは、あるだろうか。 「そいつが、MD1なのか?」 大佐は、苦笑の形に口を歪めた。 「こいつはただの、アイソレーションタンクにすぎない。MD1はこの中 に眠っている」 「眠っている?」 ヴォルグが会話に割ってはいる。 「排液して、減圧します」 タンクから液体が排出されてゆく。 それを見ながら、花世木は大佐に語りかける。 「殺してもいいぜ」 「なんだと」 「ニンジャを殺してもペナルティは取らない。思う存分やれ」 「はじめっからそのつもりだ。ニンジャボーイは八つ裂きにしてやるよ」 花世木は苦笑する。 液体の排出が止まった。 ヴォルグはタンクについたレバーを操作してゆく。 六ヶ所についたロックが外され、タンクの上半分が開かれる。 花世木は、息を呑んだ。 「おい、なんだよ、これは」 タンクの中から姿を現したのは、可憐な少女だった。 まだ、眠っているのか目を閉じている。 ヴォルグは、少女の口についた酸素マスクをはずす。 顔立ちが人形のように整っている。 一糸纏わぬ姿のまま、液体の中に浮いていた。 腕には、チューブが何本も接続されている。 髪の毛は剃りあげられており、全身無毛であるためマネキン人形を思わせ た。 「こいつが汎用人型対地兵器MDシリーズ1号機だ」 大佐の言葉に、花世木は肩を竦める。 「おいおい、冗談だろ。どう見たってそいつはただの女の子だ」 「見た目はカモフラージュともいえる。おい、ヴォルグ。起動だ」 「はい、大佐」 ヴォルグは、タンクについたパネルを操作する。 電子音がして、モータが起動された気配がした。 それと同時に少女の身体が痙攣する。 そして、その少女は突然身を起こした。 虚ろな黒い瞳を見開く。 ヴォルグは、少女の身体にとりつけられたチューブを取り外していった。 そして、ゴーグルのような形をした、網膜投影型ディスプレイを頭から被 せる。 ヴォルグは、パソコンをタンクに接続した。 キーボードを操作する。 「戦術プログラムをダウンロードします」 「虐殺忌避モードはオフにしたんだな」 「はい。作戦行動に入ったら殺しまくりですよ」 「それでいい」 網膜投影型ディスプレイから少し光が漏れて、少女の顔を夜の中に浮かび 上がらせる。 ディスプレイから漏れる光が激しく点滅するのに合わせ、少女の身体が小 刻みに震えた。 「おい、プログラムをダウンロードって。その娘はひとなんだろ」 大佐は酷薄な笑みを見せた。 「かつては、ひとであったというべきだな。ひとの身体を有機部品として 使用した、ロボットだと考えればいい」 「にしても、プログラムっていうのは」 「イデオット・サヴァンは知っているか?」 花世木は頷く。 「MD1は、人工的に造られたサヴァンだよ。脳内にプラグを埋め込み、 左脳と右脳の接続を切断した上であちこちにショートカットを作ってる。 意思や感情は機能しなくなったが、膨大な情報を正確に記憶可能となり、 電子計算機並の演算能力を持つ」 花世木は驚きの表情で、MD1を見た。 「確かにそいつは、ロボットだな」 大佐は残忍な笑みを見せた。 「それだけではない。脳が身体を制御する際にかけているリミッターがは ずされている。普通のひととは桁違いの筋力を発揮する」 「一体誰が造ったんだ、こんなもの」 「頭のいかれたボルシェビキどもに決まってるだろうが。DPRKが拉致 したひと買い取って改造したんだ」 プログラムのダウンロードが終わったのか、少女の動きが止まった。 大佐は、ヴォルグに叫ぶ。 「コンバットスーツを用意しな」 少女、いやMD1は網膜投影型ディスプレイをはずす。 そして、タンクの中から出て地上へと降り立つ。 夜の空に輝く三日月のように、その白い裸身は闇の中へ浮かび上がった。 その姿は、ガラス細工のように繊細で、蜉蝣のように儚げである。 とても、戦闘できるようには見えない。 「おい、こいつは本当に」 花世木の言葉に、大佐はやれやれと笑みをうかべる。 「見た目はカモフラージュといっただろ」 大佐は拳をつくると、MD1の胴を殴りつける。 ごうん、と金属質の音がした。 「皮膚の下の骨格はチタン合金で補強されている。もしニンジャボーイが 斬りつけたら、刀がへし折れることになるな」 ヴォルグは黒い服をMD1の前に置く。 MD1は、手際よくその服を身につけた。 黒のゴシック調のドレスに白のレースがついている。 そして、三つ編みのおさげがついた黒髪のウイッグをつけ、白いエプロン をつけた。 花世木は目を丸くする。 「何を考えてる」 「局地戦Cモード用、市街地で行動するのに不自然ではない擬装だ」 花世木は溜息をつく。 戦争屋の考えることは、理解しがたい。 ヴォルグはスーツケースから二丁の巨大な拳銃をとりだすと、MD1に手 渡す。 銃身が18インチはある、長大なリボルバー。 MD1は、トリッガーガードについたレバーを操作し、銃身を折り曲げ輪 胴式弾倉に弾丸を確認する。 大きな金色の薬莢が弾倉から姿を見せた。 ライフル弾のようである。 「どうだ、花世木。ダイナソーキラーだ」 「なんだって?」 大佐は楽しげに、銃弾を見ている。 「70口径のニトロエキスプレスだ。おまえ、ロスト・ワールドを知って いるだろ」 「スピルバーグの映画か」 「いや、コナン・ドイルが書いた小説のほうさ。70口径のニトロエキス プレス、チャレンジャー教授の雇ったハンターがティラノサウルスを仕留 めるために用意したライフルの銃弾だ。だからあたしたちは、ダイナソー キラーと呼ぶ」 MD1は二丁の銃をひとふりすると、弾倉を収納しその巨大な銃が重さを 持たないかのようにくるくると回す。 デコレーションケーキみたいなレースのついたスカートをひらりとまくる と、MD1は太股につけたホルスターに拳銃をすとんと納めた。 流れるような美しく動きである。 そしてMD1は、ビクトリア朝時代の淑女がするようにスカートの裾を そっと掴むと優雅な仕草でお辞儀をした。 「なんなりとご命じ下さい、ご主人様」 大佐の瞳が黒い炎を噴き上げるように輝いた。 「命令を下す」 大佐は獣が咆哮するように、叫んだ。 「サーチ・アンド・デストロイだ、MD1。動くものは全て殺せ。殺せ。 殺せ、殺し尽くせ! 最後の血の一滴も見逃さず殺せ!」 MD1はアンティークドールのように美しく整った気品ある顔に、なんの 表情も浮かべず大佐の叫びを受け止めた。 「承りました、ご主人様」 ふわりと、風が吹いたように感じる。 MD1はたった一度の助走のない跳躍でビルの入口まで跳んだ。 まるで黒い揚羽蝶のように、重力から解き放たれたものの動きである。 そのまま、ふわりと音もなく踊るようにMD1は建物の中へと姿を消し た。 花世木はうめき声をあげる。 「あんた、殺し尽くせって」 大佐は哄笑する。 「花世木、心配するな。ダウンロードしたプログラムのデータにはちゃん と四門の情報も含まれてる。MD1は四門を撃ったりはしないよ」 「そうであることを、祈るぜ」 大佐はヴォルグを見る。 「今回の活動限界は、何分でくる?」 「10分ですね」 大佐は、むうと唸る。 「意外と短いな」 「前の出撃から二週間ですからね。まさか今回使うとは思って無かったで すよ。でも、ニンジャボーイが持久戦に持ち込むのは無理です。一瞬で片 付きますよ」 百鬼は、ふと手をとめる。 ずっと、刀の刃を砥石で立てていたのだが、その作業をやめて立ち上がっ た。 四門は、その全身を陽炎のように殺気が覆っているのを見る。 「なんだよ」 「まずいな」 百鬼は手際よく四門の体を車椅子から解放し、手足をワイアーで縛る。 その作業に数十秒しかかけていない。 「なんなんだよ」 百鬼は素早く四門を担ぎ上げると、フロアの送電設備点検用の扉を開き、 その中に押し込める。 「しばらく、ここにいてくれ」 「おい、説明しろよ」 「ひとではないものが、やってくる」 「ひとではないもの?」 百鬼は少しあせっているようだ。 扉が閉じられ、四門は闇の中に沈む。 悪魔のように危うい男をあせらせる存在に、四門は恐怖を憶える。 禍々しいものの気配を闇の奥に、感じるような気がした。 百鬼は、気配を消し給湯室の闇に潜む。 影となり、完全に闇の一部となっていた。 百鬼は気配が迫るのを感じる。 その足音と、移動する速度から考えると、ひとの能力を超えていた。 幾つもの戦場を潜り抜けてきた百鬼をして、想像のつかない存在が迫って いる。 ついに、それは、百鬼の潜むフロアまできた。 階段を昇りきり、無造作といってもいいほど自然体で廊下に入り込む。 その姿を見て、百鬼は息をのんだ。 白のレースに飾られた黒のゴシック調のドレスに、白いエプロンをつけて いる。 百鬼の頭の中に、メイドロボットという言葉が浮かんだ。 メイドロボットは踊るような足取りで廊下を進むと、ふと立ち止まる。 スカートの裾を可憐な仕草で掴むと、バレリーナのように優雅なお辞儀を 見せた。 「あなたを殺しにきました。ニンジャさん」 まるで漆黒の焔が吹き上げるように、殺気が迸る。 メイドロボットは、スカートの裾をまくると、二丁の巨大な拳銃を取り出 した。 少女の華奢な身体とは不釣り合いな、大きく凶悪な拳銃だ。 おそらく闇の中で、気配を消している百鬼の存在を赤外線スコープやス ターライトスコープを使わずに感知できるはずはないのだが。 メイドロボットは正確に、百鬼の位置を把握しているようだ。 百鬼は、素早く給湯室の奥へと身を隠す。 雷鳴のような銃声が轟く。 百鬼は目をむいた。 銃弾は給湯室の壁を貫いて、百鬼に迫る。 百鬼は跳躍して、奥にある荷物運び用エレベータのホールへと入った。 そこにある鉄製の扉を閉め、ロックする。 銃弾は当然のようにその分厚い扉を貫通して、百鬼を追う。 物影に入ることは、全く無意味だ。 銃弾は、壁を貫いて百鬼を追ってくる。 しかも、壁を貫いて尚、殺傷力を失っていない。 おそらく、その銃弾を身体にうければ致命傷となるだろう。 百鬼は荷物運び用エレベータに乗った。 エレベータの扉を閉じる。 爆発音のような音が響き、ホールの入り口にある鉄製扉が破壊された。 メイドロボットは、トリッガーガードの下についたレバーを操作し、中折 れ式の銃身を折ると輪胴式弾倉から空薬莢を捨てる。 一瞬銃身が中に浮き、メイドロボットはスカートの下からスピードロッ ダーに装着された銃弾を装填した。 その動作は数秒しか、かかっていない。 扉が閉まるのと、メイドロボットの銃が火を噴くのはほぼ同時であった。 身を屈めた百鬼の背中を掠めるように、扉を貫通した銃弾がエレベータの 壁に食い込む。 下のフロアについた。 百鬼は素早くパネルを操作して、扉を開く。 頭上で爆発音のような音が轟き、エレベータの天井がずしんと重みで軋 む。 百鬼がエレベータから降りるのと同時に、天井を破ったメイドロボットが エレベータの中へと降りてくる。 エレベータの扉が閉まるのもかまわず、銃を撃った。 扉を貫通し、襲いかかる銃弾を躱しながらホールの出口の扉を開きロック する。 そのまま、フロアの廊下に出て下のフロアの部屋に入った。 その部屋はかつては倉庫であったらしく、幾列もの棚が残されたままに なっている。 百鬼は頭の中で素早く作戦を考えてゆく。 二階堂流には最後の奥の手がある。 百鬼が魔法と呼ぶものだ。 しかし、相手がひとである場合なら魔法も使えるが、ひとでなきものに通 用するとは思えない。 百鬼には、別の奥の手もあるが、そちらを使ってしまうのはリスクが高 い。 しかし、もう選択する余地はなさそうであった。 轟音が2回轟き、メイドロボットが倉庫に入ってくる。 百鬼は倉庫の奥へと移動していく。 メイドロボットの銃が火を噴いた。 銃弾は壁を貫くパワーはあるが、鉄製の棚にあたると軌道を変えられてし まい百鬼から逸れてゆく。 百鬼は倉庫の奥へと移動していった。 そこには、小さな空きスペースがある。 十メートル四方程度の空間だ。 そこでなら、百鬼は奥の手を使うことができる。 地下足袋を履いた足元を確認しておく。 コンバットブーツほどの強度はないが、対刃対銃素材で作られており、ナ イフを踏んだくらいでは足に傷がつくことは無かった。 その地下足袋は効率よく大地に力を伝えることができる。 メイドロボットは音もなく、宙を飛ぶように移動して来た。 舞踏会で可憐な舞をまう乙女のように、ふわりと百鬼の前に立つ。 純白のエプロンが闇のなか窓から差し込む微かな光のなか、白雪のように 淡く輝いていた。 アンティークドールのように整った顔に、薄く笑みを履いて。 凶悪な肉食獣のような殺気を振り撒いていた。 それは漆黒の焔が、暗黒の渦を巻いているようだ。 百鬼は電気を受けたように、全身に痺れのようなものが走るのを感じる。 そして、百鬼は知らぬうちに笑っていた。 おそらくダルフールでもルワンダでも、一個大隊に追われたときにも精鋭 の特殊部隊と対峙したときにも感じることができなかった、死線に立つと いう感触。 一体いつ以来感じていなかったのか思い出せないようなその感覚に酔いし れていた。 麻薬の感じに近いものがある。 全感覚が極限にまで研ぎ澄まされており、部屋の中の空気の流れまで感じ 取ることができた。 光は細かな粒子となり、あたりに満ち溢れている。 全身を巡る血の一滴すら、その動きを感じ取ることができた。 ほんの一秒が、数分に匹敵するほどに感じられる。 それらの感覚が一時的に強化されたもので、数分後には反動で動けなくな るのは判っていたが、それでも今ここで全てを出し尽くさねば死ぬことも 間違いない。 メイドロボットは、その長大な銃を百鬼に向ける。 残りの銃弾はそれぞれの銃に二発づつ、計四発であった。 その凶悪な佇まいを持つ、大口径のリボルバーは不釣り合いに可憐な手の なかで暗い殺気を噴き出す。 百鬼は、頭の中のスイッチを入れる。 縮地という技が古武道にはあった。 一瞬にして、相手との間合いを潰す移動を行う体術。 要するに、頭が制御して身体にかけているリミッターを一時的にはずし筋 肉の潜在的力を解放する技だ。 百鬼はそれにアレンジをつけている。 銃を持った相手との間合いを潰したとしても、相打ちになる可能性があっ た。 相手に幻を見せ、銃弾を無駄遣いさせる。 それが、百鬼の技だ。 高速で左右に移動しながら、メイドロボットとの間合いを潰す。 全身の筋肉と心臓が過負荷に身をよじりながら悲鳴を上げる。 百鬼は、意識が苦痛で真っ白に焼け焦げてゆくのを感じた。 メイドロボットの銃が火を噴く。 二発の銃弾がコンマ一秒程度遅れて通過する。 メイドロボットは百鬼の残像を撃ったはずだ。 脳は全身をコントロールするのに力を使い切っているため、脳裏に浮かぶ メイドロボットの映像は酷くぼんやりしたものになる。 意識は一秒が永遠に感じられるほど、脳は高速に処理を行っていた。 そのため、視覚から色や質感は失われ、モノクロームの世界となる。 音もまた、水の中で聞くようなものになっていた。 闇と静寂の世界。 深海に沈んだようである。 身体もまた、深海の水に閉じ込められたように重く身動きがとれなくなり つつあった。 実際にはありえないほどの高速で動いているのだが、粘塊に捕らわれたよ うに身体が重い。 もう一度二発の銃弾が放たれる。 その弾道を百鬼は肉眼で捕らえていた。 コンマ一秒は遅れている。 メイドロボットは残像を撃っていた。 メイドロボットには、百鬼の姿は三つの残像に見えているはずだ。 百鬼はこの技を影分身と呼んでいる。 弾丸は百鬼を掠めて後ろの壁に着弾し、爆発音のような音をたてた。 身体のそばを掠めただけで、棍棒で殴られたような衝撃がある。 その衝撃を堪え、前へ進む。 間合いは潰せた。 銃弾も全て使い果たしたはずだ。 百鬼は液状になった空気を切り裂きメイドロボットに斬りかかる。 胴田貫はがつん、と音を立ててメイドロボットの首筋に叩き込まれた。 百鬼は苦笑する。 あわよくばと思っていたが、さすがに首筋の急所はアーマーでガードされ ているようだ。 メイドロボットは銃を捨てた。 胴田貫をメイドロボットは左手で掴む。 右肘が刀身に叩き込まれた。 胴田貫がへし折れる。 百鬼は刀を捨て、腰からスタンロッドを引き抜く。 それをメイドロボットの左目に差し込んだ。 火花が飛び散り、電撃がメイドロボットの頭部を覆う。 青白い稲妻が、三つ編みのおさげの頭を包んだ。 眼球は人工のもののようだ。 おそらく水晶体の代わりに超小型のスターライトスコープを埋め込んでい るのだろう。 百鬼は下腹に殺気を感じる。 メイドロボットの足が振り上げられてゆく。 百鬼の意識は通常の速度に戻りつつあったが、それでもメイドロボットの 前蹴りをとらえることができた。 足先が鳩尾に食い込むと同時に、後ろへ飛ぶ。 威力は凄まじいが、同時に後ろへ跳躍することで半減させる。 それでもメイドロボットの前蹴りは、車に跳ねられたくらいのパワーが あった。 5メートル以上吹き飛ばされると、百鬼は壁に激突する。 意識が暗くなった。 身体は限界を超えており、動かすことができない。 メイドロボットが膝をつくのが見える。 百鬼は上半身を起こす。 骨は折れていないようだ。 打撲のみらしい。 おそらく、内臓も無事。 百鬼は呻きをあげながら、嘔吐した。 血は混じっていない。 胃液だけだ。 メイドロボットは、ゆっくりと仰向けに倒れる。 百鬼は安堵の溜息をついた。 これ以上は戦うことは無理だ。 そのとき。 メイドロボットの上半身が跳ね起きる。 百鬼は、悲鳴をあげる身体を無理やり起こし、膝をつく。 しかし、メイドロボットの残った右目は虚ろだ。 驚いたことに、メイドロボットは言葉を漏らす。 「おかあさん」 メイドロボットは、ぼんやりとした表情で言葉を重ねた。 「おかあさん、今何時なの?」 彼女は薄闇の中に身を起こした。 傍らにある目覚まし時計を手にとり見る。 6時30分を回ったところ。 いつもどおりに目が覚めたようだ。 夜が明けて間もない時間。 外はまだ灰色に閉ざされている。 彼女は身を起こすと、階下に降りた。 「おかあさん、いないの?」 食堂のテーブルには、彼女の朝食が用意されていた。 ひとの気配はない。 彼女の母親は、どこかに出かけたのだろうか。 テレビだけがつけられており、ひとの声を聞こえている。 彼女はテレビの音声を聞き流しながら、食事をはじめた。 『20世紀のはじめまで、ひとは光を伝達するエーテルという存在を仮定 していたのですが。 今では、エーテルというものは意味を成さなくなっています。 けれども光は波ではなかったのでしょうか? アインシュタインは、光は波であると同時に粒子であると定義していま す。 これはとても奇妙なことです。 波は空間の中に偏在しますが、粒子は極所にしか存在しえません。 コペンハーゲン解釈に基づけば、波である光が粒子に変換される瞬間、 それは観測した瞬間であるとされます』 彼女はぼんやりと、夢で見たことを思い出す。 奇妙な高揚感のある、けれど殺伐とした夢。 彼女はメイドふうの衣装に身を包んで、なぜか銃を撃っていた。 誰と戦っていたのか、なぜ戦っていたのかは、記憶が霞の中にあるように 思い出すことができない。 『では観測される以前の状態は、粒子が何箇所かに潜在しており、観測さ れると同時に一箇所に収縮したというのでしょうか。 これが有名な、シュレディンガーの猫のパラドックスを生み出す概念で す。 わたしたちが意識して世界を観た瞬間に、世界は一意の状態に決定され る。 観測されるまで猫は生きているのと死んでいるのが重なり合った状態で すが、観測される、つまりわたしたちが意識し、思考の対象とした瞬間 に生か死か一意に決定されるのです。 これはエヴァレットの多世界解釈で説明すると、重なり合った並行宇宙 から、ひとつの宇宙が選択されるというべきなのでしょう』 彼女は、まだ夢の中にいているかのようだ。 現実感が希薄だ。 あたりは霧につつまれているように、ぼんやりとしている。 まだ彼女はどこかで、メイド服を着て戦っているのかもしれない。 それは多元宇宙の重なり合った状態。 そして目覚めれば、どこかのあたしか、ここにいるあたしが、どれかに意識 は収縮する。 その突拍子もない考えに、彼女はくすりと笑う。 『さて、光に話をもどしましょう。 波の状態にある光はまだ実在しているとはいえません。 それは、場の性質として波動関数で現される、虚構の存在です。 私たちがものを見るときには、網膜で光を波から粒子に変換していま す。 哲学者のベルクソンは、目とは光という問題の解であると語っていまし た。 目とは、ある意味では波動関数の収縮装置であるといえます。 そして、世界を実在にいたらしめる装置であるともいえます。 生物の進化が爆発的に進むのは先カンブリア代であると言われますが、 そのときに起こったできごとが何かといいますと、目を持った生物の出 現なのです。 生物が目を持たなかった時代は、まだ進化の流れは起きていなかった。 目を持った生物が出現したとたん、世界は始まりわたしたちのところへ と至る流れへと収縮していくのです。 目を得たとき。 生物は夢から目覚めたのです』 彼女は食事を終えると席を立つ。 学校についた。 それほど早くついたはずではないのだが、教室には誰もいなかった。 いや、ひとりだけ先客がいる。 黒い制服を着た男の子だ。 彼女はその男の子に声をかける。 「亜川くん、おはよう」 亜川は、ゆっくりと彼女のほうを振り向く。 整った顔立ちであるが、特徴はなくどちらかといえば影が薄いほうであ る。 何も言わず、亜川はただ会釈を返した。 「ねえ、亜川くん。あたし、とてもへんな夢を見たの」 教室の中もみょうに薄暗かった。 天気が悪いのだろうか。 すべて靄がかかっているような。 左目の奥で何かが渦巻いているような気がする。 ここではないどこかの現実と、この教室のできごとが。 左目の奥で結びついているかのような。 彼女は少し困惑しながら、言葉を重ねる。 「あたしね。メイド服を着て銃を撃っているの。あたしはロボットに改造 させられたのよ。可笑しいでしょ」 彼女はあははと笑ったが、亜川は無表情のまま彼女を見ている。 「それでさ、変な事にね」 世界は薄闇の中でマーブル上に溶けていっている気がした。 この教室の外は、色々なものが重なり合った廃墟のような場所になってい て、全てが混ざり合ってゆくような。 不思議な感覚。 「あたしが戦っている相手が亜川くんなの」 亜川はゆっくりと頷く。 「その夢はまだ終わっていない」 「え?」 意外な亜川の言葉に彼女は問い返す。 「夢はまだ続いている。どこかに収縮することを求めながら」 彼女は眩暈を感じ、膝をつく。 そう。 ここは、まだ夢の中。
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE