●長編 #0336の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
それから、ふっと思い立つ。今朝のことが脳裏に描かれた。 再度、相羽の方をちらっと見る。ただし、今度は彼の横顔ではなく、腕を。 純子はバスケットを左肘に掛けると、右手を相羽の左手に重ねようと伸ばし た。 「――」 相羽が気付く。 互いの手がぎこちなくふれ、その温度や感触に一瞬、離れる。そしてまた近 付いて、今度は強く握り合った。 純子は彼との距離を縮めた。 「腕……いい?」 上目遣いになる。純子も背が伸びたが、相羽の成長はそれ以上だと実感させ られる。 残っていた左手も、相羽の腕に触れさせた。返事は言葉ではなく、態度で。 腕を絡めやすいよう、相羽が肘を軽く曲げる。 二人の間にあった物理的な距離はなくなった。 行こう。 うん。 そんな会話を交わしたかのように、でも言葉のやり取りはないまま、歩き始 める。 そのとき、花びらが一斉に散り、舞った。純子と相羽が腕を組むのを、ずっ と待っていたかのように、桜色したカーテンが現れ、儚く姿を消した。 恋人達の会話を聞いたのは、桜だけなのかもしれない。 充分に時間を使って散策し終えると、二人は公園を出、純子の言っていた和 菓子店に寄った。予定より少し遅くなりかけていたので、買い物を手際よくす ませ、バス停に向かう。 やがてやって来たバスは、幸いにも空いていた。 二人掛けの席に、純子が窓際、相羽が通路側の並びで座る。相羽の膝上には 空のバスケット、純子の膝上には鶯色の紙袋がある。袋の中身は、買ったばか りの桜餅だ。くるみ入りのをちゃんと買えたので、純子はご機嫌かつ安心して、 にこにこ顔が止まらない。 「帰り、家に寄って行って。一緒に食べよ」 「うん」 「洋菓子だったら、紅茶を入れてもらうとこなんだけど、和菓子だから仕方な い。私がお茶を入れるね。あは」 「ペットボトルの残りがあるけど」 「意地悪言わないでよー」 こんな調子でお喋りをしていた。が、やはり純子の方は疲れが出たのだろう、 バスの振動を心地よく感じながら揺られる内に、いつの間にか眠ってしまった。 「次だよ」 短いが優しい声と、肩への感触で目が覚めた。睡魔の深淵から一気に引っ張 り上げられた純子は、目をぱっちりと開け、意識もはっきりした。 「ご、ごめんなさいっ。寝ちゃってた……」 びっくり顔をした隣の相羽に、純子は何度も頭を下げる。 「気にしなくていいよ。起こしたのは、降りるとき、お姫様だっこするわけに もいかないから」 「……」 その場面を想像した純子。顔の火照りを覚える一方で、悪くないかも、なん て思ったり。 と、膝上に何もないことに気付いた。 「あ、桜餅!?」 「こっち」 相羽の膝上にあるバスケット、そのまた上に載せる形で、鶯色の紙袋があっ た。 「よかった。落とすかなくすかしたのかと思っちゃった」 「実際、ずり落ちそうだった。それにしても、目が覚めて、次に気になるのが 食べ物だなんて」 「もうっ、知らない」 車内に、陽の光がやわらかに射し込み、あふれている。 「来てよかった」 降りてすぐ、どちらからともなく言った。 四月の第一週、『ファイナルステージ』初回の放映があった。そう、久住淳 としてアフレコに初挑戦したアニメである。と同時に、風谷美羽として初めて 歌――エンディング曲を唱っている。まさに初物尽くし。 「……やっぱり、まだちょっと浮いてるかな」 純子は録画しながら観て、前と同じ感想を持った。第一話だけ、先行プレミ アステージと銘打って、試写会が行われたのだ。その折、純子も会場にいたの だが、上映終了後に、集まってくれたファン(原作漫画のファンが大半なのは 記すまでもない)の交わすひそひそ話が、全部悪口に聞こえて、内心どきどき ものだった。 舞台挨拶のために、他の声優陣とともに姿を見せる段階になって、ようやく ほっとできた。拍手喝采で迎えられたから。 ちなみに、そのあとの簡単な質疑応答で、再びどきどきさせられた。まだま だトークが苦手なのを証明してしまった形である。 この手のイベントでは、主題歌を唱う歌手も登場するケースがよくあるが、 純子は頼み込んで辞退させてもらった。久住として挨拶し、その変装を解いて 今度は風谷として歌を唱うなんて芸当は、危険すぎる。番組資料上、風谷の名 は出さざるを得ないが、モデル業と学業が多忙なためとの理由で、表立った活 動は抑え気味にする取り決めもできていた。 番組が終わって、自分の歌をテレビで聴くという滅多にない体験に、ほわほ わと身体を熱くした純子は、顔を洗いに席を立った。身も心もクールダウンさ せ、タオルで顔を拭き終わったとき、ちょうど携帯電話が鳴る。 市川からだった。話の内容は、当然、放映があったばかりの新番組について。 「上々よ」 「本当ですか。どうしても一人浮いてる気が」 「アテレコのこともだけど、歌も。あれは私も結構、気に入ったゾ」 「は、はあ」 市川が仕事のことで自身の感想を述べるなんて珍しい、と感じて、中途半端 な返事になった。 「何ていうか、上下左右前後にとても広がりがあって、よいなあ。鷲宇さんの 言ってた意味が、やっと分かった感じよ。これまで男声を強いられてきたのが 解放されて、一挙に開花したってね」 「へええ、そんなことを鷲宇さんが」 「ありゃ、聞いてなかったのかい。それはまずかったかな。歌に関しちゃ、誉 め過ぎるなって釘を刺されててねえ」 「たまには誉めてくださーい」 笑い声を立てる純子。 心の中ではうなずいていた。それは指導方針のこと。確かに、歌は厳しく指 導された方が、自分に合っている。モデルや演技に関しては、誉められた方が 乗せられてうまく行く気がする。声優は……まだ何とも言えない。 「反響が大きければ、大々的にプロモーションをしたいっていう話があるのだ けれど、やっぱりやめとく?」 「私の意志よりもまず、スケジュール上、無理なんじゃないですか」 ゴールデンウィーク中に、久住としてのミニライブをやる計画が進行してい る。これまた初挑戦であり、諸般の事情により延び延びになっていただけに、 今度こそと準備に余念がない。 「さてさて、そこだ」 市川がおかしな物言いになる。純子は警戒した。電話を握る手に力がこもる。 「久住のライブの中で、風谷が“ゲスト”出演し、一曲披露するのはどうかし らと考えたんだが」 「無茶ですっ、市川さん。鷲宇さんが許すはずありませんし、ファンは怒るだ ろうし、正体を見抜かれる危険性だって段違いに高くなる。レコード会社との 取り決めにも触れるんじゃないんでしょうか」 「そこらは承知の上。取り決めはクリアできる。だって、向こうこそ、宣伝し たくてたまらないに違いないんだから、どんどん唱ってくださいってなもんよ。 問題は二役の方。で、何か策はないかと思って、捻り出したのが、二部構成に するというアイディアでね。観客総入れ換え制で、第一部は風谷美羽、第二部 は久住淳のライブをやる」 「もっと無茶苦茶です! だいたい、風谷には曲が一つしかありません!」 声を張り上げた純子に、後方から「どうかしたのか」と父の声がする。振り 返ると、新聞を片手に父が急ぎ足でやって来ていた。 「仕事のトラブルか? お父さんが出なくても大丈夫か?」 「うん、トラブルじゃないの。ごめんなさい、大きな声を出して」 送話口を手のひらでカバーし、応じると、父はそうかと安堵して元いた場所 へ戻っていった。 「市川さん、すみません」 「いいお父さんだねえ。こっちの仕事にはほとんど口を挟まないから、関心な いのかと思っていたんだけど、なかなかどうして、立派な父親だ」 「わ、私の父の話はいいです。それよりも」 「分かってる。ライブ二部構成案もだめかな、やはり。あなたから鷲宇さんに かわいくお願いしたら、通ると思うんだが」 「何なんですか、かわいくっていうのは」 もしかして市川さん、酔っ払っているのだろうかと疑いたくなった。 電話の向こうでは、そんな疑心などつゆ知らず、饒舌が続く。 「となると、今回はあきらめるとしても、いずれ風谷が単独でやるときは、鷲 宇さんにゲスト出演してもらうのがいいかしら。ゲストが鷲宇憲親なら、お師 匠格なんだからファンも納得するでしょう」 「もうどうとでもしてください……。その頃には、風谷だって持ち歌増えてる かもしれないし」 近くある初ミニライブが無事乗り切れるなら、それでいいとしておく。 「前向きね。ポジティブシンキング、大いに結構よ」 「ポジティブ? 逆じゃないですか」 「持ち歌が増えてるってとこが。これからも続ける気、満々じゃないの」 嬉しそうな声を聞いて、純子は失言だったかと軽く後悔。別に嫌じゃないけ れども、実質一人でルークを支えているような状況は疲れる。 ちょうどいいと思い、前から気になっていたことを尋ねてみようと決めた。 「あの。つかぬ事を伺いますが」 「なあに、改まっちゃって」 「ルークって、儲かってるんでしょうか……?」 「ええ。それなりにだね。少なくとも、私達のお給料が出るくらいには。抱え ているタレントが一人で小規模にやってるからね。鷲宇さんへの依頼だって、 まともに頼んだら目玉が飛び出るくらい高くつくところを、私の最初のアプロ ーチがよかったのか、それとも鷲宇さんがあなたを気に入ったからなのか、よ くしてもらっているのよ。ただまあ、久住と風谷の二役をやってる関係で、売 り込みやら宣伝やらの諸経費が二人分かかるのがちょっと痛い。二役じゃなか ったとすれば、あなたへ実際に渡すギャランティももっと多くなってた」 今でも充分すぎるくらい受け取っている気でいるのだが。美咲の手術のため の募金に協力したこともあって、現在手元にはあまり残っていないものの、納 得している。 「何でそんなことを言い出したの? 久住か風谷、どちらか一つに絞った方が よかったと思ってる?」 「もっと多くなってたって、まさか、合わせれば美咲ちゃんの手術費用をいっ ぺんにまかなえる程じゃありませんよね?」 「ははあ。それはさすがに無理だぁ。財テクで何倍にもしないと」 「だったら、いいです。それよりも、ルークに新しいタレントを入れることは、 考えてないんでしょうか?」 「ん? 妹分が欲しくなった?」 声が弾む市川。妹分をデビューさせて売り出すのもいいかも、と算盤を弾き 始めたのかもしれない。 「違います」 即座に否定してから、一人だけという現状では肩の荷が重いという意味のこ とを伝えた。 「――ですから、妹分とかどうとかではなくて、何人かの人を入れて、みんな でルークを支えていくというのがいいんじゃないかなって。私も三年生になっ たら、受験勉強で忙しくなると思うし、今のペースでは絶対に無理です。よく 分かりませんけど、事務所の将来を考えても、新人さんを育てていく必要とか ……」 「考えないでもないよ」 返答はあっさりとしていた。 「諸々の経費の問題は言ってもしょうがないし、脇に置くとして、だ。二人目、 三人目のタレントを入れるっていうのは考えの中にある」 「じゃあ」 期待に胸を膨らませる純子。 だが、その期待は、市川の次の一言でしゅるしゅると萎んだ。 「でもタレントを増やすと、あなたに辞められてしまいそうな気がするのよね え。うちは風谷も久住も手放したくないんだ」 「辞めませんよー」 「心理的な話よ。ふっと、辞めたいなって思うとき、これまでにもあったでし ょ」 「それはまあ……」 「そういうときに、事務所に他のタレントがいて儲けが出ているとしたら、割 と気軽に辞められる。今のまま、うちにはあなた一人しかいない状況なら、辞 めづらい。そういう性格じゃないかな、涼原純子って人は」 「……」 見抜かれている気がした。 これまで仮に純子がタレント活動を一切辞め、ルークが立ち行かなくなった としても、市川らには広告の仕事に戻る道があるから、職を失くすことはない。 以前の地位よりもランクを落とされるかもしれないが、食うには困るまい。 それでも続けてきた理由の何分の一かは、タレントが自分一人だからという 意識。確かにそうだ。 (見抜いた上で、ずっと新しい人を入れないできたんじゃあ……ないわよね。 いくら何でも) またまた疑念が持ち上がる。市川の次の台詞は、明るい調子で語られた。 「ま、誰か入れるって話も含めて、重荷を分散できるように対策を講じるから さ。あなたには仕事に集中してほしいの」 「はい」 「よし、その心意気よ。では、話を戻すと……歌の発売に合わせて、一回だけ、 サイン&握手会みたいな営業をしたい、と。これはレコード会社からの要請で 断れそうにない」 「営業はかまいませんけど、人、来ます?」 「私は詳しくないんだが、アニメファンの集いみたいな感じでやりたい意向ら しい。だから、かなり大勢来るんじゃないの」 「多すぎるのも……連続して何十人と握手したら、腱鞘炎か何かになって、身 体のバランスが悪くならないかな。そうしたら、モデルの仕事に悪い影響が出 るかも」 ささやかな抵抗。 「うーん。医者じゃないから、これまた私にはどうだか分からない。気になる のなら、両手で代わりばんこに握手すれば? 右、左、右、左ってね」 相手が一枚上だった。 初回放送の翌日、学校に行ってみると、そこそこ話題になっていた。原作漫 画の読者層の中心が中高生なのだから、当然かもしれない。 が、漏れ聞こえてくる会話の内容から判断すると、『ファイナルステージ』 に純子が関わっていると気付いた人はいないようだった。久住淳としてやった アフレコはともかく、エンディング曲を風谷美羽すなわち女として唱ったにも かかわらず、気付かれないとは。 (あんまり注目されなかったかな。その方が好都合ではあるんだけれど) テロップで「歌 風谷美羽」と短く表示された。たとえそれに目を留めたと しても、その名が純子を示すと認識している人の割合は、案外低い。純子がな にがしかの芸能活動めいたことをやっているとは知っていても、芸名を知らな い者(つまり、活動は本名でしていると思い込んでいる者)がほとんどなのだ。 そんなことよりも。 「クラス替え、どうなったかな」 つぶやく純子。 そうなのだ。今日は新年度の始まりでもある。純子にとっては、高校二年生 としての生活が、名実ともにスタートを切るというわけ。 そして目下最大の関心事は、クラス分けだった。 (贅沢は言いません。相羽君と同じクラスになれたら。それだけでいいですか ら、お願い) 掲示板のあるところへ向かう道すがら、ほとんど無意識の内に、手を組み合 わせて念じていた。 「相羽と同じクラスになれますように……ってか?」 「え?」 不意の声に、足を止めて振り返る。唐沢が廊下の壁にもたれ、頭の後ろで両 手を組んでいた。彼の前を通り過ぎたと気付かなかった自分に呆れてしまう、 と同時に、恥ずかしい。 「すっずはっらさん。お祈りはいいとしても、歩きながら目を閉じるのはよく ないと思うよん」 スキップするような足取りで距離を縮めた唐沢は、純子の前に立つと少し顔 をしかめた。 「あれま。また背が伸びたようで」 「え、そうかな」 反射的に自分の頭のてっぺんに、手のひらを持って行く。確かに、唐沢との 差が縮まった気がする。 「モデル的にはOKってとこ?」 「でも、相羽君に追い付いちゃったら、やだ」 再び歩き出し、ため息をつく。それを受けて、すぐ斜め前を行く唐沢が言う。 「男の背は、高校ぐらいからよく伸びるさ」 「……それって、私が男っぽいってことになるんじゃない? 体質的に」 「あ、いや、それは」 しまったという表情になり、そのまま背を向け、歩みを早める唐沢だった。 尤も、早足になったところで、目指す先は同じなのだから意味がない。 「そういえば唐沢君。相羽君を見掛けなかった?」 「いや。逆に俺はてっきり、一緒に来たのだとばかり。毎朝、迎えに来てくれ るんじゃないのかい、相羽のやつ?」 冷やかしを交えつつ、意外そうに見返してくる。純子はまたため息をついた。 今度はがっかりした風情で。 「迎えはさすがに滅多にないけれど、途中で一緒になることはしょっちゅうな のに。今朝は会えなかった」 「そんな、永久の別れみたいに。学期の初日ってのは、結構ばらばらになるも んだし。ひょっとして、天文部で何かあったんじゃないのか」 「うーん、聞いてない」 話す内に、掲示板の前に着いた。当然、他にも見に来ている人は多いが、学 年別にそれぞれ大きく張り出されているので、ごった返すとまでは行かない。 「見える?」 「背が伸びましたから」 唐沢が聞いてきたのへ、最前の意趣返しをちょっぴり込めつつ、応じる。唐 沢は勘弁してくれと言わんばかりに、大きく吐息。と思ったら、不意に大きく 前に出る。 「こうなったら、涼原さんより先にクラス分けを見て、感激を薄れさせちゃる」 などと呟きながら。 「どういう意味?」 一歩遅れて掲示板に近付き、尋ねる純子。唐沢は振り向きもせずに、「もし 涼原さんが相羽と同じ組になってたら、そのことを君が見つけるよりも早く、 言ってやる」と早口で答えた。 「……確かに、感激は薄れるかも」 一緒のクラスになれている確信なんて、もちろんないが、純子は急いで掲示 板の文字に目を凝らした。まずは自分の名前、もしくは相羽の名前のどちらか を見つけないと。 こういう場合、不思議なもので、どんなに好きな人の名前であろうと、自分 の名前の方が早く目に留まることが多い。事実、このときの純子もそうだった。 二年三組に自分の名前を見つけた純子は、すぐさま視線をその隣の欄の最上 段付近に移した。相羽の名前があるとしたら、そこだ。 即、見つけた。 「――あった!」 弾んだ声が重なる。隣の唐沢も、何故か同じように叫んでいた。 「自分の目で見つけられたわよ」 「ああ、俺も」 唐沢はそう言いつつ、右手を差し出してきた。 「俺もクラスメートだ。また一年間、よろしくってことで、握手を」 「え。あ、そうなの? よかった」 純子が手を握り返そうとした瞬間、廊下右手の方角から結城の声が耳に飛び 込んできた。 「あーっ、いたいた! 探したよ、純子」 振り返ると、結城の他に淡島もいる。二人は対照的で、朝から元気いっぱい の結城の斜め後ろで、淡島は半分目を閉じているように見えた。挨拶を交わす ときも、淡島はいつも以上に間延びした返事をよこした。 「調子悪そうだけれど……」 「心配をかけてすみません。大丈夫、今朝は特に低血圧な感じなだけです」 「恐縮するようなこっちゃない。気にしない、気にしない」 純子が気遣うと、淡島が謝り、結城が励ます。 その間、空気と握手したままだった唐沢は、右手で髪をかき上げると、女子 二人に「おはようさんで」といささか不機嫌な口調で言う。 「あら、いたんだ?」 「あら、ひどいご挨拶。俺ってどーも、涼原さんの友達にだけはもてない気が する」 「『だけは』って、そういう風に言えるところが、厚かましい」 「ねえ、マコ。探していたって、何かあったの?」 際限なく続きそうな二人の喋りを打ち切ろうと、純子は結城に聞いた。 彼女は顔を純子に向けると、首を軽く横に振る。そして人差し指で掲示板を 示しながら、 「特にどうってことはなし。でもまあ、一緒のクラスになれたから」 と笑みをなした。 「マコも、淡島さんも三組?」 くじ運?のよさを感じつつ、聞き返す。 と、結城の方は訝しげに目を細めた。 「その様子だと、まだ確認してなかったわけね」 「ご、ごめんなさい。まだやっと自分の名前を見つけたばかり」 「それと、相羽の名前もな」 横合いから唐沢が口を挟む。頬をほのかな朱に染め、純子が焦り気味に抗議 しようとするが、それよりも先に結城がしたり顔を作った。 「なるほどね。うんうん」 「何が、うんうん、なのよ」 「言わせたいなら、大声で言うけれども、それでいいのかしらん?」 結城はにやにやし、純子は沈黙。 「ところで、相羽を知らない? 今朝、まだ見てないんだよ」 唐沢が純子の気持ちを代弁するかのように、結城らに問う。 すると淡島が伏せがちだった面を起こした。一言喋るのも辛そうに、大きな ため息をつく。結果的に他のみんなの目を集めてから、口を開いた。 「私、見ました。職員室に用事があって、早朝に訪ねたのですけれど、その折 に、相羽君が、えっとあれは確か、神村先生と一緒に、生徒指導室へ入ってい ったように見受けました」 「生徒指導室?」 聞き返したのは、結城と唐沢。どちらもその表情は不可解さいっぱい。 「何であいつが。生徒指導室なんかには最も縁遠い存在だぜ」 「内情まで承知していません。それに、相羽君を見たと言いましたが、後ろ姿 でしたので、ひょっとするとよく似た人を見間違えた恐れ、なきにしもあらず」 「似た人なんて、いない」 純子がすぐさま否定すると、淡島は「ですから、後ろ姿だけですってば」と、 驚いたみたいに目を丸くし、答えた。 「別に大したことないんじゃない? 生徒指導室に行ったからって、問題起こ したとは限らないわよ」 結城が明るい調子で言う。 「個人的な話をするのに最適だからね、あそこは」 「でも気になる……」 考え込む純子。こういうとき、悪いパターンを真っ先に思い描いてしまう質 だけに、不安が募ってきた。 「この! 幸福者がそんな顔するんじゃない!」 突然、結城が後ろから肩越しに腕を乗せ、体重を掛けてきた。あえなくバラ ンスを崩して、しゃがみ込むが、それだけでは終わらず、しりもちをつく。 「この中で唯一恋人のいるあんたが、そういう不景気な顔するのは許さないか らねっ。くすぐってでも笑わせる!」 本当に脇腹をくすぐってきた。「お手伝いします」と、淡島も真剣な面持ち で加わったから、たまらない。 「きゃー! やめてー、あは、だめだって。だめってば。元々弱いんだからぁ。 あはは、やだ」 純子自身はそう叫んだつもりだが、最後の方は声にならない掠れた笑いの悲 鳴になっていた。身体をよじって、ふと見えた唐沢に助けを求める。 「か、唐沢くーん、あん、やめるように言って。やーん」 傍観していた彼は、 「楽しそうかつ色っぽくて結構。だが、次からは、男も参加できる遊びにして もらいたいですな」 と、頭をかいた。 「ま、そろそろやめないと、恥ずかしいぜ。みんな見てる」 唐沢が言う通り、掲示板のすぐ近くでこんなことやったものだから、注目さ れるのは当然。知っている顔もちらほらあった。 それを承知していたのかどうか、結城も淡島も、タイミングよく、ぴたっと 手を引き、立ち上がる。身体を丸くして「防御姿勢」を取っていた純子は、や っと収まった「攻撃」に、まだ安心できなくて、そろりそろりとガードを開け て顔を起こした。ここでようやく、大勢の視線に気付き、慌てて立とうとする。 (は、恥ずかしい〜) 「あのねえ、マコ」 片膝立ちのまま、結城達二人に文句を言おうとするが、機先を制せられる。 「そのぐらい元気いいのが似合ってるわよ」 「はい?」 「些細な、はっきりしないことで悩まない。彼氏のいる幸せを噛みしめる方に 力を入れなよ」 結城と淡島が手を差し伸べ、純子の左右の腕を掴んで引っ張り起こす。 「あ、あのー……ありがと」 「どういたしまして。それにしても純子って、意外と感じやすいのね」 「……何かその言い方、やだ」 「そうそう。声も艶っぽく、とてもよかったですわ」 「それも嫌ーっ!」 大騒ぎの朝を経て、純子が相羽とその日初めて会えたのは、二年三組の教室 でだった。 年度始めは一旦教室に集まり、出席番号などを確認してからグラウンドなり 体育館なりで、朝礼を行うのが慣わしだ。それまでは、級友とお喋りに興じる。 窓から見える景色がちょっと変わり、まだ慣れない空気が新鮮だ。 と、そこへ近付いてきたのは……。 「おはよう、涼原さん。ちょっといいかしら」 「――白沼さん。おはよう……同じクラスになれたね」 「嫌?」 「そんな。全然」 意味ありげに笑みを浮かべた白沼に、ぶんぶんと首を横に振る純子。 「そうね。私も一緒になれて嬉しいわ。仕事も頼んだことだし、近くにいる方 が何かと便利だもの」 仕事という単語に、結城が耳ざとく反応する。 「仕事って、白沼さんが頼んだ仕事?」 「まあね。話せば長くなるし、伏せておかなきゃいけない点もあるから、説明 はしないけれど、仕事の関係でも涼原さんとお付き合いさせてもらうのは事実」 これを受けて、結城と淡島が、「伏せなきゃならないなら、初めから言わな きゃいいのに」とひそひそ話。白沼に聞こえたら気まずいと思い、純子は声を 大きくした。 「ね、ねえ、白沼さん。何か進展があったの? 具体的な話がまとまったとか」 「いいえ。今日はただの挨拶。よろしくね」 「は、はあ……」 「それよりも、相羽君はどこよ。また一緒のクラスになれたと思って、喜んで いたのに、いないじゃない。鞄すらないわ」 相羽と純子との仲を渋々ながら認めてくれた割に、ここまで開けっ広げに相 羽を気にする白沼。彼女らしいとも言えるが、まだ相羽に気があるのかもしれ ないと思うと、純子にとってまた一つ不安の種が増える。 「私に聞かれても……」 生徒指導室に行ったらしいという目撃証言を話すべきか。否。不確実すぎる。 「知らないの? 付き合ってるのに?」 白沼が、あっきれた、を体現するかのように腰に手を当てる。 そのとき、朝のホームルームまであと五分と告げる予鈴が鳴った。ほぼ同時 に、相羽が教室に入ってきた。 「あ、相羽君」 白沼の顔越しに声を掛けると、相羽が振り返るのが分かった。けれども、白 沼も振り返ったため、視界が遮られてしまう。急ぎ、立った。 白沼が先に口を開く。甘えた声で、刺々しい台詞を言った。 「もう、どこへ行っていたの。出席番号一番なんだから、仮の学級委員長でし ょう? 早めに来てもらわないと」 「えっと、何かあった?」 「ううん、特別なことは何も。先生が来たとき、いないとまずいじゃない。そ れだけ」 白沼の話はここで終わり。純子が、さあ、話そうとした矢先、思いの外早く、 担任の先生――去年と同じく神村先生――がやって来てしまった。さっきの予 鈴から、まだ五分経っていないのに。 「じゃ、あとで」 口を開き掛けて固まっていた純子に、相羽は軽く手を振り、最も廊下寄りの 列、その先頭の机に向かう。 「あとで、ね……」 彼の後ろ姿に、純子もまた小さく手を振り、椅子にすとんと腰を下ろした。 このあと、出欠の点呼を取る先生に対し、返事の声に不機嫌な響きが少々混 じったのは、やむを得ないことかもしれない。 短いホームルーム後、全校生徒集まっての朝礼も滞りなく済み、教室に戻る と、再びのホームルーム。宿題の提出は各教科の授業でするから、各人の簡単 な自己紹介と、それに続く学級委員決めがメインだ。 「――では次、学級委員を決めるわけだが」 神村先生が教壇に立ち、教室を見渡す。肌こそ日焼けしていないが、相変わ らず、スポーツマン然としており、女子生徒の中には一部、熱狂的なファンも いる。 「二年生と言っても、まだお互いによく知らない者もいるだろ? だから、選 挙をする前に……立候補するやつはいないか? 意欲があるなら、誰でもかま わない。立候補者が一人しかいなければ、そいつに決定だ。二人以上のときは、 立候補者を対象に選挙をする」 「そんな奇特なやつ、いないんじゃ?」 一人が言うと、同調の声が続く。 「他薦ならまだしも、ねえ」 「そうだよ。先生、早く、ふつーに選挙やって、決めちゃおうよ」 神村先生は、出席簿を開いたり閉じたりしながら、次のように付け足した。 「動機は問わないぞ。目立ちたい、他の学年とつながりを持ちたい、内申の上 乗せを狙うのもいいし。そうだなあ、僕のテストに限り、学級委員の者が悪い 点だったら、学級委員の仕事が忙しかったことにして、ある程度は大目に見て やらなくもないこともないことも……」 「どっちなんですかー?」 端からあきらめているような抗議調の声に、中程度の笑いが起こる。先生自 身、苦笑を浮かべた。 「まあ、今の話は確約できないけれどな。どんな下心があろうとも、がんばり は認めるつもりだってことさ」 「じゃ、先生と少しでも一緒にいたいから、というのでもいい?」 数人の女子が声を揃えて言った。本気とも冗談ともつかない質問に神村は、 「そいつだけは却下。不純すぎる」 と即答し、さらに「だいたい、そんな奇特な生徒、いないだろ」と付け加え た。これは、最初に発言した生徒の真似らしい。 「さて、そんなことよりも、誰も立候補しなかったら、僕が指名するつもりな んだが」 「ええーっ!?」 笑い声が収まり、代わりにブーイング入りのざわめきが、瞬く間に教室を占 める。 「横暴だー」 「指名するが、強制はしない。やる気を見ると言ったろ。ただし、辞退するな ら、説得力のある断り方をすること。単にやりたくないというのは認めない」 「それ、矛盾してるんじゃあ、先生……」 「しばらくやってみて、どうしても向いてないとなったら、交代を考えなくも ないさ」 今度はしっかり言い切った。こうしてなし崩しに選出方法が決まる。 (神村先生、今年は強引だわ。心境の変化でもあったのかな) 純子は、少しばかりの驚きを持って受け止めていた。尤も、自分は選ばれま いと思っているし、仮に指名されたとしても断る正当な理由はあるから、気が 楽だ。むしろ心配は、相羽の方。もしも、彼が指名されるようなことがあった ら困る。ただでさえ、会う時間を作るのに苦心しているところへ、相羽が今よ りも忙しくなったら、影響は間違いなく大きい。 ――つづく
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