●長編 #0334の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「な、何で白沼さんがここにっ?」 純子が戸口に立ったまま、ソファに座ってこちらに笑みを見せる白沼を指差 しても、誰も咎めなかった。白沼自身も怒らない。 純子が叫びたくなるのも無理はない。相羽の母に呼ばれて、ルークの事務所 に行ってみると、白沼がいたのだ。それも学生服でもなければ、単なる私服で もない。まるでビジネス用かと思わせる、淡いブルーのスーツをぴたりと着こ なしている。 あまりの意外さに、純子は思わず、久住の格好をしなくちゃ、とわけの分か らないことを考えてしまったほどだ。 その直後にようやく思い出す。およそひと月前に、白沼からテラ=スクエア のキャンペーンガールの話を持ち掛けられたのを。 (あれって、冗談じゃなかったんだわ……) やっとのことで合点の行った純子だが、その取り戻した平静さを瞬く間に失 わせる台詞が、白沼本人の口から飛び出た。 「約束より遅くなって、ごめんなさいね。CM出演を直接依頼しに来たのよ」 「え」 混乱の度合いが、急速にアップする。唖然として立ったままの純子に、市川 が注意をした。 「いくら友達だからと言っても、今日はお客様だよ。ほらほら、かしこまって、 そこに座る」 「はい」 仕事と聞けば、気が引き締まる。純子は素直にソファに腰を下ろした。白沼 と向き合う形になる。相手の右隣には、灰色のスーツを着た四十代半ばほどの 男性が、背筋を伸ばし、しかしどこかリラックスした態度で収まっていた。 純子の隣には相羽の母が、さらにその隣に市川が座る。 「この子が風谷美羽です」 「ご活躍はよく存じています」 白沼の隣の男性の声は、外見に比べると若々しかった。 純子は自己紹介をしてから、白沼にも目礼をした。 「私は支倉象二郎(はせくらしょうじろう)と言います。αグループ食品部門 の宣伝を担当しています」 食品部門と聞いて、やはりテラ=スクエアとは別口の話なんだと理解した純 子。 支倉は名刺を取り出し、すでに市川らには渡してあるのだろうか、純子の方 に向けてくる。が、受け取ろうとすると、白沼が「そんな挨拶はよして」と止 めさせる。それから市川と相羽の母に向き直り、 「先に、私と涼原さ――失礼――、風谷さんと、二人きりで話をさせてもらえ ません? 決して、契約に結び付くような口約束はしませんから」 と申し入れた。 まだ状況が飲み込めない上に、おかしな成り行きに困惑する純子。その隣で、 相羽の母が「私はかまわないわ。ただし、時間は短めにお願いね」と答えた。 対して市川は、思慮する様子を見せる。しばらくして、眉間に軽く皺を作り、 白沼を見据えながら尋ねる。 「確認と条件を言わせてもらおうかしら。友達同士の雑談なら、後回しにして ほしいのだけれど、違うのね?」 「はい。仕事に関係のある話です」 「時間はどれぐらい掛かりそう?」 「五分から十分程度はください」 「……七分で済ませて。二人で話した内容は、どんなことがあっても口外しな いこと。守れる?」 「αグループの人にも、ですか」 「今度のCMの話に携わっている人になら、話してもかまわない。それ以外は 絶対にNG」 「分かりました。誰にも話しません」 白沼は言葉遣いこそ固いものの、余裕のある表情を見せている。 「それなら了解。奥の部屋が空いているから、そちらへ」 「どうもありがとうございます」 (そういえば、白沼さんはどういう立場でここに来てるんだろう……?) 根本的な疑問が浮かんで、純子は彼女の顔を凝視した。目線を感じ取ったか のように振り向いた白沼はクリアケースを小脇に抱え、「それじゃ、行きまし ょうか」と腰を上げた。 いつもと違う口調に、ますます戸惑う純子だが、遅れて立ち、着いて行く。 奥の仕切られた小部屋に先に入り、純子を招き入れると、ドアを閉じた。そこ は、狭いが、秘密の話をするには打って付けの密閉空間だった。小さな長方形 の白テーブルと、グレイのソファが四つ配されている。 「白沼さん、びっくりしたわ。長いお休みのとき、たいていは旅行でしょ? てっきり今度もそうだと思っていたから、なおさら……」 「仕事の話しかしないんじゃなくて?」 さもおかしそうに微笑む白沼。仕事の現場でクラスメートと会っている違和 感が抜けきらない純子に比べ、彼女の方は普段の延長のようだ。 「それじゃあ、二つだけこちらから聞かせて。今日の話は、いつか言っていた テラ=スクエアのことじゃないのね?」 「ああ、その話もあとで出て来る流れになるわ、多分。だけど、今日のメイン テーマは、テレビコマーシャル」 「分かったわ。次に……今日の白沼さんは、どういう立場なの? 途中で挨拶 を打ち切られたから、私、分からなくて」 「正式な肩書きがあるわけじゃないわ。強いて言えば、一応、アドバイザーね。 女子高生の視点から、意見を述べるの。女子高生に受ける広告というものにつ いて」 「はあ……」 「アドバイザーである私は、支倉部長にアドバイスをした。風谷美羽を起用す れば、大いに受けるわよってね」 「そ、それは……どうもありがとう」 否定しようと思ったが、クライアントの意向に逆らうと、相羽の母に迷惑が 及びかねない。市川だって、引き受ける方向に進むのを望んでいよう。 「さて、具体的な話をしましょうか」 手近のソファに腰掛け、クリアケースをテーブルの上で開けた白沼は、何や らリストめいた物が印刷された紙を取り出した。純子には見せないまま、話を 進める。 「私としては、下着のCMに出てほしいのだけれど」 「え」 子供同士でいきなりそこまで具体的な話をするのは、先ほどの約束と違うん じゃないか。という意味で面食らった以上に、下着と聞いて焦ってしまう純子。 「肌のきれいなあなたが下着を身に着けると、それを見た視聴者の大半は勘違 いする。この下着を着ればあんなきれいな肌になるんだわと」 「む、無理!」 猛スピードで首を横に振る。白沼はくすくす笑った。 「何でもかんでも、真に受けちゃうわね。支倉さんは食品部門だと言っていた でしょうが」 「あ、そっか」 ほっとすると同時に、腹も立つ。 「仕事の話で、冗談なんか言わないでほしい……」 「全くの冗談というわけではないわよ。下着のCMに、あなたに出てもらいた いと思っているのは、私の本心」 「……凄く、悪意を感じます、アドバイザーさん」 恥ずかしい目に遭わせようとしている。そんな気がした。警戒感から、しゃ ちほこばった言い回しを使った純子。 「まさか」 白沼は真顔で否定した。 「相羽君のことがあったときは、素直に言えなかっただけで、本当にきれいだ と思っているのよ。……と、これだけ言うのにも大変な努力をして、自尊心を 押さえ付けているのだけれど」 台詞の後半に差し掛かると、白沼はにやっとした。 (これだけ開けっ広げに言ってくれるのなら、信用する。うん) 純子は自らに言い聞かせ、仕事の話に移った。 「私達だけでしなきゃいけない話って、何?」 「“ねばならない”ってことはないわ。こうしてコミュニケーションを取って、 信頼関係を築いておきたかっただけよ」 同じ気持ちだったと分かり、ほっとする。 「その代わり、契約が成立したら、びしびし注文を出して行くつもりよ。これ はビジネスなんですからね」 「もちろん」 白沼から右手が差し出された。握り返す。 白沼の手にはかなり力が入っていた。 小部屋を出て、本格的に仕事の話に入ったあとも、しばらくは白沼が主導権 を握った。 「念のために確認しておきますが、清涼飲料水の類は他社と重なるから、だめ なんですね」 「そうなっているわ」 市川が答える。いつもとは勝手が違い、子供を相手にどんな話し方をしてい いのやら、手探り状態なのが窺える。 「来年以降も“ハート”のCMに起用されることに決定している。企業の方針 が変わらない限り、まず無理でしょうね」 美生堂の社長にいたく気に入られたらしくて、純子の“ハート”CM出演は、 異例とも言えるロングランになっている。 「分かりました。それじゃあ、こっちだわ」 白沼は持参したクリアケースから新たな一枚を引き抜くと、手の甲で弾いた。 今度の紙は、カラフルだ。イラストや写真入りで、文字の大きさも様々。しか も一枚ではない。 「健康食品なら問題ないですか?」 「そうですね。資料を見せてもらえます?」 市川の手に紙が渡る。 「メジャー商品のシリーズで、これまでCMに出た方は注目されています。タ レントサイドにとっても悪くない話のはずです」 支倉が、ここいらで口を挟んでおかないと出番がないという体で言った。 「そのようですわね。まあ、しばらくお待ちになって。もっと話を聞かせて戴 かないと判断できません。うちの場合、本人の意向もあるので」 「ほう。こんなかわいいタレントさんの意向でも、重視されるのですか」 多少、意外そうに口をすぼめる支倉。大物ならまだしも、こんな小娘の…… というニュアンスが言外に感じられた。 白沼はと言えば、静かにしているのは退屈とばかりに、自己主張するかのよ うに身を乗り出して話を聞いている。 「はい、純子ちゃん」 相羽の母から資料とこれまでの商品ちらしが渡される。資料の方は、社内用 あるいは業界内用なのか、商品の写真(オレンジ色のケースで、中身は見えな い)とデータが記載されているのみのシンプルな物だ。一方、ちらしはテレビ や折り込み広告等で何度も目にしていた。 「“スマイティ”……聞いたことある。食べたことはないけれど、確か、栄養 補助と内臓をきれいにする健康食品ですね? 錠剤タイプとクッキータイプが ありましたっけ」 「そうよ」 純子は支倉に尋ねたつもりだったのに、白沼が横取りするかのごとく、早口 で答えた。 「正しくは、美容健康食品よ。よく知られた商品でしょ。今度はそのヴァージ ョンアップ版を出すの」 「新商品なんです」 支倉が苦笑混じりに、イニシアチブを取り戻す。 「今度のスマイティRは、これまでのスマイティの効果に加えて、食べた物の 脂肪分をなるべく体内で吸収せず、外に出すという大きな特長が備わりました。 お肌の保湿力も多少アップします。効き目は実験で証明済み。お疑いのようで したら、実験結果の統計資料も出します。全部は無理ですが、一部なら」 「ぜひ、お願いします」 相羽の母が言う。この辺りは、広告会社の人間というよりも、モデルとして の純子を思ってのマネージャー的色彩が強いかもしれない。 その純子は説明を聞いて、「ふうん。何か、凄そう……」と独り言めいた感 想を漏らした。はっきり言って、美容健康食品にはこれまで厄介になったこと もなければ、必要と感じたことすらない。 「ヒット間違いなしだって、自信満々に言ってたわよ」 純子のつぶやきを聞きつけたか、白沼が口を開く。 誰が言ったの?という疑問が頭の片隅をかすめた純子だが、多分、αグルー プの人なのだろうと見当付けた。 「ヒット間違いなしなら、私を起用してコマーシャルを作らなくても……」 大人の会話を後目に、やり取りが始まる。合点の行かない純子へ、白沼はと うとうとまくし立てた。 「相乗効果という言葉を知らないの? あなたがテレビでこれを宣伝する。多 くの人達はあなたみたいになれると思って、買う。あなたはあなたで、スマイ ティRをずっと食べるようになるわけだから、磨きが掛かるでしょう、その身 体に。結果的に、売れっ子になる。今の何倍もね」 おだてられ、乗せられるのは市川相手で慣れているが、白沼から言われると、 いやにくすぐったい気持ちになる。さっき握手したとはいえ、居心地の悪さを 感じてむずむずする純子に、白沼は顎の先辺りで両手を合わせ、さらに続けた。 「そうだわ。コマーシャルでも、あなたがスマイティを食べていることをアピ ールしなくちゃね。食べるシーンの他に、台詞でも。『毎日食べています』と か何とか。ねえ、支倉さん。いいでしょう?」 わずかに媚びた響きを滲ませ、白沼が言った。ねだられた支倉は、満更でも なさそうに頬を緩める。偉いさんの娘の言うことを聞けば、出世につながるの だろうか。 「まあ、こういうCMの定番の台詞ですから、いいんじゃないですか。どうで しょう?」 支倉は市川と相羽の母に向き直った。後者が答える。 「今から具体的に企画するのは気が早いかと存じます。が、確かに定番のフレ ーズですね」 「え。そういうのはちょっと、よくないんじゃあ……」 異議を唱えたのは純子。上機嫌だった白沼が、横目でにらみを利かせてきた。 「何か問題ある?」 「だ、だって、私、スマイティもスマイティRも毎日食べてないんだから」 「CMが流れる頃には、毎日食べているわよ。それでいいじゃない」 「でも」 と言ったきり、口ごもる。 (撮影した段階では、食べてないか、食べていても効果は出ていないと思うん だけれど。私の肌を見て視聴者が買うかどうかを決めるとしたら、そういうの はよくない気がする……) そう感じたからなのだが、とても声にはできない。こんなこと、口に出すと、 肌を自慢しているみたいじゃない。 「まあまあ、その辺りのことは、後回し」 市川が仲裁に入ってくれた。 「それよりも、私にとって重要なのは、この仕事の契約のことなんだけどね」 ざっくばらんな物言いは、もちろん支倉にではなく、白沼に向けてのもの。 ようやく接し方を心得たようだ。 「お金の話は支倉さんに任せていますから」 白沼の返事に、市川は口元を少し歪めた。 「うん、それも大事だ。けどね、まず、お受けするかどうかをはっきりさせな いことには、話が進められない」 「あら。すみません。私、てっきり、引き受けていただけるものだとばかり」 手のひらを口に当て、驚きつつも笑顔の白沼。ひるんだり、くじけたりする 様子を微塵も見せない。むしろ、状況を楽しんでいるかのように、純子の目に は映った。 「考える時間はどれぐらいいただけます?」 「遅くとも一両日中にお願いしたい。いや、本心を言えば、スマイティRを知 ったからには、この場ですぐ、承諾の返事をいただきたいのですが」 「ご要望に添った答をしても、私はかまわないのですけど、先ほども言いまし た通り、ルークはタレントの意向を重視しますので」 言いながら、純子に視線を送る市川。 (確かに私の意向も聞いてはくれるけど、今まで、たいていは市川さんの意向 通りになってきた気がする……) そう思うと、ちょっと反発してみたくなる。だが、それ以上に、断る理由が 見当たらない。白沼が一枚噛んでいるから嫌、なんて理屈は通じまい。そもそ も、悪い話でないのは、純子にもよく理解できた。 逆に、断ったら、白沼から何て言われることやら……。 「やります。喜んで」 純子が答えると、支倉以上に、白沼が大喜びした。席を立ち、拍手を三、四 度してから、純子の手を握る。それを上下に振りながら、 「ありがとう! よく引き受けてくれたわ」 と、一際高いテンションで喋る。 「さすが、涼原さん。これで成功間違いなしね」 「そ、それはどうかと……」 「いいお付き合い、いい仕事ができるように、がんばっていきましょう、ねっ」 「は、はい」 どうしても悪意を感じてしまうのは、純子が気にしすぎなだけに違いない、 きっと。 引き受けると返事したことを、ちょっぴり後悔しないでもない純子の左隣で は、支倉と市川が、早速契約の話を始めていた。 (白沼さんてば、私を忙しくして、相羽君に会わせないようにする作戦なんじ ゃないかしら) 純子がそう勘繰りたくなったのは、白沼がCMの他に、別の仕事の提案を積 極的にしてきたため。いくつも候補を挙げられたものの、全部を引き受けるの はとてもじゃないができない。かといって、全て断るのも今後に響くかもしれ ない(市川に至っては、「もったいない」と言い切った)。結局、一つだけ、 以前から打診のあった遊興施設テラ=スクエアのイメージガールの件を前向き に検討する、という形に落ち着いた。白沼の言っていた通りになったわけだ。 CMに関する仮の契約を終えて、ルークの事務所を出ると、純子は往路と同 じく、相羽の母の車に乗った。後部座席右手に座り、はあ、と息をついた。 「純子ちゃん。少し寄り道するけれど、許してね」 「はい、全然かまいません」 答えてから、再びため息をつく。すかさず、運転席から声が掛かる。 「どうかしたの? 確かに私も、あの子の――白沼さんの姿を見たときは、面 食らってしまったけれども、この仕事そのものは最上級にランクできると思う わ」 「……おばさまは、どこまでご存知なんでしたっけ……」 まだため息の続きみたいな喋り方をしてしまう純子。これではいけないと自 覚し、軽く頭を振った。 「どこまでって、何のこと?」 車は、大通りを二本横切ってしばらく行った地点で右に折れ、高架下の道路 を進む。 「えっと、白沼さんが信一君を……好きということをです」 「それなら聞いた」 どこか弾んだ調子で答える相羽の母。やはり、息子が異性にもてるというの は、嬉しいものなのだろうか。 「信一は昔から、ぶっきらぼうな割に、女の子達にもてるのよね。どこがいい んだか」 「す、すごく、いっぱい、いいところありますよ」 フォローではなく、事実を言ったつもりだが、何しろ彼氏のことを話す、そ れもその母親に向かってというのは、極めて恥ずかしい。話そうとすると、歯 の根が合わない感覚がした。 「ふふふ。それは分かっているわよ。私は母ですから」 「は、はい……そうですよね」 いたたまれない心地になって、下を向いた。振動が伝わってくるのを意識す る。 「今も白沼さん、信一のことが好きなのかしら」 「え……っと。どうなんでしょう……多分、まだ好きなんだと思いますが」 答えてから、このやり取りに違和感を覚え、考え込む。じきに気付いた。 (おばさまは何故、「今も」と付けたの? まるで、好きでも、相羽君とは付 き合えないと知っているみたいに) これを発展させると……。 (相羽君と私が付き合ってるってことを、知ってる?) 続いて出た相羽の母の言葉は、あたかも、純子の思考を読み取ったかのよう。 「今は、純子ちゃんでしょ」 「え?」 「今、信一と純子ちゃんは付き合っているんでしょう?」 「――はい。付き合っています」 ほぼ、即答できたのは、聞かれたら正直に認めようと思っていたから。 相羽は隠していたのかもしれないが、話しておくにはよいタイミングになっ たと信じたい。 「やっぱり。よかったわ。それじゃあ、今度の仕事は、ちょっと因縁のある相 手と一緒にすることになったわけね」 相羽の母の反応は、純子自身が肩すかしのように感じるほど薄かった。当然 のこととして受け入れてもらえたのは嬉しいけれど……。関心の対象は、白沼 にあるらしい。 「おばさま。想像できてたんですか」 「わざわざ仕事の席についてくるなんて、白沼さん、何かあるんだと思ったわ。 一番ありそうなのを口にしてみたら、当たっただけよ」 「実は少し前に、白沼さんから何か仕事を頼むかもしれないから、そのときは よろしくねって言われてたんです。だから、今日の話がαグループのものと予 め分かっていれば、心の準備もできたのに……」 「そうか、伝えておけばよかったわね」 「あーあ。撮影されてるとこを、白沼さんに見られるのかと思ったら、少し憂 鬱」 「それなのに引き受けたのは?」 「えっと……うーん、あんまり深く考えてません。断って、嫌な感じを持たれ たくなかったし、白沼さんと喧嘩してるわけじゃないんだし」 「信一を撮影現場に連れて来て、いいかしら」 「え?」 会話が途切れ、純子は後ろから運転席を見つめた。車は、小高い丘を巻く道 に入って行った。 「揉めさせようと思って言ったんじゃないのよ」 ルームミラーの中で、相羽の母が白い歯をこぼす。 「そ、それは分かってますが」 「少し前からね、信一が見に行きたいと言い出したの」 「へぇー、信一君から言い出したんですか」 意外に感じるとともに、嬉しくもなる。過去にも、撮影現場に来てくれたこ とは何度もあったが、どことなく不承々々というか、不機嫌さがにじみでてい た。それが今回、彼自身が望んだのだという。 「私は全然問題ありません。見てほしいぐらい」 純子も昔は、仕事ぶりを相羽に見られるのは余計な緊張を強いられるので、 いやだなと感じた頃もあったが、今は違う。 「それよりもおばさま。どうしてそんなことを? わざわざ私に断らなくたっ て……」 「理由は、さっき純子ちゃんが言ったばかり。白沼さんが今でもうちの息子を 好きなら、彼女とあなたと信一とが鉢合わせするかもしれない。それで気まず くならないのかしらって。お節介だった?」 首を大きく横に振る純子。 「そうだったんですか。お節介なんてとんでもない。うん、杞憂ですね」 「なら、いいのだけれど」 「ところで、どちらに向かってるんですか? 早く帰らないと、信一君、心配 しちゃいますよ」 これの方がよほどお節介かなと思いつつ、尋ねてしまうのは、純子自身、相 羽のことが気になっている証拠。 「あら。これから行くところに信一がいるのよ」 目を見開いてきょとんとする純子に、説明が付け加えられる。 「ピアノを弾きに行ってるの」 「――ピアノ、続けてるんですね」 「そうよ。信一は何も言ってない?」 「特に何も。でも、一月だったかな。続けるとだけ聞いてました。本当に続け てるんだと分かって、よかった。信一君、前から上手でしたけれど、エリオッ ト先生から習うようになって、もっと凄くなりましたよね。教え方がうまいの かな。それともフィーリングが合うとか」 「そうね」 相羽の母からの返事が、急に素気なくなったように感じた。気のせいだと思 うが、考えたり尋ねたりする間もなく、車は目的地に到着した。 「あれ? ここ、エリオット先生のいる学校じゃないですよね?」 見覚えのない、音楽スタジオらしき丸屋根の建物が小高い丘を背景にしてい る。まだできて間もないと見えて、きれいな外装だ。 「ええ。ここは鷲宇さんの紹介。大学の方は春期休暇に入って、色々と都合が あるみたいなの」 今度は優しい調子で答が返ってきた。さっきのはやっぱり、自分の勘違いな んだ。純子は気分を切り換え、車を降りた。 「あ」 いきなり、相羽の声。外に出て待っていた彼は、純子が来ることを知らなか ったに違いなく、慌てた足取りで駆け寄ってきた。 「早く帰ろう」 「そ、そんなに急がなくても」 純子の背を押す相羽は母親に向かって、「後回しでいいって言ったのに」と 不平そうに口を尖らせる。 「会いたかったくせに」 笑み混じりに返され、たちまち沈黙する。それでも相羽は純子に対して言っ た。 「とにかく早く帰ろう。疲れないように休まないと」 「わ、私、そんなに疲れてないよ。気疲れはしたけれど……」 答えながら、そういう意味だったのねと合点する純子だった。心配してくれ るのは嬉しいものの、大げさすぎる。ちょっと遠回りするくらい、何でもない。 「気疲れって、何か嫌な仕事だったの?」 二人とも後部シートに収まってから、相羽が聞いてきた。純子が、白沼が姿 を見せたことを説明すると、 「白沼さんが来た?」 と、相羽は声を大きくした。純子は、さっき相羽の母が見せたような笑み混 じりの表情でうなずく。もちろん、こちらの笑みは苦笑いだが。 「何か言ってた? いや、その、仕事以外のことで」 「皆無よ。世間話はほとんどしなかったというか、できなかった感じ」 「じゃあ……白沼さんと仕事でうまくやって行けそう?」 「それはまだ始まってないから、何とも言えない。厳しい注文を出されて、し ごかれそう」 相羽の顔つきがちょっと変わる。困ったような、もどかしいような、居心地 の悪そうな。 しばしの静寂。振動音だけの車内は、明らかに相羽の次の言葉を待っていた。 やがて彼は口を開いた。 「純子ちゃん。もしもやりたくないのなら――」 「それは大丈夫。心配しないで」 全部は言わせず、純子は相羽の方を向いて自己主張。微笑ましくて嬉しくっ て、くすっとしてしまう。母親も同様だった。 「契約もしちゃってるのよね。だから今更やめるのは難しいんじゃないかな」 おどけた口調が運転席から届く。相羽は気に入らないという風に、かぶりを 振った。 「相羽君。そんなに心配だったら、見に来て。それでね、白沼さんが私に厳し い注文を付けたら、助けてくれたらいいわ。あなたが優しく声を掛けたら、白 沼さんも厳しいこと言えなくなるでしょ。あはは」 「……考えておくよ」 純子の冗談に、相羽は疲れたようにうなだれた。 帰宅してから十数分後、純子の携帯電話が鳴った。夕飯までの間、春休みの 宿題を少しでも片付けておこうと自室で机に向かった矢先だっただけに、決心 が鈍りそう。でも、出ないわけにもいかない。 「うん?」 表示された相手先の番号に、微かに首を傾げる。 相羽の自宅の番号だ。仕事の話なら、たいていは相羽の母が所有する携帯電 話から掛かってくる。逆に、プライベートの話、つまり相羽からの電話だとし ても、少々おかしい。彼は、純子の携帯電話は仕事用なのだとはっきり区別し ている。 とにかく出てみる。 「もしもし……?」 第一声に、訝る響きが滲んでしまったかもしれない。二人の内、どちらが掛 けてきたのか分からないというのは、何だか不安になるもの。 「あっ、僕。今、時間はいい?」 相羽の声が返って来た。ひとまず、ほっとする。 「時間は問題ないけれど、どうしたの? さっき別れたばかりだし、こっちに 掛けてくるなんて……」 「桜、見に行こう」 「え?」 こちらの疑問に対する返事ではなかったせいか、聞き取れなかった。 「桜を見に行きたくない? お花見」 「お花見」 唐突だなぁ、と思いつつ、決して悪い気分ではない。ちょうど見ごろで、晴 天も続くらしいし、何たって、今ならスケジュールに充分余裕がある。 「うん、行きたい」 「よし。いつがいいかな」 弾んだ調子で、やり取りが進む。 純子は一応、手帳のカレンダーを開いた。 「月、火、木、金なら、まずOK。まさか一日中、どんちゃん騒ぎするんじゃ ないでしょう?」 「もちろん」 「相羽君の方は、日、大丈夫?」 「うん。いざとなったら、レッスンを休むつもりだった。でも、必要なさそう」 「よかった。じゃ、あとは、他のみんなの都合ね。マコはおじいちゃんのとこ ろで野菜作りのお手伝いって聞いたから、難しいかな。あ、相羽君は唐沢君を 誘うんでしょ? だったら、芙美達も。そうそう、それと場所取りはどうしよ う?」 「あの、ですね、純子ちゃん」 普段より低い声で、ゆっくりした口ぶりになる相羽。純子は思わず携帯電話 を遠ざけ、電話そのものをまじまじと見た。急いで顔を再び寄せ、聞く。 「はい?」 「僕は誰も誘わない、君以外」 「……えーっと」 遅きに失した感はあるが、純子はようやく気付いた。これは、デートなのだ と。今までのお花見の経験に照らし合わせていたため、友達大勢で行くものと 思い込んだのだ。あんなに二人きりで会いたいと願っているのに、肝心なとき に、間の抜けたことをやってしまった。 「純子ちゃん?」 応答がなくなったのを心配してか、電話の向こうで名前を呼んでいる。急い で答えた。 「ご、ごめんなさいっ! そうよね、当然、相羽君と私の二人で、よね」 「謝らなくてもいいんだけど。それよりも、君がみんな大勢で行きたいのなら、 そうしよう。考えてみると、別々の学校に行っている友達とは、今が一番会い やすいもんな」 「ううん。あなたがいい。あなたと二人がいい」 「――携帯電話に掛けて、正解だったみたい」 「えっ」 「いや、もし家の電話に掛けていたら、さっきの純子ちゃんの台詞、お父さん やお母さんに聞こえていたんじゃないかな、って」 「――」 思い返してみる。と、頭の中が大騒ぎ。うわーっとなる。顔が熱い。携帯電 話を、まるで固定電話の送受器のごとく、しっかと握り直した。 「そ、それで、車の中では話さずに、電話、それもいつもと違って携帯電話に 掛けてきたの? 恥ずかしい台詞を両親に聞かれないように……」 「まさか。そこまで見越してはいなかった。ただ、こっちとしては二人きりの デートに誘うつもりだったから、やっぱり、なるべく内緒にした方が……」 二人とも、しばらく静かになってしまった。 次に口を開いたのは、純子の方。 「あ、相羽君の方は、おばさまに聞こえていないの?」 「多分。台所までは届かないだろ」 それだけで少なからず安堵した。気持ちを落ち着かせ、改めて答える。 「お花見には、お弁当を作って行くわ、二人分」 「よかった。楽しみにしてる」 相羽は嬉しそうにそう言ったあと、口調を若干、真剣なものにして付け加え る。 「でも、もしも仕事で疲れているようなら、無理をしない」 「平気よ。それにこんなときぐらい、無理をさせて」 「いっつも、無理をしているように見える」 「そんなことないってば。どうしても心配なら、簡単なメニューにしちゃおう かしら。サンドイッチとか」 「サンドイッチ、いいよ」 「む。ちょっとは残念がってほしいのに」 見えない相手にむくれてみせる。電話を通じて、そんな気配が伝わるはずも ない。 「手料理を食べられるのに、どうして残念がらなきゃいけないんだか」 相羽が言った。うれしさを抑えきれず、心が飛び跳ねているみたいな口調で。 ――つづく
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