●長編 #0313の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
空腹 続き 神よ 私はこれ以上の幸福を望むべくもありません 私の死の決定をおくだしになる前 に このような若者たちと出会う機会をお与えになられるとは おお 神よ 感謝しま す 思えばあの陰惨な災禍がこの東の最果ての地を蹂躙した日 過酷にも私の命のみを 存続さしめたのはこの使命を成し遂げよとの思し召しであったのでしょうか あの日 私は目が零れ落ちるかと思われるほど泣きました そしてそれからの長い年月も やは り泣き暮らしてきたのです お許しください 神よ 私は不徳にもあなたを呪うような ことまでもしてきたのです 恨みます 神よ しかしそれも昨日までのことです やは り私はあなたをお慕い申しております 私はあなたに愛されるために生きてきた女です そして今はあなたの御許におわすのでしょう 私の愛した人々 優しい夫 健やかな 子供たち 彼らがあなたにより美しく祝福されるように祈りながら 私は最期に残され た仕事をいたしましょう この干乾びた魂をすべて捧げて さてさて ずぶ濡れの恋人さんたち あなたがたは本当に幸せそう 天使も嫉妬して しまうのじゃないかしら でも神の吐息はきっと福音をもたらしてくれるはず たとえ 頭のなかで神を信じていなくても 神は魂に宿るものなのだから そう 神を信じられ ずに犯した罪を 神はお許しになる きっと だからあなたたちも神に許しを請うて 神はお許しになる 魂は 救われる これから私が語る言葉には 偽りは一片もないの です たとえどんなに苦しくても 一瞬の痛みから逃れようとすることは愚かな行為な のです よいですか あなたたちはすべてを真正面から受け止めなければなりません 真を真とし 偽を偽とする 試練は示されました 願わくは あなたたちの若い魂が 人類の積み重ねてきた穢れた魂に傷つくことなく 救いの道を見出さんことを あの日の夕暮れもスコールはこの大地を打ち鳴らしていました 東の最果て ジャワ の島 何処までも続くサトウキビの細波 空にかかるくぐもった雨雲 若い魂を憂鬱な 思慮へと沈み込ませる意地悪な鼓動が響いています 私は窓際で夫のことを考えている のです 私より五歳年上の 酒好きで女好き 気紛れでへそ曲がりな夫です 今朝はど んなことで喧嘩をしたかしら また浮気のことだったかしら それとも子供のこと で ももうどうだっていい きっとあの人は本気にしてはいない もうじき仕事を終えて帰 ってくる このところ使用人にしているジャワ人が戦争を怖がって作業が随分遅れてし まっているそうだ もしかしたら不機嫌かもしれない 八つ当たりで怒鳴りつけられて は子供たちがかわいそう 私は十歳になる息子を呼んでその手に小銭を握らせてやりま した 妹を連れてお菓子を買っといで お父さんにはお使いに出したと言っておくから でもお夕飯までには帰りなさい この辺りはまだまだ物騒 息子は玩具の硝子玉みた いに目を輝かせて 弾けるように駆け出していきました その後を追いかけていく娘の お尻の 可愛らしいこと 二人の足が泥まじりの水溜りを蹴散らして 西日のなかに水 滴が散らばりました いつのまにか夕立は止んでいたのです 雨に閉ざされていた私の 心は 籠から放たれた小鳥のように自由に飛び立っていくことができます そしていつ ものように 当たり前のようにわきあがってくる 幸せのカテゴリー 私はこの時間が 一番好きでした 自分が生きていることを肯定できる瞬間 私は薄い恍惚のベールを纏 って夫を出迎えるのです あの人は私には目もくれずに居間のテーブルへ直行します それがいつものことなのです 夫の座った目の前に酒とつまみが用意されていないと 重い象牙の灰皿が飛んでくることもありました それでも私は幸せでした その灰皿が 本当に私にぶつかるようなことは 一度だってなかったのですから これ以上何を望 むことがあるでしょう 優しい夫 健やかな子供たち 肥沃な大地と熱い太陽に庇護さ れた農園は 私たちを餓えさせない 遥か遠い母国のために仕事を為すという誇りは 私たちを疲れさせない これ以上何を望むことがあるでしょう 私は幸せでした そし て その幸せが永遠であると 信じて疑いませんでした 私は若かったのです 幼かっ たのです 幼い盲信はやがて悲劇を生みます 悲しみの影が 妖しいアメーバのように 変幻自在に形をかえながら じわじわと忍び寄ってきていたのです 子供たちは唇の周りにべったりと砂糖の粉をくっつけて帰ってきました 私がそれを 拭ってやると 息子は 母ちゃん 北のお空が真っ赤に燃えていたよ と目を爛々と輝 かせて トム・ソーヤに熱中する少年らしい昂奮を私にぶつけるのでした 北の空? お日さまが沈むのは西の空でしょう? 何をとぼけているのかしらねえ この子は 私 は少しも取りあわずに台所に戻っていこうとしました 本当に燃えていたんだってば 真っ赤だったよ 子供たちはなおも私にすがりつこうとしました しかし 嗚呼 私は 運命というものに後悔します それが如何に不毛なことであっても 私は運命に後悔し ます 私は纏わりついてくるいたいけな掌をぴしゃりと叩き いつまでもそんなこと言 ってるとげんこつよ ほら ちっちゃな頭にこつんとやると やんちゃ坊主はへんな悲 鳴をあげながら一目散で逃げていきました あの無邪気な後ろ姿 悲しみの予感など 微塵もありはしない 私は盲でした 運命の分岐点が 破滅のルートへと傾いていく もうやり直すことはできない あのとき北の空を見ていれば 夫にそのことを告げるこ とができたのなら 嗚呼 私は運命に後悔します 最後の晩餐の献立は ベーコンと野菜のスープ 焼きたてのパン お隣のダーンデル スさんの奥さんからの御裾分けのパイ それから搾りたての牛乳 コーヒーは食後の夫 婦の楽しみ いたって普通の いつもどおりの食卓 いつもどおりの家族団欒 それを 打ち破ったのは 忘れもしない 羊の群に狼が飛び込んだかのような無秩序な喧騒 家 畜の鳴き声のようなジャワ人たちの怒号 窓ガラスがびりびりっと恐怖に震えました 地獄から悪魔が咆哮しているかのよう 夫が見えない敵を睨みつけるような険しい顔で 椅子から立ち上がるのと 家の扉を誰かが強かに打ち鳴らすのとは 殆んど同時であり ました ドアの向こうから下男のプスタカの悲鳴にも似た声が響きました 旦那様! 旦那様! バタビアが! バタビアが燃えています! 私ははっとしました バタビア が陥落したんだ すぐに戦火がこの土地にも波及する 私は夫がそこにいなければ床に 座り込んで泣きだしていたかもしれません 自分の不甲斐なさを呪いながら これじゃ いけない 子供たちを守らなければ そう強く念じて私の大切な二人の天使を懐にぐっ と抱き寄せました 温かく 優しい甘い香りのする小さな体 プスタカと話をしていた 夫が戻ってきて私に言いました 俺は農園にいかなきゃならない あそこは俺が一から 切り開いた努力の結晶なんだ あとからやってきた東洋人なんぞにみすみすくれてやる くらいなら 自分で火をつけてやるさ おまえたちはいつでも逃げられるように身支度 してここで待っていろ 俺が帰るまで決して家から出るんじゃないぞ あの東洋人たち は おまえたちにどんな酷い仕打ちをするかわからない いいな わかったな 愛して いるよ おまえたち 私は いかないで 私たちを置いていかないで あんた と ど れだけ泣いてしまいたかったか だけど私は あなたの望むようになさればいいのよ 子供たちは私がしっかり守ります どうぞご無事で戻ってきて ずっと待っていますか ら って肝っ玉母さん気取って言ってしまった でもそれはただの強がりだったんです 夫との最後の抱擁 接吻 子供を抱きしめる太く逞しい両腕 迷いのない 信念に突 き動かされる男の瞳 愛していますよ 愛していますよ 夫は薬莢から弾き出される弾 丸みたいに飛び出していってしまいました 後に残された私たち三人の体は 寂しさの あまり硬直してただの肉の塊になってしまったみたい この意気地なし 臆病者 そう 何度も臍をかためて頑張るんです でも どうしてもダメなんです 私は本当にダメな 女なんです 窓の外は あんなに赤く 禍々しく燃えあがっているのに 北の空 バタ ビアの焰! 母ちゃん 母ちゃん 子供たちは私に優しく頬擦りしました なんて柔らかいほっぺ たなんでしょう そう 私はこの子たちを守らなければならないのです 私は母親なの です 母親とは そうゆうものなのです 東洋人でも 何でも くるならくればいいん です 鉄砲だって 私が盾になればいいんです 私の命なんて 捨ててしまえばいいん です 私はすっと立ち上がって さああんたたち いつお父さんが帰ってきてもいいよ うに 荷造りして待ってようか お父さんが帰ったら すぐオランダ行きの船に乗ろう ね きっと楽しい旅になるわ お祖父さんお祖母さんも あんたたちに会いたくて会い たくて うずうずしているころだわ さあ いい子だから 気丈な息子は何も言わずに 頷きました 娘は旅と聞いて しかもその行き先がまだ見ぬ母国オランダだと聞いて 妖精のように無垢な微笑を浮かべました 私は母親なのだ 何度も 何度も そう心の なかで呟きました しかし 運命の歯車は独りのちっぽけな人間の意志の力など もの ともしない巨大なものなのですね 私は 無力です 家の外がまた騒々しくなっていき ました 今度はまるで風の精霊が暴れまわっているかのよう そして 遂に最も恐れて いたあの音 空気が一瞬にして張り詰める音 銃声が私たちの心に木霊したのです 逃 げ惑う人々の絶叫が 脆弱な精神の皮膜を突き破って私の体を束縛していく 嗚呼 ど うしよう どうしよう 銃声 今撃たれたのはお向かいの坊やじゃないかしら また銃 声 今度はきっと農園の使用人の誰かだ 東洋人は 逃げようとしている人 無抵抗の 人を殺しているんだ そして 軍靴が小石を踏み締める音 とうとう私たちの家の扉の 前で止まってしまった 甲高い男の声 まったく意味のわからない言葉で何か大声で怒 鳴っている それはきっと私たちへの最後通告なのでしょう 私は私の弱々しい腕のな かでじっとしている子供たちを 私の宝を ありったけの愛しさを込めて抱きしめまし た これが最後になるかもしれない 私は覚悟を決めました お母さんはね あなたた ちを心の底から愛しているのよ 子供たちはきょとんとして私を見上げました 私は夫 との約束を果たします 母親としての使命を全うします 一際高く銃声が鳴り響いたと き 私は立ち上がり 子供たちを部屋に残して 玄関へ 嗚呼 私は運命に後悔します 悲哀の果てに何が待っているか それは喪失でした 嘆きの果てに何が待っているか それは虚無でした 運命の こぼれた水が形を失って この世から消える瞬間 私はあの日 北の空が赤く燃えていたあの日 すべてを失い 魂は沈黙の底に没した 蝶番の錆びた 重く軋んだ扉が開き 温い光が私の体を満たしたとき 世界中を普く 包み込んでいた音が 確かに私にも聞こえていた音が 津波の前に海岸がさっと沖へと 引いていくように 一瞬にして その機能をまったく失ってしまいました 私は何が起 こったのかわかりません ただ 全身を駆け巡る熱い感触が 絡まりつく大蛇のように 私を苦しめるのです 私は血を流しているようでした 白いブラウスが 真っ赤に染ま るほど いつのまにか地面に伏していた体を起こして立ち上がろうとしましたが 力が へなへなと萎えてそれはかないません そんな私を抱き起こしたのは 小顔で目の尖っ た 髪の黒い 短身痩躯の 東洋人の男でした その人が私たちオランダ人の enemyで あることはすぐに知れました 彼は黒々と光る銃口を私に突きつけていたのです そし て その人は言いました 恐ろしい言葉を Your children died. 彼の指さした先には 手榴弾の爆発によって何もかも滅茶苦茶に破壊された残骸 私 の子供たちの 残骸 恐ろしい 赤いひろがり 燃える北の空のように バタビアの炎 のように赤い そして いまや人間を完全に拒絶する勢いで燃え盛る夫のサトウキビ畑 べとべとに濡れそぼった私のブラウス あらゆるものが 赤く 燃えあがる 命が まるで嘘みたいに 真っ赤 私は泣いていたのかもしれない 夫の名を呼びました 返 事は 永遠に返ってこないのでした ただ 赤く燃えあがる焰が 私を迎え入れ る 私は運命に後悔します 私だけが生き残ったという 極めて不適当な運命に あれからどれだけの月日を経たのでしょう 私がこれから新たな希望を見出すには 少々歳をとりすぎてしまったようです ですが私の望み この命とひきかえに望むこと それは若い魂の滅罪 そう あなたたちのような若い魂が救われることなのです そ のために私はこの悲しみの眠る島に帰ってきたのです 極単純なことなのですよ す べての罪を認めなさい そしてただ後悔するのでなく 反省なさい 運命に反省なさい あなたたちの血脈には私の呪いがねむっています それを浄化なさい お嬢さん わ からないって顔にかいてあるよ そうさね わからないだろうねえ こんな小汚い婆あ の戯言 でもね これだけは言えるんですよ あなたたちの祖父ちゃん祖母ちゃん 戦 争で多くの人を殺したね 私の愛する人たちを殺したね はっきり言うね わたしゃほ んとに 日本人が憎い! あなたたちも含めて 日本人は皆死ねばいいと思ってるよ! そのことにあなたたちは気づいていないんですよ いやいや ほんとは気づいてるの かもしれない ただ知らんぷりしてるんです だからね どうか どうか私に謝ってく ださい たった一言 sorryと それだけでいいんです それだけで 魂は救われます 自分だけは平和に安穏と生きていけるんだ 自分だけは無辜の民なんだ そんな幻想は お捨てなさい 人間は誰しも罪をもって生まれてくる The original sin 原罪とい う言葉を聞いたことがあるでしょう 神を知らぬあなたたちだって例外じゃないんです よ さあ 私に謝ってください そして神に謝ってください たった一言 sorryと 雨脚が遠のいていくなか、日の光は楔のように鋭角的に老婆の背を照らしていた。風 が吹いてサトウキビの茎が擦れあう音がさわさわと騒いだ。悪魔の囁きあうような音。 僕は耳を澄ました。世界は心に染み入る響きに満ちている。音は日本人の文化だ。僕の 体に流れる日本人の血、日本的なものを愛する心、斯くも否み難く、斯くも断定的に僕 を一つの紋切り型の存在へと誘導する。日本人のアイデンティティー。嗚呼、そんなも のはつまらないのに。だがしかしこの老婆を前にして僕は見紛うことなき一人の日本人 なのだった。ソーリー、アイムソーリー、法子の嗚咽に濁った言葉の群が僕の鼓膜を汚 す。ソーリー、アイムソーリー、老婆と法子はお互いを慰撫するように抱擁しあってい る。二人の姿が崩れかけた泥人形のように無機的なものに見えた。僕は咄嗟に自分がそ の新派悲劇のクライマックスみたいな景色のなかに引き込まれ、埋没することを恐れ た。そして、またしても逃亡を図ったのだった。僕は逃げることしか知らない人間なの だ。なんてつまらない、くだらない存在だろう。僕とあの二人の違いなんてありはしな い。逃げるか、受け流すかのどちらかというだけだ。闘うことなどしない。一見すべて を甘受して解脱者みたいな顔をしているあの老婆、あいつは特に僕を悩ませる。あいつ は偽善者だ、ペテン師だ。僕は謝らない、決して騙されないぞ。そう固く心を定めてバ スの停留所から外に出た僕の後を法子と老婆がのそのそと追ってきた。何故追ってくる んだ! あの瞬間どれだけそう怒鳴りつけてやりたかったか。ある不定形な恐れが僕を 錯乱させるのだ。法子はそんな僕の動揺に気づいていたのか、いなかったのか、突然背 後からこんな言葉をかけてきた。 「私はあなたがお婆さんに謝ることを拒否するんじゃないかって、さっきから思ってた の。あなたはそういう人だわ。だから今更私から苦言を呈することはしない。私たちの 関係がどうこうなるということもないわ。でも本当に、私はあなたが甲斐性のない、つ まらない男だと思い知らされたわ。お婆さんはただ命の尽きる前に心の傷が癒され過去 を清算することを望んでいるだけじゃない。私たちが日本の過去の罪を認めて、謝れば 済むことなのよ。それをあなたは、またいつもみたいに見て見ぬふりなのね。戦争をし ていた張本人たちはもう死んでしまっているから私たちに責任はない、そんな詭弁はこ の際通じないわ。だからこそおばあさんは若い私たちに敢えてこの話を語って聞かせた んだわ。謝りましょう、私と一緒に。ねえ、お願いよ」 老婆の肩を慈しみを込めて擦りながらやや俯瞰し充溢する感情に頬を赤く染めている 法子の顔が、西洋画の聖人像、殉教者の死骸を優しく介抱する聖女のような、嘘臭い大 袈裟な涙によって飾りたてられていた。僕は嫌悪感を禁じえない。吐き気のようですら ある。ダメだ、こんなものではダメだ、僕はそんな神の祝福みたいなものを望んでいる のじゃない。それは本当につまらないものだ。そして僕はただ一言、自分を弁護した。 それは最も偽らざる、魂の喘ぎだった。 「俺ほど日本人の罪を恥じている人間はいないよ」 僕は恥ずかしい、日本人であることが恥ずかしい。だからそんな簡単に謝まるなんて 厚顔無恥なことはやっちゃならんのだ。それは疑いえないことだ。だが僕はその一億二 千万人分の罪悪感を独りで抱え込めるほどの大器じゃないのだ。だから逃げるのだ。誰 も僕を非難できないはずだ。僕は誰にも詰られない、軽蔑されない、そうでなきゃなら ない。嗚呼、でも僕は怖い、僕は後ろ指さされるのが怖い、法子やセンセイに見捨てら れるのが怖い! 法子は薄く閉じた瞳で僕を見つめていた。あからさまな憐憫が彼女を捉えている。僕 を憐れむ、軽蔑する。そして老婆の虚空を漂うような視線が僕の体を撫ぜまわし、皺に 埋もれた唇から「Please say sorry.」という言葉が漏れる。僕は頭を掻き毟った。何 故僕ばかりがこんな懊悩に苛まれなければならないのだ。老婆の言う神というものが仮 に実在するとするなら、そいつはなんて愚かなんだろう。こんな終わりのない拷問など 何の意味があろうか。だから僕は神を信じない。僕は偶然の産物にすぎない。ただ偶 然、ぽっかりと口をあけた懊悩の深淵に落ち込んだ物体、誰が望んだのでも図ったので もない。 「あなたには、何を言っても無駄なのね。そう、出会ったころから、ずっとそうだった わ。これからもきっとそうなんだわ。あなたは本当に、自己完結した人なんだもの」 法子は溜め息まじりにそう言って、老婆に英語でなにやら話し掛けた。老婆もそれを 笑顔で受け答えし、二人は年齢の壁を超えて確かな人間愛で結ばれているように見え た。日の入りの陽光が彼女たちを照らしてい、僕は日陰から目を窄めてその輪郭を漠然 と捉えていた。二人は僕を黙殺しているようだった。しかしそうしてくれるほうが僕と しては楽であった。ひとまずこの場はやり過ごすことができそうだ、そんなことを考え て顎先に滴っていた冷や汗を拭っていると、車が小石を弾きながら近づいてくる音が聞 こえてきた。ハイリルだ。彼は運転席から僕たちの姿を認めるとすかさず道路脇に徐行 して停車した。法子が彼の名を呼んだが返事はなかった。僕たちの勝手な振る舞いを不 快に感じているようだった。車から降りてこちらに歩み寄ってくるとき、彼の視線は法 子に手を引かれた老婆を捉えて離さなかった。そして彼は僕の方を睨みつけ「Is she Dutchwoman?」と尋ねてきたのだった。その口調に何か尋常ならざるものを感じた僕は瞬 時に緊張し咄嗟に口を噤んでしまった。法子の「このお婆さんはオランダ人かと聞いて いるのよ」という声がその場の雰囲気に不釣りあいな調子で虚しく響いた。僕は理解し た。 「法子、インドネシアを植民地支配していたのは日本だけじゃない。おまけにその国は 悪いことに、第二次大戦後日本軍が撤退してからわざわざもう一度植民地化を目論んで 戦争を仕掛けて返り討ちにあったんだ。知らなかっただろ? 俺もこの旅行がきまって から本で読んだんだ。日本の若い人間は殆んどそのことを知らないんだ。インドネシア の国民が朝鮮や中国の人らみたいに専ら日本を目の仇にしないのはさ、オランダってい う他の憎しみの対象があったからなんだな。なあ、これでその婆さんに簡単には謝れな くなったな。これは随分難儀な問題だ。ああ、矛盾が一杯だ、矛盾だらけだ。どうやっ て整理したらいいだろう。なあ、法子」 法子は人間以外の怪物を見るかのような目で僕を睨んだ。そして限りなく憎しみに近 い感情が彼女から僕の体のなかに伝播してくる。 「そんなことは日本人である私たちには関係ないことよ。ハイリルがお婆さんを憎むの は勝手よ。お婆さんはハイリルに謝るべきだと私も思うわ。だけどそれでお婆さんの私 たちを憎む心が消えるわけじゃないわ。私たちは自分自身の責任としてお婆さんに謝ら なきゃいけないのよ」 「じゃあ、婆さんにハイリルに謝るように言ってみればいいじゃないか」 法子は僕の提言に従って老婆の耳元で小声で呟いていたが、老婆は瞼の震えるこぼれ そうな目玉を一杯に突き出して首を横に振るばかりだった。僕たちが謝ったら謝る、そ ういうことを言っているのだと法子が通訳した。僕はそのちっぽけで変に老獪な生き物 を見下し、鼻で笑ってやった。心がすっとした。 僕たちの不毛な問答をよそにハイリルは法子に老婆を置いて車に乗るよう指示した。 日はもはや完全に沈み、車のヘッドライトだけが頼りなげに中空を照らしている。訪問 団の門限破りになることはもう避けられないだろう。僕は憮然として車のドアを開け た。だが法子は乗車する素振りすら見せない。後ろ髪ひかれるように老婆を見つめてい る。老婆は呪詛のような、おそらくオランダ語なのだろう、僕には少しも聞き取ること の出来ない言葉を口のなかでごにょごにょと唱えている。その姿はまるで生きている感 じがしない、機械仕掛けの置物のように見えた。ある意味、彼女はすでに救われている のではないか。盲信と幻想という、欺瞞的な救い。僕は途端にその老婆に対する興味を すべて失ってしまった。ただ法子がその機械人形を抱きしめる様を呆然と眺めているの だ。ハイリルがもう堪忍ならんといわんばかりにインドネシア語らしい言葉で怒鳴っ た。空気がびりびりと震えた。そして彼は運転席に飛び乗りエンジンをふかしだしたの だった。僕らを置いてジャカルタに帰る気なのだ。それでも構わないさ、と無感情な僕 の表情が余計気に障ったらしく、ハイリルはもともと赤味を帯びた肌を更に赤くして罵 声をあげた。何もかも、僕には馬鹿馬鹿しく、つまらなく思えた。もしかしたら僕こ そ、機械人形なのではないか、そんなことすら考えていた。僕は本当につまらない。 そのときだった。僕の鼻先を異様な毒々しい臭気が撫で上げて臭覚神経を一瞬にして 麻痺させた。それは息の詰まるような臭いだ。法子もそれに気づいたらしくその発生源 を探してあたりを見渡した。犯人は呆気ないくらいすぐに見つかった。立ち尽くす老婆 の足元に濁った液体が零れ落ち、夕立にぬかるんだ地面に飛沫をあげていた。恍惚にま どろむ梅干みたいな生き物の顔。糞尿が混じりあってそいつの下半身をべたべたにし、 辺りの空気を汚染していく。僕は息をすることを忘れた。法子は小さく悲鳴をあげた。 そして、嗚呼、あの瞬間、映画のように運命的な、嘘みたいな瞬間、僕たちはそのワン シーンのなかに登場人物として確かに組み込まれ、演じていたのだ。法子がずっと大事 に抱きかかえていたその穢れた塊を急に両手で軽く突き飛ばした。何の罪悪感も介在し えぬ、本能的な反射による動作。僕はただ目撃している、そして運命のなかでもがいて いる、胎児が羊水の膜のなかで、僕はここにいる、と叫びながらもがくように。ハイリ ルの運転する車が前進した。タイヤはゴリゴリと地面をえぐる。地面をえぐるのとまっ たく同様に、突如進路に投げ出された塊がえぐられていく。ゴリゴリ、ゴリゴリ、と巨 人の歯軋りのような音。頭蓋が砕ける音。生き物が破滅する音。それらのうえに、百枚 の硝子を一斉に叩き割ったかのような法子の絶叫が覆い被さった。もうすべてが手遅れ だ。運命の歯車は逆回転しないようにできている、そういうレトリックを使っている小 説を読んだことがある。なかなか美しい表現だ、僕は新鮮な感動のようにその文句を思 い出していた。 「私、殺しちゃった! 人を殺しちゃった!」 法子の体が僕の力ない腕のなかに全体重をかけて圧し掛かってきた。僕はそれを危う く受け止めそこなうところだった。そうすればオチがついてこの悲劇が滑稽劇になるか もしれない。そんなことを思いながらも僕は死人とかわらないような無抵抗のままで、 じっと法子の体を支えている。ハイリルは運転席から降りてこようとしなかった。ハン ドルを握ったまま硬直しているようだった。僕は殺人の現場に立っているのだ。否が応 にもその事実は僕を急きたてる。急きたてる? では僕は何をすべきなのだ? わから ないじゃないか! 僕が殺したわけじゃない、法子だって故意でやったのでもない、こ れは殺人じゃない、事故だ! そう叫ぶのか? つまらない! つまらない僕! 今目 の前にある物はなんだ? 死体だ! 布切れにくるまれたまま中身を噴出している元人 間の肉塊だ! 直視しろ! 偽るな! 逃げるな! 「そうだ、逃げちゃいけない」 僕の魂にかつてない力が目覚めた。僕は自分が何かをできると思った。つまらない自 分からの脱却を目指す貪婪な意思力。初めての精神の躍動。己の生命を信じられる根 拠。すべてはたった今生まれた新しい死者がもたらしたものだ。僕は死者の上で停止し ている車の後部座席のドアを毟り取るように開けるとそのなかに法子の体を無理矢理放 り込んだ。 「ハイリル、ゴーアウェイ、ジャカルタ」 暗闇からぬっと現れた幽霊みたいな顔をあげて、ハイリルは僕を見た。彼はエリート だ。人を轢き殺したとあってはその輝かしいキャリアに傷がつく。彼は無言で頷いた。 それから、法子は車窓に額をはりつけて項垂れたままぴくりともしなかった。僕がドア をノックすると電撃に貫かれたかのような素振りを見せた。彼女は人殺しの汚名を被る には心が善良すぎる。そして何より、センセイが悲しむ。 「法子、何もかも忘れてしまえ、俺とのこともきれいさっぱり。俺の存在をおまえの記 憶から消し去るんだ。いいな、あの婆さんを殺したのはこの凶悪な殺人犯だ。わかった な。じゃあ元気でな。センセイによろしく、いや、センセイには何も言わなくていい や、俺のことは忘れるんだからな。よしハイリル、ゴー」 僕が車の屋根を叩くとエンジンが凶悪な獣のような唸りをあげた。法子が僕を見上げ ていた。彼女は何かを言おうとしているらしかったが、タイヤの轍からたちのぼる砂埃 が僕らの視界を遮断した。彼女とはそれっきりだった。殺人現場から走り去る車のなか であの善良な女は何を思うだろう。僕が罪をすべて被ろうとしたことに感激するだろう か。或いはジャカルタで警察に自首することを考えているか。しかしそんなことは僕に はつまらぬことだ。そもそも僕は罪を被ろうとか、あいつを庇おうなどという気はさら さらないのだ。いうなれば、僕はこの不意の悪事を独り占めしたかったのだ。それに、 相手はこの物言わぬ死者だけ。こんな美味しい機会はまたとない。死者を相手にするか ぎり、僕は恥ずかしがったり逃げようとしたりする必要がない。僕は限界まで自由に己 の欲望を満たす享楽に没頭することができる。僕の欲望、このつまらない自分を超越す ること、つまらない人類の輪廻から解脱すること、世界中のあらゆる道徳という道徳 を、そしてあらゆる人間の罪という罪を、背負い込み、善と悪の区別のない最も完結し た存在へと進化すること。僕は自分がこれから行なおうとしていることにある種の宗教 的な神聖さと儀式的なものを感じていた。清々しい慄きが背筋を駆け上っていく。もう 後戻りはできない。 轢死体は頭蓋の半分を泥濘のなかに埋めて天を仰ぐように四肢を広げて寝転がってい た。僕は死者に対する敬意というものを微塵も持たない鷹揚な手つきでそいつを抱きか かえると、儀式の場として相応しい場所が近くにないか探して暫し辺りを彷徨った。こ いつが死の直前に垂れ流した糞尿と未だに止まる様子のない血液の臭いが混じって僕の 鼻孔を満たした。その臭いにつられたのか、夜闇の幕の向こうに何匹もの蝙蝠を見た。 ぼんやりと光るその小さな眼光が僕を緊張させた。僕自身も今、ああいう獣じみた怪し い目をしているのだろうか。だがそれは自ら望んだことだ。僕は覚悟を決め、じっと闇 を見据えて人の気配すらない畦道を歩いていった。やがて視界の先に見えてきたのは一 軒の粗末な掘っ立て小屋だった。どうやら野良仕事をするときの休憩所らしく屋内屋外 問わず農具や肥料が無造作に置かれていてまさに茅屋といった感じだった。やはり人気 はまったくない。僕は小屋の扉を蹴破ってなかに入り、肩の重たい荷物を床にほっぽり おろした。その拍子に何かが砕ける音がしたので何かしらの骨がぼきっといったのかも しれないが、そんなことには少しも頓着しなかった。ようは肉があればいいのだ。室内 には長い間使われていないらしいかまどが据えられていた。多少湿っているが薪もその すぐ横に転がっている。僕の考えていることを実行するには申し分ないシチュエーショ ンだ。暗闇のなかで大事な獲物の存在を足先で蹴って確認してから小屋を手探りで探索 してまわった。藁の束を見つけるとズボンのポケットからライターを取り出して火を点 けた。狭い室内をオレンジ色の光が駆け巡り、床を占拠しているそのものの上にも平等 に温かく降り注いだ。光はあらゆるものを偽らず、まったく自然なものなのだとはじめ て気づいた。かまどの薪に火を灯すとその感動は更に大きくなった。露骨に僕の目に曝 される、骨折した骨が飛び出した腕や陥没した後頭部、眼球を紛失した眼窩、脳の破片 が滲み出している耳、元人間のあらゆる要素が、僕を驚かせる。光がすべてを自然に見 せる。それは、鮮烈な感動なのだ。加勢は徐々に強まっていき、それに比例して僕も心 のボルテージをあげていった。儀式を始めよう。 僕はまず肉塊を包んでいる衣服を剥ぎ取ることから始めなくてはならなかった。分不 相応に高級そうな西欧の布を力任せに破り、引き裂き、五十年前までは美しかったであ ろう女としての造形物を赤裸にした。それは赤子のように小さかった。次にちょうど手 近に置かれていた鍬を取りあげ振りかざした。そして渾身の力を込めて叩きおろす。び ちっ、と肉が破裂する音が短く鳴ってそこらじゅう弾丸のように柔らかい点々が飛散し た。もはやそれは赤くない、白く濁った色をしていた。僕の力によって更なる加虐に曝 された肉塊はすでに原形を留めなかった。だが僕の精神には殺人者のサディズムなど欠 片も浮かび上がってこないのだ。僕は純粋に物に対する行為をおこなっているのだ。僕 は殺人者ではなく、作業者にすぎない。作業、犯罪の枠を超えた、人知の枠を超えた、 作業。作業は淡々と遂行されていく。適度な大きさに切り分けられた肉の一片一片を、 僕は丁寧にナイフで厚切りステーキ大に削ぎ落としていった。子供のころ両親につれら れていったレストランで見た血と肉汁の滴るステーキ。僕はあの胃が下から押し上げら れるような不可解な欲求、空腹に喘いでいた。そして僕は今、かつてない明確な意識 で、自身の空腹を認識している。僕は腹が減っている。このどうすることもできない渇 望の情念。僕は魂の根底から空腹なのだ。すべてを飲み込み消化することを望んでやま ない凶暴な胃袋が僕を急きたてる。干乾びて筋ばかりのいかにも不味そうな肉を何枚も 同時に火にかけながら、僕は何を思っているかというと、それはこの肉の元の持ち主の 生涯のことだ。この元女は確かに同情されるべき経歴を持っていた。そしてその傷痕を 提示することだけで日本人の、僕の祖父母たちの罪を神の前で容易く立証して見せるだ ろう。だが僕は神じゃない。僕の前で立証して見せたのがそもそもの間違いなのだ。僕 はずっと、子供のころから思っていたのだ。あんな醜いものはない、テレビで放送され る、日本の過去の罪を詰る朝鮮人や中国人たちの憎しみに取り憑かれた顔、そしてその 憎しみを真正面からは受け止めずになあなあで済ましてしまおうとする姑息な大人たち の顔。あんな人間にはなりたくない、この際人間以外のものになってしまいたい。たと えそれがどんなに邪悪な存在であっても、僕は魂の根底からそう望んだ。だから僕は 今、このオランダ女の僕ら日本人に対する憎しみを飲み込んで、自ら最も悪いことだと 信じてきたが想像すらしてこなかった人肉喰いという行為をを断行して、世界中の人間 から悪魔と蔑まれる人間以外の存在、食人鬼として転生するのだ! 腹の虫が重くずっ しりとした響きで絶叫した。僕はもう我慢できない、空腹だ! レア焼きの血と肉汁滴る巨大なステーキを口に入れた瞬間、僕は極めて性的なオルガ ズムに近い絶頂感の虜となっていた。壮絶な自決を遂げたあの小説家、僕の最も敬愛す る人間の一人であるあの文学者は、腹を自ら捌きながら首をぶつ切りにされる瞬間、天 に昇るような美しい射精をしたのじゃないか、センセイは少年のように目を輝かせて僕 にそう語ってきかせた。あのとき幻想の向こうに垣間見た、光に包まれた神々しい印象 が僕にも遂におとずれた。憧憬が昇華していく。空腹が、満たされていく。でももっと だ、もっと、肉を喰いたい。僕はまだまだ空腹だ。僕は次から次へと肉を口に放り込 み、咀嚼し、嚥下し、消化し、そしてまた新しい肉を求めて手を伸ばす。嗚呼、僕はま だまだ空腹だ! その享楽の儀式はどのくらいの時間続けられていたのだろう。すでに時間の観念は失 われていたから、僕自身にはまったく自覚されなかった。だが始まりがあれば終わりも ある。肉体に縛られる生命とは、なんと虚しいものだろう。僕を現実的な次元へと引き ずり戻したのは、襟の伸びきった黄ばんだシャツを着たジャワの農夫だった。この小屋 の持ち主らしかった。彼はぎょろぎょろした目玉をすばしっこく動かして僕と僕のおこ なった行為の残骸を見定めた。そして、あとに続くものは、絶叫と、人間以外のものを 見るための、残虐で冷酷な視線のみであった。ああ、僕は人間以外のものになったの か。僕はのっそりと立ち上がり、自分の赤く汚れた酷く臭いたつ体を観察した。確かな 自覚は何一つなかった。 僕は満腹しているのだろうか? そのとき、ふと思い至った。僕は、人間はどんなに満腹していても、喰いたいと願う 対象がある限りそのことに気づかない、ということをすっかり忘れていたのだった。僕 は満腹していないのかもしれないなあ。一抹の不安が、頭をよぎった。皮肉なことだ。 ジャカルタの留置所は飯が不味いのと便器が看守から丸見えなのとで随分閉口した が、それ以外で特に難儀なことはなかった。ただ尋問する警官が通訳を介して、おまえ はよっぽど餓えていたのだろう、と言ったので、俺は日本人だよ、飽食大国日本、と答 えると、そいつが火を入れられた反射炉みたいに熱く怒り狂って僕を殴り飛ばしたこと は今でも少し心に残っている。彼らは僕のことを気違いだと罵った。その度に僕は、い や、僕はもう人間以外のものになったつもりだから、気違いというのは適当じゃない、 と弁解したが通訳はそれをまったく黙殺しているようだった。 拘留されて一月くらいたってからセンセイが面会に来てくれた。硝子板の向こうの先 生は僕の手首にかけられたわっかを遠慮がちに見つめてから寂しげに笑った。その顔が 心なしかやつれているように見えたので若干胸が痛んだ。それから重い沈黙が続いた。 先に口を開いたのはセンセイのほうだった。 「今精神鑑定の実施を裁判所に申請しているところなんだ。それが許可されて君が当時 神経衰弱や何らかの精神障害をきたしていたと判定されれば檻に入ることはなくなるだ ろうと弁護士が言っていたよ。もともと君の罪状は遺体損壊だけなんだからね、法的に は執行猶予がついて然るべきものなのだそうだよ」 「でも刑法に、人肉喰いは懲役何年、なんて都合のいいことは書いてないでしょう」 人肉喰いと聞いてセンセイの目尻が一瞬ぴくりとした。平静の仮面が剥げかけてい る。 「日本のワイドショーは君のことを変質的な食人鬼だとかスプラッター趣味の暴力狂だ などとあることないこと報道しまくっているよ。日本の世論は君にとって極めて不利な 状況にあると言っていい」 「いいんですよ、センセイ、俺はとりあえず法律が定める最も重い判決が言い渡される ことを望んでるんですから。インドネシアの法律は知らないけど、死刑があるなら、死 刑でも一向構いませんよ」 「なあ、何故君は、人を食べて見ようなどと、思ったんだい? 私はね、この何年か君 と楽しくつきあいをさせてもらって、君という人を少なからず理解できたと自負してい るんだよ。それでね、もし私の想像した理由で君がその罪を犯したというんなら、それ はきっと、半分は私の責任だと思うんだよ。もしそうなら私は君に償いをしなくちゃな らない。なあ、答えてくれ、君は何故、罪を犯したんだい?」 「空腹だったからですよ。裁判でも、そう証言するつもりです。カミュの『異邦人』の クライマックス、太陽が眩しかったからだって、あれの真似ですよ」 僕が口を閉ざすとセンセイは言葉に詰まって、口喧嘩で負けたときみたいにごにょご にょと尻すぼみに押し黙った。「空腹、空腹か」と小声で呟いているその五十代前半の 中年男は僕の恩師であり、義父になるはずだった人であり、そして何より最もよき友で ある人だ。 「なあ、君は自分で思っているよりもずっと善人だよ。善人すぎて他人の悪いところが 目についてしまうんだ。他人の悪事も、人間全体の悪事として自分に転化してしまう、 そういうところがあるよ、君は。私の家の居間でテレビニュースを見ているとき、世界 のどこかでおこなわれている戦争の映像が流れるたびに君は頭を抱えていただろう。世 界中が戦争の動乱で混沌としているのに自分だけが安穏と暮らしていることが苦痛だと か、自衛隊派遣の問題が浮上するたびに自国の平和ばかりを守ろうとする人間が多いこ とが悔しいだとか、仕舞いには、日本にも戦争に参加する責任があるんだ、自分も戦場 の兵士と平等に死ぬ可能性を担っていたいんだ、なんてことまで、君は本当に悲しそう な、気の弱い優しそうな顔をして言っていたじゃないか。私や法子は、君のそういうと ころに惹かれたんではあるけど、それはあまりにも損な性分じゃないか。君はもっと軟 弱に生きたほうがいい」 僕は少し間をおいて答えた。そのほうが何となく雰囲気が出るような気がしたから。 「それは、絶対お断りです」 「何故?」 「センセイのようにはなりたくありませんから。俺は心底センセイを尊敬しています よ、それは嘘じゃありません。でも、俺はセンセイを最終的な目標にはしたくないんで すよ。センセイは善人すぎます。それじゃ、つまらんのです。それに、俺はもう人をや めてしまったから、人という字のつくものは、俺の呼称として適切じゃありません。俺 はとっくにこの間まで目標にしていたものに到達しているんですよ。ただそれが実感と して捉えきれていないというか、なんというか、ぶっちゃけ、結局やっぱりつまらない んですよ、俺は」 センセイは重く項垂れて、「救われないね、君は」と呟いた。不意に僕の視界に飛び 込んできたセンセイの薄くなりはじめた旋毛が、その独特の哀愁を深い藍色に染めてい るようだった。それから僕たちは何を話したのだろうか。文学のことだったかもしれな い。それは極めて幻想的で、現実離れしてい、不毛な時間だった。僕の文学観は、現実 を捉えていないことがはっきりとわかっていたから。面会時間が終わりに近づいて看守 が部屋に入ってくると、センセイは椅子から黙って立ち上がって最後に独り言みたいに 自信なげに、ぼそぼそと呟いた。そのときのセンセイの、捨てられたばかりの子犬のよ うな顔、僕はそれを一生忘れることができないだろうと瞬間的に予感していた。 「法子はまだ、君との結婚を望んでいる。私も、そうなればいいと思っているよ」 センセイが出て行った後の余韻のように、尻の体温を留めた回転式の椅子がくるくる とまわっていた。看守が僕の背中を警棒で小突いた。彼は口髭を大切そうに撫でながら 何か言っていたが、まったく理解不能だった。僕は試しに、「アイアムノットヒューマ ン」と言ってみた。看守は少し変な顔をして首を傾げただけでまったく受けあわなかっ た。やはり、通じていないようだった。手首にはめられたものの構造の解読と看守の髭 の一本一本を遠目で数えていくこと、僕に与えられた娯楽といえばそんなところだ。つ まらない。そしてときどきぶり返してくる空腹。不味い不味いと思いながらも僕はよく 食べた。満腹になっているかは、相変わらず自覚できない。「アイアムノットヒューマ ン」と壁に向かって呟いてみても、なんの戯れにもならない。僕は、本当につまらなか った。 平成十三年十一月二十一日深夜零時五分 つまらない自分への 警鐘を打ち鳴らすのは 天使か 悪魔か ならば悪魔を歓迎しよう それが文学の残滓を啜る僕の 生きる醍醐味なのだと 信じられるから 脱稿
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