●長編 #0301の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
次の日の一晩、私は眠れぬ夜を過ごした。 資金をいつでも動かせるよう、銀行などに預けている分を下ろしておいてく ださいとの指示に従い、大金を自宅に置いたためだ。 そして翌早朝、睡眠不足の私の目を覚まさせる朗報が、アウターランドによ ってもたらされた。 「ラッキーが巡って来ましたよ」 電話口の第一声に、条件に合う大きな仕手戦の情報が入ったのだと知れた。 ついては、二十九万ドルを持ってホテルの部屋まで来て欲しいという。 「危険を感じるようでしたら、こちらから迎えに行きますが」 「ああ、いや、結構。タクシーを呼びますから大丈夫でしょう。それよりも、 直接持参せねばならないのか、振込ではだめなのかと思いまして」 「以前、申し上げたように、なるべく痕跡を残したくないのです。振込だと、 大金を動かした痕跡が残る」 「分かりました。早速、持って行きます」 「私は部屋でお待ちしています。ボーイに言付けておくので、案内と荷物運び をさせてください。他の方の分は以前より預かっていましたが、ホブソンさん の分が届くことで、いよいよスタートラインに立てますよ」 電話を切ると、身支度を慌て気味に済ませ、タクシーを呼んだ。待つ間、コ ーヒー一杯を飲み、ちゃんとした朝食はホテルで摂ろうと考えた。 車に揺られてホテルに着き、大きなトランクを提げて玄関をくぐる。すると 予め言われていたように、ボーイが待っていた。名乗ると、七〇七号室まで如 才なく案内された。 「おはようございます、ホブソンさん。よい天気に恵まれましたね」 今朝のアウターランドはネクタイもきちんと締めて、より一層、隙のない格 好をしていた。 「まったく。まるで我々の成功を暗示しているかのようで」 部屋で対面するなり挨拶を交わす。トランクを運び入れたボーイにチップを やって帰そうとすると、アウターランドが呼び止めた。 「ルームサービスを頼む。――ホブソンさん、朝食は?」 以心伝心の好例か。私がまだだと答えると、彼はボーイに適当なモーニング セットを二つ、届けるように言った。 ボーイが去るのを視認してから、持って来た資金の額を手早く確めてもらっ た。 「――二十九万ドル、間違いなし。責任を持って、お預かりします」 「それで、いつ始まって、いつ終わるんだろうか」 どこの国の何という銘柄かなんてどうでもいい、そんな思いが念頭にあった。 いつ、どのくらい儲かるのかが、最大の関心事。 アウターランドも心得たもので、聞かれたことだけにすらすらと答える。 「今夜八時を皮切りに下げ始め、十一時半でだいたい底を打つ動きになるはず です。それから三十分と経たない内に盛り返し、底値の約六倍を付ける段取り になっています」 「六倍。ということは、アウターランドさんに出していただく一万ドルを込み で、百八十万ドルになって戻って来る?」 暗算が苦手なので、ざっくりと計算してみた。細かく計算しても、大変な額 になるだろうと想像が付く。 「まあ、市場は生き物であり、情報を知らない一般のトレーダーが翻弄されて 動くに違いありませんから、予定と全く同じように行くかは断言できません。 しかし今までの経験から申し上げると、そのような不確定要素を見込んでも、 五倍は堅いでしょうね」 だとしても、ゆうに百万ドル超だ。思わず、あとのことを夢想してしまう。 「私はこれから、ホブソンさんの資金に一万ドルを加え、今夜の投資に備えて、 手続きを進めます。具体的には、ブローカーの男を呼び、この金を持って行っ てもらいます。そのブローカーに頼めば、大金の流れを目立たぬよう、うまく 処理してくれる」 「証拠や痕跡を残さずに、ですな」 「その通り。ブローカーを呼ぶ前に、あなたのご意志を確認したい。資金が処 理されるのをこの目で見たいというのでしたら、着いて行ってもらってかまい ません。ですが、私は仕事があるので、ここに残ります」 「いや、信用していますし、この街は比較的平和だし、私もここで待たせても らいますよ。何よりも、朝食を温かい内にいただきたい」 「なるほど。では、電話を掛けてきます」 携帯電話だと足が着きやすいということなのか、アウターランドは廊下に出 て行った。 七〇七号室にはその後、朝食を届けに来たボーイ、アウターランド、ブロー カーが間をおいて現れた。食事はうまかったし、金の受け渡しはスムーズに行 われた。全ては順調に進んでいる。 そのはずだ。 午後八時前、アウターランドが大きな鞄を持ち、タクシーで我が家を訪れた。 これは朝の内に彼が提案してきたことで、株の値動きを共に見守るためであ る。ホテルの部屋では遅い時間帯になると、ゲストである私は出て行かねばな らないのだ。 「今夜は泊まっていくかい?」 「決めていませんが、どうしましょう。ご迷惑でなければ、深夜の祝杯を経て、 ここで休ませてもらえると楽ではありますね」 アウターランドは持って来たノートパソコンをセットしながら、思案げに言 った。私は一も二もなく、歓迎した。 「どうもありがとう。ところで、ホブソンさんのパソコンはどこです? そち らでも見られるようにしておこうかと」 セットを終えた彼は、私の方を振り返った。 「ああ、なるほどね。しかし、そんなことしなくても、あなたと同じ画面を覗 いてれば事足りるでしょうよ」 しかも私のパソコンは据え置き型で、今いる応接間とは違う、離れた部屋に ある。面倒この上ないから、遠慮した。 「まあ、その方が私も形跡を残さずに済むから、ありがたい……お、始まりま したよ!」 彼の鋭い声に、私は腰をかがめ、画面を覗き込んだ。そのまま椅子を引き寄 せ、アウターランドの隣に腰を落ち着ける。前のお試しのときとはサイトのデ ザインが異なっており、書かれている言葉もロシア語か何かだった。 私の表情に戸惑いを読み取ったか、アウターランドは即座に説明を入れた。 「米国内にこの国の株を取り扱うオンライン証券会社がないので、直接アクセ スしているのです」 「ふむ。それよりも、買い注文はすでに出している?」 「資金が揃った時点で、とうに出しておきました」 我々の狙う株の価格は、アウターランドの掴んだ情報の通り、どんどん下げ ている。言葉が違っても数字は理解できるし、下げのときは下向きの矢印が出 るのも同じだ。 「ここに示される値が4.81になれば、我々の買いです。多少揉み合って時 間を要するでしょうが、じきに成立するはずです。そのあとは、もしかすると 4.79辺りまで下げるかもしれませんが、それは市場の流れで、やがて情報 通り、上昇に向かいます」 午前中の話の繰り返しも挟みつつ、アウターランドは語った。その間も株価 は下げて行く。時折、0.01ポイント単位で戻す場面もあるにはあるが、す ぐに押し切られ、下向きの流れは変わらない。 「下がると分かり切っているのを、じっと見ているだけでは退屈してしまう」 私は笑いながらそう口にした。 「それもそうか。では、軽くギャンブルでもどうです? 酒代か煙草代程度を 賭けるつもりでね」 「これから大儲けしようというのに?」 アウターランドの提案が意外だったので、私は聞き返した。 「考えてもご覧なさい。大金が懐に入ったら、お友達と次の一杯を賭けてギャ ンブルをする楽しみが奪われかねないんですよ。ちょっとしたギャンブルでス リルを味わえるのは、今が最後のチャンス」 「それもそうか。分かった、乗りましょう」 ノートパソコンの画面を横目に見ながら、私とアウターランドはいくつかの 賭をやった。まず、テレビを点けてベースボール中継に合わせ、打者がどんな 結果を迎えるかを予想し合った。これは二人とも外れることが多く、またゲー ム自体が大味な展開になったので、じきにやめた。 次にダイスを二つ用意し、出る目の合計を当てることに興じた。こちらはな かなか面白く、勝ったり負けたりを繰り返した。 最後はカードを持ち出してきて、お決まりのブラックジャックやポーカーを やってみた。ブラックジャックはやはり五分の勝負だったのに、ポーカーにな るとあれよあれよという間に差がついた。アウターランドの強さが尋常でない。 「――呆気に取られていますね?」 一勝負が済み、場のカードを集めてシャッフルするアウターランド。私はた め息混じりに返した。 「いやあ、お強いですな。大金を賭けていなくて助かった」 「酒も煙草もお返ししますよ」 「え? どうして」 「すみません。実は私、ポーカーだけはいかさまができるんです。テクニック をホブソンさんに見ていただきたくて、つい」 打ち明ける彼はいたずらっぽい目をしていた。それが新たな一面のように見 えて、かえって魅力的に映る。 彼がそれから披露してくれた技は、驚きの連続だった。いかさまだと言われ てもどうやっているのか、皆目見当が付かない。自由自在に好きなカードを好 きなところへ配れる、まさにそんな具合だった。 「アウターランドさん、その腕があれば、株の情報を頼らなくても、大金を稼 げるだろうに。ラスベガスで大勝負でもして」 「カジノの連中の目は厳しく、腕っ節は強いですからね。危険な橋は渡りたく ありません」 彼はカードを仕舞うと、パソコンへと視線を振った。 「おっと、夢中になっている内に、ぼちぼちと4.81で成立し始めましたね」 言われて私も株価に注目する。4.81で次々と売買が成立している。大変 な勢いだ。口を半開きにして眺めていると、程なくして我々の出していた買い 注文も全てさばけてしまった。時刻は十一時半を回ったところ。情報通りであ る。 アウターランドはパソコンに向かうと、先程のいかさまと同等の素早さで、 売り注文を出した。 「あとは売れるのを待つのみ」 私と彼は、顔を見合わせてほくそ笑んだ。 アウターランドは他の出資者達に連絡を入れておくと言って、椅子を離れ、 廊下で携帯電話を始めた。我が家の電話を使ってくれてかまわないと言ったの だが、これもまた痕跡を残さないためとのことだった。 応接間で一人になった私はすることもなく、画面をずっと見ていた。株価は 依然、4.81をつけている。一瞬、4.82になり、上昇の兆しかと思わさ れたが、元通りになった。それどころか五分ほど過ぎると、4.80に下げた。 まあ、これは想定内だ……と高を括っていた。 値は4.80と4.81とを行ったり来たりしてから、4.79と4.80 に軸を移した。これもまだ想定の範囲内だ、うむ。しかし……。 「アウターランドさん、早く戻って来んかな」 無意識の内に呟いた。出資者は全員で二桁に上ると聞いてる。連絡に時間を 要するのは仕方がない。 そうこうしていると、株価はとうとう、4.78の領域に踏み込んでしまっ た。さすがに焦りを覚えた。アルコールが入っていたが、その酔いが覚めつつ ある。 画面の数字をにらみつけていると、価格は4.78に張り付いたまま、動か なくなった。売買は相変わらず、成立している。 「どうですか」 やっとアウターランドが戻って来た。まだ携帯電話を仕舞っていないところ を見ると、電話が済んですぐに来たのだろう。 「アウターランドさん、ちょっと下げ過ぎじゃありませんか」 立ち上がり、パソコン画面へ顎を振る。アウターランドは椅子に深く腰掛け、 画面に見入った。 「本当だ。底打ちの予定価格よりも0.03ポイントも下回るのは、ちょっと 記憶にないな」 真剣な横顔に、低い声が、私も不安をかき立てた。 「大丈夫なんでしょうね?」 「……待ってください。この売買成立数と、売り気配の数は……話が合わない」 口元を片手で覆い、アウターランドの眼光が鋭くなる。いや、パソコン画面 の光を浴びて、青く見えただけかもしれないが。 「仕手集団の仕掛けが大がかりすぎて、市場が過剰反応しているだけだと思い ますが……ううん、気になるな。失礼、また電話をします」 ぶつぶつ言っていた彼は、やおら立ち上がると、今度はその場で携帯電話を 使い、どこかに掛けた。テーブルを離れて、ぐるぐる歩き回っていたが、不意 に立ち止まった。つながったらしい。 「――やあ、ミッキー。私だ。今日のアレだが、おかしくないか? 下げの勢 いが強い。まさかとは思うが、別の組織の大規模介入が……それはない? う ん、分かった。ありがとう」 電話を切ったのを見て、私は話し掛けようとした。が、アウターランドは別 の番号を押したようだ。 「――やあ、スミシィ。私だ。今日のアレ……え、そっちも調べているのか。 うんうん。それがうまく行けば、予定通りになると。じゃあ、もしも新しく何 か分かったら知らせてくれ。こっちも何かあったら連絡する」 通話を終えたアウターランドは私に、「状況を保つため、買い支えの動きが あるそうです」と早口で言った。その指は、三度目のダイヤルを始めている。 「どういうことです?」 「仮に対抗する組織が動いていたとしても、ここを乗り切れば上昇に転じると いうことです。もうしばらく様子を見ましょう」 「はあ」 株価は4.77になっていた。 アウターランドはその後も携帯電話を片手に情報収集を続けながら、パソコ ン画面を注視していた。 そして。 「あ――やばい」 突然、アウターランドが言った。彼の口から発せられた、一番間の抜けた単 語だったかもしれない。 「ど、どうかしましたか!」 質問する私の声は裏返り、語尾だけがやけに大きくなった。 「投げ売りが始まった。くそ、どうなってるんだ」 彼は閉じていた携帯電話を開き、少しの間、逡巡を見せていたが、やがて思 い切ったようにある番号を押した。 「情報の提供元に電話してみます。こんなこと、したくはないんだが」 不安を抑えがたくなっていた私に、彼は冷静な口調でこう告げた。だが、そ の額には汗がうっすらと浮かんでいた。 「――4135、9006、617。……何だって!?」 合い言葉らしきコード番号を言った直後、アウターランドは大声を上げた。 椅子に収まっていた私だが、弾かれたように立った。 アウターランドの声は普通のボリュームに戻り、幾度かうなずいている。 「うん、うん……分かった。無事を祈る」 通話を打ち切ると、乱暴な手つきで携帯電話を閉じたアウターランド。声を 掛ける間もなく、彼はパソコンに向かった。 「あの、アウターランドさん。無事を祈るというのは、どういう……」 「申し訳ない、ホブソンさん。我々は罠に掛かった」 「え?」 「一週間前、仕手集団の組織に司直の手が入っていた。現在、組織はすでにな い。だが、組織を通じて甘い汁を吸っていた人間をあぶり出すため、存続して いるように見せかけ、嘘の情報を流したんだ。我々は引っ掛かってしまった」 「で、では、私の金は」 「今、売り注文を出した。少しでも回収します。……畜生、三分の一か!」 画面を見ると、株価は1.70を切っていた。いつの間にこんなに下がった んだと驚いたが、今もとてつもない勢いで下がり続けている。 「どうにか全部売れた! 細かい計算は後回しにして、平均すれば買値の三分 の一で売れたと見ていい」 叫ぶように早口かつ巻き舌で言うと、アウターランドがこちらに向き直った。 「ホブソンさん、本当に申し訳ない。私が本業で立ち寄った街で、たまたま知 り合ったあなたに出資してもらい、こんなに大損をさせたことを深くお詫びし ます。回収できた分を出資者各人に、出資額に応じた割合で返しますが、私は この土地をすぐに離れなければならない」 「え、え、何故です?」 震え声の私の肩に手を置き、彼は落ち着かせるように顔を覗き込んできた。 「言ったでしょう、司直の手が入ったと。私の名前も知られた可能性が高い。 私はこの街にいることを隠していませんからね。ぐずぐずしていたら捕まる恐 れがある」 そこまで言うと、アウターランドは持って来た鞄から、札束を取り出した。 「あなたとは一旦、お別れです。しかし、三分の一に目減りした出資金は返し ます。本来ならネット上の口座から引き出さねばならないが、幸い、手持ちの 十万ドルがあります。これを」 「じゅ、十万だと三分の一よりも少し上……」 「それはお詫びの分。あなたを巻き込んでしまったお詫びです」 アウターランドノートパソコンを、コードを引きちぎらんばかりの勢いで閉 じると、鞄に仕舞った。それから仲間らしき相手に電話をし、車を手配した。 「ホブソンさん」 「は、はい」 「時間がないため、一度しか言いませんが、私の注意をよく聞いて、守ってく ださい」 支度を終えて、今にも出て行ってしまいそうなアウターランドだが、彼は私 を椅子に座らせ、目を合わせてきた。 「ホブソンさん自身が捕まる確率は、まずないとは思いますが、ゼロパーセン トは言い切れません。ホテルの人間に目撃されているし、警察が話を聞きに来 ることは大いに考えられます。もしそうなった場合、私と知り合ったこと自体 は隠さない方が賢明です」 「はあ、はい」 「ですが、裏情報による株式投資に関しては、知らぬ存ぜぬを通す。よろしい ですね?」 「はい、分かりました」 「警察があなたのお金の動きを掴み、銀行から大金を下ろしたことに不審を抱 いくかもしれない。その場合に備えて、理由を用意しておいてください」 「か、考えてみます」 「忘れないでください。――ホブソンさん」 彼は鞄を手に持った。腰を折って頭を下げてきた。 「本当にすみません。この件のお詫びは、言葉だけではなく、実際にお金で返 してみせます」 「と言いますと……?」 「私の情報源は、今回潰された組織からのみではありません。まだ生きている ラインはある。いつになるか分かりませんが、将来、大きく稼がせて差し上げ ることをお約束します」 「本当ですか」 彼に向けた私の目は、すがるようでありながら、希望に満ちていたであろう。 自分がもっと若造であったなら、実際に取りすがっていたかもしれない。 「ええ。ほとぼりが冷めたら、こちらから連絡します。そのときが来るまで、 あなたからは決して連絡を取ろうなどとは思わないことです」 「肝に銘じて、吉報をひたすら待つことにします。この十万ドルには手を着け ないでおくから、またやりましょう」 私が握手を求めると、アウターランドは力強く握り返してきた。手ひどいダ メージを負ったばかりだというのに、彼の自信は揺らいでいない。 「では、また会う日まで」 家の前の道に、車が着いたようだ。 * * スタートしてからワンブロック進んだ地点で、アウターランドを乗せたコル ベットは停止した。ちょうど外灯が途切れており、ワインレッドの車体が夜の 闇に溶け入る。 「もういいでしょ。運転、代わって」 「いいとも。そのむさ苦しい扮装を解いてもらって、きれいな顔を拝ませて欲 しいしね」 アウターランドとドライバーは揃って降りた。アウターランドは車の前を回 ってすぐに運転席に収まったが、ここまで運転してきた方は数歩下がったあと、 帽子を取り、コートを脱いだ。隠れていた豊かな金髪がこぼれ、いかにも女性 らしい身体のラインが明らかになる。 「あら、まだ髪、そのままなんだ?」 「一仕事終わったらいちいち染め直すなんて、もったいないでしょ。大丈夫、 へまはしないわ」 帽子を軸にしてコートを丸めると、アウターランドの膝上に放る。 「そんなに広くないんだから、自分で頼むぜ」 「そう? 残り香を匂いたいかと思って、あげたのに」 彼女が助手席に落ち着くのを待って、コルベットは走り出した。 「で? 結局、いくらになったの」 「十九万ドルだ。諸経費をさっ引いても、十八万ドル以上はある」 「じゃ、やっぱり予定通り、十万ドルも返しちゃったのね? 馬鹿」 頬を膨らませる女性を一瞥して、アウターランドは口元だけで苦笑した。 「馬鹿はないだろ、馬鹿は。詐欺と気付かせないための必要経費だぜ」 「五万で充分よ。多くても八万がせいぜい」 「それだとあまりにも嘘くさい値動きにせざるを得なくなって、ばれるリスク が高まっちまう。予め言ったでしょうに、欲張りなさんなと」 「今回の計画なら、二十九万ドルを持って来させた時点で、ターゲットを帰し て、さっさと持ち逃げすればよかったのに。ブローカー役すら必要なし」 「だからぁ、それだと詐欺を仕掛けたことがばればれでしょ。俺達の仲間にな ったんなら、その辺のこと、理解してくれてると思ったんだけどね」 「理解はしてるわよ」 助手席からの声が拗ねた口調になる。 「ただ、彼はあなたにバーで助けてもらったと信じていたから、疑いっこない。 十万ドルは大きすぎるわ」 「そのくらい残してやらなくちゃ、かわいそうじゃん。お年寄りは大切に」 「へえ。そのお年寄りを大がかりな詐欺に引っ掛けておいて、よくそんな口が きけますこと」 「心外だなあ。ちゃあんとヒントは散りばめてやってたんだぜ。ミスター・ホ ブソンが注意深ければ、詐欺の可能性に気付いたはずだ。極端な話、最初のお 試しのあと、銘柄を記憶してその値動きさえ調べれば、簡単に分かるんだ。現 実にはあんな値動きなんかしていないとね」 「欲の皮を突っ張らせた分、授業料をいただいたという訳ね」 「そゆこと」 スピードを上げる。 「彼がその意味に気付かないままなら、一年か二年後ぐらいにもう一度だまし、 残りの十万ドルもいただく予定だよ。だから機嫌を直せって、“チェック=ザ =ペギー”」 「その名前は、もう当分使わないわよ。“デイビー=アレクサス”の方は分か らないけれど」 ペギーを演じた彼女は、足下に転がるハードカバーに気付いた。拾い上げて、 題名を読もうとする。 「暗くよく見えないわ。何の本を読んでいたの?」 「東洋美術の専門書」 アウターランド――これも本名ではない――は素直に答えた。 「いつか役立つと思ってね。次の次か、そのまた次か」 「……と言うことは、次回の計画はすでに立っているのかしら」 「プランは常に複数用意しているし、俺達の網(ネット)には、常に複数名の ターゲット候補が引っ掛かっている」 アウターランドが答えたそのとき、彼の携帯電話が鳴った。 「出てくれる? 次のターゲットを確保した連絡かもしれない」 * * あれから数ヶ月が経つ。 ジン=アウターランドからの連絡はまだない。 約束を破り、こちらから電話をしてみようと考えたことは幾度かあった。し かし、現実に掛けることはなかった。私の身辺に警察の捜査が及ばなかったの は彼のおかげであろう。 尤も、もらった名刺にあったサイトのURLには、アクセスしてみた。早々 と削除されていたようで、当然と言えば当然だった。 サイトにアクセスを試みたのは、彼に連絡を取りたかったと言うよりも、彼 の顔写真をこの目で見たかったからである。日が過ぎるにつれ、私の頼りない 記憶において、ジン=アウターランドの姿形が朧気になっていくのだ。特に顔 が。 曖昧なイメージは残っているものの、張ったえら以外に特徴を見出せないで いる。次に会うとき、私は彼を見分けられず、失礼な態度を取ってしまうかも しれぬと思うと、不安になる。 だが、きっと彼の方が私を見付けてくれるに違いない。 国際的な仕手集団組織が壊滅したという事件が全く報道されないのも、アウ ターランドを始め、何人かがうまく逃げおおせているからだろう。ほとぼりの 冷める日が早く来ることを願うばかりだ。 ――終 ※参考文献は第一版を開いてください
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