●長編 #0286の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
(あれっ? もしかして、室田、さん) 健司が街ですれ違った梨緒に、初めて掛けた言葉である。問うような口調であ ったが、当然相手が梨緒であることは、事前に確認していた。 「あのとき、アタシ、本気でときめいちゃったの………、ゴメン、優希………ご めんね」 「やだ、何で謝るの」 大きく二回、梨緒は優希へと頭を下げた。 「でも思ったの。優希はアタシのせいで死んだんだから、アタシはケンちゃんの こと、これ以上好きになっちゃいけない………仲良くなっちゃ、いけないんだっ て………だから考えたの。バカなりに、どうしたら嫌われるだろうって」 「………もしかして……だからなのか!」 ようやく健司の中で一つの疑問が得心に変わる。梨緒が自分に好意を寄せてい たと聞かされても、この瞬間まで信じることが出来なかった。見え透いた嘘をつ いての金の無心、隠そうという努力さえない他の男性との交際、それは健司に嫌 われようとして行われていたことだったと。 健司は自分でも気がつかず、梨緒の両肩を掴んでいた。 「だけど、あの男………君の付き合っていた奴は、実際、金遣いの派手な男みた いだったけど?」 「ん………そう。アイツもお金目当ての男だった……ホント、自分でも嫌んなっ ちゃう。ワタシに近寄ってくるのは、あんなのばっかり。けど、ケンちゃんから 借りたお金には、手、つけないよ。いつでもすぐ、返せるように貯めておいたの」 すでに健司の心中に、梨緒を疑う気持ちは消えていた。梨緒が持っていた大金 の理由はいまの話で説明が付く。もし健司の呼び出しに身の危険を感じ、命乞い のためにかき集めたものならば、あれほどの大金を用意は出来なかっただろう。 いやそれ以前に、呼び出しに応じはしないだろう。 夜の仕事をしていた梨緒の収入は、健司より多いはずである。それにも関わら ず、自分の収入だけでは足らず、健司に借りてまで派手に遊ぶ梨緒を軽蔑してい た。金にも男にも節操のない女と、見下していた。優希の一件さえなければ、近 づきたくもないタイプの女性であった。 しかしそのイメージは梨緒自身による芝居によって作られていたのだ。いや、 芝居以前に梨緒に対して健司の抱いていた、謂われのない憎しみが作り上げたイ メージだったのだ。 「何でそれをぼくに言わなかった? 機会はいくらでもあったはずだろう……… 言ってくれればこんなことには………」 こんなことにはならなかったのに。そう言い掛け、健司は口篭る。 この言葉は自分の思い違い、自分の行為に対する言い訳に過ぎないと気づいた からだ。 仮にもっと前に、同じ話を聞かされたとしても、健司は決して信じなかったで あろう。決して梨緒の言葉に耳を貸すことはなかったであろう。 「アタシ、ケンちゃんになら、殺されてもいいって、思ったの」 「あっ? えっ?」 「アタシ、バカだけど………ケンちゃんが優希のこと、忘れられないでいるの、 すぐ分かったよ」 そう言って、梨緒はちらりと優希を見遣った。 「それから、ケンちゃんがアタシのこと、憎んでいるのも。でも、それは間違い じゃない………アタシのせいで優希は死んだんだから。だから………それで少し でもケンちゃんの気持ちが楽になるなら、殺されてもいいと思ったの」 さすがに最後は消え入りそうな梨緒の言葉を聞き届け、健司は両の膝を床へ落 とす。 ―――同じだったんだ――― 梨緒も健司と同じであった。 田嶋優希の死によって重い荷を背負い、苦しみながら今日まで生きて来たのだ。 いや、あるいは梨緒を優希の仇と信じ、恨み続けていた健司のほうが楽だったか も知れない。梨緒は優希の死を自分の責任と感じていたのだ。 憑き物が落ちる。 そんな表現を健司は実感した。 優希の死。実の兄妹のようにして育った少女を失い、健司は大きな衝撃を受け た。その死後、少女に対し仄かに感じ始めていた気持ちに気づけばなお更である。 身も心も崩れるほどの悲しみ。その苦しさから逃れようと、健司は間違った感情 に身を任せていただけだったのだ。 あまりにも身勝手で、自己中心的な感情。 それはかつて、健司の愛した少女が最も嫌ったものであった。 いまはただ、後悔し、己を恥じる以外、何をしていいのかも分からない。 「ほんと、ばっかなヤツ」 感情を押し殺すことなく、怒りを顕にした言葉が飛ぶ。 声につられ、顔を上げた健司は憤懣に満ちた優希の表情を見る。 「ほんと、どうしょうもなく、ばかだよ。けんも、梨緒も」 怒りは優しさに、そして悲しさへと移り変わった。 健司の視線を追うように、梨緒も優希を見つめる。 「私なんかのために、さ」 まるで夢を見ているようであった。 少女の目に大粒の涙が光っている。勝気な少女は身内にさえ、弱い自分を見せ ようとはしなかった。優希の涙は、ただそれだけでも珍しい。そして目から溢れ 出た涙は、重力に従わない。不思議な輝きを放ちつつ、宙へと舞ったのだ。 一粒一粒の涙が、まるで一個の生き物であるかのように。 それは季節外れの蛍を思わせる。 「でも、一番ばかなのは、私、だよね………ごめん、梨緒。ごめん、健司」 涙の蛍に囲まれ、深く深く、頭を下げる優希。 不思議なことはなおも続く。 下げていた頭が戻されたとき、その姿は健司の知る優希へと変わっていたのだ。 スクランブル交差点で男たちに絡まれていた彼女。それは健司にとって、どこ か優希に似た面影を持つ、見知らぬ女性であった。もし不幸な事故さえなかった ならば、優希もこんな姿に成長していたかも知れない。そんな可能性を感じさせ ただけに過ぎない。 しかしいまここにいる優希は、あの日、健司の、そして梨緒の前から消えてし まった中学三年生の少女となっていた。 「ゆう、き………優希」 少女の名を呼び、立ち上がる。立ち上がった健司を、優希が見上げる。 あれから数年の時が過ぎた。 その数年の間に大人となった健司。 時の止まってしまった優希。 驚くほど身長差がついていた。 それが悲しく、愛おしく、健司は目の前の少女を抱きしめる。 幽霊。 それが適切とは思えなかったが、いま腕の中に抱いた少女は多分、そう呼ばれ る存在なのであろう。しかし健司の持っていた幽霊へのイメージとは異なり、少 女には確かな手応えと温もりがあった。 そして、とても小さかった。 高校生だった健司と、中学生だった優希。そのとき既に、体格の差は出来つつ あった。しかしそこから成長することのなくなった優希に対し、健司は青年とな り、二人の差は想像を超えたものになっていた。 それがとても悲しい。 「ちょっと、ばか。放しなさいよ、ばか」 怒って、というより少し照れたように言い、優希は健司の胸を手で押す。さほ ど強い力ではない。 その言葉に従い健司は少女を解放するが、代わりに胸に充てられた手をとる。 もう二度と少女と別れたくない。そんな気持ちが働いていた。 「いてくれるんだよな?」 「えっ?」 「これからは、ずっと俺のそばにいてくれるよな?」 それは確認ではなく、懇願であった。真っ直ぐに優希を見つめる。しかし合わ された視線が、優希のほうから切られてしまう。言い知れぬ不安が健司を襲い、 少女を掴んだ手に力が込められる。 「アタシからもお願い。優希、もうどこにも行かないで」 健司の不安を察したかのように、梨緒の言葉が飛んだ。いや、健司のためだけ でなく梨緒自身、それを願ってのことであろう。 優希の答えを待つ時間。わずかに五秒と言ったところであったか。 ごく短いものであったが、果てしなく長く感じられた。 優希が生者であろうと幽霊であろうと、どちらでもいい。ただ同じ時を共に過 ごせるだけでいい。快い返答を願い、期待し待つ。 そう言えば、こんな状況を何かで見た覚えがある。 本で読んだのだったか、映画かドラマだったか。あるいは漫画だったろうか。 その全てそれぞれにこんな状況を描いた物語があったように思う。そしてそのど れもが、いまの健司の立場に置き換え、好ましくない結末を迎えていた。 「私も、そうしたいんだけどねぇ」 首を斜めに傾け、優希が言った。 その語尾は、自分の望まない答えに続く。そう予感した健司は優希の腕を掴む 手の力を、更に強めた。そして優希の身体を引き寄せようと試みる。ところがそ の手は、いとも簡単に解かれてしまう。 「悪りぃ」 手の平を顔の前に立て、ふざけた口調の優希。 「どうも、駄目みたい」 言い終えると同時だった。 少女の身体がわずかに霞んで見える。 「きゃっ!」 短い悲鳴は梨緒のものだった。 何が起きたのか分からないまま、健司は再度、優希を引き寄せるため手を伸ば す。しかしそれは叶わない。先刻のように、振り解かれたのではない。掴めなか ったのだ。 優希の腕を掴んだかに見えた手は、空を切る。だがそれは幻に向けて伸ばした 手が、それを突き抜けてしまうのと、些か異なる。 一瞬、優希の手に触れた感触が、確かにあった。それが触れた部分から消えて しまう。いや、霧散したと言うべきだろうか。金色の霧となったのだ。 それは優希の流した涙にも似ていた。 よく見れば涙よりさらに小さな光の粒となり、優希の身体から散るようにして 離れてゆく。 「行くな、優希!」 叫ぶが、動けない。 強く抱きしめたいと思うが、出来ない。 触れればまた、優希が散ってしまう。そう思うと、健司は息を吐くことさえ躊 躇った。 「ダメ………だよ、ゆぅ、き」 聞き取りにくい涙声は梨緒のもの。這うような速度で優希へと近寄り、恐る恐 る手を伸ばしかけては止める。梨緒も優希を引き止めたいと願いながら、先ほど の様子を見ていたため、手を出せないでいるのだ。 「ごめんね、梨緒。私のドジで、いろいろ辛い思い、させちゃって」 金色の輝きは、既に優希の全身を包んでいた。 残された時間がないことを感じたのか、梨緒は何かを答えようと口を動かすが、 声にならない。ただふるふると、首を横に振る。 「いつまでも、ぐずぐず言ってるんじゃないぞ、笠原健司。男の子だろ」 「男、男だってぐずぐず言うさ。行くな、行くなよ、優希………」 「しっかりしろよ」 微笑む優希の顔がはっきりと見えないのは、涙のせいだけではない。その姿は 幾万、幾億という光の粒子による集合体と化していた。もしここに一陣の風が吹 き抜けて行けば、跡形なく掻き消されてしまうだろう。 「けんじ、あなたはちゃんと、自分の成すべき事をなさい………」 「なんだよそれ、何言ってるか、分かんないよ」 「ふふっ、私は、分かったの」 「?」 「私の成すべき事は、これだったんだって」 ゆっくりとした動作で、優希は首を振った。そして健司と梨緒とを交互に見つ める。 「それと私の正体」 「正体って………アナタは優希、なんでしょ?」 口元に手を充てながら梨緒が言った。自分の息で優希が消えてしまわないよう にと、気を使ってのことだろうか。 「そうよ、私は田嶋優希だよ」 答える優希の姿が、自らの息で揺らめいて見えた。それほどまでに、優希の身 体は儚い状態になっているのだ。 「私ね、自分が悪魔なのか天使なのか、ずっと分からないでいたの」 健司にはその意味が理解出来ず、梨緒へと目線を遣った。しかし梨緒にも理解 出来ていないらしく、そっと首を横に振って見せた。 「けんと、梨緒と、二人の心の中に居たの。ずっとあなたたちを苦しめていた思 いが私なの」 「それは………違う」 健司は思わず大声を出し掛け、慌てて顰める。 「ぼくらが苦しんだのは、優希のせいじゃない」 「ありがとう………とにかく、私の役目は終わったみたい」 優希の姿が薄くなる。少女を構成していた光の粒子が結合力を失い、天に向か い昇って行く。 「待て………待ってくれ、優希。俺も行く」 元より自分の命も絶つ計画だった。 優希の居ない世界で生き続けるより、少女と共に天へでも地へでも着いて行き たい。健司は懐に忍ばせていた凶器へと手を掛ける。 「ふざけるなよ、笠原健司」 既に向こう側が透けて見えるほどになった優希の、激しい声。健司は金縛りに でも遭ったかのように動けなくなった。 「生きて、健司も、梨緒も。じゃないと、私、絶対許さないからね」 「くっ………」 もう自害は出来ない。 赤子の頃より、一緒に育ってきた少女である。その性格は熟知していた。優希 の言う絶対に妥協はない。もし命を絶ち、死後の世界へ赴いたとしてもそこで優 希は健司を無視し続けるであろう。永遠に、である。 「やだよぉ、ゆうき………行かないで」 それまでの躊躇いを捨て、梨緒が優希へと駆け寄る。だが伸ばした腕は、優希 を抱きしめることが出来ない。やはり空を切るばかりであった。 「さよなら………いつまでも、元気で………」 それが最後の言葉となった。田嶋優希という名を持つ少女の姿は消え失せた。 そしてそれまで優希の姿を成していた、何万、何億もの光の粒子はガラスのない 窓から外へ、更には天空へと昇って行く。 「まだ……まだ何も話してないじゃないか!」 話したいことは山ほどあったのに、もっと抱きしめていたかったのに、何一つ 叶っていない。叫び、健司は光たちを追って窓の外に飛び出す。 慌てていたため、爪先が窓の桟を越えきれず躓いてしまった。顔から地面に落 ちた健司だったが、痛みを口にする間さえ惜しく、立ち上がる。 しかし見上げた空に求めるものはなかった。 優希の姿はもちろん、億単位で存在していた光の粒子も、その一つさえ見当た らない。代わりに満天の星空が広がるだけであった。 「なんだよ………勝手なことばかり言いやがって………」 ようやく会えたと思っただけに、再びの別れは己の身を刻まれるよりも辛かっ た。ましてやもう会う機会さえない別れである。生きて、と残された言葉が恨め しかった。 どれだけの時間であったか。その感覚さえないまま、呆然と立ち尽くしてしい た健司が現実に返ったのは、口元に触れる柔らかいものの存在によってである。 「血、出てるよ」 健司に触れていたのはハンカチであった。 転倒の際、口の中を切ったのだろう。出血していたのに気付いた梨緒が、ハン カチを充ててくれたのだ。 仄かに洗剤の香りがする、憎んだままであれば梨緒らしくないと感じていただ ろうハンカチだった。 「本当に、君には済まないことをしてしまった………」 強い脱力感の中、謝罪の言葉を搾り出す。 「もう、いいの。お願いだから、謝らないで」 優しく返される梨緒の言葉が辛い。 ハンカチを持つ梨緒の手をそっと押し返し、健司はゆっくり歩き始めた。 「どこへ行くの?」 背中からどこか不安そうな声が掛けられる。 あるいは健司が自ら命を絶つつもりではないかと考えたのだろう。優希の言葉 さえなければ、間違いなくそうしていたところである。しかし優希に止められて しまったいま、その道を選択することは出来ない。 「警察に」 振り返らず、足を止めただけで短く答える。 「えっ」 「あいつのお陰で未遂に終わったけれど………ぼくは君を殺そうとしたんだ。自 首するよ」 自害の道が閉ざされた中、それがもっとも正しい選択だと思えた。どれほどの 罪になるのか、よく分からなかったが、自分の行ったことに法的な裁きを受けな ければならい。 再び歩き出そうとした健司の背後が、突然明るくなった。 そのまま梨緒の前から去るつもりであった健司だが、明かりにつられて振り返 る。明かりの正体は小さな炎であった。 手にした一通の封筒。それに梨緒はライターで火を点けたのだ。 「行ってもムダだよ。証拠、なくなっちゃったもの」 そう言って微笑む梨緒。手から離れた封筒は、地で黒い灰と変わる。封筒は健 司が送り着けた脅迫文であった。 「だけど………」 「もし警察の人が来ても、アタシは何も言わない。そうしたら………んー、ケン ちゃん、警察にウソをついたって少しは怒られるかも知れないけど。でも、刑務 所には入れられないよね?」 これでまた、健司に選べる道が一つ、閉ざされてしまった。 しかしたとえ道を見失ったとしても、いまここで健司は立ち止まっていられな い。梨緒へ背を向けまた歩き始める。 「ケンちゃん?」 「警察には行かないさ」 歩みは止めずに、努めて明るい声で言う。今日まで謂れのない憎しみを向け続 けた相手に、これ以上余計な心配を掛けないために。 「ただ証拠がなくなっても、ぼくの罪が消えた訳じゃない。何より、自分で自分 が許せない………」 吹く風が冷たい。 改めて夜の深さを思い起こす。 本来ならこんな夜更けに梨緒を一人にするべきではないのだろう。駅へなり、 ホテルなりへと送り届けるべきであろう。しかし少し前まで梨緒の命を奪おうと していた者が負うには、難しい役目であった。 「ぼくはこれ以上、君の前にはいられない………でも、いつか………いつかぼく 自身納得のいく償いの仕方が見つかったら………」 そこで健司は言葉を止める。梨緒が追って来る気配もなく、健司の言葉がどこ まで届いていたのかも分からない。微かにすすり泣くような声が聞こえたのは、 健司の思い過ごしか、風の悪戯だろうか。 何より、その日が本当に来るのか自信が持てなかった。 風は冷気を運び、骨の芯まで冷やす。筋肉まで凍りつき、動くことが困難にさ え感じられる寒風を掻き分け、健司は歩き続けた。 行くあてのないままに。 上下の区別さえ付かない浮遊感の中に、優希はいた。 あるいはまた、自分の身体は水中に在るのだろうか。果たしてそれは、血の海 の中なのだろうか、それとも澄んだ湖なのだろうか。 答えを得るため、ゆっくりと瞼を開く。そして優希は自分のいる場所が、想像 していたどちらでもないことを知る。 そこは漆黒の闇が支配する空間であった。その闇の中に優希は浮かんでいた。 闇の中に在って優希が「浮かんでいる」と断言出来た理由は二つある。一つは その足は当然であるが、身体のどの部分も壁や床のようなものに触れていないと いうこと。そしてもう一つは、闇が闇であっても完全な闇ではないということで あった。 優希が頭を振ればその上にも下にも、右にも左にも無数の光点が見られる。こ こで言う上下左右はあくまでもいまの優希の体勢を基準にしたもので、実際のも のではない。 無数に輝く光点は、どうやら星々のようである。浮遊感の中、上も下も分から ない。漆黒の闇の中、あらゆる方角に輝く星々。優希の持つ知識の中で、この場 所に該当するものはただ一つしか思い浮かばない。 「………うちゅう?」 思い浮かんだ場所の名を口にしてみる。 成すべき事を成した優希は宇宙にいたのだった。 「私、どうなるのかな」 湧き上がる不安が言葉となる。あるいは自分の中のもう一人の自分が答えてく れるのではないか、微かな期待もあった。しかし答える声はない。 半分ずつに分かれていた心が一つになったいま、ここにいる自分が全ての自分 なのである。 「このまま、消えちゃうのかな」 生きた身ではないのにも関わらず、魂の存在に疑問を感じて呟く。 自分は健司と梨緒の心の中に残っていた田嶋優希という少女の記憶。それぞれ が膨らませていた想いが成した映像のようなもの。そうだとするなら、役目を終 えた後は消えるしかない。優希はそう考えたのだった。 消え行くことに、恐怖は感じなかった。あの日、中学生の優希は死んだ。田嶋 優希の存在はそこで終わっている。いま改めて覚える恐怖はない。 ただ――― 心は残る。 成すべき事を成して、自分はここにいる。 確かに健司の抱いていた、梨緒への謂れない憎しみは消えたかも知れない。 梨緒が持ち続けていた、自責の念は消えたかも知れない。 だがこれから先、二人が互いに笑いあえる日は来るのだろうか。殺そうとした 者と、殺されようした者。互いに心を許しあうには、人の心というものは少し複 雑に出来ている。 そして。 自分も………叶う望みではなかったが、皆と共に在りたかった。 健司や梨緒、そして父母と笑い、泣き、喧嘩をしたかった。 一緒に成長して行きたかった。 双眸より、涙が零れ落ちる。いや上も下もない世界、落ちたのではない。溢れ る涙は小さな球体となり、遠く輝く星たちに混ざる。 その時であった。 (水は流れます) そんな声が、優希の耳に届く。 「だれ?」 慌てて頭を振るが、周囲に人影などない。あるはずがない。 (流れた水は、もう元に戻らない………本当にそうでしょうか?) 女性の声。どこかで聞いたような気もする。 (水は巡ります。雨は川となり、川は海へと注ぎます。海の水は蒸気となり天に 昇ります。それはやがて雲と変わり、雨を降らせます) 「私も誰かに生まれ変わるってこと?」 姿なき声へと問う。しかし声は優希の問いに答えてはくれなかった。 天地の区別さえない空間に浮かんでいた優希だったが、自分の身体が一定の方 向へと流れていることに気付く。どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。数分程 度だったようにも、数十年を掛けたようにも思える。もっとも時間の概念など、 いまの優希にとっては無意味であった。 やがて優希の進む方向に、闇の中にあって、更に深い闇が現れた。どうやら優 希の身体はその闇に向かって流れているようだ。 (時とは一定のものではありません) 再び声が聞こえて来る。 他に誰もいない空間の中、姿は見えなくてもただ声がする。それだけで心が少 し落ち着いた。 「あっ、そう言えば………」 ふと優希は声の主について、あることを思い出す。 半分ずつの記憶が一つとなったとき、地獄の王と重なった女性の姿。その女性 の声が、いま聞こえて来た声に、どことなく似ている。 あのとき、優希の周りには、多分優希と同じ立場の人たちがいた。もし声の主 があの女性であるならば、あのときの人たちもこの場所に来たのだろうか。そし てあの闇に向かって行ったのだろうか。 (時は流れます。けれどただ一つの方向に向かって進むだけではないのです) 遠くに見える星々以外、何もないと思われた空間だったが、そうではない。隕 石のようなものやガス、何かの破片。大きな闇に近づくにつれ、そういった類の ものが見られるようなる。 (高速で移動する物体の中では、時間の流れは緩やかになります) ああ、そう言えば以前誰かに聞いたような気がする。確か健司からであったろ うか。何か男の子たちが夢中になっている漫画の話だったと思う。 (あるいは膨大な質量を持つものの周囲では、時間と空間に歪みが生じます。そ う、たとえばいま、貴方が進む先にあるもの) 声に促され、優希は前方を見遣る。しかし見えるのはやはり、より深い闇だけ であった。 (あれはただの闇ではありません。かつては巨大な恒星だったものの成れの果て です) 理化学に少々弱点のあった優希だが、ようやく前方の闇の正体に思い当たった。 太陽より、遥かに大きな恒星が迎えるという終焉の姿。自身の重力に押し潰され、 やがては恐ろしいほどの質量を持つまでに至ると聞く。光さえ飲み込んだまま一 切反射することがないため、ただの暗黒にしか見えないのだ。 それがいま向かっている先にあるものなら、命を終えた自分には相応しい場所 だ。ただ姿なき声の語る、時間に関する講釈の意図が分からない。 (田嶋優希という、一人の少女はその生きた時間を終えました) 「分かっています………だから私はここにいる………」 念を押されるまでもなく、充分に承知している。だが改めて宣告されたことで、 その辛さを再認識してしまう。 そのとき。 気のせいだったのかも知れない。 姿のない者の表情など、窺う術はない。しかしそのとき優希は、微笑む女性の 顔が見えたような気がした。 (でもそれは一つの可能性に過ぎません) 「可能性?」 (そう幾つかの時間の流れの中の、たった一つの可能性です。可能性は、まだ無 限に存在するのです) 「あの、それって………もしかして………」 姿なき声に、失われていたはずの希望が芽生える。だがそこから先を訊くこと が出来ない。その答えによって、わずかに生じた希望が消えてしまうのを恐れた のである。 (あの日より先も、大切な人たちと共に生きる時間。一緒に笑い、一緒に泣く可 能性。あなたはそれを望みますか?) 「望みます」 即答であった。もしそこにどんなリスクがあろうと厭わない。 「私、健司や梨緒と一緒に生きたい!」 (必ずしも、望みどおりになるとは限りませんよ。場合によってはあなたの存在 そのものが、全ての時間の中から消えてしまうかも知れません) 「それでもいいです」 生きた存在ではない優希だったが、ふいに身体の重さを感じる。それは体調不 良時に感じるものの比ではない。全身を鋼鉄で固められたような重さであった。 気付けばあの闇より深い闇が眼前まで迫っていた。 (闇の………時の流れに逆らうのです………) 闇の影響だろうか。姿なき者の声は、ノイズが走ったように切れ切れで、聞き 取りにくいものになる。 「えっ、どういうことですか? よく分からない」 そう言ったつもりだったが、自分の声が聞こえない。視界が闇に支配される。 感覚の全てが失われ、己の手も足も、耳も目も、鼻も口もどこにあるのか分から なくなった。 先刻までの身体の重さはなくなっていた。いや、限界を超えたが故に「重い」 とさえ感じられなくなっていたのだ。 唯一つ自分が激しい流れの中にあることだけが分かった。 失われた感覚で、その激流が如何程のものか表現するのは難しい。ただ比べる ことが出来たのであれば、台風によって増水した川の流れも、せせらぎのように 感じられたであろう。 流れに逆らえ。 最後に聞こえた言葉を頼りに、優希は激流に逆らおうと努めた。しかしそれは 困難を極めるどころの話ではない。全く前に進んだ気がしないばかりか、努力の 数倍、いや数億倍以上流されてしまうよう思えた。もっとも五感が機能していな いため、それも推測でしかないのだが。 光ばかりか、音さえ存在しない激流。その中を一人進もうとする孤独感と恐怖 はたとえようもない。しかもその努力の結果が、まるで分からない。いくら肉体 を持たない身であってもその体力、いや精神力であろうか、それも限界に達する。 「無理………やっぱり無理だよ」 叫んだはずの声も、耳には届かない。強い絶望感が優希を支配する。 「ごめん、健司、梨緒」 誰にも届かない、最後の言葉を発し、優希の意識は遠のいて行った。
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