●長編 #0284の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
どれだけの時間を費やしたのか分からない。 あるいは肉体を失った魂にとり、時間の経過などないのかも知れない。彼女は 膝を突き呆然と夜の海を眺めていた。 「ばか………」 呟いた言葉は、己に向けてのものであった。 誰かに貶められ、人を憎み、世を恨んでの死ではない。間の抜けた最期である。 しかも何をどこで間違ったのだろう、地獄の王の命を受け、自分の想い人をあり もしない復讐へと走らせてしまった。 父母に悲しみを残し、健司の人生を狂わせ、そして大切な友人にまでも。 自分の小さなミスが、多くの人をおかしくさせてしまった。 いまは何より、彼女自身が恨めしい。 (やっと、思い出してくれた) 声がした。 よく知った声。 彼女自身の声。 しかし彼女が発したのではない声が。 「思い出したよ、ぜんぶ………」 (よかった………いまならまだ、間に合うかも知れない。早くケンちゃんを止め て) 膝を突く彼女の傍らに少女が立っていた。 それはあの日、あの時、ここで命を落とした少女、田嶋優希の姿であった。 彼女は少女を見遣る。 如何なる理由で別れてしまったのか分からないが、懐かしい自分の姿に胸が熱 くなるのを感じた。 気のせいだろうか。少女―――もう一人の自分とは、幾度も対峙してきたが、 いまはこれまで以上に、その姿も声も儚く思える。自分の死について、知ったた めであろうか。 (さあ、急いで) 促す少女へ、彼女は首を横に振る。 「出来ないよぉ………いまさら。だって私は………悪魔だもの」 言いながら涙が零れた。 (なんだ、そんなこと。大丈夫、すぐに分かるから) 儚げに少女は微笑む。いや、本当に少女の姿は消え行く蜃気楼のように薄れて いた。 「ちょ、ちょっと……あなた、まさか消えちゃうの」 (ううん、そうじゃないよ) 否定する少女の顔は、薄れて行きながらも嬉しそうだった。 (戻るの、一つに。私は消えない、あなたも消えない。だってもともと、一人の 田嶋優希なんだもの) 少女の姿は完全に消え去った。と、同時に冬の夜とは思えない、暖かな風が吹 く。陽光と草の匂いを抱いた風が吹き抜けると、一面は光に包まれた。 彼女以外の全てが、いや彼女すら光の中へと飲まれて行く。右も左も、上も下 も見失う光の中、彼女は浮遊感を覚えていた。やがて光が去ると、彼女は実際に 何かに漂う自分を見つける。 右目を開く。映ったものは朱色の線。水面であった。 「ここは………」 彼女はいま、右半身を水面より上にして浮かんでいた。赤い血の海の上に。 身体も顔も動かさず、眼球のみを動かし、視線を巡らす。 水面は、なだらかには続いていなかった。波ではない別のものにより、激しい おうとつを見せている。それは紅い水面に漂う、無数の亡骸であった。 この風景に、彼女は見覚えがあった。 悪魔の眷属として、最初に見た光景。最も古い記憶である。 しかし一つ、あの時は異なっているものがあった。あの時には無かったもう半 分の身体。彼女はゆっくりと、まだ閉ざされていた左の瞼を開く。 途端に世界は一変する。 視界の中央を仕切る線、水面が百八十度回転して上下が入れ替わったのだ。開 いた左目に映る海は、もう赤くない。わずかに青味掛かっているが、ほとんど透 明に近い。水は冷たいが、凍えるほどではなく、むしろ心地よい。 彼女は、ゆっくりと身を起こす。血の海とは異なり、そこは思ったより浅い。 ただ血の海にいた時と同じように、彼女は裸だった。水上に腰から上の裸身を晒 した彼女は、まず天を見上げる。 そこに暗い闇はない。白色の空であった。しかしそれは雲の色ではなかった。 輝く白。空は柔らかな光に満ちていた。 続いて四囲を見渡す。 累々と続いていた屍はない。代わって彼女と同じく、裸の少女たちの姿があっ た。少女たちは皆、裸であることに恥らう様子はない。各々、思い思いに、ある いは数人がひと塊となって沐浴や水遊びを楽しんでいた。少女たちの嬌声が、彼 女の耳にも届いて来る。少女ばかりではない。離れた場所には、男性らしき姿も 見られる。 近くには白い岸辺も見えた。砂浜なのだろうか。 どうやらここは、どこかの湖らしい。 彼女は自分からもっとも近くにいた、少女たちへ目を遣る。あの日、海に落ち た優希と同じ年頃の少女が三人、白いビーチボールのようなもので遊んでいた。 ビーチボールというとビニール製のものを想像してしまうがそうではない。若干、 距離があるためはっきりしたことは言えないが、何かそれは大きな綿毛に見える。 ボールで遊んでいた少女の一人が、彼女に気づいた。 同性の彼女さえ一瞬息を呑んでしまう、そんな優しい微笑を浮かべ、こちらへ と歩み寄って来る。 少女が大きく手を振り、彼女へ何か叫ぼうとした瞬間であった。 強い風が走り抜ける。 湖面を無数の細波が埋め尽くす。 その途端、彼女の瞳が捉えていた風景は、再度一変する。 空は闇に閉ざされ、湖は紅く染まる。 愛らしい少女たちは五体の揃わぬ骸と化した。 細波はいつしか巨大な波となり、彼女を飲み込んだ。 底の見えない水中に没した彼女の肺は、酸素を求めた。赤黒い水中にあって、 光を見出すのは困難を極めたが、それでも頭上には揺らめく水面が確認される。 彼女は上を目指し、水を掻いた。 覚えのある出来事に、次に彼女を襲うものは分かっている。あの時より、心の 準備は整っていた。 水面に上がり、肺に空気を送り込んだ後、彼女が見たものは予想を裏切ってい ない。薄い絹を裂くように、朱色の海を二つに分かちながら彼女へと迫り来るも のがある。正体を知りながらも、巨大な山が向かって来るのかと錯覚してしまう。 それは常識外れに巨大な蛆虫だった。 水面にもたげた首の部分だけで、ゆうにビル三階分には相当するだろう。全身 ではどれだけあるのか、想像するのも恐ろしい。それがこれもまたその体躯に劣 らず巨大な口を開き、向かって来るのだ。白く幾本もの筋が刻まれた体躯を無視 すれば、まるで火山の噴火口が迫って来るような錯覚にも陥る。ただ周囲に並ぶ 三角形の歯が、噴火口との誤認を避けさせてくれそうだ。 この常識外の化け物には、どれだけの死線を潜り抜けて来た歴戦の勇者も裸足 で逃げ出すことであろう。しかし彼女は臆さない。 既にこの化け物とは一度対峙している。それも戦いは彼女の圧勝で終わってい た。あの時と同じようにすればいいのだ。 ふと身体が軽くなる感覚。あの時と同様、彼女は水面に立つ。 まるでテレビの再放送を見るようだ。そう思いながら、彼女は右腕を横に伸ば す。そして念じた。彼女の武器、巨大な鎌を呼び出すために。 ところがいくら念じてみても、彼女の掌中に出現することはない。 「あっ」 ようやく彼女は気づく。あの時とは異なった状況に。 あの時の彼女は右半分の身体しか持たなかった。しかしいまは左右とも揃って いる。あの時身体の切断面より出現した鎌だ。五体揃った身では呼び出せないの であろう。 武器を得られないと知ると、彼女の中から絶対的な自信は跡形もなく消え失せ る。同時に目の前の化け物に対し、強い恐怖が湧き上がった。 「………っ」 声にならない悲鳴を発して逃げようとする、が、もう遅い。他に術もなく、両 腕で頭を庇った。それがあの化け物の前では、全く意味をなさないだろうと思い つつも。 高速で接近してくる巨大な体躯。圧縮された空気が突風となり、彼女を襲う。 吹き上げられた水が紅い霧となる。 既に死した身であったが、その圧力は生々しく感じられた。であるからこそ、 蛆虫の激突を受けて、あるいは火口のような口に飲み込まれ、噛み砕かれて無事 に済むとは考えられない。 生者ではない彼女が更なる死を迎え、どうなるのか。今度こそその魂さえ消滅 し、完全なる無へと帰するのか。もはや想像を巡らす時間さえない。 圧縮に圧縮を重ねた空気が突風を超え、壁となり彼女を襲う。勢いによろめい た彼女に巨大蛆虫が激突するのに、あと万分の一秒と掛からないはずであった。 しかしその直前、またもや周囲の光景が変化する。 澄んだ湖に佇む彼女。 襲って来た蛆虫の名残だろうか。 彼女を取り囲むように輝く、金色の光の欠片。 金色の光が、雪のように降り注いでいた。 「あっ、迎えが来たよ」 彼女に向かって手を上げた少女の声だった。頭上の手は彼女を、ではなく何か 別のものを指差している。 他の少女たちもその指先を追うように、同じ方角へと視線を送る。それから次 々と嘆息、歓声を上げた。 少女たちに倣い、彼女もまた同じ方角を見遣る。そしてやはり少女たちと同様 に唇から「ああ」と嘆息を漏らすこととなった。 天空には一羽の大きな鳥の姿があった。 白鳥や鶴、あるいは鳩。優希もこれまで何度か、白い鳥を見たことはある。し かしこれほどまで、無垢な白さを持つ鳥は初めて見る。 白い輝きに満ちた空に在っても、決して見失うことはない。更なる白さと輝き を以って、天空にその存在を示す。その様はただ美しいばかりでなく、厳かであ った。 鳥が優希たちに接近して来ると、湖に不思議な現象が起きる。 それまでにも空の光を受け、きらきらと白く輝いていた水面が表情を変えた。 水面を踊る光の粒が、白から虹色となったのだ。それはあたかも、ルビーやサフ ァイア、トパーズやエメラルド、真珠やダイアモンドといった宝石が湖面を埋め 尽くしたかのように思える光景だった。 ゆったりとした、優雅な動作で湖岸へと鳥が舞い降りる。そこで優希は改めて 鳥の美しさを知る。 鷹や鷲といった大型の猛禽類でも、これほどのサイズにまでは育たないだろう。 アラビアンナイトに登場するロック鳥がこの位になるのだろうか。先刻の蛆虫と 比較してしまえば遠く及ばないが、それでも湖岸に立つ鳥の身長は小型の雑居ビ ルほどはあるだろう。 ただしその表情に猛禽類や、物語の中の怪鳥のような厳めしさはない。細く長 い嘴と、およそ鳥には似つかわしくない切れ長な目は、とても優しそうに見えた。 高い身長に対し、身体は過ぎるほどに細い。長いが垂れることなくピンと張っ た尾羽と、頭部から伸びた細い冠とが相まって、そのシルエットには高貴さが感 じられる。 「行きますよ。皆、私にお乗りなさい」 声は、白い鳥のものであった。 広い湖の隅々にまで響き渡るような、澄んだ声。 女性的な自愛に満ちた声は、聖母という言葉を連想させる。 鳥の巨大さにも、それが言葉を話す奇異さにも臆する者はない。 促されるまま、順にその背へと乗り込んで行く。優希もまた、皆に倣う。 「落ちないよう、気をつけて下さいね」 最後の一人が乗り込んだ後、鳥は周囲を見回した。乗り遅れた者がないか、確 認したのだろう。それから一言掛け、ゆっくりと羽ばたき始める 席が外にむき出しとなった旅客機で、安全な飛行が望めるはずはない。巨大な 鳥の背中に乗って飛ぶのは、言わばそれと同じことではないか。寧ろシートやベ ルトがない分、こちらの方が危険ではないのか。そう考えた優希だったが、想像 が間違いであったとすぐに知れる。 多少の風圧は感じるものの、心地よいそよ風程度に過ぎない。これだけ大きな 鳥が羽ばたいているのに、振動も殆んど感じられない。その背では談笑を楽しむ 者もいた。 おおよそ常識ではあり得ないことではあったが、驚くことでもなかった。 既に生者でない優希は、あの血の海にて非常識な経験を重ねている。ここもま た、その生を終えた者たちが集まる場所なのだろう。ならば生きていた世界で得 た知識や常識など、ここで振り翳すのは無意味である。 そんなことを考えていると、またもや風景が変化をする。 驚きはしない。 二つに分かれていたものが一つへと返ったのだ。別々に見ていたものも一つと なる。 これは二つの優希がそれぞれに見ていたものなのだ。 耳障りな振動音。血の匂いを含んだ風が、顔を刺すように吹く。吊るされた状 態での飛行は、お世辞にも快適とは言い難い。 眼下にはひたすら広がる赤い海。頭上を見遣れば黒い塊。全体を見渡すのは困 難であったが、それが巨大な蝿の一部であることは承知していた。 時に一度体験したことを再度体験するというのは、退屈なものである。ビデオ を繰り返し見るのとは異なり、早送りが出来るわけではないのだ。ましてあの時 といまとでは彼女自身の心境は大いに異なる。 あの時の彼女は自分が何者かも知らず、半身のみという奇怪な姿から不気味な 世界を自然に受け入れていた。だが一人の人間、田嶋優希としての記憶を取り戻 したいま、目に映る光景はただただ不快極まりない。鉄臭い匂いを放つ朱色の海。 そこに累々と浮かぶ、原形を留めない骸。 やがて記憶通り、陸地にではなく血の海から直接聳え立つ城が見えてきた。こ こでまた彼女の視界に変化が起きる。しかしその変化はこれまでのものと、少し 違っていた。 眼前に迫った城の姿は消えない。恐怖映画の中、怨霊、悪霊の類が集う場所と して登場しそうな、あるいは絵本の中、魔王の住処として描かれそうな城。 だが同時にもう一つ、別の城も存在していた。 波一つない、鏡のような水面に佇む城があった。先ほどまで彼女たちがいた湖 も綺麗な水を湛えていたが、これはその比ではない。あまりにも滑らかな水面は、 本当に鏡ではないのかとさえ思わせる。しかし澄んだ水に湖底まではっきりと見 て取ることが出来る。 白亜の宮殿、とでも言おうか。佇む城の色は純白。いや、純白と表現するのが 適切か否か彼女は首を傾げる。 白色であるのに違いはないが、それは決して目に眩しい白さではない。かと言 って霞んでいたり、翳っていたりする白ではない。どこまでも白という清楚さを 保ちつつ、不要にそれを見る者に押し付けない。不思議な色であった。 城の大きさは血の海に聳えるものと大差ない。双方を同時に見ている彼女には、 その造りすら大きな違いがないと分かった。 しかし見た目の印象は大いに異なる。血の海に聳え立つのが魔王の城ならば、 湖に佇むのは神話の神々が住まう城であった。 視界では一つに重なった二つの城の中へ、彼女は運ばれて行く。彼女を運んで いるのが蝿なのか、あるいは白い鳥なのか、もうよく分からない。 同時に見える二つの城の内部は、いずれも広く長い廊下が続いていた。彼女を 運ぶものが、どれだけの速度を出しているのか不明であったが、目的の場所へ到 達するまでかなりの時間を要する。 特にすることもない彼女は天上でアーチを描く壁に目を遣る。魔王の城の壁に は以前見たのと変わらない、夥しい数の人骨。そして神の城には古代ギリシア、 古代ローマの神殿を思い起こさせる彫刻の姿が認められた。 やがて彼女は広間へと出た。 一方は、より深い闇が広がるばかりの場所であったが、もう一方は穏やかな光 に満ちた空間であった。草野球くらいなら楽しめるであろうか。広い室内には彼 女同様、白い巨鳥によって運ばれた者たちが期待と不安の双方を窺わせる面持ち で立っていた。その一方、少女たちの立っていると全く同じ位置に、魔王の城で は五体のどこかを欠いた者らが立つ。 部屋を満たす光は、ランプや松明、あるいは電気による照明の類とは異なって いた。それは天然の明かりのように思え、彼女は上を見る。まるで吹き抜けのよ うに高い天井であったが、その先に何かが見える。天蓋だろうか、アーチ状の屋 根はガラスが使われているのか、そこから空の柔らかな光が射し込んでいる。 「これは………」 二つの光景を同時に見ながら、その理由について彼女はある結論に達しようと していた。しかし答えが出る寸前、部屋の奥より声が響いてきた。 (よくぞ参った) (ようこそ参られました) 重なる二つの声。一つは地獄の王のもの。 そしてもう一つは初めて聞く女性の声であった。 声の主を求め部屋の奥へと目を遣る。すると先刻まで何もなかったはずの場所 に、美しい細工の施された椅子と、それに腰掛ける人影を見つけた。 当然彼女の片方の視界で捉えたのは地獄の王。そしてもう一方では白く長いロ ーブのような衣装を纏った銀髪の女性の姿を見る。 (お前たちは選ばれた) (あなたたちは選ばれました) 全身の毛が逆立つような声と、心に安堵感をもたらすような声が同時に聞こえ た。地獄の王に対し、目映い銀髪の女性は神か、あるいは天使なのかも知れない。 彼女の瞳が、相対する二つの世界を同時に見ているのだとすれば、そう考えるの が自然であろう。 (貴様たちの在るべきところへ行き、己の成すべき事をせよ) (あなたたちの在るべきところへ行き、己の成すべき事をなさい) その言葉に促され、彼女の周囲にいた者たち―――少女たちも、奇異な姿の亡 者たちも天を見上げた。そして少女たちは、見上げた天に向かい、その身体を飛 ばす。同時に、亡者たちは姿を消した。いや、正しくは少女たちとその姿が完全 に重なったのだ。その背に、白色の翼を携えて。 広間にはただ一人、彼女だけが残される。 (貴様は?) (あなたは?) 王と女性が同時に玉座から立つ。重なる二つの声に合わせるかのように、その 姿もひとつとなる。彼女の視界からは、王の姿も地獄の光景も消えた。いま彼女 の目に映っているのは、銀色の長い髪を靡かせ歩み寄る、女性の姿だけだった。 さきほどから考えていたことに、彼女は答えを出した。 元から彼女は二つの光景を見ていたのではない。一つの光景を二つに感じてい たのだ。 田嶋優希という、一人の少女の心が二つに分かれてしまい、一つだった光景を それぞれ別のものとして受け取っていただけなのだと。 柔らかな掌が、彼女の両の肩に置かれる。 (あなたはまだ、何かを残して来てしまいましたね) 母の胸に抱かれるような感覚。見上げれば、そこには全てを包み込む微笑。 「あれ?」 地獄の王に比べ、彼女の前に立つ女性は決して大きくはない。しかしこうして 見ると、明らかに彼女より頭一つ、身長があった。 (強い想いに惹かれ、あなたの魂は影響を受けてしまったようです) 大人が子どもに話しかけるように、女性は屈み込んだ。その瞳を追って、彼女 の視線も下げられる。視界に自分の胸が映った。 小ぶりな胸、華奢な身体つき。それは己を悪魔の眷属と信じていた彼女の姿と は異なる。あの日、十五年足らずでその命を終えた、優希のものであった。 (あなたが望むのであれば………) 優しげな声が語り掛ける。 (元の世界に戻ることを許しますよ?) もう一人の優希はこの言葉に従ったのだ。そして、地獄の王の指名を受けた優 希と対峙する。だからこそこうして一つの彼女へと戻れたのだ。ここで彼女がこ の言葉を拒む理由はない。まだ健司の過ちを止められていないのだから。 「お願いします。私、まだやらなくちゃいけないことが………」 (いいでしょう。ただしあなたを強く惹く想いに、あなたが負けてしまったら… ……あなたも、あなたを惹く心も、無事ではいられませんよ。それでも行きます か?) 「はい」 迷いはない。 たとえ己の存在、魂までもが消えてしまうとしても、このまま健司を、そして 梨緒を放ってはおけない。 (………分かりました) ゆっくりと、そして優雅な動作で立ち上がると、女性は彼女の顔を優しく撫で た。 その手が視界を通り過ぎたとき、彼女はまたあの場所、中学生の田嶋優希が生 涯を終えた場所に立っていた。 彼女は自分の掌を、それから胸元を見遣る。 それは子どもではない、生きた優希がなることの出来なかった、大人のもので あった。 潮騒の音が、彼女を我に返らせる。 「そうだ、急がなくちゃ」 目的の場所へと走り出す。
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE