●長編 #0283の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「ちっ、マッポ(警察)か………メンドーだな」 元より抵抗らしい抵抗を見せていない健司だったが、いまは壁にもたれ掛かり 微動だにしない。男の言葉ではないが、完全なサンドバッグ状態となっていた。 「よかったなー、兄ちゃん。これで助かったよン、って、生きてんのか、これ?」 男はそれほど慌てた様子もなく、健司の顔を覗き込む。しかし両肘で顔面を防 御したまま、固まっている健司の表情を確認することは出来ない。 「まあ、いいか」 何も反応のない健司への興味を失い、男は梨緒へ視線を移す。 「じゃあ、ま、俺はこれでケツまくる(逃げる)からよ。ケッ、金持った女なん て、いくらでもいるんだよ。テメェはお払い箱にしてやらあ………ま、そこの弱 虫兄ちゃんとブスとで、せいぜいヨロシクやるんだな」 下品な捨て台詞を残し、男はゆっくりと立ち去って行った。最後は梨緒が思っ ていたより、あっさりとしたものだった。所詮、男にとって自分は金蔓でしかな かったのだと改めて思い知る。 呆然と男の立ち去った先を見ていた梨緒を現実に返したのは、間近まで迫った サイレンの音であった。梨緒自身には警察に対してやましいものがある訳でもな いが、面倒は避けたい。警官が到着する前に、男同様この場を離れることが、梨 緒にとって望ましいものだった。 他に気にすべき相手がいなければ、間違いなくそうしていたであろう。ただ結 果として自分に代わり男の暴行を受けた健司を捨て、逃げ出すほど非道にはなれ ない。 「ちょっと………アンタ」 健司へと歩み寄ろうとするが、足が思うように動かない。 「笠原っ!」 梨緒を追い抜いて行く、声と影。高校生と思しき男性が、梨緒よりも先に健司 の下へと辿り着く。どうやら健司の友人らしい。 「あーっ、大丈夫だよ」 意外にも元気な声を友人へ返し、健司が立ち上がる。その姿に、梨緒もそっと 胸を撫で下ろした。 近づいていたはずのサイレンは、いつの間にか遠ざかり始めている。野次馬の 誰かが通報したのではないようだ。 「君、大丈夫かい?」 心配していた相手が逆に梨緒へと歩み寄り、その身を気遣った声を掛ける。目 の前に差し出された手。それを取ろうかと一瞬の逡巡の後、梨緒は自力で立ち上 がった。 「アタシは………ぜんぜん、平気よ」 ありがとう、と言いたかったはずの口が、別の言葉を選んでしまう。 「平気ってことはないだろう。顔とか、随分殴られたみたいだけど」 心配げな表情が、息の掛かりそうな距離から覗き込んで来た。途端、梨緒は自 分の顔が急激に熱を帯びるのを感じた。強い羞恥心が梨緒を支配する。 男に暴行を受け、その痕跡を留めた顔。それを健司にだけは見せたくない。 「平気だって言ってるじゃん。放っといてよ」 芽生えた感情に反する言動を取る。そのことに、梨緒自身驚きながら。 まだ感じる痛みを隠し、勢いをつけて立ち上がった。怒っているふうを装いな がら、健司へと背を向け歩みだす。数歩進んだところで足を止め、振り返らずに 言った。 「なに? アンタ。勇ましく登場したわりには、カンタンにヤられちゃってさ。 ダサいの」 憎まれ口を吐き捨てて、喫茶店横の路地へ駆け込んだ。だがそのまま立ち去る ことはしない。 (なにしてんのよ? アタシ………) 両腕で自らを抱きしめ、座り込む。 梨緒は今まで感じたことのない想いに戸惑っていた。惚れっぽい性格は充分自 覚している。些細な仕草、言葉一つで男性を好きになってしまった回数は十指に 収まらない。たったいま起きた出来事で、梨緒が健司に想いを寄せても不思議は なかった。 だが何かが違う。 確かに健司に対し、好意を持った自分を感じている。ただいつもであれば、そ の場で告白していたはずだ。 梨緒は遠回りを嫌う。よく言えば行動的な性格であるが、短絡的なのである。 恋愛に至るまでの過程、段取りなど面倒でしかたない。相手にその気があるのか ないのか、すぐに知りたい。もし断られたのならば、次の相手を探せばいい。 しかしそんな梨緒が、健司に対しては普段と違う行動に出てしまった。 単刀直入に自分の感情をぶつけられず、想いとは逆の言動を取ってしまった。 素直な言動を取ることに恐怖したためである。相手に拒まれることを恐怖した のだ。 それからもう一つ、自分の感情を健司へとぶつけられなかった理由がある。健 司が優希の幼馴染みであると知っていたからだ。 恋多き女を自称する梨緒であったが、反面、心許せる友人は少ない。その中に あって、優希は親友と呼べるたった一人の人物であった。優希の気持ちを確かめ る前に、健司に告白するなど出来るはずもない。 「何だよ、あの女」 路地の向こうから不満を顕にした声が聞こえて来た。健司のものではない。友 人の声のようだ。 「フツー、礼の一つも言って行くモンじゃねぇのか?」 当事者である健司ではなく、何故だかその友人のほうが、梨緒の態度に酷く憤 慨していた。 「仕方ないだろう。あの子だって、あんな目に遭っていろいろ、混乱もしている だろうし」 「あ? 何で笠原が弁護するんだよ」 互いに気の置けた間柄ということもあってか、友人は露骨に呆れ顔を見せる。 「まあ、お前がそう言うんなら、俺が文句垂れる筋合いじゃないけどな………で、 本当に、お前、大丈夫なのかよ」 「ああ、実を言うと、正直、ちょっとしんどい」 その場にへたり込みそうな健司に、慌てて友人が肩を貸した。 「はははっ。たっぷり腹をやられたから………右足も、少し痛いかな」 「仕方ないなあ、ゲームはまた今度ってことで、家まで送ってやるよ」 「悪い、サンキュ」 友人の肩を借りながら、健司は片足を引き摺り、ゆっくりと歩き始める。 「本当、バカだよなあ、笠原は。カッコよく出て行って、反撃の一つもなく、一 方的にやられやがって」 「いや、あれで正解だろ。岡島さんの執念深さは有名だからな。もしあそこで、 俺がパンチの一発でも当てていたら、こんなものじゃ、済まなかったはずだぜ」 「ん、言われて見れば確かに………」 「それにあの人、俺をタコ殴りにして気が晴れたろうから、今後あの子や俺に絡 んだりしないと思うんだ」 「じゃあお前、初めからヤラれるつもりで?」 「まあな、あっ、悪い、ちょっとストップ」 突然、健司は友人の足を止めさせる。それから横の店のガラスに移った自分の 顔を、しきりに気にしていた。 「どうした?」 「ん、顔、平気かな」 「ああ、派手に殴られた割には………傷とか腫れとか、ないみたいだぜ。そう言 えば、お前、顔だけは必死にガードしてたな。二枚目くん」 冷やかし口調で友人が言う。 「違うよ。顔に痕が残っていると、あいつに追及されるから」 「あいつ? ああ、もしかして優希ちゃん、だっけ」 「幼馴染みだからな」 更なる冷やかしが続く前に、健司の方から釘が刺される。 「しくじったなあ、あの子に口止めするのを忘れてた」 吹き抜けてゆく夜風は、冷たさを更に増していた。直接空気に触れている指は、 もうだいぶ前から感覚の殆どを失っている。そればかりか、身を包む学生服は防 寒具としての機能をさほど持たない。二人とも、身体の芯まで冷え切っていた。 しかしたったいま、語り終えたばかりの梨緒は、寒さを全く感じていないよう である。痛みを覚えさせるほどの寒風の中で、その頬を紅く上気させていた。 そして、話を聞いていた優希も複雑な想いの中で、寒さを忘れていた。 「そっか、あいつ、そんなこと………」 確かに少し前に、健司の様子がおかしい時期があった。あれは二ヶ月ほど前、 梨緒が学校を休んでいた頃と重なる。 優希は中学生、健司は高校生であるため、以前に比べ顔を合わす機会は少なく なっていた。れでも朝夕の短い時間、その少ない機会に恵まれることがある。も っともこれは優希が意図的に健司の時間に合わせていたのであるが。 「オハヨ。こら、若者が、背中を丸めて歩くんじゃないよ」 朝の挨拶と共に、背中を強く叩く。快活な少女の親愛の証。ただし優希が実際 にこの行動に出る相手は、ごく限られている。 「うおっ!」 ふいをつかれたためであるとしても、少々大げさな叫び声。訝しんだのを覚え ている。 健司は、体育の柔道で受身を取り損ねて背中を痛めたのだとか、そんな言い訳 をしていたように思う。 相変わらずトロ臭いんだから、と言いながら優希は笑ったものだった。本当に 少し、嬉しかった。 幼い頃は駆けっこをしても、ケンカをしても優希が健司に負けることはなかっ た。それがお互い成長してゆくにつれ、足の速さも、力の強さも、次第に健司の ほうが勝るようになって来た。それがまだ幼児期の脆さ、自分が見てやらなけれ ば何をしでかしてしまうか分からない危うさを残しているのだと感じたのだった。 「なによ、馬鹿けん」 誰か向けて発したつもりはない。ただ自分の知らない所で、梨緒を助けた健司 を格好いいと思う反面、どこか悔しくも思えたのだ。 「ごめんね。優希の大切な人に、ケガさせちゃって」 優希の呟きを耳にした梨緒が、神妙な面持ちで頭を下げる。 「あっ、いいの、いいのよ。どうせ、あいつ、そんなことでしか人の役に立たな いんだから」 「ホント、仲いいんだね。ケンちゃんと優希って」 「だ、だからどうしてそうなるのよ?」 辺りが暗くて幸いした。もし昼間であれば、あからさまなほどに紅くなった顔 を梨緒に見られていただろう。 「だっていまの言い方。ただの知り合い程度じゃ、言えないでしょ」 「………」 なおも反論の言葉を探す優希だったが、見つからない。 「でも安心して」 「えっ」 「アタシ、この気持ち、伝えるつもりないから」 「どうしてよ、そんな、梨緒らしくない」 言いながら、優希はどこか安堵している自分に気づく。それが堪らなく嫌だっ た。 「フフッ、優希、変な顔してる」 いつかどこかで見たような優しい微笑み。どこで見たのだろう。 「アタシ、優希のこと、大好きだもん。だから、優希の大切な人、盗ったりしな いよ」 「そんな………だから、あいつはただの………」 弱々しい優希の反論を遮ったのは、一本の指だった。梨緒の人差し指が優希の 口元へと充てられる。 「幼馴染みでしょ。優希も、ケンちゃんも、二人しておんなじこと言ってる」 今度は少し意地の悪い、それでいてやはり優しい微笑みを浮かべる。 ああ、そうか。優希は思う。 小さい頃に読んだ絵本の中だと。 慈愛の女神の微笑みと梨緒の微笑みとが重なるのだ。 優希は改めて思う。梨緒はこんなにも美人だったのだと。 「あっ、でも………」 梨緒が腰を預けていたガードレールから、ゆっくりとした動作で立ち上がる。 「もし優希が大人になって、他に好きな人が出来たら、その時はケンちゃん、も らうからね」 冗談とも、本気とも判断の付かない、いつもの口調。一瞬前までの、大人びた 雰囲気はどこへ行ったのか、普段の梨緒へと戻る。 「なんか、優希に話したらスッキリしたな。アタシ、先に帰るね」 足元の紙袋を拾い上げると、梨緒は小走りに歩き出した。その姿は何か、照れ 隠しのようにも見えた。 「バァイ、またガッコーでね」 「うん、また………学校で」 手を振る梨緒に対し、優希も手を振って答える。 この時、互いにまだ知らない。これが最後の別れとなることを。 夜は深さを増していく。 それに伴い、寒さも増していたが今は感じない。 いや、正しくは風の冷たさこそ感じてはいたが、むしろそれが心地よかった。 優希はガードレールの上に手を突き、夜の海を眺めていた。もっとも暗い闇の 中にあって、目に映るものは少ない。仄かな月明かりを受け、微かに波を認めら れる程度である。 「ふうっ」 何度目になるだろうか。優希は深くため息をつく。 「あーあ、どうなんだろう、私」 誰に向けたのでもない疑問の言葉が零れる。 幼馴染みとして、物心がつくより前から、共に過ごす時間の長かった健司。確 かに他の同世代の男性に比べれば、身近に感じるのも当然であろう。ただそれを、 優希は肉親に対しての感情と思っていた。 しかし梨緒から健司への想いを告げられ、改めて自分の想いについて考えてし まった。 「幼馴染みの男の子を好きになる………それじゃまるで、マンガじゃないの」 呟き、笑う。だがその笑いも、二秒と続かない。 (だって、私には手の掛かる弟がいるんだもん) 以前、友人に対して言った、自分の言葉を思い出す。 優希自身は自分の器量がどの程度のものか意識していないが、目立つ存在であ ることは間違いない。幾度か、男子生徒から告白を受けてもいる。 (ちょっと、なんでー。あの子、女子の中でも人気あるんだよ) 男子生徒から申し込まれた交際を断った直後、そう言ってきた友人へ向けての 言葉だった。 やっぱり優希は笠原先輩が好きなんだね。先ほどの梨緒と同じようなことを、 その友人も言った。そしてやはり、優希はその時も強く否定したものだった。 「そりゃあ、嫌い、じゃないけどさあ」 天を仰ぐ。 遠い異国の神々の名を冠した星の並びが見えた。 この星々の下に生きる幾万、幾億の人たち。そこにはどれほどの数の幼馴染み がいるであろう。 そして─── どれだけの数、結ばれた幼馴染みがあるのだろう。ドラマや漫画のように大人 になって結ばれる幼馴染み同士など、決して多いものではないのではないか。そ んなことを考えてしまう。 物心のつくより前から、沢山の時間を共有して来たのだ。一緒にいるのが当た り前過ぎて、健司が異性であることさえ忘れていたように思う。 もちろん優希とて恋愛に興味がない訳ではない。何時かは理想の男性と出会い、 大恋愛をするかも知れない。漠然とそんなことを考えたりしたこともある。 では、と考える。 自分の理想する男性とは、どんな性格で、どんな姿なのだろう。頭に浮かぶの は、よく知った顔。 「ばっか! 梨緒のせいだ」 梨緒から話を聞かされて、必要以上に意識しているためだ。どれほど振ってみ たところで、健司の顔が頭から消えない。 時間を置いて冷静になれば、明日になれば、と思う。 「明日になれば………」 明日になればどうだと言うのだろう。 明日になれば、笑って梨緒の新しい恋を応援してやれるだろうか。 「好き………なのかなあ」 考えたところで、悩んでみたところで、すぐに答えは出そうになかった。 いつまでもここで悩んでいても仕方ない。いつの間にか夜もすっかり更けてい る。時計を持たない優希に正確な時間は分からなかったが、そろそろ母親も心配 しているだろう。 帰ろう。ガードレールから手を離し、上体を起こした瞬間であった。 カツ、と何かが爪先に当たる。身体を起こすのに勢いをつけ過ぎ、足元の紙袋 を蹴ってしまったのだ。買ったばかりのコートが入った紙袋を、である。 横倒しになった紙袋は、蹴られた勢いのまま、ガードレールの隙間を潜り抜け る。その先は崖であった。 「あっ」 考えるより前に身体が反応する。それがいけなかった。 思わずガードレール越しに右手を伸ばす。 自分の運動神経の良さを過信していたのだろうか。あるいは紙袋の中に大事な ものが入っていたからか。既に落下を始めている紙袋を、優希の手は無理な体勢 で追い掛けてしまった。しかし限界以上に伸ばした手は、結局空を切る。 それだけなら、まだいい。 惜しいが、コートはまた買えばいい。 面倒だが、通帳は再発行してもらえばいい。 一瞬の判断ミス。日常の生活の中、咄嗟の判断・行動がその人間の生涯を大き く左右するケースはそう多くない。だが優希は経験してしまう。 突如平行感覚が失われる。ガードレールを乗り越えた身体が、そのまま紙袋を 追うように落下を始めたのだ。後方に残る左手が、何か掴めるものを探すが見つ からない。 夜の闇の中、さらに深い闇色の海へ優希の身体が吸い込まれていく。 わずかに数秒、瞬きをするよりもほんの少しだけ長い時間。十五年に満たない 人生の中、優希は最大の恐怖を経験した。 不運は重なるものである。 運動神経の固まりと自他共に認める優希にとって、泳ぎもその例外ではなかっ た。もし同じ事故が昼間起きていたなら、得意の泳ぎで助かったかも知れない。 しかしいまは夜。暗い空よりもなお暗い海は、ふいの事故に遭った者の恐怖心 を煽る。しかも長く冬の夜風に当たっていたことが災いした。それでなくとも、 冷たい海は身体の感覚を鈍らせる。夜風で冷やされた優希の運動能力は、著しく 失われていた。さらには波も高い。空気を求め、水面を目指そうとするが動かす ことの儘ならない手足では、どうにもならない。意思に反し、身体は下へ下へと 沈んで行く。 (ああ………なんだろう) 優希は、人一倍元気な少女であった。生命力そのものであった優希が、人の死 について深く考える機会など、そう多くはなかった。ただ漠然と、死についても っとドラマチックな想像していた。 (私、死ぬんだな) なんと呆気ないものであろうか。 つい数分前、梨緒と話していたのが嘘のようだ。 もう手足は殆ど動かすことが出来ない。いや、身体に手足が付いているのかど うかも分からない。感覚がまるでない。 もがきたいほど苦しいが、それすら適わない。 意識が次第に薄れて行く。 遠のく意識の中、愛しい人たちの顔が脳裏に浮かぶ。 父と母、たくさんの友だち。 そして健司の顔。 (ごめん…梨緒………私、あいつの、こと………やっぱり、好き、みたい………) 閉じられ行く瞼の隙間から、一滴の涙が零れた。しかしそれは海中に溶け込み、 誰の目にも触れることはなかった。 「何の真似だよ」 健司の口からは、些か気の抜けた声が漏れる。 何か護身用の武器を掴んでいるとばかり思っていた梨緒の手にあったのは、 少々厚みのある封筒だったからだ。 「お前、状況が理解出来ているのか?」 少々健司は不安を感じる。あるいは過度の恐怖によって、梨緒の気がふれてし まったのではないかと考えたのだ。 それでは困る。 梨緒には最期の瞬間まで恐怖を感じてもらわなければ、甲斐がない。しかし健 司の不安はすぐに払拭された。 まさか中に凶器が仕込まれているとも思えないが、念のため健司は封筒を奪い 取った。抵抗らしい抵抗もないまま、封筒は梨緒の手から健司の手へと移る。 それは先刻梨緒が見せた、健司の送ったものとは違う。大手銀行のATM等に 備え付けられている封筒だった。中身を確認すると、その封筒の本来の用途に沿 い、紙幣の束が入れられている。枚数までは数えなかったが、厚さから推測する と数十万円、あるいは百万円近くあるかも知れない。 「それはアンタにあげる」 中身を確認した健司へ、梨緒が言う。が、その言葉は健司の逆鱗に触れる結果 となった。 「ふざけるな!」 放った健司自身が驚くほど、大きく、そして激しい声だった。同時にその手は 梨緒の喉元へ伸ばされる。コートの襟が合わさる辺りを鷲掴みし、捻る。健司よ り頭半分ほど背の低い梨緒は、首を吊るされるような格好となり、爪先立ちを余 儀なくされた。 「金で命乞いか? つくづく貴様らしいよ。だがあいにくだったな、俺が欲しい のは、優希を死なせた奴の命だけなんだよ」 大き過ぎる怒りは笑顔を作らせるのだと、健司は初めて知る。もしこの場に鏡 があったのならば、健司は己のものとは信じ難い、醜く歪んだ笑顔を目にしたで あろう。 本来ならば、もっと時間を掛ける予定であった。梨緒に自分の犯した罪を認識 させ、後悔と恐怖を感じさせ、その中で人生の終幕を迎えてもらう。そうでなけ れば優希の亡き骸が海岸に上がった日より今日まで、存在する意味を失った時を 過ごしてきた健司の気が晴れない。 しかしこのままでは怒りによって自制心を失った健司の手が、梨緒の呼吸が止 まるまで絞め続けるか、あるいは首の骨を折ってしまうまで、幾らも時間は必要 ないだろう。 「………がう、わよ」 「何?」 切れ切れの息で、梨緒が何かを言った。元々言い訳に耳を貸すつもりなどない 健司ではあったが、当初の計画を思い出し、もう少し相手の足掻く姿を見るのも いいだろうと考える。わずかにではあるが、手の力を緩めてやった。 「それは………いままで、アンタに借りてた………お金よ」 その言葉を聞いて、健司は再度手にした封筒を見遣る。確かにこれまで梨緒に 渡して来た金額を合計すれば、この位の厚みにはなるかも知れない。それにして も金に関してはだらしない性格だとばかり思っていた梨緒が、金額を覚えていた とは少し意外であった。 「ふん、お前らしくもないな。だが、いまさら殊勝なところを見せても、俺の気 持ちは変わらない」 健司は冷たく言い放ち、梨緒を床へと突き飛ばした。もうもうと埃が舞うが、 健司も、そして梨緒にも気にする様子はない。 倒れこんだ梨緒へ向け、健司は手にしていた封筒を投げる。厚みのある封筒は、 胸の辺りに乗った。 「それにこれは、初めから返してもらうつもりのなかった物だ。お前が金の無心 に来る度、優希のことを思い出して憎しみを募らせていたんだ。言わばそれは、 憎しみを忘れないための代金さ」 健司にしてみれば金に対する興味も、必要性もない。今夜目的を果たした後は、 自分も命を絶つもりでいたからである。 しかしよろよろと立ち上がった梨緒が、封筒を健司のポケットへと押し込む。 「だから、気は変わらないと言っているだろう!」 その行動が健司を無性に苛立たせた。梨緒の胸元を両手で掴み、後ろの壁へと 押し付ける。壁の下の方には一メートル前後のロッカーが備え付けられていて、 その上部は棚のようになっていた。そのために梨緒の下半身はロッカーに阻まれ、 上半身のみが壁に押し当てられ、逆海老の姿勢になる。 「アタシだって………」 乱れたままの呼吸に追い討ちを掛けられた梨緒が、微かな声を絞り出す。 「………死ぬ前くらい、身を………キレイに…しておきたい、もの」 今度は健司も力を緩めたりはしていない。そのため、そう言った梨緒の声は大 分聞き取り難いものであった。 どうにか聞き取ることの出来た声は、健司の心に小さな波紋を生じさせる。死 ぬ前に身を綺麗にしておきたい。それは即ち、梨緒は死を覚悟していたというこ とである。健司の呼び出しに応じれば死が待っていると承知の上で、この場に赴 いたのだろうか。 いや、これがこの女の手なのだ。 健司の身体の奥底、歪んだ自分が囁く。言葉で健司を乱し、命を永らえようと いう考えに違いない。 それとも。 初めから健司の心を知って、それでもなお近づいて来たのであろうか。 「いいよ………もう、どうでも」 思わず漏れた言葉に、健司は苦しそうな顔のまま見つめる瞳に気づいた。 もう後に戻ることなど出来ようものか。健司には先に進む以外、道はないのだ。 それならばここで梨緒の思惑など知ったところで仕方ない。梨緒も健司も、日の 出を迎える頃には、この世の人ではなくなっているのだから。 健司が手を離すと、梨緒の身体は床へと崩れ落ちる。そこへ再び健司が馬乗り になった。 最初の予定では用意した刃物で、梨緒を刺すはずであった。急所を外し、数箇 所を刺すことで死に至るまでの時間を延ばし、恐怖と苦痛を与えてやるつもりだ った。 しかし気が変わった。 あるいはどこかで健司自身が、自分の考えているほど残忍になりきれなかった のかも知れない。だが今日までそれのみを支えに生きて来た目的を、捨てること も出来ない。 健司は両手を伸ばす。 梨緒の首へと。 別段、健司の動きに素早さはない。相手に逃げられたり、反撃されたりするの を警戒した動きではなかった。 もちろんそれらについて、健司も全く留意していなかった訳ではない。しかし ここに来てから終止そうであったが、梨緒には抵抗らしい抵抗をする気配がまる でないのだ。そのために健司の警戒心も薄まっていた。 「……こいつ」 抵抗、どころではない。 梨緒は目を閉じたのだった。無言で健司の両手が首に掛かるのを許す。 初めての経験であるため、どれほど時間を要するかは分からない。しかし後は このまま手に力を込めるだけである。梨緒の命を奪うのは、もう容易い。 これ以上何も考えたくはない。 ここで全てを終わらせよう。 そして自分も優希の元へ行こう。 その中にある者の命を手折るべく、健司の指先に力が込められようとした瞬間 だった。 「こら、けん。バカなことやってとんじゃないの!」 予想もしていなかった叱責の声に、込められようとした力が止まる。 女の声であったが、梨緒のものではない。 首に手を掛けられた梨緒に、出せるような声ではない。 目撃者が現れることを避けるため、この場所を選んだ。万が一、目撃されてし まっても、元より完全犯罪など望んではいない。しかし目的を果たさぬうちに止 められては困る。無関係な者を巻き込みたくはないが………。 健司は声の主の姿を求め、視線を巡らせた。
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