●長編 #0272の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
何か夢を見ていたような気もするが、思い出せない。いや、夢など見てはいな かったのだろう。 深く暗く、膨大な質量を持った闇。そこから太古の海に突然湧いた最初の生命 の如く、微小な意識が芽生える。 芽生えた意識が最初に捉えたのは音だった。 ちゃぷちゃぷと響く音、水音のようだ。 まるで海水の流れ込む洞窟で聞くような音が、遠くから微かに響く。次第に音 量を増す水音にあわせ、漠然としていた微かな意識もその存在を大きくしていく。 そしてついに、意識を外界と闇との二つに隔てていた岩戸、瞼が開かれた。しか し、光源を持たない外界は意識の闇との境を曖昧にしている。 暫しの時を経て、ようやく暗さに慣れた目は水音の正体を意識に知らしめる。 初めに見えたのは、視界を分かつ垂直な線。その線が規則的に揺れている。 水面だ。 彼は水に浮かんでいた。 顔の右半分を水面に出し、浮かんでいたのだ。 それだけでもただならない状況であったが、彼は取り乱すことはなかった。と、 いうより何も感情が湧かない。それがごく当然であるかのように、生まれた瞬間 からそうであったかのように。 別段、呼吸が苦しい訳でもない。恐怖感もなく、特に不自由にも思わない。彼 にはその状況を脱しようという考えが浮かばない。それどころか、顔半分だけを 水面に浮かべた姿勢を変えようとすらしなかった。 ただ周囲の状況については、多少ながら関心を持った。もっとも積極的に把握 しようと試みたのではなく、目の慣れに従い飛び込んでくる映像を漠然と捉えた だけだったのだが。 彼は狂っていたのかも知れない。 そうでなければ、己の置かれた状況を知ってなお、心動かさずにいたことの説 明がつかない。 最初に存在を示した聴覚、漠然とした意識と朧気な視界。遅れて機能し始めた 嗅覚が、鉄錆臭い匂いを鼻に届ける。その正体をようやくやる気を出そうかとい う意識に知らしめたのは、視覚であった。 闇の中、黒い水面。しかしその認識が誤解であることを、徐々に明瞭化して来 た視界が捉えたのだ。 水面の色は赤。 乏しい光源の中に在っては判断が難しい。が、彼の浮かぶ水面は濃い赤色をし た、異様に粘性の強い液体によって作られていた。 匂いから察して、血である。 彼は血の海に身を浮かべていたのだ。 一体どれほどの人間、あるいは獣が流したのだろう。人一人を浮かばせるほど の量。少なくとも彼の足が底に着かぬほどに湛えられた血は、夥しいと表現され る量を遥かに超越していた。 しかしそれは彼の置かれた異様な状況の全てから見れば、取るに足らない、ご く些細なことであった。 身を捩ることすら億劫に、彼は視線のみを巡らせ、更に周囲の状況を知ろうと する。 そこに血の海の範囲を知らしめる岸はない。 大きさを知らしめる水平線もない。 そのどちらかは、存在していたのだろう。だが、彼には見えない。片目だけを 水面上に浮かべていたため、視界が狭くなっていたせいもある。しかしそれ以上 に、彼の視界を遮るものが存在していたのだ。 彼を取り囲むような、いくつもの浮遊物。赤い血の海に出来た無数の瘤にも思 えたそれらが、自分同様の漂流者であると知れるまでには、幾ばくかの時間を必 要とした。 漂流物の一つ一つが人として認識されると同時に、彼はある間違いに気づく。 それらが自分同様の人である、と思えたのが間違いであったと。 いまだ体勢を変えない彼から見えるそれらは、この血の海に浮かぶ者たちのご く一部であると想像される。しかしそのどれ一人、彼同様に目を開き、周囲の状 況を知ろうと努める者はなかったのである。いや、それどころか開く目を持たな い、即ち首から上を有しない者さえあったのだ。 それら全て、亡骸であった。 どれほどの広がりを持つのかさえ、定かでない血の海。 累々と浮かぶ無数の亡骸は、半数、いやそれ以上の者が固体としての形を維持 することさえ困難なほどに、腐敗が進んでいた。 そうか、ここが、というものなのか。 虚ろな意識の中、彼は得心する。と、同時に更なる疑問も生まれる。 はたして死者の魂が集まるという地獄で、亡骸が存在するものなのだろうか。 そしてその中、ただ一人自分だけが生きているのはなぜなのだろうか。 いやここが地獄であるのなら、自分だけが生きているというのは正しくない。 では、自分はいつ死んだのだろう。そもそも、自分は何者であるのか。 思い出せない。思い出す努力をする気にもならない。 恐怖感はない。 絶望感もない。 彼にとって、全てがどうでもいいことであった。 「生」に対する執着心がまるでないのである。それが彼の資質なのか、あるい は既に死者となっていたがためであるのか分からない。 相変わらず右半身のみを赤い水面に浮かべた姿勢のまま、彼は目を閉じる。血 の海に没し、二度と意識が甦らないかも知れない。そんな考えもちらりと脳裏を 横切った。それならばそれでいい。 彼は自分が存在することへの意義を、何一つ感じていない。 思い出せない。 わずか数秒の後、彼が再び瞼を開いたのは、死者らしからぬ生への執着心に目 覚めたためではない。 誰かに身体を揺すられたような感覚。 見開かれた目は、それが波の悪戯だと彼へ知らしめる。幾重にも重なった小さ な波が、彼の無気力なる眠りを妨げたのだった。 彼の目は、波を遡る。その発生源を見極めるべく。 しかし暗さに慣れた目を以ってしてもなお、先を見通せぬ闇がそこにはあった。 いや、闇ではない。それは大きな波だった。 彼と同様の境遇、あるいは彼より先に永久なる眠りを迎えた者たちを取り込み ながら巨大な波が聳え立つ。 一瞬の浮遊感。 もとより水の───正しくは血の浮力によって軽減されていた体重が完全に消 失する。それが巨大な波に飲まれた結果であったと知らしめたのは、全身を包む 水圧だった。 自覚する間もなく、酸素を欲した肺が手足を動かせる。水を掻く感覚はなかっ たが、彼の要望は叶えられた。 水面を突き破ると同時に、彼の口と鼻腔は極限まで広げられ、欲していた酸素 を充分に肺へと送り込む。 だが、安堵の間はない。 彼の視界には、先刻の波に代わり別のものが飛び込んで来る。 やはり巨大で白い、やや赤みがかったものが、こちらへと迫っていた。 迫っていた。そう、先ほどの波とは違い、それは自らの意思で彼の方へと迫っ ていたのだ。あまりの巨大さゆえ、すぐには認識出来なかったがそれは生き物で あった。 水面にもたげた部分だけで、ビルの三、四階ほどの高さがあるだろうか。胴回 りも象二頭分はありそうだ。自分が何者か、なぜここに居るのかも覚えていない ようでは怪しいが、そんな彼の記憶に、これほどのサイズを持つ生き物などない。 あるいは海に棲む巨大な鯨が匹敵するかも知れないが、実物を目にしたことはな い。もちろん、「たぶん」と断りがつくのだが。 サイズこそ尋常ならざるものであったが、その生き物自体は彼の頼りない記憶 にも残されていた。ただ、おそらくはこれまで数えるほどにしか遭遇していない こと、そして彼の知る矮小さとのギャップに、生き物の正体を特定するのに多少 の時間を要した。 蛆虫。 糞尿や腐肉に湧く、大抵の者がおぞましいと感じる虫。それが眼前に迫る、巨 大生物の正体であった。 ある種の研究家でもない限り、蛆虫をその細部が認識出来るほどに接近し、観 察した経験を持つ者はいないだろう。従って彼が見て取った巨大生物のディテー ルが、矮小な蛆虫とどれほど一致しているのか断定は難しい。まして彼の曖昧な 記憶に比較するとなればなおさらのことである。だがその曖昧さを以ってしても、 巨大な蛆虫の姿は異様であった。 目も耳も、あるいは鼻に該当するような器官は何も見受けられない。白くのっ ぺりとした躰を数本の筋が仕切っている。唯一確認できる器官は、そののっぺり とした体躯の先端、すなわち頭部と思われる部分にぽかりと開いた穴だけであっ た。穴の円周に沿って三角形の白い物体がぎっしりと並んでいる。 白い物体は歯、穿かれた穴は口。 ヤツメウナギを連想させる歯を持つ蛆虫が、何かしらの肉を主食としているだ ろうことは、容易に推測できる。いや、推測するまでもない。彼は穿かれた穴の 中に、己と同類である死者たちの姿を無数に確認していたのだから。 巨大蛆虫にとって、その生死は関係ないらしい。鋭い歯を持つことの必然性を 感じさせないほどに大雑把な咀嚼のみで口内の死者たちを飲み込むと、次なる獲 物、すなわち彼をもまた食すべき対象として距離を縮めつつあった。 そのスピードはサバンナに生息する肉食獣にも劣るものではない。あるいは遥 かに凌駕していたかも知れない。 非現実的な光景の中、非現実的な者によって、現実的な死が彼へと迫る。 如何なる死であっても同じ。彼にとってそれを拒む理由は見つからない。わず かな時間ではあったが、彼はそれを迎え入れようとも考えた。 だが……… 水中に没したとき、無意識のまま酸素を欲したように、いやそれよりも明確に 彼の内なる意識は生を求めた。 既に蛆虫と彼の距離は十メートルを切っている。 徒手空拳の身に抗う術はない。 それでも彼は生を欲した。 ここが地獄であるなら、彼はとうに死者である。彼自身、そう自覚していた。 先刻まで生に対する執着など、微塵も己の中に感じてはいなかった。 だが具体的な死を運ぶ者の存在により、彼は強く生を求めた。 初めに彼は相変わらず顔の右半分だけを水面に浮かべた体勢を、立て直そうと 努める。巨大蛆虫に対抗する手段が見つかった訳ではないが、相手を正視するこ とがまずは必要であると考えたのだ。 この作業は想像以上に困難を窮めた。血の海の浮力の関係であろうか。体のバ ランスが異常に悪い。しかし苦戦しながらも、蛆虫の接近より先に体勢を整える。 後になって考えてみれば不思議なことであるが、彼は水面に立っていた。それ はさながら、一昔前の劇画に登場する忍者のようであった。 「ああっ!」 と彼の口から漏れた、驚愕とも感嘆とも取れる声は、そんな些細な事柄ゆえで はない。 彼───、いや、以後この呼び方は改めよう。その目は己の胸に少し小振りで あったが、緩やかな丘陵を見取ったのだ。 彼女は初めて自分が女であると知った。 だがこれもまた、先刻、その唇から発せられた声の理由ではない。自らの性の 認識が誤っていたことさえ、もう一つの事実の前においては驚くに値しない。 彼女には右半身しかなかったのだ。 何か鋭い刃物、巨大な鉈を振り下ろされた直後のように、彼女の左半身は欠落 していた。 目の錯覚か、あるいはただ見えないだけなのか。確認のため、彼女はそっと右 手を、左半身の本来なら脇腹があるはずの場所へと伸ばしてみる。が、指先に触 れるものはない。 失われた半身の断面がどのようになっているのか、自らの目で確認することは 出来ない。いまの彼女には、その必要もない。 やはり己は人では───少なくとも生きた人ではない。 それが分かっただけで充分だった。己が死霊悪霊、魑魅魍魎の類であったとし ても、迫り来る危機に対し、それを容認する理由にはならないのだから。 何か武器が欲しい。 ただでさえ半身がないことは、彼女を脅かそうとする者と対決するには不利で ある。せめて武器の一つもあれば。 そんな彼女の願いが天に通じたのだろうか。 いや、決して祝福された存在とは言い難い半身の身に、神の加護などあろうは ずはない。ならばそれは、悪魔の仕業であったのかも知れない。 徒手空拳であったはずの掌に、感触を覚えた彼女は、ちらりと視線を送る。い つの間にか、手の中に朱色の細く長い棒が握られていた。 冷たい金属質、と言うよりガラス質の感触を目で追う。その先端に大きく弓形 を成す刃が赤色の輝きを放っていた。彼女の手にした得物は鎌だった。 それはさながらタロットカードに描かれた、死神が手にするもののようである。 生者としての、いや人としての姿を持たない自分には、とても相応しい武器であ る。彼女はそう思った。 無意識のうち、口元より笑みが零れる。自分に相応しいと思われる武器を得た ことで、不思議な自信が彼女の半分だけの全身にみなぎる。既に生臭い息が掛か るほどに接近していた巨大蛆虫に対して、恐怖も、敗北の予感も感じない。頭の 中に浮かんだ勝利のイメージを数千分の一秒遅れで、実際の行動に変える。 片手だけでも鎌は重さを感じさせない。まるで失われた、あるいは初めから存 在していない左腕がそれであるかのよう、鎌は彼女の意のままの軌道を空に刻む。 猪突猛進をする蛆虫は彼女を、正しくは彼女の振るった鎌を中心に、その進路 を二手に分かつ。 どれほどの鋭さを持とうと、その刃渡りは巨大蛆虫の体高に及ばない鎌である。 しかし常識外の出現を遂げた得物は、やはり尋常ならざる力を秘めていると言う のか。激流のごとき勢いで彼女を襲った蛆虫は、同じ勢いのまま二つの塊と分か たれ、彼女の後方の海へ落ち、沈んで行く。 背に水飛沫を浴びながら、当面己の存在への脅威が去ったことを知る。もっと も半身の、自らの生死さえ定かでない身で、何が脅威なのか。そう考えた彼女の 口元には、自嘲的な笑みが浮かぶ。 まず彼女はその手にした得物、死神の鎌がどこから出現したのか探ろうと試み た。そしてそれは、さほどの時間と労力を費やすことなく、容易に知れる。 巨大蛆虫を両断した刃には、軽く一瞥を遣っただけですぐに視線を落とす。ガ ラス質の柄はその感触に間違いはなく、濃い赤色をしていたが透き通っている。 さらに柄の尻からは柄と同じ赤色の糸、と言うより溶け出した飴のようなものが 延びていた。そして紐状の飴は、彼女の身体───何者かが彼女を左右に切り分 けた、その切断面へと続いているようであった。ただ、これは人が己の右目を左 目で見ることが出来ないように、失われた半身の切断面を彼女自ら視認したので はないが。だが彼女の推測も、あながち間違いではなかったようだ。ふいに手中 の質感が失われたかと思うと、鎌は飴状の紐に引かれるようにして彼女の切断面 へと消えて行った。あるいはあの鎌は、彼女の血が形状を成したものだったのだ ろうか。 「死神が手にするもののよう」と鎌を形容したが、それは間違いではないだろ うか。 彼女は思う。 あれは死神の鎌のようなものではなく、死神の鎌そのものではなかったのか。 すなわち、彼女自身が死神、あるいは悪魔そのものではないのか、と。 巨大蛆虫を倒し訪れた静けさの中で、己の正体について想いを巡らせる彼女で あったが、そんな時間は長く続かない。 ふいに朱色の水面が小刻みに震え、まるで下ろし金の歯にも似た波を立てる。 同様に空気が振動するのを感じると、それにやや遅れて不快なモーター音のよ うなものが届く。 咄嗟に彼女はヘリコプターの接近を予感した。音と振動を、高速で空気を裂く プロペラによるものだと判断したためである。 ヘリコプターの接近を感じながら、彼女は躊躇していた。人外の者なる姿(正 しく言えば半分だけは人の姿であるが)を人前に晒すべきでない。そのように考 えもした。しかしそのような考えは杞憂であったとすぐに知れる。 もとより地獄を思わせる血の海。 非常識なサイズの蛆虫。 そして半身で生きる人間。 これらが混在する場所に、まともな者が現れると想像したこと自体、間違いだ ったのだろう。大体、接近して来るものをヘリコプターだと考えたことに無理が あったのだ。 その正体を悟った時にはもう遅かった。 巨大な錨を思わせる鉤爪が、彼女の半身の肩を鷲掴みにした後のことである。 鷲掴み、と言うより肩に突き刺さったと表現するほうが正しいだろう。肩に痛 みを感じるとともに、己の身体が意思に反し空に浮かぶ。抗う間さえなかった。 寸刻後、鉤爪の持ち主を確認したとき、彼女の身体は血の海の遥か上空に在っ た。 それは巨大な蝿であった。 彼女にヘリコプターと勘違いさせた音は、巨大な蝿の巨大な羽から発生するも のだったのだ。 その大きさは、ヘリコプターほどあるだろうか。実際のヘリコプターを、少な くとも現在持ち合わせている記憶の範囲では間近に見た覚えがないので、あくま でもイメージ内での比較になるのだが。いや、ヘリコプターより、さらに一回り 大きいかも知れない。黒光りする巨大な胴体は、広い造成地を走る重機を思わせ る。 この蝿は、彼女の倒した巨大蛆虫の成虫なのだろうか。自分の子供を殺した彼 女に対して、憎しみの炎を燃やし、復讐を遂げようと言うのだろうか。 ただその「巨大さ」こそ共通しているものの、蛆虫に比べればこの蝿は些か小 さい気がする。それに昆虫の類に親子の情愛が存在するものなのか、彼女は知ら ない。 はたして巨大な蝿が如何なる意図を持って彼女を捕らえたのか、いまはまだ分 からない。しかし巨大蛆虫が突進して来た時と比べ、彼女の危機感は薄かった。 蛆虫と同じように血の鎌を呼び出し、巨大な蝿を葬ることも出来るだろうが、そ の必要性を彼女は感じない。 もしここで蝿を殺してしまえば、彼女は再び血の海へと落下することとなる。 蛆虫を撃退したときのように再び自らの力で宙に浮くことが可能であるなら、い やそれ以前に彼女が死者であるのならば恐れる必要もないだろう。ただ遥か上空 より、何百メートルも下へと落ちてゆくのは、あまり気分のいいものではなさそ うだと判断したのだ。 遥か上空。 この表現は、あくまでも彼女の感覚によるものである。 実際のところは、彼女を捕らえた蝿がどれほどの高さを飛んでいるのか、よく 分からないのだ。眼下に見えるのは、先刻まで彼女がその身を置いていた赤色の 海。赤にちりばめられた胡麻粒のように見えるものは、皆、亡骸であろう。その 大きさから、彼女は自分が遥か上空に在ると感じたのだった。 そしてそれ以外、胡麻粒ほどの大きさに見える骸たち以外、彼女がいま、どれ ほどの高さに在るのか判断するための、比較対照物は一切なかった。 山も川も森も、無論、何ら建物も、水平線までも、である。 はたしてどれほどの時間、快適とは言い難いフライトが続いたのだろう。 突如前方に城が出現したことにより、彼女を捉えた巨大な蝿が低空飛行してい たのだと分かった。いつからか血の海に浮かぶ亡骸も完全に途絶えてしまい、た だひたすら彼女を包む世界は赤い色の他、存在しなくなっていた。そのため、彼 女は自分の存在している高さがどれほどのものかを見失っていたのだ。 それは言葉通り突然に出現した。 あるいは認識できる限りの全てが、単色に支配された中で彼女の五感が停止し ていたため、そのように思えたのかも知れない。 とにかく彼女が気づいたとき、巨大な城が目の前に聳えていた。 赤い海の上に城は在った。 城が建つべき大地は存在していないのに、である。 その土台はどれほどの深さに築かれているのであろう。どちらにしても、血の 色をした海面の下にあることは間違いない。ヨーロッパの古城、あるいは絵本に 登場する魔王の城を思わせる佇まいで、それはそこに在った。 渇水の季節、湖の底から現れたいにしえの都市の名残。そんな喩えがあってい るかも知れない。ただ、赤い血の海に渇水した様子などは、微塵もないが。 蛆虫に蝿、巨大な存在に対していい加減慣れてしまった感のある彼女ではあっ たが、それでもなお、城は「巨大」であった。 跳ね橋、堅固な門。そういった外敵の侵入を妨げるものは一切ない。しかしそ の入り口は赤い海面より目算で五〜六十メートルほどの高さにあり、空を飛ぶこ とが出来ない限り、侵入は困難であると思われる。そう、たとえばこの蝿のよう に。 蝿は正面、と言うより宙にぽっかりと開いた入り口をくぐる。遠くからでも充 分見て取れたが、中に入り改めて彼女は城の巨大さを認識させられた。 重機ほどもあると思われた蝿だったが、それが勘違いではないのか。自分がそ の蝿に吊るされて飛んでいると言う現実があってもなお、彼女はそう考えてしま う。 巨大な蝿が、ごく普通の蝿であるかのように錯覚してしまう。それほどに、城 の内部もまた巨大に造られていた。 蝿は高速で飛んでいた。 見渡す限りの全てが赤一色の世界の中では、如何に高速で移動が成されていて も実感することは難しい。強く身体に当たる風の強さだけが、それを彼女に告げ ていた。しかし城の内部では視界の中に対象物が存在した。ほとんど幾筋もの線 にしか見えない壁の流れで、蝿がその巨体に似合わない速度で移動しているのだ と教えてくれる。 城の内部は巨大蝿を通常のサイズ、あるいはそれ以下に錯覚させるほどに広い。 真横の壁こそ流れる筋でしかなかったが、視線をやや遠くに移せば間近よりも若 干落ちる速度の壁を朧気に見て取れた。 壁の表面には無数のおうとつが確認出来る。細かいディテールは不明だが岩を 削った痕のようにも見えた。察するに、この城は王族や貴族、領主といった者が 住まいとする居城でなく、出城としての性格を持つものではないだろうか。 ふいに視界が開ける。蝿は広い部屋のような場所に出たのだ。 と、同時に彼女の自由を束縛していた鉤爪が肩から外れる。巨大な蝿が彼女を 解放したのだ。 ぶぶぶ、とディーゼルエンジンにも似た音を残し、蝿はいま来た道を戻って行 く。その音だけを耳で追いながら、彼女は巨大な蝿が彼女に対し、何ら敵意を持 っていなかったのではないかと考えた。彼女が片足で立っているのは、やや赤み を帯びた黒色の冷たい床の上。光沢を持つ石で出来ていた。 周囲を見回すと、壁が随分遠くに感じられる。室内には、はっきりそれと分か る光源らしきものはなかったが、さほど暗いとも思わない。彼女の目が暗さに慣 れきったせいもあるが、床の石が幽かに光を放っているようでもあった。 その仄かな光の中、彼女は先ほど蝿に運ばれながら見た、壁のおうとつの正体 を知る。 骨、であった。頭蓋骨、胸骨、上腕骨、大腿骨………幾千、幾万、あるいはそ れ以上、目算では計り知れないほどの人骨が壁や柱、天井にと塗り込まれている。 彼女は確信した。やはりここは地獄であるのだ。 ならばこの城の主は地獄の王ということになるのだろう。と。 そして間を置かずして、彼女は城の主と対面することとなる。 「よくぞ参った、生き残りし者どもよ」 地の底より響き渡るような、重々しくも禍々しい声。その声にそれまで、恐怖 らしい恐怖を感じなかった彼女が、初めて手足に震えを覚えた。それは存在しな いはずの右半身にまで及ぶように思えた。 にわかに床の光が強まった。同時に彼女は部屋の奥へ、声の主らしき椅子に鎮 座した人影を見出す。 床の輝きがわずかに増したとはいえ、まだ薄暗いことに変わりはない。しかし 彼女から相当の距離を残してもなお、この人影もまた尋常ならざる巨大さを持つ ことが容易に見てとれた。 これも薄暗さのために細部は不明だったが、人影が腰を下ろしている椅子もま た巨大で無数の宝玉が散りばめられ、細工が施されているようだ。察するにあれ は玉座というものであろう。人影、その声から男であることは間違いない、は、 この城の主なのか。するとここは城の広間、または謁見の間と呼ばれる類の場所 と想像出来る。 「お前たちは選ばれた」 再び男が声を発す。全身の毛が逆立つ響きは、男が決して人間などではないこ と証明しているかのようであった。 お前たち。 ふと彼女は、自分に向けられたのであろう男の言葉が、複数形だったと気づく。 ようやく暗さに慣れつつある目を凝らし周囲を見渡す。と、一人二人、五人六人、 確認出来るだけで十人弱の人影が見とめられた。彼女から死角になる場所を含め れば、それを少し超えるだけの人間がいるのかも知れない。 「人間」とする表現は、必ずしも正しくはない。もし彼女が正常な精神の持ち 主であれば、恐怖のあまり気が触れていただろう。だが既に彼女は、己がまとも な「人間」ではないと悟っている。自分が半身だけの存在であることを、もう当 然であるかのように受け入れていた。 そんな彼女から見れば、周囲の者たちは「人間」と呼ぶには疑問を残すものの、 自らの同類と認識するには、何の不都合もなかったのだ。 そう、地獄の王の間に集いし者たちは皆、彼女同様、半身だけの存在であった。 事故か病か、如何なる経緯にてそのような姿となったのか。皆が皆、生存するこ とがとても困難に思えるほどに、身体の大半を欠いていた。ただし、それが各々 の個性であるかの如く、身体の欠き方は違っている。彼女と同じく左半身を持た ない者もいれば、逆に右半身を欠いた者もいた。あるいは下半身だけ、上半身だ けの者もいる。 まさしく地獄絵図とも呼べるおぞましき風景であったが、彼女にとってはもう 驚くに値しない。たとえ彼女自身が正常な身体を持ち合わせていたとしても、こ れだけ異様な光景が連続すれば、それが通常のものとなる。ただ一つ、その場に 彼女の関心を惹くものがあるとするなら、それは地獄の王が発する言葉のみであ ろう。 これから地獄の王が語るのであろう言葉が、彼女の存在理由、正体を明らかに してくれる。そう思えたのだ。しかし―――。 「人の世に行き、己の成すべき事をせよ」 禍々しくも荘厳なる声が語ったのはそれのみであった。待てども、それ以上の 言葉はない。 人の世? 成すべき事? 半身しか持たない自分が、人の世に行って何が出来ると言うのだろうか。彼女 がそんな疑問を地獄の王へと投げ掛けようとした時であった。 彼女の身体の切断面に何か冷たいものが触れる。両眼とも備わっていたのであ れば「寄り目」と呼ばれる状態で彼女はその正体を探った。そこにあったものは 失われたはずの、あるいは最初から持ち合わせていなかったはずである、彼女の 左半身だった。 しかしそれが実体でないと知れるまでは、幾らも時間を要さない。初めて確認 した己の半身に触れようとして伸ばした右手を、彼女の意思に反し同じように伸 びてきた左手が遮る。硬く、冷たい触感がその右手にも伝わって来た。 鏡である。 顕微鏡のレンズの下、プレパラートに乗せられた検体のように、右半分だけの 彼女の身体は、本来中心であるべき部分に鏡を置いていた。つまり、あるかのよ うに見えた左半身は、鏡に映った右半身の像だったのだ。 それはひどく脆い鏡であったらしい。押し合う左右の手は、右の力が勝る。そ の結果、鏡は粉々にと砕け散った。 だが、像は残る。 彼女は右半身を得て人間の女性の身体となった。ただしそれは鏡によって造り 出された見せ掛けだけの姿に過ぎなかったのだが。 そう言えば、「蝿の王」と呼ばれる悪魔の話をどこかで聞いた気がする。そん なうろ覚えの記憶が頭に浮かぶと同時に、彼女の意識は遠のいて行った。
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