●長編 #0216の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
公園の出入口に人待ち顔で立つ純子は、肩や首筋を触って、固くなっている ことに気付いた。首を左右に傾げてほぐしてから、今日、何度目かのため息を ついた。 春休みに入ったばかりの昼間は、風がまだ冷たかった。肌を切るような厳し さは去ったものの、麗らかさには程遠い。 しかし、純子が往来で身を固くしているのは、気温の低さが理由ではない。 今日は、小菅先生の家を訪ねることになっている。その前に、みんなと合流 するため、公園で待ち合わせ。もちろん、富井や井口とも久しぶりに顔を合わ せるわけだ。 (相羽君と付き合い出してから、郁江達と一緒に会うのって、初めてなんだよ ね……) 憂鬱とは違うが、ずっしり、重たい気分なのは確か。 特に富井とは、仲直りできているものの、疎遠になったせいもあって、普通 に話せるかどうか、気になる。ボーイフレンドが出来たらしいと町田から聞い たことが救いになってはいるが、反面、その話を本人の前でどう持ち出してい いのか、迷ってしまう。 ちなみにホワイトデーにもらったペンダントは、ずっと身に着けていたが、 今日は念のため、して来なかった。 (それにしても……相変わらずね) 気持ちを切り換え、ペンダント型の時計を見る。純子はいつも通り、早く来 すぎていた。そして今は、約束の時刻を十分ほど過ぎている。小中学生の頃、 富井と井口は遅れるのが常だった。当初はやきもきして心配したものだ。懐か しくさえ感じる。 「あれ? そういえば、相羽君が来てない……」 思い悩むあまり、一番自然な存在を忘れてしまっていた。約束した時刻通り に来るのが、相羽の流儀。なのに、十分が経過しても、まだ現れない。 携帯電話を取り出した純子。が、すぐにはボタンを押さない。仕事用に持た された物で、プライベートにはなるべく使わないようにしている。第一、相羽 が携帯電話をまだ持たないため、自宅に掛けることになる。すでに出発したと 知らされて、新たに心配を重ねるのは精神的に辛い。 「あと五分だけ」 呟き、携帯電話を仕舞う。風を感じて、学校指定のコートの襟を立てた。中 学校時代の先生に見てもらうつもりで、今日は皆、高校での制服姿で行こうと 約束ができている。 その矢先、前方右手が賑やかになった。面を起こし、見やると、駆け足する 相羽の姿がまず視界に飛び込んできた。手にした小ぶりなスポーツバッグが、 激しく揺れる。 「遅れてごめん」 身体を折り、膝に手をついて呼吸を整えつつ、相羽が言った。息が白い。 「ど、どうしたの? 滅多に遅れないから、心配で電話しようと……」 純子の言葉が途切れたのは、相羽のあとに続いて、唐沢、町田、富井、井口 の四人が現れたから。皆、それなりに早足だが、走ってはいない。 「途中でみんなと会って、一緒にここに向かっていたんだけど、途中で紙袋が 破けてしまって」 肩越しに四人を振り返る相羽。純子も首を伸ばすようにして目を凝らすと、 ビニール製らしき紺色の手提げを持つ唐沢を認識できた。 その唐沢が、純子を見つけて手を振りながら口を開く。 「ごめんごめん。心ならずも、だいぶ待たせちゃったな。風邪引いてないか、 冷や冷やしてたよん。おい、相羽。おでこに手を当ててやったか?」 相羽が「あのな」と反応するのに重なって、純子は「風邪なんか引いてない」 と真面目に答えた。 「このばかがいけないのよ。大量に絵本なんか持ってくるのが、そもそもの間 違い」 追い付いた町田が、歩いてきた勢いそのままに、唐沢の後頭部に一撃。もち ろん形だけで力を入れてはいないはずなのだけれど、やられた方は大げさにつ んのめった。「いてーな」「何よ、男の癖に」「暴力女」「そっちこそテニス のしすぎでひ弱」などといつもの言い合いを始めた二人は放って、純子は「絵 本?」と他のみんなに問い掛ける視線を向けた。 「小菅先生に使ってもらおうと、家にあった絵本を何冊か持って来たんだって さ」 と、相羽。そのあとを引き継ぐ格好で富井が笑いながら説明する。 「何冊かどころじゃないよねー、あれは。十冊以上あるわ。ちょっと持ってみ たら、重くて重くて、よろけそうになった」 「そうそう。そのときに足をぶつけて、紙が傷んだんじゃない? 破けるきっ かけを作ったのは郁恵よ、きっと」 井口が責任を負わせようとする。富井は違うもん!と即座に否定した。 「そ、それで、ビニール袋はどこで?」 「書店で」 純子が戸惑いながらも次の質問をすると、相羽が答える。 「何も買わずに袋だけもらうのも気が引けるから、唐沢が漫画を一冊。レジの 人に事情を話したら、大きめの袋をくれたんだ」 「そうだったんだ。それで遅くなったのね。よかった」 やっと状況を飲み込めて、笑顔を覗かせる。そんな純子を、富井と井口がま じまじと見つめてきた。 「な何?」 気付いて、もじもじする純子。事前に膨らんでいた気重さは全くなく、幸い だったが、こうして改めて面と向かうと、どきりとしなくもない。 「いやいや。順調なようで」 井口が言った。続いて富井も、 「時間に遅れるのが決定的になっても、相羽君だけ先に走って行くんだよ。正 直、うらやましいというか焼けちゃう。おかげで私達も急がされて、足、痛い」 という言葉通り、足をさすった。 「い、郁恵こそ、ボーイフレンドがいるって聞いたけれど!」 上擦った調子で、何とか反撃。と言うよりも、話を逸らそうと努める。 するとこれが予想以上の効果を発揮した。富井はたちまち俯いた。耳が赤く 染まるのが分かる。 「だ、誰から聞いたの? もう、純ちゃんにまで知られてるなんて、信じられ ないっ。ど、どうなるか分かんないけどぉ、結構、いい感じかなって」 云々と、聞かれもしないことまで、勝手にぺらぺら。ほっぺたに両手を当て て頭を右に左に振る様が、富井の本気を表しているかのようだった。 「二人ともお幸せに。私にはまだなので、いい人いたら紹介してよ」 井口がふてくされた口調で告げると、純子と富井は共同戦線を張って、「久 仁香ならすぐにでもいい人見つかるって!」と声を揃えた。 「みんな、そろそろ動かないと」 相羽愛用の懐中時計の蓋が、音を立てて閉じられた。 先にデパートに寄って、出産のお祝品を各自選んだ。そうして小菅先生の家 に直行する。と言っても、純子が何度か訪れたことのある住所ではなく、新居 だ。元は旦那さんの両親と同居だったのが、子供の誕生を機に、移ることにな ったと聞いている。 大きな通りから脇に入って二本目の道沿いにあるというから、迷いはしまい。 それでも念のためにメモ書きしてきた地図を見ながら行くと、程なくして到着 した。二階建ての日本家屋で、きれいな家だ。やや手狭な感じがするのは、周 囲に似たような家々が建ち並んでいるためかもしれない。 「新婚さんでこんな立派な家なんて。旦那さんは、建築学やってる大学の先生 で、建築資材メーカーともつながりがあるって聞いたけれど、関係あるのかし ら」 町田が詮索気味に呟く。 「そう言えば、今日は旦那さんも在宅?」 「ううん。お仕事だって」 答えるのは純子。前日、電話で聞いておいた。 「どんな人なのかな。会えないとなると、かえって気になる」 「写真で見せてもらったことあるわ。割と男前だったよ。髪をきっちり分けて、 真面目そうな。輪郭はちょっと四角いイメージ」 井口の疑問に、町田が答える。 「私、顔が四角い男の人と聞くと、何故かお寿司屋さんか大工さんを思い浮か べちゃう」 富井の妙な感想に、純子は「何となく分かる」と同調したが、他からの賛同 は得られなかった。 「インターフォン、押すぞ〜」 待ちきれなくなったか、唐沢が後方からかき分けるようにして腕を伸ばす。 「え。心の準備が」 押した。 「応対は任せたよ、すっずはっらさん!」 唐沢の声に被さって、インターフォンから女性の声が流れてきた。一言一句 は聞き取れなかったが、小菅先生に間違いない。 「あ、あの。本日はお日柄もよく――」 調子外れの返事に、自分自身、赤面したのがよく分かる。おまけに後方から、 「何を言ってるの」「結婚披露宴の挨拶だよ、それ」「モデルやってる割に上 がり症なのよね」等々、やいのやいの言われてしまった。 が、次にインターフォンから聞こえた声に救われる。耳慣れた、優しい調子 だった。 「涼原さんね? 待っていたわよ」 「はい。小菅先生、ご出産おめでとうございます」 おめでとうございまーす!と皆の声が続く。 と、玄関のドアが開いて、先生が姿を見せた。 「みんな、ありがとう。でも、今は小菅じゃなくて、塩地(しおじ)なのよ」 「あ、そっか」 賑やかさに笑い声が拍車を掛ける。緊張していたのが、一遍に和んだ。 「じゃあ、学校でも塩地先生って呼ばれてるんですか」 「そうよ。みんな、最初の頃は間違えていたけれども」 「俺達にはやっぱり、小菅先生の方がしっくり来るんだけどな」 唐沢の独り言に、かつての教え子は誰もがうなずいた。今日は言い間違えて も勘弁してくださいねー、とお願いする。 「そういえば、もう身体を動かして平気なんですね?」 相羽が若干口ごもりながら聞いた。先生は首を縦に大きく振った。 「もちろんよ。子供を産むのは、病気とは違うのよ。実際、体調はすこぶるい いし。ただ、体型が崩れるのだけが心配」 と、お腹の辺りに手を当てる。 「あっ、体型で思い出した。忘れない内に」 富井が手にした箱を目の高さまで持って来て、先生に差し出した。 「ケーキです。みなさんでどうぞ。あの、冷やした方がおいしいのもあります から、早めに」 「あら。ありがとう」 両手で受け取ると、引き返す先生。あとの五人は、落ち着いてからお祝品を 渡すことにして、とにもかくにも家に上がらせてもらった。 「そうそう。言い忘れてた」 先頭を行く先生は、歩きながら振り返ると、さらりと言った。 「母が来ているの」 「……えっと」 足が止まり掛けた純子達だが、「あなた達が来ることは予め伝えておいたか ら、安心して」と言われ、本当に安堵した。 「それじゃ、挨拶を」 再度の緊張を感じたところへ、日本間(ふすまだから多分、日本間だろう) から、年輩の女性がいきなり現れた。 「おや。この子達が昔の生徒さん?」 手を拭き拭き、確認する風に聞く。手拭いを丁寧に折り畳むと、前掛けのポ ケットにそっと仕舞う。 実のお母さんと先生はよく似ていた。年齢差をあまり感じさせない。先生が うなずくと、「まあまあ、よく来てくださって」と純子達をまとめて抱きしめ そうな勢いで、両腕を大きく開いた。外見に比例して、気持ちの方も随分と若 い人らしい。洋服にオレンジ色のエプロン姿という格好にも、それが現れてい た。 「どんな子達が来るのかと、どきどきしていたけれども、私の若い頃と変わり ありませんね」 それから純子達にお辞儀をし、自己紹介。純子達もお辞儀を返し、遅ればせ ながら銘々が自己紹介をした。 互いの挨拶が終わるのを待っていたかのように、先生は、 「変わりないというのは言い過ぎですよ。足の長さが違います」 と穏やかに微笑んだ。お母さんの方はマイペースで、 「そうかもしれないねえ。ただ、髪を染めたり、耳に穴をあけたりしてたら、 全然違うわと明言できたんだけれどね」 などと呑気に応じる。この呑気さが先生とその家族の幸せを端的に表してい る、広がるそんな感じ。 「あの、これもご出産のお祝いです」 荷物を運んできた相羽と唐沢が、バッグを胸の高さまで掲げる。 「ありがとう。何かしら」 「山ほどあるかもしれませけど、紙おむつ」 「それと、おくるみです。あと、気が早いんですが、絵本を何冊か持って来ま した」 「まあ、気が利くわぁ。どうしてこんなよくできた子達が、教え子のときはあ んなに手が掛かったのかしら」 先生ぶった台詞に、皆やりこめられた。 小菅先生はすぐさま、「冗談よ、冗談。本当にありがとう。大切に使わせて もらうわ」と笑みを振りまいた。 「先生。すがちゃん……というか裕恵ちゃんは?」 純子が聞いた。先生のうんと歳の離れた妹が、姿をまだ見せてない。先ほど から気になっていたのだ。 「裕恵なら、学校で友達と遊んでいるはずよ」 「そっか。もう小学生ですもんね。赤ちゃんは、裕恵ちゃんにとって弟か妹み たいな感じですか」 「そうなのよー。早くも、すっかりお姉さん気取りでね。弟ができたって、喜 んでたわ。凄くはしゃいで」 先生の満面の笑みが、すがちゃんこと裕恵本人の喜びようをも表している。 兄弟姉妹のいない純子は、想像してみて、ちょっぴり羨ましくなった。 「それで先生。赤ちゃんは起きてます? 抱いて出て来られるのかと期待して いたら、そうじゃなかったし」 早速切り出したのは町田。眠っているのなら今は遠慮しておこうという思い からか、声の方もボリュームが絞られた。 「寝かせてはいるけれども、多分、起きてるんじゃないかしら」 答える小菅先生は、さあ会ってやってとばかりに、かつての教え子達を案内 した。先生のお母さんは用事が残っているみたいで、「ゆっくりして行ってね」 と言い置き、日本間に戻った。 奥の静かな一室に赤ん坊はいた。念のために息を殺してドアのところで待っ ていた純子達は、先に様子を見に入った先生の「大丈夫よ」の声に、それでも そろりそろりと足を進める。そしてベッドを囲う形に立った。 皆、今度は息を飲んで見つめる。 「……」 「生まれた直後はお猿さんみたいだったのが、だいぶかわいらしくなってきた のよ」 かつての教え子達の前で照れもあるのだろうか、先生はそんな言い方をした。 「……小さいっすねえ!」 最初の声を上げたのは唐沢。 「そう? お医者様からは標準的だってお墨付きをもらったのよ」 「んー、でも、小さい手だなあ」 左手を広げて、赤ん坊の手と見比べる仕種を何度か繰り返す。 「普通、赤ん坊の頃は、みんなそれくらいよ」 これをきっかけに、銘々が感想を漏らす。といっても、「かわいい」が大勢 を占める。 「すっごい細目なんですけど、ほんとに起きてます?」 町田が遠慮がちに指差しながら尋ねる。先生は大きく頷いた。 「私も細い方だけれど、主人は輪を掛けて細いの。二人の特徴が重なって出た のよね」 「そういえば、この子の名前をまだ伺ってませんけど……?」 「大きな樹木の樹と書いて、『ひろき』よ」 それを聞いて、富井が早速、「大樹ちゃーん!」と両手を振りながら話し掛 ける。 「今はまだ、目は見えてないはずよ」 「あ。ですよね」 恥ずかしそうに伏し目がちにする富井。それでも手の仕種をやめないで、赤 ん坊に呼び掛けを続けた。 「抱いてみても、いいですか、先生?」 井口が探り探り、尋ねるのへ、先生は即答した。 「気を付けてくれれば大丈夫よ」 早速、井口に赤ん坊の抱き方を教える。もうすでに色々な人へ同じ説明をし たのだろう、慣れたものだった。 「こ、これでいいのかな」 おっかなびっくりという形容がぴたりと当てはまる。井口の目は、赤ん坊の 顔と先生とを忙しなく行き来した。先生はにっこりして、手にしたハンカチを 井口の胸元に宛い、赤ん坊の肌との間に挟む。 「こうしないと、布地によってはかぶれることがあるから」 「そうなんですかー」 「それに、抱く人にとっても必要よ。よだれや汗でべとべとになる」 「へえー」 続いて富井、町田も赤ん坊を抱っこする。先に井口の様子を見ていたせいも あるのか、特に町田は随分と落ち着いていた。 「親戚の子を何遍も抱っこさせてもらってるからね」 自信ありげに笑みを覗かせた町田だが、その途端に腕の中の子がぐずりだし たからたまらない。大慌てであやしにかかる。 「おー。よしよし。お母さんじゃないけど、お母さんですよー」 「何それ、おかしいっ」 みんなして笑ってしまう。その上、唐沢が「まあ、板に付いてる感じだな。 年の功ってやつか」とからかい混じりの誉め言葉を送ったものだから、町田は 余計に焦った様子。その動揺が伝わるのか、赤ん坊の泣き声も強まったよう。 「先生、お願いしますぅ」 とうとう音を上げ、救いを求める。 先生は落ち着いたもので、町田から我が子をそっと受け取ると、微妙に揺ら し、それと同時に心音を聞かせるかのように左胸を赤ん坊の耳に当てる。一発 で静かになりはしないものの、徐々に泣き止み、大人しくなった。 純子達は「おー」「さすがですね」などと、感心するばかり。 (私も“お母さん”になったら、あんな風にできるのかな) 漠然とそんなことを思っていた純子。目の前に赤ん坊を差し出された。 「え」 「あなたも抱いてみたいんじゃない?」 「は、はい。でも、折角泣き止んだところをまた泣かせたら悪いですから……」 慣れているはずの町田がおたおたするのを見たばかりでは、逃げ腰になって しまう。 「そんなこと気にしないの。もし泣き出しても、また私があやせばいいわ。は い、しっかりと持って。首がすわってないから、それだけ気を付けてね」 「う、わ」 渡されるまではおっかなびっくりだった。 でも、この腕で赤ん坊を抱くと、何故だか急に肝が据わった。開き直ったの ではなく、自然な状態に戻った感じ。 「わぁ」 本当にかわいいと、「かわいい」の一言も出て来ない。ただただ、感嘆する ばかり。 と、そのとき赤ん坊の目が薄く開いたようだった。何となく、目が合ったよ うな……。全部、気のせいかもしれない。 「お腹がすいてきたみたい」 「えっ、分かるんですか」 「口がちょっとへの字になったでしょう。それがこの子のサイン」 言われてみればそんな風に見えなくはない。ただ、サインというのは本当だ ろうか。まだ生まれてさほど日数が経ったわけでもないのに。 (お母さんて凄い!?) 感心していると、唐沢が茶々を入れてきた。 「早く大樹を先生に返さないと。それとも、涼原さんがあげるつもりかい、そ のう、ミルク?」 最後はさしもの唐沢でも躊躇した様子で、言いにくそうに。 「そ、そっか」 先生の姿を探すが、きょろきょろして背中を見つけるのがやっと。 「あ、あのー、先生?」 「ちょっと待っていてね。母乳じゃないから、用意しないと。みんなうまいか ら、大丈夫よ」 「そんなあ」 弱音を吐いて散々うるさくする割に、赤ん坊はぐずらない。 「これはもしかすると、本当にうまいのかもしれないわね」 「いや、技術じゃなく、天性のもんだ、きっと」 町田と唐沢が妙な議論を始めかける。 「二人とも〜、他人事だと思って。まだ抱いてない人、代わってくれない? 相羽君とか唐沢君とか」 「涼原さんがあまりにも似合ってるから、謹んで辞退するよ。な? 相羽もそ うだろ」 「……うん」 しばらく黙っていた相羽は、同意を求められ、曖昧にうなずいた。少し、目 が泳いでいる。 「そんなこと言って、恐いんでしょ? 何事も経験よ」 相羽にバトンタッチを試みる。腕を若干伸ばすと、赤ん坊の頭と自分の胸と の隙間が広がって、ハンカチがひらひらと床に落ちた。 「あ」 両手の塞がっている純子には拾えない。相羽が身体を折って拾った。 「しょうがないな」 自然な感じで、純子の左胸元へハンカチを持って行く。が、止まった。 純子が戸惑っていると、相羽は辺りをぐるっと見回し、町田達女子三人のい る方へ、ハンカチを持つ手を差し出す。 「悪い。代わりにやってほしい」 「そりゃかまわないけど」 答えたのは町田だが、受け取ったのは一番近くにいた富井。ハンカチの形を 整えると、純子の胸元に改めて差し入れた。 「純ちゃん、これでいい?」 「うん」 答えながら、純子は何となく分かった気がした。 さっき、ハンカチを当ててもらっているとき、富井の手が胸に触れた。触れ ずにやるなんてまず無理。 相羽はそれをしたくなかったのだ、きっと。 (別に気にしなくてもいいのに。みんなの目があるからかなあ) そんなことを思ってから、赤面を自覚する。 ふっと視線を起こし、姿を追うと、相羽は唐沢とともに、先生のお母さんに 何やら申し出ていた。やがて二人は持って来た袋から、道具やら工具やらを取 り出し、先生のお母さんに指示を仰ぐ。赤ん坊がはいはいをし始めたとき、危 ない目に遭わないように、あるいはいたずらの被害が広がらないようにするた めのグッズを揃えてきたのだ。 「何から何までやってしまったら、旦那さんに恨まれるかな」 唐沢の声に混じって、ドライバーを扱う乾いた音が聞こえてくる。 「そんなことはなくてよ。義徳(よしのり)さんは機械には強くても、ぶきっ ちょなところがあって」 「建築を専門にしている人なら、細かい作業が得意そうなイメージがあります けどね。製図とか」 「別物みたい。あ、その柱はまずいから、こっちにお願い」 男子二人は先生のお母さんと早々と意気投合したと見える。 何だかいいなーと思っているところへ、先生が引き返してきた。手には哺乳 壜。中身は人肌に温められたミルク。 「はい、ありがとう。食事の役目ぐらいは、私にさせてね」 赤ん坊を抱きかかえると、先生は母親の顔になる。もちろん、ずっと母親の 顔なんだろうけれども、我が子と接しているときが最高潮に違いない。 哺乳壜の先を口に含ませると、赤ん坊は程なくして喉を動かし始めた。どこ となく、表情が満足げなものに変わっていくように見える。 「かわいい」 「勢いよく飲みますね」 「哺乳壜て、飲むの難しいって聞くのに」 いつまでも見ていたい。そう思わせる、幸せな光景だった。 「ほんと、かわいかったよねー」 富井が往来に出てからも、はしゃいでいる。 みんなで賑やかに昼食の準備をし、賑やかに食事してから、またの訪問を約 束し、最後に「裕恵ちゃんに、会いたかったよって言ってくださいね」と言伝 を頼んで、先生の家を辞去した。 話題は、次に行くときのお土産についてに移る。井口が言った。 「今度こそ、絵本なんかがちょうどいいのかな」 「音楽もいいかも」 これは純子。自分の歌はまだだめだろうけど、相羽の演奏ならぴったりなん じゃないかな。 「着る物は?」 井口の問い掛けに、富井が応じた。 「ああ、赤ちゃんの服って、小さくてかわいいんだよね。おもちゃみたいで」 「靴下を十色揃えて、両手の指にはめて遊んだことあるよ。カラフルで」 町田が自分の両手を広げながら言った。思い出したのか、にこにこしている。 「つい買って贈りたくなるけど、靴下はあんまり役立たないだよね」 「え、どうして?」 町田以外の女子が声を揃えた。ちょっとびっくりした様子の町田は、次に得 意満面になって、人差し指を振り振り、説明する。 「あの凄く小さいサイズの靴下がはける頃は、歩けないもの」 「あっ」 「移動は大体、親に抱かれてでしょ。歩けるようになる頃には、小さすぎて入 らない」 「なるほどー」 「その話もいいが、このあとどうするんだ」 唐沢がしびれを切らした口調で割り込んだ。もうじき、朝の待ち合わせ場所 の公園にたどり着く。 「折角揃ったんだから、どこかに遊びに行ってもいいと思うんだが。というか、 当然、そうなるものだと」 「悪くない話だけれど」 町田が手首を返し、時計に目をやる。 「時間が微妙ね。これからどこに行って何するかを決めて、移動を始めたら、 正味……二時間ぐらい?」 「そういえば、純ちゃん、仕事で忙しいんじゃないの?」 唐突に聞いてきたのは富井。純子に振り返り、期待と不安をまぜこぜにした ような表情で見つめる。 「うん、ぼちぼち。春休みになったから、結構することある。でも、今日は一 日空いてるわ」 どちらかと言えば、相羽の方がきついスケジュールなんじゃないかと思う。 ほぼ連日、ピアノのレッスンに通っているらしく、しかも一回の時間をたっぷ り取っている。春休みに入ってまだ間もないとは言え、次のデートの約束さえ 確定できない有様だ。 「移動時間がもったいなければ、中学校や小学校に行ってみない?」 その相羽が言った。今日は朝から口数が多くなかったが、このときばかりは、 雄弁に主張した。 「比較的近いし、春休みだから先生もいるかもしれない」 「ふむ。俺だけ小学校が違うのは気に入らないが、基本的には賛成。後輩の成 長を見るのも楽しみだし」 唐沢を始め、みんなに異論はなかった。ただし、両方を回るのは時間的に厳 しいと予想されたので、結局、中学だけにする。 道すがら、町田が「ちょっと内緒話をするから、男二人は先を歩くように」 と命じたのをきっかけに、男女でそれぞれ前後に別れ、声を潜めてお喋りする 形になった。 「なーに、芙美。いきなり内緒話だなんて」 井口がさして音量を下げずに訝しげに聞き、続いて富井が不満顔で、 「そうだよー。相羽君ともっと話がしたい。純ちゃんの彼氏になったけどさあ」 と言ってから、純子へにんまりと笑いかける。 「二人とも、声が大きい。内緒話って言うのは、純、あなたに聞きたいことが できたからよ」 「私?」 町田の凝視に、気圧され気味に目を見開く純子。 「そう。さっき郁が言ったことと関係なくもない。つまり……」 町田は一段と声を落とし、横目で前方の男子二人をちらっと窺った。いやに 慎重を期す態度に、思わず失笑しそうになる。 だが、町田の次の言葉に、純子は失笑を飲み込んだ。 「純は、相羽君とどこまで行ってるの?」 「――」 心の奥では、いつか聞かれるんじゃないかという予測はあったが、やはり、 いざ正面切って聞かれると、突然のことに言葉が出ない。唇を噛んで、勝手に 笑顔になった。とりあえず、返事の先延ばしを図る笑み。 「付き合い出して、えーっと、みつきぐらいになるわよね? 進展があったと 思うんだけど」 「……ん?」 先延ばし策その二。聞こえなかったふりをして、聞き返す。だが、時間稼ぎ をしても、ちっとも答はまとまらない。 「純ちゃん、教えてよ。凄く気になるーっ」 にわかに興味を示した富井。純子の腕を引っ張りながら、“ひそひそ声で騒 ぎ立てる”。 「ねえねえ、いいでしょう? どんなにのろけられたって、怒らないから。昔 のことは昔のこと。今は今だよ。気にしない」 「私もちょっと気になる。今後の参考のためにも」 井口も抑えた声で言った。そんなに関心ないわよという素振りをしながらも、 口元には笑みを浮かべ、目は好奇心でいっぱい。好物を前にして楽しんでいる 猫を思わせる。 「こういう状勢だから、純。大人しく白状しちゃおう。秘密は守る、信じなさ いって」 仕切る町田。しかし、促されてもこればっかりは答えづらい。 「Dは論外として、Bぐらい?」 「び、びー?」 「あれよ、あれ。昔っから言う、恋愛のステップABC」 「ああ……」 「それで? もしかしてBの次まで行った?」 こうまでずばりと聞かれては、かわせない。純子は俯きがちになって、急い で首を横に振る。 「じゃあ、やっぱりBだよね」 もう一度、首を横に振った。 「それじゃあ、Aかぁ。忙しいと、そんなものかな」 再々度、首を横に。 「ええーっっ?」 三人の声が見事にハーモニーを奏でる。さすがに音量も最大だ。当然のごと く、前を行く相羽達が振り返る。 「急に大声を上げて、どうかしたの?」 ――つづく
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