●長編 #0207の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「いないのかな」 と、ノブに触れた流の表情が変わる。 「どうかしました?」 「……血だよ、これは」 そのひどく冷静な口ぶりに、良子は最初、意味を飲み込めなかった。 手を開いた流は、そこに着いた液体をにらみつけている。微量だが確かに赤 い。 「血だ。少なくとも一人、怪我人が出ている。それに」 息を飲む良子の前で、流は次の動作に移る。ノブを指先だけで慎重に回し、 引いたのだ。 「あ、開いてる」 部屋の明かりは点いていた。中を覗こうとした良子の視界を遮るように、流 は彼女とドアの間に身体を滑り込ませる。 「坂上さん……」 消えかかる流の声。不意に振り返ると、良子に伝える。 「加藤さんは医者だったね? すぐに呼んできて!」 「え? それってまさか……あの女の人に何か」 背伸びをして室内に目を凝らそうとする良子を、流は一喝した。 「だめだ! 早く!」 これまでにない調子に、良子はびくっとして、ことの重大さを認識する。雲 の絨毯を行くみたいにふわふわする足元をどうにか落ち着かせ、踵を使ってタ ーンすると廊下を走り、階段を駆け下りた。 一階の自室前を一気に通過し、加藤夫妻の部屋のドアに飛び付くようにして 開けた。 「加藤先生!」 息が上がっているのは、走ったせいだけではない。 死者を除き、全員が大部屋に集まっていた。 送受器を戻した貴之は、皆の方を向いて首を振った。 「通じないよ、くそっ。雪のせいだ」 彼が吐き捨てるように言わなくても、先ほどから漏れ聞こえたつぶやきから、 誰もが覚悟していただろう。 「電話が無事だったとしても、警察なり救急なりも積雪が凄くて来れないでしょ う。こっちからも出て行けないし」 友人を慰めるつもりか、流が気休めを言う。 だが、ことは殺人事件。気休めだけでは薬にならない。 死亡したのは言うまでもなく坂上。額の左側に大きな傷があり、またノブ、 それも外側に血が付着。凶器こそ見当たらないが、素人目にも殴り殺されたの は明白であった。 「亡くなったのは十時半前後でしょう」 遺体を診て戻って来た加藤医師は、しきりに腰をさすっている。長い時間跪 いていたのが堪えたらしい。 「専門じゃないが、良子お嬢さん達が叫び声を耳にした時刻とも合致しますか ら、ほぼ間違いあるまい」 良子と流の二人だけが悲鳴を耳にし得たのは、ドアを開け放していたためと 推測される。他の人々は(自己申告では)いずれも部屋のドアを閉めており、 中には洗い物をしていたり音楽を聴いていたりと、一層気付きにくい状況にあ った者も少なくない。 「仮に、悲鳴が偽装によるものだとしたら、死亡推定時刻はどのくらいの幅に なりますか?」 流が聞いた。医師は、少々意外そうに目を丸くしてから、一つ頷いた。 「そうさな……最大限に見積もって、九時半から十時半といったところか」 「どうもありがとうございます」 頭を下げた流。 それから今度は江田が、気の進まない空気を漂わせつつも、絞り出すように 言った。 「アリバイを調べますか……今、我々のできることと言ったらそれくらい」 場にも仕方がないという空気が漂い始める。だが、貴之が遮った。 「その前に、犯人がいたら名乗り出ろって言いたいね、俺は」 牧夏美の肩を抱き、勇ましく言い放つと、ぐるりと一同を見渡す。 「しらばっくれてもこの雪じゃ逃げられない。明日になれば警察も来る。そう なったら終わりだ。せめてその前に自分から名乗り出れば罪も少しは軽くなる ってもんだぜ」 当然のごとく犯人だと名乗り出る者はいない。 「言う訳がない。自首すれば身の破滅だろうからな!」 木村が鼻で笑う。 「それより、いい考えがある。彼女は本来ここにいるはずのない人間だろう? 幸い、電話もつながらなかった」 「何が言いたいんだ」 枯れたような声で質問を発したのは晋太郎。頭を動かし、見えない相手の方 を向く。 「察しているんじゃないんですか、お父さんなら?」 木村は「お父さん」と発音する際に微妙なアクセントを付けた。 「いや、全く分からん」 「簡単です。隠せばいい。事件なんて起きなかったことにすればいいんだ」 「な……」 常識外れの提案に絶句したのは晋太郎だけでなかった。多くの者、特に藤川 家の人間が息を飲んだ。 木村は自分の台詞が場に与えた効果を楽しむかのように、さらに饒舌になる。 「聞けば、坂上さんとやらは車が動かなくなったので、助けを求めてきたんだ そうで。だったら、この屋敷にたどり着けなかったとしましょう。車が立ち往 生したので雪原をさまよい歩き、どこかで足を滑らせて頭を打って死んだ…… これで充分、警察も納得しますよ」 「そんなことができる訳がない。それに無意味だ」 貴之が言い返すと、木村は目を丸くして肩をすくめた。 「無意味? 何で? 雪のおかげで閉じ込められた状態なんだよ、我々は。つ まり、身内や親しい人間が殺人犯人かもしれないよねえ。そうなったら嫌じゃ ないかなあ?」 「ふん、おまえが犯人なら、せいせいするぜ」 貴之の言葉に対して、木村は口笛を一つ吹いた。 「何で僕が犯人? 動機がないよ。見ず知らずの人間を殺すほど暇じゃない」 「動機の有無を問うなら、全員が動機なしと言えましょう」 江田が口を挟む。どうやら自説を述べたかったというよりも、貴之と木村の 険悪な様子を解消したいがために言葉を発した節が窺えた。 「木村さんの言った通り、坂上さんはここにいるはずのない人です。誰も彼女 と知り合いではない。となりますと、誰も彼女に殺意を持ちようがありません」 「そうとは言い切れないんだよなあ、有能な秘書さん」 せせら笑って木村は顔を天井へ起こし、ポケットに手を突っ込んだ。それか ら視線を戻すと、得意そうに口を開く。 「雑誌か何かの記者だったんでしょうが? 藤川の人間にとっちゃ、忌々しい ことこの上ない職業だねえ。彼女個人に恨みはなくても、マスコミに対する恨 みなら皆さんお持ちのはず。江田さんや加藤さん達も含めてだよ」 「馬鹿馬鹿しい」 真美が吐き捨てたが、木村は聞こえなかったのか聞こえない振りをしている のか、相手にしない。 「悲しい思いをしないために、ここは事件を隠すのが一番。それで丸く収まる んだから」 「小細工はやめるべきだ」 流が厳しい調子で木村を否定した。意志の強さを感じさせる物腰だ。場の雰 囲気が流されないようにするためだったのかもしれない。 木村が眉を吊り上げ、詰め寄る。 「またあんたか。邪魔するなよ。ばれやしないって。何をびびってるんだい」 「ばれるかどうかの問題じゃないさ。しかし、警察が乗り出せば隠し事は露見 するだろうね」 「へえ、警察はそんなに優秀なのかい」 「優秀でなくても、木村君の単純極まりない隠蔽工作なんて、簡単に吹き飛ん でしまうってことだよ。たとえば、坂上さんの指紋。その全てを拭き取ること が誰にできる? 彼女がどこを触ったのか分からないだろう。警察が僕らの振 る舞いを疑い、この屋敷内を調べれば一巻の終わりさ」 流の理屈の前に、木村は呆気なくへこまされた。犯罪の隠蔽という浅はかな 提案は、もはや拒絶されるしかない。 「よし。こうなったら犯人を見つけ出そうじゃないか」 貴之が勢いを取り戻した。先ほどアリバイ調べを口にした江田に声を掛ける。 「江田さん、みんなの話を書き留めてください」 父の秘書は自分の秘書でもあると見なしているらしい。気軽に命じる。 江田は文句一つ言わず、書く物を用意した。 「先に家族を片付けたいな。トップはお父さんからお願いします」 場を取り仕切る貴之が父を促す。晋太郎の方は決していい顔はしていない。 「貴之、本気でこんなことを調べるつもりか」 「もちろん本気だよ。犯人は名乗り出ない、警察に連絡できないとなると、こ うするしかないと思う。間違ってる?」 「間違いとは言わんが……まあよい。私は十時までは部屋で一人だった。その あとは加藤先生が来て、診てもらっていた」 晋太郎の証言の途中で、良子へ密かに質問してきた者があった。 「大変聞きにくいのだけれど」 耳打ちするのは流だ。 「君のお父さんは、屋敷の中ならお一人で自由に歩き回れるのかな。貴之がわ ざわざアリバイを尋ねるところを見ると」 良子は小さな声で答えた。 「はい、杖さえあれば。でも、普段は用心をして誰かが着いているときが多い って。加藤先生や久仁香さん、江田さんとかが」 「ん、分かった。ありがとう」 貴之のアリバイ調べは、晋太郎の言葉を受けて加藤医師に移っていた。 「父の言葉に間違いありませんか」 「ええ。午後十時ぴったりにお部屋に参りましたよ。毎日の習慣のようなもの ですから、確かです。診察のあと雑談をしていたら、事件を知らされて……」 「十時までは、どちらで何を」 「九時半から十時までは、真美さんを診ていましたよ。まあ、診察と言うより も、話し相手の趣が強いですが」 「そうでしたか。他に誰か、父の部屋を訪ねて来ませんでした?」 「……私が訪ねてからは、誰も来なかった」 加藤医師が首を振ると、貴之は満足した風にうなずく。 「次に……お母さんは二階に上がれませんが、公正を期すために」 この別荘にエレベーターや車椅子用のスロープの類はない。改築するだけの 費用を惜しむ理由は藤川家にはないが、真美自身が必要ないとしたため、バリ アフリーではないのである。 「十時までは、加藤先生の仰った通り。そのあとは、自分の部屋に一人でいま した。ヘッドホンを当てて音楽鑑賞をしていたのです」 息子に対してつっけんどんな返答をすると、真美はすぐに口をつぐむ。眉間 にできた何本もの深いしわから、貴之のやり方が気に入らないだけでなく、事 件の発生そのものがおぞましくてたまらない――そんな風に推測された。 「証人はいませんか。できれば……」 「一人だと言ったはずです」 母親の不機嫌さをようやく感じ取ったか、貴之は首をすくめて質問の対象を 変えた。 「良子はどうだい?」 「知ってるでしょ。九時頃、兄貴達と別れてから、自分の部屋で流さんと一緒 にいたわ。悲鳴を聞くまで、ずっと」 良子は馬鹿らしく思うと同時に、わずかばかりの気恥ずかしさも感じていた。 会ったばかりの大学生の男の人と部屋で二人きり……イメージが悪いので、急 いで言い足す。 「宿題を見てもらってたのよ。ドアを開けっ放しにしてたからこそ、悲鳴がし っかりと聞こえた」 「流。妹の言うことは確かか?」 良子の心理状態などつゆ知らぬ様で、流に聞く貴之。 「間違いない。付け加えると、僕も良子さんも部屋を一度も出ていない」 「お互い、一人になった時間は全くなかったということか」 鼻の下をこすりながら、貴之は斜め下を向く。やがて言った。 「待てよ。ドアを開けていたのなら、部屋の前の廊下を歩く者がいれば気付い たはずだよな」 「やっと気付いてくれたか。そういうことさ」 流は口元にかすかに笑みを浮かべると、良子の方を一度見やり、また続ける。 「九時過ぎから十時半頃にかけて良子さんの部屋の前を通った人物はゼロだっ た。厳密に言うと、僕らが部屋に入る前に木村君が通ったけれどね」 今度は木村に視線を合わせる流。そして妙に丁寧な口ぶりで質問する。 「木村君はあのあと、どちらに?」 「風呂に入った。寒くてたまらなかったからな」 悪びれるでもなく、意外と素直に返答する木村。 「一時間半も入っていた訳ではないだろう?」 「ふん。風呂に入っていたのは二十分かそこらだろ。上がったら、隣の大部屋 が空っぽになってたんで、そこで暇潰しをした。折角暖まったのに、豪雪の中 を歩いて我が城に戻る気には、とてもじゃないがなれなくてね」 「おかしいな。僕と良子さんは悲鳴を聞いた直後、大部屋を覗いたんだ。その ときは誰もいなかった。電気も消えていた」 流の指摘が意想外だったらしく、木村は舌打ちをした。 「言いたくなかったから、ごまかそうと思ったが。大部屋にあった酒を頂戴し て、すぐ、二階に上がったんだよ」 「二階にね」 「勘違いするな。殺しには無関係だ。江田さんに会いに行っただけさ」 木村の口にその名が上った当人は、記録の手を止めて顔を起こした。現在こ こにいる者達の注目を感じたのか、眼鏡の位置を直すと咳払いをする。 「何故、彼と会っていたのかと疑問に思われたでしょう」 会社の業績報告でも始めそうな話しぶりの江田。聞き手からは、失笑もわず かばかり漏れ聞こえた。しかし本人は委細かまわぬ体で進める。 「大げさな理由はありません。木村さんが質問されてきたので、その返答を」 「どんな質問なんだ?」 貴之が江田にではなく、木村に対して言った。答えるのは江田。 「藤川家の財産についてです。申し上げにくいのですが……自分はどれぐらい 受け取れるのかとか、遺言書はもうできているのかとか、その内容とか」 「あんたも馬鹿だな」 貴之が木村を指差し嘲笑する。 「そういう話は弁護士に聞くもんだ。江田さんが知っている訳ないだろう」 「承知の上で聞いたんだよ」 木村の物腰から、負け惜しみでもなさそうだ。 「弁護士先生に聞いたって教えてくれないだろうと思ってね。秘書なら知って るかもしれない。うまくすれば聞き出せると踏んだんだ。まあ、現実は厳しか ったな」 「賢治」 晋太郎が苦しげに口を開いた。 「確かに私にはおまえに負い目があるが、すでに相当な穴埋め……補填をした と思っておる。おまえにあれこれしてやった分は、生前贈与として計算しても らうことにしているから、承知しておいてくれ」 「……なるほどね」 聞き返さないところを見ると、自分の立場がどうなっているのか把握してい るらしい。木村はしばらく片手を顎に当て、考え込む仕種をしていた。 「じゃあ、お父さんが生きている内にたっぷり引き出そうか。その方が取り分 が多くなる」 「貴様、いい加減にしろよっ」 貴之が木村との距離を一挙に縮め、胸を突き合わせる。 その様を、一人にされた牧が不安げに見守っていた。 「普通にしてりゃあ、俺だって文句はない。しかし貴様のやることは滅茶苦茶 だ! うちを食い潰すような真似はさせんからな」 「おお、恐い。今はそんな話よりも殺人事件が大事。第二の被害者にされちゃ あたまらないね」 木村はもやしのようにひょろひょろとした仕種で貴之から離れ、強がってい るつもりか、鼻を鳴らして笑みを作った。 「江田さんの証言で、この僕のアリバイは成立だね」 「――江田さん。こいつと会ったのは何時のことだい?」 「部屋に見えたのは、九時二十五分か、もう少しあとぐらいだったと思います。 その後、騒ぎが起きるまでずっと私の部屋に。その、根ほり葉ほり聞かれまし たので」 「そうか……」 貴之は悔しげにうつむくと、次の言葉が出て来なくなった。木村賢治のアリ バイを崩そうと、考えを巡らせているようにも見えた。 流があとを受け継ぐ。 「念のために伺いますが、江田さんは、九時から九時二十五分までは、どうさ れてました?」 「ええっと」 流から質問が来るとは予想外だったらしい。江田は、しばし口ごもった。 「社長と仕事の話をしたのが、九時前後でしたか。それが終わって、すぐに自 分の部屋に入り、雑務を」 「前もって木村君と会う約束をしていた訳じゃないんですね」 「はい。突然でしたから、びっくりしましたよ」 江田はひきつったような苦笑を浮かべ、木村を見た。相手も同じような顔を 見せ、「こっちも驚いた。遺言書のことを何にも知らないなんてな」と悪態で 返した。 流は江田に礼を言ってから、アリバイの件に話題を戻した。 「他の人で言えることは……良子さんの部屋の前を横切った者はいない。坂上 さんが亡くなった前後、加藤久仁香さんは一階におられたのだから、久仁香さ んもアリバイを有します」 「ああ、よかった。助かりましたよ」 ふう、と息をつく久仁香。取って付けたように胸をなで下ろし、手の平を団 扇代わりにして顔を仰いだ。 「一人で洗い物やら片付けやらをしてたものだから、何て答えようかとびくび くしていましたの」 流は彼女に微笑を返してから、残る二人――貴之と牧に目を向けた。 「貴之。君はどこにいたんだ?」 「そうか、俺自身のことがあったな。まあ、おまえには言わずもがなかもしれ んが……彼女と一緒だった」 元いた位置に引き返すと、牧の手を取る貴之。 「君の部屋でだね?」 「ああ。細かく言うなら、良子とおまえが大部屋を出てからも、俺達はしばら く残っていた。九時十五分頃かな、二階に上がったのは。あいつと鉢合わせし なくて、やれやれだ」 にらむ貴之に無視を決め込む木村。流は二人を横目に肩をすくめ、話を続け る。 「いつの間にか、僕がイニシアチブを取っているな。それは許してもらうとし て、これで全員にアリバイが成立した。犯人はいないことになる」 「ええ?」 黙って聞いていた良子を始め、皆が一様に反応を示す。 「そんなはずはないだろう、流君」 晋太郎の問い掛けに、流は「はい」と声に出してうなずいた。 「確認すべきことが一つあります。この家に外部から誰かが侵入し、坂上さん を殺害した可能性の検討です。事件発生した直後に、僕は屋敷の周りを見てき ました。足跡はなかった。やって来た足跡も、出て行った足跡も、です」 「雪が降って、消えてしまったんじゃないの?」 良子の質問に、流は淀みなく応じる。 「僕の記憶では雪は十時過ぎにやんだ。つまり、犯人たる侵入者がいるとすれ ば、少なくとも現在、この屋敷内に留まっていることになる。侵入が十時以前 なら行きしなの足跡は消えるが、出て行くときの足跡は消しようがないからね」 流のこの台詞が終わらぬ内に、部屋にはざわめきが起こっていた。 「ま、まだ犯人が居残っているんですか?」 久仁香が震え声で言った。 「分かりません。それを調べようということです。もしいれば話は簡単だが、 いなかった場合が問題になる……」 「ようし。だったら、早いとこやろうじゃないか」 貴之は腕まくりをせんばかりの語勢だ。 「危険がないよう、全員一塊になって回るしかないな」 結局、侵入者の存在は否定された。 屋内だけでなく、玄関の庇や勝手口、果ては外壁に張り付いていないかとい った点まで調べ上げたが、全て徒労に終わったのだ。 無論、逃走した足跡が新たに見つかることもなかった。 全員が大部屋に集まり、再度、討論が始まる。日付の変わる瞬間が近付いて おり、試験勉強のときぐらいしか夜更かししない良子は眠くなっていたが、そ の他の面々は疑心暗鬼の度合いを増しているよう。 「おい、どうなってるんだよ、流」 貴之が流に泣きついた。張り切っていただけに落胆も激しいと見える。それ に、恋人の前でいいところを見せたい気持ちも多少あったに違いない。 「言いたくないが……僕らの中に犯人がいるということだ」 「しかし、アリバイはみんなにあったんだぞ」 「案外、君が犯人じゃないのかい」 突然の割り込みは木村だ。気色ばむ貴之は目を細く鋭くした。 「何だと? 俺にだってアリバイが――」 「身内や恋人の証言は当てにならない。この場合、牧さんが貴之君をかばうた めに嘘を言っている可能性、否定できないね。ああっと、もちろんその逆もだ」 木村の指摘に、貴之は苦虫を噛み潰したような顔になった。何とか反論しよ うとしたが、適当な材料が見つからず断念した風情がありありと窺えた。 流も難しい顔をし、ゆっくりと喋り出す。 「客観性を測るとすれば、貴之と牧さん二人のアリバイが一番低いね、残念な がら」 「おまえまでそんなことを」 「慌てるなよ。今、考えているんだ……。一階から二階へ行くには、階段を使 うしかないんでしょうか?」 振り返ってざっと見渡し、全員に尋ねる態度の流。 「あの、私さあ、小学生の頃、雨樋を伝って二階から一階に降りたことあるわ。 金属の環があって、足場になるし」 良子が小声で発言すると、流は重ねて聞いてきた。 「一階から二階はどう?」 「その頃なら身体が小さかったから行けたと思うけど……今は無理ね。上がる のも降りるのも」 「そうか。君にできなければ、他の人にも無理だろうな」 「あとは梯子かロープを使うしかない。ロープだと、かなりの手練でないと、 実際にはうまく行くまい」 晋太郎が断定的に言った。 「そういった物がこの家の中にあるんですか?」 「物置にあるはずだ。使った痕跡があるかどうか、調べさせよう」 「待ってください。梯子を使えば、雪に跡が残るでしょう。ロープは残らない かもしれないが、どこにロープを掛ければ昇り降りできるのか……この寒空だ から、窓は全て閉まっていたんだし……あっ、角か」 明るくなる流の表情。 「木村君の案により取り付けられたあの角にロープを引っかければ、階段を使 わずに二階と行き来できるかもしれない」 「できたらどうなるっての?」 木村が刺々しく言い返す。自分の「芸術作品」をそのように使われるとは心 外だとでも言いたいのか、あるいは貴之と牧の共犯説を覆されるのを恐れてい るのか。 「一階にいた誰かが犯人だってことになるのかい? ええ?」 「……難しいね。良子さんの部屋からの『監視』の条件を外しても、誰もが他 の誰かと一緒にいたアリバイがある。一人だった真美さんはロープを操れない でしょうし。あとは久仁香さんだが」 久仁香は傍目にもはっきり分かるほど、ぴくんと震えた。 「と、と、とんでもない! 私は何も知りませんよ! 嫌だわ」 「はい、僕もこれはおかしいと考えてるんですよね。あなたにロープ昇りがで きるとは考えにくいし、よしんばできたとしても洗い物を始めとする家事をこ なす時間がなくなってしまうように思えます」 流の付け足しに、久仁香は安堵の喜色を露にするとともに、力が抜けたよう にその場に座り込んだ。夫の加藤医師が両手を差し伸べ助け起こそうとするが、 腰の痛みでか、動作は決して素早くなかった。 「結局は、俺か夏美に疑いがかかるってことか? 冗談じゃないぜ」 語気の荒い貴之に、流も弱り顔だ。牧はどう振る舞えばいいのか判断できず、 戸惑っている様子が窺えた。発言の回数も彼女が最も少ない。 「あるいは、こういうのもありだね」 木村が気力を回復したような明るい声で言った。 「そちらの流さんと良子お嬢さんが共謀して嘘をついている目も、ないとは言 い切れないんじゃないかなぁ。ええ?」 「その言葉、そっくり返してあげるよ」 相手にしていられないとばかり首を振った流。良子は応援に回った。 「そうよね。言いたくないけどさ、江田さんとあんたがぐるっていうパターン も、ないとは言い切れませんわねえ」 なるたけ嫌みったらしく言ってやって、舌を出した。 対して、木村は鼻で笑っただけだったが、江田はまともに反応した。 「わ、私は決してそのようなことは。事実を述べただけでして……」 「江田、やめなさい、みっともない」 晋太郎が放って置きかねた風に注意をする。 江田はまだ緊張を脱ぎきれない様子で、汗を拭う。晋太郎に戒められ、かえ って平静さを失ったのかもしれない。 「おまえらしくもない。仕事のことなら任せておけるのに、どうしたんだ、そ のうろたえぶりは」 「はっ、何しろこのような経験は初めてですので」 「私らも同じだ。殺人事件に立ち会うなんぞ、そうそうあるもんではない」 「あなた」 弁舌を振るっていた晋太郎に、妻の真美が声を掛けた。 「何だ?」 「江田さんのことはもういいでしょう。今はこの状況を変える努力をしなくて はいけません。私は、亡くなった坂上さんの持ち物の調査を提案します」 その凛とした言い様に、聞く者全員が圧倒されたような雰囲気が起こった。 「賛成です」 いち早く応じたのは流だった。 「プライバシーの侵害になるが、ひとまず棚上げです。坂上さんを知る人に、 この悲劇を伝える義務が僕らにはありますしね」 「理由を考えるのがなかなかお上手のようね、あなたは」 困ったように苦笑する真美。足の自由が利かなくなって以来滅多に見られな かった母の笑顔に、良子は内心、驚きを持つ。それも今、殺人事件発声という 異常事態下なのだ。 「私の気持ちも、表面上はそういうことにしておきましょう。ですが、本来の 目的は決まっています。彼女と関係のあった者が本当にいないのかどうか、知 りたいのです」 真美の言葉に流はうなずいた。 「俺も賛成します」 貴之が乗り遅れまいといった風情で、早口で宣言した。 「しかし全員が調べに当たることもないでしょう。必要最小の人員で……三人 ぐらいが妥当じゃないかな」 「警察に対して責任の持てる人間だな」 木村が素早く言い添える。 「僕は遠慮しよう。警察は嫌いだ。奴らにあとであれこれ聞かれるのを思うと、 ぞっとする」 「誰もおまえを指名したりはしない」 吐き捨てる貴之。 「くだらない言い合いはよしなさい」 またもや険悪になりかけたところを救ったのは真美。 「本来なら晋太郎さん……お父さんに立ち会っていただくのが筋ですが、目が 不自由ではそれは難しいでしょう」 「ああ、仕方がない」 「ですから、代わりに私が立ち会います。他に二名、実際に坂上さんの持ち物 を手に取って調べる役目を」 「俺が」 貴之が挙手をしたが、その立候補は却下された。 「藤川の人間だけで固めるのはよくない。それぐらい分かるでしょう」 「それはそうだけど」 「私が考えたのは、流さんと久仁香さん。お二人にお願いしたいわね」 真美は息子から二人へと視線を移した。 「わ、私でお役に立てることでしたら、何なりと」 久仁香は戸惑い気味ではあるが、承知。多少なりとも主従関係が影響してい るのかもしれない。 「ご指名はありがたいし、僕自身ぜひともやりたいのですが」 流の方は二つ返事で引き受けるという姿勢にない。 「女性の持ち物を男性が調べるのは、まずくありませんか」 「女だけの目で調べては、見落とすことがあるかもしれないわ。流さん。あな たを信頼してお願いしてるのですよ」 依願というよりも命令に近い響きが見え隠れする口調だったが、最終的に流 は引き受けた。 「分かりました。それでは早速やりましょう。坂上さんの部屋から、荷物を持 って降りなくてはいけませんね」 多分、他の者が皆そうであるように、良子もまた坂上の持ち物が気になった。 気になったが、子供はもう寝なさいの一言で、彼女だけ自室に追いやられて しまった。 「鍵、ちゃんと掛けておくんだぞ。おやすみ」 兄からの就寝の挨拶も、日常的でないフレーズであった。 寝なさいと言われても、隣の大部屋で母達が持ち物チェックをしているのだ と思うと、寝付くのは簡単でない。 「気になるなぁ」 ベッドに横たわったまま、壁に耳を当ててみたが何も分からない。この屋敷 の防音設備は行き届いている。 どうにかあきらめをつけて、布団を肩まで被ろうとしたとき。 (あ、あいつが帰って行く) 閉め切っていなかったカーテンの隙間から、外の様子が望めた。降り積もっ た雪が地面をまっさらのキャンバスとしたせいか、いつもよりはっきり見える。 木村は背を丸め、ポケットに両手を突っ込んだまま、のそのそと離れに向か っている。 ――あんな奴が処女雪を汚すなんて。 誰も歩いていなければ、良子は感嘆の声を上げたかもしれない。それだけ夜 の雪景色は美しく、静けさを保っていた。 だが、たった一人の歩行者が横切るだけで、むかむかした気分になってしま う。あれが木村賢治でなければ、ここまでささくれ立った心情にならずに済む のだろうが。 木村が離れの中に入って行くのをにらむように見届けてから、はっと我に返 った良子。口元には自虐的な笑みを浮かべていた。 (馬鹿馬鹿しい。寝ようっと) 大きくかぶりを振ると、今度こそ掛け布団の下に潜り込んだ。 カーテンをきちんと閉じなかったせいで、朝の光が遠慮を知らずに差し込ん でくる。どんな寝坊だろうと、嫌でも目覚めてしまう。 良子は上体を起こして頭が日陰に来るようにすると、目を何度もしばたたか せた。時計は午前八時ちょうど。やはり夜更かしした分、朝寝してしまった。 時刻を認識した途端に、昨夜のことが思い起こされた。 「人が死んだんだったわ……夢ならいいのに」 つぶやく内に、今度は坂上の荷物について考えが及ぶ。 良子はその中身を早く教えてもらおうと、ベッドから降りた。窓辺に立ち、 外を見ると、雪はまだ残っている。眩しい。その白さと、何かがきらきらと反 射する光とが相まって、よく見通せなかった。 良子は窓から離れ、目を擦った。残光のようなものを振り払おうと、再び瞬 きを繰り返す。元に戻るのに、一分近く要しただろうか。 よその人が泊まっているという理由もあって、いつも以上に時間を掛け、念 入りに身支度をすると、部屋を出た。大部屋の前を通り過ぎ、浴室横の洗面所 に向かう。幸い誰も使っておらず、用を済ませたあと、もう一度、身なりを手 早く整えた。 それから声の聞こえる食堂の方に引き返した。 「おはようございます、良子お嬢さん」 「おはよう、久仁香さん。そのくすぐったい呼び方、いい加減やめてくれない かなあ」 朝食の準備にせわしく動き回る久仁香に、良子はことさら明るい調子で言っ た。嫌な事件をひとときでも忘れていたいという心理が働いたのかもしれない。 いつもの自分の席に着きながら、続けて聞いた。 「お父さん達はまだ?」 「いいえ、もう起きておられますよ。奥さんと部屋でお食事です」 「そう。他の人達はどうしてるのかしら?」 久仁香はすぐには答えず、良子の前に皿やコップをてきぱきと並べる。トー ストのいい匂いが漂ってきたが、普段に比べたら食欲は湧かない。 「さあ、どうぞ」 「あ、いただきます」 「他の方達なんですが……」 言いにくそうに顔を背ける久仁香。良子は気になって、手を止めた。 「どうかした?」 「それが……お食事のあとがいいと思うのですが……」 「もしかして、また変なことが起きたとか?」 良子の勘が当たったらしく、久仁香は下を向いてしまった。 ――続く
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE