●長編 #0185の修正
★タイトルと名前
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土佐十六カ所 廿四番・東寺 {南向き}安喜郡。室戸山明星院最御崎寺と号する。霊験あらたかな寺だ。空海が求 聞持修法を行った場所が残っている。明星の示現もあった。このため、空海は虚空蔵菩 薩像を作って安置し、寺を建てた。 空海の歌「法性の室戸といえど我住めば 有為の波風立たぬ日ぞなき」 詠歌「明星の出ぬる方の東寺 暗き迷いは などかあらまし」 山麓の岩屋は間口六七尺、奥行き六七間で、愛満権現を祀っている。また、東の岩屋 は、奥行きが十七八間ある。 坂から上は女人禁制となっている。ここらに、俗にいう、喰わず芋がある。津寺まで は一里。十町ばかりは下り坂となっている。女性は津呂浦に出る。{立派な湊だ。}石 の切り通しが人を驚かせる。室津浦も同じく、石の切り通しだ。{この二湊の大掛かり な普請は絶筆に尽くしがたいほどだ。} 廿五番・津寺 {麓から半町上がる。石段は南向き}安喜郡{室津浦}。宝珠山真言院津照寺と号す る。空海の建立。本尊も空海作の地蔵菩薩座像。 詠歌「法の舟 入るか出ずるか この津寺 迷う我が身を載せてたまえや」 西寺まで一里。少し行くと川がある。浮津浦を過ぎると標石が立っている。女性はこ こで左に行き、道崎に安置している空海作の不動明王像に札を納める。黒耳村へ出る。 {この先に土石と呼ばれる名物の硯石がある。採ってはならない。女性は黒耳村へ出 る。}男性は右へ曲がる。小川がある。元村から西寺までは四町の坂。 廿六番・西寺 安喜郡。龍頭山光明院金剛頂寺と号する。空海の開基。本尊の医王善逝/薬師如来像 も空海の作。空海が、完成した像に向かい、像が出来たので行って座れと話しかけた。 薬師如来像は自分で立って厨子に入ったという。秘仏となっている。 詠歌「往生に望を懸くる極楽は 月の傾く西寺の空」 神峯寺までは七里。黒耳村を通る。吉良川村には川がある。羽根浦から西寺まで三 里。途中には川があり、山深く坂が急だ。加領郷浦まで、●はね石と呼ばれる浦辺。奈 半利浦には町がある。途中の大河は、舟で渡る。田野浦は、立派な町だ。{ここまでの 間に、八幡宮・大師堂・寺がある。}先に安田川。安田浦には町がある。町はずれには 標石が立っている。唐浜を通る。神峯までは坂が続く。麓に{禅宗の養心院}庵があ る。ここに荷物を置いて札を納めに行くと便利だ。 廿七番・神峯寺 {山の上に建つ。堂は南向き}安喜郡{唐浜村}竹林山と号する。本尊は高さ三尺の 十一面観音座像で作者は分からない。高山にあり、九十九折りの坂を一里登る。山上は 魔境で、そこに堂が建っている。このため申の刻以降には、登れない。 詠歌「三仏の誓いの心神峯 刃の地獄 たといありとも」 この辺りに、喰わず貝というものがある。{この谷に、土で出来る喰わず貝がある。 空海が、貝を携えた浦人に行き会った。貝を与えてくれるよう頼んだが、浦人は食べら れない貝だからと断った。空海は、浦人のケチぶりを哀れみ後世を慮って呪法をかけ た。以後その貝は、煮ても焼いても食べられないものとなり、谷に捨てた。現在でも石 貝として残っている。件の浦人は恥ずかしく、かつ有り難く思って、出家した。} 大日寺まで九里。●おふ山・川野村{過ぎて不動堂}・伊尾木村を通る。途中に川瀬 がある。{伊尾木川・安芸川の二瀬がある。}安芸浦町を経て新城浜。砂道が一里続 く。{砂が深い。八流の麓に茶屋。}山道を下れば小川。{八流山を下ると小川。}鷲 敷/和食村を過ぎ手井山の麓に茶屋がある。手井村を抜けて山に入る。町がある。湊町 に出る。途中に小川がある。夜須浜・岸本村・赤岡村。町を過ぎれば橋が架かってい る。野市村に標石。大日寺のある大谷村に着く。 廿八番・大日寺 {山の上にあり、堂は南向き}香我美郡{大谷村}。法界山高照院と号する。行基が 中興した。後に空海が訪れ、復興した。本尊は行基の作った高さ四尺五寸の大日如来 像。大楠に彫りつけた薬師如来像もある。こちらは空海の作。 詠歌「露霜と 罪を照らせる大日寺 などか歩みを運ばざらまじ」 国分寺まで一里半。母代寺村・父養寺村を通る。この間にある物部川が増水している ときには、舟で渡る。{町に戻れば舟の渡しがある。通常時には歩いて渡る。}戸坂島 村・岩松村・松本村・上野田村・廿枝村を通る。途中に川がある。長岡郡国分寺村に着 く。 廿九番・国分寺 {南向きで平地に建っている}聖武天皇の勅立。土佐の国分寺である。現在の本尊 は、行基菩薩が作った高さ三尺の千手観音像。不動明王と毘沙門天を脇士としている。 詠歌「国を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益残せり」 一宮まで一里半。小川がある。八幡村。間に小坂がある。{山の上に八幡宮が鎮座 。}定林寺村には地蔵堂がある。{本尊の石像は空海作。堂は長らく壊れたままであっ たが、村に住む七郎兵衛が再興し、空海像も作った。七郎兵衛は遍路に宿を貸す。}瀧 本村には坂がある。峠から高知城が見える。長岡郡の一宮に着く。 三十番・一宮 {堂は南向きで平地に建っている}百々山神宮寺と号する。本尊は阿弥陀如来座像。 作者は分からないが、秘仏とされている。祭神は高鴨大明神すなわち八重事代主命であ る。 詠歌「人多く立ち集まれる一宮 昔も今も栄えぬるかな」 五台山まで二里。薊野村。{国守の氏神社がある。御霊廟が山の中に建つ。麓には見 龍院}山を過ぎて比島橋。比島村で五台山への近道を尋ねるとよい。 続いて丸山。高知城下への入口には橋がある。入ると番所で往来切手を改める。城下で 泊まるときは番所に申し出る。番所から庄屋に指図があり、宿を貸す。 {町中に菜園場橋。過ぎると農人町。}町はずれを水がしら【尾頭カ】と呼ぶ。堤が続 いている。{左に田。}右に曲がると、入江に沿う道。●たるみの渡しがある。 {煩悩の雲を払う。傍らに町がある。}禅宗の吸江寺から五台山まで八町の坂。 三十一番・五台山 {南東向き}長岡郡。金色院竹林寺と号する。聖武天皇の勅願所。行基菩薩が建立 し、五髻文殊像を刻んで本尊とした。唐の清涼山に倣ったもので、はなはだ壮麗であ る。 詠歌「南無文殊 三世の仏の母と聞く 我も子なれば乳/智こそ欲しけれ」 禅師峯寺まで一里半。八町坂を下り、江川を舟で渡る。下田村までに坂がある。十市 村に着く。 三十二番・禅師峯寺 {南向き}長岡郡。八葉山求聞持院と号する。本尊は十一面観音菩薩像。空海にまつ わる霊験譚が残っている。{秘仏とされている。} 詠歌「静かなる我峯本の禅師峯寺 浮かぶ心は法の早舟」 高福寺まで一里半。このうち一里は海辺の道。種崎/御座町と記す標石がある。渡し へ出る。浦戸と呼ぶ。{藩主の別邸がある。}城下まで三里。入江には舟屋が多い。 {渡し場から海上五十町、右手に●さしまと呼ぶ小島がある。}御畳瀬浦を通って、高 福寺のある中浜村へ。 三十三番・高福寺 {南向きで平地に建っている}吾川郡。保寿山と号し、現在は雪渓寺と呼ぶ。{高さ 四尺の}薬師如来像が本尊、両脇士とも空海作{運慶作}。 詠歌「旅の道 飢えしも今は空腹/高福寺 後の楽しみありあけ/有明の月」 種間寺まで二里。小さな橋と小さな坂がある。東諸木村。西諸木村。山際に標石。続 いて川がある。どこで渡るか地元の人に聞くとよい。増水時には、川上に行き舟で渡 る。吾川郡秋山村に出る。 三十四番・種間寺 {南東向き}本尾山朱雀院と号する。聖徳太子の時代、百済の工匠が作った薬師如来 像を本尊とした。高さ四尺五寸の座像。現在の堂は、国主が建てた。 詠歌「世の中に蒔ける五穀の種間寺 深き如来の大悲なりけり」 清瀧まで二里。森山村。弘岡村を通る。途中、仁淀川なる大河を舟で渡る。渡し場が 川上にあるときは、荷物を持って行く。渡し場が川下で大道に近い場所にあれば、高岡 町に荷物を置いて行くとよい。 三十五番・清瀧寺 {南向き}高岡郡{高岡}。医王山鏡智院と号する。本尊の薬師如来像、両脇士・日 光・月光菩薩、十二神将とも行基の作。{秘仏となっている。}大師堂の脇に真如親王 の墓がある。 詠歌「澄む水を汲むは心の清瀧寺 波の撥ね散る岩の羽衣」 青龍寺まで二里半。イセキノ村【庄田村内】までの間に小川がある。塚地村を通る。 宇佐村から近道を行くときは、荷物を置いていく。舟で行くときは、井尻まで荷物を持 っていく。福島浦までの入江には渡し場がある。{舟賃四銭。}井尻村。{ここで荷物 を置いて行く。}龍坂・龍村を通る。 三十六番・青龍寺 {山の上にあり、堂は南向き}高岡郡。独股山伊舎那院と号する。唐の青龍寺に似て いるため、寺号とした。空海が唐で投げた独鈷杵が落ちた場所であるから独股山と呼 ぶ。本尊の不動明王像は、空海の作。{秘仏となっている。}堂から四町ほど西に、奥 の院がある。 詠歌「僅かなる泉水に棲める青龍は 仏法守護の誓いとぞ聞く」 仁井田まで十三里。ただし、井尻まで戻る。横浪までの三里を舟で行ってもよい。 {この間、景色がよい。左は牧馬が多い。八坂の中、八浜の中。}歩く場合は、宇佐村 の西へ出る。宇佐坂は、灰方とも呼ぶ。香宗村・塩合村・塩合坂【塩間とも書】・出見 村。{ここをイズミと呼ぶ。花山院が土佐に流されていたとき、気分が鬱いで都の空が 懐かしく、何度か門の外まで出た。このため「いでてみる」から「出見」}花山院が流 罪となって来た時、大平に歌を送った。「土佐の海に身は浮き/憂き草の揺られ来て 寄る辺なき身を哀れとぞ見ん{見よ}」。大平は返して「哀れをば いかに仰がん及び なし 身は海の藻隠れに居て」。ついに花山院は土佐で客死した。千光寺に廟がある。 出見坂を、立目村とも呼ぶ。立目村。赤熊坂を、今は通らない。海辺を行く。サセブ坂 を越え、摺木村・立石坂・堂脇坂・横浪村。これまで八坂坂中八浜浜中。井尻から横浪 まで舟に乗ってもよい。この浦には鳴無大明神という立派な宮がある。{国主が造営し た。朱色の門で彩瓦を使い、景色もよい。}一条院の歌も残っている。{ある年、一条 院が土佐の幡多に来たとき、「名にし負う人の知らぬも理や 浦の内なる鳴無の宮」 「名に聞きし土佐の入江の舟違い 乗りてみんとは思わざりしに」と口ずさんだとい う。}●おく浦村。この間の仏坂に自然に出来た石の不動明王がある。神田村・須崎 村・安和村。焼坂峠の左手に冷水がある。久礼村には宿を貸す善人がいる。大道の左に 町がある。{橘屋平兵衛・小左衛門が宿を貸してくれる。このほか篤志の人が多い。} 添蚯蚓坂・床鍋村。影野村には宿を貸す善人がいる。{武兵衛が宿を貸してくれる。} 替坂村・六反地村。神有村に標石がある。この間、ちょっとした山越え道がある。後川 には引き舟がある。{根々崎村の善六が遍路のために作ったものだ。これを過ぎて}大 河が増水しているときは、前にある山に札を納める。そうでないときは、五社まで行 く。 三十七番・五社 {東向き}高岡郡仁井田宮内村。五社神社の本地仏本尊は五尊で、中尊が阿弥陀如 来、右に薬師如来と地蔵菩薩、左が観音菩薩と不道明王。{いずれも秘仏。空海作だと いう。}別当は岩本寺で、十余町離れた窪川の町にある。 詠歌「六つの塵 五つの社表して 深き仁井田の神の楽しみ」 足摺まで二十一里。窪川村{しももと七郎兵衛が宿を貸してくれる。このほかにも宿 を貸す人がある。}・岡崎の古市川。坂がある。峯ノ上村。片坂を下る。市の瀬村・立 花川村・拳ノ川村・界名村・小黒川村・不破原村。この間に坂がある。熊井村。この間 に●くまこえ坂。藤縄村・白石・中津野村・佐賀浦町。ここまで五社から六里{市の瀬 から三里}。伊与喜谷と呼ばれる山路には、谷川が多い。白浜村。この間に灘、峯坂が ある。伊田村{弥兵衛をはじめ宿を貸してくれる人がいる。村から七八町離れている 。}。有井川村{ありい庄司の石塔がある。}。川口村・川坂・浮津村。ここから海端 を行く。吹上川を渡り、干潮のときには真っ直ぐ行く。満潮のときには、右へ曲がる。 入野村。蛎瀬川には引き舟がある。田野浦から七八町は浜を通る。標石がある。向かい の山鼻は、下田道。こちらは舟で渡る。少し回り道になる。出口村。この間に小川があ る。竹島村。大川は舟で渡る。実崎村の天満に引き舟がある。間崎村には薬師堂があ る。津蔵渕村。この間、伊豆田坂を下れば小川がある。一の瀬村佐賀浦から、ここまで 八里。この村に、空海像を安置した真念庵がある。真念が、念願叶って遍路を憩わせる ため建てたものだ。ここから足摺越えは七里の道程となる。ただし、篠山を通るとき は、ここに荷物を預け、足摺に詣でた後で戻り、先に進む。月山を通るときは、荷物を 持っていく。{初めて遍路をするときには、篠山を通ると言い伝えられている。篠山・ 月山への道は、庵で詳しく尋ねるとよい。}この間に小川が四つある。市野々村。小方 村には川と標石がある。俗に四万十川と呼ばれている。増水時には下流の加江浦に渡し 船がある。{加江浦の太郎左衛門はじめ宿を貸す人がいる。}増水していないときは、 標石から右へ渡る。鍵掛村・久百々村。山道になっている。大岐村。この間は海辺を通 る。山路に入り、以布利村には大師堂や窪川宮がある。津呂村。この間は、山道。大谷 村を通って、幡多郡伊佐村へ。 ・・・・・・真念庵の案内板・・・・・・・・ この地蔵菩薩は大師の御作で四国八十八ケ所御開創の砌足摺山坂の長丁場に悩む人々の 為に、この地に庵を結び本尊をきざんで安置せられた霊跡で、其の后真念法師が高野山 から等身大の大師尊像を背負ひ当庵に来て三十七・八・九番の中札所として草庵を結 び、七里打ち戻り大師と申されましたが其の没后真念庵の名を生ずる様になりました。 (当庵は通夜の便もありましたが、約二十年程前まで)今は其の跡地だけが其の昔をし のばせます。 当市野瀬地区は三度栗の本場として名高く大師御巡錫の時子供が栗を大木の下で拾って いたので一つ乞はれますと其の子供は沢山お上げしたので大師は其の可憐な心に感じて 来年からはもつと木を小さくして年に三度づつ取れるようにして上げようと申され其の 翌年からは二・三尺ばかりの木に一年に三度づつ実を結ぶ様になったと云ふ事でありま す。 現在境内に食はずの梨(と云ふものが)大師堂のそばに十本残つて居ります。梨を大へ んおいしそうに食べて居る者が居たので大師は一つ乞はれますと非常に欲深い者だった ので一ケも差し上げませんでした。そこでこの様な心掛けの悪い者は世にはびこつては 大へんだと御思ひになつて翌年からは不美味でまつたく食べれなくなつたと云はれて居 ります。三度栗と対照的に個人主義的な人間が段々多くなって居る現在社会にとつて大 へん反省するべき事だとつくづく感じます。……中略…… 昭和五十五年八月十五日 真念庵の案内板から。かなり古びて所々判読不能であったが、大略を写した。平成十 五年十月十日午後六時ごろ筆写。ときに庵を守っておられる女性が話し掛けられ、近く 新しい案内板に換えるとの話であつた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三十八番・蹉■【アシヘンに陀のツクリ】山 {深山を背後に控えた低い山にある。南向き}補陀洛院金剛福寺と号する。昔からあ ったが、勅によって空海が再興した。本尊は高さ六尺の千手千眼観音菩薩像、二十八部 衆も並ぶ。いずれも空海作。{古仏である。}役行者が修行の時、多くいた天狗を呪伏 した。天狗が足摺りして悶えたため、蹉■【アシヘンに陀のツクリ】山と呼ばれてい る。空海が唐で投げた五鈷金剛杵が落ちていたため、金剛福寺と称する。観音の霊場で あるため、観音が主宰する補陀洛世界から院号をとった。数々の霊験を目の当たりにし て、人々が感動している。 詠歌「補陀洛や ここは岬の舟の棹 執るも捨つるも 法の沙汰/蹉■【アシヘンに 陀のツクリ】山」 寺山まで十二里。真念庵に戻り、成山村・狼内村を通る。{真念庵から}ここまで山 路で谷川を通る。上中谷村に標石がある。{昔は左の道を通ったが、現在は右の道を行 く。}増水時には、左の道がよい。江之村には川があり、増水時には、村の人が{庄屋 や村の老人が遍路を}助け渡してくれる。磯川村・焼米坂・有岡村・山田村を通り、幡 多郡中村に至る。 三十九番・寺山 {背後に山。南向き}赤亀山延光寺と号する。空海が開いた。本尊の薬師如来像も空 海作。俗界を絶した場所に奥の院があるという。ここまでが土佐分。 詠歌「南無薬師 諸病悉除の願籠めて 詣る我が身を助けましませ」 伊予の観自在寺まで七里。うち三里半、松尾峠まで土佐領。押岡村・和田村{この間 に牛ノ瀬川。}月山を通った人は、和田村へ出てくる。ここから寺山まで一里。荷物を 置いて、札を納めに行く。この間に牛ノ瀬川。宿毛村には宿を貸す善人がいる。{与助 が宿を貸してくれる。}この宿毛には町があり、米などの買い物をしておくとよい。 {伊予に入る所では米も買えないときがある。ここで調達するとよい}。貝塚村・錦 村・小深原村。大深村に番所があり、土佐国の切手を提出する。松尾坂峠は土佐と伊予 の坂出、標石がある。手前にある休憩所から海に浮かぶ島々が{蒲葵島・沖の島・弘瀬 島と漁師の家が多く}見える。伊予国に入る。小山村の番所で切手を改める。篠山へ行 くときは、広見村に荷物を置く。上大道村・城辺村を通り、宇和郡平城村に至る。
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