●長編 #0184の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
四国偏礼道指南増補大成 この道指南は、真念法師が、印形を結ぶ身密・真言を唱える語密・仏を観想する心密の 三密や大日如来の五つの相を思い浮かべ修行する粗末な縄の椅子を飛び出して、四国で 長大な険路を踏破して書いた。彼は、紛れ合い曲がりくねった道に対して途方に暮れつ つ、人家を遙かに離れて岩から漏れ滴る水に枕を浸し、旅館などない高山に湧く雲を蒲 団に見立てて野宿して過ごした。このように分かりにくい道筋を、どうにかしたいとの 思いが切になり、二度三度と遍路を繰り返した。山深い谷奥・浜の隅々まで歩き尽くし た。九九の八十一を上回る八十八の霊場、道順の村々を明らかにして、一巻の原稿を書 き上げた。これを出版し、広く日本中の人たちに知らせようとしたが、遍路に使う鉢や 法衣以外に財産がなく、出版費用の捻出はかなわなかった。大坂の野口氏が空海の教え に対する恩のため、私財を提供してくれたため、念願の出版に漕ぎ着けた。空海の廟に 寄り添い年月を送りつつ、空海の力が多くの人に及ぼされることを願ってきた私も、真 念の原稿を清書せよと言われ、断れなかった。自分でも欝になるほどの拙さはひとまず 措いて、修行の合間を縫って、女性にも詠みやすく子供も聞きやすいように、簡単に記 した。 南無遍照金剛 洪卓 寓居高野山奥院護摩堂本樹軒主 謹書 一、巡礼の道筋は分かりにくいので、各所で喜捨を募り、標石を建ててきた。方向や建 てた者の名・年月を記している。古くなり文字が見えなくなれば、近くの長者や翁に再 建してほしいと願っている。 一、八十八カ所の縁起・宝物など悉く書き記した。拝所・道順の村々・旧跡・由来・諺 などを記した。{本書のほか、八十八カ所の縁起・宝物・住職について、各住職に文書 を求め、四国遍礼霊場記全四巻を高野山雲石堂主・本大和上の添削で出版した。本書で は、札の納め所のほか、道順の村・旧跡・由来・諺などを記す。} 一、村名表記の間に【。・】を記す。道程は聞いた通り、誤差はあるようだが、そのま まに記した。 用意 ○札挟み板 長さ六寸 幅二寸 年月日 表書き ■【梵字の摩】 奉■【ギョウニンベンに扁】礼四国中霊場同行二人 裏書き ■【梵字の摩】 南無大師遍照金剛(住所の国郡に仮名をつけ印を押 す) 右のように作るが、文箱でもよい。 紙札の書式 奉納■【ギョウニンベンに扁】礼四国中霊場同行二人 札挟みの掛け方は、順打ちの場合は字頭が左にくるように、逆内の場合は右にく るように。 紙札の打ち方 その札所の本尊・大師・天照太神宮・鎮守・日本大小神祇全般・天皇・征夷大将軍・ 国主・主君・父母・師匠や先輩・祖父母・兄弟・夫/妻・子供・眷属ないし法界、平等 利益と唱えて打つように。常に自分に寄り添っている空海の恩得を感じること。宿を貸 してくれた人や茶を接待してくれた人へのお礼を、忘れてはならない。男女ともに、光 明真言・空海の法号で回向し、その札所の詠歌を三度詠む。 一 負い俵【カバン】 一 めんつう【弁当箱】 一 笠と杖 一 莞筵(ござ) 一 脚半(きやはん) 一 足半(あしなか) このほかの持ち物は、各自が必要と思う物を揃える。一般に、足半を使うようにと言 い伝えられている。草履だと手を汚してしまうが、札所によっては手洗い場がないこと があるためだ。ただし、草履・草鞋でも構いはしない。 この本の購買所 【指南には 一此道指南并霊場記うけらるべき所ハ △大坂心斎橋北久太郎町 本屋平兵衛 △同所江戸堀 阿波屋勘左衛門 △阿州徳島新町 信濃屋理右衛門 △讃州丸亀塩飽町 鍋屋伊兵衛 △予州宇和島 満願寺 此満願寺八十八ケの中にあらずといへども大師草創の梵宮にて往昔は大伽藍なりしが破 壊年久しく尽るになん々々とす。今出す所の霊場記道しるべ両通の料物をあつめ彼寺九 牛が一毛修理せむ事それがし■【朔のしたに心】天の別願なり 南無遍照金剛 真念敬白 仏像文字共大坂北久太郎町心斎橋筋板木屋 并辺路札有 五郎右衛門刊之 とあり】 ○遍路の者が海を渡る場合、男女一人ずつの組み合わせは許されない。男女とも一 人ではいけない。 ○宗旨手形は証人さえあれば、西高津の自性院で発行する。 四国遍路道指南増補大成全 一 大阪から阿波徳島へ海を渡る場合 切手支配 中之嶋 阿波屋勘九郎 福 嶋 松島屋孫右衛門 長堀南川四ツ橋少し東平右衛門町 下役人 印 ■【斜め井桁】 油屋善右衛門 油屋方で切手・寺請・船とも用立てることができる。 海上三十八里の行程で船賃四匁{白銀二匁以上} 一 讃岐の丸亀へ海を渡るときも、右の店で用立てる。 海上五十里の行程で舟賃四匁{白銀二匁} {右に記したものは、大阪から乗船の場合。ほかの国から乗船する場合は、各所で尋ね てほしい。} ○八十六番の志度寺より打ち始め、八十七番・長尾寺まで一里。長尾村。宮藤村を通り 八十八番・大窪寺まで長尾寺から四里。門前に坂がある。岳村護摩山に、空海が修行し た所がある。経坂ともいう。過ぎると小さな坂がある。大窪寺から阿波の霊山寺まで六 里。 ○ここから阿波の切幡寺まで五里。長野村。ここまでは讃岐領分。犬懸村。ここから阿 波領分。犬墓村。日開谷村には番所があり、切手を改める。大窪寺から山道が続き、谷 川が多い。ここから切幡寺まで一里。 一 阿波・霊山寺からの巡礼は、空海順行の順序だと伝えられている。伊予・讃岐に船 が着く場合は、十番・切幡寺から一番・霊山寺まで逆打ちし、十七番・井戸寺、十六 番・観音寺、十一番・藤井寺、十二番・焼山寺、十三番・一宮、十四番・常楽寺、十五 番・国分寺から、十六番・観音寺に戻り、徳島へ大道を通るとよい。 一 阿波の徳島に船が着く場合は、十八番・恩山寺から始めるとよい。 ○讃岐の丸亀城下へ行くときは、宇多津の七十九番・道場寺/郷照寺から始めるとよ い。 ○阿波の徳島から霊山寺まで二里半。徳嶋佐古町九丁目から右に行く。矢三村。高崎 村。この間に●すミぜ川。貞方村。祥瑞村。この間に吉野川なる大河が横たわってい る。舟で渡る。川崎村を経て、霊山寺のある板東村に至る。 一番・霊山寺 阿波国板野郡{板東村}にある。竺和山一乗院と号す。{寺は南向きで平地に建って いる。}空海が、釈迦如来像・大日如来像・阿弥陀如来像を作り、それぞれに堂を建て て創建した。中でも高さ二尺の釈迦如来座像を本尊とした。天竺の霊山を日本/和国に 移したので竺和山霊山寺と名付けた。渦潮で有名な鳴門から五里。鳴門見物をする人 は、道などをここで尋ねるとよい。三町北に、大麻彦大明神がある。伴社・中宮・西宮 を備えている。必ず参詣するように。 詠歌は「霊山の釈迦の御前に巡り来て 万の罪も消え失せにけり」 極楽寺は、ここから十町の板野郡檜村にある。 二番・極楽寺 {山を越え東西に道が延びている。}日照山と号する。行基菩薩が創建したという。 本尊は、行基が作った高さ四尺五寸の阿弥陀如来座像。左に薬師如来像、右に空海像が ある。 詠歌「極楽の弥陀の浄土へ往きたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ」 金泉寺は、ここから二十五町{三十五町}の川端、大寺村にある。 三番・金泉寺 {山を越え道は西と南に延びている。}亀光山釈迦院と号する。空海が開き、本尊を 作った。本尊は、高さ三尺の釈迦如来像。亀山法皇の廟がある。 詠歌「極楽の宝の池を想え只管 黄金の泉 澄み湛えたる」 黒谷まで一里。岡ノ宮には大師堂がある。吹田村、{遍路標石のある}那東村からは 十八町。谷の方へ向かって、板野郡黒谷村。 四番・大日寺 黒岩山遍照院と号する。または黒谷寺とも呼ぶ。{寺は南向きで、背後の左右に山が ある。}本尊は、空海が作った、高さ一尺五寸の大日如来座像。 詠歌「眺むれば月白妙の夜半なれや ただ黒谷に墨染めの袖」 ここから十八町の板野郡矢武村に、金倉寺がある。 五番・地蔵寺 {寺は南向きで右の背後に山がある。門前の蓮池の中に弁財天の社が建っている。} 無尽山荘厳院と号する。熊野権現ゆかりの、またとない妙薬を寺で売っている。 この寺で空海は、現れた熊野権現に霊木を贈られた。その木で空海は、高さ一寸八分 の地蔵菩薩を刻んだ。阿波の人々は小像の霊異を崇め、立派な寺を建てた。後宇多院の 時代、住持が霊感を得て高さ一尺七寸の地蔵像を作らせ、その胸に、もとからあった小 像を納めた。また、阿弥陀如来・薬師如来の二像を作って、両脇士とした。熊野権現と 天照太神の社がある。 奥の院として、五百羅漢集所がある。●本順逆打ち抜け。 詠歌「六道の能化の地蔵大菩薩 導きたまえ この世、後の世」 安楽寺まで一里。神宅村、檜村を通る。 六番・安楽寺 瑞運寺とも呼ぶ。板野郡。空海が高さ一尺三寸の薬師如来座像を作って、寺を建てて 安置したという。空海の時代には、薬効のある温泉があったため、医療の神である薬師 如来を本尊とし、温泉山と号する。 詠歌「仮の世に、知行争う 無益なり 安楽国の守護を望めよ」 板野郡高尾村の十楽寺まで十町。 七番・十楽寺 {堂は南向きで背後に奥深い山がある。}本尊は阿弥陀如来座像。阿弥陀如来が主宰 する極楽には、十楽があるという。それから採った寺号である。 詠歌「人間の八苦を早く離れなば 至らん方は九品十楽」 熊谷寺のある阿波郡土成村まで一里。途中は吉岡と呼ばれている野原。 八番・熊谷寺 {堂は南向きで背後の左右は山になっている。}普明山真光院と号する。谷深く、涼 しげに水が流れている。 本尊は千眼観音像で、作者は分からない。高さ六尺の立像。仏舎利百二十六粒が頭部 に納められていると、足の裏に記されている。脇士の不動明王・毘沙門天像は、運慶の 作。 詠歌「薪取り水汲ま/熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため」 法輪寺まで十八町。 九番・法輪寺 {寺は南向きで平地に建っている。}白蛇山と号する。田園の中にある。本尊は、高 さ一尺八寸の釈迦如来座像。 詠歌「大乗の秘法も咎も翻し 転法輪の縁とこそ聞け」 切幡寺のある切幡村まで二十五町。間に秋月村がある。 十番・切幡寺 {堂は南向き。}得度山灌頂院と号する。寺号が寺の名にもなっている。本尊は千手 観音像、両脇士が不動明王・毘沙門天像で、三尊とも空海の作。中門に安置している多 聞・持国天と、大門の仁王像は、運慶の作。 詠歌「欲心を、ただ一筋に切り果たし/切幡寺 後の世までの障とぞなる」 ここで藤井寺・焼山寺と行き戻り、田中法満寺に行けと教える人が多いが、便が宜し くない。吉野川なる大河を二度渡ることになり、二里ほど遠回りだ。 大窪寺から来る人は、ここから一番まで、書いてある逆に行けばよい。ここまでを、 十里十カ所と呼んでおり、比較的密に霊場が並んでいる区間だ。 麻植村にある十一番の藤井寺まで一里半。大野島、大八島村を通る。途中に、吉野川 と呼ぶ渡し場がある。 十一番・藤井寺 金剛山と号する。空海が開基し、高さ三尺の薬師如来像を作って本尊とした。 詠歌「色も香も 無比中道の藤井寺 真如の波の立たぬ日もなし」 焼山寺まで三里。この間、山道となっている。{宿がない。}一里半行くと、柳の水 がある。旅人の喉が乾いたとき、空海が{菩薩道具の}楊枝で加持し{道端に立てると 観音}水が迸り出た。この水を空海は旅人に与えた。{いまだに空海が発した霊力は衰 えず、水が湧き出ている。}空海が楊枝を置くと、それが{非常に美しい糸}柳の木と なった。往来の人の渇きを潤し役立っている。畔に大師堂が建っている。遍路人を泊め てくれる人がいる。標石がある。ここから左右内村に入る。こりとり川と呼ばれる谷川 に沿って歩く。人に溜まった凝りをとるとの意味だ。焼山寺まで上る十八町の坂の途中 に、薬師堂がある。 十二番・焼山寺 {寺は南向き。}名西郡にある。摩盧山性寿院と号する。高く聳える山に建ってい る。本尊は、空海が作った高さ四尺五寸の虚空蔵菩薩座像。 奥の院は十町余り離れている。護摩堂や蛇窟などと呼ばれるものがある。 大門から十八町坂を下ると、右衛門三郎の墓がある{寺から八町南に行った道の脇に 右衛門三郎の塚と目印の杉、地蔵堂がある。}。太さ七囲いの大杉が目印となってい る。 詠歌「後の世を想えば恭敬しようさんじ/焼山寺 死出や三途の難所ありとも」 一宮まで五里。左右内村に戻って行ったほうがよい。阿河村、広野村、入田村を通 る。二本木の茶屋がある。ここまで山道で、谷間に多くの川が流れている。 十三番・一宮寺 {寺は東向きで、平地に建っている。}名東郡にある。寺の方は、大栗山花蔵院大日 寺と号する。空海が大日如来像を作って安置したという。今の本尊は十一面観音像で、 一宮の本地仏だそうだ。 奥の院は西に十八町行った霊地にある。 詠歌「阿波の国一宮とはいう襷掛けて頼めや この世、、後の世」 延命村にある常楽寺まで十五町。途中に川がある。 十四番・常楽寺 {南向きで平地に建っている。}名東郡。盛寿山と号する。本尊は空海の作った高さ 八寸の弥勒菩薩座像。{作者は分からない。}寺は俗に、矢野の延命と呼ばれている。 詠歌「常楽の岸には何時か至らまし 求誓の船に乗り遅れずば」 矢野村の国分寺まで八町。 十五番・国分寺 {南向きで平地に建っている。}法養山金色院と号する。国分寺とは、聖武天皇が詔 勅を下し、高さ一丈六尺の釈迦如来と二菩薩の像を作り、大般若経を移して各国一寺ず つ建立したものだ。 いま寺に残っている本尊は、高さ一尺五寸の薬師如来座像で、作者は分からない。 詠歌「薄く濃く分け分け色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉葉」 観音寺村の観音寺まで十八町。 十六番・観音寺 {南向きで平地に建っている。}名東郡。光耀山千手院と号する。本尊は空海の作っ た高さ六尺の千手観音像。 詠歌「忘れずも導引きたまえ 観音寺 西方世界阿弥陀浄土へ」 井戸寺まで十八町。河野明神の参道に宿を貸してくれる善人がいる。{ただし井戸寺 から遍路を始める場合には、観音寺に荷物を置く。藤井寺まで家が並んでおり、麻植塚 弥三衛門が遍路を労り宿を貸してくれる。} 十七番・井土寺 名東郡。瑠璃山明照寺真福院と号する。聖徳太子が建立したとも、行基が創建したと もいわれている。空海が訪れ、本尊として高さ五尺の薬師如来像と両脇士菩薩・四天王 像を作り、安置した。鎮守の八幡社と楠明神社がある。 詠歌「面影を写して見れば井戸の水 結べば胸の垢や落ちけん」 恩山寺までは五里。途中に鮎喰川がある。徳島までは家並みが続いている。徳島の勢 見ガ鼻、二軒家町を通る。この間に冷田川、法華川【園瀬川】に橋が架かっている。一 町ほど行くと、標石が建っている。西塚村には川がある。●しぼ村を通る。田野村に標 石がある。 十八番・恩山寺 {南向きで、山に一町上がる}。勝浦郡。聖武天皇の勅命によって、行基菩薩が建立 し、自ら本尊の薬師如来座像を作った。空海が訪れて再興し、母親の遺骨を納め墓を築 いた。以後は母養山恩山寺と称するようになった。 詠歌「子を産める その父母の恩山寺 弔いがたきことはあらじな」 ●つるまき坂の麓に釈迦庵がある。宝亀五甲寅年六月十五日、空海誕生の像を安置し ている。次にある藪{泥藪【黒薮カ】}の下が、空海の襁褓を納めた場所だ。 立江寺まで一里。天王村、田野中山を通り、立江村に着く。石橋が八つ架かってい る。橋の上に白鷺がいるときは、通らないようにしているという{十九番記事中に、橋 の上に白鷺がいるときに渡ってはならない。無理に渡ると悪いことが起きる。標石があ る。} 十九番・立江寺 {東向きで、平地に建っている。}橋池山地蔵院と号する。聖武天皇の勅願所だとい う。本尊の地蔵菩薩像が小さかったので、空海が訪れたとき高さ六尺の像を作って小像 を胎内に納めたという。 詠歌「いつか さて、西の住居の我が立江 求誓の船に乗りて至らん」 鶴林寺まで三里。立江村を出て、櫛淵村に標石がある。三十町ほど左に逸れると、岩 脇村に取星寺がある。空海が加持した星石が残っている。{この寺には空海ゆかりの釣 召の星が納められている。青黒色で美しく艶がある。硝子の蓮華座に安置している。ほ かにも霊宝が多い。少し回り道になる。同じ村の正安寺には、空海の作った観音像が残 っている。大道から五町ほど左に標石が建っている。}ここから二十町ほど行くと、星 谷に至る。三間四方ほどもある星の岩屋には、半ばに数丈の瀧が落ち、素晴らしい景色 だ。{中津野村の十四五町北、勝浦川を渡ると星谷岩屋寺に着く。広さは十畳ほどで、 三角の岩がある。中には輝く鏡石もある。三丈ほどの瀧が落ち、傍らには弁財天の社が 鎮座している。取星寺の星は、天から降ってきた石で十丈ばかりの大きさだ。目を驚か す霊場である。必ず立ち寄ってほしい。星谷から鶴林寺奥の院まで三里。途中半里は川 端の道を行けば、横瀬村。星谷に拠らず鶴林寺へ直接行くときは、森村を通って十八町 の坂を上る。ただし奥の院へ行くときは、森村から二里半。途中に勝浦川がある。森村 から羽十五町余り。与川内村の五郎兵衛の家に荷物を置き、奥の院へ向かう。} 星谷から行くと、坂本村に至る。空海が宿を求めたとき、ひどく霜が降って人々を悩 ますと聞き、加持したため、この村には霜が降らなくなった。隣村には、ひどく霜が降 る。{空海が訪れたとき、この村には泊まる場所がなく、霜の深い萩野に野宿した。こ のとき祈って、今に至るまで霜露が降らなくなった。ネタ場所の跡が残っている。また 長福寺には古仏が多くある。黄檗村は坂本村とは違い、霜が深いため「際立」と呼ばれ るようになった。おかしいことだ。} 星谷から半里、川端を行くと、横瀬村。星谷に寄らず鶴林寺へ直接行くときは森村を 通る。十八町の坂を上ると鶴林寺。奥の院へ駆ける時は、森村から二里半。途中に勝浦 川がある。与川内村、坂本村、大窪村を過ぎて少し行くと、灌頂が瀧。ここには不動明 王が、たえず示現している。{拝所である。灌頂が瀧は、不動の瀧とも呼ばれている。 日に三度、不動明王は五色の雲とともに降臨する。辰巳の時刻には、はっきりと拝むこ とができる。拝所から八町登って奥の院に至る} ○月頂山慈眼寺は瀧から八町登る。鶴林寺の奥の院だという。本堂は、不動明王増 {上人の作。}また三町余り西に行くと、堂が建っている。空海が作った十一面観音像 を安置している。上には千尺の険しい岩肌が都築、一丈ほどの卒塔婆が立っている。空 海が立てたという。人間業が及ぶものではない。傍らには岩屋。過ぎて二十間ほど行け ば、人が手を加えずに自然とできた石の仏がある。色々と不思議なことが起こる。{少 し登ると岩穴がある。空海が書いたという口に一心の白字。俗に胎内潜りと呼んでい る。入口が細いため薄手の服を着て、案内人がかざす松明を頼りに入る。二十間ほど行 くと、自然石の仏や蔓天蓋、金剛杵、諸物、龍などが確かにある。更に十間余り行く と、入口の幅六尺、高さ一丈余りの穴がある。入ると四方の岩に二十畳敷きほどの広さ で曼陀羅が彫られている。空海が彫ったものだ。空海が護摩修法や求聞持法を行った内 部は三十間余りで、霊威は言葉で表現できない。歌に「天飛ぶや 鶴奥 山奥冴えて 頼む深さや 法に通わん」。荷物を置いた横瀬に戻る。}横瀬に戻り、たなこ【棚野カ 】村に向かう。 廿番・鶴林寺 {南東向き}霊鷲山宝珠院と号する。草創は太古で、空海が訪れたとき、樹上に鶴が いた。翼の下から光が放たれており、不審に思った空海がよく見ると、地蔵菩薩の金像 だった。鶴がとまっている木を伐り、高さ三尺の地蔵菩薩像を作った。これに金像を納 め、寺を建てた。 詠歌「繁りつる 鶴の林を標にて 大師ぞいます地蔵帝釈」 大龍寺まで一里半。加茂へ行く場合は、二里。{道は近い。空海が通った道は加茂 村。旧跡が残っている。}大井村の中川には、渡し場がある。若杉村には家が四五軒あ る。 廿一番・大龍寺 {南東に向いて建つ。}那賀郡。舎心山常住院と号する。本尊は虚空蔵菩薩像で、空 海の作。{秘仏。}空海が少年の頃に霊威を感じて求聞持を修めた。空海本人が霊験の ほどを三教指帰で書いている。 詠歌「大龍の常に棲むぞや げに岩屋 舎心聞持は守護のためなり」 平等寺まで二里。三十町ほどは深山を行く。大きな道は、山口村を通る。三里の道程 だ。{現在の道は、真っ直ぐ。}阿瀬比村、●おおね坂を通って荒野村に着く。 廿二番・平等寺 {南向きで、背後は山}白水山医王院と号する。空海が開いて、高さ二尺の薬師如来 座像を安置した。 詠歌「平等に隔てのなきと聞く時は あら頼もしき仏とぞ見る」 薬王寺まで七里。門前で川を渡り二十町ほどは村が続く。月夜村。{村の名前には訳 がある。尋ねてみるとよい。}鐘打坂の麓に茶屋がある。逆瀬川の蜷貝は人の足を傷つ けたので空海が加持して渡った。そこに棲む貝だけは今でも尖りがない。小野村までの 間に標石が立つ。田井村、とまこえ坂。日和佐村には川がある。 廿三番・薬王寺 {背後は山。南向き}海部郡医王山無量寿院と号する。行基菩薩の開基。空海が訪 れ、薬師如来像を作って安置した。{秘仏。}塔の本尊は千手観音で脇士に二十八部衆 が並ぶ。これらは行基の作。 西に六十余町離れた場所に奥の院がある。奇怪な岩屋に、空海作の本尊を安置してい る。奇瑞が起こった場所だ。 詠歌「それ人の病みぬる歳の薬王寺 瑠璃の薬を与えましませ」 以上が阿波霊場。次から土佐霊場となる。東寺まで二十一里。このうち十里が阿波。 ●かた村、よここ村【日和佐トンネルが「よここ峠」。付近の村であろう】を通って山 川内村には打越寺なる真言宗の道場があって、遍路を労ってくれる。国主が建てた。少 し行って寒葉坂を越えると、橘・小松・●ほとり・河内・牟岐浦。日和佐から山や谷、 川が多い。間に、阿部坂がある。浅川まで二里。この間に八坂・坂中・八浜・湊中があ る。内訳は、阿部坂{昔あふ坂で行基菩薩がサバという、ふざけた馬追男と行き会っ た。どのような方便を講じようとしたのだろうか、生臭物は食べないはずなのに、行基 は男に鯖を一本くれるよう頼んだ。男は怒って行基を罵った。行基は歌を詠んだ。「あ ふ坂や 八坂の中 鯖一つ行基にくれで 駒ぞ腹病む」。忽ち男の馬が倒れた。男は驚 き、このように尋常ではない人を知らないのは下賤の者だたかだと無礼を詫びた。行基 は再び歌を詠んだ。「あふ坂や 八坂の中 鯖一つ 行基にくれて 駒ぞ腹止む」。馬 は飛び上がって、何もなかったかのようだった。行基菩薩が同事の済度をしたのだ。由 緒のある場所だ。}・内妻・松坂・古江・●しだ坂・福良村・福良坂・鯖瀬村・●はき の坂・坂中大砂浜。鍛冶屋坂・●あわの浦坂を過ぎると天神宮がある。満潮時には伊勢 田川を川上に回って渡るとよい。伊勢田村・浅川浦では大道から左に町がある。イナ村 には宿を貸す善人がいる。 観音堂がある。●からうと坂。これまで八坂・坂中・八浜・浜中。免許村に大師堂があ る。村はずれから東に海浦。奥浦、鞆浦とも呼ぶ。町や湊が賑やかだ。この町へ入り大 道へ出ると遠回りになる。奥浦から那佐村へ出る。{大道へ出ると回り道になるので、 奥浦橋の本屋右衛門作・鞆浦の島屋久佐衛門の二人は、共に成仏道のため、奥浦から那 佐村に抜ける直進路を建設した。}免許村からの間に川がある。{奥浦へ行くにも、こ の川を渡る。}高曽根村には大師堂がある。次に母川。{空海が巡礼したとき、日照り で山の妖怪の鬚も焦がれ川の魚もいなくなったというのに、一人の女が遙々と山奥で水 を汲んで帰っていた。空海が一滴を請うと女は、日照り続きで幼子一人二人の渇きを見 るに忍びず命懸けで岩窟から汲んできた水ではあるが、幸いに今日は母の●きぎの寿な ので、坊様に差し上げようと言って、惜しげなく空海に水を与えた。女の誠の慈悲水 に、空海が加持すると、水は溢れて月浮かぶ川となり、どんな日照りでも涸れることが ない。}那佐坂・那佐村・宍喰浦には町がある。{町の入口の右に祇園社がある。}円 頓密寺は、守護が遍路のために建てた。川を渡った古目には、阿波国境の番所がある。 往来切手を改める。行き過ぎて坂になり、阿波と土佐の国境の峠に出る。甲浦からは土 佐領。入口に番所があり、土佐一国の書き換えが渡される。{町の中には社がある。} 傍らには町があり、湊が立派だ。白浜町には{明神}社がある。川に出ると、標石があ る。甲浦坂、これは生見坂とも呼ぶ。生見村、相間。この間に{沖の岩に法然上人が書 いた阿弥陀仏の名号があり、干潮時には見えると言い伝えられている。}小さな坂があ る。野根浦には宿を貸す善人がいる。浦の入口に神社と大師堂がある。{五郎右衛門が 宿を貸す。ほかに篤志の人が多い。}買い物に便利な町だ。町の前には川がある。伏越 番所で甲浦で受け取った切手に裏書きをする。伏越坂から一里余りは、●とび石と呼ば れる海辺。入木村に八幡宮。先に通った浜の浦手から四里。尾崎村・鹿岡坂村を通る。 椎名村・上三津村を過ぎ、下みつ村から東寺まで二十町。{見所が多い。まず大穴は、 奥行十七八間、高さ一丈から三四丈、幅は二三間から五・十間。太守が石を穿って五社 神社を建立した。愛満権現と称する。かつて岩屋には毒蛇がいて人や家畜を襲った。空 海が訪れ毒蛇を退散させた後、権現を安置した。東には太神宮もある。行き過ぎると霊 水がある。亡者に手向ける水だ。更に行くと聞持道場・庵が建っており、背後に奥行五 七間の岩窟がある。本尊は高さ二尺の如意輪観音座像。龍宮から上がったものだとい う。厨子も石製だ。脇士は二尺六寸の仁王像。厨子の両扉も石で出来ており、天人の姿 が浮き彫りになっている。神仏の権化でなければ、どうしてこのようなことが出来よう か。このほか、龍灯が時として上がり、無限の霊威を感じさせる幽境だ。}本尊は石仏 の如意輪観音像で、龍宮から上がったものだという。東寺は女人禁制であるから、ここ で女性は札を納め、海辺から津呂浦へ向かう。男性は、東寺までの七町坂を上る。この 坂にも霊地が多い。
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