●長編 #0178の修正
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四国遍礼霊場記巻二 讃州下 弥谷寺、金倉寺、道隆寺、道場寺、崇徳天皇、国分寺、白峯寺、根香寺、一宮、屋嶋 寺、洲崎堂附次信墓、八栗寺、志度寺、長尾寺、大窪寺 ▼剣五山弥谷寺千手院(七十一番) もとは行基菩薩の開基。この山の霊験を見た大師が登って求聞持修行をしていたと き、空から五柄の宝剣が降ってきたため、剣五山と号する。また、剣の御山とも呼ぶ。 「五」と「御」は同じ「ご」だから、転訛したのだろう。山の南側は開け、東・北・西 には三朶の峰が聳えている。そのうち中岫に空海は登り、岩屋を掘り仏像を彫刻した。 本堂の岩屋から造り始め、壮麗な堂宇とした。 本尊は空海作の千手観音像。このため千手院と号する。本尊の脇士は不動と毘沙門天 像。護摩の岩屋には、二間四方の石段の上に、不動明王・弥勒菩薩・阿弥陀如来の像を 安置している。脇の石段には、高野山の道範阿闍梨の像がある。道範が讃岐に流罪とな ったとき、この寺の住持に頼まれ、行法肝要抄を撰した。奥書に記されている。この住 持が道範像を作ったものだろうか。 聞持窟の大きさは九尺と二間で、内部の壁面には五仏・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などを 彫りつけている。また、空海が自分の両親を阿弥陀如来と弥勒菩薩になぞらえ造った石 像がある。今の参詣者は、阿弥陀・弥勒と思わず、ただ空海の両親として拝んでいる。 空海の御影もある。もと木造であったものを、石像に作り替えた。石窟の前には四間・ 六間の拝堂を、南向きに懸け作っている。本堂の左側の岩壁に、阿弥陀三尊の六字名号 九行を、空海が書き付けいている。 空海が登ったとき、蔵王権現が示現した。このため空海は、高さ七八尺の蔵王権現像 を彫って、寺の鎮守として祀った。恐ろしい形をしている。この辺りの岩には梵字の阿 を彫っていたり、五輪塔・阿弥陀如来像などがあって、訪れる人の目を驚かせている。 この山で目につくところ、足の踏むところには必ず仏像がある。このため仏谷と号し、 仏山と呼んでいる。護摩窟の下方に鐘楼がある。住持の坊は中腹にある。斜めになって いる石段の両側にも、石仏が多い。三町ほど下に二王門を構えている。少し左には、石 窟の薬師堂がある。 東南の高峰は飛び出た岩の頭すべてが五輪であり仏像だ。その数は幾千あるか分から ない。 この山は崖が切り立ち屹立して肩を並べる山がない。霞を食べ風に乗る仙人でもなけ れば、簡単には上れないだろう。雲霧がつねに起こり、霊木・異草が茂り、岩を伝う泉 の水が清らかだ。心が浄化され、嗜欲が消えていく。 峰に登れば周囲に八国を見渡せる。このため八国寺と呼ばれている。近郷の人は、こ の山に登ることを、「八国する」という。いつの頃からか「弥谷(やこく)」と書くよ うになった。「弥(や)」と「八(や)」、「谷(こく)」と「国(こく)」は、相通 じている。また、山号院号寺号まで八栗寺と同じで、行状記に載せる記事も同様だ。た だし行状記は内容に誤りが多く、典拠とするには値しないのだが。とはいえ、山の霊気 も同様であり、この寺と八栗寺は、確かに分かちがたい。 この寺には多くの宝物があったが、数回にわたって賊に奪われてしまい、残っている ものは少ない。そのうちにも珍しいものが一つある。空海が持っていた紫銅の鈴であ る。回りに四天王を、それらの間に三鈷杵を彫りつけている。見る人を驚かせている。 ▼鶏足山金倉寺宝蔵院 又道善寺ともいう(七十六番) 智証大師の生まれた旧跡だ。父は和気氏の宅成、母は佐伯氏であった。よって智証大 師は、空海の親戚に当たる。智証大師は生まれつき聡明で、すでに老成した人のようだ った。八歳のとき、仏典に因果経というものがあるだろうから、読んでみたいと父に言 った。驚いた父は探し求めて、因果経を与えた。十歳のときに詩経・論語・漢書・文選 を読んだ。十五歳で延暦寺座主・義真の弟子となった。後に山王権現の神託により唐へ 留学した。日本に帰って三井寺を建て、唐から持ち帰った経典・仏像を納めた【智証大 師の描写は「今昔物語巻十一」の「智証大師亘宋伝顕蜜法帰来語第十二」と同じ】。 金倉寺は、智証大師の父母の荘園だった場所である。両親の菩提を弔い、また自分の 生まれた場所を仏教の場として永く伝えたいと思ったのだろう。自筆の遺影も残ってい る。永暦二年に朝廷が寺に補修を加えたという。唐から伝来した曼荼羅や鐃鉢、十六善 神などの宝物が多くある。本堂の本尊は薬師如来像。鎮守の八幡社には拝殿がある。右 に鐘楼、山王権現・智証大師の御影堂がある。 この寺は、空海の遺跡ではない。開基が空海の死後だ。空海が死んだとき、智証大師 は漸く二十歳ほどだった。とはいえ、親戚なので空海も此の地に当然、遊んだことだろ う。 ▼桑田山道隆寺明王院(七十七番) 元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だとい う。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如 来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。 延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、 薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海 は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、 永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も 財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。境内は四町四 方で、本堂・弥勒堂・宝塔・鐘楼・二王門・僧坊などが建ち並び、一大寺となった。弘 仁末年に朝祐入道は空海を招き、仏教的な資格を何ら持たないでも受けられる、曼荼羅 諸仏と結縁する結縁灌頂を開催した。話を聞いて多くの僧侶や人々が集まり、賑わっ た。このときには十余の宿泊所を建てて、集まった人を受け入れた。盛んに仏法を普及 させたが、時代が変わって、今は衰えてしまっている。伽藍は一宇を残して、礎石だけ となってしまった。とはいえ昔から伝わる宝物が、二三百もあるという。寺の右は五嶽 に接し、左には丸亀の険しい山が聳えている。南には葛原、北は海。境内は緑深く、幽 玄の境地となっている。 ▼仏光山道場寺(七十八番) 本尊は空海作の阿弥陀如来。鎮守社・鐘楼がある。いつしか時宗の寺となった。向か いには津の山・茶臼山、左には青い海が広がり塩飽・佐美島が見える。所の名を、鵜足 津/宇多津という。 道範阿闍梨が流罪となったとき、宇多津の豪族・橘氏に預けられた。道範が自ら書い た記録に、「少し上手の、堂と僧坊がある所に移された。ここは景色が良く、東を望め ば孤山が月を捧げ、西を振り返れば遠くに見える島が夕日に包まれており、日想観を行 っているようだ。背後に松山が聳え、海に続いている。『寂しさを いかで耐えまし松 風の浪も音せぬ住処なりけり』。山に登って見渡して『宇多津かた この松蔭に風立て ば 島の彼方も一つ白浪』」。道範が寓居した寺は恐らく、ここであろう。 ・・・・・・道範「南海流浪記」関連部分・・・・・・・ 前略…… (仁治四年二月)十二日。サヌキノ国府ニイタル。路間六間。庁沙汰トシテ有祇候。次 日六里伝馬。十三日。国府ヲ立。讃岐ノ守護所長雄次郎左衛門ノ許ニ至ル。路間二里。 次朝淡路使者カヘル。淡路ニ留る人ノ許ヘ。其国ヨリ以来。多ノ山海ヲ渡流浪ノ事。并 老後流刑ノ事。返々モ不計ノ由ナムト申テ。 「天が下など墨染の袖ならんおひの浪にも流れぬる哉」 十四日。守護所之許ヨリ。鵜足津ノ橘左衛門高能ト云御家人之許ヘ被預。十五日。在家 五六丁許引上リテ。堂舎一宇僧房少々有所ニ移シスヘラル。此所地形殊勝。望東孤山フ 夜月勧月輪観之思。顧西遠島含夕日催日想観之心後松山聳海中至前湖満時砌近指入ル。 「淋しさをいかでたへまし松の風浪も音せぬすみかなりせば」 サテ常ニ後ノ山ニ登リテ。海上島々ヲ眺望。為海中鱗類作自性能加持之法。有時浦ニ出 テ。昔向山々ヲ問ヘバ。備前小島。備中。備後迄見エ渡ル。小石ニ光明真言等ヲ出テ海 中ニ入ル。宝篋印タラニヲ誦シテ。鱗類ヲ離苦海ニ廻向ス。或時山ニノボリテミワタシ テ。 「うたつかたこの松陰に風立は島のあなたも一つ白波」 三月廿一日。善通寺ニ詣テ。大師聖跡ヲ巡礼ス。金堂ハ二階七間也。青龍寺ノ金堂ヲ被 模トテ。二階ニ各今少引入リテモ。コシアルカ故。打見ハ四階大伽藍。是ハ大師建立。 于今現在せり。御作。丈六薬師。三馬四天王像イマス。皆埋仏。後壁ニ又薬師三馬半出 ニ埋作ラレタリ。七間講堂ハ。破壊後今新造営。五間常堂同新造立。大師建立二重宝塔 現存。本五間。令修理之間。加前広廂一間云々。於此内奉安置御筆御影。此御影ハ。大 師御入唐之時。自図之奉預御母儀云々。同等身像云々。大方様如普通御影。但於左之松 山ノ上尺迦如来影現形像有之云々。凡此善通寺ノ本ハ。四面各二町。其内種々堂舎宝 塔。灌頂院。護摩堂。厳重羅列。今ハ皆破壊シテ。纔礎石許在之。御筆之額二枚有之。 皆善通寺トアソバサレタリ。其外大宝楼閣ダラニアソバシタル額二枚有之。皆破損云 々。抑善通寺ハ。大師御先祖俗名。即為寺号云々。破壊之間。大師修造建立之時。不破 改本号歟。金堂之西有一直路。一町七反許者。則自寺中参御誕生所之路也。則参拝之ス レバ。正御誕生所ニハ石高ク広畳タリ。今如法経奉納之。七重石塔有之。大樹少々有 之。拝見之間。恋慕恭敬。催涙柝膽。 「高野山岩のむろ戸に澄月のこの麓より出けるかさは」 此御誕生所ハ。西方ニ五岳山ト云テ。五仏之高山ノアル其麓也。同日午刻。於講堂有法 花講。大師御報恩云々。其後有童舞云々。其日及晩景。不能環向。即通夜御影堂云々。 翌日宇足津ニ帰。寛元々年九月十五日。善通寺移住ノ寺僧等。兼テ大師御誕生所傍ニ。 庵室ヲ構テタマヘリ。同月廿一日大師至御行道所ニ。世号世坂参詣。其路嶮岨嵯峨。老 骨雖攀躋。只人ニタスケラレテ登イタル。此行道ノ路ニハ。于今草不生。清浄寂寞タ リ。南北諸国皆見テ。眺望疲眼。此行道所ハ五岳中岳。我拝師山西岫也。大師此処ニ観 念経行ノ間。中岳青巌緑松。已尺迦【如】来乗雲来臨。影現タマフ。大師拝ミ玉フ故。 云我拝師山ト也。此行道所ニ数刻。大仏頂宝篋印等陀羅尼ヲ。満眼ノ所及海生山獣等ノ 養生ニアツ。如来影現事貴目出覚テ。 「わしの山常にすむなる夜半の月来りて照す峯にぞありける」 十月之比。南大門ニ出テ。南方名山等眺望。南大門前ノ路。弘三丈五尺。長八町。左右 ニ率都婆多立之。其門東脇ニ古松アリ。寺僧云。昔西行此松ノ下ニ七日七夜籠居テ。 「ひさに経てわが後の世をとへよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ」 とよめるによりて。此松ヲハ西行が松と申也ト申ヲキヽテ 「契り置て西へ行ける跡にきてわれもおはりをまつの下風」 寛元二年(甲辰)正月之比。当寺ノ童舞装束被調事。再会ノ日発願文事。同六月十五日 夜。多度郡田所入道(号堀池入道随仏)夢想ニ云。御誕生所ノ石壇南辺ニ。大ナル蓮花 生タリ。茎ノ長六尺許。大衆合拝。初ハ含テ漸開。其色其香美甚妙也。諸人集会シテ拝 見之。随仏作奇特之想。問云。是何ナル蓮花ゾ。如是大ニ妙ナル。人答曰。是ハ高野上 人御房蓮花云々。合掌瞻得シテ夢覚了。同八月之比。淡路国ナル人ノ許ヘ。修行者ノ便 ニ文ツカハス状ニ。此離山三年ニナリ。在国両歳ニナル事。本山恋慕。羇旅艱難。定同 心歟。抑其淡路島ハ。高野ノ大門マデチカヂカトミエ侍レバ。其国ニテ南山ハサハサハ ト見侍ラム。浦山敷コトヽテ。 「君はなをみてや慰むはなれぬるたかのヽ山の峯の白雲」 サテモ又。此居所ハ大師御誕生ノ座跡ナレバ。御建立ノ伽藍于今少々現存。就中大師御 真筆ノ御影常ニ拝見。是愁之中ノ喜ナル由申テ。 「よに出でてみづからとむる影よりぞ入にし月の形をも見る」 以上両首の返し。淡路。 「高野山みねの白雲跡たえてむなしき空に雨ぞこぼるヽ」 「入月も光や共にならぶらむみづからとめし影にうつりて」 寛元三年十月廿一日。出雲国配学円房阿闍梨法性延自サリ。已死門之命誓以廿一日為閇 眼之期。是大師引接炳然歟。同十二月十八日。自本山告遣之。聞之。周章悶乱。悲泣哀 慟。彼阿闍梨者自少年同学也。交如芝蘭昵同膠漆。加之。受伝法灌頂於先師法眼和上 位。既為秘密血脈一門。顕密因縁旁以深。離別哀傷豈以浅乎。仍自同十九日始行阿弥陀 護摩五十ケ日。泣資彼■【クサカンムリに廾/菩薩】。其後自行念誦等之時。為廻向随 一。是為蒙彼環来引接也。彼安芸無常。此出雲電光。哀傷一意。 「かたがたのもとのしずくは散ぬなりいつか我身の末の白露」 同年十二月十六日。高野浄■【クサカンムリに廾/菩薩】院阿闍梨(尚祚覚禅房)は。 十一月廿五日逝去之由。同明来テ告グ。未聞終其詞。嗚咽悶絶。彼阿闍梨者。花王法水 稟源禅林教風伝心因之事。相教相互開蒙霧。世間出世倶無内外矣。彼賢哲者愚質二紀之 法弟也。面冥途前後。泣而有余。凡一山学徒滅法燈失恵日。為之如何々々。筆与涙相和 記之 「たかの山流れも水もかれぬめり草木は如何たねをきさらむ」 宝治二年(戊申)四月之比。依高野二品親王仰奉模当寺御影。此事去年雖被下御使。当 国無浄行仏師之由依申上。今年被下仏師成祐(鏡明房)。奉模写之。所詣仏師四月五日 出京。九日下着堀江津。同十一日当寺参詣。同十三日作紙形。当日於御影堂。仏師■【 テヘンに交】梵綱十戒。其後始紙形。自同十四日図絵。同十八日終其功。所奉模■【一 字欠。写カ】御影。其御影形色毫釐モ無違本御影云々。同十八日依寺僧評議。今此仏師 改押本御影之裏加御修理云々。已上此等間不出御影堂。仏師下着之時(院主絹一疋)三 昧各浅黄一切給之。凡此御影者。当寺之古老相伝之。大師御入唐時。為御母儀自模置我 影像ヲ。告面之孝御ス云々。 此御影堂上洛事。 承元三年隠岐院御時。立佐大臣殿当国司之間。依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出 御影堂之由。雖令言上子細数度依被仰下。寺僧等頂戴之。上洛御拝見之後。被奉模之。 絵師御下向之時。生野六丁免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂録御時奉拝之。又模 写之。御下向之時。免田三丁寄進云々。 同年六月二日。御上洛。同十五日高野参着。即御拝見御歓喜云々。同十八日御報書云 々。御影無為ニ奉渡事返々悦入候。宿善開発数及落涙。心中被察之云々。 同年十月廿七日。伊予国寒川地頭(小河六郎祐長)建立一堂。三尊供養導師勤之。彼路 頭ニ比女ノ八幡ト云所アリ。讃岐ノ内。其所ニ大楠ノ木ノ本ヲ半出ノ阿弥陀仏ニ造テ。 堂ヲツクリオホヘリ。其木ノ末ハ大ニサカヘテカレヌ。 「楠の木も本のさとりを開きつヽ仏の身とも成にける哉」 同廿八日。舞楽。還向ノ次ニ。琴曳ト云宮マウデ(讃岐内)。此宮ハ昔八幡大■【クサ カンムリに廾/菩薩】筑紫ヨリ此処ニヲチツキテ。京ノ八幡ヘトワタラセ給。其御舟ノ 舶ト御琴トヲ宮内ニツクリコメタリ。サテ琴曳ト云。山カラ京ノヤハタノ山ノ形也。三 面ハ海也。殊勝地形。 「松風に昔のしらべ通ひ来て今にあとあることひきの山」 同年十一月十七日。尾背寺参詣。此寺大師善通寺建立之時杣山云々。本堂三間四面。本 仏御作薬師。三間御影堂。御影并七祖又天台大師影有之。同十八日環向。依路次参詣称 名院。眇々松林中有九品庵室。本堂五間。彼院主他行之旨。追送之。 「九つの草の庵と見しほどにやがてはちすのうてな成けり」 「九つの草の庵もとめをきし心いさなへうみのにしまで」 念々房返 「むすびおく草の庵のかひあれば今は蓮の台とぞきく」 「九つの草の庵にとどめけん君か心をたのむわが身ぞ」 称名院への愚状ヲ。三品房ノ許ヘ相送タリケル。其返状ニ云。 善通寺御札。加拝見令返上候。彼歴覧之時不参会候之条。生前遺恨候。猶々御光臨候。 今我願充満。衆望亦可足候者也。兼又二首御詠。万感無極候。捧五首之腰折。述千廻之 心緒而已。 「いかがして君かみのりの燈火を暗きみ山の庵にてらさん」 「君がたのむ寺の昔の座こそ此山ざとにすみかしめけれ」 「君ならで誰か覚らん草の庵やがて蓮の台成とは」 「九品の蓮の露にやとまりけん月の光を見ぬぞ悲しき」 「留めけむ心の底をしるべにて此山里にすむ人もなか」 当寺者。弘法大師御建立旧跡云々。便宜之時。以此旨可令洩達給。恐々謹言。 十二月十四日 三品判 十月十八日。参詣瀧寺(坂十六丁)。此寺東向高山有瀧。古寺礎石等処々有之。本堂五 間。本仏御作千手云々。 一誕生院縁起之事 右当所者。弘法大師御誕生処也。昔定有精舎。宛如尺迦如来浄飯王宮生処塔。而五百廻 ノ星霜相遷之間。唯遺其跡尚無礎石。于爰行並上人者。寛元三年木造御影建立之時。即 与寺僧其評議シテ。於此御誕生所。建立一堂。可安置之云々。因茲或励自力。或唱勧 進。以今年建長元年己■【一字欠】月十日手斧始。同二月二日棟上。大公沙弥陀仏。同 年五月一日(戊申)寅時有鎮壇。阿闍梨道範。 以我功徳力。大師加持力。及以法界力。願我成吉祥。今此一伽藍。奉慈氏下生。興隆 諸仏法。利益諸衆生。 大勧進阿闍梨道範 建長元年五月廿一日。此諸国流人赦免之宣下有之。同六月八日。件院宣。并六波羅下知 状。及長者御房御書状来着。仍即可帰洛之処。自同十二日本病更発。不能出行。経四十 余日付小減。臨帰山之期。七年之間。世出世之事。無内外申談之人之許ヘ申遣云。 「七年のたえぬむくひの末の露おなじはちすの上に遊ばん」 彼返報云。七ケ年之祇候。一生中之大幸也。唯頼者世々欲蒙御引接云々。 「末の露思ひ定ぬ身にしあれどとふことの葉にかヽらざらめや」 追申。御帰山之後。毎年一度可令登山之志深し。 「頼めをきし法のしるべの灯の重ねて照す峯を尋ねん」 同七月廿二三日之比。癘病得小減。欲帰山之処。当国白峯寺院主静円(備後阿闍梨)。 当年宿願入壇所望事。近々被歎申之旨。病後気力雖不可堪作業。此寺国中清浄蘭若。崇 徳院法皇御霊廟也。此阿闍梨年記【ママ】六十六。練行慈仁之器也。仍大師御門流於此 寺永代流伝事。尤可為興法万人方便之故。同七月廿九日立善通寺到彼白峯寺(路五里 )。八月四日(天宣房宿念云々)。入壇伝法。色衆十人云々。同六日彼寺本堂修理供養 万陀羅供。大阿闍梨(勒之)此間雖■【マゲアシに王】弱不虧法則。同七日立白峯至白 山(路六里)。 ……後略 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ▼金花山妙成就寺摩尼珠院(七十九番) 空海の開基。本堂の本尊は十一面観音像。鎮守は金山権現。城山大明神とも呼ばれ、 古くから祀られている。伴社が多くある。 この地に崇徳天皇の霊を勧請し、廟を建てた。ゆえに、この地は、崇徳天皇と呼ばれ ている。天皇が崩御したとき金棺を暫く置いたので、宮を作ったという。釣殿・拝殿が 現存している。寺は観音堂の後にある。寺は昔、多くの堂宇を備えた広大なものだった という。境内には礎石が多く残っている。 この地から一町ほど西に、野沢という霊水の湧く場所がある。諸病を癒す水だ。霊水 から三町ばかり上った山の中腹に、薬師如来の石像がある。空海の作で、高さ二尺ほど の立像だ。土地の人々は、霊水が薬師から出て野沢に通じていると言っている。この薬 師像を板敷きに据えると水が出ず、石の上に置くと水が出るという。伝承では、景行天 皇の時代、佐留霊公が船で南海/瀬戸内海を進んだとき、大魚と遭遇した。船が呑み込 まれ、乗っていた人々は死に、霊公だけが残った。霊公は勇猛に剣で大魚の臓器を破っ て外へ出た。しかし霊公は力尽きて、意識を失ってしまった。そこへ天童が降って来 て、野沢の水を霊公に注いだ。霊公は蘇生した。野沢を弥蘇波と呼ぶようになった。こ のような伝承があるのだから、霊水の存在は空海に先行する。霊水が先にあって、空海 が薬師像を作ったのだろう。温泉に薬師像が置かれるようなものだ。また、崇徳院は崩 御のとき、白峰・青峰のいずれかに葬るよう遺言した。国司と崇徳天皇に従っていた 人々が朝廷の判断を待つ間、遺体を保存するために金棺を弥蘇波の水に浸けた。それ以 後、水は霊性を高めたという。 この浦の向かいに見える沙弥島は、醍醐聖宝尊が生まれた場所だ。歌枕では、佐美島 と書く。「玉もかるさに紀の国の佐美島」と詠んでいる。塩飽島が並んで見える。 ▼白丑山国分寺千手院(八十番) 行基菩薩の開基だという。聖武天皇は陰陽の理にかなった姿をしており、幽玄なる哲 理や神智に通じていた。霊性あるものを庇護し、仏教への帰依が深かった。天平九年 に、諸国に国分寺を建立する詔勅を下した。高さ一丈六尺の釈迦如来像と二菩薩像、そ して大般若経を写して諸国分寺に納めた。虎が嘯けば、谷に風が生じる。慶雲は龍に従 って湧き上がる。原因があるからこそ結果が生じる。聖武天皇の詔勅で国分寺が建立さ れ、国分寺の建立で仏教が興隆した。ところで国分寺建立のときに当たり、行基は出か けていって畿内に五十の寺を建て、諸国に多くの霊場を開いた。朝廷の仏教普及策に手 を貸した。この讃岐国分寺が行基の開基だというのは、そういった事情を反映している のであろう。 現在の本堂は、東西九間・南北八間の規模。本尊は空海作で高さ一丈六尺の千手観 音。思うに聖武天皇の詔勅では、国分寺の本尊は高さ一丈六尺の釈迦如来像であるはず だ。とはいえ、国分寺の本尊は、必ずしも釈迦如来ではない。当初から薬師を本尊とし たものも、あったのではないだろうか。 薬師堂が東の方にある。鎮守は、春日明神だ。伴社は四十余。 本堂の東に一本の大きな枯れ木がある。勅木だともいうし、本尊を作った残りの木だ ともいう。霊異を起こすことが多い。堂の前には蓮池がある。橋を架けており、往来で きる。堂から正しく南に二王門があり、この前にも広い池がある。関の池と詠んでい る。蓮が美しく立ち、香りが遠く広がって心惹かれる。観音の永代供養にと国司から与 えられたもので、その他の用に使うことは許されない。 境内は四町四方。松や杉が茂り、堂宇はさほど立派ではない。昔の仏閣は、土佐勢の 攻撃によって滅びてしまった。跡だけは、みな残っている。 ▼綾松山白峯寺洞林院(八十一番) 空海の開基。岩の頭に宝珠を埋めて国家鎮護の押さえとし、阿伽井を掘って用水が永 く清潔であるようにした。宝珠を埋めた場所は、滝壺となっている。 智証大師が唐への留学から戻り、金倉寺を建てて住んでいた貞観二年冬の初め、北条 郡大椎の沖が鳴動し、海上が輝いた。珍しい芳香が国に満ちた。人々は怪しみ、何が起 こったのかと国司が円珍和尚に尋ねた。和尚が十峰山に登ると、幽窟に瑞光が差し込ん でいた。この山の神だと名乗る老翁が出現した。老翁は言った。久しく神道に従いつつ も、仏教に帰依したいと思っていた。和尚は仏教を広めるべき人だから自分を導いてほ しい。瑞光は、補陀洛山から沖の海底に流れ着いた霊木から発している。この霊木で仏 像を刻み、後世永く人々を救済するよすがとせよ。自分も暫く和尚と行動を共にする。 こうして円珍は老翁と共に、霊木を山の上に引き上げ、十体の観音像を作った。うちの 一体を、高堂を建てて安置し、本尊とした。 四方中央の五峰となっている霊場のうち、西にあるものを方位の色をとって白峰と呼 んでいる。東の方位は青で象徴されるので、東に青峰があり、根来寺となっている。他 の峰の名前については、分からない。 保元の乱によって崇徳院は讃岐に流された。崩御して、白峰に葬った。廟は玉で作っ たように美しい。左の殿に観音、右の殿に相模坊を祀っている。相模坊は外見は天狗で 本体は不動明王、南海の守護神である。天皇を葬った場所は、廟より少し後の山中にあ る。右に源為朝、左に為義の供養塔がある。天皇が流されてきた当初、松山の津にい た。地元役人の統括者・野太夫高遠が堂に天皇を入らせた。天皇は、ここで三年を過ご す。柱に次の歌を書いた「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 雲行く月の影に任せ て」。天皇は暇にあかせて五部大乗経を字図から写した。京都内に納めようと送った。 添えた歌は「浜千鳥 跡は都に通へども身は松山にねをのみぞなく」。ところが少納言 信西は、天皇の写経に呪いが籠められているのではないかと疑い、経を返してきた。天 皇は怒り狂い、大魔王となって日本を滅茶苦茶にしてやると誓った。指を切った血で願 文を書いた。経を箱に納め「奉納龍宮城」と書いて、椎途沖の海に沈めた。海上に火が 発し、童子が現れて舞った。天皇は、願いが成就したと喜んだ。その後は、髪も爪も伸 びるに任せ、供も寄せ付けずにいた。松山から国府甲知郷鼓岳の堂に移された。六年を 経た長寛二年八月二十六日、四十六歳で崩御した。白峰に葬った。近くに仕えていた遠 江阿闍梨章実が、国府にあった御所を移築し、頓證寺と名付けた。菩提を弔った。 仁安元年冬の初め、西行法師が廟に詣でて法要を営んだ。廟が鳴動して中から歌が聞 こえた。「松山の波に流れて来し舟の やがて空しくなりにけるかな」。西行は涙し て、「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と返した。社の前 に、西行が腰を掛けたという西行石がある。山家集には、「讃岐に行って、松山という 所に崇徳院はいたはずだと思って探したが遺跡を見つけられずに」と書いて「松山の波 の景色は変わらじを 形なく君はなりまさりけり」と詠んでいる。上記二首を松山で詠 んだとし、白峰に行って墓を見つけたときの歌として「よしや君」の歌を載せている。 崇徳天皇は当初、讃岐院と呼ばれていたが、安元末年、改めて崇徳院と追号した。後 に祟りを恐れ、社壇を荘厳にし、荘園を寄進して崇敬するに至っている。青海・河内は 治承年中の寄進。北山の新庄は文治年中に源頼朝が寄進した。 永治二年十月、天から火が降って寺は焼けた。宝物も残らず失った。宗徒の信証とい う者に夢のお告げがあった。白峰の本尊は既に作ってあるから、持って行けという。わ けが分からないうちに四国大将細川武蔵守にも夢のお告げがあった。白牛寺釈迦堂にあ る本尊を、白峰に移せと。永徳四年五月二十六日、仏像を移した。この仏像は、智証大 師が山の神と共に、補陀洛の霊木を刻んだものであった。以前のものも同じ時に作られ たものの一体だった。以前あった像が再び出現したことと同じだ。仏像を移したとき、 山は光に包まれ人々の顔まで金色に見えたという。応永十三年孟秋、清少納言入道常宗 が縁起を起草し、侍従宰相行俊が清書した。この縁起は今も残っている。 廟の額に頓證寺とある。後小松天皇の宸筆である。書状も二通ある。崇徳院直筆の自 画像も残っている。また、幸仁親王の描いた御影もある。天皇が使っていた筆や琵琶も 納めている。後嵯峨天皇から奉納された青磁の香炉、花瓶は宝殿に備えている。絵や木 仏など宝物は数十件あるが、多くて載せられない。 ▼青峯山根香寺千手院(八十二番) 空海が土地を開き千手観音像を作って、一堂を建てて安置したことに始まる。智証大 師も逗留し、天台・真言両宗兼備の寺となった。鎮守は山王権現。後に天台宗徒が智証 大師の御影を作った。小さな二十五条の袈裟が伝えられている。木蘭色で割裁に作って いる。空海のものか智証大師のものか分からないが、とにかく常の袈裟とは異なってい るという。五寸ばかりの円鏡もある。これもまた、怪しいものだという。 ▼蓮華山一宮寺大宝院(八十三番) 創建は余りに古く、はっきりしない。一宮は田村大明神。猿田彦命である。また、孝 霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲媛とも言われている。貞観九年に神位が昇った。宮は、寺 前に別の構えとなっている。松が茂り、木立は年輪を経て鬱蒼としている。左に、花の 井と呼ばれる名水がある。寺の本尊は高さ三尺五寸の聖観音立像。境内には稲荷社があ り、前に鐘楼がある。 ▼南面山屋島寺千光院(八十四番) 孝徳天皇の天平宝字六年十月、唐楊州の鑑真和尚が日本の純朴さを聞いて来朝しよう としていたとき、この山に立った瑞光を遙か船中から目にした。鑑真和尚は船を寄せ て、山に登った。老翁が鳩杖をついて出現した。この山は七仏説法の霊場であり、天人 仙人が遊んでいる。それだけ言って老翁は姿を消した。和尚は神なびた土地であると感 じ、仮に一堂を建て、持っていた普賢菩薩像や法華経・華厳経普賢行願品を納めようと した。そのとき、二聖二天十羅刹女が出現し、いつ果てるともなく次々と霊異を見せ た。和尚は、ここで五十七日を過ごした。仏教普及に努め、唐招提寺を建てた後、和尚 は仏舎利三粒と菩提樹の数珠を送って寄越した。 五十年後、空海が留まり、一刻三礼して千手千眼観音像を作り、安置した。千手院と 称する。 ▼洲崎乃堂并次信墓(番外) 屋島寺から東へ坂を十八町下ると、佐藤次信の墓がある。次信は、弟の忠信と共に、 奥州から源義経に従った近臣であった。屋島の合戦で、源義経を狙った平教経の強弓に 立ち塞がって、身代わりとなって戦死した。ちなみに、次信の首を落とそうと駆け寄っ た教経の小姓・菊王丸は、忠信に射倒された。慌てた教経は菊王丸の体を抱き取り撤退 した。 ここには昔から五輪塔があった。俗に伝える物語や歌などがある。かなり昔に国の太 守が一丈四方の石畳を敷き、高さ五尺の碑を建てた。 兵士から中国【南北朝時代】宋王朝初代武帝となった劉裕は、彭城に赴任したおり、 前漢初代高祖に天下を取らせた軍師・張良の廟が荒れてしまっていることに気付いた。 先人の徳は顕彰して初めて後世に伝えることができると言って、改築し修飾し塗り直し た。 【宋書より。ただし、この年、劉裕は主君・安帝を殺害し安帝の弟・恭帝を擁立し た。後に禅譲されたが、廃帝を布団で圧し殺した】。 劉裕とほぼ同じ時代を生きた、有名な官僚詩人・謝霊雲の従兄弟で同じく官僚詩人の 謝恵連は、奇しくも劉裕から四半世紀後、彭城に赴任した。謝は墓碑も何もない古い墓 を見つけた。その打ち捨てられた様子を深く悲しみ、篤い礼をもって供養した。 【文選より。さりげなく劉裕と謝恵連を並べているところが興味深い。かたや漢帝国 創業の黒幕・張良を慕い後に帝位を襲った人物、かたや最後は讒言のため刑死した謝霊 運の従兄弟で名もない人たちの墓を祭った文人墨客。古い墓を復興した点では同一だ が、どうやら心理的背景は極端にまで対称的であっただろう】。 先賢の心や偉人の事績も埋もれてしまえば、どうして偲ぶことができようか。先人の 苦闘に思いを巡らせ、道義を盛んにすることこそ、君子の行いである。 所の地名を、壇と呼ぶ。近くの海を、壇ノ浦と称する。東の渚には、那須与市が馬を 乗り上げた岩がある。馬の両足跡が残っている。与市は、平家の女房たちが舟上で捧げ た扇の的を岸から射抜いたことで有名だ。また、的に当たるようにと与市が祈った、い のり石というものもある。南脇には洲崎の堂がある。本尊は、空海作の正観音像。これ らは八十八カ所のうちではないが、巡礼の途中にあるので記しておく。 ▼五剣山八栗寺千手院(八十五番) 険しい峰が三つに分かれ、雲が木々の緑を取り巻いている。七百余丈と高く、夏さえ 雪霜が残っている。奇怪な形の樹木が茂り、竹葦が鬱蒼としている。空海が登ったとき に、金剛蔵王権現が現れ、神託を告げた。この山は仏教道場としての要件を備えてい る。空海は偉大な宗教者である。ここに伽藍を建立すれば、自分が守護する。空海は思 いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。二十一日目に五柄の剣 が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海 は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が塔への留 学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。忽ちのう ちに、生長した。八栗寺と名を改めた。 三十余丈も峙つ中央の峰に蔵王権現を祀っている。北には弁財天、南に天照太神を配 置している。麗気記に、天照太神はここにいますと記す箇所がある。恐らく、この記述 に基づいて祀ったものであろう。また、ここに七つの仙窟がある。窟の中には仙人の木 像を納めている。また五智如来を五カ所に分けて置いている。中央には、空海が岩面に 彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像、阿シク・宝生・阿弥陀・釈迦の四仏は、四方に 配置されている。中央の地区には、空海が求聞持法を修した岩屋がある。ここを奥の院 としている。寺から四町ばかり登った場所だ。また、この窟中に空海の御影を安置して いる。前の大岩に穴が開いており、明星影向の場所だと言い伝えられている。本堂傍ら の岩洞に、空海が作った不動明王の石像がある。ここで空海が護摩を修したともいう。 岩窟の中は一丈四方に切り抜き、三方に九重の五輪塔などが数多く彫り込まれている。 寺の後には阿伽井があり、独鈷水と呼ばれている。空海が、独鈷杵で加持すると、岩が 開き水が迸ったのだと伝えられている。また、寺の後には、蓬莱岩と呼ばれるものがあ る。宝珠のような形をしている。そのまた後の峰には、明星穴と称する岩穴が二つあ る。円周三尺ほどだ。 昔の堂は、戦争のため焼失した。現在の堂は、松平頼章公が建立したものだ。かなり 立派なものだ。一月・五月・九月の十七日から七日間、開帳する。堂の脇には鐘楼があ る。 門には高さ五尺の多聞天・持国天像を安置している。 宝物は戦争で失われてしまった。ただ、空海が岩窟を掘ったときに使った鑿が二枚残 っている。 山の東と北は海が豊かに広がり、波が荒立っている。西と北には平野が開け、民家や 林や泉が並んでいる。寺の勢いが盛んな頃は、牟礼大町に末院四十八カ寺を従えていた という。今では衰え、ただ一二の寺を残すのみだという。 ▼補陀洛山志度寺清浄光院(八十六番) 行基菩薩が草創だという。本尊の材料となった木は、近江国朽木谷から流れ出たもの だ。拾い上げた者に祟りがあるので、皆が次々捨て流したものだった。 継体天皇の十一年、この浦に寄せた木を、園子尼が数珠で念じて引き上げた。推古天 皇三十三年、補陀洛から観音が来訪したため、この木で今の尊像を作ったという。補陀 洛を山号とした。寺号の志度は、在所の地名である。縁起には、当初は死度と書いてい たという。私は縁起を見ていないので、確かなことは知らない。 この土地を、房前浦と呼ぶらしい。門前には人々が賑わしく往来しており、背後には 海浜を望む。八栗山が雲の上に聳え、真珠島が海に浮かんでいる。境内は広く、木々や 泉が清らかだ。 高堂は、閻魔王のお告げによって建てたそうだ。ゆえに本尊の観音に次いで、閻魔王 を崇めている。閻魔像は、通常の形態ではなく、首が十一面観音となっていた。これは 閻魔王と観音が一体であることを意味しているという。または、閻魔王が本尊を頂いて いるとの義を表しているともいう。いずれにせよ、閻魔王と観音の合体を表現してい る。 縁起七巻と縁起図絵がある。ほかに宝物として、御衣木記一巻(兼空上人筆)玉贈玉 取淡海房前行基伝記一巻(相良殿筆)白杖童子記一巻(世尊寺行房卿筆)当願暮当記一 巻(兼空上人筆)阿一上人蘇生記一巻(相良正任筆)千歳童子蘇生記一巻(兼空筆)松 竹童子蘇生記一巻。これらの巻物には図絵が添えられている。中でも「御衣木-」の絵は 土佐将監の筆による。ほかも土佐流の絵が描かれている。 玉贈玉取淡海房前行基伝記一巻は、次のような話だ。唐から大織冠・藤原鎌足に玉が 贈られたとき、この房前浦で輸送船が暴風に遭い、玉を海に沈めてしまった。嘆いた淡 海公・藤原不比等は、この浦まで来て、どうにか玉を取り戻そうと三年を過ごした。そ のうち海士の娘と情を通じるようになった。海士の娘は龍の住処に潜入し、玉を取り返 した。世上に広く行われている物語だ。藤原房前大臣は、自分が海女の子であることを 十三歳の時に知った。後に行基菩薩を連れて、この浦を訪れた。海女のために法華八講 を行った。以後毎年、十月十七日から二十三日までの間、執り行ってきた。しかし近年 では寺に僧侶が少ないため、規則のみが受け継がれているらしい。堂前の石塔は、海女 のために建てたものだという。 園子尼の堂は、町の中、天野の里にある。近くの堂林は、海女が住んでいた場所。真 珠島は、玉を取り返した海女を引き上げた場所だ。真珠島なる名称は、昔大きな真珠が 出たことが由来だという。疑う声もある。今は、判断できない。ちなみに、不比等のた めに玉を取り戻した海女は、程なく死んだ。龍に追いつかれ、自らの乳房を切って、裡 に玉を隠した。死を前に海女は、子供・房前を取り立てるようにと言い残した。 行基菩薩の歌として伝わっているものがある。「潮満ちて島の数そう房前の入江入江 の松の村立」。 【近江国高島郡朽木谷は「朽木の杣」として有名で、良材の産地。大日本古文書編年五 巻天平宝字六年八月九日の正倉院文書「高島作所漕材注文」からして、古くから中央へ の材木供給地であったことが窺える。伝承では、日本仏教確立へのメルクマールとなっ た東大寺建立時の、材木供給地とされている。即ち、件の本尊は、日本仏教に於ける重 要な聖地と材を同じくする。逆に言えば、東大寺の材を産出した(とされる)ことが、 霊木の産地として朽木が名指しされる理由となっているのだろう】 ▼補陀洛山長尾寺観音院(八十七番) 聖徳太子が開いた寺を、空海が再興したという。本尊は、高さ三尺二寸の観音立像 で、空海作。また同じく自作の阿弥陀像を傍らに安置した。鎮守は天照太神。仁王門が ある。寺の前には、遍路の宿がある。昔の堂宇は壮麗であったが、遠く時は移り、寂寥 として香や蝋燭にさえ事欠くようになった。慶長の初め頃、名刹が廃れていることを惜 しんだ国持ち大名・生駒氏が、再興した。 ▼医王山大窪寺遍照光院(八十八番) 行基菩薩の開基。空海が再興して密教振興の道場とした。本尊の薬師如来座像は高さ 三尺で、空海作。阿弥陀堂は、もと如法堂であった。寒川郡の豪族・藤原元正【寒川郡 司の家系で天文期あたりの当主に寒川元政がいる。ただし藤原姓ではなく讃岐公姓】が 建てたものだ。鎮守権現と弁財天の堂がある。 大師堂を国の守・吉家【未詳】が建立、領地を寄進した。鐘楼には高さ四尺五寸の鐘 が下がっている。これらも吉家が寄進したものだ。多宝塔は寛文の初めごろまで残って いたが、倒れてしまった。昔の境内は、四十二宇と門・垣を備えた大伽藍であった。跡 だけは、すべて残っている。 奥の院は、本堂から十八町登った所にある岩窟だ。本尊は阿弥陀如来像と観音菩薩 像。空海が求聞持修行をしたとき、阿伽水が足りなかったため、独鈷杵を使って岩の根 を加持した。清水が迸り出た。この水は、どんな日照りでも涸れることがないという。 また空海は生木を卒塔婆に仕立てた。文字も鮮やかに残っていたが、五十年前に野火が 入ったため枯れ木となってしまった。本堂から五町東に弁財天像がある。寺の勢いが盛 んであった頃、門と門の間が遠く隔たっていたという。東西南北とも十町に及び、今で も境界の印が残っているという。
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