●長編 #0157の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「忘八者」★ 八犬伝第百五十一回、安房里見家が軍事演習を兼ねた大規模な狩りを催す。それ自体 では面白い場面でないものの、様々な関連事項があって、無視できぬ重要な部分となっ ている。 里見義成は狩りを始めるに当たって、殺生を最小限に留めよと命じる。その言葉の中 に、「在昔建久四年五月二十七日、鎌倉の右幕下(頼朝)の畋猟に工藤荘司景光は(工 藤景光を或は下河辺行光に作る。しかれども東鑑を正しとすべし)山鬼の大鹿に変見れ るを射ける祟にて那身は暴に疫死けり(東鑑)」がある。良い機会だ、暫く東鑑/吾妻 鏡で遊ぼうか。 ◆ 【吾妻鏡第十三・建久四年五月】廿七日壬辰未明催立勢子等終日有御狩射手等面々顕芸 莫不風毛雨血爰無双大鹿一頭走来于御駕前工藤庄司景光(着作与美水干駕鹿毛馬)兼有 御馬左方此鹿者景光分也可射取之由申請之被仰可然之旨本自究竟之射手也人皆控駕見之 景光聊相開而通懸于弓手発射一矢不令中鹿抜于一段許之前景光押懸打鞭二三矢又以同前 鹿入本山畢景光棄弓安駕云景光十一歳以来以狩猟為業而已七旬余莫未獲弓手物而今心神 惘然太迷惑是則為山神駕之条無疑歟運命縮畢後日諸人可思合(云々)各又成奇異思之処 晩鐘之程景光発病(云々)仰云此事尤恠異也止狩可有還御歟(云々)宿老等申不可然之 由仍自明日七日可有巻狩(云々) ◆ 厭だろうが如何だろうが、記紀に載せる日本武尊神話を思い出してしまうだろう。た だし、この話が記紀を基にしたのか、或いは記紀説話の基になった伝承が記紀とは独立 に東国で伝わっていたのかは、これだけで判ずることは出来ない。とにかく、関東武士 たちの間で、日本武尊関連まがいの説話が流通していたことが窺えるのみだ。因みに、 頼朝が主張したように狩りを止めて帰れば平穏無事に過ごせたかもしれぬ、運の悪い御 家人がいるのだが、そりゃまぁ後回し。で、此の部分、甚だ出来が良い。ちゃんと伏線 っていぅか前段がある。二日分前の五月十六日条だ。 ◆ 十六日辛巳富士野御狩之間将軍家督若君始令射鹿給候愛甲三郎季隆本自存物達故実之上 折節候近々殊勝追合之間忽有此飲羽(云々)尤可及優賞之由将軍家以大友左近将監能直 内々被感仰季隆(云々)此後被止今日御狩訖属晩於其所被祭山神矢口等江間殿令献餅給 此餅三色也折敷一枚九置之以黒色餅三置左方以赤色三置中白色三居右方其長八寸広三寸 厚一寸也以上三枚折敷如此被調進之狩野介進勢子餅将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給 上総介江間殿三浦介以下多以参候此中令獲鹿給之時候而在御眼路之輩中可然射手三人被 召出之賜矢口餅所謂一口工藤庄司景光二口愛甲三郎季隆三口曾我太郎祐信等也梶原源太 左衛門景季工藤左衛門尉祐経海野小太郎幸氏為餅陪膳持参御前相並而置之先景光依召参 蹲居取白餅置中取赤置右方其後三色各一取重之(黒上赤中白下)置于座左臥木之上是供 山神(云々)次又如先三色重之三口食之(始中次左廉次右廉)発矢叫声太徴音也次召季 隆作法同于景光但餅置様任本体不改之次召出祐信仰云一二口撰殊射手賜之三口事可為何 様哉者祐信不能申是非則食三口其所作如以前式於仰含之処無左右令自由之条頗無念之由 被仰(云々)次三人皆賜鞍馬御直垂等三人又献馬弓野矢行騰沓等於若公次列座衆預盃酒 悉乗酔(云々)次召蹈馬勢子輩各賜十字被励列卒(云々) ◆ わざわざ山の神を祀っている。記述を事実と信ずれば、景光が病で急死したとの事件 があって、此に先立ち偶々ベテラン射手(っていぅか耄碌してただけだと思うんだが) 景光が射損じた。或いは景光は失敗のショックで体調を崩し、抵抗力を失って病死また は老衰死したのかもしれない。でも景光は負け惜しみから、山の神を射たから射損じた し体調が悪くなったのだと主張したのだろう。それ故に景光の死と山の神の存在に因果 関係が生じて、常時なら記述されることもなかったであろう山の神を祀る儀式が、詳細 に書き残されることになったのだと思う。因みに、此の時の狩りは「富士野巻狩」、即 ち曾我物語の基となった、曾我十郎祐成と弟・五郎時致による幕府重臣・工藤祐経暗殺 事件(五月二十八日)の舞台だ。ちょっと語りたい所だが、我慢して話を進めよう。 馬琴が引いた上記建久四年五月二十七日条の三日分前が五月十五日条だ。既に頼朝一 行は、「富士野旅館」へ到着している。頼朝は時々御家人らを連れて大規模な狩りを行 っているが、言ってみりゃぁこれは幕府主催のスポーツ大会であった。しかも健全な青 少年が参加するものではく、ゴロツキ集団・鎌倉幕府のレクリエーション大会だ。獲物 の猪や鹿・兎を捌き、酒宴となる。不良中年の群れなんだから、当然、〈色〉も付く。 後述するが、天下のエロオヤジ・頼朝が狩りをするのだ。遊女が集められた。 ◆ 十五日庚辰藍沢御狩事終入御富士野旅館当南面立五間仮屋御家人同連・狩野介者参会路 次北条殿者予被参候其所令献駄●(ジキヘンに向)給今日者依為斎日無御狩終日酒宴也 手越黄瀬河已下近辺遊女令群参列候御前而召里見冠者義成向後可為遊君別当只今即彼等 群集頗物●(公のしたに心)也相卒于傍撰置芸能者可随召之由被仰付(云々)其後遊女 事等至訴論等義成一向執申之(云々) ◆ 家元制度というものが現在でも残存している。権威を持った家元が認知することで、 其の流派での立場を得る。中近世には特定業種の団体があって、左官なら左官、鋳物師 なら鋳物師で、弟子を従え「大工」と呼ばれる独立性の強い主体的な存在を、更に纏め る「総大工職」とかが、年頭八朔の祝儀や運上金などを義務づけ統率していた。総大工 職は国毎にいたりした。そして、全国規模で統括する者は、「本所」とか呼ばれた。 「本所」は、荘園領主の関係なんかでも使う言葉だ。元々の領主「本所」は京都の貴 族だったり寺院だったりしたが、年貢取り立ての責任を負う「預所」なんかが間に入 る。また、その下に「下司」とかが介入して実際に取り立てを行う。農民が納めた年貢 は各層の中間段階でマージンを抜かれる。いや、「抜かれる」だけなら良いが、実力を 持つ武士が下司だったりすると、「押領」、上級管理者には鐚一文届かない。天皇など から土地の権利書は与えられていても、中世以降、実際に収入が上がらない状況とな る。 此れと同様に、理念的には特定業種に従事する免許権は「本所」が握っているのだ が、多くは天皇などから裁許された京都の公家であり、時代が下ると形骸化していく。 だいたい同じ国の中で複数が「総大工職」を名乗ったりする。裁判になって双方が証拠 文書を提出しても、偽文書が混じってたりして、紛糾する。「本所」を名乗る公家だっ て、怪しいものだ。 で、近世でも、遊女の「本所」は源頼朝とする説があった。でも、中世の「遊女」と 近世の其れは性格が異なるし、幾ら「本所」といっても、嫡流は三代で断絶しているの で、如何しようもない。結局、江戸府内及び天領の場合、江戸幕府/徳川将軍家の統制 にかかるのだから、「頼朝」で権威付けしつつ、将軍同士で其の関係をも暗示したか。 とにかく、東鑑の記述では、「里見義成」が「遊君別当(管理者)」であったのに、其 の権能を、近世に存在する「遊女」一般にまで広げ、且つ管理者を任命する権限が頼朝 にあったと強弁している。遊女の本所として頼朝を祭り上げ、遊女に権威づけしたの だ。閑話休題。 一体、遊女を支配する者は廓主すなわち忘八者(仁義八行を忘れた最低野郎)の親玉 だと決まっている。頼朝、確かに「忘八者の親玉」みたいなヤツだ。自分はヌクヌク鎌 倉にいたくせに、義仲や平家を実戦で討った弟・源伊予守九郎義経を、死に追い遣る。 吾妻鏡は鎌倉幕府の正史といえるものであるが、正史は其れを書かせた権力者に媚びを 売る。故に吾妻鏡は、鎌倉幕府の敵に回った義経を悪役じみて表現している。が、例え ば、 ◆ 【吾妻鏡第九・文治五年六月】十三日辛丑泰衡使者新田冠者高平持参予州首於腰越浦言 上事由仍為加実検遣和田太郎義盛梶原平三景時等於彼所各着甲直垂相具甲冑郎従二十騎 件首納黒漆櫃浸美酒高平僕従二人荷擔之昔蘇公者自擔其(米に侯)今高平者令人荷彼首 観者皆拭双涙湿両衫(云々) ◆ 幕府の重臣たちが、義経の首を見て泣いている。少なくとも義経を「死後に軽く扱わ れて当然もしくは嬉しい」相手と思ってなかった証拠となりはすまいか。まぁ、梶原景 時は嘘泣きで和田義盛に調子を合わせているだけだろうが、とにかく反義経の立場にな らざるを得ない正史・東鑑にして、義経に対し、ポロリと同情を覗かせているのだ。 ついでに言うと、義経の愛人・静御前は、京から逃れる途中、義経から多くの金銀を 与えられる。供の雑色を属けられ、別れる。其の男どもが金銀を奪って、静御前を雪深 い山中に置き去りにした。如何にか吉野藤尾坂蔵王堂まで辿り着き、衆徒に保護された (第五・文治元年十一月十七日条)。静御前が吉野執行の虜となった情報は十二月十五 日に鎌倉へ届く(同日条。以下同様)。北条時政は翌年二月十三日に、静御前を鎌倉に 連れてくるよう京へ命令書を発信した。三月一日、静御前が母と共に鎌倉に到着した。 安達新三郎の宅に預ける。六日、義経の行方を尋問。静御前は、別れた後のことは知ら ないと答える。二十二日にも詳しく尋問された静御前は、既に妊娠していた。子供の処 分は、生まれてから決めることとなった。 四月八日、頼朝は妻・政子と鶴岡八幡に詣でる。静御前を呼び、廻廊で舞わせようと する。これまでも静御前は病を口実に召しを断ってきた。実は恥辱に耐えられなかった のだ。執拗に呼び出そうとしたのは、政子の方であった。遂に根負けした静御前が此の 日、登場する。演奏は、楽曲に巧みな工藤左衛門尉祐経が鼓、銅拍子を畠山二郎重忠が 担当した。静御前は歌う「よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこいし き」もちろん義経を歌ったものだ。別の曲を歌った後、更に口ずさむ「しつやしつ し つのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな」。列席していた者は、心動かされる。 しかし頼朝は云う、「せっかく儂が言い付けたのだから、関東万歳と歌うべきなのに。 愚痴りやがって……」こら、愚痴っているのは、オマエの方だ、とばかりに政子が遮 る。「私も石橋山合戦の時は、伊豆の山に隠れて生死も知れぬアンタのことを心配した もんさ。静さんも長年愛してくれた義経さんのことを忘れるような女じゃないってこと だよ。それにしたって素晴らしい歌じゃないか。解るわぁー。指の先まで義経さんへの 愛が張り詰め滲んでいるじゃぁない。……だいたいアンタの其のデカ頭には何が詰まっ てるんだい。脳ミソなんて蟻ん子なみなんだから。ほら、大人しく鑑賞(原文「賞翫 」)してな!(意訳)」。原文では頼朝は「于時休御憤」、ニュートラルな表現だが、 単に政子へ口答え出来ずに黙り込んだだけだろう。しかし百日ばかり経って、根に持っ たのか頼朝は、政子の反対を退け、静御前に残酷な仕打ちをする。 ◆ 【第六・文治二年七月】二十九日庚戌静産生男子是予州息男也依被待件期于今所被抑留 帰洛也而其父奉背関東企謀逆逐電其子若為女子者早可給母於為男子者今雖在襁褓内争不 怖畏将来哉未熟時断命条可宜之由治定仍今日仰安達新三郎令棄由比浦先之新三郎御使欲 請取彼赤子静敢不出之纏衣抱臥叫喚及数剋之間安達頻譴責礒禅師殊恐申押取赤子与御使 此事御台所御愁歎雖宥申之不叶(云々) ◆ 理屈は解るが、男児だったら殺せとは、とことん自分に自信がないんだろう。そんな ヤツがリーダーシップを執ること自体が何かの間違いと云うか、組織の不幸なのだが、 これだけ醜く足掻いておいて源家将軍は三代で断絶した。母の常磐御前が体を張って守 り抜いた頼朝・義経兄弟は、許した清盛の甘さを逆手にとって、遂には平氏を潰滅し、 幼女帝・安徳を海の藻屑と消した。皆殺しだ。ついでに弟まで殺して維持しようとした 王権だが、世の中そんなに甘くない。跡継ぎは二代続けて殺されて、断絶した。 ところで、読者をして暗鬱たらしむる上記・悲劇の二カ月前、しんみりする話が東鑑 には載っている。五月十七日から南御堂に参籠していた大姫君が、参籠明けの前日二十 七日、夜になって静御前を招いた。静御前は芸を施し、大姫から禄を賜った。 実は大姫、頼朝の長女だが、幼い頃に源義仲の息子・志水冠者義高と婚約した。数年 の後、義高は殺される。此の参籠の時分で大姫の年齢は、十歳ほどか。志水冠者が五歳 年上として、殺されたのが十二歳の頃、大姫は七歳ばかりだったろうか。ドロドロした 欲情とは恐らく無縁であった。ただ互いに自分にとって特別な存在である許嫁……いや 兄妹の関係に庶かったか。物心つく頃に大姫は、人質の如く頼朝の元に送られた義高 と、数年を共に過ごした。最も純粋な愛の形を夢想する時期であろうか。参籠も、或い は許嫁であった〈お兄さま〉を偲ぶものであったか。純粋な頃の記憶は増幅し、変形し 美化されて、却って確固たるものへと成長していく。……武蔵大塚の或る土豪の娘(ア レでは養女の設定)を思い出す。 元暦元年四月二十一日、先に義仲が勅勘を蒙り義経らに討たれ、事態は変わった。頼 朝は志水冠者を殺そうとする。察知した義高は、いつも一緒に遊んでいた親友・海野小 太郎幸氏を身代わりとして布団の中に残し、自分は女房姿となって館を逃げ出す。「姫 君御方女房囲之出郭内畢隠置馬於他所令乗之為不令人聞以綿包蹄(云々)」、政子・大 姫に仕えた女性達が体を張って逃がしたのだ。十代前半の志水冠者と七歳ほどの大姫、 きっと大姫は冠者に懐いていただろうし、まるで、雛人形の如き一対だったか。二人の 存在は、女房たちの夢そのものだっかもしれない。女房たちが懸命に守ろうとした気持 ちも解る。ところで義高は常に、海野幸氏と双六を「賞翫」していた。朝になると幸氏 は独りで双六を弄び、義高に化け続けた。家臣たちは、今に出てくるだろうと待ってい たが、義高こと幸氏は籠もったまま。晩になって露見したというから、晩飯で呼びに行 ったか。 怒った頼朝は、すぐさま追っ手を差し向ける。捕まえるためではない。「被仰可討止 之由(云々)」。それを聞いた大姫は、「周章令銷魂給」。結局、義高は逃げおおせな かった。二十六日に、「堀藤次親家郎従藤内光澄皈参於入間河原誅志水冠者之由申之此 事雖為密儀姫公已令漏聞之給愁歎之余令断漿水給可謂理運御台所又依察彼御心中御哀傷 殊太然間殿中男女多以含歎色(云々)」。首実検の記事もないので、案外、堀藤次もグ ルで逃がしてたりするかも、と思いたいのだが……。 五月一日、義高の縁者が甲斐・信濃などで蜂起したとの知らせに、頼朝は軍勢を催し た。足利義兼など有力御家人が派遣された。翌二日には頼朝の催促に応じた御家人が、 諸国から続々と集まってきた。そうこうするうち、志水冠者を喪った大姫は憔悴してい く。治まらないのは女の味方・北条政子である。女性に対して「女の味方」とはオカシ イかもしれないが、大丈夫、彼女は頼朝なんかより遙かに雄々しい。 六月二十七日、堀藤次親家の郎従が梟首された。「是依御台所御憤也去四月之比為御 使討志水冠者之故也其事已後姫公御哀傷之余已沈病床給追日憔悴諸人莫不驚騒依志水誅 戮事有此御病偏起於彼男之不儀縦雖奉仰内々不啓子細於姫公御方哉之由御台所強憤申給 之間武衛不能遁逃還以被処斬罪(云々)」。斬られた郎従は哀れだが、守りきれなかっ た頼朝が情けない。また政子も、命令を遂行しただけの郎従の命なぞ、取る積もりは 元々なかっただろう。これは頼朝に対する脅迫攻撃であったに違いない。当然、「郎従 を殺せ」要求の真意は「本当は、アンタを殺してやりたいんだよ」だ。頼朝が、責任逃 れのために、件の郎党を差し出したに違いない。 郎従が斬刑に行われ、十歳以前であったろう大姫は、鬱を晴らしただろうか。そして 一年半後、またしても父のために美青年の叔父・義経が生死不明の行方不明。愛人で、 恐らくは大姫より十歳ばかり年長、麗しき憧れの〈お姉さま〉静御前が捕らえられ、鎌 倉に護送されて来た。四月、もしかしたら静御前を励ますと共に、あわよくばバカ・ス ケベェの頼朝を懐柔させることも期待してか、北条政子は静御前に強要して、歌を披露 させる。上述の通りだ。或いは「関東万歳」とでも歌えば、頼朝は、義経を許さないま でも其の子の命まで奪うことは思い止まったかも知れない。静御前も、恐らく二十歳代 前半であったろうが、耐え難きを耐える、屈従の途を選ぶ可能性だってあった。しか し、静御前は、既に数人の子の母であった常磐御前とは違う。彼女には、義経しかいな かったのだ。頼朝を、怒らせた。 それから五十日ばかり経った五月二十七日、前に掲げた大姫と静御前の密会があっ た。会話の内容は東鑑に無い。しかし、四月八日に見られたような頑なさが、静御前に はなくなっている。この夜の密会あるいは以前に、共に頼朝への憎悪を秘めた静御前と 大姫との間に、何等かの交感があったのではないか。そして、此の憎悪の輪に、もう一 人の女性も繋がっていたかもしれない。女達の憎悪の輪が結ばれたかに見える五月二十 七日から百日余りを過ぎた九月十六日、静御前は母と共に京へと帰る。此の時、政子と 大姫は「依憐愍御多賜重宝」。やはり三人の心は繋がっていたようだ。 前に源二代・三代は無残に殺されたと書いた。頼朝自身も急死している。暗殺疑惑は 根強い。容疑者の一人は妻の北条政子である。この糟糠の妻は、まぁ殺人は犯しちゃい けないと思うのだけれども、確かに「殺したい」ほど頼朝を憎んでいて当然だ。ゲスの 中のゲス頼朝でも、下半身の無節操さだけは一人前だった。次回は、頼朝のゲス振りを 紹介しよう。(お粗末様) ★伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「尻軽もしくはSillyGirl」★ お約束通り、頼朝のゲス振りだ。まずは静御前帰洛から一カ月後の事件。 ◆ 【第六・文治二年十月】廿三日丙申長門江太景国蒙御台所御気色是奉扶持御妾若公(去 二月誕生)事依令顕露也今日景国抱若公隠居深沢辺(云々) ◆ 子供までつくっていたから政子は許すものではない。一方、頼朝は息子を守ることも 出来ず、長門景国は、自身の孫でもあっただろうか、若公を抱いて隠居せざるを得なか った。哀れである。しかし、まだ良い方だ。政子が本気で怒ったら、こんなものでは済 まぬ。 ◆ 【第二・寿永元年六月】一日庚子武衛以御寵妾女(号亀前)招請于小中太家小窪宅給御 中通之際依有外聞之憚被構居於遠境(云々)且此所為御濱出便宜地(云々)是妾良橋太 郎入道息女也自豆州御旅居奉昵近匪顔皃之濃心操殊柔和也自去春之比御密通追日御寵甚 (云々) 【第二・寿永元年十一月】十日丁丑此間御寵女(亀前)住于伏見冠者広綱飯島家也而此 事露顕御台所殊令憤給是北条殿室家牧御方密々令申之給故也仍今日仰牧三郎宗親破却広 綱之宅頗及耻辱広綱奉相伴彼人希有而遁出到于大多和五郎義久鐙摺宅(云々)○十二日 己卯武衛寄事於御遊興渡御義久鐙摺家召出牧三郎宗親被具御共於彼所召広綱被尋仰一昨 日勝事広綱具令言上其次第仍被召決宗親之処陳謝巻舌垂面於泥沙武衛御鬱念之余手自切 宗親之髻給此間被仰含云於奉重御台所事者尤神妙但雖順彼御命如此事者内々盍告申哉忽 以与耻辱之条所存企甚以奇恠(云々)宗親泣逃亡武衛今夜止宿給 【第十一・建久二年正月】廿三日壬申女房大進局沿恩沢是伊達常陸入道念西息女幕下御 寵也奉生若公之後縡露顕御台所殊怨思給之間可令在京之由内々被仰含仍就近国便宜被充 伊勢国歟(云々) ◆ 寿永元年六月・十一月の両記事は続いている。亀前は、性格の良い女性ということに なっている。一年余りをかけて、頼朝との関係を深めている。亀前の性格が良いなら ば、悪いのは頼朝に決まっている。事が露見した時に行った政子の仕打ちが余りに酷い 所を見ると、案外、亀前は政子の信頼を得ていたのかもしれない。可愛さ剰って、憎さ 百倍。北条政子は直情径行で、衆人環視の中で相手を面罵したようだし、或いは、それ 以上の恥辱を与えたか。 ……しかし、何だか不自然だ。六月の段階で、正史が「密通」と明記しているが、密 通だったら隠しておけよ。どうも吾妻鏡、六月時点では、さほど深刻に「密通」を隠蔽 しようと思っていたか、甚だ怪しい。まるで十一月に政子がとった行動を、全く予見し ていなかったとしか思えない。頼朝幕下の中枢が、政子の性格を把握できていなかった とは思いにくい。だいたい権力の一角は政子の父親だ。ならば、六月と十一月の間に、 政子の性格が変わったと考えた方が良いだろう。それは次の事情によって引き起こされ たのではないか。 ◆ 【寿永元年七月】十四日壬午新田冠者義重主蒙御気色是彼息女者悪源太殿(武衛舎兄) 後室也而武衛此間以伏見冠者広綱潜被通御艶書更無御許容気之間直被仰父主之処義重元 自於廻思慮憚御台所御後聞俄以令嫁件女子於帥六郎之故也 ◆ 此処で頼朝の不倫は、未遂に終わっている。亀前を寵愛しつつも、舎兄の未亡人を狙 った頼朝は、人に頼んで艶書を届けた。しかし未亡人は、靡かない。遂に頼朝は父・新 田冠者義重に、娘を差し出せと迫る。しかし義重は、政子にバレたときのことを慮っ て、拒否する。義重は「主」敬称が付けられているけれども、此は特別待遇とでも言う べき扱いであった。強力だったので、拒むことが出来たのだろう。しかし政子には遠慮 している。翌月十二日、政子は男子を出産している。頼朝が舎兄の未亡人を狙ったと き、政子は臨月であったのだ。政子に煩いなく源家の跡取りを産んで欲しいと、義重が 気を遣ったようにも思える。新田は東国源氏の中で重きを為していたので、一族の一員 として責任感・義務感もあっただろう。一方、気遣われた政子は、有り難がったに違い ない。それに引き替えウチの宿六は……殺意を抱いても仕方がない。そして三カ月後 に、亀前らに対する蛮行があった。新田の筋から話を聞いた政子が、頼朝に不倫をせぬ よう迫ってもいたか(どうせ頼朝のことだ、不倫をせぬと誓約させられただろう)。と にかく此の不倫未遂事件の前後で、頼朝の性的放埒に対する政子の態度が豹変している ように見える。やはり、頼朝は、最低だ。 頼朝の愛人は次々と政子に見つかり、一族を巻き込んで不幸になった。デカ頭の三枚 目、性格は最悪の忘八者、権力を握っているというだけで頼朝に惹かれたのなら、Si llyGirl別に不幸に陥っても同情なんざしないのだが、権力をカサに着て強制さ れたのなら、甚だ哀れだ。その「哀れ」に関する責任の一半は政子にあるけれども、は なから頼朝が、流人風情で実質的な婿養子であったにも拘わらず無節操な下半身を晒し て律することがなかったこと自体、十分罪するに足る。だいたい政子が怖いなら、相手 の女性のことを慮って自粛する方向だってあり得るのだが、忘八者には思いもつかなか ったらしい。暗愚の御手本みたいなヤツだ。そういえば、頼朝は、西行法師とも会って いる。まだ鎌倉に静御前が抑留されていた文治二年八月であった。 ◆ 【第六・文治二年八月】十五日己丑二品御参詣鶴岡宮而老僧一人徘徊鳥居辺恠之以景季 令問名字給之処佐藤兵衛尉憲清法師也今号西行(云々)仍奉幣以後心静遂謁見可談和歌 事之由被仰遣西行令申承之由廻宮寺奉法施二品為召彼人早速還御則招引営中及御芳談此 間就歌道并弓馬事条々由被尋仰事西行申云弓馬事者在俗之当初愁雖伝家風保延三年八月 遁世之時秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失依為罪業因其事曾以不残留心底皆忘却了詠 歌者対花月動感之折節僅作三十一字許也全不知奥旨然者是彼無所欲報申(云々)然而恩 問不等閑之間於弓馬事者具以申之即令俊兼記置其詞給縡被専終夜(云々)○十六日庚寅 午剋西行上人退出頻雖抑留敢不拘之二品以銀作猫被充贈物上人乍拝領之於門外与放遊嬰 児(云々)是請重源上人約諾東大寺料為勧進沙金赴奥州以此便路巡礼鶴岡(云々)陸奥 守秀衡入道者上人一族也 ◆ 頼朝が和歌などに就いて「芳談」したとはあるが、別れ際に西行へ銀の猫を渡す。此 の猫に就いて色々と面白い説はあるが、取り敢えずは、単純な俗物野郎・頼朝が与えた 贈り物を、西行が「はいはい、ありがとうございます」と拝領しておきながら、外で遊 んでいた幼児に与えた、とだけ考える。これでも両者の対比が鮮やかで、十分に面白 い。 因みに、頼朝は文治五年七月に奥州藤原泰衡を討つため軍を起こす。珍しく自身で出 馬した。八月二十二日には、既に逐電した泰衡の館に入った。焼け落ちた一角、坤に一 宇の蔵が残っていた。中には「沈紫檀以下唐木厨子数脚在之其内所納者牛玉犀角象牙笛 水牛角紺瑠璃等笏金沓玉幡金花鬘(以玉餝之)蜀江錦直垂不縫帷金造鶴銀造猫瑠璃燈炉 南庭百(各盛金器)等也其外錦繍綾羅禹筆……後略」、此処にも銀の猫がある。 ついでに云えば、主が主なら臣も臣だ。 ◆ 【第六・文治二年五月】十四日辛卯左衛門尉祐経梶原三郎景茂千葉平次常秀八田太郎朝 重藤判官代邦通等面々相具下若等向静旅宿玩酒催宴郢曲尽妙静母礒禅師又施芸(云々) 景茂傾数盃聊一酔此間通艶言於静静頗落涙云予州者鎌倉殿御連枝吾者彼妾也為御家人身 争存普通男女哉予州不牢籠者対面于和主猶不可有事也(云々)……後略 ◆ 甚だしいセクハラだ。梶原三郎景茂は、景時の三男だ。景時は、軍船に逆櫓を付ける 付けないから発し、義経を目の敵にした。景時の讒言に依って、頼朝は義経を憎むよう になったともいう。真に受ける暗愚な頼朝の存在なかりせば、如何でも良い存在ではあ るけれども、互いに補強し合ったから堪らない。梶原家は、鎌倉で勢力を持つに至る。 此の様な背景があって、三郎景茂は「義経の妾」を我が者にし、義経を更に辱めようと したのだろう。全く以て、ゲス野郎だ。梶原景時で思い出したが、こんなのもある。 ◆ 【第十三・建久四年十一月】廿八日辛卯奏上被帰洛今夕越後守義資依女事梟首所被仰付 于加藤次景廉也其父遠江守義定就件縁座蒙御気色(云々)是昨日御堂供養之間義資投艶 書於女房聴聞所訖而顧後害敢無披露之処梶原源太郎左衛門景季妾(号龍樹前)語夫景季 又通父景時景時言上将軍家仍被糾明真偽之時女房等申詞符号之間如此(云々)三年不窺 東家之蝉髪者一日豈遭白刃之梟首哉 ◆ 密告魔人・梶原景時の面目躍如だ。確かに非は義資にあったかもしれぬ。しかし、別 段、実害があったようにも書いていない。自分たちのことは棚に上げて、人様を云々す る卑しい趣味は、如何にかしろよ。勿論、破廉恥な頼朝−梶原体制は早晩、破綻するの だが。……待てよ、臣下ばかりでなく息子も変なことしてなかったかと吾妻鏡を捲れ ば、こんなのがあった。 ◆ 【第十六・正治元年七月】廿日庚戌申尅以後雷鳴甚雨及深更月明至暁鐘之期中将家遣中 野五郎能成猥召景盛妾女点小笠原弥太郎宅被居置之御寵愛殊以甚(云々)是日来重色之 御志依難禁被通御書御使往復雖及数度敢以不諾申之間如此(云々) 【同】廿六日丙辰甚雨雷一声及晩属晴入夜召件好女(景盛妾)於北向御所(石壺在北方 也)自今以後可候此所(云々)是御寵愛甚故也又小笠原弥太郎長経比企三郎和田三郎朝 盛中野五郎能成細野四郎已上五人之外不可参当所之由被定(云々) 【同八月】十九日己卯晴有讒佞之族依妾女事景盛貽怨恨之由訴申之仍召聚小笠原弥太郎 和田三郎比企三郎中野五郎細野四郎已下軍士等於石御壺可誅景盛之由有沙汰及晩小笠原 揚旗赴藤九郎入道蓮西之甘縄宅至此時鎌倉中壮士等争鉾競集依之尼御台所俄以渡御于盛 長宅以行光為御使被申羽林云幕下薨御之後不歴幾程姫君又早世悲歎非一之処今被好闘戦 是乱世之源也就中景盛有其寄先人殊令憐愍給令聞罪科給者我早可尋成敗不事問被加誅戮 者定令招後悔給歟若猶可被追罰者我先可中其箭(云々)然問乍渋被止軍兵発向畢凡鎌倉 中騒動也万人莫不恐怖広元朝臣云如此事非無先規鳥羽院御寵愛祇園女御者源仲宗妻也而 召仙洞之後被配流仲宗於隠岐国(云々) 【同】廿日庚辰陰尼御台所御逗留于盛長入道宅召景盛被仰云昨日加計議一旦雖止羽林之 張行我已老耄也難抑後昆之宿意汝不存野心之由可献起請文於羽林然者即任御旨捧之尼御 台所還御令献彼状於羽林給以此被申云昨日擬被誅景盛楚忽之至不義甚也凡奉見当時之形 勢敢難用海内之守倦政道而不知民愁娯倡楼而不顧人謗之故也又所召仕更非賢哲之輩多為 邪之属何況源氏等者幕下一族北条者我親戚也仍先人頻被施芳情常令招座右給而今於彼輩 等無優賞剰皆令喚実名給之間各以貽恨之由有其聞所詮於事令用意給者雖末代不可有濫吹 儀之旨被尽諷諌之御詞(云々)佐々木三郎兵衛入道為御使 ◆ 結論を言えば、此の事件に、北条政子の不幸が凝縮しているよう思う。総て頼朝のセ イだ。夫に不満を抱く女性が、子供を溺愛し過大な期待を懸けつつも甘やかす、なん て、よく・ある・話、だ。甘やかせば、子供は易きに流れる。此処までは、まぁ、あり がちだし、筆者だって御立派な人間に育ったわけでないから、不問に付す。しかし、ま だしも頼朝がマトモな奴なら被害は最小限だったろうが、縷々述べてきた如く、最低野 郎だ。子は親の背を見て育つ。政子には頭の上がらぬ頼朝も、息子の前では、自由濫望 に敢えて振る舞い、「これが男らしさだ!」なんて、恐妻症状の典型例に過ぎぬが、気 取って見せたんぢゃないか。 如何にか息子の暴虐な愚挙を制止した政子であったが、膨れ面をして引き下がった愚 息の顔が忘れられない。「あの子は、きっと又、何かしでかす」。当事者の景盛を呼び 寄せ、懇願する。妾を奪われたとしても、自分に反逆の志がないという証文を、馬鹿息 子に出しておきなさい。次は、きっと、何でもない事に言いがかりをつけ、反逆者とし て攻撃してきますよ。そうなったら鎌倉は大騒動になって、幕府が転覆するかもしれな いのです。景盛は、こう反論したかもしれない。反逆者の汚名を着ても、アイツだけは 許せない、詫び証文なんて誰が書くか。アベコベぢゃないか。対する政子の口調も鋭か った。あの子に触れることは、誰にも許しません。……私以外の誰にも。景盛も口答え は出来なかった。恐らく、政子の真意が伝わったのだ。自分以外の誰にも手を出させな いということは、いざとなれば自分が手を下すとの謂いだ。この母親の決意に、誰が反 論できようか。しかし、母の悲壮な決意は、裏切られる。 こんな妄想を働かせる足掛かりは、馬鹿ボン二代・三代将軍が横死した事実に拠る。 将軍三代の変死の陰には、政子の実家、北条家があったともいう。だいたい此の年の一 月に頼朝は死に、頼家が継いだのだが、吾妻鏡に拠れば、三カ月後の四月、既に政子は 頼家を政務から放し、有力御家人で構成する評定衆を決定機関とした。息子のことを理 解していた母親は、権力を握っているとボロが出て、総てを失うと判断したのだろう。 実権はなくとも、何不自由なく暮らす方が良い。も一つ妄想に輪をかけて云えば、政子 の発想は、優れたものだった。中世、南北朝期なんかを経るうちに、天皇の権力は空洞 化していく。しかし権威の源泉としては存在し続ける。天皇の名の下に、しかし天皇の 責任から離れて、権力を行使する者が存在するようになる。鎌倉将軍三代の後には北条 氏があり、室町幕府があり、織田信長・豊臣秀吉、江戸幕府、そして近代の内閣・議会 がある。実際の権限を下位の者にソックリ譲っておけば、失敗があっても切り捨てれば 済む。後は知らん顔して、次なる実力者を迎えれば良い。 だいたいからして、頼朝をはじめ全国の源氏が蜂起する契機となった事件は、源三位 頼政の軍事行動だ。頼政は、以仁王の綸旨を奉戴していた。形式上は、皇族の命令だっ たのである。平家が朝敵に類する者となった。でも蜂起した頼朝に対して、追討の宣旨 が出される。追討しちまえば良かったのだが、何時の間にやら頼朝と敵対していた平家 追討の宣旨が出され、義経追討の宣旨が下され、奥州追討の宣旨まで頼朝は出させよう とした。天皇/上皇/法皇は、最終的には制度的責任を追及されることなく、入れ替わ り立ち替わり、無責任を続けた。朝廷は、御神籤の自動販売機と一般に、金なり圧力な りを積んできた者に対し、オートマチックに都合の良い詔勅を下す。文面は同様、ただ 宛先と討伐対象が書き換えられるだけ、だから結果的に間違った詔勅が発給されたとし ても、自動販売機には罪がない。金を入れボタンを押した者にのみ、責任が掛かってく る。象徴制/無責任制である。此の無責任制を、政子は幕府に導入しようとしたのでは ないか。唯一無二の存在・将軍に全権を委ねていれば、失敗したとき幕府もろともコケ る。実権を評定所に移管し合議制として責任を分散、且つ北条氏が評定所を操れば良 い。まぁ北条一族の入れ知恵かもしれんが……。 しかし、落ち着いて考えると、自動販売機のボタンを押した者にのみ責任があるとす れば、何故に発給された詔勅に、ボタンを押した者自身の命令書より高い効果があるの かが、解らなくなる。しかも、其の差が、結果に及ぼす影響は甚大である。八犬伝の舞 台となった中世後半で有名な例を挙げると、北近江・北陸の浅井・朝倉勢によって織田 信長が絶体絶命の危機を迎えたが、天皇に和睦詔勅を出させることで切り抜けた。信長 の実力が十、浅井・朝倉が十一とすれば、詔勅の力は二に過ぎなかったかもしれない。 でも、責任が信長の五分の一だからって不問に付す、とは決して言えない。十は小なり 十一、信長だけでは浅井・朝倉に絶対値的に敵わなかった。朝廷が介入して信長に二を 足すと、十二は大なり十一、浅井・朝倉を結果的に亡ぼすことになる。「五分の一の責 任」どころではなく、時局に決定的な影響を与えた、大きな責任があると云わねばなら ぬ。極めて単純な理屈だが、歴史の中で、此の偉大なる矛盾は、何となく見逃されてき た。此の矛盾を矛盾とせぬ所が前近代性ってヤツなのだが、前近代に生きた政子の「前 近代性」を論っても無意味だ。当時としては、卓見であったろう。頼朝の浮気を許さな い、義経に対して操を守った静と深く共鳴する、そんな政子だったからこそ、通常なら 何となく見過ごす此の矛盾を、明らかに認識したのだろう。自分の夫・頼朝に追討宣旨 が下ったと思ったら、次には夫の敵が、そのまま朝敵となる。「単なる忘八者、尻軽ぢ ゃん!」。 其処で「尻軽」にも得な面があると悟ったのだろう。生まれついての尻軽に、尻軽の 制度的論理は解らない。彼女だからこそ、論理として受け止め、利用出来たのだ。その うち起こった、承久の乱。鎌倉幕府側は、幕府追討軍大将・廷尉胤義(三浦義村弟)の 行為を「叛逆」と呼び、政子は宣旨を「依逆臣之讒被下非義綸旨」と詰る(承久三年五 月十九日条)。 これで負けたら単なる逆賊だが、勝っちゃったから、「謀叛」の名目で幕府追討の命 に従った者達を次々討ち、捕らえ、所領を没官し、挙げ句の果てに上皇たちまで配流、 践位したばかりの帝も廃した。天皇だろうが太上天皇だろうが、征夷大将軍は治安を乱 す者(っていうか自分に敵対する者)を「謀叛」の名目で処罰できるのだ。〈天皇御謀 叛〉である。政子は当時六十五歳ぐらいだったか、健在であった。「天皇御謀反」、相 手の正体を見切っていなきゃ、この発想は生まれない。(お粗末様)
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE