●長編 #0132の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
窓ガラスに頬を押し当てた杉本勝は、その冷たさに驚いたかのように、顔を すぐさま引っ込めた。五分刈りの頭を掻きながら、芝居がかった震え声で言う。 「なんか、えらい吹雪になってきたで」 彼の言葉の通り、窓の外は、暗がりでもはっきり分かるほど大粒の雪が、絶 え間なく降っていた。それも、横殴りに近い。 部屋の中央やや上座寄りの位置、こたつに当たって、トランプカードを切っ ていた香取竜造が首を左に曲げた。手を止め、窓の向こうに目を凝らす。 「着いてからずっとですねえ」 眼鏡のブリッジを太い人差し指で押し上げると、再びカードを切り出した。 外見によらず、手さばきはいい。続けて辟易した口ぶりで呟く。 「いや。ずっとどころか、一層ひどくなってる。折角のお泊まりが、台無し」 香取の左右及び向かいには、三人の男女が思い思いの姿勢で、退屈に身を任 せていた。皆、トランプ遊びに飽きたという点は共通している。 「ホワイトクリスマスならぬ、ホワイトバレンタインてとこね」 江上咲子が両手をつっかい棒にして、長い足を伸ばした楽な格好のまま、窓 外を見やった。 「神様も粋な計らいをする……と言えば聞こえはいいけれども、ムードを醸し 出すを超えて、これは降りすぎだわ」 「そうや、バレンタインと言えば」 杉本が窓から離れ、江上の後ろまで戻る。 「今年は義理チョコ、もらえへんのかな」 「昨今の不況により、そのしわ寄せがこういうところにも来てるのよね。本命 一本に絞ることにして、他の人には我慢してもらうことにしましたっ」 片手を挙げ、元気よく答えた江上。愛らしい頬の上で目を細め、笑っている。 対照的に、杉本は大げさに頭を抱えた。 「そんな殺生やあー、副部長! 今の俺にとって、唯一確実にもらえる口だと 信じとったんやで」 「まあまあ。そう喚かないでくださいよ、杉本先輩。とりあえず、誰が本命な のか、教えてもらいましょうよ。江上先輩の相手って、俺らの知ってる奴です か?」 寝そべっていた脇戸健也が、おもむろに身体を起こし、江上ににやにやと視 線を送る。中肉中背だが岩のような体格の持ち主に、笑顔は似合っていない。 「一年生が生意気ねえ。そうね。知ってる人よ」 「ほほお。もしかすると、ここに来てますとか?」 「バレンタインを控えて、一緒におらへん訳ないやろ」 脇戸に続き、杉本が決め付ける口調で言った。いや、すでに察しは付いてい るといった風情だ。果たして江上は、またも目を細め、可愛らしく答えた。 「もちろん、来てる。直接渡すんだから」 「そりゃ悪かった」 最後まで横になったまま、関心なさげだった東尾亮司が、顔の向きだけ換え て、口を開いた。目の辺りに掛かった長髪を指先で払い、言葉を重ねる。 「俺達、いや、少なくとも俺は邪魔者だったな」 「あほらし」 杉本が唇を尖らせる。事情を知らない一年生達の目が集まる中、彼は東尾の 後ろに立って、その肩を揉んだ。 「副部長が隠す素振り見せたから、しばらく話を合わせたったけど、そんなし ょうもないことを言うんやったら、さっさとばらしたる。見たで」 「ほう。何を」 冷静な声で応じたが、途端に表情がにやける東尾。色男がやると嫌味でも、 似合っているから、際どいところでセーフか。 杉本は、江上、東尾の順番に指差して、「こっちが、こっちに、何や赤い箱 みたいなんを渡すとこを、この目で見たんや」とぶちまけた。 「なーんだ」 香取、脇度らがそんな声を上げる。東尾と江上に「ひどいですよ」と、じと 目を向けた。 「あれ、本命チョコだったのか。まだ開けてないから、分からなかった」 東尾のとぼけた返事。江上に怒った様子は微塵もなく、こたつの布団を顎ま で引き寄せ、ふふふと幸せそうに笑顔をなす。 「杉本、おまえも人が悪いな。覗き見とは感心しない」 「うるさい。ここに着いてすぐ、あんまり寒いんで便所行った帰り、偶然見た だけや言うねん。あんな中途半端にひと気のない隅っこで、こそこそするなや。 公認みたいなもんなんやから」 「公認されてても、公開する気はないですよ、杉本クン。まあ、この気持ちは、 君には分からないかもしれないが。ふっふっふ」 「あー、腹立つ!」 「お二人とも、そんなことで言い合わなくたって」 止めに入った香取だが、身体が小刻みに震える。笑いをこらえているようだ。 「東尾部長のおかげで、こんなきれいで立派な邸……別邸ですか、使えるんだ から。多少のことは我慢しないと」 「香取君。父親のおかげであって、俺自身には何にもないさ。ここをきれいに してくれるのも、管理人夫婦のおかげ。一時的とは言え、彼らを追い出すとい うひどいことをした上に、我々の今の幸せが成り立っている訳さ」 東尾はいわゆる社長の御曹司で、物的には相当満たされている。複数の家庭 教師に鍛えられて成績優秀である上に、運動もテニスや剣道をこなすのに加え て、スキューバダイビングにスカイダイビングを趣味とするスポーツ人間だ。 人によっては、超常現象好きなところを欠点と見なすかもしれないが。 「僕らからすれば、裏事情なんて知りませんから、一緒です。それに何と言っ ても、東尾先輩が信頼されてるからこそ、こうして部員だけで外泊できる」 「みんな、楽しそうに何騒いでんですー? ちょっと手伝ってくださいよー」 キッチンの方から聞こえてきたのは、新たな女性声。ややハスキーで、甘え た感じのそれは、片瀬夏樹のものだ。彼女は返事を待つことなく、大きな丸い お盆を持って、現れた。お盆の上には、背の高いグラスや、スナック菓子を持 ったバスケット、サラダを山盛りにした木の器、その他諸々の軽食が載ってい る。 「おー、サンクスサンクス。くじ引きで決まったとは言え、一日、ご苦労はん」 杉本が妙なアクセントで言い、腕を伸ばす。片瀬は一年上の先輩にも遠慮の ない様子で、ずいっとお盆を押し付けると、 「パスタとシチューは、あとで来ますから」 と告げた。そして、肩越しにキッチンを振り返る。アコーディオンカーテン が邪魔をして、中の状況を完全に見通すのは無理だ。 「悦子せんぱーい。どんな感じです?」 耳の辺りで茶色の跳ねっ毛をいじりながら、キッチンの方に聞いた。くぐも った声で、「もう少し」と返事があるまで、五秒近い間があった。さらに約三 秒後、おかっぱ頭の宮下悦子が顔だけ覗かせ、「固めでいいんだったね、みん な?」と念押しする口調で聞いてきた。何人かが声を揃えて、応の返事。 お盆をテーブルに置いた杉本に、片瀬が、「ほらほら、力仕事くらい、手伝 ってくださいな」と手で追い立てる仕種をした。それは他の男性陣にも及ぶ。 「サラダ、うまそうだな」 東尾が舌先を覗かせ、唇を舐めた。江上が、「あなたの場合、サラダ自体よ り、その上に散らしてあるナッツのスライスに目がないのよね」と、からかい 半分に告げる。 「そうなんですか? それならサラダはほとんど差し上げますから、シチュー の肉を優先的に回してくださいな」 冗談めかして頼んだ香取はトランプを置き、きちっと揃えてから素早く立ち 上がった。他の男子部員に続いてキッチンに向かう途中、窓に目を向ける。 「スキーができなくなるのは我慢するとしても、UFO探しまで無理っぽいな」 「おお? えらく熱心じゃないか」 部長に冷やかされ、香取は大げさにため息をしてみせた。推理研がなくて、 同じミステリと読める超常現象研究会に仕方なく入った香取は、超常現象否定 派と見なされがちだ。「僕は慎重派ですよ」が、彼の口癖である。 「わざわざ土日を潰してまで、目撃多発地帯に来たのに、空を見上げもせずに 帰るのは、もったいないじゃないですか」 「この天気や。雪と見分けつかへん」 杉本が空の平皿を何枚か持ち出して、テーブルの角に置く。 「それに正直言うて、俺、寒いの苦手やねん。内心、これで大っぴらに家の中 に閉じこもっとれると喜んどる」 「口に出したら、内心、じゃないよな」 呆れつつもそう指摘した部長の前で、杉本はオーバーに「あ、しもた」と頭 を掻いてみせる。 「もう、口じゃなく、手を動かして!」 一年生の片瀬が、声を張り上げた。 本来なら、夕食後しばらくしてから外でUFO観測(出現するかどうか分か らないが)の予定だったが、あまりの荒天に変更を余儀なくされた。代替のも のを用意していなかったのだから、中止と表現すべきかもしれない。 「遊びに来てて、こないに宿題に集中できるとは思わへんかったわ」 杉本が鉛筆の尻で、自身のこめかみ辺りをとんとんと叩く。空いている右手 は、こたつの下だ。 「改めて思うけど、タツゾーって、かしこいなあ」 片瀬が掠れ気味の声で言いつつ、香取の帳面を覗き込んだ。同学年が相手だ と、言葉遣いから女性っぽさが薄まる。 「うまいこと言って、答を見ないように。労働者からの搾取はいけない」 「いいじゃん。減らないものなんだから」 「減るもんじゃなし、と言えないかな。それじゃまるで、新しい言葉を捻り出 したがる新人作家みたいだ」 「私は誰かさんと違って、小説なんて滅多に読みませんから、日本語に不自由 してるんですっ」 「それはいけない。人生の楽しみの数パーセントを失うことになるから、ぜひ、 読むべき」 「偉そうな喋り方しちゃって。だいたい、あんただって、高校に入って初めて、 推理小説に目覚めたんでしょうが」 「うん、受験勉強の合間に、気分転換のつもりで読んでたらね。片瀬さんより も先に目覚めて、幸福だと思ってるよ」 「おまえら、仲ええんやな」 突然、杉本が水を向けてきた。香取と片瀬のやり取りをずっと聞いていたら しい。見れば、江上もにこにこしている。ちなみにこの副部長は、とうに宿題 を済ませたらしく、四月の新入部員勧誘のための資料作りとして、奇術で再現 できないであろう超能力現象をリストアップしているところだ。 「とんでもない」 片瀬が即座に否定したのに続き、香取はちょっとした意趣返しに出た。 「仲がいいと言ったら、部長と副部長でしょう。いつからの付き合いですか?」 「小一のときから、ほとんど同じクラスでね」 江上は嫌な顔一つせず、軟らかな笑みを見せた。昔を思い起こしているのか もしれない。 「十時半か」 壁掛け式の大きな時計を眺め、脇戸がぽつりと呟いた。各自お喋りしながら ではあったが、かれこれ二時間、勉強や部活の資料作りに勤しんだことになる。 ただし、この中に東尾の姿はない。食後程なくして、疲れが出たみたいだと皆 に断りを入れ、自分の部屋で休んでいる。 「ジュースでも用意しましょうか」 宮下が穏やかな調子で、場に聞いた。返事がまだない内から、片瀬は反応し、 立ち上がる。今日一日、食べ物関係の当番は宮下と片瀬の二人なのだ。 「待っ取ったで、そう言い出すんを」 杉本が喜色を浮かべ、歯を覗かせた。 「こっちから頼んだら、角が立つ思うてな。自主的に動いてくれるんを待っと ったんや」 「それはそれは、お気遣いをありがとうございまーす。さあ、宮下先輩。行き ましょ。早くしないとまた文句を言われます」 「ええ、そうね」 当番達は足早に居間を離れ、キッチンに入った。物音が聞こえる。やがて、 片瀬がお盆にお菓子と果物、人数分の紙コップを載せて、引き返してきた。と 思ったらすぐにキッチンに舞い戻り、今度は一.五リットル入りのペットボト ルのジュースを持って来た。 「東尾君には、私から運んでおくから」 宮下が言い置いて、すいすいと廊下を進む。それに気付いた江上が、慌てて こたつを出ようとした。 「それなら私が」 「だめですよ、先輩」 脇戸と片瀬が腕を広げて止めた。跪く格好だった江上は急ブレーキを余儀な くされ、小さくしりもちをつく。 「あ、あなた達ねえ」 「いいじゃないですか。今日の当番は私と宮下先輩なんですから、任せてくだ さい。おのろけ話は、もうお腹いっぱい、ごちそうさまって感じなんですよ」 そう言われて、さすがに恥ずかしくなったか、赤面した江上は、資料作成も 放り出し、こたつに入ると、片瀬達に背を向けた。 「分かったわよ」 副部長がふてくされ気味にそう呟いた刹那、廊下の方から騒々しい足音が聞 こえ、宮下が掛け戻って来た。 皆が注目する。だが、当人は声が出ないでいる。呼吸が荒い。こんな有様の 宮下を見るのが珍しいらしく、口のよく動く杉本でさえ、何も問えずにいた。 「東尾君の部屋の様子が、おかしいの」 「え。おかしいって、どういう?」 間髪入れずに反応したのは、もちろん江上。宮下は深呼吸を挟んで、「いく らノックしても、返事がないのよ」と答えた。 ドアの鍵はロックされていなかった。 蛍光灯が煌々と灯る。青白く照らされた室内。寒々とした見た目とは反対に、 暖房がよく効いて、温かかった。薄型のエアコンが設置され、異常なく稼働し ているのが分かる。 部屋の中央には、洋風の文机。その上に、包装紙を皿代わりにして、食べか けのチョコレートがいくつか。金色の細いリボンが硬く結ばれ、机の隅に置い てある。 奥の方には、水槽があって、ポンプが空気を送り続けている中を、何匹かの 魚がゆらゆらと泳いでいた。横には、ガラス戸付きの書架にクローゼットが並 ぶ。 だが、この部屋の主は……。 「だめ……みたいです」 香取は首筋や手首の脈を診たり、鼻の下に人差し指を宛ったり、あるいは眼 球を観察したあと、首を左右に、力無く振った。 「死んで、ます。蘇生も難しい」 「いい加減なことを」 江上が悲鳴にも似た調子で鋭く言い、香取を押し退けて、部長の身体に取り 縋った。さすがにわんわん泣きはしないが、東尾の衣服を力一杯掴み、上下左 右斜めに引っ張る。さらに押したり引いたりしながら、彼氏の名前を呼び続け た。 「亮司、亮司。亮司! 目を開けなさいってば!」 「江上先輩、気持ちは分かりますが、部長の死は恐らく、毒です」 香取の声など耳に入らないのだろう、江上は東尾の身体を何度も揺さぶり、 呼び掛ける。誰も止めに入れない、そんな雰囲気ができあがりつつあった。 だが、江上が東尾の顎を上げさせ、深く息を吸い込んだのを機に、香取が慌 て気味に割って入った。 「江上先輩、まさか人工呼吸を?」 「そうよ。助かるかもしれない」 「いけません。東尾先輩の死因は、ほぼ間違いなく経口毒です。口に口を当て たら、江上先輩まで危険です」 「そんな毒なんて、拭き取れば」 「完全に拭き取れるとは思えません。加えて、即効性の極めて危険な毒だと考 えられます。それに何度も言いますが、毒を飲んでこの状態では……蘇生は見 込めません、多分」 後輩からの諭すような台詞に、江上は奥歯を噛みしめたようだった。視線を 遺体となった東尾に落とす。と、彼女の身体が小刻みに震え出していた。 「どうしたらいいのよっ」 掴み掛からんばかりの勢い。目を剥き、髪を振り乱している。香取も気圧さ れ、半歩退く。 だが、次の瞬間、江上はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。そして、噛 み殺した泣き声が洩れてくる。 「えっと」 香取は周囲を見渡し、杉本に目線を向けた。 「あの、杉本先輩。副部長を部屋に連れていって、休ませてあげてくれません か。そうした方がいいように思うんで……」 「ああ。せやけど、こういう役は、男よりも女の方がええんとちゃうか」 「それもそうですね」 軽くうなずき、片瀬に向き直った香取。 「悪い。頼む」 「かまわないわ。任せておいて」 しっかりした口調で請け負うと、片瀬は進み出て、江上と同じようにしゃが んだ。そして小さな声で二言三言話しかける。程なくして、江上が立ち上がっ た。片瀬がそこに寄り添うような形でサポートし、惨劇の場を出て行く。 が、すぐさま片瀬が一人で戻って来た。ドアのところで手を差し出す。橙の モノカラーのハンカチが握られている。 「これ、使って。東尾さん、あのままにしてちゃだめよね」 「ああ、そうか。サンクス」 ハンカチを渡すと、片瀬は今度は足早に去って行った。香取は受け取ったば かりのハンカチを広げ、東尾の顔に被せた。黙祷のような空気になりしばし、 微妙な沈黙の時間が生じる。 それを破ったのは、脇戸だった。 「香取。何の証拠があって、毒だなんて言い出したんだ?」 杉本も「せやぞ」と追随する。 「おまえ、推理小説好きが高じて、妄想生み出したんちゃうか? 毒やいう理 由を言うてみ。勘とか言い出しよったら怒るで。根拠もないのに江上にショッ キングなこと、聞かすんやない」 「勘ではありませんよ。アーモンドの香りがしたんです」 「は? アーモンドがどうしたって?」 再び脇戸。香りと聞いて無意識の内にか、鼻をひくつかせている。 香取は丁寧な物腰のまま続けた。 「青酸系毒物の特徴的な匂いです。推理小説ではお馴染みの常識なんですよ」 説明を受けて、杉本や脇戸は、遺体へと近付いた。宮下悦子だけは、一.五 リットルサイズのペットボトルと、ビニール袋に入った紙コップの束を持った まま、唖然とした態度で立ち尽くしていた。 「口の辺りから匂ってきています。今はもう弱まったかもしれませんが」 香取が言ってハンカチを持ち上げると、男二人は、そっと探るような仕種で、 東尾の口の前に、顔を寄せた。身長差を滲ませ、鼻を利かせる。 「確かに、香ばしい匂いがする」 「うむ。アーモンドや言われたら、アーモンドやな」 合点した風に首を何度か縦に振り、脇戸と杉本は振り返った。香取もまた一 つ、大きくうなずくと、ハンカチを元のように掛けてから、「警察に届けない といけません」と宣した。 「何でや。救急車呼ぶんやったら、一一〇番やのうて、一一九番やろ」 「いえ。さっきも言いましたように救命措置は、手遅れです。そうではなくて、 殺人の疑いがありますから」 「……殺されたと言いたいんか」 さすがに声量を落とす杉本。香取は平板な調子で応じた。 「事故の可能性も、なきにしもあらずです。ただ、青酸系の毒物を誤って口に 入れるような事故は、まず起こらないでしょう。青酸カリにしろ青酸ソーダに しろ、足が付かないように調達するのが大変ですから」 「しゃあないな」 杉本は一度腰を折り、自らの両膝を手のひらで、ぱんと叩くと、気合いの入 った顔つきになった。 「警察に電話してくるわ。おまえら、見とってくれ」 こう言い残し、部屋を出て行った。土地柄に加えて天候のせいで、携帯電話 は役に立たない。この邸で唯一の電話は、昔ながらの配置と表現してよかろう、 玄関から上がってすぐのところにあった。 部屋に残った三人の内、宮下は相変わらず、茫然自失の体であるが、意識は しっかりしているらしく、沈黙を保ったまま、立っている。 「宮下先輩、ペットボトルと紙コップ、下ろしたらいいんじゃないですか?」 「え?」 香取が声を掛けるが、宮下は言葉の意味を解せなかったようだ。仕方なく、 同じ意味のことを繰り返す。 「だから、ペットボトルをずっと持っていると、重さで手が疲れるんじゃない かと思うんですが」 未開封のペットボトルを指差してやると、宮下はようやく理解できた。床に 置くと、残る紙コップの束を胸元で抱える格好に持ち直した。 「紙コップも置けばいいのに」 「汚れるといけないから……」 「ああ……そうだね。毒が使われた部屋だったんだ。下手に紙コップを置いた ら、付着する恐れがある」 納得の意思表示をした香取に、脇戸が話し掛けた。 「毒となると、食べ物か飲み物に入っていたということだよな」 質問に首肯する香取。意見を聞きたいのか、黙っている。 「俺が見たところ、ここにある食べ物は、机の上のチョコレートぐらいしかな い。飲み物はなし」 脇戸の視線が動く。テーブルには、赤い包装紙とナイロンのような透明な包 みを広げた上に、様々な形をしたチョコレートがあった。白と焦げ茶の二種類 が、明瞭なコントラストを生んでいる。手作りだとすれば、大した腕前と評価 してよかろう。 「おまえの言う通り、まず、チョコレートに疑いを向けざるを得ない」 「本当に毒が入っているのか、調べられないか?」 「警察に任せればいいんじゃないか」 「早く知りたいんだ。おまえだってそうだろ? 推理小説の探偵に憧れてるじ ゃないか」 「安全のためにも、早く知りたいのは物の道理ってやつだな。うーん……熱帯 魚を犠牲にすることになる」 水槽を見やる。東尾が飼っていた熱帯魚がいた。青白い光に浮かび上がるよ うな水の空間の中、青や緑や黄色、銀に黒といった鮮やかな彩りの魚達が、主 の死を知ることもなく、踊り泳いでいる。 「香取、あの魚を実験台にするって? かわいそうとかどうとか言う前に、勝 手な真似、できないだろ。他人の魚だぜ」 「しかし、飼い主が死んでしまったのだから、断りの入れようがない」 ドライな口ぶりの香取に、脇戸は黙った。唇を噛む仕種を見せる。相手の言 葉を検討しているらしい。静かになった一瞬の後、「それしかないか」とため 息混じりに答えた。 「一匹だけにしよう。たくさん死なせても無意味だ」 香取はそう言うと、宮下の方へ歩いた。手を差し出しながら、「紙コップを 一つ」と告げる。 「え」 またもぼーっとしていたのか、宮下の反応は鈍い。香取は苛立たしげな手つ きで、重ねられた紙コップの束から一番上の物を取った。それから机へと取っ て返し、ハンカチで覆った右手を使い、チョコレートの欠片を採取した。暖房 のせいか、随分と柔らかい。 「網がある」 先に水槽に近付いていた脇戸が、その物を掲げながら言った。青くて四角い、 小型の網だ。 香取も水槽のそばに立ち、チョコを投じた紙コップを傾けて、手早く水を掬 い取る。半分ほどの分量だ。 「せめて元気のない奴にするか。老い先短いだろうってことで」 「いや」 脇戸の提案を退ける香取。 「元気な魚で試すべきだ。毒の効果が明白に見て取れるように」 「ふむ」 ――続く
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