●長編 #0128の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「出火の原因は何だったのですか?」 「当初は失火と思われておりました。ところが遺体を検分した結果、頭や胸、背中 などに深手を負っていたことが、わかったのでございます。」 「では何者かが職人一家に危害を加えた後、家屋に火を放ったと……」 「そのとおりでございます。家の中にあった金品は手つかずであったといいますか ら、強盗の仕業とは考えられません。おそらく賊は、彼らを殺すためにやって来た のでしょう」 「犯人はまだ捕まっていないのですね?」 ステファンは冷静に発言しながらも、内心では慄然としていた。偶然以上の何か があるとは考えたくない。 博士は黙ってうなずくと、震える手で手巾を握りしめた。 「怪しい人影を見た者はおろか、叫び声を聞いた者すらいなかったのでございます。 いくら調べても、一家を恨んでいるような人物は浮かばず、焼け跡からも犯人に結 びつきそうな遺留物は出ませんでした。ただ少し気になることが……」 「いったい何です?」 「火事が起きる直前、黒っぽい霧のようなものが、窓から家の中に入っていくのを 見たと言う男がいたのでございます」 「黒い霧、ですか……」 そう口に出したとき、ステファンは記憶の底から例の怪物が浮かび上がってくる のを感じた。 煙のように消えた漆黒の身体。奴なら自由自在に姿を変えられるかもしれない。 あの鋭い爪であれば肉体を切り裂くことなど、造作もないだろう。 「ステファン様、いかがなされました?」 「いえ、別に……。ところで他に見た者はいなかったのですか?」 「残念ながらおりませんでした。しかもその男は近隣では有名な大酒飲み、あの日 も相当な量を飲んでいたという話でしたから、彼の言うことなど誰も信じなかった のでございます」 「博士も酔っぱらいの戯言だと思っているのですか?」 「彼の話が事実であるのかそうでないのか、私にも証明はできません。もし事実で あったとしても、それがこの事件にどうやって繋がるのか……」 博士は小さく張りのない声で呟くように言い、顔の汗を拭った。 「神経質すぎるとお思いになるでしょうが、嫌な予感がするのでございます」 「博士のお気持ちはよくわかります。石板をめぐる怪異がこれだけ続けば、不安に なるのも当然でしょう」 拓本を見せてくれたとき、フィリスは一連の事件について一言も触れなかった。 隠しているとは思いたくない。 「ステファン様は、どうお考えになられますか?」 博士は探るような目つきでこちらを見た。 「そうですね……」 ステファンは即答せずに言葉を濁した。目線が自然と下を向く。状況から怪物の 関与を疑ってはいるものの、それを口にするつもりはなかった。たとえ相手が博士 でも、奴の存在は決して他言してはならない秘密だった。 「全ての怪異は石板の発見から始まっています。私個人としては、もはや偶然とは 言い難いものを感じますね」 目を上げて正直な心情を伝えると、博士は我が意を得たりとばかりに大きくうな ずいた。 「仰せのとおりでございます。私には何か……、邪悪な意志が働いているような気 がしてならないのです」 「邪悪な意志?」 ステファンは思わず眉をひそめた。実証主義を信条とする博士らしくない発言に、 かえって驚きさえ感じる。ただの石板に害意などあるはずは……。 ファルテス・ペメル・モース、運命は死を求める。 ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ、魂の器に触れるな。 フィリスが翻訳していた部分には、確かそんな文言が書かれていた。あれは呪詛 の言葉だったとでもいうのか。 「殿下は何とおっしゃっているのですか?」 フィリスは幽霊馬車を面白い呼び名だと言ったのだ。彼の認識がどの程度なのか 見当はついていたが、訊かずにはいられなかった。 「偶然が積み重なっただけと……」 博士はやるせない様子で言い、深々とため息をついた。顔色がいっそう悪くなっ たように見える。 やはり、と思った。隠していたというより、単なる市井の事件としか見ていない から言わなかったのだろう。フィリスは己の目で直接見るか、客観的に証明できな ければ絶対に納得しない男なのだ。まして人間の勘など気にかけるはずもない。だ がステファンには例の怪物に襲われた経験があった。嫁いだばかりの妹のことを思 うと、博士の危惧を見過ごしにはできなかった。 「石板は今、どこに安置されているのですか? 出土した場所に埋め戻せば、怪異 が治まるかもしれません」 「あれはカスケイド城内の礼拝堂にございます。私もステファン様と同じことを進 言いたしましたが、殿下はどうしても手元に置きたいのだとおっしゃって、お聞き 入れ下さいませんでした。それでやむなく、公国教会の大司教に依頼して封印の護 符を貼り、祭壇の中に納めた次第なのです」 フィリスは何故石板にこだわるのか。拓本は出来上がっており、解読作業には支 障がないはずだった。 「幸いにも、火事の後は何も起こっておりません。表面では平穏を取り戻したかの ようですが、私にはこの状態が続くとは思えないのでございます。石板にかかわっ た者は、農夫や村長、職人たちだけではありません。私や私の弟子たち、大司教、 そして殿下も……」 アランとジュダが家の外で騒ぎを起こしたとき、博士はひどく怯えていた。今な ら、その理由がわかる。つまらぬ取り越し苦労にすぎないと、笑い飛ばせたらどん なにいいだろう。 「私の本音を申し上げれば、もう解読作業などしたくはないのでございます。ここ にある拓本も燃やしてしまえたら、どんなに気が楽になることかと……」 博士は傍らにある筒状の入れ物に目を向けた。石板には、学者の好奇心さえも凍 りつかせるような、不吉な文言が刻み込まれていたのかもしれない。 覚悟を決めなければ、とステファンは思った。拓本の一部を読んだ以上、自分自 身も当事者のひとりになることは免れないのだ。 「差し支えなければ、わかっている範囲の内容を教えてもらえませんか? 実は一 昨日、私もその拓本を見ているのです。殿下が翻訳なさっていた部分も、少しです が読ませていただきました」 「拓本までご覧になったのですか!? あれほど、お話だけで留めておかれるよう にと申し上げたのに!」 博士は悲鳴に近い声を上げたか思うと、机に肘をついて頭を抱え込んだ。 「殿下に悪気はなかったのだと思いますよ。聖戦士についての資料が見つかって、 とても嬉しそうにしておられましたから」 ステファンは博士の顔を覗き込むようにして言った。 「しかし……」 「過ぎたことをあれこれ言うのはやめましょう。今は怪異が再び起こらないように、 方策を立てるのが先決です。石板を埋め戻すお許しが出ないのなら、他の方法を考 えなくてはなりません。そのためにも、拓本の内容をぜひ知りたいのです」 「わかりました、それほどまでにおっしゃるのなら……」 博士は力のない声で呟いて椅子から立ち上がった。ふらふらとした足取りで戸棚 に近寄り、引き出しを開けて中に手を入れた。 「私が担当した部分しかございませんが、どうぞご覧下さい」 博士はそう言って席に着くと、持ってきた一枚の紙を机の上に置いた。小棚に手 を伸ばして燭台を取り、ステファンの手元にそれを近づける。 「これは石板の碑文の中に散らばっていた、意味の明白な単語を古代語の文法と用 法に則り、成文化したものでございます。まずは、お読みになってみて下さい」 ステファンは言われるがまま紙面に目を落とした。 ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ. オウテム・ファルテス・ヴィ・ディーテ・モース・アクエオ・ペサット・テウ. 魂の器に触れるな。 さもなくば、運命は汝らに等しく死を与えるだろう。 思わず顔を上げ、博士を見た。目と目が合ったが、喉の奥に物が詰まったかのよ うに言葉が出ない。石板が発見されてから、あんなに死者が出たのだ。魂の器とは まさか……。 ステファンは急に吹き出した冷たい汗を拭いながら、次の節に目を移した。 ルフ・ガウプ・デ・アテマ・インペルス・タムクオルム・レグーナ・アテマ・ア ビイット・レム・ノクォーアム・ガルボット. ウルキィス・デ・ラプトゥム・アピデス・インセル・エト・テレース・ヴィ・メ ルゴー・イム・スィームス・デ・カラマローム. カレウム・フィンドゥレ・テレータ・クォンティートゥ・ファルテス・ペメル・ モース. 魂の器を王者のように支配するなら、魂は立ち去った場所に決して戻らない。 引き裂かれた神の復讐が始まり、世界は災厄の海に沈むだろう。 天は割れ、大地は鳴動し、運命は死を求める。 「殿下はこれを……」 声が微かに震えた。引き裂かれた神という言葉の意味は、博士に確かめてみるま でもないだろう。 「ご存じでいらっしゃいます」 「知っているなら、どうして何もしようとしないのだ!」 ステファンは思わず声を荒げ、拳で机を叩いた。博士が椅子の上で身体をびくり と震わせる。 「すみません、つい頭に血が上って……。博士に言ったのではないのです」 「いいえ、お怒りになられるのも当然でございます。殿下をお止めすることが未だ にできないのですから」 「全く困ったものだ……」 ステファンは首を横に振って溜め息を吐いた。何もないように見える平穏な日常 こそ、最も大切なものだ。フィリスはどうやら、それを忘れているらしい。 「これを読ませてもらった限りでは、やはり石板を元の場所に埋め戻すしか方法は なさそうですね。殿下を説得できるかどうかわかりませんが、私からもお話しして みましょう」 「本当でございますか!? ご助力いただけるとは、何とありがたいことか! ど うか、どうかお願い致します」 博士はそう言うが早いか、椅子を蹴って立ち上がった。そしてステファンの脇に 回り込むと、いきなり這いつくばって床に頭を擦りつけた。お願い致しますと、涙 声で何度も繰り返す。 「博士! そんなことはやめて下さい!」 ステファンは慌てて席を離れると、博士の側にしゃがんだ。 「言葉を尽くせば、殿下もきっとわかって下さるはず。あまり悲観的ならずに希望 を持ちましょう。どうか頭を上げて」 「今宵は本当に見苦しい姿ばかりを……」 「いいんですよ。さあ、座りましょう」 博士は目のあたりを手でしきりに拭いながら、ようやく身体を起こした。ステフ ァンに促されて椅子に腰掛けたときは、だいぶ落ち着きを取り戻していた。 そろそろミレシアとのことを話したいのだが、どう切り出せばいいのだろう。適 切な方法を思いつけないまま、ステファンは自分の席に戻った。 「私も年を取りました。神様のご加護で長生きをさせていただき、今日まで学問に 打ち込むことができたのですから、たとえ災いが降りかかって命を落としても、悔 いはございません」 「石板を埋め戻しさえすれば、きっと怪異は治まるはず。悲しくなるようなことを 言わないで下さい」 「このような老いぼれにまで、優しいお言葉をかけて下さるとは、もったいのうご ざいます」 博士は机の上の手巾を手に取って、目頭に押し当てた。 「私はどうなろうとかまわないのですが、心配なのは殿下の御身と我が孫娘……」 孫娘という言葉を聞いたとき、ステファンは今しかないと思った。このきっかけ を逃せば、永遠に口を閉ざさねばならなくなる。 「博士、実はミレシアのことなのですが……」 愛しい少女の名を口にしたとき、胸の奥が締めつけられるような感覚があった。 甘く切ない感情が溢れてきて、石板の不吉な文言を押し流していく。 ステファンはミレシアとの出会いから訪問の目的まで、何もかも包み隠さずに話 した。特に強調したのは、彼女を本気で愛していて、自分の妃に迎えたいと思って いることだった。 「身勝手なのは承知しています。しかし私の妃になる人は、ミレシアの他には考え られないのです。宮廷生活でのつまらぬ苦労や窮屈な思いは絶対にさせません。彼 女のことは、私がこの身に代えても守り抜きます」 顔が紅潮してくるのが自分でもわかる。心臓の鼓動も早い。だが、博士は考え込 むような顔をして黙ったままだった。その表情から心情を推しはかるのは難しい。 「結婚は、特に女性にとっては一生に関わることです。熟慮した上で決めてもらう のが本来のあり方なのですから、私のしたことは道理を外れていると言ってもいい でしょう。自分の都合を押しつける格好になってしまい、本当に心苦しいのですが、 私には時間がないのです。次はいつギルトに来られるかわかりません。博士、どう かミレシアを私に下さい。必ず幸せにします、お願いします!」 ステファンは胸の内の思いを一気に吐き出すと、博士に頭を下げた。ミレシアを 妃にできるのなら、どんなことでもやるつもりだった。 「ステファン様! 下々の者がするようなことをなさってはいけません!」 厳しい声に思わず顔を上げる。だがステファンの目に映ったのは、驚くほど穏や かな表情をした博士の顔だった。 「なるほど、これでわかりました」 「は?」 「ミレシアは帰宅してからというもの、食もあまり進まず、暇さえあればお城の方 角を見つめてため息を吐いておりました。どうしたのかと訊いても、何も言わず首 を横に振って涙ぐむばかり。これはもしやと思っておりましたが、ステファン様を お慕いしていたとは……。恐れ多いことでございます」 「私のことをそんなに……知りませんでした」 ミレシアも初めから自分と同じ気持ちだったと聞くと、ステファンの胸はいっそ う熱くなった。しかしそれだけに、身分をきちんと打ち明けられなかったことが悔 やまれてならない。 「やはり、お話ししておく必要がございますな……」 博士が急にしんみりとした口調で言った。 「実は……ミレシアには、オリガの血が流れているのでございます。あの子の母親 がそうでしたから」 お断りしたいという意味で、博士は秘密を打ち明けたのだろうか。だが、何を言 われようと引き下がるつもりはなかった。 「博士もご存じのように、私もオリガの血を引いています。ミレシアがオリガの血 筋であろうがなかろうが、そんなことは大した問題ではありません」 「お言葉ではございますが、ミレシアを妻として迎えれば、ステファン様のお立場 がかえって危うくなるかもしれないのですよ」 「我が身を守るすべは心得ていますから、安心して下さい。子は親を選べないとい う事実を無視して、血統にこだわる今のしきたりのほうが間違っているのです。人 間の価値はその人の行いや態度で決まるものであって、血筋ではありません」 ミレシアに出会うまで、結婚相手は顔も知らない他国の姫になるだろうと思って いた。しかし今は違う。血筋に頼って立場を固めても、そこに本当の安らぎは存在 しないことに気づいたからだ。 同盟関係に頼らなくとも、ミレシアを、アストールを守ってみせる。ステファン は決意をさらに固くして博士の言葉を待った。 「そこまでご決心なされているのなら、ミレシアやその父母のこと、何もかも申し 上げましょう。十六年前のある夜、我が愚息がシーラという名の少女を連れて、こ の家に現れたのが全ての始まりでございました」 燭台の火が微かに揺れる。博士は軽く咳払いをしてから再び口を開いた。 「当時の愚息は、ティファの南にある小さな町で、結婚したばかりの妻とふたりで 暮らしておりました。私と同じく学問の道を選び、まだ駆け出しの身ながら、聖戦 士と邪神にまつわる伝説を専門に研究していたのでございます。暗黒時代の言い伝 えを検証しようというのですから、公国内ばかりでなく、時には他国にまで足を伸 ばして、新しい資料を収集しなければなりません。そのような旅の途中でも、近く へ来たときは必ずここに立ち寄って、元気な顔を見せてくれたものです。しかしあ のときばかりは、いつもとはまるで様子が違っていたのでございます」 「どういうことですか?」 「ふたりとも荷物を全く持っていなかったのです。おそらく着の身着のままで幾日 も過ごしたのでしょう、物乞いのように汚い格好をしておりました。私は驚きのあ まり、言葉も出ませんでした。ところが愚息は私の顔を見るなり、目をギラギラと 光らせて、シーラとふたり、何も訊かずにこの家において欲しいと言い出したので ございます」 「ご子息は、どうしてそんなことを? 理由を言わないのもおかしいですね」 ステファンの言葉に、博士も大きくうなずいた。 「理由もわからないまま、承諾することはできませんでした。ましてや、子供のよ うな少女と一緒なのです。年を訊けば、まだ十三歳だと言うではないですか。これ はいったいどういうことなのか、私は愚息を厳しく問いつめました。押し問答を何 時間も続けた末に聞き出したのは、シーラを妖魔から守るため、という言葉だった のでございます」 「妖魔……」 リーデン城に現れた怪物こそ、実は妖魔だったのではないか。ステファンは背筋 が冷たくなるのを感じた。 「妖魔などこの世に存在するはずがない、くだらない嘘をつくなと、私は声を荒げ て言い放ちました。自分にとって都合の悪い何かを隠すために、馬鹿げたことを言 ってごまかしているのではないか。そう思った私は、シーラのほうに目を向けまし た。汚れていても、目鼻立ちの整ったきれいな顔をしていることはすぐにわかりま した。彼女にも話を聞かせてもらおうとしたとき、私は気づいたのでございます」 「そのときすでに妊娠を……」 「さようでございます。服で隠しているつもりだったのでしょうが、腹の膨らみは 明白でした。私は愚息に、腹の子はお前の種かと尋ねました。すると彼は首を横に 振り、シーラとは契っていないと言ったのです。ならば子の父親は誰なのか、彼女 とはどこで知り合ったのか。私は次第に高ぶってくる感情の波を押さえ、愚息を再 び詰問しました」 博士はそこまで話すと、ため息を吐いた。顔色がひどく悪い。 「気分が良くないのではありませんか? 今宵はここまでにして……」 「いいえ、大丈夫でございます。私が生きているうちに、是非ともお伝えしておか ねばなりません」 そう言われると、ステファンも返す言葉がなくなってしまう。 「最初は頑なに口を閉ざしていた愚息でしたが、私の追及に根負けしたらしく、シ ーラとは公国中部にあるオリガの村で出会ったと白状しました。はっきりとは言い ませんでしたが、おそらく村の長老あたりから、伝説に関する話を聞こうとしてい たのでしょう。オリガの人々は独特の口伝を持っておりますから」 「口伝ですか、初めて聞く話ですね」 「研究者しか知らないことでございますので。それに口伝は選ばれた者のみが継承 し、その内容は決して他言してはならないとされているのです。それはさておき、 愚息は研究のために入村したはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。やは り彼がシーラに手をつけたために、村を追われたのだとしか考えられませんでした」 博士の口から、再びため息が漏れる。これ以上、何が出てくると言うのだろう。 「私は真実を告げて欲しいと、さらに迫りました。しかし愚息は、もう何も話すこ とはない、妻とも離婚したのだから後には引けないとまで言ったのです。それを聞 いた瞬間、私は激昂して彼を殴りつけました。姦淫の罪を犯した上に、妻を一方的 に棄てた非道が許せなかったのでございます」 「ご子息は、彼女のために全てを棄てたのですね……」 ステファンは膝の上で拳を握りしめた。事の善悪はともかく、博士の息子いやミ レシアの父親には、ひとりの女性のために、何もかも投げ出せるほどの勇気と覚悟 があったのだ。 ミレシアとの結婚を成就させるまでには、様々な困難にぶち当たるだろう。どん なに反対されても、自分も彼と同じように後へ引かない決心を示さねばならない。 「当人たちはそれでいいでしょうが、周囲の者は彼らのために振り回されるのです から、たまったものではありません。私は何とか気を取り直すと、シーラに対して、 子が生まれたら親元に帰るようにと諭しました。彼女が説得に応じてくれれば、愚 息も考え直して、妻と復縁するかもしれないと思ったのでございます。しかし……」 「別れたくないと?」 「いいえ、彼女は帰りたくても帰れないと言ったのです。そして自分にとって、愚 息は命の恩人だから許してくれと……」 「命の恩人?」 「さようでございます。私はシーラに詳しい事情を話して欲しいと頼みました。彼 女なら本当のことを言ってくれるに違いないと、そう思ったからです」 博士は口を閉じて、ごくりと唾を飲み込んだ。 「ところが、その可愛らしい口から出た言葉は、にわかには信じがたいものでござ いました。自分の腹に宿っているのは人の子ではなく、精霊の魂だと言うのです」 「何ですって?!」 「神話の世界ならいざ知らず、体内に精霊が宿るなどということが、現実に起こる はずはありません。妊娠を認めてもらうための方便にしては、あまりにも空想的で お粗末でした。ですがシーラはむろん、アカデミアで高等教育を受けた愚息までが、 それを真実だと固く信じていたのでございます。こうなってしまうと、もはや狂信 者と同じ……。しかし私はあえて彼女の話を否定せず、どうしてそう思っているの か訳を聞かせて欲しいと言いました」 ステファンは下唇を噛んで押し黙った。視界いっぱいに広がった、あの白い光を 思い出す。ベルノブラウの酒毒がひと眠りしただけで消えてしまった理由は、ミレ シアが精霊の化身だからなのか。 「シーラもまた愚息と同じように、肝心なところでは口を開こうとしませんでした。 私はやむなく、訳をきちんと話してくれたら、この家にいてもいいと言わざるを得 なくなりました。譲歩したのが功を奏したのでしょう、彼女はようやく打ち明けて くれたのでございます」 「それで何と言ったのですか?」 ステファンは思わず身を乗り出した。心臓の鼓動が早くなる。 「口伝の予言が成就したと……。全てはその予言どおりに運んでいるから、腹の子 は精霊に違いないのだと、そう言うのでございます。私は確かな証拠を、つまり口 伝の内容を教えて欲しいと頼みました。第三者が聞いても納得できるようなもので なければ、シーラの言が正しいのかどうか証明できませんから。しかし彼女は頑と して受けつけませんでした。愚息は愚息で、成就した予言を聞くと死の呪いがかか るなどと、馬鹿なことを言い出す始末」 「死の呪い……」 例の石板の文言が、ふいにステファンの頭の中に浮かんだ。自分でも飛躍のしす ぎだと思うのだが、何か引っかかるような感じがするのはどうしてだろう。 「口伝の中身を知っていたということは、シーラはおそらく継承者だったのでしょ う。それなら他言しない理由もわからなくはありません」 「待って下さい、博士。精霊の存在はさておき、大切な継承者が何故村を追い出さ れたのでしょうか?」 「これもまた、誠に信じがたいのですが……」 博士は表情を暗くして急に黙り込んだ。大きなため息を吐き、再び口を開く。 「村が妖魔の群れに襲われ、シーラと愚息以外は皆殺しにされてしまったというの でございます」 「妖魔の……群れ……?」 そう呟いたステファンの声は震えていた。 あんな怪物が何匹もいるというのか! 漆黒の身体、鋭い爪、胸の悪くなるような腐敗臭。少年の日の悪夢は消え去るど ころか、大きくなる一方だった。 「どうかなされましたか?」 「いえ……何でもありません。続けて下さい」 ステファンは首を左右に振り、博士を促した。確証はないが、村の襲撃とリーデ ン城の事件とは、奥深いところで繋がっているような気がする。 「シーラは危うく殺されかかったところを愚息に助け出され、命からがらこの家ま でたどり着いたと言っておりました。だから村にはもう戻れないのだと……。彼女 の言葉を疑ったわけではないのですが、やはり確認してみなければなりません。私 は数日後、密かに人をやって村を調べさせたのでございます」 「さぞかし凄惨な光景が……、広がっていたのでしょうね」 耳の奥にアランの絶叫が蘇る。今にも血しぶきが飛んでくるような気がして、ス テファンは目を伏せて顔を背けた。 「それが不思議なことに、村には死骸はおろか、血痕や肉片さえも見あたらなかっ たのでございます」 「ええっ、そんなはずは……!」 思わず博士の顔を見る。使いの者が得にもならない嘘を吐いたとは思えなかった。 それとも妖魔たちが殺戮の証拠を全て消してしまったのか。 「私も話を聞いて驚きました。その代わり、多くの家が朽ち果てて崩れており、畑 は草が生い茂って荒れ放題だったそうです。完全に廃墟と化していたのでしょう。 シーラと愚息が村を逃げ出してから一ヶ月あまり。さほど長くない間に、そこまで 崩壊してしまうというのも、奇妙な話でございました」 「……変ですね、確かに」 ステファンは胸の前で腕を組み、呻くように言った。話を聞けば聞くほどわから ないことが増えてくる。 「疑うつもりはないのですが、本当に何も見つからなかったのですか?」 「殺人の証拠はひとつも……。発見できたものといえば、楽器ぐらいでしょうか」 「楽器?」 「はい。村に入った者がこちらに持ち帰ったのでございます。ステファン様はご存 じないでしょうけれども、オリガ独特の楽器でして、竪琴の原型とも言われて……」 「ビューロのことですね。ミレシアから聞いています」 「おお、そうでしたか」 「とてもいい音色でしたよ。私も少し弾かせてもらいましたが、ろくな音が出ませ んでした」 ステファンはそう言って苦笑した。ビューロに触れたのは昨日なのに、遙か昔に あったことのような遠い感じがする。 「あれを弾きこなすには、かなりの技術が必要でございますから。ミレシアは物心 がつく前から、シーラに手ほどきを受けて弾き始めたのですが、私の見るところ、 あの子の腕前は母親をとうに凌駕しておりますよ」 さっきまでの暗い表情が消え、博士は嬉しそうに言った。 「母上からは歌も教わったそうですね」 「シーラはビューロの名手であったばかりでなく、歌の才能も豊かでした。精霊の 魂だの妖魔だのとさえ言わなければ、本当にいい娘だったのでございます。彼女は 三年前に亡くなりましたが、我が子の成長を見届けられなかったこと、さぞ無念で あっただろうと……」 「何が原因で亡くなったのですか?」 だが博士はステファンの問いに即答しなかった。 「このことについては、私にも責任の一端があると思っているのでございます」 重苦しい沈黙が続いた後、博士が沈んだ声で言った。燭台の火がその身を震わせ るように揺らめく。 「亡くなった当日、シーラは風邪を引いて床に臥せっておりました。微熱と咳が少 し出ていただけですから、一日か二日安静にしていれば良くなるだろうと考えて、 看病をミレシアに任せ、私はここで仕事をしていたのでございます。半日ほど過ぎ た頃でしょうか。ミレシアの悲鳴が聞こえたので、私は慌てて寝室に向かいました」 「まさか……」また妖魔が?! 「急いで中に入ると、シーラは目を剥いて苦悶の表情を浮かべたまま、事切れてい たのでございます。側ではミレシアが半狂乱になって、泣きじゃくっておりました。 少し落ち着くのを待って話を聞いてみましたら、容態の急変は、どうやらあの子が 台所へ水を取りに行った僅かな間に起こったようでした」 「かわいそうに……ミレシア……」 「全く痛ましいことでございました。ミレシアはもう泣いて泣いて……自分自身を 責め続けて一年あまりの間、家の中に引きこもってしまったのです。シーラの側を 離れたのが悪い、急変に気づかなかったのは自分のせいだと。ですが、私も後悔し ているのです。たかが風邪だと甘くみて、重大な兆候を見逃していたのではないか、 専門の医者を呼んで診せるべきだったのではないか……」 「そのとき、ご子息はどうしていたのですか?」 「愚息はミレシアが生まれる前に亡くなっております。倒れたときはもう、腹の中 に腫物が広がっていて、手の施しようがありませんでした。好き勝手をしたあげく 私より先に逝くとは、とんだ親不孝者でございます」 博士はしかめっ面をして、半ば吐き捨てるように言った。しかし、我が子に死な れて悲しくない親はいないはずだ。 「博士もミレシアも辛い体験をしていたのですね。それに比べて私は……恵まれて いました」 ステファンはそう言って目を伏せた。ダリル公爵にいじめられたり、上級貴族た ちに憎まれたりしていても、自分にはまだ父王が健在であり信頼のできる側近もい る。だが、彼らはたったふたりで肩を寄せ合って生きてきたのだ。 ミレシアを愛している。その気持ちに今も変わりはない、それどころか彼女を思 う気持ちは前にも増して強くなった。しかし恋情を貫けば、博士から可愛い孫娘を 取り上げてしまうことになる。もし自分が博士の立場だったら、とても耐えられな いだろう。 「長い人生には様々なことがございます。喜びに沸く日もあれば、悲しみにくれる 日もあるでしょう。人との出会いもまた同じこと。気晴らしになればと思い連れて 行ったお城で、ステファン様と巡り合ったのも神様の思し召しなのかもしれません。 仰せのとおりミレシアは差し上げましょう」 すぐには信じられなかった。恐る恐る目を上げて博士の顔を見る。老人の表情は 予想に反して驚くほど穏やかだった。 「本当に……よろしいのですか?」 気弱な声を出したステファンに対し、博士はしっかりとうなずいた。 「ミレシアには私の他に身寄りはおりません。世間のことは何もわからない小娘ゆ え、私が死んだらいったいどうなってしまうのかと、それはもう心配で……。嫁に 出したほうがいいと勧める者もいましたが、生活のために愛のない結婚をさせるの は不憫で、よい考えを思いつけないまま、今日まで来てしまったのでございます。 ステファン様、どうかあの子を……ミレシアをお願い致します」 博士は目を潤ませて言うと、深々と頭を下げた。 「ありがとうございます。ミレシアは必ず幸せにします」 ステファンは力強い口調で言い、微笑んだ。これから先は彼女の人生をも背負っ ていくのだから、嬉しさの中にも身の引き締まるような思いがあった。ミレシアが 精霊の化身だろうが普通の人間だろうが、そんなことは関係ない。 「それから私としては、博士にもぜひアストールに来ていただきたいのです。ミレ シアもそう望んでいますし、私もまだ未熟で教えを請う必要のある人間です。ただ 石板のことがありますから、今すぐにとは言いません。作業が一段落した後でもい いのです。住まわれる屋敷はこちらで用意しますし、何か欲しいものがあれば遠慮 なく申しつけて下さい。ギルト以上の待遇を約束します」 「実にありがたく過分なお言葉ではございますが、仕事が終わりましても、私はこ こを離れるつもりはありません」 博士は薄く笑って首を横に振った。外国とはいえミレシアと暮らせるのだから、 悪くはない話のはずだ。 「しかし、それではお寂しいでしょう。身の回りの世話をする者も必要ですし」 「いいえ、ご案じ下さいますな。ご覧のようなあばら家ですが、ここには家族の思 い出が……特に亡き妻との思い出が、染み込んでいるのでございます」 博士は静かに言い、一瞬遠くを見るような目になった。 「私はやもめ暮らしが長うございましたから、身の回りのことはひととおりこなせ ますし、近くには弟子たちも多くおります。どうかご安心のほどを」 石板にまつわる怪異を恐れているのだと、ステファンは直感した。博士は自ら遠 ざかることで、ミレシアを守ろうとしているのではないか。 「何度も言うようですが、石板を元の場所に埋め戻せば怪異は治まるはず。時間が かかってもいい、もう一度考え直してもらえませんか」 「ステファン様、それは……」 無理でございますとでも言いたげに、博士が首を左右に振る。 「私だって拓本を見ているし、碑文の内容も一部知っているんですよ」 「ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ、この文言の意味を思い出して下さいませ。 考えてみれば、犠牲になったのは石板に直接触れた者ばかりです。職人一家も家族 全員で同じ仕事をしておりました。私だけでなく、殿下や大司教、私の弟子たちも、 その点については彼らと同じなのでございます。しかしステファン様は石板そのも のをご覧になっていらっしゃらないし、触ってもおられません」 「確かにそうですが……」 「恐れながら、私にとってステファン様は唯一の希望なのでございます。石板の真 実を後世に伝えられるのは、あなた様をおいて他にはおられません。そして何より ミレシアを心から愛して下さっている。本当にありがたいことです」 「まだ死ぬと決まったわけではありませんよ、博士。封印の護符が効力をなくす前 に、石板を埋め戻すことができれば、ギルトの安泰は保証されるでしょう。甘い見 方は禁物ですが、かといって悲観的すぎるのもよくないと思います」 ステファンは強気に言い切ったものの、心の中には漠然とした不安もあった。 もし石板を元のように埋めても怪異が治まらなかったら? いや、そんなはずは ない。とにかく、城に戻ったらすぐにフィリスを説得しなければ。 「悲観的……そうかもしれません。偶然とはいえ、忌まわしい遺物を掘り当ててし まったものです。殿下の前で口にできることではございませんが」 博士はため息を吐いてさらに続けた。 「念のため、ステファン様もご身辺にはお気をつけ下さいませ。万が一、御身に災 いが及んだら、国王様にどうお詫びすればよいものやら」 「私は大丈夫ですよ、ご懸念には及びません」 ステファンはそう言って、不安を払拭するように明るく笑った。ミレシアを迎え 入れるのだと改めて思うと、怪物の黒々とした姿も次第に小さく変わっていく。 「それより我がアストールへお越しのこと、ぜひ再考をお願いします。博士がギル トに留まると知ったら、ミレシアはどんなにがっかりするでしょうか」 「私が共に行かずとも、ミレシアの心に迷いはありませんよ。先ほどの騒ぎのとき、 あの子は私の制止を振りきって、ステファン様の後を追ったのでございますから」 博士の台詞を聞いた瞬間、ステファンは顔が紅潮してくるのを覚えた。ミレシア の気持ちを嬉しく思ったが、それを言葉にするのは気恥ずかしい。照れ隠しめいた 咳払いをひとつした。 「私の作ったメンテルを見ていただきたかったのに……残念です。もし博士のお考 えが変わったら、いつでも知らせて下さい。すぐお迎えに上がります」 「この老いぼれへの過分なお心遣い、もったいのうございます」 博士は神妙な面持ちで答え、頭を下げた。 「ミレシアはまだ十五才、子供じみたところもありますが、心の優しい娘です。宮 中の作法は何ひとつ知りませんが、料理とビューロを弾くことが上手で、薬草の知 識を豊富に持っています。言葉の読み書きや算術にも不自由はありません。どうか あの子を末永く……」 声がふいに途切れた。博士はうつむいたまま、肩を震わせている。ステファンは 自分の胸にも熱いものがこみ上げてくるのを感じた。 「安心して下さい。ミレシアは必ず幸せにします」 シド博士の家を出たのは、東の空がうっすらと明るくなり始めた頃だった。アラ ンとジュダを従えて城への帰路につく。 不思議と疲れは感じなかった。 (6)に続く
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE