●長編 #0127の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
ステファンはやれやれとばかりにため息を吐き、額に手をやった。濡れた手巾が 指先に触れる。 冷やしてくれたのかと、ミレシアをいじらしく思う。 額の手巾を自ら取り外したとき、ステファンは身体の不快な症状が、いつの間に か全て消えていることに気づいた。よく眠ったあとの爽快感にも似て、あまりにも 自然だったために、かえってわからなかったのだ。 手巾を胸の上に置き、自分の手を目の前にかざす。近づけたり遠ざけたりしてみ る。かすんだり、ぼんやりしたところはなく、いつもと同じだった。とはいえ視力 に不安を覚えるほど、目がかすんで見えなくなったのは事実なのだ。 視野いっぱいに広がった白い光、あれはいったい何だったのか。だが体調が元に 戻った今、それを追及するよりシド博士と話をするほうが先だった。 「ところで博士は……」 帰って来たのかと続けようとして、ステファンは口をつぐんだ。ミレシアの肩が 小刻みに震えている。 「ミレシア、どうした?」 答えはなかった。ステファンはためらいがちに手を伸ばし、金褐色の髪にそっと 触れた。上質の絹糸のように滑らかで、しかも柔らかい。 「何か言ってくれないと、わからないよ」 髪を撫でながら囁く。その言葉に反応したのか、ミレシアは急にしゃくり上げ始 めた。 まさか、泣いている?! 自分はミレシアの気に障るようなことを言ったのだろうか。この家の中で口に した言葉を、あれこれ思い浮かべてみる。 「……迷惑だった?」 ステファンはミレシアの髪から手を離し、覚悟を決めて言った。思い当たること といえば、それしかない。結果はどうであれ、彼女の本音を聞きたかった。 「違うの……」 ミレシアは幼子のような仕草で首を横に振ったかと思うと、両手で顔を覆い、ふ いに身体を起こしてまっすぐに立った。見られたくないのか、ステファンに背中を 向ける。 何が違うというのだ。 ミレシアの気持ちがわからない。ステファンは不安を抱えたまま上半身を起こし、 掛けてあった毛布を跳ね除けた。床に落ちた手巾を拾い、おもむろに立ち上がる。 こんなときは、どうしたらいいのだろう。ベルノブラウがすっかり抜けた今、少 女の肩を抱くのにも勇気が必要だった。話しかける言葉を捜して、小窓のほうに目 を向ける。外はすでに真っ暗になっていた。 この家に来て、どれほどの時間が流れたのだろう。ステファンは小窓へ歩み寄り、 カーテンを静かに開けた。月は中天にかかっている。 シド博士はまだ帰宅していないようだが、ステファン自身の持ち時間にも限界が あった。城では、行方不明になった自分を捜しているに違いない。 「……ステファン」 ミレシアの声がした。肩越しに振り向いて少女を見る。 「ごめんなさい……」 うつむきかげんで呟くと、両手の指でしきりに頬を拭う。ステファンはミレシア のほうに向き直り、穏やかな声で言った。 「君が謝ることはないよ。私のほうこそ世話になった」 「来てくれて……嬉しかったの。だけど私のせいで、あなたに無理をさせてしまっ て……」 ミレシアの声が震え始め、その目には新たな涙が浮かぶ。 「違う、君のせいなんかじゃない」 ステファンは語気を強めて言い、首を横に振った。あのくだらない座興に付き合 った自分自身のせいなのだ。 「君が看病してくれたおかげで、身体はすっかり良くなった。もう何ともない」 「本当に?」 ミレシアは信じられないとでも言いたげに、潤んだ目を大きく見開いた。 「だって私、特別なことは何も……」 「嘘じゃないよ」 ステファンは少し笑って言うとミレシアに近寄った。手巾をテーブルの上に置き、 少女の未だ濡れている目元を指でそっと拭う。 「もう泣かないでくれ」 懇願するように告げた声は、微かに震えていた。かつてこんなふうに、自分のた めだけに涙を流してくれる存在があっただろうか。蔑まれ、陰口をたたかれる日々 に安らぎはなかった。 ミレシアを離してはいけない、絶対に! 沸き上がる想いに突き動かされ、ステファンはいきなりミレシアの身体を抱きし めた。あっ、という細い声が耳をかすめても、腕に入れた力は緩めなかった。 「私は初めて逢ったときから……君を……」 心臓の鼓動が急に速くなる。次に続く台詞は決まっているのに、喉元でつかえて しまったように出てこない。 拒絶されるのが怖かった。相手の本心が知りたいと願いながらも、心は臆病な野 うさぎのように震えている。 「好きになっても……いいか?」 それが勇気を振り絞って発した、精一杯の言葉だった。ミレシアはこくりとうな ずき、ステファンの胸に顔をうずめた。 「嬉しい、でも……」 「でも?」 「あなたはどこから来たの? ティファの人じゃないでしょ?」 ミレシアはふいに固い口調で言い、顔を上げた。ステファンを見つめる大きな目 は、朝露に濡れた若葉のようだ。 「ああ……私は確かにティファの、いやギルトの人間じゃない。アストールから来 たんだ。隠すつもりはなかったが、その……何となく言いそびれてしまって」 「アストール……遠いのね……」 ミレシアは力なく呟いて目を伏せた。 「だが、どうして私がティファの出身ではないと?」 「話したときの抑揚が、ちょっと違うから」 「驚いたな……」 そんなことを言われたのは初めてだった。大陸ではアベンドと呼ばれる共通語が 使われているが、国ごとによる明らかな違いはない。多少の例外はあるにせよ、均 質すぎるくらいである。ステファン自身はフィリスやヘクターと話しても、そのよ うな差異を感じるどころか意識したことすらなかった。 しかし言語が使用される地域、あるいは階級ごとに特色を帯びることは、決して 不思議な現象ではない。ミレシアは耳がいいのだろう。あのビューロの腕前を考え れば、当然なのかもしれなかった。 「いつまでいられるの?」 ミレシアの発した問いに、ステファンは即答できなかった。彼女の視線を受け止 められずに、目を逸らす。頭の中から抜け落ちていた現実のさまざまな問題が、一 気に蘇ってくる。 「……行ってしまうのね」 ミレシアはそう呟いて溜め息を吐いた。 「アストールに帰ったら、きっと……私のことなんか忘れてしまうわ」 「その程度のことで君を忘れるくらいなら、ここには来ないよ」 ステファンは感情をこめて言うと、背を少し屈めてミレシアの額に口づけた。 今こそ、真実を言わなくては。自分が何者であるのかを。 だが心の中とは裏腹に、言葉にはできなかった。ほんのちょっとでも漏らしたら、 ミレシアを失うような気がしてならないのだ。 喪失の痛みと罪悪感のどちらを選ぶかは、迷うまでもないことだった。 「私は君と一緒にいたい。今だけじゃなく、これから先の人生もずっと」 「でも、あなたは……」 と、ミレシアは言いかけてふいに口を閉じた。白い頬がたちまち赤くなった。 「本気なの?」 「冗談でこんなことは言わないよ。私とアストールへ行こう、もちろんシド博士も 一緒に」 口にした台詞を実行するのは容易でないことぐらい、ステファンにもわかってい た。無理を押し通せば、ただでさえ少ない自分の味方を、ひとり残らず敵に回すは めになるかもしれないのだ。 それでもかまわない、ミレシアさえ傍にいてくれたら。 「本当に……私なんかでいいの?」 「君じゃなきゃ駄目だ」 自分自身を鼓舞するように力をこめて答え、両手でミレシアの頬を包んだ。潤ん だふたつの目がステファンを見つめている。 「目を閉じて、ミレシア」 少女は訝りもせず素直に瞼を閉じた。 押し寄せる恋情にまかせて、ステファンは花びらのような唇を吸った。 アランは笠松の陰からシド博士の家の監視を続けていた。一方のジュダは、大き な身体を可能な限りに屈めて、小窓の真下に張りつき、首をいっぱいに伸ばして中 の様子を伺っている。 風に揺さぶられた笠松の枝が、ざわざわと音を立てた。アランは苛立ちのあまり 片足を踏み鳴らし、しかめっつらをしてジュダを睨んだ。 主人の姿が見えたら合図を送る手はずになっているのに、あの大男は小窓のとこ ろで間抜けな彫像のように固まって動かなかった。まさか約束自体を忘れてしまっ たわけではあるまい。 これほど気をもむくらいなら、自分が窓辺に行けばよかったと後悔した。ジュダ の目には、主人以外の誰が映っているのだろうか。 今、家の中には少なくとも三人の人間がいるはずだった。主人、シド博士、そし て問題の孫娘。 いったいどんな女なのだろう。ジュダと同じように、声だけはきれいだとアラン も思った。だがそれだけでは年齢や顔立ちはおろか、生まれ持った気質や教育の程 度など、肝心なことは何ひとつわからない。主人が追いかけていくほどなのだから、 それなりの魅力はあるのだろうが。 ジュダは相変わらず窓のところに張りついて微動だにしない。再び風が吹いて笠 松がざわめく。 遅い、遅すぎる。あいつは何故、覗き込んだまま動こうとしないのか。 その理由について考えを巡らせたとき、アランは突然不吉な予感を覚えた。幸か 不幸か、こういうときの自分の勘は必ず的中するのだ。静かに見える家の中では、 ジュダが約束を忘れてしまうような、取り返しのつかない何かが起こっているに違 いない。 「くそっ、あの馬鹿!」 悪態をつき小窓に向かって駆け出した途端、ジュダが腰を屈めたまま、ゆっくり と後ずさりを始めたのに気づいた。荒々しい足音は風の音と笠松のざわめきにかき 消され、大男はアランに気づかない。 「ジュダ! どうなってるんだ!」 感情の高ぶりにまかせて叫ぶ。声が家の中まで通ってもかまわなかった。ジュダ がぎょっとした表情で振り返り、身振り手振りで懸命に制止しようとしたが、その 行為は却ってアランの怒りに火をつけた。 「お前の見たものを正直に言え!」 今にも噛みつきそうな勢いで喚き、ジュダの胸倉を引っつかんで無理やり立ち上 がらせた。 「やめろよ、いきなり何しやがる」 「言え、言わないか!」 「馬鹿野郎、聞こえちまうじゃねえか!」 ジュダは小声ながらも叱りつけるように言い、アランの手を振り解いた。 「いったいどうしたんだよ、急に」 「お前は隠している!」 アランは人差し指をジュダの鼻先に向け、怒りをあらわにして言い放った。 「シッ、声がでかい。俺が何を隠してるって? お前、頭がどうかしちまったんじ ゃねえのか?」 ジュダは両手を腰に当て、けだるそうに首を横に振った。人を小馬鹿にしたよう な台詞と態度が、アランの神経を逆なでする。 「では訊くが、ステファン様は何をしていらしたのだ?」 「何って、その……話し合いだよ、さっき俺が言ったみたいなやつだ。話の内容を 聞こうとしたんだが、わからなかった」 アランは押し黙って腕組みをすると、上目づかいでジュダを睨んだ。この大男の 言うことには、いつもどこか胡散臭いところがある。 「ジュダ、私との約束を覚えてるか?」 「約束? 何だっけ……あっ、あれか!」 ジュダは明るく笑って、両手をぽんと叩いた。 「すまん、すっかり忘れてた」 「忘れただと? よくもそんな……」 「おい、静かにしろ!」 ジュダは突然アランの言葉を遮り、自分の唇に人差し指を当てた。 「それで言い逃れをしたつもりか?」 「違うって、何か聞こえないか?」 大男の表情は真剣だった。怪訝に思いながらも耳をすます。確かに遠くのほうか ら、地響きのようなものが近づいてくる。 アランは音のする方向に顔を向けた。暗がりの中に、ぼうっとした光が目玉のよ うに浮かび上がっている。 「おい、こっちへ向かってくるぞ」 「わかってる」 アランは短く答えると、身を翻して近くの藪の中に入った。ジュダも慌ててそれ に続く。 ほどなくして、光の目玉は彼らの前を通り過ぎ、家の玄関の前で止まった。 「馬車か。いったい何しに来たんだ?」 「黙ってろ」 光の目玉の正体は、馬車にくくりつけられたふたつのランプだった。御者がその うちのひとつを手に取り、御者台から滑るように降りた。車体の扉を開け、ランプ で足許を照らす。 出てきたのは、白髪の老人だった。丈の長いローブを身にまとい、筒状の入れ物 を大事そうに抱えている。ランプの光に浮かび上がった顔を見た瞬間、アランは思 わず息を飲んだ。十年の歳月など問題にはならなかった。 やがて老人が家の中に入り、馬車が去っていくと、アランは黙って藪の外に出た。 ジュダもまたそれに倣う。 「さっきのじいさんは、いったい誰だろう?」 ジュダは首筋を掻きながら、素朴な疑問を口にした。 「……謀ったな」 アランは大男を睨みつけ、低い声で呻くように言った。沸き上がる怒りで、顔が 紅潮し、身体が震えてくる。 「何言ってるんだよ」 「お前を少しでも信じた私が馬鹿だった」 「ちょっと待ってくれよ、そんなに怖い顔するなって。俺はお前を怒らせるような ことなんか、何にもしてないぜ」 ジュダの顔に薄笑いが浮かぶ。まだわかっていないのだ。 「何もしてないだと、この大嘘つきめ!」 アランは憤怒の形相で叫んだ。こんな男に騙されたのかと思うと、悔しくてたま らない。 「さっきのご老体こそシド博士だ!」 「冗談だろ……」 ジュダは目を大きく見開き、気の抜けた声で呟いた。 扉を叩く音がした。 「きっとおじいさまだわ」 ミレシアがステファンの腕の中で囁いた。ついに来たか、と思う。 「早くお出迎えしよう。私もシド博士には、ぜひお会いしたいから」 ステファンは笑顔で言ったものの、緊張が次第に高まってくるのを自覚せずには いられなかった。何も知らないミレシアは、その言葉に安心したらしく、いそいそ と玄関へ向かう。 どんなふうに話を切り出そうか。博士にとって、たったひとりの家族である孫娘 を貰おうというのだ。そう簡単にはいくまい。 お帰りなさい、と言うミレシアの声が聞こえる。ステファンは上着のボタンをき っちりとめて、簡単に身支度を整えた。 「お客様がいらしてるの」 「客だと? いったい誰じゃ、こんな夜更けに」 居間に入ってきたシド博士は、明らかに不機嫌な顔をしていた。血色もあまりい いとは言えない。ステファンは一瞬ためらいを覚えたが、ここまできた以上、もう 後には引けなかった。 「お久しぶりです、シド博士」 落ち着いた声で言うと、怪訝な表情を見せる老人の前に進み出た。 「リーデン城でご教授いただいたのは、十年も前のことなので、ご記憶にはないか もしれません。それに私は、出来のいい生徒ではありませんでしたし、学問以外の ことでご迷惑をおかけしてしまいました」 「あなたは今、リーデン城と……」 博士はそう言いかけて、急に黙り込んだ。疲れたような顔に驚愕の表情を浮かべ た途端、抱えていた筒状の入れ物を危うく落としそうになった。 「まさか……アストールのステファン王子!」 「当時は、いろいろとありがとうございました。今日、私がこうしていられるのは、 博士のおかげだと日々感謝しているのです」 その台詞は誇張でも世辞でもなく、ステファンの偽らざる気持ちだった。博士は すぐに片膝を床について身を屈め、頭を垂れた。 「もったいないお言葉でございます。ギルトにお越しとは聞き及んでおりましたが、 我があばら家にまでおいで下さるとは、思いもいたしませんでした。知らなかった こととはいえ、このような時刻までお待たせしてしまった非礼を、心よりお詫び申 し上げます」 博士が長い口上を述べている間、ミレシアは呆然とした面持ちで立ちつくしてい た。ばら色の頬が無惨に青ざめ、両膝が崩れ落ちるように折られたのを目の当たり にしたとき、ステファンは自分の行為が、いかに卑怯で身勝手なものであったのか を思い知った。 「これにおりますは、我が不肖の孫ミレシアにございます。何も知らぬ小娘ゆえ、 数々のご無礼があったことと存じますが、この老いぼれに免じて、どうかお許し下 さいませ」 「博士、立ち上がって下さい。私のほうこそ、何の連絡もせず突然伺ってしまい、 申しわけなかったと思っています」 穏やかな口調で話しかけながらも、ステファンの心は乱れていた。自業自得とは いえ、ミレシアの視線が痛い。 「それにミレシアには、とてもよくしてもらいましたよ」 心ならずも白々しい台詞を口にして、ステファンは愛しい少女の顔を見た。光る ものが浮かぶ悲しげな目を見つめ返しながら、自分の愛に決して偽りはないのだと、 今は胸の中で叫ぶしかなかった。 「過分なお褒めをいただき、ありがとうございます。ミレシア、お前もお礼を言い なさい」 博士がそう言ったとき、家の外で誰かが、激しく言い争うような声が聞こえた。 続いて、何かが叩きつけられたような鈍い音までする。 「い、いったい何じゃ! 何事じゃ!」 博士は突然おびえきった様子で喚き、慌てて筒状の入れ物を抱きしめた。目の前 にステファンがいることなど、一瞬のうちに忘れてしまったようだ。ミレシアも驚 きと不安の入り交じった複雑な表情で、自分の祖父とステファンを交互に見ている。 「私が見てきましょう。燭台を借りますよ」 ステファンはことさら落ち着いた声で告げ、テーブル上の燭台を取ろうとした。 「お、お待ち下さい! 扉を、扉を開けてはなりません!」 博士は入れ物を抱えたまま、いきなりステファンの足に取りすがった。深いしわ の刻まれた顔は青白く、しかも汗にまみれている。 「急にどうなされたのです? 何かご心配なことでもあるのですか?」 「そ、それは……」 「ご懸念には及びません。こう見えても、腕には自信があるのですよ」 ステファンは笑って言い、手を伸ばして博士の肩を軽く叩いた。言い争いの声は、 いつの間にか一方的な罵声に変わっている。誰が騒いでいるのか知らないが、迷惑 な行為はやめさせなければならない。 「ミレシア、私の剣と剣帯を」 少女は黙ってうなずき、言われたものをすぐに持ってきた。ステファンは素早く 腰に剣をくくりつけると、床に座り込んで震えている博士を立ち上がらせた。 「博士を頼む。それから念のため、ふたりとも家の奥に隠れて」 「でも……」 「いいから、早く!」 テーブル上の燭台を手に取り、玄関へと向かう。気をつけて、と言うミレシアの 声を背中で聞いた。 扉を開けると、冷えた夜気が流れ込んできた。燭台の火が微かに揺れる。ステフ ァンは火が消えないように、ろうそくの部分を手でかばって外に出た。 殺してやる、地獄に落ちろなどという、物騒な台詞が耳に飛び込んだ途端、ステ ファンは罵声の主が誰なのかを知った。ため息を吐いて、思わず天を仰ぐ。 声のするほうへ燭台を向けてみれば、仰向けにひっくり返って足をばたつかせて いるジュダと、その上に馬乗りになって、相手の太い首を締めつけているアランの 姿が見える。ステファンの存在には気づいていないようだ。 元々反りが合わず、出会ったときから喧嘩の絶えなかったふたりだが、この状態 は異常だった。互いに剣を抜かなかっただけまし、などと悠長なことは言っていら れない。 「やめろ、アラン! ジュダの首から手を放せ!」 ステファンは大声で叫び、走った。燭台の火が消えてしまっても、月明かりは残 る。声が届いたのか、アランがはっとしたように顔を上げ、こちらに目を向けた。 「ステファン様! ご無事で……うっ!」 アランは突然顔をしかめるなり、地面に横倒しになった。主人に気を取られた一 瞬の隙をついて、ジュダが拳に物を言わせたらしい。 「ふたりとも大丈夫か?」 ステファンは彼らのそばにしゃがんだ。ジュダは喉に手を当ててひどく咳き込み、 アランは腹を押さえて呻っている。 「いったいどうしたんだ?」 ふたりとも自分を追ってここまで来たのだろうが、喧嘩の原因まではわからなか った。 「こ、こいつ……、本気でやりやがった。くそっ、こぶまで出来てやがる」 ジュダは喘ぎながら呟いて上半身を起こし、己の後頭部に手をやった。 「黙れ、この大嘘つき!」 今度はアランが顔を上げて言い返す。 「ふたりともそこまでだ、私闘は許さん!」 ステファンはきつい口調で命じ、ふたりの顔を交互に見た。 「事の子細はカスケイド城で訊く。シド博士との話が終わるまでは、絶対に騒いで はならん。わかったな」 「博士とは、どんなお話をなされるのですか?」 アランは腹をさすりながら上半身を起こした。眼光がいつになく鋭い。 「話の内容はカスケイド城で伝える」 「お身体の不調を押してまで、博士に会おうとなさるのは、世間話をするためでは ありますまい」 「身体はとうに直った。アラン、何が言いたい?」 「私にはわかっているのです、ステファン様がここにいらした理由が」 「いきなり何を言い出すかのと思えば……」 ステファンは苦笑して首を横に振った。ミレシアとのことを、アランに今知られ るのはまずい。 「どうか、ただちにカスケイド城へお戻り下さい」 「博士との話が済んだら帰城する」 「それでは意味がありません!」 「もういいかげんにしろよ、アラン」 ジュダが座ったまま、うんざりした様子で口を挟んだ。 「お前のしつこさには呆れるぜ」 「しつこくて悪かったな! こうなったのはジュダ、お前のせいなんだぞ!」 「アラン、よさないか! ジュダもアランを刺激するようなことを言うな。とにか く、帰城するのは話が終わってからだ。これ以上の口答えは一切許さん」 ステファンは断固とした口調で言い放ち、立ち上がってふたりの顔を睨んだ。ア ランが下唇を噛み無念そうな表情を浮かべたのに対し、ジュダはうつむいてため息 を吐いただけだった。 とりあえず何とか収まりそうだと思ったとき、背後で足音を聞いた。 「あの……ステファン様……」 ジュダが美しい声に引かれるように、顔を上げる。こちらを見るアランの目つき が、さらに険しくなった。 時期が悪い。だが来てしまったものを、追い返すわけにもいかなかった。後ろを 振り向くと、火のついたろうそくを持ったミレシアの姿があった。自然に目と目が 合う。 来てはいけなかったの? 言葉を交わさなくても、ミレシアの声が聞こえるような気がするのは何故だろう。 ステファンは微笑んで首を軽く振った。 「こっちにおいで」 そう言って、ミレシアを手招きした。そばに来た愛しい少女の肩を抱く。やはり 隠すのは性に合わない。 「ご紹介していただけますね? ステファン様」 アランとジュダが、声をそろえて全く同じ台詞を吐いた。こんなことは、もう二 度とないだろう。 ここにいるのは不本意だった。 アランは腕組みをして壁に寄りかかり、冷ややかな目で居間全体を見渡した。木 製の丸椅子の上に、きれいに折りたたまれた主人のマントが置いてあるのに気づく と、絶望的な気持ちになった。 一方のジュダは、猛烈な勢いで七個めのパンを食べ、五杯めのスープを飲んでい る。頭に細長い綿布が巻きつけられているのは、こぶの部分に当てた湿布がずれな いようにするためだ。 初めて訪れた家で、どうしてあんなに意地汚く食べられるのか。アランは眉をひ そめ、顔を背けた。 主人はシド博士と奥の部屋に入ったきり、未だに出てくる気配がない。あのミレ シアとかいう美少女も、ジュダに手当てを施した後、食事の給仕に呼ばれて出てく る以外は台所に引っ込んだままだ。 それはさておき、十年ぶりに会った博士に、幽霊でも見たような眼差しを向けら れたのは、正直なところ心外だった。 こう言っては申し訳ないが、あなたは長生きできないと思っていましたよ。傷の 後遺症もないとは、まさに奇跡です。神様があなたをお守り下さったのですよ。 そうですね、ありがたいことです。 心にもない台詞を言って笑顔を見せるときの苦しさは、誰にもわからないだろう。 アランの知る限り、神とは気まぐれで残酷な暴君そのものだった。年端もいかな い子供のころに、父親と引き裂かれた瞬間から信仰心は消えたのだ。主人と共に礼 拝堂でひざまずいても、それは形だけのことであり、周りが熱心に祈れば祈るほど 心が凍っていくのを感じずにはいられなかった。 自分が死なずにすんだのは、神の加護などではない。博士の知識と技術、そして 自身の生命力が死に神に打ち勝ったからだ。 「あー、食った食った!」 ジュダは膨らんだ腹をなでつつ満足げに言うと、大きなげっぷをした。 「食べ過ぎだ」 「城のパンやスープよりうまかったぜ。お前も食えばよかったんだ」 ジュダはそう言って、袖で口許を拭った。どうしてこんな奴と一緒にいなければ ならないのだろう。あの下品さがこちらにまで伝染してくるように思えて、不愉快 でならなかった。 「腹が減っていれば、どんなものを食べてもうまいだろうな」 「何言ってやがる。俺はこれでも美食家なんだぜ」 美食家が聞いて呆れる。薄い冷笑がアランの顔に浮かんだ。ジュダはふいに立ち 上がったかと思うと、今度はソファーに寝そべった。両手両足を伸ばして、まるで 自分の家にいるようにくつろいでいる。 「だらしがないぞ」 「怪我人には優しくしろよな。お前が足払いなんか掛けるからこうなったんだ」 「油断したほうが悪い」 「言ってくれるじゃねえか。お前の相手をしてやりたいのはやまやまだが、眠くな っちまった」 ジュダは目をこすりながら言い、拳がそっくり入ってしまうかと思えるほど、大 きな口を開けてあくびをした。 「おい、ジュダ」 「うるせえな、寝たっていいだろうが」 「お前、小窓から何を見た?」 「何って……わかってるんだろ? 聞かねえほうがいいんじゃねえのか」 返す言葉がなかった。ようするに認めたくないのだ。 「アラン、お前は女に惚れたことがあるか?」 「私は忙しいんだ。色恋にうつつを抜かしている暇はない」 「だろうな。訊いた俺が馬鹿だったよ」 ジュダは再び大あくびをして目を閉じた。 奥の部屋はシド博士の書斎兼仕事場になっていた。 「すぐに片づけますので、少々お待ち下さい」 博士は小棚の上に燭台を置き、恐縮したように言った。慌てた様子で、机に散ら ばった書類や羽ペンに手を伸ばす。開いたままの辞典や蓋のないインク壺もあった。 「あまり気になさらずに。私はいっこうにかまいませんよ」 「お気遣い、恐れ入ります。粗末な椅子で大変心苦しいのですが、どうぞこちらに おかけ下さい」 博士が片づけに専念している間、ステファンは勧められた椅子に腰掛けて、部屋 の中を見回した。 学者の部屋らしく、背の高い本棚には様々な種類の書物が隙間なく並んでいた。 その隣には、何段もの引き出しがついた幅のある戸棚があり、天板の上には数個の びんと白っぽい頭蓋骨が載っている。びんの中身は標本のようだが、元が何だった のかはわからない。人体をかたどった精巧な模型が、臓物をさらして壁際に立って いるのを見たときは、さすがに気味が悪いと思った。 「先ほどは見苦しい姿をお目にかけてしまい、本当に申しわけございませんでした」 博士は、机を挟んでステファンと向かい合うように座るなり、謝罪の言葉を口に して頭を下げた。 「やめて下さい、博士。あの騒ぎは私の供の者たちが引き起こしたこと、責任ある 者として、謝らねばならないのは私のほうです。どうか許して下さい」 「このような老いぼれにまで……もったいのうございます」 「監督不行き届きで、全く恥ずかしい限りです。しかし私も、彼らに黙って城を抜 け出してきたのですから、立派なことは言えません。悪かったと思っています」 ステファンはそう言って苦笑した。ふたりとも、特にアランは血相を変えて探し 回っただろう。その姿を想像すると、胸が少し痛んだ。 「ステファン様は側近に恵まれておられますな」 博士の顔に穏やかな笑みが広がった。 「えっ?」 「彼らにはまず、私心がありません。表現の仕方が違っていても、ふたりともステ ファン様に対して深い愛情を持っていますよ」 愛情という言葉を聞いたとき、ステファンは背中がむず痒くなるような気がした。 「そうでしょうか」 「人を見る目には多少自信がございます。殿下のお近くにも、そのような者がいれ ばいいのですが……」 結婚式の前夜、マリオンも似たようなことを言っていたのを思い出す。 「殿下に何かあったのですか?」 「いえいえ、そのような意味ではございません。ティファの学問所などから、新し い人材が育ってくれれば、それでよろしいのです。ところで、ステファン様……」 博士は突然声を落とし、身体を前に乗り出した。表情が一変して厳しいものにな る。ステファンは机の下で拳を握り、次の言葉を待った。 「殿下から、石板のことをお聞きになられていますね?」 「え、ええ……聞きました」 身体から力が抜けていくのがわかった。博士は何故、訪問の理由を訊かなかった のだろう。聖戦士についての記述があるという、例の石板がよほど気になるらしい。 「あの石板がどうかしたのですか?」 「何からお話しすればいいやら……、あれが小さな農村の畑から見つかったのは、 ご存じですか?」 「ええ、知っています。殿下がそうおっしゃっていましたから」 「実は、石板を掘り出した農夫が、奇妙な死に方をしたのでございます」 博士は暗い目をして言葉を紡ぎ、ため息を吐いた。 「どういうことですか?」 「石板が発見されてから三日目、その農夫は畑土の中に頭を突っ込んだ形で死んで おりまして……」 「待って下さい、博士。頭が土の中に埋もれていた、という意味なのですか?」 「左様でございます」 「頭から勢いよく倒れたとしても、埋もれてしまうのは変ではありませんか。これ は殺人としか思えませんよ」 「村の役人たちも、当然そう考えて調べにあたったのですが、犯人の目星すらつけ られませんでした。死んだ農夫は男やもめのひとり暮らし、財産と言えば、わずか な畑と粗末な家ぐらいのもので、親戚すらおりません。彼を殺して得をする者など、 誰ひとりとしていなかったのでございます。しかし犠牲となったのは、彼だけでは ありませんでした。城まで石板を届けにきた村長も、ティファで馬車に轢かれて死 んだのでございます」 「何ですって?」 「しかも、その馬車は村長を轢いた後、忽然と消えてしまったというのです。夕暮 れ時だったとはいえ、割合と往来の多い通りで起こった事故でございましたから、 見た者が大勢おります。彼らの全員が見間違ったとは、考えにくいのでございます」 狭い部屋が重苦しい雰囲気に包まれた。博士は懐から手巾を取り出して、額に浮 かんだ汗を拭った。 「お話を伺った限りでは、とても信じられません」 「お言葉、ごもっともでございます。私も最初に聞いたときは、我が耳を疑いまし た。ティファの物好きたちの間では、幽霊馬車と名付けられているとか」 「この件について、殿下は何とおっしゃっているのですか?」 「村長は気の毒だったが、幽霊馬車とは面白い呼び名だと……」 今度はステファンがため息を吐く番だった。 「そして二ヶ月ほど前に、拓本を作らせた職人にも、災いが降りかかったのでござ います」 「また……死んだというのですか?」 「はい。工房と住居が火事で全焼いたしまして、家族共々焼死してしまったのでご ざいます。この火事にもまた、不審な点がありました」 発見から、わずか半年。この短い期間に、石板にかかわった者たちが次々と命を 落としていた。 (5)へ続く
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