●長編 #0126の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
この男はイディオンを受験した頃と少しも変わっていないと、ステファンは密か に思った。 あのときのヘクターは不安と重圧のせいか、宿舎内で酒を飲んだあげく、ステフ ァンにしつこく絡み最後には大暴れをした。結果は当然のごとく不合格で、彼は肩 を落として従者たちと帰国したのだ。 「そんなことはどうでもいい。さっきまで浮かない顔をしていたではないか。花嫁 の父にでもなった心境か?」 「まさか。そのような気持ちではありません」 「祝宴とはいいものだな。酒が堂々と飲める」 ヘクターは相手の言葉など耳に入っていないようだった。無意味な高笑いをした かと思うと、ステファンに一歩近づき、低い声で囁いた。 「立太子式は終わったか?」 背後から、突然切りつけられたような思いがした。返す言葉を失い、手のひらに 爪が食いこむほど、拳を強く握りしめる。ヘクターの赤ら顔に満足げな冷笑が浮か んだ。 「ところで、君の妹はなかなかの美形だな」 ヘクターは声を高くして言い、そばにあったソファーに身を投げるようにして腰 掛けた。 「美しい姫と知っていれば、この私がめとったものを。フィリスごときにさらわれ るとは、かえすがえすも口惜しい」 「わが愚妹をお褒めくださるとは、もったいのうございます」 ステファンは表情を変えずに答えた。 大事な妹をお前のような奴に嫁がせるものか! 「ギルトの楽士も大したことがないな。そろそろ退屈になってきたぞ。ステファン 王子、ちょっとした座興を楽しんでみないか?」 「は?」 「座興だよ。聞こえないふりはよせ」ヘクターの目が不気味に光る。 「何をなさるおつもりです?」 「フフフ、面白いぞ。おい、そこのお前、こっちに来るんだ」 ヘクターは近くにいた給任を呼びつけ、彼の耳に小声で囁いた。何を考えている のかは知らないが、ここは持ち前の自制心を発揮して乗り切らなければならない。 命令を受けた給任の姿が貴族たちの間に消えると、ステファンは自ら口を開いた。 「国王様のお身体の具合は、いかがなのでしょうか? お加減がよろしくないと聞 いておりますが」 ハイデルク国王グスタフは、今年に入ってから体調を崩しているとの噂が流れて いた。彼は賢王との誉れが高く、グランベル帝国に次ぐ大国を率いるのにふさわし い人物である。 「父上か? まだ王座におられるさ」 「いえ、そういう意味ではなくて……」 「父上に御退位の意志は全くない。残念だったな、ステファン王子」 ヘクターは、ステファンの言葉をわざとねじ曲げて解釈しているとしか思えなか った。これでは会話にならない。 「しかし、我がハイデルクは不滅だ。帝国の影に怯えているどこかの小国とは違う のだからな」 ヘクターの言い分は相変わらず傲慢で、アストールを侮辱したものだったが、ス テファンはかえって彼の言葉に引っかかりを覚えた。グスタフ国王は退位を考える ほど健康が悪化しているのではないか。 「では、陛下はお元気なのですね?」 「当然だ。帝国の連中が、つまらない噂を流しているにすぎない」 「それはよかった。安心いたしました」 ステファンがそう答えたとき、さっきの給任が再び現れた。白布でくるまれたび んのようなものを、腕の中に抱えている。 中を見せろというヘクターの命令に従い、給任は巻きつけられた布を解いた。琥 珀色の液体の入ったびんが現れる。 「これが何か知っているか?」ヘクターが薄笑いを浮かべる。 「酒でしょうか」 「ただの酒ではないぞ。びんの底をよく見るがいい」 給任がステファンに、うやうやしくびんを差し出した。琥珀色の底には、細長く て数多くの節と足を持つ茶色い虫が沈んでいる。 「これは……ベルノブラウ?」 「そのとおり、ハイデルク特産のな。だが、こいつは百年物の貴重品、大陸中を探 しても同じ物はふたつとあるまい。中の虫を見てみろ、百年前の虫とは思えないじ ゃないか」 ヘクターの言うように虫は干からびても腐ってもおらず、びんから出してやれば、 すぐにでも地を這うのではないかと思えるほど生々しく、琥珀色の海を漂っていた。 何という趣味の悪さだ! ステファンは心の中で舌打ちをした。 ベルノブラウに浸けられた物は永遠に腐敗しない。この大陸一強い酒には、そん な伝説があった。目の前の不気味な虫を見る限り、その神話は確かなようだ。 「すぐにテーブルと椅子、グラスをふたつ用意しろ」ヘクターが給任に命じる。 「開けてしまうのですか?」 「見せるだけで終わりだと思ったのか? さて、いよいよ座興の始まりだ」 数人の給任たちが素早くテーブルと椅子の仕度をし、純白のクロスの上にふたつ のグラスとベルノブラウのびんを置いた。 幾人かの貴族たちが、ただならぬ様子に気づいたようで、声をひそめて囁き合い ながら周囲に集まってくる。彼らの上気した顔には、好奇心がありありと浮かんで いた。 「早く座れよ、皆が待っているぞ」 そう促されて、ステファンは椅子に腰掛けた。虫の入った酒など飲みたくはなか ったが、今は我慢するしかない。 「ちょっとした勝負をやろうじゃないか。そうだな……ベルノブラウをグラスに注 いだとき、この虫が入ってしまったほうを負けとしよう。敗者は虫ごと飲み込まね ばならない。どうだ、面白そうだろう?」 ヘクターは口許を歪めて笑い、びんの下のほうを指差した。貴婦人たちの間から 口々に小さな悲鳴が上がる。 「恐れながら、私は殿下と競い合うつもりはありません。共に祝杯を上げるおつも りなら……」 「臆したな、ステファン王子。虫の死骸が怖いか」 「私は臆してなどおりません。そのような飲み方は、殿下のお身体にも障ります」 「違うな、君は負けを恐れてるんだ。皆の前で恥をかきたくないから」 ヘクターはどうしても、この馬鹿げた座興にステファンを巻き込みたいらしい。 「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、お付き合い致しましょう」 「皆はどちらが勝つと思う? このハイデルクのヘクターか、アストールのステフ ァン王子か」 ヘクターは周囲を見回して言うと、びんを手に取り、ステファンのグラスに琥珀 色の液体を勢いよく注いだ。虫はびんの口のほうへと移動したが、グラスの中には 落ちなかった。 「ふん、運がいいじゃないか」 「恐れ入ります」 ステファンは静かに答え、ヘクターのグラスにベルノブラウを注いだ。虫は移動 を繰り返しただけで出てこない。周囲で静まり返っていた貴族たちが、安堵とも失 望ともつかない溜め息を洩らす。 「乾杯だ、ステファン王子」 グラスを持つヘクターの手が、微かに震えていた。 勝負が引き分けに終わったのは、夜もかなり更けたころだった。虫はグラスの中 に落ちず、ベルノブラウがびんの底わずかに残ったところで、ヘクターが先に昏倒 したのだ。祝宴は中断され、大騒ぎになった。 ステファンは騒ぎの続く大広間を抜け出して、バルコニーに立った。首に巻いた スカーフの結び目を解いてしまうと、手すりに寄りかかって礼服のボタンを胸許ま で外した。ベルノブラウで熱くなった身体を冷ますように、夜気を深く吸い込む。 「ステファン様!」 声のしたほうに目を向けた。アランが金髪をなびかせて駆けつけてくる。 「こちらにおられましたか。ご気分はいかがです?」 「悪くはないよ。ところで、ヘクター殿下はどうなった?」 「ジュダが別室に運んでいます。医師が呼ばれましたから、治療を受けられるので はないかと」 「そうか……」 ステファンは低い声で答え、スカーフを引っ張って首から外した。 「それにしても、ベルノブラウをほとんど一本空けてしまうなんて、おふたりとも どうかしていますよ。おまけに中の虫を飲み込むとか何とか……、悪趣味にもほど があります」 アランは眉をひそめて言い、ステファンの手からスカーフをさり気なく受け取っ た。 「だが、あれは向こうが勝手に言い出したことだ。かといって逃げるわけにもいか ないし。とにかく、虫を飲まずに済んでよかったよ」 「本当に困ったお方ですね、ヘクター様は。昔と少しも変わらない」 「ああ、全くだ。よほど私がお気に召さないらしい」 立太子式は終わったか? あの屈辱的な台詞が耳許で蘇り、ステファンは唇を噛んだ。相手がハイデルクの 皇太子でなかったら、その場でぶちのめしていただろう。 「どうかなさいましたか?」 「いや、何でもない」 ステファンはそっけなく答えて夜空を仰いだ。白く輝く月が美しい。天空の球体 がもたらす清浄な光が、突然ミレシアを思い出させた。 「きれいな月だ……」 「そうですね。今夜は一段と明るいかと」 ステファンはため息をつき、今度は自分の足許に目を落とした。 ミレシアに逢いたい。彼女の歌を聞けたなら、どんなに心癒されるだろう。だが それは、かなわないどころか口にも出せない願いだった。再びため息をつく。 「大丈夫ですか? ご気分がお悪いのではありませんか?」 「そうじゃない」 「念のために、医師の診察をお受けになられたほうがいいのでは」 「必要ない」 「お言葉ではございますが、お倒れになってからでは遅いのですよ。ベルノブラウ は普通の酒と違い、酒毒があるといわれて……」 「うるさい! 自分の身体ぐらい自分でわかる!」 ついカッとして言い放った瞬間、ステファンは後悔した。自分でも決まりが悪く てアランに背を向ける。こんなことは初めてだった。 「……差し出がましい口を利き、申し訳ありませんでした」 「いや……、怒鳴ってすまなかった」 ステファンは謝罪の言葉を口にすると、肩越しに振り返ってアランを見た。美貌 の青年は悲しげに目を伏せている。 「もう少し酔いが覚めたら、中に戻るよ。それまでの間、ひとりにしてくれないか」 「かしこまりました。御用の際には、いつでもお呼び下さい」 アランは落ち着いた声で答え、一礼して素早く去っていった。 冷たい夜風が吹く。ステファンはボタンをもうひとつ外した。声を荒げたときの 後味の悪さがまだ残っている。 アランはいつものように主人の身を案じてくれたのだ。それをわかっていながら、 大人げない反発をした自分が恥ずかしかった。 再び夜空を仰ぐ。 ミレシアは今頃どうしているだろうか。もう眠ってしまっただろうか、いや…… まだこの城にいるのだろうか? 心臓の鼓動が急に早くなったような気がして、ステファンは胸に手を当てた。ベ ルノブラウの酔いとは異質の、甘美で切ない苦しさが溢れてくる。 「ここにいたのか。捜したんだぞ、ステファン」 背後でフィリスの声がした。この場所で物思いにふけるのは無理があるようだ。 「すまない、フィリス。祝宴を台無しにしてしまって……」 ステファンは手すりを背にして向き直ると、友に対して素直に詫びた。 「君が謝ることはないさ、ヘクターのほうから仕掛けてきたって話じゃないか。そ れに彼は君を侮辱したんだろう? 近くにいた連中から聞いたよ。誰も止めに入ら ず、私に知らせることもしなかった。ギルトの貴族は腑抜けばかりだ」 「だが、彼の挑発に乗ってしまったのは私だよ」 「ヘクターの奴、イディオンのときも君に絡んだだろう? いったいどうして君を 目の敵にするのか、私には理解できないね。あんなのが遠戚だなんて、信じられな いよ」 フィリスはステファンの隣に立ち、唾でも吐き捨てるように言った。 「彼の具合はどうなんだ?」 「飲んだ酒は残らず吐かせたが、意識がまだはっきりしなくてね。容態が急変する こともありえるから、施療院に運ぶことにしたよ。君のところのジュダ、もう少し 貸してくれないか?」 「ああ、別にかまわない」 「よかった。ヘクターはあの体型だからね、ジュダがいると助かる……いや、そん なことより、気分はどうだ? 具合が悪くなったらすぐに言ってくれ。体質によっ ては、ベルノブラウの酒毒にやられることがあるから」 「ありがとう、たぶん大丈夫だと思う」 「無理はしないでくれよ」 フィリスはそう言うと、ステファンの肩を軽く叩いた。 「さて、そろそろ中に戻ろうか。マリオンが心配している」 「あの……ちょっと待ってくれ、フィリス」 「どうした? やっぱり気分が悪いのか?」 「違うよ、ただ……訊きたいことが……」 ステファンは急に口ごもって下を向いた。胸の鼓動が再び早くなる。 「昨日、城に泊まった学者がいると思うんだが……」 「ああ、いるよ」 フィリスは拍子抜けするほどあっさりと答えた。 「できれば……その学者の名前を教えてくれないか?」 「何でそんなことを訊くんだ?」 「いいから早く教えてくれ」 「変な奴だな。シド博士だよ」 「じゃあ、博士にはその……連れがいたはず……」 「なんで知ってるんだ? 確かに孫娘と一緒だったが」 やった、とうとう突き止めたぞ! 小躍りして喜びたい気分だったが、フィリスにはまだ訊きたいことがある。ステ ファンは高揚する己の心を落ち着かせようと、深く息を吐いた。 「顔が真っ赤だぞ、ステファン。本当に大丈夫なのか?」 フィリスは心配そうな声で言い、ステファンの顔を覗き込んだ。 「私のことはいい、シド博士は……まだ城内に?」 「いや、もう帰ったよ。例の拓本を預かってもらったんだ」 「そうか、いないのか……」 期待した分、落胆は大きかった。足許が急にふらつくのを感じて、手すりを握り しめる。 「ずいぶんがっかりしてるなあ。博士に用でもあったのか? 言っておいてくれた ら引き止めたのに。私でよければ、君の用件を伝えておくよ」 「いや……」 もういいんだ、と言いかけてステファンは口をつぐんだ。ミレシアが博士と一緒 に来たということは、ふたりは同じ家に住んでいる可能性がある。もし別々に住ま いを構えていたとしても、それほど遠くはないだろう。 シド博士の家に直接行く。結果はわからないが、やってみる価値はある。 「博士の家はティファにあるのか?」 「ティファの外れ、南側の薬草畑が広がっているところだ。確か、家の近くには大 きな笠松があったはず。自分から訪ねて行くつもりか?」 フィリスは怪訝な顔をした。博士の孫娘に逢いたいからとは、さすがに言えない。 「ええと……、ちょっと礼を言いに……」 ステファンは口ごもりなから、苦しまぎれの台詞を呟いた。顔がますます紅潮し てくるのが自分でもわかる。 「礼だって?」 「昔……、まだ子供の頃、博士に怪我の治療をしてもらったことがあって」 「それは初耳だな」 「まだ話していなかったか? とにかくギルトに来たから、当時の恩を……」 「わかったわかった、その話は明日にでも聞かせてもらおう。今夜は何も考えずに ゆっくり休めよ」 フィリスは人の良さそうな笑みを浮かべ、ステファンの背中を軽く押した。 翌朝の体調は最悪だった。頭痛と胃の不快感がひどく、食事を摂るどころかベッ ドから起き上がることもできなかった。 昼すぎにはようやく身体を起こせるようになったが、食欲はなく、頭痛も小康状 態になっただけで、完全に回復したわけではない。だが明日帰国する前に、シド博 士の家を訪ねるという離れ業をやらなければならないのだ。でなければ、ミレシア に逢える機会は永遠に失われてしまう。 ベッドに腰かけたステファンの前には、可動式のテーブルが据えつけられ、その 上には昼食が乗った銀盆が置いてあった。どの皿からも湯気が立ち上っていたが、 手をつける気にはなれない。 「ヘクター様は大変なことになっているようですよ」 アランがグラスに水を注ぎながら言った。 「どういうことだ?」 「ジュダの話では、ベルノブラウの酒毒に当たってしまわれたとか。肝臓が腫れた 上に、全身の皮膚には湿疹が出ているそうです。医師たちが解毒薬を差し上げてい るようですが、ご回復までにはかなり時間がかかるでしょうね」 「気の毒に。ベルノブラウは悪魔の酒だな」 ステファンは嘆息して呟くと、水の入ったグラスに手を伸ばした。一口だけ飲み、 グラスを銀盆の上に戻す。 「おっしゃるとおりですね。でも他人ごとではないのですよ。ステファン様も、同 じ量のベルノブラウをお飲みになったのですから。明日にはここを出発しなければ なりませんし、今日一日はご静養なさって、体調を整えていただかなくては」 「わかってるよ。それより、早く皿を下げてくれ」 「お召し上がりにならないんですか?」 「いらない。食べ物の匂いが鼻について、かえって胸がむかむかしてくるんだ」 ステファンは顔をしかめて言い、胃のあたりをさすった。 アランが言いつけに従い、昼食の銀盆を持って部屋を出ていくと、ステファンは 立ち上がってガウンを脱いだ。少しふらつく感じがあったが、一日中寝込んで病人 の真似ごとをしている暇はなかった。 第六章 予感 薬草畑の向こうに大きな笠松を見つけたのは、日が傾いて、西の空が赤く染まり 始めた頃だった。フィリスの言うとおりならば、もう少しでシド博士の家が視界に 入るはずだ。 ステファンは手綱こそ握ってはいるものの、その体力は限界に達していた。途中 で何度か休んだにもかかわらず、身体の状態は今朝よりも悪い。馬上で揺さぶられ たのがまずかったのだろう。 笠松の陰から二階建ての古い家が現れる。扉を叩く前に何をどう話すか、決めて おかなければならなかった。自分の身分、訪問の理由など。 本当は……ミレシアが欲しい。真実を伝えたら博士は何と言うだろうか、いやそ れよりもミレシア自身はどう思うのだろう。 ステファンはこめかみに手を当て、ひとり苦笑した。ベルノブラウの酔いに引き ずられるようにして、ここまで来てしまったが、今さら戻るつもりもない。 当たって砕けろ、だ。 馬が家の手前まで進んだところで、ステファンは手綱を引いた。フードを外し、 建物を見上げる。 「あっ」 思わず声が洩れた。二階の窓を、一瞬何かが過ぎったような気がしたのだ。再び 目を凝らして窓を見たが、何の変化も見られない。ついに幻覚まで見るようになっ たかと思う。 あたりは夕闇が広がり始めていた。急がなければ。だがステファンは馬から降り ても、すぐに歩くことはできなかった。吐き気と胸苦しさに加えて、周囲の景色ま で歪んで見える。 それでも歯を食いしばり、足を一歩踏み出したときだった。蝶番を軋ませて扉が 開いたのだ。 ステファン! 忘れ得ぬ、あの声。駆け寄ってくる少女の姿。金褐色の長い髪と美しい緑の瞳。 全てはベルノブラウが見せる幻なのか……。 「ステファン!」 華奢な身体が腕の中に飛び込んでくる。少女の体重を感じた瞬間、ステファンは 彼女を抱きしめた。夢ならば永遠に覚めないで欲しい。 「どうして私の家がわかったの?」 「人に……、訊いて……」 息苦しくて、それだけ答えるのがやっとだった。ミレシアの顔がぼやけてくる。 「顔が真っ赤よ」 ミレシアは驚いたような声を出すと、手を伸ばしてステファンの額に触れた。 「すごい熱! すぐ家の中に入って」 「……でも」 「いいから早く! 大変だわ!」 ステファンは結局、ミレシアの肩にすがるような格好で家の中に入った。床や壁、 家財道具の何もかもが、引き伸ばした水飴のように歪んで見える。 「ちょっと狭いけれど、ここで横になって」 ミレシアに言われるがまま、ステファンはマントと剣帯を外して、ソファーに身 体を横たえた。胸を圧迫されるような苦しさが増し、胃のあたりに限局していた痛 みが腹部全体に広がっていく。ベルノブラウの酒毒が回り始めたのだと直感した。 くそっ、ヘクターの奴! ステファンは痛みに顔をしかめながら、心の中で毒づいた。こうして唸っている 間にも、貴重な時間が無駄になっていくのだ。 ミレシアは何をしているのか。物音のするほうに目を向けてみたが、視界は急速 にかすんで、人影らしいものがゆらゆらと動いて見えるだけだった。 シド博士はどこにいるのだろう。話さなければならないことがあるのに。 「博士は……?」 「おじいさまなら、お弟子さんのところに行ってるわ。あなたはおじいさまのこと を知ってるの?」 「……まあね。君はひとりで留守番を? 他に家族は……」 「いないわ。おじいさまと私のふたりだけ」 「……そうか」 ステファンはかすれ声で呟き、肩を上下させて苦しい呼吸を繰り返した。ちょっ としゃべりすぎたらしい。 どこかで水音がした。目のかすみはさらにひどくなり、まるで霧の中にいるよう だ。瞳を凝らしても、部屋の中はおろかミレシアの姿さえもわからない。視力への 不安が胸を過ぎる。 だが、閉ざされようとする視界の片隅で、何かが白く光っているのに気づいた。 最初はろうそくの明かりかと思ったが、頻繁に動くところをみると違うようだ。そ の光がふいに近寄ってくる。 「気分はどう?」 額にひんやりとした感触を覚えた。 「こんな身体で馬に乗るなんて無茶よ」 「どうしても、君に逢いたくて……」 「私に?」 ステファンは薄く笑っただけで何も言わなかった。口の中が渇いて舌がうまく回 らない。水を飲ませてもらえばいいのだろうが、今の腹具合では少しの刺激でも吐 いてしまいそうだった。 「ステファン……」 声が震えていた。彼女は困惑しているのかもしれない。光が輝きを増し、視界全 体が真っ白になった。 「ミレシア……、どこだ?」 宙に向かって手を伸ばしてみる。目でミレシアの姿をとらえることは諦めていた。 「ここよ、すぐ側にいるわ」 冷たい両手がステファンの手を優しく包みこむ。 「……眩しいな」 ステファンは弱々しく呟いて目を細めた。呼吸の苦しさや腹痛が続いているにも かかわらず、意識がぼんやりとしてくる。 ステファン! ミレシアの声が急に遠くなる。 もうこれ以上、目を開けてはいられなかった。 笠松の下で、アランは手綱を引いた。目の前にはシド博士の家があり、その一階 の小窓からは僅かな明かりが洩れている。扉の近くでは見覚えのある馬が、月明か りに照らされながら主人の帰りを待つ。 ここにおられるのは間違いない、と思った。昼間の体調の悪さを考えれば、ここ までたどり着けたことは幸運だったのかもしれない。しかし主人の無事な姿を見る までは安心できなかった。 アランは表情を険しくして家を睨んだ。主人が身体の不調を押してまで外出した 理由には、うすうす見当がついている。そして自分には何も告げなかったわけも。 主人の友である大公はいろいろと語ってくれた。シド博士の家の所在を訊いてい たこと、昨日城に宿泊した博士には孫娘という連れがあったこと……。 アランは己の胸に手を当てた。あの化け物に切り裂かれた身体を治療し、命を救 ってくれた人物を思う。博士がいたからこそ今の自分がある。だが、それと今度の こととは全く別の問題なのだ。 何としても今夜中に城へお帰りいただかなくては。 意を決し、黒いマントの裾をひるがえして馬から降る。音を立てないよう、猫さ ながらの足取りで家に向かって歩いた。 まず、小窓に忍び寄る。肩を壁にくっつけて中の様子を伺う。 最初に見えたものは粗末なテーブルだった。その上には古びた燭台と手桶が置か れている。部屋全体を見渡したくても、小窓の半分を覆うカーテンに阻まれてしま い、それ以上は無理だった。やはり中に入るしかないようだ。 「覗きは感心しねえな」 「誰だっ!」 素早く身体の向きを変え、剣の柄に手を掛けて身構える。 「シッ、声がでかい。俺だよ、俺」 声の主を月明かりが照らし出す。熊と見紛うばかりの大きな男。 「ジュダ! お前いつの間に……」 「静かにしろよ、バレちまう」 ジュダはそう囁いて人差し指を己の唇に当てた。 誰にも告げず、ひとりで来たつもりだった。この大男はおそらく後を付けてきた のだろう。全く気づかなかった自分に腹が立つ。 「で、ステファン様は……アラン、伏せろ!」 ふたりが地面に伏せるのと同時に、小窓が開いた。身を固くして息を殺す。 「誰? そこに誰かいるの?」女性の美しい声がした。 アランは唇を噛んだ。主人を連れ戻しにきたはずなのに、どうしてこんなところ で這いつくばっていなければならないのか。 「空耳だったのかしら……」 ほどなく小窓の閉まる音がした。ジュダが安堵のため息を吐く。 ふたりとも無言で身体を起こし、腰を屈めた状態ですぐに家の側を離れた。笠松 のところまで引き返して、太い幹の影に身を寄せる。 「危なかったな」とジュダが言う。 「私は見つかってもよかったのだ。そのほうがかえって話が早くなる」 アランは半ばふてくされた顔をすると、両腕を胸の前で組んだ。 「話がややこしくなる、の間違いだろ? 御用学者の家に押し入ったらマズいんじ ゃねえのか」 「押し入るだって? 人聞きの悪いことを言うな。私はきちんと名乗って……」 「もし女が信用しなかったらどうする? ステファン様に何とかしてもらおうなん て思うなよ」 ジュダが白い歯を見せて、にやりと笑う。アランは反論せず、ぷいと横を向いた。 「やっぱりな、アランは短気でいけねえ。物事には頃合いってもんがあるのよ」 「どうしてあそこがシド博士の家だと?」顔を背けたまま尋ねる。 「大公様は人が良すぎる。もっとも、ハイデルクの馬鹿と同じでも困るがな」 ジュダの声は笑いを含んでいた。アランは組んだ腕を解いて嘆息するしかなかっ た。内密にして欲しいと頼んだのに。 「ところで、ステファン様は確かに部屋の中にいらしたのか?」 「いや、そこまでは……カーテンが邪魔で見えなかった」 「ふうん。まあ、用が済めばお出ましになるさ。気長に待とうぜ」 ジュダはそう言って、大きなあくびをした。 「冗談じゃない、悠長に待っていられるか!」 「大声出すなって。何でそんなに熱くなってるんだよ」 「私はいろいろと考えているんだ」 「はぁ? 何を考えようがお前の勝手だけどよ、少しぐらいステファン様を自由に して差し上げてもいいじゃねえか」 「駄目だ! 特に今夜は」 「どうして? こっそり出かけたからか? 学者の家に行っちゃ……あっ、そうか。 お前がピリピリしてるのは、さっきの女のせいか。きれいな声だったなあ」 アランは何も答えず、例の小窓に厳しい視線を注いでいた。 「もしお前の想像どおりだったとしても、一夜の戯れみたいなもんだろう。目をつ ぶっておけよ」 「戯れで済めばいいがな」 アランは小窓から目を離さず、低い声で呟いた。 「どういう意味だ? 何か知ってるなら教えてくれよ」 本当は誰にも話したくなかった。ため息を吐いてから口を開く。 「昨日の夜……、ステファン様の部屋から女の話し声がしたんだ」 「何だって!? さっきの女と同じ声か?」 「わからない」 アランは首を小さく横に振った。 「でも、確かに女の声だった。それにステファン様の寝間着には、微かだが女物の 香水の匂いがした」 「お前、寝間着を嗅いだのかよ」 「茶化す気ならもう何も話さないぞ」 「悪い悪い、続けてくれ」 ジュダは笑いながら言うと、アランの肩を軽く叩いた。この大男は今回の騒動を 楽しんでいるようだ。アランはますます不機嫌になり、眉間にしわを寄せて渋面を 作り押し黙った。 「結婚式に遅刻しそうになった一件にも、あの女が絡んでる。ようするに、お前は そう言いたいんだろ?」 ジュダは事もなげに言って肩をすくめた。 「……そうだ」 「言われてみれば、屋上を散歩していて遅れたっていうのはちょいと変だな」 「ステファン様のシャツの袖には、金褐色の長い髪の毛が一本付いていた。それが 動かぬ証拠だ」 「何で昼間に言わなかったんだよ」 「そんなものを出さなくても、真実を話していただきたかった……」 アランはうつむいて呟くと、ジュダに背を向けた。 「お前がお袋みたいに責め立てるから、ステファン様も意固地になったんじゃねえ のか? だけどよ、ステファン様はあの女といつ知り合ったんだ? 城の侍女あた りならまだわかるが、学者の孫だぜ。お前の推量を元にして考えると、ステファン 様は俺たちも気づかないうちにあの女と知り合いになって、その日のうちにご自分 のものにしちまった。朝が来ても別れられなくて、屋上で逢い引きしてたら、遅刻 しそうになったっていうことになるぞ。ギルトには昨日着いたばかりなのに、そん な芸当ができるか?」 「ならばどうして、ステファン様はあの女の家にいらっしゃるのだ!」 アランは振り向きざまに荒々しい声で言い放った。 「知らねえよ、俺にわかるわけねえだろうが」 ジュダも顔をしかめて言い返す。 「ステファン様のご体調は良くないんだ。お食事も召し上がっては下さらないし。 出会いのいきさつはともかく、あんなお身体でお出かけになるなんて尋常ではない。 ジュダ、私はもう行くぞ。一刻も早く城にお戻りいただくのだ。これ以上無駄話を してはいられない!」 「ちょっと待てよ」 ジュダは家に向かおうとするアランの前に立ちふさがった。 「どけ、ジュダ!」 「アラン、落ち着いて聞けよ。ステファン様があの女といい仲になっても、所詮身 分が違う。愛人にしたくても、女は外国人だからそれもできねえ。法律上の問題が いろいろあるからな。学者のじいさんがまともな奴なら、今ごろふたりを説得して るはずだ。これっきりにしろってな」 「だといいが……」 アランは気弱な声で呟いた。 ギルト公国とは、とことん相性が悪いらしい。この国に入ると、いつも何かが起 こるのだ。主人が闘技場で剣闘士相手に無謀な試合をしたり、戴冠式を嫌がる皇太 子の説得を引き受けたりするたびに、寿命の縮まるような思いをしてきた。 「今度は酒と女か……。ギルトに来ると、ろくなことがない」 深い溜め息を吐き、みぞおちのあたりに手を当てる。胃の調子が変になっていた。 「そりゃ気の毒に。とにかく短慮は禁物だ、様子を見ながら慎重に行動したほうが いい」 ジュダは妙に真面目な顔をして言った。 ……ステファン…… 誰だ、私の名を呼ぶのは? 暗闇の中心に生まれた淡い光が、次第に大きくなっていく。 ここはどこだ、私は何をしているのだ? ……目を覚まして…… その声は……ミレシア! ふいに身体が吸いこまれるような気がした。はっとして目を開ける。 「ステファン!」 視界の中に愛しい少女の顔があった。そうだ、ここはシド博士とミレシアの家な のだ。 「よかった……、気がついてくれて」 ミレシアは大きな目を潤ませて言い、ステファンの肩にゆっくりと頭をもたせか けた。微かだが、花のような甘い匂いが鼻をかすめる。 「ミレシア、君はずっと私の側に……?」 かすれ声で、おずおずと尋ねてみる。少女は顔を上げずに黙ってうなずいた。 「すまない、面倒をかけてしまって」 何という不甲斐なさだろう。ベルノブラウに負け、肝心な話をする前に気を失っ てしまったとは。これではアストールの名折れだ。 (4)へ続く
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「●長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE