●長編 #0106の修正
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八犬士伝第二輯自序 稗官新奇之談嘗含畜作者胸臆初攷索種々因果無一獲焉則茫乎不知心之所適譬如泛扁舟以 済蒼海既而得意則栩々然独自楽視人之所未見識人之所未知而治乱得失莫不敢載焉世態情 致莫不敢写焉排簒稍久卒成冊猶彼舶人漂泊数千里至一海嶋邂逅不死之人学仙得貨帰来告 之于人間也然如乗槎桃源故事衆人不信之当時以為浪説唯好事者喜之不敢問其虚実伝▲ (シンニョウに台)数百年則文人詩客風詠之後人亦復吟哦而不疑嗚乎書也者寔不可信而 信与不信有之自国史絶筆小説野乗出焉不啻五車而已屋下加屋当今最為盛而其言▲(ゴン ベンに灰)諧甘如飴蜜是以読者終日而不足秉燭猶無飽焉然益於其好者幾稀矣又与夫煙草 能酔人竟無充飲食薬餌者無以異也嗚乎書也者寔不可信而信与不信有之信言不美可以警後 学美言不信可以娯婦幼儻由正史以評稗史乃円器方底而已雖俗子固知其難合苟不与史合者 誰能信之既已不信猶且読之雖好又何咎焉予毎歳所著小説皆以此意頃八犬士伝嗣次及刻成 書賈復乞序辞於其編因述此事以塞責云 文化十三年丙子仲秋閏月望抽毫於著作堂南▲(片に聰のツクリ)木▲(キヘンに犀)花 蔭 蓑笠陳人解識 稗官新奇の談、かつて作者の胸臆に含畜す。はじめ種々の因果を攷索して一も獲ること なきときは則ち茫乎として心の適(ゆ)く所を知らず。譬えば扁舟を泛(うか)べて以 て蒼海を済(わた)るがごとし。既にして意を得れば則ち、栩々然として独り自ら楽し む。人のいまだ見ざる所を視(み)、人のいまだ知らざる所を識(し)る。しこうして 治乱得失あえて載せざることなく、世態情致のあえて写さざることなし。排簒やや久し うして、卒(つい)に冊を成す。なお彼の舶人が漂泊数千里にして一海嶋に至り、不死 の人に邂逅して仙を学び貨を得て、帰り来りて之を人間に告げるがごとし。しかれども 乗槎桃源の故事のごとき、衆人は之を信ぜず。当時、以て浪説と為す。ただ好事の者は 之を喜ぶ。あえてその虚実を問わず。伝えて数百年に至れば則ち、文人詩客が之を風詠 す。後人もまた復た吟哦し、しこうして疑わず。ああ、書はまことに信ずるべからず。 しこうして信と不信と之あり。国史の筆を絶ししより、小説野乗出る。ただ五車のみな らず、屋下に屋を加う。今に当たりて最も盛んとなる。しこうしてその言の▲(ゴンベ ンに灰)諧は、甘きこと飴のごとし。是(これ)を以て読者は終日にして足らず。燭を 秉(と)り、なお飽くことなし。しかれども、その好む者に益あること幾(ほとん)ど 稀なり。また、それ煙草はよく人を酔わしむれども竟(つい)に飲食薬餌に充ることな きに与(ひと)しく、以て異なるはなし。ああ書は、まことに信ずべからず。しこうし て信と不信と之あり。信の言は美ならず。以て後学を警(いまし)むべし。美言は、信 ならず。以て婦幼を娯(たの)しますべし。もし正史に由(よ)りて稗史を評すれば乃 (すなわ)ち、円器に方底(蓋カ)するのみ。俗子といえども、もとよりその合わせが たきを知る。いやしくも史と合せざれば、誰かよく之を信ぜん。既に已(すで)に信ぜ ずして、なおかつ之を読む。好むといえども、また何ぞ咎めん。予が毎歳著す所の小説 は、皆この意を以てす。ちかごろ八犬士伝を継ぎ出す。刻成るに及びて書賈の復た序辞 をその編に乞う。よりてこの事を述べて以て責めを塞ぐと云う。 文化十三年丙子仲秋閏月望 毫を著作堂南▲(片に聰のツクリ)木▲(キヘンに犀)花 蔭に抽く 蓑笠陳人の解き識(しる)す −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 八犬士伝第二輯口絵 酔ぬともいはれぬ春の花さかり さくらも肩にかかりてぞゆく 軍木五倍二 春風のやしなひたてしさくら花 またはるかぜのなそちらすらむ ★試記・春風の養い立てし桜花、また春風の名ぞ散らすらん 犬塚番作・手束 ★共に抵抗力の少なそうな相手/この場合は「女性」なる共通点がある/にも暴力を発 動し得る性格が語られているが、両者は対称的に描かれている。共通点がある一瞬の場 面をそれぞれ切り取り、此の「対称」を際立たせている。 遠泉不救中途渇 独木難指大厦傾 遠き泉は中途の渇きを救わず、独木では大厦の傾くを指(ささえ)ること難し。 ★本文にも引かれている譬え。第四回「大厦の覆んとするときに一木いかでこれを挂 ん」光弘に諌言を容れられなかった孝吉が出奔する折の心境。第十五回「大厦の傾くと き一木をもて挂がたし」匠作が番作に村雨を託すときの詞中 奴隷額蔵 いせのあまのかつきあけつつかた思ひあはびの玉の輿になのりそ ★試記・伊勢の海女の担ぎ上げつつ片思い、鮑の玉の輿にな乗りそ/鮑は一枚貝なの で、〈対する相手がいない〉即ち〈片思い〉を象徴する。鮑貝の内側は虹色に輝き美し いため、真珠貝や青貝などとともに装飾として用いられた。漆面に嵌め込むと「螺鈿」 となる。高級な装飾で、「あわびの玉の輿」とは、螺鈿模様の輿であるか。かなりのレ ベルの「玉の輿」を暗示すると共に、それが「片思い」である悲劇をも意味しているか 一万度太麻 犬塚信乃 三保谷かしころに似たる破傘 風にとられしと前へ引く也 ★試記・三保谷が錣に似たる破傘、風に取られじと前へ引くなり/源平屋島合戦を描く 平家物語巻十一には、後の人口に膾炙する名場面が詰まっている。例えば、源氏方の那 須与一が遠矢で船上の扇を見事に射落とした場面は、合戦のくせに雅で暢気な場面だ。 戦争というより何かの遊び/ゲームの如き状況を描く。が、続く「弓流」で読者/聴取 者は、現実に引き戻される。与一の弓術に感じ入ったか、平家の船上に齢は五十ばかり 黒革威の鎧着て白柄の長刀を持った武士が舞い始める。平家方としては、まだ戦端の火 蓋を切っておらず、エール交換の段階だったのだろう。が、源氏方の総大将・義経は無 情にも、船上で舞う武士を与一に射殺させた。平家方はシンと静まりかえる。やがて平 家方三騎が浜に乗り上げ、「仇寄せよ」と決闘を申し込む。義経は冷静に、「馬づよな らん若党どもはせよせてけ散らせ」。下知に応じて飛び出したは、「武蔵の住人みを (三保)の四郎同藤七同十郎上野国の住人丹生の四郎信乃国の住人木曽の中次」の五騎 であった。うち先駆けの三保谷十郎は馬を射られ地に墜ち小太刀を構えるが、平家の武 士は大長刀。十郎、不利を覚って背を見せ逃げ出す。平家の武士は右手を伸ばし、「甲 のしころをつかまんとす。つかまれじとはしる。三度つかみはづいて四度のたび、むン ずとつかむ。しばしぞたまッて見えし、鉢のつけいたよりふつとひつきッてぞにげたり ける」。十郎は、残る四騎が見物している所まで帰り、乱れた呼吸を整える。件の平家 武者は追いもせず「長刀杖につき甲のしころをさしあげ大音声をあげて日ごろは音にも 聞きつらん、いまは目にも見給へ。これこそ京わらんべのよぶなる上総の悪七兵衛景清 よ、と名のり捨ててぞかへりける。続いて義経を主人公とした「弓流し」の段となる。 ……平家物語は好きなので、つい長く引用したが、「錣引き」は、「壇浦兜軍記」など の浄瑠璃や、謡曲などに取り上げられている。但し、シコロ引き其の物を中心的テーマ としているのではなく、平家滅亡/没落の悲哀を描くダシ、〈皆さんお待ちかねのハイ ライト〉として用いられている 巻舒在手雖無定用舎由人却有功 巻舒、手にあり。用舎は定なきといえども、人によりては功あるも却(しりぞ)く。 土田土太郎・網乾左文二郎・交野加太郎・板野井太郎 また色のおとしつくして又さらに 見るこそよけれ新の月影 浜路 ★試記・また色の落とし尽くして、また更に、見るこそ佳けれ新の月影/虚飾を取り去 った上で更に虚色を拭い去り、初めて新月の玄妙な美しさが解る。仏典などでも、夜毎 に月の形が変わる理由を、それぞれ別の月が天の宮から出たり入ったりするからだと説 明していたりするが和漢三才図絵は、地動説ながらも、月の満ち欠けは一つの惑星が太 陽の光を反射する際に出来る影が原因だと論じている。太陽・地球・月の相対位置関係 に依る、とのレベルでは現在の科学と一致する。「新月」もしくは其れに近い月齢で、 完全に見えなくなるのではなくて、極めて淡く円形が浮かび上がっている状態を、「虚 花」浜路に喩えたか −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十一回 「仙翁夢に富山に栞す 貞行暗に霊書を献る」 馬を飛して貞行瀧田に赴く この画の解第十六張の背に見えたり 堀うち貞ゆき 霊書を感して主従疑ひを解 よしさね・貞ゆき・よしなり ★書は「如是畜生 発菩提心」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十二回 「富山の洞に畜生菩提心を発す 流水に泝て神童未来果を説く」 草花をたづねて伏姫神童にあふ 伏姫 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十三回 「尺素を遺て因果みづから訟 雲霧を払て妖▲(クサカンムリに嬖のツクリ、下に子/あ やしみ)はじめて休」 妙経の功徳煩悩の雲霧を披 金まり大すけ・玉つさ・神変大菩薩 ★神変大菩薩/役行者が厳かに立ち、傍らには満ち足りて穏やかな表情の玉梓。怨霊が 解脱した瞬間だ。此を以て、玉梓の怨みは解消する。しかし後に里見家および犬士たち に、数多のマガツミが襲いかかる。余波は如何とも為し難い。蛇口を閉めれば水は落ち ない。しかし盥に一旦落ちた水は波を広げ続ける。蛇口を閉めた途端に波立つ水面が急 に治まったりはしない。〈余波〉とは、そういうものだ。玉梓怨霊は、一旦発動してし まった以上、色々と影響を及ぼす。「八百比丘尼」なる名称設定からすれば八百年程度 は生きた狸なんだろうが、霊獣・玉面嬢を呼び寄せた。其れとは知らぬ里見家は、玉面 嬢を祀ることなど思いもよらず、結果として新たな怨みを発生させた。玉面嬢は、玉梓 が解脱しようが関係ない。玉梓怨霊は伏姫をして八房の子を懐胎せしめた。懐胎しちゃ たのだから、後戻りは出来ない。そして、其れから発生した因果が、番作・亀篠の葛藤 など其れ以前に発生していた因果と絡み、また新たな因果を発生させていく。関東連合 軍対里見家の大戦で多くの因果は解消される。そして里見家が滅亡して、総ての因果は 真に終息/収束し、無に帰する 肚を裂て伏姫八犬士を走らす ほり内貞行・里見よしさね・金鞠大すけたかのり・伏姫・おさめつかい・をとめ使 ★本文では霧が晴れ、富山の奥へと進んだ金碗大輔だが、伏姫切腹は急使たる柏田・梭 織の名前からして天照皇大神の岩戸隠れに擬せられていることは明らかであり、此の後 に犬士たちの〈暗黒時代〉が幕を開ける。八犬伝後半、田力雄神から名をとったと思し き田税兄弟が登場したかと思えば、神隠しに遭っていた親兵衛が里見義実を救出する輝 かしい再出を果たす。岩戸が開き、再び世界に光が差し始める −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十四回 「轎を飛して使女渓澗を渉 錫を鳴してヽ大記総を索」 使女の急訟夜水を渉す 堀内貞行 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十五回 「金蓮寺に番作讐を撃つ 拈華庵に手束客を留む」 怨を報ひて番作君父の首級をかくす 大塚番作・にしごり頓二・牡蛎崎小二郎 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十六回 「白刃の下に鸞鳳良縁を結ぶ 天女の廟に夫妻一子を祈る」 山院に宿して番作手束を疑ふ 庵主蚊牛・たつか・大塚番作 庚申塚に手束神女に謁す たつか ★背景に道標、「庚申塚」「左り岩屋道」。犬に乗る女性が注目を集めるニハチ第十六 回挿絵だが、思えば第八回挿絵で役行者が初めて登場した。折角の「八犬伝」だから、 此の回ぐらいまで八の倍数だと気にしてしまう。果たして此は、重要な場面だ。偶々だ ろうけども。実は筆者、此の挿絵を余り好きではない。画面に隙がある。犬に乗る女 性・手束・子犬が互いに離れすぎており、且つ各々小さい。写実的ではあるかもしれな いが、やや説明的なキライがある。ただ、熟女・手束の腰つきが、絵師の手柄か。番作 さんには悪いけれども、ついつい目がいってしまう。流石は、一億人の恋人・信乃の母 親だ。さて、犬に乗る女性が伏姫として、犬/唐獅子に乗る所から、文殊菩薩に擬する 論がある。また、弁天・吉祥天女だとする説もある。筆者が過去の日本を見る場合の視 点は、多神教もしくは汎神論であるので、何連の論も正解であり誤答であると考えてい る。伏姫の〈正体〉は、八犬伝本文が明記しているように、観音菩薩だ。それ以外に は、あり得ない。但し筆者の立場からすれば、日本の神々は揺らぎつつ各種仏格と習合 されており、仏格同士も揺らぎつつ痴漢可能なほど接近している、ってぇか置換可能 だ。一対一の対応を考えると、無理がある。本地と垂迹の関係も一律ではなく祀る寺社 に拠り規定が異なるし、仏格同士の因位などの相互関係も一律とは言い難い。神々それ ぞれの輪郭はブレており、時に依り場所に拠って入れ替わる。これを筆者は、「神々の 輪舞ロンド」と表現してきた。例えば、八幡神は一般には阿弥陀仏と習合されている が、馬琴が縁起を書いた豊後・両子山では観音とかすっている。密教では、阿弥陀が濁 世に於いて観音として現ずると考える。八幡→阿弥陀→観音の置き換えは、余りにも容 易である。一方、伏姫が天照皇大神と密接な関係にあると読本では執拗に述べてきた が、天照は観音の垂迹と考えられる場合もある。しかも岩戸に隠れたときには白い狐の 姿であったとも伝えられている。善玉の超大物・政木狐が八犬伝後半で登場するが、彼 女と河鯉孝嗣の関係は、伏姫と犬士なかんづく親兵衛との関係とダブっている。弁天と 吉祥天女は混淆していたが、共に女性神である所から、博く女性っぽいと考えられてい た観音と密接な関係を有していた。神格もしくは仏格を高次元の存在と考えれば分かり やすい。観音は如来に次ぐ存在・菩薩だから、天や王より高い次元だと仮定できる。高 次元の存在が低次元に現れるとき、同時に別の場所・異なる形で存在し得るだろう。観 音が、同時に異なる場所で、吉祥天女・弁天と違った形で出現することは可能なのだ。 ってぇか、其の様なことが出来る存在が、観音菩薩なのである。それに抑も観音は〈変 態菩薩〉なのだ。いや、「変態」と言っても、日本に於ける男色の祖とされていた弘法 大師空海が斯道の佳さを仕込まれた相手・文殊師利菩薩ではない。文殊は「師利菩薩」 すなわち「しり菩薩」であるから鶏姦を司る、との冗談から派生した近世の俗説なのだ が、文殊は智恵の神だし、天然自然の媚びを以て堅物・小文吾さえ蕩かす毛野に決まっ ている。抑も男色を「変態」と呼ぶことは宜しくない。えぇっと、だから、観音は三十 三の化身を以て衆生を教化することになっているので、変態が沢山あるのだ。近世に は、西国・阪東・安房などの観音霊場巡り「三十三箇所」が博く行われた。三十三観音 なんてのもあって、数合わせの為の無理遣りとしか思えないのだが、多くの観音が捏造 されている。結局、伏姫は八犬伝に明記されているように「観音」なのだが、抑も一神 教ではないのだから、仏格を固定化して窮屈に考えることはない。神仏に於いては、多 対多の緩やかな関係性をこそ、認識すべきだ。また、犬に乗っているから文殊とは限ら ないし、玉を持っているから吉祥天女だと考えることも危険だ。犬/獅子に乗っていた ら伏姫になるのなら、三十三観音のうち「阿▲麻のしたに玄▲齒の右に來/アマダイ」 観音も獅子に乗っている。別名は無畏観自在菩薩である。観音の徳のうち、施無畏の側 面を切り取り独立させた者だ。 施無畏とは多分〈彼我の差を認識することによって起こ る恐怖心・警戒心というものを全く持たずに相手と一体となるほど親身の慈愛を注ぎ難 しい教理を相手が最も理解し易い形で提示する〉智恵と勇気と博愛の複合概念ぐらいで はないかと思っている。如何しても「智恵」が先立つよう感じられる文殊より、やはり 観音の方が伏姫には似合っているのではないだろうか。そしてまた、玉を持つ仏格は、 枚挙に遑がないほどだ。其の内で注目に値する者は、やはり薬師如来ではないか。実は 吉祥天女は、薬師の眷属である。だいたい筆者は印度のダイナマイトバディむちむち女 神のヤクシーがお気に入りだ。まぁヤクシーは夜叉女なんだが、薬師は観音、薬王、弥 勒、無尽意、勢至、薬上、文殊、宝蓮華の八菩薩を引率している。また、光背に七つの 分身すなわち善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無 憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来を背負ってい る。像となれば「七仏薬師」と呼ばれる。安房鋸山・日本寺には、巨大な七仏薬師の磨 崖仏が安置されている。現存する者は昭和四十四年の作だが、原型は天明年間に完成し たらしい。八犬伝では五百羅漢が言及されており、房総随一の仏地とされている、あの 鋸山だ。所謂十二神将も、薬師の眷属だ。薬師は法隆寺金堂壁画に描かれていたぐらい で、古く信仰されていた。勿論、筆者は此処で伏姫と薬師を重ねようというのではない −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十七回 「妬忌を逞して蟇六螟蛉をやしなふ 孝心を固して信乃瀑布に祓す」 思ひくまの人ハなかなかなきものをあハれ子犬のぬしをしりぬる 犬塚しの・亀笹・はま路 ★試記・思い隈の人はなかなか無きものを、あわれ子犬の主を知りぬる/思い隈ある心 の行き届いた人は、なかなかいない。それに引き替え感慨深いものは、子犬が主を知っ て深く交感していることだ。「犬は主を知る」との俗語があるように、犬は忠実な動物 とされていた。ただ、「子犬のぬしをしりぬる」の「子犬」は信乃を指しているが、 「ぬし」は、伏姫はじめ里見家を意味していないことには、注意を要する。信乃はまだ 里見家と自分の繋がりを知らない。ただ信乃は、女性として育てられながらも武芸・学 問を磨いており、里の子供たちと付き合うこともしなかった。即ち、環境/感情に流さ れることなく、若しくは与件たる子供達の集団に対する本能的凝集力を無視し、恐らく は父・番作の薫陶に依ろうが、既に漠然たりとも抱いている理想に甚だ忠実であった。 故に此の場合、「ぬしをしりぬる」は、〈理想に忠実〉ほどの意味となろう。更に言え ば、「忠」が対象個人へ無批判・無条件に向けられているのではなく、あくまで主体本 人の理念と照らして発動すべきものであったことが解る。このような「忠」は、八犬伝 では早く里見季基・大塚匠作の言動に共通して見られる。同時に、結城合戦から義実が 離脱し足利成氏と敵対したこと、信乃が里見家部将として成氏と敵対し且つ大戦後まで 村雨を返さなかったことが、少なくとも八犬伝世界中、決して不忠とされない行為であ ると了解される。一方で、信乃は大戦時、房八の血で染まった衣を放さず、房八の息 子・仁を救う。再生の恩/負債を踏み倒してはいない。既存システム内の〈死んだ無意 味なルール〉としての「忠」ではなく、血の通った自由意思をもつ主体個人たる人間と しての「忠」を、信乃は示している −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十八回 「簸川原に紀二郎命を隕す 村長宅に与四郎疵を被る」 牝を追ふて紀二郎糠助が屋棟に挑む 犬塚番作・しの ★猫の紀二郎は、番作切腹の契機をつくる呪われた猫だ。また、第四輯口絵に続き馬琴 狂題として「一犬当戸 鼠賊不能進矣 犬乎犬乎 勝於猫児似虎」とあり虎に似た縞模 様の猫が犬と敵対し打ち負かされる存在と規定されており、且つ、第七輯冒頭で偽一角 を評した句に「子をおもふ夜の鶴よりかしましや 妻思ふ宿の雉子猫の声」とある。紀 二郎猫が与四郎犬に殺されるに至った経緯は第十八回にある。〈番作が背門近き荘客糠 助が厠の屋根に友猫と挑てをり……中略……友猫にいたくカマれて堪ざりけんコロコロ と輾びつ丶厠のほとりへ撲地と落〉ちたことが直接の原因とされている。発情期の猫 が、「友猫」に挑んで却って噛まれ屋根から転げ落ちたのだ。前出、偽一角に対する評 が、〈発情期の猫は五月蠅い〉ぐらいの和歌っぽい狂歌となっていることから、紀二郎 猫と似一角の山猫が、互いに繋がった存在であることが解る。なるほど、偽一角が一角 を殺し擦り替わった動機は、美しい妻を寝取らんが為であった。きっと発情期だったの だろう。一方、紀二郎と紛らわしい名前に、直塚紀二六がいる。彼の場合は猫ではな く、あくまで〈本家〉のキジであって、鳥だ。蜑崎照文の娘「山鳩」と結婚したところ から判る。紀二郎と紀二六は、まったく逆の存在だろう。但し、名を共通しつつ逆であ るとの、対称関係にある 怨をかへして蟇六小ものを労ふ 庄官ひき六・かめささ・小ものがく蔵 ★犬一匹との戦いで殊更に武張った様子を見せる蟇六の小人ぶりを示す −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第十九回 「亀篠奸計糠助を賺す 番作遠謀孤児を託す」 番作遺訓して夜その子に村雨の太刀を授 番作・しの・犬塚番作 帯雨南禽楚知春北入燕 帯雨、南禽は楚に春を知り、燕に北入す ★古代中国世界に於ける最南の国・楚で渡り鳥は、二十四節気の立春の次・雨水の頃に 春潮帯雨、春が来たことを察知して、最北の国・燕へと向かう/春が来ると旅立つ鳥 を、信乃に擬したか つるき大刀さやかに出る月のまへに 雲きれて行むら雨の雲 玄同 ★冤を呑んで死ぬなら愁嘆場となる筈だが、自らの切腹を、信乃を守り且つ信乃の巣立 ちへの策謀と位置づける番作にとっては、己の存在感と機能を十全に発揮すべき晴れ舞 台となる。番作は蟇六の犠牲者/行為対称ではなく、逆に、利害を察し自由意思によっ て積極的に行為を選択した行為主体なのである。勿論、此の冷徹さの背景には、信乃を 思う熱い心が在る。まるで驟雨の如く見通しの利かない混沌たる世界で、ただ母に父に 孝を尽くしながら自らを鍛えてきた信乃が、果たすべき目的を見つけ自らを主体とする 人生を始める。父の自死によって彼は孤独となったが、後顧の憂いもなくなった。た だ、視界を遮る驟雨を切り払った水気を制御する剣・村雨を帯び独り、輝く月に向かっ て足を踏み出す 自殺を決て信乃与四郎を斫る しの・亀ささ・ひき六 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 第二十回 「一双の玉児義を結ぶ 三尺の童子志を演」 七歳の小児客路に母を喪ふ 犬川衛二が妻・荘之助 ★非常に劇的な図。見上げる母親の顔に無念さが滲む
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