●長編 #0092の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
結局、運動公園に向かうことにした。 唐沢達のグループがテニスに打ち込むのは分かっているのだから、それ以外 のスポーツを選べばいい。 ただし、同じ列車に乗ってきたのだから、最寄り駅から施設までの道すがら で再び顔を合わせるのは必至。そこで純子と相羽は、駅のプラットフォームで 五分ほど時間を潰した後、外に出た。 「相羽君」 「うん?」 「……何でもない」 車中で言った「ケッコンする?」は、どこまで本気なのか聞いてみたいのだ が、やめた。わざわざ問い詰めて、はっきりさせるような類の話じゃない。 (お互い、十八になれば結婚できるけれど、高校生の間はどう考えたって現実 的じゃない。関係ないわよね) 相羽は純子の話が何だったのかを気にする素振りは見せず、短い微笑ととも に肩をすくめるのみだった。 「そういえば」 純子は運動公園が近付くに従い、先月のある出来事を思い起こした。 「あのときは、本当にびっくりしたわ」 「……もしかすると、遠野さんのこと?」 勘の鋭いところを見せる相羽。 「あれ以来、遠野さんや長瀬君と会った?」 「会ってない。長瀬はともかく、遠野さんや他の女子と会うのは避けようかな って思ってる」 「それって、私のため?」 「そうなるかな」 相羽は答えるや、歩みのスピードを若干上げた。表情の変化を見られたくな かったのかもしれない。純子は彼の背中を見つめる形で、付いていく。 「今度は私も一緒に会いたいな。長い間、遠野さんとも長瀬君とも話してない 気がする」 「案外、来てるかもしれない」 長瀬のリハビリが続いているのだとしたら、運動公園内のスポーツセンター に姿を見せても不思議じゃない。でも、そうそう都合よく会えるはずもなく。 「……いないみたい」 目的地に着くなり、スポーツセンターを覗いてみたが、空振りに終わり、ち ょっぴり落胆。 「でも、いなくてよかった」 気を取り直し、そうつぶやく。相羽が面白がる目つきをした。 「何故? 会いたいって言ってたのに」 「だって、長瀬君が完全に治ったのかもしれないでしょ」 「ポジティブだねぇ」 「仮にそうじゃないとしても、遠野さんと二人で、もっと楽しいところに出掛 けたのかも。バレンタインなんだから」 「あの二人がそういう仲なのかどうかはおくとしても……もっと楽しいところ なんて言われると、ここに来てる僕らの立場がないなー」 「あら」 これは失言だった。口を手のひらで覆い隠す純子。それから大きな身振り手 振りを交えて言い訳を。 「それはその、ねえ、長瀬君はともかく、遠野さんて、ほら、運動があんまり 得意じゃないから、ここよりは他の場所がいいだろうって思ったまでで、運動 がしたい私達とは――」 「フォローをどうも」 「わ、私は、充分楽しいわよ……相羽君といるだけで。場所に関係なく」 「奇偶だな。僕も同じ」 こういう風に出られると、もう何も言えなくなる。言う必要を感じない。恥 ずかしいような嬉しいような、表現しづらい心持ちになる。 「唐沢達のテニスに対抗するわけじゃないけれど、こっちはテーブルテニスに しようか」 相羽が手首を返し、そのフロアの一角にある卓球台を示しながら提案した。 今日の服装や朝から仕事をこなしたことを考えると、ちょうどいいかもしれな い。 道具一式を借りてきて、台のそばに立ってから、純子は相羽に聞いた。 「相羽君、卓球は得意?」 「温泉上がりによくやっていた程度」 レベル差があるわけではないようだ。それよりも相羽の返事と来たら、温泉 旅館に泊まった経験が豊富という意味に取れる。そこのところを重ねて聞いた。 「うん。まだほんと小さな頃、仕事に行く両親に引っ付いて、あちこち行った んだ。地方だと、卓球台以外、何も置いていないような旅館もあってさ。他に 泊まり客がいない場合なんか、調子に乗って三時間ぐらい続けてやったことあ るよ」 相手をさせられる方が大変だわと感じた純子。同時に不安に駆られもする。 「まさか、今から三時間、やるっていうことは……」 「それはないけど、もしも純子ちゃんが卓球がいいって言うなら」 「言わない、言わない」 とりあえず卓球スタート。最初は得点状況を把握することもなく、お喋りし ながら単にぴん、ぽんと打ち合うのみ。 「純子ちゃん、天体望遠鏡を買うだけの貯金あるのに、どうして買わないの」 「忘れてた。と言うよりも、買っても空を覗いてる時間が取れないからと思っ て先延ばしにしていたら、募金活動を始めることになったでしょ。だから、ね」 「もしかして、貯金全部をその女の子のために?」 「ぜ、全部じゃないけど。望遠鏡はいつかまた買える」 お金に関わる話は苦手だ。純子は話題を少しずらそうと試みる。 「望遠鏡で思い出したわ。天文部はどうなってるの? 相羽君もピアノやら何 やらで忙しいみたいだけど……」 「出てない。忙しいからというんじゃなくて、単にさぼってるだけだから格好 悪いよな。純子ちゃんが入ったら、皆勤する気満々なんだけどね」 「わ、私は無理。本当に、忙しいから。だいたい、私が部活に加わればなんて いうのは、動機として不純よ。もっと星を心から好きになって」 不純と言われたのが堪えたのか、相羽はスマッシュを派手に空振りした。壁 まで転がった球を拾いに行き、戻って来てから、また別の話題を持ち出した。 「小菅先生の赤ちゃんはまだなのかな」 「そういえば」 忙しさにかまけて、こちらから電話をして尋ねるような真似はしていない。 それに、もし万が一にも最悪のケース――流産になっていたらと思うと、恐く て聞けない。だから、先生から連絡をもらえることを無意識の内に願っていた。 「学校に聞けば、どんな状況なのか教えてもらえるんじゃないかな」 相羽が言った。純子はレシーブをミスしたあと、答える。 「あ、そっか。多分、産休を取ったあと、先生から中学に連絡を幾度か入れて いるわよね」 「今から聞く?」 ラケットを送受器に見立て、頬にあてがうポーズを取る相羽。だが、それも 長くは続かなかった。と言うのも。 「あ、だめだ。今日、日曜だから学校には誰もいないだろうな」 純子はしばし考え、「やっぱり、直接電話してみようかしら。気になる」と つぶやいた。 「君がそれでいいのなら。僕も早く知りたい」 「じゃあ」 携帯電話を取りに、コインロッカーのある方へと足を向けた。が、すぐには 動き出さない。 「ここって、携帯電話を使ってもかまわない?」 「さあ……?」 周囲をぐるりと見渡し、相羽が一点を指差しながら付け加える。 「使用はご遠慮ください、だってさ。貼り紙してあるよ」 「ううん、しょうがない。一旦外に出たら、ピンポン一式借りるのにまた手続 きしなくちゃいけないんでしょ?」 「そうだね」 「だったら、先生宅に電話するのは、目一杯、ピンポンしてから、ねっ」 「あ」 言うや否や、強烈なサーブを打ち込んだ純子だった。 「やったあ、サービスエース!」 「やれやれ。こっちも本気を出さないと。……二十一点先取で勝負して、何か 賭けない?」 「賭け? 何を?」 「チョコレートとか」 「バ、バレンタインにチョコを賭けなくてもいいじゃない」 思わず吹き出す純子に対し、相羽は真顔で応じる。 「もらえないんじゃないかと心配で」 「そんなことないってば。ちゃんと用意してます。今すぐ、ほしい?」 ぐっ、と詰まる相羽。純子に真っ直ぐ見つめられ、心なしか目元が赤くなっ たようだ。 「ほしいけど、今じゃなくてもいい。待つよ」 「期待しすぎはだめよ。それで、何を賭けるの?」 「ジュース一本てことで」 どうやら本当は最初からジュースにするつもりだったと見える。即答した相 羽は、純子が承知するのを待って、サーブした。 ワンセットマッチのはずが、三本勝負になったせいで、決着した頃には案外 汗をかいていた。季節柄、風邪には特に注意せねばならない。 「気持ちいいけど、疲れた……」 ジュースを口にした純子は、身体の芯からクールダウンするのを感じて、ほ っと一息ついた。これで外に出れば、逆に寒さが身に染みるかもしれないけれ ども。 「朝からの労働の差が出たかな」 勝利を収めた相羽には、ほとんど疲れた様子がない。二セット目を取れたの は、手加減してくれたんじゃないかしらと、純子は感じる。 「疲れたのなら、このあと動くのはやめて、休む?」 「ううん」 首を水平方向に振る純子。折角のバレンタインデーだ、もっともっと楽しま なければ。 「動くなら、すぐの方がいいな。遅くなったらまずいでしょ」 懐中時計で時刻を確かめる相羽。時間の流れの速さを恨むかのように、かす かに口元を動かした彼に、純子は意志を伝えた。 「ね、相羽君。これからどこかに遊びに行くよりも、少し話したいな、私」 「――それじゃ、このままここに居座っているわけにもいかないから……」 二人は現在、スポーツセンター内の自動販売機前にいる。廊下の突き当たり に位置し、今のところ周りに人はいない。 「別にここでもかまわないわ。ちょっとでも長く、話していたい」 「それなら、ロビーに。座れるはずだよ」 缶を持ったまま、ロビーに向かう。正面に受け付けカウンターのある、やや こじんまりとしたエントランスホールには、プラスティック製らしき椅子がた くさん備え付けてあった。日曜だから利用者は多いが、ロビーに長くいる者と なると数えるほどだろう。 二人は窓から公園を臨める席に座った。荷物は空いている席に置いてもいい のだが、念のため、椅子の下の空間に押し込む。 「それで、話って?」 「え? ううん、話があるんじゃなくて、話をしたいの」 「なるほど」 飲み込みが早い相羽。言葉に敏感な彼ならではかもしれない。 「さっき、小さい頃の話をしてくれたでしょ? 続きをもっと聞きたい」 「続きと言われると難しいけれど、小六のときに転校してくるまでの話なら」 「うん」 わくわくという感じで、頬を押さえる純子。相羽は前方を見据え、何から話 そうか考える様子。純子は待ちきれなくて、先に口を開いた。 「相羽君が小さな頃の写真を見せてもらったことあったわよね。あれを見た限 りじゃあ、結構腕白そう」 「そうかな。昆虫を追い掛け回していた時期は、日焼けしたし、よく擦り傷切 り傷を作ったけれどね」 「そっか。でも、転校してきたその年に、昆虫採集やっていたじゃないの。あ れは腕白小僧って感じじゃなかったなぁ」 「うーん、確かに、小さい頃の方が腕白だったような気がしてきた」 「喧嘩なんかした?」 「うん。恥ずかしながら」 左手を閉じたり開いたりする相羽。 「腕白という以上に、短気というかプライド高いところがあってさ。こいつ男 の癖にピアノやってるんだぜとか、女に気に入られようとしているとか、色々 言われると、結構手が早かった」 「今はそうじゃないのに。性格が変わったのかしら」 「それはやっぱり……父さんがいなくなって、僕が頑張らなければって思った からだよ、きっと」 逡巡を挟みつつも、そう答えた相羽。純子は一瞬、思い出させたことを申し 訳なく感じたが、ここで謝ると映画を観終わったあとと同じになってしまうだ ろうから、やめておこう。 「その代わり、お父さんのことを言われると、手が出ちゃうこともあったわよ ね」 「えっ? ああ、純子ちゃんにも見られたんだっけ、清水と喧嘩になったとき のこと」 「見たどころか、そのあと、理由まで教えてもらったわ」 それよりも、と、純子は話を少々脱線させることにした。 「清水で思い出した。今度、野球の試合をするみたい。清水の学校と緑星とで」 「へえ? 清水や大谷が入った高校って、野球のそこそこ強い学校だったはず ……。ということは、やっぱり佐野倉の加入が大きいのかな」 「そうみたい。試合、観に行く?」 「清水や大谷に会ってみたい気はたっぷりあるけど、試合を見るとなると、ど ちらを応援すべきか悩んでしまうな」 「いいのいいの、その辺は堅苦しく考えないようにして」 純子自身、観戦に行くとなったら、自分の学校も清水達も両方応援するつも りでいる。これがたとえば地方予選だったら、話は違ってくるだろうけど。 「相羽君は、どちらかと言えばサッカー派よね? 小学生の頃、野球をしよう とは思わなかった?」 「野球もやったよ。でも、サッカーに比べると手に怪我をするケースが多いだ ろうから、何となく遠ざかってしまって」 昔の相羽は、今以上にピアノ優先だったらしい。いや、多分、武道を始めた のだって、母親を守れるようになりたいという動機があったからこそで、そう でなければしなかったに違いない。 「上手だった?」 「小学校低学年の話だもんな。上手下手を論じるレベルじゃなかったと思う」 「ほら、よく言うじゃない、エースで四番とか」 純子の質問に、相羽は片手を顔の前で振った。 「さすがにそれはない。ピッチャーは何回かやったことあるよ。打順は、一、 二番が多かった。バントヒットをよく決めてたっけ。相手チームには嫌われた ろうな」 「ふうん」 バントヒットをすると嫌われる理由が分からないけれど、純子は合点した風 に微笑んだ。自分の知らない相羽のことを聞いているだけで、何だか嬉しい。 「腕白な割に、ピアノや手品もやってたのね。不思議な感じ」 「深窓の令息じゃないんだから、ピアノと腕白は相反するものじゃないでしょ」 呆れた様子で嘆息する相羽に、純子はかまわず次の問い掛けをした。 「手品は誰かに習ったの?」 「まさか。正式に習ってはいないよ。デパートの玩具売場にいるマジシャンの ところに通い詰めて、少しずつ教わった。あとは本を見て練習」 「それであんなにうまくなれるの? 私も小さいときに始めておけばよかった」 「僕程度ならうまいとは言えない。ほんのちょっぴり器用なだけ」 「そうかなー。道具は豪華じゃないけど、プロみたいに見える」 「ははは。オリジナルの手品を一つでも考案したならまだしも。でも、お誉め にあずかり光栄です」 純子の方に身体を向けると、王女に謁見する騎士のごとく、胸元に右腕をか ざした相羽。 純子は赤面した横顔を向けつつ、「ば、ばかねえ」と短く応じた。 「いつか機会があったら、本物のマジックショーを観に行こう。僕もまだ一度 も観たことがないんだ」 「う、うん。いいわよ」 「さて。純子ちゃんの希望もかなえないとね。化石発掘、だったっけ?」 「あ、覚えてたの? 中学のときの……」 「春休みや夏休みなら、体験ツアーみたいなのがあるかもしれない。早めに調 べて……純子ちゃん、スケジュールを空けられる?」 そう問われると、表情が曇る。久住としてコンサートが組まれるかもしれな い。春休み中に一度催す線は、準備期間の短さに加えて例のカメラマン事件の 後始末で鷲宇の都合が悪くなり、取りやめになったが、ツアーをゴールデンウ ィークか夏休みいずれかで挙行する話は固まりつつある。春休みは、そのため の練習や打ち合せに費やされる可能性大。他にも新曲のプロモーション活動や、 モデルも。 「夏休みなら、何とかなるかな」 とりあえずの返事。まさか夏休みを丸まる使って全国ツアーなんてことはあ るまい。 「やっぱり、僕もテレビに映ったらよかったかな」 純子の横顔を見ていた相羽が、独り言みたいに言った。振り向いて、どうい うこと?と目で尋ねる。 「恋人がいると知れ渡れば、これ以上、君の人気が上がることはないだろうか ら」 「――それなら、ついでに、久住淳にも彼女が必要ね」 密かに息を飲んだ純子が、精一杯の切り返しをすると、相羽は「そこまでと なると手に余る」と困り顔で腕を組んだ。 純子がくすくす笑うのへ、相羽は話題を転じてきた。 「僕も、君の小さいときのことを知りたい」 「えーっ、私の方も、まだまだ相羽君のこと知りたいのに。全部聞けてない」 自分のことを話す気恥ずかしさもあって、頬を膨らませた純子だったが、相 羽の次の台詞で、元通りになる。 「急がなくてもいいでしょ。これから時間を掛けて、ゆっくり知ることができ れば」 「……それもそうね。じゃあ、今日の分はここまで。私から話すとしたら」 考えてみるが、何をどう話せばいいか、判断がつかない。 「前から思ってたんだけど、体操か新体操を習ってなかった?」 相羽に問われて糸口ができた。しかも、大当たりだ。 「ええ。幼稚園の頃から何年間か。どうして分かったの?」 「ほとんど直感。ただ、バク転を軽々とこなしていたから」 相羽は中学の運動会のことを言っているのだ。記憶力に感心してしまう。 「やめた理由、聞いても平気?」 「うん。大したことじゃない。その頃の私はポニーテールがお気に入りで、ポ ニーテールばかりしててね。髪が伸びるにつれて、体操をするには邪魔になっ たわ。髪型を変えればいいのに、私ったらポニーテールにこだわって、結局、 体操の方をやめたの」 「もったいないような。今なら割と頻繁に、ヘアスタイルを変えてるのに」 「もう一つ、理由がなくもないんだけれど……笑わない?」 「多分」 純子は声をいくらか小さくした。誰かに聞き耳を立てられているということ はないだろうが、それでもやはり気になる。 「その体操教室は、高校生や大学生の練習の様子が間近で見られる環境だった の。それで、初めは上手だなあって思うだけだったのが、ある日突然、気が付 いたのよ。……胸が大きくていいなあって」 「スポーツとあまり関係ないと思うんだけど」 「あるわ。あの人達に比べたら、私は格好よくない、レオタードを着て動き回 るのにふさわしくないと感じちゃったんだもん」 「同年代の子もいたでしょ。わざわざ年上の女性と張り合わなくたって」 苦笑いが耐えなくなっていた相羽に、純子は首を横に振った。 「だって……そう思うようになったきっかけがあったのよ。学校で清水や大谷 達に、ぺちゃぱいってからかわれて、気にするようになってたから……」 話す内に、目線が下がる。顔もかすかに赤くなる。 「小学一、二年生の頃の話だよね?」 「だいたい、その頃」 「じゃ、やっぱり気にしすぎだ。そういえば、僕も小六のときに君から怒られ たっけ。食べないと大きくならない、みたいなことを言ったら、純子ちゃん、 すぐに胸のサイズに結び付けて、どうせ胸が小さいわよとか何とか」 「……」 もはや、顔を起こすのが辛い。 (あの頃は、本当に気にしてたんだから、しょうがないでしょ! 周りの友達 がみんな、段々膨らんで大きくなっていくのに、自分だけ中途半端だったら気 になって当然よ) ひとしきり心中でまくし立てたが、恥ずかしさはかえって倍加したような。 「今とは大違いだ。心境の変化? 自信を持てたとか」 「自信とまでは行かないけれど……抵抗がなくなった感じ。周りの人達が励ま してくれて、乗せてくれるから」 「小さい頃、歌手や俳優、モデルになりたいって、憧れたことはなかった?」 「あったわよー、それは。ほとんど全員が一回は考えることじゃないかしら」 「あのとき……モデルの代役を急に頼まれたときは、そうでもないみたいだっ たけどなあ」 「当ったり前でしょ! 自分がモデルにふさわしいなんて、とても思えなかっ たもの」 「へえ? 今はふさわしいと」 意地悪。 純子は上目遣いに相羽を見やってから、深く息をついた。 「まあ、小学生のときに比べたら、ね。ちょっとはきれいになったかなあって」 純子にしては大胆な台詞。自分を磨くことに力を注いできた、そのバックボ ーンがあってこそ、言えるフレーズだ。 「僕には変わっていないように見える」 「そ、そう?」 独りよがりだったかしらと落胆しかけた純子を、続く言葉が救う。 「昔からずっときれいだから」 「――もうっ」 ぽこっと二の腕を叩いてやった。照れくささを紛らわせるために、早口で言 い立てる。 「気障な台詞、全然似合ってないわよ。唐沢君の癖がうつったんじゃないの?」 「かもしれないなあ。あいつとも割と長い付き合いだし」 本当は、純子が相手だから、必要以上に饒舌になってしまったのかもしれな い。 「今日の昔話は、この辺まででいいでしょ? そろそろ移動しないと、他の人 に迷惑になるわ、きっと」 潮時と見て、建物から出ることに。先に立つと相羽が急ぎ足で着いてくる。 「忘れ物、ないね?」 「あーっと、うん、ちゃんと持ってる」 相羽へのプレゼントの入ったポシェットを掲げ持つ。渡すタイミングを決め かねていることを思い出した。本来なら、会って最初に渡すところだ。それが できていれば気が楽になったろうが、仕事のおかげで機を逸してしまった形で ある。 (ピンポンしてるときに渡せばよかったかな。でも、こういうときに、周りに 人がいるのって、私、だめだからなぁ) 別れ際に渡すのがいいわ、と心に決めて、純子は相羽に言った。 「今度はエアホッケーやらない? さっき負けた分、取り戻したい」 「その挑戦、受けた」 相羽は自信ありげに応じた。 楽しさのあまり、すっかり忘れてしまっていた。 「小菅先生に電話、どうしよう?」 やっと思い出したときには、すでに夕方。自宅までの最寄り駅に降り立った 瞬間だった。 「ちょうど、夕飯の支度で忙しくなり始める頃だし、明日でいいんじゃないか」 「そうね。そうする」 あっさりと首肯したのは、今日はもう相羽とのデートに浸ろうと思ったから。 駅の屋根の下を抜けて、外に出る。星空が広がっていた。まだまだ西の空が 明るいので、満天の星とはいかないものの、冬の澄んだ空気を通してきれいに 輝いている。 「電話と言えば」 相羽が話題を転換した。これを言い出すのは、相羽本人にとってもひょっと すると本意でなかったかもしれない。 「母さんに電話しようか。迎えに来ると言っていた」 「ううん。このまま、ゆっくり歩きたい」 意識してゆっくりと歩かなくても、優に二十分は掛かるだろう。だけれども、 正直な気持ち、もっと長く、二人きりでいたいと思う。 相羽を見ると、口をかすかに開き、安堵と喜びの笑みがそこにあった。やは り彼も二人でいたいと考えていたに違いない。 途中で別れることなく、純子の家を目指す。 軽い上り坂に差し掛かった頃、純子から口を開いた。角で立ち止まり、「相 羽君、待って」と声を掛ける。すぐに停止した相羽。 「家の前でって思ってたけれど、両親に見られたりしたら恥ずかしいから、今、 渡すね」 相羽の返事は一瞬間遅れた。どう答えようか、迷ったらしい。 「――よかった。これでバレンタインらしくなる」 「もう一回言うけれど、期待し過ぎちゃいやだからね」 「期待してます」 太陽が沈んだ瞬間の、濃い紫色の空の下、相羽の目元がにこにこしている。 純子はポシェットから、プレゼントを慎重な手つきで取り出した。リボンで 飾り付けたマグカップ、中に一口サイズのチョコレートを詰めてある。こぼれ 落ちないよう、全体をラッピングしておいた。 「……えっと。バレンタインのときは、何て言って渡すんだっけ」 「さあ? 今、君が思ってることでいいんじゃない?」 「じゃあ――相羽君、大好き。受け取ってください」 両手でやや斜め上に差し出す。見れば、相羽の頬の色が変化していた。大げ さに表すなら、数分前に戻って夕日を浴びたみたいに赤くなっている。 「告白されたみたいだ」 「いいから、受け取って! 人が来たら恥ずかしいっ」 横目で左右をちらちらと探る。今までのところ、奇跡的に誰も通りかかって いない。 と、手の感触が変化する。ふわり。そんな感じで、マグカップが手のひらか ら離れる。リボンが小指を撫でた。 「紅茶よりも、コーヒーかココアが似合いそうな器だね。ありがとう」 「ど、どういたしまして」 じゃなくて、と、頭の中で舌打ちをする気分になる。 「あ、あのね、相羽君。そのマグカップ、大切に使ってほしい」 「それはもちろん――」 相羽はマグカップを目の高さに掲げ、外観をしげしげと眺めた。さらに外灯 の光を当てる。そしてつぶやいた。 「名前がローマ字で。目立たないから気付かなかった」 「お店のサービスがあって、入れてもらったの。それでね、私も同じデザイン のマグカップを買ったんだ。相羽君と私とで、何か一つ、ペアの物を持ってお きたいと思ったから……」 「ペア」 相羽は口の中でその単語を繰り返し、楽しそうに目元を緩ませた。気に入っ てくれたと分かり、純子も安堵とともに笑顔になる。 「帰ったら早速使うよ。これだけ寒いときは、温かい飲み物が一番。――いや、 二番目かな」 聞き咎めて、え?と言い掛けた純子だったが、見上げた視線の先、相羽の顔 つきから程なくして察した。 言葉にするのも照れるので、黙って手を出す。相羽の手を握った。 一番はこれ? 相羽に目でそう問い掛け、確認する。 やがて柔らかく握り返してきた。 * * ピアノレッスンがいつもよりほんの少し早めに終わると、アルビン=エリオ ット先生は、話があるんだと切り出した。 (またJ音楽院に入らないかって話かな?) 相羽は条件反射のように、そう思った。 (ここしばらくは言われなかったのに。もちろん、僕だって状況が許せば入り たいのは山々だけれど) そんな相羽に対するエリオットは、いつになく深刻な顔つきをしている。相 羽もそのことに気付いた。 「残念だが、よいニュースじゃない」 重々しく、口を開く。どこか寂しげでさえあった。 「私は三月中に帰らねばならなくなったよ、信一」 「帰るって、帰国するという意味でしょうか」 「そうだ」 「……何だか、突然ですね。赴任期間が満了したんですか」 「いや」 「もしかすると、身内の方に何か……」 「それも違うよ。すまないね、焦らす意図は全くないんだ。理由は聞かないで くれたまえ。いずれ分かることだが」 「そう、ですか……」 胸の内では気になって仕方がないが、エリオットから聞くなと言われれば、 従うしかない。 「私はだが、君への指導を打ち切りたくない。打ち切るつもりはない」 一転、エリオットは強い調子で繰り返した。そして相羽の両手を取って自ら の手で包み込むと、真っ直ぐに見つめてきた。 「信一にこれを言うのは何度目なのか忘れてしまったが……一緒に来て、J音 楽院で学ばないか。私は君の才能が惜しい」 「……」 即答できなかった。 これまでなら、やんわりとではあるが、簡単にノーと答えていた。日本にい たままでもこうしてエリオットに教えてもらえるし、母がいるし、何よりも純 子がいるから。 だが、エリオットが日本を去ると聞いて、少しだけ、心がぐらつく。四月に なればもうレッスンを受けられなくなるのかと思うと、もっと上を目指したい 気持ちが急速に強まる。 「エリオット先生」 相羽はそれだけ言ってから、手をゆっくりと引き抜いた。握られたままだと、 後先のことを考えずにエリオットの提案を受け入れてしまいそう。 「考える時間をください」 「いいとも」 うなずいたエリオットは、皮肉めかして付け足した。 「これまでにもたっぷりと時間をあげたんだ。今さら少々延長しても、大した 違いはない」 「いつまでに返事をすれば」 「君はすでに入学資格を得ている。極端な話をすると、この九月に入学するこ とだって可能だからね。ただし、簡単な予備テストは受けてもらうことになる だろう。それを考えると、七月半ばまでに返事をくれればいい」 返事は三月中かなと思っていた相羽にとって、意外な答だった。時間は多い ほどありがたい。 「分かりました。でも、ご要望に添えるかどうか……現時点では、色よい返事 は出せそうにありません」 「私が君の能力を買っていることだけは分かってくれ。これは決してお世辞で も、君のお父さんへの贖罪の気持ちからでもない。趣味のレベルにとどめてお くには、あまりにも惜しい。敢えて、損失だと言おう」 「もったいないです」 「いいかね、信一。私は本気で言っている。ほしいのは謙遜ではなく、決断だ。 日本にいても、君はピアノを弾けなくなるだけだぞ」 「? どういう意味です?」 弾けなくなるとは。オーバーに過ぎるエリオットの話を聞きとがめ、尋ねる。 相手のエリオットは、一瞬、ばつの悪そうにしかめっ面を覗かせたが、程なく して苦笑を浮かべた。 「いや、これは言葉が過ぎた。それだけ期待しているということだよ」 エリオットが相羽の肩をぽんぽんと二度叩く。 (何だろう……。何か、引っかかる) 釈然としないものが相羽の内に影を落とす。だが、それを声にはしない。深 くは聞けない、壁を感じた。 ――『そばにいるだけで 60』おわり
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