●長編 #0088の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
その日、登校前から純子はそわそわしていた。約一週間後に迫った一大イベ ント、バレンタインデーのことが頭にあったから。 (付き合って初めてのバレンタインが、日曜日でよかった) 駅を出て学校に向かいながら、生徒手帳のカレンダーで確かめると、純子の 頬がほころぶ。 (他人の目を気にせず、渡せる!) 顔の前で手帳を音を立てて閉じ、ポケットに仕舞った。覗いた表情は、まだ ほころんでいる上に、朱が差しつつあった。 「どうしたの?」 いつの間にか合流した結城が話し掛けてくる。意識と視線をそちらに向ける と、結城の他に淡島もいた。 「お、おはようっ、マコ、淡島さん」 「おはようございます」 慌てる純子の前で、淡島が深々とお辞儀した。結城も朝の挨拶のあと、「何 で顔を赤くしてたのかな?」と同じ質問を繰り返す。 「え、いや、何でもないわ」 「そんなことないでしょう。笑顔ばっかりの百面相だった。でれでれしちゃっ たり、にやにやしちゃったり。漫画に描けば、きっと花を背負ってるわね」 右手をピストル型にして、純子の胸先に当てる結城。思わず、ホールドアッ プしそうになる。 「秘密があるんですの?」 淡島までも興味ありげに首を傾けた。純子は嘆息すると、周囲を見渡し、あ きらめた。形ばかり、声を潜める。 「バレンタインデーのことを考えていたの」 「そういえば、もうそんな季節ですわ」 両手を合わせ、空を上目遣いで見やる淡島。指に引っかけた学生鞄が重そう。 「西洋から伝わった風習で、私が最も好きな物の一つ」 「と言うからには、淡島さんは、チョコレートか何かを渡す相手が、ちゃんと いるんだ?」 結城が心底驚いた風に目を丸くし、口を大きく開けて聞く。 しかし当の淡島は、全く動じた様子もなく、悠然と頭を横に振った。 「風習の素晴らしさを論じただけで、私の相手のことは申していません。バレ ンタインとチョコレートはそもそも無関係ですし」 「あ、さいですか」 気抜けしたような、ほっとしたような、複雑な心境が露な顔つきで、結城は うなずいた。 そんなやり取りをした二人が、観音開きの扉のように、揃って左右から純子 の方へ振り返った。 「純の相手は、当然……?」 「え? ええ、まあ」 ずばりと聞かれて、純子はまたもや赤面した。はっきり口に出さずとも、そ れが誰なのか二人とも知っている。 「結城さん、野暮ですわ。無粋ですわ」 「いやあ、私のポリシーでは、正式に付き合い始めたのなら、わざわざバレン タインに品物を贈って、愛してますというサインを示す必要はないじゃんと思 ってるもんだからね」 「そ、そうなの?」 それが一般常識なの?――面食らって聞き返す。 結城は苦笑にため息を交え、「私が考えてるだけだってば」と答えた。 「安心した?」 「うん」 結城は、こくりとうなずく純子に手を伸ばした。 「素直でかわいらしい。純の背が私よりも低かったら、頭を撫でてあげたいく らいだね」 「な、何を言い出すかと思ったら」 そう応じながらも、純子は自ら頭を押さえた。 「それで、相羽君から聞いたの? 何がほしいのか」 「ううん。だって、バレンタインデーはチョコレートに……」 決まってるという風に、人差し指を立てて返事しかけた純子だが、それを友 達二人が相次いで否定する。 「芸のない。今までと同じことやってたら、付き合い始めた意味がないんじゃ ないのかなあ。もったいない」 「こればかりは私も同感です。向上心がなければ、進歩や発展はありません」 淡島の言い種には話の対象を広げすぎだよと感じたが、それを差し引いても 純子の心境は揺らぐ。 (相羽君も、マコ達と同じような考え方なのかなぁ? もしそうだとしたら、 チョコレートをプレゼントされただけじゃ、不満に感じるかも。こんなことで 嫌われたくない……他に考えなくちゃ) 鞄の取っ手を掴む指に、力が入った。 「何がいいんだろ……」 つぶやき気味に言うと、淡島からすかさずアドバイス?が出された。 「遠慮の必要のない間柄になったのでしたら、ずばり、相手に聞けばいいんで す。これより手っ取り早い方法はありませんわ」 「そういうのはちょっと」 ムードがないというか、はしたないというか。躊躇を覚える純子。 ところが、プレゼント消極派の結城まで、淡島の意見を推す発言をする。 「時間がないんだから、そういうのありなんじゃない? 多分、何もらっても 喜ぶと思うけどさ、どうせあげるのなら相手のほしがってる物をあげたいとい うのは真理なんだし」 「うーん」 唸りつつも、一理ある話だわと思わないでもない。校門が見えた。 「聞いてみようかな、それとなく」 「それがいいですわ」 「君がほしい、なんて言われるんじゃない? あはははっ」 からかって笑い飛ばす結城を、純子は黙ったまま恨めしげに見つめた。そし て心中で溜飲を下げる。 (ふーん、だ。言われたことあるもん。曲名で、だったけれども) あんまり意味がない、かもしれない。 間の悪い日はあるもので、相羽に会うチャンスが今日に限ってなかなか巡っ てこない。 相羽はちょうど日直に当たっていたので、朝の登校時からして一緒になれず、 その後も、この日は何故か日直の仕事が多いらしく、休み時間の度に四組の教 室に行くのだが、つかまえられない。 「朝から一体、何なのよ。行ったり来たり」 逆に、頻繁に顔出しするものだから、白沼に不審がられ、二十分間ある大休 みの際にとうとうつかまってしまった。 「別に、大した用事じゃあ……」 三組に引き返そうとした道すがら、廊下で白沼に仁王立ちされて、純子は頬 をかいた。目は逸らし気味、でも、ちらちらと相手の様子を窺う。 「隠さなくてもいいわよ。どうせ、相羽君に会いに来たんでしょう?」 純子は白沼の顔を遠慮がちに見返し、それからうなずいた。 「私に見せつけたいってわけ?」 「そんなつもりは全然ないわ。ただ――」 口ごもる純子。「ただ、バレンタインデーに何がほしいか、聞こうと思って」 と続けようとしたのだが、さすがにこれは言えない。 「ただ、何?」 最前にも増して、訝しむ目つきの白沼。腰に手首を当て、下から覗き込む風 にしてくる。 「ただ……ちょっと、仕事で確かめたいことが……」 万能言い訳を行使する自分に、忸怩たる思いになる。 「そういえば、かなり売れてきてるようね」 白沼が言った。嫌みな響きはなく、純粋に、讃えるような調子で。 純子はでも、これを肯定も否定もできない。次の言葉を待った。 「おあいにく様だけど、今日は相羽君、日直で忙しいわよ。委員長や副委員長 と一緒になって、社会科見学の資料をまとめているの。今日中に仕上げるそう だから、多分、会って話すのは無理ね」 「は、はあ。じゃあ、また明日にでも」 相手の横を通って、教室に帰ろうとした純子だが、その腕を掴まれた。 「折角だから、私の話を聞いてちょうだい」 「えっ」 意外感から、思わず身を引いてしまう。対して白沼は、逃がすまいとばかり に、純子の左腕を強く握る。強引さに負けて、純子は話を聞く態勢を整えた。 白沼は真正面からずばりと切り込んできた。 「相羽君と付き合うようになったんですってね」 「え、それ、誰から……」 純子は口ごもりつつも、どうにか問い返した。何故知っているの?という疑 問と、私の口から言わなくてすんだという安堵感が同居する。 「誰でもいいじゃない。風の噂――というのは嘘で、相羽君から聞いた」 「あ、相羽君の方から話したの?」 疑問が驚きに姿を変える。だが、そんな純子を見て、白沼は愉快そうに笑っ た。 「ふふ、信じられないっていう顔をしてるわね。そうよって返事したいところ だけれど、違うわ。私の方から思い切って尋ねたのよ」 「どうして」 内心、ほっとしながら、純子は聞いた。 「どうしてって?」 「何故、白沼さんがそんなことを聞こうと思ったのか、分からないから……」 「……悔しいけれど、年が明けてからずっと、相羽君が心底楽しそうに見えて いたのよね。これまでにないくらい幸せって感じ」 芝居めいて肩をすくめた白沼。首を傾げ、息をこぼしながらかぶりを振る。 「ひょっとしてと思って聞いてみたら……嫌な予感て当たるものなのかも」 横を向いた白沼に、純子は何の返事もできなかった。沈黙が作られようとし た雰囲気だったのを、再び白沼が口を開くことで脱する。 「こういうときの台詞は、おめでとう、かしら。それとも、お幸せに? 何だ っていいわね」 「う、うん」 「そうは言ってみたけれども」 真っ直ぐ見つめてくる白沼。純子は感じなくていい後ろめたさのようなもの を、でも感じてしまう。 「私は当然、聖人君子じゃないから、百パーセント祝福することはできないの よねえ」 「え? そ、それって、どういう」 思わず、その場でおたおたしてしまった。顔に焦りの色が出ているに違いな い。白沼がまた笑う。 「慌てなくたっていいのに。今さら邪魔をしようなんて考えてないから」 「そ、そう……あはは」 白沼に対して警戒心を抱いたことを反省する気持ちもあって、純子は笑顔を 作った。白沼も笑みを浮かべながら、照れを微塵も見せずに言った。 「私は相羽君が幸せになればいいの。折角引っ付いたんだから、ずっとそのま までいてもらいたいわ」 「ひ、引っ付いたって……」 取りようによっては露骨な表現に、目元を赤く染める純子。そこへ白沼が、 口ぶりを転調させて鋭く切り込んだ。 「ただし」 「え」 背筋がいつも以上に伸びる。 「もしわずかでもあなた達の間に亀裂が入るようなら、横から相羽君をもらう つもりでいるわよ。お忘れなく」 「――そんなこと、あり得ない」 相手の恐らく本気であろう言葉を、純子は真剣な眼差しで返した。 白沼の頬が、不意に緩む。 「ふっ、大した自信ね。妬ましくなるくらい。だけど、あなた達の仲って、本 当はとても危ういバランスの上に成り立ってるんじゃなくて?」 「どういう意味か分かんないわ」 強気な口調で問いただす純子。白沼は教えてあげるとばかりに、人差し指を 振った。 「ちょっとしたきっかけで、亀裂が入り、広がって、仲が壊れるってことよ。 そうなるとしたら、私は、あなたが原因になる可能性が高いと思ってる」 自らがよく当たる占い師であるかのように、確証ありげに言った白沼。純子 は拳を握った両手を胸元に引き寄せた。 「お、おかしな言い方しないで」 「かりかりする必要はなくってよ。私の個人的感想なんだから。自分の立場っ て、考えたことあって? 芸能人と言ったら、公人に近いの」 「そ、それが一体」 「たとえばの話」 白沼はぴんと伸ばした人差し指を、純子に突きつけた。効果的に、微笑も添 える。純子は無意識の内に半歩後ずさった。 「私が芸能マスコミに、『風谷美羽には恋人がいる!』って通報すれば、結構 な騒ぎになるでしょうね。あなたって今時珍しい清純派で通っているみたいだ から、イメージダウンが大きいでしょうねえ」 「……」 純子は口を閉ざし、嫌な苦い気分を味わった。白沼が言ったことは、想像の 範疇になかった。それだけに、もし仮に現実に起きたとしたらどうすればいい のか、全く分からない。 「付き合いを認める手が使えるかどうか、怪しいところじゃない? 相羽君は あなたに仕事を取ってくる人の子供に当たるんだから、世間がどう思うかは火 を見るよりも明らか」 「白沼さんっ。あの」 芸能マスコミにばらすのはやめてとお願いしようとした純子を、白沼が手で 遮った。そして、純子の表情や態度から全てお見通しとばかりに、吐息混じり に答えた 「ええ、私はそんな真似しないわよ。そうねえ、あなたが相羽君を蔑ろにする ようなことが起きたら話は別だけれど、そんなのってあり得ないんでしょう? うふふふ」 白沼の笑い方は、純子の反応を楽しんでいるかのようだ。 「今のところは、誰かがマスコミに知らせたら、いっぺんに危なくなるわよっ て忠告したかっただけ。せいぜい、気を付けなさい。みんながみんな、あなた の味方だと思ったら大きな間違い」 「……ありがとう、心配してくれて」 純子が感謝の意を表すと、白沼は戸惑った風に口を尖らせた。しばらく言葉 が見つからない様子だったが、やがて鼻で笑うような息を漏らすと、肩をすく め、今度は大げさに吐息した。 「あなたねえ、私は今でもあなたのことをライバルだと思ってるんだから――」 「敵は敵でも、いい敵だと思えるから」 表情いっぱいに微笑みを浮かべ、小首を傾げてみせた純子。白沼は暫時、目 を見開き、またもため息をついた。 「まったく……。かなわない理由が分かった気がするわ。今さらだけど。―― ところで」 話題転換を宣するかのごとく、手のひらを合わせて音を立てた白沼。そして その手で純子の肩をがっしり掴む。 「あなた、コマーシャル出演の仕事も受けるわよね?」 「は?」 「だからっ。コマーシャルの仕事をやっているのよね? 口紅の宣伝もやって いたし」 「うん。今も続いてるけれど……」 白沼さんとどんな関係があるのだろう?と、不安を膨らませざるを得なかっ た。距離を保とうとするのだが、相手は純子の両二の腕に手を当て、放さない。 「企業の選り好みなんて、しないわよね」 「……ええ、今までしたことない」 「じゃ、パパの会社のコマーシャルを頼んだとしたら、引き受けてもらえるわ ね、当然?」 「パパって、白沼さんのお父さんの会社?」 唖然としつつも、確認のために問い返した純子に、白沼は微笑み混じりにう なずいた。答えるまでもない、と、その目が語っている。 「な、何の会社だったっけ? 私、聞いた覚えがないような」 「あら、そうだったかしら」 右の頬に片手を当てると、斜め上に視線をやって、小首を傾げる仕種の白沼。 演技ではなく、本当に話したことがあるつもりだったようだ。ポーズを解くと、 純子に人差し指を向けて、聞いてくる。 「あなたが忘れたんじゃなくて?」 「ううん。正真正銘っ、聞いてない」 純子が力を込めて否定すると、白沼は不思議そうな面持ちをなした。彼女は 「まあ、いいわ」と言うと、一呼吸入れて、ある有名大企業の名――仮にαと しておこう――を自慢げに口にした。 「どう? あなたでも当然、知ってるでしょう?」 「そ、それはもちろん。でも、聞いたら絶対に忘れない名前だから、やっぱり 今日が初めてだと思う」 「そのことはもういいって言ったでしょう」 「そ、それで、白沼さん。お父さんはαで何を……?」 αと一口に言っても、α銀行、α化学、α金属、αホテル等々、様々な業界 に進出しているだけに、簡単にはイメージを掴めない。 白沼は、よく聞いてくれたわとばかりに、胸を反らす。 「αグループ全体を統括する部署で、常務を」 「……凄く大変そう」 口を半開きにした純子。具体的に何をするところなのかは分からないが、分 からないなりに想像する。 「ありがと」 何故か礼を述べて、にっこりした白沼。純子は表情を窺いつつ、話を本論に 戻す。 「そ、それで、結局何のコマーシャルなの?」 「ありとあらゆるものを扱っているけれど、今進めているのはね」 もったいぶる理由はないから、企業秘密とでも言いたいのだろうか。白沼は 左右に目をやり、声を潜めた。そして本当に聞き取りにくい声音で、どこか嬉 しそうに話す。 「テラ=スクエアのイベントのキャンペーンガールよ」 純子は息を飲んだ。即応できない。一瞬にして唇が乾き、張り付いたような 気がする。ゆっくりと口を開いて、やっと声が出た。 「テラ=スクエアって、あの巨大遊園地のことだよね? αグループと関係あ ったんだ?」 「そんなことも知らないのね。大ありよ。確か七十何パーセントかを出資して るんだから。まあいいわ。これ、どうかしら。魅力的な仕事だと思うんだけど」 「……どうして私に、そういう話を……」 警戒心が高まる。それが表情に露になったのだろう、相手の白沼はころころ、 けらけらと笑った。それから不意に笑い声を消すと、余裕のある、優雅とさえ 表現できそうな口調で言った。 「純粋にビジネスよ。パパの会社のためになると思って考えたこと。他意はな いから、安心してちょうだい」 「安心してだなんて、私、別に……」 「隠さなくてもいいのよ。ライバルからいきなりこんなこと持ち掛けられたら、 変に思うのは当然」 白沼は腕時計を見た。 「時間がないわね。あなたがその気なら、パパに推薦しておくわ。決まった場 合、詳しい話は、そっちの事務所……クールだったかしら?」 「ルーク」 「ルークね。そこに伝えるようになると思うから、楽しみに待っていて。多分、 一週間以内に連絡できるはず」 「は……分かったわ」 釈然としないものを感じつつ、受け入れる返答をした純子。悪い話でないの は間違いないし、これを機会に白沼と完全に仲直り(別に喧嘩をしているわけ ではないが)できれば、どんなにいいことだろうと思ったから。 「それじゃあ、そういうつもりでいて」 白沼は純子を解放すると、不自然なくらい浮き浮きして、ハミングの一つで もやりながら、自分の席に戻っていった。人目がなければ、スキップもしてい たかもしれない。 (大して身体を動かしてもいないのに、今日はとても疲れた気がする。これか ら仕事があるのよね) 心の内で、ため息をついた純子は、学生鞄を手に一人、一年三組の教室に残 っていた。 本日の仕事はアニメのアテレコ。急いで下校しないでいるのは、杉本が車で 迎えに来てくれる段取りになっているから。 今年に入ってルークの体制が固まり、人も増えた。そのおかげで、迎えの車 を回せるようになったのだ。付け加えれば、先だっての西山カメラマンの事件 を教訓にしたと言える。 (そろそろかな。時間ぴったりに来てくれたら、言うことないのに) 純子は時計を見て、席を立った。車が来る頃には、校門の外に出ておかなく てはいけない。この寒い時季、外でずっと待っていては体調に悪影響が出かね ないので、こうして時間を見計らう必要がある。 教室を出て、扉に施錠したそのとき、廊下を駆ける足音が近付いてきた。音 のする方角を振り向くと、走る相羽の姿が。 向こうも純子を見つけたらしく、「あ、帰るところ?」と叫び気味に言った。 そうして、前まで来て立ち止まる。 「相羽君。やっと会えた」 勝手に表情がほころぶ。最前までの疲れた心地は、あっけなく蒸発してしま った。代わって、元気が沸き起こったよう。 「日直の役目は、もう終わったの?」 「さっきね」 首肯しながら相羽が言った。彼も、純子が自分を探していると聞き及んでい たのか、会えて安堵した様子が窺える。 「ごめん、探してたんだって? 今日は休み時間に、ずっと教室にいなくて」 「びっくりしたわ、お昼にもいないんだもの。あ、そんな過ぎたことよりも、 誰かから聞いたの? 私が探してるって」 「ん、白沼さんが教えてくれた」 「ああ……」 案外、親切な一面も持っている。認識を改めるほどじゃないけれど。 「それで、用事って? 急いでいるのなら、帰りながらでも」 相羽が聞く。純子は思い出した。 「あ、杉本さんが車で迎えに来てくれるんだったわ」 「仕事場に直行? 母さん、また無茶なスケジュールを組んで……」 「違う違う。今日のは、市川さんの分」 「同じようなもんだよ。しかし、迎えが来るのなら、一緒に帰れないな。さす がに、仕事先まで着いて行くわけにいかないから」 拳を握って残念がる相羽。 (車で一緒に帰れたとしても、杉本さんがいるところでは、ちょっと持ち出し にくい話題なのよね) 純子はこの場で言おうと、心に決めた。やや急ぎ足で歩き出し、口を開く。 「あのね、相羽君」 「はい?」 「もうすぐ、あの日が来るけれど」 「あの日?」 「バ、バレンタインデーよ」 みなまで言わせないで、と純子は顔をそらす。目元ばかりか耳まで赤くなる のを自覚した。 相羽は前方を向いたまま、「そうか」と、今初めて気が付いた風につぶやく。 「十一日が先に思い浮かんだから。ミュージカル、楽しみだね」 「あ、そっか」 ここしばらくバレンタインで頭がいっぱいになって、一時的に失念していた。 密かに頬をかく純子。 「今年は日曜日なんだね、十四日」 相羽は指を折って数えることもなく、付け加えた。 昇降口まで来てしまい、足を止めて話は続いた。純子の返事は、肯定から始 まる。 「そ、そうなの。それで、相羽君がほしい物が何なのかを考え出したら、きり がなくなっちゃって、ね? 日にちもあまりないし、直接聞かせてもらえたら 嬉しいなって思って」 やや早口に言って、相羽を見やった。 相羽も純子を見つめていた。目が合う。 どこか拍子抜けした様子の相羽は、やがてゆっくりと口を開いた。 「ほしい物って、バレンタインデーなんだから、チョコレートで決まりじゃな いのかい?」 相羽君もそう思うでしょ?――意見の一致を見て、純子はついつい、そんな 風に口走りそうになった。すんでのところで、思いとどまる。友人達の影響を 受けたのか、純子も多少意見を変えていた。 (折角のチャンスなんだから、相羽君が何をほしがっているのか、聞き出して みたい。たとえバレンタインデーには間に合わなかったとしても、誕生日には 間に合わせられるかもしれないし) 純子は唇を結び、一瞬間、考えた。 「わ、私もチョコレートでいいかなって思ってたんだけど、やっぱり、ほら。 今年から特別になったんだしね。その一回目なんだから、記念になるような。 じ、実は、手作りをしている余裕がないかもしれなくて、だったらなおさら、 他に何かをプラスして」 思い付くまま喋っていると、内容が段々おかしくなってきた。そのことに気 付いて言葉を濁した純子は、相羽を見上げた。 「そうだね」 相羽が微笑みとともに答える。 純子は、彼が何に対して肯定的な返事をくれたのか、すぐには見当づけられ なかった。目で問い返す。 視線を受けて、間髪入れず答える相羽。 「記念になるようにしたい、僕も」 「そ、そう? よかった」 ほっとすると同時に、心が一つになったような感覚に嬉しくもなる純子だっ たが、本来の目的を忘れていたことに気が付く。 「それで、相羽君がほしいものは……」 「君がくれるものなら、何でも」 その返答に、純子はほんわかとあたたかくなる。しばらく噛みしめていたい ところだけれど、幸せに浸っている場合ではない。現実的にならねば目的を達 せられない。かぶりを振って、相羽に告げる。 「嬉しいけど、そうじゃなくて。具体的に教えて」 「さっきの答、具体的じゃないかな」 「どこがよー」 「じゃあ、もう少し詳しく言おうか。君が僕のために一生懸命選んでくれたも のなら、何でもいい」 「――もうっ、知らない!」 背を向け、靴を履きかえると、純子はさっさと外に出た。怒ったわけではな い。どちらかと言えば、恥ずかしさが勝る。でも、夕日を浴びるその表情の見 た目は、少し不機嫌。 (からかってるんだわ。いつもの調子で。もぉ、こっちは本気なのに) 若干、肩を怒らせて、大股で歩く。足下で、中庭に敷き詰められた砂利やグ ラウンドの砂が、ざりざりと音を立てる。 相羽はそんな純子に追い付くと、「怒った?」と聞く。声の調子は淡々とし て、特別な意図は感じられない。 純子は振り返らず、スピードを落とさず、前に向かって答えた。 「怒ってない。ただ、急がないと、杉本さんに迷惑が掛かる」 「そっか。それならよかった」 (よくないわよ) 相羽の返事に、心中で突っ込みを入れる。校門の前に、ちょうど見覚えのあ る車が滑り込んできた。 「それじゃ、ここまでね」 立ち止まり、くるりと振り返ると、いつもより固い口調で純子は言った。 「ああ。残念ながら、そのようで」 そう応じた相羽の様子は、本当に心底残念そう。顔つきこそ平然としている が、これは無理をして保っているのだろう。両肩は下がり気味だし、鞄を持っ ていない方の手は握りしめられている。何よりも、声に元気がなくなった。 純子は張りのある声で、相羽に言った。 「これからの仕事の出来次第だけれど、明日は一緒に帰れると思う。それに、 学校の中でももっと会える。そうでしょ?」 相羽から肯定の返事をもらって、駆け出すつもりだった。 ところが、相羽は寂しそうに笑うと、ため息のような返事をよこした。 「明日はエリオット先生との約束があって、難しいんだ」 「……そ、そうなんだ? じゃ、じゃあ、明後日以降ね」 無理に笑ってみせたが、足が動かない。相羽に「遅れるよ」と促され、よう やく走り出した。 (これは――バレンタインデーどころではないかも。自分の仕事にばかり気を 取られていたけれども、相羽君も色んなことをやっているから忙しいんだ。私 だって、十一日を休みにしてもらった分、十四日の仕事をなしにしてもらえる かどうか怪しいし……。会う時間を努力して作らなくちゃ) ――つづく
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