●長編 #0052の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
* * 夜のとばりがおり、その室内も総じて暗かったが、ただ一箇所、窓際の机の 前は蛍光灯の白い光に照らし出され、眩いほどだった。 「これで状況がやっと整った」 酒匂川愛理はほくそ笑んだ。しわが数、深さとも増えたようだ。 揺り椅子に深く腰掛けた彼女の老いた手には、数枚の書類――契約書、受領 書、そして報告書――が握られている。それらを一枚ずつ、ざっと見直したあ と、今度は安堵の仕種を見せた。 「口出しできるはず」 独り言は、執念の風合いを帯びている。自分こそが正しいのだと言い聞かせ るような響きがあった。 窓ガラスを覆うカーテンが揺れた。エアコンの暖気の流れが強まったらしい。 「あの子を絶対に取り戻してみせるわ。此の手で抱いてやりたい」 しわがれ気味の声で、再び言った。 * * 相羽信一とて、普通の男子高校生である。さしもの彼も、クリスマスの夜か ら数日間は、精神的にでれでれしていた。それは表面にも出るらしく、 「何かいいことあったのか。気味悪い笑い方して」 と、武道場で恒例の年末餅つき大会で、望月から不審がられる始末だ。 友人のそんな反応にも、相羽は臆面なく、ストレートに答える。 「ああ、いいことがあった。今も続いている」 「ふん……大方、クリスマスだな。何があったか、白状しろ」 「い、や、だ」 きっぱり断り、笑ってはぐらかす相羽。 (もう少し、一人で噛みしめていたい。望月に限らず、誰かに言ったら、冷や かされるに決まってる) 年末の締めの挨拶が行われたあと、振る舞われた餅を手にいそいそと帰ろう とする。そこを、師匠の柳葉に呼び止められた。 「相羽君。来月の試合、備えは進んでいるかな?」 「はい。試合があるからと言って、特別なことはしたくないんですが、津野嶋 選手に対して失礼になるような無様なところも見せられません。今、できうる 限りのことはやっています」 「津野嶋君も案外しつこいのぉ」 物語に登場する老達人みたく、ほっほっほと笑う柳葉。 「まあ、彼のおかげで、君が戻って来てくれたわけだから、感謝せねばならん かもしれない」 「僕は別に、あのとき、やめたんじゃあ――」 「それは承知しているが、津野嶋君からの対戦要望がなければ、こんなに道場 に通うことはなかったろう」 図星だ。相羽は沈黙した。 柳葉は話は終わりとばかり、きびすを半分だけ返した。最後にこう付け足す。 「アマチュアの身で、よい勝負をしようなんて考えないことだよ」 「え」 「君には力が着いている。どん欲に勝利を目指しなさい」 完全に背を向け、立ち去る師匠。相羽は「ありがとうございました」と一礼 をした。津野嶋との二度目の対戦で敗れたとき、ちらりと指摘されたことだっ た。そのときはさほどまともに受け止めていなかったのだが、しかし、今改め て明瞭に言われると、勝ちたい気持ちが大きくなる。 (もっと練習しないとな) 少し、気を引き締めることができた。 冬の冷気の中、駆け足になった。 * * 「毎度、鷲宇さん」 「……ああ、西山(にしやま)さんか。非通知だから誰かと」 「鷲宇さん。例の件、考え直してくれないかなあ」 「単刀直入に何を言い出すかと思ったら、君もかなり執拗なタイプだ」 「執拗ではなく、せめて頑固と言ってほしいな。自分の仕事にプライドを持っ てますんで」 「僕も他人に負けない頑固な性格でね。考え直すことはあり得ない」 「絶対に?」 「そう」 「ふうん。きっぱり言われると、俺としても困っちまうわけでして」 「僕も、去年からずっと引っ張っているこのうんざりした出来事が、今年も続 いていると分かって困っているよ」 「俺も、絶対にあきらめたくない質っすね。残念なことに。似た者同士なのに、 うまく行きそうにない」 「うまく行かないと自覚があるのなら、話も早かろう。あきらめろ。たとえ僕 が君の意見を取り入れて翻意したとしても、作り直している時間がない。刊行 日は決まったのだからね」 「そんなもの、延期すればいいんですよ。芸術家が俗世の決まり事に縛られて いちゃあ、いい物なんてできやしない」 「分かった風な口を利くね。僕の若い頃と似ている」 「鷲宇さんは今でも若いでしょう」 「幼かった頃と言い直そうか。決まり事に縛られたくらいでいい物が作れなく なるのなら、そいつは芸術家ではない。単なる自己満足のレベルに留まるだろ うね」 「酷い言葉だな」 「相手があってこその芸術だと、僕は思っている。現実的な話に戻そう。西山 さんに、莫大な違約金が出せる? 出版社だけじゃなく、風谷美羽のところに も払わねばならないだろう」 「さあ? 俺の今までの稼ぎを全て詰め込めば、何とかなる額かな? あいに く、俺は浪費家なんで、まず間違いなく払えませんよ」 「だったら、お話にならないというやつだ。悪いことは言わない。この件に執 着するよりも、次の仕事に取り掛かってくれないか。僕は、君の写真の腕前は 高く買っている」 「だからこそ、起用してくれたんでしょ。それには感謝してる。そして、執着 したいんだよ。鷲羽さん、あんたは俺に最高の素材を与えてくれた。彼女を撮 り尽くしたい。表も裏も、奥の奥まで、存分に……」 「西山さん、悪いが、聞き飽きた台詞だ。そんなに自分流でやりたいのなら、 時間を置いて、君自身で当たってみればいい」 「それができそうにないから、あんたに頼んでんだよ、鷲宇憲親!」 「お門違い。僕はあの子のマネージャーでないし、ましてや出版プロデューサ ーでもない」 「あのね、鷲宇さん、あんた勘違いしてる。彼女の別の面を切り出したい、俺 の望みはこれだけ」 「分からない。分かるように言ってほしい。すれ違いを解消したいのならば」 「突き詰めてしまえば、写真を撮らせてくれたら充分。写真集としての出版は 二の次、三の次なんですよ」 「自分でやれないのかい? 君は口も達者だと思うが」 「俺一人じゃ、いまいちね。鷲宇さんが説得すれば、彼女の気持ちを動かせる かもしれないな」 「……西山さん。何考えている? 彼女の何を撮りたいんだ?」 「野暮を聞かないでほしいな。全て、とだけ言えば充分でしょう」 「……法に触れる」 「何、恐い声を出してるんです? こっちはそんなこと、全く言ってない」 「いいから聞け。僕の想像は恐らく当たっている。たとえ所持するだけでも、 罪になる可能性が非常に高い」 「ふふ、今は便利な世の中になりました。抜け道は色々と……たとえば、今度、 新しくサイトを作ろうかな。仮に日本でやばいコンテンツを扱うとしたら、よ その問題ない地域に持って行く。簡単なものだ」 「たとえ海外に作っても、写真の撮影と公開という行為そのものが、諸々の権 利を侵害するのは明白だ。分からない君ではないだろう?」 「果たして、あの子の事務所が訴える勇気を持ってるかどうか。全てが公にな ると、彼女のイメージに深い傷が付く。それも治しがたい傷さ。俺の受けるダ メージよりも、そっちのダメージの方が大きいと断言できる」 「ばかな真似はやめておくんだ」 「いや、ですからねえ、鷲宇さん。俺はあなた頼みなんですよ。あらゆる問題 をクリアしてから、撮影に取り掛かりたい」 「さっき答えたように、僕の気持ちは変わらない。僕らの間には、どうやら根 本的な違いがあるようだよ」 「埋める努力をしてもらいたい。こうして何度も頼んでいるのはそのため」 「――タイムオーバーだ、西山さん」 「おい、またかよ」 「お互い忙しい身なんだから、これっきりにしようじゃないか。またいい仕事 ができることを願っているよ」 「俺は今、最高の仕事がしたい!……切りやがった」 * * 純子は、年の変わり目を夜更かしして過ごした割に、元日は早くに目が覚め てしまった。 「興奮してるのかな」 洗面所に向かいながら、つぶやく。それを母に聞き咎められた。 「何が興奮してるんですって?」 「え? あ、ううん、新しい年を迎えて、気持ちが高ぶっているというか」 適当に言い繕って、ごまかす。母は、「いつまで経っても、子供なんだか ら」と呆れ口調、そして台所へと行ってしまった。 「お風呂に入るなら、早くなさい。お父さんもあとで入りたがるだろうから」 「はーい」 純子は安堵の途端に眠気の残り香を感じ、小さな欠伸をした。鏡を前に、興 奮していた本当の理由を、頭の中で巡らせる。 (今日はこれから、相羽君と二人きりで初詣!) 鏡の中の自分が、にこにこにこにこ、正月の他に盆とクリスマスと誕生日が いっぺんにやってきたみたいにおめでたく、いつまでも笑っている。純子はは っとして、首を左右に振った。ばらけた髪が一瞬、獅子のたてがみのように広 がり、すぐまた元のように肩を隠す。 寝巻を脱ぐ際に、鏡の中の自分が再度気になった。映っている子は、すらっ としていてスタイルがよく、女性にしては肩幅がある。その代わりということ ではないが、胸は際立って大きいわけではなく、形のよさが取り柄。鏡面から 自らの肢体へと視線を移し、思った。 (こんな子で、よかったのかな。相羽君は一体どこを気に入って、好きになっ てくれたのかしら……) そこまで頭の中で言葉を唱えて、急に火照りを覚える。うつむいた顔が赤く なった。 (は、裸を見て決めたんじゃないものね。どうして、こんなこと気にしてるの かな、私……あはは) 一度はそうして吹っ切ったが、浴室に入って、シャワーを浴び、身体を洗い ながらも同じようなことを思い悩んでいた。いや、悩むという具体的な思考経 路を辿ったのではなく、霧の掛かった森の迷い道を、あやふやな足取りで進む のにも似た、漠然としたもやもやだった。 (いつか相羽君と――なるんだ。そのとき、相羽君、私の裸を見て、どんな風 に思うんだろう……) 顔を洗い始めた。当初はお湯を使うつもりだったが、気を引き締めようと考 え直し、冷たい水にする。石鹸の泡立ちが悪いのは、仕方がない。 洗顔をすませ、濡れたところをタオルで拭いた。改めて鏡で自分の顔を見直 す。うん、まずまず。いつも通りと言ったところか。 髪を梳かし、整え、一番似合っているという自信のあるポニーテールにする。 歯磨きをしながら、鏡でチェック。 (抜け毛、枝毛、ともになし。にきびもできてない。瞼も腫れぼったくなって ないし、目は赤くなってない) 満足。これなら、相羽と会っても恥ずかしくない。時間をさほど要さずに、 身だしなみを整えられて、気分もよくなる。 自分の新曲をハミングしながら、テーブルに着く。新聞のテレビ欄を見て、 アニメをやっていると知るや、すぐさまテレビを点けた。 「なーに? 随分懐かしい番組みたいだけれど」 タイミングよくお雑煮を持って来てくれた母が、画面を見て顔をしかめる。 理解し難くて、困惑した感じだ。 「純子ったら、こんな低学年向けの漫画なんか見るの?」 「うん。いいでしょ?」 「いいけれど、どうして? 他にも、いっぱい芸能人の出てる番組があるでし ょうに。まさか、自分が出られなかったから、ひがんでるのかしら」 最後の一文は、もちろん冗談なのだろう。母は、木のお盆を胸で抱え、娘の 反応を、面白そうに待つ。 純子は真面目に答えた。 「別に、これを観たいというわけじゃないの。ただ、ちょっとでも慣れておか なくちゃ」 「え? 分かんないわ」 「声優の仕事が来てるって、言ったでしょ」 「ああ」 合点して、母は台所へと足を向ける。 「このアニメなら台詞もある程度は記憶に残ってるし、ちょうどいいの。充分 な練習にはならなくても、慣れにはつながるかなと思って。アニメの他にも、 外国の映画をやっていたら、なるたけ観ておこうっと」 「元旦から、仕事熱心な子ねえ」 半ば呆れ口調の母。その言い方に、純子は少し反発を覚えた。 「だって、市川さんが次から次へと、新しい仕事を取って来るんだもの。それ も、できるかどうかも分かんないのまで……。だからこうして、我流でやらな きゃ仕方がないじゃない。そりゃあ、仕事があるのは嬉しいけれど、ちょっと くらい、こっちの身になってほしいわ」 「その文句を、市川さんにぶつけたことはあるのかしら」 「一応ね。でも、直接言っても、丸め込まれちゃう。とてもじゃないけれど、 あの人にはかなわない」 ため息混じりになる。それから、目の前のお椀に気が付いて、慌てて手を合 わせた。 「いただきまーす」 「声優の練習はしなくていいの?」 お茶を運んできた母が、ついでに聞いてくる。その表情は、また面白がって いるようだ。 「なるべく早く食べるわ」 「ふふふ。喉につまらせないようにね」 結局のところ、食べる合間に、テレビ画面を観ては口をぱくぱくさせる、こ れの繰り返しに終始する。 (む、難しすぎるわ! 全然、合わない) 徐々に、箸を口に持っていく頻度が減り、何も食べてないのに、口を動かす 回数が増える。 ついには、声を出さずにいるのが物足りなくなった。 「――お母さーん。これから私、声出すけれど、気にしないでね!」 「はいはい」 約束していた午前十時に、ほんの三十秒ほど早く、玄関のチャイムが鳴った。 「はーい」 まだ見えない相手に返事をしながら、純子は廊下を急ぐ。 母だけでなく、遅くに起き出した父までもが、相羽の来訪を待ちかまえてい るのだ。挨拶程度ならともかく、引っ張り上げられては長話になるかもしれな い。だから、玄関口で押し止め、さっさと外に出ようと思う。 「相羽君だったら、上がってもらいなさいよ」 「そうだな。学校での純子の様子も聞いてみたい」 思惑とは裏腹に、両親からの要望が背中に刺さる。これを吹っ切り、勢いに 任せて飛び出すには、気が引けた。とにかく、玄関のドアにたどり着き、覗き 窓から来訪者を確認した。 (やっぱり、相羽君! 時間ぴったり) 鍵を開ける。表情がほころんだことを、純子自身は自覚できていないのかも しれない。 ドアを開ける。隙間から覗く相羽の姿が、どんどんよく見えるようになる。 いっぱいに開けきって、扉が止まったところで、純子は言った。 「あけましておめでとう、相羽君っ。今年もよろしくね」 「こちらこそ、純子ちゃん。あけましておめでとう」 いつもの笑顔になる相羽。それを見て、純子の笑みにも磨きが掛かった。 「年賀状、ありがとうね。クイズの答はまだ言わないでよ。考え中だから。私 のは、届いた?」 「うん。とても手の込んだイラストだったね」 答える相羽の表情に朱が差す。それはそうだろう。純子からの年賀状の文面 末尾に、大好き、と書いてあったのだから。 「それよりも」 話題転換したいのか、相羽は家の奥を覗くような素振りを見せた。 「おじさんやおばさんは?」 「あ、いるわ。でも、いいよ、挨拶なんて。長引くばかり」 「そんなことないでしょ」 相羽が言うのとときを同じくして、父と母が並ぶようにして廊下に姿を見せ た。振り返った純子は、仕方がないなと思い直し、二歩、横に移動して、相羽 のために通り道を作った。 相羽は黙って進み出ると、土間に立って、 「あけましておめでとうございます」 と如才なく頭を下げる。少々、固い口調になったようだ。 対して、純子の父は「おめでとう」とだけ言って、あとは何を喋ればいいの か困った風に腕を組む。母の方は、「今年も純子のこと、よろしくね」と、い かようにも解釈できそうな台詞のあと、お年玉の袋を取り出した。 「はい、これ。一つにまとめてあるけれど、おばさんとおじさんからの分」 「は、はあ」 面食らった様子の相羽は、純子の方を振り返った。純子としても、何とも言 いようがない。 「遠慮しないで、ほら」 母が相羽の手を取り、半ば強引に袋を握らせる。そのまま、「急ぐこともな いんでしょう? 上がっていけばいいわ」と誘う。 「僕はかまいませんが、純子ちゃんが」 再び振り向く相羽。 純子はしかし、会話について行くどころではない。赤面していた。慌てて、 手の平で頬をこする。両親の前で、ちゃん付けで呼ばれたことに、胸の鼓動が 早くなった気がした。 そもそも、純子は相羽に告白して(同時に告白をされもしたが)、お互いの 気持ちをしっかり確かめ合ったことを、両親に全然話していない。今日の初詣 にしても、友達大勢と行く、相羽はその迎えに来てくれるのだと説明していた。 「純子、いいんだろう?」 「え、はい、いいわよ」 父親の問い掛けの内容を理解する前に、純子はうなずいていた。そして返事 のあと、海岸を侵食する波みたいに、後悔の念がじわりと押し寄せてきた。 純子の両親から、学校での娘の様子について聞かれた相羽は、「同じクラス じゃないから、あまり知らないんです」とかわした。 「知っている範囲でいいよ」 座椅子に座って落ち着いたのか、父が余裕のある口調で問いを重ねた。 「――とても人気があるよね?」 相羽は、少し距離を置いて右隣に座る純子に話を振った。そうしておいて、 出されたお茶を一口飲む。 「そうかなあ」 「同級生や上級生の区別なく、サインをねだられる」 相羽が文字通り指摘してくるのへ、純子は力を込めて否定した。 「そんなこと、滅多にないわよー。他の芸能人のサインを頼まれることの方が、 圧倒的に多い」 「君の周りの人は、みんな笑顔だよ」 「そうかなあ」 同じ言葉を繰り返す。「白沼さんとかはどうなるのよ」と小声で聞いてみた。 相羽はそれには答えず、純子の両親へと向き直った。 「自覚がないみたいです」 「そうなのよねえ。親のひいき目を抜きにしても、こんなにかわいいのに」 と言う母の目が、意地悪げに笑みを宿している。純子はため息をついた。 一方、父は口数少なく、だが大真面目に、「そうとも。自慢の娘だよ」とう めくような声を発した。純子は額に手を当て、頭を抱えたくなった。 (二人とも、やめてほしいよー。もう、恥ずかしいなあ) 「でも、勉強の方はどうなのかしら。相羽君、何か聞いてない?」 「いえ。僕が知っているのは、定期テストのときに張り出される順位表くらい です。五十番台より上をキープしているから、仕事が悪い影響を与えてはいな いと思いますが」 相羽は、聞かれていないことまで含めて、そう答えた。今さら純子から、モ デルなどの仕事を取り上げないでくれ、という願いの表れかもしれない。 純子の母は、最前からの意地悪げな笑みを、今度は口元に浮かべた。 「去年、三者面談があったとき、先生に言われたのだけれど――」 「お母さん! 何言い出すの?」 「いいじゃない、隠すほどのことでなし」 娘の抗議を簡単に封じ、相羽に目を向ける母。母は強し……ちょっと違う。 「授業中、たまに、居眠りするらしいのよね。もしかして、先生達がよそのク ラスでも話してるかしら、このこと?」 「いえ……」 「あら、そうなの。なら、よかったわね、純子」 そういう問題じゃないわ、と心中でつぶやき、膨れっ面になる純子。 (相羽君に知られたくなかったのに。か、格好悪いとか、恥ずかしいとかだけ じゃなくて、相羽君たら、必要以上に心配するんだもの。……それが、嬉しい んだけれどね) 考えている内に、表情が和らいだ。それを通り越して、にやけてしまう。 「何をしてるんだ、うつむいて」 父に怪訝な顔をされたが、純子は笑ってごまかすにとどめた。 その父が、急に饒舌になって、相羽に尋ねた。 「ところで相羽君。ことのついでに聞かせてもらいたいんだが、うちの娘のや ってる仕事とは、どういうものなのかね。詳しくは知らないんだ。父親として ぜひ、知っておきたい。君の知っている範囲で、教えてくれないか」 「……写真集が出る予定なのは、ご存知ですよね」 相羽は、冒頭に最大の爆弾を持って来た。無論、このことは純子の口から、 父にも母にも伝えてある。ただ、そのとき父がいい顔をしなかったのも紛れも ない事実であった。 「知っとるよ。どうしてモデルをやっていて、そういう写真集になるのか、さ っぱり理解できない」 「母から聞いた話だと、従来のアイドルタレントや女優が出してきた写真集の ような色合いではなく、あくまでモデルとしてのよさを広く知ってもらうため の写真集、そんな仕上がりになっているそうです。モデルの名を知ってもらう ために、事務所はコンポジットという資料を用意するんですけど、それの写真 集版と考えてください」 「……なるほど。とりあえず、できあがった本を見てみたいものだね」 相羽の弁舌に乗せられたか、父は理解した体で首肯し、鼻の頭をこすった。 それから急いだように、言葉をつなぐ。 「他に、どんな仕事をしてるんだろう? その、何だ。歌とかドラマとかは、 私も家で見聞きできるから、それ以外、私の目の届かない、仕事の現場での話 を聞かせてもらえるとありがたいんだ」 口をつぐんで静かにするほかない純子は、肩身を狭くしながらも、呆れ気味 に息をつく。 (私もときどき、報告しているのに、信じてくれてないのかな) 母を見やると、目が合った。同じ気持ちと見えて、互いに目配せをし、肩を 小さくすくめた。 相羽の話が一通り終わると、純子の父は、これが目下最大の関心事だとばか りに、テーブルの上に腕をつき、身を乗り出した。 「その、何だ。芸能人の知り合いがたくさんできて、この子も浮ついてると思 うんだが――」 「そんなことないわよ」 口を挟む純子。本人の弁明では相手にされないと分かっていても、言ってお かなくちゃ気がすまない。 父は純子を一瞥しただけで、話を続けた。 「そういった芸能人の知り合いの中には、当然、若くて格好いい男のタレント もいるだろうね」 「はあ。もちろんです」 「彼らの内の誰かと、純子が、その、何だ」 また、「その、何だ」だ。しどろもどろとまでは行かないが、言葉に詰まる 父の姿を見ていると、純子は最初の不平もどこへやら、段々と微笑ましくさえ 感じるようになった。 「いやまあ、タレントさん達も、周りはきれいな人ばっかりで、目が肥えてる だろうから、うちの娘がお目にとまるなんてことはないと思うんだが、万が一 にもそういう事態があったとしたら、何というか、色々面倒で……」 父は間延びした言い回しのあと、言葉を濁し、あとは察してくれとばかりに、 相羽を見る。 「今のところ、そういう心配は無用です。だって――」 答える相羽が、この瞬間、子供みたいな笑顔を見せた。 純子は、まさか私達のことを言うつもりじゃあ?と、急な心配に襲われた。 無表情を装うとしても、相羽の横顔を不安げにちらちら窺ってしまう。 が、それは杞憂に過ぎなかった。 「純子ちゃんはしっかりしてるし、事務所の方でも、大事にしています。だか ら、タレント達も敬遠してるんじゃないかな」 あっけらかんとした物腰になる相羽。純子の方は、しばし、口を半開きの状 態にした。そして口を閉じ、むずむずさせる。 (敬遠はないと思うわ。他に言い方があるでしょうに) 「安心していいってことかい」 父が、手の平を上にして右手を前に出し、確認を取る。相羽は「ええ」とう なずいた。続けて冗談めかした口調で言う。 「心配でしたら、ずっと見張りましょうか」 「それはいいかもなあ」 父は本気で言っているようだ。背もたれに身体を預け、難しい顔をして、腕 をしっかり組む。 「前みたいに冷や冷やさせられるのは、勘弁してもらいたいんだよ。何とかい う写真週刊誌に載ったときのような……」 「そうねえ。あれは、出版社の間違いだったからよかったようなものの」 両親がそう話すのを、純子は苦笑いを浮かべて見守る。隣を見ると、相羽は 無表情の中にも、ほんのかすかな苦笑を混ぜていた。 (完全な間違いだったとも言い切れないのよね。香村君、本気だった……やり 方がひどかったけれど。ああ、思い出したくないっ) かぶりを強く振ると、今度は相羽の方が純子を見てきた。小声で聞いてくる。 「どうしたの?」 「ううん、大したことじゃない」 たったこれだけの気遣いで、純子はまた嬉しくなった。早く二人きりになり たくて、両親に向かって口を尖らせる。 「ねえ、もういいでしょ? そろそろ行かないと、みんなを待たせることにな っちゃう」 「ああ、そうだな」 やっと御役御免の許可が下りた。純子は思わず、「行こっ」と、相羽の手を 取り、引っ張った。 「あ。じゃ、じゃあ――お邪魔しました。これで失礼します。あっ、お年玉、 ありがとうございます」 バランスを崩しながらも、相羽は純子の父母に挨拶し、頭を下げた。 「行ってらっしゃい。相羽君。純子のエスコート、お願いね」 母がそんなことを言うのを背で聞き純子の頬は緩みっぱなしに。おかげで、 そのあとに続いた両親の会話の方は、さっぱり耳に入ってこなかった。 「なあ、母さん。あの子は、彼のことをどう思ってるんだ? それに、相羽君 の方も……。まるっきり、同性の友達みたいだ」 「さあ……でも、相羽君がいい子なのは間違いないですよ」 「あ、帽子、忘れてきた!」 バス停までの道のりをしばらく歩いてから、そのことに気付き、頭を押さえ た純子。どうしようか迷って、立ち止まる。 相羽がすかさず尋ねる。 「どうしてもいる物?」 「そんなことはないけれど」 口ごもる。理由を明かすのは、ちょっぴり恥ずかしくてためらわれた。 (新年になって、初めて会うのだから、告白した夜と同じ格好にしようと思っ てたんだけれどな) 晴れ着も着たかったが、それは来年以降に取っておこうと考え、あのクリス マスの夜の服と同じにした次第。 (相羽君は、気付いてくれたかしら。案外、無頓着なところもあるから……) 再び歩き始め、相羽をじっと見つめた。 途端に、相羽が振り向いて、 「惜しいことをしたな」 唐突な切り出し方をする。純子は小首を傾げた。 「僕も、同じ格好にすればよかった」 「あ……分かってた?」 嬉しさに目を細めつつ、顔が赤くなる純子。 「うん。記憶に深く刻まれたからね」 「お、大げさなんだから。まだ一週間よ」 「……思い出すよ」 つぶやく相羽。見れば、彼もかすかに頬を赤くしていた。二人とも黙りこく って、ゆっくりした足取りになった。 (あのとき、雪が降ったけれど、暖かかった。思わず、『ごめんなさい、大好 き』なんて言ってしまった私を、相羽君が優しく抱きしめてくれて) 思い出すに従い、どんどんうつむいてしまう。でも、幸せな気分は一向にあ せない。逆に、強まっているようだ。 「色んなこと、あったよね」 「うん」 口数が少ないまま、並んで歩く純子と相羽。もはや、言葉にしなくても、お 互いの気持ちは通じるし、思い出は二人にとって大切な共有物。そしてこれか ら先の未来でも、一緒に思い出をこしらえていく。 バス停に着くと、数人が並んで待っていた。この様子だと、バスはもちろん、 神社でもかなりの混み具合が予想される。 「前に行った、小さいところに変更する? 少し歩かなければいけないけれど」 「ううん。これでいい」 囁き合ってから、列の最後尾に着いた。並んでいる人達の間で、あまり会話 がないので、しばらくの間は黙っていたが、やがて純子は聞いてみたいことが 一つできた。 「相羽君」 「何?」 「あのね。もし、誰か知ってる人と会ったら……」 「うん」 言い淀む純子を、相羽は急かすでもなく、待っている。純子は声のトーンを 落とし、やや早口になった。 「その、私達が付き合うようになったことを、話す? 話さない?」 「――考えてなかった」 「じゃ、じゃあ、どうしよう……。私は一応、郁江と久仁香と芙美には、ちゃ んと打ち明けたの」 年末の気ぜわしい時期だったから、電話になってしまったけれど、みんなの 祝福の言葉を思い出す。明日にでもきちんと会っておかなくちゃ、とも思う。 「他の人には、聞かれたらでいいんじゃないか」 「聞かれたら、正直に話すの?」 「隠すこと、ないよね」 相羽が振り返り、純子を見つめる。 「わ、私もそう思うわ。でもね、ほら、仕事のこともあるから……」 「なるほど。すっかり忘れてたな」 バスがやって来た。漠然と想像していたよりは、空いている。座ることはで きなくても、立って乗る分には全く問題ない。 「僕は、聞かれたら隠したくないな。そういう性分なもので」 乗り込んでからも、会話は同じテーマのまま続く。 「それはそうだけど……」 金属製の棒につかまったまま、純子は下を向いた。そんな様子に、相羽が即 応する。 「悩む必要はないよ。今のは僕の考え方を言ったまで。事務所から口止めされ ているのなら、仕方がない」 「ううん。口止めはされていないの。だいたい、恋人を作ることをはっきり禁 じられてもいないのよ。ただ、やっぱり、こうなったからには、事務所には知 らせておかないといけない気がする。それで、知らせたら、市川さん達がどん な反応を示すのか、凄く気になるし」 「……もっと大きな問題があるぞ」 変な口調になった相羽。純子が顔を起こして見やると、何とも言えない微苦 笑を浮かべ、吊革にぶら下がるようにして、身体から力が抜けた感じだ。 「な、何? どうしたの?」 「気付かない? 僕の母さんにも知られるわけだ」 あ――。声も出ない。それだけ、きれいに忘れていた。 ――つづく
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