#596/598 ●長編 *** コメント #595 ***
★タイトル (sab ) 22/11/23 14:58 (181)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』2朝霧三郎
★内容
●6
ボイラー室の斉木は制御盤を計器をチェックしていた。循環している湯の温
度が41度になっていた。設定値も41度だ。
(あと15分で開店だから、ちょっと風呂場を見てくるかな。昼飯は昼休みに
は食わないで、14時から18時までの仮眠時間に食うかな。しかしそうやっ
て休憩時間がやたらとあってその時間は賃金が発生しないんだからひでーよな
あ。特に18時から一人勤務になるのに、8時間も休憩時間があって賃金が出
ないのはひでー。それでも、客は24時間有人管理だと思っているあら用をい
いつけてくるし。まあ、いいや、ここをやめる時に、そういうのも全部労働時
間だと言って労働審判を起こしてやるから)
斉木は、ボイラー室から出てラウンジに向かったが、ふと、清掃準備室の前
で止まった。
ノックをして開けると覗いてみる。
額田、大石悦子、泉の3人が遠赤外線ストーブにあたっていた。
「お、あったかそうだな。ミッションコンプリートだな」
「なに、なに?」と大石と泉。
「じゃあ、今回のミッションについて、説明するよ」斉木はドアを閉めて遠赤
外線ストーブの横に立った。「今回のミッションは、清掃グループの独裁者山
城を追放し、自由と民主主義を回復するというものであった。
このミッションは2つの作戦行動により完了する。
まず最初のミッションは、清掃準備室を綺麗にするというものだったんだよ。
俺は、清掃員の為にあの部屋を綺麗にする、と宣言して、小汚いモップにビ
ニール袋を掛けたりした。
そうすれば蛯原が犬のマーキングで真似をすると思ったから。いやもっと大
掛かりな事をするだろうと期待して。
そうしたら蛯原は、まず、清掃準備室の清掃用具をボイラー室へ移動させた
。わざわざ本通リビングの許可を得て。
そうやって、一度清掃用具がボイラー室に移されて、清掃員の出入りが自由
になると、ボイラーを焚いている時には暖かいものだから、だんだんそこに屯
するようになるし、しまいには休憩もそこでとるようになる。
それが昨日までのあんたらだよ。独裁者からの解放はまず移動の自由からだ
。まあ、ボイラー室は難民キャンプみたいなものだよ。
だけれども、あんたらは故郷に帰らないといけない。それがミッションその
2」言うと斉木は人差し指と親指の2本立てた。外人みたいに「蛯原には風説
を流布する悪い癖があるんだよ。誰々がこう言ってましたよーって。額田さん
が、清掃準備室は寒いって言ってましたよー、隣の農家の豚小屋には、ここが
建ったら日当たりが悪くなったからといってストーブが入ったのに、ここの更
衣室には何にもない。俺たちゃ豚以下だ、俺たちは豚以下だと連呼して、」
「俺、そんな事、言ったっけ?」
「実際に言ったかどうかはどうでもいいんだよ。現代戦は情報操作だから。と
にかく蛯原がそう言って、とうとう遠赤外線ストーブをせしめただろう。本通
リビングから。これで、ミッション2がコンプリートだよ。
まぁ、みんながボイラー室で昼飯を食う様になった段階で独裁者山城はハブ
にされた様なものなんだけれども。一人で清掃準備室で食っていたんだから。
今度は大通リビングがストーブを買ってくれたんだから、みんなは清掃準備
室で昼飯を食わざるを得ない。そうなると今度は独裁者が追い出される番だ。
山城のおっさん、どこいっているの?」
「2階の休憩スペース」
●7
斉木が2階休憩室に行くと、山城がソファーに座って、見るでもなくテレビ
を眺めつつ、弁当を食っていた。
「あれ、こんなところで飯食ってんの? もうすぐ居住者様が来るんじゃない
の?」
「何で俺の居場所が無いんだ。ボイラー室はお前が仮眠しているし、清掃準備
室では額田らが飯を食っている。あいつらは俺の兵隊じゃなかったのかよ」
テレビのチャンネルは地元のケーブルテレビ局だった。飯山の新幹線新駅が
映し出される。
山城は、弁当を持ったまま身を乗り出した。
「俺はあの近所に2ヘクタールの田んぼを持ってんだ。売れば億になるが売ら
ない。米も売らない。みんな親戚に配るんだ。皆にそう言ってやった。それで
皆、俺を妬んでいるのかも知れないな。いや、額田だって、土地を持っている
ものな。やっかむとしたら、大石悦子、泉、公団住まいの蛯原、あと、24時
間管理員のぷーたろーどもだろうな。特に、おめーだよ。おめーなんて、飯山
から更にバイクで20分も行った原野でアパート暮らしをしているんだろう。
おめーみたいな持たざる者が人民主義者の扇動家になったりするんだよ」
「ふん。まあ、俺と鮎川は近い将来ユーチューバーで成功して、ユーチューバ
ー長者になるかも知れないけれどもな」
「ああ、精々頑張んな」
(ムカつくな、死ねばいい)そう思って斉木は踵を返した。
●8
「本当に土地持ちっていうのはムカつくよな」
管理室に入るなり、斉木は弁当を食っている蛯原に言った。アルマイトのド
カベンに満杯のご飯、その上に、ワラジみたいに大きいメンチカツを卵でとじ
たものがあふれんばかりに乗っている。12時から1時間蛯原が休み、13時
から1時間高橋明子が昼休みだった。だから今はフロントに立ってそば耳を立
てている。
「なに、なに」と弁当を食いながら蛯原が言った。
「蛯原さんの事も、公団住まいの貧乏たれって言っていたぞ」
「なんだって」
「俺とかも、どっかから流れてきた馬の骨とでも思ってんだろう」
それからしばらく斉木の愚痴が始まった。
「全く、あのジジイは最初っからそうだったからなあ。思い出すなあ、ここが
竣工した頃、AM社の懇親会も兼ねて、飯山雪祭りを見物に行った事があった
じゃん、あの時、俺と山城が、管理員と清掃員をそれぞれ代表して、早い時間
に行って場所取りに行ったんだよね。山城の野郎、もう、電車の中で、ワンカ
ップと柿ピーで一杯やっていた。だから言ってやったんだよ、こんなに混んで
いるのに、目の前に子連れの妊婦が立っているのに、つーっと飲んでんじゃね
えよ、丸で朝マックの時間帯に、朝刊を広げる散歩帰りの年金生活者みたいじ
ゃないか、とかね。
そうしたら、俺の方が先に座っていたのに何で譲らないといけない、とか言
って、それにあの女は豊野駅で急行から乗り継いできたので県外のよそ者なの
だ、それが証拠に、ガキの鼻水を拭いたティッシュをそこらに捨てて行ったじ
ゃないか、とか。それを拾って、ワンカップの空き瓶と一緒に捨ててたけどな
、掃除夫が。
会場に着くと、雪中花火大会に備えてジジイはビニールシートを広げて場所
取りをしてよお、夜になるとだんだん混んできて、押すな押すなになって来て
、後から来た奴が羨ましそうに見ていたが、あれは、俺の畑の周りに住んでい
る団地族の視線だとか言っていたよ。その内、子供を抱っこしていた母親が、
すみません、ちょっとここに座ってもいいですか? 気分が悪くなって、とか
なんとか言ってきたら、あんたら甘いんだよ、こっちは昼間っからここで頑張
っているのに、今更のこのこ出て来て座れると思ったら大間違いだ、とかなん
とか言ってよぉ。だから俺は言ってやったね、おーい、みんな、ここは誰の土
地でもないんだぞー、って。そうしたら、周りに居た群衆がざーっとなだれ込
んできた、ぐじゃぐじゃ状態になったな。それでも、結局、みんな、飲んだり
食ったりしたものを片付けて行かないで、最後に山城が一人で掃除をしていた
から、あいつな天性の掃除夫だぜ」
●9
(こりゃあ、空気が悪い。ここから歩いて200メートル、車で数分のところ
に、ペンション兼喫茶があって、ベジタリアンフードとケーキを出している。
昼はそこに行こう)と高橋明子はフロントで思っていた。
昼休みになると実際ジムニーでペンション喫茶に行く。
ソイパティ(モスかよ)のハンバーガーとヴィーガンバナナケーキ、コーヒ
ーなど食べてまったりしていたら、いきなり、本社から電話が入った。
「高橋くーん、居住者名簿をエクセルに打ち込んで、こっちにメールしてくれ
ない?」
「えー、そんなの入居する度に本社に送っているんじゃないんですか?」
「それが、メールに書かれているだけで、エクセルになってないんだよ」
「えー、それをこっちで打ち込むんですかぁ?」
「頼むよぉ」
「何時までに」
「急がないから」
「コンシェルジュの仕事はどうするんですか」
「それは、蛯原さんにやってもら様に電話しておくから」
高橋明子は管理室に帰ると、室内のデスクの上にある古いFMVにバインダ
ーにファイルされている居住者名簿を1枚ずつ入力しだした。
フロントの内側に新しいレノボがあるのだが、蛯原が立っていると、バイタ
リスの強烈なニオイが漂ってきて耐えられない。髪の毛がイノシシ並に濃くて
、自分でカットするから、毛足が豚毛歯ブラシみたいになっている。
集中しているとすぐに時間が経過した。
3時頃にフロントに泉がきて、何か蛯原に指図されている。
「さっき助けてやったから、かわりに…」
そっから先は、こちらに聞こえない様に小声で話す。
(何を指図したんだろう)耳をそばだてて聞いていても分からなかった。
明子は、PCを見つつ、防犯カメラのモニタを見ていた
数分後、駐車場屋上の映像に泉が出てきた。
屋上出口を出てすぐ左手に止めてある理事の車の周りの雪かきを開始した。
最初プラの雪かきでやっていたが、その内、柄の方で突っつきだした。9分割
のディスプレイでも見える。
それから、スロープの方へ歩いて行った。スロープに入ると死角になって消
えた。そのまま歩いて降りるならば、直ぐに、駐車場3階の映像に出る筈だが
、映らなかった。3階駐車場の映像で映っているのは、駐車場の真ん中の通路
と左右に駐車してある車のトランクあたりまでだ。もし、スロープから降りた
らすぐに、駐車している車の影に入って、そのまま、リアバンパーのあたりを
しゃがみ歩きしてくれば映らないですむ。そうやってエレベーターのところま
で行って、エレベーターに乗ればエレベーターカメラに映るから、非常階段で
降りてきて、居住棟エリアに入って、共用棟の裏口からラウンジあたりに行け
ば、次に映るのは、今蛯原がつったっているフロントの前あたり。
居住者名簿を電子化しながら、ちらちらと防犯カメラを見ていたら、突然フ
ロントの映像に泉が現れた。
●10
リアルのフロントに泉が来て、蛯原に何か言っている。
「え、本当かっ」と蛯原は強い調子で言った。「それじゃあ」
と言ってチラッとこっちを見ると、管理室の中に入ってくる。
(おいおい、何しにくる)と思ったが、入ってすぐ左に置いてあるスチールキ
ャビネット下部の事務用品の引き出しから何かを出すと、フロントに行った。
それを泉に渡して、「これで…、その後で…、分かったか」と小声で、しか
し強い調子で言っていた。
(何を言っているんだろう、つーか、何を渡したんだろう)
明子は、わざとらしく「あ、そうだ、定規で押さえないでポストイットを使
えば便利だわ」というと、キャビネットのところに行ってしゃがみ込むと事務
用品の引き出しを開けた。
ボールペンだのマジックだのの引き出しは特に変わりはない。その下の引き
出しを引いてみる。ホッチキスの弾やPiTが入っているのだが、すかすかだ。
(ここに何が入っていたんだろう)
デスクに戻ると、又、PCを見ながら防犯カメラのモニタを見る。
やっぱり、泉が屋上出入口左の理事の車のところに来た。しかし、しゃがみ
込んで何かをしているので、何をしているのだか分からない。
ちらちら、モニタを見ていると、30分ぐらい経過してから、泉は、スロー
プの影へと隠れていって。それからどこに行ったのか、分からない。もう蛯原
のいるフロントには戻って来なかった。
「コーヒーでも飲もうかなあ」明子はわざとらしく言うと、キッチンの方に行
った。
ふと気になって、しゃがみ込むと、レジ袋に入っている割れたガラスカバー
を見てみる。
よーく見ると割れた断面にセメンダインみたいなものがついている。(もし
かしたら山城さんが割る前に誰かが割って養生していたのでは)
#597/598 ●長編 *** コメント #596 ***
★タイトル (sab ) 22/11/23 14:59 (224)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』3朝霧三郎
★内容
●11
5時になると、山城がフロントに来て「帰るぞー」と怒鳴った。
山城は作業着の上にドカジャンを着てそのまま帰るので、早い。
カメラで見ていると、山城は駐車場3階で降りて、スロープ下の自転車置き
場に行った。
スロープの上には上がらないで、3階のエレベーターから乗り込んだ。
(スロープを上れば、そこが除雪されているのか確認出来たのに)
高橋明子は諦める様に、ため息をつくと、エクセルもバインダーも閉じて、
キャビネットに戻すと、更衣室に向かった。
代わりに、斉木が来て、デスクのチェアに座り込む。
明子も含めて、蛯原、額田、大石、泉が着替えて、管理室に戻ってくる。
「さあ、帰るぞ」と、蛯原がこれから朝まで一人の斉木に言う。
玄関側の鉄扉を開けて、「おい、もうだいぶ積もってきたぞ」と額田が言っ
た。
「ジムニーで送っていってあげましょうか」と明子。
「俺は足腰が強いから歩いて帰れるよ」額田。
「俺もバスで帰るよ」と蛯原。
「私は旦那が迎えにくるから」と大石。
「あら羨ましい」と泉。
「泉ちゃん、乗っけていってあげようか」と明子。
「えー、いいんですか?」
「そんじゃお先に」「お先に」とみんなが一声かけて、鉄扉から出て行く。
駐車場でジムニーに乗り込むと、明子はシートベルトをかけながら「寒いね
、すぐに温まるからね」と言った。
「はい」と泉。
エンジンをかけるとすぐに車を出した。
「飯山市内でいいんだよね」と明子。
「はい」
「いつもはどうやって帰るの?」
「コミュニティバスで」
カーラジオからは、地元のFM局の天気予報が流れていた。
「気象速報です。長野県北部を中心に大雪警報が発表されています。長野市、
中野市、大町市、飯山市、白馬市、小谷市、高山村などとなっています。5時
の大町市からのリポートでは、すでに2センチ程度の積雪で、しんしんと降り
続いているとの事です。このあと1時間の降雪量は、飯山市では8センチ、積
雪の急激な増加に要注意です。この後の雲の動きは、日本海側より発達した雲
が流れ込んでくる見通しで、深夜から明け方にかけて雪の降り方には注意が必
要です。ウェザーニュースのアプリからは最新情報が確認できます。チェック
してください」
斑尾高原スキー場を出て、ペンションが左右に立ち並ぶエリアのくねくねし
た道をコーナー取りしつつ、明子は言った。
「これじゃあ、明日の朝も、歩いて来るのは大変だから、乗っけてきてあげよ
うか」
「いいですよ。私、歩くスキーをもっているから、あれでバス停まで行くから
。ダイエットにもなるし
「いいわよ、遠慮しないで。こんなに降っているんじゃあ、大変だから」
それから泉は、斉木の計画で、額田が山城を追いだした事などを話した。
「へー、そんな事やっているんだぁ」と明子。「それにしても、こんなに降っ
ているんじゃあ、折角除雪しても、又積もっちゃうわね。
さっき理事の車の周りを除雪している様子を防犯カメラで見たけれども、あ
れは蛯原さんに頼まれてやったの?」
「そうじゃなくて、除雪も清掃の一部だと思って」
「それから、スロープの方に行ったけれども」
「そこには何もなかったよ。溶けていたんじゃない。昼間は晴れていたから。
…やっぱり、明日の朝は、歩くスキーで自力で行きます」ときっぱりと言った。
(女湯の照明のカバーを割ったのは実は泉ちゃんでしょう、とは聞けないな。
それをアロンアルフアで蛯原が助けてくれた。その見返りに何かをやらされた
。理事の車の周りの除雪と、あと何かを…。あー、こんな事だったら、泉なん
て乗せないで、スロープの様子を見て来ればよかった)
●12
夜間、斉木は、管理室で、レトルト食品とココアで腹ごしらえをした。
それから、鮎川の自衛隊時代の漫画の電子化作業に着手した。これから夜中
の12時の温浴施設閉店までは暇だった。鮎川の漫画の原画を、管理室の複合
機でスキャンしては、ペイントでコマごとに分解する作業をしていた。結構面
倒くさかったがこれでバズれば銭になる。半分は斉木にくれるという約束だか
ら。
鮎川は27、8まで、アニメージュの裏にあった募集広告から応募したタツ
ノコプロに就職していた。しかし、アキバ加藤の事件でオタクの息子に不安を
感じた親が自衛隊に放り込んだ。2年で満期除隊して、自衛隊時代の事を漫画
にして、コミケに出品したのだが、全く売れなかった。
12時に温浴施設の営業が終わると、風呂の栓を抜いて湯を抜くと、新しい
冷泉を入れた。本当は洗わないといけないんだけれども、そんな事はしない。
満タンになれば勝手に止まるからこれで今日の業務は終了。
夜中の3時に新聞配達を通す為に一回起きなければならないが、6時までは
眠れる。斉木はアラーム時計を3時にセットすると、うとうとしだした。
3時になると一回起きて、新聞屋を待った。しかし3時半になっても4時に
なっても新聞屋は来ない。結局来たのは5時半だった。
正面玄関の自動ドアを開けてやると、フロントに入って来るなり新聞屋の一
人が怒鳴った。
「雪かきしておけって言ったじゃないか」
「雪かきなんてするかよ」
「じゃあ主任管理員に言っておくからいいよ。昨日もそうして命令してもらっ
たんだから」
「別にあいつに使われている訳じゃないよ。あいつだってただのパートだ」
「俺らだって、何時もより3時間も時間超で頑張っているのに、そっちはぬく
ぬくとして」などとぶつくさ言う新聞屋を、二重オートロックの二つ目のドア
を通してやる。
その背中を見て、(あいつらも、搾取されているんだなあ)と思う。
斉木は、ボイラー室からプラの雪かきを取って来て、正面入り口から雪かき
を始めた。
雪は止んでいたが、鼻水が凍ってつららが出来た。
7時半頃までに、駐車場から正面玄関を経由してマンションの出口まで、や
っと歩行者の通れる30センチ幅の通路を確保した。
くねくねした道を見ると、自分の汗が雪を溶かしたぐらいに思えた。
その苦労の跡を、チャリン、チャリンとベルを鳴らしながら山城が走って来
た。
こっちに迫ってくると「シャッター開けてくれ」と言って通り過ぎていく。
(あんな野郎の為に雪かきをしたんじゃねー)と思ったが、ポケットの中のリ
モコンでシャッターは開けてやった。
●13
山城は、チャリン、チャリンとベルを鳴らしながら左に旋回して、駐車場に
入る。
駐車場の中ほどまで行くと、自転車を立ててエレベータに乗った。
屋上に降りると、一面に真綿の様な雪が降り積もっていた。まだ全然足跡が
付いていない。
山城は、嬉々として自転車を漕ぎ出した。
真っ直ぐスロープには向かわずに、あちこちを旋回しながら、オリンピック
の輪の様にタイヤの跡を付けていった。
何故か、『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出した。
あの映画はリバイバル上映を妻と見に行ったのだった。
(妻は処女だった。雪のように白く清かった)
『雨に唄えば』を口ずさみながら、山城は雪の上にタイヤの跡を付けて行っ
た。
(俺だけが汚していいのだ)と山城は思った。(後で、泉だの鮎川だのに汚さ
れてたまるか。あいつらほんとうに豆腐に指を突っ込むようなガキなのだから)
散々ぐるぐる回ってから、階下に向かうスロープに向かった。
その時になって、今自分が口ずさんでいるのは『雨に歌えば』じゃなくて、
『明日に向かって撃て』でポール・ニューマンがキャサリン・ロスを籠に乗っ
けて漕いでいる時の歌だ、と気が付いた。
次の瞬間に、自転車の前輪がスロープに差し掛かったのだが、突然、ハンド
ルを取られるのが分かった。
焦って斜面を見ると、積もったばかりの雪の下にボブスレーのコースみたい
なワダチが出来ていて、左側の壁に向かってカーブしている。
(あれッ)と思った時には、ずずずずーーっと滑り出していた。(壁に激突す
る)と思ったのだが、激突と同時に壁が外れて、自転車もろとも地上に転落し
た。
(こりゃあ死ぬぞ)ともがいている内に、自転車と自分が入れ替わり、自分が
先に背中から着地した。かなりの衝撃だったが、雪がクッションになって(助
かった)と思った。しかし次の瞬間、自転車が落ちてきて、ブレーキレバーが
右腹部の肝臓付近をざっくりとえぐった。その衝撃で自分はうつ伏せの状態に
なり、自転車は回転して、脇の小道に飛んでいった。
●14
正面玄関で雪かきをしていた斉木は、ぎゃっ、という短い悲鳴の後に、ちゃ
りーんという音を聞いた。
(自転車でコケたのかなあ)と考えて、しばらくじっとしていたのだが、ハッ
と気が付いた様に、雪かきを持ったまま走り出した。
駐車場の真ん中を突っ走って、裏側の柵まで行く。
舗道に自転車が落ちているのを発見した。
植え込みの手前には、山城が卍みたいな格好をしてへばりついていた。
斉木は、柵の扉を開けて、山城に近寄ると、周辺をうろつきながら様子を見
た。
綺麗に雪が積もっている所に落っこちているので、もしかしたら生きている
かも知れない。
雪かきの柄で、山城の腹部をぐーっと押してみる。腹の下から、どろーっと
血が流れ出してきた。
(うぇー)グロ耐性がないので、口の中が酸っぱくなった。
フェンスの外側の松の木で、カラスがくっ、くっ、と咽を鳴らせて羽をばた
つかせた。
雪かきを振り回してみたが、カラスは微動だにしなかった。
斉木は携帯を取り出すと119番通報した。
●15
救急車よりも先に警察が到着した。
シャッターを開けてやると、7人8人と警官が入ってくる。
すぐにkeepoutと書かれた黄色テープで現場の5メートルぐらい手前
に規制線が張られた。
斉木はの警官にそこまで引き戻されてしまった。
現場では、ヘアキャップに足カバーの鑑識が、舗道にへばり付いた遺体を取
り囲んだ。その中の偉そうなのが「首吊りと一緒だ。ひっくり返さないと検視
できない」と言った。
鑑識二人で、一斉のせいでひっくり返す。その拍子に裂けた腹から内臓が飛
び出してきた。
「うわー、こりゃあ又ど派手に裂けたもんだ」
言うと偉そうなのは、手にはめたゴム手袋を引っ張ってパチンと鳴らした。
遺体の脇にしゃがみ込んで、腹の辺りに触れてみたり、瞼を持ち上げてみたり
、口を開いてみたりする。
他の鑑識は、写真を撮ったり、メジャーで、駐車場壁面から遺体までの距離
、その他を測っている。
救急隊も既に到着していたが、ストレッチャーの上に、オレンジ色の毛布だ
の、オレンジ色のAEDのケースだのを積んだまま、待たされていた。
2人の刑事が、駐車場の柵の近くから最上階を見上げていた。飯山警察署の
警部補、服部雅彦(近藤正臣似 55歳)と、巡査部長、小林達也(江口洋介
似。35歳)である。
「あそこから転落したのか」と服部が言った。それから「おい、あなた、ちょ
っとこっちに来て」と斉木に手招きした。
そして、服部と小林とで質問してくる。
「まず名前は」と小林。
「斉木清」
「どういう字を書きます?」
「斉藤由貴の斉に木曜日の木、大久保清の清」
「さいとうって4種類ぐらいあって、どれだか分からない」
「まあ、いいよ、とりあえず」と服部。「それで、あのガイシャの名前は?」
「山城なんとか」
「ここの管理員ですか」
「清掃員だな」
出勤してきた、蛯原、明子、次の24時間管理員の大沼、清掃の額田、大石
悦子、泉らが規制線の所まで来た。
「俺がここの責任者だ、まず俺に聞けー」蛯原が規制線のところに立っている
お巡りを押しのける様に刑事2人に言った。「おい、斉木君、余計な事を話す
必要はないぞ」
「うるせーんだよ、おめーは」斉木は睨み返す。
山城の遺体は既にブルーシートで目隠しされていて見えなかった。
「ガイシャは、山城さんか」と蛯原。
「うるせーんだよ」
「じゃあ、上に行ってみようか」と服部
「はい」と小林
「あなたもついてきてくれます?」
「別にいいけど」
規制線のところで、蛯原が迫ってくる。「弁護士を呼んでやろうか」
「うるせーよ」
3人はエレベーターで屋上に向かった。
「おい、我々も屋上に行くぞ」と蛯原。
エレベーターは4人乗りなので2回に分かれて屋上に上がった。一回目は、
蛯原、明子、大沼、額田。
降りるなり、理事の車を見て、明子は、(あれ)と思った。
一面雪なのに、理事の車の周り一周、雪が溶けてグリーンのウレタンが露出
している。
それをちらっと蛯原が見て、
「こんなにむけたんじゃあ、スロープの方と合わせて、物損が大変だ」と言っ
た。
「えっ?」と明子。
「とにかく、向こうに行ってみよう」
と、4人でスロープの方に行った。
おっつけ、大石悦子と泉も来た。
そこにも規制線が張られていて、制服警官が立っていた。その向こうでは、
鑑識4人と刑事1人が現場検証をしていた。
刑事2人と斉木が規制線から一歩中に入る。
「黙秘権があるからな」と蛯原が言ってきた。
斉木は嫌な顔をしてこっちを見ただけ。
#598/598 ●長編 *** コメント #597 ***
★タイトル (sab ) 22/11/23 15:00 (275)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』4朝霧三郎
★内容
●16
刑事二人と斉木はスロープを見渡した。
「なんだ、こりゃ」と服部。
スロープの真ん中から左側壁面に向かって、半径1.5メートルぐらいのワ
ダチがあった。
「どうもおかしいんですよ」上に居た警部補の三木(渡辺哲似。60歳)が言
った。「足跡がないんです」
ワダチの両側はこんもりと新雪が降り積もっていて、なんの跡もなかった。
ワダチにはうっすらと雪があって、ところどころ、自転車のタイヤで擦れた
のだろう、グリーンのウレタンが見えていた。
壁面を見ると、はめ込みボードは脱落した訳ではなく、下一箇所のボルトで
ぶら下がっているのが分かった。
「おーい、下の人。何時壁が落下するか分からないぞ」と服部が地上の鑑識に
怒鳴った。 それからワダチを指し示して言う。「ここでハンドルをとられれ
ば落下する仕掛けになっている」
「こりゃ、一体どういう事なんだ」と三木。
服部はワダチを見ながら首を捻った。
小林が、斉木の脇に付いていた。
「いっつも、山城という人が最初に出勤するんですか?」と服部が聞いてきた。
「そうです」
「その前にここに来た者は」
「居ません」
「見てたのか」と三木。
「そういう訳じゃあ」
「じゃあ何で分かる」
「防犯カメラを再生すれば分かると思います」
「カメラは何処にあるんです」言うと服部は辺りを見回した。
「あそこにあります」斉木は屋上西側の監視カメラを指差した。
「何日分録画してあるんだ」
「本当は160時間だけれども、今は壊れていて16時間だな。それに、ここ
は死角になっているから映らないよ。日も当たらないしね」
「小林君、下に行ってチェックしてきてくれないか」
「はい」というと規制線のところまで行ってAM社の面々に警察手帳をかざし
て見せた。
「飯山署の小林といいます。捜査の必要上、あのカメラの映像を見たいのです
が、見せてくれませんか」
「じゃあ、大沼さん、見せてやってよ」と蛯原。
「俺がか。お前が自分で行ったらいいやんか」
「私はここを離れる訳には」
「まあ、大沼さん、それじゃあ連れていって下さいよ」と小林刑事にうながさ
れて二人はエレベーターで下へ降りて行った。
走査線の内側では、服部と三木が話していた。
「事件だよな」と三木。
「誰かがワダチを作っておいた。足跡もつけないで」
「うーむ。事件性は否定出来ないから、とりあえず職場の人間関係だけでも聞
いておいた方がいいんじゃないの?」
「そうですね」
服部は規制線のところに来ると、AM社の面々を見渡した。そして、高橋明
子に、「あなた達がこのマンションを管理している人達ですか?」と聞いた。
「そうです。私がコンシェルジュの高橋です。こちらが主任管理員の蛯原さん
。あと、清掃の額田さん、大石さん、沢井泉さん。あと今下に行ったのが24
時間管理員の大沼さん。あと、彼が斉木さん」
「それで全部ですか」
「あと一人、24時間管理員で非番の人がいますが。鮎川さん」
「それで、そこから転落した山城さんの職種は?」
「清掃です」
「それで全部かあ」
「そうです。それで…、山城さんはみんなに嫌われていたんです」
「何を言いだすんだ、突然、この女は。自分が本社の人間だからって」と蛯原。
「そうじゃないんです。私、昨日泉ちゃんに聞いちゃったんです」
「イズミ?」
「沢井さんです。沢井さんを車で送っていって、その時に…」
そして、高橋明子は、斉木の描いた絵図で額田が山城を清掃準備室から追い
出した事、
その為に蛯原を使って本通リビングに遠赤外線ストーブを買わせた事、山城は
、大石悦子、泉、蛯原、斉木を貧乏人だといってバカにしていた事、などを喋
った。
「それじゃあ俺には動機がないな」の額田。
「そうじゃないんです。額田さんは、マンション内の居場所の取り合いで山城
さんを嫌っていて、斉木さん達は、そもそも貧乏アパートだから、土地持ちの
山城を嫌っていたって感じです」
「面白くなってきたなぁ、ここにいる全員に動機があるって事か」と斉木。
「じゃあ、足跡がないっていうのはどういう事なんだ」と刑事の三木が言って
きた。
「そんなの、一本橋を渡る様に、雪の中を歩いていって、ワダチを作ってバッ
クしてくればいいだろう。その点に関して、額田さんは怪しいんじゃないの?
この人は、田んぼ5枚も6枚ももっていて、田植えをしているのを見た事が
あるけれども、歩行型の田植え機で、あんなぬかるんだ泥の中で、あんな機械
を押して行くんだからなあ、とび職みたいにバランスがいいんだから」
「そんな、足跡をつけてバックして戻ってきたなんて、古臭いやり方じゃない
よ」と額田が言った。
「おやおや、額田さんに何か思い付いた事でもあるの?」と斉木。
「俺は、何時もキッズルームの掃除とかしているんだが、蛯原は、自分ちの孫
のおもちゃを平気でここにもってきて置いておくんだよなぁ、公私の別がつか
ない人だから。その中に、リモコンのブルドーザーがあるんだよ。あれを使え
ば、遠隔操作で足跡をつけないでもワダチが作れるよ」
「えっ、俺がやったっていうの? ただ単にキッズルームにリモコンのおもち
ゃを置いただけで」
「そういう可能性もあるって言うの」と額田
「そういう可能性はないよ。あんなリモコンのおもちゃ、キュル、キュル、キ
ュルーって素早く動くんだから、実際の除雪なんて出来る訳ないよ。それに、
俺が思うに、あのワダチは、人の足跡やおもちゃでつけたものじゃなくて、何
かぶっといタイヤの様なもので付けたんだと思うんだな。それで俺が思い付い
たのは、鮎川なんだが。あいつはよく猫車を使っているから、あいつが、朝方
に忍び込んで猫車でやったんじゃないのか? ここの管理員は全員オートロッ
クの暗証番号を知っているんだから、裏エントランスからでも入り込めば出来
るだろう。それに鮎川は元自衛官だから、北海道雪まつりで雪の扱いに慣れて
いるんじゃないの」
「待って下さいよ。田植え方式にしろ、リモコンのおもちゃにしろ、猫車にし
ろ、そんなやり方でやったんだったら、あの西側のカメラから映りますよね」
と服部まで謎解きに参加してきた。
「それが、死角になる場所があるんですよ。このスロープから降りていって、
3階の駐輪場から車のトランクの下の方を歩いてくれば映らないで済むんです
」と明子。
「しかし、マンションに入ったならエントランスや裏エントランスには映るで
しょう」
「それはそうですが」
「じゃあ、それを下にいる小林刑事に確認してもらいましょう」言うとスマホ
を出して電話した。「ああ、あのねえ、昨日の5時以降、このマンションにA
M社の人間の出入りがあったかどうか監視カメラ映像で確認してもらえないか」
15分経過。
「なに、そうですか。わかりました。ありがとう」そしてスマホを切る。「1
7時に退社以降、AM社の人間の出入りはない、又、深夜0時以降は、明け方
の5時半に新聞配達が来た以外に人の出入りはない、との事です」
「振り出しか」と斉木。
服部と三木はワダチに近付く。
「どう、何か変わったもの落ちていない」と服部が鑑識に聞いた。
「それが、このワダチなんですけれども、ウレタンがところどころ出ていて、
それは、自転車のタイヤ痕だと思うのですが、ウレタンがめくれているんです
よ」
「なにぃ」と三木。
服部と三木は鑑識のところに行ってしゃがみ込むとウレタンを凝視した。
「ここのところとか、ここのところです」と鑑識が指差す。
「本当だ。大人の親指ぐらいの大きさのめくれが、点々と、ワダチにそってつ
ながっている」と服部。
「清掃で使っている雪かきの柄は、みんな鉄パイプがむき出しになっていて、
あれで、がりがりやれば、こんな傷がつくかもな」と斉木。
「ありゃあ、どのデッキブラシも雪かきもああなっちゃっているんだよ。凍っ
た雪をつつくだろう、一階の通路の脇とか。そうすると、ああなっちゃう」と
額田。
「そういえば、昨日の朝礼で、蛯原さんが、理事の車の所に凍った雪があるか
ら除雪しておけって言っていたよなあ。あと、山城に言われて、スロープにも
凍結した雪があるって。蛯原さんが、清掃員の誰かにやらせたんじゃないの?
」と斉木。
「そんな事はやらせていないよ。管理規約にないから。嘘だと思うなら、防犯
カメラを見ればいい」
「だってあれには16時間しか残らないんだろう。だったら、昨日の4時以降
は映らないんだぜ」
「その理事の車というのはどれですか?」と服部。
「あれです」と、エレベーター出口の脇の車を明子が指差す
「見に行ってみよう」
全員で、ぞろぞろと、理事の車の方へ移動した。
「こっちは完璧にウレタンが露出しているね。多分日当たりがいいからだろう
が」
服部、三木、斉木が膝に手をついて中腰でウレタンを見る。
「ほら、こっちにも、点々と親指ぐらいのめくれがあるね」と服部。
さらにしゃがみ込むと、服部はめくれを指でつまんで「これは、何か、接着
剤の様なものでくっつけてあるな」と言った。
「そりゃあ、アロンアルフアよ」と大石悦子が言った。「アロンアルフアとい
えば、蛯原さんよ。だって、蛍光灯のカバーだってそうやって直すと言ってい
たもの」
(浴室の電灯のガラスカバーもアロンアルフアで養生していたんだわ)と明子
は思った。
「ええっ。これを養生したのは、あなたなんですか?」と服部。
「しらないね」と蛯原。
「あなた、何か隠していませんか?」
「別に、アロンアルフアぐらい誰だって使うでしょう。」と蛯原。「そんな事
よりも、足跡がついていなっていうのは、解決したの?」
その時、「ジングルベル、ジングルベル、すずがなる♪」という子供達の声
が、風にのって聞こえてきた。
(あれ、あれは子供達が歌っているんだろうけれども。今日は、土曜か。学校
は休みか。謎が解けた)
「謎が解けました。私に喋らせて下さい」と明子が言った。
「なんだ、君ら、素人が」と三木。
「まあ、いいじゃないですか。聞いてみましょうよ。高橋さんだったね。聞か
せて」
「いいですか。じゃあ喋ります。
今日は24日ですよね。23日の朝に、山城さんは、ここで凍った雪を発見
していますから、その前の日の夕方あたりだと思います。犯人ミスターXが、
雪のないスロープの真ん中に、半径1.5メートルに左カーブに、雪を盛って
行ったんじゃないでしょうか。
そうすれば翌日には、そのカーブの箇所だけが凍結すると思います。それに
山城さんは滑りそうになった。そして蛯原さんに除雪しておけ、と文句を言っ
た訳です。
ミスターXは、それを誰か、例えばですが、泉あたりに、あの凍った雪をと
っておけと命令する。でも、清掃部隊の雪かきはプラのだから、取れない。だ
ったら柄の方でがりがりやれ、あの氷で居住者が滑ったりしたら損害賠償10
0万円だぞ、とかと脅かしてやらせる。
脅かしが効いて、泉が必死にこじったら、ウレタンがぺらぺら剥がれてしま
った。
泉はミスターXのところに行って、屋上のウレタンが剥がれちゃった、と言
う。
そりゃあ弁償かもしれないな、と脅かす。張り替えたら何10万もするかも
知れない。でも、最低賃金で働いているのにそこまで弁償させられたらたまら
ない。だから、アロンアルファで養生しておけばいい。そうやって誤魔化して
おいて、秋になれば5年点検があるから、それまでばれなきゃあ、ちゃんと点
検したのかよ、って言えるから。
だから、来年の秋になるまでは、二度とウレタンの剥がれた箇所をこじられ
ない様にしなければならない。
それには雪が降る度に、塩化カルシウムを撒いておけばいい。でも、塩化カ
ルシウムにも限りがあるので、スロープ全面にまくってわけには行かない。だ
から、ウレタンがはがれている所にだけまいておけばいい。
そうすれば、翌日には、1.5Rのワダチが壁に向かって出来てる。
そうやって、やったんじゃないでしょうか。
ついでに、雪が吹雪くと、あそこの壁面にも吹き積もる。それが凍結して落
っこちたら危険だから、あの枠のところに塩化カルシウムを撒いておけ、と言
っておけば、枠のボルトも錆びるだろうし。そうしたら、ああなった。
それでミスターXは誰か。それは蛯原さん、あなたでしょう」
「な、なんで?」
「さっきこの最上階に来た瞬間、理事の車を見て、こことスロープのめくれと
で、物損が大変だって言っていたじゃないですか。理事の車の所のウレタンが
めくれているからって、何でスロープの方にもめくれがあるって分かったんで
すか? それは、両方とも、柄でこすって、めくれを作って、その上に石灰を
撒くという事をさせたからじゃないですか? 語るに落ちたんじゃないですか」
「ちげーねえや」と斉木が言った。「思い出したが、今朝新聞屋が、ワダチに
ハンドルをとられてコケそうになったから、雪かきしておけ、って、蛯原に頼
んでおいた、って言っていたよ。それが22日の事。その時に、こんないたず
らを閃いたんじゃないの?」
「くうっ くっくっ ううっ うっうっ、うーーーーー」突然、泉が泣き出した
「だって、お母さんが病気だから、お金がいるから、弁償なんて出来なかった
んです」
「泉、余計な事を言うな」と蛯原が手で制した。
「だけれども、私は、山城さんが滑り落ちるなんて知らなかったんです。ただ
、雪かきをしろって言われて、そうしたらウレタンがはがれちゃって、今度は
アロンアルフアで貼って、その上に石灰を撒いておけ、って言われたから、そ
うしただけなんです」
「誰に言われたんだ」と服部。
泉は黙って蛯原を指した。
「くっそー。だけれども、俺だって、山城が滑るなんて事は知らなかったとも
言える。というか、知らなかったんだよ。そうだ、俺は知らなかった。だたウ
レタンを守る為に石灰を撒いただけだよ。それが罪になるのか?」
「それは分からないな。検事にでも言って下さいよ」と服部。「とにかく、蛯
原さんと、沢井泉さんは署に来てもらいます。いいですね」
制服警官が二人を押さえた。
「はなせっ、はなせっ」両脇を押さえられても蛯原は暴れていた。
「さぁ、さぁ、いいから」と警官。
「離せ、誤認逮捕だ」
「さぁ、さぁ、これ以上暴れると手錠はめるぞ」
「はなせー」と嫌がって尻込みする蛯原は、強引に両脇を固められて、エレベ
ーターに乗せられていった。
泉はうつ向いたまま、しゃくりあげて、両脇を絡められて連行されていく。
少しして、ウゥゥゥウゥゥゥ〜〜〜〜とパトカーのサイレンが響いた。
回転灯を付けたパトカー2台が北の出口から出て行く様子が、駐車場屋上か
らでもよく見えた。
●17
「はぁーあ、全く、後味の悪い話だよな。」と斉木が言った。「それは、貧乏
人が金持ちを退治したのに処罰されるからなんだよな。ひでー話だ。貧乏な泉
が更に貧乏になる。
額田さん、次はあんたが狙われるかも知れないぞ。そうならない為に、コメ
20キロ、30キロずつ、泉の家と蛯原の家に贈与しろよ。
全く、百姓なんて、そりゃあ江戸時代200年ぐらい苦労していたかも知れ
ないけれども、戦後みんなが飢えている時に銀シャリ食っていたんだものなあ
。そんなのが新幹線が出来て土地成金になってさあ。全く不公平ったらねーよ」
「だからって、人を殺していいって事にはならないだろう」と額田。
「そうかねぇ。フランスじゃあ貧乏人がルイ16世もマリーアントワネットも
殺したんだぜ。何で日本でそれをやったらいけないんだよ。意識が低いから、
格差社会のままなんだよ」
「全くあんたはナロードニキみたいな男だよな。まあ泉んちには米の20キロ
ぐらいやってもいいけどな。それは、職場の仲間だからだよ」
「ふん」
斉木は、ゲレンデの遥か彼方に見える妙高山を見た。
雄大な自然を見たところで心は晴れなかった。それどころか、
(北陸新幹線なんて必要だったのか)と思えるのだった。(そんなもの出来な
いで、山城も泉も貧乏なままだったら平和だったのに)と、斉木は思うのであ
った。
【了】