◇フレッシュボイス過去ログ #6237の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
オークさんの書き込みがきっかけで、調べましたとも! 昨日の書き込みにはミスが あったので、ちょっと訂正です。で、まとめ。 暦を調べると、秀頼の誕生は旧暦文禄8月3日で、西暦1593年9月8日。 逆算すると、淀殿の排卵は1592年12月1日で、旧暦の10月28日である。受胎はその後だ から旧暦11月初めと思われる。 当時、秀吉及び淀殿がいたのはどこか? が議論のポイントとなる。 この時期、秀吉は朝鮮攻略に軍を送っている最中。 ちなみに、最近の研究でこの派兵は朝鮮半島を征服するためではなく、明を征服する ためだったということがわかってきている。朝鮮半島は自分に臣下の礼を取ったので、 すんなり軍を通してくれると秀吉は思い込んでいたらしい。キリシタン大名らが大言壮 語し、秀吉は実際に抵抗されるまで疑わなかった。 彼の行動はかなり細かくわかっている。 天正20年(1592年)7月に母・なかが聚楽第で死亡し、肥前名護屋城にいた秀吉は急 遽、戻った。このとき、淀殿と松の丸殿は肥前名護屋城にいた。 8月、その葬儀。 秀吉実父説を主張する研究者と淀殿&秀頼ファンは、この葬儀にもふたりが戻らず、 そのまま肥前にいたと解釈する。ふたりが京、あるいは大阪へ戻ってきたというはっき りした記録はない。しかし、出産前の5月下旬に淀殿は大阪城にいた。 否定派は大政所の葬儀をすっぽかすはずはないと解釈し、ふたりは急いで戻ってきた はずとし、その後はずっと大阪にいたとする。 そして、秀吉は旧暦10月1日に大阪を船で出発。名護屋城着は10月8日ごろと思われ る。 さて、真実は……?
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