AWC      わたしのナツメロ物語  (竹木貝石)



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★タイトル (GSC     )  95/10/ 1   7:55  (199)
     わたしのナツメロ物語  (竹木貝石)
★内容

   はじめに

 「ナツメロ」という言葉がいつ頃から使われるようになったのか、わたしは知らな
い。また、「カラオケ」という用語も最初に耳にしたのは昭和50年(1975年)
くらいだったと思うが、正確な記憶はない。
 このように、わたしは時間や数字の他、人や場所に関する記憶が不確かで、それら
を書きとめたり調べたりするのも苦手である。
 だから、わたしの書く随筆は記録としての価値が乏しく、「資料を調べない者に文
章を書く資格はない」と言われればそれまでである。
 視覚障害者(盲人)でも、あらゆる手立てを尽くせば資料を捜して確かめることは
できるのであるが、わたしはそういうことに労力や時間を費やしたくない。
 もし、正確な知識を必要とされるなら、歌謡曲関係の解説書を御覧頂きたい。





   林 伊佐緒

 最初にこの歌手から書き始めようと考えたのは、夕べNHKの『ラジオ深夜便』で、
彼の特集を放送していたからである。
 昭和12年(1937年)に『うちの女房にゃ髭がある』でデビューした林伊佐緒、
このレコードを聞くと、彼の声の特徴がよく現れている。これはデュエット曲で、相
手の女性歌手は新橋みどり(文字不明)であった。
 昭和12年と言えば、日中戦争(以前には日華事変とかシナ事変などと言い、時代
とともに呼び方も色々変ってきている)が始まった年で、わたしはこの年に生まれた。
 林伊佐緒の戦後(第2次世界大戦後、以下同じ)のヒット曲に『ダンスパーティー
の夜』・『麗人草の歌』・『愛染草』などのヒット曲があり、当時小学生だったわた
しは、寄宿舎で、同室の年長生がこれらの歌を好んで歌うのをよく聞いたものだ。し
かし、何かが一つ物足りなくて、今レコードを聞いてみても、曲奏と林伊佐緒の雰囲
気とがぴったり合っていないように思われる。

 彼の不滅の傑作と言えば、昭和29年(1954年)の『高原の宿』しかない。こ
の年は、春日八郎の『お富さん』がミリオンセラーになっている。
 その頃わたしは高校2年生で、名古屋市北区のK鍼院に住み込みで働きながら盲学
校に通っていたのを懐かしく思い出す。
 当時新しい試みとして、林伊佐緒は日本各地の民謡をブギのリズムに編曲して歌い、『八木節ブギ』とか『真室川ブギ』などを売り出していたが、一転して、高橋キク太
郎(文字不明)の叙情詩に、自ら作曲して歌った『高原の宿』は大ヒットした。これ
こそ彼の会心の出来映えであり、このレコードは我が国の数ある流行歌の中でも最高
水準に達していると言って過言でない。
 まずなんといっても、その素晴らしい歌声であるが、歌謡曲歌手でも、あれほどに
声がのびている例は珍しい! 特に「アア高原の宿に来て」という辺りは、聞いていて
胸がスカッとする。2番も3番も同じように迫力があり、歌の終りの「きみ呼ぶ心…」
の纏め方もよい。
 それと、昨夜ラジオを聞いていて気付いたことだが、林伊佐緒のビブラートには独
特の魅力がある。星の数ほど居る歌い手の中でも、安心して聞けるバイブレーション
はほとんどなく、皆わざとくさくて不規則であるのに、林のそれは安定度と自然さに
おいて抜群である。ビブラートは持って生まれた特質というべき物で、自分の体に共
震するのでなければならず、林のビブラートは震動が速くて大きい点に特色がある。
 『高原の宿』は歌詞も上品で、学生時代のわたしにはまだその真価が分からなかっ
たが、「都思えば日暮れの星も」という出だしや、「一人しみじみ、一人しみじみ」
と繰り返す箇所など、歌に気持ちが篭もっていて、ベテラン歌手ならではの深い味わ
いがある。

 わたしの好みでいうと、『高原の宿』が第1位であるが、他に、『三つの恋』・
『哀愁のフラメンコ』・『思い出のブンガワンソロ』・『恋の幌馬車』・『東京の空
からホーイ』など、いずれも堂々たるもので、林の歌声は60歳近くなってからも全
く衰えをみせなかった。

 なお、林伊佐緒は作曲家としてもよく知られていて、『長崎の女』や『りんご村か
ら』等の名曲は、彼の行跡を不朽の物とした。
 林伊佐緒は、明治45年に生まれ、平成7年9月19日に亡くなった。

                                              1994年5月1日(土)





   藤山一郎

 昨年80歳?で亡くなった藤山一郎は、美空ひばりとともに、国民栄誉賞に輝く歌
謡曲歌手であり、この受賞にわたしも全く異存はない。
 彼の歌い方で定評があるのは、明確な発音と美しい声であるが、わたしはこれに音
程の正しさを付け加えたい。プロの歌手に対し音程の批評をするのは可笑しいようだ
が、歌手といえどもむしろ音程の正確な者は稀である。
 藤山一郎の歌い方はクラシック音楽に近いと言われ、ポルタメント唱法を用いず、
また、歌の終りの音をやたらと延ばすことをしない。いくら流行歌は庶民の歌だと言
っても、このごろのように猫もしゃくしも、無制限に最後の音を引き延ばすのは邪道
というより嫌味でしかない。

 藤山には多数のヒット曲があるが、わたしはレコードよりも生の演奏の方が好きで
ある。『丘を越えて』や『青い背広で』・『夢淡き東京』なども、若い頃の物より彼
が40代になってから歌った生演奏の方が心に残っている。
『東京ラプソディー』・『長崎の鐘』・『緑の雨』などの名曲の他、わたしの幼い記
憶にあるのは、戦争直後に赤い羽を売って苗木を植えるキャンペーンが盛んだった頃、
それに因んで作られた『緑の歌』というラジオ歌謡で、安西愛子とのデュエットは、
じつに爽やかに歌われた。





   竹山 逸郎

 戦後まもなく、NHKで『のど自慢テスト風景』という番組がスタートした。のど
自慢は今も続いているが、娯楽の少なかった当時、このラジオ放送は最も人気の高い
番組の一つだった。鐘を三つ以上鳴らした者が合格とされたが、合格者はめったに無
く、それはプロ級のレベルでなければならなかった。
 ある日曜日の午後、盲学校の寄宿舎に1台しかない〈なみ四〉というぼろラジオで
のど自慢を聞いていると、男の人が出て来て次のように行ってから歌い始めた。
「私はつい最近シベリヤから復員して来た者です。これから歌う歌は、私たちがシベ
リヤで抑留生活に耐えながら、戦友たちと一緒に歌って苦しみを慰めあってきた歌で
す。どなたかこの歌を作った人をご存じありませんか?」
 そして歌い出したのが『異国の丘』であった。

  今日も暮れゆく異国の丘に
  友よ辛かろ切なかろ
  我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る春が来る

 鐘が二つ鳴るか三つ鳴るかの際どいところだったが、その軍人の歌は、聞く者の胸
を強く打つものがあり、やがて合格の鐘が鳴った。
 後に、『異国の丘』は吉田正の作曲と分かり、ビクターからレコードが発売された
のは有名な話である。
 レコードでは、竹山逸郎が1番と3番を歌い、のど自慢でこの歌を紹介した中村孝
三(文字不明)が2番を歌って、映画とともに全国に広まった。
 竹山逸郎の歌い方は、その時代の他の歌手たちに比べて、なんとなく素人っぽく感
じられたが、『異国の丘』のレコードの1番と2番を聞き比べてみると、やはり段違
いである。中村孝三もけっして下手ではないが、「餅屋は餅屋」、アマチュアは専門
の歌手に遠く及ばないということであろう。

 竹山の歌は地味で垢抜けしていないが、言うに言われぬ魅力があり、わたしは特に
その男性的な低音が大好きだった。
 ヒット曲には、『月よりの使者』・『涙の乾杯』・『熱き涙を』・『流れの舟唄』
・『別れの夜汽車』など数多くあるが、彼は早々と引退してしまった。

                                            1994年5月22日(日)





   昭和23年の流行歌

 このところ真夏日とか熱帯夜という日が一ケ月も続いているが、今朝3時頃、窓か
ら吹き込む涼しい風に、ふと目をさまし、ラジオのスイッチを入れた。
 NHKの深夜番組で『昭和23年の流行歌』として、次の8曲を放送していた。
 1 二葉あき子の『フランチェスカの鐘』、2 平野愛子の『きみ待てども』、3
 岡晴夫の『憧れのハワイ航路』、4 小畑実の『長崎のザボン売り』、5 竹山逸
朗の『異国の丘』、6 伊藤久男の『シベリヤエレジー』、7 津村謙の『流れの旅
路』、8 高峰三枝子の『懐かしのブルース』であった。

 この年の出来事としては、帝銀事件、芦田内閣誕生、そして、新聞広告に初めて色
刷りが登場したのだそうである。
 わたし個人でいえば、盲学校の小学部5年生で、疎開先の津島中学(愛知三中、現
在の津島高校)の一部を借りて、戦後の苦しい寄宿舎生活と勉強をしていた時期であ
る。
 歌謡曲でいえば、戦後の第一期黄金時代で、他にも沢山の歌手と歌が出て、ラジオ
番組の「素人のど自慢』で盛んに歌われた。

 上に挙げた歌手と歌について、簡単に述べてみる。
 1 2 8を比べてみると、なるほどよく似ていて、二葉と高峰とを、わたしは時
に混同することがある。
 最近の演歌を歌う女性歌手が、誰も皆同じようなパターンばかりで、大げさなビブ
ラート・粘っこい小節・テンポの遅れ・地声と裏声・下品な泣き声・軽薄な表現・力
みやまき舌…、わたしにとっては耳障り以外の何物でもない。
 しかし、「昔の歌謡曲は良かった!」と嘆く昨今であるが、考えてみると、終戦直
後の女性歌手の歌い方はやはり互いに似かよっていたのである。
 むしろ、当時わたしたち少年が最も嫌っていた平野愛子の歌に、なかなか味わい深
いものがある。あの頃『きみ待てども』などは、気持ちの悪い歌の代表のように思っ
ていたが、この年齢になると、感じ方も変ってくるのであろう。平野の歌では、その
後まもなく大ヒットした『港が見える丘』の方がさらに優れている。

 『異国の丘』については、前にも書いたので省略するが、『シベリヤエレジー』も
よく歌われたものだ。

  赤い夕日が野末に燃える
  ここはシベリヤ北の国
  雁が飛ぶ飛ぶ日本の空へ
  オレもなりたやアアあの鳥に。

 異国もの・復員ものには、『帰り船』・『ハバロフスク小唄』もあり、童謡では、
『里の秋』・『明日』などがあった。

 岡晴夫は当時ナンバーワンの人気歌手で、ヒット曲を挙げれば切りがない。
 けれども、子供の頃のわたしは、彼の軽快で粋な歌い方が不良っぽく聞こえて、あ
まり好きでなかった。
 そこへ登場した歌が、『憧れのハワイ航路』で、子供から大人まで幅広いファンを
作ってしまった。今でこそ海外旅行は珍しくもなくなったが、戦後の我が国では正に
「憧れのハワイ」航路だったのである。

 津村謙はその頃売出し始めた歌手で、独特の美声と安定した歌唱力は、専門家の間
でも定評があった。
 彼の名を不朽のものにした『上海帰りのリル』よりも、わたしは『流れの旅路』の
方がはるかに好きである。
 ただ、岡晴夫にも言えることだが、素晴らしい高音のゆえに、低い方の声がうまく
出ない恨みがあり、三音列のラ(A)の音すら歌えていないのには驚かされる。

 小畑実はわたしの嫌いな歌手であった。ソフトな声と言えば聞こえはよいが、なん
となくフワフワした感じに締まりがないようで、どうも好きになれない。けれども、
この『長崎のザボン売り』、そしてかの有名な『湯島の白梅』と『勘太郎月夜歌』の
力強さはさすがである。

                                            1994年8月12日(金)


   (記憶違いや文字違いをご容赦下さい。   竹木貝石)



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