AWC −日常の些末−(1)          今日も暇..



#2333/3137 空中分解2
★タイトル (WJM     )  92/11/ 1  11:47  (196)
−日常の些末−(1)          今日も暇..
★内容

 昨日は葬式だった。焼香の列はズルズルと列び、ゆっくりと進んでいた。休みは日曜
だけの日帰りのトンボ帰り。急な遠出にはよくある事とはいえ、新幹線には席はなく、
さらに、故人が毎日通っていたという路線を行きつ戻りつという、慌ただしい弔問であ
った。

 東京にたどり着いたのは終電も間際の頃。それからまた、毎日の通勤と同じ長い長い
道のり。荷物は結構にかさばって、手さげの紙袋は破れんばかりに膨らんで、髪はボサ
ボサ、髭は伸び、むくれた腹のせいでズリ下がったズボン。貫一は酒好きだ。次から次
へ空けた缶ビールにすっかり酔った挙げ句、新聞紙を広げ座り込んで寝てしまうという
体たらく。あれから何処をどうして帰って来たのか、からっきし覚えていないのだが、
こうしてチャンと家にいる。

 逆算すると、ほとんど寝ていない計算になるのだが、未だ暗いうちから目が覚めてい
る。とはいえ定時に出社するには、さほどに余裕ある時刻とはいえないのだ。夜は容赦
無く明ける。妻や子は未だ寝ている。

 「また帰ってきてね」

 三つになる娘がそういってくれたのは、もう三日も前の事になる。こんな事ならば、
カプセルホテルにでも泊まれば良かったと貫一は思うものの書類一式を置き忘れたから
には、自宅にいったん戻らねばならなかった。置き忘れたというよりは、遠路はるばる
の旅程の最中に紛失する事を恐れたといった方が正確である。職場に置いておくわけに
もゆかなかった。人目をはばかるものである。その内容を知るのに、血眼になっている
人々もいるのは事実。そして、本日この日、その資料に大きくものを言ってもらわない
と困る役員会がある。

 TVのニュースによれば夜半から続いているという雨は未だ止まない。帰り際には雨
は降ってはいなかったと思うのだが、首都圏と言っても大層に広いのだし、天気予報か
らも見放されている辺鄙な処だから、とかいう理由づけをしては納得してみる。

 冷蔵庫の中には、ラップのかかった茶碗に飯が軽く一膳。納豆がワンパック。そして
、牛乳。電子レンジで暖めるのさえ面倒になっている。納豆のパックをあけ、冷や飯を
少しずつ入れて、かき回しては食べる。こうすれば、茶碗にネバリがつかないで済む。
醤油を滴らしてかき込む。牛乳と一緒に流し込む。

 喉が渇いていた。1リットル入のパックが半分は残っていた牛乳が空になった。牛乳
を飲みすぎると腹が鳴って、ともすれば下る癖があるのを忘れていたというわけでもな
い。物事は全てがハズミで起きてしまうものなのだ。毎日毎日、同じように、時刻とも
なれば、独りでに目が覚め、飯を流し込み、手筈を整えて会社に出かけてゆく。それで
も、毎日、何事か新しく、何かハズミで起きているに違いないのだ。

 昨日の朝は髭を剃り忘れていた。濃くはない方だが念を入れて剃り直す。歯を磨く。
吐き気がする。入念に書類一式に洩れが無いかを確認する。一枚の光磁気ディスクには
、今日の会議のためのプレゼンテーション。ひらたく言えば、アニメーションでもって
企画案の内容を説明する為のプログラムが収めてある。力が入っている。大袈裟に言っ
てしまえば

 「天下分け目」

とにかく、足を引っ張る奴等が多すぎる。

 五月貫一、三十六歳。同期の中で、課長になったのは相当早い。「風あたり」という
ものを切実に感じる。「家を出たら七人の」と昔から言うけれども、七人で済むならば
、それはそれで結構な事だ。

 「行って来るよ」

と、誰もいない玄関で言う。小振りな手提げ鞄は、脇にしっかと抱えて網棚には決して
乗せぬ心積りから見繕った。

 「五月」という表札を見上げ、戸締まり。

 「再び帰って来るのだ」

という思いに、何処か粟然としている。

 襟元に飛び込んでくる雨粒に、目覚めてからまだ、一本もタバコを吸っていない事を
思い出した。小脇に鞄。片手に傘を持ちながら、我ながら器用にタバコに火をつけた。

 「ふぅ〜」と一服。ジメつく梅雨。全身に、汗が吹き出している。少し動くと、すぐ
にこうだ。はっきり言って、太りすぎである。身長が一七〇センチそこそこだというの
に体重は一〇〇キロを超えている。

 健康診断に去年から加わった、心電図検査とやらに、心肥大だの虚血性変化だの素人
には訳のサッパリわからぬ異常が出たという事で、会社診療所の医者は「禁煙」の指示
をした。でも一体、貫一からタバコを取り上げてどうするつもりなのだ。抗議すると

 「スワン(吸わん)の涙ですね」

とか、フザケた返答をくれた。その上、肝機能検査にも異常が出たので

 「節酒しなさい・禁酒しなさい・痩せなさい」

ともいう。仕事上のつきあいだって接待だってあるという事を果して理解してくれてる
のだろうか。その医者の後をつけて歩いて、医者がタバコを吸い、酒を飲むたびに現れ

 「そういうお前さんだって同じだろが!」

と言ってやりたい事は山々だが、それほどに暇を持て余している訳ではない。一心不乱
に駅までを歩かなければならない。

 ところどころにしか舗装なく、ぬかるんだ道を一〇分も歩けば靴はドロドロになる。
湿った生暖かい風に混じり吹き降る雨は、ますますに強くなる。コートも湿り、ズボン
も股上までグッショリ濡れる。口を開けてため息をついた拍子に、くわえていたタバコ
コがポトリと落ちた。濡れて火も消えてしまっているので「ジュワ」という音もせぬ。
 もうじき駅に着く。思い出した様に通勤ラジオのイヤホンを耳に入れスイッチを入れ
た。ロータリーの周囲に店が数軒一重に取り巻いているだけの、ここ「葉朴」の駅前。
到着したばかりのバスからはゾロゾロと乗り換えの人々が降りてくる。

 「輪関内」から「矢田」までの8つの駅を結ぶ第三セクター方式の「輪矢線」が開通
したのは、ちょうど一年前の事だった。その利用者の大半は「熊乃木坂」の駅で幹線に
乗り換える。それまでは、やたらにワザワザの遠回りをしてくれるバスに揺られるしか
他はなかった。そういう処にしか、まっとうなサラリーマンは戸建ての家が買えないと
いうのが通説のようだが、それに間違いはないと思われる。

 田園風景の中にポツン高くそびえる高架の駅舎。「葉朴」の駅の階段は一際に高く、
そして急な勾配である。

 ゾロゾロと続く行列の人々の頭が右へ左へゆらゆらと揺れる。例によって、吸殻入れ
がくすぶっている。いがらっぽい煙がホームから階下へと立ちこめてくる。抜けぬ疲れ
に息切れする。汗が吹き出す。ポケットから出したハンカチが思わずズルっと顔面を滑
った。手に持つ傘からの雫がポタポタと落ちて、足元は靴から落ちた泥と混じり合って
ヌルヌルとぬかるむ。それでも、やっとの思いで上り終えた。思わず一服。タバコに火
をつける。湿った一服はホームにモクモクとたなびいている煙のように苦い味がした。

 梅雨は明けない。傘に頬杖ついて座り込んでしまう。生暖かい風に混じり吹き降る雨
に眼鏡も頬も何もかもが濡れてくる。コンクリートで塗り固められた上に表面張力で盛
りあがった水面をはたくような雨のしぶきは、いよいよに激しくなる。今日は顔見知り
の人の誰にも合えない。何故なんだろう。こんな事は滅多にない筈なのに。

 向こうから列車がやってくる。それが点のように見える。「輪関内」発の「矢田」行
き。大抵の人は二駅先の「熊乃木坂」で乗り換える。何時の間にか貫一の後ろにもビッ
シリと人が立ち並び、ホームの上に溢れるばかり。その上、揃いも揃ってやって来る列
車に身構えているではないか。

 「トン」と肩を押された途端にホームへ身を躍らせそうな、おのれ自身の体勢に目眩
がした。

 先週の金曜日に命を絶った男は、佐藤といった。高校、大学、そして広告研究会、と
ずっと貫一と一緒だった。就職こそ違ったけれども、結婚したのも、家を建てたのも、
課長になったのも同じ年だった。

 彼の家も、やはり高架の駅のある新興の分譲地にあった。通勤には、長い長い道のり
を要した。それでもなお、休日出勤さえ辞さず、休みさえ取った事のないという彼が、
何の風の吹き回しか、平日に休みを取って、家族揃って遊びに行く事を言いだしたとい
う。駅まで子供を肩車したくらい、いつになく上機嫌で、こんなふうにしゃがみこんで
列車の来るのを見ていたという。そして突然にパッと立ち上がると線路へと高く身を踊
らせた。

 「ドスン」

と鈍い音がして、

 「ギィーィ」

と列車が軋んで止まった。そこまで言うと、未亡人はつっ伏して泣き止まなくなった。
脇に居た子供が何気なく言った

 「パパ、どうして帰ってこないの?」

という一言に、一同は、目を閉じてしばし言葉も無かった。長居は元より出来なかった
のだ。

 あっと言う間に列車はホームへとなだれ込んでくる。脇に鞄をひしと抱きしめ、傘を
杖にして立ち上がった。行列を飛び出、一人天へ踊るという光景を恐れ、ゆっくりと。

 「プッシュゥ〜」

と圧搾空気の音がしてドアが開く。列車は既に満員である。二駅先が大概の人の目的地
であるから、降りる人なぞいない。とうに寿司詰めになっているところへ分け入るよう
に乗り込んでゆく。押し寿司の型に飯を詰め込んでいる処を思い浮かべてみれば良い。
かといって、目的地に到着すると型が外れて、

 「コロン」

と転がり出る訳でもあるまい。

 行列の先頭の程近くに並んでいたとはいえ、後ろからの最初の一押しでは体全部が車
両の中へとは入ってはゆかない。行列の真ん中に位置を占めるようにするのがコツでは
ある。半身でも体が入れば、ドアの真上の列車の壁を手で押し、空気圧の強い力で閉ま
ろうとするドアの力押されるのを利用してはいりこむ。ドアに荷物や髪の毛、衣服の一
部が挟まれ、はみ出したままに発車・走行する事が希ならずある。コードを引っ張られ
て、ラジオのイヤホンが抜け落ちた。手を伸ばして掴もうにも掴めない。しまりきらな
いドアの隙間から、暖かい風と雨粒が息づくように吹き込んでくる。顔面をドアのガラ
ス面に押し付けられて、歪んだ口でうめく声が聞こえる。

 本日は吹き降りの強い雨。レインコートで着ぶくれた人々が、雫が跡絶える事の無い
傘を誰一人怠る事なく各々が携えて乗り込んで来たのだ。あちらこちらから押されて引
きずる足もとはビチャビチャと鳴り、爪先から踵まで靴の中に溜まった水は暖まって、
グチョグチョと音をたてている。眼鏡は否応無しに曇る。

 一〇〇キロを超える脂肪の塊である貫一が「おしくらまんじゅう」に押されて半分宙
に浮いている。左足が宙に浮いている。右脇には鞄を抱きしめ、左手には傘を

 「しっか」

と握っている。体は右の方へ傾きっぱなしである。「豚の斜塔」といっても悪い洒落に
しかならない。物見高い人も居ない。誰もが目を閉じている。

 ただでさえ「汗かき」である。サウナだって、こんなに蒸し暑くはない。水が蒸発す
る余地がない水蒸気が飽和した中にいるのである。つまりは、不快指数百パーセント。
犬のように口を開けてみたって、気化熱を奪ってくれる筈もない。じっとしていても、
生きて行くにはエネルギーが必要で、体内では熱が産生され続ける。体温はジリジリと
上昇する。ボンヤリと陶然と、ただただ、この時が過ぎてくれるのを待つのみ。




#2334/3137 空中分解2
★タイトル (WJM     )  92/11/ 1  11:51  (195)
−日常の些末−(2)          今日も暇..
★内容

 滴り落ちる汗の雫が頬から首筋を伝って、背中からパンツの中へと下り、尻の割れ目
へと流れていった。こんな、のけぞるような気分でさえ、ここでは些末な事なのだ。

 超然と新聞を小器用に畳んだのを広げては、丹念に読む御仁もいらっしゃる。分厚い
漫画週刊誌だって、何やら難しそうな本だって。この車両の中には健気にも僅かな時間
をも無駄にしない人々が一杯なのだ。

 それにしたって、毎日、こんなに大勢の、見知らぬ他人と肌身を合わせる国民は日本
人以外に他になかろう。見知らぬ大勢と、こんなにも肌身を合わせる時は通勤電車以外
に他になかろう。異性の肌身の暖かさに思わず興奮する事もある。意のままに沈静して
くれぬ

 「我が身の一部」

に赤面する事だってある。

 だが、心配する事は無い。決してエイズに感染したりする事はない。感染の恐れある
のは、身に覚えあるような所業をなさった時に限られるのだ。

 「詳しくは、厚生省から配布をされているパンフレットなどの資料を参照されたい」

などともったいをつけずに言ってしまおう。例えば、具体的にどんな事だと問うたなら
ほら、そこにいらっしゃるカップルの昨晩なさった事のような事だ。まぁ、何とも人目
を憚らずに、互いに強く抱擁しあっておられるではないか。

 「不幸は半分に。幸せは二倍に」

と恋する二人を祝福する言葉こそ多いが、もし仮に、どちらか一方でもが、

 「誰とでもわかちあう」

のであったならば、二人ともが地獄を味わう事となろう。

 雨の勢いは衰える事はない。曇ったガラスに吹きつける雨のしぶきを、人垣の間から
垣間見る事が出来る。そんな雨の中ではあるが、太陽の方角にかかっている雲だけが切
れたのであろうか、まぶしいほどに明るくなってきた。古来、「キツネの嫁入り」など
といわれた奇妙な天候。陽射しはますますに列車内部を熱く照らす。

 真夏の蜜蜂の巣の中を思い出す。六角形の蜂の巣の中に詰め込まれた蛹。だが、よく
考えてもみよう。働き蜂は、その羽根を絶え間なく動かして換気し、その中を冷却して
いるのではなかったか。

 思わず見上げると、首を振り振り、あちらこちらに風を送るのが大事なお役目である
筈の扇風機はピクリとも動かない。また、涼しく、そして除湿されたエアコンの風も全
くに吹いてくる気配もない。

 目を開けている者はまずいない。インドの修行者の瞑想は、苦諦から逃れる為のもの
であるのかもしれない。照りつける太陽は陰る事はない。誰もが、何かしらすがりつく
縁を持っている。立っている者も、座っている者も、ひたすらに寝るか、本を読むか、
ヘッドフォン・ステレオに聞き入っているか。ゴータマ・シッタルダはヘッドフォンを
しながらに解脱したのかもしれぬ、などと考えていると、後ろの男の耳元から、

 「シャカ・シャカ....」

と漏れてくる音。過大な音量に、聴力低下をきたすのではないかと心配にもなる。その
うちに、悟ったような声が流れる。

 「ただいま、冷房装置の故障の為、大変にご迷惑をおかけしております。
  窓付近のお客様は『窓開け』に御協力を御願い申し上げます....」

 冗談じゃない。いや、まさに冗談だ。この吹き降りの雨の中、窓を開けろ、とは噴飯
の至りである。車内放送はほとんどがコンピュータによる音声合成によるもので、エラ
−チェックが作動したため、自動的にアナウンスが流れたと思われる。こんな「些末」
なプログラム・ミスに文句をつけても、決して是正される事はあるまい。こんなケース
は頻繁にあるものではないし、なおかつ致命的な欠陥ではない。何でも見透かしたよう
に、神のごとくやってのける機械なんぞがあったら気持ちの悪い事この上ないである。

 一人おいて前に立っているオジサンは、貫一が毎朝食べたいといつも思っているけれ
ど、時間にギリギリな為に未だ食べた事のない売店で売っている海苔を巻いたオニギリ
を食べたのに違いない。何故なら、前歯に海苔がはさがっているのが、口をポッカリ開
けたままなので丸見えなのだ。こういうのを、

 「歯垢のメニュー」

とでもいうのだろうか。「究極のメニュー」とか「美食」には、誠に縁遠い事を今更な
がらに思う。ただただに意地汚く食欲を満たすだけの明け暮れである事か。時間があっ
たら、東京駅でカレーを食べたいと思う。

 「脂ものは控えなさい」

と言われていても、「体が欲しがる」のだから仕方がない。もっとも、司令を出すのは
身体の専制君主であるところの「脳」であるのだけれど。体に悪いと知っていても

 「酒飲みたい」「タバコ吸いたい」

と思い命じるのは「脳」の中枢。「腹が鳴る」などと責任転嫁甚だしい、持って回った
言い方はするべきではない。

 理科の教科書を見ればわかるように、脂肪は消化されると、脂肪酸とグリセリンに分
解される。脂肪酸には様々なものがあり、例えば「酪酸」は、いわゆる

 「乳臭い」

といわれる独特の臭気を持つ。濃度が高くなれば、「酢」の瓶を開けてかいだ時のよう
な、「ツン」とする臭いがする。汗腺から分泌される「皮脂」。表皮が剥がれ落ちてた
まる「垢」。皮膚に常在する細菌に分解されて臭いを発する。特に、細胞の一部がちぎ
れて一緒に分泌される「アポクリン汗腺」は、時に深刻な悩みを招来する「わきが」の
原因ともなるという。

 蛋白質が分解を受けると、色々な臭いの元になる。インドールとかスカトールとかの
蛋白分解産物は、いわゆる「便臭」、臭い「屁の臭い」の元である。肉そのものは、特
に加熱調理を受けると、大変に良い風味を生むが、いったん消化や分解をうけると如何
なるものなのだろう。鼻を曲げる事なぞ思いのままの感がある。「腐臭」と呼ばれるも
のも、その類の臭いである。

 すぐ前にいらっしゃるのは、朝からタップリと食事をとられる余裕あるライフスタイ
ルの方らしい。そして、ニンニクやニラ、タマネギなどの入った料理を食されたようで
ある。いったん消化吸収を受けた臭いの元は、血液を循環し、肺から呼気へと排出され
る。だから、「歯を磨く」とか「ガムを噛む」というのは一時しのぎに過ぎない。

 そして、歯を磨いてもいらっしゃらないようである。この方の場合

 「歯垢のメニュー:レバニラ・ギョウザ編」

を備えていらっしゃる。昨晩の残りを朝に食されたのか、昨晩からそうなのかは定かで
はないが、歯槽膿漏が進行して歯の間も隙放題で歯石も付着し放題。食べ滓に酸素を欲
しがる好気性細菌が繁殖すると局所は酸欠状態になる。そうなると、酸素を嫌う嫌気性
細菌の天下となる。嫌気性細菌の産生する分解産物は、とても臭い。歯槽膿漏や入れ歯
の方の口が臭うのは、それらの仕業である。

 暑さゆえに、誰もがポッカリとあけた口から漏らすため息に乗って、特別あつらえの
臭気がそこかしこに拡散している。飽食の胃袋には、過剰の空気をいつも飲み込まれて
おり、それが後になって排出される事となる。腹もなっている。

 「ゲップゥ〜・・・・ゴロゴロ・・・・」

 鼻は異臭の警報器たる役割を放棄した。馬鹿を決め込んでしまう。かと思えば、しば
らくすると真新しい臭いには再び感じ始めてみたり、本当に気まぐれで慌ただしい限り。 朝飲んだ牛乳が効き始めた。貫一の腹がなっている。ずっと解消できない不自然な姿
勢も腹を圧迫している。

 「ブゥ〜・・スゥ〜・・・」

腸内の気体が体外へ出て周囲に広がる。突然に送風器の音がする。

 「ブワァ〜〜〜」

涼しくなるどころか湿気を帯びたカビ臭くもある熱風が頭から吹き付けてくる。体温が
摂氏四〇度ないし四十一度を超えた時点で生命に危険が出てくる。澱んだ空気が、かき
回されて渦をまいている。酒臭さと風呂に何日も入ってない臭いが漂ってきた。

 見れば、大声で叫ぶ男がいる。人と人の隙間から垣間見ると、片手に蓋の無いウイス
キー瓶を持ってる。赤い顔をしている長髪の大男。瓶の中身は既に残り少ないみたいで
ある。くだんの大胆に抱擁しあっているアベックの方を向いて大声を出している。

 「よぉ、ねぇちゃん!昨日はエェ事したんか?・・こいつと・・えぇ?〜・・」

 肝心な男は、こういう時に限ってうつむくばかり。赤ら顔の大男はうつむく男の肩を
叩いて言う。

  「おぉ!黙っとらんと何とか言や〜せ・・よぉ色男〜・・何回やったぁ?」

 相手の反応は二の次で、内なる言葉との会話に似た処さえある。関心の対象は次から
次へと動いて行く。

 「わはは・・わはは・・エイズはうつらせんでエェがぁ〜・・
  何回って聞いてるんだぎゃ〜・・数えとらんかったのかきゃ〜・・」

 天を仰いでウィスキーを飲み干す。もう残りは無い。僅かに残った雫を舌で受け止め
「ペロリ」となめとると目を剥いた。アベックの女の方へ手を伸ばそうとするが、目は
虚空を追っている。ちょうど前に座っているOL風の女はひたすら目を伏せている。

 「おぉ〜!暑ぇ!政治家が『お食事券』ばらまいてレストランに御招待だぎゃ〜」

 とにかく暑い。とやかく言う者は誰もいない。何もかも訳がわからない。その脇に立
っていた真面目そうなサラリーマン風の男が突然にガラス窓を開けにかかった。吹き降
りの雨が吹き込んでくる。大粒の雨のしぶきが天井から回り込んで吹き込む。

 列車はスピードを緩めた。ブレーキの音がする。「葉朴」の次の停車駅の「松虫」。
ここで降りてしばらく行くとアルコール症治療で有名な精神病院がある。

 赤ら顔の男は雨でビショ濡れになった顔を掌でぬぐうと、左手にウィスキー瓶を持っ
たまま、大きく両手を広げて笑った。やたら上機嫌になった。

 「雨だぎゃ〜・・雨だぎゃ〜・・」

 ドアが開いた。降りる者は誰もいない。かと思うと、人を押し退け、その酔いどれ男
はホームへと降り立った。ドアが閉まった。皆が安堵の笑みを浮かべた。酔いどれ男は
急に険しい顔になり、手に持った瓶をホームに叩きつけた。が、列車は何事も支障無く
走り出す。やがて、激しく雨の打ちつけるホームに立ち尽くしたまま、男は小さくなっ
て見えなくなった。

 列車が走るのに向かって、雨も降りつけてくる。暑さにたまらず開けた窓から大粒の
雨が容赦無く降り込んでくる。グショグショのトレーナーを着て青ざめている若い男が
いる。視線は虚ろに吊革に掴まり、ただじっと耐えている。

 「大丈夫ですか....」

 「えぇ....ちょっと二日酔いで....」

前に座っている女子高生は余りにも無防備だった。

 「うっ....うっ、ゲボゲボゲボゲボ......」




#2335/3137 空中分解2
★タイトル (WJM     )  92/11/ 1  11:55  (196)
−日常の些末−(3)          今日も暇..
★内容

 暑さに襟元を開け、御弁当箱が入ったバッグを膝の上に載せていた。嘔吐物は可愛い
彼女の襟元から流れ落ち、彼女の下着にまで届いたのかもしれない。熱と電車の揺れ。
多分、いつもであったら「熊乃木坂」の洗面所が少し汚れただけで済んだはずなのだが
物事は須らくハズミでうごいて行く。彼女は

 「嫌〜っ」

と小声で言ったかと思うと、手で顔を覆って泣くばかりであった。かと思うと、こんな
処でも、漫画雑誌に夢中なOLは、

 「キャハハッハ....ギャハハッハ....」

と本で顔を覆いながらも笑い転げているのであった。

 人の心配ばかりはしておられない貫一であった。腹の具合は相当微妙な状態である。
「熊乃木坂」まで持つか、が微妙である。グルグル、ゴロゴロと火山性微動を伴いなが
ら、間欠的にガスの噴出を伴っている状況であった。

 朝の慌ただしさに、胃痛や腸の蠕動の昴進が惹起され、便意を催す方も多い。こんな
日に限って、牛乳をしこたま飲んでいたりするのだ。バンドで教科書らしきハードカバ
ーの本を束ねたのを持った大学生風の男が急に本の束を取り落とした。汗か雨かは、定
かではないが、顔は雫が滴っている。目を大きく見開くと、片手で吊革にぶら下がりな
がら、膝を折って腹を押えた。かと思うと、はっきり聞こえる音がした。

 「ブリッ、ブリッ、バリバリッ」

大きく息をしている。Gパンには黒いシミが滴り落ちてゆく。しばらくして、茶色い塊
がGパンの裾から流れ出した。

 もう何もかもない交ぜである。混沌の海の中、皆一つになろうではないか。突然に禿
げたオジサンが歌い出す。カラオケの十八番なのだろう。

 「ジョボジョボジョボ......」

 もう何も驚かない。ここは電信柱ではない。何もかもがハズミで激しく動いている。
こんな事が起こっているのは、この電車の中だけに決っている。熊乃木坂に着けば、と
皆が思い込んでいる。

 熊乃木坂の駅で大抵の人は降りてしまい東京方面へ向かう幹線に乗り換える。輪関内
から矢田までを結ぶ輪矢線と交差している幹線との連絡地点である熊乃木坂は、交通の
要所である。

 熊乃木坂の駅の輪矢線のホームは、ゆるやかにカーブしていて、ピッタリと通過列車
によりそうというわけではない。停車している時に、ホームとの隙間が大きな処もあっ
て

 「乗降時に注意」

との表示も出ている。うっかりすると片足をとられて大怪我する危険もある。

 考えてもみれば、スムーズな円弧を描いているホームと連結器でつながれた直線であ
るところの列車の間には隙間が出来るのが当然である。大きな処もあれば、ほとんど隙
間がない、といった処もある。

 熊乃木坂の駅の輪矢線のホームには、朝のラッシュに限っていえば待っている人は疎
らである。大概の人々は東京方面へ向かう幹線に乗り換えるため、階下のホームへと急
ぐ。さっき到着した列車の人々は、とうに降りてしまった処。駅員さんも誰もいないホ
ームへ、コートを着た風采の上がらない太った男が、傘も持たずにやってきた。髪から
コートからズブ濡れ。だが、全く気にもしてはいない様子。矢田行きのホームの輪関内
方向の端へと歩いていった。

 誰も見ていない。大粒の土砂ぶりの雨に吹き荒ばれているのに、一向に構わぬようで
ある。ただただ、列車の来る方向をひたすら見ている。

 かたや、冷房の切れた貫一の乗った車両では開いた窓から大粒の土砂ぶりの雨が吹き
込んで来る。たまらずに誰かが窓を閉めたに違い無い。ピタリと風が止まった。糖尿病
患者の尿に特有の甘酸っぱい臭いがするに貫一は気がついた。四十歳以上の日本人の十
人に一人が糖尿病である。この大騒ぎの中に一人くらい居らっしゃっても不思議ではな
いと貫一は思った。

 「クション....クション....」

 黒い綿のコートを着ている若い男は、ひとしきりクシャミをした。飛沫は車両の中に
飛び散ってゆく。かと思うと、咳が止まらない。

 「ごふっ....ごふっ....ごふっ....」

 結核は減ったとはいえ、根絶された訳ではない。不摂生な若者や抵抗力の落ちた老人
の中では未だ蔓延している疾病である。

 「ごふっ....ごふっ....ごふっ....ごぼっ....」

 鈍い音がして、男は手で口を覆った。見ると、赤い血を吐いている。貫一のレイン・
コートにも、とばっちりがきている。

 血は水よりも濃い。トマトジュースの様に固形成分がたっぷり入っている。ウィルス
だの毒素だのも。B型肝炎だってエイズだって滅多な事ではうつらないけれども、大量
に血液に暴露されれば、わかったもんじゃない。

 「汚ねぇ....」

 思わずつぶやいた言葉に男は顔を赤くした。止まらない咳にほとばしる、赤いしぶき
は前に座っている老婆の顔面を直撃した。が、老婆はピクリとも動かない。息をしてい
るなら、肩を見れば僅かでも動いている筈なのにそれもない。目を閉じ、安らかな表情
で座っているだけである。我に帰って貫一は言った。

 「何とかしてくれよな....このコート....高かったんだぜ....」

 デマカセである。吊しの二着で「ニッキュッパ」とかいう背広しか着ていない貫一が
着ているのは、確か九千八百円のレインコートなのだから。言うんじゃなかった。男の
目つきが変わった。

 「悪かったな 俺はエイズだ エイズだ エイズだ エイズだ....」

 血のついた手を貫一の顔に擦り付けようとしたので、貫一は思わず手を掴み、そいつ
の右腕を後ろ手に捻り上げた。

 「えっ!」
 「エイズ?」
 「うそっ!」
 「わかんない!」
 「やだ!」
 「ほんとぉ〜?」
 「信じらんない〜!」
 「げっ!」

 言葉にならない音声の数々が集まり怒号に変わってゆく。皆、ドアの方を向き、ドア
の方を目指す。

 はっきり言って、血液を擦り付けられたくらいで感染が成立してたまるものか。とは
いうものの、たとえ、それが「感染症の専門医」であったとしても、この暑さと雨粒降
り込む車内では、正しい判断を行い、皆を導けたか、と問えば疑問が大きい。

 列車は、とうとう「熊乃木坂」へさしかかった。熊乃木坂の輪矢線のホームの端っこ
で独り立っていたビショ濡れの男は、

 「トォ〜」

と叫んでは高く線路へと身を踊らせた。入ってきた列車に面と向かってぶち当たった。

 「グシャリ」

という鈍い音がしたかしないか、でホームの緩やかなカーブの接線方向へと飛ばされ、
落下しつつホームの縁にぶつかる。ズルズルと滑り落ちる処に列車が過ぎる。

 ホームの縁と列車の間に挟まれ、ギリギリと絞り込まれる。ついには首だけがホーム
の上に出て、グルグルと列車の進行とともに回転する。割れて血だらけの額で目を剥い
た首。わずかに、たった今ホームに出たばかりの駅員さんがそれを見ていた。

 とうとう、首はくびり切られて、コロコロとホームの上を転がる。

 「キッキッキッ....」

と鈍い音がして列車は止まった。

 ドアが開く。我先にと列車から飛び出す人々。勢いたった若い男が「首」に蹴つまず
いて背中から倒れてしまった。「首」は勢いよく転がって、階下へと続く階段へと転げ
落ちた。若い男は、後ろから来たOLのハイヒールに腹を踏まれてしまって、腹を抱え
て倒れたままになった。

 あっという間に列車の中は空になる。後に残されたのは貫一と後ろ手に腕を捻りあげ
られた男。そして、座って動かないままの老婆は、ズルズルと滑って頭から床へと落ち
た。列車の床は様々な液体、吐瀉物にぬかるみ、その堆く積もった処に老婆の頭は落ち
ていった。しぶきが飛び散り、そして、老婆は薄目を開けたように見えたが、それは落
下の反動によるものに過ぎなかった。

 時間は過ぎて行く。しかし、いつまで経っても、列車は動こうとはしなかった。

 「人身事故が起きましたため、その事後処理のため、発車が遅れ、
  大変にご迷惑をかけております......」

そのアナウンスも音声合成であった。人身事故も日常に起きる些末な出来事かと思うと
貫一は何だかゾッとしなかった。怒りより、到着の安堵、そして再び力を得てきた便意
のために貫一は降りる事にした。大事な手提鞄は、そう大して汚れてはいない。

 「そのまま動くんじゃねぇぞ」

血を口から流し続けている男の腕から手を離すと、万平は後ろを振り返り振り返りしな
がら列車を降りた。

 階下への階段をゆっくりと降りて行く。少し歩いて、不便な方の洗面所に寄る。ここ
なら混んではいない。血のついたコートはゴミ箱に捨ててしまう。どうせ九千八百円だ
し、相当着古していたから。

 慌ててトイレの小部屋へと飛び込み、安堵する。寸での処であった。ちり紙は持って
いた。が、手を洗おうにも水が出ない。喉が渇いた。汗と小便と排便にて体の中の水分
は抜けてしまっている。

 イヤホンがちぎれてしまったラジオがポケットからはみ出している。スピーカーに切
り替えてニュースを聞いてみる。

 「今朝、首都圏各地で相次ぐ飛び込み事故が起こり、交通マヒをきたしています」

幹線の方でも「人身事故」にて運転が取り止めになっているという。思わず、貫一は床
に傘の先を叩きつけた。

 「くそっ!役員会議に間に合わなかったらどうするんだ!....」

そのまま、顔を上げた貫一の目の前に、見知らぬ少女がいる。さっきの吐瀉物を浴びた
女子高生かなと近づいてみると違う。不思議な事に宙に浮いている。

 「うわ〜っ!」

貫一は腰を抜かした。少女は、血だらけの男の「首」を抱えている。




#2336/3137 空中分解2
★タイトル (WJM     )  92/11/ 1  11:57  ( 77)
−日常の些末−(4)          今日も暇..
★内容

 少女は、男の「首」を掲げて微笑んだ。そして、「首」の首筋に接吻をした。貫一に
近づき、その美しい顔を貫一の首筋に近づけて接吻しようとした。

 「や、や、やめてくれぇ〜....」

全身の残りの汗が吹き出した。壁にいざり寄り、精いっぱい逃れようとあがいた。自分
のしてきた事を短い時間に振り返ったりした。傘を壁に打ち付けてわめいた。

 「俺が..俺が..何をしたって言うんだ!」

 が、気がつくと、少女は消えていた。咽が渇いて仕方がない。ズブ濡れの背広から銭
入れを出すと、自動販売機の前までヨロヨロと歩いていった。

 「カチャ〜ン」

何度コインを入れても、入れ直しても、コインははじかれてしまう。

 「あぁ、それ故障ですねんよ....」

小柄なオジサンが教えてくれた。売店は人だかりで近付けそうも無い。

 ポケットの中を探るとシワクチャになったタバコ。その中の最後の一本。相当に湿気
てはいるが幸いに火がつき、吸い込むと「スッ」と頭がスッキリするような気がした。

 が、その途端、急にキリキリとミゾオチから背中にかけて痛みだした。締めつけられ
る。たまらなく痛い。手で押えてもサッパリ楽にならない。脂汗がタラタラと流れる。
こんな痛みは生まれて始めてだ。もしかしたら、あの嫌味な医者の言っていた「狭心症
発作」とか言う奴か。貫一はアレコレと考えた。が、痛みは全くに軽くはならない。

 「助けてくれぇ!助けてくれぇ!助けてくれぇ!助けてくれぇ!....」

 声にはなっていなかった。貫一は、そのまま倒れ込み、そして闇に沈んだ。

                 ★

 声がする。聞き慣れない声だ。

 「落ち着いている事は落ち着いてますが....」

 「立派な心筋梗塞だよ....心臓の半分がもう駄目だ....
  いつ心臓が破裂してもオカシクない....こんなに肥満して....
  かなりのヘビースモーカーだったんだから当然の報いといやぁ言える....」

 「でも....MRIによると腎臓とか肝臓は充分使えそうです....」

 「『脳死作成セット』で脳死判定はクリアだ....
  俺達二人以外には何もしらない....部長とか他の医局員にも....
  脳波とか脳幹反応とか瞳孔反射とかシッカリと確認させる事だね....
  クスリで反射は消えるし、リモコンで脳波は平坦って事になる訳ね....
  心臓が破裂する前の活きのよい臓器を御届けしなくっちゃ....」

 「先輩....金遣い荒いから....」

 「お前だって人の事言えないぞ....」

 「奥さんにも愛想つかされてたみたいですね....
  亡くなられたらどうしますかって聞いてみたら....
  『あんな男....殺してください....』だって....」

 「おいおい『多冗丸』クン....冗談多いんじゃないかい....」

 妻の声がする。

 「あなた....佐々木さんがみえてますよ....」

 佐々木といえば、俺の足を引っ張ってばかりいる男だ、と貫一は不快に思った。会社
に行かなくては、会社へ行って、役員会議に陪席するのだ。あの資料を示し、あの重要
プロジェクトのための御裁断を得なくては。もがけばもがくほど、貫一の手足は宙を切
るばかりのように思えた。夢だ。夢なんだ。間違っても、今流行の「臨死体験」って奴
じゃないぞ、と貫一は思いたかった。

 突然、はたと目が覚めた。ベッドに横たわる貫一の首筋に妻が接吻をしていた。周囲
には、大勢の白衣の男達が何やら話ながら立っていた。

                − 了 −




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