AWC そばにいられると<前>   寺嶋公香



#425/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/04/30  19:03  (494)
そばにいられると<前>   寺嶋公香
★内容                                         17/04/20 20:22 修正 第3版
「なんかすげー曇ってきたぞ」
 八月も後半に入り、暑さのピークは過ぎたかなと思わせる日曜日の午後。碧
と暦姉弟の家――相羽家に、クラスメート二人が来ていた。
 窓の向こうを見てつぶやいたのは、その内の一人、川内亮介(かわうちりょ
うすけ)だ。窓を背にしていたもう一人のクラスメート、女子の小倉優理と碧
が振り向く。暦も目線を模造紙から起こした。
 川内の言葉の通り、灰色の雲がいつの間にか空一面に広がり、渦巻きだそう
とする様が分かる。
「予報じゃ、夕立があるかもしれないと言っていたけれど、それぐらいじゃ済
まなそう……」
 小倉は不安げに言い、語尾を濁した。
 集合した午後二時には、雲が多いものの晴れ間が確認できたのだが、二時間
近くが経過して、急変の様相を呈している。
 皆が集まったのは、夏休みの宿題を片付けるため。といっても、個々人に出
される宿題を協力して済ませるあれではない。班単位で出された新聞作りの課
題だ。それも壁新聞とホームページ、それぞれにまとめるという、取材や情報
収集、構成力に加えて、ツールの比較も込みのなかなかの難題だ。
「何言ってんの。夕立の前触れって、こんな感じじゃない?」
 碧は気軽な口調で言ったが、言葉とは裏腹に、パソコンをネットにつなぐと、
最新の気象情報を当たった。自分達のいる地域を選択し、雨雲の動きを見る。
「――夕立レベルよりは大雨になるのかな。それでも、ずっと降り続くわけじ
ゃないみたいだから、きっと大丈夫」
「いつ頃やみそう?」
 画面をのぞき込む小倉。まだ降り出さない内から、心配を募らせている。
「十五分もしない内に降り出して、五時過ぎには上がる」
「あ、俺の自転車!」
 唐突に叫んだ川内は、誰にも説明せずに部屋を飛び出した。
「……自転車が濡れないよう、移動させるってところかしら」
 碧が冷静に分析・解釈した。小倉が慌てていないのは、彼女は自転車ではな
く、母親に車で送ってもらってここに来たからだ。帰りも迎えに来てくれるこ
とになっている。
(小倉さんも自転車だったらよかったのに)
 暦は内心、ちょっとした妄想込みの想像を始めた。暦が小倉のことを好きな
のは、半ば公然の秘密と化している。
(大雨で門限まで帰れそうになく、困ってる小倉さんを、車で送り届ける……
運転は母さんに頼むしかないけど。着いて行くぐらいはいいはず)
 好きな異性に好印象を与えるためなら、どんな小さなことでも活用したい。
そんな年頃を迎えていた。ただ、本人に自覚があるところが、同年代の男子と
やや異なる点かもしれない。今の妄想も、もうすでにばからしくなって打ち消
している。
(車でいいのなら、小倉さんの家族が迎えに来れば済む話だもんなー。って、
仮定に仮定を積み重ねてもしょうがない)
 そこへ、川内が戻ってきた。たいした距離を走ったわけでもあるまいに、息
を切らせている。
「どこかに置けた?」
「それが、悪いんだけど、ちょうど母ちゃんから電話あって」
 と、ポケットを指さす川内。そこに携帯電話が入っているという意味だろう。
「洗濯物を干しっぱなしだから、降り出さない内に取り込んでおいてくれない
かって言われた」
 川内の家は母子家庭で、今日も母親は働きに出ているようだ。
「だから一旦、帰って来る」
「しょうがない。気を付けろよ、車とか人とか」
「分かってるって。五分ぐらいの距離だし、大丈夫」
「というか、もう粗方できてるし、いいんじゃない?」
 碧がパソコンの画面を元に戻してから言った。
「どういう意味?」
「天気がどうなるか分からないのに、帰ってまた来るの、面倒で大変でしょう
が。優理みたいに車で送り迎えしてもらえるのならいいけれど」
「だいたいできてると言ったって、完成はしてないんだぞ。いいのか?」
「私はいい。優理と暦は?」
 意見を求められた二人は、少しだけ目を見合わせた。先に小倉が答える。
「私も別にかまわないと思う。川内君、写真を用意してくれたり、ICレコー
ダーでインタビュー取材してくれたり、構成を考えてくれたり、すっごく役目
を果たしてる」
「二人がいいのなら、俺も異議なし」
 暦は答えてから、主体性のない物言いをしたことをちょっと後悔した。本当
は、無理に戻らなくてもいいと最初から思っていた。それを真っ先に口にしな
かったのは、川内の意思を尊重したかったから。
(そもそも、俺がそう言い出したら、小倉さんだけを残したがってるように受
け取られるかもしれないし)
 異性を意識し始めた年頃だと、余計なことまで考えてしまうものだ。
 そんな暦の心中を知るよしもない川内は、「それならお言葉に甘えるぞ。い
いんだな?」と念押しした上で、帰ることを決めた。空模様を気にしつつ、持
ってきた物を急いで集めて、手提げかばんに放り込む。その慌ただしさを保っ
たまま、飛び出していった。玄関で、暦達の母親に挨拶する声――「おばさん、
さよなら!」――がした。と思ったら、何か手土産を渡されて、時間を取って
いる。
「くれぐれも気を付けてよ!」
 窓から顔を出し、三人で見送る。ごうごうと雲と風の音が低く鳴り渡り、冷
たい空気と生暖かい空気が入り混じる。いよいよ降り出しそうな気配に。雷も
鳴るんじゃないかと想像させた。
「窓、閉めよう」
 と、暦が窓を閉め、鍵を掛けたその瞬間、雨粒の落ち始める音が聞こえた。
遅れて雨粒がガラスを叩き、アスファルト道路の色を濃くし始める。
「うわ、微妙なタイミングね」
 そう言った碧は、壁掛け時計を見やった。川内が間に合ったかどうか、気に
したに違いない。少し考え、
「洗濯物は濡れたかもねー。私達の母さんが呼び止めたせいで」
 と苦笑い。
「姉さん、それより早く仕上げよう」
 暦が促して、ようやく本題に戻った。そうして青写真通りに、紙に文章を書
く作業を地道にやっていると、部屋のドアがノックされた。直後、暦と碧の母
親の声が。
「いい? おやつを用意したのだけれど、休憩しない?」
「する!」
 返事をした暦が立ち上がり、ドアを開ける。案の定、母の両手はふさがって
いた。ケーキとカップとポットと紅茶セットを載せたお盆二つの内、一つを引
き受ける。
「調子はどう?」
「その前に、お母さん。さっき、川内君を呼び止めてたでしょ。あれのせいで、
濡れちゃったかもしれないわよ」
 彼が早く帰ることになった事情を、碧が説明する。途端に、母の表情が申し
訳なさげになった。空いたお盆を縦に持ち、肩をすぼめる。
「お菓子を渡していたのよ。ケーキを持ち帰るのは難しいから、他のを開けて。
知っていたら、そんなことしなかったのに……」
「急いでいるの、様子を見て分かると思うんだけどな。立て続けに、一階と二
階を往復してたんだし」
「すみません。会ったとき、謝っといてもらえる?」
「分かった」
 暦の目には、碧の様子はどこか満足げに映った。母親をやり込めて、楽しい
らしい。
(川内のやつだって、満更じゃなかったはず。部屋に来てすぐ、「おまえの母
さん、いつ見てもきれいだな。さすがモデル」って何度も言ってたくらいだ)
 思いながら、母と姉と好きなクラスメートを見比べる。いずれ劣らぬ美人揃
い。順番を付けるとしたら、世間的には母、姉、小倉となるだろう。しかし。
(俺の中では、小倉さんが一番)
 なんて暦が考えた刹那、とうの彼女がこちらを振り向いた。慌てて目をそら
せる。顔に朱が差している気がして、そこを隠すように手をあてがった。
「ねえ、暦君。ここを書いたの、暦君だよね?」
 小倉は模造紙の一角を示している。その両サイドで、母と姉が、何だかにや
にやしているのに気付いた。
「――誤字か!」
 一瞬で察した暦。問題の箇所をのぞき込むと、そこには“5g”とあった。
kg(キログラム)を間違えていた。宿題の進み具合を聞いた母が見つけたと
いう。
「漫然と書き写すから、こういうミスに気付かないのよ」
「お言葉を返す。下書きの文字が悪い」
「うまくやれば、5をkに書き直せるかな。暦君の5って癖があるし」
 姉と弟が責任を押し付け合う隣で、前向きなことを言う小倉。母がため息交
じりに注意した。
「二人ともみっともない。小倉さんを見習って」
「はーい」
「休憩しながら、誤字脱字を探すといいんじゃないかしら。ああ、私がいると
食べにくいわね。それじゃ」
 母親が部屋を退出すると、今度は小倉が息を長く深くついた。
「はあ、緊張した」
 え、っと顔を見合わせたのは暦と碧。姉の方が聞く。
「全然、緊張してるようには見えなかったけれど?」
「だめ。話するのも声が震えちゃいそうで」
「そういえば、優理の方からは話し掛けていなかったわね」
「聞かれても、『はい』とか『うん』がほとんどだった」
 またため息をついて、落ち込む様子の小倉。
「前から感じてたことだけど、うちの母さんにあこがれ、抱いてる?」
「うん。元モデルさんていうだけで。やっぱり、分かる?」
「何となくは。でも緊張するほどのことじゃないってば。普通の人、普通の母
親だよ」
「そう?」
「少なくとも、家では」
「じゃ、外では違うんだ?」
 目を丸くしつつ、納得しているようでもある小倉。
「仕事関係だとね。さすがって感心するところは多々あるわ。考え方もだけど、
それ以上に態度に出る感じ」
 モデルを始めとする仕事を今はセーブしており、母親“業”優先だが、近い
将来の完全復帰を見越し、余裕のあるときだけオファーを受けている。加えて、
碧と暦も子供服のモデルをすることがあり、保護者としてたまに現場に着いて
くるのだ。
「見てみたいなあ」
 そのつぶやきを受けて、碧が暦に目配せした。あとの対応は任せた、という
ニュアンスらしい。
 余計な気を回して……と思いながらも、口に運びかけていたフォークを止め、
暦は言った。
「それなら言ってくれればいい。現場でうるさくさえしなければ、たいていの
場合、見学OKだから」
「ほんとに?」
「嘘じゃないよ。母さんもきっと歓迎する。普段から、もし見学したいという
友達がいれば、いつでも連れて来なさいと言ってるくらいだから」
「それじゃあ……」
「たださ、今、見学したいと思ったのなら、直接言った方がいいよ。あとにな
って僕らが伝えてもいいけれど、それじゃあどうしてあのとき言わなかったの
ってなるから」
「うぅ。勇気が必要だわ」
「何だい、それ。まるで怖がってるみたいじゃん」
 暦は吹き出してしまった。一方、小倉はあくまで真剣だ。
「暦君にはあこがれの人、いないの?」
 と、抗議調で聞いてきた。
(この『あこがれの人』っていうのは、好きな人という意味ではないよな、う
ん)
 念のため考えてから、「いなくはないよ」と正直に答えておく。
「だったら、分かるはず。その人の前に立つだけで、どれほど緊張するか」
「そりゃあ、まあ、ね」
「だから……しばらく時間がほしい。心の準備ができたら、直接言ってみる」
 膝立ちし、小倉は両拳をぎゅっと握る。決意を固めようとしている。
「まあまあ、今は休憩なんだから、そんなに焦らなくても」
 碧が口を挟む。見ると、彼女のケーキ皿はすでにきれいになっていた。
 その台詞に、小倉も座り直し、ケーキに取りかかる。
「よし。先に宿題を片付けましょ」
 三人は模造紙を食べ物や飲み物で汚さないよう注意しながら、誤字脱字チェ
ックを始めた。

 ふっと気付いたときには、大雨になっていた。結果的に、ゲリラ豪雨と呼ん
で差し支えない勢いの雨だった。
 が、それはほんの一時のこと。じきに勢いは弱まり、やがて小雨になり、そ
のままやんだ。遠くの雲の切れ目からは、日の光が差し込むまでに回復してい
る。
「ちょうどいいタイミングで、終わったわね。うん、上等上等」
 碧が満足そうに首を縦に振る。できあがった壁新聞を床に広げ、立って見下
ろしているところだ。
「ホームページのデータ、バックアップもしたし、これでおしまいと」
「壁新聞の保管は、当然、暦君達に任せるから、よろしくね」
「ああ。川内にも、できたって電話しとこうか」
 三人がそんなやり取りをしていると、小倉の携帯電話が鳴った。手に取った
彼女は、ディスプレイを見て、「お母さんだ」とつぶやく。
「――もしもし? うん、終わったところ」
 通話を始め、廊下に出ようとする小倉。ドアを閉めようとしたとき、「ええ
っ? 本当に?」という、明らかに驚きの叫びを発した。
 何ごと?と、暦と碧が廊下に視線を向ける。ドアは完全に閉められていない
ため、小倉の表情が窺えた。浮かぶのは……困惑。
「どうしたんだろ?」
「さあて。迎えが遅くなる、とか?」
 声を潜めて想像を巡らせる内に、小倉の通話が済んだ。
「何かあった?」
「それが……お母さん、来られそうにないって」
「え……何時間も遅れるってこと?」
「っていうか……テレビ、つけていい?」
 小倉の求めに、碧は黙ってリモコンを取り、テレビのスイッチを入れた。
「何チャンネル?」
「どこでも。ニュースか、今の時間帯なら夕方のワイドショー?」
 碧はとりあえずNHKに合わせた。
「ひょっとして、事故?」
「うん。――あ、交通事故じゃないよ」
 暦達の表情が険しくなったのだろう。小倉は慌て気味に否定した。
「さっき、お母さんが言ったの。この近くの道路で何箇所か冠水して、車が通
れなくなってるって」
「なるほどね。運悪く、小倉家とこことを結ぶルートは、全て絶たれたってわ
けか」
「どうしよう……」
 目を伏せがちにし、俯く小倉。彼女の横顔を目の当たりにした暦は、あれこ
れ考えるより先に、「心配すんな」と口走った。
 当然、女子二人の視線を集めることになる。暦は窓の外、町の様子を一瞥し
てから続けた。
「もし――もしだけど、今日、水が引かず、車が来られないのなら、泊まれば
いい」
「え」
「実際、そうなったときは、そうするしかないだろ」
「おー、確かに真理だわ」
 どこか面白がる口調ながら、碧が同意する。小倉はといえば、口元に片手を
やり、しばし思案する仕草を見せた。
「仮にそうなったとして、着る物がない」
「そんなのは、問題にならないわよ」
 碧が即答する。
「私のを貸すわ。色んなとこからもらって、一度も袖を通していないのがあき
れるほどたくさんあるから、選び放題。サイズも合うでしょ、多分」
「そ、そっか」
 戸惑い気味の小倉だが、少し落ち着き、気持ちも傾いたようだ。不安の色が
薄くなり、きつく結ばれていた唇も今は微笑している。
「とにかく、優理はお母さんに聞いてみなよ。泊まっていいかどうか」
 暦が言い、小倉が応じようとする。そこへ碧が声を掛ける。
「ちょい待ち。先に、こっちがOKだってことを確実にしておかなきゃ」
「あ。じゃ、母さんに聞いてくる」
 暦は急ぎ足で母親の部屋に向かった。返事はすぐにもらえた。事情を伝えて
いる途中で、承諾してくれたのだ。
「小倉さんのご家族の意向、ちゃんと聞くこと。それが条件よ」
「分かった。向こうの人が、母さんと話がしたいと言ったら、出てよ」
「もちろん。ああ、それにしても、まさか同じことが起きるなんてねえ」
「同じことって?」
 きびすを返しかけた暦は、母の言葉に動きを止める。
 母の方は、書き物をしていた帳面を閉じると、昔を思い返す風に斜め上を見
やった。
「私とお父さんが高校生のとき、同じことが起きたの。やっぱり大雨で、帰れ
なくなって。車で来ていたわけじゃなくて、自転車だったけれどね」
「高校生で……。それって、どっちがどっちの家に泊まることになったの?」
 息子の質問に答えようとした母だったが、ふと思い出したように話を換えた。
「そんなことより、早く小倉さんに伝えないとだめでしょ」
「あ」
 母の指摘に、来たとき以上に急いで部屋に戻る暦だった。

「あー、落ち着かない」
 トイレに立って一人になったとき、暦はそうつぶやいた。
(小倉さんが泊まるのはうれしいのに、気が抜けない。それに、見つめること
もできないし)
 実際、彼女が泊まると決まったあと、自然に振る舞えず、いつも以上に目を
そらしたり、素っ気なく接したりしてしまっている。
 手を洗ったあと、暦は顔をごしごしこすった。それから、「平常心平常心」
と呪文のごとく唱えた。
 が、子供部屋に戻り、小倉と顔を合わせると、また背けてしまった。避けて
いるんじゃないんだとアピールするべく、さも姉の方に用事があるかのように
声を掛ける。
「ベッド二つしか無いけれど、寝るとこ、どうするのさ?」
「うん? 優理の?」
「言うまでもないだろ」
「そうかしら。私と優理がここで寝て、暦がソファか何かで寝るのが普通だと
思ってたわ」
「そんな――」
 怒ろうとした暦だが、言葉を途切れさせた。小倉の表情を横目でとらえたた
めだ。
「私が急にお邪魔することになったんだから、私がソファで」
「冗談! お――客さんにそんな真似、させられない」
 暦は小倉に向き直り、熱弁を振るった。「小倉さんに」と言いそうになった
箇所は、寸前で「お客さんに」と言い換えた。
「俺がソファでも床でも寝るから、小倉さんは気にしないで、ベッドを」
「あ、ありがと」
 やっとまともに会話できたのと、お礼を言われたこととで、暦はひとまず満
足した。が、碧が水を差す。
「でも……冷静になってみると、暦のベッドで優理に寝てもらうのは、ちょっ
と考えものかしらね」
 えっ、と同時に声を発し、暦と小倉は互いを意識した。すぐそばにいるだけ
に、確実に分かる。
「それは――シーツや掛け布団を総取り替えすれば」
「暦、あんたが決めることじゃないでしょ。優理、どう?」
「全然、平気……だと思う」
 口ではそう答えているものの、小倉には多少、迷っている雰囲気が滲む。見
透かしたように、碧が「ほんとに?」と念押しすると、即座の返事はない。
「誰かドア、開けてー」
 不意に母の声がした。一番近くにいた碧が開けると、敷き布団を両腕に持ち、
上半身がすっかり隠れている母の姿が。
「小倉さんの休むところを用意しなくちゃね。今の内に、運んでおこうと思っ
て。敷くのをあとにすれば、遊ぶスペースは充分あるでしょ?」
 そう言って、三つ折りに畳んだ布団を床に置いた。その母の背中に、碧が戸
惑い気味に話し掛けた。
「え……っと。今、ちょうどその話をしていて、暦がベッドを空けようかって
ことになりかけてた」
「何言ってるの。お客様に普段使ってるベッドで寝てもらうなんて。こうして
ちゃんと布団一式あるのだし……」
 話の途中で、暦達の母は、小倉に目をやった。
「小倉さん、もしかすると、ベッドでなければ眠れない? だったら、他の方
法を考えるわ」
「い、いえ」
 小倉の方は、いきなり話し掛けられたせいもあってか、また例の緊張が現れ
ている。それでも何とか応じた。
「いつもうちでは布団です。あの、お気遣いなくっ」
 声は裏返りそうになっていたけれど。相羽母の方は、花の咲いたような笑顔
を見せた。
「よかった。じゃ、あとは寝間着ね。用意しておくわ」
「はい、ど、どうも」
 ありがとうございますまで言い切らぬ内に、相羽母は出て行ってしまった。
 小倉は両手で頬を押さえ、それから肩を落とした。
「姉さん。結局こうなったけれど」
 暦が詰問調で言うと、碧は首をかしげた。そして潜めた声で、弟に耳打ちす
る。
「だって、あり得ないと思ってたから。これだと、私達三人、同じ部屋で寝る
ことになるわよ」
「――」
 姉と弟だけならいつも通りなので慣れっこだ。だが、クラスメートの異性が
いるのは――下手をすると眠れない。

「私なんて、中学一年生のときに、一つの部屋に女子二人、男子一人の状況で
眠ったことあるわよ」
 碧と暦が母にどういうつもりなのか確かめに、台所に出向くと、こんな風に
言われてしまった。「もちろん、今のお父さんがその男子」とうれしそうに付
け足す始末。
 ちょうど夕食の準備に取り掛かったところだった母は、エプロン姿をしてい
る。元々、年齢以上に若く見えるタイプだが、思い出を語る様は新婚ほやほや
の体だ。
「みんなは小学生なんだし、修学旅行みたいで、きっと楽しいわ」
「夜更かしを小学生にすすめてくれてるの、それって」
 碧が呆れつつ問い返すと、母は「夏休みだし、いいんじゃない?」と答える。
「小倉さんは何て言ってるの?」
「それが、意外と乗り気」
 答える碧の横で、暦はうんうん頷いた。小倉の反応は文字通り、意外だった。
(普通は避けると思うんだけどな。脈ありと受け取っていいのか、これ)
 小倉に言わせると、折角の滅多にない機会だから、二人とおしゃべりをした
いということなのだが。
「だったら、問題なしじゃない。暦だって、一人寂しく、別の部屋で眠りたく
ないわよね」
「別に寂しかないよ」
「そう? 碧と小倉さんのおしゃべりしている声が聞こえてきたら、きっと気
になると思うけれどな」
「それは……」
 気になる。
(姉さんのことだから、小倉さんに、俺についてあることないこと吹き込むか
も……)
 悪い方へ想像が働く。こうなると俄然、仲間外れの形になるのはごめんだと
意を強くした。
「分かった。いつも通り、あのベッドで寝るよ。ただ――姉さん、一つ約束し
て」
「ん?」
 自分に話が向けられるとは思っていなかったらしく、振り返った碧はきょと
んとしていた。
「今日のことは、クラスのみんなには他言無用だぞ」
「何だ、そんなこと。そりゃま、私だって言いふらしたくはない」
 合意成立。
 話がまとまった段階で、母が手を一つ打った。
「さてと。夕食の準備を始めるのだけれど、小倉さんの苦手な物って分かる? 
それから昨日から今日に掛けて食べた物も、分かればいいな。被ったらかわい
そうだから」
 暦がすぐさま答える。
「嫌いな物は、レバーとらっきょう。好きな物も分かるよ。鶏の唐揚げとマカ
ロニサラダ」
「さすがね」
 母の微苦笑混じりの言葉の意味に、暦は遅ればせながら気付いた。顔が熱く
なる。姉の方はもう見なかった。
「昨日食べた物までは分からないから、聞いてくる」
 勢いよくきびすを返して、台所を立ち去った暦。小倉の待つ子供部屋に、足
早に移動し、半開きのドアから中を窺った。
 手持ち無沙汰のためか、床に座り込んだまま、広げた壁新聞のチェックをし
ている様子。暦はドアをノックしつつ、中に入ると、立ったまま用件を伝える。
「そんな、気を遣わせてると思うだけで、ほんと恐縮しちゃう」
 見上げる小倉の困惑顔に、暦は気楽な調子で笑みを返す。
「遠慮しなくていいから。何でもいいと言われたら、母さんが決められなくて
困るかもしれないよ」
「私の答によっては、買い物に行くなんて、まさかないよね? 車の行き来も
怪しい中……」
「それは大丈夫じゃないかな。買い物は昨日行ったばかりで、おかずがある程
度選べるから言ってるんだと思う。あ、今夜は父さんも帰れないから、量の心
配はしなくていいから」
「……そんなに食べないよー、私。食いしん坊じゃないもん」
 むくれる小倉を前にして、暦は慌てた。その場にしゃがみ込み、目の高さを
合わせる。
「いや、そういう意味で言ったんじゃ……。ごめん。謝ります」
 そっぽを向いたままの彼女を見て、言い訳はやめた。ほぼ無意識に正座をし
て、頭を下げていた。無理に好きになってくれとは思わないが、嫌われるのだ
けは勘弁。このあと一緒に過ごすのだし、何よりも気まずい。
 と、下を向き絨毯を見つめる格好の暦の耳に、くすくす笑いが聞こえてきた。
「え」と顔を起こすと、さっきまでのふくれっ面が嘘のように、ころころ笑う
小倉がいた。
「ごめんね。ちょっとからかってみました」
「え、え?」
「からかったと言うより、試しちゃった。碧が前に言っていたの。暦君の前で、
ちょっと不機嫌なそぶりをしたら、慌てる暦君が見られるって。本当にそうな
ったから、びっくりした」
「……」
 姉には一度、思い知らさないとだめなようだ。黙ったまま、心のメモ帳に書
き込む暦だった。
 そんな心の動きは知らず、小倉は笑顔で続けている。
「暦君て、学校じゃ、女子には素っ気ない態度取ること多いよね。でも、芯は
優しいっていうか、相手のことを考えてくれてるっていうか。だから告白する
女子も結構いるの、納得できる」
「――知ってるのか」
「もっちろん。そういう話、女子はみんな大好き。そして暦君がみんな断って
るのも」
「あー、それは――」
「全員断るってことは、つまり、平等に接したいってことなのよね、暦君?」
「……まあ、そういうことにしておく」
 小声で答えると、暦はすっくと立ち上がった。部屋から廊下に出た途端、ぴ
たっと立ち止まる。
 小倉が昨日今日と食べた料理について、まだ何も聞いていなかった。

「母さん、張り切りすぎ」
 子供達がそう評したほど、食卓は大小様々な皿でうめられていた。チキンと
温野菜のラクレット風に、ポテトの冷製スープ。グリーンサラダにはかりかり
に揚げたオニオンを散らして。普通のご飯に加え、高菜を混ぜたおにぎりには、
ベーコンを巻いてある。
「さ、自由に取り分けて、どんどん食べて。デザートも用意してあるけれど、
別腹と言うし、三人とも食べ盛りだから、全然問題にならないわよね」
 手を合わせ、いただきますと唱えてから食べ始める。
 食卓での話題には、まずは学校での出来事が上った。主に相羽母が三人の子
供に聞く形になる。珍しい授業や宿題、校則はあるか、どんなことで喧嘩する
のか、誰がもてるのか、先生は面白いか恐いか等々。答える内に、小倉もよう
やく慣れて、リラックスしていった。
「――少し前まで、碧と暦君、早退するときは二人揃ってだったのに、近頃は
どちらか一人だけってこともあるようになったよね。何か変わったの?」
 暦と碧もたまにモデル仕事にかり出されるが、どうしても平日に重なってし
まった場合、学校を早引け、もしくは遅刻せざるを得ない。周りにはどう見ら
れているのかしらと、相羽母が質問した流れから、小倉がふと思い出したよう
に言った。
「もちろん、一人ずつの仕事が入るようになったからよ」
 相羽母は自分の子供達を等分に見つめた。
「二人セットのときは、双子を珍しがられていたのもあったのね」
「双子ったって、男と女だってのに、時々妙にひらひらした服を着せられてた
まんなかったぜ」
「こら」
 わざと粗野な口ぶりをした暦を、母がたしなめる。
「でも、嫌がらずに続けたことは偉い。碧の方は、男っぽい格好をしても、の
りのりでやっていたように見えたけれど」
「まあね。色んなことをやれて、面白いもん。それに、いくらボーイッシュな
姿をしたって、私の女らしさは隠しようがないっ」
 自信満々で胸を張る碧。正面に座る暦は、大げさに首をかしげてみせた。
「あれれ、さほど女らしくないんじゃないかなあ。おしとやかにはほど遠いし、
腹筋すごくあるし」
「うるさい。いざというとき、見た目を装えるかどうかを言ってるの」
「装わなきゃいけないってことは、元からの女らしさじゃないってことでは」
「二人ともやめなさい。小倉さんが笑ってる」
 母の声に言い合いをストップし、姉弟は今夜のお客、クラスメートを見た。
「あ、これは、面白がって笑ったんじゃなくて、二人とも学校と変わりないな
あと思ったら、何だか微笑ましくて」
 小倉の話に、暦はきょとんとしてから反応する。
「当たり前。何でわざわざ態度を変える必要があるんだか」
「それよりも優理ったら、私達のこと、よく観察してるのね」
「観察だなんて、そんな。碧と暦君、目立つから自然と視界に入るんだよー」
 こんな風に賑やかに進んだ夕食も、デザートが出される段になった。皿を片
付ける相羽母は、「今日は手伝いはいいから、食べ終わったらなるべく早くお
風呂に入りなさい」と子供らに告げた。
「お風呂」
 暦は思わずつぶやいていた。
(さすがに、入浴は一緒にできない〜)
 女子二人を見ると、早速、一緒に入る話がまとまったようだ。きゃっきゃと
黄色い声を上げている。
「暦は先に入りたい? それともあと?」
 碧に問われ、暦は少しだけ時間を取った。が、自分で決めるのは放棄した。
「どっちでも」
「じゃ、私達が先にしようか。お客さんには一番風呂に入ってもらいたいしね。
でも、長くなるかもしれないわよ」
「どっちでもいいって言ったろ」
「優理はどっちがいい?」
 急に暦から小倉に話相手を換える。小倉は暦の方をちらと一瞥し、またすぐ
視線を戻した。
「あとの方がいいかも……。湯船に髪の毛とか浮いてるのを見られるのって、
恥ずかしい」
 そんなことを気にするものなのかーと、暦は変に感心した。
「髪の毛が気になるのなら、すくい取るネットがあるけれど。ま、これで決ま
りね」
 碧の一声で決定した。暦は黙って着替えを取りに行った。

――つづく




#426/598 ●長編    *** コメント #425 ***
★タイトル (AZA     )  13/04/30  19:05  (396)
そばにいられると<後>   寺嶋公香
★内容                                         14/01/12 10:40 修正 第2版
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「水泳の授業や、健康診断のときも思ったんだけれど」
 背中の流しっこをしている最中、小倉が不意に言い出した。
「碧の肌って、きれい。すべすべとかなめらかなのは当たり前だけど、そうい
うのとは別のところで」
「ほめてくれて、ありがとう。私、ほめられると真に受けて、ますますきれい
になるタイプだからね」
 冗談めかす碧に対し、小倉は鏡越しに真顔を向けた。
「実際、どんな手入れをしているの?」
「特別なことはしてなくて、お母さんからの贈り物」
「そうなんだー。……碧のお母さんとも一緒に入りたかったな、なんちゃって」
「肌を見るだけだけに? まあ、見たら驚くかもね。歳を数え間違えていると
しか思えなくなる」
 話を聞いて、小倉はふーっと息をついた。
「うらやましい。今から心配することじゃないけれど、私もそうなりたいな」
「何のために? 好きな男を惹きつけるため?」
 碧は話の流れをつかまえ、聞きたいと思っていたことを探り始めた。
「な何でそういう話に」
 慌てる小倉を見て、碧は先に自分の身体の泡を洗い流した。そして交代を促
す。今度は碧が小倉の背中を洗う番。
「充分、きれいなのに、そんなこと言うから。片思いの相手でもいるのかなっ
て考えるのは、至極自然な成り行きだと思いますが。いかが?」
「それは……私も人並みにいるようないないような」
「おっ」
「で、でも、そのことと肌をずっときれいに保ちたいのとは関係ないわ」
 碧にとって、最早、肌のことはどうでもいい。
「いるのね、好きな男子」
「……うん」
「よし、今の内に恋愛トークしましょ。寝るときは暦がいるんだから、多分で
きない」
「……先に碧が言って」
「あ? あれ、言ったことなかったかしら? 私が好きなのは、父さん達の知
り合いで、探偵をやってる人だって」
「それは聞いたことある。でも、それとは別に、学校の誰それとか、いるでし
ょ?」
「少なくとも今までのところ、いません」
「そんなあ」
「嘘じゃないもんね。私の言ってる探偵さんを知ったら、優理だって心が揺ら
ぐかもしれないわよ」
「そんなことない――と思う」
「言い切るからには、よっぽど格好いい男子なんだ? 誰よ、その羨ましい一
名は」
 にやにやしつつ追及する碧に、小倉はあきらめの体で嘆息した。
「私、移り気なのかもしれない。一人じゃなくて、三人いるの」
「何と」
 背中流しが終わった。湯船につかっても、同じ話題を引っ張る。
「三人同時に好きになるとは、ある意味すごい」
「好きになるというより、今は、いいなって感じてるだけだと思う。本当に好
きになるのは、その中の一人だけ……のはず」
 自分のことなのに自信を持てない、そう思わせる小倉の話しぶりだ。
「うーん、じゃ、その三人の名前、教えて」
「三人ともは言えない。碧は一人しか言ってないのに」
「そりゃあ、一人しか好きじゃないからじゃないの」
 思わず苦笑いを浮かべた碧。
「ま、いいわ。一人だけでいいから教えて。――あ、ちょっと待って。質問を
変える。三人の中に、私の弟は入ってる?」
 碧は必要な情報を得るため、率直な問い掛けに切り替えた。
 小倉はしばらく無反応だったが、やがて碧をじっと見上目遣いで見て、深く
頷いた。お湯に口元がつかるくらいに。

           *           *

「ほんと、長かったなー。先に入っていて正解だった。今も退屈で退屈で」
 ノックおよびドアの開く音に暦は振り返らず、パソコンでやっていたシンプ
ルなゲームを終わらせた。
「あぁ、いいお湯だった。つい長湯を」
 姉の言葉に、「どうせ、俺に聞こえないと思って悪口を」と応じ、パソコン
本体の電源を落とす。ここで初めて振り返った。
「――か」
 かわいい、と言いそうになって、飲み込む。
 小倉優理の上気した赤い顔、まだ少し濡れたようなつやの髪、そしてキャラ
クター柄のパジャマ姿。学校では見られない彼女に、どきっとさせられた。
「あ、サイズ、合ったんだ? よかった」
「お、おかげさまで」
 暦の取って付けたような台詞に、小倉も妙な反応をした。二人のぎこちない
雰囲気を横目に、碧は机についた。引き出しを開け、コンパクトタイプのデジ
タルカメラを取り出す。
「滅多にない機会だし、記念に写真撮ろうか。携帯電話のだと、他人に見られ
る可能性大だから、こっちで」
 椅子を回して、暦達に尋ねる。
「俺は別に、どっちでも」
「主体性を持ちなさいな」
「小倉さんが嫌がるかもしれないだろ」
「そんなことないよねー」
 碧の呼び掛けに、首肯する小倉。風呂の中で、何か約束ができあがったのか
なと暦は想像した。
「それじゃあ、二人ずつ撮って、最後にタイマーで三人一緒に」
「二人ずつって、俺と姉さんも?」
「あ、それはなくていいか。あはは。最初は暦がカメラマンね」
 カメラをよこすと、立ち上がって小倉の横に並ぶ碧。やはり、入浴中に話が
できていたらしく、さっさとポーズを決めた。売り出し中の女性デュオの決め
ポーズだ。
「いい? ちゃんと公平に入るようにしてよ」
「分かってるよ」
 このカメラ、暦も使い慣れた物だ。特に意識せずにシャッターを押した。が、
小倉を被写体にしたことでどこか力が入ったのか、大きく手ぶれしてしまった。
「わ、悪い。もう一回」
「ちゃんと構えて。美女を写すんだから、真剣にやりなさい」
「はいはい。そういや、かけ声は?」
「そうね。自然な笑みになるっていう、ウィスキーで」
「え、ウィスキー?」
 小倉がポーズを解いた。目を丸くして、説明を求めている。
「カメラマンから聞いた話よ。どこの国だったか忘れたけれど、チーズの代わ
りにウィスキーっていうところがあるらしいの。チーズよりも柔らかで自然な
笑顔になるって触れ込み」
「そうかな……」
 小倉は声に出さず、口の形を「ウ・イ・ス・キー」と動かした。
「チーズだと横に引っ張る感じが長くて、作った笑顔っぽくなりがちなんだっ
てさ。たいして差はないと思うけどね」
 そう言いながら暦は小倉を撮った。仕種が非常に愛らしかったので、つい。
当然、音で気付かれる。
「あ。ひどーい」
「ごめんごめん。テストのつもりだった。押すタイミングとかさ」
 迫ってきた小倉の叩く身振りをかわし、暦は言い訳しつつ謝った。
「変な顔になってるんでしょ?」
「そんなことはない。絶対」
 データを消してと言われない内に、カメラの裏を相手に向け、画像を見せる。
「……」
 小倉は微妙な反応だった。が、彼女の後ろ、肩越しに見た碧が「あら、ほんと。
かわいく撮れてる」と感想を述べたことで、消さずに済んだ。
「代わりに、あとで暦君の変顔、撮らせてもらおうっと」
「うう、仕方がない」
 かような経緯で撮った記念写真は、チーズやウィスキーと言わなくても、自
然な笑顔になった。暦と小倉、二人きりの写真でも。
 あとは寝るまで、ひたすらおしゃべり。話題は、小倉が二人にモデルや母の
ことを尋ねるパターンが多くなった。
 その間、一応テレビを入れ、水害のニュースを気にしていたが、進展がない
のか、順調に復旧しているのか、ローカル枠でも大きな扱いではない。夜九時
半を過ぎたところで、小倉は自宅に電話してくると言って席を外した。
「ツーショットが撮れてよかったでしょ」
「やっぱり、姉さん、そういうつもりだったんだ。急に写真なんて、おかしい
と思った」
「感謝してくれないの? パジャマ姿の小倉さんに心を奪われていたようだけ
れど」
「……感謝してる」
「よろしい。ま、がんばりなさい。望みはあるから」
「ん?」
 どういう根拠で言ってるのか、問い質そうとしたら、小倉が戻ってきた。
「お母さんに宿題全部済んでるのと言われて、思い出した。国語で一つだけ、
意味の分からない問題があったの。分かる?」
「え、どんな問題だったっけ?」
 暦が答えて、碧がプリントとドリルを持ち出す。問題を見つけ、これでいい
んじゃないかという答を伝えると、小倉はしばらく考え、やがてぱっと閃いた
みたいに表情を明るくした。ノートにメモを取りつつ、舌先を覗かせた。
「私ったら早とちり。指示語の受け取り方、勘違いしてた」
「あー、あるある」
「教えてくれてありがとうね」
「どういたしまして。ところで、私と暦は、社会科のとある問題に苦戦してい
るのですが」
 碧の手には、社会科の宿題のプリントがあった。

 互いに教え合ったあとは、もうそろそろおやすみの時間。
 と言っても、布団に入るだけで、すぐに就寝するわけではない。
「川の字になって眠ると言うけれど、これは差し詰め……矢印?」
 元々あるベッドが直角をなしているところへ、布団を敷いたあと、碧がそん
な感想を述べた。横になったとき、三人の頭が一箇所に集まるようにした結果
だ。
「高さの違いが気になる……」
 ベッドに入ってみた暦は、床の布団、枕の辺りを見下ろしてつぶやいた。小
倉は今、歯磨き中でこの場にいない。
「何なに? 同じ床で眠りたいって?」
 姉が聞き咎めていた。慌てて「ち、違う」と否定する。
「今からでも、布団をもう一揃い敷く?」
「うるさいなー」
 薄手の毛布に潜り込んだ。
 そうしていると小倉が戻って来た。暦君どうかしたのと碧に聞いている。身
体を起こすべきか迷う間に、碧が「電気消すよー」と言ったかと思うと、突然
暗くなった。毛布の端から頭を出すと、オレンジの豆球だけが光っていた。
「姉さん、いきなり消さなくてもいいのに」
「このまま怪談でもやる?」
「だめっ。私、恐いの苦手だし、怪談知らないし!」
 下から小倉の声が早口で届いた。焦りが手に取るように分かる。
「それじゃ、優理がお題を決めて」
「お題? えっと……今までで一番どきどきしたこと、とか?」
「なかなか面白そう。私は……やっぱり、初めてステージに立ったとき」
「ちょっと待った。同じ初めてで、モデルをやったときは、どきどきしなかっ
たの?」
 暦が疑問を呈すると、碧は頭を動かす気配を見せた。
「あのときは、わけも分からずやっていたから。暦は緊張してたの?」
「緊張したよ。大人の目がいっぱいで」
「ねえ、二人はそもそも何歳のとき、初めて仕事したのか、教えて」
「幼稚園のとき」
 小倉の質問には、暦が即答する。
「新入学の制服やランドセルなんかの広告に出てみないかって、母さんが持ち
掛けられて、僕らの気持ちを直接聞いたらしいんだけど、全然覚えてない」
「あら、私は覚えてる。やりたいってすぐに言ったわ」
「おかしいなあ。撮られるときはだいぶ緊張したのに、最初に聞かれたときを
覚えてないなんて」
「暦君の一番どきどきしたのは、その最初のモデル撮影のとき?」
「それはない」
 答ながら、心中で別のことを付け足す暦。
(君にどきどきしたことがいくらでもあるんだけど、それを口にするのは……
躊躇してしまうな)
 他に何があったっけ。思い返そうと努める。
「じゃあ何?」
「えっと、だいぶ恥ずかしくて言いにくいんだけど」
「もったいぶらずに、早く」
「女子から初めて告白されたとき」
「ほう」
 声で反応したのは姉の碧だけで、小倉のいる方からは特に何も聞こえない。
「あれって小一だったっけ?」
「二年になったばかりだよ。一丁前に意味を理解してたから、ちょっとしたパ
ニックだった。で、速攻で断った」
 小倉が口を開く。
「誰から告白されたの? 断ったのは、どきどきしていたせい?」
「誰だったっけな」
 暦はとぼけた。本当は覚えているのだが、好きなクラスメートの前でわざわ
ざ言うことはない。
「でも、断ったのは好きじゃなかったからと覚えてる」
「好きでもない子から告白されて、そんなにどきどきする?」
「初めての経験だったら、普通するんじゃないか。小倉さん、経験ない?」
「ない。したこともされたことも」
 この答は、喜んでいいのだろうか。
「それで、優理の一番どきどきしたことって何?」
 碧が尋ねると、小倉は「うーん」と迷う気配を出した。暗がりだから、どん
な表情をしているのかは分からない。
「とりあえず、今日、泊まるって決まったときは、すっごくどきどきした」
「なるほどね。うまいこと逃げたな」
「逃げたって何よー」
 女子二人がきゃあきゃあやってる横で、暦はまた同じ感想を抱いた。喜んで
いいのだろうか、と。
「次のお題、行きましょ。碧が決めて」
「そうね、じゃあ……言える範囲で秘密を明かすっていうのは」
「言える範囲なら、たいした秘密じゃないような」
「たいした秘密じゃなくていいの。他人の噂話なんかで結構。ただし、今ここ
で知ったことは他言無用ね」
 暦は「面白い。姉さん、乗った」と呼応し、碧に取られない内にととってお
きの芸能ネタを披露する。
「噂話って言ったら、芸能界にはつきもの。ヘアスタイリストさんから聞いた
話なんだけど、歌手の木邑祐剛(きむらゆうごう)と俳優の中福刀一郎(なか
ふくとういちろう)が」
「だめっ。暦、それはだめだと思う。聞いたら、絶対に言いふらしたくなるネ
タよ」
 碧が止めに入った。おかげで、小倉はますます聞きたくなった模様だ。ごそ
ごそと布団から身を乗り出すのが、気配で伝わる。
「何なに? その二人なら、二枚目同士で前までよく共演していたけれど」
「共演しなくなったのには理由があって、実は」
「しゃべるなって言ってるの!」
 碧の大まじめな声とともに、ぼこっという軽い衝撃が暦を襲う。枕が飛んで
来たのだ。
「痛いな。そんなにNGか、これ?」
「だめ。真偽に関わらず、だめだって」
「あのー、喧嘩してるとかじゃないの?」
 小倉が想像を述べる。碧と暦は薄明かりの下、首を横に振った。
「じゃあ何だろ……」
 暦は喉から出かかっていた答えを、努力して飲み込んだ。
(同性愛の噂が持ち上がって、事務所同士が共演をやめさせたって言われてる
んだ。検索しても多分、出て来ない)
「私から振っておいて何だけど、このお題は取り消そう、うん。それが平和だ
わ」
「そんなあ。今の話だけでも、聞きたかったな」
 小倉が惜しそうに言う。といっても、執着しているわけではないらしい。そ
の証拠に、続けて交換条件を出してきた。
「代わりに、私から二人にお題を出すから、聞いて」
「しょうがないなー」
「碧と暦君が知っている、風谷美羽の秘密を一つずつ、教えてください」
 暦は目を見開き、次いで姉の方を見やった。きっと姉も同じ行動を取ってい
る。
「風谷って、僕らの母さんの芸名だけど。母さんの秘密を?」
「もっちろん」
 小倉の口調が弾んでいる。いい流れになったと思っているに違いない。
「大げさに秘密ってことじゃなくても、家族だけが知っている、みたいなこと
でいいの。聞きたい」
「そう言われてもなぁ。家では普通の人だし」
「芸能ネタは、話せないし」
 暦、碧の順に言って、考え込む。
「基本的に、母さんて裏表がない気がする」
「うんうん。嫌味や皮肉を言うことはたまにある。でも、率直な言動が多い」
「だからといって、秘密がないわけじゃないと思う。むしろ、秘密をまとって、
着こなしている感じ」
「何たって、私達にも分からないことが多いもんね。若々しさの秘訣や、顔の
広さ……」
 語尾を濁して含み笑いをする碧。
「一つ、全然たいした秘密じゃないけれど、思い出したわ。母さんと父さんの
馴れ初め」
「え、それは知りたい」
 小倉が碧のベッドの方に顔を寄せる。暦は、あれを話すのかと、黙って聞い
ていた。
「最初の印象は最悪だったって言ってたわ、母さん」
「本当に? 直接お話ししたことはほとんどないけれど、とても素敵な感じの
お父さんに見えたよ」
「ええ。何しろ、小学六年生のときに会って数日で、唇を奪われたそうだから」
「――」
 絶句した小倉。正確で詳しいいきさつを話すのは、もう少し待つとしよう。
面白いから。

 朝。
 サイドテーブルの目覚まし時計に目をやる暦。七時まであと十分ぐらい。
 姉の方のベッドに視線を移す。毛布は人型に膨らんでいるから、まだ眠って
いるようだ。自分ももう少しだけ――と視線を戻す途中、床が視界に入った。
「わ!」
 がばっと上半身を起こす。
(……そうだった。小倉さん、泊まったんだった。しゃべってる内に、いつの
間にか眠って。最後まで起きていたのは自分だと思うけど)
 状況を把握して落ち着くと、暦は改めて小倉の寝床を見下ろした。
 あいにく、彼女はドア側を向いて横たわっていて、横顔がどうにか確認でき
る程度。朝から幸せな心地になるには、それでも充分だけれども。
(起こさない方がいいんだろうな。寝顔を見られたってだけで、恥ずかしがり
そうだし。てことは俺、寝たふりしておかなきゃ)
 そう結論づけた暦だが、小倉のすやすや眠っている様子を、少しでも長く見
ておきたい気持ちもある。しばらくそのままの姿勢でいた。その判断がよくな
かった。
「――あ」
 小倉の右目が開くのが、スローモーション映像のように映った。事実、ゆっ
くりと開いたのかもしれない。だが、暦はさっと毛布を被ることすらできず、
ただただ見つめてしまった。
「うぅーん」
 小倉は横になったまま、一度目を閉じ、伸びをした。次に目を開けた彼女は、
当然のごとく、暦と目が合った。
「えっと、ごめん。ちょうど起きたとこ――」
 暦が早口で弁解した。それを聞いたか聞こえなかったか、小倉は「いやっ」
と短い悲鳴のように言って、毛布を被る。
「あの……」
 伸ばし掛けた手を宙に浮かせ、もてあます暦。そのとき、姉がベッドで起き
上がった。長い髪を手櫛で撫でつけながら、嘆き調でつぶやく。
「まったく、何をやってるのよ……」
 暦が目覚めるよりも少し前の時点で、起きていたようだ。

 テレビのニュースは、この近所の水が引いて、道路が通れるようになったこ
とを、繰り返し伝えていた。
「こっちこそごめんね。一緒に眠ることにしたんだから、当然、寝顔を見られ
るのも予想できてよかったのに」
 朝食の席で小倉に謝られ、暦は恐縮した。「もういいよ、こっちが悪かった
んだし」と何度繰り返したことか。
「話はまとまった? そろそろ食べましょうか」
 今朝のことを知らない相羽母は、笑顔で着席し、昨日は何時に寝たのかを聞
いてきた。
「時計見てなかった。十一時ぐらい?」
 碧に確認を求められたが、暦もよく覚えていない。小倉も同様で、「日付が
変わっていなかったとだけは、言えると思います」と答えるのが精一杯。
「普段に比べると、起きていた方ね。どんなことしゃべってたの?」
「それは……」
 母さんの秘密について、とは言えない。一瞬口ごもったとき、ちょうど電話
が鳴った。携帯電話ではなく、家の電話だ。
 母が席を立つことで、会話は中断。しばしほっとする。
 が、じきに戻ってきた。
「川内君からよ。昨日、忘れ物をしたみたいだから、これから寄ってもいいで
すかって」
「ええ? これからって今から?」
 子供達三人はそれぞれ声を発した。小倉が泊まったことを、知られるのはま
ずい。
「暦達の都合が分からないから、まだ返事していないし、電話もつながってる。
直接話す?」
「う、うん」
 暦は飛び降りるように椅子を離れ、固定電話のある一角に急いだ。
 外したままの送受器を通して、小倉の声が伝わっていないことを祈る。
「はい、代わりました。おう、おはよう。何を忘れたって?」
「いやー、あのとき慌ててただろ。ICレコーダーだけ見つからないから、焦
った焦った。あれ、俺個人の物じゃないからさ」
「ここに忘れたなら見つけておくから、あとで届けてやるよ」
「そうか? でも五分ぐらいだし、今なら暇なんだけど。あ、そういや、宿題
どうなった? 完成したか?」
「そっちの方は心配ない」
 あまり好ましくない話題だと感じる。今は、見に来いよと言えない。見たい
と言われれば、断る理由がない。暦は先を急いだ。
「とにかく、川内はこのあと出掛ける予定とかないんだろ? じゃあ、届ける
から、待ってりゃいいよ。今日はそっちで遊ぼう」
「分かった。じゃあ……あ、レコーダーのスイッチ、もしも入っていたら、切
っといてほしい。バッテリーの保ちが悪くなるかもしれないから」
「了解。万が一、見当たらなかったらすぐに連絡する」
 電話を終えた暦は、食堂に顔を出し、事情を皆に説明した。そういうことな
らと、碧と小倉もテーブルを離れ、川内の忘れ物を探すべく、子供部屋に向か
う。
「来なくて大丈夫なのに。想像が正しければ、簡単に見つかるはず」
 暦は部屋に入るなり、壁際に畳んで置いてある布団を横にぐいと押しのけた。
すると、本棚の陰に隠れる形で、銀色の細長い物体が見つかった。ICレコー
ダーだ。言った通り、簡単に発見できた。
「床の片隅にあったのが、母さんが布団を運び込んだとき、隠れてしまったん
だ、きっと。そのまま気付かずにいただけ」
「なるほど、理屈だわ」
「……暦君。それ、赤いランプが光ってるけれど、もしかして録音スイッチ入
ってる?」
 小倉の指摘に、暦は持っていたレコーダーをしげしげと見た。確かに録音さ
れている。長時間の録音が可能とは聞いていたが、まさか昨日からずっと入り
っ放しだった?
「ふー、危ない危ない」
 録音を止め、記録を消さねばならない。
「川内が電話なしに、いきなり来ていたら、そのまま渡すことになっていたか
も」
「幸運だったと。でも、消す前に、聞いてみたい気もするわね」
 碧が手を伸ばしてきたのを、暦はさっとかわした。
「どうせ、今聞けば、単なる恥ずかしい会話だよ。昨日の夜、あの状況で話し
たからこそ、楽しく感じただけに決まってる。朝から気まずくなりたくない」
「それもそっか」
 碧はあっさり引いた。小倉はと見ると、唇をぎゅっとかんで、暦の手元のレ
コーダーを見つめている。
「記録されてたなら、残しておけば、いい思い出になるかも……」
「――いや、やっぱり消す」
 有無を言わさず、レコーダーを操作した暦。小倉の「ああ」という声と、残
念そうな表情に、少し責められる心地。
「記録なんかなくても、いい思い出じゃない? 三人だけの秘密だよ」
 暦の言い分に、小倉はすぐさま微笑んだ。
「そうだよね」

――そばいる番外編『そばにいられると』おわり




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