#423/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 13/03/30 23:27 (343)
白い彼方のホワイトデー 上 永山
★内容 14/01/12 10:11 修正 第4版
窓の外にちらつく白い物を認めたとき、ふっと思い出した。これまで雪を見
ても思い出すことはまずなかったのに、どうしたのだろう。昨夏、当時を過ご
した町に戻って来た、その事実が大きいのかもしれない。
すでに三十年ほどが経過している。あの日も今と同様に雪が降っていたが、
勢いは段違いだった。
思い出したのは忌まわしい事件の記憶だが、三十年も経つとさすがに懐かし
さを覚える。
あれはまだ昭和の時代。今のように携帯電話や防犯カメラが、世の中に溢れ
ていなかった。科学捜査も現代には及ばない。もしも今、あの事件が起きたの
なら、即座に解決されていた気がする。
詳しく思い返してみることにした。僕は古雑誌の整理の手を休め、コーヒー
を準備した。
この町で三月半ばに雪が降る、それも積もるほどとなると極めて珍しい。あ
る意味、三月十四日という日にふさわしい彩りではあると思う。反面、不安を
煽る異常現象とも言えた。
不安と表現したが、僕のクラス――二年四組の面々ならぴんと来るだろう。
一ヶ月前のバレンタインデーに起こった騒動が、まだ燻っていることだと。
大多数の中学校と同様、我が校も、バレンタインだからと言ってチョコレー
トだの何だのを学校に持ち込む行為を、校則で禁じている。教師が見逃してく
れるのを期待してはいけない。完全に取り締まるのは無理だが、見つかったら
アウト。禁止物を持ち込んだ生徒は言うまでもないが、もらった側の生徒も処
分を受ける。正確には、物を受け取っておきながら速やかに報告しなかった場
合に限られるのだが、この理不尽な定めのおかげで、今度の騒動が起きたと言
える。
校則の存在は、校内の誰もがよく分かっている。故に、バレンタインデー当
日、気持ちでは浮ついた者がいたとしても、実際に物をやり取りするような無
駄な勇気をふるおうという生徒は、滅多にいない。学校の外で渡せばお咎めな
しなのだから。渡す側にとって、プレゼントを学校に持ち込むことは駄目でも、
派手な包装をせず、宛名も記さないでおけば、言い逃れはできる。
そういった意識が生徒間に広まっているにもかかわらず、騒動――事件と言
い換えてもよい――は起きた。
二月十四日は三学年ともまだ平常授業が行われており、定期考査を意識し出
す頃と言える。かくいう僕、正田昌樹もその一人で、バレンタインなんて頭の
片隅にもなく、試験に向けてそろそろ対策を練り上げねばならないと思ってい
た。
だから、その日の終わり、ホームルームで騒動が持ち上がったときも、しば
らくは傍観していた。司会進行役を滞りなく務めていたクラス委員長の羽根川
進が、判所役である副委員長の石橋美奈穂から、最後の付け足しのように尋ね
られたのがきっかけだった。
「他に何もないようだったら、私から一つ」
石橋は天然パーマの持ち主で愛嬌のある美人だが、外見とは裏腹に理知的な
面を備えている。これが僕の彼女のに対する評価だ。そしてその評価は、この
ときも当たっていた気がする。
「実は今日、体育の授業が終わって教室に戻ってきたあと、私の机の中に走り
書きのメモが入れられていたの」
石橋は胸ポケットから紙片を取り出した。四つ折りにされたそれを開く。
「ここに書いてあることが事実なら、私は副委員長として言わなければいけな
い。メモを見た直後に行動を起こさなかったのは、羽根川君、あなたが自分で
先生に言いに行くだろうと期待したからなんだけれど……そういう素振りは皆
無だったから、この場で言わせてもらうわ」
羽根川はきょとんとしていた。彼もかなりの男前だが、近眼で、あまりセン
スのよくない厚い眼鏡を掛けている。背は高くて体格もいいので、センスさえ
磨けばもっともてるだろうに、改善の兆しがない。
「何が書いてあるのか、言ってくれないと」
羽根川が戸惑い気味に聞き返すと、石橋はうなずき、少しボリュームを落と
した声で読み上げた。
「『私は目撃した。委員長の羽根川がバレンタインデーのプレゼントっぽい物
を持っているところを。どうしたらいいのか分からない。副委員長に判断を任
せる』」
「――はぁ?」
ますます訳が分からないとばかり、頓狂な声を上げた羽根川。
「それ、見せて」
「いいけれど、先生やみんなに見てもらうのが先」
きっぱりした物腰で、主導権を握り続ける石橋。彼女は教室の廊下側に行く
と、列の先頭から紙を回すように伝えた。
「誓って言うが、身に覚えがない。誰が書いたのか分からないのか?」
紙の動きを眼で追いつつ、羽根川は石橋に問うた。副委員長は首を傾げた。
「署名なし。文字は手書きだけれど、利き手じゃない方で書いたみたいな、へ
ろへろの筆跡で、とてもじゃないけど特定は無理だと思うわ。まさか指紋を採
るなんて、無理でしょうし」
仮に指紋採取できる環境が整ったとしても、最早手遅れだ。僕は、回ってき
た紙片を見下ろしながら思った。紙はノートの切れ端のようだが、罫線が引い
てあったり、メーカーの印があったりという特徴は見当たらない。鋏かカッタ
ーナイフを使ったのか、縁はきれいに切られている。元のノートと切れ目を合
わせれば一致する可能性はあるが、逆に、真っ直ぐ切ってさえいれば、どんな
ノートにも一致するとも言えそうだった。
「それで、羽根川君。身に覚えがないんだったら、鞄や机、ロッカーなんかを
調べても――」
「色々私物が入っているんだぞ? 見せたくない物だってある」
「私だって見たくないわよ。こうして疑いが掛かっているんだから、潔白を証
明するために、何とかしてほしい訳。委員長としても、きちんと対応してもら
わないと」
「……調べる役を僕が指名する。それなら応じてやる」
ちょうど紙片が戻って来て、石橋から羽根川へ渡された。
「まったく、誰がこんなでたらめを」
「指名でいいと思う。ただし、先生を含めた三人ね。あとの二人は男女一人ず
つ」
「よし、じゃあ……女子は石橋さんがやれ。あとで何か言われたらたまらない」
そんな風に選ばれた三人で、最初に羽根川の学生鞄を調べてみた。
結果、あっさり見つかったのである。焦げ茶色の包装紙に包まれた、小さな
箱入りのチョコレートには、宛名の記されたカードが挟んであった。
もちろん、羽根川は「知らない。誰かが勝手に入れた」と頑なに否定したし、
告発の経緯にも不自然さが感じられるのは明らか。と言って、見過ごしもでき
ないので、状況説明全てを含め、生徒指導主任に報告されることになった。そ
して翌日の夕方に下された処分が、次の通りである。
チョコレートを持ち込んだ者が誰か、その人物が羽根川に渡したのは本気か
悪意か、の二点に関しては判断保留。保留と言いつつ、継続調査して結論を出
す日は来ないだろう。
ただし、羽根川は反省文を提出すること。クラス委員長を務めていながら、
脇が甘かった点を責める形だ。
かように強引な幕引きが行われたバレンタイン騒動が、後々まで火種を抱え
込むのは当然だったかもしれない。
卒業式まで一週間を切り、他にも行事が立て込むこの時期、本来なら早朝か
ら学校は人でざわついていておかしくない。だが、ときならぬ大雪のおかげで、
教職員の大半が遅れての出勤を余儀なくされた。午前五時になる直前に止んだ
とはいえ、雪に慣れない土地の人々の足を乱すには、充分だった。
よって、“現場”に最初に到着し、異変に気付いたのは、学校のごく近所に
住む一年生の女子生徒二人になった。
雪の積もり具合を心配し、もしかすると休校かもという期待込みで、二人の
女子は中学校まで歩いて来た。時刻は朝の七時になるかならないかの頃。雪は
やんでいたが曇天のおかげで薄暗く、校舎の窓には明かりがぽつん、ぽつんと
ようやく灯り出したタイミングだった。教職員用の通用口は裏手にあり、一年
女子二人が目の前にしている正門は、生徒や来客用。そこからグラウンド、校
舎へと至る地面を覆う雪に、足跡が一筋。いや、足跡は途切れていた。ちょう
どグラウンドの中程、正門からも校舎からも三十メートルばかり離れた位置で。
そして、足跡の主であろう人物は、その地点で仰向けに倒れていた。
身に着けているのは学校指定の制服で、男子と分かる。頭を校舎側にしてい
るため、顔はしかとは見えない。
やがて、一年生の女子二人が揃って悲鳴を上げた。彼の胸には異様な物が突
き立てられ、その傷口を中心に赤い液体が広がっていた。
学校側は渋ったようだが、警察に通報せずに済ませられるはずもない。発見
者である一年生二人から異常を伝えられてから、教師の一人が倒れたままの男
子生徒に近付き、意識や脈がないことを確認。救急車を要請したあと、警察に
も通報がなされた。時刻にして、午前七時半。学校は、とりあえず午前中を休
校とし、午後からどうするかは改めて連絡するとした。
その後、男子生徒の死亡が確認され、身元も判明した。バレンタインデー騒
動の渦中にいた、羽根川進だった。
以下、警察の発表によると――当日の朝五時半から六時半の間に死亡したと
推測され、死因は発見時の状況から容易に想像できた通り、大量失血のためだ
った。
胸のほぼ真ん中に突き刺さっていたのは木製の矢で、深さは約五センチにも
達していた。心臓を逸れていたので即死こそ免れたろうが、血管を傷付けてお
り、襲撃から程なくして死に至ったと考えられた。至近距離で撃たれたか、で
なければ、腕力のある者が矢を握り、直接突き刺した可能性が高い。
矢は樫の木を刃で削った物で、手作りと見られる。これを発射する弓または
ボーガンの類は、発見されていない。なお、矢からは一切の指紋が出なかった。
犯人の物が付いていないのは当然として、被害者の物まで検出されなかったの
は、羽根川が防寒のため、手袋をしていたからと思われる。実際には、羽根川
は矢を抜こうと努力した形跡が認められた。深く刺さって抜けなかったのか、
抜くと出血量が増えると感じ取ったのか、途中でやめたようだった。
「二度目になりますな、正田さん」
僕の目の前には刑事がいる。男で厳つい顔をしている。ドラマなどで見るベ
テラン刑事のイメージに、かなり重なっていると思った。
場所は校長室横の応接室。事件発生当日、警察の申入れで、ここを臨時の事
情聴取場所として提供し、僕も話を聴かれた。革張りの立派なソファには、普
段でさえあまり慣れず、居心地がよくないのに、刑事相手となるとなおさらだ。
今日は事件から三日が経っていた。騒々しい中、卒業式を昨日終え、曲がり
なりにも行事を消化する目途が立った頃合いに、捜査陣の刑事二人が乗り込ん
できた形である。
「まあ、そんなに緊張しないで、気楽に」
「型通りの質問ですから」
ベテラン刑事の隣に座る、若い刑事が言い足した。若い方は、ドラマに出て
来るエリート刑事という雰囲気はなく、むしろ見習い研修中といった風情があ
った。
「何しろ、正田さんは亡くなった羽根川君のクラス担任なんですし、話を伺わ
ない訳にはいきません」
「はあ、まあ、そりゃあそうでしょうね」
僕は微苦笑を浮かべようとしてやめた。生徒が死んでいるのだ、どんな形で
あれ、笑みを見せるのは不謹慎であろう。喉元のネクタイを少し緩め、足を開
き気味にして座り直した。
「何でも聞いてください」
「忙しいでしょうから、なるべく手短に行くとしましょう。羽根川君は先月十
五日、学校から軽い処分を食らっていますね。何でも、バレンタイン当日に、
禁止されている物を校内で受け取ったのが原因だとか」
「はい。ただ、本人は否定しましたし、状況に不自然なところもありましたの
で、クラス委員長としての責任を問い、処分も軽めで済んだと思います」
「その辺りも聞き及んでいます。こちらが確認したいのは、羽根川君に物を贈
った人物が誰なのか、本当に分からないのかということと、贈り物が悪意であ
ったのか、だとしたら密告――きつい表現だがご勘弁を――したのは誰なのか、
といった点なんですが」
「恐らく、刑事さん達が掴んでいる以上の話は、何もできないと思いますよ」
僕は唇を湿らせ、考えながら話し始めた。
「僕自身の考え、感じたところでは、羽根川の鞄に入っていたチョコレートは、
やはり悪意からのもので、彼をはめるためだったんでしょう。当然、贈った生
徒と副委員長にメモを託した生徒は同一人物で、大なり小なり、羽根川に対し
て思うところがあったんじゃないかと。いやあ、信じたくはないんですが」
「なるほど。じゃあ、羽根川君を憎むか嫌うかしている人物に心当たりがあれ
ば、仰ってください」
「……生徒を売るような真似は、何かハードルが高いというか……」
「勘違いしないで欲しいのは、羽根川君をはめた者が、殺人事件の犯人と決ま
った訳ではないということ。捜査の参考に使うだけです。それに、クラスメー
トを陥れるような生徒には、指導をしてやらんといかんでしょう」
ベテラン刑事はうまいこと言ったつもりのようだった。
僕は溜息をついて、口を開き掛け、また一つ息をついた。踏ん切りを付ける
のに努力を要する。
「僕からも勘違いしないで欲しいと前置きします。僕はバレンタインの騒動の
折、一応、考えました。誰がこんな卑劣な行為をやったのかと。幸か不幸か結
論は出なかった。出ても推測の域内だろうし、生徒を問い詰める気は毛頭あり
ませんでしたが。だから、今から挙げる名は、そのときに思い浮かんだ単なる
候補ということで、了解を願います」
刑事二人はうなずき、若い方が「お聞きした話は、慎重に取り扱います。ど
うぞ」と促してきた。
「最前、刑事さんが使った表現、羽根川を憎むとか嫌うという意味では、実は
誰も思い浮かばなかったんです。停学処分に追い込んでやろうなんて悪戯と釣
り合うようなものは何も。だから、彼をライバル視していた者や、彼がいなけ
れば利益を得る者がいるかという観点で、考えてみました。その結果が」
僕は紙とペンを用意し、二人の名前を書き出した。
石橋美奈穂と宝木忠敏。
「石橋というのは、副委員長の?」
ベテラン刑事が紙の上を指で押さえながら、聞いてきた。
「ええ。彼女と羽根川は成績優秀で、張り合っているところがありましたし、
ショートステイの枠でも競っていたので。三年の夏に、学校を代表して短期の
体験留学に行ける枠があるのですが、二人とも希望を出しています。尤も、羽
根川一人がいなくなったからと言って、石橋に決まる訳じゃありません。ライ
バルは他にも大勢いますから、ほとんど意味ないんじゃないかと思います」
「石橋さんが、その辺のシステムを理解せず、羽根川君さえ排除すれば自分が
選ばれると思い込んでいたようなことは?」
「ないですよ。優秀な生徒は、そんなばかげた思い込みをするはずがない」
「ふむ。では、この宝木という生徒は、初耳ですがどういった……」
「宝木は二年四組ではなく五組の生徒で、大げさに言えば不良、まあ僕の見る
ところ、少し悪ぶってるだけですけれどね。一年生時に羽根川とぶつかってい
ます。そのときは担任でも何でもなかったので、あとで聞いただけですが。き
っかけはくだらなくて、掃除の時間にふざけていた男子グループの一人が宝木
で、彼の放った雑巾か何かが、たまたま羽根川に当たった。宝木はすぐに謝っ
たが、その言い方がひどく軽い調子だったから、羽根川も頭に来たらしく、口
論に。それがずっと尾を引き、似たような衝突を二、三度繰り返したあと、宝
木の校外での校則違反、確か服装の違反を目撃した羽根川が学校に報せたこと
で、宝木も懲りたというか、ばか負けしたようです。クラスが別になった二年
からは、特に何も起きていませんでした」
「つまり、一年近く、何らトラブルは起きていなかったと。収まっていたのが
急に復活して、殺し殺されるの関係になるとは、俄には信じられませんなあ」
「僕も同感です。宝木がバレンタイン騒動の張本人というのはまだあり得なく
はないかもしれないが、殺人となるとね……。石橋に至っては、バレンタイン
騒動の動機としても弱い」
「他に思い浮かぶ人物はいませんかね」
「羽根川にバレンタイン騒動のような悪戯を仕掛ける、という意味でなら、一
人だけいます。殺人には無関係に違いないから、言う必要ないと思ったんです
が」
「念のため、拝聴しましょう」
刑事の言葉を受け、僕は先の紙に、もう一人の名を記した。倉森三郎。
「倉森は四組の生徒です。父親が製薬会社の重役で、倉森自身も化け学に強い
ですね。羽根川は理科にやや弱いから、互いに補っている感じでした。二人は
幼稚園の頃から友達で、クラスもずっと同じだったと聞いてます。まあ、親友
という奴でしょうか。倉森と羽根川は、互いに何でもできる、言い合える仲だ
ったようでしてね。悪ふざけも同様で、あいつなら許せるという感じでした。
バレンタイン騒動のときも、僕個人は、倉森のことが真っ先に頭に浮かんだも
のです」
「じゃあ、倉森君に直接、聞いたんですか」
「いえ、それが、あり得ないんですよ。二月十四日、倉森は早退しています。
薬局で薬剤師をやってる母親が倒れたと報せが来たんで、大事を取って。幸い、
母親は無事退院できたと聞いています」
「ふむ……」
刑事達が黙したのを見て、僕はここぞとばかりに質問をした。ホワイトデー
事件のあることに関して、警察の見解をぜひ聞いてみたかった。
「刑事さん。そもそも、これは本当に殺人なんでしょうか?」
「と言いますと」
こちらからの問い掛けを特に咎める風もなく、ベテラン刑事は乗ってきた。
「現場の状況を、僕も見ました。足跡は、救助に向かった者を除くと、羽根川
自身の分だけだったですよね? 殺人なら犯人の足跡も付くはずだが、どこに
も見当たらなかった。常識的に考えて、犯人は存在せず、事故か自殺と見なす
べきなんじゃないんでしょうか」
「校長先生も似たようなことを言われていましたよ」
ベテラン刑事は、わずかばかり口元を曲げて言った。
「学校内で殺人事件が起きたよりは、自殺の方がまだまし。事故ならもう少し
まし。そんなところなんでしょうな」
「いえ、そんなつもりでは……」
図星だったが、口では否定しておく。本心をごまかし、続けて意見を述べた。
「殺人だというのなら、警察は足跡について、どう解釈してるんです? 犯人
が遠くから、弓で矢を射たと考えているのですが」
「当初はそう思いました。しかし、実験してみると、あの手作りの矢では、三
十メートルの距離を飛んで突き刺さるには、重すぎるようで。ボーガンを使え
ば飛距離は伸びるが三十メートルに届くかは微妙な上、真っ直ぐ飛ばないと来
た」
「じゃあ、やっぱり殺人ではないのでは? まさか、犯人が雪の止まない内か
ら校庭のど真ん中で羽根川を待ち伏せ、通り掛かった彼を刺し殺したあと、ヘ
リコプターで飛び去ったなんて考えている訳ありませんよね」
「正田さん、あなた面白い人なんですな。教師というイメージから、もっと堅
物なんだと思ってましたよ」
「学生時代、バイトで小学校低学年の子の勉強を見てやったこともありますし、
これくらいの柔軟さは必要なんです。それで、どう考えてるんですか」
「まあ、こうと確定した答を見つけた訳ではないんだが、仮説ならあります。
その仮説でもうまく説明できない点が残るので、答えづらいんですがね」
「何なんです?」
「正田さんは推理小説はお読みにならない? じゃあ、ヒントは……人は刺さ
れたあとも少しなら歩けることもある。これで勘弁願います。くれぐれも他言
無用ですぞ」
ベテラン刑事は、秘密めかして答えると、相当に不気味なウィンクをした。
解放されたあとも、僕は暇を見つけては、刑事のヒントを検討した。
人は刺されたあとも歩ける。つまり、羽根川は弓を直接突き刺されたあと、
即死せずに歩いたという意味に違いない。正門のすぐ外で刺せば、犯人の足跡
は他の物や自動車などのタイヤ痕に紛れ、じきに分からなくなるだろう。羽根
川がグラウンドの真ん中で倒れたのは、犯人の計画にはなかった、単なる幸運
だった。
こう考えると、足跡の謎はなくなる。
では刑事の言っていた、説明の付かない点とは何なんだろうか? 雪に血痕
が見当たらなかったのは、矢が栓の役割を果たして傷口を塞いでいたと見なせ
ば、さほど不思議ではないらしい。
羽根川がふらふらと逃げたのに、犯人がとどめを刺そうと追い掛けてはいな
い。それが不自然なんだろうか。だが、犯人は一方で現場から一刻も早く逃げ
たいものだろう。手応えがあったなら、さっさと逃亡する方を選んでもおかし
くない。
現場周辺で、目撃者や怪しい物音を聞いた者は見つかっていないらしいが、
羽根川が叫び声一つ挙げなかったのが不自然なのか? しかし、羽根川は現場
の学校まで、冬の朝早くからのこのこ出向いて、正面から刺されている。相手
を警戒していなかった証拠ではないか。だとしたら、突然刺されて、訳が分か
らず、まともな悲鳴も上げずに逃げることは充分にありそうだ。
そんな曖昧ではない、もっと具体的で明白な疑問が、きっとある。
「正田先生。遅れていた人の分、持って来ました」
職員室に尋ねてきたのは、石橋だった。副委員長の彼女は、委員長がいなく
なったこともあり、終業式までの間、かけずり回っている。今、持って来てく
れたのは、羽根川の死に対するクラスメートの率直な言葉を聞く、一種のアン
ケートだ。無記名かつ各人が封をして提出する形を取っている。原則的に校内
だけの書類に属するが、場合によっては、心理学の専門家に見せることもある
と聞いた。
「ああ、ご苦労さん。これで揃ったか?」
「はい。倉森君が一番最後だったわ。あ、言っていいのかな、これ」
「それくらいならかまわんだろ。実際、倉森の様子は気になるしな」
「朝と変わらない。辛そうでした。やたらと溜息をついて。泣きそうな様子も
時々見られるけれど、男子だからか、さすがに泣かない」
「よく観察してるな」
「観察なんて呼べるほど、大げさじゃありません。副委員長として、みんなの
様子に気を配らなくちゃと思っただけです」
舌先を覗かせた石橋。努力して明るく振る舞っているのか、これが地なのか
見極めは付かない。
「他に気になる奴はいないか? 教師の前だと、本音を出さないのもいるだろ
うから」
「うーん、先生も見てるから知ってるだろうけれど、女子には結構泣いてる子
がいます。でも、羽根川君に好意を持っていたとかじゃなく、死そのものにシ
ョックを受けてる感じ、かな」
「――おまえはどうなんだろうな?」
「私? 人並みに悲しんでる頭は持ち合わせてる。あと、自分も気を付けなく
ちゃいけない」
「その、なんだ。石橋も殺人だと思っているんだな」
「警察も言ってるし……違うの、先生?」
「いや、警察の発表が正しい……んだと思う。足跡も問題にしていないようだ
しな」
「へえー。じゃ、どうして羽根川君が道路側に逃げず、学校側に逃げたのかの
説明も付いてるんだ?」
「ん?」
教え子からのいきなりの台詞に、僕は思わず、じろっと見上げてしまった。
気味悪がる石橋を呼び止め、「どこまで把握してるのか、教えてくれないか」
と潜めた声で尋ねる。周囲も気になるが、幸い、昼過ぎの職員室に人は少ない。
「把握って?」
「足跡についてだよ」
「……話してもいいけれど、お昼、おごってください」
赤く細いバンドの腕時計を指差しながら、石橋は真顔で言った。
――続く
#424/598 ●長編 *** コメント #423 ***
★タイトル (AZA ) 13/03/31 00:06 (408)
白い彼方のホワイトデー 下 永山
★内容 22/05/30 17:08 修正 第5版
我が校にも給食制は導入されているが、今日は午前中で学校が終わるので、
給食はない。学食なんて施設もなく、購買部に多少の食品が置いてある程度だ
った。もちろんこの年頃の子供、そんなお菓子のような物で満足するはずもな
く、近くの喫茶店に出向き、スパゲティナポリタンをおごる羽目になった。ま
あ、どうせ自分も昼を摂る必要があったのだから、ちょうどいいと思うことに
する。
「で?」
僕はカツカレーのカツ一切れを、スプーンで半分にしながら、石橋に話の続
きを促した。
「そんなに急かさなくても、食べ終わるまでには話します」
「男の教師と女子生徒が二人きりで店に入るというのは、外聞が悪い。早く済
ませたいんだよ」
「こそこそきょろきょろせずに、堂々としていればいいのよ、先生。部活終わ
りに、顧問の先生が生徒を連れて食事をしてる、ぐらいにしか見えないわ」
「そんなものか」
石橋が気にしないのであれば、こちらも必要以上に言い立てまい。でも、そ
れとは別に、話を早く聞きたいのも事実。
「カツを一切れやるから、早く話せ」
「カツより、デザートなどをいただける方がありがたいんですけど」
「……分かった。何でも頼め」
これで目新しい話が聞けなかったら、成績を採点し直して少し下げてやりた
い。
スパゲティが片付き、デザートに何かのケーキと、ジュースを頼んだところ
で、ようやく石橋は話し始めた。
「警察は多分、弓矢で射殺したなんて方法はあり得ないと、すぐに気付いたは
ず。だったら、次に、学校の外で襲われた羽根川君が、学校内に逃げ込んだと
考えるはず。逃げる途中で死んでしまったと。ここまではどうです? 先生は
警察から捜査の状況を聞いたんですよね?」
「うむ。誉めていいのか分からんが、一致している」
実際、戸惑った。十四歳前後の女子が、犯罪絡みのことを言い当てるなんて。
そんな感想が表情に出ていたのだろう。石橋は僕の顔を見て、ふと気付いた
ように目をぱちくりさせ、「そんな意外そうにされるとは思わなかったな」と、
からかう口ぶりで言った。
「私はこれでも、推理小説や二時間ドラマが大好きなんです。小学生のときに
購読していた雑誌に、推理クイズブックみたいな付録があって、そこからのめ
り込んだんです。足跡の問題なんて、お茶の子さいさい」
そういえば、刑事も似たようなことを言っていた。推理小説を読む人間にと
って、死にかけの被害者が歩いたがために足跡が不思議になるというのは、常
道のパターンなのだろう。
「足跡の謎を解釈するのに、一番有力な仮説なのは、先生も認めますよね」
「ああ」
「その上で、なお残る疑問は、羽根川君は何故、学校の外ではなく中に逃げた
のかという点であることも、すぐに理解できるでしょう?」
「何となくは……。でも、学校の誰かに助けを求めても、おかしくはない気が
するな」
「時間帯を考えて。早朝だったんでしょ。加えて大雪。ワイドショーで見た死
亡推定時刻だと、学校はまだ無人だったはずよ。最後の力を振り絞って駆け出
したのに、明かりが灯っていない校舎を目指すかしら」
「なるほど、理屈だが……犯人が大男で、とても道路側へは逃げられそうにな
かったのかもしれないじゃないか」
「可能性はあります。でも、羽根川君が怖がるくらい大きな人って、大人の男
性でもそこかしこにいるとは思えない。だいたい、羽根川君は真正面から矢を
突き立てられているんでしょう? 大男と相対していたのなら、警戒して、そ
んな簡単に刺されないと思いますけど」
自分の正面に立った相手に、あっさり刺される。早朝という時間帯や大雪と
いう状況を考え合わせると、相当に油断していない限り、女の子にだって刺さ
れそうにない。
「勘になるけれど、羽根川君は年齢の近い知り合いに呼び出されたのよ、きっ
と。だって、私なら、そうでもない限り、寒い朝にのこのこ歩いて行かないわ」
確か、羽根川のところは父親との二人暮らしで、会社員の父親は遅番勤務だ。
五時前後に在宅しているか不在かまでは把握していないが、在宅していてもき
っと睡眠を取るだろうから、息子が早朝に出て行っても気付かれにくい。
「雪の早朝に呼び出せるのは、羽根川とかなり親しい間柄に絞れるな」
「そうとも限らないんじゃありません?」
いつの間にか運ばれたケーキを食べつつ、石橋が言った。
「何故だ? 仲の悪い奴から呼び出されたら、普通は無視するか、時間の変更
を求めるもんだ」
「普通ならね。けど、羽根川君はバレンタイン騒動で陥れられたと主張してい
た。犯人探しをしていたの、先生は知らない?」
「いや、何となくは知っていた」
一度だけだが、羽根川に問われたことがある。自分の評価が下がって得する
奴はいませんかと。いないとしか答えようがなかったが、あのときもっとちゃ
んと話を聞いておけばよかったのか。
「そんな羽根川君が、たとえば『バレンタインに、おまえの鞄を触っていた奴
を見た。詳しく話したいから、三月十四日の朝五時に学校の正門前まで来て欲
しい』とでも持ち掛けられたとしたら、どう? 相手との仲がどうだろうと、
会いに行くじゃないかしら」
なかなか鋭い見方かもしれない。電話で持ち掛けられたとして、重大なこと
だから直接会って伝えたい、なんて言われたら、従うしかあるまい。
だとすると、動機は何だ。手作りの矢を用意し、刺したんだから、計画的な
殺しなんだろう。バレンタインでの悪戯を嗅ぎつけられそうになった犯人が、
それならいっそのこと殺してしまえとやったのか? 小さな罪を隠蔽するため
に、殺人を犯していては割に合わない。乱暴すぎる気がする。
「正田先生は、誰か怪しい人物、浮かびました?」
「そんなの、いやしない。石橋も余計な詮索はやめておけよ。顔見知りを疑う
なんて、どうせろくなことにならない」
「それ、経験談ですか」
「犯罪絡みじゃないが、大なり小なり似たような経験ならあるさ」
僕の台詞に、石橋は感心したように息をつき、それから「さすが年の功」と
付け足した。
事件から一週間が経ち、学校の行事は終業式まで無事に済んだ。春休み目前
ともなると、当初の騒々しさは一気に和らいでいた。世間でもっと大きな事件
が起きたせいもあるだろう。ただ、警察の動きがあまり伝わってこないのは、
迷宮入りを想像させて気分のいいものではなかった。
とはいえ、教師の身分では自ら調べる力なんて高が知れているし、その上、
春休みに入ったからといって暇になる訳ではない。むしろ、新年度に備えて多
忙を極める時期だ。事件の捜査状況を知るには、週刊誌やスポーツ新聞を適当
に読み漁るぐらいしかない。
だから、羽根川進が殺された事件について、目新しい情報を得るのは期待し
ていなかったのだが、どこにも特ダネ狙いのひねくれ者はいると見える。ある
週刊誌の小さな記事によれば、凶器に使われた矢から、羽根川の血の他に、彼
とは異なる型の血液も検出されたという。O型で、犯人の血液の可能性もある
らしいが、最近付着したものではないとの記述もあった。過去にいかほど遡る
のかについての言及はない。
来年度も、四組を持ち上がりで受け持つことが決まっていた僕は、各生徒の
情報に接することが、比較的容易にできる。血液型も知ろうと思えば知れる。
だが、教師に過ぎない僕が、そこまでする必要があるのか。そこまでしていい
のか。血液型が決め手になるのであればまだしも、どう扱えばいいのか判断に
困る手掛かりでは、下手にしゃしゃり出るのは自重すべき。そう決断した。
しかし……中学生の女子ともなると、占いが流行るおかげで、血液型の把握
には熱心な者もいるようだ。あの週刊誌記事を目にすれば、調べたくなっても
不思議じゃない。
「――あ、よかった、いた。先生!」
たまの休日、自宅アパートの中庭でくつろいでいたところへ、石橋美奈穂は
突然現れた。茶系統でまとめたベレー帽に肩掛け、黒のタイツとと、どちらか
と言えば春よりも秋を感じさせる装いは、校則の定めからはみ出していない。
生徒なりの精一杯おしゃれした私服の効力か、石橋は普段よりも可愛らしさは
減じたが、代わって大人びた雰囲気が増したようだ。
緑の生け垣を間に挟み、ほぼ正面から向き合う格好になる。
「何だ何だ、石橋。誰かとデートか」
思い付いたジョークをそのまま口にすると、相手はむくれてしまった。面白
くないと言われるのはかまわないが、不機嫌そうにされるのは予想外で困る。
「正田先生は見ていないのですか、週刊誌に載った記事を」
早口で捲し立てるように言い、僕に例の週刊誌を突き付ける。読んでいたか。
芸能人ネタの多い号で、セクシャルな記事はほぼなかったな、うん。
「読んだよ」
「O型の血液を持つ人物が犯人だと思います?」
「分からんよ」
石橋のペースに巻き込まれるのを意識するも、逃れる術はなさそうだ。やむ
を得ず、話に付き合うことにする。アパートの部屋に招き入れる訳にはいかな
いので、僕の方が外に出た。念のため、財布を持って出たが、喫茶店に入ろう
などとは言われなかった。少々歩いた場所にある公園に向かう。天気はよく、
気温も高め。散歩日和だ。
「矢に付着したO型が、いつのものか、記事には書いてなかったからな。そこ
が分からないと、進めようがない」
道すがら、会話を再開する。石橋は何度か首を縦に振った。
「確かにその通りです。でも私、一応、念には念をと思い、O型の人物をリス
トアップしてみました」
「やめなさい。いらぬ先入観を与えるだけだ」
「クラスのみんなには言わないわ。知りたければ、自分で調べればいいのよ」
咎められたのが不服なのだろう、唇を尖らせる石橋。
公園には幸い、誰もいなかった。聞かれる心配をしなくて済む。いくつかあ
るベンチの内、道路に近いやつに腰を下ろした。
「最初は私もO型の人が怪しいと思った。でも、血痕は古い物らしい。矢は木
を削った手作り。今度の事件で、弓を用いて飛ばした様子もない。だったら、
昔の血痕が証拠になりかねないのなら、ちょっと削って取ればいい。なのにし
ていないってことは、ひょっとしたら犯人の血ではないのかもと考えるように
なって。それで、先生の意見を聞きたいと思って、こうして足を運んだんです」
「そうだな、ユニークな見方だ。もちろん、前提条件のハードルをいくつか跳
ばしていることは、承知の上だろう。たとえば、古い血痕の大きさ。仮に、肉
眼では捉えにくいほどの小さなサイズであれば、犯人は見逃したが、科学捜査
によって発見できたということは充分にあり得る」
「はい。でも、私の思い付きを先に検討するだけの、充分に興味深い情況証拠
が存在します。私、推理小説に興味を持った頃から、実際の事件にも関心を持
つようになって、未解決事件なんて報道があると、スクラップするようにして
います」
「そう言うからには、過去の未解決事件に、関係ありそうな事柄を見つけた
のか?」
「三年前の夏、町内で起きた殺人事件です。正田先生も記憶してるはずですよ。
犠牲者は二人、いずれも小学生。二年女子と三年男子で、それぞれ首に細い棒
状の物を突き立てられた結果、動脈を傷付けられ失血死。凶器は未発見。そし
て偶然なんでしょうけど、被害者は両名ともO型」
「一ヶ月半前に羽根川を殺害した犯人と、三年前の連続殺人犯が同一人物だと
言いたいのか」
驚きを隠さず、僕は聞き返した。無意識の内に、石橋を指差していた。相手
はけろりとして答える。
「少なくとも、凶器は一致するんじゃないでしょうか。刺し方や被害者の年齢
はまるで異なりますけど」
「三年前に二人も刺した凶器なら、それこそ血まみれになったに違いない。そ
んな物をそのまま保管して、今また使おうとするかな」
「三年前の犯行後に、血の付いた部分を削り取ったんだと思います。ひょっと
すると、三年前は真っ直ぐな杖状の物だったのを、血があちこちに染み込んだ
ので、削って矢の形にしたのかも。ただ、血痕全てを取り去るのは無理だった」
「……いや、やはり想像がたくましすぎる。狭い範囲で時を隔てて起きた複数
の殺人事件に関し、一方の事件の凶器が過去の事件に使われたかもしれないと
いう、非常に薄い可能性を追っているだけだ」
「そう言われると思っていました。私も、私みたいな中学生が言っても、まと
もに取り合ってもらえるとは考えていません。そこでお願いが。先生の方から
警察へ、進言してくださいませんか」
「何だって?」
先程とは違う種類の驚きに、僕は腰を浮かした。石橋は相変わらず、落ち着
き払っている。
「それとなく言ってもらえれば、警察も一応調べてくれると思います。結果が
仮説と違っていても、それはそれで一つの進展です」
「いやいや、違っていたら、捜査の邪魔をしたことになる。だいたい、どうや
って証明できる? 石橋の想像だと、凶器の形状が変わってしまった恐れがあ
る。言い換えると、たとえ同じ凶器でも、傷口は一致しないってことだ」
「最新の科学捜査では、わずかな血痕から、人物の特定が可能になったと聞き
ます」
石橋は詳しく説明してくれたが、僕は分かったような分からないような、今
ひとつ、理解できなかった。
「と、とにかくだ。その技術はまだ日本では普及していないんだろ? やると
したら専門の研究機関に、特別に依頼することになるだろう。まだ大した確証
もないのに、特別な検査をしてもらえるはずがないさ」
「確証ではありませんが、傍証ならもう一つあります。先生はご存知ないみた
いですけれど、三年前の事件の一人目の被害者は、羽根川君と同じ小学校に通
っていました」
「何と……」
三度目の驚きには、もう声も満足に出ない。
「じゃあ、羽根川が殺されたのは、三年前の事件の何かを知っていて、そのこ
とを突き止めた犯人に始末されたとか……」
「動機はいくらでも想像できます。でも、凄く興味深い事実でしょう?」
「ああ、そうだな。刑事に伝えてみるくらいの値打ちはありそうだ」
結局、僕は石橋の頼みを引き受けた。事件の解決自体に関心があったのも確
かだが、それ以上に、石橋が勝手に動いて、万が一、犯人に狙われてはいけな
い。
「どうもどうも、正田先生。お待たせしました」
すっかり顔なじみになったベテラン刑事が、笑顔で手を振りながら現れた。
僕はパイプ椅子から立ち上がり、軽く一礼した。
「今日はあの若い刑事さんはいないんですか」
「さっきまで一緒にいたのですがね。先生が来たから、自分だけ戻ってきたん
ですよ」
「それはすみません。申し訳ないことをした」
「いやいや、それだけの値打ちがありますよ。実は、矢に関して公にしていな
い情報がいくつかありましてな。それが、三年前の根口君殺害の件と結び付き
そうなんです」
「公にしていない情報とは……」
「全部を明かす訳にはいきませんが、特別に一つだけ話しましょう。根口君の
遺体には、ある植物の花粉が付着していた。今度の事件の矢の羽の部分から、
同じ種類の花粉が微量ながら検出されている。当時の花粉が、今も残っている
としたら、これは有力な証拠になる。新たな観点からの捜査の後押しになるに
違いない。それにしても、三年前に殺された児童二名の血液型なんて、よく覚
えていたものですな」
刑事は感嘆の中に皮肉を混ぜたような口調で言った。僕もつい、苦笑した。
今回の進言は、僕自身の意見ではなく、ある女子生徒の意見だと、正直に伝え
てある。
「推理小説ファンみたいでして。僕も知らなかったので、意外でした」
「警察官志望なら、将来有望ですな」
刑事は豪快に笑うと、また立った。
「他に何もなければ、捜査やら何やらあるんで、よろしいですかな」
「え、ああ、一つだけ、教えてください。できればでいいんですが」
応の返事をもらったので、手短に尋ねる。前に言っていた不自然さとは、羽
根川が学校側に逃げたことなのかと。
刑事は厳つい顔を縦に振った。
「その通りですよ。これもまたその女子生徒の見方ですか」
僕は石橋が警察に先んじていたと信じて疑いもしなかったが、捜査陣の一部
は児童連続殺害事件との関連を口にしていたらしい。その上、僕なんかが思い
も寄らない仮説を検討していたのだった。
「何か変なんですよ、先生」
入学式の予行演習に登校した石橋は、終わるや否や、僕に話し掛けてきた。
どうせ事件のことだと判断し、とっさに人の輪から外れる。
「おかしいって何かあったか」
「私の周辺を誰かが嗅ぎまわってた」
「え? 真面目な話か?」
にわかには信じられず、また緊張もしたので、つい、確認してしまった。す
ると石橋は案の定、靨を作って少しだけ笑みを見せた。
「多分、警察の人が私の評判を聞いていったみたいなんです」
「警察が? 意味が分からない。むしろ君は、護衛されてもいいくらいなのに」
そもそも、僕は彼女の名を警察に伝えていないのだが。
「事件の真相をずばり見抜いていた中学生を怪しんで、身辺調査したのかも」
石橋は本気とも冗談ともつかぬことを言う。
「真相かどうかはさておき、事件に首を突っ込んでくる君を疑った可能性はあ
るな。今、思ったんだが、石橋はもしかすると、三年前の事件の被害者どちら
かと、つながりがあるんじゃないのか」
「同じ学校に通っていました。ただそれだけで、おしゃべりはおろか、見掛け
たことすらないですけど」
「当然、三年間の事件で、警察から事情を聴かれたことは……」
「ありません」
真の意味で、念には念を入れて調べてみた、ただそれだけのことだったのか。
しかし、と僕は内心、首をかしげる。
僕らの進言で警察が新たに動き始めたのなら、捜査員達は忙しく駆けずり回
るものではないのか。女子中学生に疑いをかけ、念のため調べる余裕があるの
だろうか。
ひょっとすると、大真面目に容疑をかけていたのかも――。僕はまじまじと
石橋を見た。
彼女はちょうど横を向いており、こちらの視線には気付かなかったらしい。
顔を戻すと、「それで思ったんです」と始めた。
「警察は、羽根川君の事件で、中学生も容疑者に含めている。このことは容易
に想像できます。そこへ、三年前の事件との関連を窺わせる話が出てきた。今
の中学生が三年前は、小学生。羽根川君の中学の知り合いの中に、殺された児
童二人とつながりを持っている者がいておかしくない。そんな風に考えたんじ
ゃないかしらって」
「……筋は通っているようだ」
児童を殺した犯人が児童だとしたら、衝撃は大きい。盲点だ。三年前の時点
で、小学生を対象にした捜査が徹底されたとは考えにくい。
「うちの学校で、三年前の被害者二人と少しでも関わりがあった者は、全員調
査されているのか。――だめだな、僕は。みんなを警察から遠ざけるために、
一刻も早い事件解決を期してあれこれ動き回ったつもりだったが、逆になって
しまったよ」
「真相が藪の中になるよりは、ずっとましです」
事も無げに答える石橋。生徒みんなが彼女ぐらい強ければ、どんなに気が楽
だろう。
「犯人が三年前の事件と同じなら、その人物は何故、羽根川君をホワイトデー
に、矢で殺したのか、気になるんですよね」
「ホワイトデーなのは、バレンタイン騒動があったからじゃないのか。あの騒
動がらみで殺されたと思われるように」
「だったら、凶器に矢を使う意味が分かりません。キューピッドの矢になぞら
えたのかもしれませんが、それならわざわざ三年前の凶器を改造せず、普通の
木で作ればいいんですよ。凶器のおかげで、関連性が浮かび上がったんですか
ら」
「言われてみれば、不可解だな。昔の事件とのつながりを隠す気があるのかな
いのか。学校側に逃げた謎と合わせて、三つの謎だ」
「あ、その謎なら、私、一つ思い付いたことがあります」
「え、学校側に逃げた謎を解釈したというのか」
「あくまで仮説です。確認を取るまでは、話したくないのですが」
「そう言って隠しておいて、一人で容疑者に接近して確かめようとするなよ」
二時間ドラマでよくありそうなパターンを想起しつつ、僕は忠告した。石橋
は意外と真剣に反応した。
「ようく承知しています、先生。口封じに殺されるのはまっぴらごめんです。
だから、私の考えを先生に話しておきますね。死ぬなら一蓮托生です」
「おいおい」
「冗談です。二人で一緒に、容疑者のところに行って、この疑問をぶつけてみ
てもいいんですけど」
「警察に任せた方が……いや、想定している容疑者は、生徒なんだな」
「ええ」
生徒のことを思えば、僕のような教師でもクッションとして間に入ることは、
重要なのではないか。警察任せにするよりは、よほどいい気がする。
「聞かせてくれるか」
「もちろんです」
石橋は乗り気らしい。早く話したがっているのは明白だったが、場所を選ぶ
べき話題だ。僕は少々考えて、放課後の教室を選んだ。
「襲われたときの羽根川君の立場に立って、考えてみました。どうしたら足が
校舎に向くのか。そちらに逃げれば、助かる可能性が高いと判断したからに違
いないんです」
「当たり前だな。第一、だからこそ何故、人のいない校舎に向かったのかが疑
問なんだろう」
「はい。つまり、校舎にいる人に助けを求めたのではない、ということになり
ます」
「じゃあ何だ。あ、電話か?」
「いいえ。学校の周辺にも、公衆電話はたくさんあります。一番近い文房具店
横まで、十メートルちょっとしかありません」
「人でも電話でもないなら……」
第三の説を探したが、見つからない。僕は白旗を掲げた。
「分からん。教えてくれ」
「簡単ですよ。教室に解毒剤があると犯人に言われたから、です」
「は? 解毒剤だって?」
どこに毒が登場したんだと訝しんだが、じきに理解した。
「そうか! 犯人の嘘なんだな。『今、お前を刺した矢の先端には短時間で死
に至る猛毒が塗ってある。助かりたければ、二年四組の教室に行き、教卓の上
にある解毒剤を飲むしかない』なんて風に」
「はい。私はそう考えました。刺されるという緊急事態下で、こんなことを囁
かれれば、従ってしまっても無理ありませんよね」
「それには同意するが、刺した相手に言われて、すぐに信じるだろうかねえ?」
「普通の人に言われても、信じるかどうかは半々ぐらいでしょう。だけど、相
手の知識や背景を羽根川君が知っていたなら、信じてしまう場合があります。
それは、犯人に薬物の知識が豊富にあるということ」
「うん? 言わんとすることは分からなくはないが、中学生で薬に詳しいやつ
なんて、少なくとも我が校にいたかな」
「いるじゃないですか。羽根川君の身近に」
石橋は即答する。僕も即座に理解した。羽根川の身近といえば、真っ先に思
い浮かぶ生徒――。
「倉森か。父親が製薬会社の偉いさんだったな。それに、母親は薬剤師」
「羽根川君が信じる要素は充分でしょ?」
「しかし、彼は羽根川の親友中の親友だぞ。動機は何だ」
「私は動機には関知しません。どうせ完全に分かるはずないのだし、想像だけ
ならいくらでもできますから」
「だが、倉森があの矢を使って殺したのだとしたら、倉森こそが三年前の――」
「そこまでにしましょう、先生。あとはそれこそ警察の領分ですよ」
そう言った石橋は、制服姿にもかかわらず、大人びて映った。
その後、警察は倉森の逮捕を発表し、匿名での報道がされた。テレビや週刊
誌、新聞などがこぞって報じ、情報量の見た目だけは莫大なものになった。だ
が、情報の山の中に、石橋や僕が知りたかった答えはなかった。
わざわざ三年前と同じ凶器を用いたことと、動機だ。
そしてそれらに対する答は、根っこでは一つにつながっていたことを、僕ら
はベテラン刑事から教えられる。
「先生も複雑な気持ちでしょうな。あなたが児童連続殺害事件との関連を言っ
てくれたおかげで、解決を見たんだから。ま、それに対するお礼の意味を込め、
話して差し上げますよ。裁判がどうなるか分かりゃしませんしね。あっと、こ
れから話すのは倉森の主張であって、裏付けはまだなんだ。そこのところ、よ
うく理解しておいてくださいよ。
あいつが言うには、三年前に相次いで小学生を殺害したのは、羽根川だとし
ている。当時から仲がよかったが、羽根川の暴走を止めるにはあまりに非力だ
ったと涙をこぼしたよ。羽根川が年下の小学生を殺した理由? 単なる興味、
好奇心からやったんだと。それを止めるために倉森は体力をつけ、さらに凶器
の杖――矢の前の姿です――を隠した。凶器は物証になることを分かっている
羽根川は、それ以後、殺人への興味を抑え込み、倉森との親友関係を続けたと
いう。だが、長くは続かなかった。中学二年生の冬になり、殺人の衝動が抑え
らそうになくなりつつあった。そんな羽根川に、倉森は欲求のはけ口を提供し
た。その一つが、話に聞いたバレンタイン騒動なんですな。
ええ、全ては倉森と羽根川が仕組んだ、狂言だと。どういうことかというと、
羽根川を被害者に仕立てた事件を起こし、自らを追い込まれる立場に置く。周
囲の人間はおそらく羽根川を責めたてる。敵だらけになる訳ですな。それら敵
に対し、羽根川が怒りを爆発させて反論や反撃をしても、流れだけを見ればご
く自然だ。同時に、犯人かと疑われ、苦しみを知ることは羽根川にとってよい
ことに違いないと、倉森は考えたらしい。いまいち理解しがたい理屈です。
バレンタインデーの狂言は、しかしちょっとした誤算が生じた。倉森が母親
の急病を知らされ、早退したせいです。あれがなければ、倉森こそが先頭に立
ち、羽根川を糾弾する役目を負っていた。その予定が狂い、羽根川は石橋さん
を筆頭に、何人かに責め立てられた。そのことが、彼の心理に殺意を急速に芽
吹かせた。そう、殺意です。倉森の主張ではね。
羽根川の殺人への興味が完全に復活し、またも倉森では止められなくなった。
ホワイトデー当日に、石橋さんを殺してやるとまで言い出していたそうです。
何の証拠も出ていませんがね。凶行を止めるため、倉森は羽根川を殺すしかな
いと思い詰めた。そして隠しておいた杖を凶器に使えば、安全に処分できると
も考え、矢に作り直して羽根川を刺した。解毒剤どうこうの点は、先生方の話
してくださった通りでした。あ、呼び出した口実は、倉森も羽根川の犯行を手
伝うからと申し出たみたいですな。
一見、筋が通っているようで、随分といびつな犯行ですよ、これは。倉森の
証言が真実だとしてもね。いくつかの疑問が解決できたと思ったら、大きな疑
問が最後にできてしまった感じですかね。ええ。羽根川を止めるために彼の殺
害などという極端な手段に走った理由がね、全然理解できません。正田先生の
クラスの女子に、聞いてみてくれませんか」
刑事の最後の言葉を真に受けた訳じゃないが、僕は石橋に意見を求めた。倉
森と同じ年齢の彼女なら、多少は理解できるのではないかと思ったのだ。
「恐らく真実を射抜いている――かもしれない、極々単純な答が転がっている
じゃないですか」
例によって事も無げに、あっさりと言い放った石橋美奈穂。羽根川に命を狙
われていた話を、彼女は飲み込んだはずなのに、動揺はまるで見られない。
中学三年生になった彼女は続けた。
「一度は思い当たった仮説です。三年前の児童連続殺害犯は羽根川君ではなく、
倉森君だった」
――終わり