AWC お題>遅刻>三者面談 (前)   寺嶋公香



#381/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  11/05/29  23:25  (401)
お題>遅刻>三者面談 (前)   寺嶋公香
★内容                                         17/05/20 21:09 修正 第2版
 日直のその日最後の役目として、鍵を返しに職員室を訪れた暦は、担任の螢
川(ほたるがわ)先生から呼び止められた。
「相羽暦。これをお母さんかお父さんに渡しといてほしい」
 立ち上がった先生からA4用紙を突き出され、反射的に受け取る。そこには、
手書きではなく、ちゃんとプリントされた文字でこうあった。『三者面談の案
内』と。
「え。面談の時期って、今頃?」
「もちろん違うさ。ただ、前の面談のとき、ご両親とも都合がつかないとかで、
来られなかったじゃないか。クラスで相羽達だけ」
 “相羽達だけ”とは妙な表現だが、実はおかしくはない。同じクラスに、双
子の姉の碧もいるのだ。それ故、先生も友達もたいていは下の名前で呼んでく
る。
「それでですか。でも、うちは両親とも忙しいことが多いんですよ、掛け値な
しにほんとに」
「分かっている。プリントをよく読んで。都合のよい日をご指定ください、と
してある」
 先生の指が紙の上をなぞる。確かにその旨が記してあった。期間設定はおよ
そ二週間。次の定期試験が来るまでに、一度会っておきたい節が窺える。
「都合のいい日ったって」
「この先の二週間で、一日ぐらいあるだろう」
「分かりませんよ。とりあえず、先生に悪い気が。先生の方の都合は大丈夫な
の。いつになるか分からない上、一日前になって明日空いてますって言われて
も、困るんじゃあ……」
「くだらないこと気にしなくていい。先生の場合、好きな釣りを一回やめれば
事足りる。クラス担任として当然だ」
「……ありがとう、先生。そういうの聞いたら、母も喜びますよ」
「それもこれも、暦、おまえが目立つ生徒だからだぞ。幸い、成績はとやかく
いうほどではないが、普段がな。今日のバレンタイン、いくつチョコレートも
らってた?」
「開けてないから、チョコレートかどうか分かりません」
「こら、中身の問題じゃない」
「はい、分かってるって先生。今日何かくれた女子のほとんどは、僕から芸能
人やモデルのゴシップを聞きたがってるだけじゃないかなあ、多分」
「……すれてるな」
「それより先生。三者面談て書いてますが、実際は四者になる? 姉も一緒に
するのなら」
「そうしたいところなんだが。姉と弟の仲でも、個人情報は秘密にしなければ
いけないんだ。たとえ建前上でも」
「なるほど、面倒だなあ。僕らを同じクラスにしたメリットよりも、デメリッ
トの方が大きくなってないですか」
 双子(三つ子以上でも同じだが)は異なるクラスに割り振られるのが一般的
とされる。にもかかわらず、相羽姉弟が同じクラスなのは、性別が違うという
他にも、もう一つ理由があった。
 親の仕事からの関係で、碧も暦もモデルめいた仕事を時折やっている。たま
に、授業を途中で抜け出したり、昼から学校に来たりというケースもある。中
高生の年頃なら憧れを抱きやすい業界に関わっている生徒を、別々のクラスに
分散するよりも、ひとまとめにしておいた方が何かと行き届くであろうとの判
断を学校側が下したのだ。
「デメリットが大きいってことはない。でもな、僕のような、クラスを受け持
つのが一年目の教師には」
 そこまで喋って、不意に口を噤む螢川先生。生徒の前で愚痴はまずいと気付
いたらしい。
「とにかくだ。忘れずにプリントを渡しといてくれよ。都合がどうしても付か
ないようなら、電話がほしいとも」
「分かりました」
「ああ、それから、姉の方は元気になったか? 一昨日、朝のクラスでおまえ
はいるのに、碧だけいないのは珍しいから、何ごとかと思ったぞ」
 暦と碧がオファーされる仕事は、現時点では二人セットであることが多い。
だから当然、仕事を理由に遅刻したり早退したりする場合も、二人セットとい
うことになる。
「熱が出たけれど、病院で診てもらったらじきに収まったみたいです。実際、
昨日今日と見たでしょ? いつも以上に元気になりましたよ、あれは」
「まあな。分かった、それならいいんだ」
 先生の用事から解放されると、暦は急ぎ足で学校を出た。

 家に帰ると、台所からまな板を叩く包丁の音がしていた。一瞬、母さんかな
と思ったが、リズムが違うと感じた。母さんの包丁捌きの音は、これよりもわ
ずかにスローテンポで、柔らかい。技術に任せて勢いよく叩く今のこれは――。
「姉さんが夕食の準備?」
 間仕切りのアコーデオンカーテンを開け、台所へ顔を覗かせると、果たして
姉の碧がエプロンを着て立っていた。頭の三角巾は白と赤のストライプ。これ
で下の着物が制服なら、学校の家庭科と見まがうかもしれない。
「お。暦、お帰りー。日直、結構時間取られたみたいね」
「料理してるなんて、何があったのさ。母さんが作っておいてくれた分、ある
んだろ」
「いや、別に。テレビをつけたまま宿題をやってたら、料理番組でロールキャ
ベツの作り方がが紹介されててね。素晴らしくおいしそうに見えたから、材料
揃ってるし、一品付け加えるのも悪くないかなって」
「体調、大丈夫なのかよ」
「なにそれ。体調が悪いときだけ料理を作るみたいな言い方」
「違う、文字通りに心配してるんだ。螢川先生も気に掛けてたし」
「平気平気。暦こそ、チョコレートの食べ過ぎでお腹こわさないようにね」
「……料理もいいけど、宿題は?」
「明日までの分は八割方済ませた」
「早いな。分からないところが出て来たら、教えてもらおうっと」
 クラスが一緒なので、宿題も全く同じである。なるべく見せ合わないように
しているが、互いに協力はする。
「それよりも、残り二割をやっといてちょうだい」
「ああ。――そうだ、忘れない内に」
 担任より受け取ったプリントを取り出し、姉に見せる。
「日直のついでって感じで渡された。姉さんはもらってないだろ?」
「ええ。なになに……面談かあ。昼間は難しいから、いっそ、家庭訪問しても
らった方が早いのに」
「そうかな。母さん、家にいるときは、家事をこなしたら電池が切れたみたい
に眠ることが多いじゃん」
「逆に言えば、何かしなければならない用事があれば、起きていられるってこ
とになるじゃない」
 共働きの両親には、家にいる間はゆっくり休んでほしい。時折、子供のため
に時間を割いてくれれば充分だ。そう思っている暦は、しかし口を噤んだ。今、
姉と議論しても始まらない。
「この先二、三週間で、オフってあったっけ?」
 母は暦達がそこそこ大きくなったのを機に、仕事に復帰した。最初の頃は原
点と言えるモデルをこなして感覚を取り戻し、現在ではたまに役者の方にも手
を広げている。そして間の悪いことに、つい最近、ドラマの撮影が始まったば
かりだった。
 ちなみに二人の父親は現在、とあるエンターティナーショーに音楽担当の一
翼として駆り出されたため、しばらく帰らない。
「当然あるでしょうけれど、ああいうスケジュールって、割とフレキシブルじ
ゃない? 遅れが生じたら休みなんて潰れるし、他の俳優さん、特に大物の都
合でころっと変わることもあるし」
「うーん」
 その辺の事情は、暦もよく承知している。
「まあ、幸いというか、今度の撮影はロケにしろスタジオにしろ、割と近場だ
から、その日の撮影が急遽取りやめなんてことになれば、母さんのことだから、
学校に駆け付けるかも」
「それはそれでいやだな。心の準備ってものが」
 というよりも、先生だって当日になっていきなり行きますと言われても困る
だろう。プリントには、都合のよい日を指定してくださいとはあっても、いつ
までに指定との記述はない。とはいうものの、非常識な真似はできまい。
「とにかく、母さんにプリントを見せてみなくちゃ。メールで前もって知らせ
とく?」
「しなくていいじゃない? まさか明日ってことにはならないだろうから」
 そうして料理や宿題をしながら待っていると、予想していたよりは早く、母
が帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさい。今日は早いね」
 暦が出迎え、荷物や上着を持つ。姉の碧は台所へと走り、料理を温め始める。
「ありがとう、暦。天気がよかったし、みんな絶好調だったもの」
 母――純子は一旦部屋に引っ込み、さすがモデルと思わせる素早さで着替え
を済ませると、台所へ足を運んだ。
「お帰りなさい、お母さん。いい感じに炊けてるわ」
 碧が言ったのは、炊飯器のご飯のこと。母はやはりありがとうと言ってから、
匂いをかぐ仕種をした。
「何かこしらえた? おでんみたいな匂いがするのよね。でも、おでんじゃあ
ないような」
 これには、碧が機嫌よく、「大当たりー」と声を上げる。と同時に、鍋を傾
け、中を見せた。
「ロールキャベツね。きれいにできてる」
「テレビの料理番組を見てて、ちょうど材料があったから」
 暦にしたのと同じ説明をする碧。
「もっと小さい頃、手伝ってくれたときは、キャベツがうまく剥がせなくって、
ばりばりに破いちゃってたの、覚えてる?」
「覚えてる。あのときは、暦の方がうまかった」
「姉さん、自分の腕力を分かってないというか、結構雑なところあるから」
 台詞の途中ではたかれた。鍋つかみを填めた手だから、やけに大きく見えて、
威力も普段以上にあった気がする。
 姉弟喧嘩を始めそうな子供達に、純子が呆れ口調で言った。
「お腹空いてないの? お母さんはぺこぺこなんだけれどな」

 夕飯が終わり、後片付けも済んだところで、暦は担任からのプリントを、母
に渡した。
「――なるほど。特別扱いさせちゃった」
 申し訳なそうにつぶやく母。頬を緩めたのは、自嘲の笑みか。
「さて、どうしよう」
 スケジュール帳を取り出し、ページを繰る。
「無理なら、行かなくてもいいと思うよ。あくまで、都合のよい日があればっ
て話なんだから」
「そんなこと言って、暦も碧も、三者面談を避けたいんじゃあ……」
「違うよ」
 子供達から即答が返ってきて、嬉しそうにする。それから、視線をスケジュ
ール帳から起こした。
「実は、私が行ってみたいのかも。三者面談に、というよりも、学校にかしら。
碧や暦がいる学校ってどんなところなのか、とても興味がある」
「お母さんが昔行っていた学校と、大きな違いはないよ、多分」
「まあ、設備はハイテク化が進んでいるかもしれないけれどね」
 弟、姉の順で言った。母は帳面を閉じ、分かってないわねと言わんばかりに、
二人をまじまじと見つめる。
「見掛けだけのことを言ってるんじゃないのよ。学校ってね、あなた達が暮ら
している世界、その一部でしょ。私の知らないところで、どんなことをしてい
るのか、どんな雰囲気を味わっているのか、どんな人達と知り合って、仲よく
したり喧嘩したりしているのか。全部、興味ある」
 楽しげに語る母を目の当たりにして、暦と碧は顔を見合わせた。そしてぼそ
りとこぼす。
「とりあえず、三者面談でそこまでは分からないと思う……」
「だったら、ついでに学校見学もしちゃおうかな。そうなると、平日の授業が
ある内に行った方が――」
「授業参観はやめて〜」
 双子ならではの、声を揃えての要請。対する母の純子は、不思議そうかつ不
平そうに応じた。
「あら、何で」
「他の子の親がいないのに、一人だけ教室にいる状況を想像してみてっ」
「私は気にしないわよ」
「こっちが気にする!」
 再び、双子ならではの声のハーモニーで拒絶の意思表示。
「小学校のとき、来てくれたことあったよね。もちろん嬉しかったけれど、母
さんは目立つんだ。そこのところ自覚してくれなきゃ」
 喋りながら、既視感を覚える暦。そう、今日の帰りしな、まさしくこのプリ
ントを渡された際、螢川先生から似たようなことを言われたんだった。
「分かったわ。授業参観はよしましょう。三者面談も、なるべくおとなしい格
好で行く」
 答を返す母。やけに物分かりがいい。
「ところでお母さん、時間の都合はつくの?」
 碧が問うと、母の口調は自信ありげなそれへと変化した。何故かしら、Vサ
インを作る。
「多分、大丈夫。撮影も終盤で、天候に関わるシーンは済んでいるから、スケ
ジュールの目処は立っているのよ。拘束時間は長いけれど、私自身の出番は少
ないから、抜け出せると思う」
「抜けられるの? 監督さんはともかく、母さんより大物の人が出てるって聞
いたけど」
「何とかする。二人とも、さっきからネガティブなことを言うけれども、私に
来てほしくないのかしら」
「そんなことない。でも、先生に迷惑掛けるのも避けたい。そのためには、絶
対確実に来られる日を決めておくのが一番いいんだ」
「分かったわ。なるたけ早く、決めて知らせるから。暦と碧は、先生によろし
く言っておいてね」
 そうしてウィンクをした母。そのチャーミングな仕種に、娘と息子の不安が
鎌首をもたげた。
「先生の前では、そういうかわいらしいことしないでよ」
「え、どこかおかしかった?」
「見た目が非常識なほど若いってこと、自覚してないでしょ。せめて言動だけ
でも保護者らしくしてよね!」
「はいはい、了解したわよ。……担任の先生って、男性よね。ひょっとして、
若くて独身?」
「それ聞いてどうするっての?」
 子供達からの質問のハーモニーに、純子はただただ笑みを返した。その表情
に、暦と碧はようやく冗談だと気付くのだった。

 どこから話が漏れたのかは知らない。自分は口にした覚えがないから、先生
自身か姉さんかのどちらかなのは間違いない。
「ねえねえ、暦君。特別に三者面談があって、お母さんが呼ばれるんだって?」
 朝、登校してから同じことを何度聞かれただろう。いい加減、うんざりして
いた。休み時間なのに休めやしない。自分の席に座り、うつむいた姿勢のまま、
返事もいい加減になりがちだ。しかし、すんでのところで声の主が小倉優理で
あると気付き、慌てて顔を起こす。
「あ、ああ、そうだよ」
 口元をひとなでし、上向きカーブの笑みをなして取り繕う。
「仕事を、完全に再開したんだよね? ファッションモデルとかドラマとか」
「ああ、してる。前に言ったっけ、自分がモデルしているのは、母さんに引き
ずり込まれたせいだって」
「うん。小学生のとき、授業参観で初めて直接見て、とってもきれいな人だと
思った。あと、暦君のお家を訪ねたし、時々、雑誌の写真なんかでも見るけれ
ども、変わらないよねー」
「外見は若作りできても、心は歳を取るもんさ」
「あれがお化粧でできるなら、私も今の内に習っておきたいな」
「小倉さんはそんなことしなくたって」
「二十歳半ばを過ぎると、肌が急速に下り坂を迎えるのが実感できるんだって。
それなら対策を今から講じておいて、損はないじゃない。お化粧じゃなくても、
他に秘密があるのかも。ああ、会って話を聞いてみたい」
「……今度母さんが学校に来たとき、時間があれば会ってけば?」
 相手に横顔を向けたまま、さりげない調子で持ち掛けた(つもりの)暦。目
の動きが、もう少しで不審者のそれだ。
「いいの?」
 小倉は対照的に、両手を合わせ、びっくりした風に声を上げた。頬が赤みを
帯びたことが、傍目にもよく分かる。
「決まらない内から、あんまり喜ばないでくれよ。ひょっとしたら、土日にな
る可能性だってゼロじゃないんだし。そうなったら小倉さんだって、わざわざ
――」
「それでも会いたいな。何とかならない?」
「……じゃ、じゃあ。母さんが家にいるときに、小倉さんが来てくれるのが一
番確実性が高いと思う」
 喋っていて、「が」の連続を耳障りに感じた。言葉が普段よりもスムーズに
出て来ない。
「うん、それでもいい。ああ、楽しみができた。いい日が決まったら、すぐに
教えて」
「もちろん」
 請け合うのと同時に、チャイムが鳴った。授業が始まる。先生が教室に入っ
て来るまでに、顔を引き締めなければいけない。

 次の休み時間――昼休みになるとすぐ、姉の碧がいっしょにお昼をと誘って
きた。それも、二人だけでという条件付きだ。特に珍しいことでもないので、
深く考えずにイエスの返事をする。早速、晴天の屋外に連れ出された。校舎か
ら遠く離れた銀杏、その根本に腰を下ろす。
「小倉さんがうちに来るんだって?」
 会話が始まるなり、碧から言葉のストレートパンチ。暦はお茶を持ったまま、
気持ちのけぞった。
「誰から聞いた?」
「本人から」
「……」
 どうしてそんな流れになったんだと疑問に感じる暦。姉の言葉が続けて耳に
入ってくる。
「『私が暦君のお母さんにまた会ってみたいと言ったら、暦君が家に来てもい
いって言ってくれたんだけれど、かまわない?』って。双子の一人だけから許
可をもらっただけじゃあ、不安なのかしらね」
 小倉の声真似に関して、碧のそれは堂に入ったものである。あとの台詞は、
にやにや顔で唄うように言った。
「そ、そういうことか。――で、姉さんは何て答えた?」
「全然かまわないよって。そんなことよりも、母さんに会うのが目的なら、暦
にじゃなく、同じ女子の私に言ってくれてもいいのに、って気になって気にな
って。つい、聞き返しちゃった」
「なんつーことを……」
 暦の顔が濃くて渋いお茶を飲んだときのようになる。同時になるほどとも感
じていた。
(姉さんの疑問も尤もだ。小倉さんが姉さんを避けた? 僕の方が頼みやすい
と思われてるのか?)
「彼女の返事、気になる?」
「ま、まあね」
「小倉さんが答えて曰く――基、何も言わずに、顔を真っ赤に。そうして次の
瞬間、頬を両手で覆い、『た、ただ、何となく』と言い残し、逃げるみたいに
去って行ったのでした」
「嘘だろ?」
「ううん。半分以上、ありのまま。うーん、脈ありとは思っていたけれども、
彼女の方がこんなに積極的になるとまでは予想してなかったわ」
「――」
 頬が緩む。姉の視線を感じ、急いで引き締めた。それだけでは心許なくて、
片手で口元を隠す暦。おかげで昼食がちっとも進まない。
「姉さん」
「――うん?」
 対照的に、口をもぐもぐ動かしていた碧は、食べ物を飲み込んでから呼び掛
けに応じた。
「母さんには言わないでよ」
「え、小倉さんが来ることを?」
「違う、それは言わないと話にならない。そうじゃなくって……」
「暦が小倉さんを好きだってことなら、母さん、多分気付いているわよ」
「え」
 ころころころ……。箸先から肉団子が転がった。
(やっぱりか)

 職員室で生徒の保護者と電話をしているだけなのに、汗が噴き出した。
 急な話で申し訳ありませんと言われたが、本当に急である。焦り、慌てる螢
川だったが、教師としてそれを悟られないよう、平静を装って応じた。
「はい、もちろんかまいません。では、午後四時頃を目処に。ええ、四時きっ
かりでなくて結構ですよ。そちらのご事情は承知しているつもりですので。は
い、ではまた、はい、後ほど」
 相羽姉弟の母親との通話を終わらせると、螢川は額を手の甲で拭い、座った
まま背伸びをした。周囲を見回し、同僚の女性教師を見付ける。螢川より年上
で先輩だが、正確にいくつ上なのかは教えてもらっていない。
「砧(きぬた)先生。もう一度、例の雑誌を貸していただけますか」
「例のって、ファッション誌ですか?」
 髪をひっつめにし、化粧気もあまりない砧は、お洒落に関心がなさそうに見
られがち。だが、休日、学校外ではストレスを発散するかのように、びしっと
決めるタイプだった。螢川も二度ほど目撃して、驚かされた覚えがある。
「はい。相羽達のお母さんが今日の午後、来られることになったので、再度、
予習をしておこうと思いまして」
「予習というよりも、慣れるために、でしょう?」
「そうです」
 短く答え、口を噤む。最初に頼んだときも同じことを言い、さらに「美人に
慣れておかないと」と付け加えたところ、相手がとても不機嫌になったのを思
い出したためだ。
 砧はしょうがないわねという目付きで、螢川を見据えたあと、自身の机から
適当な物を見繕う。受け取った螢川は礼を述べ、自分の席に戻った。と、背中
に砧の声が。
「一番上の新しいやつ、グラビア雑誌だから、確か簡単なプロフィールが載っ
ていたわ。参考までに」
「はあ」
 プロフィールなんて職業と年齢ぐらいなら学校にある調査票で充分……と思
っただけで、口には出さなかった。
 一番上の雑誌を手に取り、目次に視線を落とした。ファッション誌と違い、
モデル名が記してあるのはありがたい。目的のページを探す。
「――おっと」
 覚えた顔を見付け、手を止めた。
(やっぱ、美人だよなあ。ま、化粧とか照明とかのおかげもあるだろうが、そ
れにしても。何より、若く見える)
 年齢を思うと驚かざるを得ない。高校生で通用する。
(でも、前に別の本で見た顔からは、全く異なる印象を受けたっけ。俳優の経
験もあるらしいし、これは一筋縄ではいかない予感がする。見た目にだまされ
てはいけない)
 頬を叩いて気合いを入れる螢川。
 今回の三者面談は、絶対に行わねばならない類のものではない。学業成績や
学校生活の面で、相羽姉弟に問題は特になく、むしろ優等生の部類に入る(ク
リスマスやバレンタインのようなイベントでは、多少浮つくようだが)。なの
に敢えて面談を望んだのは、やはり相羽暦と碧がモデルのアルバイトをしてい
ること、彼らの母親が芸能活動をしていることが大きい。中学生の内から芸能
界にあまり深く関わると、妙にすれた性格になるんじゃないかと危惧してい
る。できれば子供達には学業に専念させたいものだ。
(説得して翻意させる自信はないが……担任教師としての考えだけは伝えてお
くべきだな、うん)
 螢川は一つ頷くと、雑誌を閉じた。まだ授業が残っている。

 螢川は教室内と廊下との往復を繰り返していた。
 廊下に出ると、窓の向こうに目を懲らす。視線の先は校門。見やすい角度で
はないが、様子は窺える。
 教室から持ち出した椅子に腰掛けている相羽碧へと視線を移し、聞いた。
「何も連絡入ってないのか?」
「はい」
 携帯電話の画面を見やってから答える碧。そこへ、教室の中で待っていた暦
が顔を覗かせ、
「大丈夫だよ、先生」
 と平板な調子で言った。
「まだ遅刻と決まったわけじゃなし。遅刻しそうなら、必ず連絡して来ますっ
て」
「しかしだな」
 螢川は腕時計のガラス面を指先でこんこんと叩いた。約束は四時頃としたが、
今現在、四時十分を過ぎようとしている。
「四時頃といったら、五分までには着席しておいてもらいたかった」
「そういう場合は、四時五分に、と念押ししなくちゃ、先生」
 碧が分かった風な口を聞く。携帯電話を仕舞い、面白そうに螢川の様子を見
ていた。
「母は、四時五分が無理なら無理ってはっきり言うし、一度OKしたら、よほ
どのことがない限り、四時五分よりも早く着きます。四時頃なんていう漠然と
した約束だと、どうなるか分かんないわ」
「今さらそんなこと言われてもだな、四時頃という表現を最初にしたのはおま
え達のお母さんの方だし……まあいい。十五分経っても来なかったら、二人の
内どちらかが掛けてみてくれ」
「はーい」
 生徒二人が声を揃えて返事して、三十秒も経たない内に、校門前が騒がしく
なった。
「何だ」
 再び窓に近寄り、確認する螢川。校門前に停まった車に、目を見張った。
 シルバグレーのリムジンがその長い車体を横付けし、今しもドアが開こうと
いう瞬間。たまたま下校中だった生徒達も、どんな人が降りてくるのか興味津
津といった風に、遠巻きに眺めていた。
「もしかして、あれか」
 螢川は相羽姉弟を呼び寄せ、確認させた。途端に碧が額を押さえ、暦は下を
向いた。
「あんな車に見覚えはないけれど、多分、そうです……」
 暦が答える内に、運転手にドアを開けてもらって、後部座席から二人の母親
が姿を現した。
 その格好を遠目に見ただけで、碧と暦は再び頭を抱えた。
「何であんな服……!」

――つづく




#382/598 ●長編    *** コメント #381 ***
★タイトル (AZA     )  11/05/30  04:56  (384)
お題>遅刻>三者面談 (後)   寺嶋公香
★内容                                         17/05/20 21:11 修正 第3版
 校門のすぐ手前に、“赤い花”が咲いていた。薔薇色をしたドレスを着てき
たようだ。スーツ姿らしき運転手にお辞儀すると、スカートを若干持ち上げる
風につまんで、足早に校庭を横切っていく。
 ざわざわした空気がどんどん広まっているのが、校舎のここにいても充分す
ぎるほど感じ取れる。螢川はぽかんと開けていた口を意識して閉じると、暦に
聞いた。
「おまえ達のお母さんは普段、ああいう服を着ているのか。パーティに出られ
るぞ」
「……恐らく、撮影用の衣装で……着替える暇がなくて、飛んで来たんだと思
います……」
 暦の言葉に、碧もうんうんとうなずき、同意を示した。
「来るだけでも注目されてたのに、こんな派手な登場じゃあ……」
 碧が喋り終わらない内に、階段を大勢が駆け上る足音がした。音の方向を見
ると、じきにクラスメイトが、いや、クラスメイトではない生徒もいるが、と
にかく十数人の生徒が一団になって、廊下を走って来る。
「こら。おまえ達、廊下を走るな!」
 螢川の注意はかき消され、碧と暦は皆に囲まれた。「あれ、相羽達のお母さ
んだよな?」「写真以上!」「いつもあんな格好してるの?」「リムジン、お
まえのとこの車か?」等と、怒濤の如く質問やら感想やらを浴びせてくる。ま
ともに答えようとする相羽姉弟を、螢川は遮った。
「みんな、静かにしろっ。これから相羽のところのお母さんを交えて面談をす
るが、聞き耳を立てたり、覗いたりもしない。教室の前から散るように。い
いな!」
 できれば帰らせたいのだが、そこまで強制できないし、言っても無駄な気が
した。
 両手を前後に振る動作で、関係のない者達を追いやっていると、階段の方か
ら気配の変化が波のように伝わって来るのが感じ取れた。
(来た)
 生徒らが遠巻きにする風に、道を空ける。そこを、一人の女性が通って来る。
笑みを絶やさないが、少し俯きがちで目元に恥じらいが覗いているのは、薔薇
色のドレスのせいか。
 と、気付いたら、相羽姉弟が近くにいない。母親の元へ駆け寄っていた。
「ちょっと! 何でそんな格好なの、お母さん!」
「時間がないならないで、遅刻してでも大人しい格好をしてほしかった」
 左右から捲し立てられ、耳を押さえるポーズになる相羽母。
「いっぺんに喋らないで。このドレスの件は謝るから」
 そうして耳に持って行っていた両手を下ろし、子供達の前で拝み合わせる。
「ごめんね」と言いながら。
「ドレスだけじゃない。リムジンも。他に車なかったの?」
「あることはあったんだけれど、いいアイディアが浮かんだものだから、リム
ジンで……」
「いいアイディアって?」
「ロケ地で着替えている時間がなくなったから、車の中で着替えられたらいい
なと思ったのよ。リムジンなら外の視線がシャットアウトできて、中も仕切り
があるし」
「なのに、どうしてドレスのまんまなのさ」
「それが、着替えの服を持ち込むのを忘れてしまって……あは、だめね。年か
しら」
「慌て者なだけだよっ」
 碧と暦がステレオ攻撃で責めているところへ、螢川が口を挟む。
「あの、そろそろいいですか」
 ここまで丁寧に話し掛けるつもりはなかったのだが、本物のプロのモデルを
目の当たりにし、雰囲気に飲まれる螢川であった。
「はい。失礼をしました、螢川先生。この度は時間を割いていただき、ありが
とうございます」
「いえ、こちらこそ。お忙しい中、足を運んでくださって、すみません」
 へどもどしないように努めるので精一杯。とにかく教室に入ろう。野次馬の
好奇心溢れる視線を遮れるし、落ち着けるだろう。
「じゃあ、えっと暦君から。碧さんはここで待っているように。そんなに長く
掛からないはずだから」
「了解しましたー」
 碧は何故か敬礼のポーズをすると、暦に対して微笑みかけた。
 螢川は教室に相羽の母と暦を先に入れ、自分も入ると扉をしっかり閉めた。
そして、予め三者面談用に並べておいた席に、親子らを案内する。
「どうぞお座りください。このあと、お時間はよろしいでしょうか」
 資料書類に視線を落としつつ、質問すると同時に袖捲りして腕時計をちらと
見る螢川。返事がないので、訝しんで顔を起こした。
「あの、相羽さん?」
「あ、ごめんなさい。懐かしい感じがして、つい、あちこち見てしまって」
 脇を暦に肘で突かれながら、謝る母親。
(感じがいいから気にならないが、やけに馴れ馴れしいというか友達口調のよ
うな……。俺、初対面だよな、この人と)
 念のために記憶を手繰る。うん、間違いない。
「お時間、大丈夫ですね?」
「はい。このあとは何も。家に帰って、夕飯の準備をする……あっ、たまねぎ
を買わないと」
 口を手のひらで覆う相羽母。隣の暦が、黙ってメモを取った。
(何だか……子供っぽいぞ。仕種がやたらと可愛らしいし。もしかして、中学
校に足を踏み入れて、気分も若返ったとか? ただでさえ外見が若いのに。っ
て、これは関係ないか)
「それでは相羽さん。まず、お子さんの勉強のことから始めます。心配するよ
うな成績ではありませんし、特に問題はないので、ざっとさらう程度で」
「でしたら、この時間を使って、別のことを伺えないでしょうか」
「え?」
 想定外の事態に、両目をしばたたかせる螢川。このタイミングで口を挟まれ
るのが想定外なら、別のこと云々と言われるのも想定外だ。
「どういうことでしょう、相羽さん」
「この子が学校でどんな風に過ごしているのか、親としてとても興味があるん
です」
「生活態度でしたら、あとで触れるつもりですが、基本的に真面目で、私をは
じめとする教師の言うこともちゃんと聞き――」
「いやですわ、先生。違います。暦が誰とどんな遊びをし、どういう話題でお
喋りし、また、誰と喧嘩して、誰を好きなのか嫌いなのか。そういうことを私
は聞いてみたいなと」
「……ご家庭で、お子さんに直接お聞きになればよろしいのでは」
「よほど機嫌がよくない限り、まともに答えてくれませんもの。はぐらかされ
ちゃう」
「……私が把握しているのは、暦君がこの間のバレンタインデーに、たくさん
のチョコレートを受け取っていたことぐらいですね」
 ぶっきらぼうに口走った螢川に、暦から「先生、やけになってない?」と心
配げな声が掛けられた。それには応じず、教師として先に進めることに努める。
「定期考査は言うに及ばず、抜き打ちの小テストでもかなりよい点数を取って
いる。強いて言えば、国語系統あるいは英語の読解問題で、深読みしすぎる嫌
いがあって、損をする場合が見受けられます」
「大人に囲まれている時間が、他の子に比べて長いせいかしら」
 素直に聞いていた相羽母は、暦の顔を見ながらぽつりと言った。
「いえ、テスト問題の解き方に関しては、コツを掴めば分かるレベルだと思い
ますが」
 そこまで言って螢川はいいタイミングだからと、そのまま生活面の話題に移
行しようと決めた。保護者の目をじっと見て、口火を切る。
「ただ、私も芸能界に関わる親御さんと接するのは初めてです。暦君や碧さん
は、何かよくない影響を受けているかもしれません」
「それは当然です、先生」
「へ?」
「影響を受けているのは間違いありませんわ」
「そ、そう思っておられるんでしたら、この年頃の子を芸能界に接させるよう
な真似は控えた方が――」
「先生、少し勘違いなさってます。子供は悪い影響ばかりではなく、いい影響
も受けるんですよ」
「……ほう。どのようなよい影響があるんでしょう。後学のために教えてくだ
さい」
「たとえば、周りからどんな風に見られているかが、よりはっきり分かると思
うんです」
「というと?」
「価値、値打ちを決められると言えばいいかな? 周りの大人達が、暦や碧を
プロとして扱うということは、ある意味、値札を貼られるのと同じでしょう?」
「そう、なりますかね」
「今現在の自分の値打ちを知るのは、大切なことの一つだと思います。軽く扱
われれば、その程度の存在なんだと認識する」
「全部お金に換算するような考え方は――」
「そうじゃないわ、先生。お金だけじゃなくって、全てをひっくるめた価値。
もちろん、他の人には気付いてもらえていない価値もあるでしょうけれど、気
付いてもらえない自分というのが、今現在の価値」
「……分かりました。抽象的なことは、この辺りで打ち止めにしましょう。私
は悪い影響の方を心配しているんです。芸能界に詳しくはないが、場合によっ
てはスケジュールが遅れて寝不足になることもあるでしょう。大人の汚い一面
を垣間見ることもあるはずだ。普通の子なら望むべくもない誘惑も、そこここ
にあるのでは?」
「否定はしません。望むべくもないというのは言い過ぎかも」
「そういったことから、お子さんを守る必要がある。相羽さんはお母さんとし
て、具体的に行動なさってますか?」
 螢川が熱弁をふるい、真剣な眼差しを送る。相羽母は、その言葉を制するよ
うに右の手のひらを立てた。そして首を少し傾げてから応えた。
「待って、先生。前提が噛み合っていないわ。守る必要があるという点で、恐
らく私と先生とでは大きく違っているみたい」
「では守らなくていいと仰る?」
 目を剥く螢川。
「いえ、必要最小限の範囲で守ればいい。先生の話を聞いていると、一生懸命
こしらえた繊細な粘土細工を、周りにバリケードを作って見張りを立てて大事
にしている感じ。私は傷が付いてもへこたれない、強い粘土細工がいいなって
思う。そして、もしも大きく傷ついたときには、じっくり直せるように力にな
るのよ。それで以前より強くなってくれたら、いいと思いません?」
 笑みと共に嬉しそうに話す相羽母に、螢川はほんのわずかだが気圧された。
頭を振り、議論を続ける。そう、議論になっていた。
「お考えが間違っているとは申しません。だが、あなたのお子さん二人は、中
学生なんですよ。まだ大人の、親の庇護が必要だ」
「ですから、不要とは言ってません。過保護はためにならないのじゃないかと」
「普通のご家庭なら同意しますが、相羽さんのところは特殊な世界と関係して
いる。その自覚を持っていただきたいんです」
「特殊かどうか別として、仮に普通よりも厳しい世界であるなら、なおさら、
傷に強くなるよう育てなくちゃ。違います?」
 担任と親とのやり取りを聞きながら、そして目の当たりにしながら、暦はは
らはらしていた。母が普段時折見せるような子供っぽい言動を危惧していたの
だが、こんな風に考えていてくれたと分かって感心、もっと言えば少なからず
感動していた。一方で螢川先生の考え方も分かるから、どちらにも味方できな
い。
(誰か助けてほしい……)
 その思いが通じたか、次の瞬間、教室の戸ががらりと音を立てた。三人の視
線が集まる。戸を開けたのは、暦の姉の相羽碧だった。
「先生、やっぱり長引きそう? だったら、私も一緒にいた方がよくない?」
「……そうだな、成績についてはほとんど言うことないし……」
 予定通りにこのあと生徒を交代させ、また一から面談を始めても、確実に同
じ議論の繰り返しになるだろう。そんな読みから、螢川は相羽碧を招き入れた。
椅子を用意させ、相羽母の隣――暦とは反対側の――に座るよう促す。
「最初に確かめたいんだけれど、君はこれまでの話を廊下で聞いていたか?」
 螢川は碧に尋ねた。揃えた膝の上に手を置いた姿勢の彼女は、こくりと頷い
た。
「聞いていたっていうより、聞こえちゃった感じ。だって、議論が白熱して、
声も段々大きくなるんだもん」
「そうか。なら、話が早い。――相羽さん、先ほどの続きはまた後日、次の機
会にということにしませんか」
「後日っていつ?」
 ストレートに聞かれ、返事に窮する螢川。目にも露わに、うっ、と絶句して
しまった。相羽純子はかすかに笑った。
「自分で言うのも何ですけど、ここ最近は忙しい日が続いています。先生の仰
る次の機会となると、だいぶ先になりそう」
「……あなたは私を困らせようとして言っていませんか」
「いいえ。議論を続けたいわけじゃないですわ。先生、面談を続けましょ。学
校での碧についても、教えていただきたいことがたくさんありますから」
「……この子が誰を好きで誰が嫌いかという話なら、関知していません。たと
え知り得る状況になったとしても、ことさら知ろうとしなくていいでしょう。
子供でもプライバシーは尊重すべきだ」
「そう? ううん、プライバシーの点は賛成。でも、クラスの生徒の誰と誰と
が仲良しで、誰と誰とは仲が悪いかは、担任の先生が少しでも知っておいてほ
しい。保護者には分からないことだわ」
「それぐらいなら承知しているつもりです。相羽さんが仰ったのは、恋愛感情
に重点を置いたように聞こえたから……」
「ごめんなさい」
 己の声に愚痴っぽさと言い訳がましさを自覚していた螢川は、不意に謝られ
て目を丸くした。相手を見やると、少しだけ俯いた相羽母が、ため息混じりに
喋っていた。
「言い方が悪かったのね。気を付けているのだけれど、まだまだ充分じゃない
みたい」
「いえ。こちらも早とちりをしました」
 軽くではあるが頭を下げた螢川。そこへ、暦が口元に手のひらをあてがい、
ひそひそ話をするような格好で告げてくる。
「先生。母は女優なんだから。言うこと全部鵜呑みにしてると……」
 その言葉に螢川は、真向かいの“女優”をまじまじと見返した。相手は、息
子の声をしっかり聞き取ったようで、暦の頭を乱暴に撫でつつ、「ややこしく
なるようなこと言わないのっ」と注意する。
「……それでですね、お母さん」
「はい」
「そちらのご要望は、全て考えておきますから、今はこちらの話に耳を傾けて
ください。お願いします」
「……分かりました」
 言いたいことは色々ある、そんな態度を隠さない純子だったが、両サイドか
ら子供につつかれたせいもあり、頷いた。螢川は軽く安堵した。正直、疲れた。
要点だけを伝えるとしよう。
「入学時に認められたことですし、お子さん達のアルバイトを今さら辞めてく
ださいとは言いません。セーブする方向で考えていただきたい。理由の一つは
さっき申し上げた、お子さん達への影響。これには心理的なものだけでなく、
物理的に時間を取られるというのもありますし。それともう一つは、クラスメ
イトへの影響です。この年頃の子達にとって、芸能界に通じた同級生がいれば、
大なり小なり影響を受けて、浮つくことが多くなるかもしれない」
「あの、いいですか」
 一応、遠慮がちに片手を挙げる純子。螢川は「少しだけなら」と釘を刺しつ
つ、認めた。
「螢川先生のクラスが他のクラスと比べて、明らかに浮ついているという結果
が出ているのでしょうか?」
「いえ、それはありませんよ」
「では、これまでに受け持ってこられたクラスと比べると、今のクラスは浮つ
いている?」
「いいえ。実は、自分はクラスを受け持つのは初めてでして……」
「じゃあ、おかしいわ。根拠なしに浮ついていると言われても」
 螢川は言葉に詰まった。
(小さな頃からモデルをやってるような女が、こういう理詰めで来るなんて予
想外……。いや、これは偏見だった。それに、俺は確かに感覚だけで言ってい
た。最低限、担任経験豊富な先生の意見を聞いてからにすべきだった)
 心の中で猛省する。尤も、反省はあくまで心中だけのもので、顔には出さな
い。教師の体面がある。
「と、とにかくですね。人生で中学校は一度しかないんですから、お子さんに
は中学生の生活ももっと体験させてあげた方がいい。私はそう考えています」
「――ええ。賛成」
 一瞬、びっくりしたように口をすぼめた相羽母は、次にはほころぶ花のごと
く笑った。
 螢川の方も驚いていた。半ば苦し紛れでつないだ言葉に、あっさり「賛成」
と言われて。
(何なんだ、この人は)
 困らせるようなことを言うかと思えば、この態度。よく分からない。
「勉強に関しては、もう言いません。二人には次のテストでまた結果を出して
もらえると期待しています。これで今日は終わりにしましょう」
 資料を立て、机にとんとんと打ち付けて揃える。ほとんど活用できなかった
なあ、とため息がこぼれた。
「ありがとうございました」
 母親の声と、子供二人のほっとした響きの声がほぼ一つになって聞こえた。
 続いて、相羽純子が螢川の顔を覗き込むようにしながら言った。
「お疲れ様。顔に出ているわ」
「――確かに疲れました」
 真顔で答える螢川に、相手は困ったような笑顔で応じた。
「これからもよろしくお願いします」
「もちろんですとも」

 日曜の午後、螢川は自宅近くの川に繰り出し、釣りに興じていた。時間をや
り繰りしてまで打ち込む趣味ではあるが、実のところ、釣果を上げることに血
眼になるタイプではない。のんびりした時間を味わうことを優先させる。
 三学期は定期考査が始まると、あとは矢継ぎ早に行事が続くし、採点だの成
績だのをつけるのに超多忙となる。その前にこうして休みを満喫できるのは、
本当に貴重だ。
(その貴重な時間を、こんな形で乱されるとはついていない)
 川面に垂らした釣り糸の先、ゆらめく浮きから視線を外し、川上に目をやる。
 一時間ほど前に何やら集団が車数台で乗り付け、がやがややっているなと思
ったら、カメラを回し始めた。映画かドラマの撮影らしかった。
 魚を釣り上げることに眼目がないとは言え、断続的に大きな声や物音が轟き、
耳障りに感じる。かといって、先に着いていた自分が腰を上げ、場所を変える
のもばからしい。
(ま、たまにはこんな経験もよかろう。腹を立てても仕方がない。幸い、こち
ら側にレンズを向けることはないようだから、勝手気ままに振る舞える)
 そんな風に考えた矢先、撮影している集団から、「二十分間の休憩に入りま
ーす!」という声が聞こえた。現場の空気が弛緩する様が、螢川のいる位置か
らでも何とはなしに感じ取れた。
 携帯電話を取り出して時刻を確認すると、二時前だった。
(テレビ業界ってのはスケジュール変更がよくあるイメージだな。この休憩も
昼食なんだろうか。二十分じゃ厳しいか)
 川上をぼんやりと見つめながら考えていると、撮影隊を離れた一人が、こち
らに向かって来るのに気付いた。
(まさか、撮影の邪魔になるからどいてくれと言いに来たんじゃないだろうな。
……いや、それはないか。スタッフにしては衣装がぱりっとしているし、顔立
ちだって――あ)
 螢川は実際に「あ」と声を出していた。釣り竿を落とさぬよう、握り直しつ
つ、こちらへ歩いてくる女性の顔かたちを、しかと認識した。
「ああ、やっぱり。螢川先生、こんにちは」
 まだ三十メートルほど離れていたが、相羽純子はそう言って微笑んだ。
 螢川は半開きにしていた口を閉ざすと、釣り竿を置いて立ち上がった。そし
て意外さのあまり愚問を投げ掛けてしまった。
「相羽さん、何をしているんです?」
「え? テレビドラマの撮影よ。ああ、私は撮られる方で、撮影しているのは
皆さんだけれど」
 そばまで来て立ち止まると、彼女は片腕を開くようにして撮影隊のいる方を
示した。
「そうでしたか。その、さっき、『やっぱり』とか仰っていたが、気付いてい
たんで?」
「はい。私、視力はいいんですよ。うちの子達から、担任の先生の趣味が釣り
だという話も聞いていましたしね。人影に見覚えがあると感じて」
「なるほど」
「釣りの邪魔をしてすみません。見てもかまいません?」
「別にかまいませんが、さっぱり釣れません」
 スカートの裾を両手で織り込みながらしゃがんだ純子は、ライトグリーンの
小さなバケツを覗いて、「あら」と呟いた。
「私達が邪魔したせい?」
「さあ、どうでしょう。撮影が始まる前から、こんな調子だったからなあ。尤
も、釣れたとしても、帰るときには川に返すんですが」
 答えてから、ちょっと言い訳がましいかと後悔する螢川。その気分を払拭し
ようと、話題を転じる。
「今撮影しているドラマは、この間のときと同じですか」
「この間って、三者面談の日の? ええ、おんなじ」
「結構、日数が掛かるもんなんですねえ、撮影」
 再び釣りを始めながら、当たり障りのない受け答えをしておく。
 隣の純子は、少しだけ舌先を覗かせた。
「掛かりますよー。今日のは私のせいなんです。早朝からの撮影に大幅に遅れ
てしまったことがあって。スケジュールが押して、はみ出た分が今日の撮影に」
「ふうん。面談のときみたいに遅刻したと」
 冗談口調で嫌味を言った直後、螢川はふと思い当たった。
「早朝の撮影に遅れたって、もしかすると、バレンタインデーの二日ぐらい前
のことでしょうか?」
「凄い、どうしてお分かりに?」
 両手を合わせ、目を輝かせる純子。螢川は頭を掻いた。
「全然凄くありませんよ。お子さんが――碧さんが休んだ日だ。知っていれば、
誰にでも察しが付く」
「なぁんだ」
「でも、驚きました。てっきり、子供の家庭での世話は、家政婦か誰かに任せ
ているのかと」
「そんなの、ごく一部の“スター”だけ。スターでもご自分で子育てされる方
はいます」
「面談のとき、あなたは放任主義なのかと思ったもので」
「子育てに限らず、自分のやり方や考え方を分類しようなんて思ったことない
から、分からないわ。放任主義イコールほったらかしにする、ではないんなら、
ちょっと当てはまるかも。子供達には自由にさせたいじゃない?」
「相羽さんならそうでしょうね。分かります」
「あ、ごめんなさい。折角の休日に、仕事を思い出させるような話をして」
「かまいやしません。常に頭の片隅にあるようなもんだから」
 浮きが動いたような気がして、引いてみたが、手応えはなかった。改めて釣
り竿を振る。
「先生。私が小さな頃、どんな生徒だったか想像できます?」
「え? これはまた意表を突く問いだな。確か、今のお子さん達と同様、モデ
ルや何やらをされていたですよね。だったら、遅刻や早退が多くて、成績もよ
くなかったんじゃ? だから二の舞を舞わせないよう、暦君や碧さんを躾けて
いる……」
「惜しい。遅刻や早退はあったけど、成績はよかったんですよ、これでも。先
生方に言わせると、問題のある優等生だって。厄介な、だったかしら」
「自分で言わないでください」
「ふふふ、そうよね」
「ま、充実していたのは分かるような気がします。今のあなたを見ていると、
自信満々だ。お子さん達が同じ道を歩んでも、自信を持ってサポートしている。
羨ましくなりますよ。こっちは担任一年目で、それまでやっとこさ築いた自信
が、揺らぎかけている有様だというのに」
 生徒の保護者の前で愚痴をこぼすのはいかん。分かっていても、つい、やっ
てしまった。そうと気付いて、片手で頭を抱える螢川だった。
「私が言うのもおかしいですけど、自信を持って前に進めばいいんじゃありま
せん? 先生と私とでは考え方に少しずれはあるけれど、どちらも間違ってい
ないと思う」
「保護者の方にそう言ってもらえるのは、とてもありがたいな。肩の荷が軽く
なる。――そうだ、あの面談以降、生徒を別の観点からも見るようになりまし
たよ。誰が好きで誰が嫌いか、とか。もちろん、気付く範囲で、ですが」
「私のような親なんかの影響を受けたんだ」
 くすっと笑い声を忍ばせる相羽純子に対し、螢川は唇を尖らせた。
「笑わないでください。おかげで暦君が誰を好きなのか、分かった気がしたん
ですが、教えるのはよしましょうか」
「えっ、ほんと? 教えて」
 風を起こす勢いで振り向いた純子。女子生徒みたいに、好奇心に溢れている
表情がそこにある。
 螢川はもったいぶるかどうか迷ったが、さっさと話すことにした。休憩時間
は残りわずかだろう。
「多分、確実と思うんですが、当人達はばれていないつもりかもしれないので、
他言無用でお願いします。同じクラスの小倉という女子と、多分、相思相愛じ
ゃないかな」
 螢川は、どうです?とばかりに相手の顔を見た。感心するか驚くか、そんな
反応を期待していたのだ。が、肩透かしを食らわされた。
「小倉って、小倉優理さんのことね?」
 弾んだ声で念押しされて、「え、あ、そうですが」と認める。
 すると、モデルにして俳優にして二人の中学生の母親であるこの女性は、満
足げに頬を緩めた。
「よくできました」

――『そばにいるだけで番外編 〜 三者面談 〜 』おわり




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