#350/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 09/11/30 00:51 (287)
お題>嘘のない世界 1 永山
★内容 18/07/09 10:18 修正 第2版
木でできたベッドに、丸太を組んだ壁。一夜明けて目が覚めても、周囲の光
景は前日と同じだった。夢ではなかったようだ。
うたた寝をしたのがよくなかったのか、昨日の昼過ぎから、妙な世界に迷い
込んでいる。ラウデソンさんによると、ここは嘘のない世界だという。誰も嘘
をつかない、つけない。それが当たり前の世界。大昔はこの世界の人々も嘘を
言えたらしく、概念としての嘘は存在する。嘘をつかないのは、倫理的に潔癖
だとか、正直者ばかりが揃っているとか、そんな訳ではなく、ここの摂理だと
いうことである。
と言われても、私には確認する術がない。それに、私自身はこの世界にいる
今も嘘をつける。私の職業は探偵なのだが、未知の土地にいきなり飛ばされた
だけでも途方に暮れているのに、その上、ここの西洋風の人達に胡散臭がられ
てはまずいと考え、旅行雑誌の記者だと名乗ったのだ。
ただ、常識を越えた世界に来たことだけは分かる。私は日本語を喋り、彼ら
彼女らはどこの国のものともしれぬ言葉を喋るのに、お互いに理解し、会話が
完全に成り立っているのだから。
「キムラさん。朝食の準備ができました。そろそろ起きませんか」
ラウデソン夫人のマルシャさんの声が、ドアの向こうから聞こえた。この辺
には宿屋がなくてお困りでしょうと、彼ら夫婦は私に泊まっていくよう勧めて
くれた。大変ありがたく、どんなに感謝しても感謝しきれない。
私は今行きますと返事をしたあと、急いで身支度をし、髪を手でなでつけて
から廊下に出た。
さて。
そんな感謝している相手に、こんなことを尋ねるのは忍びなく、申し訳ない
のだが、昨夜、眠りに就く前に思い付いた質問をしてみたい。嘘をつかない・
つけないというのが、真実なのかどうかを確かめるために。
「いくつか質問をさせてください。あなた方のプライバシーに関わることです
が、よろしいですか?」
「かまわんよ」
ラウデソンさんは席にゆったりと腰掛け、コーヒー(らしき物)の入ったカ
ップを口元に運ぶ。その顎髭に埋もれるような人のよい笑顔を歪ませるような
真似はしたくないのだが、仕方がない。たとえこれで怒りを買って、追い出さ
れたとしても、悪いのは自分だと納得できる。
「気分を害されたら、謝ります」
「前置きはいいから、早く質問とやらをどうぞ」
「では……」
言い掛けたものの、切り出しにくい。元いた世界に戻る方法が分からない内
は、余計なことはせず、逗留させてもらう方が賢明だろうか。
私のそんな困惑顔を目の当たりにしてか、ラウデソンさんがにやにやし始め
た。視線を合わせると、弁解する風に答えてくれる。
「いや、こいつは失礼をした。どんな質問をお考えになっているんだろうと想
像すると、つい。嘘を言えないと確認するには、やっぱり、我が家の財産か、
でなければ性的なことかね?」
「え、ええ、まあ……」
図星をさされ、驚くよりも恐縮してしまう。
「実は、あなたのように別の世界から来る人は、あなたが初めてじゃあないん
だよ」
「ええ?」
「聞かれなかったので黙っていたんだがね。私が知る限り、この近隣だけでも
十人以上いたなあ」
「その人達はどこに?」
私は気負い込んで聞いた。みんなで情報を持ち合えば、異世界に来てしまっ
た理由が分かるかもしれない。あるいはすでに分かっているのなら、教えても
らいたい。
「もう誰もいやせんよ。元いた世界に戻れたんだろう」
「だろう、ということは……」
「ある日突然、姿が見えなくなったものでな。こちらにいる我々としちゃ、戻
ったと推測するほかない訳だ」
「そうでしたか。じゃあ、その人達は何日ぐらい、こちらにいたのでしょうか」
戻れるらしいと分かって安心したのも束の間、それが十年も二十年も先の話
では困る。
「みんなばらばらだったな。ざっと、十五日前後からひと月。一番長かった人
でも、三ヶ月ほどだった」
「三ヶ月……。あ、こちらの世界で、ひと月は何日間なんです?」
「ん? ああ、そうか。キムラさんのとこが何日か知らないが、こちらでは三
十四日が基本で、三十三日の月もある」
「なるほど」
およそ百日後と思っておけばよさそうだ。無論、厳密に言えば一日が何時間
に当たるのか、そもそも一秒が私の知る一秒と同じ長さなのかを知らねば、時
の流れの感覚は掴めない。携帯電話を持つようになってから腕時計をしなくな
ったし、その携帯電話は活用を思い付いたときには使えなくなっていた。まあ、
ここに着いてから今までの実感や、今朝起きたときの目覚めのよさ、日に食事
が三度あるという生活習慣などから考えても、大差なしと捉えて大丈夫そうで
ある。
「それで? キムラさんはどんな質問で、私達が嘘つきか否かを判定するつも
りでしたかな」
ああ、すっかり忘れていた。
「やっぱりよします。今しなくても、こちらで数ヶ月暮らす内に、自ずと明ら
かになるでしょうから」
異世界に来てから十日間が経過した。私は厚意に甘え、ラウデソン夫妻にお
世話になりっ放しでいた。こっちの世界の人達全員がそうなのか、ラウデソン
夫妻が特別に親切で優しいのか、それは分からない。とにかく、彼らはよくし
てくれる。
居候を決め込み、ただで食事と寝床を得るのは、楽だが本意でない。私は何
かの形で恩返しをしたいと考えていた。具体的には、働いて稼いだお金で返す
ぐらいしかなさそうだ。最初の戸惑いから来る心身のダメージは回復し、ラウ
デソンさん以外の町の人達にも顔と名前を知ってもらい、ようやく馴染んでき
た(そして、確かにここの人達は誰も嘘をつかない。少なくとも今までは)。
そろそろ動くべきタイミングだろう。
決心したはいいが、私に何ができるかとなると、些か心許ない。どうやら私
は、この世界の言葉を理解し、文字を読むこともできるが、書く行為だけは練
習しないと身に付かないらしい。これでは事務仕事は難しそうだ。探偵を本職
とするからには、人並み以上の体力や持久力はあるつもりだから、力仕事なら
どうにかなる。だが、根本的な問題として、町に仕事が溢れている状況ではな
く、近くに工場の類がある訳でもない。
結局、ラウデソン夫妻に相談するしかなかった。
「何だ、そんなことなら、うちの畑仕事を手伝ってくれればいい」
夫妻は農業をやっている。根菜が主のようだ。大根ぐらい大きな人参や、鮮
やかな黄色をしたさつまいもと、元いた世界では見られない物ばかり。あとは
果樹が少し。こちらの方は、とても美味しい桃が採れるらしい。実りの時季で
ないため、まだ味わえないのが残念。
「息子が独立してからは、妻と二人でやって来たが、ぼちぼち下り坂に差し掛
かった気がしないでもないしな」
太い腕をした主人は冗談めかして言った。髪に白い物が混じってはいるが、
肉体にはまだまだ力と元気が漲っている。少なくとも農作業に関しては、私の
倍は仕事をこなすに違いない。
「しかし、それではかえって足を引っ張りかねません。お手伝いはしますが、
他に何かをしたいと思いまして」
「うーん、そうさな。あっちの世界から来た人なら、あれを持ってるんじゃな
いかな」
「あれとは」
「写真機だよ。あれはこちらの世界にはないんだ」
「ああ……」
私は妙に合点が行った。
こちらの世界の文明は、私が元いた世界よりも若干遅れている。およそ四十
年ほどだろう。分野ごとに大きな差はなく、万遍なく追走している感じだ。た
だし一点だけ、完全に進歩を止めていると思えるのが、物を写し取る技術。カ
メラの類が一切ない。映画やテレビも当然ない。日常の娯楽はラジオが主役で
ある。こちらに来た当初、新聞にテレビ欄がなくて不思議だった。
「カメラなら持っていますが、それをどうしろと」
携帯電話は充電器をなくしたため、早々に使い物にならなくなったが、カメ
ラはよくあるデジタルを一台、万年筆型をした小型カメラを常時身に着けてい
る。探偵の七つ道具の一つ、といったところか。
「写真は鏡を切り取ったみたいで、受けるんだ。商売になると思うんだが、ど
うかね」
「ええっと」
私は考えながら答える。
「ラウデソンさんがご覧になったことのあるカメラは違ったのかもしれません
が、自分の持っているカメラは、専用の機械がないと写真を一枚一枚取り出せ
ないんです」
「かまわんよ。ちっこい窓枠みたいなところに写真を表示できるんだろう?
そいつを見せるだけでも喜ぶ」
そんなことでお金を取っては悪い気がする。いくらにすれば妥当なのか、相
場も分からない。とはいえ、いつまでも足踏みをしている訳にも行かない。値
段設定のアドバイスをもらい、私は早速写真屋を開いた。
「毎度ありがとうございます。またのご利用を。足下、お気を付けて」
二度目になる町の人を笑顔で見送ったあと、受け取った硬貨を右手に持った
布袋の中に落とし込んだ。重みを感じる。左手にはまだ、もうすぐ三時だから
と渡された菓子が残っていた。
写真屋はそれなりに繁昌していた。ここの人達は、映った姿を見るだけで大
喜びしてくれる。雨上がりで地面がぬかるんでいても、わざわざ足を運ぶほど、
気に入ってくれている人さえいる。
無論、この人気は長く続くまい。近い将来、頭打ちになるのは分かり切って
いる。いつ元の世界に戻れるか分からないことでもあるし、もっと短期間でも
う少しまとまった稼ぎが欲しい。
いっそ、私もここの人達を見習って、嘘をやめようか。正直に職業を打ち明
け、探偵として看板を掲げれば多少は……いや、だめか。この町の規模なら、
依頼があるとしても浮気調査か泥棒ぐらいだろう。でも、この世界の人達は嘘
をつけないのだから、浮気調査なんて必要がない。泥棒などの犯罪にしたって、
一人一人を問い質せば確実に犯人を見つけられる。
この世界では、事件が起きても、警察がほとんどルーチンワークで処理して
事足りる。探偵は不要な存在なのだ。そう思うと、少し寂しい気がする。
詮無きことで物思いに耽っていると、外が騒がしくなった。遠くから聞こえ
ていた声が、段々近付いてくる。声の主がラウデソン家の前を通過する頃、や
っとその内容を把握できた。
「シリンガムのじいさんが亡くなった! 殺されたのかもしれんそうだ!」
――やはり、殺人事件は珍しいとみえる。
往来に出て、様子を窺ってみる。興味はあったが、野次馬根性を面に出して
見に行くのには躊躇を覚えた。私はこちらの世界では、異人種なのだ。まだま
だ馴染めていない現在、目立つ振る舞いは避けた方が賢明かもしれない。
と考えていた矢先、泥を跳ね上げながら駆けてくる制服警官の姿を視界に捉
えた。こちらの世界に来て、真っ先に事情聴取を受けたが、そのときの若い男
と同じ人物のようだ。通り過ぎるものと思っていたが、さにあらず。私に声を
掛けてきた。
「おー、キムラさん。いたいた。いてくれてよかった」
「な、何でしょう?」
笑顔を見せてはいるが、殺人事件が起きた直後に警官から呼ばれるのは、あ
まりよい気持ちはしない。
「あんた、写真屋を始めたんだってな」
「え、ええ。ラウデソンさんの家で……」
「写真機を持って、来てくれ。スケッチするよりもずっと早いだろう?」
「何のことです?」
腕を引っ張られ、たたらを踏みそうになる。警官は分かり切ったことを聞き
返されたという風に、目を丸くした。それでも教えてくれた。
「現場のスケッチだよ。現場の様子を絵に描くのは、毎度大仕事なんだ」
そうか。言われてみれば、カメラがあるとないとでは、大違いだ。
「容疑者さえ絞り込めば楽に片付くんだが、それまでは念のため、色々と記録
しておかなきゃならん訳だ」
「分かりました。でも、民間人の私が関わっていいんですか。カメラを貸しま
すから、ご自分で撮れば済む」
「万が一、使い方を誤ったらまずい。あんたは嘘をつけるようだが、こっちに
来たばかりのあんたが、シリンガムのじいさんと殺す殺されるの関係になるは
ずがないから、信用しているよ」
「はあ」
こうして予想外の形で事件に関わることになった。
事件の舞台となったシリンガム家は、ラウデソンさんの家から徒歩で十五分
ほどの距離にあった。赤い規制ロープを通され、門扉をくぐると、敷地内には
母屋と離れ、そして何かの工房らしき建物があった。捜査を取り仕切るらしい
私服の刑事――シャルオン・メル刑事に紹介されたあと、離れの方向へ連れて
行かれる。
「指示するから、その通りに写真にしてください」
メル刑事は丁寧な物腰で頼んできた。撮影という単語はないものとみえる。
まず、建物の全景を収めたあと、足跡を撮影した。ぬかるんだ地面に、他と
違って乾き始めた足跡が残っており、母屋との間を往復していた。そこを重点
的に撮るように言われた。
「第一発見者の足跡ですか」
シャッターを切りながら、つい尋ねてしまう。これは余計な口を聞いたかと
はっとなったが、メル刑事は簡単に「ええ、そうです」と答えてくれた。これ
も嘘をつけないせいだろうか。
「これから離れの中に入りますが……キムラさん、殺人現場は初めてで?」
「いえ、何度か」
相手の親切な対応につられ、私も正直に答えていた。
「それなら大丈夫かな。尤も、頭部を切断されているのは、刺激が強いと思い
ますが」
「平気です」
そんな残虐な犯行とは知らなかった。だが、ここは多少無理してでも、捜査
の様子を知っておきたい。これが探偵の“さが”か。
中は仕切りがなく、一部屋のみの造りになっていた。万年床を脇に、悠々自
適の日々を送っていたのだろうか。遺体はまだ搬出されておらず、切断面の様
子や血の飛散具合などを撮影するよう指示された。断面を恐々見ると、喉元か
ら斜め上方向に切ったのが分かり、犯人は竹槍でもこしらえたかったのか?と
妙な感想を抱いた。
「あと、これも。切断した凶器と思われます」
床に転がる鋸を示す刑事。私は焦点を合わせ、シャッターを切る。
こんな具合に現場写真を撮る間、メル刑事は事件の背景を話してくれた。
シリンガムのじいさんことコルト・シリンガムは、齢八十近い痩せた人で、
年中何らかの小さな病気を持っているような状態だったらしい。シリンガム家
は亡くなったコルトを含め、六人家族。コルトの一人息子、バンド・シリンガ
ムと妻のエリンケの間にまだ成人に達しない三人の子供がいる。代々染色を稼
業としているが、ここ数年は新技術の登場で売上げは激しく落ち込んでいた。
コルトは普段から離れに住んでいた。第一発見者はバンドで、昼食ができた
ので呼びに行ったところ、惨状を目の当たりにした。現時点で死因は判明して
いないが、首の切断は死後行われたとの見立てだという。
「凶器の鋸は、シリンガム老は日曜大工に凝り始めていて、元から離れに置い
てあったという話です」
なるほど。他にも板切れやハンマー、様々なサイズの釘に荒縄などが転がっ
ている。
とにもかくにも、言われた写真は全て撮り終えた。カメラの画面を覗かせる
と、相手は感心かつ満足したように頷いた。
「こいつは素晴らしい。ご協力をありがとうございます、キムラさん。それに
しても随分と興味関心を持っておられるようですが、キムラさんの世界では、
こちら以上に殺人が珍しいんですかね」
「殺人の起きる頻度に関しては、何とも言えませんが……まあ、記者をやって
いると、警察や探偵の真似事もたまにする訳でして」
つまらないことでも嘘をついていると後ろめたく、口調も言い訳がましくな
る。私は早口で言葉を足した。
「こちらではじきに解決するんでしょうね。嘘をつけないのだから」
「多分。希に、だんまりを決め込む輩もいるが、それは要するに口を開くと真
実を言わざるを得ないから黙秘していると解釈されます。悪あがきですね」
そうか、黙っているという選択肢もあるんだな。刑事の言う通り、真に犯人
なら無駄な抵抗だが。
「容疑者は挙がっているのでしょうか。差し支えがなければ……」
率直に質問する。実は、さっきメル刑事の話を聞いて、引っ掛かった点が一
つあった。
「まだ始めたばかりですから。とりあえず、家族全員に詳しく話を聞くつもり
ですよ。まずは死亡時刻の絞り込みをして――」
「家族一人一人に、『あなたが殺したのか?』と尋問するようなことはないん
ですか」
この質問に、メル刑事は少し笑い声を立てた。
「今は無理です。キムラさんがご存知ないのも無理ありませんが、こちらの世
界では、我々警察は疑う根拠なしにその手の質問を関係者にすることは、禁じ
られていましてね。端から質問できれば、楽に終わることも多いんだが、ルー
ルはルール。守らねばなりません」
被疑者の人権、いや、関係者の人権を守るためという観点から、そうなって
いるらしい。私は引っ掛かっていた点をぶつけてみることにした。
「メル刑事。気付いていると思いますが、第一発見者の証言は不自然ですよね。
そのことをもって、『あなたが殺したのか?』と尋問するのはありなんじゃな
いでしょうか」
「うーん。あいにく、次から次に入ってくる情報の整理に忙しく、あなたが何
を示唆しているのか……ああ、分かりました。第一発見者のバンド・シリンガ
ムは、食事ができたのでシリンガム老を呼びに行った。ところが、警察への通
報は午後二時半頃。遅めの昼食だったとしても、通報が一時間は遅れているこ
とになる――ですね?」
「ええ、その通りです」
こちらの世界でも一日は二十四時間であり、食事は日に三度。昼食は正午過
ぎに摂るのが一般的な習慣だ。
「バンド・シリンガム氏を怪しむに足る、充分な理由になるのではありません
か」
「まあ、そうなりますね。遺体を正午過ぎに見つけたのは間違いないでしょう
から、そのあと、一時間ほどを何に使ったのか……」
遺体発見が午後二時辺りというケースを考慮しなくていいのか。内心、そん
な疑問が浮かんだが、声にする前に自己解決した。ここの世界の人は嘘をつけ
ないのだから、食事に呼びに行った際に遺体を見つけたことは、事実と判断し
ていいのだ。
「早速、確かめるとしましょう。さすがにキムラさんをご同席させる訳に行き
ませんが、あしからず。あとで――数日後になるかもしれませんが、お知らせ
すると約束します」
「あの、このカメラはどうしましょう? 警察で保管、とか?」
「そうですね。分からない連中が触って、証拠写真を台無しにしても困ります。
できれば、あなたが厳重に保管してくださると助かります」
そんなことでいいのだろうか。彼らには扱えないカメラではあるが、捜査資
料だ。場合によっては、重要な証拠にもなろう。民間人どころか異世界人であ
る私に、証拠の保管を頼むなんて。
――続く
#351/598 ●長編 *** コメント #350 ***
★タイトル (AZA ) 09/11/30 00:52 (243)
お題>嘘のない世界 2 永山
★内容
メル刑事は数日後になるかもと言っていたが、実際には翌日の朝になった。
捜査の成り行きを頭の片隅で気にしつつ、今日も写真屋を始めるか、いや、あ
のカメラには触らないようにすべきかな等と迷っていると、顔馴染みになった
制服警官が現れたのだ。
「おー、ちょうどよかった。キムラさん、おはようさん。今日も商売ですかな」
「あ、おはようございます。ええっと……?」
「本官の名前だったら、ヘンデルス。ゾーン・ヘンデルス」
「ヘンデルスさん、おはようございます。写真屋は、今日はどうしようかと迷
っていたところでして」
「だったら、話す時間はあるってことだ。メル刑事からの言伝を預かってきた」
「随分早いですね。ひょっとすると、一発で解決しましたか」
「いや、それが……」
ばつの悪そうな顔をなす。不可解な振る舞いをしていたバンド・シリンガム
だが、殺人犯ではなかったのだろうか。私がその思い付きを口にすると、ヘン
デルスは「正にその通り」と認めた。
「コルト・シリンガムを殺害したのはおまえかと、バンド・シリンガムを問い
質すと、沈黙を挟むことなく、違うと答えたんだ」
「メル刑事は次に当然、空白の時間に関して尋問したんでしょうね?」
「いや、それは後回しだ。メル刑事が先に考えたのは、バンドが家族の誰かを
庇っている可能性だった。そこで、コルトを殺したのはおまえの家族の誰かか
と聞いた。すると奴は、これまたいいえと答えた」
「沈黙でもなく、『知らない』でもなく、きっぱりと否定したんですね」
「ああ。このあと、あんたがさっき言った通報の遅れについて、問い質した。
これには最初、だんまりだった。だが、なだめすかして繰り返し尋ねる内に、
少し喋らせることができたんだ。コルト・シリンガムの遺体に何らかの手を加
えたかという質問に対し、肯定の返事を引き出せた」
「それってもしかすると、いや、恐らく、首を切断した……」
親の首を鋸で切るなんて、あるのか。信じ難いが、そう考えるのが一番筋道
が通る。
「メル刑事もそう考え、重ねて問い質した。バンドは黙秘しようとしたようだ
ったが、結局、口を割ったよ。殺したのはバンドじゃないが、首の切断はあい
つの仕業だ」
「どうして黙秘を通さないんでしょう? いえ、証言を信じない訳じゃないん
ですが」
「ああ、キムラさんには説明しないと分からんだろうな。何かを答えさせる質
問ではなく、はいかいいえで答えられる質問に限れば、答えまいとすればする
ほど、嘘をつくのと同等になるんだ。黙り通すのが苦痛になってきて、しまい
には答えざるを得なくなる」
だったら分かる。私は経験できないが、さぞかし生きにくい世界に違いない。
それにしても……事件は混迷の度合いを増したようだ。コルト・シリンガム
を殺した者は不明だが、頭部切断はバンド・シリンガムの仕業。まずは切断の
理由を聞き出したいところだが。
「何で首を切ったのかは、今朝までに白状していない。メル刑事は別の攻め手
を思案している」
「……足跡は材料になりませんか」
「足跡? そういえば事件の発生前に雨が降って、泥んこ状態になっていたっ
けな」
「足跡は発見者であるバンドのものが、一往復していただけで、あとは皆無だ
ったと記憶しています」
「そうだったかな」
首を傾げるヘンデルスに、私は例のカメラを持って来て、該当する画像を示
しながら、メル刑事にも指示されたことを話した。
「メル刑事が重視するように言ったなら、間違いないんだろう。で、これが?」
「その前に……死亡推定時刻は出ていますか」
「確か、午前十一時から午後一時までだ」
「昨日の雨は十時にはやみました。シリンガム家のある辺りでも大差ないでし
ょう。殺害方法が何らかの自動装置を用いたものか、あるいは犯人が宙を飛べ
るかしない限り、犯人は離れから抜け出せない。足跡がないのだから」
「……その話、ぜひ、メル刑事にしてくれ」
職業柄、とするのが適切かどうか分からないが、元いた世界でも警察署を訪
ねたことは何度かある。元の世界とこちらの世界はほとんど同じで、警察署も
似通っていた。暮らしている人物は欧米風なのに、建物が欧米風でないのが不
思議と言えば不思議だが、ひょっとすると私の心象風景が投影されるのかもし
れない、なんて想像をしてみた。
「足跡には私も気付いていました。今日の午後にも、あなたの写真で確認を取
ろうと思っていたのですよ」
メル刑事とはロビーで会えた。衝立で仕切られた一角で、ソファに座って向
き合う。簡易ながら人目を避けられる空間だ。
「だが、その確認の前に、もう少し推理を進めていたんです。足跡がバンドの
他にないのなら、犯人はいかにして離れに入り、脱出したのか。入るときは簡
単です。雨が降っている最中に入ればいい。足跡は残らない」
私が頷くと、刑事もまた首肯し、続けた。
「問題は出るときです。足跡を付けずに移動するには……他人に背負ってもら
えばいい」
「第一発見者に、ですね」
私が即座に反応できたのは、ミステリの古典にあるトリックだから。
なのに、メル刑事は勘違いをした。
「キムラさんは察しがいい。私が思うに、犯人は殺害後、素早く逃げるつもり
だった。しかし雨が上がったため、おいそれとは逃げられなくなり、途方に暮
れていた。そこへバンド・シリンガムが表れる。犯人はバンドに助けを求め、
バンドはそれに応えた」
「とすると、犯人はかなり小柄ということになりますね。足跡の深さは、一般
的な男性のものと変わりがほとんどなかったと思いますから」
「ええ。ですから、恐らくはバンドの子供でしょう。しかし家族に犯人がいる
かどうかについて、彼は『知らない』と答えています。そうなると、年端のい
かない隠し子がいるのではないかと」
「隠し子は家族ではない?」
「それは本人の意識によります。とにかく、この見方に沿い、バンドへの尋問
を再開しようとしたところに、あなたが来られた」
「それはとんだ邪魔を……」
「いえ、代わりの者がやっていますので、問題ありません。結果が順調ならそ
のまま続行、芳しくなければすぐさま報告に来てくれと頼んでありま――」
言葉を途切れさせ、右を向いたメル刑事。私には聞こえなかったが、どうや
ら名を呼ばれたらしい。立ち上がり、衝立の脇から顔を覗かせると、「ショー
ラン、ここだ」と呼び寄せる。
現れたのは、赤毛のもじゃもじゃ頭が印象的な……多分、女性の刑事。よい
スタイルとは言えないが胸が確認できるし、声が男だとしたら高い。
「指示された通りの線で尋問をし、対するバンドの返答なんですが……」
言い淀む彼女の視線が、私に注がれる。メル刑事が、私のことを紹介し、話
しても問題ないと請け負った。
「いわゆる芳しくない結果ですが、かまわないので?」
「ああ。君がここに駆け付けた時点で、悪い結果は覚悟している」
「では――バンドに隠し子はいません。メル刑事の考えたトリックもぶつけて
みましたが、殺人犯を負ぶって運び出すようなトリックは使っていません」
「そうか。報告してくれてありがとう。しばらく君が尋問を続けてみてくれ。
質問するだけが能じゃない。感情的に揺さぶって、自白を引き出せれば、それ
に越したことはない」
「了解しました」
ショーラン刑事が立ち去ると、メル刑事は再び腰掛けた。こめかみを押さえ、
難しげな表情になっている。
「困りました。お聞きの通り、空振りだったようです」
「別のトリックが用いられたんでしょうかね。離れが殺害現場でなく、外部か
ら持ち込まれた、とか」
「理屈の上ではありそうですが、足跡の深さがネックになるかな。頭部を切り
離したぐらいでは、ごまかせないでしょうし」
「……自殺はありませんか?」
「自殺? だが、首を切断されている……ああ、父の自殺を見つけたバンドが、
頭部を切断したと解釈すれば、あり得る。しかし、何のために」
「先程、ショーラン刑事に、感情的に揺さぶってと指示されているのを耳にし
て、ぱっと閃いたのですが、こちらの世界では生命保険の制度はありますか?」
「あります。対象者が亡くなった場合、受取人に多額の金銭が渡る。キムラさ
んの世界と変わらないと思いますが」
「ええ。それで、自殺の場合はどうなります? 保険金は出るのか、出るとし
たら額は他殺や事故死と比べて減るのか」
「自殺ならどんな場合でも、保険金は出ません。生命保険の制度が生まれてし
ばらくの間は、自殺でも保険金がおりていましたが、自殺を強制するケースが
出始めたので、法律で規制するようになったんです」
「自殺では保険金が一切おりなくなったことを、コルト・シリンガム氏は知ら
なかった可能性はありませんかね?」
「知らなかった? それはまあ、お年寄りで床に就くこともしばしばだったよ
うですから、世情に疎くなっていたかもしれませんね。うん、分かってきまし
たよ、キムラさん。あなたが言いたいのはこうだ。コルト・シリンガムは保険
金目当てで自殺した。シリンガム家の稼業である染色工場を救うために」
メル刑事の言葉に、私は力を込めて頷いた。
「はい。そして、自殺した父を最初に見つけたバンドは、自殺では保険金がお
りないことを把握していた。だから、敢えて首を切断した。他殺に見せ掛ける
ために」
「雨上がりのぬかるみと足跡にまでは、気が回らなかったという訳ですか」
「恐らく」
私の返事を受け、腰を浮かし掛けたメル刑事だったが、何を思い直したのか、
また座った。
「今度こそ当たりだと思いますが、細部を詰めないといけない。コルト・シリ
ンガムがいかにして自殺したかが、目下の最大の問題になります」
「それなら想像が付いています。あ、話す前に、死因は判明しました?」
「遺体の状況、特に眼球から判断して、窒息死が有力だという鑑定が上がって
きています」
「よかった、仮説と合います。コルト氏は荒縄で首を吊ったんだと思います」
「……そうか。離れには荒縄もあったな。木材を縛るのに使うんだとばかり」
「バンドは遺体を下ろすと、荒縄を外して輪を解いてそこいらに放置したか、
もしくはあとで外部に持ち出して処分したんでしょう。また、首には吊った痕
跡ができていたはず。切断は、その痕跡を分かりにくくするため、重ねるよう
に刃を走らせた。結果、切り口が斜めになった」
「状況と悉く合致しますね。これで決まりでしょう。助かりました、キムラさ
ん」
「いえいえ。真相を確かめることが先です」
謙遜でも何でもなく、恐縮してしまう。私のいた世界で出回るミステリにお
いて、よくある手口なのだから。
その後、尋問に臨むため戻ったメル刑事を待つこと、およそ二十分。改めて
姿を現した彼は、事件の解決を告げた。
捜査に協力し、事件の解決に多大な貢献をしたという名目で、金一封込みの
表彰を受けることになった。署内で行われるささやかなセレモニーは、バンド・
シリンガムの処遇がおおよそ決定したあとになるというから、十日は先になろ
う。
「早くもらっておくべきだぞ、キムラさん。その前に帰ってしまう可能性ある
んだからな」
夕食後の席、明かせる範囲で話をした私に、ラウデソンさんはからかい気味
に言った。
「もしそうなったら、代わりにあなた達が受け取れるよう、メル刑事にお願い
しておきました。了解を得ています」
「何と。余計な真似をしてくれる」
大げさな動作で、両腕を広げるラウデソンさん。その大きな手のひらに、私
は紙を押し付けた。
「これ、大事に取っておいてくださいよ。覚え書き。メル刑事のサイン入りで
す」
「仕方がない。これが紙屑に変わることを祈っておこう」
別にかまわない。私が受け取ったとしても、まるまるラウデソン夫婦に渡す
つもりなのだから。それに、警察の謝礼なんて、大した額ではあるまい。私の
世界とは違って大金が支払われるのなら、それはそれで結構なことだ。
「そういえば、聞いておきたいことがまたできたんでした。戻るとき、私が身
に着けている物は、そのまま向こうの世界に持って行く形になるんでしょうか」
「ああ、そのはずだ。うむ、言うのを忘れていた。キムラさんが持ち込んだ物
も、身に着けていないとここに残ってしまう。注意しておかねばならんよ」
こうして暢気にお喋りを楽しんでいる間にも、いきなり元の世界に戻るかも
しれない。だったら、カメラなどを急いで身に着けるべきだろうか。いや、そ
のときはそのとき。置き土産にしていい。私の持ってきたカメラが元で、こち
らの世界の写真技術が開花し、飛躍的に発展するとは思えないが。
「悔いが残らないよう、お別れパーティも早めに開いておきませんとね」
マルシャ夫人は笑いながら言って、食後のお茶をテーブルに並べた。ラウデ
ソンさんも調子を合わせ、「いっそ、毎日開くのがよいかもしれんな」と冗談
を口にした。
そう、このときは冗談だったのだ。が、翌日の朝を迎えた時点で、本当にパ
ーティを開いておけばよかったと、ご夫婦は後悔していたかもしれない。
私は宛がわれた部屋に引っ込み、就寝したあと、次に起きたときには、元の
世界に戻っていた。時間が流れていなかったかのように、昼のうたた寝から目
覚めたところだった。地味なデザインの寝巻を着ていることが、大きく異なる。
一瞬、いや、しばらくの間、夢なのか現実なのか区別が付きかね、ぼんやり
とするしかなかった。見覚えのある探偵事務所、その室内が真昼の陽光に照ら
され、心地よい温度に仕上がっている。このままもう一度眠りに就けば、嘘の
つけない世界で目が覚める、そんな気さえした。
だが、時間が経つにつれ、意識の方も覚醒する。デスクの上にある新聞を引
き寄せ、日付を見やった。実際には一秒たりとも過ぎていないらしかった。
それから――懐を探る。二つあったカメラの内、現場写真を撮るために使っ
た方は、どこにも感触がない。万年筆型カメラのみが出て来た。こちらの方は
携帯電話と共に、身に着けて眠った記憶が頭の片隅にある。
私は万年筆型カメラのデータをアウトプットすることにした。写真屋の商売
とは別に、このカメラであちこち撮っておいたのだ。写っていれば、別世界の
存在を示す、確かな証拠になる。だからどうこうしようというつもりはない。
自分の中だけでいい、あの世界が存在する確かな実感が欲しい気がした。
……写っていなかった。
ならばと、今着ている寝巻に、何か証拠となる物がないか、調べよう。そう
思ったのはほんの短い間で、ばからしくなってやめた。依頼人が不意に訪ねて
きては困る。着替えだけ済ませると、寝巻は適当に畳んで紙袋に突っ込んでお
く。
およそ二週間ぶりの帰還。連綿と続いていた日常が途切れ、また戻るには、
記憶のつなぎ目をもっと明白にしておく必要がある。手帳を開き、スケジュー
ル欄に目を通そうとする。そこには、向こうの世界での出来事が書き綴ってあ
った。
「結局……あの事件を解くためだけに、向こうの世界に派遣されたようなもの
か、私は」
呟いてみても、現実感はない。けれども、間違いなく現実に体験したこと。
鮮明に思い出せる。
そういえば、最後の就寝の折に、自分は部屋の鍵を掛けただろうか。もしも
掛けていたら、私は密室から消えたことになる。本当の意味での完全な密室の
できあがり、という訳だ。ちょっと愉快な気持ちになる。
一人しかいないのに笑いを堪えていた私は、ふっと思い当たった。
私と同じようにこちらからあちらへ飛ばされた者がいて、もしもコルト・シ
リンガムの離れに出現したのだとすればどうなる?
突如現れた異世界人に、コルトは驚き慌てる。飛ばされた人間だって、同様
だろう。二人の間で乱闘が始まる可能性は、充分にある。そして飛ばされた人
間が勝った。荒縄で絞め殺してしまう。たまたま地蔵背負いの格好になったと
すれば、首に残る痕跡は首吊りの状態と似通っているはず。
我に返った“犯人”は、離れから逃げ出そうとするが、足跡が残ることに気
付き、簡単には逃げられないと理解する。母屋から誰かが来て、いつ見付かっ
てもおかしくない。自殺に見せ掛けることを思い付いた犯人は、考えを実行す
る。
そしてその細工が完了したあと、再び飛ばされ、元の世界――こちらに戻っ
てきた……。
謎解きは済んでいなかったのだろうか。
――終