AWC そばにいるだけで 64−1   寺嶋公香



#334/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  08/11/30  23:58  (499)
そばにいるだけで 64−1   寺嶋公香
★内容                                         17/04/20 20:45 修正 第2版
「な、何で白沼さんがここにっ?」
 純子が戸口に立ったまま、ソファに座ってこちらに笑みを見せる白沼を指差
しても、誰も咎めなかった。白沼自身も怒らない。
 純子が叫びたくなるのも無理はない。相羽の母に呼ばれて、ルークの事務所
に行ってみると、白沼がいたのだ。それも学生服でもなければ、単なる私服で
もない。まるでビジネス用かと思わせる、淡いブルーのスーツをぴたりと着こ
なしている。
 あまりの意外さに、純子は思わず、久住の格好をしなくちゃ、とわけの分か
らないことを考えてしまったほどだ。
 その直後にようやく思い出す。およそひと月前に、白沼からテラ=スクエア
のキャンペーンガールの話を持ち掛けられたのを。
(あれって、冗談じゃなかったんだわ……)
 やっとのことで合点の行った純子だが、その取り戻した平静さを瞬く間に失
わせる台詞が、白沼本人の口から飛び出た。
「約束より遅くなって、ごめんなさいね。CM出演を直接依頼しに来たのよ」
「え」
 混乱の度合いが、急速にアップする。唖然として立ったままの純子に、市川
が注意をした。
「いくら友達だからと言っても、今日はお客様だよ。ほらほら、かしこまって、
そこに座る」
「はい」
 仕事と聞けば、気が引き締まる。純子は素直にソファに腰を下ろした。白沼
と向き合う形になる。相手の右隣には、灰色のスーツを着た四十代半ばほどの
男性が、背筋を伸ばし、しかしどこかリラックスした態度で収まっていた。
 純子の隣には相羽の母が、さらにその隣に市川が座る。
「この子が風谷美羽です」
「ご活躍はよく存じています」
 白沼の隣の男性の声は、外見に比べると若々しかった。
 純子は自己紹介をしてから、白沼にも目礼をした。
「私は支倉象二郎(はせくらしょうじろう)と言います。αグループ食品部門
の宣伝を担当しています」
 食品部門と聞いて、やはりテラ=スクエアとは別口の話なんだと理解した純
子。
 支倉は名刺を取り出し、すでに市川らには渡してあるのだろうか、純子の方
に向けてくる。が、受け取ろうとすると、白沼が「そんな挨拶はよして」と止
めさせる。それから市川と相羽の母に向き直り、
「先に、私と涼原さ――失礼――、風谷さんと、二人きりで話をさせてもらえ
ません? 決して、契約に結び付くような口約束はしませんから」
 と申し入れた。
 まだ状況が飲み込めない上に、おかしな成り行きに困惑する純子。その隣で、
相羽の母が「私はかまわないわ。ただし、時間は短めにお願いね」と答えた。
 対して市川は、思慮する様子を見せる。しばらくして、眉間に軽く皺を作り、
白沼を見据えながら尋ねる。
「確認と条件を言わせてもらおうかしら。友達同士の雑談なら、後回しにして
ほしいのだけれど、違うのね?」
「はい。仕事に関係のある話です」
「時間はどれぐらい掛かりそう?」
「五分から十分程度はください」
「……七分で済ませて。二人で話した内容は、どんなことがあっても口外しな
いこと。守れる?」
「αグループの人にも、ですか」
「今度のCMの話に携わっている人になら、話してもかまわない。それ以外は
絶対にNG」
「分かりました。誰にも話しません」
 白沼は言葉遣いこそ固いものの、余裕のある表情を見せている。
「それなら了解。奥の部屋が空いているから、そちらへ」
「どうもありがとうございます」
(そういえば、白沼さんはどういう立場でここに来てるんだろう……?)
 根本的な疑問が浮かんで、純子は彼女の顔を凝視した。目線を感じ取ったか
のように振り向いた白沼はクリアケースを小脇に抱え、「それじゃ、行きまし
ょうか」と腰を上げた。
 いつもと違う口調に、ますます戸惑う純子だが、遅れて立ち、着いて行く。
奥の仕切られた小部屋に先に入り、純子を招き入れると、ドアを閉じた。そこ
は、狭いが、秘密の話をするには打って付けの密閉空間だった。小さな長方形
の白テーブルと、グレイのソファが四つ配されている。
「白沼さん、びっくりしたわ。長いお休みのとき、たいていは旅行でしょ? 
てっきり今度もそうだと思っていたから、なおさら……」
「仕事の話しかしないんじゃなくて?」
 さもおかしそうに微笑む白沼。仕事の現場でクラスメートと会っている違和
感が抜けきらない純子に比べ、彼女の方は普段の延長のようだ。
「それじゃあ、二つだけこちらから聞かせて。今日の話は、いつか言っていた
テラ=スクエアのことじゃないのね?」
「ああ、その話もあとで出て来る流れになるわ、多分。だけど、今日のメイン
テーマは、テレビコマーシャル」
「分かったわ。次に……今日の白沼さんは、どういう立場なの? 途中で挨拶
を打ち切られたから、私、分からなくて」
「正式な肩書きがあるわけじゃないわ。強いて言えば、一応、アドバイザーね。
女子高生の視点から、意見を述べるの。女子高生に受ける広告というものにつ
いて」
「はあ……」
「アドバイザーである私は、支倉部長にアドバイスをした。風谷美羽を起用す
れば、大いに受けるわよってね」
「そ、それは……どうもありがとう」
 否定しようと思ったが、クライアントの意向に逆らうと、相羽の母に迷惑が
及びかねない。市川だって、引き受ける方向に進むのを望んでいよう。
「さて、具体的な話をしましょうか」
 手近のソファに腰掛け、クリアケースをテーブルの上で開けた白沼は、何や
らリストめいた物が印刷された紙を取り出した。純子には見せないまま、話を
進める。
「私としては、下着のCMに出てほしいのだけれど」
「え」
 子供同士でいきなりそこまで具体的な話をするのは、先ほどの約束と違うん
じゃないか。という意味で面食らった以上に、下着と聞いて焦ってしまう純子。
「肌のきれいなあなたが下着を身に着けると、それを見た視聴者の大半は勘違
いする。この下着を着ればあんなきれいな肌になるんだわと」
「む、無理!」
 猛スピードで首を横に振る。白沼はくすくす笑った。
「何でもかんでも、真に受けちゃうわね。支倉さんは食品部門だと言っていた
でしょうが」
「あ、そっか」
 ほっとすると同時に、腹も立つ。
「仕事の話で、冗談なんか言わないでほしい……」
「全くの冗談というわけではないわよ。下着のCMに、あなたに出てもらいた
いと思っているのは、私の本心」
「……凄く、悪意を感じます、アドバイザーさん」
 恥ずかしい目に遭わせようとしている。そんな気がした。警戒感から、しゃ
ちほこばった言い回しを使った純子。
「まさか」
 白沼は真顔で否定した。
「相羽君のことがあったときは、素直に言えなかっただけで、本当にきれいだ
と思っているのよ。……と、これだけ言うのにも大変な努力をして、自尊心を
押さえ付けているのだけれど」
 台詞の後半に差し掛かると、白沼はにやっとした。
(これだけ開けっ広げに言ってくれるのなら、信用する。うん)
 純子は自らに言い聞かせ、仕事の話に移った。
「私達だけでしなきゃいけない話って、何?」
「“ねばならない”ってことはないわ。こうしてコミュニケーションを取って、
信頼関係を築いておきたかっただけよ」
 同じ気持ちだったと分かり、ほっとする。
「その代わり、契約が成立したら、びしびし注文を出して行くつもりよ。これ
はビジネスなんですからね」
「もちろん」
 白沼から右手が差し出された。握り返す。
 白沼の手にはかなり力が入っていた。

 小部屋を出て、本格的に仕事の話に入ったあとも、しばらくは白沼が主導権
を握った。
「念のために確認しておきますが、清涼飲料水の類は他社と重なるから、だめ
なんですね」
「そうなっているわ」
 市川が答える。いつもとは勝手が違い、子供を相手にどんな話し方をしてい
いのやら、手探り状態なのが窺える。
「来年以降も“ハート”のCMに起用されることに決定している。企業の方針
が変わらない限り、まず無理でしょうね」
 美生堂の社長にいたく気に入られたらしくて、純子の“ハート”CM出演は、
異例とも言えるロングランになっている。
「分かりました。それじゃあ、こっちだわ」
 白沼は持参したクリアケースから新たな一枚を引き抜くと、手の甲で弾いた。
今度の紙は、カラフルだ。イラストや写真入りで、文字の大きさも様々。しか
も一枚ではない。
「健康食品なら問題ないですか?」
「そうですね。資料を見せてもらえます?」
 市川の手に紙が渡る。
「メジャー商品のシリーズで、これまでCMに出た方は注目されています。タ
レントサイドにとっても悪くない話のはずです」
 支倉が、ここいらで口を挟んでおかないと出番がないという体で言った。
「そのようですわね。まあ、しばらくお待ちになって。もっと話を聞かせて戴
かないと判断できません。うちの場合、本人の意向もあるので」
「ほう。こんなかわいいタレントさんの意向でも、重視されるのですか」
 多少、意外そうに口をすぼめる支倉。大物ならまだしも、こんな小娘の……
というニュアンスが言外に感じられた。
 白沼はと言えば、静かにしているのは退屈とばかりに、自己主張するかのよ
うに身を乗り出して話を聞いている。
「はい、純子ちゃん」
 相羽の母から資料とこれまでの商品ちらしが渡される。資料の方は、社内用
あるいは業界内用なのか、商品の写真(オレンジ色のケースで、中身は見えな
い)とデータが記載されているのみのシンプルな物だ。一方、ちらしはテレビ
や折り込み広告等で何度も目にしていた。
「“スマイティ”……聞いたことある。食べたことはないけれど、確か、栄養
補助と内臓をきれいにする健康食品ですね? 錠剤タイプとクッキータイプが
ありましたっけ」
「そうよ」
 純子は支倉に尋ねたつもりだったのに、白沼が横取りするかのごとく、早口
で答えた。
「正しくは、美容健康食品よ。よく知られた商品でしょ。今度はそのヴァージ
ョンアップ版を出すの」
「新商品なんです」
 支倉が苦笑混じりに、イニシアチブを取り戻す。
「今度のスマイティRは、これまでのスマイティの効果に加えて、食べた物の
脂肪分をなるべく体内で吸収せず、外に出すという大きな特長が備わりました。
お肌の保湿力も多少アップします。効き目は実験で証明済み。お疑いのようで
したら、実験結果の統計資料も出します。全部は無理ですが、一部なら」
「ぜひ、お願いします」
 相羽の母が言う。この辺りは、広告会社の人間というよりも、モデルとして
の純子を思ってのマネージャー的色彩が強いかもしれない。
 その純子は説明を聞いて、「ふうん。何か、凄そう……」と独り言めいた感
想を漏らした。はっきり言って、美容健康食品にはこれまで厄介になったこと
もなければ、必要と感じたことすらない。
「ヒット間違いなしだって、自信満々に言ってたわよ」
 純子のつぶやきを聞きつけたか、白沼が口を開く。
 誰が言ったの?という疑問が頭の片隅をかすめた純子だが、多分、αグルー
プの人なのだろうと見当付けた。
「ヒット間違いなしなら、私を起用してコマーシャルを作らなくても……」
 大人の会話を後目に、やり取りが始まる。合点の行かない純子へ、白沼はと
うとうとまくし立てた。
「相乗効果という言葉を知らないの? あなたがテレビでこれを宣伝する。多
くの人達はあなたみたいになれると思って、買う。あなたはあなたで、スマイ
ティRをずっと食べるようになるわけだから、磨きが掛かるでしょう、その身
体に。結果的に、売れっ子になる。今の何倍もね」
 おだてられ、乗せられるのは市川相手で慣れているが、白沼から言われると、
いやにくすぐったい気持ちになる。さっき握手したとはいえ、居心地の悪さを
感じてむずむずする純子に、白沼は顎の先辺りで両手を合わせ、さらに続けた。
「そうだわ。コマーシャルでも、あなたがスマイティを食べていることをアピ
ールしなくちゃね。食べるシーンの他に、台詞でも。『毎日食べています』と
か何とか。ねえ、支倉さん。いいでしょう?」
 わずかに媚びた響きを滲ませ、白沼が言った。ねだられた支倉は、満更でも
なさそうに頬を緩める。偉いさんの娘の言うことを聞けば、出世につながるの
だろうか。
「まあ、こういうCMの定番の台詞ですから、いいんじゃないですか。どうで
しょう?」
 支倉は市川と相羽の母に向き直った。後者が答える。
「今から具体的に企画するのは気が早いかと存じます。が、確かに定番のフレ
ーズですね」
「え。そういうのはちょっと、よくないんじゃあ……」
 異議を唱えたのは純子。上機嫌だった白沼が、横目でにらみを利かせてきた。
「何か問題ある?」
「だ、だって、私、スマイティもスマイティRも毎日食べてないんだから」
「CMが流れる頃には、毎日食べているわよ。それでいいじゃない」
「でも」
 と言ったきり、口ごもる。
(撮影した段階では、食べてないか、食べていても効果は出ていないと思うん
だけれど。私の肌を見て視聴者が買うかどうかを決めるとしたら、そういうの
はよくない気がする……)
 そう感じたからなのだが、とても声にはできない。こんなこと、口に出すと、
肌を自慢しているみたいじゃない。
「まあまあ、その辺りのことは、後回し」
 市川が仲裁に入ってくれた。
「それよりも、私にとって重要なのは、この仕事の契約のことなんだけどね」
 ざっくばらんな物言いは、もちろん支倉にではなく、白沼に向けてのもの。
ようやく接し方を心得たようだ。
「お金の話は支倉さんに任せていますから」
 白沼の返事に、市川は口元を少し歪めた。
「うん、それも大事だ。けどね、まず、お受けするかどうかをはっきりさせな
いことには、話が進められない」
「あら。すみません。私、てっきり、引き受けていただけるものだとばかり」
 手のひらを口に当て、驚きつつも笑顔の白沼。ひるんだり、くじけたりする
様子を微塵も見せない。むしろ、状況を楽しんでいるかのように、純子の目に
は映った。
「考える時間はどれぐらいいただけます?」
「遅くとも一両日中にお願いしたい。いや、本心を言えば、スマイティRを知
ったからには、この場ですぐ、承諾の返事をいただきたいのですが」
「ご要望に添った答をしても、私はかまわないのですけど、先ほども言いまし
た通り、ルークはタレントの意向を重視しますので」
 言いながら、純子に視線を送る市川。
(確かに私の意向も聞いてはくれるけど、今まで、たいていは市川さんの意向
通りになってきた気がする……)
 そう思うと、ちょっと反発してみたくなる。だが、それ以上に、断る理由が
見当たらない。白沼が一枚噛んでいるから嫌、なんて理屈は通じまい。そもそ
も、悪い話でないのは、純子にもよく理解できた。
 逆に、断ったら、白沼から何て言われることやら……。
「やります。喜んで」
 純子が答えると、支倉以上に、白沼が大喜びした。席を立ち、拍手を三、四
度してから、純子の手を握る。それを上下に振りながら、
「ありがとう! よく引き受けてくれたわ」
 と、一際高いテンションで喋る。
「さすが、涼原さん。これで成功間違いなしね」
「そ、それはどうかと……」
「いいお付き合い、いい仕事ができるように、がんばっていきましょう、ねっ」
「は、はい」
 どうしても悪意を感じてしまうのは、純子が気にしすぎなだけに違いない、
きっと。
 引き受けると返事したことを、ちょっぴり後悔しないでもない純子の左隣で
は、支倉と市川が、早速契約の話を始めていた。

(白沼さんてば、私を忙しくして、相羽君に会わせないようにする作戦なんじ
ゃないかしら)
 純子がそう勘繰りたくなったのは、白沼がCMの他に、別の仕事の提案を積
極的にしてきたため。いくつも候補を挙げられたものの、全部を引き受けるの
はとてもじゃないができない。かといって、全て断るのも今後に響くかもしれ
ない(市川に至っては、「もったいない」と言い切った)。結局、一つだけ、
以前から打診のあった遊興施設テラ=スクエアのイメージガールの件を前向き
に検討する、という形に落ち着いた。白沼の言っていた通りになったわけだ。
 CMに関する仮の契約を終えて、ルークの事務所を出ると、純子は往路と同
じく、相羽の母の車に乗った。後部座席右手に座り、はあ、と息をついた。
「純子ちゃん。少し寄り道するけれど、許してね」
「はい、全然かまいません」
 答えてから、再びため息をつく。すかさず、運転席から声が掛かる。
「どうかしたの? 確かに私も、あの子の――白沼さんの姿を見たときは、面
食らってしまったけれども、この仕事そのものは最上級にランクできると思う
わ」
「……おばさまは、どこまでご存知なんでしたっけ……」
 まだため息の続きみたいな喋り方をしてしまう純子。これではいけないと自
覚し、軽く頭を振った。
「どこまでって、何のこと?」
 車は、大通りを二本横切ってしばらく行った地点で右に折れ、高架下の道路
を進む。
「えっと、白沼さんが信一君を……好きということをです」
「それなら聞いた」
 どこか弾んだ調子で答える相羽の母。やはり、息子が異性にもてるというの
は、嬉しいものなのだろうか。
「信一は昔から、ぶっきらぼうな割に、女の子達にもてるのよね。どこがいい
んだか」
「す、すごく、いっぱい、いいところありますよ」
 フォローではなく、事実を言ったつもりだが、何しろ彼氏のことを話す、そ
れもその母親に向かってというのは、極めて恥ずかしい。話そうとすると、歯
の根が合わない感覚がした。
「ふふふ。それは分かっているわよ。私は母ですから」
「は、はい……そうですよね」
 いたたまれない心地になって、下を向いた。振動が伝わってくるのを意識す
る。
「今も白沼さん、信一のことが好きなのかしら」
「え……っと。どうなんでしょう……多分、まだ好きなんだと思いますが」
 答えてから、このやり取りに違和感を覚え、考え込む。じきに気付いた。
(おばさまは何故、「今も」と付けたの? まるで、好きでも、相羽君とは付
き合えないと知っているみたいに)
 これを発展させると……。
(相羽君と私が付き合ってるってことを、知ってる?)
 続いて出た相羽の母の言葉は、あたかも、純子の思考を読み取ったかのよう。
「今は、純子ちゃんでしょ」
「え?」
「今、信一と純子ちゃんは付き合っているんでしょう?」
「――はい。付き合っています」
 ほぼ、即答できたのは、聞かれたら正直に認めようと思っていたから。
 相羽は隠していたのかもしれないが、話しておくにはよいタイミングになっ
たと信じたい。
「やっぱり。よかったわ。それじゃあ、今度の仕事は、ちょっと因縁のある相
手と一緒にすることになったわけね」
 相羽の母の反応は、純子自身が肩すかしのように感じるほど薄かった。当然
のこととして受け入れてもらえたのは嬉しいけれど……。関心の対象は、白沼
にあるらしい。
「おばさま。想像できてたんですか」
「わざわざ仕事の席についてくるなんて、白沼さん、何かあるんだと思ったわ。
一番ありそうなのを口にしてみたら、当たっただけよ」
「実は少し前に、白沼さんから何か仕事を頼むかもしれないから、そのときは
よろしくねって言われてたんです。だから、今日の話がαグループのものと予
め分かっていれば、心の準備もできたのに……」
「そうか、伝えておけばよかったわね」
「あーあ。撮影されてるとこを、白沼さんに見られるのかと思ったら、少し憂
鬱」
「それなのに引き受けたのは?」
「えっと……うーん、あんまり深く考えてません。断って、嫌な感じを持たれ
たくなかったし、白沼さんと喧嘩してるわけじゃないんだし」
「信一を撮影現場に連れて来て、いいかしら」
「え?」
 会話が途切れ、純子は後ろから運転席を見つめた。車は、小高い丘を巻く道
に入って行った。
「揉めさせようと思って言ったんじゃないのよ」
 ルームミラーの中で、相羽の母が白い歯をこぼす。
「そ、それは分かってますが」
「少し前からね、信一が見に行きたいと言い出したの」
「へぇー、信一君から言い出したんですか」
 意外に感じるとともに、嬉しくもなる。過去にも、撮影現場に来てくれたこ
とは何度もあったが、どことなく不承々々というか、不機嫌さがにじみでてい
た。それが今回、彼自身が望んだのだという。
「私は全然問題ありません。見てほしいぐらい」
 純子も昔は、仕事ぶりを相羽に見られるのは余計な緊張を強いられるので、
いやだなと感じた頃もあったが、今は違う。
「それよりもおばさま。どうしてそんなことを? わざわざ私に断らなくたっ
て……」
「理由は、さっき純子ちゃんが言ったばかり。白沼さんが今でもうちの息子を
好きなら、彼女とあなたと信一とが鉢合わせするかもしれない。それで気まず
くならないのかしらって。お節介だった?」
 首を大きく横に振る純子。
「そうだったんですか。お節介なんてとんでもない。うん、杞憂ですね」
「なら、いいのだけれど」
「ところで、どちらに向かってるんですか? 早く帰らないと、信一君、心配
しちゃいますよ」
 これの方がよほどお節介かなと思いつつ、尋ねてしまうのは、純子自身、相
羽のことが気になっている証拠。
「あら。これから行くところに信一がいるのよ」
 目を見開いてきょとんとする純子に、説明が付け加えられる。
「ピアノを弾きに行ってるの」
「――ピアノ、続けてるんですね」
「そうよ。信一は何も言ってない?」
「特に何も。でも、一月だったかな。続けるとだけ聞いてました。本当に続け
てるんだと分かって、よかった。信一君、前から上手でしたけれど、エリオッ
ト先生から習うようになって、もっと凄くなりましたよね。教え方がうまいの
かな。それともフィーリングが合うとか」
「そうね」
 相羽の母からの返事が、急に素気なくなったように感じた。気のせいだと思
うが、考えたり尋ねたりする間もなく、車は目的地に到着した。
「あれ? ここ、エリオット先生のいる学校じゃないですよね?」
 見覚えのない、音楽スタジオらしき丸屋根の建物が小高い丘を背景にしてい
る。まだできて間もないと見えて、きれいな外装だ。
「ええ。ここは鷲宇さんの紹介。大学の方は春期休暇に入って、色々と都合が
あるみたいなの」
 今度は優しい調子で答が返ってきた。さっきのはやっぱり、自分の勘違いな
んだ。純子は気分を切り換え、車を降りた。
「あ」
 いきなり、相羽の声。外に出て待っていた彼は、純子が来ることを知らなか
ったに違いなく、慌てた足取りで駆け寄ってきた。
「早く帰ろう」
「そ、そんなに急がなくても」
 純子の背を押す相羽は母親に向かって、「後回しでいいって言ったのに」と
不平そうに口を尖らせる。
「会いたかったくせに」
 笑み混じりに返され、たちまち沈黙する。それでも相羽は純子に対して言っ
た。
「とにかく早く帰ろう。疲れないように休まないと」
「わ、私、そんなに疲れてないよ。気疲れはしたけれど……」
 答えながら、そういう意味だったのねと合点する純子だった。心配してくれ
るのは嬉しいものの、大げさすぎる。ちょっと遠回りするくらい、何でもない。
「気疲れって、何か嫌な仕事だったの?」
 二人とも後部シートに収まってから、相羽が聞いてきた。純子が、白沼が姿
を見せたことを説明すると、
「白沼さんが来た?」
 と、相羽は声を大きくした。純子は、さっき相羽の母が見せたような笑み混
じりの表情でうなずく。もちろん、こちらの笑みは苦笑いだが。
「何か言ってた? いや、その、仕事以外のことで」
「皆無よ。世間話はほとんどしなかったというか、できなかった感じ」
「じゃあ……白沼さんと仕事でうまくやって行けそう?」
「それはまだ始まってないから、何とも言えない。厳しい注文を出されて、し
ごかれそう」
 相羽の顔つきがちょっと変わる。困ったような、もどかしいような、居心地
の悪そうな。
 しばしの静寂。振動音だけの車内は、明らかに相羽の次の言葉を待っていた。
 やがて彼は口を開いた。
「純子ちゃん。もしもやりたくないのなら――」
「それは大丈夫。心配しないで」
 全部は言わせず、純子は相羽の方を向いて自己主張。微笑ましくて嬉しくっ
て、くすっとしてしまう。母親も同様だった。
「契約もしちゃってるのよね。だから今更やめるのは難しいんじゃないかな」
 おどけた口調が運転席から届く。相羽は気に入らないという風に、かぶりを
振った。
「相羽君。そんなに心配だったら、見に来て。それでね、白沼さんが私に厳し
い注文を付けたら、助けてくれたらいいわ。あなたが優しく声を掛けたら、白
沼さんも厳しいこと言えなくなるでしょ。あはは」
「……考えておくよ」
 純子の冗談に、相羽は疲れたようにうなだれた。

 帰宅してから十数分後、純子の携帯電話が鳴った。夕飯までの間、春休みの
宿題を少しでも片付けておこうと自室で机に向かった矢先だっただけに、決心
が鈍りそう。でも、出ないわけにもいかない。
「うん?」
 表示された相手先の番号に、微かに首を傾げる。
 相羽の自宅の番号だ。仕事の話なら、たいていは相羽の母が所有する携帯電
話から掛かってくる。逆に、プライベートの話、つまり相羽からの電話だとし
ても、少々おかしい。彼は、純子の携帯電話は仕事用なのだとはっきり区別し
ている。
 とにかく出てみる。
「もしもし……?」
 第一声に、訝る響きが滲んでしまったかもしれない。二人の内、どちらが掛
けてきたのか分からないというのは、何だか不安になるもの。
「あっ、僕。今、時間はいい?」
 相羽の声が返って来た。ひとまず、ほっとする。
「時間は問題ないけれど、どうしたの? さっき別れたばかりだし、こっちに
掛けてくるなんて……」
「桜、見に行こう」
「え?」
 こちらの疑問に対する返事ではなかったせいか、聞き取れなかった。
「桜を見に行きたくない? お花見」
「お花見」
 唐突だなぁ、と思いつつ、決して悪い気分ではない。ちょうど見ごろで、晴
天も続くらしいし、何たって、今ならスケジュールに充分余裕がある。
「うん、行きたい」
「よし。いつがいいかな」
 弾んだ調子で、やり取りが進む。
 純子は一応、手帳のカレンダーを開いた。
「月、火、木、金なら、まずOK。まさか一日中、どんちゃん騒ぎするんじゃ
ないでしょう?」
「もちろん」
「相羽君の方は、日、大丈夫?」
「うん。いざとなったら、レッスンを休むつもりだった。でも、必要なさそう」
「よかった。じゃ、あとは、他のみんなの都合ね。マコはおじいちゃんのとこ
ろで野菜作りのお手伝いって聞いたから、難しいかな。あ、相羽君は唐沢君を
誘うんでしょ? だったら、芙美達も。そうそう、それと場所取りはどうしよ
う?」
「あの、ですね、純子ちゃん」
 普段より低い声で、ゆっくりした口ぶりになる相羽。純子は思わず携帯電話
を遠ざけ、電話そのものをまじまじと見た。急いで顔を再び寄せ、聞く。
「はい?」
「僕は誰も誘わない、君以外」
「……えーっと」
 遅きに失した感はあるが、純子はようやく気付いた。これは、デートなのだ
と。今までのお花見の経験に照らし合わせていたため、友達大勢で行くものと
思い込んだのだ。あんなに二人きりで会いたいと願っているのに、肝心なとき
に、間の抜けたことをやってしまった。
「純子ちゃん?」
 応答がなくなったのを心配してか、電話の向こうで名前を呼んでいる。急い
で答えた。
「ご、ごめんなさいっ! そうよね、当然、相羽君と私の二人で、よね」
「謝らなくてもいいんだけど。それよりも、君がみんな大勢で行きたいのなら、
そうしよう。考えてみると、別々の学校に行っている友達とは、今が一番会い
やすいもんな」
「ううん。あなたがいい。あなたと二人がいい」
「――携帯電話に掛けて、正解だったみたい」
「えっ」
「いや、もし家の電話に掛けていたら、さっきの純子ちゃんの台詞、お父さん
やお母さんに聞こえていたんじゃないかな、って」
「――」
 思い返してみる。と、頭の中が大騒ぎ。うわーっとなる。顔が熱い。携帯電
話を、まるで固定電話の送受器のごとく、しっかと握り直した。
「そ、それで、車の中では話さずに、電話、それもいつもと違って携帯電話に
掛けてきたの? 恥ずかしい台詞を両親に聞かれないように……」
「まさか。そこまで見越してはいなかった。ただ、こっちとしては二人きりの
デートに誘うつもりだったから、やっぱり、なるべく内緒にした方が……」
 二人とも、しばらく静かになってしまった。
 次に口を開いたのは、純子の方。
「あ、相羽君の方は、おばさまに聞こえていないの?」
「多分。台所までは届かないだろ」
 それだけで少なからず安堵した。気持ちを落ち着かせ、改めて答える。
「お花見には、お弁当を作って行くわ、二人分」
「よかった。楽しみにしてる」
 相羽は嬉しそうにそう言ったあと、口調を若干、真剣なものにして付け加え
る。
「でも、もしも仕事で疲れているようなら、無理をしない」
「平気よ。それにこんなときぐらい、無理をさせて」
「いっつも、無理をしているように見える」
「そんなことないってば。どうしても心配なら、簡単なメニューにしちゃおう
かしら。サンドイッチとか」
「サンドイッチ、いいよ」
「む。ちょっとは残念がってほしいのに」
 見えない相手にむくれてみせる。電話を通じて、そんな気配が伝わるはずも
ない。
「手料理を食べられるのに、どうして残念がらなきゃいけないんだか」
 相羽が言った。うれしさを抑えきれず、心が飛び跳ねているみたいな口調で。


――つづく




#335/598 ●長編    *** コメント #334 ***
★タイトル (AZA     )  08/11/30  23:59  (499)
そばにいるだけで 64−2   寺嶋公香
★内容                                         17/03/07 03:29 修正 第2版
 天気予報通りの快晴に、家の門扉を一歩出た純子は空を仰ぎ、目を細めた。
汗ばむでもなく、肌寒くもなく、心地よい朝だった。風が多少あるものの、こ
れから気温が上がるであろうことを考えれば、ちょうどいい。今日は帽子をな
しにして、正解と思った。
 そんな爽やかさとは裏腹に、純子自身は寝不足気味。連日の仕事やレッスン
は春休みに入って、量を増している。それに加え、今朝は早くから起き出して
お弁当作りに精を出したのだから、寝不足も道理というもの。幾度、あくびを
かみ殺したことか。いや、最早、こらえきれなくなっている。
「喜んでくれるかな」
 口元を空いている片手で隠しつつ、自分の着ている服を見下ろした。桜色の
ワンピースは、今日という日への期待感の表れでもあった。
「それにしても、早すぎた……?」
 ペンダントに付いた時計を手に取る。もう片方の手には、もちろん、お弁当
の入った籐製のバスケット。中はしっかり、断熱構造になっている。
 相羽が迎えに来る時刻まで、まだ三分はあった。早からず、遅からず、時間
をきっちり守るのを常とする彼のことだから、三分間、待たねばなるまい。
 と、覚悟した矢先、往来の右手から、相羽が姿を見せた。
「あ? 遅れた?」
 純子を見つけた相羽が、焦った風にそう口にするのが聞こえる。純子はすぐ、
「遅れてない、遅れてない」と歩き出しながら言った。お互いに近付き、立ち
止まったところで、再び純子が口を開く。
「相羽君こそ、珍しい。早く来るなんて」
「絶対に遅刻したくなかったからかな。つい、歩調が速くなったみたいだ。あ、
おはよう」
 これに純子は挨拶を返すと、一番に聞きたかったことを言った。
「腕を組んでもいい?」
「……か、かまわないよ」
 目元を赤くし、顔を逸らし気味に答えた相羽。何だか久しぶりに見た彼の反
応に、純子は思わず、バスケットを置いて、一人でできる方の腕組みをしよう
かしら、なんて意地悪を考えた。無論、実行はしなかったけれども、その分、
含み笑いをする。
「どうかした?」
「何でもない。ただ、わざわざ聞くことじゃなかったね、って」
 腕を絡ませることなく、先んじて歩き出す純子。両手を後ろで組んで、スキ
ップみたいな足取りで。
「あんまり飛び跳ねると、バスケットの中身、大丈夫かい?」
「――忘れるとこだった」
 後ろから注意され、手を前に戻すと、バランスがいいように持ち直した。
「飲み物は、途中で買うつもりでいるんだけれど、いい?」
「うん。結局、どんなお弁当にしたの? それを教えてくれないと、飲み物を
決めにくいな」
 着いてからのお楽しみ、と答える気でいたのだが、飲み物を決められないと
言われては仕方がない。正直に教えることに。
「最初は本当にサンドイッチにするつもりだったの。でも、気が変わって、お
にぎりと、おかずは鶏の唐揚げ、煮付け、それから……」
「コーヒーやジュースよりも、お茶が合うってことだね」
「そうそう。さすがにデザートは用意できませんでしたから」
 余裕があれば付けたかったが、時間的にも容量的にも難があった。早起きし
て作ったはいいが、男子にとってちょうどいい分量を知らないものだから、勢
い、多めに詰め込むことに。結果、デザートを入れるスペースがなくなった次
第。
(付けられたとしても、カットした果物なんだけれど)
 次の機会にがんばろう、と誓う純子であった。
 バス停に着くと、時刻を確かめる。目的地は、城南の公園。普段、滅多に利
用しない系統のバスに乗り、揺られること十五分ほどで着く。
 やがて、定刻から五分ほど遅れてやって来たバスの中は、なかなか混み合っ
ていた。やはり花見客が多い。手荷物から容易に想像できた。
「これだけ多いと、知ってる人と会うかもね」
「うーん、それは避けたい。折角、二人なのに」
 小さな声で言葉を交わし、密やかに笑い合う。見つかったら見つかったとき
のこと。これから先、二人きりで花見に行くチャンスは何度でもあるのだから。
 三つ目の停留所で、並んで座っていた乗客二人が降りた。目の前の座席が空
いた。純子達は周囲を見て、他の人が座れるように通路を空ける。
 一つ分の席は、四十代ぐらいの女性が占めた。が、その左隣の席は、誰も気
付かないのか、それとも近くにいる学生(純子達のこと)に座られるものと思
われているのか、バスが走り出してからも空いたまま。
 純子は相羽と目を見合わせ、ともに座る意思がないことを確認すると、近く
で手すりに掴まっていた女性に声を掛けた。背を丸めて、いかにも辛そうに見
える。六十をとうに越え、もしかすると七十代かもしれない。見た目で判断す
る限り、このバスで立っている乗客の中で、最も席を必要としている人だろう。
「あの、空きましたよ」
 くだんの女性は耳が遠いらしい。斜め前に立つ純子から話し掛けられたこと
は分かっても、声は聞き取れなかったのか、耳に手を当てる仕種をした。
 純子は同じフレーズを繰り返し、座りませんかと持ち掛けた。
「ああ、ああ、ありがとう」
 ゆったりとした動作で二度、頷くと、女性は足の向きを換え、歩き始めた。
かなり危なっかしい。走行中であることも考え、純子は手を差し伸べた。
「すまないねえ」
 女性は手を借りても、まだ危なっかしかったが、どうにか、よっこらしょと
いう具合に、席に収まった。その頃には、もう次の停留所が目前だった。
「ありがとうね」
 二度目の礼に、何だか照れくさくなる。いえいえと首を横に振った。
「ほんとなら、息子達と一緒に乗るはずだったんだけれど、予定がずれてねえ。
一人でバスに乗るのは久しぶりで」
「息子さん達とは、どこかで落ち合うんですか」
「ええ、ええ。お城の公園で」
 この女性もお花見だ。しかし、大勢の人でごった返すであろう城南公園で、
うまく落ち合えるのか、少し心配……。
 そんなことを思った矢先、下から声が掛かった。
「その荷物、持ちましょうか」
「え? あ、これですか」
 バスケットを見下ろす純子。
「ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。傾いてこぼれるよう
な物は入っていませんし、これくらいの混雑なら押しつぶされることもないと
思いますから」
 嫌な感じにならないよう、気を遣いつつ断ろうとしたため、語調がやや固く
なった。それがかえって相手の機嫌を損ねたのか、女性からすぐの返事はない。
聞き取れなかったにしては、様子が変だ。
「あ、あの」
「お弁当ね?」
 突然、そんなことを言った相手の女性は、顔いっぱいに笑みを広げている。
表情ばかりか、口ぶりも若返ったよう。
 純子が正直に、というよりもむしろ呆気に取られ、「はい、そうですが……」
と答えると、今度は嬉しそうにうなずいた。
「そちらの殿方と一緒に、桜の木の下で食べるのは、きっと、とても楽しいわ
ね」
 純子は相羽と顔を見合わせた。声は当然、彼にも聞こえている。
「あらあら、私ったら……。詮索してごめんなさい。あなたぐらいの頃、煮物
を作って、届けたことを思い出したから。お花見は、二人きりでは行けなくて、
大勢の友達からどうやって離れようかと、苦心したわ……」
 そう語る彼女は遠くを見る目を細め、昔日の記憶に浸っている様子。とても
幸せそうに映る。
「――春って、いい季節ですね」
 思わず、つぶやきのように言葉が出た純子。相手の女性は微笑みをたたえて、
ゆったりとうなずいた。
「ええ。ほんと、いい季節になりました」
 定刻通りにバスは到着した。お城の公園で一緒に降りるや、すぐさま、女性
の携帯電話が鳴った。「持たされてねえ」と言いながら、まだ慣れていない手
つきで電話に出る。会話の断片から、掛けてきたのは息子さんか誰かで、場所
取りのため動けない、これから言う場所に一人で歩いて来てくれということら
しい。
「ご一緒しましょうか?」
 電話を終えた女性に尋ねる純子と相羽だが、返事はやんわりとした拒否だっ
た。
「あの子達に、私が他人様の厄介になっているところを見られると、口やかま
しくてね。幸いにも、人出は思っていたほどではないから、平気でしょう」
「そうですか……。では、お気を付けて。あ、お話、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
 一番初めの印象からすると、随分と若く、快活な仕種を見せる。この分なら、
ちょっと歩くぐらい、大丈夫だろう。両サイドに露店の建ち並ぶ道を、しっか
りとした足取りで進む。
「いい思い出を持っている人は、年齢よりも若く見えるのね」
 後ろ姿を見送ってから、純子がぽつり。
「って、あの人の歳、知らないけれど。でも、おばあちゃんになっても、あん
な素敵に笑えたらいいよね」
「なるほど。僕は、ああいう感じの歳の取り方、いいと思うな。何て言うか、
頼るところは頼るけれど、自分でできることは自分でするという気概があって」
「そこまで深読みする?」
「するする。――さて、ところで」
 片手で庇を作り、辺りを見渡す相羽。
「場所取りのことを考えていなかった僕らに、土地の余裕はあるかな」

 心配せずとも、城の公園は広い。大人数でならともかく、二人が座れて、そ
こそこ桜を楽しめるスペースなら、まだ残っている。ロマンティックとか、い
いムードからは縁遠いが、それはここを目的地に選んだ時点で、あきらめるべ
し。むしろ、相羽も純子も無意識の内に、そういう方向に進むのを避けようと
する心理が働いたのかもしれない。
「お昼には少し早いけど、お弁当、食べる?」
 ミニサイズのシート――風情のない青一色のやつじゃなく、白に淡いピンク
色で桜の花びら模様を散らしたデザインだ――を広げ、とりあえず“領地確保”
をした。お花見にはさほど悪くない立地。ただし、日差しがない。が、時間が
経つにつれて解消されるだろう。
「出店で何か食べ物を買うつもりなら、お昼は早いに越したことないよね」
「その言い方、私が買い食いをすると?」
「しないの? 着色したみたいに真っ赤なりんご飴とか、コーン内部がすかす
かのアイスクリームとか」
「食べません。でも、一つだけ。公園の外になるけれど、桜餅の美味しいお店
があって、お土産に買って帰るつもり。個人的には、くるみ入りのが……思い
出したら、先に食べたくなっちゃうじゃないの!」
「食べたくなっちゃった、じゃないんだ? 問題なし、だね」
「う……そうね」
 いつの間にか握っていた手のひらを解き、腕を下ろす純子。
「何だか、力が抜けた……」
 シートの上に、ぺたりと座り込んだ。相羽の方は、立ったまま、周囲を見回
し始めた。
「どうかした?」
「まだ飲み物を買ってなかった。行って来るから、リクエストをどうぞ」
「ありがとう……でも、自動販売機の場所、分かる?」
「いや、知らない。ここに来ること自体、二度目か三度目ぐらいで」
「やっぱり。小学生のときの歓迎遠足は、ここなんだけど、相羽君は六年の途
中で転校してきたもんね」
「それはあんまり関係ないような……」
「いいから、いいから」
 小首を傾げる相羽に微笑みかけ、純子は腰を上げた。
「私が行ってくる」
「じゃ、一緒に行こう」
「だめ。留守番をお願い」
「……分かった。日本茶の類なら何でもいいよ」
 あきらめつつ、名残惜しそうな声で言った相羽。純子はうなずいて、自動販
売機のある方角へ急いだ。
 けれども、歩を進める内に、思い直した。どこを向いても桜が観られる中を、
そんなに急いでは風情がない。仕事や早起きした疲れも残っているし、今日は
まだ時間がたっぷりあるのだから、のんびり、ゆったりしよう。
 一番近い自販機まで、結構距離がある。その上、普段なら公園の中程にある
芝生のスペースを横切り、ショートカットできるのだが、今日は花見客でにぎ
わっており、そこを縫うようにして行くのはちょっと勇気がいるし、かえって
時間を要するかもしれない。
 勢い、芝生のスペースを囲う形の径に沿って、迂回することに。そこから枝
道に入ってしばらくすると、飲み物の自動販売機がある。
(……うわぁ)
 枝道に入るなり、目のやり場に困った。この辺りは、桜を観るにはあまり適
当でないが、その分、静かで人が少ない。人が少ないと言っても、いることは
いる。全てがカップルであった。こんな場所故、観桜そっちのけで、真っ昼間
からいちゃついているのは断るまでもない。
(よ、よその自動販売機に行った方がよかったかしら)
 顔が火照るのを感じると同時に、冷や汗もかいている気がする。恐らく、カ
ップルの方は、他人のことなんて目に入っていないだろうけど、純子は足音を
潜め、なるべく静かに進んだ。
 さすがに、急ぎ足に戻る。俯いて、砂利の少ないところを選んで行く。所々
にベンチがあるが、いずれもカップルに占拠されていた。ベンチの脚は見ても、
男女の絡み合いそうな足は見ないようにと、顔を背ける。
 目的を果たし、両手にペットボトルを持って引き返すときには、いっそう足
早になって、半ば駆け抜けた。もう、静かにしようなんて、言ってられない。
首から上が熱くなってたまらなかった。
 問題のテリトリーから脱出すると、春の日差しを浴びているのに、涼しさを
肌で感じたほど。相羽の姿を見つけると、ほっとしつつ、最後のひとっ走り。
 相羽は純子に気付くと、声を掛けた。
「息を切らせるほど急がなくてもいいのに。……どうかしたの? 顔が赤い」
 シートの直前で立ち止まった純子を、頭のてっぺんから爪先まで、相羽の視
線が一往復。それでも理由に当たりを付けられなかったのか、首をひねる。
「お花見に来たんだから、桜を観なさいって言いたい」
 純子は状況を手短に伝えた。長々と話すと、思い出してまた火照ってきそう
なので、極力手短に。
 相羽は黙って聞きつつ、ペットボトルを受け取ると、代金を渡してきた。当
たり前のように二人分。
「あ、いらない。家で作って来れば、必要のないお金なんだから」
「そういうわけにも行かないでしょ。実際、作って来なかったんだし」
「でも」
「逆に、お弁当を作って来なかったら、多分、どこかで買って食べることにな
るだろ。その場合、僕の分までお代を持つ?」
「それは……ないわね」
 なんとなく納得。硬貨を受け取りながら、「そういうときは、逆に、おごっ
てもらっちゃおうかな、なんて」と返した。
「そりゃもちろん」
「うそうそ、今のなし!」
 慌てて打ち消しておく。
 にぎやかに話す内に、さっき目の当たりにしたラブシーンまがいの連続絵巻
は、遠くに去っていた。もしかすると、相羽が話題を飲み物の代金に移したの
は、わざとだったのかもしれない。
 純子は膝をつき、靴を脱いで座った。若干、間は空いているものの、相羽と
隣り合う形になる。
 落ち着いたところで、お弁当を広げる。たいして片寄っていなくて、内心ほ
っとした。
「にぎやかだね」
 個包装の濡れティッシュを受け取った相羽が、手を拭きながら辺りを見渡す。
ここに来るまでのバズが満員だったことからも分かるように、あちらこちらに
青いシートが咲いている。幸い、カラオケセットを持ち込んだグループはいな
いようだが、二箇所ほどから昇る煙は、バーベキューのものだろう。どんちゃ
ん騒ぎに興じる一団があるかと思えば、ロープで囲った広いスペースに一人、
ぽつねんと陣取っている背広姿の若い男性もちらほら。
「平日だから、もう少しくらい、静かだと思っていたのに」
「静かな方がよかった? も、もしかして相羽君も」
 忘れかけていた最前の光景を、自ら呼び起こしてしまいそうになった。
 そんな純子の心の動きに気付いているのかどうか、相羽は「ううん。まあ、
どちらでもかまわなかった」と答え、箸に手を。
「時間が合えば、また別の日に、河原にでも桜を観に行きたい気もするけどね。
――いただきます」
 手を合わせてから、唐揚げの一つに箸を伸ばす相羽。
 時間が合えばと言うからには、そのときも純子と二人でという意味なのだろ
う。汲み取った純子は、知らず、頬を緩めていた。
「いただきます」
 純子はそう言ったきり、相羽の方をじっと見る。反応及び感想を、期待半分
不安半分で待ち構えていると、手に力が入った。
 会話が途切れた不自然さからか、相羽は自分に向けられる視線に気付いた。
急いだ様子で、口の中の物を飲み込むと、「おいしい」と言った。
「本当?」
「本当。そんな不安そうにしなくても、味見をしてるんじゃないの?」
「もちろんよ。自信がなかったわけじゃないけれど、肝心なのは、あなたの口
に合うかどうか、でしょ!」
「おいしい。君が作ったってだけで、うまい」
 真顔で言ってから、相羽はにっと笑い、おにぎりを口に運ぶ。純子は赤くな
った顔を左右に振った。
「……もぉー、そういうんじゃなくって! 遠慮のない感想を言ってよ」
「香ばしくておいしいよ。味付けも……おにぎりの塩加減に、ちょうど合う濃
さになってる」
「よかった……って、それって、おにぎりが薄味だってことじゃない?」
「深読みしすぎ」
 ため息をつくと、相羽はおにぎりの入ったバスケットを純子の方へ少し、押
しやった。
「早く食べないと、全部もらうよ」
「――うん、私も食べる」
 やっと安堵でき、純子は二度目のいただきますをした。

 早めの昼食だったが、お弁当の中身は何一つ残らなかった。
 お腹が満たされると眠くなる。あくびをこらえつつ、片付けに取り掛かる。
ちなみにペットボトルは、まだ飲み切っていない。空にしても、自販機横の屑
入れはすでにいっぱいだから、持ち帰ることになる。
「足りた? 物足りなかったら、何か買って来る?」
「いや、充分。腹ごなしに身体を動かすつもりが、ちょっと億劫なぐらいさ」
 そんな返事に、純子は心中で色々考える。
(ということは、相羽君にとって、お昼の適量はこれよりほんのちょっぴり少
なめでよし、と。あ、でも、今日は食べ始めるのが早かったんだから、ぴった
りと思っていいのかしら? ああ、分からないっ)
 頭を抱えたくなる。直接聞けばすむ話なんだけれど。
「野球をやってる」
 顔を起こし、相羽の視線の先を見ると、公園内の芝の上で、小学生になるか
ならないかぐらいの男の子――距離があるから断定はできないが、多分、男子
ばかりだろう――達が、ビニール製のバットとボールで、野球をしていた。み
んな半袖で、帽子を被っている。十八人にはとても足りないが、間違いなく野
球だ。緑色のボールを追って、駆け回っている。
「まさか、腹ごなしの運動で、入れてもらうつもり?」
「さすがにそれはない。それに、小さい頃に遊んだのはほとんどサッカーで、
野球はあまりしたことないんだ。あの子らより下手かも」
「野球よりもサッカーが多かったのは、やっぱり、ピアノの関係で?」
「一応はね。別に、父さんから止められていたわけじゃない。突き詰めれば、
サッカーの方が性に合った、好きだということ」
「この前、野球部の試合を観ていたとき、結構、詳しそうだったけれど」
「そりゃあ、基礎知識というか……野球をしないにしても、観戦まで嫌いな男
って少数派だよ」
「それじゃ、基礎知識のある相羽君に聞きますが、我が校の野球部は、今年、
どこまで行けそう?」
「どこまでって、夏の大会だよね?」
「よく分かんないけど、夏の甲子園。今やってるのは、春の甲子園でしょ?」
「そう、選抜大会。ただ、甲子園に行けなかったチームの大半は、もう次を目
指して試合をしてるところだよ」
「そういえば、春休みの間も試合をするっていうのは、聞いた覚えがあるわ。
じゃ、じゃあ、もう夏の予選が始まってるの?」
 慌てた口ぶりになったのは、佐野倉との約束を思い出したため。夏の地方大
会はなるべく応援に行く、と。
「ううん、違う。今はシード校を決める地区大会……のはず。ここである程度
勝っておけば、夏の予選で強豪校と当たるのがだいぶ先になる」
「つまり、今は、夏の地方予選じゃないのよね」
 一安心。その安堵する様を目の当たりにした相羽も、くだんの約束について
思い出したらしい。一つうなずくと、
「応援するからには、勝ち抜いて、甲子園に行ってほしいと思ってる?」
 と純子に聞いた。
「当然よ。だいたい、佐野倉君て、何故だか私のことを、その……勝利の女神
……みたいに思ってるところがあるし。だったら、期待に応えたいじゃないの」
 自分のことを「勝利の女神」と言うのは、恥ずかしいにもほどがあった。そ
こだけ声が小さくなる。
「だから、どれぐらい勝ち進めそうなのかを予め聞いておけば、心の準備がで
きるっていうか、肩の荷の重さが違ってくるっていうか……」
 純子の言い方に、相羽は咳を交えて微苦笑を浮かべた。それから答える。
「知ってると思うけど、春は地方大会で負けても出られる可能性がゼロじゃな
いが、夏は基本的に勝ち続ける必要がある。本番までに、佐野倉以外の選手が、
どれほど力を着けられるかが鍵だね」
「……」
 もう少し分かり易く、お願い!――純子はそんな目付きをしたつもり。そし
てそれは伝わった。
「正直言って、緑星野球部が勝てるようになったのは、佐野倉のおかげだと思
う。力のあるピッチャーが一人いるだけで、ゲームを作ることができる。でも
それは、ある程度間隔を空けて登板すればの話。地方予選はトーナメントだか
ら、勝ち進むにつれて、日程が厳しくなるのは分かるよね?」
「ええ。たとえば、準決勝と決勝は確実に連続になるっていうことでしょ。天
気がよければ」
「そうそう。当然、エースの佐野倉の投げる間隔も狭まる。それだけ疲れがた
まり易くなり、百パーセントの力で投げるのは難しくなる。だから、佐野倉以
外の選手、特に投手がどれだけ育つかが重要というわけ」
「分かった。でも、『特に投手が』の意味が、まだ……。ピッチャーが育たな
いと、だめなんじゃないの?」
「それは、あまりありそうにない、極端な場合を想定したまで。ピッチャーが
育たなくても、打線が物凄くパワーアップしたとすれば、たとえ佐野倉が連投
の疲れから点を取られようと、それ以上に点を取れば勝てるっていう理屈」
「確かに、あまりなさそう……。それで? 結局、どのぐらい勝てそうなの」
「最近の試合や練習を見てないし、分かんない」
「〜っ。やっぱり、野球は苦手みたいねっ」
「そんな風に言われても困る。今、僕がどんな予想をしても、大会が始まった
ら、少なくとも一度は、応援に行くでしょ、純子ちゃん?」
「それはまあ、一度はね。無理をしてでも行くと思う」
「だったら、そのとき精一杯、応援してやればいいよ。声が届くようにね」
「……ねえ、相羽君」
 思うところあって、語調を換えた純子。相羽も気付き、振り向いた。
「何、改まって」
「佐野倉君が転校してきたばかりの頃、変な噂が立ったの、知ってる?」
「変な噂……あったっけ。記憶にないなあ」
「野球部の強くない緑星に、佐野倉君が転校してきたのはおかしい。ひょっと
したら、他に目当てがあるんじゃないかっていう、あれよ」
「ああ、あったあった」
 途端に手を叩き、相羽は声を上げて笑い出した
「目当ては君、涼原純子ではなく風谷美羽としての君だっていう噂ね、ありま
した」
 シートの上に寝転びそうな勢いで、笑い声を立てる相羽に対し、純子は膝立
ちして、両腕を下向きに突っ張る。抗議の意思表示だ。
「わ、笑いごとじゃないわよー。今でこそ噂は収まったけど、私、まだ気にな
ってるんだから」
「悪い悪い。でも、君がいるから緑星に転校してきたっていうのは、想像力が
豊かすぎる噂で、あり得ないと思ってたから。それを真剣に悩んでいたんだと
聞いて、つい」
「ど、どうせ、私は思い込みが激しくて、早合点のおっちょこちょいです!」
「そこまで言ってないって。ごめん、謝る」
「……どうしてあり得ないって言えるのか、教えて」
「緑星に風谷美羽がいること自体は、調べれば分かるかもしれない。しかし転
校は、あくまで家族の事情、多分、親の都合だろう。子供が独りで決められや
しないよ。大金持ちの家に生まれてわがままし放題の箱入り息子なら、絶対に
ないとは言い切れないけどね」
「……納得した」
「よかった。たださ、僕の口から言うのもおかしいけど、佐野倉が君を気にし
ているのは、間違いない」
「やっぱり、そう思う?」
 それくらいは、純子も自覚がある。相羽は気軽な口調で答えた。
「応援に来てくれたら絶対に勝つ、とか言ったんだから、そりゃあね」
「……で? そのこと、相羽君は気にならないの?」
「別に。モデルやタレントをやってると、仕方ないところがある」
 焦ってほしいとか、やきもちを焼いてほしいとか、そういうつもりはないけ
れど。こうも素っ気ない反応は、ちょっと不満だ。
(じゃあ、佐野倉君が、もしも、私にもっとはっきりアプローチしてきたら?)
 そう聞こうとした純子に、相羽の返事の続きが届く。
「本当は、モデルもタレントもしないでほしい。その気持ちは、昔からずっと
一緒だ」
「――ありがとう」
 言葉が口をついて出る。振り返った相羽の目が、少し、びっくりしている。
「お礼を言われるようなこと、した?」
「した」
 人目がなかったら、手をぎゅっと握って、上下に大きく振りたいくらい。長
らくお留守になっていた手を動かして、荷物をバスケットに詰め込むと、鼻歌
が出た。
「少し風が出て来た」
 相羽が言った。さっきまで飛んで来ることのなかった花びらが、彼の手のひ
らにある。
 次の瞬間、一段階強い突風が吹き、一片の花びらを相羽の手から取り去る。
同時に、たくさんの桜の木が花を一斉に散らせた。舞い落ちた花びらがそこか
しこで小さな渦を作り、やがて土に、草に、伏せる。
「ああっ……」
 きれい――と見とれる一方で、残念にも思う。
「今年、もう一度、桜を観るんだったら、急いだ方がよさそうよ」
 相羽の横顔を振り返り、純子が言う。風は収まり、何事もなかったかのよう
に、桜は咲き誇る。まだまだ大丈夫と言いたげに見えた。
「盛大に散る桜って、きれいだけれど、寂しい。寂しいけれど、きれいって思
えばいいのかな。あはは」
「……桜がもしも、春の花じゃなかったら、こんなにも感じ入ることはないか
もしれない」
「え……っと、夏に咲いたとしたら、散っていくのも豪快で、寂しさや悲しさ
は感じないだろうってことね?」
「うん。秋や冬なら、逆に寂しさ、もの悲しさばかりに感情が傾く。そんな気
がするというだけなんだけど」
 日本の春は、別れと出会いの季節。寂しさと喜びが相次ぐ季節。そんな春に
こそ桜はふさわしく、桜は春にふさわしい。
「来てよかった」
 二人は声を揃えていた。
「ほんとに、いい季節になったわ。夏も秋も冬もいいけれど、今は春が一番」
「はは、変な理屈。でも、凄く分かる」
 公園内は、にぎわいを増していた。人の入れ替わりはあっても、減ってはい
ない。
「シートも片付けよっか」
 純子は腰を浮かし、膝を立てた。
「いつまでも場所を占領していたら、悪いわ」
「僕はかまわないけど、早起きして眠たいんじゃあ……。もう少し休めば?」
「寝たければ、最初から家にいます。大丈夫。相羽君と一緒にいる間は、平気
だって」
 純子が立ち上がると、相羽もそれならと立ち、靴を履いた。

 散策と呼ぶにはいささか騒がしかったけれども、公園の中をぐるっと一周す
るコースは、思ったほど人の往来はなく、快適な散歩プラス観桜と言えた。
「……」
「……」
 しばらく会話がなかった。せいぜい、「桜、きれいだね」「うん」ぐらいで、
あとが続かない。
 無論、この二人が今の段階で、“会話はいらない”の域に達してるはずもな
く、互いに、何を話せばいいのかなと戸惑っていた。共通の話題はあっても、
このような他にも大勢いる開けた場所で、二人きりで話すというのには、まだ
慣れていない。
 かと言って、焦りも退屈もしているわけでは決してない。二人で作り上げた
狭い範囲ながらも静かな空間を楽しんでいるのも、また事実である。
 だから、不満があるとしたら、ただ一つ。
(こういうのって、友達同士でも大差ない? できることなら、恋人同士らし
いことを……)
  隣を歩く相羽を、ちらと横目で伺いつつ、純子は思った。相羽はどちらか
というと純子ばかりを見ないよう努力しているらしく、桜の木から木へと視線
を移していた。それでも純子のことを気にする感じが、頭の微妙な動きや角度
で分かる。
 純子は視線を戻した。そしてバスケットを見つめる。持って来た食事をきれ
いに平らげた結果、今はとても軽くなっていた。
「本当においしかった?」
 純子が聞く。蒸し返したのは、色気がなかろうと、会話のきっかけがほしか
ったから。こちらを向いてほしいから。
「うん」
 相羽は振り向いて答えた。
「こういう広い場所で食べたから、とか、お腹が空いていたから、とかを抜き
にして、おいしかった」
「また作るね。あ、相羽君も家ではお手伝いで料理、作るんでしょう?」
「作るという程じゃないよ」
「うそ。調理部で見た限り、手際よかった。今度は相羽君にお弁当を作ってき
てもらおっかな」
「……レパートリーが足りない。弁当向きのおかずを覚えないといけないな」
 真剣に考え込む様子の相羽へ、純子は「冗談だってば」と急いで言い添えた。
すると相羽、困ったように答える。
「いや、僕の今の返事も、冗談のつもりだったのですが」
「――じゃ、お弁当とは言わないから、何か一品料理を作ってもらおうかしら」
 二人の間に、笑い声が自然と生じた。
 会話は弾んできたものの、やはり友達同士の域を出ないまま。傍目から見れ
ば充分、いちゃいちゃしていると映るかもしれないが、少なくとも純子と相羽
の二人にとって、これはいつものお喋りだ。
「知り合いがいても、気付かないまま、すれ違いそうだ」
 辺りに目線をやりながら、相羽が呟いた。その言葉で、純子も他人の目を意
識した。
「お互いに気付かないんだったらいいけど、向こうが気付いて、こっちが気付
かなかったら、やだなぁ。学校で冷やかされる。せめて、みんなで来て、それ
からばらけた方がよかったかも」
「違いがよく分からない」
「だって、今のこの状況、内緒でデートしてるわけで……」
「内緒にしてると、あとでばれたとき、冷やかされかねないから、友達にいち
いち報告する? これからずっと?」
「うーん」
 改めて言われるまでもなく、滑稽だ。
(要や久仁香とのことがあったから、オープンにしておきたいっていう気持ち
が強いのかな。けど、考えてみたら、聞かれもしないのに言うのって、嫌味に
なるかもしれない。
 でも、どこまで進んだのか、なんて聞かれたこともあるし……あれは絶対、
行き過ぎのお節介だと思う)
 考え込む純子の隣で、息を漏らす気配があった。振り向けば、相羽が前方を
見つめている。
「ここは、一段と……」
 歩みを止め、感嘆するのもうなずける。小径の両側には桜並木。枝を茂らせ、
伸ばして、頭上を覆っている。桜の花のトンネルの入り口だ。足下にも、花び
らが、まるで敷き詰めたようにある。さっきの風のせいだろう。
(こんなにきれいにトンネルになっているのは、私も初めて)
 純子も声を出すのすら忘れて、立ち止まった。

――つづく




#336/598 ●長編    *** コメント #335 ***
★タイトル (AZA     )  08/12/01  00:00  (498)
そばにいるだけで 64−3   寺嶋公香
★内容
 それから、ふっと思い立つ。今朝のことが脳裏に描かれた。
 再度、相羽の方をちらっと見る。ただし、今度は彼の横顔ではなく、腕を。
 純子はバスケットを左肘に掛けると、右手を相羽の左手に重ねようと伸ばし
た。
「――」
 相羽が気付く。
 互いの手がぎこちなくふれ、その温度や感触に一瞬、離れる。そしてまた近
付いて、今度は強く握り合った。
 純子は彼との距離を縮めた。
「腕……いい?」
 上目遣いになる。純子も背が伸びたが、相羽の成長はそれ以上だと実感させ
られる。
 残っていた左手も、相羽の腕に触れさせた。返事は言葉ではなく、態度で。
腕を絡めやすいよう、相羽が肘を軽く曲げる。
 二人の間にあった物理的な距離はなくなった。
 行こう。
 うん。
 そんな会話を交わしたかのように、でも言葉のやり取りはないまま、歩き始
める。
 そのとき、花びらが一斉に散り、舞った。純子と相羽が腕を組むのを、ずっ
と待っていたかのように、桜色したカーテンが現れ、儚く姿を消した。
 恋人達の会話を聞いたのは、桜だけなのかもしれない。

 充分に時間を使って散策し終えると、二人は公園を出、純子の言っていた和
菓子店に寄った。予定より少し遅くなりかけていたので、買い物を手際よくす
ませ、バス停に向かう。
 やがてやって来たバスは、幸いにも空いていた。
 二人掛けの席に、純子が窓際、相羽が通路側の並びで座る。相羽の膝上には
空のバスケット、純子の膝上には鶯色の紙袋がある。袋の中身は、買ったばか
りの桜餅だ。くるみ入りのをちゃんと買えたので、純子はご機嫌かつ安心して、
にこにこ顔が止まらない。
「帰り、家に寄って行って。一緒に食べよ」
「うん」
「洋菓子だったら、紅茶を入れてもらうとこなんだけど、和菓子だから仕方な
い。私がお茶を入れるね。あは」
「ペットボトルの残りがあるけど」
「意地悪言わないでよー」
 こんな調子でお喋りをしていた。が、やはり純子の方は疲れが出たのだろう、
バスの振動を心地よく感じながら揺られる内に、いつの間にか眠ってしまった。
「次だよ」
 短いが優しい声と、肩への感触で目が覚めた。睡魔の深淵から一気に引っ張
り上げられた純子は、目をぱっちりと開け、意識もはっきりした。
「ご、ごめんなさいっ。寝ちゃってた……」
 びっくり顔をした隣の相羽に、純子は何度も頭を下げる。
「気にしなくていいよ。起こしたのは、降りるとき、お姫様だっこするわけに
もいかないから」
「……」
 その場面を想像した純子。顔の火照りを覚える一方で、悪くないかも、なん
て思ったり。
 と、膝上に何もないことに気付いた。
「あ、桜餅!?」
「こっち」
 相羽の膝上にあるバスケット、そのまた上に載せる形で、鶯色の紙袋があっ
た。
「よかった。落とすかなくすかしたのかと思っちゃった」
「実際、ずり落ちそうだった。それにしても、目が覚めて、次に気になるのが
食べ物だなんて」
「もうっ、知らない」
 車内に、陽の光がやわらかに射し込み、あふれている。
「来てよかった」
 降りてすぐ、どちらからともなく言った。

 四月の第一週、『ファイナルステージ』初回の放映があった。そう、久住淳
としてアフレコに初挑戦したアニメである。と同時に、風谷美羽として初めて
歌――エンディング曲を唱っている。まさに初物尽くし。
「……やっぱり、まだちょっと浮いてるかな」
 純子は録画しながら観て、前と同じ感想を持った。第一話だけ、先行プレミ
アステージと銘打って、試写会が行われたのだ。その折、純子も会場にいたの
だが、上映終了後に、集まってくれたファン(原作漫画のファンが大半なのは
記すまでもない)の交わすひそひそ話が、全部悪口に聞こえて、内心どきどき
ものだった。
 舞台挨拶のために、他の声優陣とともに姿を見せる段階になって、ようやく
ほっとできた。拍手喝采で迎えられたから。
 ちなみに、そのあとの簡単な質疑応答で、再びどきどきさせられた。まだま
だトークが苦手なのを証明してしまった形である。
 この手のイベントでは、主題歌を唱う歌手も登場するケースがよくあるが、
純子は頼み込んで辞退させてもらった。久住として挨拶し、その変装を解いて
今度は風谷として歌を唱うなんて芸当は、危険すぎる。番組資料上、風谷の名
は出さざるを得ないが、モデル業と学業が多忙なためとの理由で、表立った活
動は抑え気味にする取り決めもできていた。
 番組が終わって、自分の歌をテレビで聴くという滅多にない体験に、ほわほ
わと身体を熱くした純子は、顔を洗いに席を立った。身も心もクールダウンさ
せ、タオルで顔を拭き終わったとき、ちょうど携帯電話が鳴る。
 市川からだった。話の内容は、当然、放映があったばかりの新番組について。
「上々よ」
「本当ですか。どうしても一人浮いてる気が」
「アテレコのこともだけど、歌も。あれは私も結構、気に入ったゾ」
「は、はあ」
 市川が仕事のことで自身の感想を述べるなんて珍しい、と感じて、中途半端
な返事になった。
「何ていうか、上下左右前後にとても広がりがあって、よいなあ。鷲宇さんの
言ってた意味が、やっと分かった感じよ。これまで男声を強いられてきたのが
解放されて、一挙に開花したってね」
「へええ、そんなことを鷲宇さんが」
「ありゃ、聞いてなかったのかい。それはまずかったかな。歌に関しちゃ、誉
め過ぎるなって釘を刺されててねえ」
「たまには誉めてくださーい」
 笑い声を立てる純子。
 心の中ではうなずいていた。それは指導方針のこと。確かに、歌は厳しく指
導された方が、自分に合っている。モデルや演技に関しては、誉められた方が
乗せられてうまく行く気がする。声優は……まだ何とも言えない。
「反響が大きければ、大々的にプロモーションをしたいっていう話があるのだ
けれど、やっぱりやめとく?」
「私の意志よりもまず、スケジュール上、無理なんじゃないですか」
 ゴールデンウィーク中に、久住としてのミニライブをやる計画が進行してい
る。これまた初挑戦であり、諸般の事情により延び延びになっていただけに、
今度こそと準備に余念がない。
「さてさて、そこだ」
 市川がおかしな物言いになる。純子は警戒した。電話を握る手に力がこもる。
「久住のライブの中で、風谷が“ゲスト”出演し、一曲披露するのはどうかし
らと考えたんだが」
「無茶ですっ、市川さん。鷲宇さんが許すはずありませんし、ファンは怒るだ
ろうし、正体を見抜かれる危険性だって段違いに高くなる。レコード会社との
取り決めにも触れるんじゃないんでしょうか」
「そこらは承知の上。取り決めはクリアできる。だって、向こうこそ、宣伝し
たくてたまらないに違いないんだから、どんどん唱ってくださいってなもんよ。
問題は二役の方。で、何か策はないかと思って、捻り出したのが、二部構成に
するというアイディアでね。観客総入れ換え制で、第一部は風谷美羽、第二部
は久住淳のライブをやる」
「もっと無茶苦茶です! だいたい、風谷には曲が一つしかありません!」
 声を張り上げた純子に、後方から「どうかしたのか」と父の声がする。振り
返ると、新聞を片手に父が急ぎ足でやって来ていた。
「仕事のトラブルか? お父さんが出なくても大丈夫か?」
「うん、トラブルじゃないの。ごめんなさい、大きな声を出して」
 送話口を手のひらでカバーし、応じると、父はそうかと安堵して元いた場所
へ戻っていった。
「市川さん、すみません」
「いいお父さんだねえ。こっちの仕事にはほとんど口を挟まないから、関心な
いのかと思っていたんだけど、なかなかどうして、立派な父親だ」
「わ、私の父の話はいいです。それよりも」
「分かってる。ライブ二部構成案もだめかな、やはり。あなたから鷲宇さんに
かわいくお願いしたら、通ると思うんだが」
「何なんですか、かわいくっていうのは」
 もしかして市川さん、酔っ払っているのだろうかと疑いたくなった。
 電話の向こうでは、そんな疑心などつゆ知らず、饒舌が続く。
「となると、今回はあきらめるとしても、いずれ風谷が単独でやるときは、鷲
宇さんにゲスト出演してもらうのがいいかしら。ゲストが鷲宇憲親なら、お師
匠格なんだからファンも納得するでしょう」
「もうどうとでもしてください……。その頃には、風谷だって持ち歌増えてる
かもしれないし」
 近くある初ミニライブが無事乗り切れるなら、それでいいとしておく。
「前向きね。ポジティブシンキング、大いに結構よ」
「ポジティブ? 逆じゃないですか」
「持ち歌が増えてるってとこが。これからも続ける気、満々じゃないの」
 嬉しそうな声を聞いて、純子は失言だったかと軽く後悔。別に嫌じゃないけ
れども、実質一人でルークを支えているような状況は疲れる。
 ちょうどいいと思い、前から気になっていたことを尋ねてみようと決めた。
「あの。つかぬ事を伺いますが」
「なあに、改まっちゃって」
「ルークって、儲かってるんでしょうか……?」
「ええ。それなりにだね。少なくとも、私達のお給料が出るくらいには。抱え
ているタレントが一人で小規模にやってるからね。鷲宇さんへの依頼だって、
まともに頼んだら目玉が飛び出るくらい高くつくところを、私の最初のアプロ
ーチがよかったのか、それとも鷲宇さんがあなたを気に入ったからなのか、よ
くしてもらっているのよ。ただまあ、久住と風谷の二役をやってる関係で、売
り込みやら宣伝やらの諸経費が二人分かかるのがちょっと痛い。二役じゃなか
ったとすれば、あなたへ実際に渡すギャランティももっと多くなってた」
 今でも充分すぎるくらい受け取っている気でいるのだが。美咲の手術のため
の募金に協力したこともあって、現在手元にはあまり残っていないものの、納
得している。
「何でそんなことを言い出したの? 久住か風谷、どちらか一つに絞った方が
よかったと思ってる?」
「もっと多くなってたって、まさか、合わせれば美咲ちゃんの手術費用をいっ
ぺんにまかなえる程じゃありませんよね?」
「ははあ。それはさすがに無理だぁ。財テクで何倍にもしないと」
「だったら、いいです。それよりも、ルークに新しいタレントを入れることは、
考えてないんでしょうか?」
「ん? 妹分が欲しくなった?」
 声が弾む市川。妹分をデビューさせて売り出すのもいいかも、と算盤を弾き
始めたのかもしれない。
「違います」
 即座に否定してから、一人だけという現状では肩の荷が重いという意味のこ
とを伝えた。
「――ですから、妹分とかどうとかではなくて、何人かの人を入れて、みんな
でルークを支えていくというのがいいんじゃないかなって。私も三年生になっ
たら、受験勉強で忙しくなると思うし、今のペースでは絶対に無理です。よく
分かりませんけど、事務所の将来を考えても、新人さんを育てていく必要とか
……」
「考えないでもないよ」
 返答はあっさりとしていた。
「諸々の経費の問題は言ってもしょうがないし、脇に置くとして、だ。二人目、
三人目のタレントを入れるっていうのは考えの中にある」
「じゃあ」
 期待に胸を膨らませる純子。
 だが、その期待は、市川の次の一言でしゅるしゅると萎んだ。
「でもタレントを増やすと、あなたに辞められてしまいそうな気がするのよね
え。うちは風谷も久住も手放したくないんだ」
「辞めませんよー」
「心理的な話よ。ふっと、辞めたいなって思うとき、これまでにもあったでし
ょ」
「それはまあ……」
「そういうときに、事務所に他のタレントがいて儲けが出ているとしたら、割
と気軽に辞められる。今のまま、うちにはあなた一人しかいない状況なら、辞
めづらい。そういう性格じゃないかな、涼原純子って人は」
「……」
 見抜かれている気がした。
 これまで仮に純子がタレント活動を一切辞め、ルークが立ち行かなくなった
としても、市川らには広告の仕事に戻る道があるから、職を失くすことはない。
以前の地位よりもランクを落とされるかもしれないが、食うには困るまい。
 それでも続けてきた理由の何分の一かは、タレントが自分一人だからという
意識。確かにそうだ。
(見抜いた上で、ずっと新しい人を入れないできたんじゃあ……ないわよね。
いくら何でも)
 またまた疑念が持ち上がる。市川の次の台詞は、明るい調子で語られた。
「ま、誰か入れるって話も含めて、重荷を分散できるように対策を講じるから
さ。あなたには仕事に集中してほしいの」
「はい」
「よし、その心意気よ。では、話を戻すと……歌の発売に合わせて、一回だけ、
サイン&握手会みたいな営業をしたい、と。これはレコード会社からの要請で
断れそうにない」
「営業はかまいませんけど、人、来ます?」
「私は詳しくないんだが、アニメファンの集いみたいな感じでやりたい意向ら
しい。だから、かなり大勢来るんじゃないの」
「多すぎるのも……連続して何十人と握手したら、腱鞘炎か何かになって、身
体のバランスが悪くならないかな。そうしたら、モデルの仕事に悪い影響が出
るかも」
 ささやかな抵抗。
「うーん。医者じゃないから、これまた私にはどうだか分からない。気になる
のなら、両手で代わりばんこに握手すれば? 右、左、右、左ってね」
 相手が一枚上だった。

 初回放送の翌日、学校に行ってみると、そこそこ話題になっていた。原作漫
画の読者層の中心が中高生なのだから、当然かもしれない。
 が、漏れ聞こえてくる会話の内容から判断すると、『ファイナルステージ』
に純子が関わっていると気付いた人はいないようだった。久住淳としてやった
アフレコはともかく、エンディング曲を風谷美羽すなわち女として唱ったにも
かかわらず、気付かれないとは。
(あんまり注目されなかったかな。その方が好都合ではあるんだけれど)
 テロップで「歌 風谷美羽」と短く表示された。たとえそれに目を留めたと
しても、その名が純子を示すと認識している人の割合は、案外低い。純子がな
にがしかの芸能活動めいたことをやっているとは知っていても、芸名を知らな
い者(つまり、活動は本名でしていると思い込んでいる者)がほとんどなのだ。
 そんなことよりも。
「クラス替え、どうなったかな」
 つぶやく純子。
 そうなのだ。今日は新年度の始まりでもある。純子にとっては、高校二年生
としての生活が、名実ともにスタートを切るというわけ。
 そして目下最大の関心事は、クラス分けだった。
(贅沢は言いません。相羽君と同じクラスになれたら。それだけでいいですか
ら、お願い)
 掲示板のあるところへ向かう道すがら、ほとんど無意識の内に、手を組み合
わせて念じていた。
「相羽と同じクラスになれますように……ってか?」
「え?」
 不意の声に、足を止めて振り返る。唐沢が廊下の壁にもたれ、頭の後ろで両
手を組んでいた。彼の前を通り過ぎたと気付かなかった自分に呆れてしまう、
と同時に、恥ずかしい。
「すっずはっらさん。お祈りはいいとしても、歩きながら目を閉じるのはよく
ないと思うよん」
 スキップするような足取りで距離を縮めた唐沢は、純子の前に立つと少し顔
をしかめた。
「あれま。また背が伸びたようで」
「え、そうかな」
 反射的に自分の頭のてっぺんに、手のひらを持って行く。確かに、唐沢との
差が縮まった気がする。
「モデル的にはOKってとこ?」
「でも、相羽君に追い付いちゃったら、やだ」
 再び歩き出し、ため息をつく。それを受けて、すぐ斜め前を行く唐沢が言う。
「男の背は、高校ぐらいからよく伸びるさ」
「……それって、私が男っぽいってことになるんじゃない? 体質的に」
「あ、いや、それは」
 しまったという表情になり、そのまま背を向け、歩みを早める唐沢だった。
尤も、早足になったところで、目指す先は同じなのだから意味がない。
「そういえば唐沢君。相羽君を見掛けなかった?」
「いや。逆に俺はてっきり、一緒に来たのだとばかり。毎朝、迎えに来てくれ
るんじゃないのかい、相羽のやつ?」
 冷やかしを交えつつ、意外そうに見返してくる。純子はまたため息をついた。
今度はがっかりした風情で。
「迎えはさすがに滅多にないけれど、途中で一緒になることはしょっちゅうな
のに。今朝は会えなかった」
「そんな、永久の別れみたいに。学期の初日ってのは、結構ばらばらになるも
んだし。ひょっとして、天文部で何かあったんじゃないのか」
「うーん、聞いてない」
 話す内に、掲示板の前に着いた。当然、他にも見に来ている人は多いが、学
年別にそれぞれ大きく張り出されているので、ごった返すとまでは行かない。
「見える?」
「背が伸びましたから」
 唐沢が聞いてきたのへ、最前の意趣返しをちょっぴり込めつつ、応じる。唐
沢は勘弁してくれと言わんばかりに、大きく吐息。と思ったら、不意に大きく
前に出る。
「こうなったら、涼原さんより先にクラス分けを見て、感激を薄れさせちゃる」
 などと呟きながら。
「どういう意味?」
 一歩遅れて掲示板に近付き、尋ねる純子。唐沢は振り向きもせずに、「もし
涼原さんが相羽と同じ組になってたら、そのことを君が見つけるよりも早く、
言ってやる」と早口で答えた。
「……確かに、感激は薄れるかも」
 一緒のクラスになれている確信なんて、もちろんないが、純子は急いで掲示
板の文字に目を凝らした。まずは自分の名前、もしくは相羽の名前のどちらか
を見つけないと。
 こういう場合、不思議なもので、どんなに好きな人の名前であろうと、自分
の名前の方が早く目に留まることが多い。事実、このときの純子もそうだった。
 二年三組に自分の名前を見つけた純子は、すぐさま視線をその隣の欄の最上
段付近に移した。相羽の名前があるとしたら、そこだ。
 即、見つけた。
「――あった!」
 弾んだ声が重なる。隣の唐沢も、何故か同じように叫んでいた。
「自分の目で見つけられたわよ」
「ああ、俺も」
 唐沢はそう言いつつ、右手を差し出してきた。
「俺もクラスメートだ。また一年間、よろしくってことで、握手を」
「え。あ、そうなの? よかった」
 純子が手を握り返そうとした瞬間、廊下右手の方角から結城の声が耳に飛び
込んできた。
「あーっ、いたいた! 探したよ、純子」
 振り返ると、結城の他に淡島もいる。二人は対照的で、朝から元気いっぱい
の結城の斜め後ろで、淡島は半分目を閉じているように見えた。挨拶を交わす
ときも、淡島はいつも以上に間延びした返事をよこした。
「調子悪そうだけれど……」
「心配をかけてすみません。大丈夫、今朝は特に低血圧な感じなだけです」
「恐縮するようなこっちゃない。気にしない、気にしない」
 純子が気遣うと、淡島が謝り、結城が励ます。
 その間、空気と握手したままだった唐沢は、右手で髪をかき上げると、女子
二人に「おはようさんで」といささか不機嫌な口調で言う。
「あら、いたんだ?」
「あら、ひどいご挨拶。俺ってどーも、涼原さんの友達にだけはもてない気が
する」
「『だけは』って、そういう風に言えるところが、厚かましい」
「ねえ、マコ。探していたって、何かあったの?」
 際限なく続きそうな二人の喋りを打ち切ろうと、純子は結城に聞いた。
 彼女は顔を純子に向けると、首を軽く横に振る。そして人差し指で掲示板を
示しながら、
「特にどうってことはなし。でもまあ、一緒のクラスになれたから」
 と笑みをなした。
「マコも、淡島さんも三組?」
 くじ運?のよさを感じつつ、聞き返す。
 と、結城の方は訝しげに目を細めた。
「その様子だと、まだ確認してなかったわけね」
「ご、ごめんなさい。まだやっと自分の名前を見つけたばかり」
「それと、相羽の名前もな」
 横合いから唐沢が口を挟む。頬をほのかな朱に染め、純子が焦り気味に抗議
しようとするが、それよりも先に結城がしたり顔を作った。
「なるほどね。うんうん」
「何が、うんうん、なのよ」
「言わせたいなら、大声で言うけれども、それでいいのかしらん?」
 結城はにやにやし、純子は沈黙。
「ところで、相羽を知らない? 今朝、まだ見てないんだよ」
 唐沢が純子の気持ちを代弁するかのように、結城らに問う。
 すると淡島が伏せがちだった面を起こした。一言喋るのも辛そうに、大きな
ため息をつく。結果的に他のみんなの目を集めてから、口を開いた。
「私、見ました。職員室に用事があって、早朝に訪ねたのですけれど、その折
に、相羽君が、えっとあれは確か、神村先生と一緒に、生徒指導室へ入ってい
ったように見受けました」
「生徒指導室?」
 聞き返したのは、結城と唐沢。どちらもその表情は不可解さいっぱい。
「何であいつが。生徒指導室なんかには最も縁遠い存在だぜ」
「内情まで承知していません。それに、相羽君を見たと言いましたが、後ろ姿
でしたので、ひょっとするとよく似た人を見間違えた恐れ、なきにしもあらず」
「似た人なんて、いない」
 純子がすぐさま否定すると、淡島は「ですから、後ろ姿だけですってば」と、
驚いたみたいに目を丸くし、答えた。
「別に大したことないんじゃない? 生徒指導室に行ったからって、問題起こ
したとは限らないわよ」
 結城が明るい調子で言う。
「個人的な話をするのに最適だからね、あそこは」
「でも気になる……」
 考え込む純子。こういうとき、悪いパターンを真っ先に思い描いてしまう質
だけに、不安が募ってきた。
「この! 幸福者がそんな顔するんじゃない!」
 突然、結城が後ろから肩越しに腕を乗せ、体重を掛けてきた。あえなくバラ
ンスを崩して、しゃがみ込むが、それだけでは終わらず、しりもちをつく。
「この中で唯一恋人のいるあんたが、そういう不景気な顔するのは許さないか
らねっ。くすぐってでも笑わせる!」
 本当に脇腹をくすぐってきた。「お手伝いします」と、淡島も真剣な面持ち
で加わったから、たまらない。
「きゃー! やめてー、あは、だめだって。だめってば。元々弱いんだからぁ。
あはは、やだ」
 純子自身はそう叫んだつもりだが、最後の方は声にならない掠れた笑いの悲
鳴になっていた。身体をよじって、ふと見えた唐沢に助けを求める。
「か、唐沢くーん、あん、やめるように言って。やーん」
 傍観していた彼は、
「楽しそうかつ色っぽくて結構。だが、次からは、男も参加できる遊びにして
もらいたいですな」
 と、頭をかいた。
「ま、そろそろやめないと、恥ずかしいぜ。みんな見てる」
 唐沢が言う通り、掲示板のすぐ近くでこんなことやったものだから、注目さ
れるのは当然。知っている顔もちらほらあった。
 それを承知していたのかどうか、結城も淡島も、タイミングよく、ぴたっと
手を引き、立ち上がる。身体を丸くして「防御姿勢」を取っていた純子は、や
っと収まった「攻撃」に、まだ安心できなくて、そろりそろりとガードを開け
て顔を起こした。ここでようやく、大勢の視線に気付き、慌てて立とうとする。
(は、恥ずかしい〜)
「あのねえ、マコ」
 片膝立ちのまま、結城達二人に文句を言おうとするが、機先を制せられる。
「そのぐらい元気いいのが似合ってるわよ」
「はい?」
「些細な、はっきりしないことで悩まない。彼氏のいる幸せを噛みしめる方に
力を入れなよ」
 結城と淡島が手を差し伸べ、純子の左右の腕を掴んで引っ張り起こす。
「あ、あのー……ありがと」
「どういたしまして。それにしても純子って、意外と感じやすいのね」
「……何かその言い方、やだ」
「そうそう。声も艶っぽく、とてもよかったですわ」
「それも嫌ーっ!」

 大騒ぎの朝を経て、純子が相羽とその日初めて会えたのは、二年三組の教室
でだった。
 年度始めは一旦教室に集まり、出席番号などを確認してからグラウンドなり
体育館なりで、朝礼を行うのが慣わしだ。それまでは、級友とお喋りに興じる。
窓から見える景色がちょっと変わり、まだ慣れない空気が新鮮だ。
 と、そこへ近付いてきたのは……。
「おはよう、涼原さん。ちょっといいかしら」
「――白沼さん。おはよう……同じクラスになれたね」
「嫌?」
「そんな。全然」
 意味ありげに笑みを浮かべた白沼に、ぶんぶんと首を横に振る純子。
「そうね。私も一緒になれて嬉しいわ。仕事も頼んだことだし、近くにいる方
が何かと便利だもの」
 仕事という単語に、結城が耳ざとく反応する。
「仕事って、白沼さんが頼んだ仕事?」
「まあね。話せば長くなるし、伏せておかなきゃいけない点もあるから、説明
はしないけれど、仕事の関係でも涼原さんとお付き合いさせてもらうのは事実」
 これを受けて、結城と淡島が、「伏せなきゃならないなら、初めから言わな
きゃいいのに」とひそひそ話。白沼に聞こえたら気まずいと思い、純子は声を
大きくした。
「ね、ねえ、白沼さん。何か進展があったの? 具体的な話がまとまったとか」
「いいえ。今日はただの挨拶。よろしくね」
「は、はあ……」
「それよりも、相羽君はどこよ。また一緒のクラスになれたと思って、喜んで
いたのに、いないじゃない。鞄すらないわ」
 相羽と純子との仲を渋々ながら認めてくれた割に、ここまで開けっ広げに相
羽を気にする白沼。彼女らしいとも言えるが、まだ相羽に気があるのかもしれ
ないと思うと、純子にとってまた一つ不安の種が増える。
「私に聞かれても……」
 生徒指導室に行ったらしいという目撃証言を話すべきか。否。不確実すぎる。
「知らないの? 付き合ってるのに?」
 白沼が、あっきれた、を体現するかのように腰に手を当てる。
 そのとき、朝のホームルームまであと五分と告げる予鈴が鳴った。ほぼ同時
に、相羽が教室に入ってきた。
「あ、相羽君」
 白沼の顔越しに声を掛けると、相羽が振り返るのが分かった。けれども、白
沼も振り返ったため、視界が遮られてしまう。急ぎ、立った。
 白沼が先に口を開く。甘えた声で、刺々しい台詞を言った。
「もう、どこへ行っていたの。出席番号一番なんだから、仮の学級委員長でし
ょう? 早めに来てもらわないと」
「えっと、何かあった?」
「ううん、特別なことは何も。先生が来たとき、いないとまずいじゃない。そ
れだけ」
 白沼の話はここで終わり。純子が、さあ、話そうとした矢先、思いの外早く、
担任の先生――去年と同じく神村先生――がやって来てしまった。さっきの予
鈴から、まだ五分経っていないのに。
「じゃ、あとで」
 口を開き掛けて固まっていた純子に、相羽は軽く手を振り、最も廊下寄りの
列、その先頭の机に向かう。
「あとで、ね……」
 彼の後ろ姿に、純子もまた小さく手を振り、椅子にすとんと腰を下ろした。
 このあと、出欠の点呼を取る先生に対し、返事の声に不機嫌な響きが少々混
じったのは、やむを得ないことかもしれない。
 短いホームルーム後、全校生徒集まっての朝礼も滞りなく済み、教室に戻る
と、再びのホームルーム。宿題の提出は各教科の授業でするから、各人の簡単
な自己紹介と、それに続く学級委員決めがメインだ。
「――では次、学級委員を決めるわけだが」
 神村先生が教壇に立ち、教室を見渡す。肌こそ日焼けしていないが、相変わ
らず、スポーツマン然としており、女子生徒の中には一部、熱狂的なファンも
いる。
「二年生と言っても、まだお互いによく知らない者もいるだろ? だから、選
挙をする前に……立候補するやつはいないか? 意欲があるなら、誰でもかま
わない。立候補者が一人しかいなければ、そいつに決定だ。二人以上のときは、
立候補者を対象に選挙をする」
「そんな奇特なやつ、いないんじゃ?」
 一人が言うと、同調の声が続く。
「他薦ならまだしも、ねえ」
「そうだよ。先生、早く、ふつーに選挙やって、決めちゃおうよ」
 神村先生は、出席簿を開いたり閉じたりしながら、次のように付け足した。
「動機は問わないぞ。目立ちたい、他の学年とつながりを持ちたい、内申の上
乗せを狙うのもいいし。そうだなあ、僕のテストに限り、学級委員の者が悪い
点だったら、学級委員の仕事が忙しかったことにして、ある程度は大目に見て
やらなくもないこともないことも……」
「どっちなんですかー?」
 端からあきらめているような抗議調の声に、中程度の笑いが起こる。先生自
身、苦笑を浮かべた。
「まあ、今の話は確約できないけれどな。どんな下心があろうとも、がんばり
は認めるつもりだってことさ」
「じゃ、先生と少しでも一緒にいたいから、というのでもいい?」
 数人の女子が声を揃えて言った。本気とも冗談ともつかない質問に神村は、
「そいつだけは却下。不純すぎる」
 と即答し、さらに「だいたい、そんな奇特な生徒、いないだろ」と付け加え
た。これは、最初に発言した生徒の真似らしい。
「さて、そんなことよりも、誰も立候補しなかったら、僕が指名するつもりな
んだが」
「ええーっ!?」
 笑い声が収まり、代わりにブーイング入りのざわめきが、瞬く間に教室を占
める。
「横暴だー」
「指名するが、強制はしない。やる気を見ると言ったろ。ただし、辞退するな
ら、説得力のある断り方をすること。単にやりたくないというのは認めない」
「それ、矛盾してるんじゃあ、先生……」
「しばらくやってみて、どうしても向いてないとなったら、交代を考えなくも
ないさ」
 今度はしっかり言い切った。こうしてなし崩しに選出方法が決まる。
(神村先生、今年は強引だわ。心境の変化でもあったのかな)
 純子は、少しばかりの驚きを持って受け止めていた。尤も、自分は選ばれま
いと思っているし、仮に指名されたとしても断る正当な理由はあるから、気が
楽だ。むしろ心配は、相羽の方。もしも、彼が指名されるようなことがあった
ら困る。ただでさえ、会う時間を作るのに苦心しているところへ、相羽が今よ
りも忙しくなったら、影響は間違いなく大きい。

――つづく




#337/598 ●長編    *** コメント #336 ***
★タイトル (AZA     )  08/12/01  00:01  (497)
そばにいるだけで 64−4   寺嶋公香
★内容                                         17/03/25 13:51 修正 第2版
(神村先生、お願いしますっ。相羽君は指名しないで。実績あるけど。すんな
り、選挙にしなかったのは、これまでやったことのない人もやって欲しいから
ですよね? ……あー、でも、万が一、指名されたら、相羽君のことだから、
引き受けてしまいそう……)
 心中で念じつつ、不安に駆られる純子。いつの間にか、両手を握り合わせて
いた。
 神村先生は、そんな気持ちを知る由もなく、予告した段取り通りに続ける。
「立候補、いないか? 今の内だと思うんだが。今なら、自発的で印象もいい
よ。……よし、これで最後だ。いないんだな? では、締め切る」
 案外、あっさりと締め切った。また僅かばかり、雰囲気が変わる。誰が指名
されるのだろう、という風に、みんなで顔を見合わせた。
「最初に言っておくと、運動部に入っている者は除いた。部活を理由に辞退さ
れたら、こっちも強制しづらいのでな」
 この宣告に、三割余りの生徒が気抜けしたような吐息を漏らしたようだ。呑
気な調子で、「それを早く言ってほしかった」という声も上がる。
「予め言ってしまったら、やる気のある者の立候補まで、なくなりかねないじ
ゃないか。それから……まあ、特に理由があって私生活で忙しい者も除いた」
 神村先生が純子の方をちらと向く。一瞬、目が合い、どぎまぎした。親しい
友達だけでなく、他のクラスメートも分かっているだけに、なおさら。
「わ、私は、一学期は無理ですけど、二学期ならひょっとしたら何とか……」
 みんなの視線を浴びて、思わず、そんなことを口走ってしまう。特別扱いさ
れたくない気持ちが働いた。
「そうか? じゃあ、二学期は考えておこうかな」
 笑みをなした先生は、出席簿の端に何か書き込む仕種を見せた。ポーズだけ
かもしれない。
「とまあ、他にも、皆の環境や状況をあれこれ考えた上でのことだから、本当
はやる気はあるが、立候補するとは言い出せなかった人。たとえ一番に指名さ
れなくても、気にする必要なし! いいね」
 なかなか饒舌な神村。
「ここまで聞いていて、おおよその覚悟はできてると思うが、部活をしていな
い者が、指名される可能性が高いわけだよ」
「うわー、理由、どうしようかな」
「今度、引っ越すことになって、これまでの倍、通学時間が掛かる……だめ?」
「あ、俺、おじいさんが病気で、看病しなければ……」
 該当する生徒が、口々に言う。冗談混じりのものがほとんどだ。唐沢もそん
な一人で、
「デートで忙しいというのは、認めてくれない?」
 と、早々と先生に尋ねる始末。無論、返事は期待していなかっただろう。
 ところが、神村先生、即座にこう答えたのだ。
「だめだ」
「えっと。そんな、真面目かつ真剣に否定しなくても、センセ」
 意外そうに目をぱちくりさせた唐沢。そんな彼の様子が、みんなの笑いを誘
う。純子も、噴き出さないように努力しなければならないほど。
(あの焦りよう! もしかして、また大勢の子と付き合い始めてる? ああ、
芙美も苦労しそう……あれ?)
 神村先生は唐沢の席のすぐそばまで来ると、真顔で言った。
「唐沢君、おめでとう。学級委員長をやらないか」
 ざわつきに拍車が掛かった。いわゆるプレイボーイのイメージが強い唐沢が
指名されるとは、誰も想像していなかったようだ。
「……冗談抜き、ですか?」
 何故だか笑みを浮かべながら、聞き返す唐沢。先生もにこにこ顔になると、
頷いた。
「僕も冗談は嫌いじゃないよ。でも、今のは違う」
「委員長なんてしてたら、デートの時間が」
「やりくりしろ。おまえほどもてるんなら、スケジュール調整ぐらい、これま
での経験から楽勝じゃないのかな」
「……俺、かなりの無責任男ですよ」
「そんなことはないと思ってるが、たとえそうだとしても、これから直せる」
「えーっと、遅ればせながら、テニス部に入ろうと思っていたのに」
「入部は自由だが、後付けの理由と見なし、委員長はやってもらうぞ」
「……しょうがないなあ」
「おぅ、やる気になったか」
「やる気はまだ半分ぐらいしか湧いてないけれど、やりますよ。やらなきゃし
ょうがない雰囲気だし。でも先生、条件があるんだけど、聞いてくれる?」
「ああ。かなえてやれるかどうかは、聞いてみないと分からんが」
「無茶苦茶なことは言わないって。副委員長は委員長が指名する。どう?」
「ふむ」
 左手を口元に当て、しばし検討する様子の神村。決断は早かった。
「別にかまわないか。無理強いしないのなら」
「先生ぐらいの強引さなら、OKっしょ?」
 これでは神村先生も拒否できない。大丈夫かな?という風に、口元を曲げた
たものの、唐沢の申し出を認めた。
「言うまでもないが、委員長が男子なら、副委員長は女子から選ぶのが原則だ。
くれぐれも悪用はよせよ」
「へい。好きな子を副委員長に指名して、口説くような真似はしません」
 裁判で宣誓するときみたいに手を掲げ、目を瞑る唐沢。すぐに片目を開ける
と、先生に重ねて頼んできた。
「副委員長は、明日までに決めるってことでいいっすか? まさか自分が委員
長に選ばれるとは思ってなかったし、誰が副委員長にふさわしいか、考える時
間が……」
「今日中は無理か」
「今日中と言ったって、午前中に終わるじゃないですか。短すぎ」
「なるほど、理屈は通ってる。仕方ないな」
 神村が了解するや、唐沢は手もみをし、「さっ、誰にしようかな〜」などと
呟いた。いちいち芝居がかっているが、板に付いていて、嫌味がない。早速、
「私、私」なんていう売り込み?の声が飛んだ。
(あれで二人きりになると、真面目な顔や格好いいところも見せるんだから、
女子に人気があるのも頷ける)
 妙に感心させられた純子。だが、町田のことを思うと、感心ばかりもしてい
られないわけで。
 何とかならないかな――他人事ながら頭を痛める純子も見守る中、唐沢は委
員長“就任”の挨拶を始めていた。

 唐沢委員長の初仕事として、席替えを行うことになった。男女別に名前の順
に並んでいたのをシャッフルするだけだから、席替えと言うよりも新学年の席
決めと言うべきかもしれない。
「好きな者同士隣り合うように、なんてのは認めないからな。ちゃんとくじ引
きをしろよ」
 神村先生に予め釘を差された格好の唐沢は、不要になったプリントを裏返し
にして線を引き、くじを作り始めた。
「あー、やっぱ、副委員長を先に指名しておくべきだった。一人はつらい」
 ぼやきながらも、手際はよい。その様子を眺めていた先生が、
「手間取るようなら、これで発生させた疑似乱数をみんなに宛がって、小さい
順に端から座らせようと思っていたが、その必要もなさそうだな」
 と、手のひらサイズの機械――ポケコンの類――を示した。その表情は何だ
か楽しそうだ。
「あ、ずるいよ、先生。そういう便利な物があるのなら、早く言ってくれなき
ゃさあ」
「おまえのやる気を見てたんだ。途中で辞めるのも不本意だろう、最後までや
りなさい。機械を使った席決めは、二学期のお楽しみだ」
「続けて委員長なんてしたくないっす」
 狙ったのかどうか分からないが、唐沢の言動がクラスの笑いを誘った。その
声に唐沢は片手を振りながらも、切り分けた紙に器用に番号を振っていく。
「考えたら、あみだくじでもよかったんだよなぁ。ま、いいけど。――よし、
できた。先生、何か袋」
「袋はありませんか、だろ」
 注意しつつ、すでに用意していたスーパーの買い物袋を手渡す神村先生。白
色で、中が透けることはない。
 唐沢は受け取ると、袋の口を大きく広げ、二つ折りにした紙片を全部流し込
んだ。そして口をぎゅっと握り、袋を上下左右に激しく振る。
「一から四十八までの数字を書いた。四十よりも多いのは、俺が勘違いしたん
じゃなく、最後に引く奴も選べるようにするためだからな。で、数の小さい順
に、廊下側の席に座る。引く順番は……いっつも相羽からじゃつまんないって
ことで、逆にしてみようぜ」
 唐沢の気まぐれで、五十音順で女子の最後の人から引いていくことに。
「それから、引いた番号を他の奴に見せたり教えたりするのはなしね。あとで
発表するときのどきどき感、たっぷり味わいたまえ」
 そう忠告したあと、唐沢は校庭側の端の列、最後尾から回り始めた。
(どんな順番で引こうと、確率は同じだって習ったけど)
 くじ引きの順番を待ちながら、純子は考えていた。
(最後に相羽君が引く番号の前後、あるいは隣り合う数字を引くなんて、至難
の業に思えるよ〜)
 純子は当然、相羽に近い席、できれば隣に座りたいと思っている。願ってい
ると言い直してもいい。実際、引く直前には両手を合わせてお祈りしたほどだ。
「涼原さん、これ」
 広げた袋に手を入れた瞬間、唐沢が囁いてきた。何事かと見上げようとする
が、その前に気が付いた。唐沢の左手に、小さく折り畳んだ紙切れがある。
(これを引けってこと?)
 クラスの人数よりも紙が多いため、特定の二人を隣り合わせるのは難しくて
も、前後に座らせるのは楽だ。※ちなみにクラスの人数イコール紙片の数だと、
最後の相羽の前に引く奴が、くじの数が合わないことに気付いてしまう。それ
なら相羽に真っ先に引かせればいいと思うかもしれないが、相羽にただ不正を
持ち掛けても拒絶されるに決まっている、しかし「涼原さんも乗ったぜ」と言
えば揺らぐかもしれないぞと考えたのだby唐沢。
 目で尋ねる純子に、唐沢はさらに囁きを続けた。
「うまくやってやる。任せろ」
 それから長引くと他の者から不審がられると踏んだのだろう、「随分迷って
るねー、すっずはらさん。迷うのはいいけど、透視できるわけじゃないんだし、
お早めに」と声を張る。再び笑い声に包まれる教室。
 純子は自らも笑いながら、まだ躊躇した。
(相羽君と隣り合うようにしてくれる? そうだとしたら……嬉しいけれど、
でも)
 ずるはよくない。
 純子はかすかに首を横に振ると、袋の底に固まる紙片の中から一つを掴み、
取り出した。
「えー、それでいいの?」
 唐沢の呆れ声が上から降り注いできた。純子は分かるよう、黙って大きくう
なずいた。
「やれやれ。――時間を食ってしまったな。ほんと、やれやれだ」
 そう言いながら、唐沢は袋を振った。恐らく、その動作に紛れて、握り込ん
でいた“純子用”の紙と“相羽用”の紙を、袋に投じたに違いない。
(あとで唐沢君に謝っておかなくちゃ。それにしても、いきなり委員長をやら
されて、席替えのくじ引きでそんなことをしようと思い付くなんて……唐沢君
も手品を習ったら上手になるんじゃないかしら)
 そんなことを思いながら、唐沢の背中を見送った。
 ほどなくして全員が引き終わり、唐沢は教壇へと戻った。
「えっと、先生。実際に席を替わるのは明日から?」
「そうなるかな。今日、席を替わっても、それですぐ、はいさようならだし。
まあ、荷物を机の中に置いておきたい者もいるだろうから、その辺は自由にや
ればいいよ」
「了解しましたー。では、とりあえず、座席表だけ作るってことで」
 唐沢は、今度はややもたつきながら、教室の椅子の数だけ、四角形を格子模
様のように板書した。それから肩越しに振り返り、「一番を引いた奴がいたら、
名前を」と皆に言った。
 この段取りで二番以降も聞いていき、格子模様を名前で埋める。場所が決ま
る度に、ちょっとした歓声や落胆の反応が漏れ聞こえ、面白い。
 だが、純子は面白がるどころではなく、席が決まる前から落ち込んでいた。
唐沢の厚意を袖にして、自分の意志で選んだ数字は、四十五。校庭側の一番端
の列に入るのは確定だ。両隣がある列に比べると、相羽の席と隣接する可能性
が減ったことになる。
 しかも四十五ということは、最後尾になる確率が高く、もしそうなったら周
囲の席が他よりも少ないわけで、ますますもって期待できない。
(せめて、相羽君に少しでも近い席になればいいな……。できれば、相羽君よ
りも後ろの席がいい。逆だったら、ずっと意識しちゃって、授業中でも落ち着
かなくて何度も振り返ってしまいそう。ううん、贅沢は言いません)
 首を振り、目をつむって、下を向く。いつ、相羽が返事をするか、どきどき
しながら耳を傾けていた。今、ちょうど半分の二十四だが、まだ相羽の番号は
呼ばれていない。
 なるべくあとに呼ばれてほしい……そう願う純子の耳に、しばらくして相羽
の声が届いた。三十四番だった。
(三十四……微妙かな?)
 少し明るい気分になり、相羽の方を見やる。
 相羽は前を向いたまま、口元に手をあてがい、どことなく考える風だ。純子
がまだ呼ばれていないことは当然分かっているから、隣り合う確率の計算でも
しているのかもしれない。
 相羽は三十四番だったが、実際はこれまでに二つの数字が欠番になった(引
かれなかった)ため、廊下側の列前方から数えて三十二番目の席になる。
(ということは……)
 純子もまた前を見、埋まりつつある座席表で確認する。三十二番目の席の隣
は二十六番か三十九番。純子がなれる可能性があるのは、三十九番目だ。
(私の四十五番が呼ばれるまでに、六つ、引かれなかった数字があれば、相羽
君の隣になるっ。引かれない数字は全部で八つ。すでに二つあったんだから、
あと六つの内の四つが四十四までに含まれなくちゃいけない! ……やっぱり、
厳しそう)
 過度の期待をしないでおこう。心にそう決めて、純子は唐沢の声とそれに対
する反応に耳を傾けた。

(思い出すだけでもまだ恥ずかしい……)
 昼前の下校にも、純子の足取りは重かった。いや、学校から早く離れたいこ
とは確かなのだが。
「何かぼそぼそ言っているのには気付いたんだけれど、不正は本当になかった
のよね?」
 純子の前を歩き、隣の唐沢に詰め寄るようにそう言ったのは、珍しくも一緒
に帰る白沼だ。疑惑を持ったからこそ、一緒に帰っていると言うべきか。
「言ってるだろ。俺はそのつもりだったが、涼原さんが拒んだんだって」
 辟易した様子で何度目かの抗弁を試みる唐沢は、質問攻めに参ったか、ささ
やかな逆襲に出た。
「それにしても地獄耳だねえ、白沼さん。涼原さんの二つ前の席だから、絶対
に聞こえやしないと安心してたのに」
「余計なお世話よ。まったく、席が近いばっかりに、この子の喜びぶりを見せ
つけられたわ」
 純子は白沼に見据えられ、肩を縮こまらせた。
 奇跡的に――少なくとも純子にとっては奇跡的だ――相羽の左隣に席が決ま
った瞬間、純子は「やったぁ!」と声を上げてしまった。彼氏の隣になっては
しゃぐというだけでも結構恥ずかしいが、もう一つおまけがあった。
 決まった瞬間とは、直前の番号である四十四に誰も反応しなかったそのとき
であり、要するに自分の番号が呼ばれない内から喜んでしまったわけ。もう、
二重に恥ずかしかった。
「ご、ごめんね、白沼さん」
「いいわよ、別に。不正はなかったようだし、私は一応、身を退いたんですし
ね、一応」
 まだ微妙なところを残した文言ではあるが、白沼はそう認めた。
 唐沢が「あ、信じてくれたんだ。よかったよかった」と表情をほころばせて
みせると、白沼は、ふん、という風に髪をかき上げた。
「元々、信じてなかったわ、不正なんて。今日のくじ引きのやり方で、前後な
らともかく、左右に隣り合わせるのは、まず無理だと思うもの。ただ、あなた
が変な囁きをしたようだったから疑ってみただけのこと」
「なーんだ、焦って損した」
「やろうとしていたのは事実なんでしょうが。ま、どうせ相羽君が拒絶してい
たから、失敗に終わったでしょうけど」
 言い捨ててぷいと横を向いた白沼は、その視線の先にいる相羽には、一転し
て最上級の笑顔を作った。
(本当に退いてくれたのか、疑わしくなっちゃうじゃない)
 後ろからその様子を目の当たりにし、むくれる純子。今はまだ恥ずかしい思
いを引きずっているから、口には出さないが。
 と、白沼が振り返った。
「それにしても、二人の運のよさには驚くのを通り越して、呆れてしまうわね。
かなわないなぁ」
 そう言った白沼の目は、いつものきつい感じではなく、微笑みをたたえてい
るような。
 思わず俯いた。別の恥ずかしさ――気恥ずかしさを覚えた。
 白沼はそんな純子に気付いたか気付いていないのか、すぐまた相羽の相手に
戻った。
「でも、次の“いいな”と思える人を見付けるまで、しばらくの間、まとわり
つくから覚悟しておきなさい。かなわないまでも、ユーワクしてあげるからね、
相羽クン」
「無駄だなあ」
 相羽が困ったように嘆息した。春休み中のテラ=スクエアでの出来事を思い
出したのかもしれない。
「涼原さん、何してんの。取られないように、相羽にくっつかなきゃ」
 いきなり唐沢にそう囁かれた純子は、でも、首を横に振った。
「いい、いいの。そんなことしなくたって……」
「赤い糸で結ばれていると証明されたから、ってか?」
「そうじゃなくて。今日ははしゃぎすぎたから、反省してるところ」
 唐沢は冷やかしたつもりらしく、純子の冷静な返事に目を丸くする。
「別にいいのに。楽しめる内に楽しんでおかないと、後悔するぜ。どうせこれ
から、普段、会う時間が減ってくんだろ?」
「ま、まあね。色々と仕事が」
 その内の一つは白沼経由で持ち込まれたと言ったら、唐沢はどんな顔をする
だろう。少し見てみたくもあったが、黙っておいた。わざわざ状況をややこし
くすることもない。
「仕事かぁ。涼原さんが忙しくなけりゃ、副委員長に指名したのにな」
 純子が顔を起こして唐沢を見返すのと同時に、前方から相羽の声がした。
「唐沢、言うだけならいいが、頼むなよ」
「分かってるさ。頼んだら引き受けてしまいかねないもんな、この人は」
 二人の男子に対し、視線を行き来させる純子。相羽がしばし歩みを遅くして、
純子の隣に並んだ。前方では、取り残された?形の白沼が、小さくため息をつ
いたよう。そして彼女は足を止めると、相羽の隣につく。
「そこは『この人』と言うよりも、『このお人好しさん』がふさわしいわね」
 白沼の目が唐沢、純子、唐沢と移り、戻った。
「私、そんなにお人好しじゃないって。自分のことを一番に考えてる」
「いやいや。だったら、相羽とくっつくまで、こんなに時間は掛かりゃしない」
「そうね。加えて、時間と言うよりも年月って感じだから、困ったものね」
 抗議を唐沢と白沼からダブルで一蹴され、なおかつ相羽との仲を言われては、
純子は肩を小さくするほかない。
(相羽君はどんな気分なんだろう……)
 そっと窺うと、案外平気な顔をしているのが分かり、気抜けすると同時に、
頼もしくも思えた。
「珍しい場面を見た気がする。唐沢と白沼さんが同意見だなんて」
 相羽がぽつりと言うと、白沼がとんでもないとばかり、顔の前で手を振った。
「さっきのは、言ってみれば一般論ね。誰に聞いても同じ答が返ってくるわ。
現に相羽君自身、そうだったじゃない」
「それを抜きにしても珍しい。案外、気が合うんじゃないかな?」
 ここまで聞いて、これは相羽から白沼への“逆襲”なのだと気付く。すると
唐沢も心得たもので、すぐさま呼応した。
「おー、そいつはいいや。白沼さんに副委員長をやってもらえりゃ、以心伝心、
さぞかし仕事がはかどるだろうな、うんうん」
「じょ、冗談じゃないわ」
 若干、身を乗り出し気味にして、唐沢の方をにらむ白沼。
「絶対に嫌ですからね。お断り」
「つれないな〜。真面目な話さ、白沼さんなら実績あるし、柄でもない委員長
をやる俺にとって、頼りになるんだが」
 瓢箪から駒と思ったのか、誘いを掛ける唐沢はまんざらでもなさそう。だが、
白沼は頑なだ。
「嫌よ。そりゃあ、私ならクラス委員ぐらい簡単にこなせるけれども、あなた
とやるのが嫌なの。しかも、私の方が『副』だなんて」
「そんなこと言わずに、考えてみてよ。他にいい人、浮かばないんだよな」
 笑顔で語り掛ける唐沢。白沼はますます不機嫌な顔つきになった。四人横並
びで歩く最中、端と端とで言い合いをされて、挟まれた格好の純子と相羽は苦
笑を浮かべていた。
「女の子の知り合いなら、他にも両手両足の指でも足りないほどたくさんいる
でしょうに。その中から選びなさいよ」
「いやあ、隣に立つのは、とびきりの美人がいいのよん、やっぱり」
 はははと笑いながら後頭部に片手をやった唐沢に、白沼は呆れ眼で横にらみ
した。純子や相羽なら軽い冗談と分かるが、白沼には通じないようだ。
「おだてても無駄よ。それにその言い種、あなたの知り合いの女子にかなり失
礼よね。言い触らしてあげましょうか」
「ありゃ、やぶ蛇だったか。じゃあ、他の言い方に変えよう。白沼さんが副委
員長なら、俺も女の子にうつつを抜かすことなく、役職を全うできるから適任
なんだよな」
「……どういう意味かしら」
 フォローのはずが、白沼の表情は険しくなる一方。彼女は相羽の横を離れる
と、こめかみを押さえつつ、唐沢の方に素早く歩み寄った。
「な、何でしょう?」
 詰め寄られ、上半身を後ろに反らす唐沢。白沼は一瞬、相手の胸元を指差し、
続けた。
「私があなたのことを監視するから? それとも、私には恋愛感情が一切持て
ないとでも?」
「お、怒ることないじゃん。まさか、俺に好いて欲しいわけじゃないだろうし」
 戸惑いをまだ残す唐沢に対し、白沼は声のボリュームを上げた。
「それは当たり前! だけど、もてないかのような言い方をされると、とても
とっても心外!なのよね。あなたの口から言われたら、なおさらだわ」
 それだけ言うと、白沼は歩みを速めた。
「やっぱり、慣れないことをするものじゃないわね。お先に失礼するわ。相羽
君、また明日、学校で会いましょ」
 一度、振り返って相羽に微笑みかけたきり、どんどん離れて行ってしまう。
「……今、急いだって、駅で一緒になる可能性が高いのに」
 相羽が現実的なことを呟いた。精神的に解放された唐沢は。顎に手をやり、
「ははーん」と芝居がかって言った。
「だからあれは照れ隠しで、案外、次の“いいな”と思える人とやらが、すで
にいるのかもしれないぞ」
「だったら、僕らに付き合って帰ることないだろ」
「それはあれだ。涼原さんの喜び様を見せつけられて、邪魔をしたくなったと」
 唐沢の言葉に、また肩を小さくする純子だった。
「今日、喜びすぎたのは反省してる。けど、明日からもこんな調子じゃあ、隣
同士になったのが、かえって辛いなぁ……。話一つするのにも、人の目を気に
しなくちゃいけない感じ」
「気にせず、毎日いちゃいちゃしてやればいいさ」
 唐沢の台詞、特に「いちゃいちゃ」の箇所には、純子も相羽も目元を赤くし
た。互いに顔を合わせ、また赤くなる。
「ま、限度を超えたときは、俺が委員長権限でフォルトって言ってあげよう。
だからそうなるまでは思う存分、いちゃつきな」
「……白沼さんが先に行った気持ちが、よく理解できたよ」
 相羽はそう言うと、純子の手を取った。
「行こう、純子ちゃん」
「え?」
 手を引かれる格好になった純子は、歩幅を大きくしながらも相羽の顔を見た。
「駅まで走る!」
 二人は一緒に駆け出し、唐沢は置いてけぼりを食らった。

「ひどいです、涼原先輩」
 新学年スタートの二日目、朝から教室前の廊下で純子を待ち構えていたのは、
顔見知りの一年生だった。
「め、恵ちゃん。おはよう……」
 二年三組の教室まで訪ねて来た椎名恵を前に、純子はとりあえず挨拶した。
他の対応を思い付かなかったせいだが。
 椎名は聞こえなかったのかどうか、“じと目”のまま、詰め寄ってきた。
「入学のお祝いに、先輩の方から来てくれると密かに期待していたのに」
「……恵ちゃんの家に?」
 純子の怪訝な表情が、椎名に平静さを取り戻させたか、彼女は恐縮した風に
手を振った。
「いえ、先輩にそこまでさせられません。私の教室まで、という意味です」
「でも私、恵ちゃんのクラスを知らない……とにかく、座らせて」
 教室に入る純子。振り返ると、椎名は入ろうか入るまいか、躊躇している。
「遠慮することないよ、恵ちゃん。一年生だってことを弁えていれば、大丈夫」
「そうですか。じゃあ……失礼して」
 二年生の教室という雰囲気に、頭を下げる椎名。そこまで気を遣うくらいな
ら、まず私に遣ってほしいと思い、純子は嘆息した。
「それで、何組になったの?」
 椎名に尋ねつつ、自分の席に収まり、先に来ていた相羽と目を合わせる。
「二組ですよぉ……あ! 相羽先輩まで!」
 遅蒔きながら、椎名も気付いたようだ。相羽の方を振り返って、胸の前で手
を組む。
「久しぶり」
「こちらこそ、お久しぶりですっ」
 相羽の簡単な挨拶に、椎名は頭を深々と下げた。
「その様子だと、男嫌いの気味は完全になくなった?」
「完全じゃないです。清潔感のある人でないと、まだだめなんです」
 相羽は小声で聞いたのに、椎名自身は隠すつもりもないらしく、敢えて宣言
するかのように堂々と答えた。
 純子はそれでも辺りを憚りながら聞いてみる。
「そう言えば、試しに付き合ってみると言ってた男の子とは、どうなってるん
だっけ」
「自然消滅ですよぉ。高校も違うとこ行って」
「あ、そう……」
 悪いことを聞いてしまったかと思いきや、椎名の表情を見る限り、そうもな
い様子だ。弾んだ口調と相俟って、すっきりした風にすら映った。
「今のところ、確実に大丈夫って言える男の人は、相羽先輩だけなんですよっ」
 椎名は相羽の机に手を突いた。純子からは、椎名がどんな顔をしているのか、
見えなくなる。ちょっぴり、気になった。
(そう言えば恵ちゃんには、私と相羽君が付き合っていること、きちんと伝え
てなかったわ。察してくれてると思うんだけど、一応、話しておいた方がいい
かも……)
 そう考えたものの、即、実行に移すことはしない。昨日の一件がブレーキに
なっている。
「お暇なときだけでいいですから、顔を見せてくださいね、涼原先輩。お願い
します」
 いつの間にか向き直った椎名が、眉根を寄せた弱り顔で、手を拝み合わせて
きた。
「そんな大げさにしなくても、行くわ。ただ……ちょっと忙しくなりそうなの」
「あ、ですよねー。二年生っていうだけじゃなしに、モデルとかの仕事もある
んでしたっけ。ずっと応援してるんです。がんばってください!」
「あ、ありがとう」
 椎名は朝の休み時間をかき回すだけかき回して、出て行った。
 とにもかくにも、これで相羽とお喋りができると思った矢先、結城と淡島が
並んで寄って来た。彼女達からすれば、面識のない一年生が去るのを待ってい
たのだろう。
「あの子、誰? 一年みたいだけど」
 廊下からこちらに首を戻し、結城が聞いてきた。小学校のときからの後輩云
云と、純子が説明する。
「そういうタイプは、きっちり線を引いて、びしっと言ってやらないとだめな
んじゃないかなあ」
「私の感想も同じく」
 結城、淡島ともに好感情は持てなかったようだ。純子は「悪い子じゃないの
よ」と言っておいた。
「悪い子だろうがいい子だろうが、関係なしにさ。空気読めないで、あなたの
日常生活に割り込んでくる感じに見えた。小さい頃ならまだよかったかもしれ
ないけど、今はそうも行かないんじゃない?」
 結城の見方は結構鋭いようだ。黙って考え込む純子に、結城は声のトーンを
変え、「そんなことよりも」と肩を揺すってきた。
「蓮田秋人に直に会ってサインをもらうのって、今でも有効?」
「あ、もちろん。あの話、どちらかと言えば、マコの方が怖じ気づいちゃった
んじゃなかった?」
「うーん、そこを突かれると辛い。でも決心したんだよね。高三になるとうち
の家族でも、さすがに遠くへ遊びに出掛けるのを許してくれない予感がする。
だから二年の内にと、一念発起して勇気を奮い立たせることにしたわけ」
 結城の家族は揃って蓮田秋人のファンと聞いていたけれど、受験が近くなる
とそんなものだろうか。
「じゃあ、会えそうな日を聞いておくね。はっきり言って、こっちの都合通り
にはまず行かないから、覚悟しておくように」
「それはもう百も承知。しばらくは普段の予定、何にも入れずに待つことにす
るから、いつでもどんと来い!よ」
 結城が胸を叩いてみせたすぐあとに、前の方から唐沢の声で「……じゃあ、
結城さんに頼むのも無理か」と聞こえてきた。
「――何のこと?」
 振り返りながら聞いた結城の横を抜け、相羽の机の前で立ち止まる唐沢。
「副委員長のこと。俺がこれと見込んだ女子には、悉く断られてる。さっき職
員室で、センセーに早く決めろって言われたんだが」
「へえー? もてるのにねえ」
「それは、その人の選ぶ基準が間違っているからよ」
 今度は後方から白沼の声だ。じきに予鈴が鳴る頃合いなのに、純子らの席周
辺は混雑を増してきた。尤も、白沼は自分の席に着いただけだが。
「委員長の仕事に自信を持てなくて、頼りになりそうな女子にばかり声を掛け
てる。唐沢君がもてるのは、あなたを頼るというか、あなたに甘えるタイプで
ほぼ一〇〇パーセントを占めるわね、きっと」
「間違ってるか? 俺、クラスの仕事で逆に頼られたら、ぐだぐだになるよ」
「偉そうに断言することかしら」
「と、言われてもな。真面目にやるのって性に合わないし、初めてのことだし。
あーあ、こうなると分かってたなら、テニス部に入っといたのによ」
 頭上で行われる白沼と唐沢の応酬を気にしつつ、純子は淡島に「それで、淡
島さんは何か用事?」と尋ねた。相手はしゃがんで、純子の机に腕枕を作って
から答える。
「再び、結城さんと同じく、です」
「え、と言うと……」
「私も芸能人に直接会ってみたいと思いまして」
「ふ、ふーん。ちょっと意外だな」
「芸能人のオーラを感じることで、私の占い観によい影響がありそう。そんな
気がしたものだから」
 そう言って、淡島はにこりと笑い、首を傾けた。
「分かったわ。ただ、私も一応、芸能界の末席を汚してるんですが……」
 苦笑を交えてそう返す純子に、淡島は笑顔のまま、けれど大真面目に言った。
「涼原さんは友達です。だから、芸能人オーラのあるなしは分からないし、そ
もそも関係ありません」
 うれしさで、純子の頬も自然とほころんだ。
 そんな雰囲気にはお構いなしに、唐沢と白沼のやり取りは続いている。
 そこへ、純子の真後ろの席から、「えへん、えへん」と咳払いが聞こえた。
明らかに故意のものである。
 純子達はめいめいのお喋りをやめ、振り向いた。それを待っていたように、
男子生徒が口を開く。
「少し静かにしてくれないか。休み時間とはいえ、じきに授業が始まる」
 眼鏡のブリッジを右手中指の腹で押し上げ、いささか嫌味ったらしく言って
きたが、彼の視線は手元の教科書に落とされたままだ。
「あ、ごめん、稲岡(いなおか)君」
 純子は笑み混じりに頭を下げた。
 稲岡時雄(ときお)。今度の学年で初めて一緒のクラスになったが、名前は
以前から知っていた。各教科の先生が、勉強のできる生徒の代表のように彼の
名を口に出すためである。
 純子達の通う緑星は進学校ではあるが、志望先による細かなクラス分けは三
年生からとなっている。
「分かればいい」
 対応の時間すらもったいないとばかり、ちらとも目を上げようとしない稲岡。
純子は口元をぎゅっとかみ、仕方なく前を向いた。そして分からないよう、小
さな吐息を。
(折角、相羽君と隣り合わせになったけれど、喜んでばかりもいられないな。
調子に乗りすぎないようにしなくちゃ)

――『そばにいるだけで 64』おわり




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