#330/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/08/31 23:59 (445)
お題>すれ違い 1 永山
★内容 08/09/02 00:05 修正 第2版
いや、かまわんよ。別に汚れた訳でも、濡れた訳でもない。
それよりも、君みたいないい若者が、休みの昼からこんな店で一人とは、ど
うしたんだね。さっきから、しきりに出たり入ったりを繰り返しておるが。
ああ、気になっていた。よければ、話してくれないかな。
ん? 待ち合わせ相手と行き違いになったらしい? 何と、それだけのこと
だったとは。いやいや、すまない。君にとっては大事なことだろう。ただ、も
っとドラマチックな理由を期待してしまってね。
行き違いというか、すれ違いになるかな。私にも思い出があるよ。ちょうど
いい暇潰しだと思って、聞いてみる気はあるかい? この雨だ、どうせ相手も、
じきに引き返してくるさ。
うむ、結構。付き合ってくれて感謝するよ。
あのときも、そうだな、最後には今日のように雨が降った。
* *
最初の殺人から三年が経った。
もう充分だ。沼島豊一(ぬしまとよかず)に制裁を加える権利が、私にはある。
この男が当時成人し、かつ三人以上殺していれば、私も警察に出向いて、証
言をしただろう。しかし、沼島は高校生で、手に掛けたのは二人。死刑判決は
望めまい。私が直接、死刑を科すしかないのだ。
三年という時は長かったが、その分、計画を練り、準備をすることができた。
沼島は乾登喜夫(いぬいときお)と帯谷真優子(おびやまゆこ)を、事故に見
せ掛けて殺した。同じ手段を私は執らない。発覚を避けるには、事故死か自殺
を偽装するのが一番だとは理解している。しかし、私は沼島を惨殺しなければ
気が済まない。加えて、事故死や自殺に見せ掛けては、沼島の悪事を白日の下
にさらせないではないか。罪を悔いての自殺なんてシナリオは、以ての外だ。
神と悪魔に裁かれたような死。それこそが、沼島豊一にふさわしい。
私と沼島のつながりは、謎求会というミステリ同好会に属していることのみ
にある。
会の恒例行事となっている夏合宿に、沼島は今年も参加の表明をしていた。
この合宿で会員仲間を二年続けて殺しておいて、よくもぬけぬけと。その図太
さには呆れるばかりだが、そもそも、三年前の三月末、沼島が謎求会に入会し
たがために、事件は起きたと言える。
高校二年生の沼島は、過剰なまでに自信に満ちた男で、この年頃にありがち
な悩みの欠片すら抱えていなかった――それが彼を見た私の第一印象である。
実際、これは間違っておらず、年上の帯谷に早速モーションを掛けていた。だ
が、既に彼氏のいた帯谷は、相手にしなかった。いや、この高校生を慮って、
きつい言い方にならないようにしつつ、固辞を続けていた。
ところが、自信家の沼島は――周囲の人間は知るよしもなかったが――、帯
谷が誘いを断るのは、彼氏に遠慮しているためだと解釈した。帯谷の彼氏、乾
を排除すれば、帯谷は気兼ねなく我が胸に飛び込んでくると信じたのである。
だから、沼島は乾を橋から突き落とし、殺害した……らしい。
残念ながら、この件に関しては推測の域を出ない。帯谷の場合と違い、私が
直に目撃した訳ではないからだ。だが、ほぼ間違いないと見なしている。何故
ならば、沼島は帯谷を同じ橋から同じように墜死させたのだ。しかも、乾の死
んだ日からちょうど一年後に(そのために、帯谷は乾のあとを追って自殺した
とすら考えられている。遺書がないので、最終的な判断は下っていないが)。
二泊三日の夏合宿は、八月中の週末を利して、謎求会会長の萩原行長(はぎ
わらゆきなが)が所有する別荘で行われる。昨年は、二年続けて死者を出して
いたため自粛し、場所を都内に移して日帰りで済ませたが、それ以外はずっと
会長の別荘が定番となっていた。
ゲームソフトメーカー社長のミステリ趣味が高じて建てただけあって、それ
は別荘よりも館と呼ぶ方が似つかわしい、二階建ての洋館である。当人は、で
きれば古城風にしたかったと常々言っているが、私の目には充分に広く、大き
い“城”に映る。そう、殺人事件が起きるのにふさわしい舞台。
館で殺人を起こすことに、持ち主の会長にはすまない気持ちもあるが、心中
で許しを請うほかない。他の場所を殺人の舞台にすることも考えなくはなかっ
たが、私と沼島が継続的に接近していられるのは、合宿の機会をおいて他にな
い。それに、ほぼ毎年通う内に、よいトリックを思い付いたというのもある。
会長の別荘でなければ実行不可能という訳ではないが、会長の別荘でなら失敗
しない自信がある。何故なら、会で行うゲームとして、いつか皆にお披露目し
てやろうと、密かにリハーサルを重ねていたからだ。
さて、余計な能書きはここまでとしよう。このメモは、万が一にも私が沼島
を殺し損ねたとき、あいつが帯谷と乾の命を奪ったと示唆するために書き残す
ものなのだから、計画の詳細をだらだらと綴っても仕方がない。
黙祷の時間が過ぎると、食堂はどこかほっとしたような空気に包まれた。
萩原会長が、このあとはミステリ談義に花を咲かせよう、それが二人の供養
になると信じて云々と締めの言葉を述べることで、安堵した雰囲気はいよいよ
広がる。そして夕食が始まった。
気持ちの片隅に引っ掛かる物やいたたまれない物が多少あっても、とりあえ
ず肩の荷を下ろせた――メンバーのほとんどは、これが正直な気持ちだったろ
う。
今年の謎求会夏合宿に集まったのは、会長と沼島の他には、七名を数える。
・沼島の高校時代の恩師で、彼をこの会に誘った泉田東次郎(せんだとうじろ
う)
・会長の旧友で主婦の松岡俊美(まつおかとしみ)
・推理小説研究家の鷲巣重蔵(わしずじゅうぞう)は隠居老人で、年長者
・吉倉志保美(よしくらしほみ)は舞台俳優だが、ミステリ劇に出演し、ゲー
ムの声優を務めたのが縁で、萩原会長と親交を持つように
・会長の掛かり付け医、江ノ本竜彦(えのもとたつひこ)は、会長のミステリ
好きを呼び覚まし、会誕生のきっかけを作った
・秋塚丈治(あきづかじょうじ)は平凡なサラリーマンを自称するが、古書コ
レクターとして一目置かれる
そして私、月影満(つきかげみつる)、推理作家の卵だ。この名前はペンネ
ームだが、皆と初めて顔を合わせて以来、月影で通している。
無論、メンバーではない者も数名、館にいる。館の管理人である合田(ごう
だ)夫妻に、メイドが一人。萩原会長の秘書、小村麗奈(こむられいな)は、
仕事上の連絡係として同行していた。
総勢十三。不吉だとか縁起が悪いだとかは、一切感じない。じきに一人が消
え、十二人になるのだから。
「調子はどうです、月影さん?」
隣に座った泉田はそう尋ねてから、湯飲みの茶を何度も吹いた。猫背気味の
彼が猫舌とは、よくできている。痩身だからか、口をすぼめて目を細める様が、
やけに神経質そうに映った。
私は例年通りの質問に苦笑を浮かべてみせ、皆にも聞こえるように声をやや
大きくした。
「十月末締め切りの賞に向けて、トリック重視のを書いています。あと、少し
方向転換して、来年一月末締め切りの賞をターゲットに、職業物とでも言うの
ですかね、専門色の濃いミステリを」
「二作、並行して書いて、大丈夫ですか」
「実際に執筆しているのは、締め切りが近い方だけですよ。一月末の方は、プ
ロットを詰めている段階」
「一本に集中した方がいいと思いますけどね。落選を繰り返しているんだから」
泉田を挟んで私と反対側に座る沼島が、批判的にはっきりと言った。毎度の
ことなので、気にならない。私が三ヶ月に一度、会のためにこしらえる犯人当
て小説でも、不正解になると何やかやといちゃもんを付けてくるのだ。
「いっそ、君が挑戦したら?」
向かいに座る吉倉が、箸を沼島に向ける。仕種だけでなく、声にも半ばから
かうような響きがある。自他共に認める“個性的な美人”で、嫌な感じはあま
りない。
「僕は――」
答えようとする沼島を遮り、鷲巣が声を張る。声は元気だが、肌の色つやは
あまりよくない。健康そのものだったのが、ここ二年ほどで老け込んだように
見えた。年相応とすべきかもしれない。
「沼島君、君は宣言して賞に投稿するタイプではないな。周囲の人間には秘密
で、黙って投稿し、首尾よく行けば口外し、自慢する。賞に投稿する気があろ
うがなかろうが、皆の前では『いえいえ、僕なんて』と答えるだろうよ」
「――よくお分かりで」
一瞬、笑顔を引き攣らせたようだが、すぐに修復する沼島。
「できることなら、この夏合宿までに成果を上げて、皆さんに報告したかった
のですがね。学生生活に忙しく、手が回らなかったもので」
「言うからには、腹案があるのだろう? どんなトリックを使うつもりだい?」
銀縁の眼鏡をくいと押し上げ、興味津々、江ノ本医師が聞く。こんな質問を
するが、トリック偏重の読者ではなく、ストーリーはストーリーで楽しみ、ト
リックを珍重するタイプである。私も同じだ。
「喋れるようなものはないですよ。まあ、分類だけ言うと、密室とかアリバイ
工作とかいった、トリックを用いたことを疑われるような手段は、現実的でな
いから使いたくないかな。読む分には好きでも、書くとなると何だか馬鹿らし
くて」
「手厳しいな」
私は一言だけ応じ、苦笑を浮かべてみせた。感情を偽りのそれとすり替える
のにも、ここ二年ほどで慣れた。
「あんまり、きついことを言うものじゃないわよ」
松岡が会話を引き継いでくれた。丸顔でころころ笑っているが、いつもに比
べて化粧がおとなしめなのは、やはり哀悼の気持ちの表れであろう。
「沼島君も月影さんの犯人当て、楽しんでるくせに。毎回、完璧な正解を出せ
るようになってから、大口を叩きなさい」
「やれやれ。ここは大人の皆さんの忠告に従うとしましょう。でも、ま、近々、
出題者の立場になってもいいかなと考えてましてね。締め切りが近付いたら、
月影さんも執筆に集中したいでしょう。その間、僕が代理を引き受ける訳です」
「……悪くない話だね」
当たり障りのない返事を心掛ける。いや、ここは「じゃあ、次回は沼島君に
頼むよ」と言っておくべきか? 彼に対して殺意のなかったことをアピールす
る意味で。
そんなことを斟酌していると、会長が先に口を開いた。
「謎は多ければ多いほどいい。可能であれば、お二人に犯人当てを書いてもら
い、どちらの正解率が低いか、あるいはどちらが犯人当てとして優れているか
を競うのも、なかなか面白いのではないかな」
「私は量より質ですね。あ、別に月影さん達の犯人当て小説を悪く言ってるん
じゃないですよ。今の会長の発言に対して、ですから」
黙っていた秋塚が、不意に発言した。ために、自然と皆の注目を浴びる格好
となった。目をしばたたかせ、ごま塩頭を振る。続けて何か言わねばと感じた
のだろう、唾を飲み込んだ。のど仏が動くのがよく分かった。
「ああっと、ついでに今回の合宿での懸賞品を発表させていただきましょう」
合宿で行う犯人当て小説には、懸賞を付ける。購入費は会費から出すが、懸
賞品を用意するのは、多くの場合、秋塚の役目である。彼に任せれば、ミステ
リ関連の珍しい書籍やグッズを、比較的安く手に入れることができる。目利き
も確かだ。
「発表するのはいいが、披露はテーブルの上を片付けてからにしてくださいよ。
下手をして汚しては勿体ない」
会長の忠告に、笑いが起きた。
合宿全体の流れは、明るく和やかなものと決定した。
夕食は午後八時で終わり、しばらく自由に過ごすことになる。
私は計画の最終チェックをするため、そして下準備のため、早々に個室に向
かおうとした。逸るのはあくまで気持ちだけ、実際の態度や足取りは余裕ある
ものに努めた。急ぎすぎて何事かと注目されてはまずい。
廊下まで出て、いくつかの部屋を通り過ぎた。そこへ。
「月影さん」
沼島が後ろから声を掛けてきた。
多少びくりとするが、平静を装って応じる。さっきの議論の続きでもしたいの
だろうか。
「何かな」
振り向くと、沼島は自身の部屋の前で、ジャケットの懐に右手を入れ、ごそ
ごそやっている。程なくして、財布が出て来た。
「前の例会で借りてた金」
「ああ」
謎求会は月一ペースで例会を開いている。先月、珍しく沼島が参加したのだ。
この合宿の段取りを直接聞いておきたいとの意図だったらしく、ついでに参加
費を持って来ていた。が、何をどう勘違いしたのか、千円不足していたのだ。
一番親しい泉田は不参加で、借りる当てのない沼島に、私が千円を貸した。二
人の間に険悪なものはありませんよと、アピールするため。
「利子なしの代わりに、ピン札で」
どうでもいいことを言うくらいなら、礼の一言でも付け加えたらどうだ。ち
ょっとしたことで、沼島に関してはいらいらを覚える。
「確かに」
と、受け取った瞬間、相手がしかめっ面をした。同時に舌打ちも。何事かと
思い、その表情を見つめる。
「あ、いや、こっちのこと。ピン札のせいで、切れました」
沼島が右手を広げ、こちらに見せる。人差し指の中程と親指の付け根付近に、
赤い筋ができていた。見る見る内に、血が滲む。
「こりゃ意外とひどいな。家政婦さんに言って、絆創膏を」
「平気っすよ。嘗めてりゃ、その内」
あとの言葉がないのは、本当に傷口を嘗めたため。
「じゃ、またあとで」
どことなく気取った身振りで言うと、沼島は宛がわれた個室に入って行った。
夜十時過ぎ、大きなハプニングの発生が明るみに出た。
夕食後は各人自由行動で、たいていの者は風呂をもらう等して過ごす。その
あと、十時に再び集まり、酒をやりながらミステリの話に興じるのがお決まり
のパターンだったのだが……一人、顔を見せないメンバーがいた。
家政婦を兼ねる管理人夫婦の妻、合田政子(まさこ)が大広間に来て、萩原
会長に報告する。
「鷲巣さんの部屋を見て来ましたが、おられません。ノックに反応がなくて、
仕方なく、失礼をしてドアを開けたのですが……」
「ふむ。再集合の時刻を忘れるとは考えられんし、いくら気心の知れた集まり
とはいえ、鍵を掛けずに部屋を空けるのはおかしい。隅々まで見たのか? た
とえば、眠り込んでベッドから落ちたが、影になって見えなかったとか」
「いいえ、そこまでは」
小柄な身体を縮める合田政子。使用人の立場としては、遠慮せざるを得ない
ということだろう。会長もその心情を理解したらしく、自ら腰を上げた。
「しょうがない。私が見て来よう。――皆さんは先に初めてください」
「ああ、私も着いていくよ」
と、江ノ本医師。無精髭を気にする風に顎を撫で、よっこらしょと立ち上が
る。
「万が一、急病や頭を打って気絶なんてことであれば、処置が早い方がよい。
それに」
ドアの方へ、会長を追いながら、江ノ本は不意に冗談めかした。
「ミステリではこのような場合、複数で行動するべきだろう」
「それならいっそ、全員で団体行動と行きませんか」
沼島が真に受けたのか、冗談に乗ったのか、そんな提案をした。が、同調す
る者は現れなかった。
会長らが出て行ってから数分後、我々が遅いなと口々に言いだした頃に、萩
原会長だけが、駆け足で戻って来た。その様子に、緊張感が走る。広間に残っ
ていた面々が注目する中、会長は息を整えて説明を始めた。
「皆さん、落ち着いて聞いてほしい。鷲巣さんは、部屋で亡くなっていた。し
かも、他殺の可能性がある」
江ノ本の姿がないのは、蘇生を試みて手や衣服が汚れたため、着替え等をし
ているんだという。
「どんな様子だったのか気になりますが、今は警察への通報が先決でしょうね。
会長、もう済ませたので?」
落ち着いた声で、秋塚が言った。だが、慣れっこになったのではない。その
証拠に、顔が青ざめている。
「ああ、そのつもりだったんだが」
口ごもる会長。私には理由が分かっていた。自由時間を利して、電話の大元
を壊し、使用不能にしたのは私なのだ。会長の話では、故障なのか、それとも
意図的な破壊なのかの判断はできていないようだ。
それにしても……私は困惑していた。通報を遅らせるのは、計画通り。しか
し、鷲巣を殺したのは私ではないのだ。
電話が使えないことを知らされたメンバーは――おかしな表現かもしれない
が――色めきだった感があった。人里離れた館で、他殺とみられる遺体が見付
かり、電話が不通。これに興奮するのは、ミステリマニアの性であろう。
「それじゃあ、誰かが町まで行って、いや、町まで行かなくても、電話のある
家に飛び込んで、通報させてもらう、ことに」
泉田の発言は、途中まで早口で捲し立て、やがて相手の反応を窺う風に、途
切れがちになった。
我々は会長所有のマイクロバスに乗って、駅からここまで送られた。ガレー
ジには他にも普通乗用車が一台ある。通報を遅らせるために、私はそれぞれの
車両のタイヤ全てを切り裂いておいた。この館にスペアタイヤが四本あるとは
思えない。
「小村君に命じたんだが、ガレージまで行って、すぐに引き返してきた」
会長の説明が続く間、私は鷲津の死についてのみ、考えていた。
ひとまず、他殺であるとする。誰がやったのかも気になるが、この突発事を
受け、私はどうすべきかを決めねばならない。計画通りに沼島を殺害するか否
か。
もし仮に、沼島が犯人だとすれば、奴は都合三名を手に掛けたことになる。
一連の犯行ではないかもしれないが、三人の命を奪ったとなると、死刑判決の
可能性が出て来るのだろうか。内二件が未成年時の犯行でも。
そうする内に、江ノ本医師が戻っていた。この場の話題は、いかにして通報
するかがまだ続いている。
「一番近い人家まで、徒歩でどのくらい掛かります?」
吉倉が会長に尋ねる。実際に彼女が歩くことはなさそうだが。
「別荘地という訳ではないからね。むしろ、ミステリらしい雰囲気を味わえる
よう、周りに他の家がない土地を選んだんだ。そもそも、どの方向に家がある
か、把握していない。となると、必然的に町までの道を下っていくことになる
が、アップダウンもあるし、さて……」
「歩くにしても、夜は危ないですよ」
沼島が言った。表情を盗み見たが、いつもと違いは読み取れない。口調にし
ても平時と同じだ。
「明日、明るくなってからでいいでしょう。それまでの時間を、現場検証に当
てたらいいと思うな」
「現場保存ではないのかね」
泉田が微かに目を剥き、咎める。この辺は教師だなと思わされる。対する沼
島は前髪を手で払い上げると、、分かってるんでしょ?とでも言いたげに、に
やりとした。
「保存はしますよ。でも、放っておいたら、消えてしまう証拠もあるかもしれ
ない。それをチェックする意味で、現場検証は必要なんじゃないかなあってこ
とです」
泉田は首を左右に振り、判断は任せますとばかり、萩原会長の方を向いて嘆
息した。
「確かに、検証は必要だと思う。すでに江ノ本先生が遺体を動かしたこともあ
るし、現場の様子を細かく写真に撮っておけば、多少触っても大丈夫だろう。
もちろん、手袋を填めてだが」
「じゃあ、決まりってことで」
「待ちなさい」
移動を始めようとする沼島を、萩原会長はいつになく鋭い声で止めた。
「部屋のサイズは分かっているだろう。全員で見るのは無理だ。それに、君に
は聞きたいことがある」
「何です、会長?」
聞き返された会長は、江ノ本医師を見やった。話し手交代だ。
「鷲巣さんの刺殺体は、クローゼットの中に押し込まれていた。足を抱えて、
座り込む格好でね。扉がほんの少し、開いていたおかげで気付いたんだ。それ
はさておき、クローゼットの内側には、遺体の他にも証拠となりそうな物があ
った。まず、凶器が胸に刺さったままだった。抜いてはいないが、果物ナイフ
だ。恐らく、この別荘に元からあった物だと思うが、あとで確認を願う」
「それが僕と関係あるんですか」
沼島が苛立ちを露わに、声高に聞いた。
「ここからが本論だ。鷲巣さんは血文字を遺しておった。平仮名で『ぬしま』
とな」
「ば……」
声が途切れ、口をぱくぱくさせるだけの沼島。馬鹿々々しいとでも言おうと
したんだろうが、言葉にならないとみえる。
ただ、驚いたのは私も一緒である。沼島が鷲巣を殺したのか? 犯人の名前
を直接書くダイイングメッセージなんて、ミステリの中ではなかなかお目に掛
かれない。犯人に気付かれて隠滅される恐れがあるからだ。だからこそ、死の
間際に被害者は驚くべき知恵を絞り出し、摩訶不思議な伝言を遺す。
逆に、あからさまなまでに分かり易いダイイングメッセージは、真犯人によ
る偽装というのが相場だ。
「クローゼットの中に押し込められた段階で、鷲巣さんは息があった。最後の
力を振り絞り、犯人の名を書き、息絶える。犯人はそんなことには気付かない。
クローゼットの扉を閉めたあとだから。と、こんな解釈ができる」
「その血文字を見せてほしい」
江ノ本による疑惑の提示に、沼島が当然の要求をした。
家政婦やメイドによって、凶器に使われた果物ナイフは、この別荘の台所に
あった物と確かめられた。台所は出入り自由、使用人が常駐している訳でもな
いので、誰にでも持ち出せたとの判断が示された。また、果物ナイフ一本に注
意を払う人間はおらず、いつの時点でなくなったのか、不明であった。
血文字は、沼島以外のメンバーも目にして、どのように読めるかの検証がな
された。とは言え、どこからどう見ても「ぬしま」としか読めないのは、明々
白々であった。広くないクローゼットの中、天地を逆にする等の試行錯誤は全
く不要である。そうすると、残る検討課題は、これが偽装である可能性だ。
私の感覚では、殺人だとするなら、沼島らしくないやり口だというのが第一
印象だ。二度も事故死に見せ掛けることに成功した奴が、三度目はあからさま
な他殺を行うとは、考えづらい。よって、血文字は真犯人の偽装だと判断する。
が、この推理を披露する訳にはいかない。沼島が過去に二人を死に追いやっ
た――少なくとも一人については私が証人だ――という“告発”を、現時点で
してしまうのは、計画の頓挫を意味する。彼には残酷な死を与えねばならない。
であれば、鷲巣殺しの真犯人の意図に乗っかり、沼島を殺人犯に仕立て上げ
る方がよい。成人した今なら、沼島を死刑に追い込む道が開ける。ただ、遺体
があと二つほど足りないが。
次の刹那、私の脳裏に閃いたのは、あと二人、誰でもいいから殺害して、そ
の罪を沼島に擦り付けることだった。無差別に三人を殺したとなると、死刑は
免れまい。身に覚えのない汚名を被って死刑になるなんて、沼島の奴にこそふ
さわしい。無論、問題は多い。流石に、二度も三度もダイイングメッセージを
用いるのは無理だろうから、他の方法で沼島を犯人であるように装う必要があ
る。それに、あいつを死に追いやるために、無関係な犠牲者二人を新たに出す
のは、本末転倒である。その程度の理性と冷静さなら、まだ持ち合わせている。
思い付きを私は捨てた。
「鷲巣さんが、いつ亡くなったかの見当が付けば、手掛かりになるのに」
吉倉の呟きに、医者の江ノ本がすぐさま反応する。
「専門ではないが、おおよそは分かるぞ。さほど意味がないから、口に出さな
かっただけでな」
「何だって? 言ってくれよ!」
噛み付くような乱暴な口ぶりで、沼島が江ノ本を睨む、追い詰められた心地
なのだろう。
「午後八時から十時までの二時間だよ」
医者の返答に、多くの者が息をついた。会長が首肯しつつ、口を開く。
「要するに、自由行動の間ってことか。そりゃあ、手掛かりになりそうにない。
沼島君、アリバイ証明できるかね?」
「無理。食後すぐ、月影さんと立ち話をしたけど、すぐに終わった。あとは八
時十分から二十分間ぐらい、泉田先生と部屋で、近況報告みたいなもんを。そ
れ以外は一人だった」
「犯行には十分も要さないと推測できるから、アリバイ不成立か。ついでに、
みんなにも聞きたい。八時から十時まで、常に複数で行動していた、あるいは
他の形でもいいからアリバイの証明をできる人が、この中にいるかな?」
誰もいなかった。
女性二人がそれぞれ、入浴と身支度に二時間のほとんど全てを注ぎ込んだと
主張したが、主張が事実であっても、犯行所用時間が約十分と推測されるため、
アリバイは認められなかった。
「生きている鷲巣さんを最後に見た人は? 犯人を除いて、だが」
犯行時刻を少しでも絞り込もうと、私は言ってみた。皆、思い出す風に視線
を走らせたり、首を傾げたりする。ほんの三時間ほど前のことなのに、なかな
かはっきりしない。
「八時過ぎに、食堂を出て行ったようだが」
「そのあとは、自室にいたんじゃないかしら? 全然見掛けなかったから」
「風呂に入った形跡はなかった?」
「衣服は、食事のときと変わっていない」
結局、八時過ぎに食堂を去る姿が最後だったようだ。
「部屋に籠もって、何をしていたんだろう」
疑問を呈する泉田に、会長が即答した。
「例年、鷲巣さんはこんな感じだったよ。研究の成果を少しずつまとめるのを
日課にしていたから、一人になれる時間があれば、書いていた」
そう。私と違って、どこに応募するでもなく、公表するつもりがあるのかど
うかさえ分からないが、とにかく根気よく続けていた。あれは一種の執念と言
えた。三年前の合宿時なぞ、彼の個室だけ冷房が故障したのだが、それにもし
ばらく気付かず、窓を開け放って執筆を続けていたくらいだ。
「もしかして、犯人の目的は、研究成果の奪取?」
全員を見回し、吉倉が言った。
「なるほど、今度は動機から攻めると。しかし……」
会長は江ノ本医師と目を合わせた。互いに頷き、再び会長が喋り出す。
「鷲巣さんの原稿は、手付かずであったと思う。全部ではなく、部分的に数枚
が消えたんであれば話は別だが、多分、原稿は無事だ。異論のある者は言って
ほしい」
「鷲巣さんの原稿の全内容を、誰も把握してはいないんだから、そんな議論は
無意味ですよ。新しく書き上げた分を持ち去られたら、気付きようがない」
無駄と感じた私は、ばっさりと切り捨てさせてもらった。早く、他の動機を
探りたい。
「うむ。そもそも、推理小説の研究がたとえどんなに貴重な内容でも、殺人の
動機たり得るとは考えづらい。別の動機があるとすべきだ」
「でも、この中に、鷲巣さんを殺したいと思ってる人がいるなんて……」
松岡が震える声で言う。顔色も悪い。遺体を目にして以降、気分がすぐれな
いようだ。
「だが、外部からの侵入者が殺したというのは、まずあり得ない。そいつが偽
装工作するのに、『ぬしま』と書けるはずがないのだから」
「ですね。会長の名前なら、表札を見たとも考えられますが」
相槌を打っておく。盗み聞きの可能性もわずかながらあるが、言い出すと際
限がなくなりそうなのでやめた。今は動機だ。
「最近の例会で、鷲巣さんと険悪になるほど激論を闘わせた人って、いました
っけ」
「うーん……議論の白熱はありましたけれども」
秋塚が頭を掻きながら、思い出す風に応じる。
「それは毎度のこと。いちいち殺意を抱いていたら、命がいくつあっても足り
ないってやつになるかと」
「第一容疑者にも発言権はある?」
沼島が軽く挙手。会長は黙って顔を向け、発言を促した。
「最近じゃなく昔だけど、月影さんの書いてきた習作を、全員で回し読みした
ことがあった。あのとき、鷲巣さんにトリックが古典作品の物と同じだと指摘
されたっけね」
「覚えている。それが何か」
言いたいことは即座に察したが、話を聞いてやろう。殺意を持続する燃料の
足しになる。
「自信があったのに、そんな指摘をされては、面目丸潰れで、悔しかったんじ
ゃないですか? 言ってみれば、恥を掻かされた訳だ。殺意に育つかもしれな
い」
「私はそうならなかったとだけ答えておく」
舌打ちが聞こえた。煽るつもりが、当てが外れて悔しいのは分かる。しかし、
これほど感情を露わにするとは、普段の俊敏さが影を潜めている。沼島が鷲巣
殺害の犯人ではない証か?
「動機のことだが、こうは考えられないかね?」
江ノ本医師が穏やかな調子で言い、悪くなった雰囲気をいくらか回復する。
「何かしらの悪事を働こうとしていた犯人が、鷲巣さんに見付かり、口封じの
ために殺害した。台所から果物ナイフを取ってくるという時差が、ちょっとお
かしいが、詰め寄る鷲巣さんを宥め、話し合いを持ち掛けることで時間を作っ
たのかもしれない」
「そういう動機なら、納得はできるが、誰にでも当てはまるという点では、あ
まり意味がない……」
会長が率直な意見を述べる。
「それに、先生の仮説が当たりだとしたら、犯人はまだ本来の目的を達成して
いない訳だ。事件が続くとしたら、これほど恐ろしいことはない」
「次の事件待ちなんて、連続殺人を全員死ぬまで防げない自称名探偵じゃある
まいし」
沼島が口の端を曲げ、揶揄した。踏み止まって、調子を取り戻しつつある。
「今の我々にできること、いや、一番優先すべきことは、自己防衛でしょう。
このあと嫌でも睡眠を取るが、次の事件を起こさせない、犠牲にならないため
に、個室に入ったら戸締まりを厳重にし、誰が訪ねて来ても入れないようにす
る。夜が明けるまでは、これを徹底してもらいます。死者が出るのは、もう御
免だ」
それは萩原会長の決意表明のように聞こえた。
――続く
#331/598 ●長編 *** コメント #330 ***
★タイトル (AZA ) 08/09/01 00:00 (316)
お題>すれ違い 2 永山
★内容
初日から二日目にかけての夜は、静かに更けた……と私には感じられた。
私自身の計画では、元々、この夜の内に沼島の命を奪うつもりであったのだ
が、鷲巣殺しの様相がよく掴めないままでは、行動に移すことは自重するしか
なかった。強行しても、沼島が部屋の鍵を開けるとは考えにくい。もし今回の
滞在中に決行するなら、夜は難しくなった。
浅く短い眠りを繰り返す内に、朝を迎えた。七時三十分。確かめてから、腕
時計を填める。カーテンを開けると、自然の緑は素晴らしいが、今にも降り出
しそうな曇天であった。空気がぶつかり合い、渦巻く様を想像させる音が、耳
に届く。着替えその他を済ませ、広間に出向いてみた。
すると三、四名が集まって、何やら相談をしていた。警察へ通報するため、
徒歩で下山する役目を誰が担うかで、話し合いを始めたところらしい。
「誰にしろ、一人で行かせるのは反対だ。そいつが殺人犯だった場合、そのま
ま逃走を許すことになりかねない」
「その理屈だと、二人でも無理ね。殺人犯と二人旅なんて、ぞっとしないわ」
「じゃあ、少なくとも三名を選抜することになるか。体力的に問題のない者と
なると、自ずと絞られてくるようだが」
徐々にまとまりつつあるところへ、萩原会長が現れ、改めて最初から話を聞
いた。
「なるほど。私としては、合田に行かせるつもりだったが、彼が犯人でないと
は言い切れぬからには、確かにあと二人を選ぶ必要がある」
会長の言う合田は当然、男の方だ。
候補からは、まず女性を外さざるを得まい。体力的に難がある、山歩きに適
した靴がないといった問題以前に、もしも選抜した三人の中に犯人がいて、他
の二人ともみ合いになった場合、(女性が犯人でないという前提で)非力な女
性では足手まといになりかねない。
――殺人計画を胸に秘め、ここへ乗り込んだ私が、こんな心配をするおかし
さに気付き、ふと笑いたくなった。
「体力のあるイコール若い、とするなら、沼島君が入ってくるが……」
言いにくそうに語尾を濁す泉田。沼島はこの場にいない。依然、眠りこけて
いるようだ。
「ダイイングメッセージの件があるから、選びづらいということですな」
江ノ本医師があとを引き取った。
「あの血文字を鵜呑みにするのもどうかと思うが、彼を自由にするのは一応、
やめておくべきだ。警察に事情を話すとき、変に受け取られるかもしれん」
「あの、誰が適当かを考えるよりも、とりあえず、立候補を募ってみてはどう
ですか」
秋塚が提案した。今朝は顔色がだいぶましになっている。
「ただし、今ここにいない人達には、三人選ぶことは伏せて聞いてみるんです。
彼らの中に犯人がいるとしたら、真っ先に手を挙げるかもしれませんよ」
「うーん、それはどうでしょうね」
私が疑問を口にしたのと同時に、家政婦の合田が現れ、朝食の準備ができた
ので食堂の方へいらしてください云々と告げた。時計を見ると、八時十五分。
最初に聞かされていたスケジュールより遅れ気味だが、事件があったことを思
えば、よくやっていると言える。
「いないのは……松岡さんと沼島君か。小村君、仕事ではないのにすまんが、
呼んできてくれ」
食事の準備に忙しく動き回る使用人二名を目にしたからだろう、会長は秘書
に頼んだ。
「はい」
素直に応じる小村。
「ですが、私の悲鳴が聞こえたら、すぐに駆け付けてください」
真顔で言うが、冗談のようにも聞こえた。
我々謎求会のメンバーは顔を見合わせ、私と泉田が席を立った。最前の話し
合いからの連想で、三人一組で行動するのがよいと思えたのだ。
「私達も一緒に行きますよ」
犯人は秘密の呪文でも使えるのか? そう疑いたくなった。
入念に身支度していた松岡を呼び出したあと、彼女を加えた四人で、沼島の
部屋に向かった。強心臓の持ち主故、熟睡しているに違いない。そう睨んでい
た私は、ドアを乱暴にノックした。
だが、無反応が延々と続き、これは変だとなった。ドアノブに手を掛けると、
簡単に回る。いよいよおかしい。
この瞬間、私は思っていた。まさか、沼島が鷲巣を殺したのか?と。犯人で
あれば、鍵を掛けずに眠るのも理解できなくはない。あのダイイングメッセー
ジは沼島自身の細工で、最も疑わしい人物は犯人ではないという、ミステリマ
ニアの抱きやすい思い込みを逆手に取ったのか。起きてこないのは、酒類を浴
びるように飲んだため……。
しかし、私の推理は、ドアを開け切ったときには瓦解していた。
先を越されたのだ。私は悔しさで唇を噛み締めた。
女性の悲鳴を背後で聞いた。
「意味が分からない」
江ノ本医師が首を捻った。もう何度目になるだろうか。
「沼島君を殺したのが、鷲巣さんを殺した犯人と同一人物だとする。ダイイン
グメッセージで沼島君に罪を擦り付ける小細工をしたのに、今度はその彼を殺
してしまうとは……全くもって、意味が分からん」
沼島はベッド脇に倒れ込んで、死んでいた。江ノ本が診るまでもなく、首に
残る痕跡から、考察と考えられる。凶器は、カーテン留めの紐らしい。沼島の
部屋の物を二本結び合わせて使い、そのまま放り出してあった。
「自殺……ではないんでしょうね、やはり」
第一発見者の一人となった松岡が、げっそりとした表情で、声を絞り出す。
彼女に応じたのは秋塚だ。
「推理小説の中に限れば、絞め殺されたように見せ掛けて、実は自殺だったと
いうシチュエーションに挑んだ作品が、内外にいくつかあるけれど、私の知る
範囲では、どれも不満の残る出来映えでした。ましてや、沼島君の件に当ては
めるのは無理です」
「他殺であることは、認めなければいけない」
萩原会長が、苦虫を噛み潰したような顔で言う。昨夜の宣言が脆くも破られ、
内心、忸怩たる思いがあるに違いない。
「皆さんに伺いたい。当初、警察に通報することだけを考えていたが、万が一
にも、犯人が更なる殺人――最悪の場合、皆殺しを画策しているかもしれない
現状では、全員揃ってここを離れ、山を下りるのが賢明ではないかと思うのだ
が、どうだろう?」
「全員行動は悪くないが、山を下るとなると、状況が違ってくると思いますね」
私は間髪入れず、発言した。私に先んじた犯人を、自分自身の手で見付けた
い気持ちもあったことを認める。
「これだけの人数で山を下りると、徐々に体力差が出て、絶対にばらけます。
その隙を狙って、犯人が次の殺しを行う恐れがあるんじゃないですか」
会長は唸って、考え込むように腕組みをした。
「他の人は?」
何名かが短く発言したが、概ね、私の意見に賛成だった。
「では、当初の通り、通報のために少人数で山を下り、残りはここで待機とす
る」
そのまま、三名の選出作業に入る。朝食前の話し合いで、秋塚が提案してい
たことは、有耶無耶にされた。
ただ、朝からの惨事に、誰もが食欲に乏しく、歩いて下山するには、気力体
力とも不満足な状態であった。
「皆さんの許しがもらえるんなら、自分が一人で行ってきますが……」
合田が顔色を窺うように、おずおずと場全体に尋ねる。
「かまわないんじゃない? 被害者は会のメンバー二人。管理人とのつながり
は、ここでお世話になってるだけで、恨んだり恨まれたりがあるとは考えにく
いわ」
楽観的な見方を取ったのは吉倉。諸手を挙げて賛成したくなる。天候が崩れ
そうな中、長い道のりをてくてくと歩くのは、ただでさえ辛く、気が重い。
一方で、もしも彼が犯人だったら、という可能性を考えてしまう。ミステリ
マニアの性だろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に閃いた。物語の名探偵と違い、
何の伏線も暗示もなく、閃くときは閃くのだなと思った。当たりかどうかは分
からぬが、検討する値打ちは間違いなくある。
「皆さん、聞いてほしいんですが」
会の面々だけでなく、使用人や秘書にも集まってもらう。
「ずっと引っ掛かっていた疑問があります。どうして沼島君は、犯人を部屋に
招き入れたんでしょう? 前夜、鷲巣さんが殺されたのに。しかも、会長が注
意するように念押ししたにも拘わらず」
「そりゃあ、相手を信用していたからじゃないか」
江ノ本医師が即応する。私は頷いた。
「考え方の一つですね。他には?」
「死んだ人を悪く言いたくはないけれど、沼島君自身が鷲巣さん殺しの犯人だ
った、とか」
吉倉が答える。さほど言いにくそうにはしていない。
「ええ、それもあり得る。他にないですか」
しばしの沈黙。が、じきに破られた。
「もしかして、私どものことを?」
メイドの神徳香が、悲鳴のような声で言った。
「はい。厳密さのために、お許しください。あなた方使用人は、我々の宛がわ
れた各部屋の合鍵を、持っているんじゃありませんか?」
「私は持っていません」
ぶるぶると首を左右に振るメイド。
「ベッドメイキングなどのときだけ、お借りする場合はありますが……ああ、
今回の合宿では、ベッドメイキングの機会がまだありません」
「通常、合鍵の管理はどなたが」
使用人達よりも早く質問に応じたのは、萩原会長だった。
「合田、確かおまえだったな」
「その通りで」
言われてから、鍵の束を懐から出してみせる合田。金属の触れ合う音が意外
と響いた。
「信用していた人物だから入れたか、沼島君自身が安心しきっていて鍵を掛け
なかったか、あるいは合鍵を使ったか。沼島君の部屋に犯人が入れるパターン
は、この三つぐらいだと思います。他の可能性を思い付かれた方は、ぜひとも
教えてほしい」
「鍵のすり替えという方法があり得ます。沼島君の部屋の鍵と、犯人自身の鍵
をすり替えるんです」
秋塚が言った。が、次いで自説の否定を始める。
「でも、今回の事件の成り行きを見る限り、鍵のすり替えを行う隙はなかった
でしょう。別荘に到着してから、各自部屋に荷物を置き、食堂に集合。食後に
散会してまた部屋に戻り、午後十時に再び集まる。ここまでで、鍵を何度も使
用することになりますから、すり替えをしてもすぐに発覚します。そして十時
以降は鷲巣さんが遺体で見付かり、議論の後、各部屋に入って就寝しました。
とてもじゃありませんが、鍵をすり替えることは無理だと判断します」
「ありがとう。それでは、先に挙げた三つのパターンのいずれかだとします。
まず、二つ目の沼島君自身が鷲巣さん殺しの犯人であり、安心しきっていたか
らという考え。これって、あり得るでしょうか? 自らの名前をダイイングメ
ッセージにするなんて」
「単純なトリックだけど、実行不可能ということはないと思うわ」
松岡が言った。久々に声を聞いた気がする。
「本当に? 仮にあなたが殺人を行うとして、あなたの名前を書き残せます?」
「……それは……」
口ごもる松岡。期待通りの反応に、私は自然と微笑していた。
「他の人も、考えてみてください。裏を掻いた偽装工作だと頭では理解してい
ても、実行に移すのは困難でしょう。違いますか? 『もしも額面通りに受け
取られたら、どうしよう。現実の事件を捜査するのが名探偵並みの切れ者とは
限らないぞ。短絡思考の平凡な刑事が打担当するかもしれない』――そんな風
に危惧の念を抱き出したら、もうだめです。自分の名前をダイイングメッセー
ジするなんて、絶対にできない」
静かになった。多分、納得しているのだろう。普通の人間なら、納得できる
心理のはずだ。
「分かった。月影さんの推理を認める。少なくとも、沼島君が鷲巣さん殺しの
犯人である可能性は、極めて低いと考えるのは妥当だ」
会長の意見が鶴の一声となった。私は続けた。
「そうすると、容疑者を絞り込めます。沼島君から信用されていた人物か、合
鍵を使える人物か。言い換えると、前者は泉田さんで、後者は管理人の合田さ
んとなる」
「私がか。まあ、高校時代の恩師で、彼を会に誘ったのも私と来れば、信用さ
れていたと見なされても仕方がない」
泉田は端から覚悟していたようで、肩を落としつつも、語気は決して弱くな
ってはいなかった。
名指しされたもう一人、合田の方は、先程からさらに動揺が増している。
「わ、私は鍵を持っているだけで、何をしたというのはありませんよ、はい。
だいたい、信用してる人となったら……こんなことは言いたくないですが、私
の連れ合いやメイドだって、使用人と見なされているのだから、言えばドアぐ
らい開けてくださるんじゃないでしょうか。それに、その……」
口を噤んでしまった合田だが、その両目は萩原会長へと向けられている。ど
うやら、会長なら会員の信頼を得ているはずだと主張したいらしい。
「悪いが、合田さん。昨夜、最初の事件が発覚して以降、沼島君は警戒を強め
ていたはずだ。使用人や会長にも疑いの目を向けていたに違いない。何故なら、
沼島君はミステリマニアなのだからね。こういうときでも、疑うんだよ」
“我々と同じ”ミステリマニアなのだと言おうとして、やめた。同じではな
い。断じて違う。
「では、どちらかが犯人だと仰るので? だったら、私には明らかに動機がな
いんですから――」
饒舌になる管理人。私は彼のお喋りを遮った。
「まだ容疑者の段階だ。二人の内のどちらかが犯人だとも、言っていない。た
だ、確かめたいんだよ」
「何をですか」
「皆に、また考えてみてもらいたいことが」
私は広間にいる人全員を見回した。
「犯人は、沼島君を殺すのに、カーテン留めを使った。この点について、我々
はちょっとした錯誤をしていたかもしれません」
「ほう。どんな?」
興味津々といった風情で、江ノ本医師。
「凶器となったカーテン留めが、沼島君の部屋の物であるという思い込みです」
「うん?」
私のこの意見は、江ノ本医師だけでなく、大勢の脳を刺激したようだ。
「思い描いてみてください。犯人が招き入れられたにせよ、合鍵を使ってこっ
そり侵入したにせよ、カーテン留め二つをフックから外して結び合わせ、それ
から被害者を襲うという構図を」
「なるほど。おかしいな」
会長が真っ先に言った。大きく頷く彼に、私は続きを言ってもらうよう、促
した。
「そんなことをやっていたら、沼島君に気付かれる恐れが大。まともな考えの
持ち主なら、凶器を予め用意しておくものだ」
「そうです、この犯人もそうしたはずです。想像するに、犯人は、自室のカー
テン留めを外して凶器をこしらえ、それを隠し持って、沼島君の部屋に入った
んじゃないか。殺害後、持ち込んだ凶器は放置し、現場となった部屋のカーテ
ン留めを取り外す。そして、自室のカーテン留めにしたんではないか」
「面白い、興味深い推理だ」
会長は一ミステリマニアに戻り、拍手の格好を両手で作った。
「だが、そこから犯人を絞り込めるのかね」
「それは分かりません。ですが、確認する意義はあると思いますよ。泉田さん、
合田さん、それぞれの部屋のカーテン留めを」
「ん? 分からないな」
口を挟んだのは秋塚。私もそれを待っていたのだが。
「仮にあなたの推理通りだとして、入れ替わったカーテン留めを区別できます
か? どれも同じデザインだったと思いますが」
「確かにね。でも、沼島君の部屋に元々あったカーテン留めには、彼の痕跡が
残っているはずなんですよ」
私はそれから、昨日の夕食後、沼島に貸していた千円札を返してもらった経
緯を話した。そう、あの怪我のことも。
「――こんなことがあったんです。そして、その直後、彼は部屋に入った。こ
の館に到着したとき、あるいは夕食前の時点では、まだ外は明るく、カーテン
を引かなかったでしょう。夕食を食べ終えて、部屋に戻り、初めてカーテンを
引いたんじゃないか。とすると、彼の部屋のカーテン留めには、多少の血液が
付着しているに違いありません」
「そんなことが……あるものか」
真っ先に反応したのは、管理人の合田だった。その反応こそが、容疑を深め
るとも気付かずに。
もし絞り込んだ二人のどちらかが犯人だとしたら、合田かなと私も考えなく
はなかった。何故なら、泉田は食後、沼島と合って話し込んでいる。その際、
沼島の手の怪我に気付いていたはずだから。尤も、怪我に気付いたからと言っ
て、カーテン留めの入れ替えを行わないと決め付けることはできないが。
「では、合田さんの部屋から見せてもらうとしましょう。さあ」
うなだれる管理人がぼそぼそと返事する声は、降り出した雨の音にかき消さ
れた。
* *
これで、私の昔話は終わり。もう二十年ほど前になるかな。
何だ、物足りなそうな顔をしているな。ああ、管理人の合田が、沼島を殺し
たんだ。完全に追い詰めた訳ではないが、周りにミステリマニアだらけという
状況で、ぶるってしまったんだろう。あっさり白状した。
動機? はは、それが傑作なんだ。私と同じさ。
そう、沼島が帯谷真優子を事故に見せ掛けて殺害するところを、合田も目撃
していたのさ。合田は妻帯者でありながら、帯谷に好意を抱いていた。前年、
乾が亡くなったせいもあり、その思いは募っていたようだ。それだけ、沼島を
許せなかった。彼にとって、夏合宿でしか沼島と顔を合わせる機会はないから、
何が起きようとも決行したんだ。私と違ってね。
――おお、気付いたかね。その通り。鷲巣殺しは、合田の仕業ではない。驚
いているようだが、事実だから仕方がない。無論、沼島が殺したのでもない。
実は私も偉そうにできないんだ。真相は、自白によって判明したのだからね。
合田が沼島殺しを認めたあと、泉田が皆に打ち明けたんだ。泉田は、手書きの
原稿用紙を見せて、説明を始めた。
違う違う。泉田が犯人ではないよ。早とちりはよくない。初日の晩、鷲巣の
死が明らかになったあと、部屋に戻った泉田は、気を紛らわすために、持って
来た本を取り出した。その本に、紙が挟んであったという。秘密めいた物を感
じた彼は、誰にも言わずにその紙――原稿用紙を一人で読んだ。
それは、鷲巣の手による遺書と言えた。
うむ、鷲巣は自殺だったのさ。台所から果物ナイフを失敬し、自室に籠もる
と、クローゼットの中に入り、胸を自ら刺した。最後の力を振り絞って「ぬし
ま」と血文字で書き、絶命した。あるいは先に軽く傷を作り、その血で文字を
書いたあと、改めて胸にナイフを突き立てたのかもしれん。
遺書には、大まかに言って三つのことが記してあった。自分が不治の病で先
が長くないこと。三年前、乾登喜夫が沼島に突き落とされるのを目撃したこと。
――ああ、お笑い種だ。沼島が二年続けて犯した殺人には、三人の目撃者が
いたんだよ。合田は管理人としての仕事で、鷲巣はエアコンの故障による暑さ
から、涼みに、それぞれ夜に外出したんだな。しかも、その誰もが警察に言わ
ず、何らかの形で沼島を葬ろうと考えるなんて。
話を遺書に戻そう。鷲巣は、三年前の時点では、どうせ他人事だと関わり合
いになるのを避けたが、その一年後に似た状況で帯谷が死に、沼島が再びやっ
たのかと疑念を持つ。それと前後して、自身の病を知り、命を賭して沼島を貶
め、告発しようと考えた。他殺を装った自殺を決行し、その罪を沼島に被せる
のだ。だが、推理小説研究家の彼は、これだけは弱いという自覚があった。そ
こで、沼島と一番親しいメンバーである泉田に、全てを託す、言い換えれば押
し付けるため、遺書を書いた。
さて、それこそが遺書の三つ目の要点になる。鷲巣は推理小説を研究する過
程で、トリックを実際に試すこともしていたらしく、毒を幾種類か入手してい
た。その中から、アマゾンだかアフリカだかの原住民が使う生物毒を、瓶に詰
めてこのときの夏合宿に持って来ていた。別荘に着くなり、ビニールで厳重に
くるんだ毒の瓶をトイレのタンクに隠した。そしてこのことを、遺書で泉田に
教えたんだ。「沼島の件であなたが責任を感じているのなら、毒を活用して、
決着してもらいたい」云々と書いてあったな。「沼島がわしを含めて三人を殺
したことにし、死刑台に送り込むのもよし、あなたが直接葬るのもよし、あく
まで教え子を守り、代わりに責任を取って自害するのもよし」なんてことも。
実際のところ、泉田は以前の二件の死は、沼島の仕業ではないかと疑ってい
た。そこへ鷲巣の遺書で新たな事実を知らされ、かなり心が揺らいだらしい。
絶対にばれないというチャンスが巡ってきていたら、自殺に見せ掛けて沼島を
殺していたかもしれない、という意味のことを仄めかしていたよ。もちろん、
全てが終わったあとだが。
補足が長くなったが、これで本当におしまいだ。なかなか、スリリングであ
っただろう?
あと一つ、聞きたいことがあるって? 遠慮なく。
――なるほど、私の用意していたトリックね。それは話せないなあ。今に至
るまで小説の中でさえ使わず、胸の内で温めているんだ。
ま、ここぞというときが来れば、使うかもしれない。
――終わり