#254/598 ●長編
★タイトル (lig ) 05/06/07 00:10 (478)
日常と狂気と猟奇(1/3) 目三笠
★内容
身体が痺れて動かなかった。
いつから記憶が途切れたのだろうか、そんな事をぼんやり考えていた飯島景
子の耳に、聞き慣れない女性の声が聞こえてくる。
「ようやくお目覚めかな」
重たい瞼をなんとか開けようとしても、視界は閉ざされたままだった。声を
上げようとしても、呻き声すら出せやしない。
「今の内に処理してあげる。はっきりと目が覚めたら、面白いものが見られる
よ」
だんだんと覚醒してくる意識のおかげで、身体の感覚も元に戻りつつあった。
そのおかげで、目の前が真っ暗であるのは瞼が開けられないのではなく、目隠
しのようなものをされていることに気付く。
両目を覆っているものを排除しようと右腕を動かしかけ、そこに何か違和感
のようなものを感じた瞬間に動きは固まる。どうやら、拘束具のようなもので
固定されているようだ。右腕だけでなく左腕も数ミリ程度しか動かない。
頭から血の気が退いていくのを彼女は感じていた。自分は何者かに誘拐され
拘束されているのだと。
叫び声を上げようとしたその時、左腹部にチクリと痛みを感じた。
しばらくして、下腹部が何か重いもので圧迫されたかのような、それでいて
感覚がすべて麻痺したかのような状態に陥る。
「なにしてるの?」
ようやく景子の口から出た言葉。悲鳴ではなく質問だったのかは、漠然とし
た恐怖心からだ。彼女には何が起きているのかがわかない。視界も感覚も遮断
され、今は聴覚に頼るしかない。第三者が側にいるのなら、質問をするのが手
っ取り早いだろう。ましてや、その人物は今のところその言葉には脅しや怒り
は込められていないのだから。
「お楽しみは後にとっておいた方がいいよ。それから今はあまり喋らない方が
いい」
二十代の女性だろうか。少し低めのアルトヴォイス。その口調からして男性
の高い声、もしくは子供の声とは思えない。
景子は今のところ目隠しをされ身体を拘束されている以外は、取り立てて辛
い思いはしていない。頭がはっきりしないとはいえ、徐々にそれも取り戻しつ
つあり、気配としても側にいるのが誰だかわからない女性が一人だけのようだ。
まさかレイプされているわけでもないだろう、彼女はそう考えていた。
数十分後、腹部の上に何かが乗っていたような違和感が取り除かれる。それ
でもまだ下半身は麻痺しているように感覚だった。
「そういえばあなたの着ている服って、幻想的なイメージを彷彿させるけど、
そういう世界に憧れているの?」
耳元で再び声がする。それは景子が好んで着ているゴスロリファッションの
事についてだった。彼女は自分の趣味について質問されたので意気揚々とそれ
に答えようとする。
「憧れというか、これがあたしのスタイルなんです。ゴスロリっていうんです
けど。もちろん、中世ヨーロッパの貴族を元にしたファッションで」
景子の説明を遮るように質問が投げかけられる。
「ねぇ、ゴスってどういう意味か知ってる?」
「ええ、ゴシック的なものを言うのですよね。中世ヨーロッパとか」
「違うよ」
「え?」
「流行に躍らされたお嬢さんは、自分のファッションの基本すら知らないのか
ね」
「どういうことですか?」
「ゴスを象徴するには少し物足りない。だから、あなたが本当にゴシック的な
ものをわかっているというのなら、このプレゼントはとても気に入ると思うよ」
「プレゼントですか?」
口調は終始穏やかだがその内容はよくわからない。だが、危害を加える気が
まったくないように思える。
彼女は優しく景子の目隠しを外してくれた。
「あれ?」
ついでに拘束も解いてくれたのだと思っていたのだが、両腕は固定されたま
まだ。下腹部は痺れたままなので力が入らない。
視界がひらけたが、何かがおかしかった。
自分は黒い服で身を包んでいるというのに、それ以外の色が見える。
赤いリボン?
腹部にそんなようなものがちらりと見える。
だが、彼女はそんなものをつけた覚えはない。
何か嫌な予感をして、そこから本能的に目を逸らす。そして、側に立つ人影
を見上げるように確認した。
「ここはどこですか?」
視界に映るのは細身の女性だった。景子と同じ黒い服を着ているがゴスロリ
ではない。顔立ちの整った色白の美人だ。その右肩に何か違和感を抱く。いや、
その部分の黒い塊は生きていた。
鳥だ。黒い大きな鳥。鴉だろうか。
女性の服と一体化しているように一つの塊と見えてしまう。
とても不気味であり、その女性の醸し出す雰囲気はまるで魔女のようでもあ
った。
その綺麗な口元が歪んだ。
「とある廃屋の中だよ。山の中だから半径一キロ以内民家はない。だから叫ん
だところで助けはこないよ。もっともあまり腹に力を入れて声を出すとそれだ
け大変な事になってしまうからね」
片方だけ吊り上がった唇。
じわじわと恐怖がこみ上げてくる中、それをさらに加速させるかのように、
鴉が不気味な鳴き声を上げる。
every day - 1
温かい飲み物でも飲もうと一階に降りてきた僕は、ソファーで大きな絵本の
ようなものを広げている巫女沢を見かけた。
その向かいの位置には清野が座り、テレビ画面を夢中になって見ていた。手
元にはゲーム機のコントローラが握られている。
日付が変わるまであと数分というこの時間にしては、リビングにいる人数は
少なくも感じられた。
二人とも集中していたこともあって、邪魔をしては悪いと思い、声をかける
わけでもなく無言でキッチンへと入ろうとする僕をふいに巫女沢が呼び止めた。
「あれ? なおのすけ、夜食でも作るの?」
「コーヒー煎れるだけだよ」
「あ、だったらお湯湧かすよね。あたし小腹空いたからカップ麺食べたいんだ」
「へいへい」
そう答えて少し多めの水を薬缶に注いでから火にかける。食器棚から自分専
用のマグカップを取り、冷蔵庫脇にある『カンパ棚』とかかれた戸棚の中にあ
ったインスタントコーヒーの缶を出した。
「あ、コーヒー煎れるならオレにもよろしく」
巫女沢との受け答えをして数分経ってから清野がそう告げる。多分、ゲーム
の方が一段落ついたのだろうか。
僕は再び食器棚に向かい『智秋』と書かれたマグカップを取り出す。それに
水を入れて沸騰しかけた薬缶の蓋を開いて足りないと思われる量を注ぐ。
「ミルクたっぷりだっけ?」
記憶が曖昧だったので清野に対してそう質問するが、その質問自体が不満だ
ったのか、えらい勢いでそれを否定された。
「コーヒーはブラックに決まってるだろが!」
僕はミルクたっぷりのカフェオレが大好きなので、清野の考えには同意しな
い。通は何かと純粋なものを好むらしい。混じりっけのないものがそんなにい
いものなのだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、しばらくキッチンでお湯が沸くのも待
った。
薬缶が悲鳴を上げたのを聞きつけ、巫女沢がキッチンへとやってくる。そし
て、電子レンジの上に置いてある『絵里の!』と書いた白い札のついている篭
の中に手を伸ばし、カップ麺を取り出した。通称『絵里篭』。別名、非常時持
ち出し篭とも言う。絵里がこの下宿に来る前は確か後者の呼ばれ方だったよう
な気がした。
僕は二杯分のインスタントコーヒー(もちろん一つはミルクたっぷりのカフ
ェオレ)を作るとマグカップをトレイに載せ、リビングに移動する。
「サンキュ、なおちん」
ソファーに座った清野はゲームをすでに終えていて声をかけてくる。テレビ
の電源は切られ、ゲーム機自体も『お片づけ箱』と書かれた段ボール箱に無造
作に仕舞われている。
「またゲーム買ってきたの?」
僕はあまりそういう娯楽に興味はないので、ほとんど社交辞令的に口を開く。
「そうそう、今日朝一で並んで手に入れたんだよ」
清野はゲームソフトの入ったDVDケースとメモリーカードを大事そうに抱
えていた。基本的にゲーム機本体は共用品であり、ゲームソフトに関しては個
々に管理すべきものらしい。とはいえ、先輩住人が置いていったゲームソフト
がいくつか残されている。それは単純なパズルゲームだったり、みんなで遊べ
るアクションゲームだったりした。
「そういえば、これって巫女沢のかな?」
僕はテーブルの上にあった画集を手にとってペラペラとめくる。パノラマ的
に描かれたその中には多くの少女たちが登場していた。内容は、源氏物語絵巻
のように客観的な視点による戦争などの場面だ。少女たちは戦い、そして殺さ
れ、その間を縫うように平和なひとときを過ごしている。少し前に、僕はこの
作者の作品の展示会を見に行った覚えがある。たしか名前を『ヘンリー・ダー
ガー』といった。
「なにそれ? ちとキモくない?」
覗き込んできた清野がそんな感想を漏らした。
今開いているページには、惨殺された少女の絵がたどたどしく描かれている。
殺された彼女たちは腹部を切られ、はらわたが飛び出していた。一言で言うな
らば凄惨。
そしてこの作者が描く少女たちの何よりの特徴が、ペニスを持っていること
だろうか。
無論、絵だけが残っていたのならこれは「少年」であるという可能性もあっ
ただろう。描かれる少女には胸のふくらみもないのだから。
だが、ダーガーが残したものは絵だけではない。同時に一万五千ページ近く
のテキストを書き残しているのだ。この画集の絵は挿絵に過ぎない。だからこ
そ、そこに描かれている人物が少女だと特定できるのだ。
「お夜食、お夜食、いつ食べよう〜」
妙な歌を唄いながら巫女沢がリビングへと戻ってくる。
「このダーガーの画集って巫女沢の?」
「うん。そだよん。えへへ、ネットの通販で買っちった」
テーブルに置いたカップ麺をズルズルと食べ出す巫女沢に、清野が怪訝な顔
で質問した。
「よくそんなグロテスクな絵を手に入れる気になったね」
「……」
巫女沢はそんな言葉は無視して食べることに集中している。食欲を方が優先
しているのか、それとも聞こえなかったのか。
「ダーガーの絵は確かに印象が強いからね。一部の人間には惹かれる部分も多
いんじゃないの」
首をすくめながら当たり障りのない意見で僕はお茶を濁す。
「しっかし、意味わかんねぇ。少女っぽいけどチンポ付いてるし、和やかな雰
囲気があったと思ったら、惨たらしい殺され方してるし」
切り裂かれ、腸をぶちまけたその絵に清野は眉をひそめる。そういえば、こ
いつ医学部とか言ってなかったっけ……いや、違う、それは巫女沢か。
「アウトサイダー・アートだからね。常人の感覚で描かれているわけじゃない
から」
ダーガーの絵を知っている僕としては、巫女沢の代わりに解説をしなければ
ならないのだろう。
「なにその……アウトサイダー・アートって?」
「精神病患者とか、正規の美術教育を受けていない、独学自修の作り手たちに
よる作品だよ」
「へぇ、詳しいじゃん。あれ? なおちん工学系の専攻だよね」
「僕のは美術を学問として興味を持っているんじゃなくて、単純に好奇心から
だから」
「じゃあ、えりちんは?」
ひたすら食っている巫女沢は話に加わろうとしない。というか、今は腹を満
たすことに集中したいから、とオーラが出ているようにも感じる。
「さぁ、単なる趣味の問題でしょ。スプラッタもの好きだし」
僕と清野は巫女沢の顔をまじまじと見つめる。といっても、彼女のその目は
カップ麺に集中している為に、見られていることさえ意識していないだろう。
僕らはまるで、ペットのネコが餌を食べているのを見るかのように、微笑ま
しく巫女沢の喰いっぷりをしばらく眺めていた。
「闇の衝動だよ」
スープまで全部飲み干した巫女沢が、食した直後にぼそりと呟いた。
「へ?」
間抜けな声が清野から漏れる。
「乾いた心を癒すの。残虐であればあるほどあたしの心は癒される。だってさ、
誰でもそういう闇の部分は持ってるじゃん」
それは多分、清野が最初に質問した事への答えだろう。画集を手に入れた理
由を巫女沢はそう考えている。
「否定はしないけど、生理的に受け付けないって奴もいるだろう。えりちんは
そうかもしれんけど、オレは趣味じゃない」
「なおのすけは好きそうだけどね」
巫女沢は口元を片方だけ吊り上げて僕の方を見る。同類とでも言いたげな素
振りだ。
同意はできないので、しかたなく口を開く。
「ダーガーの絵は、個人的にはあまり好きではないね。でもね、それは残酷だ
からとかそういう問題じゃない。だって僕はゴヤの【我が子を食うサトゥルヌ
ス】は大好きだもん。ダーガーの絵が好きになれないのは、その世界が閉じて
しまっているからだと思う。それはすごく悲しい世界なんだ。だから、嫌悪感
を抱きつつ、目が離せなくなってしまっている。好きとは違う種類の感情だ」
「井の中の蛙、大海を知らずってか?」
世界を知らないという事と、世界が閉じているという事の意味。清野の言い
たいことと僕の考えは微妙にズレていた。
「されど空の青さを知る、とも言うよね」
そう言ってリビングに入ってきたのは、この家のオーナーである御影さんだ
った。
「それって、単に他の誰かが考えた付け足しで正式な句じゃありませんよ」
僕はそう呟く。「空の高さを知る」とか、様々のものがあったはずだ。
「そう? でも、私は彼が描く空の青さは好きだな。彼がいくら世界を拒絶し
ていても、その空の青さまでは拒絶していないよ」
それは僕や巫女沢とは違った捉え方だった。
「なおのすけだけじゃなくて、晴海姉さまもダーガー知ってるんだ」
「いちおう経済学部だからね」
巫女沢の質問に御影さんはさらりとそう答える。
「なんでやねん」
美大の学生でもないのに関連がないじゃないか、とでも言いたそうな清野の
ツッコミだった。
「あら、私はダーガーの死後、彼の部屋から作品を見つけてアウトサイダー・
アートとして売り出そうとした家主のビジネスマンとしての目利きにこそ、興
味を持っているんだけどね」
ダーガーが生涯孤独で過ごしてきた背景を御影さんはよく知っているようだ。
家族も友人もなく、五十年近く病院の皿洗い兼掃除夫の仕事をしながら、社
会との接点がほとんどなかった彼の孤独な人生。彼の創りだしたアートは、彼
自身の為に創られていたのだ。
そういえば、ダーガーは人に作品を見せることを嫌がっていたそうだ。彼の
死後、それが尊重されることなく公開されてしまっている。確かにビジネス的
には成功したのだろうけど、彼の意志はどうなってしまうのだろう。
ダーガーの絵を素直に認められない僕だが、それでも彼が自分自身の為に創
りだしたアートには同情してしまう。いや、同情ではない。僕は彼の絵を見た
時に思ったのだ。この絵は他人が見ていいものではないと。
「彼のアートは彼だけのものですよ」
「すべての創作物は単独では意味がないの。第三者に公開することで芸術とな
るのだから。彼らは創造者であり表現者なのよ。表現するのがこの世界でない
のなら、なにもこの現実世界にそれを生み出す必要がないんじゃない? 脳内
だけで満足なはずよ。そうであれば、彼の世界は制約を受けることなく広がっ
ていくじゃない。でもね、制約を受け入れて現世に具現化するのなら、それは
立派な芸術品なのよ」
「でも……」
「テキストにせよ、絵画にせよ。現実世界で表現をしているのだから、彼はア
ーティストなの。それともなに? 彼を人間的価値のない妄想者だとでもいう
の?」
アートの価値は他人が評価するもの。それは間違いではない。だが、ダーガ
ー自身そんな事は関係なかったのだろう。
「人間的価値は関係ないですよ! 彼にはそれが生きる糧だったと思いますよ」
ダーガーの絵を否定していたというのに、いつの間にか擁護の立場に立たさ
れてしまっていた。
「うふふふ。普段冷静なのに、時々熱くなるよね伊丹って」
御影さんの余裕の笑みには、勝てる気がしない。
「……」
僕は次に続けようとしていた攻撃的な言葉をいったん飲み込んでしまう。
すると御影さんは、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべてこう言った。
「頭を冷やすついでに簡単な問題を与えてあげようか。狂気と芸術の差ってな
んだと思う?」
しばらくの僕は考え込む。それは『差』などあるのだろうか?
「境界線なんかないんじゃない?」
清野は僕と同じ考えのようだった。
「じゃあ、言い方変えるわね。芸術を職業として成り立たせる為に必要最低限
の事は?」
いささかクイズじみてきたが、真面目に考えることにする。
もしかしたら、単純な答えなのかもしれない。
すると、巫女沢がニッコリと手を挙げる。
「ハイ!」
「はい、絵里ちゃん」
まるで小学校の先生のような口調の御影さん。教職は取らなかったっていう
けど、もしかしたら彼女は教師に向いているのかもしれない。それは、子供に
好かれる良い教師というのではなく、子供を巧みに操ることのできる優秀な教
師という意味だ。
指された巫女沢は微かな笑みを浮かべる。それは、片方だけが吊り上がった
歪んだものだった。
「それは、法を犯さないことです」
death - 1
一人目は草野知恵。
復讐の手始めにと、帰宅途中に拉致。道を尋ねる振りをして車で彼女に近づ
く。お礼に家まで送ると嘘を吐いた。同性ということもあって、彼女から警戒
心は消えていたのだろう。喉が渇いたと途中の自動販売機の前で止まり、前も
って睡眠薬を仕込んでおいたジュースをその場で買ったものとすり替えて彼女
に渡す。飲まなければ別の方法を考えたが、渡されたものを彼女は素直に飲み
干した。上着のポケットの中には保冷剤を入れておいたので、不審がられるこ
とはなかったようだ。
「ほんとに覚えてないんだ」
初めは復讐の為にただ痛みつけてやるだけと思ったが、五年前の事をあまり
にも覚えていないので知識としてあった拷問の方法を試してみる。
まず手始めにポピュラーなものでもある爪の間に針を刺す方法だ。椅子に座
らせた彼女は両手を肘掛け部分に縛られて固定されているので、実行するのは
簡単である。
「これでも思い出さない? 自分が何をやったか」
地味であるがかなり苦痛なはずだった。指先は感覚器官の集中する箇所であ
り、本来なら爪で保護されている部分を傷つけるわけだから、その痛みは尋常
なものではないだろう。だから、恨みを込めて一本一本丹念に処置していくつ
もりだった。
だが、彼女は右腕の親指から初めて三本目の中指ですぐに気絶してしまった。
なんともつまらない。春香が受けた精神的苦痛はこんなもんでは済まなかった
はずだ。単純に身体の痛みだけでもこれの数十倍は受けていたはず。
気付くまで待っていられないので、拷問を続けた。拷問と言っても、何を自
白させるわけでもない。昔自分が何をやったか思い知ればいいだけだ。
右手の薬指に針を刺す。身体がびくんと動き、縛り付けてあった椅子ごとガ
タンと飛び跳ねた。呻き声が漏れるがまだ完全に覚醒していない。さらに小指、
そして左手の親指を刺したところで擦れそうな声で「やめてよぉ」と彼女は呟
いた。
そんなことはお構いなしに次の指に移る。
人差し指を掴んだところで、「やめなさいよ! ふざけんな! やめろって
んだろ!」と、まるで逆切れした子供のように彼女は大声で喚き始めた。
「あんた自分の立場わかってるの?」と冷静に冷徹に問いかける。生殺与奪権
は完全にこちらにある。逆らうという行為がどんな影響を及ぼすかを理解でき
たのか、一瞬にして草野知恵は沈黙する。
「まだ思い出さない?」と最初の質問を繰り返す。彼女が春香のことを思い出
し、過去の自分の行いを反省してくれるのなら、命までは取るまいと考えてい
た。
「……思い出せません。それはいつの話なんですか?」と初めは弱々しい返答
だった。ところが、高校時代に虐められていた子だということを話すと、他人
事のように笑い出した。そんな彼女を見ているとじわじわと怒りがこみ上げて
くる。
彼女は春香の事を今のカレシの元カノジョだと思っていたらしい。彼女の笑
い声はさらに高まった。「ずいぶん昔の事を持ち出すのね」とまるで他人事。
その一言で自分の中の何かが切れたような気がした。
彼女から逸らした視界の端に、鈍く光る刃が映る。
森の中を歩くのに邪魔な小枝を切り開こうと持ってきていた鉈だった。ほぼ
無意識にそれを手にしていた。
もうまどろっこしい事はやめよう。そう自分に対して言い聞かせると、両手
で握った鉈を彼女の左手首部分に叩きおろした。
「うぎぃぃぃぃぃぃぃ!!」
耳を劈くような悲鳴。その声が苛立ちに拍車をかける。
一度だけでは気が収まらず、何度も何度も叩きつけた。血液は飛び散り、そ
のうち肘掛けは破壊され、左手首から先はぼとりと床に転げ落ちた。なにやら
生暖かいものが身体に降り注いでいる。
なんだか気持ちが良い。目の前では、彼女が狂ったように同じ言葉を吐き続
けていた。
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてや
めてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめ
てやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてや
めてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめ
てやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてや
めてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
やめてやめてやめて」
どれくらい眺めていただろうか。彼女の声はだんだんと弱くなり、唇は青紫
色に変色していく。生命が失われていくその様はぞっとするような美しさを持っ
ており、何時間もそれを見ていても飽きることはなかった。
気付くと、彼女の足下は血が水たまりのようになっている。
そして、彼女の瞳からはいつの間にか光が失われていた。
every day - 2
「………行方不明になってもうそんなに経つんだ」
リビングに行くと、ソファーで膝を抱えて座っている御影さんが携帯電話で
声を潜めて何か喋っているのが見えた。夕食の自炊でもしようかと思ったが、
何か聞かれてはまずい内容なのではと気を利かせ、そのまま外へ出かけようか
と考えたところで彼女と目が合ってしまう。僕は軽く会釈してそのまま方向を
転換した。
「んじゃ、みーちゃんにもよろしく言っておいてね」
話し終えたような会話が聞こえてくるとすぐ、僕に向かって御影さんは呼び
かけてきた。
「伊丹、いいよ。夕食作るんでしょ?」
僕は苦笑しながら、再びリビングに入る。
「電話終わったんですか?」
「そんなに気を遣わなくてもいいよ。聞かれたくない電話だったら、自分の部
屋でかけるよ」
「そうですね」
「そうだ。食材奢ってあげようか?」
御影さんはおもむろにそんな事を言ってくる。とはいえ、前にも似たような
事は言われているので対応に困るということはない。
「あ、それは助かりますね。でも、カップ麺とかそういうのはやめてください
ね。今、そういう気分じゃないんで」
前に食材と言われて期待していたら、段ボール箱に一杯のカップラーメンだっ
た。生ものじゃないだけましなのかもしれないけど。
「そんなケチくさいことを私が言うと思ってるの? 実はね、知り合いにもらっ
た魚を捌いてもらおうと思ってね」
御影さんはそう言って床に置いてあったクーラーボックスをテーブルの上に
置く。蓋を開けると中には四十センチほどの鯛が数匹入っていた。
「こりゃ、見事ですね」
「伊丹って料理得意でしょ。実家が食べ物屋とか言ってたじゃない。魚の解体
もお手の物じゃないの」
「まあ、父さんに仕込まれてますからね。出刃一本もあれば簡単ですけど」
「じゃあ、お願い。ああ、ついでに私やみんなの分も作ってくれると助かるけ
ど」
一人で食べきれる量ではなかったので、そんなことではないかと思っていた。
この下宿の中で料理がまともに作れるのは僕と政夫ぐらいだから、お鉢が回っ
てくるのも仕方がない。
「じゃあ、兜煮と鯛飯でも作りますか。今日は何人ぐらい帰ってきてます?」
「絵里ちゃんと清野と稲垣ぐらいかな、プラス私とあんた」
人数分のレシピを頭の中で組み立てながらクーラーボックスを担ぎキッチン
へと向かう。
魚を捌き始めて五分と経たないうちに御影さんがキッチンへとやってきた。
冷蔵庫にある飲み物が目当てかなと思っていたら、なにやら僕の手元を観察し
始めた。
ウロコを落とし終わり、尾びれの付け根にちょうど包丁を入れている時だっ
た。刃物を扱っていたのでそのまま作業を続けていく。
尾のほうを手前にして頭のほうに切り裂いていき、包丁を返して上身をおろ
す。下身も同じ手順でおろして、内蔵を中骨から剥がしていく。
頭を切り落としたところで、それを口部分が上になるようにまな板に置き、
上前歯の中央に包丁の刃を入れ、まっすぐに下ろす。コツさえ分かれば身を潰
すことなく二つ割りができる。
「なんですか?」
一段落ついたところで、後ろを振り返る。
「生き物を解体する時の気持ちってどんな感じ?」
まるで子供のように、ニヤニヤと笑いながらそんな質問を投げつけられた。
「死んでるじゃないですか。それにこれは食材ですよ」
「へえ、伊丹はこの魚が生きていたことを否定するのかい?」
いつものごとく哲学的な問いかけ。とはいってもこの人はどこまで本気かは
わからない。
「御影さんが食材って言ったんじゃないですか。それに僕にとっては、この魚
が生きていた時の事なんか関係がない話です」
適当にお茶を濁す。真面目に答えてもしょうがない。
「もしさ、無人島に私とあなたしかいなかったとするじゃない。で、食料はす
べて食べ尽くしてしまったとする。一ヶ月後には船が通る予定なのを知ってい
て、でも今は餓死寸前の状態。その場合、相手を殺して食べる?」
魚を捌くことと何か関係があるのだろうかと疑問に思うが、そんなことはも
しかしたら考えるだけ無駄なのかもしれない。特に御影さんが相手では。
「相手にもよりますね」
「どういうこと?」
「とても大切な友人や家族であるならば、そんな事はしません」
それが模範解答だろう。マスコミにインタビューを受ければそんな事を言う
に決まっている。
「そう。だったら、憎しみを持った相手ならば躊躇はしないってことね」
「……そうですね」
何が言いたいのだろう。まあ、御影さん相手にまともに議論しようと思わな
いのが得策だろう。
「ゴローちん、醤油とって」
稲垣から受け取った醤油を清野は兜煮の入った器にかけようとしたので、僕
はとっさにその腕を止める。
「なにすんの?」
「いや、味薄いから」
清野はのほほんとそう答える。というか、味オンチなのかこいつは。
「あははは。智のすけ、濃い味好みだからね。この前カップ焼きそばにソース
足してたし」
巫女沢はそう言って笑い飛ばす。
リビングにはこの下宿に暮らす人数の三分の二ほどが集まっていた。誰かが
作ったおかずを囲んでというのは月に一度あるかないかの出来事だ。住人はそ
れぞれ個性が強いので、まったりと団らんというわけにはいかないけど、これ
はこれで居心地の良い空間でもあった。
「あ、ちょっとニュース見ていい?」
巫女沢が立ち上がってテレビの電源を入れる。映し出された番組はちょうど
夜のニュースだった。
『現代に蘇る拷問鬼〜猟奇殺人事件を追う』とテロップが流れ、そのままCM
へと突入する。連日報道されている殺人事件の特集のようだ。
新聞の報道によれば、G県の山中にある廃屋で二人の遺体が見つかったらし
い。一人は椅子に縛られた状態で左の手首から先を切断され出血多量で死亡。
もう一人は両手両足を生きたままの状態で切断され、その後首を切断されて死
亡したらしい。遺体の状態から拷問を受けたものではないかとの見方が強まっ
ているそうだ。
「まだ犯人捕まらないの?」
稲垣が不安そうな声を出す。巫女沢とは性格が正反対。とにかく恐がりで、
オカルトやホラーには嫌悪感を示すタイプだった。
「そんなに簡単に捕まったらつまんないよ」
「絵里、それは不適切な言葉だよ」
「そうそう、国民の大半は犯人に早く捕まって欲しいと思っているんだから」
「大半?」
清野の言葉に御影さんが何か含みを込めたように、その場の空気へと問いを
投げかける。
最初に反応したのは巫女沢。それは「早く捕まって欲しい」という意見とは
まったく逆のものだった。
「それは上辺の感情でしょ? 大半のひとたちは自分に危害が加わらない限り
警察が犯人を捕まえる事には興味がないよ。それよりも捕まらず第三、第四の
犯罪を犯してくれることを望んでいるんじゃないかな。もっと凄惨にもっと残
虐にって」
「危害が加わらないって……でもさ、えりちん。遺体の見つかった場所って、
隣の県だよ。現代社会においてこの程度の距離、そもそも日本国内であれば犯
人は簡単に移動することができるんだ。イコール、犯人の行動範囲は限定され
ているわけじゃないと思う。この近くに犯人が居たってなんの不思議もない世
の中なんだから」
「あたしはね。犯人見てみたいかなぁ、とか思ってる人だから。それはそれで
いいと思ってるの」
巫女沢の反応に、清野は苦笑いのような引きつった笑みを浮かべた。きっと
彼女の思考が理解できないのだろう。
#255/598 ●長編 *** コメント #254 ***
★タイトル (lig ) 05/06/07 00:11 (278)
日常と狂気と猟奇(2/3) 目三笠
★内容
death - 2
二人目は佐伯みちる。
資産家の一人娘であり、昔から高飛車な態度だったらしい。
今でもそれは変わらず、あまりにも高慢な態度に腹を立て、初めから破壊目
的の拷問を行った。
痛みですぐに気を失ってしまうのと、失血が酷くてすぐに死んでしまうのを
避ける方法を考えた。
まず、局部麻酔をかけて、腕を切り落とす。切り落とした傷口の消毒と止血
の意味も込めて、熱した鏝で焼いていく。もちろん、目隠しなんてしない。身
体を完全に固定した状態でその恐怖と絶望を間近で感じてもらう。
切り落とした腕は、彼女が見てる前で鴉の餌にした。自分の腕を啄まれてい
く様子に恐れおののく姿がなんとも笑える。
次は同じ方法で両足を切り落とす。
達磨の出来上がり。これで彼女は自力で逃げることすらできないだろう。
だが、彼女の精神がそれに耐えられなかったのだろうか。突然、意味不明な
言葉を喚き散らす有り様だ。
精神が破壊されては当初の目的は達せられない。自我を保ってもらわなくて
は、自らが犯した罪を悔やむことすらできないのだから。
このまま元の精神状態には戻らないだろうと思いつつも、あとで、いろいろ
と喋られては都合が悪いので、念のために首を切り落とす。
バラバラ死体の出来上がり。
本来、死体をバラバラにする意味というのは、死体の身元を分からなくする
為や、運びやすくする為だ。だから殺してしまってから遺体を切断する。
でも、今回の場合は反対だった。
生きている内に腕を切り落とし、足を切り落とし、そして首を切り落とした
ところで絶命する。とても効率が悪いとその手のプロは思うのかもしれない。
でもこれは、殺すことが目的ではない。
転がる胴体と頭、そして食い散らかされた腕と足を見て甘美な気持ちが沸き
上がってくる。
数時間前までは五体満足で自分に対して毒づいていた彼女はここにはいない。
こにあるのは、ただの肉片。佐伯みちるという材料から生まれた一つのアート。
人体損壊は一つの芸術的価値を持っていた。
だけど、これは誰かに見せる為のアートではない。自分で独占する為の芸術
品だ。
every day - 3
ドアをノックする音が聞こえる。目覚まし時計のデジタル表示は『6:47』。
今日の授業は午後からなので、午前中は思いきり惰眠をむさぼるつもりでいた。
「誰?」
目をこすりながら起きあがると、扉を開ける。
「ごめん、まだ寝てたんだ」
目の前には巫女沢が立っていた。部屋が隣なので用があると遠慮なく彼女は
この部屋を訪れる。
「なおのすけさ、アレ持ってる?」
「ん?」
「いや、なっちゃったみたいでさ……うん、ちょうど買い置き切らせてたの忘
れてて、てへヘ」
そんなことで起こされたのかと少し不機嫌になる。
「御影さんにもらえばいいでしょ。あの人、この時間なら出かける出かけない
に関わらずリビングでゆっくりしてるし」
「あ……あはははは、御影さんね、タイプの違うヤツだから。うん、あたしち
ょっと抵抗あるし……」
「……わかった」
これ以上不毛な会話を続けていてもしょうがないなと部屋の奥に戻り、引き
出しの中のポーチから目的の物を取り出す。
「はい。別に返さなくていいから」
「うん、恩に着る」
寝ぼけた頭で巫女沢を見送り、このまま起きてしまおうかと一瞬考える。が、
昨日遅くまで書いていたレポートの影響か再び深い眠気が襲ってきた。
僕はそのまま倒れるように布団に寝転がった。
十二時にセットしたアラームが鳴る。それより五分ほど前に、空腹感から目
覚めてはいた。
かったるいな、と思いながら、何か腹に入れる為にキッチンへと向かう。
リビングには御影さんと清野が居た。
清野は相変わらずゲームに集中していて、御影さんはテーブルで書類のよう
なものに目を通している。
「おはよ伊丹」
僕がリビングに入ってきたのを御影さんは横目でちらりと見ながら挨拶をす
る。
「おはようございます」
リビングのテーブルは、書類でほぼ埋め尽くされていた。それは、住民票の
写しであったり免許証の写しであったり、不動産屋からの書類もあった。
書類に書いてある名前は聞いたことのないものだ。
「新しい人入るんですか?」
現在、この下宿には六人プラスオーナーの御影さんが住んでいる。部屋はあ
と二つ残っているので、新たな入居は可能だ。状況から見てそう考えるのが自
然であろう。
「まだ審査段階だけどね」
「あれ? この下宿ってそんなに入居基準厳しかったんだ。まあ、今の世の中
変な人多いですからね」
「いや、私としてはあんまり凡人は入れたくないね」
「え?」
「その方が面白いじゃない」
大学から戻ってくると、リビングでは巫女沢がテレビを食い入るように見て
いた。
ニュースでは猟奇殺人事件の続報が流れている。様々な分野からの見解や分
析は視聴者を飽きさせないよう色々な工夫がされているようだ。
「そんなに真剣になって。そこまで興味あるのかい?」
「うん。だって被害者、高校の時の知り合いだもん」
そんな話は初耳だった。一瞬だけ言葉に詰まるが、彼女の性格や今の話し方
からしてそれほど親しかったわけではないだろう。
「友達……じゃないようだね。その冷めようは」
「一緒に行動したこともあったけど、別にどうでもいい子だったし」
彼女は被害者が知り合いであることには大して固執していないようだ。それ
よりも事件の残虐性こそが興味の対象なのだろう。
「巫女沢らしいね。そういえば、この前話してたの本気?」
「この前?」
「犯人に会ってみたいって」
「うん」
「どうして?」
「理由はうまく説明できないな……うーん、あえて言うと『憧れ』かな」
彼女は犯人のように人を殺めたいのか、それとも……。
「怖いとかおぞましいとか思わないの?」
「ううん。誰だって心に闇は持ってるじゃん。でなきゃ、ホラーとかスプラッ
タ映画なんて作られないし、それこそ興行成績の上位に入り込めるわけないじ
ゃん」
「まあ、たしかに一理あるけど」
「なおのすけだって、気になるでしょ?」
巫女沢はそう言って小首を傾げる。その無邪気な表情の裏には何が隠されて
るのか。
「気にならないといえば嘘になるけど」
「ほら」
「でも巫女沢は単純に娯楽として楽しんでいるんでしょ? 危機感みたいなも
のは持たないわけでしょ」
「まあね」
「それは自分には関係のない世界だと思っているから? 自分は安全な位置か
ら観察することができると確信しているから?」
「うーん、どうかな?」
「犯人が自分を襲うかもしれないって考えないわけ?」
「それはそれでいいよ」
「なんで?」
「会ってみたいって言ったじゃん。その人が何を思ってあんな事をしているの
か、聞いてみたいもん」
「殺されても?」
「殺されなくても人間はいつか死ぬんだよ」
そう言って彼女は嗤った。
death - 3
三人目の飯島景子は、ちょっと趣向を変えた。暴力的な感情を一切抑え込み、
事務的に処理をすることでアートとしての完成度をあげた。
局部麻酔をした彼女の腹部を縦方向に軽く素早く刃を当てる。刃こぼれして
いない真っ新なそれで表皮を切り裂いていく。血がだらりと溢れる中、何度も
何度も刃を往復させさらにその内にある脂肪を切り裂く。あくまでも丁重に確
実に、今は内臓を傷つけてはいけない。そう言い聞かせながら作業を進めた。
ほどなくして臓物の一部が見えてくる。興奮を抑えながら右手をその中に突っ
込むとひも状のそれをゆっくりと引き擦り出した。途中「なにしてるの?」と
彼女の声が聞こえたので適当に話を濁した。目隠しをされている彼女に真実を
伝えるにはまだ作品としては未完成すぎる。彼女にはさらなる絶望的な情景を
見せつけなければならない。
デリケートな腹部切開は意外と厄介で時間がかかった。何しろ道具が出刃包
丁のみである。こんなことなら、麻酔だけではなく切開の為の道具も盗み出し
ておくべきだったかなと後悔する。
目隠しを外すと彼女は、現実から目を逸らすように周りやこちらの様子ばか
り窺っていた。多分、自分の身に起きた事を認めたくないという心理が働いた
のだろう。麻酔が完全に切れるまでは、感覚のない彼女の身体はまったく別の
物と思いたいのかもしれない。
彼女といくつかの会話を交わすと、撮影に入る為にポケットからデジタルカ
メラを取り出す。今回は完成度が高い。命が失われていく様を確実に記録して
いかなければ。
春香の事を覚えていないのならそれはそれで構わないのだ。命が尽きるまで
に自分の行いを思い出せれば、それを後悔しながらあの世へ行けばいい。思い
出せないのであれば、不条理な行いに絶望的になりながら死への恐怖を味わう
がいい。
肩に乗っていた鴉がまるで咆哮するかのように一声鳴くと床へと降り立ち、
引き摺り出した彼女の内臓を啄む。
鴉を追っていた彼女の視線は自分の引き裂かれた腹部へと注がれた。
「え?」
彼女の弱々しい驚きの声とともに絶望の表情へと変わる。
それは待ちこがれていた作品の完成を示すものであった。
every day - 4
「なお!」
駅のホームで電車を待っていると、後ろから聞き慣れた声で呼ばれる。
振り向くと同じ下宿に住む恵の姿が見えた。ベンチに座ってこちらに手を振
っている。
「あれ? 恵も今帰り?」
「いや、帰りっていうか、二時間くらい前から絵里待ってるんだけどさ。なん
かすっぽかされたみたい。『バーゲンの最終日だから一緒に行こう』って、絵
里から誘っといてこれだもんね」
「そりゃ災難で」
「ねぇ、絵里どこ行ったか知らない? 携帯も繋がらないんだ」
「さあ。巫女沢って思いつきで行動するタイプだからさすがの僕でも把握でき
ないよ。案外、約束の事ころっと忘れててさ、下宿に戻って携帯の充電してる
かも」
「んー……まあ、それもあり得るかもね」
僕たちは一緒に下宿に戻ると、玄関の脇にあるそれぞれの名前が書かれたプ
ラスチックのプレートを見る。出かける時は各個人名の書かれたプレートを裏
返していくというのが、この下宿の数少ない決まりであった。もちろん、プレ
ートの文字は入居した時に各々が自分で書いたものだ。
帰ってきている時は黒字に白で書かれた表部分。裏返すと白地に赤で名前が
書かれている。今現在、巫女沢絵里と清野智秋、そしてオーナーである御影晴
海のプレートが裏返しにされていた。
「お帰り」
玄関近くのトイレから出てきた稲垣と目が合う。
「ねぇ、ゴローちゃん。絵里どこ行ったか聞いてない?」
恵がついでにと稲垣を捕まえる。
「絵里だったら、さっき智秋と一緒にどこかに出かけていったよ」
あの日から巫女沢と清野は帰ってきていない。
テレビでは相変わらず猟奇殺人事件の続報をやっていた。リビングでは政夫
がそれを興味津々に観ている。ちょっと前までこの手の番組が始まると、巫女
沢がそれを嬉しそうに眺めていたものだ。
彼女がこの下宿からいなくなってもう三日となる。そして、同じく清野も姿
を消した。
突然番組内が慌ただしくなる。何か速報が入ったのだろうか?
『ただいま入りましたニュースです。ついさきほどI県K市で性別不明の焼死
体が見つかりました。遺体の損傷が酷い為に身元の特定には困難を要すると思
われますが……』
「これ、絵里たちじゃないよね」
政夫が心配そうにこちらを向く。
「まだわかんないよ」
「そうだけど……」
「どしたの?」
部屋から出てきた恵がリビングでのただならぬ雰囲気に気付いたのか、声を
かけてくる。
「ん……いや」
被害者の特定がされていない現状で断定するのは不適切だと思ったのか、政
夫は言葉を濁して彼女から顔を背ける。
「なんかあったの? なお」
「ただのニュースだよ。死体が見つかったってだけ」
「殺されたの?」
「わからない。ニュースでは焼死体で身元の特定もできないって」
「まさか」
やはり誰もが同じ推測に辿り着くのだろうか。恵は視線を右斜め上に向けな
がら考えごとをするような仕草になる。
次の日、朝のニュースでは遺体の身元が確認されたと報じていた。現場にあ
った遺留品、遺体の歯型などから『清野智秋(22)』と判明したらしい。画
面に映し出される写真は高校生の頃のものだろうか、白黒で画像は荒いが髪型
等の面影は残っているようだ。
清野は数年前から家出をしていて、実家には連絡を一切入れていなかったら
しい。そんな事情を僕たちが知らなかったのも、ここの住人が他人にはあまり
干渉したがらないせいだろう。特に清野は自分の事を話すような奴でもなかっ
たのだから。
当然のことながら下宿内は騒然となった。これだけの事件が身近で起きたの
だから、無関心でいるのも限度があるのだろう。そして、同時に行方不明にな
った巫女沢の事も皆心配していた。
夕方近くに前の日から出かけていた御影さんが帰ってきた。下宿のみんなは
彼女がいる玄関へと集まる。
「晴海さん、ニュース見ました?」
一番動揺していたと思われる稲垣が真っ先に口を開く。
「ええ」
そういって御影さんは少し考え込むような素振りをする。
「お通夜とかお葬式とかいつなんだろ。わたしたち智秋の実家の住所とか知ら
ないから」
深い付き合いだったわけではないが、いちおう同じ下宿の住人として恵は最
後のお別れをしたいのだろう。
「わかった、確認するから待ってて。事件の詳細とかその後のこととか確認で
きたらみんなに報告するから」
death - 4
四人目は清野智秋。
人間の身体は第二度熱傷で三割、第三度熱傷で一割の範囲に火傷を負うと命
に関わるらしい。でも、片面をじっくりと炭化するまで焼いても意識が残って
いる場合もあるそうだ。助かるかどうかは別として。
火あぶりの刑はわりと歴史のある処刑方法だろう。生きたまま焼くという行
為は、食材においてはよくある調理法でもある。
大きめのケバブロースターを手に入れるのは簡単だった。ここがもともとト
ルコ料理の店だったので探す手間が省けた。
中心部の回転する鉄柱に縛り付け、あとはスイッチを入れるだけ。電源はさ
すがに生きていないので、キャンプ用の発電機を持ち込んだ。
すでにぐったりとした肉体は、熱に反応して身体の各部がピクリと動き始め
るが、さすがに暴れるような体力は残っていないだろう。
鼻を突くような肉の焼ける匂い。牛肉や豚肉のような香ばしさはない。昔、
葬儀場で嗅いだようななんとも言えない感じだ。
回転し焼け焦げていく肉塊を時々デジタルカメラで撮影していく。表面の組
織が炭化し、中から体液がじゅるじゅるとあふれ出す。その体液は熱によって
沸騰し、泡となり蒸発していく。
せっかくのケバブロースターなのだからと、その焼け焦げた表皮を削いでい
く。剥き出しになった体組織がさらに焼け焦げていく。
組織細胞の死んだ部分は痛みを感じないというが、新たに剥き出しになった
部分は再び痛みを取り戻すだろうか。
衰弱した肉体は弱々しい呻き声をあげるだけだ。しょうがないだろう。今回
は拷問というより娯楽に特化した趣向だ。こうやって肉を削いでいると、目の
前にいるのが人間であることを忘れてしまいそうだ。いや、忘れていないから
こそこうやって楽しむことができるのかもしれない。
#256/598 ●長編 *** コメント #255 ***
★タイトル (lig ) 05/06/07 00:12 (291)
日常と狂気と猟奇(3/3) 目三笠
★内容 05/06/13 23:04 修正 第3版
every day = lunacy
清野の遺体が発見されてからさらに四日が経つ。騒然とした世間とは裏腹に、
この下宿の空気は静けさを保っていた。
リビングのテレビでは巫女沢の代わりに政夫が連日ニュースを眺め、新しい
情報が入ると皆に話すという日々が続いた。オーナーの御影さんは実家からの
連絡を待っているらしい。あまりにも報道陣が多いからお通夜に行くのは自粛
すべきだと釘も刺された。
実家に電話で聞いたのか、直接行ったのかはわからないが、御影さんは「報
道陣がまるでハイエナのようだよ」と溜息を吐いていた。
下宿から二人の人間が消えたというのに、ここの空気は前とは余り変わらな
い。もともとマイペースな人間が住んでいるだけに、他人にそれほど影響を受
けないというのが理由なのだろう。悲しんでいる者はいても何かを騒ぎ立てよ
うという者はいなかった。
とはいえ、僕はそれでも違和感を抱いていた。
僕も他人の干渉を受けるのは嫌いな方だ。だから、今のこの下宿の静けさは
快適と言っても過言でもないだろう。
でも……。
僕は引き出しにしまっておいた父さんからもらった出刃包丁を手にする。一
つだけ確認しなければならない違和感があった。
僕は他人に干渉されるのが嫌いである。だから、他人に欺かれるのを良しと
しない。
部屋を出てリビングに向かう。
朝のこの時間には目的の人物はテーブルでゆったりとコーヒーでも飲んでい
るだろう。
「御影さん」
彼女がこちらを向く。僕のただならぬ雰囲気に気付いたのか、凍り付いたよ
うな微笑を浮かべた。
「どうしたの?」
「一つ聞きたいことがあります」
「ま、座りなよ。伊丹もコーヒー飲む?」
「いりません。簡単な質問ですから」
「なに?」
御影さんの微笑は崩れない。手強さはわかっているつもりだ。僕は深く息を
吸い込むと彼女に負けないような微笑みで問いかける。
「巫女沢はどこですか?」
* *
痛みは感じない。ただ失われていくだけ。
最初は右腕、そして左腕。右足を切り取られ、今は左足にさしかかったとこ
ろ。
昔、遊びで合法ドラッグに手を出したこともあったが、これはそれ以上に気
持ち良かった。脳がとろけるようで、身体は痺れているがまるで空に浮かんだ
気分。
きっと真下には海が広がっていて自分は雲の間を飛んでいるに違いない。
早く目隠しを外して欲しい。
きっとそこには素晴らしい世界が待っているはず。
* *
「なんの話?」
しらばっくれるのは仕方がない。それが普通の反応だ。
「僕はね、四日前からずっと違和感を抱いているんですよ」
「違和感?」
「清野が殺されましたよね。ニュースでは連日猟奇殺人の事ばかり。世間だっ
て騒がしている。御影さん言ってましたもんね。清野の実家は報道陣に囲まれ
て、行けば無遠慮でハイエナのような記者たちのインタビューを受けるって。
ここの下宿人はそういう他人から干渉を受けることを嫌がるでしょう。だから
誰一人として行かなかったのはわかります。でもね、世間があれだけ騒然とし
ているのに、ここはあまりにも静か過ぎるんですよ。なんで警察が事情聴取に
来ないんですか? どうして報道陣が嗅ぎつけてインタビューに来ないんです
か?」
「……」
御影さんの冷徹な微笑みは崩れない。
「簡単な理由ですよ。ここに清野智秋という人物は住んでいなかった。違いま
すか? 僕たちが清野と呼んでいたのは、清野智秋の高校時代と雰囲気が似て
いるだけの別の誰かなんですよ」
「面白いはね。だとしたら、どうして私が絵里ちゃんの場所を知っていなけれ
ばならないの?」
「この下宿に入居するには各種の身分証明が必要ですよね。バックにそれなり
の組織でもなければ精巧な偽造証など作れない。だとしたら御影さんと偽の清
野が共犯と考えるのが妥当でしょう。清野が殺され、巫女沢が行方不明になっ
た。巫女沢に罪をすべて被せるため、もしくは秘密を知ってしまった為の口封
じをした、普通はそう考えますよ」
「うふふふ」
崩れた微笑みから漏れたのは冷笑だった。
「何がおかしいんですか?」
「譬話でもしようかしら。ダーガーの住んでいたアパートの家主は、彼が住ん
でいた頃にはその才能には気付かなかった。彼が亡くなって、部屋を整理して
いて残された作品の価値に気が付いた。でもさ、家主が最初から才能のある人
間を見いだしてアパートに住まわせてたらどうなるかしら? 身よりのない彼
らの作品を家主が独り占めするために。もちろん、相続とか難しい問題は出て
くるかもしれない。けど、自分の意志とは関係なく公開されてしまった彼のア
ートは、それなりの成功を収めているのよ」
「どこが譬話なんですか?」
「だからさ、たとえばある人が偽の身分証を使ってこの下宿へと入ろうとした。
でも家主はそれが偽物であることに気付きながらも、騙された振りをした」
「なぜ騙された振りをするのですか?」
「ある種の才能をそこに見つけたとしたら? それより少し前に入居した、オ
カルトマニアのかわいい女の子と同じ匂いを感じたとしたら?」
「才能?」
「人間が壊れていく……これは肉体ではなく精神的にだけど、そんな部分に魅
力を感じている者がいたとしたら」
「御影さん、あなたの方が……」
壊れている。人間を人間として認識できていない。読み捨てられていく物語
のように、人間自体を娯楽の一つとでしか見られないのか。
「そんな怖い顔しないの。単なるジョークよ。私が今はっきり言えるのはね。
ここには清野智秋という名の人物が住んでいた。そして清野智秋は殺された。
それだけの事よ」
「それだけって」
「信じられない? だったら証拠を見せてあげようか」
そう言って御影さんは、リビングに一番近い位置にある自分の部屋に入り、
すぐに戻ってくる。
「これはね、清野がここへ入居する時に出した身分証明の書類。個人情報保護
法とか面倒な法律があるらしいから、これを伊丹に見せた事は内緒だよ」
クリアファイルを開いて、テーブルの上に乗せる。そこには、国民健康保険
証のコピーらしきものが挟んであった。確かに、名前は「清野智秋」となって
いる。
「でも……」
「でも、なに?」
「これじゃ、清野本人かどうかの確認は取れないんじゃありませんか?」
写真付きの運転免許証とは違い、文字だけが印刷された保険証では本人だと
確実に確認はできないだろう。
「どうして? 保険証は本人か本人の家族以外に持てないはずよ。そういえば、
さっきどうして警察や報道がここへ来ないかって聞いてきたわよね」
「そうですよ。ここへ入居していることがわかっているのなら、誰かしら訪ね
てきてもおかしくないんですよ」
「そうね。でも、わからない場合もあるのよ」
「わからない? この情報化社会で?」
「清野は転居届けも転入届けも出していないの」
「そんな馬鹿な」
「いいえ、そんなことは普通に行われているわ。例えば伊丹が部屋をもう一つ
借りたとする。理由は荷物と置く為とか勉強に集中する為の部屋として使うと
か。そんな時、いちいち転居届けなんか出す? そりゃ仕事部屋とかだったら、
法律的にも提出しなければならない書類はあるだろうけどね」
「じゃあ、清野が周りに話さない限りここに住んでいることは」
「誰にもわからない。ここの住人でさえ、偶然が重ならない限り、清野の知り
合いにそれを話すこともない」
「でも、このまま警察に黙ってるんですか? 人一人が亡くなっているんです
よ。それも殺人で」
「だからさ、そんなに焦ることはないの。私は確認を取る為に、実家にいくつ
かの資料を置いてきたわ。それを警察が調べて、ここの住人であった清野智秋
と殺された清野智秋が同一人物だと分かれば、伊丹のお望み通りここにも警察
や報道はやってくる」
何を企んでいるのか? それとも、自分は犯罪に関与していないからこそ、
こんなに堂々としていられるのか。いざという時は騙されてましたと答えれば
いいと思っているのか。
「さっきの譬話はどういう意味ですか?」
「意味? 単なる冗談だよ。真に受けてもしょうがないって」
「でも御影さんは清野に……」
「コピーからはわかりにくいかもしれないけど、保険証は素人の私には偽物だ
と見抜けなかったよ。単純に本物だっただけという見方が正しいのだけどね」
その事について御影さんは嘘は吐いていないだろうだろう。でも、僕は彼女
の「騙された振りをした」という言葉が気になる。
保険証が本物であるにも拘わらず騙された振りをする。言い換えれば、保険
証が本物なのにそれを提出した人物が偽物であることに気付いていた。
いくつかある推測の中で一番すっきりするものを、頭の中でまとめ上げる。
御影さんは清野を知っていたのだろう。そう、本物の清野をだ。家出をした
ことも、目の前の人物がただ雰囲気が似てるだけの別人だという事も。そして
何かを感じ取ったのかもしれない。
ただ、ここで問題なのは御影さんが本物の清野を知っていたという状況だ。
学校や地元等での知人や顔見知りであれば、なぜ仲間内や家族に黙っていたの
か。このような事件が起きるのを事前予測していたような御影さんが、警察に
疑われるような行動は取らないだろう。だとしたら、一方的に知っていたとす
るのが無理のない推測であろう。そうなると、今の僕の持っている情報だけで
はお手上げだ。
「他に質問は? なければおしまい」
勝ち誇ったような口調で御影さんは勝手にまとめに入る。
理詰めするには証拠が足りなすぎた。いや、もともと犯人探しをするつもり
なんて欠片も持っていない。僕の心の中で燻っていた違和感の正体を知りたか
っただけだ。それをはっきりさせる為には、気付くのが少し遅すぎたようだ。
例え話をジョークとしらを切るつもりなら別に構わない。僕は、僕と僕の大
切な人にさえ危害が加わらないのであれば沈黙を守るだけだ。
これ以上ここに居ても意味はない、話を続けることを諦めて御影さんに背を
向ける。彼女ほどの策士なら、この場で僕に手をかけることもないだろう。実
は、護身の為に持ってきていた出刃包丁を使わずに済んでほっとしていた。
リビングから出たところで、玄関脇のプレートに目が行く。
左から『御影晴海』『巫女沢絵里』『恵美和』『伊丹なお』『稲垣林檎』
『政夫乃璃』。
『清野智秋』のプレートは無くなっていた。すでに証拠隠滅を始めていたか。
今となっては推測に頼るしかないが、御影さんはなんらかの形で清野に協力
をしているのだろう。
ここに本物の清野智秋が住んでいたと偽装する為の準備として、まずは本人
の確保だろうか。監禁などをして殺さずにどこかに閉じこめる。もし、彼女が
家出した事を前もって知っていて、どこかのアパートに住み始めていたと情報
を得ていたのであれば、拉致という工程を省くことができるかもしれない。住
み始めで周りの住人にも顔をあまり知られていないのであれば、その時点での
入れ替わりは可能かもしれない。少なくとも高校時代の写真に限定すれば雰囲
気だけは似ているのだから、大きな違和感を周りに与えることはないだろう。
あとは、素顔を見られないようにしながらそのアパートで本物を監禁しつつ必
要最低限の荷物をこちらの下宿へも運ぶ。そして時期が来たら巫女沢を連れ出
し、本物の清野智秋を殺す。そうか、巫女沢が拉致されたのは、秘密を握られ
たというよりすべての罪を彼女に擦り付けるためだろう。ここに警察の手が回
れば、自ずと巫女沢と清野が二人で行動していたことがわかる。その後、どち
らも行方不明になっている。もし、このまま巫女沢が見つからなければ、捜査
の方向としては容疑者として彼女の名前をあげるだろうか。
御影さんが協力することで一番重要なのは、警察が来る前に偽の『清野』が
住んでいた証拠を消すということだろう。そう、例えば、手書きである清野の
プレートの始末。体液や髪の毛のついた布団はまるごと洗い、偽の指紋や髪の
毛の残る清野の部屋は念入りに掃除をする。オーナー権限を使えば容易に可能
だ。ここはアパートではなく下宿なのだから。
清野が本物かどうかは、僕らには判断がつかない。偽物が居たという証拠は
どこにもない。巫女沢が怪しいという状況証拠から、警察がそこまで念入りに
調べるかどうかも疑問だ。
そう、オカルトマニアの彼女の部屋からは、猟奇殺人に繋がるような資料が
わんさかと出てくるだろう。
僕はごく自然に、犯罪者の思考をトレースしている。これが真実なのかどう
かはわからない。でも、僕は猟奇的な殺人者の考えが理解できてしまう。それ
は巫女沢のオカルト趣味とどこが違うというのだろう。その気になれば、僕は
殺人の計画から証拠隠滅までを冷静にこなすことができるだろう。
巫女沢の『同類』と言いたげな素振りを思い出す。多分、彼女たちのような
人間は自分と同じ匂いを持つ者を嗅ぎ分けられるのかもしれない。そう、御影
さんだって。
ただ、御影さんの例え話が本当なら、彼女は共犯者ではなく傍観者なのだ。
事件に一番近い場所にいて、一番安全な位置にいる。もちろん、僕の推測が
正しければ犯罪者であることには変わりはないが。
御影さん、あなたはいったい……。
いつの間にか横に居た政夫が寂しそうに呟いた。
「きっついねぇ。ちあきちゃんのプレートだけ無くなってるのも。これでえり
ちゃんまでいなくなったらものすごく寂しくなるね」
* *
五人目は巫女沢絵里。
こいつだけは簡単に殺さない。一本ずつ丁寧に手足を切り落としていく。
痛みを誤魔化す為に、麻酔だけではなく麻薬を手に入れた。命が尽きる最後
の一瞬まで、意識を失わせない為に。
いや、もう罪を償わせるとか罰を与えるとか、そんな事は気にしていないの
かもしれない。ただ作品としての完成度の為にいろいろ模索しているだけなの
だから。その為に薬漬けにしているようなものだ。
左足を切り落としたところで彼女の目隠しを取る。自分が何をされているか
薄々感づいていたようだが、直接視覚で確認すれば恐怖はさらに増していくだ
ろう。たっぷりと絶望感を味わうがいい。その表情でこの作品を完成させて欲
しい。
だが、彼女は視界に映った相手を見て満面の笑みを浮かべていた。初めは薬
による中毒症状を起こしているのだろうと考えたが、彼女の言葉はきちんと自
我を保っているようにも思える。
「ああ、やっぱりあなただったのね。あたし覚えているよ。ううん、ちょっと
前までは確信が持てなかった。あまりにも性格が違っていたし、名前だって違
っていた。でもね、ここで春香の話をしてくれた時にあたしの中で記憶が一致
したの。妹思いで優しいあなたの事を。あたし密かに憧れてたんだよ。なんと
か気を惹こうとその妹を虐めたりしてたんだけどね。あたしがなんであなたに
憧れていたか知っている? あなたになぜ惹かれるようになったか理解できる?
あたしとあなたは同じ人間なの。闇に魅せられたあちら側の人間なの。普通に
生活しようなんて無理に決まっている。だからあたしは今夢のよう。憧れのあ
なたに、あちら側へと連れて行ってもらってるんだから……あたしを見て、あ
たしの記憶を焼き付けて、そしてあたしを切り刻んで」
彼女は何を言っているんだ?
いや、そうじゃない。理解できないのではなく、今までは理解したくなかっ
ただけだ。普通に生活を送る為には理解などしてはいけなかったのだ。
でも今は違う。理解を阻む道徳も理性もすべて捨て去っている。
あちら側へ一緒に行こうと、彼女は手招いてくれているのだ。
「おめでとう」
どこからともなく声がする。それも聞き慣れたものだった。
背筋に寒気が走り、声の方向へと振り返る。
「御影さん……」
「うふふふふ、いい塩梅かしら。私が狙っていた絵里ちゃんを先に手をつけた
のはちょっと許せないけど。でも、あなたたち二人で一つの作品なのね」
「どうして?」
なぜ御影さんが当たり前のようにここにいるのだ?
「あら? 私が気付いていないとでも思ってたの?」
あの下宿にいたのが清野智秋でないという事を見抜いていたのか。
「いつからですか?」
「最初から……と言いたいところだけど、確信をもったのは……そう、リビン
グでダーガーの話をした時かな」
「ダーガー?」
「絵里ちゃんの買った画集をみんなで見たじゃない。あの時は、今ここにいる
メンバーに伊丹が加わってたけど」
「その画集がどうしたんですか?」
「私ね、本物の清野智秋に一度だけ会ったことがあるの。ネット上でヘンリー・
ダーガーを語り合う掲示板があるんだけど、そこのオフ会で。隣の席で親しく
話したわけじゃないし、場所も暗かったからあまり記憶に残らなかった。でも
ね、最後に名刺の交換会をやったの。しばらくは忘れてたけど、下宿人の中に
名刺の名前と同じ人がいるって気付いてね。ダーガーの話をリビングでした数
日前かな。あの時、あそこに入る手前で様子を窺っていたけど、あなたは絵里
ちゃんの見ていた画集に興味を示さないばかりか、その作者の名前すら知らな
かった」
「だから偽物だと」
「同姓同名の可能性も考えたけど、あなたが持ってきた身分証明と名刺の住所
は一致したの。まったく、入れ替わりでどこまで計画してたかわからないけど、
後の詰めが荒すぎ……いえ甘過ぎよ。あの部屋に持ってきた本物の遺留品だけ
で警察が100%疑わないと思っていた?」
「オレをどうするんですか? このまま警察にでも突き出しますか?」
「うふふふ。清野智秋は死んだのよ。もう彼女の真似をすることはないわ。そ
この絵里ちゃんだって、元のあなたに戻ることを望んでいるもの」
「え?」
「言ったでしょ。あなたは私のかわいい絵里ちゃんに手を出したと。だったら
最後まで作品を完成させてくれないとね。そうでしょ、絵里ちゃん」
御影さんはそう言って、巫女沢絵里のベッドに近づくと彼女の髪を優しく撫
でた。
「はい、晴海姉さま」
とろんとした目つきで御影さんを見つめる巫女沢絵里。もう誰も、自分を日
常へと帰してくれる者はいない。どんなに破滅が目の前にあろうとも、逃げら
れない現実が迫ってこようとも、すでにあちら側に足を踏み入れている自分に
とっては些細な事なのかもしれない。
だから欲望の赴くまま、精神が弾けるまま、このアートを完遂しよう。
「ねぇ、絵里。オレ……あたしの名前を覚えてる?」
「はい、夏美姉さま」
了