AWC 【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (01/17)  悠歩



#30/598 ●長編
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:10  (182)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (01/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 15:52 修正 第3版
 ※作中、【日龍】と書き表している部分は、それで一つの「おぼろ」という
  漢字を表しています。
  これは、にちへんにりゅうと書くその漢字が表記できない為の措置ですの
  で、どうぞご了承下さい。


【OBORO】 =第4幕・異形胎動=




「なんにも………なくなっちゃった」
 顔を見なくても、目に涙を浮かべているのだろうと分かる妹の言葉。真月(ま
づき)のそんな声を聞くと、音風の気持ちも悲しさを増していく。
 昨日の夜まで、姉妹四人が過ごしてきた家。異形や朧の血のことを知らない真
月には、楽しい思い出がたくさんあった場所。音風にしても、辛いことの方が多
くはあったが、姉たちや真月との思い出がつまった場所だった。
 それが全て灰となってしまった。
 セピア色の夕陽に浮かび上がる、黒い塊。いまは炭となった朧月の家の柱。
「真月、あまりそっちは行かないほうがいいわ。お洋服が、汚れちゃう」
「だって………まだ、なにかあるかも知れないもん」
 消火のために使われた水が、灰や炭を溶かし、黒く澱んだ水たまりをそこかし
こに作っていた。けれど真月は、ワンピースが汚れてしまうのを気にもかけず、
奥へと進もうとする。小さなサンダルが泥水を跳ね上げ、萌葱色の薄い布地に染
みを作っていく。パジャマのまま着替えなど持ち出す暇のなかった真月のため、
音風が買ってきたばかりのものだった。
 しかし真月を注意しながらも、音風も同じようにして昨夜までは家であった瓦
礫の中へ、足を踏み入れていた。音風の想いもまた、妹と一緒だったのだ。消防
隊や警察もついに発見出来なかった姉、麗花の亡骸。
 いや、もしかすると麗花はまだ生きているのかも知れない。そう信じたい。だ
があの状況から、その望みは極めて低いものであると音風には分かっていた。な
らばせめて、自分の手で骨のひと欠片でもみつけてやりたい。
 どんなものでもいい。麗花や皆の思い出の品をみつけたい。
 しかし掌が黒く染まることも厭わず、炭となって倒れていた柱をのけてみても、
そこに形のあるものなど残されていなかった。
「お姉ちゃん!」
 音風を呼ぶ真月の声。
 落ち込んでいたはずの妹の、張りのある声に何事かと、音風は頭を振る。
「ねえ、これ、もしかして!」
 音風は先刻妹に促した注意が、全く無意味になっていたことを知った。
 元は美鳥の部屋であった辺りだろう。そこに真月は座り込んで、何やら掘り返
している。買ったばかりのワンピースを、土と灰の混ざった泥にまみれさせて。
「もう、しょうのない子ね」
 別に怒った訳ではない。しかし泥だらけになっている真月を見て、この後どう
すればいいのだろうかと音風は考えた。
 美鳥の運ばれた病院には、入院患者のための浴室があった。けれど入院患者で
はない真月のために、そこを汚す訳にはいかないだろう。それ以前に、泥だらけ
のままでは病院に入れない。どこかに銭湯はあっただろうか。
「ほら、やっぱり」
 瓦礫の中から掘り出したそれを、真月は高々と掲げて微笑んだ。一枚の板のよ
うな包み。淡緑であったはずの風呂敷包みであるが、ずいぶんと汚れしまってい
る。古くなったせいもあるだろうが、その主な汚れはこの火事と消火活動のため
である。それを知っている音風や真月でなければ、もとの色など想像もつかない
だろう。ただそれが燃えずに、また放水によって水浸しになっていなかったのは、
奇跡としか言いようがない。
 その包みの中には、一枚の絵があるはずだ。
 姉の美鳥が中学生時代、初めてキャンバスへ描いた絵が。
 真月が一番好きだと言っていた絵が。
「真月、そろそろ………」
 美鳥お姉さんのところへ行きましょう。真月に近づきながら、音風がそう言い
かけたとき。
 一陣の風が吹き抜けて行った。
 さして強い風ではない。
 けれど身体の小さな真月の掲げた包みを煽り、よろめかすには充分だった。一
歩二歩と、バランスを崩した真月が後ろへ下がる。
「きゃっ」
「危ない!」
 咄嗟に差し出した音風の手が、真月の手をつかむ。もしそれがほんの一瞬遅れ
ていれば、真月は転倒の憂き目に遭っていただろう。
 ばしっ、ばしゃ。
 ほぼ同時に発生した二つの音が重なる。
 一つは真月の手にしていた包みが、瓦礫の上に落ちた音。
「よかった………」
 安堵の言葉を漏らす真月。ただしそれは、己の身の無事に対してではない。絵
を落とした先が水溜りではなく、瓦礫の上であったことに対してだった。
「なにが良かったのよ」
 そんな妹の言葉に、音風の口調もつい、荒くなってしまう。
 重なった二つの音の一方は、真月の足が水に落ちた音であったのだ。そこには
瓦礫に埋もれ、姉妹たちが慣れ親しんだ場所であったのにも関わらず、その存在
を見失っていた池があったのだ。真月の足は、その池の縁で踏み外され、水中に
没していた。もし音風の手がわずかにでも遅れていたのなら、水中に没していた
のは片足だけでは済まなかっただろう。暢気にも、絵が無事であったことを喜ぶ
妹に、音風が腹を立てるのも致し方ない。
「だって私とお洋服は、ぬれたってかわかせばいいんだもの」
 悪びれもせず、真月はそう言って笑う。あまりにも屈託のない妹の笑顔に、音
風は怒ることがばかばかしく思えてしまった。
「とにかく………水遊びをするような時間じゃないでしょう。早くそこから出な
さい」
 片足はほぼ完全に水没している。ワンピースは裾から大量の水を吸い、いまさ
ら急いで足を上げたところでその被害が抑えられる状況でもない。しかし夏も終
わりに近づき、気温も下がりつつある夕暮れ時に水に浸かっていて、身体にいい
はずはない。音風は手を引き、妹を早々に池から上がらせようとした。
 ところが。
 妹は一向に池から出ようとはしない。そればかりか上がらせようと手に力を込
める音風に抗い、その場に留まろうとする。
「なにをしているの?」
 怪訝に思い、訊ねる音風の眉宇は歪む。
 真月の視線は水に浸かった自分の足下へと落とされ、その足同様に凍りついて
いた。あるいは何か瓦礫の破片でも踏み抜き、怪我をしてしまったのか。そんな
不吉な考えが音風の脳裏をよぎる。だが、どうやらそうではないらしい。真月の
顔に苦痛の表情が浮かべられることはなく、また怪我をしているのなら赤く染め
られるであろう水面も、溶け込んだ灰の黒色が変化するはなかった。
「真月?」
 再度声を掛け、音風は妹を池から上がるように促す。けれどやはり真月は動こ
うとしない。代わりに自分の小さな唇に、そっと人差し指を充てて、音風へ見せ
る。静かに、ということらしい。
「もう、どうしたっていうのよ」
 小首を傾げながらも妹に従い、音風は声を潜める。そして妹が池の中に見つけ
たものを確認するため自分も一つ、歩を進めた。
「あっ」
 思わず飛び出しそうになった叫びを、音風は双の掌で口元を隠して飲み込む。
「ねっ?」
 嬉しそうな笑顔が、音風に向けられた。
「麗花お姉ちゃんがまもってくれたのかなあ………」
 音風に、というよりは呟くような真月の言葉。言葉とともに音風へ向けられて
いた視線が、足下に帰る。妹と音風の目は同じものを見つめていた。
 黒く澱んだ池の水。その中に現れた水の色とは異質な黒。それから水の色の中、
一際目立つ紅。
 二色の小さな存在が、音風の足をつつく。
 真月の顔が奇妙な歪みを見せる。つつかれた足下がくすぐったいのに、その小
さな犯人たちを驚かせないよう、懸命に堪えているのだ。
「そう、かも知れないね………」
 妹の呟きに、ずいぶん遅れた応えは音風のもの。
 本当に麗花が守ったのかも知れない。真月の小さな思い出を。
 そうでも考えなければ、音風には説明がつかない。燃えさかる家に接したその
池の中、二つの小さな命が炎に炙られてなお、生き延びていたことを。
 真月の足下を泳ぐ二つの命。それは小さな二匹のフナだった。



 優一郎が朧月家の火事を知ったのは三日も後のことだった。
 朧月家から自宅マンションに帰った当日、そして翌日と優一郎は寝て過ごした。
この数日間に起こった出来事は優一郎の肉体と精神を、著しく疲弊させていた。
部屋に帰るなりベッドに潜り込んだ優一郎は、泥のようになって眠った。
 父が、そして母が亡くなりその弔いのために夜を徹した時にさえ、これほど強
烈な疲労は感じなかった。それだけ朧月の従姉妹たちとともにあった時間は、優
一郎にとって激しいものだった。
 肉体的な疲労も回復し、深い眠りから覚めたのちも、朧月家の不幸を知るまで
時間が空いたのは優一郎自ら外からの情報を断っていたためである。
 朧月の家に現れ、異様な力を振るい、真月を連れ去った田邊。彼を追う過程で
見た、姉妹たちの不思議な能力。そして田邊の部屋で繰り広げられた、まるでS
FXで作られた映像のような戦い。さらには怪物となった田邊を優一郎自らの手
で葬ったこと。
 静かな部屋の中、一人になって思い起こすと自分が体験したことであるにも関
わらず、現実であるとはとても信じられない。
 あるいは逃避であったのかも知れない。 
 自分の目で耳で見聞きし、自らの肌で実感したあまりにも非日常な出来事。そ
れはそれまで両親をすでに亡くしていること以外、ごく普通の高校生と過ごして
きた優一郎には、容易に受け入れられるものではなかった。
 マンションの一室という、外部から隔離された空間。そこに閉じ篭もることで
優一郎は現実から逃げた。幸いなことに来訪者はなく、電話も掛かって来ない。
新聞は初めからとってはいない。テレビもつけず、自ら外出を望みもしない。現
実からの逃避は、いとも容易く成された。
 部屋に籠もった三日の間、優一郎は朧月の家を訊ねてからの出来事を、夢であ
ったのだと思いこもうと努めた。
 よく考えてみろ。こんな話を他人にして、信じてもらえると思うか? 俺だっ
たら信じはしない。漫画の読み過ぎだと笑うだろう。そうだ、あれは夢だったん
だ。暑苦しい夏の夜、うなされながら眠った中で見た夢。そうさ、あんなことが
本当に起きるはずなんか、ないじゃないか。
 孤立した時間は思考を自分にとって楽な、都合のいい方向へと流れさせる。だ
があれは全て夢だったのだと自らを納得させ、閉ざされた時の中だけに生きるほ
ど、優一郎の心は老いていなかった。
 やがて優一郎は孤立した時間と空間のもたらす圧迫感に耐えきれなくなり、人
との、世間との関わりを求めた。最初に起こした行動は、テレビのリモコンを押
す。ただそれだけのことだった。しかしそれは閉鎖されたマンションの一室、優
一郎の部屋へ下界の情報を繋ぐ窓となる。
 ワイドショーであった。優一郎のつけたテレビが映し出したものは、普段芸能
人の他愛もない愛憎劇を大仰に誇張して報じる番組であった。
 しかしいまブラウン管に浮かぶ映像は、夫の浮気をなじる女優の姿でも、深夜
の密会が写真週刊誌に暴露されたアーティストの弁明会見でもなかった。禍々し
い字体のタイトルをかざし、深刻な表情のレポーターが報じているのは田邊の起
こした一連の事件であった。
 客観的に見れば、これほど好奇心を煽る事件はそうそうないだろう。短期間に
同じ街の中で11名の行方不明者が出た。うち10名までが同じ学校の生徒であ
る。それだけでも犯罪の専門家を自称する人々にとっては、想像力をかき立てる
のに充分な事件であった。さらには行方不明者うち、7名の女性がとあるマンシ
ョンの一室において、あられもない姿で発見された。監禁、暴行を受けていたと
思われる女性たちは皆衰弱し、精神に異常をきたした者も少なくなかった。しか
しその中からどうにか得られた証言によって、部屋の借り主である高校生が容疑
者と判明した。だが容疑者と目される男子高校生は行方をくらまし、またすでに
殺害されたらしい4名の男性については遺体どころか、遺品の欠片すら発見され
ていない。




#31/598 ●長編    *** コメント #30 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:11  (190)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (02/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 15:54 修正 第2版
 テレビ局が過剰な演出を施して報じるのも、無理からぬ内容である。優一郎も、
もし自分と全く関わりのないところで起きた事件であったのなら、野次馬根性を
剥き出しにテレビへとかじりついていたことだろう。
 しかしこの事件は少なからず、優一郎も関わっている。犯人も被害者も見知っ
た人々である。そればかりか優一郎はその現場に立ち、怪物と化した田邊に対峙
しているのだ。おそらくこれから先、警察もマスコミも解き明かせないであろう
謎を目の当たりにしているのだ。
 テレビカメラの映し出す現場が切り替わる。田邊の父親の経営する会社だ。あ
のマンションと同様、建物の前はまるで菓子へ群がる蟻のような人々でごった返
していた。だが一方会社には人の気配がない。その映像をバックに、番組のキャ
スターが死亡したとされる四人の男性の名を読み上げていた。
 事件に関わる者の大半が未成年者であることへの配慮として、7名の女性と田
邊の名は伏せられたまま報道は終了した。けれど映し出された映像は、それを知
る者たちあまりにも多くの情報を与えすぎていた。何よりいまさら伏せたところ
で大野佳美ら女子生徒の名前は、公開捜査となった時点で報じられているではな
いか。
 無責任とも思える報道姿勢に怒りを覚える優一郎ではあったが、それよりいま
は安堵感の方が勝った。
 たとえどれほどの非道を行い、ついには怪物と化した田邊が相手とはいえ人一
人を殺めた優一郎である。あるいは警察からの取り調べを受けるかも知れない。
事情さえ理解してもらえれば正当防衛も成り立つだろうが、真実を話して信じら
れるとも思えない。それにこの奇妙な事件に巻き込まれる数日前まで、優一郎は
ごく普通の高校生だったのだ。事情はともかくとしても、田邊を死なせた罪悪感
を拭いきることは出来ない。
 やがてワイドショーでは事件の報道が終わり、それまでの重い空気とはまるで
不釣り合に陽気なCMが流れる。そこまで優一郎の名前はもちろん、それらしき
存在を匂わせるような情報は一切なかった。考えてみれば優一郎は事件の間、遠
く離れた街に行っていたのだ。田邊が怪物になったことを信じてもらうのが困難
なのと同様、優一郎がわずかな時間で長距離を移動したのだと思う者もいないだ
ろう。
 優一郎と大野佳美は顔を会わせている。彼女はそれを覚えていないのだろうか。
田邊に操られていたため記憶がないのか、あるいは彼女も証言が出来ないような
状態、精神に異常をきたしてしまったのだろうか。犠牲者のことを考えると優一
郎の心はさらに重くなってしまう。犠牲者たちのことを思えば不謹慎ではあるが、
優一郎が容疑者として疑われる可能性は低そうだ。もっとも佳美たちも田邊の最
期を見届けてはいない。田邊が死んだこと知る者も、これから知る者もいないの
だろうが。
 優一郎の手が再びリモコンへ伸ばされる。ワイドショーの後に予定されている
番組は、古いドラマの再放送だ。これ以上、事件の情報が得られないのなら見続
ける必要もない。
 が、リモコンのOFFスイッチに掛かったまま、優一郎の指は止まった。ワイ
ドショーの後、ドラマの前までの短い時間、そのつなぎ程度しかない短いニュー
スによって止められた。
 それは昨夜未明に起きた火事を知らせるニュースであった。画面に映る無惨な
焼け跡は、その家の原型を想像させることもしない。もしアナウンサーの声が耳
に届くのが一瞬遅れていれば、その火事も日常茶飯事に起きる、自分とは全く無
関係なものとして、優一郎の指はスイッチを押し切っていただろう。
『なお、この家に住む朧月麗花さん21歳が逃げ遅れ行方不明、高校生の次女が
病院に………』
「麗花………さんが………?」
 優一郎は呆然とするばかりだった。



 新学期が始まってしばらく、事件の話題で学校は騒然としていた。田邊の生い
立ちや父親の会社についてなど以外に、事件に直接関する新たな情報を得られな
いマスコミが始業式当日には大挙して押し寄せてきた。全校集会では校長から説
明が行われ、体育館のそこかしこで啜り泣く声が聞こえた。被害に遭った生徒の
友人だろうか。特に親しかった訳ではないが、釘崎輝明や堀江香奈、大野佳美ら
は優一郎のクラスメイトである。彼らが受けた仕打ちを田邊の口から聞かされ、
あるいは実際に目にした優一郎は涙を流さないまでも改めて深い悲しみを覚えた。
 だが、時の経過とは予想していた以上に強い力を持っている。一つの学校から
10名の被害者を出した大事件であるにも拘わらず、次第にクラス内で噂される
ことも少なくなりはじめて行く。そんなクラスメイトを薄情だと感じながらも、
優一郎自身、他に関心事を抱えて佳美たちのことは忘れつつあった。
 優一郎の関心事。
 事件後一度、警察が優一郎を訪ねて来たが、それは単に田邊のクラスメイトと
して話を訊くためであった。どうやら事件に関係した誰からも、優一郎の名前は
出なかったらしい。自分が犯罪を起こしたわけでもなく、そのつもりもない優一
郎だったがやはり疑いが向けられていないと知れば安心をする。自分が関わった
ことに実感の持てなかったこともあり、優一郎の事件に対する関心は、その他の
生徒と同じ程度まで落ちていた。従っていまの優一郎の関心は、事件とは別のと
ころ、朧月家の姉妹にあった。
 テレビで火事を知った優一郎は、翌日再びあの街へと戻った。しかしそこには
ブラウン管を通して見たままの、すっかり炭となった家があるだけだった。美鳥
が運び込まれた病院はすぐに分かったのだが、優一郎が駆けつけたときにはもう
退院していた。病院の関係者も、近所の人々もその行き先は知らないと言う。も
しやと思い、地元の警察に問い合わせてもみたが、逆に優一郎が美鳥たちの行き
先を訊ねられてしまった。結局今日まで麗花の遺体は発見されておらず、美鳥た
ち三人の行方も分からないままである。
 あの時、優一郎と麗花たちを引き会わせた探偵に頼んでみようか。費用はどの
くらいかかるのだろうか。そんなことを考え始めていた頃だのことである。

 始業を告げるチャイムが鳴り終えた直後だった。
 鐘の音と同時に担任が入ってくる訳ではない。ホームルームが始まるまでは、
まだ数分の余裕があった。教室のそこかしこで雑談に興じる者、机上に投げ出し
た腕の中に顔を沈めて眠る者、真剣な表情で携帯電話にメールを打ち込むものも
多い。むしろ自分の席に着き、担任を待つ者は少数派であった。
 自分の席に着いてはいたが、優一郎も朝買ったばかりのマンガ雑誌を読んでい
た。が、ふと教室の空気が変わっていることに気づき、慌てて雑誌を机の中に押
し込む。
「あれ?」
 静まり返った空気に、てっきり担任が来たものだとばかり思っていた。だが顔
を上げた先の教壇に立つ影はない。
「おい、なんか………」
 あったのか? 前の席に座る生徒に訊ねかけた優一郎だったが、その必要はな
くなった。彼の視線向けられた方向を追い、すぐに優一郎も静寂の訳を知ること
となる。
 チャイムが鳴り終わって、担任が教室に入るまでのわずかな時間。遅刻を免れ
る最後のチャンスに賭け、教室に駆け込んでくる生徒などは、別段珍しくもない。
それを気にかける生徒もない。
 ところが後ろのドアから入ってきた少女は、教室中の注目を集めていた。
 初め、優一郎にはその少女が誰なのか分からなかった。着ている制服はこの高
校のものである。特に新品であるようにも見えないので、転校生ではない。
 以前は染められ、立てていた髪が黒く短いストレートとなっていたために戸惑
ったが間違いない。まるで空気が漏れるようにして、優一郎の口から少女の名前
が出る。
「お……のさん?」
 たいして大きい声ではなかった。優一郎自身、それが声として発せられたのか
どうか認識出来るものでなかった。だがそれと同時に、少女がこちらを向いたよ
うに見えた。
 そして。
「おはよう、みんな」
 ごく普通に、少女が朝の挨拶をした。それを合図に、凍りつき停滞していた教
室の空気が動き出す。しかしそれは挨拶を交わそうとする少女に対して、好意的
な方向へ動いたのではない。
 皆が皆、まるで少女の声など耳に届いてはいなかったかのように。
 穴が空くほど視線を集中させていた少女の存在に気づいていないかのように。
 無視したのである。
 まだ担任が現れてはいないのに。そそくさとそれぞれの席へ戻り、各々の準備
にかかるふりをしたのだ。
 それもまた、無理からぬことかも知れない。
 はっきりとした言葉で報道されてはいないが、彼女、大野佳美が田邊にレイプ
を受けたことはクラスメイトの全て、いや全校生徒の知るところとなっている。
それが原因で、佳美は気が触れてしまい、回復の見込みがないのだという噂も流
れていた。
 それが突然、ごく普通に登校して来ても、皆どう対応していいのか分からない
のだ。
 事件前の佳美はこの学校では珍しい、俗に言う「ツッパリ」であり、親しい友
人が少なかったことも災いしていた。
 ただ、優一郎の反応だけは、他の生徒たちと少し違っていた。
 決して彼女の声に見合う対応ではない。それでも無視はしなかった。
「あ、おはよう」
 そう言ったつもりだが、声にはならなかった。先ほどとは違い、今度は声が出
ていないことを優一郎自身が、はっきりと認識していた。だから代わりに、彼女
の言葉に対して頷くことで自分が無視するつもりのないことを示す。
 反応が異なったように、優一郎が佳美に見せた戸惑いも他の生徒たちとは異な
った部分がある。
 優一郎は事件の現場、田邊のマンションで佳美と会っているのだ。その瞬間こ
そは目撃していないが、田邊に受けた仕打ちの痕跡を残した佳美を見ているのだ。
 己の意志に反し、優一郎に迫り来る白い裸体。クラスメイトである少女の、ふ
くよかな胸の膨らみ。あの緊迫した状況では感じる余裕のなかった気恥ずかしさ
を、いま改めて感じてしまったのだった。
 優一郎の声なき返答が相手に伝わったのか、分からない。優一郎へか、他のク
ラスメイトたちへか、あるいはその双方へか。佳美は微笑みとも、諦めとも見て
取れる表情を作り、そのまま自分の席へと向かった。
 クラス担任が現れたのは、直後のことだった。

 重苦しい一日が、ようやく過ぎようとしていた。
 佳美が今日登校して来ることは、担任も知らなかったようだ。知っていれば、
当然前もって他の生徒たちに告げていただろうと思われる。とにかく教室に入っ
た担任も、佳美の姿があることに驚いた様子だったが、特にそれについて触れは
しなかった。
 六時限目ののちのホームルームも終わり、佳美に何か話し掛けようとした担任
だったが、結局声を掛けることもなく、教室を去った。早々に部活へと向かう者、
家路につく者と、いつもなら半数以上がすぐにでも教室から消えているところだ
が、今日はほとんどがまだ残っている。
 それは休み時間の度、繰り返された光景の再現であった。佳美を中心にして、
遠巻きに出来るいくつものグループ。まるで関心のないように装っているが、ち
らちらと佳美を見遣っては声を潜めて何事かを話している。それが佳美について
の噂であることは、聞き耳を立てる必要もなく想像がつく。
 その中にあって、全くいつもと変わらない振る舞いをする佳美。気がつかない
はずもない、聞こえぬはずのない自分の噂など、耳に届いていないかのように。
ただ静かに帰り支度をしていた。いつもと変わらない、と言うのは正しくなかっ
た。髪を黒くし、ストレートに戻した佳美の姿には、休み前までの強さは感じら
れない。いまの佳美は、想像が多分に加味された噂に耐える、か弱い少女でしか
ない。
 黒い鞄に教科書を詰め終え、椅子が後ろへと引かれる。浮き上がりかける佳美
の腰。そのままにしておけば、数十秒のちには教室から佳美の姿は消えていただ
ろう。
「大野さん、ちょっと待って」
 極力自然な口調を意識し、優一郎は佳美へと声をかけた。
 えっ。
 言葉にはならなかったが、そう発音する形に唇が動き、佳美が振り返る。初め
て見せる困惑の表情で。
「前に借りたCD、返さなきゃ………あれ? しまった、忘れちゃったみたいだ」
 自分の鞄を探す優一郎だったが、CDが出てくることはなかった。もとよりC
Dを入れた覚えなどない。借りてなどいないのだから。それは佳美へと話し掛け
るきっかけが欲しく、咄嗟に口をついて出た嘘なのだから。自分でも白々しいと
感じる芝居に、果たして相手が応じてくれるだろうか。優一郎は些か不安であっ
た。
「あ、うん………いいよ、そんなの、いつだって」 
 優一郎の意図を察してくれたのだろうか。戸惑いながらも、佳美はそう答えて
くれた。どこかぎこちなく。
「けど、ずいぶん長く借りっぱなしだしなあ。なんなら今日中にでも、大野さん
ちに持っていくよ」
「いいってば、気にしなくて………」
「ううん………だけどなあ………とにかくちょっと相談しようか?」
 佳美に歩み寄り、優一郎はその肩をそっと押す。教室を出るよう、促したのだ。
そして優一郎も佳美とともに教室を後にした。




#32/598 ●長編    *** コメント #31 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:12  (193)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (03/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 15:55 修正 第2版


 優一郎は自分を悪人だとは思っていない。しかし、正義感にあふれる人間だと
も思ってはいない。
 教室で佳美に声を掛けたのは、彼女を孤立化させないためであった。優一郎は
決して、敵の多いタイプではない。田邊になつかれていたために、他のクラスメ
イトと話す機会は少なかったが、それは別に優一郎自身が嫌われていたからでは
ないのだ。実際、優一郎から声を掛ければ大抵は親しく応じてくれる。思い上が
りではなく、優一郎は人から好かれるタイプなのだ。田邊になつかれていたのも、
そんな優一郎の資質があってこそのことだった。
 その優一郎が親しげに話し掛ければ、クラスメイトたちも佳美に対する偏見を
和らげてくれるかも知れない。あの事件に関して、本来被害者である佳美がみん
なから避けられたり、責められたりする理由など、ありはしないのだ。そんなこ
とは皆理解しているはず。ただ普通に接するきっかけがつかめないでいるだけな
のだ。だからこそ優一郎には、まだクラスメイトたちの残る教室内で佳美に声を
掛ける必要があった。
 しかしそれは優一郎の正義感ゆえからの行動ではない。
 彼女に対する特別な感情が働いたためである。
 それは恋愛感情とは異なる。陵辱の痕を刻んだクラスメイトの裸身。それを目
の当たりにしたのならば、優一郎でなくとも男であればある種の思いに囚われて
も致し方ないことだろう。だが優一郎を動かしたのは、そんな感情でもなかった。
 仲間意識。
 そう言ったらいいだろうか。
 あの日、あの時間。地獄図のような現場に居合わせた同士。その歪んだ欲望に
相応しい姿の化け物となった田邊を知る者同士。他人に語ったところで、決して
信じてはもらえぬ経験をしてきた者同士。そんな共犯者のような意識が、優一郎
を動かしたのだった。
 だが声を掛け、共に教室を後にしたのはいいが、別段話すこともなかった。い
や、話すことが出来ないでいたというのが正しいだろう。
 優一郎にしてみれば、訊きたいことはいろいろとある。いまだ現実感の持てな
いあの事件について、優一郎の知らない側面を佳美は見聞きしているかも知れな
いのだから。
 しかし訊くことは出来ない。お互いに訳も分からないまま、非現実的な現実に
巻き込まれたことでは共通していたが、受けた傷は佳美の方が遥かに大きい。精
神的にも、肉体的にも。
 佳美はきっと、それを忘れようとしているはずだ。そして一日も早く、平穏な
生活に戻りたいと望んでいるはずだ。
 それを思えば、傷痕を掘り起こすような真似は出来ない。それでなくとも、そ
の望みに反し、要らぬ噂話に責められている彼女なのだから。
 お互い話す言葉もないまま、通常よりゆったりとした足とりで歩を進めていた。
学校を出るとすぐに広い空き地へと出る。以前は沼であったという空き地は、現
在埋め立てられているもののまだ利用目的も定まっていないらしい。反対側を見
通すことが不可能なほどに、セイタカアワダチ草が群生していた。その中央、空
き地を分かつよう、S字にくねった道がある。
 白い長方形のブロック。それを横に並べ作られた道。そこを二人は歩いていく。
下水道になっているのだろう。下からは水の流れる音が聞こえた。時折、蛇や蛙
が現れては登下校の学生たちに小さな騒ぎを引き起こす道だが、今日は行く手を
阻む者の姿もない。九月も後半になろうと言うのにいまだ夏の砂浜を思わせる陽
光が、歩道を成す白いブロックに反射して眩しい。
 風が吹いた。両脇を壁のように立ち並ぶセイタアワダチ草を揺らして。花粉症
に苦しむ者であれば、それだけでも充分に不快な状況であろう。花粉症を持たな
い優一郎にとっても、心地よい風ではない。この道を進み、空き地を抜けた先に
精肉の倉庫がある。時折開かれたままになったシャッターの奥に、全身の皮を剥
かれて吊された牛の姿は見て楽しいものではない。シャッターが閉じられていて
も、倉庫横に積まれた肉片から発生する臭気はおぞましいものがあった。その匂
いが、風に運ばれ優一郎たちの鼻へと届けられた。
 間もなく空き地を抜ける。会話もないままに。
 異臭の元である倉庫を過ぎれば、優一郎と佳美はそれぞれの家に向かい、違っ
た道を帰ることになる。
「ありがとう………陽野くん」
 教室を出てから初めて、佳美が言葉を紡いだのは別れ道まであと数十メートル
までと迫ったところであった。
「えっ?」
 足を止める優一郎。気がつけば佳美は優一郎より、三歩ほど遅れた位置で足を
止めている。
「ありがとう」
 聞き逃した言葉が繰り返される。それは優一郎に対し、礼を述べる言葉であっ
た。
「なに、そんな………別に俺、たいしたこと、してないから」
 佳美の言葉を、教室で声を掛けたことに対する礼だと解して優一郎はそう応え
た。
 「陽野くんが来てくれなかったら、私、きっと気が狂っていたよ」
「えっ………あ?」
 涙声の言葉。それは佳美の礼が、教室でのことを言っているのでないと優一郎
に知らしめる。田邊の部屋での一件に対するものであると。
 彼女は覚えていたのだ。あの時優一郎が、あの部屋に在ったことを。そしてそ
れは優一郎の経験が、決して夢などではないと告げることにもなった。
 柔らかいものが、一瞬、優一郎の頬を微かに撫でる。それが彼女の髪だと気づ
いた時にはもう、佳美はとうに優一郎を追い抜いていた。
「待って、大野さん!」
 優一郎の声が大きくなったのは、佳美との距離が開いたためである。はたして、
俯き加減に駆け出していた佳美に、その声が届いているのか、もう確かめようも
なかった。



 どれほど世間を震撼させた事件であっても、容疑者が捕らえられず、新たな事
実も出てこなければ、当初に比べ報道される機会は極端に少なくなるものだ。田
邊の起こした事件も、この例に漏れるものではなかった。
 発覚直後はその異様性、残虐性にくわえ容疑者が未成年者であることで事件は
大々的に報道されていた。マスコミの盛り上がりは当然として、優一郎の身の回
りでも話題を耳にしない日はなかった。まして事件関係者の大半が通っていた高
校である。マスコミ上は伏せられていた実名入りの、しかしながら九分九厘が口
さがない者たちによる噂と想像で練り上げられた情報が飛び交っていた。事件関
係者でただ一人、学校に復帰してきた佳美が口を閉ざしているのをいいことに、
無責任な噂は肥大の一途を見せるばかりであった。中には隣町で田邊を見掛けた
だの、事実を知る優一郎には明らかな嘘と分かる話ばかりが頻繁に出回る始末で
ある。
 ところが「人の噂も七十五日」のことわざ通り、いやそれよりも早く噂話の流
行りは廃れることとなった。すっかり影を潜めた、とまでは言えない。いまだ校
内で噂を聞くこともあったし、時折思い出したように校門にマスコミ関係者を見
ることもあった。それでも野次馬的興味でしかなかった人たちの関心は、早くも
風化しつつあった。
 十月も半ばを過ぎる頃になると、優一郎の身辺にもいくつかの小さな変化があ
った。
 一つはデザインの専門学校への進学を決めたこと。特にデザイン関係の仕事に
就きたいという希望があったわけではないが、いつまでも未定ではいられない。
大学へ進むことも考えたが、願書受付の締め切りも迫ったいまからでは難しいよ
うに思われた。
「とりあえず浪人するのもイヤだから、一年間専門学校に行きながら勉強して、
受験を考えてみます」
「おまえの学力なら、いまからでも頑張れば何とかなるかも知れんぞ。願書もま
だ間に合うし………それでもしダメなら専門学校でいいんじゃないか?」
「いえ、前から少しデザインにも興味があったし………とにかく、そう決めたん
です」
「ん、そうか」
 担任はほっとしたような表情で微笑んだ。クラスの中でも優一郎は最後まで、
自分の進路をどうするか決まらないでいたのだ。実際の進学や就職が決定するの
は、まだこれからである。だが全員の希望が出揃ったことで、担任の心労も少し
だけ和らいだのかも知れない。夏休みに起きた事件のせいで、他校の三年生担任
教師より数倍の苦労をしてきたのだろう。体育教師顔負けの体格を誇っていた担
任も、やつれて見えるようになっていた。目の下には隈も出来ている。

 もう一つの変化は、ある日突然現れた。
 その日、登校してきた優一郎が教室に入ったとたん、一人の友人が声を掛けて
きた。
「おう、陽野、聞いた?」
 馴れ馴れしいほどに、親しげな言葉。これも変化の一つである。
 もともと優一郎自身は嫌われていた訳ではなかったのだが、あの田邊が嫉妬深
い恋人のごとく常につきまとっていたため、他のクラスメイトたちに避けられる
ようになっていた。その田邊がいなくなったことで、優一郎と他の友人たちとの
距離は縮まった。
 さらには優一郎が佳美に対し、一番最初に声を掛けたことがクラスメイトたち
に好印象をもたらしたらしい。
 確かに佳美に対しては、悪意の含まれた噂も多く流布されていた。だがなにも
皆が皆、佳美への噂を楽しんでいたのでもない。むしろ多くの生徒は、被害者で
ある佳美の受けた肉体的、そして精神的な傷を思いやる心を持っていた。けれど
卑俗な興味のみで肥大化した噂の中、それに抗った行動をとる小さな勇気が持て
ないでいたのだ。その小さな勇気を呼び出すのに、大仰な鼓舞は不要だった。
 ごく普通に。
 単なるクラスメイトにとる態度を、誰かが見せればよかったのだ。偏見を持た
ず、あからさまな同情を抱かず。
 優一郎が話し掛けたことをきっかけに、佳美と他のクラスメイトたちを隔てて
いた垣根は消えた。もちろんそれで佳美に対する偏見が、全ての者から払拭され
るまでには至らない。まだ彼女に忌諱を露わにした目を向ける者も少なくはない。
それでも佳美自身が夏休み前までの刺々しさを捨てたことも手伝い、周囲に人が
集まるようになっていた。
 そしてそのきっかけとなる行動をとった優一郎は、図らずもその恩恵にあずか
ることとなった。本人には意識がなかったのだが、他の誰よりも先に示した勇気
がクラスメイトたちからの好感をかったらしい。
「なんだよ、いきなり『聞いた?』って言われても、なんことだか分からないぞ」
 鞄の中身を机に移しかえながら、優一郎は声を掛けてきた友人に応える。
「一年にさ、転校生が来るらしいんだよ」
「へえ」
 小学校や中学校とは違い、高校に転校生が来るのは確かに珍しいのだろう。だ
がそのこと自体に優一郎は興味が持てなかった。ただあんな事件の後だけに、た
かが転校生一人が来ることを大げさに語る友人を優一郎は微笑ましく感じた。
「でよ、それがかなりイケてるって話だぜ」
「ちょっと待てよ」
 中身を移し終えて軽くなった鞄を机の横に掛けると、優一郎は友人に苦笑いを
浮かべて見せた。極端に必要事項を省いた友人の言葉は、なにを告げようとして
いるのか分かりにくい。状況から察すれば、顔立ちの整った女子生徒が転校して
くると言いたいのだろうが。
「前田、おまえいま、『転校生が来るらしい』って言ったよな? ってことは、
そいつはまだ学校に来てないし、当然前田もまだ見てないんだろう。それがなん
でイケてる子だって分かるんだよ」
「それがよ、F組の椿って知ってるだろ? 陸上部の。あいつ親父の商売を継ぐ
ことが決まってるから、いまでも部活に顔を出しててさ。土曜日に見たんだって。
手続きに来たその子を。あいつ、女の子の好みにはうるさくてさ、ヤツが保証す
るんだから間違いないよ。それにな、これは教頭が話していたらしいんだけど、
その子編入試験って言うのか? その成績が抜群でなんでうちの学校に来たのか、
不思議がってたってさ」
 これもまた『らしい』だ。
「今日から登校して来るはずなんだよ。なあ、陽野も俺らと一緒に休み時間に見
に行かないか? その子をさ、一年のC組だってよ」
「おまえ、受験組だろう………ヒマだなあ。いいよ、俺はパスする」
 まだ個人的な懸案事項を抱えていた優一郎には、とてもそんな物見高い気分に
はなれず友人の誘いを断った。友人は特に気を悪くした様子もなく、『そうか』
と応じるとたったいま教室に入って来た別の男子生徒に同じ話を持ちかけるべく、
近寄って行った。
 優一郎はほんの少し、そのイケてる転校生とやらに同情をした。
 ただでさえ、転校生というのは過大な期待をされてしまう。なぜだか転校生は
美男美女であることを迎える者たちは義務づけ、そうでなければ失望をする。学
力や運動能力にも、標準以上を求めてしまうように思える。まして高校での転校
生ともなると、珍しさもあって、その期待は極限まで増幅をされてしまうのだろ
う。先刻の友人が話したことも、人から人へと伝わるうちに相当な装飾がなされ
たものと想像出来る。実際、前評判通りの転校生など、テレビドラマでもない限
りそういるものではないのに。
 自分の知らないところで、大きな期待をされている転校生は、しばらく嫌な思
いをすることになるだろう。けれどそのまだ見ぬ転校生には気の毒だが、これも
この学校が平穏に返った証拠かも知れない。
 始業の鐘が鳴り担任が教室に現れたのは、優一郎がそんなことを考えている最
中だった。




#33/598 ●長編    *** コメント #32 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:13  (160)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (04/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 15:57 修正 第2版


 すでに残暑を感じさせる日射しも、もう記憶の彼方へと消えつつある。むしろ
頬を撫でてゆく涼しげな風は秋の盛りを思わせるものから、間近へと迫った冬の
気配を垣間見せるものとなっていた。
 白く佇む朝の街や黒一色に染まり全ての人々が寝静まった夜の街より、優一郎
はこの時間の街を寂しいと思う。
 逢魔が時………遠き昔の人が、そう呼んだ時間。
 夕餉の支度にあわただしい主婦たち、早い帰宅のサラリーマンたち、コンビニ
の前に座り込んで雑談をする学生たち。これから来る夜を前に、まだまだ街の至
る所に人々が待機する時間帯。それなのに、優一郎はこの時間をもっとも寂しい
と感じる。どれほど周りに、人が溢れていようとも。
 すれ違ったOL風の女性が、足早に通り過ぎていく。相手の性別、おおよその
風体は分かるのに、その表情は見て取ることが出来なかった。
 見えているのに分からない………そんな時間帯。闇であれば全てが見えず、光
であれば全てが見える。しかしその狭間では、全てが中途半端なのだ。存在は見
せながら、心は隠す。それが優一郎を寂しくさせ、いにしえの人々を怯えさせた
のかも知れない。
 逢魔が時………それは現在(いま)でも、もっとも事故の起きやすい時間であ
ると言う。
 

 転校生に対して、同情の必要はなかった。いまのところは。
 あれから休み時間の度、クラスの男子たちが大挙して移動をしていた。しかも
その中には同じ顔ぶれが毎回のように含まれていたのだ。どうやら転校生は期待
に応えるものだったらしい。少なくとも容姿においては。
 アフリカの大平原のヌーたちを思わせる大移動は、放課後になっても続けられ
ていた。転校生の見物に赴くのは何も優一郎のクラスの者たちだけではない。一
年生から三年生までの各クラス、数名ずつが合流していくのだ。その数は相当な
ものになる。物珍しさが先に立っているとはいえ、あるいはその転校生とやらは
皆が期待していた以上の美人なのかも知れない。
 少しばかり興味の出てきた優一郎ではあったが、クラスメイトらとともに物見
遊山の旅に参加する気にはなれない。慌てずとも同じ学校にいるのなら、いずれ
顔を見る機会もあるだろう。それよりも本日発売の雑誌が気になる優一郎は、
早々に学校を後にしていた。
 しかし噂の転校生と顔を会わせる機会は、思いの外早く訪れることになる。
 書店、銀行と寄り道をしただけで、自宅であるマンションに着いた頃にはもう
すっかりと日が暮れようとしていた。途中銀行へ寄ったのは、朧月家の姉妹の捜
索を探偵に依頼しよう決意したからである。どの程度の費用が必要か見当もつか
ず、とりあえず三十万円という、高校生にとっては大金である額を下ろして来た。
 玄関フロアの前で、優一郎は足を止めた。訪れようとする闇に抗い、煌々とし
た明かりで武装されたホールに目がくらむ。鋭い刃物にも似た光から逃れようと、
優一郎は視線を上げた。すると強い白色光に代わり、柔らかな蛍光の群れが優一
郎の視界へと飛び込んで来る。マンションの各部屋に灯された明かりたち。それ
ぞれの営む暮らしの目印がそこにあった。
 その淡い光が群れなす中、生え代わりが始まった子どもの歯のように、所々暗
いままの部屋が残されている。まだ勤めから帰らない一人暮らしの者、共働きの
者たちの部屋だ。そこには、優一郎の部屋も含まれていた。
 まだ陽のあるうちに帰宅する分には、それほど感じはしない。けれど他の部屋
に明かりが灯される時間帯、たった一人暗い部屋に帰るのはやはり寂しい。俺は
もう、親を恋しがるような稚児ではないのだ。そう自分に言い聞かせ、わずかに
笑みを浮かべる優一郎だったが、その心の穴は埋めきることが出来ない。
 しかし優一郎がそんな一人想いに耽っていた時間は、さほど長くはなかった。
ただ、想いを中断したのは、自らの意志によるものではなかった。
「みつけた!」
 そんな嬉々とした声が耳に響いたかと思うと。
 どん。
 衝撃が優一郎の背中を襲った。
 通常であれば、充分に受けきれる程度の力だった。が、自分の想いにとらわれ
周囲への注意が疎かになっていた優一郎は、その衝撃に耐えきることが出来ない。
 二歩三歩、と、よろめいた足は優一郎の意志に反し、身体を前方へ進める。玄
関ホールのガラスまであと二十センチ足らずにまで迫り、ようやく足は慣性によ
る動きを止めることが出来た。
 安堵の息をつく間もなく、優一郎は振り返った。自身の表情が険しいものに変
わるのを、顔の筋肉の動きで感じながら。
 咄嗟に優一郎の頭に浮かんだのは、夏のあの夜の記憶であった。アメリカ製の
SFXを駆使した映画よろしく、怪物と化した田邊と対峙したあの夜を。
 が、緊張した顔の筋肉は、その状態を三秒と継続することはなかった。優一郎
を襲った衝撃が、決して敵意に満ちたものではあり得ないと知ったからだ。
 そこにいたのは、優一郎より遥かに低い位置に頭のある少女だった。赤いラン
ドセルを背負った小さな身体では、全力を以ってしても優一郎にダメージを与え
るのは難しいだろう。なにより親愛の気持ちを形にしたその笑顔は、どれほど穿
った目で見ても敵意を感じ取ることは不可能である。
「えっと………あ、真月、ちゃん?」
 優一郎の口が、少女の名を呼ぶ。ニュースで知った火事のあと、どれだけ探し
てもみつけることの出来なかった従姉妹の名前を。
「おにい、ちゃん」
 優一郎が名を呼んだ途端、少女の笑顔が崩れ始めた。潤んだ大きな瞳が、より
一層大きくなったように見えたのは、少女が優一郎の胸へと飛び込んで来たから
だ。
「ねぇちゃ………し、じゃって………う……たの。うっ……って、たから……う
っ、うわああん」
 嗚咽混じりに話す真月の言葉は、まるで理解することが出来ない。ただあの夏
の数日間に、少女の身に降りかかった事件。力を持った変質者となり果てた田邊
にさらわれ、そのショックも癒えぬうちに火災に遭遇し姉を失った。小さな身体
で受け止めるには、大き過ぎる不幸。真月の負った心の傷はどれほどのものか、
察するにも余りある。
「………」
 掛けてやる言葉も見つけられない。優一郎は泣きじゃくる少女の頭を撫でるこ
としか出来なかった。



 チイイイイイィン。
 余韻を長く響かせ、澄みきった鐘が鳴る。白い糸のような煙を真っ直ぐに立ち
上らせた線香の香りが鼻腔へと届く。橙色に灯された線香の奥には、黒い額に納
められた小さな写真があった。優しく、けれどどこか悲しげな微笑みの女性、麗
花の写真が。
 麗花が好んだという淡色の花々と秋の果物と線香の香りに包まれ、優一郎はも
う二度と触れることの出来ない微笑みへと手を合わせた。
「ありがとう、優一郎。お姉(ねえ)も喜ぶよ」
 仏壇代わりのタンスを背にし、振り返った優一郎を迎えたのは長い髪を後ろで
束ねた少女の笑み。手を伸ばせば実際に触れることの適う笑みだった。
「探したんだぜ、家が火事になったって聞いてさ」
「わたし、言ったんだよ。優一郎お兄ちゃんにも知らせようって」
 応えたのは真月であった。
 優一郎の横で真月は、卓の上に茶碗を並べていた。
「せめて麗花さんにお線香ぐらい上げようと思って、お寺にも行ったんだぜ。で
も住職に訊いたら最近朧月のお墓に入れられた人はいないって言うし」
「ん、ごめん………いろいろあってさ、連絡が遅れちゃって。お姉さ、朧月のお
墓には入りたくないって思ってたはずだから」
 初めて会ったときの生意気さも元気の良さも影を潜めている。ポニーテールの
少女、美鳥は静かな声で言った。
「だけどさ………」
 さらに問いつめようとした優一郎だったが、その先の言葉は出ない。ただ黙っ
て、夕食を並べてゆく美鳥の手元を見つめるばかりだった。
 麗花を失った悲しみは、優一郎より美鳥たち姉妹のほうが遥かに大きいはずだ。
血の繋がった従姉妹とはいえ、たった一度、探偵から紹介されたときを入れても
二度しか会っていない優一郎とは比べようもないだろう。
「驚いたよ。まさか噂の子が美鳥だったなんてさあ」
 開いた口が続けるための言葉を探し、優一郎は部屋の中を見回した。そして目
に飛び込んできたものを見ながらそう言っていた。
 壁に吊されたハンガー。そこに掛けられた制服。美鳥のセーラー服である。た
だし以前朧月の家で見たときに、美鳥が着ていたものとは違う。優一郎が通う高
校の制服であった。
 ぶっ。
 品のない音が、優一郎の口より漏れる。
 いま校内の噂を一身に集めていた転校生は、よりにもよってこの美鳥だったの
だ。従姉妹ということで多少過小評価してしまうことも否めないが、それにして
も優一郎の目から見れば、とても美鳥を美少女とは呼べない。あまりにも大げさ
な噂の真実を知り、つい吹き出してしまったのだ。
「うわっ、汚いなあ!」
 寸前までの沈んだ空気は、一瞬にして消え失せてしまった。盆から下ろされ掛
けていた鯖の煮付けが、美鳥の手によって再度空を舞う。
「あ、悪い悪い。それにしても良かったよ。噂に惑わされて、うっかり評判の転
校生を見に行かなくてさ」
「なによ、うっかりってさ………そんなこと言うんなら、晩ごはん、ご馳走なん
かしてあげない」
 笑っている優一郎に対して、美鳥は頬を膨らませて怒っている。優一郎の横で
は、話の分からない真月が不思議そうに首を傾げていた。そんな二人の従姉妹が
可笑しくて、優一郎はまた笑ってしまう。
「本当に、いらないんだね」
 どうやら美鳥は冗談で気分を損ねた真似をしていたのではなかったようだ。優
一郎の前に並べられていた食事を、お盆の上に戻し始めてしまったのだ。 
「ああ、ごめん、悪かった。俺が悪かった、謝るよ」
「ほんとに? まあ反省してるんなら今回だけは特別に許してあげる」
 いささか芝居じみた優一郎の詫びに、怪訝な目を向けながらも湯気の立つみそ
汁は帰ってきた。
「お姉ちゃん、音風お姉ちゃん、ごはんできたよ」
 二人の三文芝居が終わるのを待っていたかのように、立ち上がった真月はもう
一人の姉を呼ぶ。音風は転校初日の緊張感からか、昨晩より体調を崩し寝込んで
いるそうだ。
「優一郎、だいたいあなたはいくら従姉妹だからって言ってね、少しは………」
 まだ何やら説教をする美鳥の言葉を聞き流しながら、優一郎は感じていた。久
しぶりに心底リラックスしている自分を。そして安心した。まだ麗花を亡くした
悲しみは深く三人姉妹の心に刻まれているだろう。けれど例え真似だけだとして
も、明るい表情を見せてくれた姉妹たちに。
 隣の部屋から音風が姿を現したことで、美鳥の説教も止められた。まだ自分を
拒んでいるような音風の様子が気にはなったが、優一郎は温かい食事に舌鼓を打
つことにした。




#34/598 ●長編    *** コメント #33 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:13  (173)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (05/17)  悠歩
★内容

 優一郎が店売りの出来合いではない食事を口にするのは、およそ二ヶ月ぶり、
夏休みに朧月家を訪ねて以来だった。近頃では家庭的な味を売り物にした、持ち
帰り弁当を扱う店も少なくはない。下手な手料理より、コンビニの弁当の方がお
いしいと言う者も多い。しかし優一郎の舌には、いま味わっているがさつな少女
の手料理の方が弁当よりも好ましく感じられていた。
 決して美食家ではない優一郎に、美鳥の腕前がはたしてどの程度のものか判断
出来ない。単に長く続いた一人暮らしの中で、作り手の温もりが伝わってくるよ
うな料理に飢えていただけなのかも知れない。とにかく美鳥の作った料理は、優
一郎の食欲を大いにそそるものであった。
 美鳥に対し、必要以上に賛辞の言葉は伝えない。ただ一品一品を黙々と、米の
一粒一粒をゆっくりと味わう。どこか懐かしささえ覚えるその味を。
 最初に思い出していたのは優一郎の舌だったのだろう。やがて頭の中でも薄れ
かけていた記憶が甦って来る。母が作ってくれた料理の味が。
 美鳥の料理は、母の料理とよく似た味付けがなされていたのだ。もし厳密に双
方を比較する機会があったのなら、まだまだ美鳥の料理は母のそれに及ぶもので
はないはず。が、長く母の味と触れることのなかった優一郎には、幼い頃からず
っと慣れ親しでいた懐かしいものとして感じられていた。
 思えば優一郎の母と美鳥は同じ土地の生まれである。同じ朧月の家に育ってい
る。同じ味付けの料理を作ることに、なんの不思議もない。
 しかし優一郎が懐かしい味をゆっくりと楽しめたのは、初めの十分にも満たな
い時間だけだった。
「ほら、ゆっくり食べなさい。そんなに急ぐと、おなかに悪いわよ」
 亡くした姉に代わり、母親の役目を負うこととなった美鳥の声も聞こえぬかの
ように、一番歳下の少女は一心に食事を口の中にと運ぶ。点けられたままになっ
たテレビに流れる人気アニメも、いまの真月から関心を引くには至らない。はた
して彼女がなぜ食事を急ぐのか、それが優一郎にも無関係でないとすぐに知れた。
 いち早く食事を終え、自分の食器を流しへと運んだ真月は卓上で頬杖をつき、
優一郎を見つめる。
「まあぁづき! お行儀が悪い!」
 姉の叱責が飛ぶとすぐに頬杖を止め、真月は食卓から離れて壁にもたれ掛かっ
た。それでもクライマックスを迎えているアニメには関心を向けず、優一郎を見
つめていた。
 どうやら真月は優一郎が食事を終えるのを待っているらしい。優一郎が顔を上
げると、すっと視線を逸らしテレビに見入ったふりをするが、横目でしきりに優
一郎の食の進み具合を気にしている。なにか遊びにでもつき合わせたいのだろう。
初めは無視してゆっくりと食事を続けていた優一郎だったが、そわそわと落ち着
きのない真月に負けてしまった。いつの間にか「あんたも落ち着きがないんだね」
と美鳥から指摘を受けてしまうほどに、優一郎は食事を急いでいた。
 優一郎は三着で食事を終えることとなった。第二着は再会からまだ一度も言葉
を交わしていない音風であったが、こちらは優一郎のようにかき込んで食事をし
ていたのではない。その大半を残したままで箸をおいてしまったのだ。
「ごちそうさまでした」
 テレビの音にかき消されそうな小さな声、それがあの夏以来久しぶりに聞いた
音風の声であった。やや遅れて茶碗をおいた優一郎が声を掛ける間もない。ある
いは彼女の方で意識的に避けているのかも知れない。まるで故意ではないかと思
われるほど不自然に優一郎を視界に入れないようにして、音風は立ち上がった。
あるいは本当に故意だったのだろうか。
 遠く離れて暮らしていたときならまだいい。だがこれからは近所づきあいもし
ようという従姉妹と、いつまでも気まずい関係でいていいものか。なにか声を掛
けようとした優一郎だったが、それは彼が晩御飯を済ますことを待ちかまえてい
た真月に阻まれてしまう。
「あのね、お兄ちゃん!」
「あ、ああ、なに? 真月ちゃん」
 腕にしがみついて来た少女を邪険にも出来ず、優一郎は襖一枚隔てただけの隣
室に消えていく音風を横目で見送った。
「すいそう、気がついた?」
「え、すいそう? 水そうって………ああ、あれのこと」
 室内を見回すと、優一郎はすぐに真月の言うものを見つけだした。火事によっ
て前の家にあったものは全て灰になっている。このマンションに移ってから揃え
たという家具は、まだ日の浅いこともあって必要最小限に抑えられていた。靴箱
さえなく、もの寂しい玄関になにやら異彩を放つものがそれであった。
「真月のわがままでね、とんだ出費だわ」
 最後に食事を終えた美鳥が、自分と優一郎の食器を片づけながら、少し咎める
ような語調を含めて言う。
「だって、真月とお兄ちゃんのたいせつな思い出だもんね」
 悪びれる様子もない真月は、優一郎に向けて首を大きく、横へ傾げて見せた。
「ん、えっ、あ?」
 真月の言うことがまるで理解出来ず、優一郎にはどう応えるべきか分からずに
いた。すると。
「ああっ、ひどい。お兄ちゃんったら、わすれてるぅ!」 
 唇を尖らせた真月に腕を引かれ、優一郎は強制的に立ち上がらされた。そのま
ま玄関先の水そうへと連れて行かれる。
「ほらあ、見てよ」
 真月の指し示す先にある水そうは、別段なんの変哲もないものである。ガラス
製ではあるがかなり小振りで、チューブの先にスポンジをつけただけのエアポン
プからは、頼りなさげな泡が吐き出されている。そして中に泳ぐ魚も、その水そ
うに見合う地味なものが二匹いるだけであった。一匹はその赤さに金魚かと思わ
れるが、もう一方は明らかに小型のフナである。
 高価な金魚でも、珍しい熱帯魚でもない。だが真月にとっては大切なペット、
いや友だちなのだろう。それは食事を急いでまでも、優一郎に見せたがっていた
ことから窺える。あるいはこの小さな魚の姿が、姉を失うことで負った真月の心
を癒してくれたのかも知れない。生き物を慈しむ気持ちは悪いものでない。むし
ろ好ましいことだと思う。
「可愛いお魚だね」
 優一郎自身はたいして興味も持てない魚を軽く一瞥し、真月には笑顔で言って
やる。
「………」
 けれど優一郎が笑顔を繕ったのと対照的に、期待を満ち溢れさせていた真月の
瞳があからさまに翳る。
「真月ちゃん………? あっ」
 そんな真月に戸惑った優一郎だったが、ふとなにかを思いだし、再び水そうへ
と目を向けた。
 よく見れば赤い魚も金魚ではない。フナ………優一郎の知識では断定しきるの
は難しいがヒブナと呼ばれる魚のようであった。
「このフナたちは、もしかしてあの時の?」
 もう一度、優一郎は隣にしゃがみ込む真月の顔へ視線を返した。まるで山の天
気のように、また真月の表情が変化を見せる。さながら突然晴れた霧の向こうか
ら現れた、陽光のように。
「うん! 真月とお兄ちゃんとで釣った、おさかなだよ」
 冷たい廊下の床板に膝をついた真月。優一郎が思い出したことに満足すると、
さらには両肘をもつき、両手のひらに小さなあごを載せて水そうのフナたちを覗
き込んだ。
「そうか、あの時のフナ、生きていたんだ」
 それまですっかり忘れていたのに、優一郎は感慨も深く言う。それは優一郎に
とって、そしてきっと真月にとっても穏やかな時間の最後の記憶。その後刻まれ
た記憶は、悪夢として忘れてしまいたい時間。
「あのね、お姉ちゃんがね」
 あごを載せていた片方の手を解放し、真月は人さし指で水そうのガラスをつつ
いた。エサと勘違いしたのだろうか。二匹のフナは真月の指に集まって来た。
「えっ、誰?」
 真月の姉は一人でない。「お姉ちゃん」が誰を指すものか分からず、優一郎は
つい、聞き返してしまった。しかし真月の目に光る涙を見て、すぐに後悔するこ
とになる。
「麗花お姉ちゃんがね、守ってくれたの」
 表面張力の限度を超え、真月の目から一粒、筋をなして涙がこぼれた。真月は
それを素早く、自分の袖で拭った。優一郎は見なかったふりをする。
「そうか、そうかも………知れないね。ううん、きっとそうだよ」
 優一郎も焼け跡となった姉妹の家を見ている。その火の勢いがどれほど凄まじ
いものであったかは、一切が炭と化していたことから容易に想像された。水の中
にいたとはいえ、あの小さな池だ。強い火に炙られればすぐに煮立ってしまうだ
ろう。二つの小さな命が救われたのは奇跡にも等しい。
「だから、この子たちは麗花お姉ちゃんの生まれかわりなんだよ」
「はいはい、そこまで」
 その場の空気を一瞬にして変えてしまう声が響いた。麗花を亡くしたいま、姉
妹の家長となった美鳥のものである。
「もうお姉の話はしない約束だよ。ほら、真月、宿題はしなくていいの?」
 美鳥の声に、四つん這いだった真月の上半身がバネ仕掛けのようにして跳ね起
こされた。
「ないよ。まだ転校したばっかりだもん。あ、それよりお兄ちゃん、まだ見せた
いものがあるんだ」
 あるいは優一郎が百の慰めを連ねるより、美鳥に一言叱咤される方が真月を元
気づけられるのかも知れない。もともと感情の変化に富んだ少女ではあるが、元
気を取り戻した真月が優一郎の手をとって立ち上がる。これが血の繋がりと言う
ものなのだろうか。兄弟のない優一郎はそんな真月たちの関係を羨ましく思った。
「なくったって勉強はしなさい。また前の学校みたいな成績だったら………」
「ああん、分かってるよぉ。お兄ちゃんに見せたらちゃんとするから」
「だーめ。いましなさい」
「あ、真月ちゃん。俺、宿題があるんだ………だからそろそろ部屋に戻ってやら
ないと、ヤバイんだ」
 真月がなにを見せたがっているのか分からないが、それほど時間の掛かること
でもないだろう。つきあってやりたいと思う優一郎だったが、亡き姉に代わり姉
妹への責任を一人負う美鳥の言葉を蔑ろには出来ない。あるいは優一郎がこうし
て長居すると自体、迷惑になっているのかも知れない。本当は宿題などありはし
ないのだが、優一郎は姉妹の部屋を退室することとした。
「ほら、こうして同じマンションに住むことになったんだからさ。いつでも会え
るんだし、またこの次に見せてよ」
「うん………分かった」
 不満げではあったが、真月はわがままを押し通そうとはしない。素直に頷いて
くれた。
「じゃ、今日はご馳走さま」
 優一郎たちの覗き込んでいた水そうは、玄関先に置かれている。わずかに足を
伸ばすだけで優一郎は自分の靴を履き、帰り支度を整えることが出来た。優一郎
の部屋はここより一階上、玄関を出て階段を使っても一分ほどの道程である。
「じゃあね、真月ちゃん」
「うん、ばいばい、お兄ちゃん」
 田邊の事件の後とは違う、気軽な別れの挨拶を交わす。優一郎は改めて姉妹た
ちが、距離的も近しい存在になったのだと感じた。
「あっ、こら、優一郎。カバン、忘れてる!」
 すでにドアを抜け廊下へと出ていた優一郎の後を、サンダルを足につっかけた
美鳥が追ってくる。
「あ、いけねぇ」
 そう言えばマンションの玄関ホールで真月との再会を果たした優一郎は、その
足で直接この部屋を訪れていたのだった。
「まさかその歳で、痴呆症ってことでもないでしょうね」
 軽い憎まれ口を吐きながら、美鳥から学生鞄が優一郎へと手渡される。
 その瞬間。
「あとで、あなたの部屋に行くから………」
 室内に残る、妹たちには届かなかったであろう。一番間近にいた優一郎の耳に
さえ、やっと届くほどの小さな声。
「えっ?」
 その意味を問おうと、優一郎が顔を上げたときにはもう遅かった。その言葉を
囁いた美鳥の姿は、冷たい鉄の扉の向こうへ消えていた。




#35/598 ●長編    *** コメント #34 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:14  (180)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (06/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:00 修正 第2版


 赤い光が弧を描き、地べたへと落ち、転がる。メンソールの細い煙草から立ち
上る煙は、一瞬その濃さを増しやがて消える。
 時刻は宵の口となり、もはやその必要性もないはずのサングラスを掛けた女は、
それまでずっと見つめていたマンションの部屋から視線を外した。
「思い切ったことをするわね………あの子。あの【日龍】のぼうやのマンション
に引っ越すなんて」
 さしたる感情も込めず、女、師岡麗菜は呟いた。
 応える者はない。彼女と文字通り、一心同体となった兄はいま、深い眠りにつ
いている。
「さて、どうするべきかしらね。麗花がいなくなって、厄介なのは音風って子く
らいだけど………いまならそれほど恐るべき存在ではない。それより長期の接触
で、あのぼうやが真の覚醒をしてしまえば、それこそ面倒。いまのうちに始末す
るのが、ベストなんだけどね」
 麗菜の顔に、初めて表情が刻まれた。仮面のように凍てついた顔に笑みが浮か
ぶ。
「でもね、それは先生さまが楽しみにされているようだから。私が勝手に手出し
する訳にはいかないわよね」
 元より医者である仲間が希望していなくても、麗菜が積極的に朧の姉妹たちを
始末することもなかったかも知れない。彼女とその兄雅人にとって最大の目的で
あった麗花の命は、もう終わってしまっていたのだから。
 しかし目的を果たしても、麗菜たちには帰る場所もない。ただ忌まわしい血に
従って生きる以外、道はないのだ。いまは彼女にとって愛する兄とともにあるた
め、惰性で朧と対峙する立場にいるだけだった。
「それより、臭い匂いがするわね」
 ふん、と鼻を鳴らすと麗菜の浮かべていた笑みは、嫌悪の表情に変わる。それ
から先刻まで様子を窺っていたマンションの明かりに背を向け歩き出す。その目
的は数歩先、外灯の死角となった場所に停められた車であった。
 ドアを開け乗り込むと、ルームランプに照らされ不健康な色に染まった自分の
顔がミラーに映し出される。
「降りてもらえないかしらね」
 ルームミラーを見つめたまま、麗菜の口からは穏やかな声が発せられた。しか
しその目は険しく、不快感を露わにしている。
「けけっ、つでねえだあ(つれねえなあ)」
 眠ったままの兄ではない、別の声が麗菜に応える。それに続き、ルームミラー
の端に不気味なものが映り込んだ。
 初めは手。青黒い手が伸びて、シートの背もたれをつかんだ。腕はその本体を
引き上げる。しかしその本体が尋常ではない。
 腕は肩に繋がってはいなかった。肩など持ち合わせていなかったのだ。肩ばか
りではない。腹も足も、人が当然のように備えた身体のパーツを大きく省いてい
た。腕が引き上げたのは頭である。腕が繋がっていたのは、その頭頂部であった。
 その姿は深海の底に生息する提灯鮟鱇(ちょうちんあんこう)のようであった。
醜いそれは、麗菜たちの仲間である『完全体』ではない。『異形』と呼ばれる存
在とも違う。生き物であることさえ麗菜には疑わしいそれは、創造者によって
14号と呼ばれる存在だった。
「おでたち、ながまだどう? ながよぐじようで」
 麗菜が予想していた通り、それはさらに人間から遠のいた存在となっていた。
以前は話せていた人の言葉が、いまでは話せなくなっている。
 必要な臓器を詰め込むため、最低限の脳しか残されていない14号は、どれほ
ど麗菜が嫌悪感を露骨に示したところで理解することも適わないのだろう。笑顔、
と称するのには大きな疑問と抵抗の残る表情でこちらを見ている。そいつにとっ
て普通の表情でいるより、下手にしまりのない口元を歪め、ひくつかせている分
だけ不快さが増してしまう。
 麗菜はスイッチを入れ、運転席横の窓を開いた。それから一瞬の間だけ不快さ
を堪え、鮟鱇の腕をつかむとそのまま窓の外へ投げ捨てた。
「ぎゃわん!」  精一杯の叫びを残し、鮟鱇はアスファルトを転がった。
 頭だけならまだ良かったかも知れない。なまじ腕を持っていたがため、それは
ラグビーボール以上の不規則さで転がっていく。だが麗菜はそんな鮟鱇の無様さ
を見届けることもなく車を発進させていた。
「ぢぐじょう、ぜんぜいにいいづけでやず」
「ご勝手に。私は私の自由で動く。お前は先生のため、しっかり朧たちを見張っ
ていなさい。お前には、せいぜいそれくらいしか出来ないんだから」
 その言葉が最後まで鮟鱇の耳に届いたのかは分からない。元より麗菜には確か
めるつもりもない。鮟鱇を轢いてしまう可能性さえ気に掛けず、車をその場から
立ち去らせた。

「まだ臭い………」
 本当に一人になった、もちろん兄は除くが、その車内で麗菜は呟いた。
 鮟鱇の匂いが残った車内の空気を浄化するため、窓は開いたままに車を走らせ
て。しかし麗菜が感じていたのは、薄れつつある鮟鱇の匂いばかりではない。
「こっちは私が始末するしかないのかしら」
 煙草をくわえた麗菜は、車のライターを強く押し込んだ。 

 
「あ、お父さん。お風呂とご飯、どっちを先にする?」
 予想していなかった。深夜遅くに帰宅し、とうに寝ているものだと思っていた
娘に声を掛けられ、男は戸惑い、すぐに応えることが出来なかった。
「………お風呂を先にもらおうかな」
 それだけの応えを返すのに、三十秒ほどの時間を要してしまう。
「だと思った。すぐに入れるからね」
 過ぎるほどに穏やかな娘の笑顔。男は呆けたように頷くと、娘に先導され浴室
へと向かった。

 目にも鮮やかな彩りが、デーブルの上を飾り立てていた。
 ほうれん草の緑に、人参の赤。茄子の青さに、白いご飯。そのどれもが不規則
な男の帰宅時間を知っていたかのように、出来立てであることを示す温かな湯気
を立ち上らせている。男の横のグラスに、気泡の弾ける音とともに晩酌のビール
が注がれた。
「ありがとう」
 短く礼を述べ、男はグラスの液体を半分ほど喉へ流し込む。湯上がりの身体に、
冷たいビールが染みわたった。
「じゃあ、いただきます」
 男は箸を手にして、里芋の煮付けを口へと運ぶ。
「うん、うまい。こいつはうまい」
 娘に気を遣った世辞ではない。程良い味付けは、他界した妻には及ばないもの
の充分に男を満足させるものだった。
「驚いたな。おまえ、いつの間に料理なんか覚えたんだ」
 男にとってそれは驚愕であった。つい数ヶ月前まで、半ば不良のような格好を
して、言葉遣いも乱暴だった娘。その頃はこの子が料理を作ってくれる日が訪れ
ようとは、夢にも想像出来なかった。
「ほら、私ももうすぐ高校卒業なんだしさ。やっぱり、料理くらい作れないと恥
ずかしいでしょう」
 喜ばしい変化ではあったが、そう応えたとき娘の表情がわずかに翳ったのを、
男は見逃さない。
「おまえ、その………学校、うまくいっているのか?」
 躊躇いつつも、箸を置いて男は訊ねてみた。それが娘の身に降りかかった、忌
まわしい事件を思い出させてしまうと知ってはいたが、訊ねなければならない。
あの事件がいまも娘やその周囲に影響を及ぼしているなら、親として改善してや
らねばならない。そう思って。
「平気………うまくいってるよ」
 穏やかな声が返る。いましがた見せたばかりの翳りは、もうどこかへと消えて
いた。代わりに、娘ははにかむような笑みを浮かべていた。
 そんな表情が本心から出来るようになったのであれば、こんな喜ばしいことは
ない。しかしそれは忌まわしい事件で受けた心の傷を隠すためのもの。そう思え
て、男は辛くなる。
「あのな、もし、もしもだぞ。おまえが学校に行くのが嫌だと言うなら、もうし
ばらく休学したって構わないんだ。そうだ! いっそのこと学校を辞めて、どこ
か遠くの街に行くか。なに、父さんの事なら心配はいらない。余所の街にだって、
仕事はいくらでもあるさ」
 はたしてそれが、娘が心に受けた傷に対し適切な方法であるのか、分からない。
けれど妻の死からあの事件が起きるまで、長く娘との会話を疎遠にしていた男に
は、他に方法が考えられなかった。それでも精一杯、娘へ愛情のこもった手を差
し伸べたつもりだった。
「平気だって。お父さんたら、気の遣いすぎだよ」
 返ってきた応えは、苦しさを訴えるものではなかった。それどころか娘を気遣
う父に、これ以上の心配を与えまいとする配慮さえ、感じられるものであった。
 こんな時、妻が生きていれば。
 男は思う。
 娘が女として受けた心と肉体への傷。どれほど心を痛めても、男である父に娘
は想いの全て語ることは出来ないのであろう。彼とて、娘が田邊という男から受
けた仕打ちを、いまだ訊き出してはいない。もちろん、警察を通じて知ってはい
る。だがあるいはそれを娘自身から訊くことが出来なければ、彼女の傷を癒して
やる方法も見つけられないのではないだろうか。それは男親では、とうてい難し
い話である。
「だったら、聞いて欲しい話があるんだけどな」
 葛藤する男の心を察したのか、娘の方から何かを語りだそうとする。
「な、なんだい? 父さんに出来ることなら、なんだって………」
 事件についての話なのか。
 学校での、娘の置かれた辛い立場についての訴えなのか。
 緊張した男の手は、知らず知らずのうちに拳を握っていた。
「進路のこと」
 男にしてみれば、それは予想外の言葉であった。にわかに身体から力が抜ける
のを感じた。
「私、デザインの専門学校に行きたいの………」
 男の視線を避けるよう、俯きながら娘が言った。
「ああ、別に父さんは構わないが」
「ほんと!」
 にわかに娘の顔が、輝いたように見えた。実際、上げられたその瞳は部屋の蛍
光灯より明かりを受け、きらきらと輝いていた。
「私、絶対に反対されると思ってたんだ」
「馬鹿な………お前の人生だろう。どうして父さんが反対なんか………」
 言いかけて、男は止める。
 そして得心する。
 男の妻は、生涯にただ一度だけの出産しか臨めない身体であった。それだけに
生まれてきた娘に対し、夫婦でありったけの愛情を注いだ。それと同時に、過大
な期待も掛けていたのだ。
 男は娘に自分の跡を継いでくれることを期待した。幼い頃より、ことある毎に
それを娘に語っていた。自分の進んだ高校、大学に娘も進むことを望んでいた。
それが娘を縛りつけていたのだ。思えば、娘が不良のような格好をするようにな
ったのも、妻の死をきっかけにではなく、男の奨めた高校への受験を失敗してか
らだったかも知れない。
「しかし、お前がデザインに興味があったなんて。父さん、全然気がつかなかっ
たよ」
 いま娘の見せている笑顔は、本物である。その奥底まで測り知ることは出来な
いが、心の傷の痕跡を感じさせない笑顔であった。それが嬉しく、男も笑った。
「う、うん………ちょっとね」
 曖昧な応え。初めて見る、娘のはにかんだ表情。
 ひょっとして。
 男は察する。
 あるいは娘自身が学びたいのではなく、誰か親しい友人がデザイン学校へ進学
するのではないかと。いや、それは友人ではなく、娘が想いを寄せる男性なのか
も知れない。
 それでもいいと、男は思う。
 その友人、男性を想うことで娘が立ち直っているのなら。
「あ、ごめんなさい。もう、ビールなかったね」
 何かをごまかすかのように、必要以上の慌ただしい動きで、グラスに新たなビ
ールが注がれた。
「ありがとう………うん、佳美のついでくれたビールは最高だ」
 男はグラスのビールを一気飲み干し、娘におかわりを求めた。




#36/598 ●長編    *** コメント #35 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:15  (180)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (07/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:02 修正 第2版


 意味もなく時計に視線を遣るのは、これで何度目だろうか?
 柱時計の針は九時五十分を指し示していた。
 喉が渇き、冷蔵庫を開けて烏龍茶のペットボトルを取り出す。昨日買ったばか
りの1.5リットルボトルであったが、中の液体はもう底を尽きかけていた。そ
れでもグラスに注ぐと、どうにか一杯分だけあった。
 冷えた烏龍茶を、息継ぎもせず一気に飲み干す。その結果、シンクにグラスを
置いたのち、優一郎はキンとした頭の痛みを堪えるため、数十秒間、俯いたまま
動けなくなってしまう。
「馬鹿馬鹿しい、俺はなにを緊張しているんだ」
 思わず、自嘲的な笑みがこぼれる。
 夕刻、再会を果たした従姉妹たちの部屋で夕食を馳走になり、その帰り際。
『あとで、あなたの部屋に行くから………』
 美鳥の言ったその一言が、優一郎を緊張させていた。
 思い出される、あの日のこと。
 初めて従姉妹の存在を知り、夏休みを利用して彼女たちの家を訪れた夜のこと
であった。
『優一郎、私のこと、嫌い?』
 肌も露わにした美鳥の、やけになめまかしい唇。若い盛りである優一郎が平静
でいられるはずもない。一時の情欲に駆られ、身体を重ねていても不思議はなか
った。もし美鳥が従姉妹でなかったら、そうしていたかも知れない。
 だがあの時の優一郎は、己の奥から沸き上がる欲望を辛うじて抑えることが出
来た。あまりにも不自然な美鳥の告白に、流されることなく済んだ。
 直後、異形と化した田邊による騒動が起き、今日まであの夜の美鳥の言動につ
いては、優一郎も半ば忘れかけていた。美鳥たち姉妹が、その出来事を思い出す
より先に、消息も安否も分からなくなってしまったため、優一郎の心は彼女たち
の身を案ずることにと使われた。
 麗花を除く姉妹の無事を知った後も、まだあの夜こと思い出されずにいた。美
鳥の言葉を聞くまでは。
「なにも、あの時の続きとは限らないじゃないか」
 一人苦笑する。
 優一郎にとって、美鳥たち姉妹だけが血の繋がりを持つ親族である。当然、彼
女たちから見た優一郎も同様である。成人していた長女を失い、中学生と小学生
の妹を抱えた美鳥が、今後の生活について唯一の親戚である優一郎へ相談しよう
としているのかも知れない。むしろそう考えるほうが自然ではないか。
 だが。
 もし、この部屋を訪ねて来る美鳥の目的が、あの夜の続きであるとしたら。自
分はどう対応すべきなのか。
 なんの結論も出せぬまま空になっていたのも忘れて再びペットボトルのキャッ
プを開いたとき、部屋のチャイムが異様な大きさで鳴り響いた。
「はいっ!」
 思わず返した声は、緊張に驚きをくわえ甲高いものとなる。己の不様な声を耳
にし、顔を熱くした優一郎はなくなった烏龍茶の代わりに唾を飲む。
 特に防音措置されてもいないが、いまの声は外まで届いていないだろう。そう
自分を納得させ、ドアへと向かう。
「はい、どなた?」
 平静を装ったつもりだったが、作り声になってしまう。
「私、美鳥」
 予想通りの応えに、優一郎はドアのロックを外した。
「なんだよ、こんな時間にさ」
 ドアを開いた優一郎は、美鳥が訪ねて来ることを忘れていたかのように振舞っ
てみる。が、自分でもそれが芝居じみて不自然になっているのを感じた。
「さっき言ったじゃない。あとで優一郎の部屋に行くって」
「ああ、そうだったっけ? まあ、じゃ、入れよ」
「うん、おじゃまします」
 閉まらぬよう、ドアを押さえた優一郎の横を束ねた髪の少女が過ぎる。微かに
漂う、淡いシャンプーの香り。レモンイエローが目にも鮮やかなタオル地のカー
ディガン。生来とも思えるかしましさは見せず、清楚な少女の姿をした美鳥に、
優一郎の下半身に血流が集中する。
「どうかしたの?」
 美鳥に気づかれぬうちに下半身の高ぶりを収めようと、優一郎はしばらくの間、
ドアの前に留まっていた。そんな優一郎を怪訝に感じたのだろう。背後から先に
居間に通った美鳥の声が届いた。
「あ、いや、なんでもない」
 一度興奮してしまった優一郎の若い性器は、そう簡単に収まりを見せてくれな
い。だが、最大時より幾分縮小したそれは、ジーンズパンツの上からはそれほど
目立たない程度に落ち着きはじめていた。相手の眼前にでも突き出さない限り、
気づかれずに済みそうだ。
 静かにドアを閉じた優一郎は、鍵に手を掛けてから逡巡した。すでに深夜と呼
べる時刻、従姉妹とはいえ若い女性を室内に招き入れた上で施錠する意味を考え
てしまったのだ。収まり掛けていたものに、再度力が甦る。
 結局、優一郎は施錠しないまま、居間へと戻った。
 若い男性の一人暮らしとはいえ、優一郎の部屋は比較的きれいに整頓されてい
た。しかし掃除をしてくれる親と暮らす、同年代の友人たちに比べれば行き届か
ない部分も少なくはない。優一郎はコーヒーのしみを隠すため絨毯に載せられて
いた、これまた少しばかり黒ずみ始めた草色のクッションに座るよう、美鳥に勧
めた。
「何か冷たいものでも飲む?」
「うん、ありがと」
 優一郎がすぐに台所へと向かったのは、来客をもてなすためと言うより、クッ
ションの上で折られた、短いパンツルックから大胆に覗く美鳥の白い脚を見ない
ようにするためだった。
 一人の部屋には大きすぎる、3ドアの冷蔵庫に掛けた優一郎の手が止まる。扉
を開け、中を確認するより早く、シンク横に置いたペットボトルに気がついたの
だ。
「水しかなかった………」
 美鳥には、素直になにもなかったと説明して謝ろう。そう考えた優一郎だった
が、実行には移されない。部屋の中に美鳥と二人きり、飲み物もなく間を持たせ
る自信がなかったのだ。
「そうだ、コーヒーがあったっけ」
 残暑も終わったとはいえ、まだ温かな飲み物が欲しくなるような日は少ない。
従ってキッチンの棚に置かれたインスタントコーヒーも長らく飲んではいない。
その封を開けたのは、確か今年の春先だった。
 手にした瓶の蓋とその周囲には、うっすらと埃が溜まっていた。それを紙製の
キッチンタオルで拭き取る。いささか透明度の増した瓶を軽く振るってみる。中
には小さな山が出来ていて、粉末状であるはずのコーヒーが、全く動くことはな
かった。
「毒、ではないよな?」
 今度は蓋を開け、匂いを嗅いでみる。コーヒー以外の匂いはしない。およそ半
年間の眠りを経て、だいぶ湿気を蓄えていたが、コーヒーであることに代わりは
なさそうだ。
 逆さにしていたグラスを二つ、起こして柄の長いスプーンを使いコーヒーを移
す。ホットの方が手軽であるのだが、美鳥に冷たいものと言った手前、アイスコ
ーヒーを作るためである。
 案の定、本来粉末であるあずのコーヒーは、すっかり固形化していた。柄の長
いスプーンを差し入れ、それを力任せに削る。不快な感触を手に残し、瓶と同化
していたコーヒーの一部が小石のような固まりを生みだす。それをさらにスプー
ンで細かく砕く。固まりが適当と思われるサイズになった頃には、スプーンを握
っていた掌にマイナスドライバーで刻んだような痕が残り、赤くなっていた。
「なんか、コーヒーって言うより、ネズミの糞みたいだな」
 自らの連想で気分が悪くなる。軽く頭を振るってくだらない発想を払拭し、そ
れから居間の方をちらりと見遣る。曇りガラスの入った引き戸のため、美鳥の姿
は死角となって断定出来なかったが、いまの独り言に気づいた様子もない。その
まま優一郎は作業を続けることにする。
 二つのグラスに固形化した粉末コーヒーを適量分け入れる。ミルクもホット用
の粉末を使う。こちらもほぼ固形化していたが、粉末コーヒーより砕くのは楽だ
った。さらに砂糖をくわえた後、冷蔵庫から冷えた水を取り出し注ぐ。冷たい水
では固形化したコーヒーが溶けにくいと承知していたが、熱湯を注いだ後の氷が
ないため致し方ない。 「こんなもんか………」
 液中に飽和量を越えたコーヒー粉末が若干残ってはいたが、さして気になるほ
どでもない。優一郎は二つのグラスを握りしめるようにして持ち、美鳥の待つ居
間へと戻った。
「悪い。ストロー、ないんだ」
 自分はウエイターに向かないかも知れない。優一郎は思う。
 そっと置いたつもりのグラスだったが、その水面は大きく波打ち、危うくこぼ
れそうになった。
「ん、ありがと」
 しかしそれをさほど気にする様子もなく、美鳥はアイスコーヒーを早速と口へ
と運んだ。あるいは美鳥も優一郎同様、緊張して喉が渇いていたのかも知れない。
 グラスの表面には、短時間のうちに驚くほどの水滴が付着していた。当然それ
を持っていた優一郎の手も、ぐっしょりと濡れている。
 クーラーのスイッチを入れた方がいいだろうか。濡れた手をシャツの裾で拭う
と、痛切なほどの喉の渇きに促され、優一郎も自分のグラスを口元へ運ぶ。
 先刻の烏龍茶に負けぬ勢いで喉へと流し込まれた液体。しかし烏龍茶のように、
グラスの中身全てを飲み干すまでには至らない。
 分量を誤ったか。
 あるいは予想以上に劣化していたのか。
 優一郎の喉を通って行ったアイスコーヒーには、ほどよい苦みも甘みもなく、
ただ粉っぽいだけのものであった。
 見れば美鳥の前に置かれたグラスも、中の液体は彼女が口をつける前と変わら
ぬ容量を保っている。
「ごめん、失敗したみたいだ。作り直すよ」
「い、いいよ………平気、おいしいから」
 伸ばし掛けた優一郎の手を、美鳥がそっと制す。優一郎も無理にグラスをとる
ことなく、その言葉に従った。作り直すと言ったところで、別のコーヒーがある
訳でもないのだから。
 それからしばらく沈黙が続いた。
 部屋の隅に置かれた、目覚まし時計の時を刻む音がやけに大きく感じられる。
それをうるさいと思う反面、時計がデジタルでなかったことに優一郎は感謝もし
ていた。もし時を刻む音のしないデジタルであったなら、この沈黙の時間はさら
に重たいものになっていただろう。
 味の良くないアイスコーヒーではあったが、いつの間にか二人ともその半分以
上を喉に流し込んでいた。交わす言葉のない時間、ただそれを口にする以外、す
ることもなかったのだ。
「火事、大変だったな」
 沈黙に堪えかね、最初に口を開いたのは優一郎の方だった。しかし火事の話題
を切り出したのは、それが特に気になっていたのではなく、直接美鳥が部屋を訪
ねて来た理由を問うのに躊躇いがあったためである。
「うん」
 短く応えた美鳥の顔は、それまでの沈黙以上に伏せられてしまう。優一郎は切
り出した話題が失敗であったと悟る。
 妹たちの前では気丈に振舞っていても、姉を失った衝撃は美鳥の心に深く刻ま
れているはずである。それは両親を共に失っている優一郎にとって、想像に容易
いものであった。
「あっ、そう言えばニュースで聞いたんだけど、お前、病院に運ばれたんだって
な。けがとか………」
 火傷はもういいのか。
 そう訊ねようとして、優一郎は唇の動きを停止させる。自分は話題をさらに悪
い方向へと導いているのではないだろうか。そう思ったのだった。
 テレビのニュースでは、美鳥が病院に搬送されたおり、その容態がどの程度で
あったかまでは伝えていない。が、麗花を死に至らしめたほどの火事である。美
鳥も相当の重傷を負った可能性が高い。あるいは生涯、その傷痕が残るほどに。
 だとしたら、迂闊に訊ねてしまっていいものだろうか。
 姉を失った心の傷にくわえ、その身体に刻まれた傷痕の話まで蒸し返すことは、
美鳥にとって耐え難い苦痛ではないだろうか。
 この部屋を訪ねて来た理由を、美鳥はまだ何一つ話してはいない。それなのに
優一郎は独り、想像を先走らせ落ち込んでいく。
 それからまた沈黙が続く。二人が交わした会話の時間を数十倍、数百倍上回る
沈黙が続く。




#37/598 ●長編    *** コメント #36 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:15  (182)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (08/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:07 修正 第2版
 このままでは埒があかない。
 いい加減来訪の理由を問いただそう。と、優一郎が決意をしたときであった。
 美鳥が先に行動を起こした。
 相変わらず顔は伏せたまま、言葉を発することはなかった。が、無言のまま、
蛍光灯の灯りの中でも目に色鮮やかな、レモンイエローのカーディガンを脱ぎ捨
てたのだ。
「………」
 出し掛けていた言葉が、音声にならずに口から漏れる。忘れつつあった下半身
の興奮が、甦る。
 しかしそんな下腹部の興奮とは裏腹に、優一郎の身体は跳ねるようにして後ろ
へと下がる。その時、膝がテーブルにあたった。グラスの中のアイスコーヒーが
大きく波を打つ。
 そんな優一郎や中身のこぼれそうなグラスを気にする様子もなく、美鳥はカー
ディガンに続き、夏物のブラウスのボタンにも手を掛けていた。幽かな衣擦れの
音を残し、薄手のブラウスが細い肩を滑り落ちていく。雪のような白はなく、黒
檀のような黒でもない。仄かな小麦色に焼けた肌が露わとなった。
 優一郎は目を背けていた。
 目の前にある、若い裸身に興味ない訳ではない。むしろ優一郎にとって、美鳥
は好ましいタイプの異性であった。いや、例え好みではなくとも眼前にある裸身
へ、無関心を貫くのに優一郎は若すぎた。目は背けていても、彼の男性は美鳥を
強く求めている。
 優一郎には、それが怖かった。
 あの夜、一度は堪えた欲望が、激しく優一郎を責め立てている。ジーンズの硬
い布地に押し挟まれた高ぶりが痛い。
 早く服装を正すように言い残し、一旦この場を離れるか。あるいは本能に促さ
れるまま、美鳥の身体に覆い被さるか。優一郎の心が二つの選択肢の間を、大き
く揺れ動いていたとき。
「見て………」
 そんな言葉とともに、美鳥が顔を上げた。薄い布に隠された緩やかな丘が、真
っ直ぐに優一郎へと向き直る。
「………あ………えっ? あ!」
 二つの丘に気をとられた優一郎が、美鳥の言葉と行動が男を誘うためのもので
ないと知るまでには、幾ばくかの時間を要した。
 そして優一郎は気づいた。
 健康的ではあるが、その色艶、目から伝わる柔らかさは異性を刺激するのに充
分足り得る美鳥の肌を視覚的に、いや、実際に傷つけているものに。
 目算でも十は越えるであろう、大小の傷痕。既に回復の過程にあり、赤黒い瘡
蓋に覆われ始めているが、数の多さ、大きさから傷を負った直後のダメージはそ
れこそ命に関わるものであったと想像出来る。特に脇腹に残った、太い角材で殴
られたかのようなアザが痛々しい。
「背中も?」
 脇腹や肩越しに見られる、不定形な痕から背中にも傷が残されているものだと
推測し、優一郎は訊ねた。美鳥はそれを、背中も見せるよう頼んだものと理解し
たらしい。
「ん」
 小さく返事をして、背を向けた。
 美鳥の背中は優一郎の想像通り、前面に負けぬ酷さであった。シャーレの中、
寒天上で培養したカビのコロニーを連想させる不定形型な傷痕が、やはり十を下
らない数で点在している。
 美鳥の身体に残された傷痕を見ているうち、優一郎はその不自然さに気づく。
その頃にはさすがに美鳥も、優一郎へ肌を曝しているのが恥ずかしくなったか、
肩から滑り落ちていたブラウスを戻してボタンを掛ける。
「なあ、美鳥」
 優一郎は落ち着いた声で言った。美鳥の身体に残された傷を見て、それに気づ
くことでいつの間にか性的な興奮は収まっていた。しかし、それまでとは別の不
安が優一郎の中に生まれた。その不安が優一郎を冷静にさせたのだ。
「なにがあったんだよ?」
「なにが………って?」
 質問に質問で返す美鳥。だがその目に疑問の色は見られない。優一郎の問い掛
けの意味を充分理解した上で、聞き返しているのだ。
「お前のそのケガ、火傷だけじゃないだろう」
 グラスの中で氷が溶け、澄んだ音と立てて角度を変える。氷に内包されていた
空気が解放され、アイスコーヒーの中で泡となる。
「テレビのニュースで、美鳥が病院に運ばれたって聞いた。美鳥たちの家の焼け
跡にも行って見たけど、酷い有様だった………もちろん、お前の運ばれたって言
う病院も調べて行ったんだぜ。もう、退院した後だったけどさ」
「ごめん、なんかさ………病院って居心地が悪くて」
 ぎこちない笑みを浮かべて美鳥は言う。その表情だけで真実を語ってはいない
と容易に知れてしまう。
「とにかく、あの焼け跡を見れば、火事がどれくらい凄かったは俺にも想像出来
る。そりゃあ夢中になって火事の中を走って、どこかにぶつかったり、何か崩れ
落ちてきたものがあたったりするかも知れない。けど、普通火事になった家から
助け出され、病院に運ばれたって聞いたら、大火傷を負ったものだと思うだろ」
「……………」
「だけど美鳥のそのケガ、火傷の痕だけじゃない。そうだな………なんだか獣と
でも格闘したみたいな………」
 そこまで言って優一郎は言葉を止める。美鳥も無言のまま、優一郎を見つめ続
けていた。
 次の言葉が出てこない。その先を言ってしまえば、忘れようと努めていたもの
が甦ってしまう。優一郎にとって、この先を語ることは天魔外道の封印を解く、
呪詛の言葉にも等しく思われたのだ。
 あるいは美鳥もそんな優一郎の心を察していたのか。それとも彼女自身、思い
出すことの躊躇われる記憶であったのか。後者なのかも知れない、と優一郎は考
えた。優一郎の想像通りであれば、美鳥の姉、麗花の最期も火事による焼死より
残酷なものであっただろうから。それを美鳥自身が目の当たりにしていた可能性
も高い。美鳥はただひたすらに、押し黙り、優一郎を待っていた。
 しかし、呪文となる言葉を躊躇ったところで、すでに封印は解けつつあった。
 夏休みのあの夜、麗花たちの家に突如として現れた田邊。それを序幕とした、
奇異な体験の数々。人に語ったなら、その荒唐無稽さにあまりにも下手な作り話
と笑われるであろう出来事。故に体験した優一郎自らもが、夢であったのだと考
え始めていた。
 だが優一郎は知っていた。
 封印が解かれるまでもなく。
 境界線のないことを。
 この夏、麗花たちの存在を知り、従姉妹の家を訪ねたのは否定しようのない事
実である。そこから今日に至るまで、あの出来事だけが夢であると思いこむため
には、夢と事実との境界線を自分の中で、はっきりと分けられないのだ。
  それでも優一郎はまだ躊躇っていた。
「覚悟を決めて欲しいの」
 そんな心を見透かされていたのだろうか。優一郎を見つめる凛とした二つの瞳
が言った。
「私の話を訊いたら、もう優一郎も戦いは避けられなくなるわ」
 訊きたくはない。
 それが優一郎の本心だった。
 両親を亡くしてはいたが、自分を特別な存在と考えたことなどない。どこにで
もいる、ごく普通の高校三年生。それが優一郎の、自らをしての意識であった。
 しかし首を横に振ることは出来ない。
 出来なかった。  優一郎は自分を見つめる瞳が、己を試しているのだと知った。
 既に優一郎も戦いに巻き込まれ、そこから逃れられない状況にいるのだ。田邊
と一件がその証である。
 麗花たちと出会ってしまったから?
 いや、きっとそうではない。
 優一郎が持っていた、【日龍】と呼ばれる力。それが遅かれ早かれ、優一郎を戦
いへと誘ったであろう。ならば知りたい。知っておきたい。
 自分が力を持っている理由(わけ)を。
 なぜ戦わなければならないのかを。
 まだ本当に決心がついた訳ではない。
 だが優一郎は力強く頷いてしまう己を感じていた。


 とかく都会での生活は、否定されてしまうことの方が多い。
 人の多さ、忙しなさ、直線と鋭角で構成される無機的な視界。人は自然の中で生
きることこそが正しい姿である。洋の東西を問わず、そう謳った文学作品は数多い。
 しかしいまの真月には、その慌ただしい都会での生活が救いとなっていた。
 想い出の詰まった家ばかりか、彼女にとっては母親にも等しい姉、麗花までを
も火事で失ってしまった。まだ十歳という年齢にも達しない少女が心に負った傷
の深さは、周囲の大人たちの想像を遥かに超えていた。
 あるいはまだ、以前の街に暮らしていたのなら、真月はその悲しみのあまりに
己の殻へと閉じ篭もったままでいたかも知れない。
「じゃあ、私、こっちだから」
「真月ちゃん、ばあい」
 真月の小さな手に応え、いくつかの小さな手が振り返される。
 新しい学校での、新しい友だち。
 真月は転校して間もなく、新しい学校に馴染むことが出来た。
 これは転校先のクラスメイトに恵まれていた、と言っていいだろう。
 真月自身、社交的な性格であった。ただし、九歳の幼い少女にあの事件の直後
もまた、本来の性格を維持し続けることを望むのはあまりにも酷である。詳しい
事情を知られていなかったことも幸いしたが、どこか沈み込んでいる転校生を気
遣って接して来た数人とすぐに友だちになることが出来た。
 あるいは慕っていた優一郎と同じ街、同じマンションに越して来たことが真月
によい影響をもたらしていたのかも知れない。女ばかり、四人姉妹の末っ子とし
て生まれ、古いしきたりに縛られた家に育った真月。幼いながら、父、祖父以外
の異性と遊ぶ機会も多くはなかった。その父や祖父、母までを失い、心の傷が癒
える間もなく姉麗花をも失ってしまった。そんな真月にとって優一郎は兄であり、
父であり、大きな心のよりどころとなっていた。ただ、優一郎の存在も小さな胸
に深く刻まれた姉の死、という傷の痛みを完全に消し去るには至らない。
 都会の秋は夕暮れ時が寂しい。
 世界のすべてを朱一色に染め上げる夕焼けがないからだろうか。
 朱色の空と青黒く浮かび上がる山とのコントラストが見られないせいかも知れ
ない。朱の空がやがて黒へと変わり、青黒き山と一体化してゆく様は、それを見
る者に来たる夜に向けて心の準備をさせるのだろう。
 友だちと別れ一人になった真月を包み込むのは、終わり行く一日を優しく懐古
させる朱色の世界ではない。街灯や街明かりが昼夜の境を曖昧にさせながらも、
確実に寂しさと不安を与える闇の世界であった。どれほどの灯火が満ちていよう
と、いや満ちているからこそ、その中で一人きりとなった幼い少女は心細さを強
く感じていた。
 一刻も早く、姉たちのいる部屋に帰りたい。
 一秒でも早く、優一郎のいるマンションに戻りたい。
 そんな想いが真月を急きたてる。知らず知らずに少女は走り出していた。
 が、急ぐ想いに足が遅れをとる。
 ふいに身体が軽くなる感覚。一時的な無重量状態。
 突然それまで、横移動だった風景の流れが、縦移動へと変わる。
 続いて全身を襲う衝撃。
 真月はアスファルトの上に両手を着いて倒れていた。
 寂しさに痛みが追い討ちをかける。
 ふたつ、みつ、と乾いたアスファルト道に涙の雫が染みを作る。
 が、雫はそれに留まり、さらに数を刻むことはなかった。
「麗花………お姉ちゃん」
 小さな唇が微かに発した音声。すでにこの世にはない、姉の名前。
 アスファルトの歩道に手を着いたまま、少女の関心は痛みからすぐ脇の車道へ
と移されていた。
 いましがた横を通り過ぎていった一台の白い車。赤く擦りむけた膝も気にせず、
立ち上がる。
 痛さも寂しさも、それで転んでしまったことさえ忘れ、真月は再び走り出す。
白い車が去って行った向こうへと。
 少女、と呼ばれる年齢ではあっても九つともなれば、それなりの分別(ふんべ
つ)はある。理性はそれが目の錯覚なのだと知らせていた。しかし真月の心は納
得しない。心が否定をする理性をおして真月の身体を突き動かしていた。
「れい………か、おねぇ…ちゃん」
 繰り返す、死した姉の名前。
 いや、このとき、真月の心は姉の死を忘れていた。想いが理性の記憶する事実
を打ち消していた。




#38/598 ●長編    *** コメント #37 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:16  (181)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (09/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:08 修正 第2版
 真月が走り、追い求めるもの。それは麗花の姿であった。
 一瞬、ほんの一瞬である。
 倒れ込んだ真月の横を通り過ぎて行く白い車。その車窓に麗花の姿を見たのは。
 わずかに二つを数える間もなかったであろう。それだけの時間であれば、見間
違えであった可能性が高い。いや、理性の記憶する事実がある限り、それは見間
違えであると断言すべきである。
 真月は知らぬことであったが、朧と異形の闘いの果て、麗花はその命を断たれ
ているのだ。その麗花の姿を、走り去る車に見るなどとは決してありえない。た
だ一つの可能性を除いては。
 車の速度は人の走る速度を上回る。まして休みなく走り続ける車であったなら、
幼い子どもが追いつける道理はない。が、幸いなことに、いや、ただ一つ残され
ていた可能性、麗花の面影を持つ者の危険性を考えれば不幸なことに、真月は車
に追いつく。
 百メートル、あるいは二百メートルほど走っただろうか。その姿も消え、もう
追いつけないと諦めかけていたとき。探し求めていた車が、再び真月の目に止ま
る。
 真月には車好きな男子生徒のように、車種を特定することは出来ない。が、つ
い先刻の一瞬に見た車と同型であると確信する。迷うことなく、真月は車へと近
づいた。
 小さなコンビニエンスストアの駐車場。運転席にドライバーの姿はない。その
懐かしい姿を求め、大きなガラスの向こうの店内へと目を遣る。
 ガラスに接した雑誌のコーナー、レジに求める姿はない。表からは死角となる
商品棚の奥にいるのだろうか。真月は店の入り口へと踏み出しかけた足を止める。
 旧家朧月家の娘として、真月は物心つく前より厳しく躾られていた。そのため
他の子どもたちのように、学校帰り、気楽にコンビニエンスストアへと立ち寄る
ことには強い抵抗感があったのだ。
 わずかな逡巡ののち。無意識に伸ばした手が小さな成果を得る。
 静かに真月のほうへと近づくドア。ロックされていなかった車のドアが開いた
のだった。
 もちろん普段であればカギが掛かっていなかったとは言っても人様の車へ、勝
手に乗り込む真月ではない。しかし一つにはそれが大好きな姉のものと確信して
しまったことと、匂い………記憶の中のものと一致してしまった麗花の残り香が、
真月に不躾な行為をとらせてしまった。
 後部座席へと乗り込む真月。
 生まれて間もない幼子は、全ての感覚において成人に劣る。しかしただ一つ嗅
覚のみは成人を凌駕すると言う。
 目も開かず、自力では寝返りさえ打てぬ幼子は自分の守護者たる母を匂いで認
識し、安堵するのだ。
 誕生より既に九年を経ている真月。わずか九年しか経ていない真月。まだそん
な幼子の
感覚を残していたとしても不思議ではない。
 二人の姉の前では気丈にも明るく振舞っていたが、田邊の一件や麗花の死によ
って真月の心は今日まで張り詰めていた。それを甘く、優しく、懐かしい香りが、
解きほぐす。
 微かに外よりも暖かな車内の空気がそれに追い討ちを掛け、真月を深い眠りの
世界へと誘った。
   人外の能力を持つ異形。
 その運動力、筋力は地上に生息する如何なる生命体も太刀打ちすることは敵わ
ない。
 サバンナの王者も、密林の暗殺者も、氷上の死神も、海中の殺戮機械も。異形
なる者から見れば稚児と呼ぶにも価しない、他愛もない存在であった。
 当然、生命力においても然り。
 極寒、灼熱も異形の身体を破壊するには至らない。真空も高水圧もその生命を
脅かすには足りない。そもそも正しい形態と言うものを持たぬ異形は、どんな劣
悪な環境にも驚くほどに短い時間で適応が可能なのだ。ただし、それは異形たる
形態をとっている時に限られる。多くの異形は強い生命力に反し、その知能は極
めて低い。だが異形の中でも特に完全体と呼ばれる者は人と同等、あるいは人以
上の知能を持ち合わせていた。
通常、完全体は人の姿をとり、人の社会に紛れる。人の姿を借りた完全体は、異
形としての欲望を隠し、人としての生活を営む。
完全体である麗菜がコンビニエンスストアに立ち寄ったのも、彼女が人としての
仮の生活と習慣を持っていたがためである。
 これ見よがしに店のロゴがプリントされたビニール袋を手に下げた麗菜は、己
が異形であることを忘れていた。初めは愛用の煙草を切らしていることに気づき、
たまたま目に留まったコンビニエンスストアへと立ち寄った。店に入った途端、
派手にレイアウトされた食品の宣伝ポスターが麗菜の空腹を誘う。
 単純に考えれば、見事経営者の策略にはまってしまったと言っていいだろう。
だが人の姿をした麗菜には、普通の若い女性たちと同様の食欲がある。加えて麗
菜と一体化した兄の分の食欲をも受け持っているのだ。
 予定外の食料品を購入したために、麗菜は予定外の時間を掛けてしまった。も
っとも先を急ぐ理由はないのだが。
「いくらなんでも、買い過ぎちゃったかな」
 手にしたビニール袋へ目を落とし、麗菜の表情が緩む。仮初めの人として顔。
異形と化し、兄雅人と一つの身体を共有するようになって、数えるほどにしか作
ったことのない表情であった。
 あるいはもし、あの忌まわしい事件さえ起きていなければ、ごく日常的に見せ
ていたであろう表情。兄は深い眠りに就いている。いまこの瞬間だけ、麗菜は普
通の女性であった。
 いくらも歩くことはない。コンビニエンスストアの前に設けられた狭い駐車場。
五台と停めることは出来ないだろう。しかしいま停められているのは白い麗菜の
車一台。他にはオフロードタイプのバイクが隅に停められているだけであった。
迷うはずもない。麗菜は真っ直ぐに己の車へと足を進めた。
 短時間のことと思い、ドアのキーは掛けていない。そうした考えが、車上荒し
や車泥棒の被害に遭いやすい油断ではあったが、それは普通の人間であればの話。
もしそのような事となれば、犯人はやがて予想もしていない恐ろしい死様を迎え
たであろう。
  助手席に買い物袋を置くと、麗菜は舞うような仕草で車へと乗り込み、発進さ
せた。

 コンビニエンスストアの駐車場を出て、五分ほどが経過した。信号機に止めら
れることがなかったのも手伝う。夕暮れの街を、麗菜は上機嫌で車を走らせてい
た。が。
「レイナ!」
「ん………ううん………」
 兄の声に続き、麗菜の耳に飛び込んできたのは、聞こえる筈のない声。
 麗菜と麗菜の中に生きる兄、雅人、その双方いずれでもない声。
 この車内に存在する筈はなかった者の声であった。
 久しぶりに穏やかさを保っていた車内の空気が、途端に張り詰める。それは侵
入者に対し、麗菜が恐怖したために生じたものではない。
 侵入者に対する敵意。そして、その侵入を容易に許してしまうほど、油断しき
っていた己への怒りによるものであった。
 麗菜の発する怒りが、車内を満たす。それは目に見えぬものではあったが、並
の人間であれば、精神に異常をきたすに充分なほど、具体的な圧力を持っていた。
だが、侵入者がその様な状態となった様子はない。あるいはこの車内に潜んでい
るのは、思わぬ強敵、朧の者か?
 麗菜はそう判断をした。  ここまでは瞬時の出来事である。
 兄の声を聞くと同時に、麗菜はブレーキを踏んでいた。いくら異形の能力を持
った麗菜ではあっても、車を運転し、背を見せたままの闘いを有利とは言えない。
人目につくことは本意でないが、場合によっては致し方ない。幸い周囲に野次馬
となる人影はなかった。麗菜はここで異形の能力を使った闘いを行う覚悟でいた。
 極度に高まった緊張。
 それだけに振り返った先、後部座席に潜む侵入者の姿を見止め、麗菜を襲った
のは強い脱力感であった。
 車内の緊張した空気は、一陣の風が蚊柱を連れ去るが如く、瞬時にて消失する。
「なるほどね………殺気が感じられなかったのも、当然だわ」
 半ば自嘲的に、半ば微笑むように麗菜は呟く。麗菜と肉体、精神共に同調した
雅人から返事がないのは、彼もまた侵入者の正体に呆れていたからなのかも知れ
ない。
 そこには、すうすうと小さな寝息を立てた少女がいた。
 敵意も殺意も持たぬ子どもの存在に麗菜が気づかなかったのは無理もない。例
えるなら道端に咲く小さな花々のうち、特定の一つを気にする者がないのと同様
である。それらをいちいち気にしていてはきりがない。
 麗菜が放った敵意に反応することがなかったのも当然。穏やかに眠る少女は、
ただそれを受け流すだけであったのだ。
「この子は確か………」
 無垢な寝顔を見せる少女を、麗菜は知っていた。だが
麗菜が口にするより早く、兄がその名を呟いた。
「マヅキ………オボロヅキマヅキ」
 麗菜にとっては遠縁にあたる朧月家、その四姉妹の末娘。麗菜が憎んで止まな
い朧の血を引く少女。どういった理由なのかは分からない。しかし異形である麗
菜の倒すべき敵が、こうして無警戒にも寝姿を曝しているのだ。
 もとより朧の力に目覚めていない、九歳の少女である。しっかり身構えていよ
うと、その命を奪うのに異形の力を使うまでもない。けれど今なら確実に、悲鳴
の一つ、いや息の一つも吐かせぬうちに死を与えられる。
 しかし麗菜の手は、すぐにそのための動きをすることがなかった。
 しばらくの逡巡。
 異形であっても、麗菜は人を殺すことに快楽を得てはいない。そんな彼女にし
てみれば能力を振るい向かって来るものならいざ知らず、無抵抗な子どもを殺す
ことには躊躇いがあったのだ。
 しかし先日、実の姉麗花との闘いにおいて、朧月の次女美鳥を見逃したばかり
である。上下にも横にも、仲間の繋がりが希薄な異形ではあったが、それでも麗
菜の立場上は好ましいことでない。麗菜にとって己の立場を案ずることは、即、
兄の立場を案ずることにも繋がる。
「オレノコトハ………キニ……ス………ルナ」
 切れ切れな兄の声。
 長時間、起きていることの出来ない雅人は、侵入者が危険のない少女と知り、
また深い眠りへ就こうとしていたのだ。
 麗菜は身体を後ろに向けたまま、運転席のリクライニングを倒す。ぐっ、と少
女の顔、細く柔らかそうなうなじが眼前に迫った。
 その首へと麗菜の手が伸びかけ、戻る。
 幼い。
 敵の一族。朧の末裔として、麗菜は少女のことをよく知っていた。だが、これ
ほどまでに間近で対面するのは初めてである。
 九歳、その年齢もよく知っていた。しかし改めてその姿を目の前にすると、あ
まりにも幼い。
「オレガ、カワ……ロウ」
 麗菜の迷いを察した兄の声。いや、察したと言うのは正しくない。一つの身体
を共有する麗菜と雅人は、その心も多くの部分で共有している。麗菜の心の迷い
は、雅人の迷いともなる。
「いいの。だいじょうぶよ」
 極力穏やかな声、穏やかな表情で麗菜は言う。見てもらうことの出来ない、笑
みをも浮かべて。
 赤子は、母親の感情を敏感に察知する。苛立った母親が、どれほど穏やかさを
取り繕っても、抱かれた赤子は怯え、泣く。
 心底から穏やかに接すれば、赤子は安らぎ、母親の胸で静かに眠る。
 同様に麗菜の穏やかな心は、雅人へと伝わる。麗菜の穏やかさが、母親の温も
りとなり雅人を深い眠りへと誘った。
 まだ迷いは消えない。だが、心を波立たせてはいけない。
 心穏やかに、そして速やかに、少女を永久の眠りへ就かせなければ。
 最短の距離で少女の首筋へと伸ばされた手が、目的を果たさぬうちに再び戻さ
れたのは、躊躇いのせいではなかった。
 吸い込まれそうなほど澄んだ、大きな瞳が麗菜を見つめる。
 少女が目覚めてしまったのだ。
『どうする?』
 円らな瞳を見つめ返したまま、麗菜は考える。
 騒がれては面倒だ。
 少女はきょとんとした表情でこちらを見ている。自分の置かれた状況に気づき、
泣き出すより先に殺してしまわなければ。それは、麗菜にとってさほど難しいこ
とではない。
 けれど麗菜はそうしなかった。出来なかった。
 先に動いたのは少女のほうだったのだ。




#39/598 ●長編    *** コメント #38 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:16  (169)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (10/17)  悠歩
★内容

「麗花お姉ちゃん!」
 どのような不意打ちにも後れをとる麗菜ではなかったが、欠片すら邪気を持た
ない少女の動きに、全く反応出来なかった。
 朧の四姉妹、いや三姉妹の中で真に恐るべきは、この子なのかも知れない。
 少女の温もりと体重とを己の首に感じながら、麗菜は半ば冗談に、半ば本気に
考えていた。
『なるほどね………』
 麗菜は合点し、一人呟く。
 少女は麗菜を姉の麗花と勘違いしているのだ。
 たぶん、少女は知らないのであろう。
 麗花と少女が血の繋がった姉妹ではないことを。
 麗菜の存在を。
 麗菜は改めて思う。
 実の姉妹と思い込み、長く時間を共にしていた少女が思い違えるほどに似た、
麗菜の姉を自らの手で死なせてしまったことを。
 後悔はしない。していない。
 しかし納得も出来ない、複雑な感情が麗菜の胸中に染みてくる。
「お姉ちゃん………おね、ちゃん………おね、ち……」
 少女の声に、麗菜は己の想いの世界より帰る。
 気づくと、熱い少女の温もりに包まれていた首筋から胸の辺りが冷たくなって
いた。それが少女の流した涙のためであると、すぐに知れる。
「いきて………生きて、た……だね。おねちゃ、いきてた………」
 幼子は頑なである。
 自分の思い込みの不自然さに、気がつくことが簡単に出来ない。たとえ出来て
も、思い込みを修正しようとはしない。
 己の命を断とうとしている麗菜を、とうに命を断たれた麗花だと信じ込み、た
だただ縋って泣きじゃくる。
「泣かないで、泣かないでね、真月」
「おね……おねちゃ……うあああん」
 優しく声を掛けてやると、さらに少女は火がついたように泣いた。
 しかしそれもあと数秒間のこと。
  麗菜の手が、少女の髪をそっと撫で上げる。
 そして少女に永遠の静かさを与えるべく、麗菜の手は頭から首筋へと下ろされ
て行った。



 いずこからか湧き出た雲が、放って置いてもすぐに訪れたはずである夜の時間
を早めた。
 しかし雲が運んで来た夜は、静けさに包まれた闇ではない。バケツの底を連打
するような騒音、激しい雨を連れて来た。
 雨は自らの騒音にくわえ、更なるサウンドを刻む。
 目も眩むばかりの閃光を伴う爆音。
 ――稲妻――
 この季節、稲穂が実る頃に多く見られることから命名されたと言う由来に相応
しく、闇を左右に分かつ光の軌跡が天に出現した。
 暗中に雨のパーカッション。  突如響き渡る、閃光のドラム。
 狂想的な楽曲は、聴く者の心拍数を早める。
 苦痛を切迫感が上回った。
「間違いだ………なんかの間違いだよ………」
 それは呟きよりも呻きに近い。
 部屋に明かりを灯す間もなく訪れた闇の中で、大野佳美は身を震わせていた。
静寂の中においても充分衝撃的であろうことが、雷光によってさらに過剰演出さ
れる。
 佳美が手にしていたのは、人目を避け、店員の好奇に満ちた視線に耐えながら
買い求めたものだった。もっとも後者は羞恥のあまりに、佳美が感じた被害妄想
なのかも知れない。  妊娠検査薬。  その結果は陽性反応を示していた。
 若者の性に対する意識は、大きく変わったと言う。結婚するまで、純潔を守り
通す。セックスの相手は生涯配偶者である男性一人のみ。そうした考えはもう過
去の遺物となりつつある。
 しかしながら高校生である少女が身篭ってしまうことは、周囲にも、何より本
人にとって充分に衝撃的であった。
 まして佳美にとって、男性経験はまだ一人しかない。それも望まぬ相手に受け
た陵辱。妊娠検査薬が示す、佳美の胎内に在るという命は田邊克俊の血を継ぐ者
なのだ。
 子を宿したという事実に、何ら感動も感慨もない。あの忌まわしき体験が、さ
らに深くおぞましいものとして延長されただけである。
 佳美は強く頭を振る。
 何かの間違いだ。
 妊娠検査薬とて絶対ではないはず。事件後訪れない生理も、精神の障害が身体
にも影響を及ぼしているのだ。そう思おうとして。
 一瞬、雨の音が止まったような気がした。
 続いてストロボを焚いたかのような閃光が室内を包み込む。間を置かずして轟
音が響き渡る。近くに雷が落ちたのだろう。
 突如の轟音に、佳美の耳は機能を失う。再び佳美の耳が雨音を捉えたのは、そ
れから数秒を経てのことだった。
『くらぁい〜まっくうすう〜』
 全身が粟立つ。不快というより、おぞましいといったほうが正しい。
 閃光が遠のくなか、闇に在ってさらにどす黒い染みを滲ませる声が、佳美の耳
へ届いた。
 途端、胃の中の液体が咽元へ、さらには口腔へと逆流をする。
「………!!」
 吐き出した胃液と共に、音声を伴わない悲鳴がこぼれた。
 聞き違えるはずもない。
 佳美の耳の奥、脳裏へと深く刻まれた声。
 憎むべき、陵辱者の声。
 それは佳美の腹中より聞こえて来た。
『なにを驚いてるのさ、大野さん………っと、ごめん。他人行儀だったね、こん
な呼び方』
 背筋が凍りつく。
 それでなくとも陵辱の果ての妊娠という、過ぎるほどに充分衝撃的な出来事で
ある。しかもお腹の中の子が、あの田邊の声、田邊の口調で語りかけている。こ
のまま心臓が停止しても不思議ではないほど、佳美の動悸は激しくなっていた。
『お母さん』
 混乱と恐慌。
 佳美は冷汗が、言葉通りに冷たいものなのだと知る。
 如何なる手段を用いたかは分からない。だが、佳美が宿した生命は田邊の子で
はなく、田邊そのものだったのだ。
 激しくなった動悸は、膨大な量の血液を頭へと送り込む。必要量を超えた血流
に、脳の働きが着いて行けない。佳美はこのまま意識を保ちつづけることが困難
となっていた。
――寄生――
 消え入りそうな意識の中、そんな単語が佳美の頭に浮かぶ。
『それにしても、最近のお母さん、女ぽくなったよねぇ………仕草も、話し方も』
 特別な言葉を発しなくても、ただそれだけで淫猥な田邊の声。その声で『お母
さん』と呼ばれる度、辛うじて保たれている佳美の意識は死を求め、消えそうに
なる。
 しかし佳美の苦悩を無視し、田邊は話し続けた。
『やっぱり、男を経験したから、かな』
 微塵も無く希望が消えて行く。
 希望と共に佳美の意識も、周囲の闇よりさらに暗い闇へと消えて行った。



 残暑もそろそろ記憶の彼方へと去りつつある。そんな過ごし易い気候が数日続
いていた。それが今朝から、優一郎の気持ちを象徴するが如く、蒸し暑さがぶり
返す。こちらが一方的に顔見知りとなったつもりのニュースキャスターが、今日
は真夏並の暑さだと爽やかに不快な事実を告げてくれた。
 夕刻になり、突然降り始めた雨は一時、気温を下げてくれた。しかし数刻後、
雨によって増した湿度が不快指数を上げることとなる。
 『今夜は熱帯夜になりそうだ』
 首筋を掻き毟りながら優一郎は思う。
 涼を求め、開け放した窓より侵入した蚊に刺されたらしい。
 虫刺されの薬は、どこに置いただろう。
 Tシャツに短パン姿のまま大の字になった優一郎は、薬を求めて立つことも鬱
陶しく、首筋を掻きつづける。が、掻けば掻くほどに痒さは増して行く。さらに
は痛みも加わり、ついには音を上げ、渋々と立ち上がった。ところが薬は容易に
見つからない。はたして前回使用したのはいつのことだったか。季節はずれな蚊
の所業に苛々しながら、薬を探し求めた。
 ようやくテレビ横、ビデオテープの山に埋もれた軟膏タイプの薬を見つけ、患
部へ塗りつける。しばらくして痒みが収まると苛立ちも収まって来た。
気持ちが収まると苛立ちに変わって、蚊に刺される前、優一郎を包み込んでいた
陰鬱さが蘇る。
 先日、部屋を訪ねて来た美鳥から聞かされた話。
 朧と【日龍】、そして異形の話。
 あまりにも突飛な話。
 おそらくその話を優一郎以外の者が聞かされたのなら、十人が十人、真に受け
ることはないだろう。想像力豊かな、あるいは思い込みの激しい少女の作り話と
して聞き流していたに違いない。
 優一郎とて、二ヶ月も前であったならそうしていたはずだ。
 けれど今の優一郎にそれは出来ない。
 夏休みに訪れた朧月の家。そこで体験した出来事が、美鳥の話を作り事と笑う
ことを許さない。

「覚えてる? ………よね。前にも、こんなふうにして、優一郎に裸を見せたこ
と」
 後半は口篭もって、はっきりと聞き取れなかった。すっかりと服装を正し終え
たあとの、美鳥の台詞だった。
「えっ………あ、ああ、あの………」
 返す優一郎の言葉は続かない。あの晩のことより、つい先刻、美鳥が部屋を訪
ねて来るまでの興奮を思い出してしまい、恥ずかしくなった。
「あれはね、優一郎のことが好きだったから、じゃないの。優一郎の子が欲しか
ったの」
 それは優一郎をさらに恥ずかしくさせる言葉であったが、当の美鳥は何かを吹
っ切ったらしい。まだうっすらと頬に紅みを残しつつも、表情からは恥じらいが
消えていた。
 そんな美鳥を見て、優一郎も顔を引き締める。その様子から、美鳥が語ろうと
しているのは、決して言葉から瞬間的に想像してしまうことではない。もっと深
い理由があるのだと察したからである。
 美鳥、いや美鳥たち朧が欲したのは優一郎よりさらに強い【日龍】の血を引く
者。朧と【日龍】。二つの血の間に生まれた男子は、より強い【日龍】の力を持
つのだと言う。生まれてきた子を、異形の完全体と戦う戦士とする。それが麗花、
美鳥の姉妹の立てた計画だったのだ。
「そいつはまた、えらく悠長な計画だな」
 本来なら腹を立ててもおかしくない話であったが、ただただ呆れて優一郎は言
った。怪物と化した田邊との戦いを経験したことが、優一郎の心を少し、強くし
ていたのかも知れない。美鳥たち姉妹を、無茶とも思える行動に走らせるほどに、
その異形の存在は切羽詰ったものなのだ。




#40/598 ●長編    *** コメント #39 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:17  (163)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (11/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:10 修正 第2版

 なおも続けられた美鳥の話が、朧対異形と言う戦いの輪郭を何となくではあっ
たが優一郎にも見せた。
 戦いがいつ始まったのか分からない。そもそも両者がいつからこの世に存在し
ていたのか、それさえ定かではない。あらゆる歴史書はおろか、戦いの当事者で
ある朧月の家にさえ、それらを記したものが残されてはいないのだ。お互いに歴
史の表に立つ訳には行かない。人を狩る者も、それを倒す者も闇の中の方が都合
いい。と、これは美鳥の見解である。
 朧と異形についての情報は全て朧月家内だけで、口伝によって残されて来た。
これに実際異形と対して来た姉妹の話も加えられてはいたが、どこまで正確であ
るのか。客観的に聞けば、それはマンガかアニメ、あるいはゲームの話のように
思われる内容だ。実際に異形と対峙し、朧の力を体験した優一郎だからこそ、ど
うにか真面目に聞くことの出来た話であった。
 異形―――分かり易い言葉に置き換えれば、妖怪、怪物、モンスターと言って
いいだろう。ただし彼らに普通の武器は通用しない。刃物、で傷つけることはそ
う難しくはない。が、致命傷にもならない。もちろん銃器の類も同様である。そ
れこそ田邊の言葉ではないが、核の炎すら彼らには無力なのではないか。もちろ
ん試した訳ではなく、美鳥の話を百パーセント信じれば、ではあるが。
 その異形を唯一葬り去ることが可能な力こそが『朧』なのである。

 朧は物理的な力ではなく、その能力者の精神的、あるいは生命的な力らしい。
 最近、人の細胞の中に目で見えないほど微量ではあるが、僅かに光を発する組
織が発見されている。『気功』を使って治療を行う者は、他人よりその光量の多
いことが分かっている。美鳥は『朧』の力もそれに近いものではないかと推測し
ていた。ただし『朧』の力の強弱は生来の資質によってのみ決まる。気功とは異
なり、後の修練で身についたり強まったりすることはない。ある日突然強い力を
発揮する者も過去には在ったが、それは結果的にそう見えるだけのことで、決し
て本来の力が強まった訳ではない。
 この『朧』の力の特性こそが、朧月家の悲劇の原因であった。
 特に強い力でなくても、ある程度以上であれば異形を討つことはそう難しいこ
とではない。地球上の如何なる生物をも凌駕する力を持つ異形ではあるが、『朧』
の前では驚くほどに脆い。女の細腕であっても、麗花のように離れた場所から放
つことの可能な『朧』であれば、充分に太刀打ちが可能なのだ。しかしながら、
『朧』の力を持つのは朧月家の血を引く女性に限られる。
 永く続いた異形との戦いの中、朧月家の人々にとってその血を、強い『朧』の
力を保ち続けるのが、何よりも重要なこととなっていた。そのために、他家の血
が混じるのは好ましくない。従って同じ血を引く近い一族内で婚姻を結ぶことが、
多くなった。しかし血が濃くなるにつれ、一族は生命力を弱め、衰退の道を進む
ようになった。一族が減れば、血を保つためより近い者同士の婚姻を選ばざるを
得ない。それは更なる衰退を進める。この悪循環の果て、ついにはもっとも近い
血縁での関係が結ばれるようになった。
 すなわち、親子、兄妹で交わり、子を成す。

 破瓜によって覚醒を迎えるという『朧』の特性が、その行為に拍車を掛けた。
「破瓜って………!」
「んー、いまふうに言えば、ロストバージンってやつかな」
 絶句する優一郎に、美鳥は寂しげな笑みで答えた。
 語らずともその先は想像出来る。会ったことはないが、優一郎の知る限り美鳥
の近親者の男性はその父親と祖父だけである。そのいずれかと麗花と美鳥は、い
や力を発揮できる条件が破瓜であるなら音風までが交わった。しかもおそらくは
強制的に。
 優一郎の想像を察してか、あるいは気がつかずにか。
 美鳥は己の掌を、じっと見つめた。そこに淡い光の玉を浮かべて。異形と化し
た田邊との戦いの中で見せた、彼女の『朧』の力であった。
「私にもっと強い力があれば、お姉や音風たちは、こんな辛い目に遇わなかった
かも知れない」
 そして美鳥以外の三人。麗花、音風、真月は『朧』の血を保つためだけに、分
家から貰われた養女であることを優一郎に告げた。

 その内容もまったく頭に入らないまま、つけっ放しのテレビの音声をBGMに
横になった優一郎は天井を見つめていた。
「もう一つの【日龍】か」  呟き、掌を見つめる。
 『朧』のイメージはその字が示す通り、月である。月の光こそがその力の根源
なのだと、美鳥は言う。朧の能力者とは、月の光を具体的な力に変える媒体に過
ぎない。実際、月の状態、その満ち欠けによって発揮される力に違いが生じるら
しい。
 それでも麗花ほどの能力者であれば、大抵の異形に対し、後れをとることはな
かった。だが限界はある。
 一部の異形、特に完全体と呼ばれる者たちに対しては朧の力が通じない場合が
ある。
 多くの異形は強い力と生命力を持ってはいたが、知能は極めて低い。が、完全
体は並の人間以上の知能を所有し、力や生命力も他の異形を遥かに凌駕する。
 完全体を倒すだけの能力を持つ物。それこそが『朧』の完全体とも言えるもう
一つの【日龍】なのだ。
 手を翳したまま、優一郎は静かに目を閉じる。そしておもむろに上体を起こし
掌へ意識を集中させた。ただ一つの言葉だけをイメージして。
 ――刀――
 過去二回、成功させた実績は自信となっている。虚空より現れいずる光の刀を
強く、確かなものとしてイメージした。
 が、どれほど意識しようと、どれほど待とうと刀が現れることはなかった。
 無は無。
 空に翳した手は何ら実体を掴みはしない。
 ふう、と力なく息を吐き、優一郎は再び上体を横にする。ついに見ることの出
来なかった刀に代わり、蛍光灯の光に照らされ埃が見えた。
 『朧』が月であればもう一つの『【日龍】』は日輪。圧倒的な太陽の力は、完
全体とも互角以上戦える。完全体を葬り去れるのは【日龍】のみ。
 朧の祖先はその姓に「朧」の文字を冠し、血と力を残すことに拘った。
 一方【日龍】の祖先は巷に溶け込む道を選んだ。そのため血は薄れ、朧月家の
ように純粋な使い手を保てなくなっていた。
 また姓を名乗ったがゆえに、朧月の一族は常に異形たちに標的とされた。しか
し朧月家にとり、それは異形との戦いに限って問題でなかった。
 如何なる理由からか、低級な異形に比べ高度な完全体は発生間隔が長いのだ。
美鳥の伝え聞いた範囲では前回、三百年前に現れたのが最後だったと言う。
 完全体ではない異形相手なら、朧だけで事足りる。が、十年ほど前から完全体
誕生の兆候が現れた。それで麗花や美鳥は異形たちと戦う一方で、【日龍】の力
を持つ者を探した。そして優一郎の存在を知ったのだ。
 おそらく優一郎の父が、【日龍】の血を引く者の末裔であったのだろう。そこ
に母の朧の血が混じり、優一郎の中で呼び起こされた。
 けれど完全ではない。永い時の中で、【日龍】の血は薄まっていた。母の血だ
けでは充分でなかったのだろう。
「まあ、こんな調子じゃあな………」
 田邊との戦いに勝利したものの、優一郎の力は必ずしも安定していない。この
先、さらに完全体たる異形が現れたとき、戦えないかも知れない。美鳥たちは考
えた。
 もう一度朧の血を混ぜればよいと。
 朧の血は【日龍】の呼び水となる。不安定ではあれ【日龍】の力を強く示す男
と、朧の娘が交わればより完全な【日龍】の使い手が生まれる。
 優一郎には、あまりにも短絡的過ぎると思える考えであった。必ずしも【日龍】
の使い手である男の子が生まれるとは限らない。生まれたとしても、その子が戦
える年齢に達するまで、十数年は掛かる。もっともそんな余裕がなくなってしま
ったからこそ、美鳥は優一郎に事実を明かし、協力を求めてきたのだ。つまり時
間的余裕がなくなり、作るはずだった【日龍】の男子の代用品として優一郎が選
ばれたのだろう。
 この考えは、優一郎をいささか不快にさせた。しかしそれを理由に異形との戦
いを拒むことも出来ない。もう優一郎も異形との戦いに深く関わってしまったの
だ。いまさら後に退こうとしても、敵がそれを許さないだろう。そして何より、
美鳥や、自分より幼い少女、音風と真月を戦いの中に置いて、逃げるほどの卑怯
さを優一郎は持っていない。
 もう一つ、優一郎には心に引っ掛かっていることがあった。 
 なぜ美鳥が、美鳥一人が優一郎に迫ってきたのだろうか。
音風や真月はその幼さから当然ではあるが、子を成すのを最大の目的としていた
のなら、美鳥よりもより女として身体が完成した麗花のほうが適任だったのでは
ないのだろうか。   いや、効率を考えれば麗花と美鳥の双方が優一郎との性
交を試みるのが当然ではないのか。
 優一郎の思考は、やや不謹慎な方向へとずれる。
 初めて朧月の家に泊まった晩に見た、美鳥の青い裸体。そして見ることさえ無
かった麗花の、白い裸身が脳裏に浮かぶ。
 それは真剣な美鳥を侮辱し、死者を冒涜する行為であるように思えた。だが、
そう理解しながらも優一郎は健康な男子としての性的空想を抑えられなかった。
 だから突然の電子音に、滑稽なほど驚き、狼狽してしまう。
 切れる直前までに巻かれたネジ仕掛けの玩具よろしく、コンマ一秒も掛けず、
寝床より立ち上がる。直立不動の姿勢で、音の正体が電話であると知った。
「は、はい、陽野です」
『あっ、優一郎』
「みど………り?」
 電話の相手がそれまで裸を想像していた相手だと分かり、優一郎の声はわずか
に裏返ってしまう。そのことで自分のいかがわしい想像が電話の向こうにまで伝
わってしまいそうで、優一郎の全身を緊張が包み込んだ。
 しかし緊張感はすぐに別の種類へと変わる。
『真月、そっちに行ってない?』
 短い言葉ではあったが、その調子から切迫したものが感じられたのだ。
「いや、来ていない」
 答えながら優一郎は時計に目を遣る。午後八時を少し回っていた。
「帰ってないのか?」
 小学三年生の子どもが、連絡もなく帰らないでいるのには不自然な時間である。
『うん』
「学校には?」
『電話してみたけど、誰も出ないの』
「友だちのところには?」
『それが………転校して来たばかりだから。真月の新しい友だちのこと、よく分
かんなくて』
 嫌な胸騒ぎがする。過日の一件が優一郎の頭に浮かんのだ。
  美鳥も優一郎と同じ不安を感じているに違いない。
 田邊はもう死んだ。しかし異形が滅びた訳ではない。むしろあの戦いで他の異
形、とりわけ知能の高い完全体に朧月家の動きが知られた可能性は高い。
 まてよ。と、優一郎は思う。結局美鳥からは聞きそびれてしまったが、あの火
事はやはり異形の仕業ではないのか。そうでなければ朧の使い手である麗花の死
や、美鳥の痛々しい傷痕を納得出来ない。
 だが、いまはそれを詮索している時ではない。
「とにかく手分けして、心当たりを片っ端から探してみよう。俺もすぐ行くから、
下で会おう」
 そう言うと、優一郎は美鳥の答えも聞かず、電話を切る。そして椅子に掛けた
ジーパンを素早く穿き、シャツは手に掴んだまま袖を通す間も惜しみ部屋を出た。




#41/598 ●長編    *** コメント #40 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:18  (180)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (12/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:12 修正 第2版

 全速力で階段を駆け降りた優一郎だったが、美鳥たちの方がロビー到着は早か
った。エレベータが上で停まっていたため、階段を使ったのは美鳥たちも同様の
はず。それなのに階下とはいえシャツのボタンも掛け切らない優一郎に対し、美
鳥は茶褐色の袖なしジャケットを、ファッション雑誌のモデルのごとく、きちっ
と着込んでいた。さらには息一つ切らしてはいない。驚くべき体力の持ち主であ
る。
 しかし動揺の大きさは、激しく息を切らして到着した優一郎を出迎える表情か
ら充分に伺える。
「優一郎!」
「おう」
 二、三歩と駆け寄る美鳥に短く応じた優一郎の視線は、別の人物へと移ってい
た。そこにはクリスマスを思わせる、目にも鮮やかな赤いコートを纏った少女が
いた。白い襟がさらに時期外れの聖夜を連想させる。秋口とは言ってもまだ熱帯
夜の最中には、少々暑苦しい格好に思える。
「音風ちゃんは残ったほうがいい。誰か部屋にいて、連絡係をしないと………」
「私、行きます」
 睨みつけるような瞳が優一郎を捉える。あまりの迫力に、優一郎は半歩後ずさ
りしてしまった。
「けど………」
 歳下の少女音風に気圧された優一郎は、助けを求め、美鳥を振り返る。
 しかし。
「真月を探すのなら、音風もいたほうがいいから」
「えっ? あ、ああ」
 音風の同行を認めた返事に、優一郎は一瞬戸惑う。それからふと、あの夜を思
い出した。
 真月が田邊によって連れ去られた夜、半狂乱になった音風に美鳥は尋ねた。
『真月の場所は、分かる?』 と。
 一卵性の双子は不思議な力で結ばれており、遠く離れていても互いの存在を感
じあう。そんな話を聞いたことがある。もちろん、歳の異なる音風と真月が双子
であろうはずはない。が、朧という特別な力を持つ一族の血で結びついた姉妹で
ある。充分にあり得るかも知れない。
 いや、正確には義理の姉妹というべきか。美鳥以外の三人は分家から養子縁組
されて来たのだから。もしかすると、音風と真月は本当の姉妹なのではないだろ
うか。だがいまはそれを確認している時ではない。
 田邊の一件の際、結局音風は真月の居場所を探し出せなかった。優一郎の考え
が正しいとしたなら、それは異形化した田邊の力の影響だとも考えられる。だと
すれば、今度もまた真月は異形の手に囚われてしまったのかも知れない。
 いま優一郎の目に映る美鳥の顔色は酷く悪い。
 美鳥も優一郎と同じことを考えているのか。いや、優一郎より朧に詳しい、朧
の中に在って生きてきた美鳥ならば強くそのことを感じているに違いない。
「感じる………」
 呟くように、それでいて叫ぶような声に優一郎の、詮索の時間的余裕もない思
考は中断させられた。
「音風?」
 声にいち早く反応したのは美鳥だった。一拍遅れて振り返ろうとした優一郎の
肩に軽くぶつかり、妹の元へ駆け寄る。
「音風!」
 しかし音風は姉の到着をも待たず、駆け出していた。
 優一郎の視界を真紅のコートが一瞬翻り、すぐに消えた。続けて美鳥の束ねた
髪が風になびき、過ぎ去っていく。
「あっ、おい」
慌てて優一郎も二人の後を追った。
 
 これも朧の力なのだろうか。
 体力には自信のあるほうだ。持久走も苦手ではない。運動部に籍を置くクラス
メイトと走っても引けをとりはしない。
 だがその自信も大きく揺らいでいた。
 優一郎は先を行く二人の少女に、遅れないよう走ることに汲々としていた。
「あいつ、美術部だなんて………うそだろ」
 目の前で不規則に揺れるポニーテールの髪を見つめながら、切れ切れに呟く。
 しかし見るからに体育会系の美鳥はともかく、華奢で病気がちだという音風ま
でもが優一郎の限界以上の走力を持続させていることには、驚愕させられるばか
りだった。
 全速力にも近いペースで、既に十分は走っただろうか。これはオリンピックの
マラソンでも、オーバーペースではないだろうか。
 あるいは優一郎の想像以上に、妹への思いが強いのかも知れない。兄弟もなく、
両親も失ってただ一人で暮らしていた優一郎には計り知れない。
 ただ前を走る二人には遠く及ばないとしても、優一郎とて真月を心配する気持
ちに嘘はない。自分を慕い、懐いてくる歳下の従兄妹を可愛いと思う。真月が無
事であることを、強く願っている。
 しかし美鳥からの電話を受けたときに比べ、優一郎の不安感は少し薄れていた。
音風が真月の存在を感じ取ったということを、良い意味に捉えていたからだ。
 田邊と同格、あるいはそれ以上の異形が真月の側にいる訳ではない。だからこ
そ、音風は真月を感じとれたのだろう。事件・事故に巻き込まれた可能性はある。
が、少なくとも命を無くしてしまっているということはない。根拠は薄いが、そ
う思えた。万一誘拐犯の手に落ちていたとしても、美鳥や音風、そして【日龍】
の力を持つ自分が普通の人間に対し、遅れをとることはない。そう考えていた。
 しかし優一郎はすぐに知る。
 その考えが、あまりにも楽観的過ぎていたことを。



 長年の間風雨に曝され、朽ち果て意味をなさなくなった塀を越えると海に出た。
元々は、周辺の工業団地のために整備された港だった。しかし近年の不況で利用
される機会は減り、昼間でも労働者より釣り人のほうが多いと噂されている。ま
して夜間ともなれば、人の姿どころか、灯りのある場所を見つけるのにも苦労し
た。
 その中、貴重な街灯の下に車が停まっていた。ボディカラーの白が、周囲の闇
とのコントラストで浮き上がって見える。
「こ………ここに………」
 真月ちゃんがいるのか。
 二人からは二十秒近く遅れただろうか。美鳥たちの下に到着した優一郎は、息
も激しく、言葉を最後まで言い切ることが出来ない。
 数刻の沈黙。二人が何も答えないのは、自分の言葉が聞き取れなかったからだ
ろう。そう思い、優一郎は再び声を発しようとして気がついた。呼吸の荒さが次
第に整って来るのに反し、鼓動は激しいままだということに。痛みを感じるほど
である。額には冷たい汗が浮かんでいた。
 美鳥と音風も同様なのだ。先ほどまでの不安な表情が、酷く緊迫したものに変
わっている。
 圧迫感。
 具体的には形を示さない。抽象的な感覚、あるいは力を持った空気とでも言お
うか。そんな得体の知れないものに優一郎ら三人は気圧されていたのだ。
 あの車の中に真月がいる。だが一人ではない。誰かと一緒に。
 おそらく、いや確実に真月とともに在るのは異形の者。
「俺が行こう」
 恐怖心はあった。しかし如何に特別な力を持ってはいても、美鳥と音風は女性
である。古めかしい考えだと言われるかも知れないが、そんな男としてのプライ
ドが優一郎を動かした。
 二歩も進むと、美鳥と音風の姿が視界から消える。完全に優一郎が二人の前に
出たのだ。もともと実力的な根拠に欠けたプライドが動かした足である。二人の
姿を視界から失うことで、不安は増すかと思われた。が、意外にもこれから相対
そうかという敵への恐怖と不安は、わずかに和らいだような気がする。
  背中に感じる仄かな暖かさ。それが優一郎に勇気を与えていた。
 振り返らずとも分かる。
 背後の美鳥と音風が意識を集中させ、必要とあれば即座に朧の力を放とうと身
構えていることが。
 歩を進めながら、優一郎も意識の集中を試みる。異形と化した田邊に対峙した
ときのように。果たしてまた上手くいくのか? 根拠はなかったが、自信はあっ
た。
先刻の失敗した記憶は、脳裏から消えていた。
 それでも前方の車から発せられる圧迫感は、圧倒的な膨大さを持っている。た
だ、田邊の時のような狂気は、さほど感じられない。それもまた、優一郎に歩を
進めさせる勇気を与えていた。
「優一郎さん!」
 叱咤するような声が飛ぶ。音風の声である。
 絶妙のタイミングだった。もし、音風の声がコンマ一秒でも遅れていたなら、
優一郎はその物体の攻撃を避けきれなかったであろう。
 それは突然優一郎の前に出現した。いや、正しくは地中より、飛び出して来た
のだ。
長期に渡って放置されたままの港。使用されなくても、使用されないからこそ、
その傷みも激しい。荷を運ぶ大型車のために舗装された道路もその例外ではない。
風雨の仕業か、強い生命力を持った雑草の成せる業か、アスファルトの各所に出
来た亀裂。その一つに、物体は潜んでいた。
 音風の声によって歩みを止めた優一郎の視界を、足元から弾き出された物体が
二つに裂く。しかし優一郎が己の危機を具体的に悟ったのは、弾き出された勢い
のまま落下し、無様に転がる物体の姿を確認してからであった。
「うわっ、なに………これ」
 寸前までの緊張感を失ったような声は、美鳥のもの。それはおそらく優一郎よ
り遥かに奇異なものを見慣れたはずの美鳥さえ、驚愕を覚えさせる姿を冷たいア
スファルトの上に晒していた。
 物体、そう称したのは間違いかも知れない。
「ぐへ、ぐぞ、ごんぎぐそっ、ぐぞっ」 
 意味不明な言葉を、耳障りな音声で発し、無様に地面を転げまわるそれは、生
き物らしい。何かの機械仕掛けで動いている可能性もあるが、だとしたらその創
造者のセンスを疑う。いや、どれほど尋常ならざる想像力を以ってしても、これ
ほど不気味で無意味なものは創れない。
 提灯鮟鱇。(ちょうちんあんこう)
 具体的にその姿を表現するのなら、それがもっとも適している。
 顔。
 アスファルトの上から、優一郎へ憎々しげな視線を投げかける男の顔があった。
飛び出した勢いのまま、路面で擦ったのだろう。その右半分に擦り傷が見られる
が、それ以外、際立った特長はもたない、ごく普通の中年男性の顔だった。
 不気味だったのは、その男の顔が身体を持たないことであった。胃や心臓、そ
の他の内臓器官がどうなっているのか。顔だけで生命を当り前のように維持して
いる。
 しかしそけだけであったら、世のオカルト作家にとって、さほど難しい発想で
はない。映画や小説、漫画やアニメーションの中にいくらでも存在していよう。
 生きた生首をさらに恐ろしく、いや滑稽に見せているのは頭頂部から伸びた腕
であった。そのシルエットはまさしく提灯鮟鱇である。
 十メートル足らず先に停まった車から発せられる圧迫感に比べれば、無様に地
を転げまわる鮟鱇の醜悪さなど、取るに足らない。大海に浮かべた木の葉にさえ
満たないものである。だがその生物の恐ろしさを超え、馬鹿馬鹿しく思えてしま
うデザインセンスは無視出来ないものがあった。優一郎は暫し、車中の強大な敵
を忘れ、矮小な生物に見入ってしまった。それは美鳥たちも同様であっただろう。
「うけっ、おんだ………おんだがいどぅだないが」
 鮟鱇が黒板を爪で擦るよりもさらに不快な音声を上げる。声帯に不具合がある
のか、酷く不明瞭ですぐには言葉を理解出来ない。美鳥たちを指して「女」と言
ったのだと理解したのは、化け物が次の行動に起こしてからであった。
 一見しただけでは、俊敏さどころかただ前に進むことすら困難と思われる体型
の化け物である。それ故、優一郎は油断し、忘れていた。ほんの数刻前、優一郎
が辛うじて交わしたほどの跳躍を、その化け物が見せていたことを。
 のた打ち回っていた化け物の動きが止まる。と、突然そいつを提灯鮟鱇のよう
に見せていた頭頂部の腕がゆっくりと引き上げられた。
 そこから後の行動は一秒にも満たない。
 引き上げた腕を、一気に振り下ろす。そしてアスファルトを強く突いた。その
勢いのまま、鮟鱇の頭、すなわち全身が弾丸の如き勢いで宙へと飛ぶ。
 油断していた優一郎は、鮟鱇の動きに大きく後れを取った。化け物の姿を見失
ってから、後方の美鳥たちへの危機を察して、振り返る。
 が。




#42/598 ●長編    *** コメント #41 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:18  (186)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (13/17)  悠歩
★内容

「みど………り」
 無意識のうち、優一郎の左手に光の剣が出現する。しかし振り返った優一郎の
見たものは、あまりにもコミカルな光景だった。
 真っ直ぐに美鳥の元へと飛んでいく鮟鱇。大きく、勢いのある生きた弾丸は、
容易く美鳥の細い身体を打ち貫くかに思えた。嫌悪感に表情を引きつらせた美鳥
は、朧の力を顕現させる間さえなかったようだ。一振り、ただ腕を振るだけ、そ
れが咄嗟に出来た、頼りない抵抗だった。
ところが優一郎の予測に反し、美鳥の提灯鮟鱇に対する抵抗はこれで充分だった
らしい。
「ぶきっ」
 無様な悲鳴とともに提灯鮟鱇は地面へと叩きつけられ、大きくバウンドを二つ
した。それから先ほどと同じように変則的な転がり方をし、優一郎の足元で停止
する。一応は身構えた優一郎だったが、すぐに警戒は無用と知った。足元の提灯
鮟鱇は、それ以上動く気配を見せなかったのだ。失神したのか、あるいは死んで
しまったのかも知れない。仮に失神したふりを装っていたとしても、この鮟鱇は
たいした脅威と成り得ない。美鳥と音風の姉妹も同意見らしい。すでに提灯鮟鱇
の存在を無視し、彼女らの妹と共に在る敵へと視線を向けていた。優一郎もそれ
に倣う。
「とんだ邪魔が入ってしまったわね」
 車のほうから声がした。女の声だ。どこかで聞き覚えのある声だった。
 優一郎らと車との間は、まだ若干の距離を残していたが、声はそれを消滅させ
る。穏やかな声ではあったが、それはまるで徒手空拳のまま猛獣の鼻先に立って
しまったような錯覚を優一郎たちに与えた。
 刀を握る手に――実際には質量を持たない刀であったが――力が入る。剣の輝
きが大きく増した。
 寒い。と、優一郎は思った。
 いつの間にか全身がぐっしょりと濡れている。これまでに経験のない冷汗が、
止めどなくなく流れ出ていたのだ。
 音もなく車のドアが開く。そして優雅な身のこなしで女が姿を現した。
「あ………」
 息を飲む優一郎。うめくような美鳥の声も聞こえた。
 戸惑いと恐怖と混乱。いくつもの負の感情が渦を巻く。
 女の腕の中には少女の姿があった。真月である。
 胸で組まれた掌、閉じられた目蓋。身じろぎ一つしない。乏しい灯りの中、顔
色は悪く、死者そのものに見えた。
 激しい怒りのままに、すぐにでも女へと剣で斬り掛かりたい。そんな衝動が沸
き起こる。一方、別の感情が足を止めさせる。
 突然背後から強い風が吹いた。何かの力――朧の力――を包含した風。音風が
起こしたのだろう風が。
 強い風に優一郎は足を取られそうになるのを辛うじて耐えた。しかし不思議な
ことに、真月を抱く女は、髪一本、靡かさない。朧の風は、女のところまで届い
ていないのだろうか。いや、そうではない。日輪の【日龍】の使い手である優一

郎には、風の姿をとる音風の力を目で見て取ることが出来た。風と化した朧の力
は、真っ直ぐ女へと吹いている。
 だが、風は女を目前にして二つに割れる。それはあたかも聖書に記されたモー
ゼの十戒、海を二つに分けたと言う聖者の姿を思わせた。
 それほどまでに、女の力が音風の朧を上回っていたのだろうか。あるいは女の
容姿に音風が戸惑いを覚え、充分に力を発揮することが適わなかったのかも知れ
ない。
 先ほど感じた力は田邊と同じ種類の、それを遥かに凌駕した異形のものだった。
しかし優一郎にとって、車からは現れた女の姿を異形と結びつけることはとても
困難だった。 「おねぇ………」
 戸惑いも顕わに、美鳥が己の知る女の呼称を口にする。

 困惑しながらも攻撃を仕掛けた分、三人の中では音風が一番状況を把握してい
たのだろう。いや、その逆であったのか。優一郎、そしておそらくは美鳥も未だ
女を敵として認識すべきか判断に迷っていた。その腕に動かぬ真月の姿さえなけ
れば、その威圧感も忘れ両手を広げて駆け寄っていたことだろう。
「お姉………」
 再び美鳥が口にする。
  そう、女は彼女たちの姉、朧月の長女、麗花であった。
「お久しぶり、優一郎くん………だったわね」
 清楚ながら凛とした響きの声。どこか憂いを秘めた微笑み。
 それは優一郎の記憶に残る、麗花のものと完全に一致した。
 だが―――何処かが、何かが違う。
『もう一人の………私かも知れない』
 かつて麗花の口から出た言葉が優一郎の脳裏に蘇る。
 あれはいつ、何処で聞いた言葉だったか。
 血を吐き、コンクリートの床に蹲る麗花。そしてその前に仁王立つ女。その女
もまた麗花。
「あんたは、あの時の………」
 優一郎は思い出した。浚われた真月を追って辿り着いた、田邊のマンション。
その向かいに建つ廃ビルの屋上で見た光景を。麗花の前で引き付け起こしたよう
に両腕を広げ、長い髪を逆立たせたもう一人の麗花がいた。
 それが―――麗花と対峙していたもう一人の麗花が―――いま目の前にいる女
なのだ。
 女、もう一人の麗花が何者であるのか、優一郎は知らない。しかし麗花と対峙
していた者が味方であるはずもない。
 敵、すなわち異形の者であると思われる者の手に真月が在る。状況は最悪であ
った。
「そちらのお嬢さん方とは初めましてね。いえ、美鳥さんとは一度、お会いした
ことがあるんだけど、覚えているかしら?」
 わずかに動いた女の視線を、優一郎も追った。いつの間に移動したのだろうか。
美鳥と音風も優一郎の横に並んでいる。視線を再び、女へと戻す。
 相変わらず田邊など比較にならない威圧感を放ちつつも、女は優しい笑みを浮
かべた。あるいは麗花と瓜二つの容姿がそう見せているのかも知れないが、とて
も懐かしい気持ちになる。もし、その腕の中に真月の姿がなかったのなら、完全
に気を許してしまっていただろう。
「あなた、もしかして麗菜………さん?」
 警戒感を保った声で、美鳥が言った。実戦経験の違いだろうか、気を許すべき
状況でないことを優一郎より、よく理解している。
 麗菜。
 美鳥の呼び掛けたその名が、麗花と同じ容姿を持つ女の名前なのか。言葉を返
さず、ただ微笑みを以って応える女の姿が、それを肯定していた。
 麗菜―――名前まで麗花とよく似ている。
『そう言えば………』
 美鳥以外の三人は、分家よりもらわれて来た養女なのだ。と、数時間前に美鳥
から告白されていたことを思い出す。
『この人は、麗花さんの本当の姉妹じゃないのか?』
 そうであるとしたなら、麗花と同じ容姿を持つことも頷ける。あるいは一卵性
の双子なのかも知れない。
「麗菜さんのことは、お姉(ねえ)………麗花姉さんから聞いているわ。でも、
私は麗菜さんと会ったことはない」
 冷静を装ってはいたが、美鳥の声は恫喝的な怒気を含んでいた。さらに、「そ
れより」と付け加えた言葉に、優一郎は背筋の凍るような迫力を感じた。
「真月に………何をしたの」
 一段と声を低くした美鳥だったが、それがかえって感情の激しさを表す。が、
それでも麗菜は怯む様子を微塵も見せない。強大な威圧感と、穏やかな笑みとい
う、ミスマッチを維持し、ゆっくりこちらへ歩を進ませ始める。
「大丈夫よ、傷一つ、つけてなんかいない。眠っているだけ」
 一瞬、ほんの一瞬だった。
 気の弱い者であれば、それだけで死に至らしめるかと思われる、麗菜からの威
圧感が消えた。それに呼応するかのように、優一郎の意思とは無関係に手中の剣
も消滅してしまった。
 剣(つるぎ)が消滅するのを予見していたかのように、あるいはそのことすら
麗菜の意思によって引き起こされていたのかも知れない。それほどまでに澱みの
ない動きで真月の身体は、優一郎の手へと預けられていた。
 小さいながらも、ずしりとした確かな重みと温もりを感じる。それは間違いな
く命ある者の感触であった。よく見れば微かに胸を上下させている。呼吸をして
いるのだ。
 真月の無事を確認した優一郎の視線は、麗花と同じ容姿を持つ女を求めた。し
かしその目に映ったのは、女の後ろ姿だった。
 優一郎に真月を渡し、目的を果たしたというのだろうか。女は自分の車へと、
歩を向けていた。
 あれだけの威圧感を放っていた女。
 廃ビルで麗花と対峙していた女。
 女はほぼ間違いなく、朧の敵たる異形であろう。だが優一郎は消滅してしまっ
た剣を再び呼び起こしてまで、女を討つという考えを持つには至らない。

 探していた真月がいまは無事、優一郎の腕の中で眠っている。背を向け、戦い
の意思を示さない者を討つ理由はなかった。何より真月が手渡されたとき、ほん
の一瞬だけ見せた麗花と同じ容姿で麗花と同じように、いや、あるいはそれ以上
に優しげな笑みが優一郎の緊張と戦意とを完全に解いてしまったのだ。
 もはやこの女は脅威ではない。少なくともいまは。
「さあ、帰ろう」
 そう声を掛けて優一郎も美鳥たちと共に、この場を立ち去るつもりだった。だ
が、声を発する間は与えられない。振り向くと同時に、優一郎は確かに感じてい
た腕の中の重みを見失ってしまったためである。
 音風だ。
「真月! 真月! 真月! 真月! 真月!」
 狂ったように妹の名を連呼するその腕に、真月の小さな身体は奪われていた。
「もう、うるさいよぉ………音風お姉ちゃん」
 まるで朝寝坊を咎められたかのような少女の返事は、これまでの経緯を忘れさ
せてしまう。朝日の射し込む寝室でとまったく変わらない調子で真月が応えた。
こぶしを握りしめた手で、目を擦りながら。
「よかった………本当に………無事だったのね」
「えっ? なに………ちょっと、おと……かぜお姉ちゃん………苦しいよぉ」
 突然に起こされ、強く抱きしめられた真月は事情が分からない様子で目を白黒
させている。一方音風は苦しがる妹に、抱きしめる腕の力を緩めはしない。いや、
出来ないでいる。それまでの狼狽から開放されたことで、かえって自分をコント
ロール出来なくなっているのだろう。
 その様子は妹を気遣う姉と言うより、行方不明の幼子と数時間ぶりに対面を果
たした母の姿を思わせる。
 いずれにしろ、警戒すべき事態は終わった。少なくとも優一郎にはそう見えて
いた。 が、まだ緊張感を保ち続けている者がいたのだと、数秒の後に知ること
となる。
 音風と真月のやり取りを、優しい眼差しで見つめていた少女。彼女らの姉、美
鳥である。
 真月の声を聞き、美鳥は小さく安堵の息をついていた。その仕草を見ていた優
一郎にしてみれば、次に美鳥の執った行動は予測出来るものではなかった。
 突然美鳥の姿が消える。と、疾風を伴った何かが、優一郎の横を抜けて行く。
それが美鳥だったと理解したのは、背後から聞こえた声によってである。
「音風、サポートして!」
 声の方へと頭を振るった優一郎の横を、今度は輝く風が過ぎて行った。
 音風の能力だ。
 こちらに背を向けたままの麗菜。その手はもう、車のドアへと掛けられていた。
後ろから猛烈な勢いで近づく美鳥の身体は、音風の力を受け黄金色に輝いている。
「うおぉぉぉぉっ!!」
 鬼気迫るような雄叫び。
 ただ唖然と見守る優一郎の手に、【日龍】の剣が再び生まれた。しかし、それ
は優一郎自身の意思によるものではなかった。美鳥に呼応してなのか、あるいは
美鳥の気迫を異形として捉えてなのか。
 後に続き、美鳥と共に女を討つべきか否か決断がつかないまま、優一郎は奇妙
でおぞましい光景を目撃することとなった。
「思い出したよ!」
 獣が敵を威嚇する咆哮のようにも聞こえる美鳥の声。が、女は振り返ることを
しない。
 女とは別種の威圧感を放ちながら、美鳥は急接近を続ける。如何に女が大きな
力を秘めていようとも、背を向けたままではとても太刀打ち出来るとは思えない。
掌の中の枯葉を握り締めるがごとく、その力の前に粉砕されるしかない。
「アンタは、アンときの!!」
 全身を包んでいた輝きが右手の拳へと集中する。音風の支援をも受け、さらに
一点へと集約された力は先刻、女が見せていたものさえ凌駕していた。女と美鳥
の距離は5メートル。朧の能力を以ってすれば、無にも等しい。




#43/598 ●長編    *** コメント #42 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:19  (186)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (14/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:14 修正 第2版
 女が砕け散るという優一郎のイメージ。それが間もなく現実と一致する。
 そんな瞬間になってからである。
「麗花お姉を殺した、化け物だ!!!」
 衝撃的な美鳥の言葉だったが、優一郎は狼狽するゆとりが無かった。美鳥の言
葉より、女の見せた行為の方が遥かに驚きだったのだ。
 美鳥の拳が寸前までに迫る中、女はゆっくりとした動きで左腕を水平に上げた。
それは己が生命の危機に際し、優雅と言うよりは緩慢な動きと見える。強大な破
壊力を込めた拳を受けるにも、ましてや避けるにはあまりにも遅すぎた。
 しかし紙一重、まさしく紙一重と呼ぶに相応しい瞬間、100%に近い形で現
実化しつつあった優一郎のイメージは否定される。
 水平に上げられた腕を、美鳥の拳が打つ。
 なぜ明らかな殺意を顕わにした美鳥が、致命傷を与えるのには難しい腕を狙っ
たのか。答は極めて単純である。美鳥は女の命を奪うべく、身体の中心へと拳を
向けていた。それを直前で女が体をかわし避けたのである。
 言葉に表せば、至極簡単ではあるが、それは恐るべきスピードであった。朧の
力を限界までに発揮し、常人を大きく凌ぐ速度で襲撃を行った美鳥。女は更に上
を行く速さで美鳥の拳を交わした。それを肉眼で捉えることが出来たのも、優一
郎に特殊な能力が備わっていたためなのかも知れない。
 しかし驚愕すべきは拳を避けた女のスピードではない。
 如何に致命傷とはならずとも、美鳥が渾身の力を込めた拳をまともに受けたの
だ。女は腕を失って当然であった。
 が、女の腕は水平に上げられた状態のまま、微動だにしていない。しかもその
腕には力を入れた証である、筋肉の緊張は見られない。それだけでも驚愕するに
は充分であったが、続いて女の身体に起きた現象に比べればごくささやかなもの
であった。
 まさしく「剛」の文字そのままな美鳥に対し、「柔」の動作でそれ制する麗菜。
鍔迫り合いのような状態が5秒ほど続いた後。
 突如、余裕の見えていた麗菜の左腕が、明らかにそれと分かるように緊張を始
める。音が聞こえて来そうなほどの勢いで、腕全体に血管と筋が浮かび上がる。
 みし、みし、と骨が軋むような音がする。遂に女の腕も美鳥の力に屈し、折れ
るのだ。と優一郎は思った。だが違う。確かに女の腕は曲がった。力が加えられ
たのとは逆方向、つまりは美鳥へと向けられて。
 おぞましい光景であった。女の腕は肘関節と逆方向へ曲がりながらもなお、美
鳥の力を押さえていた。肘ばかりではない、五指までもが関節を逆へと曲げる。
つまりは左腕全ての関節が裏返ってしまったのだ。その腕のみが、もとの倍ほど
の大きさとなって。同時に周囲の空気が圧力を有す。先刻、女が放っていたもの
を更に上回って。
「離れろ! 美鳥」
 女の身に起きた異変がどのような意味を持つのか分からない。しかしこのまま
では美鳥が危険だと予感し、優一郎は走った。
 優一郎の予感を裏付けるかのように、それまで美鳥に力を送り続けていた音風
が膝を地に落とす。
 空気が震える。
 それは比喩などではない。
 手にした光輝く剣の切っ先が小刻みに震えるのを、優一郎は確かに見た。
「ふん」
 短い声が聞こえた。
 その場に居合わせる五人、優一郎、美鳥、音風、真月、そして麗菜とは全く別
の声が。女が発したように聞こえた。
 声と共に、女は手を振るう。
 裏返った関節に従い───すなわちは、背中側にと不自然な方向へ。
 風がろうそくの炎を掻き消すがごとく、優一郎の手中から剣が消える。軽く振
るっただけ女の手が巻き起こした風は、優一郎の【日龍】の力をも凌いでいたの
だろう。
 一瞬にして徒手空拳となった優一郎だったが、足はすぐに止まれない。その足
を止めさせたのは、突如巨大化した───正しくは急接近してきた美鳥の背中で
あった。考えるより先に、優一郎は美鳥を抱きかかえる。そして自らの意思に反
し、突進を後退へと変えざるを得なかった。つまりは美鳥を受け止めることによ
って、優一郎も飛ばされてしまったのだ。
 飛ばされながら優一郎は出来るという確信もないまま、と同時に逡巡もないま
まに、自分の背中にネットをイメージする。
 後にして思えば、失われた剣を出現させるよりも簡単であった。失敗していれ
ば五体を無事には済ませていなかったであろう勢いで地面に激突していたはず。
それをイメージよりもさらに柔らかい感覚が、二人を包む。優一郎と美鳥は、特
に大きな怪我もなく殺人的な勢いを停止させた。これには音風のサポートもあっ
たのだろう。
「美鳥お姉さん!」
 真月を抱えたまま駆け寄ろうとする三女を、優一郎は手で制止した。まだ油断
はならない。
 わずかに手首を動かしただけで、これほどの力を見せたのだ。もしも女が本気
で向かってきたのなら、この場に居る四人、いや能力の覚醒を果たしていない真
月を除く三人で応戦しても太刀打ち出来そうにない。
 女を見据えたまま、優一郎は再度失われた剣をイメージする。先刻より時間を
掛けて剣は出現したが、その輝きは数段低下していた。連続的に力を使うことに
不馴れなためか、あるいはそれが限界なのか。優一郎は己が力の底の浅さを悔し
く思う。
 相変わらず女は背を向けたままであった。逆方向に曲がった不自然な関節は元
へ戻っている。しかし車へと進めていた足は止められ、いつ攻撃に転じてもおか
しくない。
「私が………」
 低い声で囁いたのは美鳥である。
 自分が先に攻撃をする、という意思表示らしい。だが、それはたったいま、失
敗をしたばかりである。優一郎同様、美鳥の手に宿る朧の輝きもその光度を落と
していた。
 片腕をわずかに振るっただけ、しかも背を向けたままに優一郎たちを退けた女
である。もし攻撃の意思を持ってこちらを振り返ったのならば、その勝敗は火を
見るより明らかだった。
 が………
「おねえちゃん………」
 女の行動より先に優一郎たちの注意を引いたのは、その場の緊張感にそぐわな
い寝起きの声だった。
「音風、真月を連れて安全な所へ!」
 叱責するような厳しさで、美鳥が叫ぶ。長女を失い、今では姉妹の最年長者と
なった次女が幼い妹を守ろうとして上げた厳しい声。
 しかしそんな美鳥の思いに対し、返ってきたのは短い悲鳴にも似た音風の声で
あった。
 続いて、小さな影が優一郎と美鳥の間をすり抜けて行く。
真月だ。
 想像だにしていなかった行動に、少女を守ろうとしていた年長者三人が誰一人
それを止めることが出来なかった。
 女から発せられる圧力は衰えを見せない。弱き者であれば、直接手を下すまで
もなく、死をもたらすであろうと思われた圧力。が、それは間違いだったのかも
知れない。あるいは真月が特別だったのだろうか。
「おねえちゃん」
 再び真月が言った。少女の肉親である、美鳥でも音風でもなく別の女性、麗菜
へと向けて。
 あまりにも無防備に、親しみを込めた声だった。それは少女の保護者たる三人
ばかりではなく、敵であるはずの女からも戦意を削いだのだろうか。
 にわかに圧力が消失する。
 相変わらず女は、こちらへと背中を見せたままである。が、明らかに真月の呼
び掛けへの応えだと分かるよう、先刻優一郎たちを弾き飛ばすため振るった腕を、
少女へと振っていた。
 もう女が向かって来ることはないと優一郎は知る。少なくともいまは。



 冬は近い。
 ふと、そんなことを思う。数時間前には、厳しい残暑をその身で感じていたこ
とさえ忘れ、優一郎は漠然とした意識の中で考えていた。
 漠然───そう、優一郎の五感は全てを漠然と捉えていた。いや、実際には優
一郎の五感はフル稼働をしていた。常識を超えた、あまりにも膨大で非常識な各
情報の処理にあたった脳は現実逃避にも似た働きを示す。美鳥の話す言葉に傾け
られていた耳は、その片隅で捉えていた夏から秋のものへと変わっていた虫の音
をクローズアップさせる。
 目の前を上下する小さな背中。今夜の騒ぎの渦中に在った真月のものだ。優一
郎らに血も凍る思いをさせたあの女との接触も、真月には楽しいひと時であった
らしい。恐ろしい異形の力を持つ女も、幼い少女にはもうこの世に亡い長女──
真月にとって母にも等しい麗花の面影のみを見せたのだろう。
 その真月は、疲れて眠っていた。幸せそうな寝顔で。彼女に幸せを与えた女、
麗菜に代わりいまはわずかに年長の姉、音風の背に負われながら。本当なら、こ
の中で唯一の男性である優一郎か、あるいは姉妹の最年長者である美鳥が背負う
べきなのかも知れない。だが音風がそれを認めなかった。病弱な上、身長もさし
て真月に勝らない音風が強く、妹を背に負う役目を主張したのである。
 微笑ましい姿である、と優一郎は思った。知らず知らずのうちに、口元が緩む。
「聞いてる?」
 怪訝そうな問い掛けとともに、仔馬の尾のような髪が優一郎の視界を踊る。横
を歩いていた美鳥が、優一郎の顔を覗き込んだのだ。
「あ、ああ………」
 曖昧に返しながらも、優一郎は気が重くなるような現実へと意識を戻す。
「あの女………あの人が麗花さんの、本当の妹」
「たぶん、ね。私も今まで会ったこと、なかったから」
 この言葉は正しくない。
 異形化した田邊との戦いの後、優一郎が麗花とともにもう一人の麗花と遭遇し
ていたことを美鳥は知らない。しかし先ほどの遭遇の際、美鳥は確かに言ったの
だ。
『アンタは、アンときの!!』
『麗花お姉を殺した、化け物だ!!!』と。
「どうかしたの?」
 いつの間にか横から覗いていた顔が消え、代わりに優一郎の視界一面を埋め尽
くす大きな瞳。優一郎の前に回り込んだ美鳥の瞳だった。
「………なんでもない」
 上手く音にならない声を発し、目を逸らす。近づきすぎた美鳥の顔に照れたか
らではない。己の脳裏に浮かんだ、不吉な思考が読まれてしまうことを怖れてだ
った。
 優一郎の視界が拓ける。そこを占拠していた美鳥が、優一郎の横へと並んだか
らである。
 音風に負われた真月の小さな背中を見ながら、二人は再び歩を進める。
 暫しの沈黙。
 虫たちの声が救いだった。
 もし、聞こえてくるものが三人の足音だけであったのならば、この沈黙は凶器
となっていたであろう。
 わずか数日の間で、あまりにも多くのことがあり過ぎた。
 朧月の姉妹たちとの再会、美鳥から知らされた朧の秘密。真月を探していて再
会した麗花と瓜二つの女。しかし女は圧倒的な力を見せながら、それを優一郎た
ちに向けることなく真月を無事に返した。その女、師岡麗菜は麗花の実の妹なの
だと聞かされ、得心をする。
幼い時に別れることになってしまったが、それでも姉妹は姉妹。朧月家の麗花が
愛した妹、真月を麗菜も愛したのだろうと。
 けれど美鳥の言葉の矛盾に気づいた優一郎は、その裏にまだ隠されている真実
を一部垣間見た。
 麗花を殺したのは実の妹である、麗菜なのだと。
 考えたくはないが、朧月家の火事そのものも麗菜の仕業なのだろう。
 師岡の家に留まった麗菜と、一族、朧の血筋を守るため、朧月家の長女となっ
た麗花。血の繋がった姉妹でありながら、違う姓を名乗ることになってからの十
余年。二人の間に如何なる愛憎の心が生まれ育ったのか。優一郎には計り知れな
い。
 ふと気づけば、己の口元の綻んでいるのを優一郎は知る。
 目に映っているのは真月の背中。
  それを背負うのは真月に最も歳の近い姉、血を分けた実の姉、音風。
 そう、朧月家四姉妹の中に在って、音風と真月だけが血の繋がりを持った姉妹
だったのだ。
  たった今それを美鳥から聞かされたばかりであったからだろう。
麗花と麗菜のことを知ったばかりであるからだろう。
 14歳とはいえ、小学生と見間違えるほどに小柄な少女。加えて病弱な体を持
つ音風が疲れて眠る妹を背負う姿が、とてもいじらしく、そして嬉しく思えたの
だ。




#44/598 ●長編    *** コメント #43 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:20  (172)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (15/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:15 修正 第2版
 微笑んだ口元に反し、目から流れ出る熱いものを、優一郎は隣りを歩く美鳥に
見られないよう、拭った。
 涙を吸い込み濡れた袖口を隠すため、不自然に腕を背中で組んだ時だった。優
一郎の頭にある疑問が生じた。
 それは朧月家四姉妹、とりわけ音風と真月に関する矛盾である。
「なあ、みど………」
「音風!」
 少し逡巡の間ののち、その答えを求めようと掛けた言葉は、妹の名を呼ぶ美鳥
の声に打ち消されてしまった。そして優一郎の声などまるで耳に届かなかったか
のように、振り返った妹へと歩み寄る。
「悪いけど、そのまま真月を連れて、先に戻っててくれる?」
「あ、うん、いいよ」
 ちゃり、と美鳥の手から小さな金属音が生まれた。真月を背負った音風は、少
し持ちにくそうに金属音の元である、部屋の鍵を受け取った。
 優一郎は様々な思いを巡らせて、気づくのが遅れたがもうマンションの玄関ロ
ビーの灯りが見えていたのだ。
「優一郎………」
 音風と真月が光の中に消えて行くのを見届け、美鳥は振り返った。灯りを背に
していたため、優一郎からその表情は窺い知れない。
 質問しようとしていたことを察し、妹を先に帰したのだろう。優一郎の中に生
じた疑問は、あるいは音風たちにとって辛い内容を孕んでいるとも考える。そこ
まで気の回せなかった己を、優一郎は恥じた。
「隠れてないで、出てきたらどうだい」
 初め、優一郎にはその言葉が理解出来なかった。怒気を含んだ声に、自分の気
の利かなさを咎めているかとも思えた。が、戦闘時に見せる鋭い目は優一郎を捉
えて、のものではなかった。美鳥の視線は優一郎を越え、それよりも後方へと向
けられている。
 慌てて優一郎も、美鳥の見つめるものを追う。
 そこには一本の銀杏の樹があった。
 あるいはこのマンション、いやこの街が出来る以前からそこに根をおろしてい
たのではないだろうか。そう思えるほどに、大きな銀杏の樹であった。すぐ後ろ
に外灯を抱えていたが、豊富に茂らせた葉のため、こちら側にはほとんど灯りが
届かない。
 美鳥の誰何に応じ、太い幹から人影が現れる。顔は見えなかったが、女の影で
あるとすぐに分かった。
 麗菜。
 咄嗟にそんな名前が浮かぶ。
 先ほどの女が、後を追って来たのだろうか。緩んでいた緊張が俄かに高まって
いく。
 だがそれも瞬時のこと。こちらへと近づくことで、女の顔が次第に見えてきた。
見知った顔である。
「美鳥、だいじょうぶだ。彼女は敵じゃない」
 と、優一郎は隣りに並ぶ美鳥の肩を軽く叩き、制する。それから声を潜め、耳
打ちをした。
「おまえも会ったことがあるだろう。ほら、真月ちゃんをさらった田邊………異
形の部屋にいた………」
 ああ、と得心した表情を見せ美鳥は警戒の構えをやめた。あの一件の被害者が
敵であるはずはない、と判断してくれたのだろう。すぐにごく平常の、いや忌ま
わしい事件の被害者に対する気遣いさえ感じられるほど、穏やかな表情を見せる。
 影の主は大野佳美であった。
「陽野くん、こんな時間に………ごめんなさい」
 明瞭ではあったが、過ぎるほどに遠慮がちな声。かつて自らを「俺」と称して
いた男勝りな少女の面影はない。それがあの事件に起因すると知るだけに、優一
郎には痛々しく思えた。
「どうした、俺になんか用か?」
「ん………ちょっと。陽野くんのお部屋に行ったんだけど、留守だったから。こ
こで待ってたんだ」
「あ、悪い、優一郎。真月たちのことが心配だから、私、先に帰らせてもらうよ」
「ああ、分かっ………」
 気を利かせたつもりなのだろう。優一郎の返事も待たず、美鳥は束ねた髪をそ
の名前の由来になった仔馬の尾のように揺らしながら、溢れるばかりの光に満ち
た玄関ロビーへと消えていった。
「あの子、あの時、陽野くんと一緒にいた………」
 優一郎へと、と言うより独り呟くような佳美の声が聞こえた。はて、どこで見
られたのだろうか。校内では未だ美鳥とすれ違った記憶さえない。校外に於いて
さえ、肩を並べて歩いたことはそう多くない。
『あの時だ』
 考えを巡らせ、ようやく思い当たった答えは、優一郎に自分の愚かさを知らし
めるものでもあった。
 美鳥と一緒のところを見られたのは田邊のマンションだ。
 田邊の異形としての能力でマリオネットの如く操られ、優一郎の首を絞めたの
は一糸纏わぬ姿の大野佳美だったのだ。
糞尿と精液と腐肉の入り混じった悪臭。玩具以下の扱いを受けていた女たち。い
ま思い出してみても吐き気がする光景であった。が、同時にその異様さは優一郎
の男性を刺激するものでもあった。
『哀れだねぇ………その大野さんは、優一郎くんの事が好きだったんだよ』
 不意にあの時の田邊の言葉が、優一郎の脳裏に浮かぶ。もちろん目の前の佳美
が裸であるはずはないのだが、着衣の下の白い肌が実にリアルに見えるようだっ
た。
(なんて馬鹿な想像をしているんだ)
 強く頭を振る。
 あれは佳美にとって何より辛い記憶のはず。それを思い出し欲情することは、
直接言葉にしなくても、彼女を指差し噂する周囲の人間と何ら変わりない。
「心配しないで」 「えっ」
 心を見透かされてしまったのか。優一郎はひどく動揺をした。が、すぐにそう
ではないと知れる。
「あの子とのこと、誰にも言わないから」
 安堵のため、思わず笑みがこぼれた。どうやら佳美は美鳥を優一郎の恋人と勘
違いしたようだ。
「何がおかしいの?」
 少し怒ったように頬を膨らませ、首を傾ける佳美。一つ一つの行為に女らしい
しなを感じさせる。以前の彼女とは、まるで別人だ。
「アイツ、美鳥って言うんだけど、従兄妹なんだよ」
「そう………だから陽野くんと同じ力を………」
「あっ」と言う、小さな悲鳴が重なる。佳美と優一郎との。
 田邊との戦いの場に、佳美はいたのだ。異形の力を揮う田邊と、人外の力を以
って迎え撃つ優一郎。それを目撃した佳美が優一郎を田邊と同類のものと判断し
ても不思議はない。田邊に辱められた佳美にしてみれば、むしろその方が自然で
あろう。
「心配しないで」
 だが懸念を抱く優一郎に、佳美は先ほどの言葉を繰り返した。
「誰にも言わない、さっき約束したもの」
 多分に優一郎の感情がそうさせていたのだろう。そう言って微笑む佳美が汚れ
を知らない乙女に見えた。田邊によってどんな仕打ちを受けたのか、知っていて
さえ、である。
 柔らかな風が吹く。風は甘い香りを優一郎の鼻孔へと届けた。
 酔う、というのはこんな気分なのだろうか。呼吸の度に強さを増す香りは、優
一郎を心地よくさせる。そう言えば、金木犀の花が満開を迎えていたな、と優一
郎香りの主へ思いを巡らす。 「ゆういちろうくん」
 香りに溶け込み、その一部となった甘い声。佳美の笑顔に霞が掛かって見える。
 ああ、そうか。
 優一郎は香りの生まれて来る先を知った。
 香りは佳美から発せられていたのだ。
 発生源を知った途端、香りは甘さを増した。
 あるいは優一郎の錯覚だったのだろうか。
 しかし香りは花よりも濃く、熟した果実より強く優一郎の鼻孔をくすぐり、身
体までをも支配していく。やがてそれは性的な刺激へと転化される。
 佳美の着衣に乱れなどない。季節柄もあって、露出部分も少ない。ところが優
一郎の目は着衣の下の肌を見ていた。
 ふくよかな胸、張りのある腰、下腹部の淡い草むら。
 それが過去の記憶なのか、想像なのか、現実であるのかもう優一郎には判断が
つかなかった。
 いや、脳内の奥でわずかに存在を保っている理性は、佳美の裸体を現実ではな
いと告げている。しかし理性を遥かに凌駕する欲望が、優一郎の全てを支配しつ
つあった。
「ゆういちろうくんのお部屋に行かない? 大切なお話しがあるの」
 これはもう錯覚などではない。顕に男へと媚びた女の声が、優一郎の性を刺激
した。
「………ああ」
 己を指す呼称が変わったことに気が付くゆとりなどない。優一郎は短く答える
のが精一杯だった。
 佳美は女を強調するかのような仕草で駆け寄り、優一郎の肩にもたれ、腕を組
んで来た。その時、顔を撫でた佳美の髪からあの甘い香りが、さらに強く優一郎
の鼻孔へ侵入する。もう優一郎の男である証は、限界までの昂ぶっていた。  
 迂闊だった。
 後になって考えれば簡単に言える。しかし、実際の時間の流れにおいて、人間
は完璧となることは難しい。
16才と若年ではあったが、美鳥は十分に経験を経た戦士だった。身に迫る危険
を前もって察知する能力にも長けていたはず。
少し前に圧倒的な力を持つ異形と接触し、自分が感じている以上に疲れていたの
かも知れない。あるいは多くの人が住むマンションへと戻ったことで油断が生じ
ていたのかも知れない。実際、これまで異形は一時に大勢の人間に目撃されたと
いう例がないのだ。彼らが人前に現れるのは、獲物と狙った相手に死を与えると
きのみ。つまりは一度に殺せるだけの人の前にしか姿を見せないのだ。
 さらに一つ美鳥の油断を弁護するとしたら、相手が上手だった。
 ロビー前で優一郎と別れ、部屋に達するまで美鳥は異変に気づくことはなかっ
た。確かにいつもより静かではあったが、腕時計を持たない美鳥は時間が遅くな
ったためだと理解していた。 「晩ご飯、すっかり遅くなっちゃったね」
 美鳥が異変に気が付いたのは、勢い良く部屋のドアを開けた直後である。
 努めて元気良く放たれた美鳥の声に、返事を戻す者はない。
「おとかぜ………」
 不審に思い、妹の名を呼んでみる。が、返事はない。
 明かりは点いている。キッチンの方からは、ことことと鍋の煮える音が聞こた。
部屋に戻ってすぐ、音風が火に掛けたのだろう。
 しかしこの時点で、美鳥は異変をさほど重大なものして受け止めていなかった。
 玄関前で別れたとき、真月は眠っていた。返事がなくても不思議ではない。
 音風はトイレにでも入っているのだろうか。けれど責任感の強い音風が、たと
え数分間ではあっても、火の前を離れるとは考えにくい。
 そうだ。と、美鳥は気づく。
 先ほどまでは気が張り詰めていたため分からなかったが、自分はひどく疲れて
いる。それは音風も同様であろう。あるいは火に掛けた鍋のことすら忘れ、眠り
に落ちてしまったのかも知れない。
 そう思い立った美鳥は二人の妹と鍋の様子を見ようと、急いで部屋に上がった。
しかし、不意に聞こえた物音にぎくりとし、後方を振り返る。
 何のことはない、半開きのままにしていたドアが自らの重みで閉じられた音だ
った。しかし安堵する間はなかった。
「うっ………」
 次に聞こえてきたのは声。
人の声。
 くぐもった、呻くような短い声であったが、それが聞き慣れた妹のものである
と、美鳥にはすぐ知れた。
「どうしたの音風。どっか具合でも悪いの?」




#45/598 ●長編    *** コメント #44 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:20  (167)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (16/17)  悠歩
★内容

 一、ニ、三、四歩。長くはない廊下を進む。と見えて来たのは、怯えた目の音
風。そして後方に立ち、音風の口を塞ぐ、見知らぬ男だった。
「おっと、お静かに願いますよ、美鳥さん」
 洒落た洋画の中で、婦人をエスコートする紳士。そんなシーンを思い起こさせ
るような調子の声だった。
 侵入者の存在に気づくのが遅れた美鳥だったが、ただ狼狽していた訳ではない。
発見と同時に男へ飛び掛ろうと、その超人的能力を秘めた筋力を限界まで緊張さ
せていた。しかしあまりにも穏やかな男の態度に、それを躊躇させられたのだ。
 相手はたまたま美鳥たちの帰宅に鉢合わせしてしまった、空き巣狙いの類では
ない。病弱で体力的にも人並みに劣る音風ではあるが、朧の能力者としては美鳥
に勝る。ただの空き巣狙い程度であれば、相手にそれと気づかせず自由を奪うこ
とも出来たはずだ。
 見れば男は左手で音風の両手を背中側に押え付け、右手で口を塞いでいる。他
に刃物などの凶器は持っていないようだ。
 その横、美鳥から見て左側のやや離れた絨毯に、真月が横になっている。特に
危害を加えられた様子もなく、音風の手によるものだろう、毛布が掛けられてい
た。外にいた時から眠ったままなのだろう。つまり男は真月の眠りを妨げるよう
な音や声を発することもなく、抵抗する間も与えずに音風の自由を奪ったことに
なる。
 その結果、そして美鳥に気配を察知させなかったという事実。考えられるのは
ただ一つ。
「アンタ、異形………だね?」
 心の動揺を抑え、平静を装う美鳥。しかしわずかに声が震えるのを、自ら感じ
ていた。
妹たちを人質に取られながら先刻のように、逆上しないでいられたのは不思議で
ある。だがそれは無意識のうち、美鳥がこの男の恐ろしさを感じ取っていたから
に他ならない。
 男は、あの女───麗菜よりさらに強い、と。
「はい、あなた方の言う、完全体ってやつですかね」
 やはり男は穏やかな声で応えた。美鳥のように、平静を装っているのではない。
本当にリラックスをしているのだ。いや、完全にリラックスしている訳ではない。
話しながら、ちらりと眠っている真月に視線を送ったのだ。だがそれは警戒して
いるのとは様子が違う。眠っている子を起こさぬように気遣っている仕草だった。
「何が目的? 朧の者の血を絶やすこと?」
 話しながら美鳥は考えていた。この危機をどう切り抜けるかを。
 話すことで、男の注意が逸れればあるいは音風がその手を振り切りって逃げる
機会も生じるかも知れない。そんな淡い期待も抱いていた。
 しかしそれが困難なことも美鳥は承知していた。
 仮に音風が男の束縛から解いたとしても、真月をまで連れて逃げるのは難しい。
よしんばそれを成し遂げたとしても麗花亡きいま、美鳥たちだけで男を倒すこと
は不可能に近い。
 そればかりではない。
 完全体。それもより強大な力を持つ者が、ただここにいるというだけでマンシ
ョンに住む全ての人間が人質にされているのに等しい。並の異形でさえ、腕の一
振りでこの程度のマンションなら、半壊させるのも可能なのだ。
「血を絶やす? 殺すってことですか? まさか、そんな恐ろしい」
 音風の口を塞いでいた手が外される。そして男はその手を今度は自分の口にあ
て、美鳥の言葉に驚いたふりを装う。
 口の自由だけは取り戻した音風だったが、何も言葉は発さない。発すべき言葉
も見つからないのかも知れない。未だ両手の自由は拘束されたままで、下手な言
葉で男を刺激すべきでないと判断したのだろうか。ただ音風の目は、傍らで眠る
真月を盛んに気にしていた。己の身より、妹に危害が加えられることを心配して
いるのだ。
「ああ、ご心配なく。そちらのお嬢ちゃんに何かする気は、毛頭ありませんから」
 背後から音風の視線を読んだのだろうか。美鳥が正面から見る限り、音風は頭
を動かさず視線のみで真月を気遣っていたのを、男には知れていた。
 微かに音風の身体が硬直する。そして、それきり真月の方へ視線を遣らなくな
った。
 音風を拘束しながらも、男の物腰は穏やかで、紳士的でもあった。しかし美鳥
は強い違和感を覚えていた。
 経験上、異形の者たちは全て殺戮を好み、知能の高い完全体には狡猾が加わる
と美鳥は知っている。しかしそれだけではない何かが、男から感じられるのだ。
その何かは、すぐに知れることとなる。
「あなた方の命を取るつもりなら、とっくにやっていますよ」
 そう言って、男はわずかに微笑んだ。どこかで見たような表情だ、と美鳥は思
う。
 そうだ、あいつに似ている。
 以前、真月を誘拐した完全体───いまにして思えば異形と完全体の中間程度
にしか過ぎなかったが───田邊の狂気に満ちた笑いと良く似ているのだ。
「例えば………こんな風にね」
 不意に男の右腕が高く挙げられた。次の瞬間、その掌は最短の距離で落下し、
音風の胸に突き刺さった。
 声を上げる間さえなかった。美鳥も、とうの音風も。
 男の動きは、いささか芝居じみたものだった。明らかに美鳥や音風に見せるこ
とを意識している。大掛かりなイリュージョンを観客に披露するマジシャンのよ
うに。
 動きばかりではない。その動きによって行われたこと自体まるでマジックであ
った。
 男の指は、服の上から音風の胸に深々と突き刺さった。熱したナイフがバター
を容易く切り分けるが如く、男の指は何の抵抗もなくその先、手首の辺りまで埋
没して行く。
 時間にすれば一秒にも満たなかった。突き刺されたのと同じ唐突さで、男の指
は音風の胸から引き抜かれる。
振り下ろされる直前の位置に戻った男の手。但し男の手には、その前と比べ一つ
の変化があった。
「………きさ、ま………おと、かぜに、なにを……した」
 手中に握られた物、その正体を認識した美鳥の喉からは絶叫しつつも掠れた声
が絞り出させる。怒りと恐怖が同時に美鳥を支配していたのだ。
 怒りに任せ、拳を打ち、男を粉々に砕いてやりたい。
 突き上げるような激情。しかし感情のまま、男を打つことはしない。出来ない。
 美鳥を止めたもう一方の感情、それが恐怖である。それは明らかに力の勝る相
手に挑むことへの恐怖ではない。自分が動くことで、妹を死に至らしめるかも知
れないという恐怖。
 そう、男は文字通りに音風の命を握っていた。
 握っている男の手より一回り小さな塊。無数の糸で音風と繋がったピンク色の
物体は、命の証である鼓動を、男の手中で続けていた。
「うむ、若干弱いようですが………気にするほどでもない。いやいや、それより
も、実にいい色をしています。うーん、お身体が弱いと聞いていましたが、こい
つのせいではないようですね」
 男は手の中の物体を、持ち主である音風にもよく見えるよう、彼女の目線の高
さへ下げて言った。
 それは心臓だった。
 にわかには現実と信じ難い。男はマジシャンなのではないだろうか。そう考え
れば納得がいく。
 現実離れした光景、己の成し遂げた行為にはそぐわない穏やかな話し方。それ
は美鳥がブラウン管の中に見たマジシャンのそれに共通していた。
 しかし美鳥の目にしているものはトリックを仕込んだマジックなどではない。
自ら望んで集まった観客ではなく、他人の家に無断で侵入し技を披露するマジシ
ャンなどいるだろうか。
 何より、それがマジックなどではないと技を施された当人、音風の表情から窺
い知ることが出来た。
 音風は気丈であった。
 気がふれても不思議ではない。多少精神力の強い人間であっても、正気を保ち
つづけることは困難であろう。音風に施された技はそれほどのものである。
 自分の心臓である。どれほど巧みなトリックを用いたとしても、鼓動の在りか
を感じる当人を欺けはしないだろう。
 音風は確かに己の鼓動を感じているようだ。男の手の中から。
 自分の胸の外から鼓動を感じた人間など、他にいただろうか。
 引きつった表情、額に浮かぶ脂汗。他の誰にもない経験の中に、音風はいた。
見ている美鳥さえおかしくなってしまいそうな体験をしている。
 それでも音風は気丈であった。
 もともと朧の四姉妹、いや真月を除き覚醒を終えた三姉妹の中で、最も優れた
能力者は音風であった。しかし病弱な身体が、存分な力の発揮を許さない。
 それでもいま、音風は精神において、強き戦士だった。
 顔色こそ蒼白であったが、その瞳は凛としていた。
 男のおぞましい行為に対し、恐慌を起こすこともなく、何か強い意志を持って
文字通り敵の手中に握られた心臓を見つめる。
 音風に恐れるものがあるとしたなら、それはただ一つ。
 妹の真月へ、危害が及ぶことだった。
 男の指先のわずかな動きだけで、音風の命は容易く絶たれるであろう。この状
況下では、美鳥も音風も迂闊に行動を起こすことが出来ない。
 だがもし、男の手が真月へ向けて髪の毛ほどでも動けば、音風は全力を以って
これを阻止するに違いない。
「お二人とも、そんな怖い顔をしないで下さい」
 美鳥の焦燥や音風の決意も知らず、あるいは知っての上か、男はおどけて肩を
竦めた。
「だから言ったじゃないですか、別に私はあなた方の命を取るつもりはないって」
 こんな異様な状況でなければ、あるいは見る者に安堵感を与えていただろう。
男は極めて穏やかな表情と声で言った。それから、静かな動きで心臓の握られた
拳を音風の左胸へと充てる。
 マジックの仕上げ。
 これが舞台の上でならば、マジシャンは満場の観客より拍手の雨と賞賛の声を
浴びながら退場して行く瞬間であろう。
 血の一滴も流さず抜き取られた心臓は、やはり血の一滴も流さず、音風の胸の
中へ収められたのだった。
 まだ男の左手は音風の両腕の自由を奪っていたが、攻撃を仕掛けるならば、い
まが数少ないチャンスなのかも知れない。一瞬そう判断した美鳥であったが、身
体は一ミリにも満たない距離を前進するに留まった。
 ここは夜の港でもなければ、草深い山中でもない。メートル単位の上下左右に
人の住むマンションなのだ。犠牲を出さない戦いは不可能に近い。ましてその第
一犠牲者の最有力候補がいまだ目覚めない真月であれば、いかに直情的な美鳥で
も、戦いに二の足を踏むのは当然だった。
「私は、これでも医者なんですよ。おお、そうだ、ええっとこちらのお嬢さん、
音風さんでしたね。一度、私の病院にいらっしゃい。どんな病気でも、たちどこ
ろに治して差し上げますから。まあ、多少、元気になりすぎる………かも知れま
せんが」
「冗談はいいから、それより、あなたの目的は、ナンなの」
 美鳥は二つの目的を持ち、努めてゆっくりと、そして極力静かに話をした。一
つは男を刺激し、音風や真月に危害が及ぶことを避けるため。もう一つは時間稼
ぎをするために、である。
 もちろん美鳥に犠牲を覚悟してまで、戦いを挑む意思はない。だがもし、あら
ゆる犠牲をも顧みず美鳥が、そして音風が能力の全て以って挑んでも、完全体た
る男に勝ち目はない。たとえ音風のように能力に優れた者であっても、知性に乏
しい異形ならばともかく、完全体に致命傷を負わすのは不可能なのだ。唯一、完
全体を葬り去ることの適う力、それは優一郎の【日龍】のみ。
 そう、美鳥は【日龍】の能力者、優一郎の到着を待っていた。




#46/598 ●長編    *** コメント #45 ***
★タイトル (RAD     )  01/12/15  20:21  (133)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (17/17)  悠歩
★内容                                         01/12/28 16:01 修正 第3版
 異形との戦いを数知れず経験して来た美鳥。その美鳥さえ、男の存在に気づく
のが遅れた。まして不完全な形でしか力の覚醒を迎えていない優一郎である。さ
らに突然の訪問者に気を取られている中、階下の異形の存在を察知出来るであろ
うか。不安もある。
 しかし自力で状況を打破する手段を見出せない以上、【日龍】の能力者として
の優一郎に期待を掛けるしかなかった。
『優一郎………お願い………』
「無駄だと思いますよ」
 本当に、男には人の心を読む力があるのかも知れない。美鳥が心の中で優一郎
の名を呼ぶのと同時に、男は同情を込めた声で言ったのだ。
「待ち人来たらず。陽野優一郎くんは、いまそれどころじゃないはずですから」
「それじゃ、あの女!」
 美鳥は男を刺激しないようにと、抑えていた声をつい、荒げてしまう。男の言
葉から、優一郎を訪ねて来た女も異形なのだと理解したためである。
 そう言えば、あの女にどこかで会ったことがある。そうだ、田邊の部屋にいた
女たちの一人だ。
 突如、美鳥の心中を絶望感が支配する。
 目の前の男も音風の顔も、歪み、霞んで見えた。
 異形たちは、仲間意識というものに乏しい。だからこそ、麗花を含めた三人の
朧の力で対応しきれていたのだ。異形よりも遥かに強大な力を持つ完全体も、単
独であればまだ万に一つの望みもあっただろう。もし完全体たる異形が、連係を
して来たのならば優一郎が覚醒を果たしたとしても勝ち目は極めて低いものにな
る。
 身体の力も抜け、その場に崩れそうになった美鳥だったが、虚ろな視界の中に
迫り来るものを捉え、踏みとどまった。瞬間的な意識の集中により、視界の霞み
を振り払う。音風が見えた。
 慌てて広げた腕の中に、か細い身体が飛び込んで来る。
「音風」
 何が起きたのか分からなかったが、再び男に奪われぬよう、美鳥はしっかりと
妹の身体を抱きしめた。肩に掛かる息、少し熱いくらいに感じられる体温から、
美鳥は妹の無事を知る。
 果たして男が音風を解放したのか。あるいは音風が男の束縛を振り解いたのか。
 前者であれば、男は再び音風を奪おうとするかも知れない。後者であれば、次
は真月を狙っているとも考えられる。
判断のつかない美鳥は視線を男に釘づけたまま、音風を自分の背中に回そうとし
た。音風の腰へ手を遣り、やや強めに押して背後に移動するように促す。だが、
音風を動かそうとした美鳥の手は、思いがけず強い抵抗を感じた。
 音風の両足は、美鳥の導く方向へとは身体を運ばない。それだけの力を残して
いなかったのだ。ただ身体を支えていることさえ適わず、膝を床へ落としてしま
う。見掛けによらず、姉妹の中でも特に肝の据わった音風にしては珍しいことで
あったが、いまは深く考えていられない。生きたまま心臓を抜き取られるという、
世にも稀な経験をした後では仕方のないこと。美鳥は動けない妹に代わり、自ら
が前に進み出た。
「そう、身構えないでくださいな。ほらほら、そんなに怖い顔をしたらせっかく
の美人が台無しですよ」
 男は大袈裟なアクションで肩を竦めて見せた。特に音風を追う様子もない。ど
うやら男自身の意思によって、音風は解放されたらしい。
 だが、男には美鳥の想像したもう一つの行動を執る意思もなかった。
「では、そろそろ私はお暇しましょうか」
「えっ?」
 全く予想外であった。もし男が狡猾な意図を持っていたならば、この瞬間に美
鳥ばかりでなく三姉妹もろとも命を奪われていたかも知れない。美鳥にはそれほ
どまでの隙が出来ていた。
 しかし男は策略を以って、その言葉を発したのではなかった。自らの言葉に即
した行動をしたのだ。 
「私の用事は済みましたからね。こんな時間、女性ばかりのお宅にいつまでもお
邪魔していては失礼でしょう」
 右手を胸にし、男は深々と礼をする。あくまでも紳士的に、だが最後まで狂気
を隠さずに。
 男は静かに後ずさりする。後ろ手に窓を開けると、バルコニーへと出た。
「いずれまたお会いすることもあるでしょう。それでは………ああ、そちらの眠
っているお嬢ちゃん、真月ちゃんにもよろしくお伝えください」
 この言葉を最後に男は消えた。文字通り、霧か霞の如く、夜の闇に溶けて消え
たのだ。
 助かった………
 死への脅威が去ったことで、より恐怖が実感される。
 張り詰めていた糸が切れ、美鳥の両足もまた己の身体を支えるための力を失う。
フローリングの板につけた尻がひどく冷たく、思わず悲鳴を上げた。
 そこで初めて、美鳥は己の全身がずぶ濡れであることに気がついた。男と対峙
していたわずかな間に、夥しい量の冷汗をかいていたのだ。髪が顔に張り付き、
下着が尻から温もりを奪い、とても気持ちが悪い。見れば、衣服が吸収し切れな
かった汗が、床に小さな染みを作っている。
「くしょん!」
 まるでテレビアニメの台詞であるかのようだった。暢気とも聞こえるくしゃみ
が一つ、聞こえた。
「さむうーい。なんで、窓が開いてるの」
 男がいる間、あれほど緊迫した空気の中でも目を覚ますことのなかった真月が、
緩慢な動きで半身を起こす。いくら朧の能力に才覚がないとはいえ、あの騒ぎに
全く気づくことのないまま眠り続けていた真月。さすがに美鳥も呆れ、口元が緩
む。
「ごめん。ちょっとね、部屋の空気を入れ替えたの」
 しかしそれが幸いした。
 真月に優しく応えた美鳥は、自分の身体に抜けていた力が戻っていることに気
がつく。下着は濡れたままであったが、汗もすっかりと引いていた。
「あれ、優一郎お兄ちゃん、部屋に帰っちゃったの?」
「あっ」
 唐突に真月の口から出た名前。美鳥は忘れかけていたもう一つの危機を思い出
した。
「そ、そうだ………私、優一郎に用事があったんだっけ。真月、悪いけれど、音
風とるす番してて!」
 妹たちを部屋に残して行くことに、些かの不安はあった。が、先刻の男がまた
すぐに戻って来ることもないだろう。と、美鳥は判断をした。
 美鳥は真月に何かを気取られぬよう、駆け出したい気持ちを抑えながら、部屋
を出ようとする。
「私も行く」
「だめ、大事な話しなんだから。音風、真月をしっかり見ててね」
 立ち上がろうとする真月に、右手をかざして美鳥はこれを制する。果たしてそ
の仕草に効果があったか否か、確認する時間を惜しんで玄関へと向かった。真月
のことは、音風が何とかしてくれるだろうと信じつつ。
「あれっ、どうしたの?」
 音風からの返事はなく、聞こえてきたのは真月の声であった。思わず美鳥は足
を止め、振り返る。
 音風は、蹲ったままだった。まだ男に受けた行為に対する恐怖から立ち直って
いないのだろうか。
「お姉ちゃん………音風お姉ちゃん!」
 その横で膝をつき、心配そうに真月は顔を覗き込んでいる。その声が次第に叫
びと変わって行く。どうやらただ事ではない。
「どうしたの、音風。まだ気分が悪いの?」
 美鳥は踵を返し、音風のもとへと歩み寄る。その背中が小刻みに震えているの
が見えた。
「音風!」
 慌てて抱き上げた音風の顔は、蒼白で死人のようだった。息も荒い。
「……………」
「えっ、なに、?」
 何かを言おうとしてか。音風の唇が、力なく微かに動く。しかし動きの弱々し
さに等しく、唇から漏れる息は儚く、音声とはならない。
「音風お姉ちゃん、ねえ、どうしたの。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん
………」
 耳元で聞こえている、真月の叫び。
 静かにして、音風の声が聞こえない。
 そう言おうとした美鳥だったが、それより先に真月の声が小さくなった。と、
同時に音風の唇の動きも止まる。
「おとか………」
 妹たちの名を呼び掛けた美鳥だったが、突然、息苦しくなってそれが出来ない。
何やら酷い悪臭がしている。
『何、この臭いは………どうして急に……』
 急ではなかったかも知れない。マンションに帰って来てから、ずっとしていた
ようにも思えた。それではなぜいままで気がつかなかったのだろう。いや、それ
は思い違いで、やはりいま急にして来た臭いだったろうか。
 ぐるぐると回る美鳥の思考。
 その答えの出ないうちに、美鳥は意識を失った。

【OBORO】 =第4幕・異形胎動=(完)




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