AWC 毀れゆくものの形 五−3     直江屋緑字斎


        
#915/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  88/ 3/18  18:26  (114)
毀れゆくものの形 五−3     直江屋緑字斎
★内容

 神経系の発育速度は胎児期と出生後しばらくの間がピークとされ、
出生時には重量にして成人の四分の一、一歳時では二分の一に達す
る。第一のピークである妊娠十〜十八週では神経芽細胞の分裂・増
殖が繰り返され、妊娠中期から生後十八カ月にかけての第二のピー
クでは、神経膠(しんけいこう)つまりグリヤ細胞と、髄鞘(ずい
しょう)の主成分であり栄養素ともいえるミエリンと呼ばれる半液
状の類脂肪質が産み出されるとともに、さらにシナプスが形成され、
出生前には毎分二十五万個以上の神経細胞がつくられるといわれて
いる。これらの時期は神経系の基礎が固められる最も重要な時期で
あり、出生後には髄鞘化(ミエリネイション)がいよいよ活溌(か
っぱつ)に展開されていくのである。
 矢継院長は海馬体肥大をこの二番目の時期に想定し、その影響が
頭蓋にまで及ぶ過程もここに求めたのだった。「「この時期に何ら
かの理由で海馬体の肥大化が起こり、これによって海馬体を取り囲
む海馬傍回が弱い方向、つまり水平方向に押し出され、視床脳とい
われる第三脳室などを圧迫しながら頭頂後頭溝の上端をを持ち上げ、
そのためにラムダ状縫合に力学的変化をもたらし、それに対応して
頭頂骨の特定部分に形成的に影響を与える、と考えたわけだ。矢継
院長は、こうして生じた頭蓋の突起が、さらに頭蓋全体の比率にも
変化を与え、そのことによって側頭平面の左右の大きさに重大な影
響を及ぼしていることも見出していた。つまり、突起が生ずること
によって頭蓋骨の形が変わり、その頭蓋骨の形が逆に側頭葉に影響
を与え、脳自体の形を変えてしまうということである。

「脳はただの豆腐ではなかった。たしかに、中枢部分については頭
蓋からの影響を直接考慮に入れる必要はないかもしれない。しかし、
脳の外縁部は頭蓋骨から大きな影響を受けているわけです。整理し
て考えてみると、全過程の大因ともいうべき海馬体が頭脳全体に及
ぼす影響力は、予想以上のものであるということになります。「「
ところで私は、海馬体の脳へ及ぼす力学的・構造的な作用、また頭
蓋骨への作用、さらに頭蓋骨から側頭葉への、いや脳全体にわたる
反作用を一連の解剖例によって確認してきました。もちろん、大学
を逐われ、それでなくても人体実験のはばかられる時代に、充分な
実験材料が入手できるなど思いもよりません。私の手がけたのは、
掻爬(そうは)手術による摘出児、死産児、未熟児出産による死亡
児の解剖でした。これらの解剖例は相当の数に上りましたが、かえ
って海馬体の成長過程と頭脳の成長の関係をつぶさに観察すること
ができました。そして、それらの分析から驚くべき事実が判明した
のです」
 闇というよりはあまりに濃密な暗さを湛(たた)えた夏の深夜、
滞ったままこそとも動かない蒸れた空気……、すでに寝静まった世
界のどことも異なり、矢継医院の禁断の一室からは、煌々(こうこ
う)とした蛍光灯の明かりが、そのような暗部に向かって吐き出さ
れていた。研究室の一角では、その光の露骨な輝きを受けて、標本
棚のニスを塗られた棚板の縁が脂じみたぬめりを揺らしていた。そ
の棚を埋(うず)めるように、煤けた頭蓋骨の完全標本が十数箇と、
おそらくそこから摘出されたに違いない灰色の脳葉が、容器の中で
変色したフォルムアルデヒドの液に浸されて、それぞれの数だけ置
かれていた。別の棚には、同じようなガラス容器が、ただし透明な
澄んだ液に漬けられた、さまざまの形、さまざまの大きさの胎児や
嬰児の標本が数十箇並んでいた。密封された数十体の標本はそれぞ
れの成長の度合に従って整理されているが、白蝋のような気味悪い
肌に絡みつく毛髪が生命を残してなお伸び続けてでもいるのか、保
存液の中に棲みつく藻類のように、胎生期のものに近づくにつれて
隠微な色合いを濃くしていた。そして、それらの標本のすべてが頭
部を縦に切り割かれ、断面を埋める柔らかな内容物が一目瞭然に見
てとれた。
 矢継院長は壁面を埋めている標本に妖しい一瞥を与えると、いま
やただみすぼらしいだけの老人を振り返り、熱に浮かされたように
先をつづけた。
「「「海馬体肥大は後天性のものではないということです。なぜな
ら、妊娠中期以降の解剖例のすべてに共通して、海馬体に充当する
部分に、成長の抑制活動、つまり組織破壊をもたらす細胞活動の痕
跡がみられたからです。これは組織自体に備わった機制ととること
もできますが、ただそれが一様に同じ時期を境にして現われている
わけです。このことは、まさしく遺伝的な性格をもつものに他なら
ないということを証拠づけています」
 何ものからも無関心で、時を隔てた一切が無意味であるとでもい
いたげに半ば閉じられていた老人の眼が、ここで嶮(けわ)しく炯
(ひか)った。
「君は初めからそう考えていたのだな……。だから、あの実験を強
行した、あの最後の実験を……。そして、わしから「「」
 その嗄(しわが)れた声は、怒りとも諦めともつかぬ、あるいは
自責の思いともとれる微妙な抑揚をしのばせて、二人を取り巻く標
本と化した死そのものの暗い翳(かげ)りの部分に沁(し)みとお
っていった。だが、矢継院長のひときわ昂揚した声が、老人のその
言葉からあらゆる余韻を奪った。
「私は最初、脳内に腫瘍(しゅよう)のようなものが生じ、そのた
めに情動異常、いや情動が過激に昂進すると考えていたのです。し
かし、海馬体にも、その周辺組織にも、そのようなものの存在はみ
られなかった。その兆すら認められなかった。そうなると、あとは
海馬体の組織上の問題、それも遺伝的な要因しか考えられないわけ
です。これは、私による『海馬体仮説』なのです。「「おっしゃる
とおり、これまでの研究は、このことを確認し証明するためのもの
で、私はあの当時から、遺伝的な要因が大きな比重をもつというこ
とを確信していました。だからこそ、その頭蓋骨による実験を強行
したのです」
 テーブルの上に置かれている一箇の頭蓋骨に、有木老人と矢継院
長の目が注がれていた。黝(くろず)んだ頭蓋骨の後頭部に生えた、
一目でそれと分かる突起が、二人の医学者の硬ばった視線に晒され
ていた。
 その頭蓋骨はある殺人犯のものだった。戦後の混乱期に、北海道
各地を舞台にして、被害者数十人に及ぶ無差別殺人が行われた。犯
人は捕えられたが、その数カ月後に奇妙な死を遂げ、何のための大
量殺人であったのかは永久に謎になってしまった。殺人狂と看做
(みな)されたその男は、逮捕後、精神鑑定のため北大の精神科に
送致されていたのだが、いつのまにか第五外科に廻され、そこで死
が伝えられた。大学当局はロボトミー手術が失敗したとだけ発表し、
詳細については固く口を閉ざしていた。当時、まだGHQの指揮下
にあった警察当局は、荒廃していた大学の復興に尽力していたGH
Qの意向を受けて、犯人が極度の精神異常者である旨の大学側の報
告に信を置き、それ以上立ち入ろうとはしなかった。
 ところが、脳神経医学会に属する学者が口火を切った形で、ロボ
トミー手術と第五外科に対する世間の批難が昂まると、大学当局は
これに抗しきれず、第五外科の廃止を決定した。翌年、この手術を
執刀した有木教授と矢継助手は、逐われるようにして大学を去った。

 有木老人は、ふと口を開きかけたが、思い直して再び口を噤(つ
ぐ)んだ。そして、その夜の会話は打ち切られた。なぜなら、次の
言葉をつづけるには、二人ともあまりに深い痛手を受けていたから
であり、おそらくそれが二人の憎悪の一致点だったからかもしれな
い。





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