#378/598 ●長編 *** コメント #377 ***
★タイトル (AZA ) 11/01/27 00:01 (365)
お題>起死回生 2 永山
★内容
「ひどいな。無罪の証明を頼んだつもりなのに、私を追い詰めるような推理を
して」
警察での事情聴取を終えて出て来た衣川は、私を見つけるなりそう言った。
こちらはきまりの悪い笑みを少しの間だけ浮かべ、握手をした。何はともあれ、
元気そうでほっとする。紺色のジャケットが普段よりもくたびれて見えるが、
これは一張羅を何年も愛用しているせいに違いない。
鬼怒川は初対面の地天馬に簡単な挨拶を交わしたあと、私に向けたのと似た
ような台詞を吐いた。
「私はやっていない。真犯人が偽の手掛かりをばらまいたのだと主張しますよ」
「聞くところによると、トリックの実験をしていたことは認めたそうですね」
地天馬が確認の質問をする。最前、聴取に当たった下田警部らからポイント
について聞かされていた。
「ええ。梁に柴田がぶら下がり、足先でドアノブを押す密室トリックのね。何
でも、既存の作品に同様のトリックがあるが、実行可能かどうかを試したい、
不可能ならば修正したいということで、私が協力したのです」
立ち話も何だからと、近くのファミリーレストランに移動した。警察署内に
も座って話せる場所はあったが、衣川が早く出たがったのだ。
店内はざわついていて、さほど気にせず事件の話ができそうだった。注文を
済ませ、早速本題に戻る。
「警察では、わざわざ柴田と同じ体格の人形を用意し、足の先がノブのボタン
を押せるかどうか、検証したそうです。そんなことをする前に、私に聞いてく
れればよかったのに」
「衣川さんは、ノブに残っていた足の指紋をどう思います? 実験をしたとき
のものだと?」
「うーん、どうだろう。それしか説明のしようがないと思うが、あの実験をし
たのは一ヶ月ぐらい前だった。今度の事件でノブに見つかった指紋は真新しか
ったそうですから、違う気もする」
流暢に答える衣川。今の返事が、自分自身を悪い立場に追いやることに気付
いていないのだろうか。
気に病んでいると、地天馬が別の見方を示した。
「ひょっとすると、事件の前日辺りに、柴田幸一さんがもう一度実験してみた
くなり、恋人なり弟なりの手を借りて、再度試したのかもしれませんね」
「そういう話は聞かなかったが、あるいは」
「柴田幸一さんは全てをあなたに打ち明けていた訳ではないようですからね。
双子の弟がいることも、衣川さんは知らなかったとか」
「はい。あれを知らされたときは、ショックでしたねえ。生きている間にどう
して教えてくれなかったんだ、どうして会わせてくれなかったんだと、頭の中
を疑問符が駆け巡りましたよ」
「その答は見つかりましたか」
「弟の存在を私に知らせなかった理由? 事件後に知ったが、柴田が中学か高
校の頃、柴田の両親は離婚して、双子を一人ずつ引き取ったらしいね。母親に
引き取られた柴田――幸一は、作家として知られるようになると、弟の幸二か
ら連絡をもらった。これもあとから聞いた話なんだけれど、兄弟仲はよかった
らしくてね。会いたい気持ちはあったが、両親に気兼ねして遠慮していたのか
なあ。幸二の方は父親がリストラにあって、大学進学を断念したそうで、かな
り苦労していた。そんなときに兄の成功を目にすれば、多少は助けてほしいと
願うのは、理解できる心情ですね。柴田も弟の気持ちを察したんでしょう、で
もすでに私というお荷物を抱えていた」
自嘲気味に笑うと、衣川はお冷やを呷った。
「だから言い出せなかったんじゃないかと思います。言われてりゃ、いくら私
だって、柴田の元を離れたのにね」
私が知る衣川はよく気の付く男で、鈍いことは全然ない。また、月刊誌に載
ったインタビューを読んだことがあるが、彼の受け答えは頭の切れのよさを表
しているかのようだった。なのに、今、目の前にいる衣川は自分で自分を鈍い
人間だと評している。私が想像する以上に、事件のショックは大きいのかもし
れない。
「衣川さん、あなたから見て、柴田さん達を殺す動機を持っていそうな人物に
心当たりはないのかい?」
私は地天馬の様子を横目で窺いながら、衣川に聞いてみた。
「うーん、どうだろう。最初は同業者かと思ったんだが、作家仲間から恨まれ
るほど儲かっていたとは思わないし、推理作家なら死亡推定時刻に関するミス
なんて、犯さないだろうしね」
「昔、論争していた相手がいたんじゃなかったっけ。ライトノベルの同期で、
室生恵古」
「あー、はいはい、室生のエコさんね。あいにく、自分はその当時、柴田とコ
ンビじゃなかったから詳しくは知らないが、話は聞いている。柴田が言うには、
今振り返ればコップの中の嵐にもならない、若輩者同士の些細な論争だったそ
うだけど。確かに、客観的に見て、レッテルを貼るような性格描写なんて、人
それぞれでいいと思う。だいたい、とうに和解したと聞いているよ」
「その室生さんと会ったことは?」
地天馬が質問を挟んだ。
「柴田と一緒に二度くらい。特に険悪なムードになるでもなし、穏やかな会話
に終始していた印象でしたね。それ以前に、あの人は今度の事件の犯人じゃな
いんじゃないかなあ。推理小説に対する興味は薄い方だから、凝ったトリック
を使うとは思えない」
「一概には言えません。殊に今度の事件は、被害者が推理作家ですからね。柴
田さんのアイディアを拝借して犯行を成し遂げた可能性を一応、考えなければ
いけない」
「ああ、そうか……」
衣川が感心しきりという風に、何度か頷いた。
それにしても、他の容疑者を否定するようなことを言う彼に、私は妙な感じ
を受けてしまう。衣川自身は容疑者である自覚がないのだろうか。地天馬に関
しては、いつもの通り、容疑の枠を安易に絞らず、冷静に判断していると言え
る。
「他にいないのかい、動機を持つ人間は」
「さあねえ。自分達がどう思われているかなんて、意外と分からないもんさ」
「動機から絞るのは難しそうだな」
地天馬が言った。テーブルに注文した品が並ぶ。ウェイターが去ってから、
話を再開する。
「犯行が可能かどうかについて、検討してみたい。たとえば、衣川さんや柴田
さんが蛙の毒を所有していることを知っていた――これは犯人の条件と見なし
てよいだろう」
「そうですね。毒を持っていると知っていたのは、同行した友井さん以外では、
現地人の通訳ぐらいか。柴田や友井さん達が他人に話したかどうか、私は知ら
ないが、まあそんな迂闊な真似はしない人間だと思います。無論、私も口外し
ていません」
「ねえ、衣川。自分が危ない立場に立たされていると、分かっているのか?」
私はつい、単刀直入に聞いてしまった。だが、衣川は特に気にした様子も見
せずに、「だからこそ、君を通じて地天馬さんに頼んだんじゃないか」と答え
た。
すると今度は地天馬が口を開く。
「おかしいな。そういう風には聞いていない。不可解な事件が起きたので、真
相を解明してもらいたいとだけ」
「同じでしょう。私は犯人ではないのだから、事件の真相解明と同時に、私の
無罪を証明することとなります」
「僕は何も保証できない。現段階で、あなたの望まない結果になる可能性が高
いと見ています。無条件に守ってほしいのなら、他の人に依頼を持っていくこ
とだ」
「……」
探偵の突き放した物言いに、衣川はしばし言葉を失った。私もこんな展開を
迎えるとは想像が付かなかったので、おろおろしてしまう。
「いえ、やはり地天馬さんに最後までお願いします」
衣川は地天馬の目を見つめ、きっぱりと言った。理由は分からないが、地天
馬に寄せる信頼は揺らいでいないようだ。
地天馬はそれでもまだ醒めた調子で応えた。
「僕は依頼人の秘密は守るが、それ以外に調査で知り得た事どもに関しては、
しかるべき形で表に出すつもりでいる。それでもかまわないと?」
「かまいません」
「分かりました。では、事件の話は今日はここまでとしよう。僕は他の関係者
に当たり、犯人の条件に該当する人物を改めてリストアップします。その上で、
証拠と照らし合わせることになるでしょう」
衣川と別れたあと、私は地天馬に彼の推理した事件の犯人像を尋ねてみた。
「改めて挙げるほどのものではないさ。一、蛙の毒を入手可能である。二、柴
田幸一を知っていたが、彼に双子の弟がいることを知らなかった。もしくは柴
田幸二を知っていたが、彼に双子の兄がいることを知らなかった。三、柴田幸
一の身体を使って密室トリックを行えることを知り得た、これぐらいだな。こ
の内、一つ目は犯人が柴田幸一の持っていた毒を使った場合を想定すると、大
きな意味はなさない。三つ目にしても、柴田幸一が密かにメモ書きでもしてお
り、犯人はそれを盗み見ることができたのかもしれない」
「二つ目のは、どういう意味だい?」
「死亡推定時刻に現れた食い違いは、犯人の無知やミスではなく、仕方なくあ
あなってしまったんだと思う。密室をこしらえるほどの犯人が、死亡推定時刻
に関して全く知らないなんて、考えにくいからね。では、仕方のない状況は何
によってもたらされたか。恐らく、双子だろう。犯人は元々、柴田幸一と赤坂
美子の二人を対象に計画を立てた。『幸一が赤坂を殺害後、自殺した』との筋
書きに基づき、犯行を成し遂げるつもりだったはずだ。そこへ柴田幸二が不意
に介入してきたため、計画に狂いが生じる。事件当日、幸一は取材で一日の大
半、家を空けるはずだったろう?」
「ああ、そんなことを言っていたな」
「その間に犯人は赤坂を刺殺し、帰宅した幸一に毒を盛る予定だったんじゃな
いかと思う。が、毒入りの激辛カレーパンを前もって柴田宅に置いておいたの
が、失敗の一因になった。幸一の不在時に訪ねてきた幸二が、食べてしまった」
「前もって毒入りのパンを置く? 柴田の帰宅を待つのなら、そのときに毒入
りパンを渡すこともできるだろう。普通はそうするんじゃないか」
「事件の直近に、激辛カレーパンを買って行ったと店員に証言されることを恐
れたんじゃないかな。もしくは――想像をたくましくするなら、犯人は最初、
アリバイ工作をしようとしていたのかもしれない」
「アリバイって、どんなトリックを? あ、電気敷布か」
「電気敷布を持ち出すのは早い。死体を移動することで現場を誤認させ、アリ
バイ確保を狙う企みだ。犯人は柴田宅に置いた毒入りの激辛カレーパンを柴田
幸一が自ら口にして命を落とす間に、赤坂美子を殺害、それも死体移動を見越
し、刺殺以外の方法で殺す。そして彼女の遺体を、車に乗せて柴田の家まで運
ぶ。こうしておけば、疑われても犯行時にアリバイを主張できる」
「……毒入りパンを置いとくくだりは納得できたけれど、そのアリバイトリッ
クを柱とした殺害計画が、何で密室トリックに変わるんだ? いくら双子の弟
が新たな駒として急遽登場したとしても、つながりが見えないよ」
「当日の朝早く、犯人が毒入りパンを仕掛け終え、引き上げようとしたときに、
ちょうど柴田幸二が現れたとしよう。犯人は幸二を幸一だと思い込み、怪訝に
感じつつも身を隠す。そうこうする内に幸二はパンを食べて死んでしまう。予
定外の展開に犯人は、赤坂美子と連絡を取ろうとする。会う約束をしていたは
ずだからね。その変更を申し出て、柴田の家に来させる。『柴田幸一が予定よ
り早く死んだが、赤坂もなるべく早く殺せば、死亡推定時刻のずれは犯行後の
細工でごまかせる』とでも考えたんだろう。赤坂を待つ間、電気敷布を持ち出
し、遺体の温度を保とうとした」
ここで電気敷布が登場する訳か。
「ところが、そこへ幸一が帰宅したため、犯人は恐慌を来しただろう。赤坂を
呼んだのだから、柴田幸二の遺体は一時的に隠しており、発覚を逃れられる。
だが、混乱は収まらないまま、対策を講じる羽目になった。会話を交わし、あ
とから現れた方が幸一だと気付いたかどうか、僕は疑わしいと思っている。そ
の理由は後で述べるとして、とにかく、毒入りのパンで幸一も死亡する」
「毒入りパンは二つあったというのか?」
「幸一が好物の激辛カレーパンを複数個、買いだめしていてもおかしくない。
一つだけ毒入りにすり替えても、それを犯人が願うタイミングで口にするとは
限らない。全部を毒入りにしておけば、問題なく食べさせられる」
「そうか……」
「犯人は死体が一体増えたことで、計画変更を余儀なくされたろうね。多分、
犯人は偽の遺書を用意していただろうから。そこに書かれた内容と、実際の状
況が異なるようでは、遺書を使えない。電気敷布による死亡推定時刻のごまか
しもあきらめ、他のやり方で自殺に見せ掛ける方法に頭を悩ませる。そして例
の密室トリックを思い出すか、あるいはメモ書きから見つけるかして、使おう
と決める。
赤坂美子がやってきたのは、そのあとだろう。犯人は彼女を刺殺する。計画
では出血のない殺害方法を用意したと思うが、変更に伴い、刺殺を選んだ。返
り血を浴びかねないデメリットはあるが、殺害現場が柴田宅内だと示すことを
優先したんじゃないかな。凶器も明らかにあの家の包丁が使われたと分かる。
それから――犯人が双子の区別が付いていなかったと判断する理由につなが
るんだが、犯人は柴田兄弟の靴下を脱がせた」
推理の展開に唐突さを覚え、私は思わず「え!」と叫んでいた。
「犯人が脱がせたというのか? 何でまた犯人はそんなことを」
「犯人はまず、さして考えずに、先に殺害した柴田幸二を密室作りに利用しよ
うとしただろう。三人の被害者の内、死後硬直の進行が早いのは、言うまでも
なく幸二だ。ところがうまく行かなかった。一見すると、身長や体格に差はな
いようなのに、何故? そこで犯人は爪先を比べてみた。そして双子とはいえ
一卵性でないこともあってか、足の指が相当異なる事実を犯人は見付ける」
「足の指が異なる? もう少し詳しく」
「人間は足の指の長さによって、大まかに三タイプに分類できるそうなんだよ。
五指の内、一番長いのが第一指である人と、第二指である人、あるいは五指と
もほとんど差がない人の三つに」
あとになっても覚えていたら、詳しく調べてみよう。衣川が犯人だったら、
それどころじゃなくなる可能性があるけれども。
「犯人は足先を見て、最初に試した遺体が幸一ではないと気付いたんじゃない
かと思う。この説が成り立つには、密室トリックを試した際に、柴田幸一の素
足を目の当たりにしていることが条件なんだが……」
「……」
私は返事のしようをなくした。地天馬が衣川を最有力容疑者と見なす理由が、
よく理解できたから。絶対確実な物的証拠はないとはいえ、全ての状況に当て
はまる犯人像の筆頭はやはり衣川だと認めざるを得ない。
私は地天馬の沈黙を感じ取り、ゆっくりと尋ねた。
「どうするつもりなんだい?」
「彼に先ほど宣言した通りだ。もう一度、調べる。ただ、他の容疑者の洗い出
しと平行して、物証も探す」
「証拠探しは衣川を犯人と仮定して、か」
「決め付けはしない。だが、優先はする。とにかく、早く解決すべきだ。僕の
推理が的を射ているとすれば、この事件の犯人は思いもよらぬハプニングで計
画が崩れかかったにも拘わらず、連続殺人を決行した。罪を被らずに済む可能
性が低いのは、当人も承知の上のような気がするな。それでも敢えて三人を殺
したのは、内心、自棄になっている恐れがある。下手な形で追い詰めたくない」
地天馬の話を聞く内に、私の頭には妙な考えが浮かんだ。次の瞬間にはまさ
かと打ち消し、声に出しはしなかった。
(衣川が私を通じて地天馬に依頼をしてきたのは、この謎を見破れるかと挑戦
してきたのか、それとも早く解いてくれというシグナルなのか)
考え込む私の前で、地天馬ははっきり言った。
「実は下田警部に、柴田兄弟それぞれの足の指の長さについて、調べるように
言っておいた。さっき話した推測と合致するか矛盾するか、確かめる必要があ
るからね。分かったら知らせてくる手はずになっている」
「そこまで警部達が動いてくれると言うことは、警察も概ね、賛同なんだな。
衣川には見張りが付いているんだろうか?」
「そこまでは教えてもらえなかったが、多分」
見張りが付いている方が安心だ。そう思った。
その後、柴田兄弟の足の指に関して、形状が異なる事実が確認された。ちな
みに幸一は第一指が一番長いエジプト型、幸二は第二指が親指より長いギリシ
ャ型というタイプだったらしい。
この結果を受けて警察が動いた。衣川に衣服を提出させたのだ。紺のジャケ
ットと白いセーターを始めとする、彼が冬によく着る服を調べて証拠を見つけ
ようとの腹づもりである。
「何も見つかりやしないのに」
衣川は付き添ってきた私や地天馬に、苦笑顔を向けた。待つように言われた
空き室は二十人ほどで会議ができそうなくらい広かったが、今は三人きりだ。
無論、ドアの外、廊下には見張りが待機しているんだろう。
「ねえ、地天馬さん。あなたから言ってあげてくれませんか。警察に無駄な仕
事をさせるのは、本意じゃないんです」
「部外者が進言しても、彼らは自分達の仕事を自分達で確かめるものですよ」
地天馬は窓の外に視線を向けたまま、ゆっくりと答えた。衣川は大げさに嘆
息した。
「それは理解できますがね。私が犯人だと仮定しても、どんな格好で犯行に及
んだか、分かりゃしないでしょうに」
「いつも同じ格好の犯人が、犯行日に限って違う格好をしていたら、殺そうと
する相手から不審がられる。それを避けるために、普段通りの格好でいたに違
いないと推測するのは、さほど間違ってはいないでしょう」
「だとしても、犯行のあった日から、時間が結構経っているから、証拠なんて
なくなっていそうだ」
「――衣川さん。あなたが共作作家として機能していなかったのは、事実のよ
うですね。推理作家の片割れなら、そんな台詞は出て来ない」
「かもしれません。ま、血痕は割と長く残ることぐらいは、知っていますよ。
拭いたり洗い流したりして目に見えなくなっても、薬で簡単に検出できるんで
すよね」
「よくご存知のようだ。先ほどの認識を改めるべきかな?」
地天馬が若干、おどけた口調で言うと、衣川は急いだ風に首を横に振った。
「柴田の相談に乗る内に、自然と身についた知識に過ぎません。……これから
はちゃんと勉強して、改めて小説執筆にチャレンジしようかと思っているです
がね。出版社からすでに色々とせっつかれているし、柴田のためにも幸島大士
郎の名を残したいという気持ちが強い」
「そうでしたか。だったら、言っておかなくちゃいけないな」
地天馬が私に目配せをする。私には何のことだか分からない。地天馬はあき
れたとばかり、肩をすくめた。
「今度の体験を小説化するのはご遠慮ください、と言っておかなきゃいけない
よ。君の仕事がなくなる」
探偵のジョーク。私は笑おうとして、少し表情が引きつってしまった。
衣川は一瞬、唖然とした顔つきになったが、すぐに目尻を下げた。そうして、
「いやあ、残念。私個人の第一作のネタに、と目論んでいたのに」
などと言う。即座にこんな返しができる衣川は、幸島大士郎の広報としてふ
さわしかったんだと思う。
「仕方がない。柴田の遺してくれたアイディアノートを見て、何か捻り出すと
するかな」
衣川が軽口を叩いたところへ、ノックの音が重なった。ドアが開く。
下田警部と花畑刑事が現れ、地天馬だけを手招きして呼んだ。そして何やら
耳打ちをし、メモらしき紙を見せる。地天馬はうなずくと、元の席に戻ってき
た。そして話し始める。刑事二人は戸口のところに立ったままだ。
「残念な結果です、衣川さん」
「――というと、物的証拠が出たと彼らは言ってきたんですか?」
「ええ」
「し、しかし、赤坂さんの血が付いているはずがないし、万が一、付いていた
としても、私が遺体を発見したときに付いたかもしれない」
「遺体発見時には血は固まっていたはずなので、そのときに被害者の血があな
たの衣服に付着することはありません。それに、警察が見つけた証拠は、血痕
ではないんです」
「えっ、他に何があるって言うんです?」
衣川の反応はまるで、血痕のチェックは完璧だったと暗に語っているようだ
った。
「指紋が出たそうです」
「布から指紋が取れるんですか?」
「取る方法は色々あります。ある種の金属を蒸着させたり――」
「地天馬さんが言うからには、そうなんでしょう。ですが、指紋が何だと言う
んでしょう? 私は柴田や赤坂さんとは知り合いだ。しょっちゅう着ている服
に、彼らの指紋が付いていたとしても不思議じゃない。柴田幸二に関しては、
死んでいる彼を見つけたんだから、そのとき付く可能性がある。証拠には……」
「遺体発見は、犯行推定時刻から二日ほど経過していた。汗などの分泌物がな
いと、指紋は普通、残らないものです」
「知識はどうでもいいんですよっ。問題は、本当に指紋が付着していたのかど
うか。それも柴田幸二のものでなければ話にならない」
力説する衣川には、焦りの色が明白に見て取れた。そんな彼に、地天馬は決
定的な事実を突き付ける。
「僕の推測では、犯人は最初、幸二の遺体を首吊り状態にし、密室を作ろうと
した。だが、成功しないので、兄弟の足を見比べようと思った。そのとき、幸
二を首吊りの姿勢のまま、靴下を脱がせたんじゃないか。その方が脱がせ易い
し、もしも修正して幸二の遺体を使えるようであれば、わざわざ下ろすのは労
力の無駄と考えたのかもしれない。犯人はその後、幸一の遺体も裸足にして、
指の長さの違いに気付く。これは幸一の遺体でなければ密室を作れない。そう
判断し、犯人は幸二の遺体を下ろした。そのとき、指紋が付いた可能性がある
ことを僕から警部に伝えた。容疑者全員の衣服などを調べるべきだとね。その
結果、あなたのジャケットから柴田幸二の指紋が検出されたそうです」
「そんな……ばかな。出るはずがない。付着したとしたら、遺体を発見したと
きしかないんだ。私はあのとき初めて、柴田幸二と会ったんだから。――そう
だ。私はあのとき、死体を見て驚いていた。汗を大量にかいたかもしれない。
その汗が柴田幸二の手に付き、その指先が私のジャケットに触れてしまったん
じゃないかな?」
反論を試みる衣川。私にはその必死さが、悲しく映った。犯人でない者が濡
れ衣を着せられた場合でも、必死になるのは当然だが……今、目の前にいる衣
川はどこか違う。
「指紋を形成する分泌物を調べれば、あなたの汗かどうか、判定することは可
能です。必要とあらば、そうなるでしょう。ねえ、警部?」
「ああ、そうなりますな」
地天馬の急な呼び掛けにも、下田警部は淡々と答えた。地天馬は衣川に向き
直り、再び話し始めた。
「ただ、今回は必要がないかもしれない。何しろ、ジャケットから検出された
のは、柴田幸二の足の指紋なんですから」
「足?」
おうむ返ししたあと、言葉をなくしたように固まる衣川。ジャケットから幸
二の足の指紋が出たことの意味を、頭の中で検討しているのだろうか。
「現場を目にした衣川さんなら、よく分かっていると思うが、柴田幸二はテー
ブルに突っ伏す形で死んでいた。何かの弾みで足の指紋が、発見者であるあな
たのジャケットに付くはずがない。一方、首吊り状態にあった遺体を下ろした
犯人の服になら、足の指紋が付いてもおかしくない」
「それは……」
後付けの理由を探しているのか、衣川は視線を宙にさまよわせる。その様を
見守る地天馬に私、二人の刑事。
静かな時間はさほど長引かなかった。程なくして衣川はあきらめた。がくり
とうなだれ、「私がやりました」と認めた。意外にはっきりした発声だった。
私は衣川が連れて行かれる前に、警部達に頼んで、時間を少しだけもらった。
聞いておきたいことがあったのだ。
「衣川。どうして依頼してきたんだ? 地天馬の能力を侮ったのか?」
「いや」
弱々しい口調で彼は答えた。同じく弱々しい目線を地天馬の方に少し向け、
すぐまた私を見た。
「名探偵の力を見くびった訳じゃない。正直言って、自分でもよく分からない
んだ。計画がハプニングで崩れかかって、失敗の確率が飛躍的に高まったと覚
悟した。だったらいっそ、名探偵に依頼してその力を試してみたかった……の
かもしれない。それに」
衣川の口元がほんの少し、ゆるむ。目元は逆に、申し訳なそうに下がった。
「あわよくば、君の立場に成り代わりたかったんだ。柴田幸一というパートナ
ーを失うと、私は何もできない。地天馬鋭のワトソン役に収まれば、また安泰
かなとね」
「じょ、冗談だろう?」
「それがそうでもないんだ。だから、さっきは心底驚いたよ」
「さっき?」
いつの話をしているのか分からず、そのまま聞き返した。衣川はすぐに答え
た。当たり前のように、さらっと。
「地天馬さんが『今度の体験を小説化するのは遠慮してください』云々と言っ
たときさ。ああ、この人は本当に優れた探偵なんだなと、身に染みて分かった
よ」
――終わり