AWC 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[03/10] らいと・ひる


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★タイトル (lig     )  06/09/01  20:33  (367)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[03/10] らいと・ひる
★内容                                         06/09/02 21:21 修正 第2版

■Everyday magic #3

「呪文ってさ『Abracadabra』じゃなくてもいいって言ったよね」
 机の上に置いたホワイトラビットに向かい、ありすは魔法についての講義を受け
ていた。そして、そのお復習いの為にいくつかの質問をしていた。
「魔法を導くことができるのなら、新たに創り出しても構わない。ただ、ゼロから
創り出すとなるとかなり大変じゃ。一つ一つの文字に込められた意味や組み合わせ
による変化等をすべて理解せねばなるまい。意味を知ったところでセンスがなけれ
ば、効率のよい呪文は創れぬ。だからこそ、先人達の創り上げた呪文を利用するの
が一番なのじゃ。特におまえのような素人はな」
「うーん」
 ありすはしばらく考え込む。センスというならば 『Abracadabra』は古すぎるの
ではないかとの見方もある。
「『Abracadabra』では何か不満か? 先ほどの戦闘でも使えたではないか。後は
訓練すれば実戦でも苦労することはないと思うが」
「うーん、なんかね。いまいち格好がつかないんだよね」
「格好ばかり気にしてどうするのじゃ」
「日本人は形から入るんだよ。今のままじゃ、魔法に対する情熱も冷めちゃうかも
しれないよ」
 それが詭弁であることを承知でありすは押し通す。魔法に対するイメージの差を
埋めるのには、せめて呪文だけでもという考えもあった。
「ありすがそれでは効率が悪いというのならいたしかたないが、苦難の道だぞ」
「うん。とりあえず、試しにやってみるね」
 ありすは椅子から立ち上がると、手に持ったシャープペンシルを魔法の杖のよう
に振りながら呪文を唱えた。
「ピピルマピピルマプリ」
「ちょっと待て」
 詠唱の途中で待ったをかけたのは、もちろんホワイトラビットだ。
「へ?」
「それはどういう意味を持っているのだ? だいたい、未熟なおまえが魔法を導く
場合、己の理解できる言語で意味を持たせなくてはならぬ」
 口うるさい小姑のような台詞にありすはうんざりする。
「そうだけど、枕詞みたいにいちいち日本語で解釈を付けるのもどうかと……」
「ありす、云ったはずだ。魔法を導くことができなければ意味はないと。必要なの
は、己を守り、敵を殲滅する為の力を持った呪文じゃ」
 ホワイトラビットにとってそれは正論であろう。お遊び半分の呪文など、承認で
きるはずがない。
「ラミパスラミパスとか、パラレルパラレルも却下されそうだね」
「馬鹿もん! 意味のない言語の羅列は無駄じゃと云っておろう」
「びっくりだよ。そんな大声出さなくてもわかってるって」
「わかっているなら基本に戻るのじゃ」
「乗らないんだよね。気分が」
「幼子のように駄々を捏ねるでない」
「わかりました。やればいいんでしょ」
「ならば魔法の発動までをいかに短くするかの訓練じゃ。今から詠唱百回!」
「勘弁してよぉ」
「弱音を吐くな」
「楽な方法ないの? もっとさ」
「そんなものあるわけがない。いくら汝に素質があるからといって、日々の鍛錬を
怠っては実戦で使い物にならなくなる」
「ずっとそんな事やってたら、実戦の前にヘトヘトになっちゃうよ」
「よくそこまで不平をたらたらと述べられるな」
「やっぱりさ、魔法って精神的なものが影響してくるでしょ。気分が乗らないとき
は、いくら効果のある鍛錬でも却って逆効果になると思わない? あたしもそれだ
け精神的に疲れてるわけでさ……」
 ホワイトラビットは何かに気付いたのか、それまでの続けざまに発していた言葉
に間を空ける。
「ん? 疲弊している割には言葉になにやら不穏当な雰囲気が漂っておるぞ。それ
とも気付いていないだけか?」
「さて、何の話でしょうか?」
 ありすは誤魔化しの意味も含めて苦笑いをする。
「本当に無意識なのか?」
 ホワイトラビットは気付いていたのだろう。ただ、直接言葉に出されたわけでは
ないので叱るわけにもいかず、ただ黙認するしかない。
 『ラミパス……』から『やっぱり』まで、ありすの言葉の頭文字を順番に並べる
と文章になる。つまり『ラ・ビ・の・わ・か・ら・ず・や』と。
 無意識というのは正確ではないが、ちょっとした偶然がきっかけで、このように
アクロスティックを日常会話に組み込んでしまうことがごくたまにあるのだ。とは
いえ意図的にいつも組み込めるわけではないので、特技と呼ぶには心許ない。
「あのさ、もう一回試させてくれないかな。今度はきちんと意味のある呪文にする
し、これで駄目だったら諦めるから」
 仕切り直しということで、改めてホワイトラビットに懇願する。
「わかった。一回だけ試してみるがいい。じゃが、成功しなければ既存の呪文に戻
るぞ」
「うん」
 返事をすると、ありすは目を閉じて両手を胸の前で交差させる。次に頭の中に魔
法の効果を思い浮かべた。
 それを導くような言葉をありすは口の中で声に出さずに呟く。途中でホワイトラ
ビットに邪魔をされてはかなわないと思ったのだ。
 どくん、と鼓動が高まった。
 イメージが頭の中に広がり、それを具現化する為の力が身体の内より生まれ出る。
 最初は胸の奥が熱くなるような感覚だったが、それがだんだんと身体全体へと伝
わっていく。
 ついには炎に包まれたかのような熱がありす自身を襲う。
「熱!」
 たまらず声に出した瞬間、ありすの身体は急激に平熱へと引き戻された。
「ありす、大丈夫か」
 ホワイトラビットがありすの身体の変化に気付いたようだ。口調から心配してる
素振りが窺える。
「やっぱり魔法、発動しなかったね。才能ないのかな」
「いや、一瞬だが、防御の魔法が発動しかけておった。今の段階では役には立たな
いが、鍛錬すれば使えるようになるかもしれん。守りの呪文は教えてなかったが、
ありす、おまえはどうやって魔法を導いたのじゃ」
 そう聞かれてもありすには上手く答えられなかった。イメージから魔法を導くと
いう理屈はわかったが、彼女が行ったのは 『Abracadabra』と同じく元となる呪文
からの真似だ。
「うん、ちょっとね。アニメの主人公になったつもりで呟いたの」
「どんな呪文だ?」
「『絶対、大丈夫だよ』って」
 呪文に分類してしまってよいものかとの疑問もあるが、ありすはこれは無敵の呪
文だという噂を聞いたことがある。いや、その噂は本来、笑い話の部類に入るのだ
が。
「……」
 ホワイトラビットはそのまま黙り込んでしまう。呆れてしまったのか、それとも
怒らせてしまったのか。
「ねぇ、怒ったの?」
「いや、しばらく我は休息を取る。その間、好きに鍛錬するが良い」
 その言葉はなぜか穏やかだった。怒りも呆れも、見放すような口調でさえない。
「え? いいの? 他の呪文とか試してみても」
 ありすはホワイトラビットの言葉に他意があるのではと心配になる。
「汝の好きにするが良い。ただし、物語の影響を受けすぎるでないぞ。下手をすれ
ば邪神の類すら呼び出しかねないからな」


「ねぇ、ラビ。ほんとにこの格好で出るのぉ?」
 自動販売機の陰に隠れていたありすは、胸に抱えたホワイトラビットに問いかけ
る。もちろん、ネコ耳のカチューシャを装着していた。
 ここは商店街の一角だ。家の中にいたのでは敵を見つけられないから外に出るよ
うにと、ホワイトラビットに指示されたのだった。
「我の居場所が知れわたるのは時間の問題だ。ならば、こちらから討って出るのが
得策であろう」
 たしかに敵を殲滅することが目的とするならば、守りに入っていては効率が悪い。
「だいたい、その邪なるモノってなんなの?」
「昨日説明したはずじゃ。何度も云わせるな、我の敵であり、放置しておけば人間
を害する」
 半分寝ぼけていたありすには、肝心の知識は頭に残らなかったようだ。
「そんなに簡単に見つかるのかなぁ」
「我の匂いを嗅ぎつけて嫌でも向こうからやってくるわい。あの場所に居た時は結
界のおかげで奴らから逃れることができていたがな」
「だったらあの古本屋にずっといれば良かったのに……」
「戯け! それでは根本的な解決にはならん」
「わかってるよぉ」
 ありすは覚悟を決めて自動販売機の陰から出る。その時、ちょうど前から歩いて
きた若い男と目が合ってしまう。
「にゃっ!」
 相手の表情がニタリと不気味な笑みを浮かべたので、それが怖くて再び引っ込ん
でしまう。
「どどどどどうしよう。その手の趣味の男の人にビンゴだよぉ」
 ホワイトラビットに顔を寄せて泣きそうな声でありすは呟く。
「ね、ねぇ、キミさぁ」
 先ほどの若い男が言い寄ってくる。小太りで、そんなに気温も高くないのに額に
汗が吹き出している。後部のデイパックにはポスターが刺してあり、アニメのキャ
ラクターが描かれた紙袋を下げていた。
 ありすの本能が危険を告げる。
「さ、さよならー」
 全力でその場から駆け出すありす。その瞳には涙が溢れていた。


 ネコ耳付きのカチューシャを外したありすは、人気もまばらな夕刻の公園にいた。
噴水の縁に腰掛けて、疲れたように遠くを見つめている。
 ここは都内でも最大規模の公園であった。それもそのはず、三年前までここには
様々なビルが建ち並ぶ商業地帯だったのだから。
「そろそろ日も落ちてきた。この程度の夕闇なら装着しても目立つまい」
「……」
 ありすは諦めたように溜息を吐くと、再びカチューシャを装着しようとして根本
的な事に気が付く。
 せっかく髪を纏める為に三つ編みにしているのに、それにカチューシャを着けて
も意味はないのではないか。そう思い、おもむろにその髪を解いていく。
 夕暮れの気まぐれな風がありすの頬を撫でる。胸まである彼女の髪は解けてその
風に靡いた。
「どうした? 髪など解いて」
 ホワイトラビットが不思議そうに問いかける。
「まあ、たまにはいいかなって」
 彼女はそう呟いてカチューシャを持ち直す。そして額から後ろへと髪を梳くよう
に装着した。
 顔全体に風を感じる。普段は前髪を垂らしているので新鮮な感じもした。そうい
えば昔こんな風におでこを出したことがあった、ありすはそんな事を思い出してい
た。
「なんだかいつもと雰囲気が違うな」
 声だけでははっきりわからないが、ホワイトラビットのその口調は照れているよ
うにも感じた。
「いつもって……出会って三日目なんですけど」
「そうだな」
 ありすはそのまま立ち上がって風を全身に受ける。心地良い空気の流れ、緑の香
り、鳥の声。まるで世界が一変したかのようにも思える。
「昔ね。あたしには大親友って言えるほどの友達がいたの。このカチューシャはね、
その子と一緒に遊びに行ったテーマパークでお揃いで買ったの。当時はお気に入り
だったわ。恥ずかしげもなく、日常的に付けていた時期もあったの」
 彼女は静かに語り出す。
「その子とは連絡を取っているのか?」
 ホワイトラビットのその質問に、ありすは下を向く。そして、一瞬の沈黙の後に
こう答えた。
「ううん。お別れの直前に喧嘩してしまってね。それっきり」
「そうか」
 それ以上は訊かない。それはホワイトラビットなりの気遣いなのだろう。
 淀みなく流れてくる風さえもありすには優しかった。
 だが、緩やかに吹いていた風が一瞬やむ。
 そして、不意に突風が吹き荒れた。
 砂が目に入りそうになったので、彼女は右腕を顔の前にかざしその風を避けた。
「ありす!」
 ホワイトラビットが叫ぶ。同時に嫌な気配。
「うん」
 彼女にはわかっていた。ネコ耳はその為のマジックアイテムなのだから。
 風が流れていった先には、空中を浮遊する蛸がいた。そして今度はもう一匹、別
の形の化け物を確認できる。
 大きさは蛸と同じ全長が一メートルはありそうなそれは、巨大な虫であった。全
体を硬い殻で覆われたダンゴムシのようなものである。
「二つともスピードは遅い。だが、硬い方は攻撃されるときついぞ。気を付けるん
だ」
 ホワイトラビットの言葉が終わらないうちに、二匹の化け物はありすに向かって
放たれた矢のような勢いで突進してくる。けして鈍い動きではなかった。
「何をどう気を付けるのよぉ?!」
 ありすは二つの化け物を必死になって躱す。その心に余裕などなかった。
「汝の雷を死に浴びせよ。あぶらだぶら! あぶはらぶらだ!」
 呪文に魔法など込めていられない。しかも、焦っているのかきちんと呪文が言え
ていない。まるで早口言葉の練習のようだ。
 ありすの詠唱は失敗に終わった。
「落ち着け」
「どうやって落ち着けっていうの。一つやっつけるのだって大変だったのに、いっ
ぺんに二つもなんて無理だよぉ。昨日みたいに動きだけでも止めてよぉ」
「落ち着いて対処すれば大丈夫だ。どちらも邪なるモノの中でも下等の部類だ。見
た目通り虫程度の思考能力しかない。昨日の件は、ちょうど目視上に邪なるモノが
いたからタイミングよく魔法をぶつけることができただけじゃ。動けない我には、
今の状況で魔法を使うことなどできぬ」
 ありすは死に物狂いで逃げながらも、今ホワイトラビットが言った言葉を頭の中
で咀嚼する。
「じゃあ、目の前にいればいいのね」
 いいアイデアとは言えないが、能力の低いありすにはその方法しか思いつかない。
「そういうことだが……何をする?」
「分担作業しかないでしょ」
 そう言ってありすはその場に立ち留まり、ホワイトラビットを持った右手を迫っ
てくるダンゴムシに向ける。
「ラビはあっちの方をヨロシク」
 ありすの左手は蛸を指す。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 ありすとホワイトラビットの声はほぼ同時だった。二本の矢がそれぞれの方向に
飛んでいき相手を貫く。魔法が効いた事を示す二つの光の爆発が確認できた。
 ありすが攻撃した方は消滅したはず。ならば、のんびりしている場合ではない。
ホワイトラビットの攻撃は時間稼ぎにしかならないが、それでも各個撃破する為の
戦術にはもってこいだ。
 閃光が消え、空中に停止しているダンゴムシに向かって今度はありすの左手が向
いた。深呼吸をして息を整える。
 そして、もう一度呪文を唱えた。
「汝の雷を死に浴びせよ! 『Abracadabra』」
 彼女の放つ光が邪なるモノを貫いた。
 光は爆発し、閃光の後にはもう何も存在しない。
 気が抜けたようにありすはその場にぺたんと座り込む。
「大丈夫か?」
 ホワイトラビットの気遣いが彼女にはなんだか嬉しかった。厳しくありすを叱責
する事もあるが、それでも彼女を見捨てることはない。
「大丈夫?」
 ふいを突く声。
 それは少女のものだった。もちろんホワイトラビットではない。
「にゃ?」
 振り返った彼女は仰天する。
 そこには自分と同じくらいの年頃の少女が、こちらを不思議そうに眺めていたの
だ。
 急いで頭を隠そうとするが、その動作は途中で止まる。
「そのネコ耳……」
 彼女の目線はありすの頭の上だ。隠すには遅すぎた。
「……ねぇラビ。泣いていい?」
 右手のホワイトラビットに彼女はそっと告げる。
「コスプレ?」
 そう呟いた少女と目が合ってしまう。
「……えーん、悲しすぎて涙が出ないよぉ」
 ありすは目の前が真っ暗になった。頭の中は真っ白だった。一般人に目撃される
のは何度目だろう。
 これで近所に噂されるのだろう。頭のおかしなネコ耳を付けた女の子がうろつい
ていると。そのうち話は歪められ、小学校では怪談話として盛り上がるのだ『怪奇!
 人面ネコ』と。いや、普通にネコ耳付けた人間なんですけど。
「ぬいぐるみ?」
 少女の視線がありすの右手に持ったホワイトラビットへと向かう。それは予期せ
ぬ言葉だった。
 なぜなら、通常の人間にその姿が見えるはずがない。
「へ? 見えるの?」
 右手に注がれていた視線が再びありすに向く。少女と再び視線が交差する。立ち
上がってみると背丈はありすと同じくらい、顔立ちは整った美少女。ただ、衣服は
かなり人目を惹く格好であった。
「それ、ウサギのぬいぐるみだよね?」
「ウサギではない、我が名は@☆※£@」
 少女の問いかけにホワイトラビットは怒声で反応する。その存在が見えているこ
とは確かだった。
「きゃ! ぬいぐるみが喋った。え? それともあなたの腹話術?」
 ありすは驚いて口をぽかんと開けたままだ。それはそうだ。普通の人には確認で
きないホワイトラビットが見えるばかりか、その声まで聞けるのだから。
「そうね。口を開けたままじゃ、少し無理があるかもね」
 彼女は一人納得しているようだ。
「我が見えるとは素晴らしい。あと四日早く汝と会いたかったものだ」
 ホワイトラビットが喋って驚いたのは初めの一瞬だけであった。怖がることも逃
げ出すこともなく、少女はにっこりと笑みを浮かべながらありすの前に立っている。
「ちょっと待って。あなたは驚かないの? こんなぬいぐるみみたいな物が喋るん
だよ」
「うん、不思議だと思うけど、それほど驚く事じゃないと思うよ。だって、すごく
ファンタスティックじゃない」


「私は能登羽瑠奈(のとはるな)。月見学園の二年生よ」
 前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、肩口まである艶やかな黒髪、背の高さはありす
とほぼ同じでフリルの付いた黒いドレスのような洋服を纏っている。流行のゴシッ
クロリータだが、彼女が着るとあまりにも自然で、その自然さが却って非日常的な
印象を受ける。
「あ、学年一緒なんだ。あたしはね、穴中。穴中の二年生。叉鏡ありす」
 ありすは簡単な自己紹介を済ませた後、公園の隅にあるベンチの所へ行き、そこ
に座って今までの経緯を羽瑠奈に話した。
 無闇に話していいものかと一瞬悩んだが、見えないはずのホワイトラビットが見
えたのだ、信じてくれる可能性もあるとありすは判断する。
 古本屋でぬいぐるみを見つけたこと、魔法を伝授されたこと、そして部屋での最
初の戦いを掻い摘んで説明した。
「ふーん、ということは、ありすちゃんって地球を守る正義の魔法使いなんだ」
 疑うことなく信じてくれたものだから彼女は拍子抜けする。それに、初対面だが
『ありすちゃん』と好意的に呼んでくれたことも嬉しかった。
「えへへ、まだ見習いみたいなもんなんだけどね」
 照れて頭を掻くような仕草をしながら、ふと目線を下に逸らすと視界に白いもの
が映る。それは、羽瑠奈の左の袖口から見え隠れする包帯だった。
 ありすの目線に気付いたのだろうか、彼女は袖口を少しずらしてこちらへとその
包帯を見せてくる。それは、手首から親指の付け根にかけて巻いてあった。
「これは、別に大した怪我じゃないの。うん、二週間くらいピアノが弾けなくなる
くらいのもので、今はほとんど完治しているはず。気休めで湿布を付けているだけ
なんだけどね」
「まだ痛むの」
 なんだか痛々しく感じたので、ありすは心配そうにそう問いかける。
「うん。というか、治っているはずなのに、未だにピアノを弾くことができないん
だよね」
「どうして?」
「指の感覚がなんだかおかしいの。ちょっと痺れた感じがあって。……お医者さん
は精神的なものだって言うんだけど。どうなんだろう? 怪我を負った二週間の間
にライバルに先を越されて焦ってるのかもね」
「ライバル?」
「うん、同じトコのレッスンに通ってる人。私より三ヶ月遅くに入ってきたの。で
も、休んでいる間に私は追い抜かれてしまった。だから、どうしてもあの人に勝ち
たかったの。それなのに今の私は前に進むことすらできないの」
 羽瑠奈の答えは悔しさが滲み出てくるような悲痛な言葉だった。
「ねぇ、羽瑠奈ちゃん。羽瑠奈ちゃんはどうしてピアノを弾き始めたの?」
 ありすは穏やかな口調で羽瑠奈に問いかける。それはまるで古くからの友人に言
葉をかけるようだった。
「うん、小さい頃にね、親戚のお姉ちゃんが弾いてくれたモーツァルトのピアノ協
奏曲が大好きでね。それをどうしても自分の手で弾いてみたくなって始めたのがき
っかけかな」
 ありすの言葉に包まれて、羽瑠奈の口調も穏やかになりつつあった。
「あたしね。昔から不思議に思っていたことがあるんだ。どうして芸術に勝ち負け
があるんだろうって。上手い下手はあっても、それは勝ち負けじゃないでしょ。な
のに、まるでデジタルの世界だよね。0か一かって。音楽を含む芸術作品ってそん
なに単純なのかなぁって、いつも不思議に思うんだよね」
 素朴な疑問に想いを込めてありすは静かに語った。
「どうしてだろう? でも、人間は誰かに勝ちたい。誰かより自分は優っていると
いうことを誇示したい。そういう生き物なんだよ」
 それは本当に悲しそうな答えだった。羽瑠奈自身はもう自覚しているのだろう。
「それはプライドに縛られた悲しい人間の習性だよね。でもさ、何かを好きな気持
ちって他人に評価できるものなの? 羽瑠奈ちゃんが大好きだと思ったピアノは、
他の誰かの大好きと比べて意味のあるものなの?」
「ありすちゃんって意外と理屈っぽいんだね。うん、他人からの評価を窺ったり比
べたりするのは確かに人間の悪い部分なのかもしれないね」
 彼女は自嘲気味に笑う。
「勝ちたい。でも、勝った先に何があるの? 名誉? 地位? お金? そういう
のが目的ならあたしは何も言わない。それはそれできちんとした目的なのだから。
でもね、目的だけが主体になって大好きだった気持ちをどこかへ捨ててしまうのっ
て悲しいよね」
 それが子供じみた考えだということはわかっていた。そうしなければ生きていけ
ない人間がいることも理解していた。でも、ありすはその考えを受け入れることは
できなかったのだ。
「それはしょうがないことなんだよ」
 諦めたような言葉がありすの心に引っかかる。
「しょうがない……か。でもさ、ピアノを弾けなくなってしまったら、勝ち負けす
らないんだよ」
「そうだけど……」
「だったらさ、しばらくはその事を考えるのはやめたらどうかな? その間に原点
に戻ってみればいいと思うよ。もしかしたら、答えが見つかるかもしれない」
「原点?」
「ピアノを弾かなくてはならない目的じゃなくて、ピアノを弾き続けたい理由だよ」
 彼女には勝つ為にピアノを弾くという目的以外に、大好きだからこそピアノを弾
き続けたい理由があるはずだ。何かに憧れた気持ちがきっかけとなって、それがど
う自分の中で変化して大きくなったのか。それをもう一度確かめれば、つまらない
目的に囚われることもないであろう。ありすはそう願っていた。
 羽瑠奈はしばらく考え込むと、ありすに向き直り微笑みを返す。
「ふふふ、ありがとう。少しだけ気持ちが軽くなったよ」





元文書 #290 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[02/10] らいと・ひる
 続き #292 箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[04/10] らいと・ひる
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