#282/598 ●長編 *** コメント #281 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 23:02 (401)
白き翼を持つ悪魔【11】 悠木 歩
★内容
「自分でもさ、一応自覚はしてるのよね」
長い沈黙を終わらせたのは梨緒だった。
しかしその言葉は先に投げ掛けた問いへの答えとは思えず、優希は首を傾げる。
「つまりね、アタシはお金にも、男の人にもルーズってことよ」
少し寂しげな笑みで梨緒は続けた。その笑みは自嘲でもあり、また何か別の意
味を含んでいるようでもある。
「昔、アタシがちっちゃかった頃は、普通だったんだけどね。アタシも、アタシ
の家族も」
ふいに強い光が、二人の顔を舐めて行く。道路を走る車のヘッドライトが目に
入ったのだ。瞼を閉じると同時に、言葉も止まる。代わりに遠ざかる車のエンジ
ン音が、優希の耳に届く。
「お父さんが死んでからかなあ」
車の音が完全に消えて、なおもそれから少しの間を置いての一言だった。そし
て更なる沈黙。
梨緒は早くに父親を亡くしている。小学校に上がって間もなくのことだそうだ。
それ以外の詳しい話は梨緒から聞かされていない。ただ噂話は優希の耳にも入
っていた。
父親の死後、梨緒の母親には多額の保険金が入った。それを境に、母親は家を
空けることが多くなったそうだ。外に愛人を作ったらしい。そして時折家に戻っ
ては、梨緒に子どもの小遣いとしては少々多すぎる金を渡していくのだと。
父親の保険金が幾らだったのかは定かでない。事故死だったため、慰謝料も加
わったと聞く。また勤め先からの退職金等もあっただろう。ただ父親の死後、残
された母娘の激しい金遣いは事実であった。その為、妬みも加わって梨緒の母親
に対し世間は良からぬ噂を立てたのだと思われる。梨緒の父親の死は、母親が仕
組んだのではないかと。
噂が広まることで、母親はますます家を空ける時間が長くなった。導く者もな
く、たった一人大金を与えられた子どもが、その正しい使い方を学べるはずもな
い。梨緒が世間とは些か外れた金銭感覚を持つようになったのも致し方ないこと
と言えよう。
「まあ、つまりは周りの人たちに、良く思われてないって、自分でも分かってる
わけよ」
そうした事情を優希も知っているものとして、梨緒の話は続く。確かにこの町、
少なくとも優希たちの通う中学校では梨緒のことを知らない生徒を探すのは困難
であろう。
「ほら、ケンちゃん………あ、ごめん。笠原先輩のところもお父さんがいないで
しょ?」
「いいよ、ケンちゃんでも」
優希は笑って答える。
梨緒は目上の男性を「ちゃん」付け呼ぶ。時には担任教師をもそう呼んでしま
う。それを多くの人は梨緒が男に媚びているのだ、あるいは馴れ馴れしい、厚か
ましいと捉える。しかしそうではない。それが梨緒流のコミュニケーションの取
り方なのだ。いや自己防衛の手段なのかも知れない。
それは幼子が、身近な大人を「ちゃん」付けで呼ぶのに似ている。その呼称は
親愛の証であると同時に、相手の大人と自分との距離を詰めさせ、保護者の一人
とする。幼子は無意識のうちに、自分を守る術を持つ。
梨緒もまた然り。
まだ年端も行かないうちに父親を失い、母親も家を空けがちで事実上一人暮ら
しとなってしまった。あるのは子どもには持て余すような大金。あるいは他の子
であれば、頼る者のないなかで内向的な性格になっていただろう。しかし梨緒は
違った。
周囲の大人たち、それまで付き合いのなかった者たちに対しても、ごく親しい
態度で接し、その助けを得て生きて来た。それ故、いまでも、助けを得る目的が
ない相手へもその呼び方をしてしまうのだ。
「なんとなく気になってたわけよ。好きとか嫌いとかじゃなく。んー、なんて言
ったらいいのかなあ」
梨緒は天を仰ぐ。優希もつられて空を見上げた。そこには街のプラネタリウム
さえ凌ぐ数の、星々の輝きがあった。
「どっちかって言えば、気に食わない感じがしてたのよ。ま、優希のカレシだっ
て知ってたから、口にはしなかったけどね」
「彼氏じゃなくて、お・さ・な・な・じ・み」
殊更、「幼馴染み」を強調して優希は言う。だがそれは梨緒の意を得てしまっ
たらしい。感じた視線を追った優希の見たものは、満足げな笑みを浮かべた梨緒
の顔であった。
「なによ」
「なによ」
唇を尖らす優希の口調を、そのまま梨緒が返してくる。
そしてまた暫くの沈黙が続く。何時になく潮騒が大きく聞こえた。
「前に付き合ってた彼ね」
またしても沈黙を終わらせたのは梨緒であった。
「最低の男だったのよね」
優希の知る限りにおいて、梨緒と付き合いのあった男性は殆どが世間の評判が
芳しくないものばかりである。ただ極めて最近、特に評判の悪い男性と付き合っ
ていたらしいと、聞き及んでいる。多分、その男性を指して言っているのであろ
う。
「何かって言うと、すぐ暴力振るってさ。まあ、最初はそんなとこも、カッコい
いなって思った、アタシもアタシなんだけどね」
どうやら優希の推測に間違いはないようだ。地元の暴走族のメンバーで、この
町でその男性の名前を知らない者はいない。所謂悪名というやつである。
他人の交友関係に口出しするのをよしとしない優希であったが、さすがにその
男性については梨緒に対し、少々意見がましいことを言った覚えがある。
「まっ、さすがにバカなアタシも、この男はヤバイなって思ったわけ。それで別
れ話をしたら、ブチ切れされて、ボッコボコに殴られちゃったの」
「二ヶ月………前ね?」
「ん」
優希の問いに、梨緒は小さく頷いた。
丁度その頃、一週間ばかり梨緒が学校を休んだことがあった。その四日目、心
配になった優希は梨緒の家を訪ねている。
「ちょっと、色々あってさ。もう二、三日休むけど、病気じゃないから。心配し
ないで」
わずかに開かれた引き戸の向こうから、妙に落ち着いた声で梨緒が言った。し
かし薄暗い家の中、わずかな戸の隙間から梨緒の顔、左目のうえに痛々しい腫れ
があるのを、優希は見逃さない。
「梨緒! あなた、その顔」
優希の発した声に慌てるかのように、引き戸は閉ざされた。
「ホント、何でもないから」
「梨緒………」
内側から鍵の掛けられる音を聞いた優希だったが、その場を離れられずに、た
だ立ち尽くす。
周囲からは不良生徒のように言われる梨緒だが、四日も学校を休むのは珍しい
ことだった。心配になって訪ねてみればその梨緒は目の上に大きな腫れを作って
いる。友だちとして「何でもない」の一言で納得の行くはずはない。
何よりその一言を言った梨緒自身、玄関から離れずにいるそこに立っている気
配が感じられた。
薄い戸を一枚隔て、二人の少女が向き合い佇む。互いの姿を見ることは出来な
いが、互いの存在を確感じ合いながら。
「ありがとう」
いつになく弱々しく、しかし優しい言葉は梨緒のものだった。
「ありがとうって、私、何にもしてないよ」
少し戸惑いながら、優希も言葉を返す。
「ううん、してくれた。アタシのこと、本気で心配してくれたのは優希と………
優希だけだもの」
それは単に梨緒を案じていまここにいる自分のことを指しての言葉ではない。
優希はそう直感した。
「そっか。じゃ、顔が元の通り綺麗になったら、ちゃんと学校に出て来てよね」
何があったのか、詳しくは分からない。しかし梨緒の様子から、事はよい方向
へ動いたのだと察しられる。そうであるならば、これ以上深く詮索する必要はな
い。
「ふふっ………綺麗にか。優希より、綺麗になっちゃおうかな」
恥じらうような声。それでいて寂しげな声。
「梨緒?」
「ううん、じゃ、次はガッコで会おうね」
次の瞬間、その声はいつもの梨緒のものへと戻っていた。
「わかった、学校でね」
明るい声で返し、優希は梨緒の家を後にした。
「そう、二ヶ月前だった」
ふうっ、と梨緒は大きく息を吐く。街路灯と星明りの頼りない光源の中にあっ
ても、息の白さは、はっきりと確認出来る。
「ねぇ、ひょっとして………なんだけど」
生来、優希は勘のいい方であった。ここまでの梨緒との話の中で生まれた、あ
る想像を恐る恐る口にしてみる。
「ん?」
「あのさ、その、それまで付き合っていた人と別れたって話。もしかして、健司、
なんか関係、してない?」
話す優希自身は全く気づいていなかったが、その口調はいつになくしどろもど
ろとしてしまう。
「ぴんぽん」
嬉しそうに、そして無邪気な笑顔を優希へと向けた梨緒。しかしその笑顔は、
わずかに二秒ほどの後、天を仰ぎ見た時には物憂げなものへと変わっていた。
「あの日も寒かったなあ」
ぽつり。
独り言のように呟いた。
前日までの雨は上がったものの、空を覆いつくす灰色の雲が立ち退く気配はな
い。まだ本格的な冬までは間があるとはいえ、吹く風は鋭いほどに冷たく、まる
で肌を切り裂こうとするかに思える。
日曜日、楽しいデートを予定していた恋人たちの気分にも水を差す天候であっ
た。まして決意を胸に家を出た少女には、待ち受ける試練を示唆するかに感じら
れていた。
もっとも男性と二人きりで会うという点においては、デートと変わりはない。
ただしいまの少女は、恋する乙女ではなかった。むしろその男性と縁を切ること
を、強く望んでいた。
待ち合わせの喫茶店で少女は二十分近く待たされる。いつも通りに、である。
「痘痕もえくぼ」とは言うが、付き合い始めた当初は時間に捉われないところ
が彼の長所とまで思えたものである。しかしいまは、ただ時間も守れない、ルー
ズな男としか感じられない。
からから、と入り口の鐘が鳴るのが聞こえ、顔を上げる。その行動も、梨緒が
この店に入ってから、実に六回を数えていた。ようやく男が現れた。店内の時計
を見やると、約束の時間から二十三分が経っていた。
「よう、持ってきたか?」
遅れてきたことの詫びもなく、大股で梨緒の元へやって来た男の最初の言葉が
これである。
梨緒は無言のまま、銀行名の印字された封筒を、テーブルの上に置く。
「おっ、サンキュ」
封筒から梨緒の手が離れるのも待たず、男はそれを取った。上機嫌、と言うよ
り少々下卑た笑みを浮かべていた男だったが、封筒の中身を見た途端にその表情
は一変する。
「オイコラァ、なんだこれは?」
突然の大声に、注文を取りに来たのだろう。男のすぐ横に立っていたウェイト
レスが身を竦めた。
「何って、お金よ。見て分からないの?」
男の大声に慣れきった梨緒は、別段驚くこともなく、平然と言って返す。だが
この態度が男の怒りを更に刺激した。
「フザケんじゃねぇぞ。俺ァ二十万用意しろと言ったハズだぞ。あん、それがな
んだ、これァはよぉ」
怒りのままに、男は封筒から抜き取ったものを梨緒目掛けて投げつける。もっ
とも薄く軽い紙幣が、強い勢いを保って当たる訳がない。空気抵抗を受けた一万
円札が五枚、ひらひらと梨緒の周囲に散らばった。
「ちょっと、もったいないこと、しないでよ」
男に向けて、露骨に眉を顰めて見せた後、梨緒は散らばった札を拾い始める。
四枚はテーブルの上にあったため、容易に集めることが出来たが、一枚だけは下
に落ちていた。それを拾おうと、梨緒が男から視線を離し、身を屈めかけた瞬間
だった。
「やっ! 痛いっ」
突然襲った痛みに、思わず悲鳴が漏れる。男が乱暴に、梨緒の髪を掴み上げた
のだった。そのまま男は梨緒の顔を、自分の目線の高さまで持っていく。しかし
男の身長は梨緒に比べ、頭一つ分近く高い。従って髪を掴まれた梨緒は、爪先立
ちの苦しい体勢を強いられることとなる。
「痛い、痛い、やめて、離してよ!」
「おい、頼むぜ………俺を、あんまり怒らせてくれるなよ」
怒りのまま大声を張り上げる男には珍しく、静かな口調であった。だがかえっ
てそれが恐ろしく、梨緒は抵抗する言葉を詰まらせた。
「ちょっと表で話をするか? んんっ」
歪んだ笑みを浮かべると、その問いへの返事も待たず、男は梨緒の身体を店の
出口まで引き摺って行った。
誰の目にも明らかな暴力行為であったが、梨緒を助けようとする者はない。そ
の場に居合わせた全ての者が、地元の有名人である男をよく知っていたからだ。
ここで己の良心が薦める行動に出た場合、後にどんな仕返しを受けるか、想像に
難くない。実際、そうした者がどうなったか、という噂話は枚挙にきりがなかっ
た。
唯一、たまたまレジ近くに居た男性店員が「あの、お代……」と小声で言った
だけである。
対して男は足を止めることなく、背中越しに親指でそれまで梨緒の座っていた
席の方を指す。
「あれで足りるだろうが」
床に落ちた一万円を拾えと言うのだった。
「付き合い悪すぎるだろ〜、笠原さあん」
友人の少々ふて腐れた声を気にすることもなく、健司は歩を進めて行く。友人
も健司が自分を構ってくれる様子がないと悟ると小走りにその後を追う。
「本っ当、お前って冷たいところ、あるよなあ」
「そうか? 俺ほど付き合いのいい男は他にいないと、自負出来ると思ってるけ
どな」
苦笑混じりに健司は答える。
「だったらよぉ、ゲーセン寄ってこうよ。なっ? 俺、グレートファイターの新
戦法を編み出したぜ」
「だから、俺は今日、これを買いに来ただけだから、余分な金は持ってないんだ
って」
小脇に抱えた書店の包みを顎で示す健司の言葉は、些かぶっきらぼうになって
いた。無理もないだろう。このやり取りは先刻から既に、片手の指では足りない
回数を数えているのだ。
「だから、ゲーム代は俺が奢るって言ってんじゃん」
健司は一つ、ため息を吐く。
「何度目かな、俺はそんなことで人に借りを作る気はない、って答えたの」
「何度目だっけ、俺はそんなことで人に借りを作ったなんて思わない、って答え
たの」
張り合うように友人もため息を吐きながら答える。
傍目には埒もないやり取りではあったが、当人たちにしてみればこれも友だち
同士のコミュニケーションの一つであるのだ。もっとも健司は本当にゲームなど
するつもりはない。
別にゲームが嫌い、というのではなかった。実際、友人が盛んに誘っている対
戦型の格闘ゲームは健司も何度か遊んだことはあったし、得意なほうだった。友
人とは過去数回の対戦を行い、全勝している。だからこそ友人にしてみれば、た
またま町で会った健司に今日こそは一矢報いようと誘っているのだろう。
しかし学期試験を間近に控え、健司のほうはとてもそんな気になれない。その
ために先ほどから不毛な押し問答が延々と続いている次第であった。
元より幾らも距離のない商店街も終わり、お互いにそろそろ飽きが来た問答に
も終止符が打たれようかという頃だった。初めに健司、一拍遅れて友人の足が止
まる。彼らから十メートルほど先、喫茶店前から聞こえてきた喧騒によってであ
る。
「痴話、喧嘩かあ?」
果たして意味を理解しての発言だろうか。友人の言葉。
確かに喧騒の原因は一組の男女によるものであった。しかし痴話喧嘩と呼ぶに
は些か度を越している。
ぶっ殺す、男はそんな物騒な怒声を発し、女の背中を喫茶店の壁へと叩きつけ
た。更には衝撃で倒れ込んだ女の襟首を掴み上げ、強引に立たせる。これは喧嘩
などではない。男の女に対する一方的な暴行であった。
事情は分からなかったが、男のほうに理のある行為とは思えない。何か内から
起きる感情に、健司は足を前に出そうとする。
「バッカ、何考えてんだよ。つまんねぇ正義感なんて、出すなよ」
後ろから健司の右腕を掴んだ友人が言う。
「つまらない、か………」
「そうだよ、あいつ、知ってるだろう?」
そっと、距離があるのにも拘わらず、相手に気づかれぬようにと控えめな動作
を以って男を指差す。そんな友人に念を押されるまでもなく、健司もその男のこ
とは知っている。健司たちの卒業した中学校の二学年先輩で、在学当初からその
悪辣ぶりは有名だった。出来るものならば、健司とて関わりたくない相手である。
しかしこの時、健司にはそ知らぬふりを決め込めない訳があった。
「けど、あの女の子、顔見知りなんだよ。放っておけない」
「えっ、あっ、あの子………室田梨緒だ」
男にばかり目の行っていた友人も、ようやくその関心の一部を女のほうへも向
ける。男ほどではないが、梨緒もまた同じ中学校の関係者の間では有名だったの
だ。
一瞬、健司を掴んでいた友人の腕が緩まる。そのまま健司は騒動の中へと歩を
進めた。
「ばか、よせって! どんな知り合いか知らないけど、似た者同志の喧嘩だって。
関わることないって」
「あの子、優希の友だちなんだよ。ここで知らんぷりしたら、後でぶん殴られち
まう」
「ゆうき? ああ、あのお前の彼女か」
「幼馴染みだよっ」
背を向けたまま、健司は強い口調で友人の言葉を訂正した。
「分かってんのかねぇ、おつむの緩い梨緒ちゃんは」
三度目の平手打ちを梨緒の顔に当てた後、狂気に満ちた笑みを近づけながら男
は言った。煙草臭い息が梨緒を襲う。この瞬間だけを切り取って見れば、二人は
まるで口付けを交わそうとする直前のようでもある。互いの罵声を除けば。
「分かってるわよ! アンタの目当てはアタシのお金だけってことくらい」
力においては明らかに劣勢な梨緒だったが、語気の荒さだけは負けていない。
「へぇ、こりゃ驚いた。ちっとは脳みそがあるんだねぇ………」
言い終えると同時であった。
男は梨緒の胸座を掴むと、そのまま意味不明の奇声を発し、店の壁へ身体を打
ち付ける。
強い衝撃に痛みより呼吸困難となり、梨緒はその場にへたり込む。が、男はそ
れを許さない。今度は襟首を掴んで、強引に立たせる。
「そうだよ、テメェなんぞ、金が無かったらただのゴミクズなんだよ。分かって
んなら、ちゃあんと持って来て下さいな」
「………もう………誰が、アン…タ……なんかに………」
まだ呼吸が正常に戻らない口で、梨緒は切れ切れの言葉を絞り出した。
「ああっ、なんだって? はっきり喋れや。聞こえねぇぞ」
「もう、アンタにあげるお金なんてない………さっきの、五万円は、手切れ金の、
代わりよ」
「ほう!」
一際大きな声で、男は驚いて見せた。それから「ナイス、ジョークだ」と笑っ
たかと思うと、膝で梨緒の股間を蹴り上げた。
「うぐっうっ!」
鈍い痛みに、梨緒の口から涎が落ちた。
「かっ、汚いツラだなあ、おい。大げさなんだよ、テメェにゃ、チンポも金玉も
無ぇだろうが」
言いながら、男はゲラゲラと下品に笑う。
「サイテイ………アンタも……アンタを、選んじゃった、アタシも………」
まだ息は回復していない。
襟首を掴まれ、身体の自由も儘ならない。なったところで、力で太刀打ち出来
るはずもない。
そんな梨緒の選んだ抵抗手段は、男に向けて唾を吐き掛けることだった。しか
しこの抵抗は梨緒の立場を好転させるものとはならない。むしろ男の加虐心に火
を点けるだけの結果となる。
「へえっ」
男は顔に掛かった唾を手で拭った。その手を振ると、唾はピチャッと音を立て
アスファルトへ落ちる。
「死にてぇらしいな、貴様………望み通りにしてやるよ!」
真っ直ぐに、拳が梨緒の顔面へと突き出された。男の手加減ない拳が当たれば、
無事には済まないだろう。それを避ける術を持たない梨緒は、固く瞼を閉じ、歯
を噛み締める。
が、覚悟を決めた梨緒に、その瞬間はなかなか訪れなかった。恐る恐る、目を
開けてみる。やはり男の顔は梨緒の間近にあった。しかしその視線は梨緒に向け
られていない。
何が起きたのか理解出来ないまま、梨緒も男の視線を追う。その先に別の男の
姿があった。
「カッコ悪いっすよ、岡島先輩」
短い台詞は後から登場して来た男のもの。それはまるで、テレビドラマの一シ
ーンのようでもあった。
男は梨緒に向かい、拳を振り出していた。それが届かなかったのは後から登場
した男によって、阻まれたためである。
「かさはら……けん、じ」
梨緒には、自分に当てられるはずだった男の腕を掴むもう一方の男に見覚えが
あった。優希の幼馴染みである男の名を、二人には聞き取れないほどの声で呟く。
「ああ? なんだあ、このエエカッコシイが………ああ、テメェにゃ見覚えがあ
るぞ」
それほど大きくはない町である。まして在学中の梨緒を含め、この場の三人は
共に同じ中学校の出身者同士であった。見覚えがあって当然だろう。
「んんっ、あー、忘れたわ。雑魚の一匹一匹、いちいち覚えてられっかての」
健司が抑えていたのは、男の右腕一本だけである。相手には攻撃手段がまだい
くらでも残されていた。
あるいは健司も、男の攻撃を予想していたかも知れない。しかし相手のほうが
遥かに喧嘩慣れをしている。突然放たれた左の拳を、避ける仕草さえ見せず腹部
へと貰ってしまう。
「ぐっ」
苦痛に身を屈める健司。その顔面を狙って、男の膝が飛んで来た。間一髪、こ
れは両腕で防ぐ。だが続け様、今度は肘が落とされる。健司はこれをかわすこと
が出来ず、まともに背中へと喰らった。そのまま、うつ伏せに倒れ込む。幸い、
膝を防ぐための両腕が顔面からの落下だけは回避してくれた。
「オイオイ、なんだよ。チョーシこいて出てくるから、ちったあ出来るのかと思
えば、まるで弱ぇじゃねえか」
男はげらげらと下品な声を上げ、健司を嘲笑した。そしてその背中を二度、三
度と踏みつける。
「ちょっと、相手は倒れてるのよ。もう、いいでしょ!」
一方的な暴力を見かねて梨緒は男の腰にしがみつき、止めようとした。しかし
殊更暴力において長けた男を、女の梨緒が抑えきれる道理はない。腕一本で、容
易く跳ね飛ばされてしまう。
「きゃっ!」
「うるせー、俺に意見したヤツは、ボコボコにするって、決めてんだよ」
言いながら健司への暴行を続けていた男だったが、ふいにその動きが止まる。
「ははあん、読めたぞ………さては梨緒、テメェ、このヤローと出来てやがるな」
下種の勘繰りとは、正にこのことであった。もっとも梨緒にしてみても、健司
は同じ中学校の出身者ということと、優希と幼馴染みであるということ以外、他
に繋がりはない。それがなぜ、自分を助けようとしてくれたのか理解出来ていな
かった。それを知性の欠片も持たない男に説明したところで、全くの無駄であろ
う。
「そうだとしたら、何よ」
それは理解力に乏しい男に対し、無意味な説明を省くため返答であった。同時
に、もともと自分の問題である揉め事を、部外者から梨緒自身へ取り戻すための
言葉でもあった。
「上等だよ」
案の定、男は健司への攻撃を止め、梨緒へと向かって来る、が、その歩みは二
歩と進まなかった。
「………だ…から、カッコ、悪いっすよ、岡島先輩。女……苛めて、喜ぶなんて」
無抵抗に攻撃を受けるばかりであった健司が、倒れたまま男の裾を掴んでいた。
「ハッ、ハハハッ………健気、つーのか? ええっ、這いつくばったまんまじゃ、
カッコつかないぜ、兄ちゃんよ。起きろや」
「先輩の、お望みとあら、ば………」
よろよろと、まるでようやく捕まり立ちが出来るようになった赤ん坊のように、
健司は起き上がった。
「そーそー、サンドバッグは、立っててもらわねぇーとよ」
まだ足元のおぼつかない健司の顔面を狙って、男の右拳がフックの軌道を描く。
健司は両肘を壁にして直撃を避けたが、その衝撃に泥酔者のようによろめいた。
そこへ今度は左拳が下方から突き上げられる。腹部にそれを喰らった健司の口か
ら、呻き声とともに胃液が吐き出された。
「うおっ、汚ぇなあー兄ちゃん」
相手のこうした反応にも慣れているのだろう。ジーンズパンツに胃液を浴びた
男だったが、怯むことはない。すぐ様、膝を繰り出し、健司の顔面を襲う。先の
右拳同様、両肘の壁が直撃こそ阻んだものの、その衝撃で上半身を起こされた健
司の腹部は、がら空きとなってしまう。それこそが、男の狙いであったようだ。
ボクシングのジャブのように短い拳が数発、健司の腹部へ当てられた。
登場こそはヒーローさながらではあったが、喧嘩に於ける実力では悪役に天地
ほどの開きがあった。だが男の加虐の対象が移ったという点に関してだけ、健司
は梨緒にとっての救い主と言っていいのだろう。
嬉々として健司を責める男を止める手立ては、もう梨緒に残されていない。仮
にあったとしても、一旦自分への暴力が中断されたことにより、却って男への恐
怖は増していた。梨緒にこれ以上の行動は不可能だった。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。それは数時間にも及んでいたようにも思え、
わずか数分の出来事であったようにも感じられる。男の健司に対する暴力行為を
止めさせたのは、遠くから聞こえて来たサイレンの音であった。