#281/598 ●長編 *** コメント #280 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 23:00 (461)
白き翼を持つ悪魔【10】 悠木 歩
★内容 06/08/26 21:56 修正 第2版
思っていたよりも、店に居た時間が長かったのだろう。二人が地元の駅に降り
た時、空はずいぶんと暮れ始めていた。
「あー、あと三十分以上あるよ」
バス停の時刻表と左手首に巻かれた時計とを見比べ、梨緒が言う。
多い時間帯で一時間に二本。この時間帯だと二時間に一本しか来ないバスであ
る。三十分待つのならば、歩いて帰ったほうが早いかも知れない。優希一人であ
れば、迷わず歩いていたところだ。ただ荷物の多い梨緒のことを考えれば、バス
を待つしかないだろう。
「しゃあない、歩こうよ」
意外にも、梨緒のほうからそう切り出して来た。せっかちな所があるのは知っ
ていたが、これは優希にとっても有り難い申し出であった。
「うん、じゃあ途中まで一個、持ってあげる」
梨緒の返事は待たない。あるいは梨緒もそれを期待していたのだろうか。優希
の伸ばした手に、抵抗もなく梨緒の荷物が渡る。
「失敗したかなあ」
黄色い街路灯の下、漏らすような梨緒の声。バスを待つべきだったと後悔して
いるのだろう。優希にも、ほんの少し同意する気持ちがあった。
駅から家までの道、短い距離ではないが、ただ歩くだけなら苦痛を感じたりし
ない。荷物があると言っても、それほど重たいものではない。しかし両手に一つ
ずつ持った紙袋は、微妙に脚の動きを制限するのだ。初めは気にならなかったが、
歩数が増えるに従い、少しずつ妙な疲れを蓄積させて行く。
「付き合ってもらったんだから、お茶の一杯もご馳走するべきだったんだよね」
梨緒の後悔は、優希の想像とは違っていた。
「本当はさあ、喫茶店に誘って話でもしたかったし」
「梨緒って案外、律儀なんだね。けど、気にしなくていいよ。私だって、こうや
って自分の買い物をしたんだから」
両手が塞がっているため、優希は自分の紙袋を顎で指し示す。
「うーん、そうじゃなくってさ。実は、そっちがメインだったりするわけ」
「?」
梨緒の言おうとする意味が分からずに、優希は小首を傾げた。
「確かに買い物もしたかったんだけど。ちょっと優希と話がしたくて、誘ったの。
なのにアタシってバカだからさ。ついつい買い物に夢中になっちゃって」
ぺろりと梨緒が舌を出す。
「話? 良かったら、ここで聞くよ」
「う、うん………」
優希が足を止める。続いて梨緒も足を止める。
海沿いの坂道を、もう少しで上り切るという辺りであった。
「アタシ、好きな人が出来ちゃった」
海に面したガードレールに寄り掛かり、紙袋を足元に置く。梨緒は些か淡白に
言った。
「そう」
返答に窮した優希は、ただそれだけしか言えない。相手を詳しく知らなければ、
勝手なことは言えない。しかしこれまで梨緒が好きになったと打ち明けて来た男
性には、何かしらの問題があったのだ。あくまでも梨緒を通じて話を聞く限り、
ではあるがどうにも相手は身体のみが目的であるよう、思えるのだ。だが、これ
までそのような関係になったという報告はない。
「相手の人、誰だか聞いていい?」
元々が田舎町のことである。
夜に明かりも人気もない場所を探すのに苦労はいらない。しかし田舎町にあっ
ても、そこは一際暗い場所であった。
小高い山の中腹辺り、車道から雑木林のほうに伸びた砂利道を少し歩く。する
と雑木林に遮られた左右の視界が、突然に開かれる。見えて来るのは海であった。
星の有無で夜空との境界を何とか確認できる黒い海。だが視界の中央部分、刃物
でくり抜かれたかのように、空とも海とも別の黒い空間が認識される。さらに歩
いて近づくと、黒い空間は建物であると分かる。
それは木造の古い校舎であった。
いまは町に新しい校舎が建てられているが、十余年ほど前まで中学校として使
われていた建物だ。この町が、かつて村であった頃の名残である。
夜の木造校舎など、決して気味のいいものではない。近付くほどに不気味さは
増すばかりであった。
さすがに十年以上も使われていないと、傷みも激しいようだ。暗がりの中でも
損傷の大きさは、はっきりと分かる。もしいま目の前で、この建物が倒壊しても
驚きはしないだろう。
ホラー映画の中でしか見かけないような建物の前で、女は腕組みをし、ため息
を吐きながら言う。
「まーったく。こういうのを見ると、ここは田舎なんだなあ、って痛感するわね」
金色の所々が紫に染められた奇妙な髪。豹柄のハーフコート。
朽ちた木造校舎とも、田舎の風景ともそぐわない。しかし都会的と呼ぶにも些
か滑稽な出立ちであった。
女は暫しその場に立ち尽くす。
別に校舎を見つめ、感慨に耽っているわけではない。女は地元の出身であった
が、中学は町の新校舎へ通っていた。ここは女の学び舎でない。
「冗談抜きで、入った途端、崩れたりしないよね?」
誰に問うとでもなく呟く。
「まっ、それならそれでいいかもね」
ややあって、諦めとも希望とも取れる言葉を吐いた。そして意を決し闇の中の
闇、朽ちた木造校舎へと歩を進める。
懐中電灯の一つも持ってくれば良かった。
足を踏み入れ三歩と歩かないうちに、後悔をする。
ここに来るまでの道も暗かったが、木造校舎内の闇は更に深いものであった。
自分の鼻から一センチ先の障害物も気づくのは難しそうである。
「なんでこんなとこ、来たんだろうね。アタシは」
零す愚痴を聞く者は、いまのところいない。
女が小学生の頃、この建物に幽霊が出る。そんな噂の立ったことがある。何時、
どこの誰が見たなどと言う、具体的な話はない。出所さえはっきりとしない、子
どもたちの間には全国どこにでもあるような噂話だった。とうに大人と呼べる年
齢に達したいま、女は子どもの頃の噂話など、当然本気にしていない。しかしこ
の闇は、あの噂が事実だったのかも知れないと思わせてしまう。
噂の真偽はともかくとして、深夜若い女性が一人で来るような場所でないこと
だけは確かである。
障害の有無さえ分からない状態で、女は歩くと言うより、摺り足で前に進む。
軋む床とつま先が何かを掻き分ける音が不気味に響いた。どうやら大量の埃が溜
まっているようだ。
視力が利かない状態であっても、埃の多さはよく分かった。まさしく埃臭い匂
いに加え目、鼻、口、と開かれた器官全てに舞い上がった埃が流れ込んで来る。
その為女は目を細め、鼻と口をハンカチで覆って進む。
閉じてしまっても変わらないと思われる闇の中ではあったが、薄く開けていた
お陰で次第に慣れた目が、微かな光源のあることを知る。星明りであろうか。ガ
ラスのない窓より射し込む光が廊下までもわずかに届いているのだ。
閉校より十年以上過ぎているが、その間誰も足を踏み入れていない訳ではない
らしい。
埃の積もった床板は所々抜け落ちている。しかしその埋め合わせと言うのでも
ないのだろうが、スナック菓子の包み、飲み物の缶、ペットボトル、あるいはタ
バコの吸殻などがあちこちに散乱している。現在はもう販売されていないような、
古いデザインのものが含まれているところを見ると、かなり昔から何者かの溜り
場として利用されていたようだ。
「どうせなら、一番手前の教室にしてくれればいいのに」
一人で愚痴る女が立ち止まったのは、一番奥の教室の前であった。
戸を開ける必要はない。
ここを溜まり場としていた誰かの仕業か、あるいは女を呼び出した者が行った
のか。戸は倒されていた。
女は特に警戒することもなく、教室内へと進む。
そこは時が止まっていた。
役目を終え、二度と使われるはずのない教室は当時の姿のままに残されていた。
整然と並ぶ古い形の机。教壇、教卓、そして黒板。黒板の横には、半分以上破け
ている時間割表。壁には振り子の時計。
この教室だけなのだろうか。もちろん明るい中で目を凝らして見れば、随所に
時間の経過による劣化があるだろう。しかし微かな光源しかないいま、教室はか
つての面影を感じさせる。一つ、窓にガラスが残されていないことを除けば。
ここに出入りしていた者たちも、何かの理由でこの教室にだけは手を付けなか
ったのか。それともやはり、女を呼び出した者がかつての面影を再現したのだろ
うか。
女はガラスのない窓のほうへ目を遣る。
一番前の席、その机の上に腰掛け、視線を外へ向ける影があった。こちらを見
ようとはしない。女の存在に気づいてないのだろうか。そもそも女は何者からか
の呼び出しを受け、この場所へ足を運んだ。繁華街、駅前のターミナルでの待ち
合わせではないのだ。指定の時間、指定の場所、女の他、その場にいるのは呼び
出しをした当人以外には考えにくい。
女は影の方へ近付いて行く。
影が女に気づいていてもいなくても、どうでも良かった。早々に用件を済ませ
たい。足音を殺すこともせず、最短の距離を進んだ。尤も女が手練の忍やスパイ
の類であったとしても、これほどまでに軋む床と埃の中、相手に悟られず近づく
のは不可能であっただろう。
「見てごらん、今夜は星が綺麗だよ」
やはり女の到着を知っていたらしい。机二つほどの距離まで近づいたとき、影
はそう言いながら女へと振り向いた。
別段、女に驚いた様子はない。こちらと目が合うと、一つ大きく息を吐いた。
ここまでの道のりで、暗さには充分目も慣れているだろう。こちらの顔を確認し
た上でのことと見て間違いない。
「若い女性と待ち合わせするには、最悪のセンスね」
呆れた表情も露骨に、女が言った。
「初めからぼくだと気がついていたみたいだね」
「そりゃそうよ」
女は笑う。
「あのね、そりゃあアタシは頭のいいほうじゃないけど、アンタが思ってるほど
はバカじゃないわ。自慢出来た話じゃないけど、ここに住んでいた頃、友だちは
多い方じゃなかったもの。少ない友だちの縁もほとんど切れて、いまでも付き合
いがあるのは、アンタぐらいだわ」
今度は男が笑った。
「そうだったね」
「それに………」
女はセカンドバッグへと手を入れる。取り出したのは開封された一通の封筒で
あった。
「フツー、こういうのってワープロとか、新聞や雑誌の文字を切り抜いて作るも
のじゃない? アタシ、アンタの字を知ってるのよ」
「分かっているさ」
男――笠原健司は再び星空へと目を遣る。
「本当に今夜は星が綺麗だ。君を待つ間に、流れ星をもう三つも見つけたよ……
…そう言えば子どもの頃、君もやらなかったかい? 友だちとどちらがたくさん
流れ星を見つけるかって競争。負けず嫌いのアイツは、いつもぼくより一つ多い
数を言うんだよ」
「やめてよ、まさか思い出話をするために、こんな脅迫状みたいな手紙をよこし
たんじゃないでしょ」
「ああ、すまない、ついね」
女へと向き直った健司は穏やかな笑みを湛えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「ぼくの用件は、おおよそ見当がついているんじゃないかな」
健司の問い掛けに、女はふん、と短く鼻を鳴らした。それは嘲笑のようでもあ
り、ため息のようでもあった。
「『田嶋優希の最後の日の事について話がしたい。二十四日午後十一時××旧村
立○○中学校跡に一人で来られるように』ね。
アンタ、何をどこまで知ってるの?」
「何のことなの、とか、優希の最後なんて知らない、って否定するかと思ったけ
ど」
言いながら健司は女の後方へ、視線を巡らせた。
「?」
「ん、あ、いや。本当に一人で来てくれたんだね。あの、名前はなんて言ったか
なあ………如何にも頭の悪そうな彼は、連れて来なかったんだ。まあ一人で来い
と書いたのはぼくだけど、君が素直に従ってくれるなんて意外だよ」
「それ、嫌味?」
これは明確にため息をつき、女が言う。
「いいや、そんなつもりはないよ。君がどこまで知っているのかって訊くから。
そうだね、大体のことは知っているよ。君が別の男と付き合いながら、ぼくと付
き合っているふりをしていたこととか………
ああ、別にそれはいいんだ。初めから知っていた上で、ぼくも君に調子を合わ
せていたんだから、おあいこだよ」
健司はゆっくりと歩を進め、女との距離を詰めようとする。傷んだ床板が、ぎ
しぎしと音を立てた。同じ軋みを立てながら、女は後ろへと下がる。それを見た
健司は小さく肩を竦め、足を止める。
「だけど、あの日のことは、おあいこって訳にはいかないよ」
声の調子は初めから変わらず、極めて穏やかなものである。しかし押し殺した
感情は隠せない。女もそれを察せないほどに鈍くはないようだ。表情こそ平静を
保っていたものの、目には確かな恐怖の色が浮かんでいた。
「何を言ってるのか………」
「分からない、なんて言い訳は通用しないよ」
言葉を遮られた女が、わずかに身を竦ませる。その様子に健司は満足感を覚え
た。
「優希の死に納得が行かなくて、あれからいろいろ調べたんだからね。君はあの
日、優希と街に出ている………違うかい?」
「………」
「隠してもダメだよ。当時の君の同級生たちから、確認を取ったんだから。教室
での君と優希の会話をね。あまり乗り気でない優希を、君が強引に誘ったそうじ
ゃないか」
話しながら、健司は女の様子に細心の注意を払っていた。
優希の一件について、女は他人に知られることを恐れている。それは健司の呼
び出しに応じ、ここへ一人で来たことから見て間違いないだろう。ただ健司の話
に臆して、後先を考えずに逃げ出す可能性もある。その場合に備え、自分の脚力
から充分女に追いつける距離を保つ。更にいま女の立っている場所から、教室の
出口までの最短距離上には二箇所、床板の腐った場所があるのだ。教室の戸を倒
しておいたのは、女が逃走に転じた際の道を限定するためであった。しかし動揺
は見られるものの、いまのところ女に逃げ出す気配はない。
「………行ったわ。あの日、優希と買い物に。けど…」
「なぜ、いままでそれを隠していた」
声の大きさは変えていないはずだ。だが湧き上がる感情を、完全に抑えきるこ
とは出来なかったらしい。健司の言葉に女は一瞬、跳ね上がるような動作を見せ、
表情を引きつらせた。
「あの日ぼくは、行方の分からなくなった優希を探して、君の家を訪ねた。覚え
ているよね? あの時、君は何て言ったかなあ」
「………」
「何て言ったんだ、室田梨緒!」
もう感情を抑えようという気持ちはなくなっていた。元々この場所を選んだ理
由の一つが、付近に民家がないことである。多少の騒ぎが起きようとも、気づく
者はないだろう。健司は大声で女を威圧する。
「えっ?」
予想していなかった答えに、優希は我が耳を疑った。優希と梨緒とでは交友関
係が大きく異なる。それ故、梨緒の口にする名前が優希の知らない者であると決
め込んでいたためであったかも知れない。いや、過去には優希の知る者に梨緒の
好意が寄せられていたこともある。たとえばとかく素行の悪さが噂される教師で
あったり、暴力行為の果てに町から姿を消した卒業生であったりもした。しかし
数秒前、梨緒から聞いたのは思いがけず、優希と極めて近しい者の名前であった。
聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。咄嗟にそれ以外の反応を取
れなかったのである。
「だからケンちゃん………笠原健司先輩よ」
問われるまま、梨緒はその名前を繰り返した。
優希にとって、自分のもの以上に聞き慣れた名前が梨緒の口から出たことに少
なからず動揺を覚えた。それからもう一つ、その名前を口にした際の梨緒の態度
にも驚かされる。
優希から見て、梨緒は恋愛というものに関し、非常に開放的な少女であった。
いま誰に好意を寄せているのか、その彼とどこへ行き、何を話し、どんなことを
したのか。時には聞いている優希のほうが赤面してしまう内容をも包み隠さず、
笑いながら話してくれた。
その梨緒が、健司の名前口に出したとき、明らかにはにかんでいたのだった。
これまでの梨緒の恋愛は、どちらかと言えばファッション的要素が強かったよ
うに思える。その時々の気分によって身に付けるアクセサリーを変えるように、
付き合う男性も変える。それが尻軽とか、節操がないなどとか他人から悪く言わ
れてしまう原因となっていた。しかし当の梨緒自身は相手に強い想いを持たない
分、深い関係にもならなかった。
友人として接する優希には梨緒に対し、周囲の人々のような偏見はない。それ
でもこれまでの男性たちとの関係は梨緒本人のためにも良いものだとは思ってい
なかった。
だが健司の名前を口にしたときの梨緒は、いままでとは違う。そう、それはま
るで少女漫画のヒロインのようでもあった。
初めて異性に恋心を寄せ恥らう乙女。
優希には、そんなふうに見えたのだった。
「ごめん………優希、ごめんね」
健司の名前に続いたのは、謝罪の言葉だった。
「えっ、なに………どうして謝るの?」
優希は努めて平静を装うが、わずかに声が上ずってしまう。
「優希も好きなんでしょ。ケンちゃんのこと」
「な、なによ、そんなわけ………」
ないでしょう。と、言いかけた言葉が止まる。
物心がつく前から、既に傍にいた健司。十年以上の時を、実の兄妹のようにし
て過ごして嫌いに思っているはずもない。ただそれは身内に向けられる愛情とし
てしか、これまでは考えていなかった。
しかし優希にとって健司は極めて近しい知人であるが、血の繋がった兄妹では
ない。
梨緒から健司が好きだと告げられて、初めてそのことを思い出したのだ。そし
て酷く動揺している自分に気がついていた。
たとえばとても仲のいい兄妹がいたとしよう。ある日妹は親しい友人から、兄
が好きだと告白される。妹はきっと、動揺するだろう。自分の兄が他人から、異
性としての好意を寄せられるとは俄かには信じられない。また兄が他人に盗られ
てしまうような感覚になるだろう。
その妹の動揺こそが、いまの自分の感覚なのだ。と、優希は考える。いや、少
し違う。妹であれば、最初は戸惑っても最終的にはそれを喜ぶのではないだろう
か。兄妹間の愛情は恋愛とは異なるものである。血の繋がりを持つ妹であれば、
やがてはそれを理解するであろう。
自分にそんなことが出来るのか、優希は己へと問う。しかしどれほど考えてみ
ても、梨緒と、いやそれ以外のどんな女性とも健司が恋人となる姿に、喜ぶ自分
を見つけられなかった。
「分かりやすいね、優希は」
梨緒が微笑む。これまで優希に向けられた笑みの中で、一番のものを梨緒は見
せたのだった。
「そうなのかな」
もう優希は否定をしない。しかし肯定した訳でもない。健司とはお互い兄妹の
ように接してきた。確かにクラスメイトや身近な男子に対するのとは、違った感
情はある。ただそれを恋愛感情として意識したことはないのだ。
「そうだよ、見てて分かるもん。ああ、優希はケンちゃんのことが好きなんだな
あ、って」
二人並んで、ガードレールへ腰を下ろす。
「私、あいつのこと、ずっと出来の悪い弟みたいに思っていたから。でも梨緒に
言われて、なんか、その………」
冷たい風が吹き、二人の髪が舞う。梨緒の赤い髪が月の中に溶けて不思議な輝
きを見せる。優希はそれを、とても綺麗だと感じていた。
「本当にごめんね、混乱させちゃって。だけど、優希にだけは、ちゃんと言って
おきたかったの」
化粧や髪の色のこともあったが、それらを差し引いても、いまの梨緒は優希の
目にひどく大人びて映る。
「ん、そんな気、使わなくていいのに」
優希は天を仰ぎ見る。満天の星が覆い被さって来るようだ。流れ星を目で追う
と、その先に梨緒の顔があった。
「そうはいかないよ。優希は、アタシにとって一人っきりの友だちだもん。その
優希が、ケンちゃんを好きだってことは、ずっと前から知ってたから」
「んー、私は未だ、ピンと来ないんだけどなあ」
ガードレールから軽く跳ねて優希は立ち上がった。靴底が枯れ草を踏む音が心
地よい。
「でも梨緒はどうしてあいつのことを? 私が言うのもなんだけど、そんなにパ
ッとしたやつじゃないと思うんだけど」
問い掛けに返るのは、梨緒の優しく、そしてどこか寂しげな笑みだけであった。
優希もそれ以上の言葉を続けない。ただ沈黙と冷たい風と、冬の星座とが二人を
囲んでいた。
「まあ、いいさ。その沈黙こそが全ての答えだ」
言いながら健司は、また少し距離を詰めてみる。だが今度は女―――室田梨緒
も後ろへは下がらない。身が竦んでいるのか、あるいは居直ったのだろうか。健
司に向ける鋭い視線からすると、後者なのかも知れない。
「何よ、知ったふうなことを」
その言葉を耳にした途端、健司は満足感を得た。気丈な態度を装ってはいるが、
梨緒は恐怖している。声の震えは隠しきれていない。
梨緒に恐怖を感じさせるのが、最終目的ではない。しかし折角用意した舞台で
ある。最期の瞬間まで、充分恐怖を味わってもらわなければ甲斐がない。
「言っただろう? いろいろと調べたって」
「ねぇ………もしかしてアイツも……」
「ん?」
「あんな女まで用意して、何を調べたって言うのよ」
「あんな女?………ああ、彼女のことか」
彼女が田嶋優希と名乗ったことは、梨緒に話す必要はない。話したところで信
じないだろう。もし健司の幼馴染みの優希が無事に成長していたならば、彼女と
同じ容姿になっていただろう。そう思えるほどに、二人は酷似していた。これは
作り話であったとしても、出来すぎである。
「偶然だよ、彼女と会ったのは………さすがにぼくも、初めて会ったときには動
揺したけど、それ以上に君のほうが動揺したみたいだねぇ」
「………」
「しかし、それにしたって酷いんじゃないかい? 君のあの、頭の緩い彼氏は加
減ってものを知らない。彼女は危うく死ぬところだったんだよ」
「………」
返答はなかったが、否定の言葉もない。
元々彼女―――もう一人の田嶋優希が何者かに襲われた件について、健司は直
接現場を目撃してはいないのだ。被害者である彼女も誰の仕業か、証言していな
い。つまり犯人が室田梨緒とその恋人であるというのは、健司の憶測に過ぎなか
った。
初めから梨緒ではないと否定する材料のほうこそ乏しかった。だが梨緒の態度
から、たったいま憶測が間違いでなかったのだと、健司の中で断定される。
更に梨緒自身、肯定する言葉を続けた。
「ムカついた………ううん、気持ち悪かったのよ」
「気持ち悪いだって?」
「そうよ、そうでしょう? あの時、確かに死んだはず優希と同じ顔が、アンタ
の周りをうろうろしてる………気持ち悪いわよ」
梨緒は些か、いや相当に感情を昂ぶらせていた。健司に対して梨緒は、これま
で金を無心するための甘えた態度以外見せて来なかった。正体が見破られ、猫を
被る必要がなくなったためでもあろう。しかし粗暴にして凶悪としか思えないそ
の様子は、健司の中のもう一つの憶測をも確信へと変えた。
尤も憶測が憶測のままであったとしても、健司は計画を中断するつもりはない。
「ああ、分かるよ………死んだ、いや殺したはずの人間と同じ顔がそこにあった
ら、穏やかな気持ちではいられないだろうからねぇ」
「なっ、殺した!」
ついに健司は話題を核心へと遣る。あるいは想像が映像を見せたのかも知れな
い。しかし健司の目には、梨緒の顔から血の気が引いて行くのが見えた。
「そうさ、殺したんだろう。あの日、お前は優希を殺したんだ」
もはや感情を抑制しておく必要もなくなった。悪意と殺意を顕に、健司は言い
放つ。
「り、理由は? 証拠は?」
梨緒の唇が震えて動くのを、健司は面白いと感じた。
己の後ろめたい部分、隠し続けて来た悪事が露見したとき、人は滑稽な行動を
執ってしまうものらしい。悪戯が見つかってしまった子ども然り、浮気現場を押
さえられた男性然り、犯罪者然りである。
果たしてこれから梨緒がどのような言い訳をし、行動に出るのか楽しみであっ
た。ただし言い訳は聞くだけであり、受け入れるつもりは毛頭ない。健司が考え
得る梨緒の全ての行動に対する手は打ってある。後は目的を成し遂げる最後の瞬
間まで、梨緒がどれほど聞き苦しい言い訳をするのか、どれだけ醜い行動をする
のか、笑いながら見届けるだけだ。
「証拠? 証拠ねぇ。ぼくが、そう思っているから………じゃ、駄目かな」
「なっ、ふざけないでよ」
ああ、これだ。と、健司は思う。
梨緒は曇りガラスを爪で掻くより不快な声を上げる。初めから健司は梨緒の容
姿も、心も美しいと感じたことなどなかったが、その醜さが具体的な形になって
行く姿が心地よい。
「ははっ、そんなに怒らないで。冗談だから………半分はね」
健司は足の爪の幅ほど距離を詰めるが、梨緒が後ずさりすることはなかった。
怒りか恐怖か、健司の発する挑発的な台詞に注意力も失われているようだ。
「あの日の夜七時前後、君たちは海沿いの県道で立ち話をしていた。そうだね」
相変わらず、健司の問い掛けに対して梨緒の返答はない。一方的な反論だけし
て、不都合な部分においては黙秘を続ける姿勢は、少しばかり不愉快でもあった。
尤も梨緒の身勝手さは、いま初めて知った訳でもない。
「その時刻にあの県道を車で通り掛かった人がいたんだよ。ほら、中学校の近く
に、広田商店ってあるだろう。あそこのお爺ちゃんさ」
更に爪の幅半分ほど、身体を進める。梨緒に目立った反応はなかった。これ以
上は無理をしてまで距離を詰める必要はない。健司は話を続けた。
「お爺ちゃんが三年前に倒れたのは知っているかな? その時、一度病院に、お
見舞いに行ったのさ。お爺ちゃん、随分喜んでくれてね、いろんな話をしてくれ
たよ。ぼくもあまり期待はしていなかったけれど、あのお爺ちゃんが県道をよく
利用していたのは知っていたからね。日付は断定出来なかったけど、君と優希を
見掛けたことを思い出してくれたんだよ。君も優希も、それぞれ違った意味で目
立つ生徒だからね、お爺ちゃん、しっかりと覚えていたようだ」
「待ちなさいよ」
何やらささやかな反論をしようと言うのだろう。梨緒が口を挟んで来る。
自分の言葉、梨緒の反論。まるでテレビドラマのようだと健司は思った。追い
詰めた被害者に対し、嬉々として己の目的を語る犯人。安っぽい演出だとテレビ
を見ながら感じたものだが、いざ自分が実践するとなると、案外気持ちのいいも
のだ。最終的な結末を迎える前に、梨緒にはもっと恐怖と焦燥感を味あわせたい
という欲求が強まっていく。
「いま、日付は断定出来なかったって言ったわよね。だ、だったらお爺ちゃんが
私を見たのは、別の日だったかも知れないじゃない」
それはあまりにも愚かな反論であった。
「馬鹿か、貴様は?」
梨緒の恐怖心を煽るためでもあったが、本気で腹が立ったせいもある。健司は
大声で梨緒を怒鳴りつけ、その顔目掛けて唾を吐く。
「ひっ」
声になり切らない悲鳴を上げ、梨緒は肩を竦ませる。後ずさりしなかったのは、
恐怖のために足の自由が儘ならない状態にあるのだろうか。
「貴様はともかく、優希がその時間まで家に帰っていなかった日なんて、他には
ないんだよ」
声を荒げ、怒りに我を失ったかのような健司であったが、心の奥にはまだ冷静
な部分が残されている。一気に梨緒へと迫り寄り距離を詰めたのは、感情に任せ
ての行動ではない。梨緒が本当に動けなくなっているのか、試したのだった。
案の定、梨緒は下半身の自由を失っていた。
怒りを顕にして迫る健司に対して、その場から逃げることも出来ず、崩れ落ち
るように座り込んでしまった。床に積もった埃が、大量に舞い上がる。視界を遮
るほど、もうもうと立ち込める煙。それはこの先に待ち受ける出来事を暗示する
かのようであった。
「いいかい? いくら探してもそれより後に優希を目撃した人は見つからなかっ
た。つまり優希は、その場所で海に落ちて死んだんだ。いろいろ試してみたよ、
あの場所から海にペットボトルやら、板切れなんかを落としてみてね。海流の関
係だろう、ほとんどが優希の発見された砂浜に流れ着いたよ」
「ア、アタシが優希を突き落としたって………言うの?」
「他に考えられないだろう。貴様はあの日、ずっと優希と一緒に居たのにも関わ
らず、ぼくに嘘をついた。それは優希を殺したのは、他の誰でもない。貴様だっ
たからだ」
「そんな………動機、そう、動機はなによ!」
梨緒の声は少し、掠れていた。動揺か、あるいは恐怖のために喉が渇いて来た
ためだろう。
「動機? さあ、金かなんかじゃないの。あの頃から、貴様の金遣いは相当派手
だったみたいだしな。両親は気づいてないようだが、優希が内緒でしていた貯金
の通帳が消えているし」
梨緒を犯人と決め込んでいる健司だったが、その動機については分かっていな
い。従って言い分も理不尽になっているのは、本人も承知していた。
いや動機ばかりか目撃証言だけで、梨緒が優希を殺したとするのも乱暴な話で
はあるのだ。先ほど梨緒とのやり取りを健司はテレビドラマのように感じたが、
これは正しくない。如何に不出来なシナリオのサスペンスドラマでも、これほど
証拠や動機が乏しいまま、クライマックスを迎えることはない。
しかし優希が自殺するはずなどない。また事故であってもならない。優希の死
は何者かの手によるものでなくてはならないのだ。そうでなくては、優希のため
健司のしてやれることがなくなってしまう。
優希の無念を晴らす。ただそれだけが今日まで健司を生かしてきた全てである。
その目的はもはや優希のためと言うより、健司のためとなっていた。
「………」
言い訳や弁解は一切、健司には通用しない。梨緒もそれを悟ったのだろう。
下半身の力を失い、床に腰をついた状態のまま慌てるようにして、セカンドバ
ッグへ手を入れる。
ナイフか、スタンガンだろうか。あるいは何かスプレーの類であろうか。用意
された武器が何であろうと、腰の抜けた女を相手に後れを取りはしない。梨緒が
それを使うより先に対処出来るよう、健司は身構えた。